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「罪体」注釈

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【「罪体」に対する注釈】

[#注一]”Corpus Delicti”は普通『罪体』と訳されるが、知らなければこれでもチンプンカンプンだろう。要は、殺人事件で言えば、被害者がまちがいなく死んでおり、その死の原因は他者の犯罪的な行為である(自然死や事故死や自殺ではない)事の証明である。犯人は○○だと指摘する前に、まずこれを確立する必要がある。犯罪構成事実。有罪認定証拠。証拠物件。
[#注二]運命の女神は通常3人いるとされる。すなわち処女、母そして老婆(あるいは創造者、守護者、破壊者)である。彼女らはそれぞれ過去、現在、未来を支配する。三相の女神の跡は、ほとんどすべての神話にたどれる。
[#注三]硫酸で死体が溶けるかという話になると、肯定派と否定派が現れる。しかしながら、酸の種類と濃度、温度によって結果がかなり変わるという結論が正解だと思う。実は硫酸は98%濃硫酸のときは脱水作用が高いので皮膚に付くと水分を奪って炭化させるが、酸としての力は弱いので物を溶解させる力は少ない。一方、希硫酸の場合は脱水作用はないが、酸として物を溶かす能力が高いようだ。このように、濃硫酸の方が濃度が濃いから強いだろうと思ってしまいがちだが、一概にそうは言えないらしい。
また、熱濃硫酸の場合はまた性質が変わって、酸化力が出るようになる(ただしこれは290度まで熱しないといけない)。常温の酸と100度近い酸でもかなり状況が違うと思われるし、色々な要素を考えなければいけない。
[#注四]Lohengrinは、リヒャルト・ワーグナーのオペラ。台本も作曲者による。10世紀前半のアントワープを舞台とする。以降に作曲された楽劇(Musikdrama)に対し、ロマンティック・オペラと呼ばれる最後の作品。バイエルン王ルートヴィヒ2世が好んだことで知られる。第1幕、第3幕への各前奏曲や『婚礼の合唱』(結婚行進曲)など、独立して演奏される曲も人気の高いものが多い。が、Lohengrinのあらすじを簡単に言うと、ブラバント王国の領主ゴットフリートを殺した嫌疑を受けているエルザは、夢で見た白鳥に乗った騎士ロ-エングリンの出現によって救われ、二人は結婚するが、その騎士ロ-エングリンの素性を尋ねる禁を犯したため、騎士はモンサルヴァートへ去っていったというものであり、『婚礼の合唱』(結婚行進曲)が歌われた後、次の日に離婚してしまう。しかも夫との約束である素性を尋ねてはいけないということを、結婚式当日に破ってしまうという罪まで犯すのである。考えてみると本当に逆説に満ちていると言えるかもしれない。どんな音楽かはこちらを参照(Youtube動画)のこと。タータータター、タータータター。

【「罪体」に関して】

この物語は、The Strange Schemes of Randolph Mason(ランドルフ・メイスンの奇妙な企み)と題して、1896年に出版された本の中の一遍です。この本の著者メルヴィル・D・ポーストは、自身の法律家としての経験を活かし、法の抜け道を知りぬいた悪徳弁護士メイスンを主人公とする7編の短編作品を発表し、一大センセーションを巻き起こします。

原文も用意しました。ダウンロードはこちら

一部《》によってルビをふってあります。また、[]によって、注があることを示してあります。なお、注はこのテキストでは終わりにつけました。

【訳者あとがき】

この短編を知ったのは、今から5年くらい前だったかと思います。『クイーンの定員Ⅰ』(1992)各務三郎編(光文社文庫)の中に、「罪の本体」と題して収録されています。今回翻訳するに当たっては、同書の翻訳も参考にさせていただきました。

メルヴィル・D・ポーストがどういう人なのかについては、http://www.aga-search.com/118m.d.post.htmlが詳しいので参考にどうぞ。探偵小説の歴史においては、アンクル・アブナーを探偵役とした小説で有名です。古き良きアメリカを知ることができる小説として、お薦めにあげられるでしょう。

『クイーンの定員Ⅰ』において、『ランドルフ・メイスンの奇妙な企み』は「探偵小説で初めての悪徳弁護士が登場した記念すべき短編集」として紹介されています。最初から読んだ方はお分かりかと思いますが、ランドルフ・メイスンという人は、自分がやっていることが法すれすれであることをよく理解していながら、依頼人に知恵を授け、助けていくのです。当時の人たちから悪事の片棒担ぎと避難されたのもうなずける内容です。

ちなみに、1896年といえば、第1回近代オリンピックがアテネで開かれた年です。

なぜ私がこの短編を訳そうと思ったのか、それは、法律の力と限界を思い知って、考えるきっかけとなった短編だからだと思います。本短編は、”Corpus Delicti”『罪体』の立証の問題によって、殺人者を罪に問うことができなくなってしまうというアイデアでもって作られているのです。もちろん今はそんなことはありません。死体を硫酸で溶かしたけれども有罪を宣告された人はいます(http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text/haigh.html参照)。また、http://baldhatter.txt-nifty.com/misc/2006/05/__f139.htmlによれば、死体が本当になかったにもかかわらず殺人罪を言い渡した判決が少なくとも三十程度存在するそうです。もちろん、逆に『罪体』を立証できなかったものとして無罪判決を言い渡すこともあります(http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hokkaidou.htm。ただし2013/09現在は削除されてしまった模様)。

念のため付け加えますが、私は別に法曹界に身を置いているわけでもなく、法学部出身でもありません。「死体は発見されず、被告人が一連の犯罪行為を行ったものとする直接証拠も法廷に提出されて」いなければ、状況証拠をいくら積み重ねようとも有罪を宣告することができないという状態でなくてよかったなと思うだけです。短編集の出版を契機にアメリカの刑法も実際に改正されているようです。しかしながら、少なくとも短編集が出版されるまではこの状況だったわけです。

法律によって犯罪行為と規定されていない限り、どんなことをしても犯罪とは認定されません。ルールが整備されていなければあり得ない結果が起こったとしても容認せざるを得ない。私はそのことを、ライブドア対フジテレビの一連の戦いの中で、東京地裁・東京高裁がともにライブドアの言い分をほぼ全面的に認めたときに改めて感じました。

「立会外取引によるニッポン放送株の大量取得は現行の証券取引法では違法には当たらない」
この文言に私の目は引きつけられたのです。

また、村上ファンドのインサイダー取引疑惑を村上さん本人が「宮内さんから『やりましょう』と聞いたのは事実です。証取法違反の構成要件にあたる」と認め、「プロ中のプロとしておわび申し上げたい」と何度も謝罪したあの会見もニュースで見ました。その時に、「あの村上さんでも法違反を認めざるを得ないのか」と、法律の力というものをまたまた感じてしまいました。

まぁ、そんなこんなで、法律というものを考えるには必要な短編であったことから、翻訳してネットにあげてしまおうと思うに至ったのです。構想五年執筆二カ月。久しぶりなので荒れていると思います。ぜひ指摘をお待ちしています。

2006.07.30

原作:The Corpus Delicti
原作者:Melville Davisson Post(メルヴィル・D・ポースト)(1869-1930)

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翻訳履歴:2006年7月30日、html版を公開。
2015年10月7日、注釈に「婚礼の合唱」のYoutube動画を追加。