前科者 リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから1字下げ] -------------------------------------------------------  つねから私は人生における肉体的の喜びのなかで、しめっぽい冬の夜、暗い処からかえってきて、明るいランプのついた煖炉の火の勢よく燃える部屋にはいる時の気持を、たいへん高く評価しているのだが、ある十一月の寒空から、テンプルの部屋へかえってきて、わが友ソーンダイクが、スリッパーをはいた気楽ななりで、口にパイプをくわえ、ごうごうと音をたてて燃える煖炉のまえに坐って、しかもそのそばに私の坐る椅子が空いているのを見た時には、いまさらのようにその感を深くしたのだった。  しめっぽい外套をぬぎながら、私はさぐるような目つきでわが友を見た。というのは、一通の手紙を手にもったまま、しきりに彼が瞑想にふけっていたからで、こんな時にはたいてい新しい事件が起っているのである。  彼は不審げな私の視線にこたえて、 「いま考えているんだよ、ぼくが事後従犯になるかどうかと。これを読んで意見をきかしてくれたまえ。」  つぎのような手紙を私にみせた。 [#ここから1字下げ] 「いま私は大変なことになって心配しています。身に覚えのない罪のため、逮捕状がでているからです。もしおうかがいしましても、無事に私を帰らせてくださいますでしょうか? どうかこの手紙の持参者に、ご返事をおつたえください。」 [#ここで字下げ終わり] 「むろん、ぼくは承知したとこたえた。ほかに返事のしようがないからね。しかし、もし約束どおり無事に帰らせてやったら、事実上ぼくは逃亡を幇助したことになるのだ。」 「それは、君としては、冒険をおかすことになるね。いつ来るの、その人は?」 「もう五分も前に来るはずなんだが――だから――あっ、きたようだ!」  忍足のような足音がしたと思うと、外がわのドアを叩く音がきこえた。  ソーンダイクは部屋のドアを勢よくあけ、それから外のオーク材のドアの掛金をはずした。 「ソーンダイク先生ですか?」息をはずませた、震え声だった。 「どうぞおはいりください。あの手紙、あなたが書いたんですか?」 「そうです。」  彼は部屋にはいろうとして、私の姿をみて立ちすくんだ。 「これは私の仲間のジャーヴィス君です。だから、気がねなさるには及びません――」  ソーンダイクがそういいかけると、彼はそれをさえぎって、 「ああ、覚えています。どちらの方にもお目に掛りました。あなたがたも覚えていらっしゃるはずです――ちょっと見ては分らんかもしれませんが。」気味のわるい微笑をうかべた。 「フランク・ベルフィールドさん?」ソーンダイクも笑いながらきいた。  来訪者は、驚いたように口をあけて、わが友を見つめたが、その目には、急に不安の色が浮かんだようだった。  ソーンダイクは言葉をつづけて、 「警察が探しているのにそんなふうをするのは、かえって不利ですよ。そんなに、かつらをかぶったり、つけ鬚をつけたり、なにも見えんような眼鏡をかけたりすると、それだけであなたは警察に追っかけられます。警察があなたを探しているのに、そんな喜劇の舞台からとびだしたような風をするのは、あまり賢明でないですよ。」  ベルフィールドは、唸るような声をだして椅子に腰をおろし、眼鏡をとりはずして、しげしげと私たちの顔をみた。 「では、詳しく話してください。罪をおかした覚えがないといいましたね?」ソーンダイクはきいた。 「絶対に覚えはありません。」熱心にいった。「覚えがあったら、こんなところへ来ませんよ。いつぞやは自分では安心していたのに、あなたが私を有罪にしてしまいました。だから、あなたがごまかせる人でないことは、私だってよく知っていますよ。」 「ほんとに無罪なのなら、私だって出来るだけのことはしてあげます。しかし、そうでないなら、こんなところへ来ないことですな。」 「それはよく心得ています。ただ私が心配するのは、どんなことを話しても、信用してもらえないのじゃないかということなんです。」 「とにかく、私は無念無想で、あなたの話に耳をかたむけましょう。」 「耳をかたむけてさえいただければ、しまいには私を信用してくださいますよ。ご承知の通り、私も昔は悪いことをしました。しかしその罪はつぐないました。あなたにあばかれたのが、私の最後の犯罪だったのですよ。私を真人間にしてくれたのは一人の女――神様のつくったこの世で、もっとも真実味のある善良な女でした。その女が、もし刑務所をでてから、まっすぐい人間になり、正直な暮しをするなら、お前と結婚するといってくれたのです。そしてその女は約束を実行してくれ、私も真人間になって、今ではある倉庫に勤め、暮していけるだけの給料はもらって、ずっと正直に、勤勉に生活してきたのです。そして、このままの生活をつづけていけるなら、もうなにもいうことはないと喜んでいたら、それが今朝になって、ボール紙の家を倒すように、ぶちこわされてしまったのです。」 「どうしたんです、今朝どんなことがあったのです?」ソーンダイクはたずねた。 「今朝、出勤の途中で警察署の前を通ったのです。そしたら、『この者の居所を知った人があったら通知してください』と書いた、写真いりのビラが貼りつけてあるじゃありませんか。そばへ行ってよく見ると、なんと、その写真は私がホロウェイの刑務所でとられた写真なのです。私はビラの文句を読む気にもなれなかったので、急いで家へ帰って家内に話したのです。すると家内がビラを読みに行った。どうして私の写真が貼り出されたかお分りですか?」ちょっと言葉をきったあとで、自分でその質問にこたえ、「ケンバウエル殺人の犯人だというのです。」  ソーンダイクはかすかに口笛をふいた。 「私がそんな悪いことをしなかったのは、家内がよく知っているのです。あの晩、私はうちにいたんですもの。しかし、本人の妻がアリバイを証明しても、それが通るでしょうか?」 「本人の妻じゃ、あまり信用してもらえないでしょうな。ほかに証人はないのですか?」ソーンダイクはきいた。 「ほかには一人もないんです。一晩じゅう二人でいたもんですから。」 「しかし、もしあなたが無罪なら――たぶん無罪だろうと私は思うんですが――あなたを有罪とみる証拠は、情況的なものにちがいないんです。だからそんな証拠を破るには、アリバイさえ示せばいいわけなんですけれどね。で、どんな理由であなたは容疑者になったのです?」 「それがちっとも分らないんです。ビラは確証があると書いてあるが、その確証がなにか、それは書いてない。ですから、たぶん誰かがいいかげんなことを――」  そこまでいうと外のドアを叩く音がしたので、彼は顔色をかえて立ちあがり、ぶるぶる震えて額に汗をにじませた。 「隣りの部屋に隠れていらっしゃい。鍵は内がわにあります。」  そうソーンダイクは彼にささやいた。  来訪者はなにもいわずに、すぐ隣りの部屋にはいって、内がわから鍵をかけた。  外のドアをあけたソーンダイクは、仔細らしい目つきで私をふりかえったが、部屋にはいってきた客の顔を見て初めてその意味が分った。それは警視庁のミラー警視だったのである。  ミラーは快活な早口で、 「ちょっとお願いごとがあって、お邪魔にあがりました。ジャーヴィスさん、あなたは近頃勉強していらっしゃるそうですな。弁護士になるんですか? 法医学の大家だ。いまにソーンダイクさんより偉くなりますぞ。」 「ソーンダイクにはまだまだかないませんよ。私はただ相談相手というだけです。――それ、なんですか?」  なんですかと私がたずねたのは、警視が茶色の紙包みをときはじめたからだった。彼はそのなかから白シャツをだした。白シャツとはいうものの、古びてほとんど鼠色になったシャツだった。  彼はその袖の褐色のしみを指さし、 「ソーンダイクさん、これはなんでしょうね。血でしょうか? 血だったら人間の血でしょうか、なんの血でしょうか?」  ソーンダイクは笑いながら、 「そんなことか見ただけで分るもんですか。バグダードの女は患者の舌を見ただけで、何段目の階段から転んだかいい当てたそうですが、私にはそんな芸当はできん。調べるのには時間がかかりますよ。いつまでに調べたらいいのです?」 「今夜までに知りたいんですが。」 「顕微鏡で見る時、すこしばかり切りとってもいいですか?」 「なるべくなら、切らないでほしいんです。」 「承知しました。一時間ほど待ってください。」 「そうですか。それはどうもありがとう。」  ミラーは立ちさる気配をみせて帽子をとったが、ソーンダイクが呼びとめた。 「ついでにおききしたいことがあるんです。ケンバウエル殺人事件のことなんですが[#「なんですが」は底本では「なんですか」]、犯人の手掛りはあったのですか?」 「手掛り?」と、ミラーは軽蔑するような口調で、「もう犯人は分っているんです。つかまえさえすればいいんですが、いどころが分らないんです。」 「犯人は誰です?」ソーンダイクはきいた。  判断に迷ったような顔で、彼はソーンダイクを見つめていたが、ふしょうぶしょうにいった―― 「いっても差支えないでしょう。うすうすあなたも知っていらっしゃるらしいから。ベルフィールドという前科者なんです。」意味ありげに笑った。 「どんな証拠があがっているんです?」  また、彼はちょっと当惑の色をうかべたが、 「証拠もくそもない。もうはっきりとしているんですよ。ええ、ウィスキーみたいにはっきりしている。」すかさずソーンダイクは、ウィスキーの壜とサイフォンとグラスを彼の前にならべた。「馬鹿な奴ですな。窓ガラスに汗のにじんだ手を当てたのです。だから、親指と四本の指がぴったりガラスに残ってしまった。で、そのガラスを切りとって、指紋係りに調べさせたら、前科のあるベルフィールドであることが分ったのです。本人の写真も警視庁に保存してありました。」 「そして窓ガラスの指紋は、記録してある指紋と、すこしもちがっていなかったのですか?」 「ぴったりです。右手の指が[#「右手の指が」は底本では「右手の指か」]五本とも。」 「ふん!」  ソーンダイクは考えこんだ。ウィスキーソーダを飲みながら、ミラーは彼を見つめていたが、 「あなたは、ベルフィールドの弁護を頼まれているんですか?」と、だしぬけにきいた。 「ただ事件の全体を調べるだけなんです。」 「あいつがどこにいるかごぞんじ?」また警官はおしてきた。 「ベルフィールドの住所は知りませんよ。私は事件全体を公平に調べるだけです。だから、あなたと衝突する心配はないですよ。あなたも私もこのことを調べている。あなたも事実を調べて真の犯人を捕えたいと思っているんでしょう?」 「そうなんです。そしてベルフィールドが、その真の犯人なんです。――なにかご用がありますか?」 「その指紋のついたガラスと、警視庁に保存してある指紋を見せてくれませんか。写真をとりたいのです。それから、犯罪のあった部屋も見たいですな。もうしめきってあるのでしょう?」 「そうです。しめきって鍵は私のほうで保管しています。そんなものを外部の人に見せるのはどうかと思うんですが、でも、あなたが私たちを裏切ったことがないのは事実なんです。ですから――よろしい。承知しました。一時間後に血液検査のレポートを取りにきますから、その時、ガラスと指紋を見せてあげますよ。しかしお貸しするわけにはいきませんよ。じゃ、これで――いや、そんなに飲んじゃいかん、もうたくさん。」  帽子をとってさっさと出て行った警視は、体も心も活気にあふれているようにみえた。  彼が部屋をでてドアをしめると、今まで落着きはらっていたソーンダイクは、急に人が変ったように活気をていして、はげしく二階の実験室に通ずるベルを押して私をふりかえり、 「ぼくはベルフィールドに話があるから、君、血液の検査をしてくれ。水で濡らしちゃだめだよ。温めた塩水の滴の上に、ナイフかなにかで掻き落すんだ。」  いそいで、私がテーブルの上に顕微鏡なぞ持ちだして準備をしていると、外がわのドアをあける音がして、いつものようにむっつり押し黙った助手のポールトンがはいってきた。 「九時にミラーさんが指紋を持ってくるからね、ポールトン、それまでに指紋をとる道具やカメラの用意をたのむ。」  ソーンダイクは、そういってポールトンをかえすと、隣りの部屋をノックして、 「ベルフィールドさん、もう出てきてもいいですよ。」  鍵をまわして、おかしな変装をしたベルフィールドが、憂い顔で姿をあらわした。 「これからあなたの指紋をとらなくちゃならん。現場の窓ガラスの指紋と比べてみるんです。」 「指紋! 私の指紋が窓ガラスについていたんですか?」ベルフィールドは不審げな目つきをした。  ソーンダイクは彼をみながら、 「そうなんです。窓の指紋と、あなたがホロウェイ刑務所でとった指紋と比べてみたら、同じだったと警視庁の人がいっていますよ。」 「へえ!」  震えながらベルフィールドは、がっくり力なく椅子に腰かけた。 「それはなにかの間違いでしょうが、しかし、指紋が同じというようなことがあるんですか?」 「ベルフィールドさん、はっきりいってください。あなたはあの晩あすこへ行ったのですか、行かなかったのですか? 私へ嘘をいっちゃいかん。正直にこたえるんです。」 「行きませんよ。絶対に行きません。」 「そんなら、あなたの指紋じゃないんだ。」  ソーンダイクはそういってドアのそばへ行き、ポールトンから大きな箱を受けとって、それをテーブルのうえにおいた。 「この事件について、あなたの知っていることは全部話してください。」箱のなかの物をテーブルに並べた。 「なにも知らないんですよ。知っているのはただ――」 「ただなんです?」  指紋用のインキの滴を銅板に落していたソーンダイクは、そういって顔を起して鋭く彼をみた。 「知っているのはただ、殺されたコールドウェルが、いぜん盗品売買をやっていたということだけなんです。」 「盗品の売買をしていた男ですか?」 「そうなんです。そして、ちょいちょい警察に密告していたらしいんです。だからみんなに憎まれていたんです。」 「あなたの秘密も握っていたのですか?」 「それは握っていたでしょうが、しかし、警察が知っていた以外にはなにもないのです。」  ソーンダイクは、小さいローラーを使って、インキを銅板のうえに薄いフィルムのように伸し、テーブルの端に白いカードをおいた。つぎにベルフィールドの右手をとって、その人差指に銅板のインキをつけて、べったりカードのうえにおさせ、同じように、他の四本の指の指紋をカードにおさせた。一通り五本の指の指紋をとると、予備として同じのをいくつか作った。 「人差指にひどい傷がありますな。」ソーンダイクは、ベルフィールドの指を、明りに近づけてみた。「これはどうしたんです?」 「罐詰をあけていて怪我をしたのです。ひどい怪我でした。何週間も痛みつづけて、ドクター・サンプスンが、一時は指を切らなくちゃ駄目だといったほどでした。」 「いつごろのことです?」 「もう一年ぐらいまえ。」  指紋のカードに傷をうけた時を書きこむと、彼はまた銅板にあらたにインキをつけ、前のより大きいカードを二つ三つ並べて、 「今度は五本の指の指紋を一時にとります。」 「刑務所では四本の指を一時にとったのです。親指だけは別にとりましたよ。」 「分っています。窓ガラスについたようなのがとりたいのです。」  そんな指紋を何枚かとったのち、彼は時計を見て、道具を箱にしまいかけたが、道具をしまいながらも、彼はしきりに物思いにふけっている様子で、時々憐れな恰好で椅子に坐って震える指先からインキをふきとっているベルフィールドの方に目をくれた。 「ベルフィールドさん、」と、しばらくしていった。「あなたはなにも悪いことはしなかった、そしてこれから正直な生活をしようと思っているといいました。私はそれを信じますが、いますぐ結果はわかります。」 「それはありがたいです。」安心しきっているもののようなベルフィールドの口振りだった。 「では、あなたはまた隣りの部屋にはいっていてください。ミラー警視がいつくるかもわからない。」  ベルフィールドは急いで隣室にはいって、なかから鍵をかけた。ソーンダイクは指紋をとる道具のはいった箱を実験室にかえし、指紋のカードをひきだしにしまい、顕微鏡をつついている私のそばへよってきた。  私はシャツについている血の粉を落し、それに塩水を加えて、顕微鏡でのぞきこんでいるところだった。 「どう、わかる、ジャーヴィス君?」 「形のはっきりした卵形の血球だ。」 「それはありがたい! 寸法をはかった?」 「うん。長いほうが1/2100[#「1/2100」は分数]インチ、短いほうが約1/3400[#「1/3400」は分数]インチ。」  ソーンダイクは参考書の本棚から、索引つきのノートをだして、生物組織の寸法表を調べた。 「これはきじの血だろう。というより、実際は鶏だね。」  そういって、彼は顕微鏡をのぞき、測微計をあてがって、私の計算をたしかめた。  彼がそんなことをしていると、外のドアを叩く音がした。すぐ彼は出ていって、ミラー警視を部屋にいれた。  ミラーは顕微鏡を見ると、 「調べてくださいましたな。なんの血でした?」 「鳥の血です。きじか鶏ですな。」  ミラーはぱちんと自分のズボンをたたいて、 「あなたは偉い。魔法つかいだ。傷をしているきじをつついたから、シャツがよごれたんだと、本人がいったんですよ。私がそれを黙っていたのに、ぴったりあなたが当てたのは、やっぱり偉いですよ。どうもありがとう。あなたが骨を折ってくださったので、私もあなたに頼まれたものを持ってきました。」  小さい手提鞄をあけて、枠にはめたガラスと青い封筒をだして、そっとテーブルのうえにおいた。 「この枠にはいっているのが、窓ガラスに残したベルフィールドの指紋、封筒のほうが台帳におさめてある指紋なのです。比べてみてください。」  ソーンダイクは枠を手にとってみた。枠には二枚のガラスをはめてあった。一つは窓から切り取った指紋、一つはそのおおいである。彼はテーブルの上に白紙をひろげ、その上で枠のなかのものを黙ってみた。無表情な彼の目に、なにか閃めくように思われた。私は歩いていって、彼の肩越しにのぞきこんだ。四本の指と親指の先が、はっきりガラスに浮びだしている。  しばらく注意ぶかく見つめると、彼はポケットから柔らかい革袋にいれた二重レンズをだして、それでまたじろじろと指紋をみた。人差指の先をとくに気をつけてみているようだった。 「どうです、はっきり分るでしょう? わざとつけたほど見事にうつっている。」ミラーはいった。 「はっきりしてますね。」ソーンダイクは意味ありげに笑った。「これじゃ、わざと指紋をつけたとしか思われない。それに、ガラスだってきれいにふいてある。」  ミラーはすばやくソーンダイクをみたが、微笑はすでにその顔から消え、もとの無表情な顔になって、そこからどんな意味も汲みとることはできなかった。  得心がいくまでガラスの指紋をみると、ソーンダイクは封筒から台帳の指紋をだし、それとガラスの指紋を、なんども目を移してみくらべた。  しばらくすると、その二つをテーブルの上におき、まともにミラーを見ながら、 「ミラーさん、私の考えをいいましょうか?」といった。 「どうぞ。」 「あなたは犯人を取り違えていらっしゃる。」  警視は鼻を鳴らした。しかし、鼻を鳴らしたとはいっても、ごく低い音をたてただけだった。高い音を立てれば、相手を侮辱したことになる。ミラーは相手を侮辱するような無作法な男ではなかった。ただ相手の説に反対する意志表示をしたまでである。そして、その意志を次の瞬間、言葉にあらわした。 「では、窓ガラスの指紋は、フランク・ベルフィールドのものではないとお考えなのですか?」 「そうです。ベルフィールドの指紋じゃありません。」ソーンダイクは、はっきりとこたえた。 「でも、台帳の指紋が彼のものであることは、おみとめになるでしょう?」 「それはみとめます。」 「指紋係のシングルトン君が、二つの指紋を比べてみたら、同一人であることが明らかになったのです。私が比べてみても、二つはまったくおなじです。」 「そうです。」ソーンダイクはいった。「私が比べてみても二つはおなじでした。だから、窓ガラスの指紋は、ベルフィールドのものじゃないというのです。」  また警視は鼻を鳴らした――こんどはかなり高い音をたてた――そして顔にしわをよせて相手をみた。 「冗談にそんなことをおっしゃるのじゃないのでしょう?」咎めるようないいかただった。 「冗談じゃない。あなたに冗談をいうのは、やまあらしをくすぐるよりも恐いですからな。」おだやかにソーンダイクは笑った。 「私はあなたをよく知っているからいいんですが、そうでなかったら、あなたが無茶をいっているように思いますよ。よく分るように説明してもらいたいもんですな。」 「そんなら、窓ガラスの指紋がベルフィールドのものでないということが明らかになったら、あの男を逮捕しませんか?」 「あなたはどんなお考えなんです? これから法廷へ出て、私たちの論拠を根本からくつがえそうという魂胆なのですか、ホーンビー事件の時のように――いま思いだしたんですが、あれも指紋が問題になった事件でしたね。」ミラーは急に真顔になった。 「私が切札を隠しておいて、公判の時に初めて出すので、あなたはいつもそれを恐れていらっしゃるらしい。しかし、今度は隠さない。あなたが手掛りだと信じているものが、とんでもない思いちがいだということを、いまここで証明したら、ベルフィールドを追求するのをおやめになりますか?」  警官は唸った――なんとも意味のとりようのない唸りかただった。ソーンダイクはガラスの指紋をとりあげて、 「この指紋には面白いところが沢山あるんですよ。その一つは、すでにあなたやシングルトンさんもお気づきのはずだ。この親指をよく見てください。」  ミラーは親指の指紋をよく見た。それから台帳の指紋と比較してみた。 「どうしたんです? 台帳の指紋とちっとも変ってないように私は思うんだが――」 「変っていません。変っていないところが問題なのです。ほんとは変っているべきなのです。台帳の親指の指紋は、ほかの指とは別にとったのです。なぜ別にとったかといえば、親指だけほかの指とは向きが違うからです。五本の指の指紋を一時にとろうと思えば、親指だけは横向きの指紋しかとれない。ところが、これを見ると」――ガラス板を指で叩いて――「五本の指がみな完全に正面にむいている。だからこれは本物じゃないんですよ。嘘とお思いになるなら、てのひらを押しつけて、あなたの五本の指の指紋を一時にとってごらんなさい。」  ミラーは自分のてのひらをテーブルに押しつけて考えていたが、すぐソーンダイクの言葉の意味をさとったらしい。 「すると、どういうことになるんです?」と、彼はきいた。 「だから、窓ガラスの指紋は、自然についたものではない。親指だけは別にくっつけたんですよ。すなわち、なにか目的があってつけた指紋なんですよ。」  ミラーは当惑したように後頭をなでて、 「どうも私にはよく分らん。いまあなたは、台帳の指紋と同じだから、窓ガラスの指紋はベルフィールドのではないといいましたが、私にはその意味が分らない。いっちゃ悪いが、ナンセンスのように思われるんです。」 「ナンセンスのように思えても、それがほんとなのです。私のいうことをよくきいてください。この指紋は、」――台帳の指紋をとりあげ――「六年前にホロウェイ刑務所でとったのです。ところが、これは、」――ガラスをとりあげ――「この一週間のうちにできた指紋です。それでいて両方の指紋は、そっくりそのままで、少しも違ったところがない。そうでしょう?」 「そうです。」ミラーはうなずいた。 「ところが、あなたは知らないでしょうが、この一年のうちに、ベルフィールドの指紋が変るような出来事があったのです。」 「指紋が変るような出来事があるでしょうか?」 「じっさいあったのです。見せてあげましょう。」  ひきだしをあけ、何枚かのベルフィールドの指紋をだして、警官の前にならべた。 「この人差指をよく見てください。人差指の指紋が十二枚あるけれど、十二枚とも白い線が指紋の線を横切っていて、指紋を二つの部分に分けている。この白い線は傷あとで、今のベルフィールドの人差指の指紋には、どれにも、これが現れるはずなのです。ガラスの指紋には、指紋の線があざやかに現れているにかかわらず、この、指紋を中断する白い線がない。負傷しない前の指紋ですよ。だからこれはベルフィールドの指紋じゃないのです。」 「負傷したというのは事実なのですか?」 「事実です。だから今でも跡がのこっているのです。傷の手当をした医者を、証人に立てることもできるのです。」  警官はしきりに頭をなでながら、額にしわをよせてソーンダイクを見た。 「分らんですな。あんたのいわれることに間違いはないようだが、でも、やはり窓ガラスに指紋がついていたことは事実なんです。指がなければ、指紋はつかないでしょう?」 「つきますよ。」ソーンダイクはいった。 「そんなことをいわれたって、私は自分の目で見ないと信用しません。」 「そんなら見せましょう。あなたはホーンビー事件のことを忘れているんだ――あの事件のことを、新聞社の連中は赤い拇指紋の事件といった。」 「あれは、私はちょっと聞いたのですが、どんな証拠があったのか、よく知らないんですよ。」 「では、お目にかけましょうか。」  ソーンダイクは鍵をさしこんで戸棚をあけ、そのひきだしから「ホーンビー」と書いた小箱をだした。小箱をあけると、たたんだ紙と、赤い表紙のある長方形の手帳と、大きなつげ材の将棋の駒のようなものがでてきた。 「この手帳は指紋のアルバム――指紋帳です。」  ソーンダイクがそう説明すると、警官は軽蔑するような顔でうなずいた。  ソーンダイクは、その手帳を私にわたし、 「ジャーヴィス君、このなかのあの指紋をだしてくれ。ぼくは実験室からインキを持ってくるから。」[#「持ってくるから。」」は底本では「持ってくるから。」]  彼が部屋をでると、私はページをめくりはじめた。指紋帳のページをめくる私は、感慨無量だった。というのは、どこかで述べたとおり、私が妻にめぐりあったのは、この指紋帳が機縁となったからであった。それには、私に覚えのあるいろんな名前が書きこまれ、いろんな変った特徴の指紋がおさめてあったが、まもなく二つの拇指紋のうち、左の指紋に、傷のような白いたて線のあるのを発見した。そのしたに「ルーベン・ホーンビー」と書いてあった。  この時、ソーンダイクが部屋にかえって、インキをテーブルにおき、ミラーと私との間に坐って、 「これがルーベン・ホーンビーの両手の親指の指紋なんですが、左の指紋には特徴があるのはお分りでしょう、ミラーさん?」 「分ります。話で聞いていますから。」  ソーンダイクは箱から紙を出して拡げた。それにはっきりした血の拇指紋が一つおしてあって、鉛筆でなにか書きこんであった。 「これを見てください。この指紋をどう思います?」 「これはルーベン・ホーンビーの左の拇指紋ですな、」と、ミラーがいった。 「そうじゃないのです。これはあなたが裁判所から追っかけて、ラドゲイトヒルで見失ったウォルター・ホーンビーが上手に作った指紋なのです。しかし自分の指でできた指紋じゃない。」 「どうして作ったのです?」ミラーは不思議そうだった。 「こうするんです。」ソーンダイクは将棋の駒のようなものをとってインキのパッドに押しつけ、つぎにそれを名刺の裏に押しつけた。名刺の裏に拇指紋ができた。 「ほう! これは!」驚いてミラーはその名刺を手にとってみて、「こんなものが出来ちゃ、指紋の証拠も当てになりませんな。これはあなたがお作りになったのですか? どういうぐあいにして作ったのです?」 「わけはないですよ。これは私が写真板を利用して作ったのです。ホーンビーの指紋を写真にとって、クロームゼラチンの板にうつして、お湯で洗っただけなんです。そしたらこんな、」スタンプの面をなでながら、「はんこができるのです。はんこを作る方法はいくらもあります。たとえば普通の転写紙と石版を使ってもよろしい。指紋の贋物を作るぐらいやさしいことはない。作った人自身が、本物と自分の作った贋物と二つ並べてみて、どっちが本物か分らないぐらいなのが作れるのです。」 「そうですか。私の負けだ。兜をぬぎましたよ。しかし、ベルフィールドが今度の事件に無関係だとすると、この事件にたいするあなたの興味も薄らぐでしょう?」ミラーは陰気な顔をして立ちあがった。 「ベルフィールドに関するかぎり、興味は持てませんが、こんな巧妙な手口を思いついたのは誰だろうかと、その点に興味を感じますね。」  ミラーは顔を輝かし、「お調べになるんでしたら、できるだけの便宜をはかってあげますよ。そう思って指紋係からこれを借りてきてあげたのですが、まだほかにご希望がありますなら、なんでもいってください。」 「犯罪のあった部屋を見せていただきたいですな。」 「承知しました。では明日でも。明日の朝十時にお待ちしています。」  ソーンダイクはその時刻に行くと答え、ミラー警視は新しい事態に対処する方法を考えながら帰っていった。  彼を送ってドアをしめると、すぐそのドアを外からノックする音がきこえた。  私がドアをあけると、ヴェイルをかけた、地味な服装の女が、すばやく部屋にはいりこんで、 「たくはどこにいますかしら?」といったが、ソーンダイクの姿をみると、怒った、威嚇的な顔で彼のそばへより、「たくをどうなさいました。秘密を守ると約束なさったのに、お裏切りになりましたね? いま階段で警察の人に出会いましたよ。」 「ご主人のベルフィールドさんは、どうもしやしません。隣りの部屋にいますからご安心なさい。」ソーンダイクは部屋を指さした。  ベルフィールド夫人は、すぐそのドアに近より、 「フランク、いらっしゃる?」いいながら、ノックした。  鍵をまわして、ドアをあけて、蒼白いやつれたベルフィールドがあらわれ、 「ずいぶん長かったですね」、と、とがめるような口ぶりだった。 「それは、見当ちがいの犯人を探していることを、ミラー君にのみこめるように説明したんだから、長くかかるはずですよ。でも、結局わかってくれました。あなたはもう自由の身です。誰もあなたを逮捕しやしない。」  ベルフィールドは立ったまま唖然となった。夫人も驚きのあまり、しばらくはものもいえない様子だったが、だしぬけに良人にすがりついて泣きだした。 「でも、私が無罪であることが、どうしてお分りになりました?」 「そんなことを知るのが私の商売なんです。誰だって自分の商売だけはうまくやりますよ。お目出とう。これからご馳走でもおあがりになって、ゆっくり休んでください。」  彼はベルフィールドと握手した。夫人はむりやりに彼の手に感謝の接吻をあびせた。そして、彼は戸口に立って、遠のく二人の足音にいつまでも耳をすました。 「感心な人だ」と、彼はドアをしめながらいった。「もっとのことで頬をかきむしられるところだった。あの女の幸福をおびやかした犯人を、必ずさがしてみせる。」  これからのべようとすることは、私にとっては大変教訓的だった。というのは、犯罪捜査の根本法則だと、ソーンダイクがつねからいっていたことが、この事件ではほんとに重要であることがわかったからである。それは、いやしくも事件に関係のあることは、どんな微々たる事柄でも、なんの先入観も持つことなく、ちょっとみては無関係と思われることでも、辛抱づよく掻き集めて研究せねばならぬということである。  学識もあれば才能もあるわが友ソーンダイクが、この事件調査にあたってどんなことをいったか、それはいまここに先走ってのべないで、これから順をおって出来事全体をはなすことにしよう。  私は一週間のうち二三日は、キングス・ベンチ・ウォークのソーンダイクのうちに泊ることにしているのだが、その朝目をさまして階下へおりてみたら、助手ポールトンが朝食をテーブルに並べているところだった。ソーンダイクは、しきりにピンセットで二つの指紋の写真の寸法をはかっていたが、私をみると静かにピンセットをおいて、笑いながらテーブルにむかって坐った。 「けさ君も行ってくれるだろう、ケンバウエルの殺人事件なんだが?」 「むろん、君のほうに差支えなかったら行くよ。しかし、まだなにも聞いていないんだから、出かける前に事件のぜんぼうを話してもらいたいもんだ。」  ソーンダイクは笑うのをやめて、皮肉な目で私をみた。 「その手は昔話の狐と烏だよ。君はぼく一人にほんきでしゃべらせておいて、自分では面白い話をききながら、ハムを食べようというんだろう。うまいことを考えたもんだ。」 「そういうわけでもないが、始終犯罪者と接触していると、そんなになってしまうんだよ。」  彼は苦笑して、 「そんなふうに考えちゃいかん。簡単に話すとこうなんだ。殺されたコールドウェルは、盗品を買いとるのを商売にして、警察のスパイだったという評判もある男なんだが、小さい家に一人で暮して、年をとった女中が一人いるきりだった。 「一週間ほどまえ、この女中は、コールドウェル一人を残して、娘の嫁入先へ行って一晩泊って翌朝かえった。かえってみたら書斎の血の海のなかに、主人が倒れて死んでいたというのだ。 「警察医は死後十二時間と推定した。致命傷は背後からなにか重い物で一撃をくわえたというのだが、そばの床の上に落ちていた金てこが、その重い物というのにぴったり当てはまっていた。死体はカラーのないシャツにドレシングガウンを引っかけていた。ガスが引いてあるのに、床の上には蝋燭がころんでいた。書斎の窓は金てこでこじ開けた形跡があり、窓下の花壇には、はっきりと足跡が残っていた。警察は彼が寝室で寝かけていたら、書斎の窓をあける音がしたので、書斎にはいってみたら、ドアの後に隠れていた犯人が殴り殺したのだとみている。警察が調べてみたら、窓ガラスに、君も見た指紋がついていたが、その指紋を調べてみたら、ベルフィールドという前科者であることがわかった。だがこの指紋は、これも君が知る通り、ぼくが調べてみたら、ゴムかゼラチンのスタンプであることがわかった。これが話のあらましなのだ。」  彼の話がおわるころは、食事もほとんどすんでいたので、私たちはすぐ出かける準備にとりかかった。ソーンダイクは、野外測量に出かける人のような諸道具を、ポケットにいれたようだった。そして指紋の写真をひきだしにしまって鍵をかけると、河岸を通って現場にむかった。 「指紋が駄目になったとすると、警察はいまのところ、なんの手掛りも持っていないわけだね?」歩きながら私はいった。 「それは手掛りはないのだろうが、今までの材料をよく吟味してみると、いろんなことが分るはずなんだ。たとえば、これは今朝気がついたことなんだが、贋の指紋を作った男は、二つのスタンプを使ったにちがいない。一つは四本の指、一つは親指だ。そしてその両方ともが、警視庁の台帳をもとにして作ってあるのだ。」 「どうしてそんなことが分るの?」私はきいた。 「それは簡単だ。ミラー君が指紋係のシングルトンから、ガラスの指紋と台帳の指紋を借りて持ってきてくれたが、その寸法をよく測ってみると、二つがまったく同じなのだ。指紋の不完全な部分――たとえばインキのつかなかった箇所のような――そんな不完全なところまで、まったく同じであるばかりでなく、四本の指と指との間隔まで寸分ちがわない。親指だけは台帳に指を回してとってあるので、その卵形の部分だけスタンプにしたらしい。」 「すると、コールドウェルを殺したのは、警視庁の指紋係かな。」 「そんなこともあるまいが、それに、関係のある男なんだろう。どこかで台帳が漏れたんだろう。」  殺された男の住んでいた小さい一軒家につくと、年増の女中がドアをあけてくれ、ミラー警視が玄関にでむかえた。 「待っていました。一通りの調べはすんでいるんですが、いま入念に調べなおしているところなんです。」  彼は私たちを、家具のすくない、殺人の行われた書斎にみちびきいれた。床の敷物の黒っぽいしみと、四角に切りとった窓のガラスが、恐ろしい犯罪のなごりだった。新聞を敷いたテーブルの上に、いろんなものが並べてあった。そのなかに銀の茶匙や、懐中時計や、宝石だけ抜きとった飾身具なぞが見えたが、目星しいものは見当らなかった。兇器の粗末な金てこもあった。 「コールドウェルはどうしてこんなものを大事にしとったのかしら。このなかには最近の盗難で盗まれた品物もあるようですが、どれもこれも犯人が分らないんです。」 「なにか、見当らない物があるのですか?」 「それは分りません。金庫をあけたかどうかも分らないんです。金庫の鍵はデスクの上にありました。だから、たぶんあけただろうとは思うんですが、しかし金庫をあけるぐらいなら、こんな品物だって持って行きそうなもんです。これ、みんな金庫のなかにはいっていたんです。」 「金てこに粉をつけてみましたか?」  ミラーは赤くなった。 「つけるにはつけたんですが、私が踏みこむ前に、何人もの大馬鹿が勝手につつきまわして、窓ぶちに当ててみたりしたもんですから、出てくるのはそいつらの獣みたいな指紋ばかりでした。」 「窓は無理にこじあけたのじゃありますまい?」ソーンダイクはきいた。  ミラーは驚いたように顔をおこし、 「そうなんです。わざとこじあけたように見せかけたらしいのです。足跡だってそうです。コールドウェルの靴をはいてでて、わざと足跡をつけたんです。コールドウェル自身がそんなことをやるはずはない。」 「手紙や電報は調べたんですか?」 「犯罪のあった日の九時に会おうという手紙があるんですが、差出人の名がないんです。字もどうやら書きてが分らぬよう警戒してかいたものらしい。」 「そんなら、手掛りになるようなものは、なにもないんですか?」 「ところが、金庫からこんなものが出てきましてな。」  意味ありげにソーンダイクを見たあとで、ミラーは小さい包みをといた。なかから各種の宝石類といっしょに、またハンケチで包んで紐でむすんだ、もっと小さい包みがでてきた。彼がその紐をとくと、なかからでてきたのは、おなじ模様を刻んだ六つの銀の茶匙と、二つの塩をいれる薬味入れと、頭字を組み合せた模様のある金のロケットだった。そのなかからは、半分に破った紙もでてきたが、それには書きてが分らぬように、ひねくって書いたらしい文字で、「これが約束の品物です――F・B」と書いてあった。  だが、ソーンダイクが興味ぶかげに見つめてたのは、そんな物よりも、それを包んであったハンケチで、二箇所小さい血のしみのついた古びたそのハンケチの隅には、ゴム判でF・ベルフィールドの名をおしてあった。  ソーンダイクとミラーは、顔を見合せて笑った。 「あなたがどう考えていられるか、私には分りますよ。」ミラーはいった。 「それは分るでしょう。あなただって心の中では私と同感にちがいないんだ。」 「しかし、かりそめにも、ここにベルフィールドの名が書いてある以上、いいひらきをするのはあの男の義務だと思うんです。」頑強に食いさがった。「どうしてかというに、これはこの事件だけのことじゃない、この匙や塩入れやロケットは、ウィンチモアヒルで盗難があった時、盗まれた品物なんですよ。私のほうではあの時の犯人を、今でも血まなこになって探しているんです。」 「あなたの気持は分りますが、しかしこのハンケチはなんの証拠にもならん。しっかりした弁護士――たとえばアンスティーさんだったら、五分ぐらいで、このハンケチを一文の価値もないものにしてしまいますよ。けれどもこのハンケチをよく調べると、いろんなことが分るかもしれない。だから、このハンケチは当分私におあずけになるといいんですよ。」  はじめミラーは不賛成らしかったが、結局ふしょうぶしょうに、ソーンダイクの要求をいれた。 「そうですか。そんなら二三日間持ってかえって調べてください。匙やなんかもいりますか?」 「いや、ハンケチと字を書いた紙片だけでけっこう。」  二つの品物を受けとると、彼はいつも持ちあるくブリキの箱のなかにいれて、ポケットにしまった。それからしばらく雑談をしたあとで、私たちは不満足げなミラーと別れて帰途についた。 「あれだけ見ても、なんの得るところもなかった。現場にあったものを動かしてあるが、動かす前に専門家が充分に調べたのかしら。」歩きながらソーンダイクはいった。 「君はミラーの話をきいて、なにか思い当ることがあったか?」私はきいた。 「ただこっちの見込みが、いっそう確実になっただけだよ。コールドウェルという男は、盗品を買いとるのを看板にしながら、一方では警察のスパイをやっていた。いつも警察に情報を提供していたから、品物を持ちこむ者のほうでも、大事なことは喋らぬように気をつけていたと思うんだ。警察の犬はたいてい恐喝をやる。だから、ぼくの想像では、コールドウェルに恐喝されていた男が、最初訪問すると約束しておいて、女中のいない時刻に訪問して、彼の頭を殴って殺したのだ。これは計画的の犯罪で、犯人は一石二鳥をたくらんだ。それで贋の指紋のスタンプを用意したり、ベルフィールドの名のあるハンケチを持ってきたり、ミラー君が探している宝石や銀の食器を、金庫のなかにいれたりした。どの品物をみても金目なものはない。みなミラー君にベルフィールドを追っかけさせようとするような品物ばかりだ。」 「ぼくもそう思う。犯人の目的は、この殺人やその前の一連の窃盗事件の罪を、ベルフィールドに負わせたいのだ。」 「その通り。ここでミラー君の立場になって考えてみよう。ベルフィールドはいまミラー君の手中にあるが、ほかの男は――ほかの男があるとして――誰やら分らない。だからベルフィールドを追求して、できれば彼を有罪にしたい。まんいち無罪なら彼がそれを証明すればいい。」 「これからどんな手を打つつもり?」 「電報をうって、今夜ベルフィールドにきてもらおう。あるいはハンケチについて、なにか知っているかもしれぬ。それと、今までの材料をつなぎ合せて考えてみれば、今後の方針がたつかもしれない。君の診察時間は?」 「十二時半――バスが来た。昼食にはかえるよ。」  私はバスにとびのり、二階へ座席を占めて、ゆるゆる歩くわが友をふりかえった。機械的に彼は周囲のものに注意をはらっているものの、心の中では、しきりになにか思案しているようにみえた。  私は診察をすますと――それはなおざりにできぬ精神病患者だったが――昼食に間にあうように[#「間にあうように」は底本では「問にあうように」]急いで帰った。ソーンダイクの顔をみた私は、彼の様子が今までとはすっかり変って、快活になっていることにすぐ気がついた。なにか困難で複雑な問題を解決した時には、彼はいつもこんなに快活になる。それでいて、私にそれを話そうとはしなかった。それどころか、自分の仕事なぞいっさい忘れて、むしろほかの方面へ気を向けたがっているもののようだった。 「午後はどこかへ行ってみようか、ジャーヴィス君?」元気のいい声だった。「天気もいいようだし、今ちょっと暇なんだ。動物園へ行ってみようか? チンパンジーのいいのが来たというし、ペリオフサルモス・ケルロイテリという珍しい魚もついたそうだよ。どう?」 「よかろう、」と私はこたえた。「そして象に乗ったり、灰色の熊に菓子パンを投げてやったりして、鷲のように若返ろう。」  だが、それから一時間ほどたって、動物園を歩きまわる頃の私は、彼がこんなところへ足を運んだ真の理由は、のんびりした気分を味わうためではないのだということをさとった。彼はチンパンジーにも、不思議な歩く魚にも、そんなに興味を感じないもののようだった。そのくせ、私に不審を抱かせるほどひんぱんに、ラーマや駱駝のいるあたりを歩きまわった。しかも、彼が興味を感じているのは、そんな動物そのものよりも、動物のすむ檻や小屋であるらしかった。 「見たまえ、ジャーヴィス君、」と、鞍をおいた駱駝が、足ばやに小屋の方にひっぱって行かれるのを見ながら彼はいう。「砂漠の船だ。船のまんなかに立派な船室が見えるだろう? だが船尾の足の動きは、いささかリューマチ性の関節炎を病んでいるようだね。あの船が港にはいるまえに、もっとよく観察することにしよう。」  私たちは近道を通って、駱駝のほうへ急いだが、その途中でソーンダイクはこんなことをいった。 「馬や、となかいや、駱駝が人に飼いならされ、人の役に立つようになった経路を考えてみると、面白いもんだよ。たとえば、駱駝が昔からの歴史や商業に果した役割を考えてみたまえ。彼らがどんなに文化の伝達に役立ったか、エジプトのカンビサスから近代のキチナーに至るまでの間に、どんなに戦争に役立ったか、そんなことを考えてみたまえ。じっさい駱駝は不思議な動物だよ。もっとも、この駱駝は少々壊血病にかかっているらしいが――」  この悪口が通じたのか、駱駝はソーンダイクの前までくると、人を馬鹿にしたような顔で笑って、すぐ横をむいてしまった。 「この駱駝は、ずいぶん年を取っているんでしょうね。」  ソーンダイクは、駱駝をひいている男に話しかけた。 「近頃めっきり元気がなくなりました。」  ソーンダイクは彼と並んで歩きながら、 「こんなものを飼うのには、手がかかるでしょう?」 「かかります。気が荒いものですから。」 「ラーマや駱駝が好きなんですが、組になった写真は、どこで売っているんですか?」 「事務所へ行ってごらんなさい、いろいろな動物の写真があります。でも、組になったようなのなら、駱駝の小屋に写真の上手な男がいますから、その男にお頼みになると、どんな写真でもとってくれます。いまいませんけれど。」 「なんという名前の人ですか、手紙で頼みたいのですが?」 「ウドソープです――ジョージフ・ウドソープ。頼んでごらんなさい。いい写真をとってくれます。いや、これはどうも有難うございます。」  彼はソーンダイクから受けた金をポケットにいれて、駱駝をつれて小屋にはいった。  急にソーンダイクは駱駝にたいする興味を失ってしまって、私が足をむけるほうについて来るようになり、大は象から、小は小虫にいたるまで、同じ公平な興味をもって、小学生みたいに気軽に歩きまわるようになった。だが、さすがに羽根や毛のようなものが目につくと、それを丹念にひろって、別々な紙に包んで鉛筆でなにか書き、採集箱にいれることは忘れなかった。 「こんな物が、いつ役に立つかもしれないのだ。」駱駝の檻を離れながら彼はいう。「たとえばここにひくいどりの小さい羽根と、大鹿の毛があるが、この二つを識別することによって、ある犯罪の秘密をとき、罪のない人間の生命を助けうるようなこともあるかもしれない。そんなことは今までに何度もあった。だからこれからもあるかもしれない。」 「そんな物を、君はずいぶんたくさん蒐集しているだろうね。」うちへ帰りながら私はきいた。 「おそらく世界一の蒐集だろう。そのほかにも、各地方の特殊の工場や、製造所の埃や泥、食品や薬剤、そのた法医学に関係のある、いろんな顕微鏡で見るような小さい物を集めてあるから、その道では世界に類のない蒐集だろう。」 「そんな物が、仕事の役にたつのかね?」 「役にたつどころか、なんどもそんな見本を持っているために、思いもよらぬ証拠をつかんだことがある。そして、なんどもそんな経験をしたので、顕微鏡というものが、法医学の最後のよりどころであるという確信をもつようになった。」 「話はちがうが、ベルフィールドに電報を打つとかいっていたが、打ったのか?」 「今夜八時三十分に、なるべくなら細君同伴で来てくれといっといた。ハンケチの謎を底の底まで突いてみたいのだ。」 「でも、あの男が本当のことを話すかしら。」 「それは分らんがね、しかし本当のことをいわないなら、あいつが馬鹿なのだ。でも大抵本当のことをいうよ。あの男は、おれにはなにを隠しても無駄だということを知っているんだから。」  夕食がすんで、そのあとがかたづくと、ソーンダイクは助手ポールトンに手伝ってもらって、その日採集したものを分類しはじめた。小さい毛や羽根はスライドに貼りつけ、大きいものはそれぞれ封筒にしまって、その封筒に文字をかきこんだ。彼が助手をつかって、そんなことに余念がないあいだ、私は窓ぎわにたって外の景色をみ、景色をみながら、彼が標本のつくりかたや、その保存法について、いろいろ助手に注意をあたえているのをきいていた。そして、彼がそんなことにかんして、無限の知識をもっていることや、またその助手がよく訓練されていることを、私はいまさらのように痛感した。  ふと、私は見覚えのある人影が、街を横切ってこちらへむかうのを見て、 「おい、君、厄介なことになったよ!」といった。 「どうしたの?」ソーンダイクは顔をおこした。 「ミラー警視が来るらしいぜ。いま八時二十分だから、ベルフィールドとかちあいはしないかしら。」  ソーンダイクは笑いだした。 「妙な鉢合せになったな。ベルフィールドが腰を抜かすかもしれん。しかし、ほんとはちっとも構わないんだ。それどころか、ミラー君が今来てくれたほうが都合がいいのだ。」  まもなく、せっかちらしいノックの音が聞えた。ポールトンに案内されて部屋にはいってきた彼は、おどおどした目つきで部屋のなかを見まわした。 「いまお急がしいのじゃありませんか?」弁解がましい口ぶりだった。  ソーンダイクは、ゆっくりひくいどりの羽根を封筒にいれ、採集した場所や日や鳥の名を書きこんで、 「いや、どういたしまして。この事件では、私はあなたの番頭みたいなもんですよ、ポールトン、ウィスキーとソーダ水を持ってきてくれ。」 「ソーンダイクさん、あなたにはすみませんが、あのハンケチと、それから字を書いた紙片ですな、うちの連中が騒ぎだして、あれは大切な証拠品だから、早く返してもらって封をして金庫にしまっておかないといかんというんですがね。」 「いや、そういうことになるだろうと思っていました。」ソーンダイクはいった。 「私も内々心配していたんです。そんなわけですから、いまいただいて帰ります。ご迷惑だろうとは思いますが。」 「ちっとも迷惑じゃありません。今夜ベルフィールドに来てくれといってあるのです。ですからもう来るでしょう。あの人が来て話を聞いたら、もうハンケチはいらないのです。」 「あの男にハンケチを見せるんですか?」ミラーは顔色をかえた。 「むろん、見せます。」 「そんなことをしちゃ困る。それは警視庁の者として私は許しませんよ。」  ソーンダイクは警官の前に人差指を突きつけ、 「そんなことをいうもんじゃない、ミラーさん。いまいったように、私はこの事件で、あなたのために働いているのです。だから万事私にまかしておきなさい。馬鹿げた邪魔はしないがよろしい。そしたら、あなたが今夜ここからお帰りになる時には、ハンケチはもとより、あの紙片も、それからことによると、この殺人を犯した犯人、最近方々にあった窃盗事件の犯人の、住所氏名を持ってお帰りになれるのです。」 「ほんとですか? あなたは休む暇もないほど活動していらっしゃるんですな。ああ!」静かにドアをたたく音。「ベルフィールドだな!」  ベルフィールドだった。細君もいっしょだった。だが、ミラー警視の姿をみると二人はしりごみした。 「そんなに恐がらんでもいい。あんたをつかまえに来たんじゃないから。」ミラーの言葉には、取りつくろったような穏やかさがあった。文字通りに受け取れぬ言葉ではあったが、前科者をいくぶん安心させたことは事実だった。 「ミラーさんは用事があってここへおいでになったのじゃないのです。」ソーンダイクは説明した。「だから心配しないで思ったことを話してください。これはあなたのハンケチですか? よく見てほんとのことを答えてください。」  ひきだしから出したハンケチを、彼はテーブルの上にひろげた。この時私は初めて気がついたが、血痕の一つを四角に切り取ってあった。  震える手でハンケチを取りあげたベルフィールドは、スタンプでおした隅の名前を見ると、さっと顔色をかえた。 「これは私のものらしい。お前どう思う、リズ?」しわがれた声でいって、妻にわたした。  女はまず名前を見、それからふちの縫いかたを見て、 「そうだわ。あなたのだわ。洗濯屋でかえられたハンケチよ。」ソーンダイクにむかい、「半年ほど前、ハンケチを半ダース買って、それにゴムのスタンプをおしたのですが、ある日、洗濯屋から戻ったのを見ると、スタンプをおしてないのが一枚混っていたのです。洗濯屋に交渉しても要領をえませんでしたの。それで、かわりの戻ってきたのにスタンプをおしたのです。」 「いつごろのことです?」ソーンダイクはきいた。 「二月ほどまえです。」 「それ以外のことはなにも知らないんですか?」 「ええ、なにも。あなた知っていて、フランク?」  ベルフィールドはむっつり顔で頭を横にふった。ソーンダイクはハンケチをひきだしにしまって、 「ところで、こんどは別の話なんですが、あなたがホロウェイ刑務所にいた時、ウドソープという看守か、看守の助手がいたはずなんですが、あなたその男を知っていますか?」 「よく知っています。その男ですよ、あの――」  ソーンダイクはそれをさえぎって、 「分っています。刑務所を出てから、会ったことがありますか?」 「ええ、一度。今年の復活祭の月曜日でした。動物園で会ったのです。動物園の駱駝の飼育係をしているのです。」私が今日のことを思い出してくすくす笑ったので、喋っているベルフィールドが不思議がったほどだった。「そして、私のつれていた子を、駱駝に乗せてくれたりしたのです。」 「その時、どんなことがあったか覚えているでしょう?」ソーンダイクはきいた。 「ちょっと駱駝が暴れたのです。気の荒い駱駝だったとみえて、足で蹴った拍子に、そばにあった柱からのぞいている釘に足を打ちつけて、怪我をしたのです。その時、ウドソープがきたないハンケチで足を結びかけたので、私がこのハンケチを使えといって、自分のを出してやったのです。ウドソープはそれで駱駝の足をくくって、あとで洗濯して返すから、君の宛名を知らしてくれといいました。けれども、私はそんな厄介なことをしなくても、血はすぐとまるから、動物園を出る時、もいちどここへかえってくるから、その時ハンケチをもらうといったのです。そして、一時間ほどして駱駝の小屋へかえって、よごれたままのハンケチを受け取って帰ったのです。」 「返してもらった時、自分のハンケチかどうか調べましたか?」ソーンダイクはきいた。 「たたんであったので、そのままポケットへいれてしまいました。」 「それを持ってかえってどうしました?」 「洗濯物をいれる籠にほうりなげたのです。」 「ハンケチについて知っていることはそれだけ?」 「それだけです。」 「よろしい、ベルフィールドさん。もうあなたは、なにも心配することはない。新聞を注意してみていてごらんなさい。ケンバウエル殺人事件のことがでますから。」  前科者とその細君は、ソーンダイクの言葉に安心して、部屋をでていった。  彼らがでていくと、ソーンダイクはハンケチと半分にちぎった紙片をミラーの前にひろげて、 「万事うまく進行して、私の思っていたことがぴったり当てはまりました。細君がハンケチの変っていることに気づいたのは、二月ほどまえのことだったが、動物園の出来事はそれよりずっと前にあったのです。」 「しかし、いまの男の話が、本当かどうか分らないでしょう。」ミラーは反対した。 「でも、いまの男の話は、ほかの証拠とぴったり符合するのです。ハンケチの血痕を私は切りとっていたでしょう?」 「あんな乱暴なことをしてもらっちゃ困るですよ。ほかの連中が黙っちゃいない。」 「あの血痕がここにあるんです。ジャーヴィス君に見てもらって、どんな血か説明してもらいましょう。」  ハンケチをいれてあったひきだしからスライドをだし、顕微鏡をテーブルの上において、そのなかに差しこんだ。 「ジャーヴィス君、見てくれたまえ。」  私は顕微鏡をのぞいた。強力な対物レンズの先にあらわれた、試薬に浸した小さい四角な織物の端を見つめながら、 「鳥の血らしいね、」と、私はためらいがちにいったあとで、「でも、核が見えない。どうしてだろう。」またのぞいて、「ああ、分った! これは駱駝の血だ!」  それを聞いたミラーは前にのりだし、 「ほんとですか?」と、興奮した声でソーンダイクにきいた。 「ほんとです。」ソーンダイクはこたえた。「今朝帰ってきてからそれが分ったのです。駱駝の血であることは確実なんです。哺乳動物の血球は丸いですが、一つの例外は駱駝属で、駱駝属の血球だけは血球が楕円形なのです。」 「すると、ウドソープがケンバウエル殺人事件となにかの関係があるのでしょうか?」ミラーはいった。 「ありますとも。あなたは指紋のことを忘れていらっしゃる。」  ミラーがとぼけたように、 「指紋がどうしたのです?」 「あの指紋は二つのスタンプを使ってつけたのです。そして、そのスタンプは、指紋台帳の写真で作ったのです。それは確実で、いつでも証明してみせてあげます。」 「それがどうしたのです?」  ソーンダイクは、ひきだしから一枚の写真をだして、ミラーにわたした。 「これはあなたが持ってきてくださった台帳にあるベルフィールドの指紋の写真ですが、この指紋の下のほうに、どう書いてあるか読んでみてください。なんと書いてあります?」  ソーンダイクはそこを指でさした。  ミラーは声をだして、 「採取者、ホロウェイ刑務所看守、ジョージフ・ウドソープ」  と読んだあとで、しばらく茫然としていたが、 「これはやられた! よく見つけましたね! しかもこんなに早く。ようし、明日になったら、いちばんにウドソープを捕えてやる。しかし、ウドソープはどういうふうにコールドウェルを殺したのでしょう?」 「彼としては同じ指紋を二つ取るという手もあった。そうしたって囚人に怪しまれる心配はない。しかし、彼はそうしないで、指紋をとると、それを警視庁に送る前に写真にとったのです。写真の上手な男だったら、カメラをテーブルの上において写せば、一分間か二分間あればできることです。そして私は彼が写真の上手なことも確かめたのです。明日あの男の部屋を探してごらんなさい。写真機もスタンプも出てきますから。」 「そうですか。しかしこりゃ驚きましたな、ソーンダイクさん。私は逮捕状を出してもらわねばならんから帰ります。お休みなさい。どうもいろいろありがとう。」  ミラーが出て行くと、しばらく私たちは顔を見合せて黙っていたが、ソーンダイクはこういった―― 「これはしごく簡単な事件ではあるが、貴重な教訓をあたえてくれると思うのだ。この教訓は、ジャーヴィス君、君も覚えていてもらいたい。それは犯罪事実を調べてしまうまでは、その事実の証拠としての価値は分らないということだ。これは分りきったことなんだが、他の分りきったことと同じように、どうかすると忘れられ勝ちなのだ。この事件について考えてみると、今朝コールドウェルの家を出る時には、こんな事実が分っていた。(一)コールドウェルを殺した人間は、直接か間接か、警視庁の指紋係に関係があるにちがいない。(二)その人間は写真がうつせるにちがいない。(三)その人間は多分、ウィンチモアヒルの窃盗事件の犯人でもあろう。(四)彼はコールドウェルのなじみだった。度々盗品を持ちこんで、コールドウェルから恐喝もされていただろう。これだけだ。手掛りとしては曖昧なものだろう。 「つぎはハンケチだが、これは贋の手掛りとして犯人がおいたものにちがいないが、最初は分らなかった。ベルフィールドのスタンプがおしてあるものの、あんなスタンプは誰でも作れる。そのハンケチには血痕があったが、これは世間によくあること、人間の血かも知れぬし、人間のでないかも知れぬ。どっちにしたって大した問題ではないとは思ったが、これが哺乳動物の血だったら、それも一つの事実だし、また、人間の血だったら、それも一つの事実。私はとにかく事実が知りたいと思った。それに証拠のしての価値があるかないか、そんなことは後になってみないと分らない。それで、うちへ帰って調べてみたら、なんと意外にも駱駝の血だった! そして、一見無意味に思われるこの事実が、大変重大な価値をもつようになった。それから後のことは君にも分るだろう。指紋の写真をみると、そこにちゃんとウドソープの名が出ている。私の次の仕事は、ロンドン中の駱駝のいる場所を歩きまわること、そして、そんなところにいる人間のなかに、写真のうつせる者がいるかどうか調べること。まず第一に足を運んだのが動物園だったが、そこでぱったり出会ったのがウドソープだった。またいう。どんな事実だろうが、それを調べてしまうまでは、無関係なことといってはならない。」  いじょうの話は、公判のとき公表されもしなかったし、またその公判のときソーンダイクが証人として立ちもしなかった。というのは、いよいよウドソープの家宅捜索をしてみたら、ソーンダイクが話した通りの二つの指紋スタンプはいうにおよばず、たくさんの囚人の指紋の写真、そのた動かすことのできぬいろんな証拠が次から次と現れて、彼が真の犯人であることは、疑惑の余地がなくなったからであった。そして、それからまもなく、社会は一人の有害な人物から、解放されたのであった。 底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社    1957(昭和32)年 1月10日初版 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。