おそろしかったパリの話 吉江喬松 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)四|方《ほう》に |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)四|方《ほう》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)([#割り注]ふるい習慣[#割り注終わり]) -------------------------------------------------------  目をあぐれば四|方《ほう》に山がある。その山の頂線《ちょうせん》にたれかかる空のうつくしさ、信濃《しなの》に生《う》まれた人々《ひとびと》でこの空のうつくしさに心ひかれない人はないであろう。高原《こうげん》にのぞむ空の美《び》は、とうてい平野《へいや》の人々《ひとびと》には想像《そうぞう》ができぬであろう。  このあおいで空のうつくしさを見るという習慣《しゅうかん》は、高原《こうげん》をはなれて、長《なが》く都会地《とかいち》に住《す》みなれた人々《ひとびと》にでもわすれられぬことのようである。窪田空穂《くぼたうつぼ》君《くん》の歌集《かしゅう》を読《よ》むと、いたるところにこの空の美《び》にうたれる感《かん》じがうたい出《だ》されている。ハイランダーとしての旧慣《きゅうかん》([#割り注]ふるい習慣[#割り注終わり])を、この人もうしなわずにいるのだなあという感《かん》じを、わたしはしばしばするのである。  モーリス=バレスは、パリのモンマルトルの丘《おか》の上へきては、ときどきじっと遠《とお》くをながめやっているある少女《しょうじょ》を見て、ふと、これはブルターニュ生《う》まれのむすめではないかと思って、きいてみるとはたしてそうであった。  海岸《かいがん》の丘《おか》の上から、遠《とお》く水平線《すいへいせん》に消《き》えていく、あるいは遠《とお》くから帰《かえ》ってくる船《ふね》を目送《もくそう》し目迎《もくげい》する何代《なんだい》もの習慣《しゅうかん》が、その少女《しょうじょ》をして大都会《だいとかい》の中央《ちゅうおう》に身《み》をおいてさえ、無心《むしん》に遠《とお》い空際《くうさい》([#割り注]空と地の接したきわ[#割り注終わり])をながめさせるのであった、と、バレスはいっている。  高原《こうげん》生活者《せいかつしゃ》は空をながめずしてはいられぬ習慣《しゅうかん》を持《も》っている。かれらはいたるところに空をもとめるといってもよかろう。そうした習慣《しゅうかん》がやはり信濃高原《しなのこうげん》の居住者《きょじゅうしゃ》の気質《きしつ》をつくり出《だ》す一つの素因《そいん》になっているのである。  紫紺《しこん》の空、ききょう色の空、それらをひとみにうつして育《そだ》ちゆく信濃高原《しなのこうげん》の少女《しょうじょ》らが、そのうつくしい空のかなたにいつもあくがれて、ものいいたげな、ふかい思いをたたえているようなそのまなざしをそそぎかけるとき、かの女《じょ》らの全霊《ぜんれい》はそのひとみの中にこめられているかに感《かん》ぜられる。高《たか》きもの、うつくしきものをあこがれもとめずにはおかぬというおさえがたき力である。  なにをおいても、いかなる力をもつきやぶって、もとむる方《ほう》に向《む》かわずにはいられぬいきおいである。  こうした一|面《めん》に、また山国《やまぐに》の自然《しぜん》が教《おし》え育《そだ》てあげる他《た》の素質《そしつ》がある。それは質実《しつじつ》な要心《ようじん》ぶかい、そして勤勉《きんべん》な一|面《めん》である。山国《やまぐに》の自然《しぜん》の変遷《へんせん》([#割り注]うつりかわり[#割り注終わり])のはげしい物象《ぶっしょう》をあいてとして生活《せいかつ》していくものには、それこそ夏をはたらく時期《じき》とするありのようなゆだんなき労苦《ろうく》のはたらきがなければならない。これは地上《ちじょう》に向《む》けられる心である。これは強《つよ》くたたかう心である。これは寸時《すんじ》も小やみなき心の緊張《きんちょう》である。  この両面《りょうめん》をひとりの女性《じょせい》がかねそなえているということも考《かんが》えられるが、多《おお》くのばあいに、それぞれことなる両種《りょうしゅ》の素質《そしつ》の婦人《ふじん》にうちあたる機会《きかい》のほうが多《おお》いようである。すくなくもわたし一|個《こ》の経験《けいけん》からすればそうである。  ただわたしは二十さいぐらいで国を出《で》て、三十年あまり郷土《きょうど》とは密接《みっせつ》な関係《かんけい》にいないのであるから、事実《じじつ》に即《そく》した観察《かんさつ》はくだされないかもしれぬが、何代《なんだい》もの慣習《かんしゅう》や、郷土《きょうど》の自然《しぜん》がつくり出《だ》しきざみ出《だ》した人々《ひとびと》の気質《きしつ》が、それほどみじかい期間《きかん》に変化《へんか》せしめられようとは思われない。とくに山国人《やまぐにびと》はその気質《きしつ》を固執《こしつ》([#割り注]かたくなにおしとおすこと[#割り注終わり])するのが、むしろ共通《きょうつう》特色《とくしょく》のようである。  かつて一|夜《や》、秋の木《こ》の葉《は》がちりしきる森の中の家で、危篤《きとく》におちいっていたひとりの女性《じょせい》が、燈火《とうか》のほのぐらい下でほそい両《りょう》うでをしずかにさし出《だ》して、遠《とお》くなにものかをかきいだくようなようすをしたかと思うと、にわかに雨戸《あまど》がカタコトと鳴《な》って、庭《にわ》にちりしいている、つきの木の葉《は》を、すそさばきでさっさと分《わ》けて山の方《ほう》へいそいでいくようなけはいが、静寂《せいじゃく》の中にひびきわたった。  まくらもとに集《あつ》まっていた人たちは思わず目を見はって、その病人《びょうにん》の身動《みうご》きをじっと見つめずにはいられなかった。すると、その女性《じょせい》はぱっと目を大きく見開《みひら》いて、「山の上の夜《よる》の空のうつくしいこと。」といったかと思うと、ふたたび瞑目《めいもく》してしずかにねむってしまった。  心眼《しんがん》と人のよぶのであろう。その人には、ねむっているあいだにも、山頂《さんちょう》にたれかかっている秋の夜空《よぞら》のうつくしさが、まざまざと目にうかび、それへのあこがれが全身《ぜんしん》の動《うご》きとなってあらわれたものであろう。  翌日《よくじつ》は、朝《あさ》早くから東へ向《む》かうまどをあけてもらって、なだらかな連嶺《れんれい》の上へのぞむ秋空《あきぞら》を、しみじみながめやっていたのであるが、その人の余生《よせい》は、まさしくその一日しか残《のこ》っていなかったのであろう。  夕がたになって、いつものように、その山の中腹《ちゅうふく》へ一《ひと》すじ二《ふた》すじのほそい白雲《はくうん》が、夜《よる》のねぐらをもとめてしずかに横《よこ》たわり、母のふところへだかれた嬰児《えいじ》のようにおとなしくなって、その上にかかる空色がしだいにうすれて、やがてそれが消《き》えていくとともに、その女性《じょせい》の生命《せいめい》も、永久《えいきゅう》にその空のはてしなき中へすいこまれてしまった。  山国《やまぐに》の空のうつくしさは[#「うつくしさは」は底本では「うつくしは」]、同時《どうじ》に山国《やまぐに》の女性《じょせい》の目のうつくしさである。かの女《じょ》らの目は空のかがみである。かの女《じょ》らのこいききょう色の、もとめてやまぬひとみの力にうたれぬ異性《いせい》があるであろうか、高《たか》きをのぞみ、うつくしさをもとむる心の反映《はんえい》である。  千曲川《ちくまがわ》の川原《かわら》にも、高瀬川《たかせがわ》、梓川《あずさがわ》の流《なが》れる安曇野《あずみの》にも、天龍《てんりゅう》の流《なが》れてくだる伊那《いな》の渓谷《けいこく》にも、その砂原《すなわら》に散在《さんざい》し、群集《ぐんしゅう》して黄《き》にさきみだれているつきみそうの花の中に立《た》って、遠《とお》く近《ちか》く前方《ぜんぽう》にせまる日本《にほん》アルプスの連嶺《れんれい》を画《かく》する空へ目をあげている山国少女《やまぐにしょうじょ》らこそは、夏における高原地《こうげんち》のユニークの風景《ふうけい》である。かの女《じょ》らは原始《げんし》いらいの遠《とお》いあこがれをむねにたたえて、空際《くうさい》をながめやっているのである。  一方、大地《だいち》の塩《しお》、大地《だいち》の糧《かて》となるという女性《じょせい》、いわゆる信州女性《しんしゅうじょせい》とよばるるものには、この型《かた》の人がとくに目につく。ゆだんなき、寸時《すんじ》もやすまぬ自然《しぜん》との闘争《とうそう》のあいだから生《う》まれ出《で》る女性《じょせい》である。  けなげな、たのもしい、いっさいをうちまかせて安心《あんしん》のできる、そして意志《いし》の強《つよ》い、思うところをつらぬかずばやまぬ勝《か》ち気《き》の気性《きしょう》、それこそちょっとのひまをもおしんで、終生《しゅうせい》はたらきつづけていく人々《ひとびと》である。  なにをさせてもやってのける。口やかましくとも、その人のしてみせる仕事《しごと》のまえには頭《あたま》をさげずにはいられぬ。身《み》を持《じ》することはきびしく、したがって人にもとむるところも多《おお》く、母親《ははおや》として、主婦《しゅふ》として批評《ひひょう》の余地《よち》なき典型《てんけい》([#割り注]てほん[#割り注終わり])である。  この|レアリスト《現実主義者》が空へ目を向《む》けることはないであろうか、すくなくもかの女《じょ》らの子女《しじょ》が、その拘束《こうそく》をのがれて、遠《とお》い境地《きょうち》に自由《じゆう》をもとむるあこがれにさそわれることはないであろうか。  スカンジナビアの少年少女《しょうねんしょうじょ》らのごときあこがれを持《も》つ山国《やまぐに》の子女《しじょ》を擁《よう》して、このけなげな母たちは勝《か》ち気《き》な主婦《しゅふ》らは、巣立《すだ》ちゆくひな鳥《どり》らのゆくえを一|抹《まつ》の不安《ふあん》と、同時《どうじ》にじぶんらがはぐくみ育《そだ》てたそれらわか鳥《どり》どもの強《つよ》い気性《きしょう》にたいする安心《あんしん》とを持《も》って、こころよく目送《もくそう》していることであろう。  目を高《たか》くあげるもの、心を地上《ちじょう》にそそぐもの、それは人間《にんげん》生活《せいかつ》そのものの表象《ひょうしょう》ではあるが、山国《やまぐに》においてはそれがきわだって目をひく現象《げんしょう》である。ことに夏における山国《やまぐに》の生活《せいかつ》活動《かつどう》は、この遠《とお》いあこがれと、即現実《そくげんじつ》のはげしい闘争《とうそう》とをいっそう活気《かっき》づけて展開《てんかい》するのである。夏季《かき》における山国《やまぐに》の女性《じょせい》らこそは、この脱現実《だつげんじつ》([#割り注]現在の境遇をぬけはなれること[#割り注終わり])と即現実《そくげんじつ》([#割り注]現在の境遇に立って考えること[#割り注終わり])との二|様《よう》のはげしい流動《りゅうどう》に身《み》も心ももまれているのである。  ハイランダーとしての女性《じょせい》の美《び》は、そのすみきった大気《たいき》と、繁茂《はんも》する草木《そうもく》と、そして四|方《ほう》にそそり立《た》つ山嶺《さんれい》の力と、さらにその上にのぞむ大空《おおぞら》の無限《むげん》の青色《せいしょく》とにはぐくまれ、しかもそのあいだに、強《つよ》い現実《げんじつ》離脱《りだつ》のあこがれと、はげしい地上《ちじょう》生活《せいかつ》の闘争《とうそう》労働《ろうどう》と、遠心《えんしん》と求心《きゅうしん》と、解放《かいほう》と反省《はんせい》との二|様《よう》のはたらきに心身《しんしん》をもまれて、それこそ、はやぶさのごとき俊敏性《しゅんびんせい》([#割り注]頭がよくてすばしこい性質[#割り注終わり])をいつも内心《ないしん》に持《も》っているいきいきとしたところから生《しょう》ずるのである。  人間《にんげん》生活《せいかつ》はたたかいであるという意味《いに》を、山国《やまぐに》の人々《ひとびと》こそは対自然《たいしぜん》において切実《せつじつ》体験《たいけん》しているのである。  かの女《じょ》らはいきいきとしてはたらかねば、存続《そんぞく》することができぬ。いつも火花《ひばな》をちらしつつ生《い》きていくのである。強《つよ》く生きるか、あこがれて死《し》ぬか、いずれかである。恋《こい》のたわむれなぞはかの女《じょ》らの意識《いしき》にはうかびはされぬ。けなげにはたらいてそしていつも高《たか》きにあこがれる高原地《こうげんち》の女性《じょせい》らよ、わたしは終生《しゅうせい》それにたいするアドラシオンをおしまぬであろう。 底本:「信州・こども文学館 第5巻 語り残したおくり物 あしたへの橋」郷土出版社    2002(平成14)年7月15日初版発行 底本の親本:「少年少女日本文学全集」講談社    1977(昭和52)年 ※底本は、表題に「山国《やまぐに》の女性《じょせい》」とルビがふってあります。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。