矢の家 The Howse of the Arrow アルフレッド・エドワード・ウツドゥリィ・メイスン Alfred Edward Woodley Mason 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)轎《セダン》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]1 妙な手紙[#「1 妙な手紙」は中見出し]  ラッセル広場の東がわの、フロビッシャー・ハズリット法律事務所へは、フランスへ渡つて仕事をしている沢山の人がよく事件をもちこんだ。また事務所は、それを自慢にしているのだつた。  ハズリット氏はよくいつた―― 「うちの事務所には立派な歴史があるのだ。なにしろ一八〇六年から続いているのだからね。その頃はナポレオン一世の勅令で、数百のイギリス人がフランスに監禁されていたが、当時この事務所をやつていたジェームズ・フロビッシャーという人が骨を折つて、イギリスへ歸らせたものだ。おかげでこの事務所は、政府から感謝状をもらい、同地在留のイギリス人との関係はいまでも続いている。だからその方面の仕事は、もつぱら私が自分で当つているようなわけなのだ。」  そんなわけだから、ハズリット氏が毎日受けとる郵便物のなかには、封筒に藍色のフランス切手を貼つた手紙が、たくさん混つていた。だが、この四月始めの朝うけとつた郵便物のなかには、フランスからの手紙は一つしか混つていなかつた。なんだか蜘蛛みたいな不器用な字で宛名をかいた手紙で、ハズリット氏には心当りがなかつた。消印はディジョン。急いで彼は封をきつた。というのは、同市にハーロー夫人という未亡人が住んでいて、ちかごろ健康がすぐれぬという噂をきいていたからである。その手紙は果してかの女の住むグルネイユ莊からのものだつたが。字は本人の字ではない。彼は差出人の名をみた。 「ワベルスキー。」とつぶやいて眉をひそめた。「ボリス・ワベルスキー。」それからふと思い出したように、「あゝ、あれか、なるほど。」  椅子に腰をおろして読みはじめた。はじめには月並な挨拶がならべてあるが、第二ページのなかほどまでくると、手紙の目的がはつきりわかつた。つまり五百ポンドだ。ハズリットは微笑しながら読みつゞけた。 「――私はその金がほしいのです。私の義姉ハーロー夫人は、私の心からの看護のかいもなく、余命いくばくもないありさまです。御承知のごとくかの女は莫大な資産をのこしますが、それは勿論私のものとなるでしようね? かの女の遺書の写しは、あなたのお手元に保管してあるはず。なにとぞ早速御返事たまわり安心させてください。」  ハズリット氏の微笑が大きな笑いとなつた。なるほど夫人の遺書の写しは保管してある。けれどもそれは夫人の亡夫の姪ベッティーに、全部の財産を無條件でゆずるとかいてあるのだ。彼はフランスからの手紙を破ろうと思つて握りしめたが、 「いや、ワベルスキーという男はどんな人物か分らぬ」と、思い返して皺をのばして金庫にしまつた。  それから三週間たつと新聞にハーロー夫人の死亡廣告が現れ、つゞいてベッティーからディジョンに於て告別式を行うという黒枠の招待状をうけとつたが、むろんこれはたゞ形式的のもので、すぐロンドンに立つたとしても、告別式に間にあうものではない。それで彼はたゞかの女にお悔みの手紙を出しただけだつた。 「ワベルスキーなる人物からまた手紙がくるだろう。」  こう考えながら彼はその手紙を待つた。ところが果して来た。しかもこんどは金額が二倍になつているのだ。 「義姉は死にましたが、遺産は全部姪のベッティーが相続しました。生前親切であつた義姉が、私に一文の金も残さなかつたことは実に意外です。どうか義姉の法律顧問であるあなたの御骨折で、千ポンドの金がとれるようにしてください。夫人は生前私に向つて『あなたは不幸な人だけれど、きつと遺書でいゝようにしてあげます』と涙ながらにいゝました。ですから私にいくらかの分配がないはずはありません。姪のベッティーに話しても駄目です。彼女は私を輕蔑しています。なんという不埒な娘でしよう。どうか千ポンドだけ私に分けてください。」  ハズリット氏は手紙を読み終ると、両手を靜かに揉んで考えこんだ。ディジョンの邸宅では、か弱い娘が一人きりで、さだめし困つているだろう。ワベルスキーなる人物はいつたいどんな男だろう。なんとか娘のために方法を考えてやらねばならぬ。  椅子から立上ると、彼は廊下を通つて、若い仲間のいる部屋へいつた。 「フロビッシャー君、君は去年の冬、モンテカルロへ行つたね?」 「えゝ、一週間ばかり。」 「あすこにハーロー夫人の別莊がある。その別莊へ君に行つて貰つたように思うが……」  フロビッシャーは頷いた。 「行きました。併し夫人は病気。姪がいましたが、外出中でした。」 「じや誰にも会わなかつたのか?」 「いや、会いました。妙な人でした。ロシア人ですよ。それが玄関に出て来て、夫人は病気だといゝました。」 「ワベルスキーじやないか?」 「そうです。」  ハスリット氏は椅子に腰かけて、 「話してくれ、どんな男だつた?」  フロビッシャーは二十六歳の若年でこの事務所の相棒になつている。しばらく考えていたが、 「背の高い白髪頭の男で、いつも煙草でよごれた指先で口髭をつゝいていました。拔け目なさそうな男です。」 「私もそう思つていた。」 「あの男がなにか厄介なことでも?」 「いや、まだ、しかし夫人が死んだあとは警戒を要する。君がベッティーに会わなかつたのは惜しいことをした。私は五年ほどまえ、まだあすこの御主人が生きていられたじぶん南フランスを旅行した折にディジョンへ寄つたことがあるが、その頃のあの娘はまだ長い脚に黒い絹靴下をはいた、眼の大きい、髪の黒い娘だつたが、ちよつと美人だつた。フロビッシャー君、ことによると、君にディジョンまで御出張ねがわなければならなくなるかも知れんから、いつでも行けるように用意だけはしといてください。」  びつくりしたように若者が顏を起した。 「承知しました。」 「もつとも多分その心配はないと思うけれどもね。ベッティーにもフランスの公証人がついているから、なんとかやつてくれるだろう。ベッティーだつて拔かりはあるまい。まア、当分樣子を見ていることにしよう。」  そして彼は自分の部屋へかえつた。  それから暫くのあいだ、ディジョンからは何の消息もなかつたが、一週間ほどたつたある日、フロビッシャーが慌ててハズリット氏の部屋へ入つた。 「ワベルスキーがベッティーを告訴しましたよ、殺人罪で。」 「え?」 「ワベルスキーがディジョンの警察署長に正式に告訴しました。つまり四月二十七日の夜、ベッティーが伯母のハーロー夫人を毒殺したというのです。」 「拘引されたかね?」 「いま監視中だそうです。」 「どうしてそれが分つたんです?」 「けさディジョンから手紙を受けとりました。」 「君が?」 「えゝ、しかしまだ可笑しいことには、その手紙がベッティーからこないで、彼女の友だちというアンという女から来たのです。」 「ではベッティーには友だちがあるんだね。それは安心だ。どら、その手紙を見せてくれたまえ。」  ハズリット氏は若者の手から手紙を受けとつて読んだ。長い手紙であつた。 「つまりこれは明白な脅迫事件ですね」とフロビッシャーがいつた。 「脅迫? あゝ、まア、そうだね。」 「しかも脅迫者が自分でそれを告白しているようなものです。」 「そう、」ハズリットは煖炉を背にして立つたまゝ「しかしこうした事件には隱れた秘密がよくあるものだ。ワベルスキーの脅迫にも、彼が口へは出さなくとも、なんか表面の理由のほかに、ョるに足る秘密があつて、そいつをしつかり握つているのかもしれぬ。それは取るに足らぬことにせよ、明るみに出されると、ハーロー家の名誉にかゝわる秘密なんだろう。どうせ出鱈目の告訴だから、それが成功するとは本人も思うまいが、とにかく表向の審問は行われるから、從つてその秘密も明るみに出されるという結果になる。要するにワベルスキーにとつては、告訴そのものが、一種の脅迫なんだ。とにかくその一族のことをよく考えてみよう。」といゝながら彼は椅子に腰かけた。 [#3字下げ]2 救いを呼ぶ聲[#「2 救いを呼ぶ聲」は中見出し] 「もともと夫人の良人という人物は、」とハズリット氏がはじめた。「英国人ではあるが、フランスに大きな葡萄園をもち、ディジョン市に立派な邸宅、南佛モンテカルロに別莊をたて、生涯の大部分をディジョンですごし、そこで四十五のときにジャンヌ・ラヴィアールという未亡人と結婚した。これがすなわち現在のハーロー夫人だ。二人が一緒になるまでには、きつと面白いロマンスがあつたにちがいない。夫人はすでにラヴィアールという男と結婚していたが、ハーロー氏はラヴィアールが死ぬるまで、殆ど十年の長い間、結婚しないで待つていた。」  こゝまで聞くと、フロビッシャーは急に心中に疑惑が起きたらしく、しきりに部屋のなかを往きつ戻りつあるきだした。  ハズリット氏は彼の疑惑を察したらしく、 「しかしワベルスキーが握る秘密は、二人の結婚前の秘密ではあるまい。こうした問題は、いまでは世間のひとが、割合に寛大な見方をするようになつた。だから秘密というのはベッティー一人に関することにちがいない。さて、このハーロー氏は、熱心な骨董品蒐集家であつたが、二人の幸福な結婚生活はながく続かず、いまから五年前、五十一のとき死んでしまつた。彼について私が知つていることはこれだけだ。いい紳士ではあつたが、社交的な人ではなかつた。どうもこれだけでは、なんの手掛りにもならんが仕方がない。つぎは夫人のことだが、それこそなんにも知らぬ。それもそのはず、いつも本邸と別邸で、病気のために寢ていたのだから。」 「夫人は英国に来たことがありますか?」 「ない。夫人はディジョンに満足していた。フランスの田舍の町は狂気になるほど退屈なものだけれどね。ひとつには夫人が心臓をわずらい、最近の二年間はほとんど寢てばかりいたからだ。ベッティーは二人が結婚して二年たつても子供ができないことが分つたので、貰われて来たわけだ。ハーロー氏の姪だよ。つぎはアンだ。ほら、君に手紙をよこした女だよ。いつたいこれはどんな女だろう?」 「知らんです。けさ手紙を受けとつてはじめて知つた名前なんです。」 「でもその手紙は事務所宛でなく、君宛になつている。」  フロビッシャーは頭をふつた。 「私にもその理由が分らないんです。さつきからその理由を考えているんです。それからまたベッティーが貴方に向けて自分で手紙を書かなかつたことも不思議ですね。」 「あゝ! 君のその言葉で理由が分つたよ。ワベルスキーの二度目の手紙には、ベッティーが彼を馬鹿にすると書いてある。つまり馬鹿にしているぐらいだから、彼女は告訴をそんなに驚いていないのだ。フランスの公証人がなんとか助けてくれると多寡をくゝつているのだ。だからベッティーが手紙を寄越さないのだ。それだからアンという女が君に向けて手紙を寄越したのだ。女というものは秘密つぽい手紙は、めつたに事務所宛ではよこさない。どうしても個人名儀でよこすものだ。たゞ分らないのはワベルスキーが何故告訴したかという問題だよ。」  このときドアーを叩く音がして、給仕が一通の電報をもつて来た。  それにはこう書いてある。 「わたしを助けるためにすぐ誰かよこしてください。わたしは殺人の嫌疑をかけられています。ディジョンの警察はパリ警視廳の有名なアノー探偵を呼びました。ベッティー・ハーロー。」  若者は電報を手から落した。それは深夜に救いを求める悲鳴のように胸をうつた。 「私は今夜の船で立ちます。」 「よかろう。」  独身者のつねとして、フロビッシャーは濃い色彩で女のことを想像せずにはいられなかつた。ベッティーは幾つ? 二十一! おそらく彼女は若い女にありがちな自負心から、相手のワベルスキーを輕蔑して、罠に陷るまで気付かずにいたのだろう。これでは一時もぐず/\していられない。  フロビッシャーはパリ警視廳のアノー探偵にあてた紹介状をもらい、その夜のうちに海峽をわたつてフランスに旅立つた。 「アノーさんにお目にかゝりたいのです」と名刺と紹介状を出すと、受付が奥へ姿を消した。さては有名な探偵はまだパリにいるのかと、フロビッシャーは安堵の溜息をもらした。やがて彼は初夏の晴れた朝にもかゝわらず、明るい電燈のついた長い薄暗い廊下に通された。そこで彼は多くの留置人や巡査と一緒に三十分も待たされたが、その間に自分に対する自信というものが、すつかりなくなつてしまうのを感じた。ベルが鳴つて一人の私服巡査が彼の前に立つた。廊下の一方にはずらりとドアが並んでいる。 「どうぞこちらへ」とその巡査は一つのドアをあけて彼を通した。フロビッシャーは威儀を正してなかに入つた。 [#3字下げ]3 機會の下僕[#「3 機會の下僕」は中見出し]  フロビッシャーが入つたのは細長い部屋で、向うに二つの窓があつて、そこから光るセーヌ河をへだてゝ、シャトレイ劇場が見える。フロビッシャーは決闘場で新参者が相手の名劍客を見るような目つきでその男を眺めた。だがその男の風采がそんなに常人と変つていないのは、ちよッと意外だつた。それと反対に、アノーの方では彼をちつとも見ていないように思われた。探偵は立上つて輕く会釈しながら、 「フロビッシャーさん、どうもお待たせいたしました。紹介状にはなにも書いてないので、警察方面の御視察かと思いましたが、どうも御樣子でみると、それよりもつと重大な御用件らしいですな。」  アノーは濃い黒髪の、中年の紳士で、丸々とした顏を綺麗に剃つたところは喜劇役者のよう、たゞ厚つぽい瞼の下の妙に明るく光る眼だけがちよつと変つている。彼は一つの椅子を指差して、 「どうぞお掛けください。で、御用といゝますのは?」  若者は帽子とステッキをそばの小さいテーブルの上におきアノーと向合つて腰かけた。 「私はハズリット氏と二人でロンドンに法律事務所を持つているものですが、依ョ人のなかにディジョンの一家族があるのです。」  こう切り出すと、いまゝで軟い平和な顏をしていたアノーの顏が見るまに險しくなつた。 「それで?」 「その家族の名はハーローといゝます。」 「あゝ!」 「そして遺族であるところの二十歳のベッティーというのが、一家の親族に当るロシア人ワベルスキーから告訴されたのです。殺人罪で。」 「あゝ、併しどうしてそんな問題を私のところへ持つておいでになるのです?」  フロビッシャーは探偵の顏を見た。自分がこゝへ来たのには理由がある。  だが、こう云われてみればその理由に自信が持てなくなつた。アノーは抽出をあけて、テーブルの上にあつた書類をしまいかけた。そして聞いていますよというように、 「え?」とうながした。 「これは間違いかもしれませんが、こんどアノーさんがこの事件の調査に当られると聞きましたので――」  するとアノーが電気に打たれたように、書類を持つた手を宙に浮かしたまゝこちらに向いた。しばらくたつてその書類を抽出に入れ静かに抽出をしめて、ごく低い声で、 「そんなことをお聞きになりましたか! フロビッシャーさん、しかもロンドンで! そうだ、きようはまだ水曜日だ! どうも馬鹿に早く知れわたつたものですね。そうです。仰有る通りです。貴方は第一歩で勝ちを占めました。」  フロビッシャーはこゝへ来る途中、自分はどんな態度で探偵に近づいたらよかろうかと思案したのであるが、この探偵の言葉が、彼に近づく機会をつかませた。 「いや、アノーさん、私には貴方と競爭しようなんて考えは毛頭ありません。私はただ貴方の部下と思つて頂ければ満足です。御助力ができるなら満足です。」 「助力とは?」 「例えば私はワベルスキーの二つの手紙を持つていますがそんなものでも御覽に入れましよう。」  そういゝながら、彼は二通の手紙をポケットから出して渡した。  アノーはそれを読み終ると、すこしも表情をかえないで返した。 「あなたも法律家だから、お分りだろうとは思いますが、この事件の裏には、表面に現れぬ不快な秘密があるのです。しかしそれは何でもないことです。この手紙をワベルスキーに示して訊ねると分るかも知れません。ハーロー夫人の屍体は今日発掘されて檢屍されます。それで事件は解決されたと同じです。」 「だのにディジョンの警察は、どうして貴方を呼ぶのでしよう?」  アノー探偵は急所をつかれた。 「ではその理由をお話いたしましよう。ひとに云つては困りますよ。」 「云いません。」 「実は、私がディジョンへ行くのは、ワベルスキー事件はただの口実で、ほんとうはもつとちがつた事件を取調べに行くのです。ねえ、フロビッシャーさん、あんな淋しい町の、おたがいに隣同志のことばかりに興味を持つている田舍では、それに相当した罪惡があるのです。それは匿名の手紙というやつです。だしぬけに平和な晴れた空から疫病みたいな無名の手紙、しかも拒みがたい難問題をかいた手紙が降つてくるんです。そして昨日までの友人が、おたがいに猜疑の目をもつて見合うようになるんです。ディジョンの町では、もう一年も前から、こうしたことが流行つているのです。しかし今までディジョンの警察は、パリーへ救いを求めなかつた。自分の管内のことは、自分で処分せねばならぬ。だがいつまでたつても無名の手紙は止まない。そこへ有難いことに、ワベルスキー事件が起つた。そこで同地の警官が相談した結果、『アノーを呼ぶことにしよう。もし町のものが彼を発見して驚いたら、なに、あれはワベルスキー事件を取調べに来たんだと辯解すればいゝ。』と、まア相談がきまつたわけなのです。」 「ではその一年の間に、なにか恐しい事件でも起りましたか?」 「起つたどころか、無名の手紙を受けとつて汽車に飛こんで自殺した青年がある。ピストル自殺した一組の男女がある。それからまたある女は、舞踏会から帰るときまでは意気揚々としていたのに、翌朝女中がその部屋へ入つてみたら、舞踏服のまゝ女が首をくゝつて死んでいて、煖炉のなかには無名の手紙が燃え残つていたなんてこともありました。そして手紙の主はいつも『鞭』と署名しているのです。で、あなたはいつディジョンへ行きます?」 「今日。」 「そんなら私は夜の急行にのりましよう。」 「では御一緒に参りましよう。」 「いや、」とアノーは頭をふつた。「同じ汽車にのつたり、同じホテルに泊つたりしない方がいゝ。あなたが向うへ行けば、すぐハーロー家の法律顧問だということが分り、私まで注視のまとになるのです。それはそうと、私がこの事件を調査するようになつたことが、どうしてロンドンのあなたに分りました?」 「電報がきたんです。」 「それは可笑しい。誰から?」 「ベッティー。」  アノーがまた電気に打たれたように驚いた。彼が驚いたことはフロビッシャーによく分つた。卷煙草を口へ持つて行きかけた彼が、またその手を宙に浮かせたまゝ石のごとく固くなつたのである。それからフロビッシャーの方を向いてげらげら笑つた。 「私がいまなにを考えているか分りますか? ある問いを考えているのです。つまり人生に於ける最も強い熱情はなんであるかという問いです。それは物欲? 恋? 憎惡? そんなものではない。一人の官吏が他の官吏と競爭して破ろうとする熱情ですよ。フロビッシャーさん、私は秘密にディジョンへ行く手筈になつていたのです。それが決つたのが土曜日ですよ。だのに月曜日にはある官吏が秘密を洩すところとなり、それをさらにベッティーが火曜日にロンドンへ打電したのです。併しちよつと気が利いていますね。失礼ですがその電報を見せて頂けないでしようか?」  フロビッシャーが長い封筒から電報をひきぬいて渡すと、探偵がテーブルの上において眺めた。彼は電報の文字と文字の間から、娘の救いを求める悲鳴を聞きとるように、ごくゆつくり長い間かゝつて読んだ。読み終つた彼の顏からは、果して苦みが消えていた。 「可哀そうに! ベッティーも慌てゝいる。もうワベルスキーを小馬鹿にしてはいられなくなつたんだ。早く行つてやらなければならん。」 「そうですとも。」 「この電報は破つてもいゝですか? 私の名が書いてあるものは破つた方が安全です。こゝに破つて棄てとくと、晩には全部燒き拂うことになつているんですから。」 「どうぞ。」フロビッシャーがいつた。探偵は電報を破つて紙屑籠に入れた。 「グルネイユ莊にはまだほかに英国の女がいましたね?」 「アンという女です。」  フロビッシャーはハズリット氏へ話したと同じことをこゝでも話した。 「ちつとも知らない女です。実は昨日はじめて名を聞いたようなしだいで……」  だが、ハズリットはこの答えを聞くと驚いたが、探偵は顏の筋ひとつ動かさなかつた。 「そんなら私たちはディジョンへついてからその女にお近づきになれるわけです。」  こういつて椅子から探偵は立上つた。  フロビッシャーは不愉快にはじまつた二人の会見が、次第に温くなりかけてまた冷めはじめたのを感じた。けれどもそれがどこからくるのかは分らなかつた。彼は帽子とステッキをとつた。探偵は早やドアの把手をにぎつている。 「左樣なら、フロビッシャーさん。よく来てくださいました。」 「ではディジョンでまたお目にかゝりましよう。」 「えゝ。度々。法廷でも、グルネイユ莊でも。」  フロビッシャーはなんだか心残りだつた。先刻まで協力して働くようなそぶりをみせた探偵が、いまでは自分を避けようとしている。 「併し協力して行動するとすれば……」 「えゝ、度々会いましよう。貴方はグルネイユ莊にお泊りでしよう?」 「いゝえ。」 「ではダルシー広場の大きいホテルにお泊りになつたらいゝでしよう。私はもつと小さいホテルに変名で泊ります。なるべく秘密をたもちたいですからね。」  こうは云つてもその小さいホテルの名も話さなければ、変名を知らそうともしない。フロビッシャーもそこまで突込んで訊くのは遠慮した。探偵は把手を握つたまゝ佇んで、じつと若者の顏をみつめている。 「フロビッシャーさん。あなたは映画がお好きですか? え? いかゞです? 私はあれが大好きでしてね、どこへ行つてもあれを見るのです。あすこでは闇の中で驚くべき光景を見ながら、誰にも知られずに友人と話をすることが出来る。そして明るくなるともう我々はそこにいないのです。観客は始終入れ変つていて、誰も隣席の男の顏さえ見ることができない。あれはいゝですね。併しこの私の癖をひとに洩らしては困りますよ。」  探偵は笑つた。若者はこの探偵の新しい厚意が嬉しかつた。 「洩らしませんよ。そんないゝ密会の場所があろうとは思いませんでした。」 「では私は差支えないかぎり、毎晩九時にグラン・タヴェルンの映画館にいます。停車場の前ですよ。忘れちやいかんですよ。観客席の左手の一番前の、撞球場に近いところです。灯がついている時に私のそばへ来ちやいけません。また私がほかのひとゝ話している時にも来ちやいけません。分りましたか?」 「承知しました。」 「これで貴方は私について守るべき秘密を二つもつているわけです。」探偵の顏から微笑が消えた。明るい眼が一層眞面目に鋭くなつた。「分りましたか? どうも私は二人がまたパリへ歸るまでには、いろんな妙な事件にぶつかるような気がしだしたのです。」  重苦しい瞬間が去つた。探偵は会釈しながらドアをあけた。廊下へ出たフロビッシャーは、この会見中、探偵が目に見えぬ機会を始終捕えているような印象をうけた。 [#3字下げ]4 ベッティー[#「4 ベッティー」は中見出し]  その夜フロビッシャーはディジョンへ着いたが、訪問するにはもう遅かつた。翌朝興奮に胸を轟かせながらシャルル・ロベル街へ足をむけた。この街の片側は全体に庭園の高い壁になつていて、その壁の上にのぞいたシカモアや栗の大木がそよ風にかさこそ戰いていた。その壁のいちばん向う端のへんには、建物の一端のルネサンス風の華美な出窓がのぞいていて、そこからちよつと向うへ行つたところに、壯麗な鉄門があつた。フロビッシャーはその鉄門の前にたつてしばらく眺めた。中庭の樣子を見た彼は、いまゝでの興奮が恥かしくなつた。それほどあたりが靜かだつた。  熱くて靜かな雲のない朝だつた。庭の左の方ではずらりとならんだ部屋の前で、女中たちが忙しげに働いている。車庫の二つの自動車のそばには運轉手が愉快そうに口笛を吹きながら歩いている。右手の大きい建物の黄色いダイア型のスレートを葺いた急な屋根の下の窓は、みな開け放されて朝日を受けている。玄関も鉄門も開いている。屋敷の前に立つ白ズボンの巡査でさえ、見張りをしているというより、暑いので壁際の木蔭に休んでいるように見えた。  彼は鉄門をぬけると玄関のベルをおし、老僕に名刺をわたした。  玄関から図書室が見える。そこには窓を背景にして二つの人影が見えた。男と女だ。男のほうは身振りと言葉から判断して、なにかを拒んでいるらしい。女は疳高い声で笑つた。 「私は長い間あなたの奴隸でした。」男がいつた。  だがこの時女は振返つて銀盆に名刺をのせて持つて来た老僕を見た。彼女はいそいでそばによつて名刺をとりあげた。そして喜ばしげに何やら呟きながら走つて玄関のほうへきた。 「まあ! ずいぶんお早やかつたですね。ほんとによく来て下さいました。」  そしてかの女は両手をのばしてフロビッシャーの手を握つた。  それがベッティーであることはすぐに分つた。ハズリットは小柄の女だといつたが、背はそんな低くないけれど、どことなく細つそりとして、小柄の女という言葉がよく当つている。黒つぽい茶色の頭髪を片方で恰好よくわけて、広い額のある卵形の顏が蒼白いので、唇の赤さがひきたつて見える。大きい灰色の眸は神経質と思われるほどいき/\していた。かの女に手を握られたフロビッシャーは、まるで相手が毀れやすい陶器かなんかのように纎細に思われるのであつた。 「これからは心配なことは、みんなあなたに打明けますわ」と女が笑つた。 「そうですとも。そのためにロンドンからきたのです。しかし私がなんでも出来る偉い男のように思つてくださつては困りますよ。」  ベッティーが笑つた。そして若者の袖をひつぱつて図書室へ案内した。 「これはエスピノーザさん。」と見知らぬ男を紹介する。「スペインカタルーナの方ですが、長くいられるので、土地のひとと同じですの。」  スペイン人は白い歯並をみせて会釈した。 「私はスペインの大きな葡萄商会の代表者です。あちらの好い葡萄と混ぜるためにこの土地の葡萄を買い、そしてこの土地の安い葡萄酒と混ぜるためにあちらから好い葡萄酒を持つてきて賣つています。」 「いや、そんな内幕をお打明けになるには及びません。」  フロビッシャーは言葉すくなにいつた。どうもこの男を一目見て虫が好かなかつたので、ついぶつきらぼうにいつたのである。だがそれにも拘らずエスピノーザは堂々たる男ではあつた。肩幅の広い、黒髪黒眼の男で、立派な口髭をはやし、指に光る指環をはめている。 「このかたはロンドンからあなたとはすつかり違つた用事でおいでになつたのです。」ベッティーがいつた。 「そう?」スペイン人がやゝ反抗的にいつた。 「ではまた」と女が彼の方に手を伸ばした。スペイン人はその手を大儀そうに取つて接吻した。 「お歸りになるときにはまた会いましよう。」いゝながら女がドアの方へ歩いてゆく。 「歸るかどうかわかりませんよ。」  そしてスペイン人はフロビッシャーに向つて鷹揚に挨拶すると部屋を出ていつた。  かの女はドアをしめるとちよつと眉をひそめたが、その表情は若者にとつて不愉快ではなかつた。とにかくこの場合の彼は、他の男と比較されて優勢な位置に立つたのである。それはいかにひかえ目な男にとつても愉快なことに違いない。  フロビッシャーは長い封筒からワベルスキーの二つの手紙を出して彼女に渡した。 「読んでごらんなさい。そして日附を見てください。」 「ワベルスキー」と叫んでかの女は窓際の座席に腰かけて手紙を拡げた。  黒い服を着て細長い黒絹靴下をはいた足を組合わして、白い頸を曲げて手紙を読んでいるところは、どう見てもまだ女学校を出たての少女である。 「私は、この人がお金をほしがつていらつしやるのはよく知つていました。ですから伯母が死んで、その遺書に全部の財産をわたしにくれると書いてあるのを見た時には、早速貴方に御相談して、あの人にも幾らかお分けしようと思つていたのです。」 「しかしあなたにはそうしなければならぬ義務はないのです。あの人は本当の親戚じやありません。たゞ夫人の妹と結婚しただけなんですから。」 「えゝ、それはそうですけれど」とベッティーは笑つて「あの人はわたしがいつもあの人のことを叔父さんと云わないで、ワベルスキーと云うといつて怒るのです。でも何とかしてあげたいと思いますわ。たゞいらいらして待つて下さらないのです。あれは誰でしよう?」  がつしりした大男が鉄門を入つてくる。 「アノー探偵ですよ。」フロビッシャーはいつた。彼女は立上つてしどろもどろの形だつた。 「心配ありません。あの人にもワベルスキーの二通の手紙を見せたのですが、あの人はどこまでもあなたの味方です。まア聞いてください。あの人は昨日パリでこういゝました。」 「昨日パリで?」 「えゝ、警視廳で会つたのです。そのときあの人がベッティーさんのことは心配ないといゝました。」  この時はげしく玄関のベルが鳴つた。 「だのにアノーさんはどうしてディジョンへ来るのでしよう?」かの女は執拗にたずねた。  だがこの質問に対しては正直に答えるわけにはゆかぬ。どこまでも秘密を守るとアノーに約束している。 「あの探偵はたゞ命令によつて行動しているのです。たゞディジョンへ行けと命令されて来ただけです。」 「まア、それで貴方はパリであの方を訪問して下さつたのですか。随分わたしのために骨折つて下さつたのですね。」 「あなたが困つていられるだろうと同情していましたよ、アノーさんが。」 「電報をお見せになつたの?」 「見せたら破りました。あんなものでも見せなけりや、あの人に会う口実がありませんからね。」  彼女はまた窓際に坐つて、沈默の合図をした。ドアの外で話声。つぎの瞬間老僕が名刺を持たずに慌てたような顏で入つて来た。 「お孃さま」と彼がいゝかけたが、ベッティーがそれを制した。もう彼女の態度には心配の色はなくてすつかり取りすましていた。 「よし/\分つています。すぐアノーさんをこゝへお通し申して下さい。」  だがアノーはもうその時には部屋へ入つていた。愛想よくかの女に挨拶し、それからフロビッシャーと心からの握手をした。 「お孃さん、私は庭を通つてこゝへ来る途中、フロビッシャーさんがこの部屋にいるのを見て安心しましたよ。私が童話のなかに出てくる鬼でないことをこの人が話してくれたでしようから。」 「でもあなたはいちどもこつちを御覽にならなかつたようですが」と彼女は訝しげにいつた。  アノーは愉快げに笑つた。 「お孃さん、ちつとも顏を振向けないで、窓のなかに何事か起りつゝあるかを知るのが、私たちの商賣なんですよ。失礼します。」帽子とステッキを部屋のまんなかの大きなテーブルの上においた。 [#3字下げ]5 ベッティーの訊問[#「5 ベッティーの訊問」は中見出し] 「でもいくら窓が大きくても、二週間も前に起つた出来事を知るわけには參りません。だからこれは少々厄介でも、あなたからお聞きしなくてはなりません。」 「なんでもお訊ねください。」 「えゝ、訊ねます、訊ねます。こゝに坐つてもいゝでしようね? え?」  ベッティー孃は蒼い顏をさつと火照らして立ちあがつた。 「あら御免ください。どうぞ、さア、お掛け下さい。」  探偵はテーブルのそばにあつた椅子を持つて来てかの女と向合つて腰かけたが、わざと女に有利な位置をあたえ、自分は朝の光線をまともに受けて坐つた。 「ではお訊ねしますが、ハーロー夫人は夜のうちにベッドのなかでごく穏かに死んだのでしたね?」 「はい。」 「その晩夫人は一人で自分の部屋に寢たのですか?」 「はい。」 「いつもそうなんですか?」 「はい。」 「心臓のほうは大分まえから惡かつたそうですね?」 「えゝ、もう三年もまえから。」 「いつもしつかりした看護婦がついていたのですか?」 「そうでございます。」 「ではお訊ねしますが、その看護婦はどこに寢ていたのです? 夫人の隣の部屋ですか?」 「いえ、看護婦の部屋は廊下のいちばん端でございました。」 「どのくらい離れているのです?」 「伯母の部屋との間に二つの部屋がございます。」 「大きい部屋ですか、その二つは?」 「えゝ。みんな階下の客間なんです。いつも二階が寢室になつているんですけれど、伯母が心臓を病つてからは、階段が危いので階下を病室にしたのです。」 「なるほど」と探偵が頷いた。「間に二つの大きな客間があつたのですか。昔建てた家ですから、壁も厚いでしようね。ではお訊ねしますが、静かな夜半に夫人が病室から呼んだら、看護婦の部屋に聞えますか?」 「それは聞えません。でも寢床のすぐそばにベルがございまして、寢ていながらそのベルを押すと、すぐ看護婦の部屋に分るようになつているのです。」 「あゝ、ベルがあるんですか?」 「はあ。」 「しかし急に発作でもおこしたような場合には、いくら近い処にあつてもベルは役に立ちませんね。もつと近くに看護婦が寢られるような部屋はなかつたのですか?」 「伯母の寢室の次に、ドアを開けさえすれば行けるような部屋があつたのですけれど。」  探偵は腑に落ちぬような顏をして、がたんと椅子の背にもたれかゝつた。フロビッシャーは傍から口を出す時がきたと思つた。默つて二人の話を聞いていた彼は段々不安になつて来た。ベッティーは探偵の質問に対して気軽に答えているものゝ、こうまで彼女を苛めないでもよかろうと思つた。 「ねえ、アノーさん」とフロビッシャーが口を出した。「そんなことをお訊ねになるより、これからみんなで行つて見るほうが、よくわかるじやありませんか?」  アノー探偵は讃嘆に顏を輝せながら若者の方を振向いて、 「それはいゝ考えです! なるほどいゝ思い付きです!」と熱心にいつたがすぐまた低い声になつて、 「併し残念ながらそれは出来ません。」  探偵は若者がその理由を訊ねるのを待つたが、若者は顏を赤らめるだけで默つていた。若者は自分を救主と仰ぐ美しい女の前でうつかり頓馬なことを云い、明らかに探偵に馬鹿にされていることを感づいて恥かしくなつた。その探偵を憎らしくさえ思つた。アノーが説明した。 「フロビッシャーさん、もつと早く部屋を調べるとよかつたのです。もうこの土地の警察が各室のドアを封印してしまつたのです。」  窓際に座つたベッティーは、見えるか見えないか程度の身動きをして、ほんのちよつと唇のあたりに微笑をうかべた。するとアノーが夜間の物音を聞いた番犬のように身を固くした。 「可笑しいでしよう、ベッティーさん?」 「わたし早くあの封印を取つて頂きたいと思つています。可笑しいどころではございません。あれを見ると怖くなるのです。なんだかこの家の使用禁止をされていますようで。」  探偵はもとの態度に歸つた。 「そうでしよう。それはお察しいたします。及ばずながら私もなるべく早くあれを取り去るように努力いたしましよう。また実際、ハーロー夫人の死後十日もたつて、告訴の段取りになつて始めてあんな封印をしたつて、なんの足しにもなるもんじやありませんからな。また私は家のなかの地理なんか問題にしていません。たゞ不思議に思うのは、夫人が病人でそのために看護婦まで雇いながら、どうしてすぐ隣の部屋にその看護婦を寢させなかつたかという問題です。」  ベッティーは大きく頷いた。この質問に対してはよく分るように返事をせねばならぬ。かの女は体を起して一語一語に念を入れて話しはじめた。 「だれでもそう考えるんですけれど、その理由を説明するには、どうしても伯母の性質を呑みこんで頂かねばなりません。三年もわずらつてモンテカルロの別莊へ行くよりほかには、一歩も家を出たことがないはずなんですけれど、それでも伯母は自分の病気を覚らず、気が強いのですぐ直るように思つていたんです。ですから白服の看護婦がそばに寢ることを大変に嫌いましたの。病気が重くなつた時には私の取りはからいで看護婦が隣室に寢ましたけれど、すこしよくなると直ぐ遠方へ追いやられたんです。」  フロビッシャーにはその説明がよく分つた。気の強い頑固な老人が眼に見えるようだつた。そんな老人なら一人で看護婦と離れて寢たがるのも無理ではあるまい。だが、だが、どうもベッティーが何だか隱しているような気がする。どうも奥歯にもののはさまつたような説明だ。かの女の説明には嘘はないが、まだ説明されないものがありそうだ。それはためらい勝ちのかの女の言葉つきでも察しられる。フロビッシャーはちらと探偵に目を呉れた。探偵は女のつぎの言葉を待つように、じつと無表情な顏で女を見つめている。ロンドンのハズリットはこの事件の裏には秘密があるといつた。いまこの女と探偵は、その秘密の縁を追いつ追われつしているのではあるまいか。かの女は小さい女心で思いつめて、一心にハーロー家の名誉にかゝわる秘密を護つているのであろう。だがフロビッシャーのこの瞑想は、だしぬけに女の口をついて出た烈しい声に破られた。 「どうしてそんなにわたしの顏ばかり御覽になるんです?」唇を顫わせながら女は顏を変えて探偵にいつた。 「私を疑つていらつしやるんですか、アノーさん?」  探偵は両手をあげて制した。ぐつたり後の椅子に凭れかゝつて態度を軟らげた。そして本当にすまなかつたというような声で、 「御免下さい、ベッティーさん。疑つてはいませんよ。たゞなんども質問しなくてもいゝように熱心に聽いていただけです。打続く御不幸にあなたが神経を痛めていられることを忘れていたのは私が惡かつたです。御免下さい。」  これで部屋の緊張が解けた。窓際の座席にすわつたかの女もやゝ仰向けに後に凭れかゝつた。 「そんなに仰有られると、かえつて私のほうが済まない気がいたします。私こそヒステリーの女のようになつて済みませんでした。さア、まだお訊ねになりたいことがありますなら、なんなりとお訊ねくださいまし。」 「承知しました」と探偵が優しくいつた。 「こんなことは一気にすましたほうがいゝです。二十七日の夜のことからお訊ねしましよう。」 「はい。」 「あの晩の夫人の容態はいつもと変らなかつたですか? 良くも惡くもなかつたのですか?」 「どちらかといえば良いほうでございました。」 「それであなたは安心して御友人のダンスの会にお出かけになつたわけですね?」  フロビッシャーは探偵のこの言葉を聞いて意外に思つた。さてはこの女は夫人が死んだ晩には家にいなかつたのか。これは女にとつて有利な事実に違いない。そこで彼が、「ダンスの会!」と叫んだが、すぐ探偵は片手をあげてそれを制した。 「フロビッシャーさん、默つていてください。ベッティーさんの話を聞いているんです。」 「えゝ、ダンスに行きました。行かないと伯母は却つて自分の病気が惡いからだと思つて心配するのです。そんなことに伯母はすぐ気を廻すのです。それで家庭における生活を、いつも同じにする必要があつたのです。」 「つまりあなたが行きたいダンスへ行かないでいたりすると伯母さんが気を廻すとおつしやるんですね。なるほど、よく分りました。」  それから探偵は微笑しながらフロビッシャーのほうへ向いて、 「あの晩ベッティーさんがダンスへ行つたことはあなたも知らなかつたでしよう。多分ワベルスキーも知らなかつたに違いない。でなければあんな告訴をするはずはない。ときにお孃さん、二十七日の晩、すなわち夫人が死なれた晩ですな、あの晩ワベルスキーはどうしていたのです?」 「留守でした。あの人は二十五日にウーシュ河のそばの村へ鱒釣に行つて逗留し、歸つて来たのが二十八日の朝でした。」 「ほゝう! 妙な人ですね。貴女を陷入れようとした網よりも立派な網を持つて行つたでしようか。でなければ三日も河のそばにいたつて、獲物は知れたものです。」  探偵の笑声を聞いて女はかすかに微笑した。彼はまた質問をつゞけた。 「なるほど、貴女はダンスへ行きました。でそのダンスの会はどこであつたのです?」 「ティエル街のプイラックさんの家です。」 「いつごろお出かけになりました?」 「こゝを出たのが九時に五分前です。」 「それは確かですか?」 「えゝ。」 「お出かけになるまえに伯母さんにお会いでしたか?」 「はい、その時伯母はいつもの癖でベッドのなかで食事をしていました。わたしは去年の冬モンテカルロで作つた舞踏服を伯母に見せるために行つたのです。」 「部屋には伯母さんがお一人?」 「看護婦がいました。」  探偵はだしぬけに狡猾らしく笑つて、 「お孃さん、私は看護婦がいたことは知つていたのです。知つていて罠をかけてみたんです。こゝに看護婦の陳述がありますよ。」  いゝながら彼はタイプライターで打つた一枚の紙片をポケットから取り出した。 「これは檢事が彼女を呼んで調べたときの陳述です。」 「まアちつとも知りませんでしたわ。看護婦はお葬式の日に自分のうちへ歸つたきりで、その後いちども会わないもんですから。」  こういゝながらかの女は探偵の顏を見て微笑した。 「看護婦の陳述を読んでみましよう。お孃さまは新調の絹の服を見せるために部屋へこられました。その時お孃さまは枕の位置を直しながら、ベッドのそばにいつもの飮物と書物があるかどうかお調べになり、それから行つて来ますといつて、お出かけになりました。お孃さまが部屋を出られると、夫人は私のほうへ向いて――」  探偵はこゝまで読んでくると、 「もう読む必要はないです。」  するといまゝで凭れかゝつていたベッティーが急に上体を起した。 「必要がないんですか?」  彼女の蒼白い顏に靜かに血の気がのぼつた。 「そうです。」と探偵は紙片をたゝんだ。 「わたしが部屋をでたあとで、伯母は看護婦にむいて何をいつたのです?」と彼女は穏やかに執拗に「どうせわたしに関したことでしようが、看護婦はどんな陳述をしています? アノーさん、見せてください!」  こういつて女が手を出した。 「いや、なんでもないことです。読みますからお聞きなさい。」  そして探偵がまた読みはじめた。 「夫人はわたしのほうへ向いて、ダンスへ早く行つたほうがいゝ。ディジョンはパリとちがつて、早く行かないと、相手がないからね、とおつしやいました。それが九時十分前のことです。」  にやりと笑つて探偵が紙片を女にわたした。女は果してその通り書いてあるかどうか疑うものゝごとく、急いで目を通した。そこには探偵が読んだ通りのことが書いてあつた。紙片を探偵に返す時の女の顏色はすつかり変つていた。 「有難うございました。」と女は探偵にたいする怒りに眼を輝しながら云つた。  フロビッシャーも女の顏色のかわつたことに気づいて同情した。探偵はさつき女にたいして罠をかけたといつた。が、あの時には罠をかける必要がなかつたのだ。なぜというに、看護婦のいる前で伯母に会つたとて、なにもそれを隱す理由はすこしもないからだ。だが、今度はアノーが本当に罠をかけた。そして女は見事にその罠にかゝつた。彼が途中で陳述書を読むのを止めて仕舞いかけたのは罠である。そのとき女は明らかに不安を現してしまつた。それは、ことによつたら、伯母が自分の惡口を看護婦にむいていつたかも知れぬ、伯母が自分に対して恐怖をいだいていたかも知れぬということを自白したと同じである。 「あなたも御承知でしようが」とベッティーは冷靜な声で、 「女同士というものは、時々おたがいの惡口をいうことがございます。どんな重大な結果になるかということも考えないで、つい相手を陷れるような嘘をつくことがよくあるのです。だからわたし陳述書のさきが聞きたかつたのです。」 「そうですとも」と傍から若者が口をだした。「看護婦がなにを云うか分つたもんじやないですからね。」 「ごもつともです。」と探偵はまた陳述書に目を落して、 「こゝにはお孃樣がベッドのそばに飮物と書物があるかどうかお調べになつたと書いてあります。それに違いありませんでしたか?」 「えゝ。」 「飮物とは?」 「コップに入れたレモン水です。」 「毎晩?」 「はあ。」 「それに催眠剤をお溶かしになるようなことはありませんでしたか?」 「いえ、伯母は眠られぬときはいつも看護婦から阿片の丸藥を貰うのです。ときによると軽いモルヒネを注射することもございました。」 「あの晩は?」 「そんな樣子はありませんでした。」 「あなたは九時に五分前に家をお出になつたそうですが、それまでのところでは、病気はつねより惡くはなかつたんですね?」 「えゝ。」 「外出中は貴女はずつとプイラック氏邸にいたんですか?」 「はい。」 「だれと踊つたかそれが思い出せますか? 相手になつた人たちの名を書いて頂けますか?」  かの女はテーブルのそばへ行つて坐り、時々さきの丸くなつた鉛筆を舐めて考えながら、幾人かの名前を書いた。 「これが全部です。」  女がその紙片を渡すと、探偵はポケットのなかへ入れた。 「有難う。」  彼はすつかり満足した。次から次と質問をしていつたが、女はすら/\とその質問に答えた。何か特別のことを調べているというよりも、たゞ形式的に仕方なしに質問しているように、すくなくもフロビッシャーには見えた。 「では、お孃さん、あなたが御歸宅なさつたのは何時ですか?」 「一時二十分でございます。」 「それは確かなんでしようね? 懷中時計をごらんになつたのですか? 玄関の時計をごらんになつたんですか? グルネイユ莊へ着いたのが一時二十分ということがどうして分りました?」  探偵は椅子を一層前へひきよせた。だが女はすぐに返事をした。 「玄関には時計がありませんし、わたしも持つていなかつたのです。わたしは腕時計がふだんから嫌いなんです。それかといつて、よく物忘れをしてバッグを忘れて歸つたりしますから、バッグのなかにも時計はいれないでおきました。ですから家へ歸つても何時だか分らないのです。で、運転手にむいて遅くなつてすまなかつたといつたのです。」 「なるほど。あなたが御歸宅になつた時の正確な時刻を知らせてくれたのは運転手だつたのですね。」 「えゝ、笑いながら時計を出して見せてくれました。」 「それは玄関ですか、鉄門のそばですか?」 「玄関です。外出中は鉄門はあけてありますから。」 「玄関のドアは?」 「わたしが鍵であけました。」 「なるほど。それからどうしました?」 「すぐ二階の自分の寢室へ入りましたわ。」 「あなたの女中は待つていましたか?」 「いゝえ、遅くなるから先に休むように言つておいたのです。」 「それはなか/\思い遣りがお深いですね。あなたがダンスに行かれたのを、女中たちは喜んでいたでしよう。」  この愛想のいゝ言葉をきいても不機嫌な彼女の心は軟らぎはしなかつた。 「え?」と敵意をふくんだ声で女が訊きかえした。だが探偵はべつに怒つた色は見せなかつた。 「では伯母樣がお亡くなりになつたということは、いつお聞きになつたのです?」 「翌朝七時に女中が走つて来て知らせてくれましたの。看護婦が朝病室へ入つて初めて分つたのです。で、わたしは急いでガウンを着て、病室へ降りて二人の醫者に電話をかけました。」 「そのときレモン水のコップがありましたか[#「ありましたか」は底本では「ありましか」]?」 「空になつていました。」 「その女中は今いますか?」 「お会いになるなら呼びます。フランシーヌというわたしの女中です。」  探偵は微笑しながら肩をすくめて、 「いや、またあとで、いまはたゞあなたお一人のお話をうかがうだけで結構です。」  彼は椅子から立上つた。 「お孃さん、私の質問は随分おうるさいでしよう。けれどもあなたとしては世間の疑惑を受けているのは損ですからね。もうすぐすみますよ。」  フロビッシャーは探偵が立上つたのを見て、この退屈な訊問が漸く終りに近づいたことを知つてほッとした。  だが女は案外平気な声で、 「なに構いませんよ」と云つた。 「もう二つばかりお訊ねしたいことがございます。お考えになつてもお分りでしようが、今までそんなに失礼なことは訊ねなかつたつもりです。」  彼女は頷きながら、 「もう二つとは何んでございますか?」 「お孃さんは夫人の全財産を御相続なさるんでしよう? これが一つです。」 「はい。」 「全財産をあなたが御相続なさるということを、始めから知つていましたか?」 「いゝえ。ワベルスキーさんも幾らか御相続なさると思つていました。伯母からそう聞いたわけではございませんが、ワベルスキーさんが、いつもそう云つていましたので。」 「伯母さまはあなたに対していつも親切でしたか?」  ベッティーの顏から堅苦しさが消えて、軟らかい悲しみが漂つた。 「本当に親切でございましたわ。毎年千ポンドずつもらつていましたが、こんな田舍では使いきれないほどでした。しかも私が云えばそれ以上の金額だつて貰えたのです。」  急に啜り上げて女が泣きだした。探偵も気の毒に思つて横をむいた。そして女が気をしずめるあいだ、立つて本棚から二三の本を拔いてみたりした。 「なるほど、これはハーロー氏の本棚だけのことはある。」  こう彼が独語のように呟いたが、このとき不意にドアがあいて、一人の女が姿を現した。 「ベッティーさん?」  いゝながら女は部屋の中に入つてきたが、二人の来客を見るとびつくりしたように立ち止つた。 「アンさん、これが警視廳のアノーさん」ベッティーが片手をあげて紹介すると、アンは紙のように白くなつた。  あゝ、これがアンだつたのか、とフロビッシャーは眼を見はつた。自分に手紙をよこしたのはこの女だつたのか、自分が二度まで知らぬ知らぬで押通したのはこの女だつたのか、この女ならかつて並びあつて坐つたこともあるし、話をしたこともある。アンは部屋を横切り彼のほうへ近づいて、 「よく来て下さいました。 きつと来て下さると思つていましたわ」といつた。  フロビッシャーはすぐ目の前にある光る黄色い頭髪、二つのサファイアのような目、綺麗な色をした素晴らしく美しい顏を意識した。 「むろん来ましたよ[#「来ましたよ」は底本では「来ましよ」]」とかすかに彼が答えた。探偵は微笑しながらそれを見、それからベッティーを見た。その微笑は「この若者はロンドンへかえるまでにいろんな目に会うだろう」と云つているように見えた。 [#3字下げ]6 宿がえ[#「6 宿がえ」は中見出し]  いま彼らのいる図書室というのは、二つの高窓が庭に向つて開いた広い長方形の部屋で、その細長くなつた一方に出窓があつて、それが屋敷の前の道路をのぞき得るようになつている。その出窓のそばのドアは次の部屋へ通ずるようになつていて、そこに本がぎつしり並べてある。探偵はその本をつつきながら、 「この本棚を見ただけで、これが蒐集家ハーロー氏の図書室であることはすぐ分りますね。私はいつも思うのですが、その人がどんな人物であるかを知るには、その人が買い集めたり読んだりする書物を見るのが一番いゝです。併しこれを一つ一つ見てはいられない。フロビッシャーさん、まア、こつちへ来てごらんなさい。本の名を読むだけでも面白いですよ。」  フロビッシャーは彼と並んで佇んだ。 「ほら、こゝに古代英国の金版の本がある。それからこゝには――これはなんですかね?」  フロビッシャーは探偵が指を当てた本の名を読んだ。 「陶器雜感。」  すると探偵が同じく「陶器雜感」とくりかえして他の本棚に歩をうつした。  彼はベッティーが坐つている窓の左側の胸の高さのあたりから、薄つぺらな大型の紙表紙の本を拔きとつて、なかの写眞をあけてみた。それはバッターエナメルの本だつた。 「その本には続卷がありますよ。」フロビッシャーが本棚を見ながら言つた。だがむろんこれは意味のない言葉で、彼はそんな本のことなんか考えてはいないのである。彼が考えているのは、何故探偵が自分を身近かにひきよせたかという問題だつた。ことによると探偵は、二人の女の間に默約のようなものでもあるのなら、二人の来客が本棚を見ている間に、なにか合図のようなものを取り交すかも知れないと思つているのであろう。だがもし探偵がそんなつもりで本棚の前に立つたのなら失敗である。というのは二人の女は、誰の視線も受けてないにも拘らず、身動きもしなければ合図も取り交さなかつたからである。探偵は眞から本に興味を感じているらしく、 「そうですね、続卷がありそうですね。でもこれは一册で完結している。」  いゝながら本を元のところへ返した。その本の隣に一册ほど拔きとつたらしい空間がある。その空間に指をあてたまゝ探偵はなにやらほかの問題を考えているらしかつた。  このとき窓際に坐つているベッティーが靜かな声でいつた。 「アノーさん、あなたは訊ねたいことが二つあると仰有つて、まだ一つしかお訊ねになりませんのね。」 「そうです。忘れたわけじやないのです。」  彼は妙に素早く振りむいて、二人の女が両方とも見えるような位置に立つた。ベッティーは彼の左の窓際、アンはかの女からやゝ離れておど/\した目付で探偵を見ながら立つている。 「ベッティーさん、ディジョンには無名の手紙がはやつているそうですが、あなたはワベルスキーが告訴してからのち、その手紙をお受けとりになつたことがありますか?」 「一度うけとりました」とベッティーが答えるとアンが吃驚した顏でかの女を見た。「日曜日の朝でした。むろんそれは人を喰つたようなつまらぬ手紙ですが、たゞ不思議なことには、それにパリからアノーさんがこの事件を調べるために来ると書いてあつたのです。」 「なるほど、」と探偵が低い声でいつた。「日曜日の朝そんな手紙をお受けとりになつたのですか。それを見せて頂くことが出来ますか?」  ベッティーは頭を振つた。 「だめですの。」  探偵は微笑した。 「お破りになつたのですね。」 「いゝえ。持つていますわ。わたしの部屋のデスクの抽斗にしまつてあるのです。でもその部屋を封印されたのでだめなのです。いまでも抽斗のなかにございます。」  探偵はこの答えにすつかり満足した。 「そんなら無くなる心配はないです。併し警官はあなたのお部屋まで封印するなんて、ずいぶんひどいですね。」  彼女は肩をすくめた。 「でもつまるところは起訴されたのはわたしです。そしてわたしの私有物のある処はあの部屋なんです。」  アンは一足かの女のほうへ近づき、探偵へむかつていつた。 「でもあの部屋に封印をしたのはそれだけの理由ではないんです。ベッティーさんのお部屋は夫人の寢室なんかと続きあつていて、すぐホールへ出られるようになつているのです。ですから署長さんも、お気の毒でもこの部屋も一緒に封印しなければならんと云つていました。」 「ありがとう、」と探偵がアンにむいていつた。「そんなら封印するのも無理はないでしよう。」それから窓際のベッティーにむかい、最後に時間の点を明らかにしておきたいのですが、ハーロー夫人が埋葬されたのは、いまから十二日前の土曜日の朝でした。」 「そうです」アンがいつた。 「そして葬式がすんで家へ歸つた時、公証人がはじめて遺書を開封して読んだのですね?」 「そうです。」 「その時ワベルスキーも立会つていましたか?」 「はい。」 「それから無名の手紙が来たのが日曜日の朝ですね?」  探偵がベッティーに目を呉れると、彼女が頷いてみせた。 「そのまた同じ日の朝すこしばかりして署長が来て部屋を封印した。」 「それがきつちり十一時でございました。」アンが答えた。  探偵は頭をさげた。 「お二人とも物覚えがいゝ。時間をはつきり覚えていらつしやる。私のような人間にとつては実に有難いです。」 「署長が来て封印したのは確に十一時でしたわ。」 「封印する前に部屋を調べましたか?」 「いゝえ、だからわたしたちはそれを不審に思つたのです」とアンがいつた。「もつともあとで、これは正式に調べるまで手を触れないためだと説明しました。」  探偵はから/\笑つて、 「その正式に調べるのが私の仕事なんですよ。アノーがパリから来たら拡大鏡でなにを発見するか分りませんからね。ことによると指紋、あはゝゝ! 燒残りの紙片、あはゝゝ! 併し云つときますがね、いかにこのアノー探偵でも、犯罪後二週間も開放されていた部屋では、なにも発見することが出来ませんよ。でも」とドアの方へ近づきながら「こゝまで来たんですから――」  ベッティーが稻妻のような早さで立上つた。探偵は素早くかの女を振向いて挑むような鋭い目で見た。 「封印をお破りになるんですか?」ベッティーは妙に息づまるような声で訊いた。「そんならわたしも一緒に行きます。告訴されたのはわたしですから、立会うのが当り前だと思います。」 「いや、御安心なさい。封印は破りません。封印を破るのは署長ですが、彼も檢屍がすまねば手が出せません。私はたゞアンさんに各部屋のドアのそとを一應見せて頂きたいのです。」 「どうぞ。」ベッティーがまた窓際に腰かけた。 「では、アンさん、案内して下さい。歩きながらあなたがワベルスキーをどうお考えになつていらつしやるか話してください。」 「あの方は大胆な人にはちがいございません。起訴したあとでもこの家へ歸つてきてわたしに向つて味方になつてくれとおつしやるぐらいですから。」いゝながらアンは探偵をつれて部屋をでた。  フロビッシャーは二人と一緒にドアのとこまで行くと、そこでドアを締めてまた元のところへ歸つた。彼はすつかり安心した。探偵が本当に探しているのは無名の手紙の主である。ベッティーが妙にいら/\して、探偵の質問に不快らしく答えたのも、いまではあまり気にならなくなつた。彼はポケットから卷煙草をだして火をつけた。だがふとベッティーの顏を見ると妙にこわばつた恐怖に満ちた顏色なので吃驚した。 「アノーさんはきつとわたしを疑つているんですわ。」 「違いますよ」と彼が女のそばによつたが女は耳をかさない。「いえ、きつとよ。わざ/\パリから来たんですから、あの人は自分の名誉にかけても犯人を作りたいのです。」  フロビッシャーはパリから探偵が来たのは、殺人犯人を探すためでなく、無名の手紙の主を探すためだといゝたかつた。が、それをいうことは禁じられている。彼は言葉をかえ品をかえして女を宥めた。  やがてアンが一人で歸つてきた。どちらも同じ年頃だが、ベッティーが黒いものずくめなのに反し、この女は服も靴も白いものずくめであつた。 「アノーさんは?」ベッティーがアンにきいた。 「一人であのへんを歩いていらつしやるの。」 「封印切つた?」 「いゝえ。切らないと云つたじやないの。」 「口ではそう云つても、どうだか分りやしないわ。」 「でもフロビッシャーさんが味方になつて下さるから安心よ。」  女たち二人がそれとなくフロビッシャーを探偵と対抗させようとしている気持は、彼にもよく分つていた。 「無論私はどんな援助でも辞しませんよ。」 「ありがとう。あなたホテルから荷物持つて来て、わたしの家へお泊りなさいよ。」ベッティーがいつた。  彼はそうしたかつた。だが映画館でアノーと会わねばならぬ。アノーも自分に会いたがるかもしれぬ。それにはこの家に泊つていては都合がわるい。 「いや、それには及びません。電話さえお掛けくださるなら、五分間でこゝまで来られるんですから。」  ベッティーはそれ以上すゝめるのがいゝか惡いか暫く迷つている樣子だつたが、 「でもそれじやあまりお気の毒ですわ。」  この時アノーがひよつこり部屋へもどつた。 「帽子とステッキがこゝにあるでしよう。」  それをとると女たちに会釈した。 「よく御覽になりましたか、アノーさん?」  とベッティーがいつた。 「よく見ました。もう檢屍の報告がくるまでは面倒なことをいゝませんよ。では左樣なら。」  ベッティーは窓下の座席から立ちあがつて、彼を伴つて廊下にでたが、それを見たフロビッシャーは、彼女が探偵に対してあまり無愛想だつたので、機嫌をとりなおすために見送つてでたのだろうと思つた。やがて二人の話声が廊下から聞えてきたが、かの女の声の調子には果していまゝでより軟いところがあつた。 「檢屍の報告書がでてきましたら、ぜひわたしにもその内容をお知らせくださいましね。わたしが今不利な位置にたつていることは、だれよりもあなたがよく御存知のはずですわ。」 「承知しました。」  彼らのあとを見送つて立つフロビッシャーの腕に、なにか軟いものが触つた。振向いてみるとアンであつた。 「ねえ、フロビッシャーさん、どうかこの家に泊つてください。」 「いまそれを断りました。あなたもお聞きになつたでしよう。」 「聞きました。でも、もう一度お考え直しになつてくださいね。わたしはもう、どうしたらいゝのか、なんにも分らなくなつてしまいましたの。怖くて!」そしてアンは哀願するように両手を揉んだ。若者は恐怖というものがこんなに露骨に現れている顏を見たことがなかつた。数分間前のベッティーの顏にさえこんな恐怖は現れていなかつた。かの女の立派な顏立からは美しさというものがすつかり消えて、一瞬間に醜く老けてしまつた。だが彼が何とか返事をしようと思つていると、玄関の敷石の上に烈しくステッキが落ちる音がしたので、二人はピストルの音でも聞いたように吃驚した。  フロビッシャーが戸口から覗いてみると、アノーがステッキを拾つているところだつた。ベッティーもそれを拾おうとしたが、アノーのほうが先だつた。 「有難う、お孃さん、併しまだ私は足の指のところまでかゞむことが出来ます。毎朝起きるとパジャマのまゝ体操しているんです。」から/\笑つて彼は石段を降りると大股に鉄門のほうへ歩いてゆく。フロビッシャーがアンのほうへ向き直つた時には、もう彼女の顏からは、すつかり恐怖の色が消えていた。 「ベッティーさん、このひとお泊りになるのよ」とかの女が快活に云つた。 「そうなるでしようとあたしも思つていたの」部屋に入つて来たベッティーは妙な微笑[#「微笑」は底本では「徴笑」]」をうかべて答えた。 [#3字下げ]7 ワベルスキー[#「7 ワベルスキー」は中見出し]  その日フロビッシャーは二度と探偵に会いもしなければ彼の噂を聞きもしなかつた。彼はホテルから荷物を運んで、ベッティーやアンとゝもにグルネイユ莊で夕方をすごした。夕食がすむとホールの裏の大きな出入口の石段を降りて裏庭に坐り、そこでコーヒーを啜りながら話した。ワベルスキーのことは誰も口に出さない。口に出さないのが一同の默約のようだつた。庭は靜かで涼しくて、ときどきシカモアの梢を小鳥が飛んだ。  その夜、フロビッシャーはぐつすり寢た。  翌朝目を覚して見たら、開けはなした窓から朝日がさしこんで、枕元のコーヒーははや冷たくなつていた。  老僕が部屋に入つて、 「アノーさんが、図書室であなたを待つていらつしやいます。」  彼はすぐベッドから飛びおりた。 「早いね。何時だい?」 「九時でございます。お風呂の用意をしておきました。」それからテーブルの上の盆をとつて、「新しいコーヒーを持つてまいりましよう。」 「有難う。それからアノーさんに、いますぐ行くといつておくれ。」 「承知いたしました。」  フロビッシャーはコーヒーをすゝりながら服を着た。それから急いで階段を降りて図書室へ入つた。探偵はまんなかの大テーブルに坐つて新聞を見ている。 「とう/\ホテルを引きあげてこゝに泊ることにしたそうですね。アンさんの腕前も凄いもんだ。あのひとがちよつと両手を揉み合せて溜息をすればこうなるんですからね。ちやんとホールから樣子を見てましたよ。どうも若いひとには敵わん。ときにあなたはワベルスキーの手紙をまだ持つていますか?」 「えゝ。」彼はアンにョまれてこゝに泊ることに決めはしたのだけれど、実はベッティーの身の上を思うからだと説明したかつたが止した。 「それはいゝ。あの人を呼びにやりました。」探偵がいつた。 「ワベルスキーがこゝへ来るんですか?」 「もうすぐ。」 「それは面白い! 私も会いましよう。惡い奴です! 撲つてやろうかな。」フロビッシャーは愉快な期待に拳をふつた。 「いや、今日会つたつてそんなに効果はないです。今日は私にまかせておいて下さい。あなたが彼の二つの手紙を示してみたところで、彼は興奮するだけで、何らの事実も彼から引き出すことはできないです。それは損ですよ。」 「何を引き出すのです?」フロビッシャーは焦れつたそうだつた。 「それは分りません。あるいは何も引き出し得ないかも知れない。それにパリでお話したごとく、私には他にもディジョンへ来た目的があるのです。」 「無名の手紙?」 「そうです。あなたもお聞きになつたでしようが、ベッティーは私がパリから来ることになつたことを何故知つたか昨日話してくれました。あの人の話によれば、秘密がもれたのは官吏の口からでなくて無名の手紙からです。ですから私はそれについて出来るだけの手掛りを得たいのです。ワベルスキーは私が来るようになつたことを知つているのでしようか? 彼が告訴するために警察へ行つた時、警察の誰からか秘密を聞いたのではないでしようか? もしそうだとすれば彼は次にその秘密を誰に洩したでしよう? 私はそれらのことを知りたいのです。けれどもあなたが始めから二通の手紙を出して喰つてかゝつては、その秘密を嗅ぎ出すことが出来ないのです。私はどこまでも彼を好感をもつてむかえたい。お分りですか。」 「併し私はぜひ彼に会いたいですな。」 「駄目ですよ。」  探偵は出窓のすぐそばの次の部屋へ通ずるドアをあけて、 「あなたはこゝにいて下さい。ドアを開けはなしたまゝ、ドアの蔭の処で椅子に坐つて聞いていたらいゝでしよう。」  フロビッシャーが次の部屋にかくれると、まもなく庭を通つて玄関のほうへ歩いてくる男の姿が窓から見えた。それから暫くすると老僕が入つてきて、 「ワベルスキーさんがお見えになりました。」と告げた。 「よし、ではね、ついでにお孃さまがたを呼んできてくれ。」  ワベルスキーは丸い肩をした背の高い膝の曲つた男で、黒い服をきて片手に黒い帽子をもち、のそ/\不器用な足つきで部屋に入つてきたが探偵を見ると吃驚したように立ちどまつた。二人が挨拶した。探偵はどこまでも愛想よく笑つているが、ワベルスキーはディジョンのお寺の圓柱にある中世紀の怪物の彫刻のように不安らしい妙な恰好をしている。 「さア、どうぞお掛けください。婦人たちもいまこゝへ来ます。」 「これは可笑しい。呼び出しがあつたから来たんだが、私は檢事さんに呼ばれたのかと思つていました。」 「私が代理です。私は――」と探偵が云いかけて、「え?」ときゝ返した。 「私はなにも云いません。」 「ごめんなさい。私は――アノーです。」  探偵は素早く云つたが、相手は別に驚いた風は見えない。 「アノーさん? どうも失礼ですが、それだけではとんと思い出せませんが――」 「パリ警視廳のアノーです。」  はじめてワベルスキーが慌てた顏をした。 「あゝ!」と彼がいつた。「あゝ!」とまたいつた。そしていまにも逃げだしそうな顏つきでドアを振返つた。  探偵が椅子を指差すと、彼が、「はあ」といつてその椅子に腰かけた。  つぎの部屋から樣子をうかゞつていたフロビッシャーは、ベッティーに無名の手紙をよこしたのはこの男でもなければ、アノーがこゝに来ることをふれまわつたのもこの男でないという確信を得た。芝居にしてはあまり眞に迫りすぎている。 「あなたはベッティーさんを告訴されましたが、申すまでもなくこんな重大事件は、まずあなたにお会いしてよく取調べなければなりません。そこで当地の檢事がパリから私を呼びよせたのです。」 「そうですとも。重大事件ですよ。」  併しドアの隙間からワベルスキーの顏を見たフロビッシャーは、重大な難局に直面したのはワベルスキー自身であることを見てとつた。彼はハズリット氏から返事が来ないので焦れつたくなり、もし金が取れたらその後で取下げてもいゝくらいの腹で告訴した。ところがいまパリの名探偵からその告訴の証據を見せろと迫られる破目になつたのである。恐らく彼はこんな難局に直面しようとは豫想しなかつたろう。探偵がいつた。 「速記なんかしないで、お互に膝をまじえて話してみるのも面白かろうと思うんです。」 「そうですとも。」  折からドアがあいて、ベッティーとアンが入つてきた。  ベッティーはいつもの窓際の腰掛に坐つた。アンはドアをしめて一同とはやゝ離れて椅子に腰かけた。  探偵は緑色の書類を拡げて、 「ワベルスキーさん、貴方は四月二十七日の夜、ベッティーさんが、毒藥をあたえて伯母を殺したとおつしやるんですね?」 「そうです。そうに違いありません。」 「どんな毒藥か分りますか?」 「確実には分りませんが、モルヒネのようなものでしよう。」 「その毒藥は夫人がいつもベッドのそばにおいとくレモン水のコップに入れたのですね?」 「はあ。」  探偵は持つていた書類を下において、 「看護婦が共犯だとは思いませんか?」 「どうして! あれはそんな女じやありませんよ。私なんか明日病気になつたつて、あんな看護婦の世話になりたいですよ。」 「ハーロー夫人が死んだのは四月二十七日です。あなたは二十八日に釣から帰りました。帰つてからも別にベッティーさんを告訴しようとはなさらなかつた。夫人は三十日に埋葬されましたが、それでもあなたは平気でした。だのにどうして一週間もたつてから、急に告訴なさつたのです?」 「それは殺人ということは始めから分つていましたが、誰が下手人かということが分らなかつたのです。ベッティーと知つたのは、よく考えてみてからのことです。ごらんの通りベッティーは若くて美しい。人生に対していろんな欲望をもつています。」 「あなたは感情でそうお決めになつたんでしよう?」 「いや証據があるんですよ。なぜ五月七日に告訴したか理由を話しましよう。その日の朝の十時頃、私はガンベッタ街を歩いていたんです。ところが、なんと、私の向うの五六間前の小さい店からベッティーが出てきたんです。」  急に局面が一変した。次の部屋に隱れているフロビッシャーでさえ固唾をのんだ。いままで輕蔑の的だつたロシア人が急に一同の視線をあつめる花形役者となつた。もう彼は感情だけを述べているのではない。確たる実例を話そうとしているのだ。 「その街はあまり評判のよくない怪しげな街です。私は自分の眼を疑わずにいられませんでした。そこで狹い小路に身をかくして、ベッティーが行つてしまうのを待ちました。そしてあとでどんな店だろうかと行つてみると、また私は自分の眼を疑わずにいられませんでした。その店は、私の姪がでてきた店は、藥草店クラーデルだつたのです。」  こう勝誇つたようにいつて、ワベルスキーは椅子の背に凭れかゝつた。暫らく部屋がしんと鎭まりかえつていたが、探偵がその沈默を破つた。 「私には分りませんですね。クラーデルの店というのはどんな店です、またなぜ若い女がそこへ行くのが惡いのです?」 「あなたはディジョンの人でないから、なにも御存知ない。町の人にクラーデルのことを訊いてごらんなさい。誰でも默つたまゝ妙な顏をしますよ。それより警察へ行つて調べたほうが早分りだ。クラーデルは禁じられた藥を賣つて取調べられたことが二度もあるんですから。」 「でも朝の十時は明るいですよ。やましい目的のあるものがそんな時間を選ぶでしようか?」 「まつたくです。だから私もいまいつたように目を疑つたのです。しかしね、アノーさん、よく考えてみますと、どんな利巧な犯人でも必ず頓馬な過失をするもんですよ。そして最後に正義が勝ちを占めるのです。」  探偵が微笑した。 「あゝ、あなたは犯罪学者だ!」そして探偵はベッティーを振向いた。この会見がはじまつてから探偵がまともにベッティーを見るのは初めてゞあることに気づくと、蔭で見ていたフロビッシャーは不安になつてきた。 「ベッティーさん、それは本当ですか?」 「嘘ですよ。」彼女が靜かに答えた。 「では、五月七日の朝、ガンベッタ街のクラーデル藥草店を訪問した覚えは全然ないとおつしやるんですね?」 「ありませんとも。」  ワベルスキーは口髭をつゝきながら微笑して、 「ベッティーが否定するのは当り前ですよ。だれだつて自分を辯護するものです。」 「併しベッティーさんが藥屋を訪問したのは五月七日ですよ。夫人の死後十日もたつて藥屋へ行く必要があるでしようか?」探偵がいつた。 「それはお金を拂うためでしよう。むろんクラーデルの藥は高いです。一時には拂えません。」 「藥というのは毒藥のことですね?」 「そうです。」 「ハーロー夫人を殺した毒藥のことですか?」 「そうです。」とワベルスキーが腕を組んだ。 「よろしい。」探偵は書類を拡げて、「ではワベルスキーさん、もし私が夫人の屍体はすでに発掘され檢屍されたと云つたら、あなたはどうします?」  ロシア人の顏が見るまに蒼くなつた。  探偵は言葉をつゞけて、 「そして檢屍の結果、モルヒネはいつもの分量以外に使われていない、他の毒藥も使われていない、と云うことが分つたとしたら、あなたはどうします?」  ワベルスキーは默つたまゝハンケチを出して額の汗をふいた。彼の負けだ。だが彼もさる者だ。 「あなたは『もしも』とおつしやつた[#「おつしやつた」は底本では「おしやつた」]。断言はなされない。あなたのおつしやりたいことは、そうじやありますまい。あなたはもつと他のこと、つまりもし発表されたらハーロー家の不名誉になるから、打解けて話合つた上で、告訴を取り下げることにしようとおつしやりたいんでしよう。」  探偵は急に椅子から立ちながら、怒気をふくんだ声で云つた。 「冗談じやありませんよ。このアノーが殺人事件を種にした金銭談合に立合うためにわざわざパリから来たと思いますか! そんな馬鹿な話はありません。これを読んでごらんなさい。」前こゞみになつて役所の印のある書類を渡し、「これが檢屍報告書です。」  ワベルスキーはそれを受取つたが、手がぶるぶる顫えているので、読むことができないほどだつた。だがどうせ告訴に自信はなかつたのだから、読めなくてもいゝわけだつた。 「なるほど、私の間違いでした。」  探偵はその言葉尻を捕えて、 「間違い! 間違いですみますか。もつとこちらによつてペンをお持ちなさい――そう。そして紙を拡げなさい――そう。これから手紙を一つ書くのです。」 「済みませんでしたと書きましよう。」 「いや、まず四月三十日と日付をお書きなさい。それから、『すぐ千ポンド金をお送り下さい。でないと――』」  ワベルスキーはペンを投げて立ちあがつた。 「そんなことは書けません。それはあなたの誤解というものです。私は――」 「あなたは脅迫しなかつたと云うのですか?」  探偵は次の部屋へ駈込んで、 「フロビッシャーさん! こちらへ来てワベルスキーから来た二通の手紙を見せて下さい。」  だがその手紙を示す必要はなかつた。ワベルスキーはがつくり椅子に力なく腰かけて泣きだしたのである。一同が不安げに身動きした。探偵でさえ気を軟らげた。彼は暫くロシア人を見つめていたが、 「もうホテルへ帰つてよろしい。併しまだ用事がありますから、ディジョンを去らないように。」  ロシア人は椅子から立ちあがつてよろめくようにドアの方へ歩きながら、 「どうもすみませんでした。私の間違いでした。私は哀れな……別に惡気はなかつたのです。」  そして誰の顏も見ないで部屋を出ていつた。  一同がほッと溜息ついた。冗談でもいう者があつたら、それを機会にどッと笑い出したいような気持だつた。全ての忌わしい事件が終りをつげた。すくなくとも終りをつげたように見えた。だが玄関まで彼を見送つて帰つてきたアノー探偵の顏には、微笑らしいものは少しも漂つていない。彼は重々しい声でいつた。 「あの人が帰つたから云つてもよろしい。私はこゝにいる三人のかたに大変なことを告げなければなりません。ワベルスキーは知らずにいますが、ハーロー夫人は四月二十七日の夜この家に於て毒殺されたのです。」  死のような深い沈默がつゞいた。フロビッシャーは眩惑されたように立ちすくんだ。ベッティーは恐怖と疑惑を浮べて坐つたまゝ前こゞみになつた。入口のそばの腕椅子に坐つているアンが、だしぬけに烈しい声を揚げた。 「あの夜この家に誰かいたのです。」アンがいつた。  探偵はかの女のほうを鈍い眼つきで振向いて、 「誰かいた?」 「えゝ、本当です、」とかの女は今まで堪え忍んでいた秘密を打明けてほッとしたというような調子で、 「確かにこの家のなかに見知らぬ人がいました。」かの女の顏は紙のように白かつたが、その眸はなんの恐れもなく探偵を見つめていた。 [#3字下げ]8 書物[#「8 書物」は中見出し]  フロビッシャーはテーブルの上にある檢屍報告書をとりあげて、始めから終いまで読んでいつた。読み終ると探偵に向いて、 「これは本当の報告書で、檢査の結果がくわしくでていますが、毒殺の痕跡は認められぬと書いてあります。」 「痕跡はありません。」探偵が平然として答えた。 「そんなら貴方は何故毒殺されたとおつしやるんです。また誰を犯人だとお考えなんです?」 「誰も犯人だといゝません。詳しく理由を話しましよう。毒殺だというのは――これをごらんなさい!」  彼はフロビッシャーの腕をとり、昨日彼らが立つた窓際の本棚のそばへつれていつた。 「昨日はあすこに本を一册拔いたあとがあつた。それは貴方も気付いていられた。ところが今日はそこにはちやんと本が入つているのです。」 「なるほど。」フロビッシャーが頷いた。  探偵はその本を引つこ拔いた。それは紙表紙の厚い本である。 「これをごらんなさい。」と探偵がいつた。だが若者が驚いたのは、探偵の眼は彼に注がれながらも、それが白紙のように無表情だつたことである。探偵の眼は本当は彼を見ているのではないのだ。探偵の心は二人の女に注がれているのだ。二人が少しでも恐怖や驚愕の身振りを示しはしないかと注意しているのだ。フロビッシャーは不快になつたので本から眼をはなした。また探偵のトリックか? なんだか自分が、さながら觀客席のなかゝら連れ出されて手品師の道具に使われている馬鹿者のような気がした。 「これは別に不思議な本じやないでしよう。エディンバラの協会が出版した本ですよ。」 「そうです。よくごらんなさい。エディンバラ大学の藥学教授が書いた論文です。もつとよくごらんになると、ペンで書いた文字によつて、この本が原著者から故人ハーロー氏に贈られたということが、お分りになるはずです。」  こういゝながら、庭に向つて窓際に近づきそこからのぞいて外を見ていたが、 「もう見張の必要はない。私はあの巡査を使いに出しました。」  それからまた不思議そうに本を開いて見ている若者のそばによつて、 「どうです?」 「ストロファントス・ヒスピドス」と若者が論文の題名を読んだ。「なんのことだかさつぱり分らないです。」 「どら、」と探偵がその本を彼の手から取つて、「私は今朝こゝで一人であなたを待つている三十分ほどの間にこの本を見ていたのです。」  探偵がテーブルの前に坐り、本のなかの彩色画のあるところを開いた。 「これがストロファントス・ヒスピドスの実が熟したところです。」彼がいう。  みんながそばへ寄つて※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵をみた。 「ストロファントスの種子は夫人の飾物にしてもいゝぐらい美しいのです。ところがこれでいて大変な猛毒を持つているのです。」  アノー探偵がページをめくると、原始的な沢山の矢を写した写眞がでた。 「フロビッシャー君、この本の有難さが分つたでしよう。アフリカ土人の怖るべき毒矢はこのストロファントスの種子で作るんです。」それから声を低めて、「そしてこの猛毒に対しては解毒剤もないし、またこの藥を使つて人を殺せば跡が残らないのです。」 「本当ですか?」とフロビッシャーがきいた。 「本当です。」  ベッティー孃は※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵の一番下を指でおさえて、 「こゝにインキで何だか書きこんでありますのね。」  五月の朝の金色の太陽のさしこむテーブルの上で、四人のものが一册の本を覗きこんでいるところは、平和な一つの絵にちがいなかつた。落着いた優しい声で説明するアノーが教授なら、めずらしげに覗きこむ三人は学生であろう。だが、説明するアノーは、この三人のうちの一人を怖ろしい殺人犯人とにらんでいるかも知れないのである。フロビッシャーは堪りかねたように、 「でもこれは毒に関する本にすぎません。毒そのものではありません。この本で人を殺すことはできませんよ。」 「できませんか? いまベッティーさんが云われたように、この矢の下に教授が小さい字で、F図と書いています。」  その矢の軸は他の矢とちがい、先端のちよつとした処がまるでペン軸のようにふくれ上つて、F図とある下のほうに、三十七ページを見よとインキで書いてある。  アノー探偵は三十七ページを開けた。  一同が妙な緊張を感じ、発見の瀬戸際にたつ探險家のように胸を躍らせた。探偵は声をだして読みはじめた。 「F図は私がディジョン市、グルネイユ莊に住むハーロー氏より拜借した毒矢で、同氏はコベレ地方の商人カーライル氏より讓りうけたとのこと。これは私が見た毒矢のうちで最も完全なもので、ストロファントスの種子へ水を加えて搗きくだき、それに赤い泥を混合して矢の先端に塗るのであるが、私がハーロー氏より拜借したのは、矢も新しく、混合物の毒藥もそのまゝ密着いていた。」  探偵は読み終ると椅子の背にもたれかゝつて、 「フロビッシャー君、この毒矢が問題です。ハーロー氏が所有していたこの毒矢は、いまいつたい何処にあるでしよう。」  ベッティーは探偵にむかい、 「もし家の中にあるのなら、きつとわたしの書斎の戸棚ですわ。」 「書斎?」 「えゝ、あたしが書斎として使つていた部屋です。伯母も伯父も生きていたころはそこを居間にしていましたが、いろんな骨董品が沢山おいてあるので宝物室とも呼んでいます。けれども伯父が死んでからは、伯母はその部屋と自分の化粧室とのあいだのドアに鍵をかけて、そこからその部屋へ入らぬようにしていました。けれどもその部屋へは廊下から入れますので、伯母がわたしの書斎として使わしていました。」 「いま封印してありますか?」 「はあ。」 「その矢を見たことがありますか?」 「戸棚のなかにいろんなものがあつたことだけは覚えています。」 「もし誰かゞこの毒矢を藥屋へわたすなら、その藥屋は矢の先についた混合物をアルコールで溶かして、一種の毒藥をやすやすと作ることが出来ます。そしてこの毒藥は、わずか十五分間で人の生命をとり、あとになんの痕跡ものこさないのです。」 「十五分!」ベッティーが訝しげに叫んだ。 「まア!」アンが喘いだ。 「どうしてそんなことが分ります?」フロビッシャーがきいた。 「この本に書いてあるんです。動物試驗をしたものらしい。ストロファントスの種子はディギタリスのように心臓を收縮させます。それよりもつと強いのです。」 「まア、けさ三十分のあいだにこの本をお調べになつたにしては、ずいぶん詳しく知つていらつしやるのね!」ベッティーが云つた。  今度はアノーが顏色を変えた。一二秒のあいだ沈默がつゞいた。フロビッシャーはまた二人の隱れた決闘を見たと思つた。 「毒藥の研究は私の職業ですよ、」と暫くして探偵がいつた。 「いまでは警視廳でも研究しています。」  フロビッシャーはベッティーに向つて、 「ワベルスキーは鍵を持つているでしよう?」 「はあ。」 「この本を持ち出したのはあの人じやないでしようか?」 「わたしもそう思いますわ。」 「鉄門はいつ締めるのです?」 「老僕が寢るときです。」  フロビッシャーは探偵に向いて、 「アノーさん、私たちは今まで一番大切な問題を忘れていました。すなわち誰がこの本を持ちだしたかという問題です。そして何時持ちだしたか? 昨日のお午には空だつたが、今朝はそれがちやんと戻つている。では誰の仕業でしよう? 昨夜は私たちは夕食後庭に出ていました。その隙にワベルスキーが入つて本を戻したのじやないでしようか?」 そばからベッティーが、 「でも門のそばに見張りの巡査がいますから、ワベルスキーが来たら分る筈ですわ。」  探偵は頸をふつた。 「巡査はもういません。昨日お孃さんが私の質問に対して満足に答えて下さいましたから、巡査の見張りは解きました。」 「そうだ。」とフロビッシャーが愉快げに頷いた。彼は昨日荷物を運ぶ時、門前に巡査がいなかつたのを思い出した。ベッティーは驚いたように身を起したが、やがて満足らしく微笑して、 「アノーさん有難うございます。見張がいなくなつたことは存じませんでしたので、今までお礼も申上げずにいました。あなたがそんなに親切にして下さろうとは思いませんでした。フロビッシャーさんにもお話したのですが、わたしはあなたに疑惑の目で見られているとばかり思つていましたの。」  かの女の言葉を遮るように探偵が手をあげた。フロビッシャーにはそれが、決闘者が試合をすませて挨拶する時あげる剣のように見えた。二人の隱れた決闘は終つた。 「見張の巡査がいなかつたとすれば、昨夜ワベルスキーがここへ来ても、誰も姿を見ることはできなかつたわけです。」フロビッシャーがいつた。  だがベッティーはそれに同意しなかつた。かの女は強く頸をふつて、 「でも、わたし、あの人がそんな怖ろしい殺人罪なんか犯す人とは思いませんわ。」それから探偵のほうにむいて、「この家では殺人なんか全然なかつたと思います。」それからちよつと言葉を切つたあとで、 「アノーさん、あなたがそんな怖ろしい推察をなさるにはどんな根拠がおありなんですか? たゞ分つているのは昨日ここになかつた伯父の本が今朝戻つてきた、これだけです。クラーデルという藥屋があるかないかさえまだ明白ではないんです。」 「いま分りますよ、お孃さん、」と探偵はテーブルの上の書物に眼を落した。 「まだ矢がこの家にあるかないかさえ分つていませんし――」 「それは探せば分ります。」探偵が頑強にいつた。 「それからまたたとえ矢を探し出して、その先に毒がまだ密着していたとしても、その毒の一部を使用したかどうかは正確には分りません。こゝにある檢屍報告書に毒殺の痕跡がないと書いてあるからといつて、たゞそれだけで痕跡の残らぬ毒藥を使つたと断定するわけには參りますまい。あなたはただ想像で推理をすゝめていらつしやるだけです。しかもその想像のおかげでわたしたちはひどい心配をしなければならないのです。実際に殺人が行われたのなら、それはわたしだつてどんなに取調べられても構いませんけれど、実際には、そんなことは全然なかつたのですもの。」  こう云うかの女の声は、もう疑惑なんかさらりと棄てゝ早く平和になりたいという熱意と、誠実な哀願に満ち/\ていた。こう云われては誰でも折れずにはいられまいと、フロビッシャーも思つたほどだつた。さすがの探偵もしばしのあいだテーブルの上に眼を伏せたのみだつた。だがやがて彼が徐ろに話しだすと、声だけは穏かであつたけれど、ベッティーのほうが負けたと思わざるを得なかつた。 「あなたの仰有ることにも一理はあります、ベッティーさん。けれども人間にはよかれあしかれそれ/″\信條というものがあります。私にもつまらないながら信條があります。私は大抵の犯罪、暴力の犯罪にさえ、斟酌すべき点を見出すにやぶさかではありません。熱情や忿怒や強慾、これらはみんないわば善良な性質が埓外に飛び出したに過ぎないのです。つまり始めよかつたものが成長しすぎて惡くなつただけです。そこに斟酌すべき点があるのです。けれども私がどうしても許すことのできない犯罪が一つあるのです。それは毒物を使う殺人です。私は一人の毒殺者を探すためには身を粉にしても捜索をつゞけたいのです。」  彼の言葉は毒殺者に対する憎惡に燃えていた。探偵の言葉は低かつたし、また彼は始終テーブルに眼を伏せていたけれど、耳を澄してきく三人の者は身の毛がよだつような気がした。 「毒殺者は臆病に人目を忍びながら、自分の思う通りのことをどん/\やつて行きます。怖るべき仕事を易々とやつてのけるのです。それは酒の味を覚えて行くようなもの、そして酒よりももつと面白くなるのです。こゝに一人の毒殺者があつて、彼が一人の人間を殺したとすれば、きつと一年とたゝないうちに、もう一人殺される人間が出てきます。きつとです。」  彼の言葉はリン/\と鳴るように響いて消えていつた。だがその余韻は部屋の空気を振動させ、なおも壁につきあたつて刎返つてくるように思われた。想像力のあまり強くないフロビッシャーでさえ、もし自分が犯人でこの言葉を聞いていたら、良心に責められて思わず何等かの叫声を立てゝ、自分が犯人なことを覚られるだろうと思つた。  このとき外からドアを叩く音がした。 「お入り、」と探偵が云うと、黒髪の機敏そうな小柄の私服巡査が入つて来た。 「これは庭に立つていたモロー[#「モロー」は底本では「モーロー」]という巡査です。さつきワベルスキーを送つて出た時、使いに出したのです。」それから巡査に向つて、 「どうだつた?」  巡査は私服なるにもかゝわらず、気をつけの姿勢で両手をぴつたりズボンの縫目につけて、話すというよりも朗読するような声でいつた。 「命令によりましてガンベッタ街へ行つてみましたら、七番地にたしかにクラーデルという藥草店がありました。つぎに警察へ歸つて取調べましたところ、彼は二度禁止された藥品を賣つて取調べられ、二度とも証拠不十分で放免されたことが分りました。」 「御苦労さま。歸つてよろしい。」  平服の巡査はお辞儀をして出て行つた。一同が不安げに鎭まり返つていた。探偵は遺憾げにベッティーに目を呉れて、 「あの通りですから飽くまで調べなければなりません。毒矢があるかも分りませんから、ハーロー氏の鍵の掛つた戸棚も調べてみましよう。」 「ドアに封印がありますよ。」フロビッシャーがいつた。 「封印を破るのです。」探偵はポケットから時計を出してみて眉をひそめた。 「封印を破るとすれば署長に立会つて貰わねばならんが。いまは十二時で食事の時間だから、いま呼ぶのは遠慮したほうがいゝでしよう。」  探偵はこゝまでいうと吃驚したように横を向いた。一同が探偵の視線を追つてそのほうを見ると、壁際に立つたアンが、いまにも倒れそうに片手を椅子の背にあてゝ両目をつぶつて悲しそうな顏をしている。探偵はすぐそのそばに歩みよつて、 「アンさん、どうしました?」 「じや本当なんですね、クラーデルという店があるのは?」アンがいつた。 「そうです。」 「そして犯人は毒藥を使つて、十五分間で夫人を殺したのですね?」 「そうです。それがどうしました?」 「そんなら、そんなら、わたしが惡かつたんです。わたしが邪魔しようと思えばできたんです。」  アンを見つめていた探偵の顏が軟らいだ。フロビッシャーは探偵が失望したのだろうかどうだろうかと思つた。探偵はもつと違つた言葉をアンの口から期待していたのではあるまいか? だがこんなことを考えていた時、ふとベッティーが身動きしたので、フロビッシャーはそのほうへ目を移した。彼女は今まで見たことのないような目付で二人を見ている。  探偵は手に持つていた時計をポケットに納めた。 「署長はいま食事中でしようから、その間に、アンさん、あなたのお話しを承ることにしましよう。庭の木蔭へ参りましよう。」ハンケチで顏の汗をふいて、「暑い。この部屋は釜の中のようだ。」  フロビッシャーが後からこの朝のことを思い出してみて、一番はつきり印象にのこつているのは、毒藥の本でもなければ、探偵が自分の信條を述べる場面でもなく、探偵が鎖の先につけた時計をぶら/\片手で玩びながら、直ぐ署長を呼ぼうか、それとも署長に食事をさせようかと思案していた場面である。それほどあの瞬間は、誰も気付かなかつたけれど、あとの成行きを変化させたのである。 [#3字下げ]9 秘密[#「9 秘密」は中見出し]  庭のむこうのはしの大木の繁る木蔭には、はや芝生の上に庭椅子が並べてあつた。アノーは一同をそこへ導いた。 「こゝは涼しくもあるし、鳥よりほかに誰に聞かれる心配もない。」そして彼はアンのために、大きな籐椅子のクッションの位置をなおしてやつた。フロビッシャーは患者に対する醫者の心遣いを聯想して、ちよつと不快だつた。だが彼は次第にこの不思議な人物の性質を呑込んできた。ちよつとした彼の親切は作りものではないのだ。それは本物ではあるが、しかしその爲に捜査の手をゆるめるようなことはしない。彼は看護婦のような素早さでクッションを直してやるが、つぎの瞬間には、もし義務とあらば、その患者の手頸に同じ素早さで手錠をはめるかもしれないのだ。 「さァ、どうぞアンさんお坐りください。私は煙草を喫わしてもらいましよう。」  アノーは青く光る袋から細い黒い卷煙草を引き出して火をつけ、二人の女のそばに腰をおろした。フロビッシャーは彼の後に立つた。芝生には日光と日蔭の斑点ができて、梢には小鳥が啼き、空気は花園に咲きほこる薔薇の匂にみたされていた。これからアンが話そうとする暗夜の気味惡い冒險談の背景としては、妙にそぐわないようにも思われるが、この対照が却つてかの女の話を生々させるようにも思われた。 「わたしは四月二十七日の晩は、プイラック氏のダンスの会に行きませんでした、」と彼女がはじめた。フロビッシャーがそれを聞いて吃驚したように身動きすると、探偵が手をあげて制した。フロビッシャーはいままで彼女がその夜どこにいたか考えずにいた。だが探偵はこの陳述を聞いても少しも驚いた色はみせない。 「御病気だつたのですか?」探偵がきいた。 「いゝえ。」とアンが答えた。「ベッティーさんとわたしとは、なにも約束したわけじやありませんが、わたしがこのグルネイユ莊に来るようになつてから、妙な習慣があつたのです。二人で別々の道を歩いていたのです。」  二人の女は一緒に住むようになつてから、たがいに自分の道を歩くのが、いつまでも仲好くしていられる方法だということを知つていた。そしてたがいに相手の部屋へは入らぬようにした。 「わたしはベッティーさんのお部屋へ一二度入つたことがありますけれど、ベッティーさんはわたしの部屋へは一度もお入りになつたことがないほどです。そして別々な友だちを持つていました。どこへ行くかだの、誰と遊ぶかだの、そんな質問でお互を苦しめない習慣でした。一口に云えば始終鼻を突合さないようにしていたのです。」 「それはいゝ習慣です。」アノーが心から賛意を表した。「その習慣がないために困つている家庭は沢山あります。ではプイラック家はたゞベッティーさんだけの友だちだつたのですね?」 「そうでございます。そしてベッティーさんがお出かけになると、わたしは老僕に向いて、いつでも灯を消してお寢みといゝました。それからわたしの寢室の隣にある自分の居間へ上りました。こゝから窓が見えます。あれでございます。」  みんなは庭の向うの長い建物を見た。ホールの右手にはずらりとシャッターのある窓がならび、その上にベッティーの寢室がある。 「なるほど、図書室の上ですね。」とアノーがいつた。 「そうでございます。そしてわたしは手紙を書きはじめました。」こゝまでいつてアンが急に口籠つた。かの女が図書室で叫んだときには気付かなかつたある話し難い障害にぶつかつたのである。「あのう、」といつて口を噤み、また低い声で、「あのう、」と呟いた。かの女は心配らしくベッティーの顏を見たが、ベッティーから助けを得ることはできなかつた。ベッティーは両肘を膝の上について、足元の草をみながら、心ではなにやら他のことを考えているらしい。 「はあ?」と探偵は穏かにうながした。 「それは大事な手紙だつたのです。」  と用心深く一語々々を選びながらアンが話しはじめたが、それは丁度昨日のある場合のベッティーの態度と同じで、アンもなにやら隱しているらしく思われた。「どうしても書くと約束してあつた手紙でした。けれども宛名が階下のベッティーさんの居間にあつたのです。醫者の宛名でございます。」これを云つてしまうと障害を突破したように、あとは割合にすら/\と出た。 「アノーさんにも覚えがおありでしよう。わたしはその日遅くまでテニスをしたので、すつかり疲れていたのです。けれども可なり頭を使つて手紙を書いたり、階下へ宛名を取りに行つたりしなければなりませんでした。そこでわたしは先ず手紙を書く前に、文句を考えようとしたんです。」  焦れつたげに足踏みしながら聞いていたフロビッシャーが口を出した。 「それはどんな手紙です。またどこの醫者に宛てた手紙です?」  するとアノー探偵がほとんど怒つたように振りむいて、 「どうぞ! それは默つて聞いていれば、いつか適当な時期がくれば自然に分ります。いまはアンさんの話されることだけ聞いていてください。」そして探偵はまた素早くアンのほうへ向直つて、 「なるほど、手紙の文句をお考えになつたのですか?」  かの女はちよつと口元に笑みをうかべて、 「けれども考えるというのは自分で自分に対する辯解で、本当はたゞ大きな安樂椅子に腰かけて、足を伸ばして何もせずにいたかつたんです。それからどうなつたかお分りでしよう?」  アノーが微笑しながら頷いた、 「つかれていたので居睡をなさつたのでしよう。若い人というものは、健康で疲労している時には、いくら気を張つていても起きていることはできません。」 「そうなんです。ふと目を覚してこれはしまつたと思いました。椅子で居睡りすると誰でもそうですが、目を覚した時には寒うございました。薄いフロックを着ているだけですもの。わたしはすぐ立ち上つて部屋を出ましたが、まだこの時には半分寢ていたようなものです。そして部屋を出るとドアを締め、それから階段を降りました。階段にも階下の廊下にも灯がついていず、おまけに窓にカーテンが降りていて、月も出ていなかつたので、自分の手を鼻先に持つて行つても見えぬほどでした。」  アノーは卷煙草の吸殼を足もとにすてた。ベッティーは微かに口をあけたまゝ顏を起してアンを見ている。もうあたりには日光も薔薇も小鳥の啼声もないのと同じだつた。彼らはアンと一緒に闇の階段に立つているのだ。 「そして?」と探偵が口早にうながした。 「でも暗いのが怖くはございませんでした。いまから思うと、とても怖くて堪りません、がその時は何ともなかつたのです。階段の踏板はひとつ/\知つていますので、片手を手摺にかけて降りました。家の中はしんとして何の物音もしません。ですからほかの人が起きていようとは夢にも思いませんでした。階段の下には電灯のスイッチがあるんですけれど、それを点けようともしませんでした。ベッティーさんの居間のなかのドアのそばにスイッチがありますから、それだけで沢山だと思つたのです。それにわたしが電灯をつけなかつた理由は、ひとつには他の人を起したくなかつたからです。階段を降りきると兵士のように右へ曲りました。ベッティーさんの居間はわたしの眞向いにあります。両手を前に伸して手探りながらホールを横切つたのです。まずはじめに手に触れたのが、ホールと廊下の境目の角のところ、私はそこで右がわ、すなわちホールの壁に沿つて進んで、まもなくドアを探りあてました。それが宝物室でもあれば、ベッティーさんの居間でもある部屋のドアです。把手をまわして内へ入り、ドアのすぐそばのスイッチをひねつて明りをつけました。その時のわたしはまだよくは目覚めていなかつたのです。けれども明りをつけると同時に、その瞬間、はつきり一時に目が覚めました。そしていそいでこつそり音がしないようにすぐまたスイッチを捻つて明りを消してしまいました。明りを点けてから消すまでの時間は、ほんの一瞬間だつたので、部屋の向うの壁際にある寄木細工の戸棚の上の時計を見ることができただけです。あたりはまた眞つ暗、その暗闇の中に立つてわたしは烈しい息遣いをしました。怖かつたからでなく、吃驚したからです。といゝますのは、部屋の内側の向うのほうの、窓のそば、ほら、あの窓ですよ、」――アンはシャッターをしめた二つめの窓を指さして――「あの窓のそばのドアが、そのドアはハーロー氏がお亡りなつてから[#「お亡りなつてから」はママ]ずつと締めて鍵をかけてあつたのですが、それが開け放したまゝになつて、向うから明るい灯が見えたからです。」 「あのドアが?」とベッティーが本当に驚いた顏をして、「どうして開いたんですか?」  アノー探偵は坐つたまゝちよつと身動きして、 「鍵はそのドアのどちらがわにあつたのです、ベッティーさん?」 「もし鍵が差込んだまゝになつていたとすれば伯母の部屋のほうですわ。」ベッティーが答えた。 「確なことは分りませんか?」 「分りません。伯母が病気で寢ている時は、アンさんもわたしもよく伯母の寢室へ參りましたけれど、なにしろその寢室と宝物室との間に、小さい伯母の化粧室があつたので、そこのドアがよく見えないのです。」 「なるほど、」アノーが頷いた。「看護婦が寢てもよかつたというのは、その化粧室のことですね。そのドア――すなわち化粧室と宝物室との間のドアは、翌朝も開いていましたか?」  ベッティーは眉をひそめて考えていたが首をふつた。 「それは覚えていません。なにしろ大騒ぎで忙しかつたもんでございますから、覚えていません。」 「御尤です、」と探偵はまたアンのほうにむいて、「あなたの不思議なお話のつゞきを聞かして頂く前に、ちよつとお訊ねしたいことがあるのです。あなたが見た灯というのは、化粧室の電燈ですか、もひとつ向うの夫人の寢室の電燈ですか、それともどちらか分らなかつたですか?」 「夫人の寢室の灯だつたように思います。」アンがはつきり答えた。「化粧室の灯だつたらもつと宝物室のほうへ明りが差し込むはずです。宝物室は大きくて細長いですから、わたしのいるあたりはまつ暗でしたが、向うの開いたドアのそばの絨氈や、その上にある轎はかすかな明りを受けて銀のように光つて見えました。」 「なるほど。宝物室には轎があるのですか。それは拜見したいもんですな。で、その明りは夫人の寢室から洩れてきたんですね?」 「明りばかりでなく人声も聞えました。」アンは喘ぐようにいつた。 「人声!」椅子のなかでアノー探偵が身を起した。  ベッティーも幽霊のように白くなつた。 「人声! どんな声です? 誰の声だかわかりましたか?」 「ひとつはたしかに夫人の声で、なんだか烈しく云つてつぎに呻くような細い声になりました。もひとつの声は囁くようなひくい声で、一度聞えたきりです。それからなにか動作をするような気配もしました。」 「動作!」探偵が鋭くいつた。「動作だけでは分りませんね。椅子を引きよせるのも動作ですし、声を出させないように手で口を抑えるのも動作です!」  探偵の鋭い詰問に会つてはアンも負けないわけにゆかなかつた。 「えゝ、実はそうなんでございます、」とかの女は両手で顏を覆つて、「今朝あなたから毒矢のお話を伺うまでは気が付かなかつたんです。ほんとにわたしが惡うございました。夫人はわたしがそこに立つている間に殺されたんです! あのときわたしが助けようと思えば助けることが出来ましたのに! そのとき夫人は『搾りとるつもりか! 骨と皮になるまで!』といわれ、それからあなたがおつしやつたように、口を抑えられたようすで、もぐ/\呻く声だけが聞えました。それからしばらくして他の声が『これでよし』と囁きました。わたしは闇のなかに立つてそれだけ聞きました。」 「それからどうしました? どうか顏から手をとつて次を聞かしてください。」アノーがいつた。  アンは手を下におき、涙にぬれた顏を起した。 「わたしは宝物室を出て、ごく靜かに音を殺してドアを締めそれから逃げるようにして歸りました。」 「逃げるようにつて? どこへ?」 「わたしの部屋。」 「あなたはベルを押さなかつたですか? 誰をも起そうとしなかつたですか? 自分の部屋へ逃げこんで、子供のようにベッドへもぐりこんだのですか?」  こう責めたてゝはみたが、探偵はすぐまた言葉をかえて、 「あなたは『これでよし』といつた声を誰の声だと思います? いま図書室で見知らぬ人がいたといゝましたね?」 「それは分りません。低い声は誰の声も同じに聞えますから。」 「そう仰有らないではつきり云つて下さい。逃げて歸るなんて爲すべきことじやありません。」 「看護婦の声かと思いました。」  探偵がまた椅子に凭れて、じつとアンを見つめたが、その目には恐怖と不信が現れている。夫人の病室にいるのが看護婦なら、なにも逃げて歸るには及ばぬではないか。  探偵は急に優しい声になつて、 「アンさん、どうも腑に落ちませんね。」  アンは当惑したようにベッティーのほうをむいて、 「ねえ、あなた」といつた。 「そう」とベッティーが答えた。そしてベッティーはちよつと立ち上つて考えていたが、 「待つていて下さい」と云つたまゝ家のほうへ走つて行つた。  探偵は驚いた顏つきでそれを見送つた。  だが待つほどもなく歸つてきたかの女は大きな封筒を手に持つていた。 「アンさん。これはあなたにお見せすまいと思つていたのです。いまゝで誰にも見せなかつたのですから、あなたにもお見せしたくなかつたのです。しかしもう仕方がございません。」  封筒のなかからキャビネ型の一つの写眞をとりだして探偵に渡した。 「これは伯母が伯父と結婚した頃の写眞です。」  それは苦労と悲しみに浄化された立派な精神的の美しさもあれば、どこやら明るい滑稽味もある女であつた。フロビッシャーでさえそれを見て、「美しい人ですね!」といつた。  ベッティーは第二の写眞をとりだして、「これは伯母が一年前にとつた写眞です。」といつた。それは同じ人間が、十年の間にこうも変るものかと怪しまれるほど変りはてゝ、頬はふくれ、唇はつきでて、眼には鋭さ以外になにもみとめられない。一口にいえば廃頽の写眞であつた。 「ベッティーさん、夫人は晩年にお酒をめしあがりましたか?」 「伯父が死んでから飮みはじめたのです。すつかり人がかわつて絶望的な人となりました。」 「そうでしよう。こゝにいられるフロビッシャー君も私も、この事件になにか秘密があるのだと思つていました。ワベルスキーが脅迫がましい態度に出たのも、じつはその夫人の飮酒という秘密をつかんでいるからでしよう。」 「えゝ。ワベルスキーのほかに醫者も召使も伯母が酒を飮むことは知つています。できるだけ世間に隱すようにしたんですけれど、隱し得たかどうか、はつきりとは分りません。」  探偵はにつこり笑つて、 「秘密が世間へ洩れているかどうか知らせて上げましようか?」  二人の女が驚いて彼を見た。 「どうして?」二人がきいた。 「私の簡單な質問に答えて下されば分ります。あなたがたのうち、その秘密に関したことを書いた無名の手紙を受取つたことがありますか?」 「いゝえ。」ベッティーが答えた。 「いゝえ。」アンも答えた。 「では夫人の秘密はまだ世間へ洩れていません。」  なるほど無名の手紙は、いままで世間の隱れた秘密という秘密は、ことごとく利用していたのである。 「伯母はいつも寢室で一人でお酒を飮みました。そばからそれを止めるように忠告すると、狂気のようになつて怒るのですから手がつけられません。伯母は心臓が惡いのですから、そばについているわたしたちは、いつどんな悲劇が起るかも知れないと、この飮酒癖をどんなに心配したか分りません。わたしがダンスの会へ行つた留守に、アンさんが書こうとした手紙というのは、じつは英国のある醫者へ出す手紙だつたのです。本当の醫者だかどうか知りませんが、とにかく廣告には醫者と書いてありました。その醫者が送つてくれる藥を食物のなかに混ぜて與えると、本人が気付かぬうちに飮酒癖がなおると書いてありましたので、利くかどうか信用はしませんでしたけれど、試してみるよりほかに仕方がないので、アンと二人で相談して、その醫者に手紙を出すことにしたのです。」  探偵は得意げにフロビッシャーを振返つた。 「どうです? 手紙のことは時がくれば自然に分ると私がいいましたが、その通りになつたでしよう。」  やおら椅子から立ちあがると、探偵はベッティーに丁寧に会釋して写眞をかえした。 「お孃さん御同情します。あなたやアンさんがそんな気苦労をしていらつしやろうとは思いませんでした。この秘密、つまり夫人が飮酒癖をもつていられたということは、私たちも誰にも他言しないようにいたしましよう。」  このベッティーにたいする丁寧な態度を見て、フロビッシャーは探偵にたいして抱いていた不満を消した。探偵がもう調べを打切るのかと思つた。だが探偵はまた椅子に腰を下してアンのほうへむいた。フロビッシャーは失望した。そしてこの事件――ある犯人を中心としてのこの事件が、しだいに無形のものから有形のものに変り、臆測にすぎなかつたものが確証に変りつゝあることを意識しないではいられなかつた。 [#3字下げ]10 時計[#「10 時計」は中見出し]  アンの話には筋道がたつている。かの女は闇のなかにたつて夫人が烈しい発作を起して罵つているのを聞いた。それから間もなく附添の看護婦が夫人を宥め、なにやら鎭靜剤をあたえた樣子なので安心した。夫人がだん/″\鎭つたので、そばの看護婦が、「これでよし」といつた。アンが逃げだしたのは卑怯でもなんでもない。かりにもしアンがその場に顏を出したとしたら、翌日夫人が正気に返つた時、アンに見られたことを気恥しく思うわけだから、こつそり逃げだして自分の部屋へ歸つた気持はよく分る。 「なるほど、」と探偵がいつた。「けれどもいまになつて考えてみると、あの時のあなたの解釈が違つていた、つまりいまではあの時僅か数ヤードへだたつたところで、残忍な殺人が行われていたのだとお信じになつたのですね。」  アンは頭の先から足の先までぶるッと身顫いして、 「そうは信じたくないんですけれど。あまり怖しいことですから。」 「そしていまでは『これでよし』と呟いた者は看護婦ではなくて、見知らぬ人であると考えていらつしやるんですね?」  アンは両手を揉みながら体を左右に動かして、 「そうでございます。」 「そしてあなたはあの時そッと明るいドアに近づいて、なかの樣子を見なかつたことを口惜しがつていらつしやるんですね?」 「はい。さつき申上げました通り、わたしはあの時殺人の邪魔をしようと思えば出来たはずなんです。それにけさまで気付きませんでしたの。それにあの夜、まだ妙なことがございました。」アンの顏は蒼くなり、両眼は恐怖に輝いた。 「妙なこと?」ベッティーが息をはずませて椅子を前に引きよせた。黒い服の脇のポケットからハンケチをだして額をふいた。 「そうですよ、ベッティーさん、」と探偵が説明した。「なにかまだ妙なことをアンさんがあの夜経驗なすつたに違いありません。そしてそれらの事実と、いま図書室で話した毒矢のことを綜合してみて、殺人が行われたにちがいないとアンさんがお考えになるに至つたのです。」アンのほうへむいて、「どうぞ、」とうながした。  アンがまた話を続けた。 「それから自分の寢室に歸りましたが、夫人の――なんと申しましようか?――発作を聞いてからは、なんだか気持が惡くて寢つかれないのです。それで暫くのあいだ寢返りばかり打つていましたが、とう/\疲れてぐつすり寢込みました。けれどもそれはちよつとの間で、すぐまた目を覚しましたが、むろん部屋のなかは眞暗で、シャッターのすきまから差しこむ微かな光りさえありません。わたしは寢返りを打つて、両手を頭の上に伸したのですが、まア、どうしたことでしよう、そのとき片手が人間の顏に触れたのです――」かの女はいまになつてもその瞬間の恐ろしさを想い出すと戰慄せずにいられない。「その顏はじッと默つてわたしのほうに向いてしやがんでいるのです。わたしははッとして両手をひつこめました。胸が早鐘をつきだしました。一秒か二秒のあいだ麻痺したように默つていたあとで、わたしは狂気のように叫びました。」  こう話すときのかの女の顏は、言葉より以上の恐怖を表していた。一同がその恐怖に感染した。フロビッシャーは不安げに肩をうごかし、ベッティーは眼を見はり息をはずませて聽き入り、アノーは、 「叫んだのですか? ごもつともです。」といつた。 「けれどもいくら叫んでも誰の耳に入るものではありませんし、寢ていたところで助けに来てくれる人もないわけです。で、わたしは慌てゝベッドから飛降りたんですが、こんどは誰の顏にも触りません。あまり慌てゝいたので方向の観念をうしなつて、スイッチがどこにあるのか判断がつかないのです。それで無闇矢鱈に壁に沿つて手探りに歩きまわつたのですが、このとき自分が泣いている泣声を他人の声のように聞きました。そのうち箪笥にぶつかつて初めて正気に返り、それから間もなくスイッチを探しあて灯をつけました。明るくなつて見ると部屋の中は空で誰もいません。わたしはいまのは夢だつたのだと自分に云つてきかせようとしたのですが、それは駄目です、闇のなかで誰かゞわたしのそば、えゝ、すぐそばに確に顏をのぞけていました。その顏に触れた指先がうずくような気がします。もうあの時目を覚さずにいたら、わたしはどうなつたでしよう? 部屋のなかに立つたまゝ耳を澄しましたが、聞えるのは部屋中に満ちた自分の動悸の響だけです。そッとドアのそばによつて、外の物音に耳をすますと、次から次と廊下を忍足で通るのが聞えるような気もします、思い切つて勢よくドアをあけて身をひきましたが、ドアをあけてみると誰も通つていません。そこでこんどは階段の一番上のところまで出てみましたが、下のホールは墓のような靜けさ、蜘蛛一匹うごいても聞えるほどしんとしています。あけはなしたわたしの寢室からの明りが、わたしの立つている階段の上のところまでかすかに射してきます。わたしはそこで、『だれ?』と呼んでみました。それから自分の部屋へかえつてドアに鍵をかけました。もうどうせ寢られぬことは分つていますので、窓をあけて外をみますと、夜はいつのまにか晴れて、黒い空に星がでて、爽やかな空気がながれています。窓を覗いてから約五分間ばかりたつと、アノーさんも御存知でしよう、ディジョンの方々の大時計がどんな山に響くかということを――方々の時計がいつときに三時を打つたのです。そしてわたしは夜が明けるまで窓際に坐つていました。」  アンが話し終つても誰も口を切るものはなかつた。やがて靜かに探偵が卷煙草に火をつけて、空を仰いだり地を見たり宙を睨んだりしたが、ほかのひとの顏だけはけつして見なかつた。しばらくして重々しく彼はいつた。 「するとその出来事は午前三時にちよつと前ということになりますね? 時計が三時を打つたというのは確でしようね? 時間の問題は大切ですよ。」 「たしかです。」 「この話はいままで誰にもしませんでしたか?」 「翌日は夫人が亡くなられたことが分り、それから葬式、それからワベルスキーの起訴とつゞきましたので、そんなことを話す暇がなかつたのです。また話したところが信じてくれる者はありません。それにまたわたし自身もこの事実を、夫人の死と結び合して考えたことはなかつたのです。」 「そうでしよう。病死と思つていられたんでしようからね。」 「えゝ、ですけれも今でも病死でないと、はつきり分つているわけじやないんです。たゞ今日わたしがこの話をしましたのは、もしアノーさんの仰有るように、夫人の死が他殺であるとするなら、わたしがこの殺人のあつた時の正確な時間を知つているということを御知らせしたかつたのです。」 「あゝ!」と探偵が叫んだ。「あの宝物室の寄木細工の戸棚の上にあつた時計ですか。あなたはスイッチを捻つて電灯をおつけになり、それからまたすぐお消しになりましたが、そのときに時計をごらんになつたんですね。」 「はあ、それが十時半でございました。」アンが静かにはつきり答えた。  この答えで緊張がとけた。ベッティーは握りしめていた手を緩めてハンケチを下に落した。フロビッシャーが長い溜息をした。 「その時刻が大切なんですよ。」探偵がいつた。 「そうですね、」とフロビッシャーが合槌うつた。  彼が喜んで合槌うつたのは、もし四月二十七日の同時刻に殺人が行われたとすれば、この家のなかに唯一人だけ慊疑をまぬがれる人がある。それはベッティーだという結論を得たからである。  ベッティーがかがんでハンケチを拾いかけたら、不意にアノーが話しかけたので、かの女は慌てゝ体を起した。 「ベッティーさん、寄木細工の戸棚のうえにある時計は正確なんですか?」 「えゝ、リベルテ街の時計屋がいつも手をかけている正確な時計でございます。八日動く時計ですから、今日封印を切つて部屋に入つてみても動いているはずです。ですから違つているかいないかすぐわかります。」  だが探偵は調べてみるまでもなくかの女の言葉をその場で信用した。そして椅子からたちあがると形式的ではあるが微笑をうかべてかの女に頭をさげた。 「あなたは十時半にはチエル街のプイラック氏邸でダンスをしていらつしやつた。私が調べたところではその事実に間違いはありません。あなたがお歸りになつたのは午前一時です。これはあなたの運転手も知つていますし、プイラック氏邸の召使も知つています。」  それから探偵は時計を出してみて、 「もうそろ/\一時です。三時に署長を呼びましようか? いかゞです? では三時に一同が図書室に集まることにしましよう。」 「じや三時、」と快活にベッティーがいつた。そして椅子から立ちあがると、素早くしやがんでハンケチを拾い、それから向き直つて、「アンさん、歸りましよう。」といつた。  四人が家の方へ歩きだした。するとベッティーが後を振り向いて、 「アノーさん、あなたは椅子の上に手套を忘れていらつしやいますわ。」  そしてアノーが制するのも聞かず、かの女は走つて行つてそれを取つてきた。 「どうも有難うございました。」彼が手套を受けとつた。  彼らは默つて家に入ると、探偵は帽子とステッキを取つて鉄門から立去り、アンは図書室へ入つた。ベッティーは玄関からアンに向つて大声でいつた。 「二時に食事をしましよう。わたしそれまで散歩して来ますわ。」  そしてすた/\と鉄門から出ていつた。  フロビッシャーはアンのいる図書室へ入つて、 「私もこれからベッティーさんの後を追つて一緒に散歩しようと思います、」と帽子を取ろうとした。  アンは考え深そうに頭をふつて、 「お止しになつたほうがいゝでしよう。あのかたは一人で散歩したいのです。」 「そうでしようか?」 「えゝ。」  フロビッシャーがもじ/\帽子をつゝいていると、アンがまたいつた。 「それよりあなたは公証人べーさんの家へ行つて、今日これから封印を切ることを知らせて下さい。封印するときに立合つたんですから、こんども立会うのが当り前です。それにあの人が各室の鍵や戸棚の鍵を持つているのです。」 「ではすぐ行きましよう。」  アンは彼に公証人の住所を知らせた。そして図書室の窓からいつまでも彼の後姿を見送つた。 [#3字下げ]11 新しい疑惑[#「11 新しい疑惑」は中見出し]  フロビッシャーが名刺を渡すと、公証人べー氏が玄関に現われた。とがつた口髭のある小男で胸にナプキンをつけたままだ。  フロビッシャーは封印を切ることは告げたけれど、毒矢の本の発見にまつわる話なぞなにもしなかつた。 「そうですか、では三時に私も參りましよう。そしてこの忌まわしいスキャンダルの結末を見物しましよう。あんな美しい正直な令孃を告訴するなんて、ワベルスキーというやつは実に獸みたいな男ですな。併しフランスには法律というものがあるのです。思い知らしてやりましよう。」  まるでフランス以外には法律というものがないような口吻だつた。彼は丁寧に挨拶してフロビッシャーを見送つた。  フロビッシャーがゴドラン街を通つて、アルメの廣場にさしかゝると、葉卷をくわえている[#「くわえている」は底本では「くわいてえる」]アノー探偵に出会つた。 「食事はすみましたか?」 「いつも十五分ですまします。あなたは?」と探偵がきく。 「まだです。二時までベッティーが散歩しますから。」  探偵はにや/\笑つた。 「そうでしよう。訊問のあとの初めての散歩。患者が手術をうけたあとの初めての散歩。疑いが晴れた被告の初めての散歩。無理もないです。併し晝食が遅れるのを不平に思つちやいかんです。そのかわりあなたは私に会えたんですからね。いゝことがある。これからいつしよにフィリップ・ルボン塔へ登つて町を見ましよう。」  かれらがホテルの廣い庭を横切ると、高さ百五十フィートの四角な高塔の下へ出た。若者は探偵のあとについて三百六十の踏段をのぼり、青いフランスの五月の空の見えるところに出た。東の方へ向いたフロビッシャーはその眺望の美しさに息をのんだ。すぐ眼の前には婦人の裝飾物のような古いノートルダムの寺院、その向うには緑色の平原が海のように廣く横たわつて、ところどころに小さい村が散在し、銀絲のような川が流れている。  探偵は石のベンチに腰を卸すと、手摺の上に手を伸べて誇らしげにいつた。 「ごらんなさい。あれをごらんに入れるためにあなたをこゝまで引つぱつてきたのです。」  そのほうを見た若者の顏はたちまち輝いた。はるか地平線の消えるところ、この世のものとは思われぬ美しいモンブランの峰々が、銀のごとく白く、ビロードのごとく軟く重なりあつて、それが日光を受けて、ところどころ金砂のように光つている。 「あなたあすこへ登つたことがありますか?」探偵がきいた。 「五度ばかり。また登りたいです。」 「それは羨しい。私なんかは遠方から見るだけです。しかも頭がほかのことを考えているときには、いくらあれを見ても、友人と默つて坐りあつているようなものです。」 「というのは今度の事件で頭をなやましていらつしやるんですね? アノーさん、私はさつきアンさんの話を聞いたとき、闇のなかで触れた顏ですね、あれが軟い女の顏だつたか男の顏だつたか、それをきゝたかつたのです。貴方はなぜその問題を追求なさらなかつたんです?」 「それは不必要な質問だと思つたからです。不必要な質問は避けたほうがいゝです。」  フロビッシャーにはこの説明が腑に落ちなかつた。なんだか説明の奥に意味があるような気がしたが、それがなんであるかは見当がつかない。 「不必要な質問でしようか?」 「そうですとも。もしかの女の手が闇のなかで、髭を剃つたあとのざら/\した、皮膚のかたい、頭髪のみじかい男の顏に触つたのなら、話をするときにそれを話さずにはいないです。それは恐怖のなかの恐怖です。默つているはずはありません。アンさんが闇のなかで触つた顏は、だから女の顏にちがいないのです。もし顏に触つたというのが本当とすれば。」 「では貴方はアンの話を信じていらつしやらないんですか?」 「私はなんにも信じません。たゞ犯人を探しているだけです。」 「でも、まさか、あの女が嘘をついているとは思われんですね。あんなに心からの恐怖を顏に表し得るものではない。」 「ところが、フロビッシャーさん、女のひどい犯罪者というものは、みんな上手な役者なんですよ。ほとんど例外なしです。」 「しかし夫人の遺書にはアンさんのことは書いてないのです。ですから夫人を殺したつて、アンさんの利益になることは少しもないのです。」 「まア、あのひとの話を分析してみましよう。あの話は二つの部分から成り立つている。」アノーは葉卷の吸殼を靴でふみにじり、こんどは黒い卷煙草を出して、一本フロビッシャーにとらせ、自分もそれに火をつけた。「一つの部分は自分の寢室に於ける怖ろしい話で、あんな話は誰でも作ることができます。けれども他の一つの話はちよつと作ることができない。べつに理由がないのに中間のドアが開いていた。向うに明りが見えた。爭う物音、それから、『これでよし』という声。こんな話は作れるもんじやないです。作つたにしては謎のような分らない部分が多すぎます。それから時計を見た話も本当です。ところがですね、今朝ワベルスキーがガンベッタ街の藥屋の話をしました。」 「そうです。」フロビッシャーがいつた。 「私はあとであなたに向いて、ワベルスキーが藥屋の話をしたのは、ことによると彼自身の実驗談をベッティーに当てはめて話したのかも知れないといゝました。」 「そう。」 「アンの話も同樣に解釈してみたらどうでしよう。すなわちあの日の何時頃か分らぬが、とにかくアンがあの中間のドアを開けた。晝間は夫人は寢室にいないから、あのドアを開けるのは易いことです。しかもあのドアは夫人の寢室にあるのでなくて、宝物室と夫人の化粧室の中間にあるのですから、鍵を取つたまゝにして置いても、夫人に気づかれる心配はない。」 「なるほど。」フロビッシャーが頷いた。 「ベッティーがプイラック邸へ行つてからはアンが一人です。かの女は老僕を休ませる。家のなかはまつ暗になる。かの女にはもう一人の共犯者――つまり毒矢からとつた藥を注射針に用意しているもう一人の共犯者がある。かれら二人は、アンが話したように宝物室に入る。アンがちよつと電灯をつけた間に、共犯者はあの中間のドアを開ける。『これでよし』という言葉は、夫人の屍体をまんなかに挾んで、アンが共犯者に囁いた言葉かも知れないのです。」 「共犯者! それは誰のことです?」フロビッシャーがきいた。  アノーは肩をすくめて、 「ワベルスキーかも知れませんよ。」 「ワベルスキー!」新しい興味を感じて若者が叫んだ。 「あなたは夫人を殺したつてアンは何の利益にもありつくことが出来ないと云いましたね。けれどもワベルスキー自身は遺産の分前がもらえると信じていたのです。そして彼が夫人の殺害を計画し、アンも共犯者として、アンにいくらか與えると約束したとすれば、あの女にだつてまんざら殺人動機がないとはいえないのです。あの女について我々が知つていることは、たゞ金で雇われたお友だちということだけです。いつたいあの女はどこから来たのです? どうしてあの家に住むようになつたのです? ワベルスキーの友人ですか?」 「ではお話しましよう、」とフロビッシャーが云つた。「パリであなたとはじめてお会いした時、私はアンという女はしらないと云いました。また実際その時には知らないように思つていたのです。ところが昨日の朝、あの女が図書室へ入つて来たところを見ると、初めての女じやない、会つたことのある女だということが分つたのです。今年の一月モンテカルロの賭博場で会つたのです。そのときあの女は負けてばかりいましたが、隣に坐つている私は勝ちつづけでした。あの女は金をすつかりとられてしまつたらしい。そこで私は自分の千フランの紙幣を一枚テーブルから床の下に落して、素知らぬ顏でそれを靴で踏んでいました。そしてあの女が立去ろうとした時、私は英語で――英国人なことはよく分つていましたので、英語で呼びとめて、『この金はあなたのですよ。あなたがさつきお落しになつたんです』 と云いました。アンはそれを拾つて微笑しながら会釈しました。それからあの女は群集にまぎれて立去り、私も暫くしてから立上つたのですが、カフェの前を通ると沢山ならべた小さいテーブルの間からあの女が出てきて私に話かけました。驚いたことにはあの女は私の名を知つているのです。そして心からのお礼を云つたあとで、負けるばかりだつたけれど、そんなに困りはしないと云いました。けれども私はその言葉を信用しませんでした。というのはその女が指環はもとより首飾ひとつ着けていないあまり裕福でなさそうな女に見えたからです。そして女はすぐまたもとのテーブルに帰りましたが、よく見ると伴の男があつて、それがほかならぬワベルスキーなんです。アンが私の名を知つていた理由がそれで分りましたよ。」 「その頃はまだアンはハーロー家の一員ではなかつたのですか?」探偵がきいた。 「そうです。多分かの女はモンテカルロで夫人やベッティー孃に会い、それから一緒にディジョンへ来たのでしよう。」 「なるほど、」と探偵がしばらく默つて考えていたが、「アンにとつてはあまり有利な話ではないですね。」  フロビッシャーもそれに同意した。 「しかし、アノーさん、こういうことを考えなくちやなりませんよ。私はアンが共犯者だとは思いませんが、仮りに共犯者だとしてみると、なにが目的で二十七日の夜の冒險談をしたのでしよう? あんなことは默つていそうなものじやないですか。」 「それはこうだと思います。あの女がその話をしたのは何時です。いよいよ午後封印を切ると決つたあとではありませんか。ですから封印を切つた部屋を調べたら、なにか手掛りになるような物品が出てくる。そしてその前に疑惑を家のなかのほかの女に向けて置く必要を感じたのかも知れません。ほかの女――それは看護婦かも分りませんし、女中かも分りません。」 「ベッティーさんじやないんですか?」 「いや、」と探偵は手を振つた。「寄木細工の戸棚の上の時計がベッティーでないことを証明しています。あの女は家にいなかつた。しかしもうそろ/\帰らないとあなたの晝食の時間じやないですか。」  アノー探偵はベンチから立上り、フランスの前哨たる魔法の山に最後の一瞥をくれ、それから二人は向きなおつて町を眺めた。  フロビッシャーは緑色の菩提樹のしげつた小さい四角な庭や、古い家々の急な屋根を眺めた。ところどころの尖塔が槍のよう。たくさんの屋根を隔てゝやゝ南によつたところに大きな邸宅の長い屋根が見え、そこの煙突からは煙が立ちのぼつて、その後の[#「立ちのぼつて、その後の」は底本では「立ちのぼつて その後の」]大木の梢が日光にぎら/\戰いている[#「戰いている」はママ]。 「あれがグルネイユ莊!」彼が云つた。  だが探偵は返事もしなければ身動きもしない。 「そうでしよう?」と彼がまたいつた。  探偵にはその言葉も聞えぬらしい。そしてじッと眸をこらしてグルネイユ莊を見つめているが、そんな奇妙な探偵の目つきを見るのは、フロビッシャーにとつては初めてのことではなく、どこかで見たように思われるのだが、それがどこであつたかは思い出せなかつた。それは驚愕したときの目つきではないが、それかといつて單に興味を感じているというだけでもない。ふとフロビッシャーは探偵の目つきの意味をさとつて不安になつてきた。非常に注意ぶかく、そしてまた強く輝いているアノーのこのときの目つきは、強いてたとえるなら、鉄砲を持出す主人を見まもるときの猟犬の目つきとでもいおうか。  フロビッシャーはまた屋敷のほうへ目をうつした。屋根のところどころに破風のある小窓がのぞいているけれども、どの窓にも人影らしいものは見えなかつた。 「なにを見ているんです? きつとなにかを見ていらつしやるんでしよう?」たまりかねて若者がきいた。  やつと彼の言葉を聞いた探偵は、瞬間に鋭い顏から道化役者の顏になつた。 「むろん見ています。私はいつもなにか見ていなくちやならんです。アノーですからね。アノーの責任は重いです。責任のないあなたは仕合せですよ。可哀そうに、探偵というものは何処へ行つても何か見ていなくちやならん。なにもないところでも見ていなくちやならんです。帰りましよう!」  日光の明るい高台を去つて暗い塔の階段を降りはじめた。階段を降り切つた二人はまたアルメの廣場へ出た。 「食事にお帰りになるまえに、ベルモットを一杯のみましよう。」探偵がいつた。 「でも遅くなりますから。」 「まだ大丈夫。もつと遊んで帰つたつてベッティーさんより先にグルネイユ莊へ帰れますよ。きつとです。」 「それならもし私が帰つてみて、ベッティーさんとアンさんが先に食事をしていたら、貴方のために遅れたんだと辯解しますよ。」  アルメの廣場とリベルテ街との角に、日覆のある、敷石のうえに、二三の小さいテーブルを並べたカフェがあつた。かれらはそのテーブルの一つに向いあつて坐つた。アノーはベルモットを飮みながら、 「ねえ、――」となにか重大なことを切りだす樣子だつたが、すぐまた思い直したらしく、「そうですかあなたは五度もモンブランへお登りになつたんですか。シャモニーから?」 「えゝ、それから一度はコルデュゼアンから、一度はドーム一度はブルイヤールの氷河、最後にはモンマンディから登りました。」  探偵は眞から面白そうに聞いていたが、 「そうですか。それは面白い話を承りました。」 「私は知つていることは何でも云いますのに、あなたはこのカフェへ私を連れこんだ目的でさえ話そうとはなさらない。」 「そうですか。」 「我々はもう手掛りを失つたんじやないでしようか。」 「おゝ!」  アノーは光る青い紙袋から卷煙草を一本ぬきだした。 「こんなことを云うのは失礼かもしれませんが。」 「いゝえ、どういたしまして。私たち警察のものは、いつもあまり廣いところばかり探しまわつて、つい鼻の下にあるものを見逃すのです。それが欠点ですよ。」  フロビッシャーは椅子をまえにひきよせて、鉄製の圓テーブルに肘をついて、 「まづ第一に知りたいことは夫人は果して殺されたかどうか、もし殺されたのなら、誰に殺されたかという問題です。」 「なるほど、」と靜に探偵が頷いた。「しかし私たちが二人とも同じ問題を考えているとは限りません。」 「つまり昨日のお午から今朝までのあいだに、誰がスポラントスの本を本棚に返したかという問題です。」  アノーは卷煙草に火をつけてちよつとすいながら、 「むろんその問題も大切にちがいありませんが、私はもつと大切な問題があるように思います。それは故人ハーロー氏が亡くなられてから一度も開けたことのない宝物室と化粧室との中間のドアが、なぜ四月二十七日の晩に開いていたかということです。これが分ればほゞ全体の眞相の見当がつきます。ところが、」両手をひろげて、「それが分らないんですよ。」  フロビッシャーが立去つても、彼はテーブルの前に坐つたまゝ、さながらそこに解答を読もうとするかのように、いつまでも陰気な顏で敷石を見つめていた。 [#3字下げ]12 部屋の捜索[#「12 部屋の捜索」は中見出し]  それから数分間たつて、フロビッシャーは探偵の豫言が当つたことを発見した。あの豫言はむろん單なる想像だつたであろう。いくら物知りのアノーでも偶然を豫言することはできないはずだ。けれども、とにかく、彼の豫言通り、フロビッシャーが家に帰つたときには、まだベッティーが帰つていなかつたことは事実だ。疑いはじめたアンと二人きりでいるのが気拙かつた。で、なるべくその気拙さを隱そうとつとめた。するとかの女のほうで彼の顏色を読んで同情的の態度をとるので一層心苦しかつた。 「心配していらつしやるのね、」とアンが優しくいつた。「でも、もう御心配なさらなくてもいゝでしよう。今朝わたしがお話しましたように、あの事件があつたのは十時半ですけれど、ベッティーさんはその時刻にはダンスに行つてらつしやつたんですわ。」 「わたしが心配しているのはあの人のことじやないんですよ。」  こう若者がいうと、アンが訝しげな顏つきで彼を見るのだつた。  だが、アンが次の質問を発するまえに、庭を横切つてベッティーが帰つてきた。そして食事がはじまると、あまり面白い話ではなかつたにしろ、彼はいろんな世間話を一人で早口に喋つた。  食事をすましてコーヒーをのみながら煙草をふかしていると、老僕が入つてきて図書室に署長が待つているとつげた。 「このかたはわたしのロンドンの辯護士フロビッシャーさん、」とベッティーが紹介する。  署長ジラルド氏は頭の禿げた肥つた男で、太い鼻に折眼鏡をかけその秘書テヴネーは背の高い風采のいゝ青年で、ちよつと女たらしといつたふうのところがある。 「ベッティーさんの公証人べーさんにも立会つて頂くようたのんでおきました。」フロビッシャーがいつた。 「それは御苦労でした。」  おりからその公証人が来たが、それが丁度三時だつた。彼が戸口で挨拶した瞬間、三時が打つたのである。すべてが都合よくいつた。公証人は愉快げに微笑して、 「では署長さんの御指図のもとに封印を破りましようか。」 「いや、アノーさんを待たなくちや。」と署長がいつた。 「アノーさんとは?」 「パリ警視廳のアノーさんです。」  ベッティーが公証人にアノーのことを説明しているあいだに、フロビッシャーは探偵をさがすために一人で部屋からホールへ出た。そこでぱつたり探偵に出会つたには出会つたが、彼はなぜだか表から入つてこずに、ホールの裏の庭のほうから入つてきたらしかつた。  アノーと公証人が初めての挨拶をした。 「このかたは?」とアノーが秘書テヴネーに輕く会釈しながらきいた。 「私の秘書テヴネーさんです。なか/\気の利いた面白い人ですよ。」と署長が紹介した。  アノーが好意的な興味でこの青年をみると、青年のほうでも尊敬に目を輝しながら有名な探偵を見た。  署長は部屋の中央に歩みでて鹿爪らしくいつた。 「では、皆さん、これから封印を切ることにいたします。」  彼は一同の先頭にたつて図書室をでて、ホールを横切り廊下を通りハーロー夫人の寢室のまえに立つた。それから封印を破つて秘書から鍵をうけとりドアをあけた。シャッターがしまつているので部屋のなかは暗かつた。一同がその部屋に入ると、アノーが両手をひろげて遮つた。 「どうぞちよつとお待ちください!」  フロビッシャーは部屋の樣子を一目みて身顫いした。朝方アノーが庭で訊問しているのを聞いていたときには、もつとアノーが追求してはやく犯人をつきとめてくれゝばいゝと思つたが、塔に登つてからはなぜだか捜査の進展に妙な不安を感じははめた[#「感じははめた」はママ]。シャッターのすきまから微かにさしこむ薄明りにぼんやり浮びだしたこの静かな神秘な部屋のすみ/″\には、なんだか目に見えぬ無数の妖精のようなものが蠢めいているようで気味がわるかつた。だがアノーと署長が部屋をよこぎり窓をあけシャッターをひらくと、さッと明るい光線がさしこんだ。部屋のなかは綺麗に掃除してあつて、椅子は壁際に並べられ、ベッドは皺をのばして、その上を模樣のあるカウンタペンで覆い、まるでホテルの空部屋のようにきちんとしている。 「なるほどね、」と探偵がいつた。「葬式がすんでから一週間もほつといてあつたんだから、この部屋を調べてみたところで仕方がないですな。」  彼はベッドのそばへよつてみた。そのベッドはドアと窓とのまんなかあたりの壁に頭をつけている。ベッドのそばの圓テーブルの上にはベルのボタンが置いてあつて、そのコードはテーブルの脚から床の絨氈の下につたわつている。  探偵はベッティーにむいて、 「このベルが看護婦の部屋に通じているんですね?」 「はい。」  そのコードをこま/″\調べてみたが、別に変つた点は見つからない。 「ベッティーさん。」[#「「ベッティーさん。」」は底本では「「ベッティーさん「」」]とまた探偵がいつた。 「あなたは署長さんといつしよに看護婦の部屋へ行つて、入口のドアをしめてください。こちらでベルを押しますから鳴るかどうか聞いていてください。私たちは向うで鳴るベルがこちらで聞えるかどうか聞いてみます。」 「承知いたしました。」  ベッティーは署長といつしよに部屋をでた。しばらくすると向うのほうでドアをしめる音がきこえた。 「そこのドアをしめてください。」探偵がいつた。  公証人が入口のドアをしめた。 「ちよつと靜かにしてくださいよ。」  探偵がベルを押したが、むこうの部屋のベルの音はきこえない。いくど押してもきこえなかつた。やがて署長が寢室へ戻つてきた。 「どうでした?」探偵がきくと、 「鳴りました。」と署長が答えた。  探偵は笑つて肩をすくめた。 「昔の家は壁があつくて丈夫ですね。戸棚や抽出はしまつていますか?」  手をかけてみたら鍵がかゝつている。公証人がちかよつて「こゝの抽出は全部夫人が亡くなられた日に鍵をかけました。ベッティーさんが私の目の前で鍵をおかけになつて、その鍵を私に預けたのです。」 「しかし財産目録をあなたがお作りになるとき抽斗を開ける必要があつたでしよう。」 「まだ目録は作らずにいるのです。いろ/\用事がありまして。」 「ではこの箪笥や戸棚や抽出は、四月二十七日のまゝになつているわけですね。」足早に部屋のなかを歩きまわりながら彼はこゝのドアあすこの抽出と手を触れてみた。ベッドのそばの壁にはめこんだ戸棚のそばでは、「この戸棚にしろ抽出にしろ曲つた針金一つあれば子供だつて開けられるんだから困つたものです。べーさん、このなかに何が入つているか貴方御存知ですか?」 「知りません。開けてみましよう。」公証人がポケットからざらりと鍵束をだした。 「いや、いまでなくてもいゝです。」探偵がいつた。  しばらく戸棚や抽出を念入りに調べていた彼は、機敏な足つきで部屋のまんなかに歩いていつてたゝずんだが、それは部屋の地理を調べるためらしくフロビッシャーには思われた。廊下からドアをあけて入つてくると、正面が庭に面した二つの高い窓になつている。ドアのそばからその二つの窓に向つて立つと、ベッドは左よりに置いてあることになる。そのベッドの、廊下にちかいがわに第二の小さいドアが半ば開いていて、そこが白タイル張りの浴室、ベッドの窓にちかいがわの壁には背の高さの戸棚がはめこんである。二つの窓の間には化粧台、右手の壁際には大きな煖炉と窓との中間に第三のドアがある。探偵はそのドアのほうへ歩いてゆきながら、 「これが化粧室ですね?」とアンにたずね、まだ返事をきかないうちにそのドアを押しあけた。  公証人が鍵をがちや/\鳴らしながらそのあとにしたがつて、 「この部屋のなかのものにもちやんと鍵がかけてあります。」  探偵はそれには返事もしないで、まず窓のシャッターをあけはなした。  それは煖炉さえない狹い部屋で、いま探偵が入つてきたドアと向きあつてもひとつのドアがある。すぐ彼はそのドアへ近よつて、 「このドアのむこうが宝物室になつているんですね。」把手を握つたまゝ鋭い目つきで、一同をふりむいた。 「そうでございます。」とアンが答えた。  フロビッシャーは妙な緊張をおぼえた。なんだか新発見のファラオの古墳を探險しているような気持である。探偵は把手をにぎつたまゝで、いつまでたつても開けようとしない。古墳の番人のようにじつと身動きもしないで立つている。  フロビッシャーが堪りかねたように、 「鍵がかゝつているんですか?」  すると彼がいつもとちがつた妙な声で返事をしたが、その声から判断しても、彼も他の一同と同じような一種の興奮した期待のとりことなつていることは分つた。 「鍵がかゝつているかどうかまだ分りません。しかしこの部屋はベッティーさんの居間になつているんですから、あのひとが帰つてくるまで待つていなくちやならんです。」  公証人が、「それはそうです。」と頷くと同時に、夫人の寢室のほうから、はつきりしたベッティーの声が聞えた。 「わたし帰りましたわ。」  探偵は把手をまわした。鍵はかゝつていない。すぐ開いた薄暗い部屋のなかのこゝかしこに燦爛と金色に光るものがあつてそこが宝物室であることは誰にも頷かれた。探偵は各窓のシャッターをあけて、どや/\入りこむ一同にむかい、 「何物にも手を触れないでください。」といつた。 [#3字下げ]13 宝物室[#「13 宝物室」は中見出し]  廊下に沿つた他の部屋と同じように、このベッティー孃が居間としてつかつていた宝物室も、部屋というよりむしろギャラリーといゝたいほど細長くて、薄茶色の羽目板をはつた壁にはフラゴナールの絵が二つ三つかゝげてある。窓際のチペンデール式のテーブルのうえには華美な文房具がならべてあり、ホールのがわの壁際のまんなかには、やゝ出張つた大きな煖炉があるので、長い部屋が二つに区切られているよう。一目みたゞけで、これが美術品蒐集家の部屋であると頷かれるのは、煖炉のそばの壁際に、壯麗をきわめた轎がおいてあるからである。それは大体薄い緑色だけれど、隅々は金で飾られ、まんなかほどに同じような金色で羊飼の模樣を入れてある。金で飾つた屋根は蝶番でうしろに開き、前方に開く扉の上部には硝子がはめてある。さすがのアノーもこの轎の美しさには暫らく見とれていた。あまり長い間アノーがそれに見とれているので、そばに立つフロビッシャーはもう彼がこの部屋に入つた目的を忘れたのかと思つたぐらいであつた。  だがしばらくすると探偵は我にかえつて振りむいた。 「アンさん、あなたが電燈をつけたとき十時半を示していたのはあの時計ですね?」 「そうです、」とアンは素早くこたえて、それからまた時計を眺めながら、「えゝ、そうです。」とくりかえした。  この二度も同じことをくりかえしたかの女の返事は、かの女が心に疑惑――と云えないまでも、幾分の当惑を感じている証據らしくフロビッシャーには思われた。だが探偵がなにも聞かずにいるのを見ては、彼も自分の觀察に自信はもてなかつた。「気をつけなくてはいかん、」とフロビッシャーが心のなかで呟いた。「人を疑いはじめると、その人のすることなすことが疑いの種になるものだ。」  探偵はアンの答えに満足したらしい。それは腰のところがヴァイオリンのような曲線を描いたルイ十五世式の金色の美しい時計で、人間の腰よりちよつと高いぐらいの寄木細工の戸棚の上、高いヴェニス風の姿見のまえに、こちらをむけておいてある。探偵はそのまえに行つて自分の時計と時間をくらべてみた。 「お孃さん、ちつとも違つていません。」  微笑しながら自分の時計をポケットにしまつた。  探偵はぐるりと振向いてヴェニス風の大鏡と時計に背をむけた。彼の前には煖炉がある。煖炉棚は壁の羽目板と同じ薄茶色で、その上には大きい裝飾物がおいてないので、そこにかゝげたフラゴナールの額がよくみえる。煖炉棚のうえには一つか二つのバッターエナメルの小箱と、それから低い硝子箱がおいてあるだけ。探偵はそばによつてそつと硝子箱を持ちあげながら、 「ごめんください、ベッティーさん、こんな立派なものは見たことがないです。それに煖炉棚が高くてよく見えないんです。」  彼は女の返事を待たないで、それを煖炉棚からおろすと窓際へもつていつた。 「フロビッシャーさん、どうです?」  フロビッシャーもそこへ行つてみた。  その硝子の箱のなかに入つているのは、ベンベヌート・チェリニが作つた金と玉髓と半透明の琺瑯のペンダント[#「ペンダント」は底本では「ベンダント」]であつた。なるほどそれはフロビッシャーも見たことのない立派な物にちがいなかつたが、それにしてもアノーが本職を忘れてこんなものばかりに見とれているのが物足りなかつた。 「こんな宝物ばかり見ていたら、一日あつても足りないですね。」と探偵がいつた。 「そうですとも。早く毒矢を探しましよう。」フロビッシャーがいつた。  探偵は笑つた。 「そう/\、こんなものを見物にきたんじやなかつた。」  そして硝子箱を煖炉棚のうえにおいたが、このとき彼は急に顏色をかえた。両手は硝子箱のそばに伸したまゝ、眼の下をみている。煖炉の火をたくところは漆塗の板で隱してあるので部屋からは見えないが、探偵の立つている位置からは内部が見えるようになつている。 「これはなんですか?」  漆塗の板をとつて、なかの白い灰を火箸でつゝいた。むろん灰が残つているだけで火のけはすこしもないのだが、彼は温味が残つていはしないかと疑うように手で灰をつゝいてみたりした。 「アノーさん、」とフロビッシャーがいつた。「この部屋を締切つたのは日曜日の朝ですが、今日は木曜日ですよ。どんな灰でも三日以上たてば冷くなります。」 「お孃さん、」とアノーがよんだ。  呼ばれたベッティーは煖炉のそばにたつた。 「だれがこんな丁寧に紙を燒いたんです?」 「わたしでございます。」 「いつ?」 「土曜日の晩にすこしと日曜の朝すこし燒きました。」 「なんですか?」 「手紙なんですの。」  素早く彼は女の顏を仰いだ。 「手紙? どんな手紙です?」  見ていたフロビッシャーは両手をあげて絶望の叫声をあげたくなつた。いつたいアノーはどうしたというのだ? さきほどまで骨董品に夢中になつていた彼は、こんどは無名の手紙に血眼になつた。 「なんでもない手紙なんです。この事件には関係のない手紙です。」 「どんな種類の手紙です?」  ベッティーは救いをもとめるように公証人をふりむいて、「ベーさん。」といつた。  公証人ベー氏がまえに進みでゝ、 「夫人がお亡くなりになつたとき、古い書付や不必要な書類の沢山はいつた箱がでてきましたので、それをベッティーさんにョまれて私が自宅に持つて歸つて、一應調べることにしたのです。ところがその書類のなかに意外にもリボンでくゝつた一束の手紙があつたのですが、インキの色がさめたような古い手紙ばかりで、なかを開けてみるまでもなく夫人の尊い思い出の手紙だと分りましたので、そのまゝベッティーさんにお返ししたのです。」  公証人が一礼して退くと、ベッティーがあとをうけて、 「その手紙を調べてみましたら、伯父と伯母がまだ結婚しない前にとりかわした手紙ばかりでした。つまり愛の手紙だつたのです。けれども、ことによると知つておかねばならないことがあるかも分らないと思いましたので、わたしはそれを一つ/\読みまして、読んだのから燒いて、土曜日と日曜日とにすつかり灰にしてしまいました。」 「ベッティーさん、いつもあなたにたいして苛酷な質問をしてすみません。質問するたびに私はあとで自分ながら恥しい思いをしなければなりません。」  だが口ではこういつても、探偵はなおもしやがんで火箸で灰をかきたてるのである。しばらくするとまたなにか見つけて体をかたくした。彼が紙の燒残りをつまみあげると、ベッティーは訝しげに覗きこむ。 「お孃さん日曜日の朝には手紙以外のものも燒きましたね。」  探偵が紙片を示すと、ベッティーが当惑げな顏をした。 「書付けもお燒きになりましたね。」  ベッティーはそれを手にとつて眺めながら頭を横にふつた。それは書付けの右の切端で、印刷した住所や、数字が燒残つている。 「では手紙のなかに交つていたんでしよう。よく覚えていませんけれど。」かの女がいつた。  フロビッシャーが後からのぞいてみると、大文字ばかりで一番上は大きく、次の二行は小さく [#4字下げ]ERON [#8字下げ]STRUCTION [#11字下げ]LLES [#17字下げ]IS [#19字下げ]375 .05  と燒残つた文字が見える紙片であつた。  しばらく眺めていた探偵は、「これはなんでもない」といつて灰のなかに棄てゝしまつた。それから彼は署長にむいて、 「日曜日にはこゝに灰がありましたか?」ときいた。  署長は暫く鹿爪らしい顏で考えていたが、鹿爪らしい顏をする必要はなかつた。 「覚えていません」と答えた。  探偵はベッティーのそばへよつて、 「まだほかの手紙があるはずですね、あなたが見せてくださるとおつしやつた。」 「あゝ。あれですか――」  ベッティーは抽出から一通の手紙をだして探偵に渡した。探偵は署長とフロビッシャーの三人で窓際でそれを開いてみた。日附は五月七日。署名は「鞭」とある。それにはタイプライターでこう書いてある。 「もうお前もおしまいだ。お前は――」それから聞くにたえざる言葉をつらね、「それは当然のむくいというものだ。パリからアノー探偵が手錠をもつてくることになつた。手錠はめられたお前の顏がみたいよ。我々がほしいのはお前の首だ。ワベルスキー万歳!」  署長はこのいま/\しい手紙を、眼鏡をかけなおしながら二度くりかえして読んだ。彼はアノーが来ることがこんなに早くもれたのを不審に思つたらしい。 「これは私がお預りしておきます」と探偵は無名の手紙をポケットにしまつた。  探偵は花瓶のなかもさがした。絨氈もはぐつてみた。窓掛けもゆすつてみた。が、毒矢はどこからもでてこない。秘密の戸棚のようなものも見つからなかつた。  一通り捜索をすますと探偵は署長にむいて、 「ホールからまわつて、あすこのドアの封印を切つて下さいませんか。」  署長は秘書をつれ、夫人の寢室をぬけて廊下へ出た。しばらくすると鍵の音がしてホールへ通ずる宝物室のドアがあき、署長と秘書がそこからもどつてきた。 「有難う!」探偵がいつた。  そしてやおら椅子から立上ると、煙に卷かれている一同を見まわしながら、重々しい句調でいつた。 「これからひとつ実驗をやりますから、皆さんは無駄な身動きしたり邪魔をしないようにしてください。」  死のような沈默のなかを歩いて彼は煖炉のそばへ行き、そこにあるベルのボタンを押した。 [#3字下げ]14 実驗[#「14 実驗」は中見出し]  ベルに答えて老僕がはいつて来た。 「お孃さまつきの女中を呼んできてくれ。」アノーがいつた。  けれども老僕は探偵の命令をきこうとはしないで、ベッティーの顏ばかり見ていたが、 「お孃さま、どういたしましよう?」と丁寧にきいた。 「早く呼んでおいで。」ベッティーは云つて椅子にこしかけた。  老僕は出ていつたが、女中はすぐには云うことを聞かないらしく、なか/\姿をあらわさない。数分間たつてやつと老僕が女中をつれてきたが、その時の[#「つれてきたが、その時の」は底本では「つれてきたが、、その時の」]かの女は妙におどおどと、怯えたような顏をしていた。まだ二十はこさぬ、美しくて臆病な野獸のような感じの娘で、宝物室にむらがる一同を不安らしい疑惑にみちた目でみた。野蠻人が文明人を見るときの疑惑であつた。 「女中さん、」と探偵が優しく話しかけた。 「これからちよつと試驗してみたいことがあるんだが、人手がたりないのでお前にきてもらつたのだ。」  それからアンにむかい、 「あなたはこゝで夫人が死なれた晩のあなたの行動を、そのまゝ眞似てください。そこから宝物室にはいつてくるんです――そう。こゝの電灯のスイッチのそばに立つのです。そしてちよつと灯をつけて時計を見、それからすぐスイッチを切る。こゝの中間のドアがあいて、向うから夫人の寢室の明りが洩れている。」  探偵は位置をたゞすためアンのそばへよつてみたり、それからまた歩いていつて中間のドアを開けてみたり、たいへんいそがしげだつた。 「それからベッティーさんと女中さんは、私といつしよにこつちへきてください。」  探偵は中間のドアのほうへ行きかけたが、ベッティーは椅子に腰かけたまゝ動こうとしない。かの女は眞つ蒼になり、声をふるわして、 「アノーさん、あなたがどんな実驗をなさるかわかりますわ。でもそれはあんまりです。またそんなことをしたつてなんの役にも立ちません。」  アンも探偵の前に近づいてきた。かの女の役はベッティーのより樂なはずだけれど、それでもベッティー以上に当惑している。 「ほんとにこんなことをしたつて詰りませんわ。」アンがいつた。  探偵はドアのところでふりむいて、 「どうか邪魔をしないでください。こんなことして役に立つか立たないか、それはあとになつたら分ります。むろんこんな実驗をするのはあなたがたにしてみれば嫌なことでしよう。けれども――ごめんなさい――あなたがたのことばかり考えていられない。私が考えているのは四月二十七日の晩にこゝで不幸な死をとげた夫人のことです。夫人の死因を確めるためには、あらゆることをしなければなりません。私は夫人の擁護者です。もし不幸な夫人が誰かに殺されたとすれば私はどこまでもその犯人を罰さなければなりません。」  探偵がこの時ほど熱情をもつて語つたのはフロビッシャーも聞いたことがなかつた。 「貴方がたお二人はまだ若いのです。ちよつと不愉快な実驗をするぐらいがなんです? その不愉快がいつまで続きます? どうぞ我儘をいわないでください。」  ベッティーは仕方なしに立上つた。そしてよろめくように歩きだしたが、その顏は白墨のように白かつた。 「さァ、フランシーヌ!」と彼女は女中を呼んだ。「こちらへいらつしやい。アノーさんに臆病者だと思われてもつまりません。」  だが女中は動かない。 「どうしてこんなことをするんです。わたしなんだか怖くなりましたわ。お巡りさんが罠をかけるんじやないでしようか?」  探偵が笑つた。 「お巡さんが正直な人間を罠にかけたことがあるかね、女中さん?」  探偵が夫人の寢室へ行くと、ベッティーと女中、それからその他の一同もあとにしたがつた。一番あとにのこつたフロビッシャーは動こうとしなかつた。彼も女たちと同じようにこの実驗をあまり好まなかつた。なんだか芝居じみているように思われる。フロビッシャーはドアのところで宝物室に一人のこつたアンをふりむいた。かの女は不審らしい顏つきで寄木細工の戸棚の上の時計を眺めている。  しばらくしてからフロビッシャーが寢室へはいつてみると、署長、秘書、公証人は窓際にたち、ベッティーは夫人のベッドのうえに寢そべり、女中はドアのそばにたつと、落着きのない目付であたりをきよときよと見まわしていた。だがフロビッシャーが驚いたのはそんな光景ではなくて、ベッドのうえに横になつているベッティーの不思議な顏つきであつた。かの女は片方の肘をついたまゝ顏を起して、いまゝで見たことのないような凄い目つきでじつとドアのほうを見つめている。その顏は凍つた熱情のマスクのようで、なんだか怖いものに憑かれているように見えた。けれどもかの女がこんな奇妙な姿勢をしたのは僅のあいだのことで、つぎの瞬間には、ついていた肘をのばしてあおむけになり、命令を待つように探偵のほうへむいた。  探偵は指でしめしてフロビッシャーを一同のいる窓際へたたせた。  つぎに探偵は女中を手招きした。かの女がベッドにちかづいた。探偵はもつと女中をベッドにちかよらせようとしたが、臆病な女中はどうしてもそこへ行かない。なにかトリックにでもかゝるように思つてひどく怖れているらしい。やがて靜かにベッドに近づいたが、まるで床に穴でもありはせぬかと心配しているような歩きぶりだつた。探偵が合図すると、女中は手に持つ紙片を見た。その紙片はまだフロビッシャーが病室へこないうちにかの女に渡されたものらしい。  女中がまたしりごみした。探偵が叱るように合図した。すると女中はベッティーのうえに上体をかゞめた。  そしてアノーが頷いてみせると女中が低い靜かな声で、 「これでよし」とつぶやいた。  だが女中がそう云つてしまうと、すぐあとから探偵が同じように、 「これでよし」とつぶやいた。  そして探偵はいそいでドアのところへ行き大きい声で、 「アンさん、いまの声が聞えましたか? 夫人が死なれた晩あなたがお聞きになつた声はあれと同じでしたか?」  一同が固唾をのんで返事をまつた。いぶかしげな目差で女中が探偵を見た。やがてアンの返事が聞えた。 「えゝ、ですけれど、今日のは誰がいつたのかしりませんが二度つゞけていゝましたけれど、あの晩わたしがきいたのは一度だけでございましたわ。」 「では今日のは二度とも同じ人の声でしたか?」 「えゝ、同じに聞えました。」  探偵は一同をふりむいて、 「いかゞです、実驗の結果がおわかりですか? 呟くときの低い声は、すこし離れてきくと女の声か男の声か判断ができるものではありません。アクセントもなければ、深さも軽るさもないので、誰の声も同じに聞えるのです。」  それから探偵は鍵をもつている公証人のほうにむいて、 「ベーさん、こゝに壁にはめこんだ戸棚がありますね。これを開けてみてください。そしてベッティーさんに中を調べてもらいましよう。なにか無くなつているかもしれない。」  公証人とベッティーが戸棚のそばへよつた。探偵は一人でアンのいる宝物室へいつた。  フロビッシャーは探偵が実驗の結果について本当のことをいつたとは思わなかつた。囁く声が、男女の判別に困難であるぐらいのことは、アノーともあろうものは、いまさら実驗するまでもなく、いまゝでの度々の経驗で分つていそうなものだ。彼がこの芝居じみた実驗をしたのにはなにかほかに目的があつたにちがいない。  フロビッシャーはそれを訊ねたいので、探偵のあとを追つて一人で宝物室のほうへ歩いていつた。  だが彼が化粧室までくると、むこうから探偵の声がきこえた。  彼は化粧室にたつたまゝ耳をかたむけた。 「アンさん、どうして時計ばかり見ていらつしやるんです? 時計の位置でもちがうんですか?」探偵の声だつた。 「いえ、なに、わたしの思いちがいでしよう。時計はやつぱり戸棚のうえにあるんですから。」  フロビッシャーは声のくる方向から判断して、彼ら二人が時計のそばに立つていることをしつた。 「でも貴方は、やつぱり違うような気がするでしよう?」  しばらく沈默がつゞいた。  フロビッシャーは、かの女が時計と廊下のドアとを見くらべているように思つた。 「どこが違います?」  探偵は重ねてきいた。 「なんだかあの時よりいまのほうが、時計の位置がひくいような気がいたします。でも、そんな筈はありませんわね。あの時にはちよつと見ただけですから……いや、やつぱりあの時のほうが、時計の位置が高かつたようですわ――」  こゝまでいうと、かの女は合図で遮られたように、急に口を噤んでしまつた。つぎにはかの女がどんなことを云うだろうと、フロビッシャーが耳をすましていると、猫のように素早く足音を忍ばせながら探偵が彼のところへきた。  探偵はそこに立聞きしているのがフロビッシャーであることを知るとほッと安心したらしく、 「よオ、フロビッシャーさん、あなたも探偵になれそうですね。どうぞこちらへいらつしやい。」  探偵に腕をとられて宝物室へはいつた。 「アンさん、」と彼がいつた。「あなたはちよつと電灯がついてすぐまた消える間に時計を見たのです。ですから時計の位置がすこしばかり上になつていようと下になつていようと、そんなことが正確にわかるはずはありませんよ。」  それから探偵は失望したように力なく椅子にもたれかゝつて、しばらく默りこんでいたが、こんどはフロビッシャーのほうへむいて、 「貴方は今朝、私が手掛りを失つたといゝましたが、残念ながらそれは本当のところなんです。いまの実驗も失敗でした。」  そうだ、彼の実驗は失敗だつたとフロビッシャーは思つた。いまの実驗は女中を目的に行われたものだろう。だからかの女に中心人物の役をさせたのだ。かの女が良心に責められて告白するのを期待していたのであろう。つまり女中をアンの共犯者と睨んだのだろう。共犯者を探すのがこの実驗の目的だつた。なるほど女中は実驗をいやがつた。けれどもかの女がいやがつたのは、実は警官が怖ろしかつたのだ。罠にかけられるのが心配だつたのだ。  このとき夫人の寢室のほうから、ベッティーの驚いたような声がきこえた。  それを聞いた探偵は、とつさに外套をぬぎすてたように失望の態度をすてゝ、いそいで寢室へいつた。フロビッシャーもそれにつゞいた。寢室ではベッティーが大きな青いモロッコ皮の宝石箱を持つて、その蓋を開けてみたりしめてみたりしている。 「あゝ、誰かその宝石箱を開けましたか?」探偵がきいた。 「この宝石箱には鍵がありましたのにボタンを押すとすぐ開きました。」 「なかのものをよく調べてごらんなさい。なにか足りないものはないですか?」  ベッティーが宝石箱の内容を調べているうちに、探偵はぼんやり立つている女中の腕をとつてドアのほうへつれだしながら、 「ごくろうさま。心配かけてすまなかつたね。お巡さんだつてそんなに怖いもんじやないことが分つたろう? たゞね、今日のことは誰にも云うんじやないよ。町でへんな噂がたつと困るからね。」 「誰にも云いません。」 「よしよし、云わなければいゝ。云つたら承知しないぜ。そしてお前の首をこういう風に絞めて、『これでよし』というかも知れないよ。分つたかい。あはゝゝ。」  探偵は女中を送りだすと、頸飾やペンダントや指環などを調べているベッティーのそばへよつて、 「どうです、なにか紛失していますか?」 「えゝ。」 「そうでしよう。人を殺すのには何か目的があるんでしよう。たぶん宝石のなかでも、一番高價なものが紛失しているでしよう。」 「えゝ、高價なものには違いないんですけれど、ことによると他のところにしまつてあるかもしれませんわ。でも、どうせいまは私のものですから、私が默つていさえすればいゝのです。ワベルスキーみたいに告訴しようとは思いません。」  探偵は頭をふつた。 「それは、ベッティーさん、人がよすぎますよ。こんな場合に、『これでよし』なんていつているべきではありません。私たちは窃盗を調べているんじやない。殺人犯人を調べているんです。だからその殺人事件に伴つた怪しいことはあくまでも探究しなければならんです。なんです。紛失しているのは?」 「眞珠の頸飾でございます。」 「大きい頸飾ですか?」  ベッティーはそんな問題はどうもいゝと云う風に、 「いゝえ。」 「どんな頸飾です?」  かの女はためらつた。しばらく困つたような顏をして庭を眺めていたが、ちよつと肩をすくめて、話しだした。 「真珠が三十五ありました。あまり大きいほうではございませんが、粒がよくそろつて、やゝ桃色がかつて、伯父は長いあいだかゝつて、ずいぶん苦心して一粒ずつ集めたんだそうです。伯母はなんでも十万ポンドもかゝつたと申していましたが、いまではもつと高い價になるそうです。」 「十万ポンド! 一財産ですね!」探偵が叫んだ。  そんな高價な頸飾が、家のなかゝらひよつこり出てくるなんて思うのは一人もいなかつた。アノー探偵の仕事はまたひとつました。実驗なぞしていてなんになる? 殺人の動機はこれで明るみに曝けだされた。探偵がまごまごしているうちに、犯人がどこかで赤い舌をだしているようにフロビッシャーは思つた。 「ベッティーさん、あなたのほかにこの頸飾の存在をしつた者があつたのですか?」探偵がきいた。 「家のものはみんな知つています。伯母は始終それを頸にかけていましたから。」 「亡くなられた日にも?」 「はい、――たぶん、――」ベッティーが訊ねるようなめつきでアンをみた。  そばから蒼くなつたアンが、 「たしかに掛けていらつしやいました」と口をだした。 「あの女中はいつごろからお宅にいるんです?」探偵がベッティーにきいた。 「三年前から。わたしはあの女中よりほかに使つたことがないのです。」 「なるほど。」  探偵は考えこんだ。そして探偵が考えていると同じことをほかの一同も考えているらしくフロビッシャーは思つた。誰一人アンを見るものはなかつた。老僕や昔から家にいる女中は、宝石を盗んだりなんかするものではない。では最近にこの家庭に入りこんだ者は誰であるかといえば、アンと看護婦の二人きりである。けれども看護婦は人のものを盗むような人間ではなかつた――こう口には出さなくても、みんなが同じように考えているらしかつた。  アノー探偵は默つたまゝ戸棚の錠を見て頭をふつた。それから宝石箱のおいてある化粧台のそばへよつて、 「おや、この宝石箱は妙な仕掛になつている!」  と、上体をかしげてモロッコ皮の大きい宝石箱を見入つた。  それは鍵で開ける仕掛でなく、三つの留金がついていて、金庫のドアのように数字を合わせると留金が外れるようになつているのだ。 「これはこわして開けたんじやないですね。」と探偵が立上つた。 「伯母が鍵をかけるのを忘れたのでしよう。」 「そうかも知れません。」 「それにまた伯母の葬式がすんでから、この部屋に封印するまでの間には、誰でもこゝへはいることが出来たわけです。」 「一週間――しかもその間ワベルスキーがこの家にいたんですね。」探偵がいつた。 「はい――でも――でも、わたしきつと何処からか出てくると思いますわ。御承知の通り、ワベルスキーはロンドンの法律事務所へむけて、千ポンドくれなんて要求なさつたそうですが、十万ポンドの宝石を盗んだ者が、そんなはした金を欲しがるはずはございませんからね。」  そう云えばそうに違いない。フロビッシャーは頭からワベルスキーを追いやつた。探偵がはじめ彼の名を云つた時には、彼こそ眞犯人にちがいないと思いこんだが、いまベッティーの話をきいてみると、なるほど彼には窃盗の動機はない。もつとも彼とアンの二人が共犯で、二人が夫人を殺したと考えると筋道がたゝぬでもない。男は金を目当てに、女は頸飾を目当てに、犯罪をたくらんだかもしれぬ。いずれにしても怪しいのはアンである。 「では」と探偵がいつた。「もつと他の場所を探してみましよう。それからこの宝石箱は、こんな部屋へおいとくより、銀行へでもお預けになつたほうが安全ですよ。」  そしてまた、あすこの抽出、ここの箪笥と、のこるくまなく探しまわつたが、宝物室から毒矢がでなかつたと同じように、夫人の寢室からはどこからも十万ポンドの頸飾りはでてこなかつた。 「もう探すところがありません」と探偵がいつた。 「まだひと処ございます。」  こう靜に云つたのはアンである。かの女はやゝ怒りをおびた蒼白い顏で一人立つていた。もうかの女は一同の疑惑を一身に集めていることをさとつたものらしい。  探偵は部屋のなかを見廻しながら、 「どこです?」ときいた。 「わたしの部屋です。」 「あなたの部屋を探す必要はありませんわ。」ベッティー[#「ベッティー」は底本では「ベッティ」]の声ははげしかつた。 「探してください。そのほうが気持がいゝのです。」アンがいつた。  そばから公証人も頷きながら、 「それがいゝです。」といつた。  アンは探偵にむいて、 「わたしはこゝで待つています。わたしが行かなくても、鍵はどこにも掛つていません。たゞ小さい革の靴に鍵がかゝつているかも知れませんが、その鍵は化粧台の左の抽出に入つていますから、すぐお分りになります。わたし図書室でお待ちしています。」  探偵がアンにむかつて会釋した。このときベッティーは非常に美しいことをした。それを見ていたフロビッシャーは一目も憚らずベッティーを抱きかゝえてやりたいと思うほど感動した。ほかでもない。ベッティーはすたすたアンのそばへより片手でかの女を抱きながら、「わたしもあなたといつしよにいますわ。ほんとに馬鹿らしいことなんですもの。」と囁いてならんで部屋を出ていつたのである。 [#3字下げ]15 矢の發見[#「15 矢の發見」は中見出し]  アンの部屋は三階にあつて窓から庭が見下せた。となりあつた寢室と居間が一組になつている。屋根のすぐしたで天井はそんなに高くないが廣々とした部屋であつた。探偵は寢室に立つてあたりを見廻しながら、 「なるほどね……こんな廣い部屋に寢ていて、眞夜半に不意に吃驚して目をさましたら、闇のなかで方角が分らなかつたり、スイッチのありかが分らなかつたりするのも無理はない。スイッチが枕元にないんですから。」  この探偵のひとりごとは、アンの告白を聞いていなかつた署長や秘書や公証人にはむろん意味が分らなかつた。で、秘書テヴネーがその言葉の意味を訊ねようとしたのであるが、この時、二つの階段をのぼつてまだ息遣いをはげしくしている署長がさきに口をきつた。 「いくら探したつて、こゝからは何も出てきませんよ。出てくるぐらいなら[#「出てくるぐらいなら」は底本では「出てくるぐらなら」]、あの美しい娘さんが遠慮なしに探してくれなんて向うから云う心配はない。」 「いや、分りません。とにかく探してみましよう。」探偵がいつた。  フロビッシャーは一人で隣の居間のほうへ行つた。署長や探偵が部屋をさがしているのを見ていても仕方がないと思つた。居間のまんなかのテーブルには、大きな吸取紙やインキや紙がおいてある。それを見た彼は、無人島に流されたロビンソン・クルーソーがやつたように、この二日のあいだに見たり聞いたりした沢山の嘘や本当の渦卷を自分の頭のなかでまとめて、「肯定」と「否定」の形に整理して書いてみたくなつた。で、盆のなかから手まかせに一本ペンをとり、アンの紙をひろげて書きはじめた。書いている途中で、なんどもペン先がはずれるので、その度ごとに指先で差込まなければならなかつた。そして次のように書いた―― [#ここから罫囲み] [#4字下げ]肯定 (一)夫人の死が他殺であるという疑いは「スポラントス」の書物が本棚に返つたのを発見してから始めて濃厚になつたわけだが、それいごの発展、すなわち毒矢の紛失、クラーデルの話、アンが宝物室へ入つた話、夫人の頸飾の紛失なぞはこの疑いを一層確実なものとした。 (二)もし他殺であるとすれば、それはアンが夜の十時半に宝物室に入つて人のもがく音及び「これでよし」という声を聞いた時に行われたものである。 (三)たとい殺人が行われたとしても、ベッティーが犯人でないことは確実である。なぜと云うにかの女は毎月充分の金をもらつていた。夫人が死んだ四月二十七日の夜、プイラック邸にいた。また夫人の死後頸飾がかの女のものとなることはきまつていた。かの女が殺人を犯したのなら頸飾がなくなるはずはない。 (四)では犯人は誰か?  (イ)召使たち。  (ロ)看護婦。かの女のことをもつと詳しく調べなければならぬ。一同がかの女をあまり信用しすぎている。  (ハ)女中。きようの女中はひどく慌てていた。かの女なら頸飾を欲しがるかもしれない。アンが闇の中で手を触れたのはこの女中の顏ではあるまいか。  (ニ)アン。かの女はすこぶる曖昧な状態のもとに、ワベルスキーの[#「もとに、ワベルスキーの」は底本では「もとに。ワベルスキーの」]紹介でハーロー家へ入りこんだ。貧しいかの女は、金を拂つてもらつてベッティーの遊友達をつとめている。かの女が頸飾を手に入れるなら一資産できる。それにアンは夫人が死んだ晩家にいて老僕に向つて早く灯を消してお休みといつた。だから頸飾を貰うことを條件として、ワベルスキーの共犯者となつたかもしれぬ。アンの陳述は、自分で行つたことを他人に変えたままで、「これでよし」といつたのは、かの女自身がワベルスキーに向いていつた言葉かも知れない。  (ホ)ワベルスキー。かれは惡漢である。脅迫者である。彼はつねから金を欲しがつていて、また夫人の遺産を期待していた。アンを家に入れたのは、殺人を手傳わせる下心だつたのかもしれない。殺人の結果、期待したほどの利益を得ることが出来なかつたので、自分の犯罪をベッティーに着せてそれを脅迫の道具に使つたかも知れない。夫人の屍體解剖が行われたことを知ると、彼は意気銷沈した。また彼はクラーデルという藥屋を知つていた。その藥屋の近くを歩いていたことも事実だ。だからことによると彼自身がストロファントス[#「ストロファントス」は底本では「ストロファンスト」]の溶液を藥屋に注文したのかもしれない。 [#ここで罫囲み終わり] [#改段] [#ここから罫囲み] [#4字下げ]否定 だが夫人の屍體を解剖しても、毒藥のあとを発見することが出来なかつたのだから、次の二つのことがない以上、犯人を挙げることは困難である。 [#ここから1字下げ] (イ)自白。 (ロ)同じ種類の第二の犯罪。 [#ここで字下げ終わり]  アノーの説によれば、毒殺者は第二の犯罪を行う。  だがアンの話は、一部分、あるいは全部が嘘かもしれない。すなわち頸飾を盗んだのは自分でないということを信じさせるために作つた嘘かもしれない。  だが殺人と頸飾の紛失とのあいだには、まつたく関係がないのかもしれない。  だが召使たちはみな長い間勤めている。また「スポラントス」の書物を利用するだけの知識をもつていない。だから仮に彼らのうちの一人が事件に関係があるとしても、それは誰かに教えられて、共犯者となつたものにすぎない。  看護婦はつねから善良な女であつた。  だが女中が慌てたのは良心に責められたからではなくて、警官が怖かつたのである。すくなくもかの女が終りまで実驗を成しとげたことは事実だ。またかりに女中が関係しているとしてもそれは共犯にすぎない。  かの女がハーロー家へ入つたのには、もつと確な理由があるかも知れない。かの女の経歴をもつとよく調べてからでなくては何とも云えないわけだ。それからまた四月二十七日の夜の出来事についてのかの女の話はすべて眞実であるかも知れないのだ。  なるほど夫人の屍體解剖が行われたと知ると彼は意気銷沈したけれど、夫人の死が病死だと信じていても意気銷沈したかもしれぬ。 [#ここで罫囲み終わり]  もし夫人の死が他殺であるとするなら、アンとワベルスキーの二人が共犯であるというのが、もつとも筋道がたつているようだ。これはフロビッシャーも認めないわけに行かなかつた。  だが、こんなことを書いているうちにも、彼は自分で答えることのできぬ沢山の疑問を思いうかべた。  だから覚書のしまいに、その疑問をつぎのように書きそえた。  (一)「スポラントス」の本を図書室へ返したのが誰であるかという問題を、アノーは熱心に調べようとしない。それはなぜだろう。  (二)アノーは塔の上からはるかグルネイユ莊を眺めた時、妙な顏をしてなにか熱心に見つめていたが、あれは何を見ていたのだろう?  (三)また彼は塔の下のカフエで、私になにか重大なことをいゝかけて途中で止めたが、あれは何をいうつもりだつたのだろう。  (四)彼は宝物室で矢を捜索する際、あらゆる物蔭を調べながら、轎の内部だけは覗いて見なかつたが、あれは何故だろう?  こゝまで書いた時静かに部屋のドアがあく音がしたので振返つてみたら、アノーが寢室のほうから入つて来たのであつた。彼はドアの把手を握つたまゝ不思議そうにフロビッシャーを見つめている。つかつかとテーブルのそばへ近よつて、「これは/\! とんだところであなたのお世話になりました!」と低い声で云つて微笑する。  探偵の言葉にはよく皮肉がまじつているのだけれど、この時の言葉には、そんなものは少しもまじつていない。口吻に眞面目があふれ、眼に喜びが輝いている。 「なにを書いているんです?」 「つまらんものですよ。」 「ほかの人が考えたことはいつも參考になるものです。ことにほかの人の目で見たものには價値がある。だれだつてすぐ鼻のしたにあるものは、目につかないのです。」  そして探偵は満足げに笑うのだが、フロビッシャーには彼の笑いの意味が少しも分らなかつた。探偵はテーブルのはしに坐ると、だまつてそれを読みはじめた。とき/″\「うん」とつぶやくだけで、顏の表情はすこしも変らない。だが、読んでしまうと、彼は默つたまゝペンを取つて、フロビッシャーが書いた肯定の(一)の終りのほうの、「夫人の頸飾の紛失」という文句のつぎに、「及び毒矢の発見」と書き入れた。  フロビッシャーが読んでみると―― 「――それいごの発展、すなわち毒矢の紛失、クラーデルの話、アンが宝物室へ入つた話、夫人の頸飾の紛失、及び毒矢の発見などはこの疑いを一層確実なものとした。」  フロビッシャーは吃驚して椅子から立ちあがつた。 「では矢は発見されたんですか?」  寢室のほうを見ながら彼が叫んだ。 「発見したのは私じやありません。」探偵がにや/\笑う。 「では署長ですか?」 「署長でもありません。」 「秘書。」  フロビッシャーはまた椅子に腰かけて、 「あの人は安物の指環をたくさんはめています。私はあんな人は嫌いです。」  探偵は愉快らしく笑いだした。 「御安心なさい。毒矢を発見したのはあの秘書でもありません。私もあんな人は嫌いです。」  フロビッシャーは当惑顏で探偵を見た。 「謎ですね。では訊ねますが、我々がアンの部屋へ入る前には毒矢は発見されていなかつたんでしよう?」 「そうです。」 「それがいまは発見されているんでしよう。」 「そう。」 「だのに発見した人があなたでないんですか?」 「そう。」 「署長でもないんですね?」 「そう。」 「秘書テヴネーでもない?」 「そう。」  フロビッシャーは探偵の顏を見つめながら頭をふつた。 「どうも私にはさつぱり分らないですよ。」  探偵は面白くて堪らんという風だつた。 「ではその覚書をおだしなさい。書いてあげましよう。」  探偵は相手に見られぬように、左の掌でかくしながら[#「かくしながら」は底本では「かくしなが」]何やら書いて、それからそつと前へだした。  フロビッシャーはそれを読んだ。  (四)彼は宝物室で矢を捜索する際、あらゆる物蔭を調べながら、轎の内部だけは覗いて見なかつたが、あれは何故だろう?  と、フロビッシャーが書いた疑問のしたに、綺麗な小さい探偵の字でこう書いてある―― 「アノーが轎の内部を覗かないのは失策には違いないが、幸にしてそのために悲しむべき結果とはならなかつた。なぜというに運命の神という惡戯者は、矢の軸の先のところを、私がこの覚書をかいているペン軸にしていたからである。」  フロビッシャーはペン軸を見ていたが、「あッ!」と叫んでそれを棄てた。  なるほどよく見ると、ペン軸の指で握るところが、冩眞で見た矢のように、ちよつと丸くふくれあがつて、その先端の刀を差込むべきところに、ペン先を差込んである。怖ろしさのあまり、口を開けたまゝ探偵の顏を見た。フロビッシャーは書いているうちにペン先が緩んできたので、一二度それを強く差込んだことを思い出した。 「これを書いている時に、私はペン軸をうつかり口へ持つていつたかも知れません。」 「どれ!」  と、探偵がペン軸をとり、ハンケチでそれを力強く拭いてポケットから小さいレンズをだして覗いてみた。  そして安心したように顏を起して、 「御安心なさい。赤土はちつとも着いていません。ペン軸にする時、矢を綺麗に掃除したんでしよう。とにかくこれを発見したのはあなたの手柄ですよ。感謝します。」  フロビッシャーは溜息をして卷煙草に火をつけた。 「あの冩眞を見たものは誰でも一目で気がつくのに、それをテーブルの上の盆にのせておくなんて、じつに馬鹿げたことをやつたものですね。」  アン孃が自分で勝手に断頭台に首をのぞけてくるように思われた。  探偵は頭をふつて、 「ところが、フロビッシャーさん、馬鹿げたようで、じつは馬鹿げていないんですよ。昔の諺にもありますね、人目につかぬ処に隱すと必ず発見されるが、鼻のしたへ隱しておくと発見されないというのが。どうして、矢の隱場所としてはこれは考えていますよ。あなただつてこのテーブルに坐つて矢のことを書いていながら、自分が握つているペンがその矢であることに気付かなかつたでしよう?」  だがフロビッシャーはこれだけの説明では得心がゆかなかつた。 「でも夫人が死んでから二週間になるではありませんか、私が不審に思うのは、その二週間のあいだにどうして矢を処分してしまわなかつたかということです。」 「ところが矢のことが問題になつたのは、今朝がはじめてなんです。まだ今朝までは、この矢は單なる骨董品にすぎなかつたものです。だからそれを処分しようなんて考えを起さなかつたのは当然のことです。けれども今朝、矢のことが問題になつた。時間がないから、大急ぎで隱さなければならなかつた。一時間しかなかつたのです。つまりあなたと私が塔のうえからモンブランを見ていたあいだです。」 「そのときにはベッティーも丁度留守でしたからね。」とフロビッシャーが口早にいつた。 「そう――そうでしたね、」と探偵が頷いた。「私もそれには気づかなかつた。ベッティー孃を嫌疑者のなかから除外する覚書の條項のなかに、そのことも書き加えたらいゝでしよう。」  折から隣の寢室で、なにか家具をうごかす音がしたので、探偵はペン軸からペン先をぬいて、紙片につゝんでポケットにしまつた。 「たしかなことが分るまで、当分これは我々二人で保管しときましよう。署長へは默つているほうがいゝ。それからこの覚書も、こんなところへ棄てとくと危險ですから、ペン軸といつしよに私がお預りしときましよう。一時間のうちにペン軸に作りかえたのだから、矢の残りの部分もよく探したら、この部屋のどこからか発見されるに違いないんですが、これだけ手に入れたら充分ですよ。」  探偵は煖炉棚のほうへ歩いていつた。そこの姿見の縁へは、招待状のようなものがいくつか差込んであつた。  だが、この時ドアがあいて、署長と秘書がはいつてきた。 「寢室をよく探してみましたが、頸飾はどこにもないようです。」と署長がいつた。 「この部屋にもありません。下へ降りましよう。」探偵がいつた。  フロビッシャーは面喰つた。この部屋に頸飾がないと探偵がいつたけれど、ちつとも探さなかつたではないか。さきには轎の内部を探さなかつたが、今度はこのアンの居間を探さなかつた。探偵はこの部屋を振向いて見てもしないで、すたすた先頭にたつて階段を降りて行くのである。なるほど、これでは彼が機会の下僕であるというのも無理はない。 [#3字下げ]16 アノーが笑う[#「16 アノーが笑う」は中見出し]  階段を降りてしまうと、探偵は署長にむいて、助力をあつく感謝した。 「それから頸飾のことですが、あれはむろん一應はこの家のなかの人の全部の荷物を調べてみます。しかし何処を探したつて、この家のなかから出てくる心配はありません。それはもう私が保証します。なんしろ[#「なんしろ」はママ]あれを盗んでから長いことになるんですからな。」  彼は署長を玄関まで見送つて丁寧に挨拶した。公証人はフロビッシャーを脇へひきよせて小声で囁いた。 「私はさつきから考えているんですが、どうやら今度はアンに弁護人が必要になりそうです。ところがあなたと私は二人ともベッティーさんの側に立つているんですが――なんといつたらいゝでしよう?――ベッティーさんとアンの利害関係は全然一致しないのです。ですからベッティーさんの側に立ちながら、アンの辯護をすることはできません。そこで、私の友人でこのディジョンに住んでいる好い法律家を知つていますから、その人を紹介しようと思つているんですよ。」  フロビッシャーも同意した。 「それは結構です。ではその御友人の処を知らしてください。」  公証人が住所を書いていると、だしぬけに沈默を破つて、探偵の高笑いが聞えた。だが不思議なことには、探偵は玄関と彼らとの中間に一人で立つているだけで、笑う原因がわからないのである。玄関のそとにも人影は見えぬ。玄関の奥のほうではフロビッシャーと公証人がごく低い声で眞面目に立話をしている。探偵は靜かな空気をゆるがしながら一人で愉快らしく笑つている。 「あはゝゝ、そうか、どうして今まで気がつかなかつたんだろう! あはゝゝ!」 「どうしました?」フロビッシャーがきいた。  だが探偵はそれには返事もしないで、いそいで二人のいるところを通りぬけると、走るように廊下を歩いて宝物室へはいりなかからピンと鍵をかけてしまつた。 「変つた人ですね、あの人は。あんな人はディジョンにはいませんよ。」公証人がいつた。 「つまり芝居気がつよいんですよ。アノーさんは何をやる時でも、舞台に立つているような気でいるんです。じつはあの人が探さなかつた場所があるんです。それを私が注意してあげたから、多分そこを探しに行つたのでしよう。」 「私もアノーさんに云いたいことがあります。」公証人がいつた。「英国では頸飾をマッチ箱に入れて下水に棄てた男がいるでしよう? どこかでそんな話を読んだことがありますよ。だから、アノーさんに下水を一日か二日かゝつて探してごらんなさいと云おうと思つています。そしたらきつと夫人の頸飾が出てきますよ。私は必ず出てくると思います。」  公証人ベー氏はこの思いつきに自分ながら感心した。智慧の点では自分もフロビッシャーに負けないと思つた。そしてディジョンの街々を探偵が嬉しげに飛び歩きながら、「これはベーさんの発案だつたのです。ほら、エチェンヌ・ドレーの公証人ですよ。」とみんなにふれまわつている光景を胸に描いて、一人で悦に入つた。けれでも、彼が、ではどこの下水を探すべきかと云う具体的の問題をまだ考えずにいるうちに、図書室のドアがあいて、ベッティーが姿をあらわした。  彼女は訝しげに二人を見ながら 「アノーさんはいらつしやいません?」 「宝物室です。」 「まア、またあすこへおはいりになつたの?」  彼女はいそいで宝物室へ行つて、ドアをあけようとしたが開かない。 「鍵が掛つている!」ちよつと驚いたらしいが後を振向かないで、「一人で宝物室へ入つて、どうしたんでしよう?」 「芝居をやつているんですよ、」と公証人がいつた。「いまフロビッシャーさんと話していたんですよ。アノーさんは何をやつてもあとで幕をおろすんです。」  宝物室のなかで鍵をまわす音がした。  ドアがあいて探偵と彼女が顏を見合せた。探偵は彼女の肩越しにフロビッシャーを見ながら、残念らしく頭を横にふつた。 「頸飾はなかつたですか?」フロビッシャーがきいた。 「ありません。」  それから探偵はベッティーにむいて、 「フロビッシャーさんから云われて、初めて気付いたんですが、轎のなかを調べるのを忘れていました。そこでいまクッションを取つて調べたりしたんですが、やつぱり駄目でした。」 「そのくらいのことで鍵をお掛けになつたんですか、わたしの部屋へ?」  彼女の声は險しかつた。 「掛けました。どうしました?」  鋭い言葉が舌のさきまで出かゝつたが、彼女はやつとそれを飮みこんで、顏をそむけながら冷やかに云つた。 「あなたに權利があるんですから構いませんわ。」  探偵が上機嫌の微笑をうかべた。彼はまた彼女を怒らした。  やがて図書室の入口にアンが姿を見せたが、彼女の顏はまだ蒼白く、眸が埋火のように光つている。 「アノーさん。わたしの部屋をお探しになりましたの?」 「えゝ、すつかり。」 「頸飾はでてきませんでした?」 「えゝ。」  探偵は眞面目な顏になつてアンのそばへよつて、 「あなたにひとつお訊ねしたいことがあるんですが、答えたくないなら答えなくてもいゝです。裁判官以外のものには答えなくてもすむことなんですから。」  彼女はいくらか顏色をやわらげて、 「なんですか?」 「アンさん、貴方はどうしてこの家へ住み込むようになつたのですか?」  彼女の眸から埋火のような光が消えた。そしてよろめくように体を支えるように片手をドアにあてた。毒矢でつくつたペン軸が、探偵のポケットにあることを覚つたのだろうか。 「わたしはモンテカルロにいましたの。」これだけ云つて口をとじた。 「一人で?」探偵は執拗にきいた。 「はい。」 「金もないのに?」 「すこしはございましたわ。」 「でもそれはすぐなくしたのでしよう?」 「はい。」 「モンテカルロでワベルスキーと、知合いになつたのですか?」 「はい。」 「彼の紹介でこゝへおいでになつたのですね?」 「はい。」 「どうも可笑しいですね。」と探偵は考えこんだ。  フロビッシャーは可笑しいだけならいゝけれどと思つた。アンは探偵の質問にたじ/\となつているではないか、もつと突込んだことを訊ねると、彼女の唇から水がながれるように告白が出るかもしれない。それは恐らくワベルスキーと二人の罪の告白であろう。だが、告白の結果はどうなるのだ? フロビッシャーは彼女を待つ陰惨な運命をおもつた。断頭台! いや、彼女の運命はそれよりもつと惡かろう。断頭台で首を刎ねられるというなら、早く安息できるという意味でむしろ幸福なほうだ。フロビッシャーが珍らしそうに自分を見ているのではッとした。かの女はアンのことにはそんなに興味を感じていないらしい。それより彼がアンをどう考えているかということに、よりおゝくの興味を、感じてるらしい。  だが、彼がこんなことを考えているうちにアンの決心がついた。 「ではもつと詳しくお話しましよう。」  そして彼女がドアの柱にもたれながら話しだしたことはこうである。  いまから十八ヶ月まえまでは、アンは母親と二人で英国のウエイマンスのちかくに暮していた。父は死んでいた。親子二人の生活は物質的にあまり惠まれていなかつた。わずかな土地を持つてはいたが、税がたくさんかゝるので、收入は驚くほど少なかつた。その頃のアンは画家になるようにみんなから思われていた。だが、まもなく母親が死んで彼女は一人になつたので、土地を賣りはらつたわずかな金を懷にして、運命を切りひらくべくロンドンへ出た。だが、ロンドンで一年ばかり絵を研究してみた。彼女は、絵というものがそんなに易いものでないことを覚らねばならなかつた。ぼつ/\目覚めかけた時、自分の金を勘定してみたら、三百ポンドしか残つていなかつた、三百ポンド! わずかこれだけの金で今後どうしたらいゝだろう? なにか店を開くには少なすぎる金だ。といつて他人の世話になるのも気がすゝまない。そこで彼女は思い切つてモンテカルロで遊んで、のるかそるかの運をためすことにしたというのだ。  こゝまで話してくると彼女の眸が輝きだした。 「モンテカルロへはまた行つてみたいと思います。」と彼女は後悔なぞしていない樣子で、「英国を出るのは生れてはじめてでしたけれど、学校でならつたフランス語をすこしは喋れました。で、服と帽子の新しいのを買つて、モンテカルロへ行つたのです。フランスの寢台列車も面白ければ、モンテカルロの賭博の遊戯も面白く、ほとんど見るもの聞くものが珍らしかつたのです。モンテカルロでは山の小さなホテルに泊りましたが、一人二人昔から知つている人がありまして、その人がクラブへ入れてくれたのです。そして皆がわたしに親切にしてくれました。」 「なるほど」と探偵は頷いた。 「モンテカルロで会つた人は、皆面白い人ばかりでした。」こういう時のアンの顏は樂しい思い出に紅潮して、しばしのほどは一同から嫌疑をかけられていることも、忘れているかのごとくみえた。 「そして五週間のうちに四百ポンドばかり儲けたんですが、それから三日つゞけて負け通して、ホテルの金庫にあずけていた三百ポンドのほかは、まるで失くしてしまつたのです。」廊下に立つフロビッシャーに目をやりながら、「最後の晩のことは、フロビッシャーさんもよく御存じですわ。あまりわたくしが負けてばかりいるので、あの方が千フランくださつたぐらいです。」 「フロビッシャーさんの話はあとできゝましよう。ワベルスキーにはもつと前に会つたのでしよう?」探偵がきいた。 「えゝ、二週間ばかり前に会いました。でも誰が紹介してくれたのか忘れてしまいましたわ。」 「ベッティーさんには?」 「ベッティーさんには、それから一日か二日してからワベルスキーがパリホテルの廣間で紹介してくれましたの、お茶の時間に。」 「あゝ!」と探偵がかすかに肩をすくめて、フロビッシャーのほうを見た。ワベルスキーがある目的のために、計画的にかの女をハーロー家へひつぱつてきたことが、次第に明白になつてくるように思われた。 「ワベルスキーがあなたをハーロー家へ連れてゆくと初めて云つたのはいつですか?」探偵がきいた。 「あの最後の晩でございます。そのときあの人は、わたしが勝負に負けて金を取られるのを見ていました。」 「なるほど。彼のほうが時期がきたと思つたのですね。」探偵が頷きながらいつた。  彼は両手をひろげてまたそれをおろした。それは余脈のない患者を診察したときの醫者の態度のように見えた。彼はしばらくじッと四角な大理石を敷いた床を見つめていた。それはこの女を拘引すべきかどうかを考えているのだとしかフロビッシャーには思われなかつた。  けれどもこのときベッティーがそばから口をそえた。 「でも、アノーさん、誤解なすつちやいけませんわ。ワベルスキーがそのことをアンさんに話したのは、あの晩が初めてだつたかも知れませんが、わたしは同じ年頃のお友だちがほしかつたので、それよりずつとまえに、アンさんのことを伯母やワベルスキーに話したことがあるんです。」  探偵はいぶかしげな顏でベッティーを見ながら、 「アンさんと知合いになつてから幾らもたゝないのに?」  ベッティーも讓らなかつた。 「えゝ。でもアンさんと知合いになるとすぐ大好きになつたんですもの。同国人ですからすぐ仲好になつたのも無理はないのです。アンさんとこの家に一緒に住むようになつてから、もう四ヶ月になりますけれど、まだ一度だつて不愉快な思いをしたことはございませんわ。」  ベッティーがこう云いながらアンのほうへ近づいて行くと、探偵はにや/\笑いながら英語でいつた。 「どうもそう云われてはかなわない。美しい友情のまえでは何物も無力ですな。」  そしてベッティーに向い愛想よく頭を下げた。それはベッティーの言葉が、アンの拘引を無効にしたと云うのと同じであつた。そこにいる一同が探偵のこの言葉をそんな意味にとつた。一同がしばらく目のおきどころに困つたようにぼんやりしていた。だがこの気拙い状態をやぶつて、ちよつと奇妙なことがおこつた。  それは一人の少女が、婦人帽を入れるような大きいボール箱をもつて、玄関の石段をのぼつてきたのである。  彼女は玄関が開いているのにベルを押そうとしたので、探偵がいそいで玄関へ出た。 「ベルを押さんでもいゝよ。なにをもつてきたの?」  少女は廊下に入つてアンにむいていつた。 「あすの晩の夜会服ができました。一度着てみて頂こうと思いましてお待ちしていたんですけれど、お見えになりませんでしたのね。でも、たぶんよかろうと店のものが云いますので持つてまいりました。」  そしてボール箱をホールのすみの戸棚の上におくとさつさと歸つてしまつた。 「わたしすつかり忘れていましたわ、」とアンがいつた。「夫人がお亡くなりになるまえに注文して、仮縫をいちど着てみたきりなんです。」  探偵は頷きながら 「ルヴェー夫人の仮裝舞踏会にお着になるんでしよう。貴方のお部屋の煖炉棚のうえに招待状がありましたよ。アンさんどんな仮裝でおでかけになりますか? ちよつと見せて下さい。」  探偵はボール箱のテープを解きはじめた。  ベッティーがまえにすゝみでて、 「もう仮裝のことは一月もまえから二人で相談してあるんです。アンさんは水蓮の服裝をお着けになるんですよ。」 「それは立派でしよう。」  そうは云つても、探偵はテープを解く手を止めはしなかつた。  あまり露骨なアノーの態度を見ていたフロビッシャーは、「人を疑うにも程がある。」と心のなかで憤慨した。いつたい探偵は箱のなかに何があると思つているのだろう? 仕立屋の亭主をまでワベルスキーの共犯と考えているのだろうか?  探偵が蓋をあけて、うすい紙をとりのけると、なかから金色の花飾のついた、クレープデシンの緑色のフロックがでてきた。腰から下のスカートが花のように開いた素晴らしいものだつた。ボール箱のなかには、そのほか白靴下や美しい舞踏靴も入つていたが、探偵はそれらのものを丁寧に調べ終ると、もとの通りに箱のなかにしまつて、アンのほうへは目をくれず、つか/\ベッティーのそばへよつて、 「どうもいろ/\有難うございました。ほんとにお邪魔をしてすみませんでした。」  心から慇懃に頭をさげると、帽子とステッキをとつて、眞つ直ぐに玄関のほうへ歩いていつた。グルネイユ莊に於ける彼の調査は、まつたくすんだ樣子であつた。  だが公証人の腹の虫はおさまらなかつた。いままで默つていたけれど、もう堪らなくなつたように大声で呼びかけた。 「アノーさん、アノーさん、私はマッチの話がしたいんです。」 「え?」と探偵は振向いて、「マッチの箱! では歩きながらお伺いしましよう。」  公証人は大急ぎで帽子とステッキをとつて、ホールを出るときちよつとフロビッシャーのほうに向いて、 「あなたの忠告でアノーさんは轎を探したが、なんの甲斐もなかつたらしい。私の忠告がどんな結果になるか見ていらつしやい。」  と、手を振りながら、いかにも得意げに云い棄てゝ、アノーと肩をならべると、なにやらしきりに喋りながら、鉄門のそとに姿を消した。  ベッティーはフロビッシャーのほうへむいて、 「しばらく自動車を使うことを禁じられていたんですけれど、もう使つていゝそうですから明日はあなたにディジョンの郊外を見せてあげましよう。でも、今日は、ほらお分りでしよう、アンさんを慰めてあげなくちや……」  こう云つてアンの腕をとつてすたすた庭のほうへ出ていつた。  フロビッシャーはホールに一人残つた。一人になりたいと願つていたところでもあつた。あたりはひつそりと鎭まりかえつていた。開けはなした玄関のほうから響いてくる小鳥の啼声、蜂の唸りは、沈默を破るというより、沈默の伴奏というにふさわしかつた。フロビッシャーはさきほど探偵が立つて笑つた位置へ行つてあたりを見まわした。が、あたりに探偵の哄声のたねになつたと思われるものはなにもなかつた。あのとき彼はなにを思い出したのだろう? なにを発見したのだろう? たゞあるものはホールのテーブルと椅子それから壁にかゝつた晴雨計――そのほかにはなにもない。さてあれもアノー一流の芝居だつたかな? たゞ公証人と自分に不快をあたえるだけの芝居だつたかな? 芝居といえば、探偵のすることなすことみんなが芝居のように思われる。すくなくとも三分の二は芝居だ。 「あゝ、妙な人だ! 池の上から何を見つけたんだろう? このホールで何を見つけたのかな? どうしてあの人はいつもほかの者に分らぬものばかり見つけるのだろう?」  フロビッシャーは乱暴に帽子を頭にのせると、ぶらりと家をとびだした。 [#3字下げ]17 クラーデル[#「17 クラーデル」は中見出し]  その夜九時フロビッシャーは切符をかつてグラン・タヴェルの映画館へはいつた。かたかた頭のうえで機械が鳴つて、ひとすじの白い光線が闇を破り、まえのスクリーンは銀色の光にあふれて、つぎからつぎといろんな画面があらわれていた。  しばらくのあいだは銀色の画面よりほかになにも眼にはいらなかつたが、眼が闇になれるにしたがつて、しだいにあたりが見えはじめた。白いエプロンの女給が、觀客席のまんなかの通路をいそがしげに行きつ戻りつしている。彼はその通路をまつすぐに前にすゝんで、それからテーブルとのあいだを左に折れた。壁につきあたるとまた前に進んで、いちばん前へ出た。左のほうには別室があつて、そこにアノーが云つた通り球突台が見える。その壁際に一人の男がもたれて見物しているのは、どうやら秘書テヴネーの姿らしかつたので、彼はそのまえを通るとき、ちよつと頭をさげた。それから僅かばかり前へ出ると、一人の大男がビールの杯をテーブルのうえにのせたまゝ坐つている――アノーだ。フロビッシャーはそッと彼と並んで腰かけた。 「よォ!」探偵は意外に思つたらしい。 「だつてあなたはいつも九時にこゝへ来ると仰有つたじやありませんか。」 「あなたが来ようとは思わなかつた。美しいのが二人もいるんだから。」 「なあに、ちつとも構つてくれませんよ」フロビッシャーが笑つた。  まだなにか云いたかけたが[#「云いたかけたが」はママ]それは止めて、そばを通る女給をよんだ。 「ビールを二つ」と註文し、それから探偵にシガーをすゝめた。  やがてビールがくると探偵が囁いた。 「すぐお金を拂つときなさい。いつでも出られるように。」 「では今夜はなにかやるんですか?」フロビッシャーがきいた。 「そうです。」  フロビッシャーが金を拂つて女給が立去るまで探偵はなにも云わなかつた。女給がいなくなると彼はフロビッシャーの耳に口をよせて、 「よく来てくれました。今夜は眞実を掴もうと思つているんです。それにはあなたといつしよでないと困るんです。」  フロビッシャーはシガーに火をつけた。 「だれから眞実をつかむつもりです?」 「藥屋のクラーデル。もつと遅くなつてガンベッタ街へいつてみましよう。」 「あの男が本当のことをいうでしようか?」  探偵は頷いた。 「あの男はたゞョまれて毒矢の藥をといただけだから、今度は共犯にはならない。それにちかごろ警察の機嫌をとりたがつているのですから、きつとしやべりますよ。その点は安心していゝです。」  この事件が今夜のうちに結末がつくのかと思うと、フロビッシャーも嬉しかつた。ベッティーも久しぶりで晴々とした気持になるであろう。彼は熱心な口吻で探偵にいつた。 「しかし私の考えでは、アンはこの事件には必ず関係がありますよ。アンに関係のないところをつついたつて眞実が掴める心配はありませんよ。」  探偵は彼の腕をちよつと突いて 「そんな大声をだしちやいかんです。あの壁のところに誰かこつちをみています。」 「あれは秘書ですよ。」 「あゝ、」と探偵は安心したように、「秘書ですか。なんだか張番しているようで気味がわるかつた。」  それから探偵は一段と声をひくめて、 「じつは私も眞実を知るのが怖いんですよ。しかし矢を手に入れたんですからね、もうこうなつちや……」しばらく考えて「いつたい四月二十七日の夜ハーロー家では何事があつたでしよう? 中間のドアはなぜ開いていたんです? 『これでよし』と云つたのは誰です? アンの陳述はすべて本当でしようか? それともまるで嘘ですか? あなたは今日覚書にたくさんの疑問をならべていましたが、あの疑問に対しては、私もいまのところなんとも返事ができないのです。」  探偵は両手を握り、額に青筋をたて、低い声をふるわせて話すのである。フロビッシャーは探偵がこんなに熱心になつて話すのをみたことがなかつた。 「それはクラーデルが説明してくれるかも知れません。」フロビッシャーがいつた。 「なにか喋るでしよう。」  やがて一つの映写が終つてぱッと灯がつき、また灯が消えて暗くなつた。探偵は時計をだして熱心に見ると、いまいましそうな顏をしてポケットにしまつた。 「まだ早いですか?」 「早い。クラーデルは番頭をおかずに一人でやつているんです。いつも夕食を外でたべますから、まだ家へ帰らないでしよう。」  十時前になると一人の男が探偵のすぐ後のテーブルに座席を占めた。そして火は點けなかつたけれど、二度つゞけさまにマッチをする音をさせた。すると探偵が後を振向きもしないで靜にフロビッシャーに云つた。 「もうクラーデルが帰りました。これから出かけましよう。私がこゝを出て五分間たつと、あなたは跡をつけてください。」  フロビッシャーは頷いた。 「どこで落合いましよう。」 「まつすぐにリベルテ街を歩きなさい。すると私がどこからか出てきます。」探偵がいつた。  彼はポケットから卷煙草を出して火をつけながら立上つた。すると厄介な秘書がつかつか近づいてきた。 「あなたはアノーさんじやありませんか? どうもさつきフロビッシャーさんが私の前を通られたので、アノーさんに違いないと思つていたんですよ。お邪魔してもいかゞかと思つて默つていたんですけれど。」 「お邪魔! そんなことがあるもんですか。我々は同じ仕事に從事しているんですもの。」探偵の言葉は丁寧だつた。 「でも、アノーさん、これからどこかへお出かけになるんでしよう。お忙しいところを[#「お忙しいところを」は底本では「お忙しいとろを」]――」 「いゝえ、忙しくはございません。いま映画を見ていたんですけれど、どうも面白くないので。」探偵がいつた。  秘書テヴネー[#「テヴネー」は底本では「テブネー」]が差出がましいと同じ程度に探偵は辛抱づよいとフロビッシャーは思つた。 「そうですか、お忙しくないんですか。ではお邪魔させていたゞきましよう。ほんの暫くの間だけで結構です。私は、その、たゞ友人たちに向つて、アノーさんと一緒に映画を見たと、自慢することができさえすればいゝのです。」  こう云われては仕方がない。探偵はまた椅子に腰をおろした。秘書の話というのはほかでもない。まだ若くて野心の多い彼はパリへ出たいのだつた。フランスの都で名声と幸運を得たいのだつた。なにかパリでよい仕事はあるまいかというのが彼の要旨であつた。 「承知いたしました。いますぐには別に考えもありませんがなにかあなたに適当な仕事があつたら、覚えておいてお知らせいたしましよう。」  探偵は優しく云つて立上り、ちよつと頭をさげて出ていつた。  秘書は彼の後姿を見送つて、 「あの人には偉いところがあります。あんな人には知つていることは何んでも隱さず話しても安心です。しかし私には合点がゆかんのですが、どうして病室の実驗に女中をひつぱつてきたんでしよう? あれには私たちに分らなくても何か目的があつたのでしようか? それからあの宝物室の捜索の素早さはどうでした! フロビッシャーさん、あなたはアンさんの居間の捜索にも立合いましたか? 私は寢室は見ましたけれど、居間は見なかつたです。なにかあすこで変つたことがありましたか?」  秘書はこゝまで云うと相手の返事を待つた。  だがフロビッシャーはたゞ、「あゝ!」と訳のわからぬ返事をするだけだつた。  そこで秘書がまた喋りだした。 「私はアノーさんの捜索法を觀察しているうちに気ずいたんですが、あの人は目当があつて捜索しているんじやない。たゞ漫然とあらゆる場所を探しているんです。そして最後にそのすべてを綜合して、断定をくだすらしいですね。たとえばあの無名の手紙にしてもそうです。あなた、あれを見ましたか、ベッティーさんが受取つた無名の手紙を?」 「あゝ!」  と、フロビッシャーはアノーの流儀にしたがつて曖昧な返事をした。そしてもうそろそろ場をはずしてもよかろうと思つたので、 「この写眞はすぐすむらしいですね。私はお先に失礼いたします。」  フロビッシャーはパリにおける成功を夢みている秘書をあとにのこして一人で映画館を出た。ギョームの門をぬけ、リベルテ街へでると、田舍町のこととて、もう死の都のようにひつそりとしている[#「している」は底本では「しいる」]。二百ヤードもすゝむと、どこからともなくぶらりとアノーが姿を現して、肩をならべて歩いた。 「私が映画館を出たあとで秘書がなにか面倒なことでもいゝましたか?」探偵がきいた。 「テヴネーという男は、署長が自慢していただけあつて、なか/\利巧な人間にはちがいないですが、かなりうるさいやつですね。アンの居間でなにか発見したかときいたり、ベッティーが受取つた無名の手紙のことをきゝましたよ。」  探偵は面白そうに若者をながめた。 「そうでしよう。あの男ならそんなことを平気できくでしよう。で、あなたはそれにたいしてどう答えました?」 「私が貴方に面倒なことをたずねると、貴方はいつも『あゝ!』と曖昧な返事をされるでしよう。だから私も彼にたいして『あゝ!』といつてやりました。」  探偵は腹を抱えて笑つた。 「はゝゝ、それはよかつた! 上出来ですよ! さあ、この横道を右へ折れましよう。クラーデルの家はこつちです。」 「ちよつと待つた! 耳をすましてごらんなさい!」フロビッシャーがいつた。  探偵はすぐ立止つた。二人は人通りの絶えた街で耳をすました。 「誰もいない。」探偵がいつた。 「いないようですね。だから心配なんです。ちよつと前には足音がしましたよ。私たちが止つたら向うも止つた。ちよつと歩いてみましよう。」 「よろしい。」探偵が頷いた。 「默つて。」  二人が前へ進むと、またしばらくして後のほうで舗道を踏む足音が聞えた。 「ほら、聞えるでしよう?」  と、フロビッシャーが探偵の肘をにぎつた。 「あなたは話するなと云つて、自分のほうからしている!」 「でも大変ですよ。アノーさん、誰か私たちを尾行しているんですよ。」フロビッシャーは烈しく探偵の腕をゆすぶつた。  急に立止つて、探偵が感心したように若者を見いつた。 「あれが分りましたか? 偉いですな! そうですよ。確に尾行している者があるのです。じつは跡をつける者がないように、見張りのために部下を一人尾行さしてあるんですよ。」  フロビッシャーは荒々しく探偵の腕を搖つて放した。  探偵は可笑しそうに笑いながら、 「さあ、大丈夫だから右の横町へ折れましよう。」  せまい小穢い横町には人の子一人通つていなかつた。たゞ両側に黒い家がだまりこくつて並んでいた。沈默を破るのは二人の足音ととき/″\かすかに響いてくる尾行者の足音だけだつた。しばらく行くと探偵はまた狹い小路を左へ折れて、とある見すぼらしい小さい店の前に立止つた。 「こゝですよ。」  ひくい声で呟いて探偵がドアのそばのベルをおすと、ドアのすぐ向うがわで、けたゝましいベルの音がした。 「もう寢たかもしれん。寢たとすればしばらく待たなくちやならん、番頭がいないんだから。」  一分か二分の時がすぎた。どこからともなく三十分を報ずる時計の音がひゞいてきた。探偵はぴつたりドアに耳をつけて固唾をのんだ。家のなかではいつまで経つても物音がしない。で、またベルを押した。  するとしばらくたつて二階のシャッターがあいて、 「だれ?」と小声で云う。 「警察の者だ。」探偵がこたえた。  二階の男は默つたまゝだつた。 「ちよつと調べたいことがある。べつにお前をどうしようと云うんじやないから降りておいで。」 「はい」と二階の闇のなかに立つた男が答えたが、降りてくる気配がない。しばらくすると、 「ちよつと待つてください。いま服をきて降りますから。」  シャッターがしまつたと思うと、その隙間から明りがもれた。  それを見ると探偵が満足げにつぶやいた。 「とう/\起きてくるな。あんなに用心ぶかく小声で答えるぐらいだから、やつぱり時々はお客が隱れて買いにくるんですね。」  じつと立つて待つのがもどかしそうに、探偵はあつちへ行つたり、こつちへ行つたりした。フロビッシャーはこの二日間、この時ほど探偵がいら/\したのを見たことがなかつた。 「もう五分間たつとこの事件の眞相がつかめます。毒矢をもつてきたのが誰であるか、それも分りますよ。」 「ことによると誰ももつてこなかつたかも知れませんよ。」  こうフロビッシャーが云つたが、探偵はそんなことの可能性は始めから頭に入れていないらしい。ちよつと肩をすくめて片手で額をなでまわして、 「私はワベルスキーの説に同感です。たしかに誰かこゝに毒矢をもつてきたと信じています。」 「もし矢を持つて来た人間があるならそれはスポラントスの本を本棚へもどしたやつと同人でしよう。」  探偵は彼の前に立止つて低い声で笑つた。 「いや、同人じやない。それは世界中の金を賭けて、おまけにハーロー夫人の頸飾まで賭けて断言してもよろしい。なぜというに、この家へ矢を持つてきたのは私ではありません。ところがあの本を本棚へもどしたのはじつは私なんです。」  フロビッシャーは面喰つて口をあけたまゝ一歩しりぞいた。 「あなた。」 「そうです。」探偵は爪先で立つて背伸びをした。  だが彼は次の瞬間すぐ嚴重な顏になつて二階を仰いだ。 「あの畜生は何をしているんでしよう。やつぱり警察というと怖いんでしようか。」  またベルをこんどは可なり烈しくおした。  それから探偵は、「仕樣のない奴だ!」と呟きながら、把手を掴んだまゝ背で勢よくドアを押した。古い毀れかゝつたドアではあるが、それくらいのことでは開かなかつた。彼は指を口のなかへ突込んで口笛を一声高く吹いた。すると、それが合図だつたと見えて、今まで跡をつけていた巡査が走つてきた。その巡査は今朝クラーデルという店があるかどうか、探偵が調べにやつた巡査であつた。 「モロー君、」と探偵は巡査にむいていつた。「こゝに立つていてくれたまえ。そしてドアを開けたら、笛を吹いて知らせてくれたまえ。」 「承知いたしました。」  探偵はフロビッシャーをつれたまゝ、 「どうも樂観していられない状態になつた。」  と呟いて、店のすぐそばの狹い路次に入つて行く。  あとからフロビッシャーが囁いた。 「五月七日の朝、ワベルスキーが隱れこんだというのは、この路次じやないでしようか?」 「これです。」  その路次は、ガンベッタ街に並行した他の小路へつゞいている。探偵はその小路へ出た。そこには高さが五フィートばかりの塀がずつとむこうまで続いて、そのところ/″\に家の裏門とでもいうべき穢ならしい木戸がある。探偵はその一番目のドアのまえに立つて、背伸びをして中庭を覗きこんだ。そこからクラーデルの家の背後が見える。小路には街灯というものが一つも点いていなかつたし、それにまつ黒い家々にかこまれているので、あたりはまるで洞窟のなかのような暗さだつた。もはやこの時には若者の眼はすつかり闇になれていたのだが、それでも五六間先を人が通つたとしても分らないほどだつた。  だのに探偵は相変らず両手を壁の上にかけたまゝ、クラーデルの家の背後ばかり見まもつている。  やがて彼は若者の腕にさわつた。 「なかに入つてみましよう、二階の窓が開いているかもしれません。」  彼が木戸を押すと、ぎいと微かな蝶番の音がして内側に開いた。 「開いた。靜かに。」  静かに二人は庭に入つた。階下は低かつた。よく見ると窓が開いている。 「あなたがおつしやつた通りです。」とフロビッシャーが囁いた。探偵は默つていろというように相手をちよつと手でついた。  窓のなかの部屋はまつ暗で、二人がその下に立つて耳をすましても、何の気配もしなかつた。探偵が若者の腕をひつぱつて、家の壁に沿つて進むと、まもなく一つのドアが見つかつた。靜かに把手をまわして肩で押してみた。 「鍵がかゝつている。しかし表のドアのように掛金は掛けてないらしい。」  探偵は音のせぬようにポケットから一束の鍵を出して、一つ二つ鍵をためしてみた。そのドアはわけなく開いた。そこは二階と同じ眞つ暗な廊下である。若者は早鐘のように胸を動悸打たせながら、探偵にしたがつて廊下に入つた。表の灯のついた二階と、裏の暗い部屋のなかで、何事が起りつゝあるのだろう? クラーデルはなぜ表のドアを開けないのだろう? 探偵は廊下に入るとまた元のようにドアに鍵をかけた。 「懷中電灯はないですか?」探偵が囁いた。 「ありません。」 「マッチをするわけにもゆかんし――」  ごく些細な空気の震動も二階にひゞくような気がしたので、二人は耳に口をあてゝ、聞えるか聞えないかの声で話した。 「そつと歩きましよう。私の背に手を当てゝついて来なさい。」  だが五六歩行くと、探偵はぴつたりと立止つた。 「こゝの右側に階段がありますよ。すぐそばです。蹉いて音をさせないように。」  探偵は片手で若者の腕をにぎつたまゝ、片手を階段の手摺にあてた。若者は探偵のあとについて足先でさぐりながら階段をのぼつた。そして階段をのぼりきると、あたりを透して見た。どこからともなくぼんやりした薄明りがさしこんでくる。眸をこらしてよく見ると、裏の部屋のドアが開いていて、その部屋の窓から、夜の明りがさしこんでくるのであつた。  探偵がその部屋へ入ろうとするので、フロビッシャーも入ろうとしたが、そのとたんに探偵が烈しく何かに蹉いた。その音はそんなに高くはなかつたのだけれど、それでも辺りが静かだつたので、ピストルの音のようにフロビッシャーの胸を打つた。町中に響くかのように感ぜられた。  けれども不思議なことは、そんな大きな物音がしても、奥のほうで人の動く気配もせねば、咎める声も聞えないのである。家の中はまた深い沈默につゝまれた。フロビッシャーはもう堪らなくなつて、大きな声で喚きたいような衝動を感じた。自分の声でもいゝから人間の声を聞きたいと思つた。ところがその声が聞えた。それは部屋のむかいがわにいる探偵の声だが、調子がいつもと違つているので、ほかの人かと思つたぐらいである。 「じつとして……そこになにか転んでいる……こんな事[#「こんな事」は底本では「こん事」]じやないかと思つていた……あゝ……」  探偵の声は深い溜息となつて消えた。  フロビッシャーは探偵が動く気配を感じた。と思うと窓のシャッターがしまつて、また眞つ暗闇になつた。 「誰が締めたの?」とフロビッシャーが低い声できいた。 「私です。」探偵の声、「光が外に洩れては都合が惡い。入口のドアをしめてください。」  フロビッシャーが云われる通りに入口のドアをしめると、部屋の床のうえにまつすぐに鉛筆で引いたような細い黄色い線が見えた。それは入口のドアとは反対の裏の部屋と表の部屋との中間のドアの隙間から洩れる表の部屋の光線で、つまりガンベッタ街から見た明りである。  だがフロビッシャーがそれに気付くと同時に、探偵が勢よくそのドアをあけたので、明るい電灯の光が流れこんだ。 「誰もいない。」  そうだ。電灯の点つている表の部屋には誰もいないけれど、その電灯の光の流れこむ裏の部屋には、床の上に一人の男が倒れている。 「あつ! これは!」フロビッシャーが叫んだ。  探偵が冷やかに振向いて、 「いま蹉いたのはそれですよ。」  入口のそばのスイッチを捻つて電灯をつけてみると、テーブルは押除けられ、椅子は倒れている部屋の眞ん中にチョッキ[#「チョッキ」は底本では「チヨッキ」]だけ着て上着は着ない男が、海老のように体をまげ、片手で空をつかんだまゝ打倒れて、あたりはよくも一人の人間の体からこれだけの血が出たものだと思われるほどの多量の血が流れていた。あまりの気味惡さに、フロビッシャーは頭がふら/\した。 「私たちが来たんで自殺したんでしようか?」 「武器は」  フロビッシャーは黒つぽい絨氈の上を探しまわつたが、光る短刀もピストルらしいものも轉つていない。 「日本人のようにハラキリでもしたと仰有るんですか? けれども刀は持つていませんよ。」探偵は跪いて体に手を触れてみて、「まだ温い。こゝをごらんなさい。」  探偵が指差した処を見ると、シャツの袖に赤い汚れが残つている。 「こゝで犯人が短刀の血を拭いたんです。」  フロビッシャーも怖々のぞいて見た。 「なるほど。ではやつぱり他殺ですね。」  探偵は頷いた。 「他殺に違いありません。」 「クラーデルでしようか、この男が?」 「それは顏を知つた者にきかんと分らんです。」  探偵は階段を降りて表のドアの掛金をはずして、巡査モローを呼んだ。  フロビッシャーは階段の上から二人の会話を聞いていた。 「君はクラーデルの顏を知つとるかね?」 「はあ。」 「そんなら来てみたまえ。」  探偵につれられて二階へ上つた巡査は、裏の部屋へ入ると仰天した。 「この男がクラーデルじやないかね?」 「これです。」 「誰にやられたんだろう。こゝに待つているから、君、面倒だが署長と醫者を呼んできてくれたまえ。」  巡査が階段をおりると、探偵は椅子に腰をかけ、眉をひそめてクラーデルの屍体をながめた。 「惜しいことした。この男は今まで世間の役に立つようなことは何もしなかつただろうが、今夜はじめて役に立つことをしかけて殺されたんだ。惜しいことだ。もつと早く来ればよかつた。こんなことになるかも知れんとは思つていたが……」 「誰が殺したんでしよう?」 「さつき窓から覗いた男ですよ。」 「でも……」 「なに、あれですよ。まあよく考えてごらんなさい。」  そして探偵は本でも読んで聞かせるように、事件の顛末を語つて聞かせるのだつた。 「巡査が息を切らして映画館へ駈込んで、いまクラーデルが帰つたと、マッチの合図で知らせてくれたのは十時五分です。ですからクラーデルは十時に五分前、自分の家へ帰つたのです。」 「なるほど。」 「あの時すぐこゝへ飛んでくれば、こんなことにならなかつたでしようが、御承知の通り秘書テヴネーがうるさくつきまといました。」探偵は舌のさきで乾いた唇をうるおして、「そうです。あれは邪魔に違いありません。わざと邪魔をしたのです。テヴネー[#「テヴネー」は底本では「デヴネー」]という人物は、署長の秘書はしているけれど、どんな人間か分つたもんじやない。あの男のことはもつと調べる必要がありますよ。そして街で待つている時に十時半を打つ時計の音が聞えました。」 「そう/\。」 「あの時にはもうこの悲劇はすんでいたんです。なぜというに、家の中が墓のように靜かだつた。けれども、それかといつて、ずつと前にこの殺人があつたわけではない。それは体温が残つているのを見ても分る通りです。これがクラーデルであるとすれば、何者かゞ路次にかくれて、彼の帰るのを待ち伏せていたんです。しかもその男はクラーデルが家の中へ連れこんで鍵をしたところから判断して、彼の知人に違いないのです。」 「ことによるとその男は、短刀を持つてこの暗い部屋のなかで待ち伏せていたかもわかりませんね。」  探偵は部屋を見まわした。仕事場ともつかねば、居間ともつかぬ、よごれた穢ならしい部屋で、窓際にはテーブル、壁際には戸棚のようなものが見えた。 「あるいはそうかも知れません……しかし犯人が長い間待つていたとすれば、抽出なども開けてみた形跡がのこつていなければならんです。だがそんな風もないし、この戸棚のドアにだつて鍵がかゝつたまゝです。いや、やつぱり犯人は知人として入つたのでしよう。そして、この部屋まで入ると、隙を見てぶすりとやつて、それから間もなく私たちのベルが鳴つたという順序でしよう。フロビッシャーさん、まあ考えてごらんなさい。その男は自分が殺した屍体を見下しながら、ここに立つていたのです。そのとき、不意にはつきりしたベルが神の声のように恐ろしく響いたのです。その時の光景を想像してごらんなさい。彼はすぐ灯りを消し、息を殺しながら闇のなかに立つていたのです。そのうちまたベルがなつた。そのベルに答えなければ、ます/\我が身が危險になる。そこで表の部屋へ出て、窓から首をのぞけて、私たちが警察の者であることを知つたのです。けれどもその男もさる者です。警官と聞いただけで慌てはしない。彼は服を着ると云つておいて靜に窓のシャッターをしめ、灯をつけて裏の部屋へ帰つたが、階段を歩み降りて裏のドアを開けて逃げるような下手なことはせず、すぐこの窓を開けてこゝから庭へ飛び降りたのです。庭へ降りたらもうしめたものです。彼は裏の小路から悠々と闇のなかへ逃げこんだのです。彼はクラーデルの口を閉じてしまいました。私たちが知りたいと思つたことは、永久にクラーデルの口からは聞けなくなつたのです。」  探偵はポケットからまた鍵束をだして、戸棚のドアをあけてみた。そのなかにはずらりと幾つもの棚があつて、硝子の壺やレトルトのようなごく簡單な化学実驗用具にまじつて二三の壜があつたが、探偵が注意して調べたのは、そのなかの一番大きい壜であつた。そのなかには透明な液体がはいつている。 「アルコール。」彼が壜の札をゆびさしながら呟いた。  フロビッシャーは倒れた椅子や屍体にふれないように用心しながら部屋のなかを歩いたり、戸棚のなかを調べたりしたのであるが、教授の書物にあるような、黄色い溶液はどこにも見出されなかつた。しばらくすると探偵が戸棚をしめて鍵をかけた。それからテーブルのまえにすわつて、その上に散らかつている書類に眼を通しはじめた。フロビッシャーも椅子に腰かけて考えはじめた。犯人は今朝から探偵がクラーデルを調べだしたことを知つた。そしてクラーデルから秘密がもれぬようにと思つて彼を殺した。フロビッシャーは四月二十七日の夫人の死が、他殺であることはもう爭われないと思つた。夫人の死が他殺であることは論理的に次第に正確になつてきた。しかもこの事件は迷宮から迷宮へとだん/\複雜になり、その迷宮が二階から三階、三階から四階と、ます/\大きくなつてゆく。 [#3字下げ]18 錠剤[#「18 錠剤」は中見出し]  探偵は抽出の上の緑色の傘のかゝつた電灯に灯をつけて、抽出をぬいて覗きこんだ。そのなかから釦の孔に飾る徽章のようなものを拾いあげて吸取紙のうえにおき、深い沈默をやぶつてだしぬけに笑いだした。  フロビッシャーを手招きして、 「これはどうです?」  フロビッシャーがそばへよつて見ると、それは徽章ではなくて錨型の矢の先端であつた。探偵に訊ねるまでもなく、教授の書物の写眞で見て知つているので、それが何であるかはすぐ分つた。ハーロー氏が所有している毒矢の先端である。 「とう/\見つけましたね。」フロビッシャーの声はふるえていた。 「見つけました。こゝから数千哩はなれたコンベ地方の土人は、この矢の先に毒草の汁と泥を塗つて敵がくるのを待つていたのです。けれども敵はやつてこない。そこで土人が英国の商人に賣り、それがハーロー氏の手に入り、さらにエディンバラ大学の教授の手に渡つて立派な書物となつたのです。そして廻り廻つて終にディジョンの貧民窟に住むクラーデルの仕事場へ入つて、この矢が人を殺す使命を果したのです。」  その矢の先を眺めながら、探偵はどんなに長い間哲学的瞑想にふけり、かつそれを縷々と話して聞かせただろう。だが幸にしてフロビッシャーは何時までもそれを聞かずにすんだ。階下にドアが開く音がして、人声が聞えたからである。 「警部!」  しずかに椅子から立上つて、探偵は階段をおりた。  フロビッシャーは階下でひそ/\と話す声をしばらく聞いた。多分今夜の出来事の顛末を話して聞かせているのだろう。やがて彼が警部と醫者を案内して二階へ帰つたときには、はや、すでに説明のすんだ人を紹介するようにフロビッシャーを紹介するのであつた。 「これがフロビッシャーさんですよ。」  警部は署長より少し若い生々した男で、快活にフロビッシャーに挨拶すると、すぐ床の上の屍体に眼をうつした。そしてさすがに眉をひそめて舌打ちしながら、 「気味のわるい屍体だ!」と呟いた。  探偵は抽出のそばへよつて矢の先を紙につゝんだ。 「警部さん、これは当分私がお預りしておきますよ。」それをポケットにしまうと屍体を調べている醫者に向いて、「御面倒ですが檢屍報告ができましたら、その写しを一枚私のほうへおとゞけください。」 「承知しました。檢屍の結果は必ずお知らせいたします。」若い警部が丁寧な四角ばつた声でこたえた。  探偵はフロビッシャーの腕を握つて、「さあ、ながくいても邪魔になるばかりです。あとは醫者にまかして帰りましよう。」入口のところで振向いて、「こんなことは申上げる必要がないかもしれませんが、犯人はこの窓から逃げたらしいですから、窓際もよく調べてごらんなさい。ことによると指紋ぐらい残つているかもしれませんよ。もつとも近頃の犯人は心得ているから、指紋は残さないように注意したとは思いますが、それでも慌てた際ですから、あるいは残つているかもしれません。」  この親切な忠告を、警部はふかい感謝をもつて受けた。 「窓際もシャッターもよく調べてみましよう。」 「指紋がありましたら、その写しも一枚お願いいたします。」 「承知しました。早速おとゞけいたします。」警部が答えた。  フロビッシャーはこの礼儀ある二人の会話を、公証人ベー氏に聞かせたいと思つた。探偵と警部はおたがいに自分の職分を守りながらも、相手の仕事の邪魔はすこしもしない。相方で尊敬しあつている。  探偵とフロビッシャーは階段を降りて街へでた。まだ近処の家々は深い眠りから覚めないでいた。家の前には二人ばかりの巡査が立つていた。静かなガンベッタ街は、この穢い家の中で起つた悲劇を知らないものゝごとくであつた。 「ねえ、フロビッシャーさん、」と探偵がいつた。「私はこれから警察へ行くことにします。警察のなかに長椅子のある気持のいゝ部屋を一つ借りてあるんです。ホテルへ帰る前にそこで矢の先をよく調べてみたのです。」 「そんなら私もいつしよに行きます。気味の惡い部屋にいたので、新鮮な空気をすいながら歩いてみたくなりました。」  二人は一哩以上もある警察まで大股であるいた。警察署のなかの探偵の部屋には、壁際に金庫までおいてあつた。 「どうぞそこに坐つて、煙草でもおやんなさい。」  こういう探偵はすつかり疲れて、クラーデルの家で見せた敏活な元気はどこにも残つていない。フロビッシャーはそれを見るにつけても、探偵がクラーデルとの会見に、いかに多くの期待を掛けていたかゞ察せられるのであつた。彼は金庫からいろんな書類を取出して、テーブルの上にならべた。しかし間もなく一人の巡査が一枚の紙をもつて部屋に入り、挨拶しながらそれを探偵にわたした。 「今夜九時にパリから電話の返事がまいりました。これが貴方のお訊ねになつた商会の名だそうでございます。まえにはバチニヨール街にあつたそうですが、もう七年もまえから無いそうでございます。」  探偵は紙をみながら 「そうか、御苦労さま。これだ、これだ。」  その紙を封筒のなかにしまつた。それから別の封筒から矢の軸をだし、ポケットに入れていた矢の先を比べてみた。軸のさきの孔はペン先を突込んであつたので、多少大きくはなつているが、それでも二つはきつちり合つた。つぎに探偵は金庫から小さい封筒を出して逆にして握つた。そのなかから白い圓いものが転び出した。フロビッシャーがそれを取つて裏返してみると、緑色に汚れて何か固いものでも押したように割目ができている。 「こんなものがこんどの事件と関係があるんですか?」  書類を見ていた探偵は顏を起してフロビッシャーを見、それから手を伸ばしてその錠剤のようなものを取つた。 「関係があるのかないのか、いまのところ分りませんが、しかしこの錠剤は面白いです。明日になつたらもつと詳しく分るでしよう。」  探偵がいつこんな錠剤を手に入れたのかフロビッシャーには分らなかつた。けれどもクラーデルの店で手に入れたものでないことだけは確かである。なぜというに探偵はこの錠剤を金庫から出したからである。緑色の汚れは草の葉の染のようでもある。そう云えば今朝四人の者が芝生のうえで話をしたから、あの時に手にいれたのだろうか? 探偵がテーブルの上にひろげた書類のなかにフロビッシャーが書いた覚書があつた。それを見つけたフロビッシャーは、またそれに次のようなことを書きいれた。 (五)パリからディジョンの警察へ掛つた電話、及びアノーが巡査から紙片を受取つて封筒にいれたが、その内容は何であるか? (六)アノーは白い錠剤をどこで手にいれ、またそれはどんな意味をもつものであるか?  フロビッシャーは書き終ると笑いながら默つてそれを探偵のほうへおしやつた。  探偵はそれを見ると靜かにいつた。 「これらの質問に今夜お答えできると思つていたんです。ところがクラーデルがあの始末でしよう。だからもう暫く待つてください。」  探偵は覚書を書類挾みにはさみかけたが、それを見ていたフロビッシャーは吃驚したように叫んだ。 「あの電報!」  フロビッシャーが驚いたのも無理はない。三通の無名の手紙といつしよに一枚の電報がピンで止めてあるのだが、その三通の手紙というのは、一つはベッティーが探偵に今日示したもの、他の二つはパリで探偵がフロビッシャーに見せたものである。電報は破れたのを裏打ちしてつなぎ合してある。 「その電報はベッティーがロンドンの私のところへ寄越したものでしよう?」 「そうです。」 「あれは警視廳でお破りになつたと思いましたが。」 「破りましたが、あとで拾つてつなぎ合したのです。この事件の調べがついたあとで、この電報が大変役にたつと思うのです。」 「あゝ、そうですか。」フロビッシャーは椅子に腰かけたまま、もじ/\体を動かせて、なにか云おうとして、また口を閉じた。その間に探偵はテーブルの上の書類を調べていたが、「こんなものを読んでも得るところはない。」と失望したように呟いた。  フロビッシャーがその機会をつかんで、思い切つたように口を開いた。 「アノーさん、あなたのお考えは私たちのとは全然ちがうかも知れませんが、どうもあなたは夫人の殺人事件とは別な無名の手紙のことに頭を悩ましていらつしやるらしい。それで申上げるのですが、また無名の手紙がまいこみましたよ。」 「いつ?」 「こんや私たちが夕食をしている時に。」 「誰が受取つたのです?」 「アンです。」 「え?」  探偵はその部屋の壁のように白くなつて立上つた。どんなことを聞いてもこれほど探偵が驚きはしないだろう。 「本当ですか、それは?」 「本当ですとも。ほかの手紙といつしよに最終便で配達されました。食堂へもつてきたのは老僕です。ロンドンの事務所から私へあてたのと、ベッティーへの二つの手紙と、それからアン宛の無名の手紙が同時にきたのです。私はアンさんがその手紙を開くのを見ていましたが、はじめは誰から来たのか分らないので、アンさんが眉をひそめていましたが、中味をあけると例のタイプライターです。アンは吃驚したように喘いで、二度読みかえして微笑しながらたゝみました。」 「微笑?」 「えゝ、喜んでいたようです。不安らしい顏だつたのが、明るい顏になりました。」 「貴方もそれを読みましたか?」 「いゝえ。」 「その手紙についてアンがなにか云いましたか?」 「いつもこの人の云うことは本当なのねと云いました。」  探偵は靜かにもとの椅子に坐つて、 「それからどうしました?」 「食事がすむまで何事もありませんでしたが、食事がすむとアンは手紙を取上げ、ベッティーになにやら合図をしました。するとベッティーが私にむいて、『すみませんが一人でコーヒーを召上つてくださいね。』といつて、二人で食堂を出て行きました。私はディジョンへ来て以来、つぎからつぎといろんな人にこうして邪魔者扱いされるんで困りましたよ。だから今夜あなたにでもお会いしようと思つて映画館へ入つたんです。」 「すると手紙のことを相談するため二人いつしよに食堂を出たんでしようね。けれども今日あれほど悄気ていたアンがなぜ手紙を見て急に喜んだのでしよう? しかしとにかくアンが笑つたとすれば、「鞭」も今度だけは親切だつたということになりますね。それは何故でしよう。どうも分らん。この謎が解けるまでは、どうしてもあなたの助けを借りなくてはならんです。ですからあなたは、できるだけ長くグルネイユ莊に滞在して、アンの樣子を見ていてください。そして――」 「いや、そいつは御免こうむりたいですな。私はスパイのような仕事はやりたくないです。法律顧問としてディジョンへ来ただけです。アンは私の同国人ですから、敵意を持つて見ることはできませんよ。」 「こもつともです。あなたの心はよく分ります。私はたゞなるべく早く眞相をつかみたいだけなんです。」 「ねえ、アノーさん、本当のことを教えてください。正直に云つてください。アンが犯人なんですか? むろん一人じやないでしよう。共犯者があることは私も想像しています。あるいは團体かもしれません。それは分つているのですが、ワベルスキーもその一人ですか? アンやワベルスキーが共犯なんですか? あなたのお考えを教えてください。」 「アンという女を私がどう思つているかそれを知りたいんですか、」と探偵は云いたくないことを云うように澁々と話した。「それではね、明日ディジョンのノートルダム寺院へ行つて表の飾りを御覽なさい。あなたが盲目でなかつたら、なにか見えますよ。」  探偵はかの女についてそれ以上なにも云わなかつた。いくら訊ねても無駄なことはフロビッシャーにも分つていた。それどころか探偵はそれだけのことを喋つたのさえ後悔するように、陰気な顏になつて、椅子から立上るのである。  フロビッシャーは帽子とステッキを取つた。 「有難うございました。お休みなさい。」  フロビッシャーがドアのところまでくると探偵がうしろから、 「あすは私グルネイユ莊に行きませんから、あなたは御自由になすつてください。なにか計画でもおありですか?」 「ベッティーが郊外をドライヴさしてやるとか云つていました。」 「それは面白いでしよう。お出かけになる前には、私はこゝにいますから、電話をかけてください。なにか変つたことがあつたらお知らせします。左樣なら。」  フロビッシャーが帰るときには、探偵は部屋のまんなかに立つていたが、もうフロビッシャーのことは忘れてしまつたとみえて、いくども独語のように、「ぐず/\してはいられん! ぐず/\してはいられん!」と呟いているのが聞えた。  フロビッシャーは、探偵と別れると早速にリベルテ街のほうへ歩いていつた。探偵はアンがどんな女か知りたければノートルダム寺院の正面を見ろといつた。けれども今夜はもう遅い。明日の朝にでもなつたら見にゆこう。シャルロベール街のほうへ折れかけると、ふと後のほうで人の足音がする。振向いて見ると、背の高い男の影がちらと眼に映つたが、すぐまた消えた。どうもその人影はアノーらしい。だがそれにしてもアノーは何故こんな処を歩くのだろう? ホテルもなければ、小さい宿屋もない区劃に何用があるのだろう? この新しい疑問を考えているうちに、彼はノートルダム寺院のことは忘れてしまつた。そしてやがてグルネイユ莊に着いたら、また小さい出来事があつたので、ノートルダム寺院のことは完全に忘れてしまつた。彼は持つて出た鍵で玄関のドアをあけ、それからホールのスイッチを捻つて灯をつけた。  すると、その瞬間、意外にも宝物室のドアがあいてベッティーが出て来たのである。 「まだ起きていらつしやるんですか?」  と、彼はかの女を発見したことを半ば喜び、またかの女が休まずにいることを半ば気の毒に思いながら低い声でいつた。 「えゝ、」とかの女は静かに微笑して、「あなたがお帰りになるのを待つていましたの。」  かの女がドアを開けて待つているので、彼も吸われるようにその部屋へ入つた。 「顏を見せて頂戴、」とフロビッシャーの顏を見入りながら、「あなた今夜なにか変つたことがあつたでしよう?」  彼は默つたまゝ頷いてみせた。 「どうなさつたの?」 「ベッティーさん、明日まで待つてください。」  かの女はもう笑わなかつた。その顏にしだいに憂いの色が浮んできた。 「なにか怖ろしいことでも?」 「えゝ。」  ベッティーは片手で椅子の背をもつて体をさゝえながら、 「どうぞ話して下さい、フロビッシャーさん。わたし、疲れているんですけれど、あなたがそれを話してくださるまでは休みませんわ。」  その声に現れた深い哀願と、かの女の姿態に現れた疲労をみては、フロビッシャーも我を折らないではいられなかつた。 「そんなら話しましよう、」と素直にいつた。「今夜アノーさんといつしよにクラーデルを訪問したんです。ところがあの男は死んでいるんです――むごたらしく殺されて。」  この言葉を聞くと、かの女は呻きながらよろめきかけたが、フロビッシャーが急いで抱きとめて、 「ベッティーさん。」と呼んだ。  かの女は男の肩に顏を埋めた。彼はかの女の胸の烈しく波打つのを感じた。 「まあ、クラーデルが? 怖い! これからいつたいどうなるんでしよう?」  彼は女を椅子に坐らせ、そのそばに跪いた。女は啜りあげて泣いている。 「ベッティーさん!」  かの女の顏を両手で起そうとしたが、かの女はます/\男の肩に顏を深く埋めた。 「ベッティーさん! 本当にお気の毒です……でもすぐまた元通りになります。きつとなります。ね、ベッティーさん!」こう宥めてはみたが、自分ながらその言葉の平凡なのに愛想をつかした。なぜ自分はこの女を慰めるべきもつと気の利いた言葉を発見しえないのだろう? 「お気の毒」だとか、「元通りになります」だとかの間のぬけた言葉より、もつと適切な言葉はないのだろうか? だが適切な言葉をさがす必要はなかつた。なぜというに、かの女が両手で彼の首を抱いて、ひしと抱きよせたからである。 [#3字下げ]19 ドライブ[#「19 ドライブ」は中見出し]  道は紙のリボンのように山の中腹を曲つて、下の谷間へ下つていた。やゝ道から下つたところの左手の狹い草原には、ちよろ/\水が流れている。小さい自動車が山の中腹をうねつて谷間へ下りかけると、白い道のはるかむこうのほうに、一台のオートバイが猛烈な砂塵を立てゝいるのが見えた。 「あすこまで行くと、ほこりで息が詰りますよ」と、フロビッシャーがいつた。  ホイールを握つたまゝベッティーは後を振りむいて、 「この自動車だつてひどい埃を立てゝいるじやないの。いゝじやありませんか。」かの女は晴やかに笑つた。フロビッシャーはかの女の笑うのが嬉しかつた。「わたし、ちよつとの間でも町を出ているのかと思うと、嬉しくてなりませんの。」ベッティーは胸を張つて日光にあふれた空気をすつた。「一週間目にやつと自由の身になれたような気がいたしますわ。」  フロビッシャーもこんな山道をドライヴするのが愉快だつた。ディジョンの街々はクラーデルの噂でいつぱいになつている。彼はガンベッタ街の惡夢のような記憶、裏部屋に体を曲げて死んでいた男のまぼろしを、いつときも早く振い落したかつた。 「もすこしお待ちになるとディジョンの町を出られますよ。」と彼は仔細らしくいつた[#「仔細らしくいつた」は底本では「仔細らしくつた」]。  ベッティーは男の腕に手をのせて、ちよつと顰面をして睨んだ。 「フロビッシャーさん、自動車を運轉している女に、そんな嬉しがらせを云うもんじやありませんわ。あのオートバイの男とサイドカーの女を踏み潰すかも知れませんから。」 「いや、サイドカーに乘せてあるのはトランクですよ。女じやありません。」  オートバイの男はこの辺の地理に疎いらしく、道が二又になつたところまでくると、オートバイを止めて降りた。ベッティーもそこまで来ると自動車を止めて、自分の目の前の時計とメートルに眼をやつたあとで、 「どうなさいました?」とその男にきいた。  ほつそりした髪の黒い快活らしい青年は、片手にオートバイを支え、片手でヘルメットをとつて丁寧に会釈した。 「ディジョンはどつちですか?」  この男の言葉つきは、なんだか聞き覚えがあるようにフロビッシャーは思つた。 「あの谷間をお行きになると、すぐ向うに町が見えますわ。」とベッティーが教えた。じつさい谷間の切れ目あたりに、お寺の尖塔が槍のようにみえていた。「もつともあの道は近道ではありますが、あまり良い道ではありませんよ。」  このとき背後の砂塵のあとから、もうひとつのオートバイの音が聞えた。 「それよりいま私たちの来た道のほうが良い道です。」ベッティーがいつた。 「どのくらいありますか?」青年がきいた。  ベッティーはまた自分の自動車のメートルをみて、 「四十キロです。この自動車で四十分かゝりました。私たちが出発したのがきつちり十一時で、いま十一時四十分ですから。」 「出発は十一時より前でしたでしよう?」とフロビッシャーが口をだした。 「ですけれど町はずれで革紐をしめるためにちよつと止りました。町はずれを出発したのが十一時でした。」  青年は自分の腕時計をみた。 「そうです。私の時計も十一時四十分です。でも四十キロもあるんですか。そんなら近道をとおりましよう。」  やがてうしろから追いついたオートバイが、霧のなかから現れる船のように砂塵から車体をあらわして、彼らのそばへくるとぴつたり止つた。その男も車を降りると、塵除眼鏡を上のほうへ押しやつて話に加わつた。 「あの谷間の道は大道じやないですが、そんな惡くもありませんよ。石橋のところから市廰まで、二十五分もあれば行けますよ。」 「有難うございます。急用なんですから、これで失礼します。」青年がいつた。  そしてヘルメット帽をかぶるとオートバイに跨がり、爆音たてゝ谷間をおりた。  第二の男は塵除眼鏡をかけてベッティーのほうへむかい、 「どうぞお先へ、でないと私の車の埃がかゝりますよ。」 「ありがとう。」  ベッティーが自動車をうごかしはじめた。  しばらく行くとまた道が二つに分れ、その角のところに小さい宿屋がある。  ベッティーは河のそばの小さい庭に自動車を入れた。 「この庭で食事をしましよう。薔薇の匂いを嗅ぎながら。」  あつい美味いカツレツとオムレツ、それからサラダと一九〇四年のクローデュプランスの葡萄酒――それらのものは、華やかなパリの生活が、ます/\近づきつゝあることを彼ら二人に想わせた。二人は金色の五月の日光を浴びながら、たゞわけもなく笑い合つた。だが、やがて食事がすんで、湯気のたちのぼるコーヒーをまえにしてフロビッシャーが葉卷に火をつけ、ベッティーが卷煙草をくゆらすころになると、かの女が思いだしたように云うのだつた。 「わたしお話があるのよ。」 「なに?」 「アンさんのこと。あの方、行かなくちやなりませんの。」 「行く!」フロビッシャーが目を見はつた。 「こつそりディジョンを逃出すのです。」 「そんなことができますか?」 「えゝ。」 「本人のアンさんが承知しないでしよう。」 「いゝえ。」 「だつて、いま逃出しては自分の罪を認めると同じですからね。」 「あら、そうじやないのよ、フロビッシャーさん、あの方はたゞ青天白日の日がくるのを待つていらつしやるだけなんです。わたしの頸飾が発見されたり、クラーデルを殺した犯人が分つたりするまで、当分の間だけ姿をかくすのです。でないと、ほら、アノーさんは犯人を捕えるのが仕事ですから、犯人が見つからなかつたら、誰でも犯人にして捕えるに決つているんです。」 「そんな……」 「いゝえ、あの人は始めにはわたしを犯人と睨んでいたんですけれど、証據がないもんだから、こんどはアンさんに眼をつけだしたのよ。あの人のことですから、きつとなにか都合のいゝ証據を考えだすに違いありませんわ。」 「アノーさんはそんな人じやありません。」 「だつて現にあの人はそんなことをしたことがあるのよ。」 「いつ?」 「エディンバラの教授が書いた本だつてそうだわ。あれはアノーさんが御自分で本棚へ入れたんです。」  フロビッシャーは面喰つた。 「ほんと?」 「ほんとですとも。あの人はろくに本を見もしないで、すぐ写眞のあるページをあけたり、説明のあるページをだしたりしましたが、三十分ぐらいの時間で、あんなに詳しく研究できるものじやありませんわ。ですからあの人は前日本を持つて帰つて、一と晩よく調べてから、自分であの朝本棚へ戻したんです。」  フロビッシャーは唖然となつた。自分がいくら考えても解き得なかつた謎を、この女は女の智惠で一足飛びに解いてしまつた。 「アノーさんも自分であの本を本棚へ返したと云つていましたよ。」  とうとう彼が白状した。 「いつそんなことを?」 「ゆうべ。」 「じや、なにかもつとよい物を見つけたんでしよう。アンさんを苛める種を。」 「もつとよい物とは?」 「頸飾よ。それを種にして、アンさんを捕えるつもりなんだわ。ですからアンさんはどうしても逃げ出さなくちやなりませんの。英国へ帰つたらもう大丈夫です。証據はまだなにもない、たゞ嫌疑だけなんですからね。でもフランスはちがいます。こゝでは嫌疑だけで人を捕えることができるのです。わたしは昨日、いまにもアノーさんがあの方を曳つぱつて帰るかと思いましたの。」 「あの時ですか。私もそう思いました。」  ベッティーのだしぬけの言葉、すなわちアンが逃出さなければならんという言葉を、初めて聞いた時には意外に感じたが、よく考えてみると、なるほどベッティーの云う通りかもしれぬ。矢の軸はアンの部屋から発見され、矢の先はクラーデルの店から出てきた。これは動かすことのできぬ事実である。だからアンとしては、いまのうちに一時も早くディジョンを去つたほうが得策というものである。 「でもアノーさんは本当にあの方に嫌疑をかけているでしようか?」ベッティーがいつた。 「私は嫌疑をかけていると思いますね。しかしよく分らないので昨夜アノーさんに訊ねてみたんです。」 「そしたら?」ベッティーが喘ぐようにきいた。 「ところがその答えが妙なんです。」 「どんな?」 「ノートルダム寺院へ行つて正面の飾りを見ろ、そしたらアンに罪があるかないか分ると答えました。」  しずかにベッティーの顏から色がさめて、眼だけが怖しそうに彼を見つめた。まるで氷でつくつた人形のように固くなつて、眼だけが火のように光つていた。 「まあ、怖い! 怖い!」立ちあがつて、「じやあなたに見せてあげましようか。と、自動車のほうへ歩きだした。二人のための愉快な日は毀されてしまつた。ベッティーは何か思いつめるように、じつと前方ばかり睨んでホイールをうごかした。自動車が山をはなれて平地に降りると女がきいた。 「お寺の飾りを見てなにか分つたら、あなたはそれを信じますか?」 「はあ。」 「では、もしアノーさんがあの方の無罪を信じていたら、ディジョンからアンさんを出さぬことにし、もし有罪を信じていたら、この街から逃げさせることに決めましよう。」 「よろしい。」  かの女は町をぬけると廣場へ自動車をとばした。たちまち前方にルネサンス式の大寺院が聳えているのがみえた。かの女は自動車をとめると、フロビッシャーをともなつて石段をのぼつた。ドアのうえのほうに最後の審判をあらわした大きな浮彫がある。神は雲にのり、天使たちは喇叭を吹きならし、罪あるものは苛責を受くべき墓場から起きあがりつゝある。二人はしばらく默つたまゝそれを打仰いだ。フロビッシャーにはそれがアノーの推測をあらわす惨酷な彫刻のように思われた。 「なるほど、よく現れていますね。」と彼がいつた。そして二人は重苦しい沈默をまもりながらグルネイユ莊へ帰つた。  運轉手が出て自動車を車庫へいれてくれた。さきにホールへはいつたかの女は、あとからくるフロビッシャーを振返つて、 「ほんとに困つたことになりましたわ。アンさんが潔白なことをわたしだけは信じているんですけれど……でもこうなつたら、どうしてもディジョンを去るのがあの方のためですわ。」  彼女は静かに階段を登つた。彼はかの女をいつもより遅い夕食のときまで見なかつた。アンの姿も一日見なかつた。ベッティーが彼のいる図書室へ来たのは九時前であつた。 「遅くなりましたのね。二人きりなんですよ。」かの女は笑いながら、フロビッシャーを食堂へ連れていつた。  食事中はかの女がなにか一人で物思いに沈んでいるらしく、彼のほうから話しかけても、たゞ「はい」とか「いえ」とか簡單に受けながすだけだつた。なんだかホールの物音に始終耳をかたむけているらしくもあつた。十時前になると二人は靜な街を通る自動車の音を聞いた。その自動車は鉄門のそとにとまつた。しばらくするとまたその自動車が立去る音がした。フロビッシャーは前こゞみになつてベッティーのほうへ向いた。部屋のなかには二人しかいなかつたけれど、彼は妙に低い声で囁いた。 「アンさんが行つたのですか?」 「えゝ」 「早や? じやもう用意はすつかりできていたんですか?」 「用意は昨夜できました、明日の朝パリ、明日の晩英国につきます。故障がおこらなかつたら。」  彼女はすこし慌てゝいたけれど、それでも相手の質問の調子に、どうやら不平らしい響きがあるのを気付かずにはいられなかつた。すべての準備は彼に相談しないで、二人できめてしまつた。最後になつて彼に打明けたというまでである。まるで彼という人間を、信用もできなければ、相談するにも足らぬ男と見ているようだ。ベッティーは辯解しなければならなかつた。 「あなたにも御相談すればよかつたのですけれど、アンさんがどうしても承知しなかつたのです。あなたはたゞわたしの法律顧問として来ていられるのだから、こんなことまで相談する必要はないと云うんです。あなたに相談しないということを條件にして、アンさんがやつと脱走に同意してくれたのです。でもこんどはあなたに手傳つて頂きたいことがございますわ。」  フロビッシャーは得心した。やつぱりかの女は自分の助力なしには何事もなしえないのだ。 「なんです?」 「映画館へいつてアノーさんの相手になつてください。どうしても明日の晩まではアンさんのことをあの人に知られちや都合がわるいのです。」  さてはベッティーまでが探偵が映画館へはいることを知つているのか。かの女が知つているぐらいなら、町中のものが知つているかもしれぬ。アノーの無力を笑いたいような気がした。 「よろしい。行きましよう。」  だがアノーはその晩だけは映画館にいなかつた。フロビッシャーは十時半まで一人で映画館にすわつていた。すると一人の男が球突台のほうからあらわれて、フロビッシャーのうしろに立つたまゝ囁いた。 「フロビッシャーさん、私のほうを振向いちやいけませんよ。私は昨夜の巡査モローです。これから私が外にでますから、あなたもあとをつけて来てください。」  巡査は出ていつた。彼は二分間だけ間をおいて映画館をでた。アノーの注意にしたがつて、ビールの代金をすぐ拂つてあつたので、いつでも勝手なときに席を立つて差支えなかつた。アルシーの廣場へくると、巡査はずんずんリベルテ街のほうへ行く。フロビッシャーも重い心を抱きながら彼の跡を追つた。アノーともあろうものが、みす/\かの女を取逃すはずはない。アンの自動車は警官の手によつて止められたのではあるまいか? そうだとすれば、いまごろはかの女が手錠をはめられているだろう。アノーは「ぐず/\してはいられない。」と云つていたではないか?  巡査モローはセヴィニエ大通をぬけて、停車場のちかくの小さい宿屋へはいつた。フロビッシャーも段々距離をちじめて彼のあとに從つた。入口のロビーには誰もいなかつた。そこから狹い急な階段が上へあがつている。二人はその階段をのぼつた。巡査がとある部屋のドアを開けた。それは宿屋の裏に面したきたない部屋で、窓は硝子戸だけあけてシャッターをしめ、天井から明るい電灯がたれさがつていた。アノーはその電灯の下のテーブルに一枚の地図をひろげて見入つているのだ。  その地図には赤インキで柄のない庭球のラケットみたいな輪が描いてあつて、頭から尻へ不規則な線が一本引いてあるので、その輪が二つの半圓に分れている。巡査モローは彼を部屋へ案内すると、默つたまゝでていつた。  二人になると彼が眞顏になつていつた。 「今夜アンはルヴェー夫人の仮裝舞踏会へ行きましたが、あなた知つていますか?」  フロビッシャーはすつかり面喰つた。 「知らないと見えますね。」  いゝながら探偵は赤いペンをとつて、地図の輪の尻にちかいところに赤い点をえがいた。  はじめてフロビッシャーは気がついた。赤点はルヴェー夫人の邸宅で、そこから長い線が出発してまたもとの処へ帰つている。アンがもし誰にも覚られずに夜会に出ることができるなら、アンの脱出計画も成功するかもしれぬ。人目をくらまして逃げだすには、なるほどよい会合だ。みんな仮裝しているのだから、そこから拔けだしたとて、誰が気付こう。だがかの女の機会はもう失われたと同じである。なぜというと探偵はペンをおくと、無気味な声でいつた。 「水蓮の仮裝とはよい思いつきだ。しかし美しい水蓮も今夜だけは愉快には踊るまい。」 [#3字下げ]20 地圖と頸飾[#「20 地圖と頸飾」は中見出し]  アノーは地図をぐるりとまわして、フロビッシャーのほうへ押しやつた。 「なんです、これは?」  と、フロビッシャーは椅子をひきよせてのぞきこんだ。  まず第一に気付いたのは、それがディジョンの郊外地図だということだつた。ディジョンの町は丁度ラケットの柄のところにあつて、赤インキの輪は町をでて細長い旅行をして、またもとの町へ帰つている。そしてその輪の頂点から、もう一本の線がまつすぐに町へ走つているのだ。町の出発点には赤い小さい字で時間が記入してある。 「午前十一時。」  彼は出発点から赤い線をつたつて、輪の頂点に三つの線が出合つたところを見た。そこにも時間が記入してある。 「十一時四十分。」  フロビッシャーはいぶかしげな顏で探偵をみた。 「よオ!」と叫んでまた彼は地図に眼をうつした。三つの点が出会つたその頂点は、谷間になつていて、そこには明らかにテルゾンの谷を書いてある。フロビッシャーとベッティーは、町を出るとき公園のそばの大きい屋敷のまえで、自動車をとめて革紐を締め直した。だから町を出たのは十一時だつた。そしてテルゾンの谷へついたのは十一時四十分だつた。 「これは今日私たちがしたドライヴの地図じやありませんか? 尾行したんですか?」と彼がきいた。  ふと彼は砂塵をあびながら自動車のあとから追いついて、青年たちと一緒に話をした第二のオートバイの男を思いだした。 「オートバイで誰かゞ尾行したんですね?」  探偵はまた返事をしなかつた。  けれどもあの男は、それから先は尾行しなかつた。彼はまた地図をのぞきこんだ。二人は帰りには大道を通つて帰つたのに、赤い線はそれよりも遠廻りしてディジョンへ帰つていた。 「どうして尾行なんかなさつたんです? もつともこの赤い線はちがつていますよ。私たちは帰りはこの線の道は通りませんでしたよ。」 「帰途は関係ないんです。あなたがたがどの道を通つて帰ろうがそんなことは私には関係がない。それはこゝに記した時刻を見てもお分りになるとおりです。」  フロビッシャーが赤い線の町へ入つたところをよく見ると、午前十時二十分と書いてある。もう彼はすつかり分らなくなつた。 「これはなんの時刻です?」 「オートバイが町を出た時刻です。貴方はそのオートバイと谷のところで出会つたでしよう?」 「あの旅行者ですか?」 「サイドカーにトランクをのせた青年です。」と探偵が訂正した。「あの青年はあなたがたが出発するよりも三十五分前にディジョンを出発したのです。そして青年のほうも、ベッティーのほうも、どちらも一分間も待ち合せる必要なしに、きつちり十一時四十分[#「十一時四十分」は底本では「十二時四十分」]にあの場所で出会つています。じつに上手に計画されたドライヴです。」 「計画! なぜです? トランクをのせて十時二十五分にディジョンを出発したオートバイが、どうしてあすこからまた近道を通つてディジョンへ帰るんです?」 「あなたが不思議に思うのも無理はないです。では説明してあげましよう。あなたがたは町をはなれるとき、公園のそばの大きい邸宅の前で自動車を止めて自動車のボックスの革紐をしめたでしよう?」 「えゝ」 「あすこがルヴェー夫人邸なんです。今夜仮裝舞踏会があるのはあすこなんです。」 「あゝ、あれが――」  と云いかけて若者が口を閉じると、探偵が先をうけて、 「そうです、あれが今アンがいる家なんです。あなたがたは朝の十一時にあすこから出発しました。」時計を見て、「まだ晩の十一時にならない。だからアンはまだあすこにいますよ。」  椅子に腰かけたまゝフロビッシャーは、はッと体を動かした。探偵の言葉は映画館の闇を射る銀色の光線のように鋭かつた。このラケット型の赤線の意味、それからベッティーのドライヴの意味がだん/\飮みこめてきた。 「じや、今日のドライヴは予習だつたのですか?」 「時間を計る予習でした。」  そうだ、主役なしに行つた芝居の予習のようなものだ。だが、それにしてもまだ不審な点がある。  あのサイドカーにトランクをのせた青年は何者だろう。彼の出発の時刻が地図に記入してあるところを見ると彼もなにか主要な役割を演じているにちがいない。いつたいあのサイドカーはアンの脱出とどんな関係があるのだろう。けれどもよく考えていたらトランクの意味が朧ろげながら了解できた。アンは今夜仮裝のまゝでルヴェー夫人の屋敷を拔けだす。拔け出す時にはグルネイユ莊へ帰るといつて出るに違いない。そして夫人の屋敷からまつすぐパリへ向うのだ。だが水蓮の花に仮裝したまゝではパリ[#「パリ」は底本では「パり」]へ行くことはできぬ。そこで一人の青年がオートバイのサイドカーにトランクをのせ、テルゾンの谷間でかの女の自動車に荷物を渡す。青年はすぐ近道を通つてディジョンへ帰り、アンの自動車はそこからパリへ向うという順序だろう。フロビッシャーは谷間で青年と七分間の立話をしたことを思い出した。あの七分間はトランクを渡す時間を予想したものだろう。そうだ、やつぱりあれはアンを脱走させる予習だつたのだ。ベッティーはこの計画については彼に何とも云わなかつた。たゞ久しぶりに自由の身になつたから、郊外のドライヴをしようと云つただけだ。だが、それは、彼を共犯者に引き入れることを遠慮したゝめであろう。こう解釈すればすべてがはつきりと分る。そうだあれは時間をはかるための予習だつたのだ。しかもその予習を探偵が知つてしまつた!  この、探偵がすべてを知つたという事実が、フロビッシャーに新しい心配の種をあたえた。探偵が知つた! そのことも覚らずに、ベッティーは一生懸命になつてアンを逃がそうとしている。 「アンさんを逃してやつたらどうですか? パリから英国へ逃がしてやつたほうがよくはないですか?」  こうフロビッシャーが熱心にいうと、探偵は奇妙な微笑を口のあたりにたゞよわせて、 「ごもつともです。」 「むろんあなたはパリ警視廳のお方で、私は英国のたゞの法律家にすぎません。私がこんなことをョんでみたところで仕方のないことです。けれどもアンが犯人であるという確証はどこにもないんです。あの女を追求してみたところで仕方はありません。たゞあの女を破滅させるだけです。」 「非常にご熱心ですね。」とアノーがいつた。 「でも、アノーさん、いくら陪審官だつてあんな貧弱な証拠ではアンを処罰することはできませんよ。げんに眞珠の頸飾にしたところですね、あれが発見されたわけではないし、また永久に出てくる心配もないのです。」  アノーはテーブルの抽出から、小さい杉の箱をだして、默つて相手のまえに押しやつた。かたことかすかな音がするところをみると、なかに入つているのは卷煙草ではないらしい。フロビッシャーは心配顏でそれを受けとつた。蓋をあけるとなかに綿がいつぱい詰めてある。それを取りのけると、美しい桃色の光をもつた眞珠の頸飾がでてきた。 「この頸飾がマッチ箱のなかから出てくると、面白かつたんですけれどね、しかしこんど公証人のベーさんに会つたらマッチと卷煙草とは親類だといつてやりましよう。」  フロビッシャーががつかりして頸飾を見ていると、折から隣室とのさかいのドアを、巡査モローらしいのがこつこつ叩いた。探偵は時計をだしてみた。 「さあ、もう十一時だ。もうルヴェー夫人の屋敷から自動車が出たでしよう。行きましよう。」  椅子から立ちあがると、探偵は頸飾を卷煙草の箱に入れ、それを抽出にしまつて鍵をかけた。フロビッシャーは壯麗な屋敷の玄関から、舞踏服の上に外套をかぶつて、こつそり自動車にのるアンの姿を幻にみた。 「まだ自動車は出ていないかも知れませんよ、」と彼が望みをかけていつた。「いろんな故障がよくおきるものです。運轉手がおくれてくることもありますからね。」 「いや、予習まで行つたあとですから、そんな故障はおきますまい。」  探偵は戸棚からピストルを出して、ポケットにそつといれた。 「大切な頸飾を抽出にいれといていゝんですか。警察に預けたほうがよくはないでしようかね?」 「心配ありません。この部屋にだつて番人がついているんです。」  フロビッシャーはまた新しい希望をつないで、 「でも、アノーさん、いまから追掛けたつて、谷間のところでアンの自動車に追つけないかもしれませんよ。もう十一時をすぎました。朝三十五分かゝる道は、夜はもつとかゝります。道が惡いから五十分もかゝるかもしれません。」  探偵は地図をたゝんで煖炉棚のうえにおいた。 「谷間でアンを待受けるんじやないんです。もつとちがつた冒險をやるんです、私の推量が外れるか当るか分らないが――いや、外れるなんてことは万々ありますまい。それはそうと、フロビッシャーさん、あなたはノートルダム寺院へ行つてみましたかね?」 「あゝ、あの最後の審判の浮彫ですか! 見ましたよ。私たちはあれを見て、貴方の想像があまり残酷だと思いました。」  煖炉のまえにたゝずんだまゝ、探偵はだまつて絨氈を見ていたが、 「私たちと云いましたね、誰といつしよに行つたのです?」 「ベッティーと。」 「あゝ、そうですか。なるほど。いや、あの浮彫は間違つてはいないです。」  おりから巡査モローがまた隣室からドアをたゝいて注意した。探偵はきつとなつて顏をおこした。 「さあ、フロビッシャーさん、帽子とステッキをお持ちなさい。消しますよ!」  スイッチが鳴つて部屋がまつ暗になつた。探偵はドアをあけて次の部屋へ彼を導いた。そこは停車場に面した寢室だが、灯がついていないのでなにも見えない。だがシャッターが開いているので、すぐ向うのグラン・タヴェルンから差しこむ灯影が壁に映つている。三人はその光で朧げながらおたがいの顏を見ることができた。 「私が最初にドアをたゝきました時に、巡査ドネーが位置につきました。いま巡査パチノーも彼のところへ行きました。」こういいながら、巡査モローが窓から見える停車場の廣場を指差した。そこにはパリからの汽車を待つ二三の辻自動車が止つている。そのそばに職工のような服裝の三人の男が立つていて、一人が他の一人から煙草の火をもらつている。ホテルの窓からは、その卷煙草の赤い火まで手にとるように見えた。 「もう大丈夫です。行きましよう。」巡査がいつた。巡査と探偵が階段をおりると、フロビッシャーもそのあとに從つた。彼はこれからどこへ行くのか、分りもせねば想像してもみなかつた。 「云つときますがね、フロビッシャーさん、」と探偵は彼の腕をにぎつて、「今夜はフランスの法律の命ずるままに行動するんですから、あなたも[#「あなたも」は底本では「あなも」]無駄なことを云つたり邪魔したりしないでください。しかしご安心なさい。我々は決して嫌疑だけで人を逮捕したりなんかしません。それは見ていれば分ります。」  探偵の眼は闇のなかで輝き、顏が妙に蒼白かつた。  三人は階段をおりると街へ出た。 [#3字下げ]21 秘密の隱家[#「21 秘密の隱家」は中見出し]  晴れた暗い晩で、そよとの風邪もなくて温く、空には無数の星が光つていた。彼らは小路や裏道ばかりを通つて進んだ。巡査ドネーが先頭、巡査パチノーが三十ヤードばかりあと、巡査モローは街の向う側の舗道をあるいた。明るい停車場近くの区域を遠のくと、どの家もドアをしめて暗かつた。フロビッシャーは妙に胸がさわぐのを感じた。そして自分たちの樣子を窺うものはないかと、目を見はり耳を澄したが、両側の家の戸口には人影はなく、後からついてくる足音も聞えなかつた。 「こんな晩には遠方の足音でも聞えるものですが、犬の鳴声さえ聞えないですね。けれども犯人が團体であるとすると、誰かが吾々の行動を見ているかもしれませんよ。」  フロビッシャーは声を顫わすまいとしても、顫えるのをどうすることもできなかつた。  探偵は頭を振つた。「いやいや、今夜は犯人たちはアリバイを作ることばかり考えています。行動していない犯人たちは、アリバイを作るために友人と一緒になつているし、行動している連中は自分の仕事に夢中ですよ。だから我々が近づいても気がつく心配はない。」  一同は細い小路へ折れて、左がわの舗道をすすんだ。 「ここがどこだか分りますか? 分りませんか? もうすぐグルネイユ莊です。この左がわの家並のすぐうしろがシャルロベール街です。」  フロビッシャーは驚いて立ちどまつた。 「では昨夜私が警察署から帰るとき、あなたの姿がちらと見えましたが、あの時ここへおいでになつたんですね?」 「ああ、分りましたか? あなたが鉄門のところで振返つたので、ことによると見られたかもしれんと思いましたが、じややつぱり分りましたね。あははは!」  街の右がわには長い壁がつづき、二つばかり大きな門があつて、庭のむこうには大きな家の急な屋根が、星の光る空に黒々と聳えている。  探偵はその黒い屋根を指さして、 「あれをごらんなさい。あれがグルネイユ莊の別館です。ハーロー氏と結婚するまえの夫人はまだラヴィヤール夫人といつて、あの家に住んでいたんです。しかし二人が本望をとげて結婚したのちも、あの家は恋の殿堂のように尊ばれ、誰にも貸さず、そのご誰も住んだことがない空家です。」  フロビッシャーは背骨がひやりとした。さては探偵が確信をもつて彼らを導く目標はあの家であろうか? 彼は珍らしげにその家の門を見た。ながいあいだ空家になつて荒れはてていることは夜目にもわかつた。ドアのペンキは剥げ落ちて窓からはむろん明りも洩れていない。だがこの死んだような街にも、起きている者がないことはなかつた。空家と反対の左がわのとある家の、丁度彼らが通るすぐ頭の上の窓がこつそり開いて、 「まだ誰もきません。」と探偵に囁いた。  だが探偵はその囁きに別に答えはしなかつた。そしてしばらく行くとフロビッシャーにむいて、 「いまあなたがお聞きになつたとおり、まだ空家には誰もいないのです。」  しばらく行くと、先頭のドネー[#「ドネー」は底本では「トネー」]の姿が見えなくなつた。探偵とフロビッシャーとモローは、街を横切り家と家との間の小路を右へ折れた。ちよつと進んでまた右へ折れると両がわに高い塀がある。その路次を三十ヤードほど歩くと、高い塀の内がわから、黒々と繁つた木が頭の上に枝をのばしている。その木があるのと、路次がせまいのとで、隣にいる人の顏も見えないほど暗かつた。彼らは目的地へついた。結婚前のハーロー夫人がしばらく生活し、そして愛せられていた家の庭の裏へついた。  すこしも身動きするなというように、探偵がフロビッシャーの腕をしつかり握つた。あとからついて来たパチノーの姿は先頭のドネーと同じように、いつのまにか消えて、三人は塀のそばの闇のなかに立つて固唾をのんだ。アンは闇のなかで人の顏に手を触れたとき、自分の鼓動がディジョン全市へ響くように思つたといつた。その話を聞いたときには誇張があると思つたが、今夜のフロビッシャーはそれが誇張でもなんでもない、まつたく実感を現す言葉であるということをしつた。彼の鼓動も全市に響くように烈しくなつた。  やがて巡査モローが探偵の合図で身をかがめた。なにか木の板をなでるような音がしたと思うと、かすかにモローが錠前に鍵を差込んで静かにドアをあけた。三人は路次から草の繁つた庭へはいつた。モローはドアをしめると鍵をかけた。そのとき街の時計が三十分を打つた。  探偵はフロビッシャーの耳に口をよせて、 「まだテルゾンの谷へはつきませんよ。」と囁いた。  やわらかい草を踏んで彼らは屋敷の裏口へ近づいた。よごれた低い石段のうえにテラスがあり、テラスにはシャッターをしめた窓がいくつか並んでいる。座敷のすみには庭と同じ平面のところに一つのドアがある。モローはそのドアに近づくと身をこごめて鍵をさしこみドアを開けた。庭には薄明りがあるが、ドアのなかは本当の眞つ暗闇だつたので、フロビッシャーはそのドアから生きて出られるかどうか怪しまずにはいられなかつた。けれどもうしろから探偵が押すので、怖々ドアのなかへ入らないわけに行かなかつた。ドアのなかに入ると、あとからそのドアに鍵をかける音がした。  ふと耳をすますと物音が聞える。それを聞いて探偵が「シッ!」と喘いだ。闇のなかで連続的に規則正しく響く音だつた。けれどもその物音の意味はまもなくわかつた。 「時計?」フロビッシャーが囁いた。 「そう。空家で時計がセコンドを刻んでいるのです。」探偵が囁いた。  ほんの聞えるか聞えないか微かな音だつたが、それでもフロビッシャーはその音のなかに、妙な緊張がひびいているのを感じた。猟人が獸の足跡を発見したときの緊張だ。目的物が姿をあらわすのもながい後ではあるまい。  だしぬけに闇のなかにぱつと一條の電光が輝いた。それは探偵の懷中電灯で、彼は目の前の石段とその上の右がわのドアを照らすと、懷中電灯をポケットにしまつた。探偵がまつさきに立つて石段をのぼつた。右がわのドアをあけるときには、蝶番が妙な音をたてたので、フロビッシャーは冷水を浴びる心地だつた。探偵がまた懷中電灯をともしたが、こんどはすぐに消えないで、長い間あたりを照した。三人は石を敷いたホールに立つていた。探偵は電灯をけすとホールを横切つて一つのドアを開けた。そこは長細い部屋、こわれかゝつた窓から差しこむ光にすかしてみると、むこうに觀音開きになつたドアがあつて、そこから奥の部屋へ行かれるようになつている。探偵はその觀音開きのドアに耳をあて、しばらくなかの樣子をうかゞつた後で、静かに把手をつかんで片手のドアをあけた。そしてまた電灯を点して、高い天井や、贅沢な赤いカーテンのかゝつた高い窓なぞ順々に照した。フロビッシャーがまず意外に思つたのは、その部屋が空家と思われぬほど綺麗だつたことで、家具にしたところが手入が行きとゞいて、どこを見てもきちんと片付いているのみか、花瓶には生生した花がさしてあつて、その香が部屋に満ちているのだ。煖炉棚のうえには時計がおいてある。さきほど聞いた時計であろう。  よく見ると、部屋の片方においてある觀音開きの戸棚だけは大きくがつしりしているが、そのほかの家具や裝飾はみな華麗でこまかくて、壁には金縁の大きい姿見、電灯のコードの通じた燭台、水彩画の額、天井からはぴかぴか光るシャンデリア、窓際にはエンパイア式のテーブル、煖炉とむきあつた壁には深々としたソファがある。探偵はひととおりそれらのものを見ると、懷中電灯を消してドアをしめた。  三人がもとのがらんとした細長い部屋に立つたとき探偵がいつた。 「あの窓の窪みに身を隱すことにしよう。シャッターはこわれているから、誰もこの部屋では電灯をつける心配はない。あの窓の処で当分樣子を窺つていましよう。」  三人の者がそれぞれ深い窓に身をひそめた。シャッターが毀れているので、そこから庭の塀や自動車の入れる大門がよく見える。気の張りつめたフロビッシャーには一秒の時間が一時間のごとく思われた。辺りはしんとして何の物音もしなかつた。  やがて探偵が彼の腕をにぎつて、しだいにそれに力をいれた。彼は腕をにぎられたまゝじつとしていた、にぎつている探偵もひどく興奮しているらしい。しかし間もなく探偵に腕をにぎられた理由がわかつた。庭のむこうの両方に開くようになつた大門の片方のドアが、音もたてずに靜かに開きつつある。と思うとすぐまたドアは元どおり締つた。けれども眸をこらしてよく見ると、その間に誰か一人の男が外から庭へ入つて、身動きもしないで門の蔭に立つているらしい。探偵は窓際から暗い処へ歩いて行き、そこに跪いて時計を出し、上着で隱しながら懷中電灯をともして時計を見た。十二時五分。 「もうすぐ!」  もとの処へ帰つて彼が囁いた。  一分間たち、二分間たつた。フロビッシャーは顫えまいとしても体が顫えるのをどうすることも出来なかつた。それは冩眞屋へ行つて、いま冩すから動くなといわれても、体が動いてしかたがないのと同じであつた。目が眩んで、頭がふらふらして、いまにも倒れそうな気がしたが、そのうち遙かむこうのほうから物音が聞えてきた。オートバイの音だ。その音はしだいに近くなる。探偵が云つたことは本当だつた。けれどもオートバイは近くの街を通過したものか、また微かになつて終いに消えてしまつた。フロビッシャーは強いヘッドライトで白い路を照しながら、ディジョンの町を通過する旅人の姿を想像した。だが、はッと我れにかえつてよく見ると、大門の片方のドアがまた開いて、靜にサイドカーのあるオートバイが庭に入つた。またドアが締つた。云うまでもなく、このオートバイは途中で爆音を止めて、こつそりこの空家へ忍びこんだものである。ドアの蔭に立つていた男がオートバイに近づいた。そして二人の男はサイドカーから何やら荷物のようなものを地上へおろし、それから一人がドアを開けると、オートバイが街へ出た。それを見送つた男はドアをしめて鍵をかけた。彼ら二人は始めから言葉も交さなければ、手眞似も合図もしない、まつたく打合せのすんだ仕事を運ぶように、易々と仕事をすませた。やがて遠方から突然オートバイの爆音がひびいて、それが段々遠のいて行く。彼の役目は完全に果されたのである。  フロビッシャーは探偵がオートバイの男を逃したのを不思議に思つた。探偵はそんなことはお構いなく、門のそばに荷物と一しよに立つている男を一心に見つめている。やがてその男はしやがんで荷物を両手に抱きあげた。なかなか重いらしい。妙な形をした細長いものだつた。部屋のなかから認め得たことはそれだけで、それ以上の詳しいことは何もわからぬ。  その男は荷物を抱えると、しずかに庭を横切つて家のほうへ歩いてくる。探偵は一同を窓からひつこませた。間もなく荷物を抱えた男は、彼らの隱れている細長い部屋へ入つてきた。そしてさつき探偵が開けて見た観音開きのドアのところまでくると、それを足で押し開けてなかへ入つた。あたりは眞つ暗だつたけれど、彼がドアを開けた途端に外から差しこむかすかな外光によつて、その男が誰であるかは分らないが、荷物というのが大きな袋であることが認められた。  フロビッシャーは今度こそ探偵が飛び出すだろうと思つたが、彼は相変らず身動きもしないで樣子を見ている。その男は向うの部屋を歩いて行く。歩いて行くといつても、厚い絨氈がしいてあるので、たゞ歩く気配が感じられるだけで、足音はしなかつた。やがて荷物をソファの上におく気配がした。と思うとその男がまた観音開きのドアに姿をあらわしたが、今度は両手には何も持つていない。いよいよ探偵が飛び出す幕が来たとフロビッシャーは思つたが、こんども探偵は出なかつた。  その男は観音開きのドアをしめると、細長い部屋を出て行つた。けれども玄関のドアの音は聞えない。たゞ家のなかのどこかで、かちりと金属の落ちるような物音がしたのみである。それは玄関のドアに鍵をかけ、その鍵を郵便箱に落しこんだものと思われた。男は庭に出ると自動車の入れる大門のそばへ行き、その片方のドアをあけて外に出て、またドアをしめた。また鍵が石に触れてかちりと鳴つた。それは外からドアに鍵をかけ、その鍵をドアの下から内部へ投げこんだものと思われた。このときだしぬけに遠方の時計が十五分を報じた。十二時十五分である。オートバイの男が来てから今までに五分間たつたわけである。そしてまたこの家は、探偵たち三人のほかには、誰一人いない空家となつた。  だが、本当に誰もいないだろうか?  探偵が観音開きのドアに近づいて開けると、その部屋からなんだか生きたものが不安げに動くような変な物音がする。探偵はそれを聞くと安堵したように溜息をもらした。けれどもその溜息が終ると同時に、こんどはなにかボタンでも押すような、あるいは掛金でも外すような、パチンという大きな音が聞えた。それを聞くと探偵がドアをしめて後へひきかえした。どこから入つたのか分らぬが、誰やら向うの部屋にはいつたらしい。しずかに部屋のなかを歩いている樣子である。三人はまた窓の蔭に身をひそめた。やがて観音開きのドアをあけて細長い部屋へ誰かがはいつて、しばらく物音に耳を澄したあとで、ドアに一番近い窓のそばへ寄つて外を眺めた。女である――頭の形や細い首でわかつた。だが窓にかくれて見ていた三人がもつと意外に思つたのは、その女のそばに第二の人影が近づいたことである。彼らは二人とも窓から外を眺めている。けれども窓の外には別に変つたことはなかつた。  一人が囁いた。 「鍵!」  すると他の一人の背の低いほうがホールへ行き、郵便箱から鍵を持つて帰つた。背の高いほうが笑つた。疳高い、嬉しそうな、小鳥のような笑い声、それはフロビッシャーに覚えのあるベッティーの笑い声に違いなかつた。この静かな闇のなかの部屋に、愉快げな、意地の惡そうな、はつきりしたベッティーの笑い声が響こうとは、彼は今まで夢にも期待していなかつた。フロビッシャーは全世界にたいする信用がぐらつきだすほど意外に思つた。  いや、これはなにか理由があるのだ。こみいつた理由があるのだ――と思おうとしても、胸が鉛のように重くなるのを、どうすることもできなかつた。かの女はなにが可笑しくて笑つたのだろう? これからどんなことになるのだろう?  しばらくすると二人の影は窓際をはなれて奥の部屋へ入つたが、もう誰もいないから大声を出しても差支えないと考えたのであろう、ベッティーがはつきりした声で、 「フランシーヌ。ドアをしめておくれ!」といつた。  女中がいわれるまゝに観音開きのドアをしめると、奥の部屋にぱつと明るい電灯がついた。だが大きな観音開きのドアは、もう可なり古くて曲つているので、ぴつたりと締らないで、ドアとドアとの細長い隙間から、糸のような光線がこちらへ洩れるのである。 「開けて見よう!」  いゝながらまたベッティーが笑つた。そしてかの女がげらげら笑つている間に、三人はこつそりドアに近づいて、巡査モローは跪き、フロビッシャーは中腰になり、アノーは立つたまゝなかを覗きこんだ。 [#3字下げ]22 タイプライター[#「22 タイプライター」は中見出し]  探偵は沈默をまもらせるように、フロビッシャーの肩に手をかけたが、それも無理はないので、彼らが見た光景は、あまりにも異樣であつた。天井からたれさがつた硝子のシャンデリアには沢山の電灯が宝石のように輝き、壁際の燭台の電灯は大きな姿見に反射して、小さい美しい部屋は燃えるような明るさ、そのまんなかに立つベッティーは、まつ白い肩を波うたせながら、いとも面白げに笑つているのだ。恰好のよい銅色の頭の先から、襦子の靴をはいた足の先まで、まるで店から買つてきたばかりの人形のように美しい。その美しいかの女が、ソファの上で砂の上にあげられた魚みたいにもがいている袋を見ながら、げら/\笑つているのである。袋のなかには誰かいるに違いないのだが、それが誰であるかは、もうフロビッシャーには分るような気がした。ベッティーは顏をふり手を軽くたゝいて笑いつゞけたが、しばらくすると笑うのをやめて女中を振りかえり、 「おまえ出しておくれ。」  女が鋏をもつて袋のはしを切りはじめるとベッティーはその方に背を向け、テーブルのまえに座つて、鍵をさしこんで抽斗をあけた。女中が袋を切つて袋だけ床のうえにすてると、ソファのうえには輝かしい舞踏服をきたアンが、両手を後に縛られ、足も同じように縛られて、苦しげに胸を波打たせながら大息をしている。頭の髪は乱れ、顏は火照り、どこか正気を失つた人間のようで、自分がいまどこにいるのか、それさえ意識していないようだつた。アンは女を見、それからベッティーの後姿を見たが、心はまだ遠いところにあるようで、ちよつと紐を解こうとするように両手を動かしはしたが、それも無意識の運動のように見えた。かの女はまた眼をとじて、しばらく身動きもしなかつた。もし息をするごとに動く胸のあたりが見えなかつたら、隣室から眺めている三人は、アンがまつたく死んでいるものと思つたかもしれない。  そのあいだにベッティーは、抽出からうすい黄色い液体のはいつた小瓶と、モロッコ革の小箱をとりだし、小箱の蓋をあけて、なかから注射針と円筒をつまみだし、円筒のさきに注射針をさしこんだ。 「もういゝの?」  ベッティーが瓶の栓をぬいた。 「はい。」女中が答えた。  かの女はくす/\忍び笑いし始めたが、ソファのうえに横たわるアンを見ると、急に怖くなつて口を噤んだ。というのはアンがぱつちり両眼を見ひらいて妙な目つきでまともに女中を見つめていたからであるが、しかし女中を見つめてはいても、かの女が女中であることを意識しているかどうかは頗る疑問だつた。だが、とにかくアンは眸をすえて女中を見つめている。ぶるつと身顫いしながら、女中は急にヒステリーのような声をあげて、 「そんなにこつちを見ないでください! 死んだ人に見られているようで怖いわ。」  その声を聞いてベッティーがソファを振向くと、こんどはアンがベッティーへ眼を移した。だが、二人の眼と眼が出合つた瞬間に、かの女はようやく正気に帰つたらしい。ベッティーがまたテーブルのほうへ向いて、注射針に液体を入れはじめると、アンの顏に不審げな色が浮かんだ。ソファの上に起上ろうとしたが起上れない。手を動かそうともがいても手頸をしばつた紐はほどけない。かの女はソファを蹴りながら苦痛の呻声をあげたが、その自分の口からでる呻声をきいてはつきり意識を恢復した。 「ベッティーさん!」  アンが呼ぶと、ベッティーは注射針をもつたまゝ振向いた。  ベッティーはなにも云わなかつたが、その顏は口で云うべきことを語つていた。かの女は上唇をすこし上げて白い歯並をあらわし、大きく見ひらいた眼に不思議な光をやどしているのだ。フロビッシャーはかの女がそんな眼つきをしたのを、たつたいちど見たことがある。それはアノーの実驗の際かの女が夫人のベッドに横になつているとき、宝物室のほうを睨んだ眼だ。あのときはその眼がなにを意味するか分らなかつたが、いまになつてみると、はつきり分つたような気がする。それは殺人を意味する眼だ。このときソファの上に横になつているアンにも、その眼の意味が分つたらしい。かの女は逃げだすことはできないが、ベッティーが近ずくと怖ろしそうに首をちじめた。そしてじつとベッティーに眼をそゝぎながら、 「ベッティーさん! あなたはこんなことをするつもりで私をルヴェー夫人の夜会へ行かせたんですか! あの手紙! あの無名の手紙!」アンは怖ろしい事実に急に気が付いたように、「あの手紙を書いたのもあなただつたのですか!」  がつくり後に倒れるとまた手足をもがきはじめた。ベッティーは光る注射針をもつてかの女のそばへよつた。 「それはなに?」  注射針を見ながらアンが声を顫わせてきいた。極度の恐怖が不自然の力をあたえたものか、かの女は腹のそこから出るような叫声をあげ、ごろりとソファから轉げ落ちると、足を縛られたまゝふら/\床の上に立ちあがつた。 「あなたはそれで――いや、殺そうたつて殺されるもんですか!」  ベッティーは片手をのばしアンの肩を抑えて、じつと復讐に燃える眼差で睨みながら、 「あなたは闇のなかで誰かの顏に触つたといつたわね。それは誰の顏なの、アンさん、誰の顏なの?」しずかにアンの肩をゆすりながら、低い毒々しい声で、「いらぬことまで喋つて貰いたくないわ。あなたのお喋りのために、わたしどんなに迷惑をしたかわかりやしないわ。ひとの世話まで燒いてもらいたくないのよ。あなたは昨夜また手に懷中時計をもつて宝物室へ入つたようですが、あれは何をしたんです? 返事ができませんか? このお馬鹿さん!」それから相変らず低くはあるが、腹の底から恨みに燃えるような声になつて、「アンさん、あなたはよくもわたしの邪魔をしましたね。あなたにもそれは分つている筈よ!」  フロビッシャーの肩を抑える探偵の手は一層力がはいつた。ベッティーはなぜアンを憎むかという、その本当の理由を物語つた。それは一口に云えば、アンがあまり多くの眞実を知つているからだ。そしてまたアンがより多くの眞実を知ろうとしたからだ。なるほど、アンが逃亡すれば罪が怖くて逃亡したようにも見えるし、また逃亡それ自身が一種の告白のようにも見える。けれどもそれだけの理由でベッティーがアンの逃亡を思いついたのではなかつた。かの女の胸のなかには、もつと/\怖ろしい企みがあつた。それはアンを一思いに亡きものにしてしまうことだつた。 「よくもあなたはこの一週間わたしの邪魔ばかりして来たものね。これはその酬いだと思いなさいよ。あなたの手足を縛つてこゝまで連れてこさしたのはこのわたしよ。へん、水蓮さん!」美しいフロック、襦子の靴、ひどい恐怖に戰慄しているアンを睨んで、「水蓮さん! 十五分よ! あの探偵の馬鹿が云つたように十五分よ! 十五分たつたらこの毒矢の藥が利くのよ!」  アンが両眼を大きく見ひらき、白い顏をさつと紅潮させたがまた前より一層白くなつた。 「毒矢! まア、ベッティーさん、あなただつたのですか!」  ふらふら倒れかけたが、ベッティーが前から押したので、アンの体は力なくソファの上へ倒れた。ベッティーが伯母を殺したということは、アンは今の今まで知らなかつた。そんなことは、夢にも想像したことがなかつた。だがその犯人がベッティーであると知ると同時に、こんどは自分の生命が心配になつてきて、急に烈しく啜りあげて泣きだした。  ベッティーはかの女のそばに並んで腰かけ、惡魔の喜びを感ずるものゝように、その泣声を音樂のように聞き、面白げにアンを打眺めていたが、しばらくするとアンの体の上にのしかゝつて、低い声で囁いた。 「あなたの屍体は今夜は一晩まつ暗なこゝに置いとくのです。明日になつたらエスピノーザが貴方を台所の敷石のしたに埋めてくれます。今夜はこゝ。さあ!」  ベッティーはかの女の上にかゞんで、片手でアンの腕の肉をつまみ、片手にもつ注射針をそこへ持つてゆこうとした。  が、このとき女中が、 「あ! ごらんなさい!」  と、鋭く叫んでドアをゆびさした。  そこには観音開きドアが開いて、探偵アノーが立つている。  ベッティーも顏を起してドアのほうを見た。かの女の顏が一瞬にまつ蒼になつた。そしてしばらく蝋人形のように身動きもせずドアを見つめていたが、やがて電光のような素早さで、片手に持つた注射針を自分の腕の肉へぷすりと差しこみ、なかの藥液をまるきり注射してしまつた。  それを遮るためにフロビッシャーが慌てゝ飛んで行きかけたが、探偵が彼を押しのけた。 「邪魔をしてはいかんです!」  いつにない嚴しい声だつた。  円筒のなかの黄色い液体を自分の肉へ注射してしまつたベッティーが、その注射針をソファの上に棄てると、そこから針がころと床の上に轉んで落ちた。  ベッティーはソファから立上ると、両手をひろげて背伸びをするような格好になり、 「アノーさん! 十五分間です! あなたのお世話にはなりませんよ。」  探偵は笑いながら軽蔑するように拇指をかの女の顏のまえで振つた。 「ベッティーさん、それは色のついた水ですよ。水を注射したつて死ぬものですか!」 「水!」 「いまに分りますよ。」  自信ありげな探偵の言葉を聞いては、かの女もそれを信ぜずにはいられなかつた。なにか新しい計画を思いついたように、足速にテーブルのほうへ寄りかけたが、探偵がまえに立ちふさがつて邪魔をした。 「駄目です、ベッティーさん。それは許しません。」  探偵はかの女の手頸をむずと掴んで、巡査モローを振向き、「君は女中を捕えてくれたまえ。」  それからフロビッシャーへ、 「あなたはアンさんの紐を解いてください。」  巡査モローが女中に手錠をかけているあいだに、フロビッシャーは鋏でアンの紐をきり、足と手を自由にしてやつた。探偵はベッティーに手錠をはめたけれど、猛りたつたかの女は狂気のように暴れるので、その足を椅子の脚に縛りつけねばならなかつた。探偵は指先から流れる血をハンケチで拭いていた。ベッティーに噛付かれたのである。 「ベッティーさん、あなたはいつやら腕時計が嫌いだと云つていましたが、手錠はもつとお嫌いでしようね。お気の毒です。」  彼はテーブルのそばへ行き、抽斗をあけてそこから小さい紙箱を取だし蓋をあけてみた。 「五つある。そう、五つ。」  探偵はその箱を、壁際に立つフロビッシャーのところへ持つてきた。 「ごらんなさい!」  箱のなかには五つの白い錠剤がある。 「このなかには五つしかないが、六つ目の錠剤は早やあなたに見せました。あれをきよう分析してみましたら青酸加里でした。こいつをちよつとでも口に入れたら最後、十五分間どころかすぐ死んでしまいますよ。」  フロビッシャーは探偵の耳に口をよせて、 「これをベッティーの手のとゞくところへ置いておやんなさい。」  はじめにはかの女に自殺させまいとしたが、なにもかも分つた今となつては、むしろ死んでくれたほうがいゝように思われる。 「それはいけません、」と静かに云つて探偵は巡査モローにむかい、「グルネイユ莊の横に自動車を待たせてあるから、呼んできてくれたまえ。」巡査はすぐ部屋を出た。  アンはまだソファに坐つたまゝ、頭を垂れ、体を顫わし、とき/″\痛む手頸をさすつていたが、探偵はそのそばへよつて、 「アンさん、あなたに説明し、お詫びをしなくちやならんことがあります。私ははじめからあなたの潔白を信じていたのです。ハーロー夫人を[#「いたのです。ハーロー夫人を」は底本では「いたのです。」ハーロー夫人を」]殺したのがあなたでないことはよく知つていました。ちよつとの間でもあなたに嫌疑をかけたことはありませんでした。頸飾を盗んだのも、あなたでないことは始めから知つていました。それからあなたのお話――あの夫人が死んだ晩のお話――あれだつて私は実のところはそのまゝ信じていたのです。けれども私があなたを信じていることは誰のまえでも一生懸命に隱していた。隱さなければならなかつた。それはこの一週間の間、あなたの身の安全を保証するためには、私があなたを疑つているように見せるのが、最良の方法だつたからです。」 「有難うございます。」アンは淋しく微笑んだ。 「けれども今夜はお詫びをしなければなりません。」とアノーが言葉をつゞけた、「私は今夜あなたがこゝへ連れてこられることをよく知つていました。だからそれを間際になつて救うために、私たちはここへ来たのです。けれども実のところ今度の事件ほど困つたことはなかつた。なぜというに皆な推量ばかりで確証をつかむことが出来なかつたからです。その確証をつかむためにも、私たちはこゝへ来なければならなかつた。ほかの人たちにも確証を見せなければ、ベッティーや女中を捕えることは出来ないですからね。そんなわけですから、どうか、アンさん、今までのことは許して頂きたいのです。」  アンは手を伸して探偵と握手した。 「アノーさん、あなたのお蔭で生命が助かりました。でなかつたら今夜こゝで殺されて、明日になつたらエスピノーザに埋められるところでした。」  探偵はやさしい声で、「いまゝでの不幸は忘れておしまいなさい。あなたはまだお若い。あなたの生活はこれから――」  こゝまで探偵が云うと、巡査モローが署長と二人の巡査をつれてどや/\帰つてきた。 「女中は?」探偵がきいた。 「あの通りです。」モローが答えた。  廊下のほうから、手錠をはめられた女中が泣いたり怒つたり暴れまわつているのが聞える。 「ここにいられるベッティーさんはおとなしく手がかゝらんよ。」探偵がいつた。  ベッティーは椅子に腰かけ、顏をそむけて、口のなかではなにやらわけの分らぬことを呟いていたが、かの女はフロビッシャーが部屋へ入つてから、いちども彼のほうへ顏をむけなかつた。  巡査モローがかの女の足の紐をといて、立たせようとしたけれども弱りきつたかの女には、もう自分で立上るだけの力がなかつた。そこで大男の巡査が抱えて部屋を出ようとしたが、このときフロビッシャーが巡査のまえに立ちふさがつて、 「アノーさん、あなたはいまアンさんの話はすべて信用したと云われましたね?」 「そうです。」 「ではアンさんはハーロー夫人が殺されたのは四月二十七日の十時半だといゝましたが、ベッティーさんはその時刻に舞踏会にいたのです。あなたはこの問題をどう解釈されますか? 許してあげてはいかゞです、ベッティーさんを?」  それに探偵は答えないで、 「今夜の出来事はどうです? 邪魔をしないでください。」  フロビッシャーはそれでも直ぐに退こうとはしなかつたが、しばらくして脇へよつた。だが彼が両眼を閉じていかにも哀れな顏をしているので、さすがの探偵も不器用な口吻で慰めた。 「こんどはあなたもひどい目にあいましたね、フロビッシャーさん。」 「はじめからあなたの考えを云つてくださるとよかつたのですが――」 「はじめから私の考えを云つて、あなたが信じてくれたでしようか?」  これにたいしてはフロビッシャーも返事ができなかつた。探偵はまた言葉をつゞけて、「じつのところ今まであなたに云わんでもいゝことまで云つて、そのため可なりの危險を感じていたのです。」  巡査モローにむいて、 「みんな出たら、玄関と大門に鍵をかけてその鍵を私のところへ持つてきてくれたまえ。」  署長は黄色い液体のはいつた瓶、注射針、白い錠剤、紐の切端なぞひとまとめにして包んだ。  探偵はテーブルの上の、黒い、四角な、重い箱をもちあげて、 「こゝに面白いものがあるんです。署長さん、これもいつしよに警察署へ持つて帰つてください。フロビッシャーさん、これがなにか分りますか? コローナのタイプライターですよ。これは重いから、きつとなかに入つているに違いない。」  署長が出て行くと、探偵はフロビッシャーに向いて、 「無名の手紙はみんなこゝで書いたのです。この美しい部屋は穢らわしい手紙の工場だつたのです。ディジョン全市の醜聞はみなこゝに集められ、それがタイプライターの手紙となつて各処に飛んだのです。」 「脅迫の手紙ですね。つまりそれで金を要求したんでしようね?」フロビッシャーがきいた。 「なかにはそんなものもありました。」 「しかしベッティーは金は有りあまるほど持つていたはずです。伯母に云えばいくらでも出してくれたでしように。」 「ところがね、フロビッシャーさん、脅迫者というものはいくら金があつても足りないのです。それに脅迫されて金を出すようなものは滅多にないのです」  情報をあつめたり、金を要求したりするのは一人ではできぬことだ。ベッティーのほかに一味の者があるだろう。 「一味はまだほかにあるんでしよう? たとえばあのオートバイの青年――」 「あれですか、あれはエスピノーザの弟ですよ。テルゾンの谷間でお会いになつたときに、言葉に訛があるのに気付かなかつたですか? もう捕えられているはずです」 「それから袋を持ちこんだ男も――」 「あれは秘書テヴネーです。あれもいまごろは手錠をはめられています。パリへ行きたいなんて云つてましたが、もう行けなくなつたです。」 「エスピノーザの兄のほうも共犯でしようね。あす埋めにくると云つていましたが――」  こゝまで云つてフロビッシャーはアンのほうに眼をくれて急に口を噤んだ。 「クラーデルを殺したのはあの男ですよ。しかし馬鹿ですね。スペインのカタローニアの男でありながら、どうしてカタローニアの短刀を使つて、カタローニア風の刺しかたをしたのでしよう? あんなことをすれば、すぐ足がつくに決つている」  それから探偵は時計をだしてみて、 「そうだ、もうエスピノーザも捕えられた頃です、まだ一味のうちには、フロビッシャーさんが知らぬ男も交つているのです。そいつらが一網打盡に今夜のうちに挙げられるのです。もう心配はありませんよ」  やがて巡査モローが大門と玄関のドアに鍵をかけて帰つて来た。探偵はその鍵を受けとつてポケットにしまつて、 「アンさん、今夜はもうお疲れでしようから、なにもお訊ねいたしません。あすになつたら、なぜあなたがルヴェー夫人の夜会へ行つたかという問題なぞについて、本当の理由をお伺いいたしましよう。ディジョンを逃げてパリへ行くためなんていうのは、むろん嘘でしよう。だから本当の理由をあす話してください。」 「はい。すつかりお話いたします」 「では行きましよう。」探偵がいつた。 「どこへ? だつていまドアに鍵をお掛けになつたんでしよう?」  アンが訝しげにきいた。  すると探偵が大声をあげて笑つた。たしかに彼には他人を煙に卷いて嬉しがる癖がある。 「フロビッシャーさんはことによると早や感づいていられるかも知れませんが、この家は、アンさん、プレビザール莊といゝまして、グルネイユ莊と同時に建てられたのです。この二つの屋敷を建てたのは、ルイ十五世時代の国会議長グルネイユ氏で、二つの屋敷のあいだにはシャルロベール街が横たわつているだけです。建主のグルネイユ氏はグルネイユ莊に住み、この家にはプレビザールという美しい女を住ませていた。当時は誰もこの二人の関係を知るものがなかつたですから、グルネイユ氏を惡く云う人もなかつた。これだけのことを説明すれば、グルネイユ莊とこの家との間に、秘密のトンネルがあるぐらいのことは想像できましよう」  フロビッシャーは意外に思つた。探偵は朝から晩まで活動を続けていたが、こんなことまで調べていたのか。 「どうしてそんなことが分つたのですか?」 「それは後で云います。いまはたゞ事実だけ説明しとけばいい。グルネイユ氏が死んでからは、誰も秘密の通路があることを知らなかつた。知らなかつたというのは、あるいは通路の入口を修繕して塞いであつたかも知れないのです。とにかく建主グルネイユ氏が死んでから、十八世紀の末には、この二つの建物、グルネイユ莊とプレビザール莊とは、別々の人の所有となつたのです。だが、最後にグルネイユ莊を買い取つたハーロー氏は、その秘密を知りました。そして秘密を知ると同時に、通路の向うのプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊を買いとつて、そこに自分の恋人、のちのハーロー夫人をしばらく住ませたのです。私の短い講義はこれだけです。行きましよう」  アノーは講師が学生に向つてするようにちよつと頭を下げてお辞儀をし、それから部屋の一隅にある大きな戸棚のドアをあけた。よろめきながら立上つたアンは、その戸棚を見ると吃驚して喘いだ。戸棚のなかには物を陳列し得るような棚はなくて、探偵が床板をあげると、一條の階段が厚い壁に沿つて闇のなかへ下りている。  探偵は懷中電灯をともした。 「さあ、フロビッシャーさんはこの電灯をもつて、アンさんといつしよに先に下りてください。私は部屋の電灯を消してあとから行きます」  けれどもアンは怖ろしげに額に皺をよせて探偵の腕にすがりついた。 「わたしあなたといつしよに降ります。足が痛みますから」  かの女の心中はよく読めた。フロビッシャーはかの女を、殺人犯と窃盗犯の犯人と疑つていた。かの女は自分を疑つた男といつしよに暗い処へ入るのは嫌だつたのだ。そればかりではない。かの女は他の人から疑われるよりも、フロビッシャーから疑われるのを一番つらいと思つていたのだ。  フロビッシャーは探偵の手から電灯を受けとると、まつさきに立つて階段を下りはじめた。巡査モローがそのあとについた。 「いゝですか?」  片手をかの女にあたえ、探偵が戸棚のそばのスイッチを捻ると、部屋が眞つ暗になつた。階段の途中にいるフロビッシャーの電灯をョりに、戸棚のドアをしめ、内側から掛金をかけた。 「さあ、降りましよう。アンさんは足元御用心。石の階段はあぶないですよ」  頭が床とおなじ水平になるまで下りると、探偵はフロビッシャーを呼びとめ、電灯をかざしてもらつて、戸棚の床板をひきよせ、その下の、蝶番で垂れさがつたドアを締めて掛金をかけた。 「さあ、下りた」  それから十歩ばかり下りると、こんどは煉瓦でかためた水平のトンネルだ。かれらは闇のトンネルを電灯をかざしながらどん/\進んで行つた。  しばらくすると、階段が上へ昇つている。 「フロビッシャーさん、この階段がどこへ出るか知つていますか?」  探偵の声がトンネルのなかで妙な響をもつて反響した。 「グルネイユ莊の庭でしよう」  くす/\探偵が苦笑いして、 「アンさん、あなたわかりますか?」  かの女は仔細らしい顏になつて、 「えゝ、いまわかりました」  そして気味惡げに身顫いして外套を肩にかけた。  探偵はまつさきになつて階段をのぼり、床板のドアを下へ引き卸し、ボタンを押してその上の板を滑らした。 「ちよつとお待ちなさい」  一人で飛び出して彼はスイッチを捻つて電灯をつけた。  アン、フロビッシャー、巡査モローは、轎《セダン》のなかから[#「なかから」は底本では「なから」]這出して宝物室へはいつた。 [#3字下げ]23 時計の秘密[#「23 時計の秘密」は中見出し]  たちまち巡査モローがだしぬけに笑いだした。いまのいままで敏捷で、眞面目で、無表情で、どちらかといえば沈默がちだつた彼が、もう堪えきれなくなつたように、両手で腹をかゝえて苦しそうに笑うのである。一二度なにか云おうとしたが、その言葉は笑いのために掻き消されて、たゞわけもなく爆発するように笑うのである。 「どうしたんだ、なにがそんなに可笑しい?」と探偵がきいた。 「ごめんください」巡査が云いかけたが、またひとしきり可笑しくて堪らぬように笑いつゞけた。しばらくしてたつた二つの言葉だけが聞きとれたが、それは「我々の署長は……」と云うのである。そう云いながら、巡査は、署長が折眼鏡を鼻先へもつてゆく眞似をする。やがて笑いが大分鎭まつたとき彼の口を漏れた言葉は、「我々の署長は……この部屋のドアに封印したのに、あはゝゝ……すぐ目の下に拔道があつたのです……これでは、これでは、これでは、封印したつてなんの甲斐もない。あはゝゝ……パリから有名な探偵アノーさんが来るというので、部屋をそのまゝ封印したんだけれど……ていねいに錠前の上に白い布片をまいて封印したんだけれど……これじや、これじや、……裁判所で物笑いになる……署長さんも、裁判が開かれるまえに辞表を出さなくちや……あはゝゝ……」  だが、巡査の話があまりに職業的だつたためか、それとも一同が疲労して神経が麻痺していたためか、笑うのは彼一人で、ほかの者は誰も笑わなかつた。  フロビッシャーは寄木細工の戸棚の上にあるルイ十五世式の時計のそばへよつた。彼はこの時計のことを片時も忘れることが出来ないのだ。それというのもベッティーの運命を決するのはこの時計だからである。かの女がたとい今夜どんなにひどい行いをしようと、どんな乱暴な言葉を吐こうと、ハーロー夫人を殺したのがかの女でないということは、この時計が証明している。彼は自分の時計をだして、その置時計とくらべてみた。そして勝誇つたように云つた。 「一分も違わない。いま一時二十三分――」  すると探偵が素早くそのそばへ寄つて、 「どれ」と、自分の時計を出して比べて、フロビッシャーの言葉が違わないのを確めると、「そうだ、いま一時二十三分これは都合がいゝ」  彼はアンと巡査を呼んだ。一同が置き時計のまえに立つた。 「この時計の謎を解いてくれるのは、アンさんがあの時云つた言葉です。アンさんがあの実驗の日、封印を破つて宝物室にはいつたとき、晝間の光でこの時計を見て、なんだか位置が変つているように思われた。ね、アンさん、そうでしよう?」 「はあ、なんだか、どうも、いまでもそうなんですが――あの晩の時計の位置は、もつと高かつたような気がしますわ」 「そうでしよう。いま試驗してみましよう」  探偵が置時計の針を見ると、一時二十六分をさしている。 「では皆さんはこの部屋を出て、ホールの闇のなかに立つていてください。アンさんが階段を降りてこゝへ入つてきたのは、眞つ暗いときでしたから、私もこの部屋の電灯を消しときましよう。私が電灯を消してしまつたら、アンさんはそのドアを開けて入つて、ちよつと電灯をつけてすぐ消してください。そうすると四月二十七日の夜の謎がとけます」  探偵はホールへ通ずるドアを開けようとしたが、内側から鍵が差込んだまゝになつていて開かない。 「そうだ。ベッティーがこゝからトンネルをくゞつてプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊へ行つたのだから、この部屋に鍵がかゝつているのは当り前だ」  彼はその鍵を廻してドアを引きあけた。そとは靜な暗いホールであつた。  把手を握つたまゝ彼は脇へ退いて、 「どうぞ」  巡査モローとフロビッシャーはすぐホールへ出たが、アンだけはドアのところで躊躇して憐みを乞うように探偵を見た。この小さい実驗で探偵がかの女の疑惑を正してくれることは、かの女もよく知つていた。探偵はとても生命が助からぬと思つていた時あらわれて助けてくれた人である。だからむろんかの女は絶対に彼を信用してはいる。けれども、いまとなつては時計の謎なんか、かの女にとつてはどうでもいゝ問題だつた。かの女はベッティーのように恨み深い女ではない。ベッティーは取り返しのつかぬ運命になつたが、かの女をそうした運命に陷し入れたのは自分の言葉で、この小さい実驗もベッティーの有罪を確実にする助けとなるかと思うと、アンは躊躇せずにはいられなかつた。 「勇気をお出しなさい!」  こう探偵が優しく微笑しながら宥めるので、とう/\かの女も思い切つて一同のいるホールへでた。  一人のこつた探偵はドアをしめて置時計のそばへよつた。  一時二十八分。 「まだ二分ある。これは丁度いゝ」と彼は心に呟いた。  そとでは三人が闇のなかに立ち、わけてもアンは胴顫いして、歯並をがた/\顫わせていた。 「アンさん」  フロビッシャーがかの女の腕をにぎると、アンはもう堪りかねたように、彼の胸にすがりついて、 「フロビッシャーさん! あなたはひどい人!」  けれどもこのとき部屋のなかから探偵の声がした。 「お入りなさい!」  アンが進みでて闇のなかで把手をさぐり、いきおいよくドアを押しあけた。  宝物室はホールと同じくまつ暗闇だつた。かの女は敷居をまたいだ。わな/\顫える手先でスイッチをさぐつた。 「点けますよ」顫え声でかの女がいつた。  たちまち宝物室がぱつと明るく輝いて、またすぐもとの暗闇となつた。  その暗闇のなかで皆んなが口々に囁いた。 「十時半だつた!」フロビッシャーの声だ。 「そしてまた時計の位置がすこし高くなつたような気がしますわ」アンの声だ。 「ほんとう」巡査の声だ。  部屋の向うから探偵の声がした。 「四月二十七日の晩も、これと同じでしたか、アンさん?」 「えゝ、ちつとも違いません」 「では灯をつけて、その理由を調べてごらんなさい」  おごそかな探偵の声が葬式の鐘のように響いた。  アンの手はすぐには動かなかつた。また気遅れがする。自分が手を動かしてスイッチを捻ることによつて、ベッティーの身の上に、取返しのつかぬ不幸がもたらされはしないだろうか。 「アンさん、しつかりなさい!」  また部屋に明るい電灯がついたが、こんどはすぐには消えないで、そのまゝ点つていた。三人の者は部屋へ入ると探るような目付であたりを見まわした。  ところが、寄木細工のうえにあるべき筈の時計がない!  だが、よく見ると、その戸棚のうしろの高い処に細長い姿見があつて、そこに時計の白い面がはつきりと鮮に、本当の時計としか思われぬほど明るく映つていて、しかも針はまさに十時半を示しているのだ。 「よくごらんなさい!」探偵がいつた。  よく見ると本当の時計は、寄木細工の戸棚とはまつたく反対がわの、アダム式の煖炉棚のうえにあつて、針は現在の時刻の一時半を指差しているのだ。一同は煖炉棚からまた姿見に眼を移した。そして時計の謎を了解した。そうだ、右がわの一の字と二の字の中間にある短い針は、姿見へは左がわの十の字と十一の字の中間の位置にあるように映り、長針だけが同じように垂直に下を指差しているのだ。だから本当の時計は一時半でも、鏡へは十時半としか見えぬように映つている。 「おわかりですか? 自然の法則は人間のこまかい注意を節約するようにできています。時計と共に生活する我々にとつては、時計は毎日のパンと同じ必要品なのです。そして無駄な注意を節約するために、我々は時計の字を読まないで、ただ針の位置だけ見て時間を知るのです。アンさんは四月二十七日の夜、この部屋へおりてきてスイッチをひねつた瞬間、この鏡に映つた影を見て十時半だと思つたのです。アンさんは自分でもそのとき、なんだか長いあいだ居眠りをしたような気がするのに、案外時刻が早いと思つたと云われましたが、それも道理、十時半ではなくて一時半だつたのです。眼をお覚しになつたとき手足が冷えて寒気をお感じになつたのも尤な話です。一時半という時刻はベッティーが舞踏会から、帰つて二十分たつたあとなんです」 「しかしそれはあまり速断ではありませんかね? 私たちが封印を切つて初めてこゝへ入つた時には、時計は煖炉棚のうえでなく、寄木細工の戸棚のうえにありましたよ」  探偵はフロビッシャーの言葉を頷いて聞きながら、 「それには訳があるんです。アンさんが時計のことを話したのは晝食前でしたが、我々が封印を切つて部屋へはいつたのは晝食後でした。ベッティーがそのあいだに、そつと時計の位置を変えたのです」探偵は轎を指さして、「こんな拔孔があるんだから、不思議はありません」 「でも、この拔孔がそんなに容易に利用できるでしようか?」 「できますとも。では、あなたの覚書のなかに書いてあつた質問の一つに、こゝでお答えしましよう。つまり塔の上から私がなにを見たかという質問です。あの時私が見たのは煙突から立昇る煙なんです。むろんその他のもの、屋根も、窓も、壁も見ましたが、不審に思つたのは煙突の煙です。あたたかい五月の眞晝、この宝物室の、封印してあるはずのこの宝物室の煖炉の煙突から、煙が立昇つているのです。だから私はそのときすぐ、何処か拔道を通つて宝物室に忍込んだに違いない。では誰だろう? 私たちが家を出るとすぐ忍込んだ者は誰だろう? それはすぐわかる問題です。時計の位置を変えるためだつたのです。それから手紙を燒くためだつたのです」  探偵の最後の言葉はフロビッシャーの耳に入らなかつた。彼は時計のことばかり考えていて、手紙のことは考えていない。だが時計の謎は探偵の説明でとけた。ベッティーがどんなに他の点で疑われようと、たゞ時刻の点で罪をまぬかれるように思つていたが、いまはそれも空ョみとなつた。かの女を護るべきたゞ一つの証據は無残に破られた。  力なく彼は椅子に凭れかゝつて、 「どうもあなたの眼は鋭い!」 「いや、べつに私の眼が鋭いというわけじやないのですが、たゞこうした問題に慣れているのです。私は煙突から立昇る煙を見ると、すぐベッティーさんがなにか細工するために宝物室に入つたのだと思つた。ではどんな細工をするためか? それは手紙を燒くためもあつたでしようが、そればかりではない。なにかほかにアンさんの証言を裏切るような細工するために違いない。そこで私は封印をきつて部屋にはいると、煖炉棚のうえのチエリーニの作つた宝石が入つている硝子箱をとりあげて見たのです。アダム式の煖炉棚があまり高いので、こまかい美術品が見えなかつたから取り下して窓際へ持つていつたのです。そのとき煖炉棚をよく調べてみると、硝子箱のしたに、ちようど時計の台とぴつたり合う四つの疵跡があるのです。その疵跡で私はすべてを会得しました。つまり、いつもは煖炉棚のうえに時計をおき、硝子箱のほうを寄木細工の戸棚の上においてあつたのです。またちよつと考えてみても、硝子箱のような宝石のはいつたこまかい美術品は、戸棚のような低いところにおくのが本当でもあるのです。煖炉棚のような高いところにあつては、微かい細工が見えませんからね。要するにフロビッシャーさんと私が、署長の晝食を待つている間に、塔の上へあがつてみた、その留守のまにベッティーがこの部屋へ入つて、時計と硝子箱の位置を交換したのです。それに気がついたのは、私が機会の下僕だつたからに過ぎないのです。言葉をかえていえば、私の運がよかつたんです。あのとき煙突の煙を見なかつたら、こんな発見はしないですんだかも知れません。フロビッシャーさんは眼が鋭いなんてほめるけれど、私はたゞ自分の運がよかつたのだと思つています。時計の謎に気がついたのにはまだほかに理由があるんです。私がホールに立つていましたら、その鏡に晴雨計が映つていましたが、それが不思議にも天気がよいのに雨天を指差しているのです。だがよく考えてみると鏡に映つているのですから、実物の反対であるのが当然なのです。それに気付くと私はすぐ宝物室に入つて、なかからピンと鍵をかけて研究してみたんです。けれどもそのとき秘密を解いて部屋をでると、ぱつたりベッティーさんに出会つたのには弱りましたよ。しかもあの人が妙に怖い顏をして私を睨むんです。ひやりとしましたよ。しかし今夜はもう遅い。アンさん、あなたお眠いでしよう。さあ!」  探偵は先頭にたつてホールにでて、ホールの電灯をつけ、宝物室に鍵をかけた。 「アンさん、今夜はここに灯をつけときましよう。それに巡査モロー君も番をしていますから大丈夫です。お休みなさい」  アンが力なく笑つて探偵と握手した。 「あすまたお礼を申上げますわ」  つかれきつた足を曳きずるように、彼女は靜々と階段をのぼつた。  かの女を見送つていた探偵はフロビッシャーのほうへ向いて、 「あすになつたら、アンさんが今夜の出来事や、なぜルヴェー夫人の夜会へ行つたかということを話してくれます。それを聞いたら、あなたの疑問はすべて氷解しますよ。あなたのためにはできるだけの便宜をはかつて上げたいと思つています。今夜の証人にもならんでもいいようにしてあげます。ただお断りして置きますが、法律だけは曲げることが出来ないのですから、惡い者は処罪しなければならんです」  いつもとは探偵の人物が変つているように思われた。トリックもなければ、傲慢なところも、おどけたところもない。得意の色さえ見られない。ただ威嚴もあれば優しさもある紳士だつた。 「お休みなさい」と探偵が手をだした。  フロビッシャーは彼の手をとつて打振りながら、 「ではお休みなさい」とかえした。 [#天付き]探偵は彼の心を読んで満足の微笑をうかべながら外へ出た。  フロビッシャーは玄関のドアに鍵をかけると、がつかりしたような気持でホールを歩いた。やがて探偵がおもての鉄門をしめる音がきこえた。いままでそれが開いていたのだ。家族のうちの誰かが外出中は、夜遅くまで門を開けとくというのがこの家の習慣である。そうさ。すべては司令官が作戰計画をたてるように遺漏なく計画されている。召使たちはなにも知らずにもう寢ている。もしアノーが現れなかつたら、いまごろはベッティーが戰慄すべき仕事を終つて、のこのここの階段を登つているところであろう。そして召使たちは翌朝になつて目を覚すと、アンが逃げたのは自分の罪が怖いからだと思うだろう。そして日が暮れるとエスピノーザが訪れて宝物室からトンネルをくぐつてプレビザール莊へ行き、かの女の屍体を台所の敷石のしたに埋めるだろう。そうだ。ベッティーはあらゆる場合を考えぬいて、拔かりのない計画を立てた。パリからアノーが来ることを先見して、ロンドンへ電報をよこしたくらいだ。 「私はアンさんの部屋のしたの階段に立つていますから、用がありましたら呼んでください」巡査モローがいつた。  フロビッシャーは瞑想からさめて、 「有難う」  そして階段を登つて自分の寢室へ入つた。それにしても一通の電報から飛んだことになつたものだ。いまごろはベッティーは何処にいるだろう? ここまで考えてくると彼はもう先を考えるのが嫌になつた。  とにかくかの女の巧妙な計画が見ごとに粉碎されたのは、アノーが来ることを報じたあの一通の電報がもとであつたようなものだ。 [#3字下げ]24 アンの話[#「24 アンの話」は中見出し]  よく朝はやくアノーから電話がかかつて、午後になつて訪問するといつて来た。そこでフロビッシャーは午前中に公証人ベー氏を訪問して、昨夜の出来事を話したのであるが、それを聞いた彼はひたすらに驚いて、 「今日では囚人でも法廷にでるときは、自分の好きな辯護士をたのむ權利があるんです。どれ、私はこれから警察署へ行つてみましよう」  そして彼は、フロビッシャーを事務室に待たしたまま、闘鷄のように胸をはつて、ベッティーのために戰うべく警察署へでかけた。だが、べつに戰う必要はなかつた。拘留中のかの女は面会謝絶で、まだ法廷へでるまでは二三日の間がある。ベッティーよりも女中をさきに取調べるらしい。けれども警察側でもベッティーにかなりの厚意をみせて、もし本人が希望するなら法廷へ出るまえに公証人に面会することを許してもいいといつた。  公証人が事務所へ帰つてみたら、じれつたそうに部屋のなかを歩きまわつているフロビッシャーが、結果いかにと気遣わしげに公証人を見たが、公証人はなんの吉報ももたらさなかつた。 「どうも私は気に入らん! 嫌になりましたよ。とても不愉快です。警察は親切です。ええ、とても親切です。けれども女中から先に調べると云つていますぜ。私はそれが気に入らんのです」テーブルを叩いて、「きつとアノーが云いだしたことでしよう。あの人は拔け目がない。女中というものは無責任に喋りますからね――」頭を振つて「これじやフランス第一の辯護士をたのんでこなくちや」  フロビッシャーは忙しい公証人に別れをつげてグルネイユ莊へ帰つた。  怖ろしい昨夜の出来事はまだ世間に洩れていないらしい。街を通つてもその噂をしている者がないし、物珍らしげにグルネイユ莊の鉄門を覗きにくる者もなかつた。ワベルスキー事件の古い問題は、もう忘れかけているらしい。フロビッシャーはアンの部屋に召使をやつて、自分はこれからアルシー廣場のホテルへ荷物を運ぶが、あなたは当分グルネイユ莊に留つているのがよろしいという旨を通じた。  午後になるとアノーがきた。そしてまたシカモアの木蔭、芝生のうえに椅子をだして、薔薇の香をかぎながらアンの話をきいた。 「わたしは始めにルヴェー夫人の舞踏会へ行くなんて気は少しもなかつたのです。けれども無名の手紙がきたので、行くことにきめました」  その手紙がきたのは、ベッティーとフロビッシャーとアンの三人がテーブルをかこんで食事しているときだつた。だから、つまり、手紙を投凾したのはその日の正午――アンがお庭でさいしよの陳述をした直後ということになる。手紙を受けとつたかの女は、どこかの書付だろうと思つたが、封を切つてみたら無名の手紙だつたので驚いた。けれどもその文面をよく読んでみると、なにも驚くことはすこしもなかつた。要するに明日の夜会へ行くなら、本当の犯人を知らしてやると云うのだ。十時半になつたらルヴェー夫人邸の廊下のつきあたりの図書室の窓掛に隱れて待て、そうするとハーロー夫人を殺したのが誰かということを知らしてやる。だがこのことは誰にも他言してはならぬと云うのだ。 「わたしはむろん誰にも他言しませんでした。ただ無名の手紙によくある惡戯にすぎないと思つただけです。けれども忘れようとしても、どうしても手紙のことが気に掛つてなりません。ことによると本当の犯人の名を教えてくれるかも知れない。第一私は金を持つていない。金のない私にたいしてトリックを弄ぶはずはない。そのへんを考えると、だんだん手紙が本当に思われだして、ついに行つてみようかという気になつたのです」  食事がすむと、アンはその手紙を自分の部屋へ持つて帰り、また繰返して文句を読みながら、その文句を信じたり疑つたりした。だがその頃のアンは、もう皆んなから猜疑の目で見られていることを知つていた。だから荒唐無稽な手紙ではあつたが、ただ眞の犯人の名を聞きたいばかりに、結局夜会に行つてみることにした。  そして九時半になるとベッティーに相談するために宝物室へ行つたのであるが、灯はあかあかと点いていても、かの女の姿は見えなかつた。そこでアンは、かの女の帰つてくるのを待つているあいだ、いつもから不思議に思つている置時計の問題を調べることにして、自分の懷中時計をだして、その置時計と比べてみたりした。もしこのときかの女が自分の懷中時計を姿見に映してみたら、探偵と同じように眞実を覚つたであろうが、そこまでは調べなかつたのである。  時計を持つたまま、ふと気がつくと、部屋のなかで物音がする。アンはひやりとした。振返つてみると轎のなかに誰かいるらしい。かの女はベルを押して老僕を呼ぼうかと思つた。部屋のなかには盗まれてはならぬ大切なものがどつさりある。だからかの女は老僕を呼ぶよりももつと大胆な方法をえらんで、つかつか轎のそばへよつて硝子扉のなかを覗いてみた。  覗いてみたアンは驚きの叫声をあげた。無理もない。そのなかにはベッティーが布團にもたれて坐り、身動きもせずに暗いところにただ眼だけ光らせて、じつとアンを睨んでいるのだ。 「ここからあなたのすることを見ていたの」  こうのつぴきならぬような恨めしげな声で彼女が静かにいつた。いまから思えば多分ベッティーはトンネルを通つて帰つてきて、アンが時計の秘密を調べているのを見付けたのであろう。この言葉をきいたアンは、死刑の宣告を受けたような気がしたという。じつに気味の惡いぞつとするような声だつたという。 「ベッティーさん、あなたに相談したいことがあつて来ましたの」  ベッティーは轎から出ると、かの女の手から無名の手紙を受けとつて見た。 「行つたほうがいいでしようか?」アンがきいた。 「それはあなたがご勝手にお決めになつたらいいわ。でもわたしだつたら行きますわ。まだあなたに疑惑がかかつていることは世間で知らずにいるんですから、べつに恥しくはないでしよう」 「でも喪中に舞踏会に行くのは惡くはない?」 「だつてあなたは親戚のひとじやないんでしよう? 十時半と書いてあるんなら、その時刻のちよつとまえに、こつそり行つたらいいじやないの、わたしが誰にも分らぬようにしてあげますわ。でもあなたのことだから、あなたのご勝手になさい」 「どうして無名の手紙の主は、わたしに犯人の名を教えてくれるのでしようか?」 「それは多分あなたを間接に利用するんでしよう。眞犯人を脅迫するのが目的で、その名を世間に洩らすのでしよう」  アンはくるりと向き直つて、 「じやわたし行くわ」  すると手紙を手に持つていたベッティーが、 「この手紙は破りますよ」といつてそれを破ろうとした。 「いや」とアンが振返つて手紙を取つて、「わたしまだよくルヴェー夫人邸の間取りを知らないの。だからこの手紙は持つて行きますわ」  ベッティーもそれに同意した。 「誰にも見られないようにしてお行きなさいよ」  そしてベッティーはそのためにあらゆる便宜をはかつてくれた。  こんなことは女中には世話をさせてはいけぬといつて、女中には一日の休暇をあたえ、ベッティー自身で着付を手傳つてくれた。そしてベッティーは、ルヴェー夫人の次男ミシェルといつてベッティーに熱心に求婚している青年にあてて、アンが嫌疑をかけられて困つているからひそかにパリへ逃げさせようと思う、どうか便宜をはかつてくれと手紙を書いた。幸にして、この青年はその手紙を破らずに持つていたので、あとで共犯者として取調べられずにすんだ。ベッティーはその手紙には、こんなことも書いた―― 「――でアンは遅くなつてから舞踏会へ行きます。そして脱走を手傳つてくれる人たちと図書室で落会うはずですけれど、あなたはそこへ顏を出さないほうがよろしい。ただ廊下なぞへ余り人が行つて邪魔しないように気をつけていてください。アンは図書室から公園へ出て、翌朝パリへつきます」  ベッティーはその手紙を、アンに見せないで封をしてしまつた。それもそのはず、アンにはパリへ逃げるなんて考えは毛頭なかつたのである。 「この手紙は明日の朝になつたら、使いの者に持たせてやりましよう」  それからベッティーとアンは舞踏会へ行く方法を相談した。大型の自動車にのつて行けばアノーに気付かれる憂いがある。ベッティーが自動車を操縱してアンが同乘していれば、誰だつてベッティーがアンの脱走を助けていると思う。だからこの方法はだめである。「いいことがあるわ」とベッティーが手をたたいた。「ジャンヌも舞踏会へ行くそうですから、あのかたの自動車をちよつと此処まで寄せてもらつて、それに乘つてお行きなさいよ」 「ジャンヌ!」アンは面喰つた。  アンはいつもから教養のあるベッティーが、下品な、俗惡な、安つぽい女と交際するのを不思議に思つていた。だがベッティーにしてみればそれも無理はないので、自分と同じ社会の人と同等な交際をするより、一段下の人にとりまかれて、ちやほやされているほうが愉快なのだ。ジャンヌという女もそうした群の一人で、大柄の、髪の赤い、器量だけはちよつと好かつたが、どこか下品な女だつた。アンはこの女が嫌いでもあれば、不安でもあつた。 「あのひとならきつとそのくらいの世話はしてくれてよ。わたしがョんだらきつと大丈夫よ。あのひともルヴェー夫人の舞踏会へ招待されたと云つていたから――」  アンもしぶしぶ承諾した。  そこでベッティーがこんどはジャンヌへ宛てて手紙を書いた。相談したいことがあるから、明日の朝はやく来てくれというのである。翌朝ジャンヌがきた。そしてベッティー[#「ベッティー」は底本では「ベッテイー」]とジャンヌと二人きりで、九時から十時までのあいだ、別室に鍵をかけてすべての手筈をきめた。  ここまで話を聞くとフロビッシャーが口を出した。 「ベッティーとジャンヌだけではありますまい。エスピノーザ兄弟も共犯でしよう?」 「そうです」とアノーが頷いた。「いまアンさんが轎のなかにベッティーが坐つていたと云つたでしよう。あれはエスピノーザに会うために、プレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊へ行つて帰つたところだつたのです。エスピノーザはそこからすぐガンベッタ街のクラーデルの店へ行きました。そして藥屋の亭主を殺したのです」  アンの話はつゞく――  いよ/\翌日の晩になつた。その晩の食事がいつもよりひどく遅れたことはフロビッシャーも覚えている。それは女中がいないのでベッティーが一人でアンの着付を手傳つていたからだ。食堂へ出たのはベッティーと彼の二人だけ、そのあいだにアンは派手なドレスを毛皮の外套でかくして、ジャンヌの自動車がくると、いそいでそれに飛びのつてルヴェー邸へ走つた。食事中自動車の音がしたこと、誰かゞ玄関を出たこと、そして自動車が無事に出て行くと、ベッティーがはじめて安堵の色を浮べたことなぞをフロビッシャーは思い出した。  アンとジャンヌを乘せた自動車がルヴェー夫人邸へ着いたのは十時過ぎだつた。玄関に出迎えたのは次男ミシェルだつた。 「よく来てくださいました。併しおいでがあまり遅いので、母はもう舞踏場の入口にいません。が、なに、どこかにいるでしよう」  彼は二人をクロークルームに案内した。そこを出ると、ばつたりエスピノーザに出会つた。 「踊りますか?」  ミシェルが彼にきいた。 「いいえ」 「ではこのお二人の方にコーヒーでも[#「コーヒーでも」は底本では「コーヒでも」]飮ましてあげてください。私はほかのお客樣の世話で忙しい」  云いすててミシェルは一人で忙しそうに舞踏室へ行つた。そこからは賑やかな笑声や、華やかな音樂が聞えた。  エスピノーザは二人の女を案内して喫茶室へ行つた。そこにはほかに誰もいない。 「まだ遅くはないでしよう。ゆつくりコーヒーでも飮みましよう」  こう云つたのはジャンヌだつた。だがアンはゆつくりコーヒーを飮むような気持にはなれなかつた。居ても立つてもいられぬ気持だつた。無名の手紙に書いてあつたことは嘘だろうか。自分は果して数分間後に眞実を知ることが出来るだろうか。かの女は気を揉むばかりだつた。 「アンさん」とそばからエスピノーザが云つた。「あなたのコーヒーが冷めますよ。飮んでごらんなさい。いいコーヒーですよ」 「ええ」と返事をしてアンはこんどはジャンヌに向いて、「あなた自動車に乘せて帰らしてくださらない」 「大丈夫ですよ。心配なさいますな。それよりそのコーヒーでもお飮みなさいよ」  それでもアンはコーヒーに手を出さなかつた。 「いいんです。もうわたし行かなくちや――」  アンがこう云うと、エスピノーザとジャンヌがちらと妙な目付で顏を見合せたが、その意味を考えている暇なぞかの女にはなかつた。けれどもエスピノーザがブフェからコーヒーを運ぶとき、そつと麻醉剤のようなものを茶碗に落しこんだくらいは、あとから考えてみて想像できる。 「わたし外套を着ますわ」とアンは二人を残してクロークルームへ行き、そこで外套を着た。外套を着ても二人のいる喫茶室へは帰ろうとしなかつた。  廊下へ出るとそこにミシェルが立つていてかの女を手招きした。 「この廊下を突当つて右へお行きなさい。そこが図書室です」  かの女はミシェルの前を通り拔け、教えられた通りに長い廊下を突当つて、右の部屋のドアをしずかに開けた。図書室はまつ暗だつたが、ドアをあけると、廊下にさしこむ光で、壁際に高い本棚のあることや、家具の位置や、一番むこうに黒つぽい長い窓掛がたれていることなぞがわかつた。部屋には誰も入つていないらしい。かの女はドアをしめると、両手で探りながら、窓際へ行つて身をかくした。それは公園に面した大きい張出窓で、厚い重い窓掛が垂れているので、身をひそめるには持つてこいの場所だつた。  だが間もなくかの女は妙な物音を聞いた。誰かがさきに部屋に隱れていて、かの女がドアから入つてくるのを伺つていたらしい。その物音は次第に高くなる。窓からさしこむかすかな明りに透かして見ると、部屋のむこうのドアのそばの、高い本棚の上のほうから、なにか黒いものが降りつゝある。誰だかわからんが、とにかく本棚の上の飾板のかげに隱れていた者が、いくつもに並んだ棚の段を踏台にして降りている。  アンは悲鳴をあげてドアのほうへ逃げ出そうとしたが駄目だつた。黒い影はとつさに本棚を飛び降りて、把手を掴んだアンのうしろから、頸卷のようなものを卷きつけて、声が出ないようにした。アンはドアのそばのスイッチを捻つた。それと同時に二人は抱きあつたまゝ、ごろりと床の上に倒れてはげしい格闘がはじまつた。かの女がしきりに起上ろうともがきながら、上から抑えつけている者の顏をよく見ると、女中のフランシーヌだつたので吃驚した。アンは力一杯にもがいたが、なにぶん口のまわりに布を卷きつけられているのだし、背だけはアンのほうが強くても、がつしりした、腕節のつよい田舍娘には力で負けて、完全に組み伏せられ、まもなく両手と足を紐で縛られてしまつた。  女中は縛つたアンを長椅子の上におくと、ドアをあけて廊下のほうへ向いて合図した。  すると合図に答えてエスピノーザとジャンヌが入つてきた。 「うまくやつたか?」  エスピノーザがきくと女中が笑つた。 「あゝ、ひどい目にあいましたわ。コーヒーを飮ますと自分で歩いてついて来るでしように、飮まなかつたから担いでやらなくちやなりません。ずいぶん暴れましたわ」  女中がアンに外套を着せ直したり、ジャンヌが猿※[#「戀−心/口」、179-上-14]のうえからスカーフを卷きつけたりしている間に、エスピノーザは窓掛を引いて電灯を消した。  その部屋は屋敷の裏にあつて、窓のそとがすぐ公園になつていた。だが普通の公園とちがい、フランスのお金持の公園のことだから、まるで田舍の牧場のように廣々として、闇のなかを牛が幽霊のようにうごめいていた。エスピノーザが窓を開けると、舞踏場のほうから、かすかな音樂が流れて来る。 「はやく!」  云いながら、エスピノーザがかの女を抱えて窓から飛びだした。窓は開けはなしたまゝにしておいて、三人でアンを支えながら、草をふみ、薄暗い木蔭ばかりつたつて、門と玄関の中間に止まつている自動車のほうへ進んだ。はるか左方のテラスあたりから、ほの白い明りがさしてはくるが、彼らの足元は暗かつた。とき/″\アンをおろして、支えたまゝ立たせて休んだ。 「もうすぐだ」エスピノーザが喘ぎながらまた立止つた。そこは実際すぐ道のそばだつた。よく見ると向うのほうから煙草の日が近づいてくる。白い服を着ているらしい。エスピノーザは慌てゝアンを木の幹に立てかけ、ジャンヌがそのまえに立ちふさがつて、女中としきりに快活に世間話をしているような風をした。煙草の火がまじかになるとエスピノーザははら/\した。卷煙草をくわえたのが男で、白服が女だつた。 「おや、あすこに誰かいるようだ。あんな処に誰がいるんだろう。行つてみようか?」  誰だかわからぬ男が道をはなれて芝生を踏もうとすると、あとから女が腕を握つて遮つた。 「そんなことするもんじやありませんよ。誰だつてお互いさまじやないの」  彼らが行つてしまうと、エスピノーザが声を顫わして、 「早く行こう!」と囁いた。  それから数ヤードすすむと、大きい道からちよつと離れた繁みのかげに、エスピノーザの自動車が待つていた。彼らはまずアンを乘せ、ジャンヌがそのそばに並んで座り、エスピノーザが運轉台に座つた。テルゾンの谷間へむけて走りはじめると、遠方の時計が十一時を打つた。ジャンヌは自動車のなかでアンの猿※[#「戀−心/口」、180-上-15]をとき、頭から大きな袋をかぶせて、足のところで結んだ。そしてテルゾン谷間の、道が二つに別れた処までくると、そこに待つていたオートバイのサイドカーへアンをのせた。オートバイの男はエスピノーザの弟であつた。  アンの話が終ると、探偵が付加えた。 「いまのお話の拔けたところを私が補足しよう。第一は一同が図書室の窓から逃げだすと、あとからミシェルが入つてきて、みんなが無事にパリへ行つたものと安心して、窓を締めて掛金を掛けました。第二にエスピノーザとジャンヌは、自動車に入つて何喰わぬ顏でルヴェー夫人邸へ帰ると、すぐその場で警官に逮捕されたのです」 [#3字下げ]25 二十七日の夜[#「25 二十七日の夜」は中見出し] 「まだお話したいことがあるんです」とアノーはアンが立去つたあとでフロビッシャーにむいて、「私の話も大分終末に近づいたとは思いますが、私が抱いていた疑問にたいする解答もお話しせねばならぬ。それは四月二十七日の夜、アンさんが階段を降りてきたとき、なぜ病室と宝物室との中間のドアが開いていたかという問題です。この問題が解けたら、ベッティーと女中が、なぜ夫人を殺したかという疑問も解けるわけです」 「では女中も殺人を手傳つたとおつしやるんですか?」フロビッシャーがきいた。 「むろんです。私が行つた実驗はあなたもごらんになつたでしよう? あのとき私はベッティーをベッドに寢させ、女中に『これでよし』と云わせました」 「そう」  探偵は卷煙草に火をつけて笑つた。 「あのとき女中はベッドのすぐそばに立てといつても、どうしても立たなかつた。たゞベッドの足のところに立つて、『これでよし』と云つただけです。これに意味があるんですよ、フロビッシャーさん、つまりあの女中は、夫人を殺したときに立つた同じ場所へは、気が咎めて立てなかつたのです」それから低い声になつて、「私は女中に多大の期待をかけています。二三日監禁しておけば、野獸のようなあの女もきつと白状すると思います」 「ではワベルスキーはこの事件にどんな関係があるんです?」  アノーは笑つて椅子から立上つた。 「ワベルスキーですか。あの男はこの犯罪には全然無関係なんですよ。たゞ自分でも信じていないのに、出鱈目の告訴をしたら、偶然その告訴が当つていたというまでです」彼は二三歩あるいてまた元のところへ帰り、「しかし全然関係がないというのは当つていませんね。まるきり関係がないことはない。私がなぜベッティーを起訴したかと詰問したら、あの男も困つてガンベッタ街のクラーデルの店からでるベッティーを見たといゝました。ところがこの言葉が我々にとつてはかなり役にたつたのです。この点で我々はあの男に感謝してもいゝのです。いつも云う通り、私は機会の下僕です。まつたく私の運がよかつたのです」  探偵は庭を横切つて鉄門から外へでた。それから三日の間フロビッシャーは彼の姿をみなかつた。三日目に警察署の部屋で彼にあつた。  探偵はフロビッシャーが書いた覚書をひろげて、 「あなたはこゝにこんなことを書いています。読んでごらんなさい」  覚書を前へ突出して、ある部分を指で示した。 [#ここから2字下げ] 「だが夫人の屍体を解剖しても、毒藥のあとを発見することが出来なかつたのだから、次の二つのことがない以上、犯人を挙げることは困難である。 [#ここから3字下げ] (イ)自白。 (ロ)同じ種類の第二の犯罪。 [#ここから2字下げ]  アノーの説によれば、毒殺者は第二の犯罪を行う」 [#ここで字下げ終わり]  フロビッシャーが読み終ると探偵が続けた。 「ここに書いてあることは本当です。私はこんな困難な事件にあつたことはない。具体的なものを掴みかけたかと思うと、すぐ指からすつぽり拔けてしまうのですからね。こんどはクラーデルからすべての秘密を聞くことができるだろうと思つて訪問すると、そのクラーデルが我々の到着するほんの五分間前に殺されている。なにか手掛りになるような知らせが得られるかと思つて、パリの商会へ手を廻してみると、その商会はもう十年も昔になくなつているのです。私はいつも雲ばかり掴まされた。そこで一つの冒險をやつてみることにしたのです。冒險というのは可笑しいですが、とにかく一つの予想に向つて全力を集中してみたんです。それがなんだか云つてみましようか? ルヴェー夫人の夜会があつた晩、私はアンがプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊へ帰ることだけは知つていたが、じつのところは生きて帰るか死んで帰るか知らなかつた。たゞ多分生きたまゝ連れて帰られるだろうと思つていたぐらいのものです。たゞひとつ確信していたことがあります。それはアンの屍体の隱場所としてはあの家の台所の敷石の下が一番よいと云うことです。それからも一つはサイドカーのトランク、見張りに出した巡査が、エスピノーザの弟がトランクをのせて出発したと報告して来た時には、私はそのトランクがアンと同じ重みのあるものであることを疑わなかつたです」 「トランクにどんな意味があるんです」フロビッシャーがきいた。 「時間を測つたんですよ。プレビザール莊とテルゾンの谷間との距離は二十五キロですが、細い道がいたるところで曲りくねつているのです。だからサイドカーに重みがあるのとないのとでは、そこに大変な時間の差ができてくるのです。彼らはアンのためにあまり長い時間を費すと、あとで問題になつたとき困るので、なるべく早くアリバイを作るために、ほかの人たちに顏を見せたかつた。だから一刻の時間も逃すまいとしたのです。犯罪というものはアリバイがあまり完全すぎて、却つて疑われて発見されることがよくあるものです。とにかくあの晩アンさんがプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊へ連れて帰られることだけは分つていました。分らないのは生きて帰るか、死んで帰るかの問題です。屍体となつて帰るようなことはないだろうか? ところがその可能性はたしかにありました。矢の毒劑を使つて殺せばわけなく殺せます。格闘の必要もなければ、血を流す必要もない。ちつとも手がかからないのです。だが私は多分ルヴェー夫人邸でかの女に麻醉劑をあたえて半ば睡眠状態にして連れて帰るだろうと思いました。また実際あとから分つたところによれば、彼らはその方法を選んでいたのです。私はこの投機的な冒險に一晩中不安を感じていました。そしてあの闇のなかの細長い部屋の窓際にかくれて、オートバイの音を聞いたときには、実際はら/\しましたよ」  いま現に危險を感じているかのように、彼は不快らしく肩をゆすぶつた。 「とにかく私は冒險をやりました。そしてこの覚書に書いてあるところの、(ロ)の條件、すなわち、『同じ種類の第二の犯罪』を見ることができたのです」  フロビッシャーが頷いた。 「だが今では(イ)の『本人の自白』という條件もみたされました。女中フランシーヌ、エスピノーザ兄弟、ジャンヌ、[#「エスピノーザ兄弟、ジャンヌ、」は底本では「エスピノーザ兄弟 ジャンヌ、」]秘書テヴネー、これら一味の者の供述は動すことができません。いままでは私の仕事だつたが、これから先はあなたや公証人ベーさんの仕事です。いままでは誰が犯人か調べていたが、これからは犯人を裁判するのが仕事です」  フロビッシャーは[#「フロビッシャーは」は底本では「フロビツシヤーは」]なにか云おうかと思つたが、また思いなおして、 「そして?」とうながした。 「ベッティーがなぜ無名の手紙を書くことを思いついたか、それは誰にだつて分らぬ問題です。が恐らくこれはワベルスキー[#「ワベルスキー」は底本では「ワベスルキー」]も云つたように、美しくて熱情的な若い女が、單調な田舍町の生活にあいて、退屈まぎれに思いついた惡戯でしよう。生れつき変質的な素質があつたものが、成長するにしたがつて芽をふきだして、一度無名の手紙を出して快感を感じたら、その味が忘れられぬようになつたのでしよう。そのうちにかの女は、夫人の病室の箱の中から、パリ、バリチニョール街のシャペロンという建築家の書付を発見しました。フロビッシャーさん、宝物室の封印を破つて捜索したときに、煖炉の灰のなかから、燒残りの書付が出てきたのは、あなたも覚えているでしよう。あれは宝物室とプレビザール莊との間の拔道を修繕させたときの、十年も前の書付です。その書付を見て彼女は秘密のトンネルのあることを知つた。長いあいだ空家となつているプレビザール莊は、秘密の隱家としては最上の場所だつたので、かの女はそこで古いタイプライターでつぎからつぎと無名の手紙を書いて遊んでいたのです。そしてしだいに同志を集めました。女中フランシーヌ、秘書テヴネー、ジャンヌ、クラーデル、これらはなくてはならぬ人物となりました。かれらの女王だつたベッティーは、そのうちかれらのために物質の援助をしなければならなくなつた。そこではじめには無邪気だつた無名の手紙が、ついには脅迫の怖ろしい手紙になつたのです。そしてテヴネー[#「テヴネー」は底本では「テブネー」]には情婦、エスピノーザには自動車と家、ジャンヌには贅沢品をあてがつた。テヴネーはディジョンの警察方面のことに詳しく、ジャンヌは保險会社員の親友だつたので、いろんな方面へ手紙を出すのに都合がよかつた。だがそのうち次第に手紙を送るべき金のありそうな相手がディジョンに無くなつてしまつたのです。ところがテヴネーがよい相手を思いつきました。それを誰だと思います?」  こゝまで聞いてもフロビッシャー[#「フロビッシャー」は底本では「フロビッシヤー」]には、その相手が想像できなかつた。 「なあに、ハーロー夫人ですよ」探偵が説明した。そして面喰つているフロビッシャーを見ながら続けた。「ハーロー夫人もアンとおなじく、ベッドで夕食を食べている時に無名の手紙を受けとつたのです。看護婦はその時のことをよく覚えていますが、つまりその手紙は、ハーロー氏夫妻が結婚前に取交した手紙を脅迫の種にして、多額の金を要求したものです。ところがあなたも意外に思うでしようが、夫人は食事がすむと、その手紙を看護婦に見せたばかりでなく、舞踏服を着て入つてきたベッティーへも見せたのです。ベッティーもこれには胆を冷したことでしよう。私も看護婦の陳述を読みかけて、途中でやめてベッティーに罠をかけましたが、あのときベッティーが眞つ青になつたのも無理はなかつたのです」 「でも不思議ですね」フロビッシャーが遮つた。「そんな手紙を夫人が看護婦に見せたり、ベッティーに見せたりしたのに、なぜ看護婦の陳述書のなかにその手紙のことが書いてなかつたんでしよう。なんの必要があつて、その無名の手紙のことを秘密にしたんでしよう?」 「それは看護婦が慎しみ深い善良な女だからです。かの女は夫人の死を病死といまでも信じているくらいの女です。ワベルスキーの起訴なんか頭から信じていません。そればかりか、かの女はベッティーにむいて、夫人が恥ずべき手紙を受取つたことなぞは、誰にもいうなと忠告したぐらいの女なんです」  フロビッシャーは暫く考えていたが、 「なるほど、そんな女ですか」と頷いた。  探偵は話をつゞけた。 「さていよ/\四月二十七日の夜の秘密ですが、ベッティーはプイラック氏邸の舞踏会へ行き、アンは自分の部屋へしりぞき、看護婦も夜のつとめを終ると自分の部屋へしりぞいて、あとはハーロー夫人が一人きりになりました。一人になつた夫人がなにをしたと思います? 酒を飮んだでしようか? いや、いや、その晩にかぎつて夫人は一滴の酒も飮まなかつた。彼女は一人でベッドのなかで無名の手紙のことを考えたのです。自分とハーロー氏が結婚しないまえに取交した手紙が、いまでも残つているだろうか。自分ではたいてい破りすてたように今まで思つていたが、それが何処かに残つていはしないだろうか。かの女もやつぱり女です。大部分の手紙は破りましたが、少数の手紙は破るにしのびないで持つていました。では、それは何処にしまつてあるだろう。なあにしまつてあるとすれば、秘密のトンネルの向うのプレビザール莊だ。あすこよりほかに隱すべき場所はない。――こんなことを夫人は考えたに違いないです。そしてベッドからむつくり起上り、ガウンをひつかけ、靴をはき、寢室と宝物室の中間のドアー、そうです。このときはじめて幾年ぶりかに寢室と宝物室との中間のドアを鍵であけて、久しぶりに、まつたく久しぶりに宝物室へはいり、そこからトンネルをくゞつてプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊へ行つたのです。そこで夫人はなにを発見したと思います。空家になつているとばかり思つていた部屋には、毎日ひとが住んでいるらしい模樣がある。むかし自分が使つていたテーブルの上には、ハーロー氏が生前使つていた古いコローナのタイプライターがおいてあつて、そのそばに無名の手紙の屑がうずたかく散乱しているのです。その部屋へ入り得る人間は一人しかいないはず、それはハーロー夫人が亡夫の姪として可愛がつていたベッティーです。その夜十一時頃、女中は病室へ入りつゝある夫人の姿を見て驚きました。女中はたぶん夫人が大酒でも飮んだのだろうと思いました。だがそう思つたのは一瞬間のことで、夫人は女中の姿をみとめると、寢ないで玄関に立つていて、ベッティーが帰つたらすぐこゝへ来るように云つてくれと命じたのです。女中フランシーヌはそれで二時頃まで暗い廊下に立つて待つていました。そしてベッティー[#「ベッティー」は底本では「ベッティ」]が夜会から帰つてくると、夫人が待つていることを告げたのです。このときまだベッティーも女中も二人とも、自分たちの怖ろしい罪を発見されたことを知らずにいたのです。けれども夜遅く伯母に呼ばれたので、これはたゞごとでないと覚り、ベッティーは女中を廊下に待たしておいて階上の自分の寢室へ上りました。かの女は火を弄びながらも、火に燒かれたくないと思いました。いつでも自分で自分の生命の始末ができるように、矢の毒を用意していたのです。で、その注射針を掌にかくし、そのうえから手套をはめて夫人の寢室へおりて行きました。その時夫人が、自分の過去のロマンスと悲劇を喰物にせられた夫人が、どんなに怒つたか、大抵想像できましよう。また激しやすい少女が、あまり罵倒されるので、自分の生命を絶つためにもつてきた注射針を急に相手に向つて利用する気になつた、その心理の変化も想像できましよう。相手の伯母を殺しさえすれば、自分の名譽も、地位も、富も、自由に得られるのです。たゞ急がなければならぬ。夫人の罵倒する声はだん/\高くなつてくる。騒ぎを聞きつけて看護婦が入つてくるかも知れないし、ほかの召使どもが目を覚すかもしれぬ。で、かの女は咄嗟に決心して、女中フランシーヌに夫人の口をおさえさせ、その間に夫人の体へ注射針を差込んだのです。そして、『これでよし』と呟いたのはむろんベッティー自身です。だが、そのとき、宝物室の入口の闇のなかに立つて聞いていたアンは、その声が誰の声であるか判断がつかなかつた。それは先日私が実驗したときに証明された通りです。低い声で呟く時には、遠方から聞いて男の声と女の声の判別ができるものではありません。たゞアンさんは怖ろしい声だけを深く記憶にたゝみこんだのです。そしてアンさんに立聞きされたことは、ベッティーも知らねば女中も気付かずにいたのです。二人は夫人を殺してしまうと、朝になつて他殺ということが発見されぬよう、部屋を片付けたり、夫人の姿勢をなおしたりして、その後始末がすむと、ベッティーが一人でアンの寢室へはいつて、アンが寢ているかどうか寢息を覗つたのですが、そのときアンが目を覚して、手をのばした拍子にベッティーの顏に触れたという順序です」アノーは椅子からたちあがつて、「これからさきはあなたや公証人ベーさんのお仕事ですね」  フロビッシャーはこの面会の始めに云いたかつたことを、やつといま思い切つて云うことにした。 「ベーさんに会つたら、あなたから聞いたお話をしておきましよう。私もベーさんに対しては出来るだけの援助はするつもりです。けれども私はもうベッティーさんの弁護をするつもりはありません」  当惑したように探偵は彼を見た。 「でもあなたの法律事務所の依ョ人だつたベッティーさんを、急に突放したりなんかなさるのもどうかと思いますが」 「いや、そんな訳ではありませんが、その、ベーさんの話によれば、本人も私にはもう会いたくないとか云いましたそうで――」  探偵は窓際へあるいていつた。悄気こんでいる相手の顏を見るのが気の毒だからでもあつた。そして優しい声でいつた。 「ベッティーがあなたに会いたくないという気持は分りますよ。あなたにだつて分るでしよう。あの女はこの一週間のあいだ、自分の名譽も、自由も、富も、それからあなた――これらのものを失うか得るかの境目に立つて戰つていたのです。正直にいゝますが、あなたはベッティーの周囲にむらがるほかの男とは違つています。あの女ははじめからあなたにたいして、厚意以上のものを持つていたのです。私たちが初めてグルネイユ莊を訪問したときのことはあなたも覚えているでしようが、あなたはベッティーにたいしてホテルを引拂つてグルネイユ莊に泊ることを拒んでいながら、アンにョまれるとすぐ承諾してしまつた。だから、あのとき、私を玄関に送つて出たベッティーの顏には、凄じい嫉妬が光つていたのです。それが私にはよく分つた。けれども私がそれを感じたことを、ベッティーに覚られるのが嫌だつたので、あの時ステッキを石段へ故意と落したのです。ベッティーがいまになつてあなたに会いたくないという気持はよく分ります」  フロビッシャーは、探偵といつしよにプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊へ忍びこんだ時、かの女が一度も自分のほうへ顏をむけなかつたことを思いだした。  たちあがつて彼が帽子とステッキをとつた。 「私は一度公証人に会うと、すぐ英国に帰つてハズリット氏にこのことを話しましよう。それはそうとアノーさんはいつ頃からベッティーに疑いを持ちはじめたんですか?」 「そのこともまだお話しなければなりませんがね、しかし私だつて始めから確信を持つていた訳じやないんです。まだあなたに話したいことが沢山あります。でもこゝではいけません」時計を出してみて[#「出してみて」は底本では「出しみて」]、 「もう十二時をすぎました。これからまた例の塔へ昇つて、はるかなモンブランの山でも見ましよう。この覚書を持つて行きましよう」 [#3字下げ]26 ノートルダム寺院[#「26 ノートルダム寺院」は中見出し]  二度目に塔へのぼつたときにも運がよくて、雲も靄もない日で、聳えたつ銀色の峰が、青い青い空に魔法のやうにはつきり浮びだしていた。アノーはその山からやつと目をはなすと、黒い卷煙草に火をつけた。 「この事件には二つの大きな過失があるんです。一つは事件の始めにベッティーが犯した過失、一つは事件の終りに私が犯した過失、そして二つのうちで、許しがたいのは私の過失です。まあ始めから順を追つて考えてみましよう。まずハーロー夫人が死んだ。これはみんなから病死と思われていた。そして埋葬されて、ベッティーが遺産をついだ。ところがワベルスキーが金をほしがつたので、かの女がワベルスキーを軽蔑した。けれども一週間たつと、彼女はワベルスキーを軽蔑したことを後悔しなければならなくなりました。なぜというにワベルスキーが爆彈を投じたからです。それを聞いたベッティーの心中の驚きを想像してごらんなさい。むろん世間の人はその起訴の出鱈目を笑うでしよう。けれどもそれはまた一方で事実だつたのです。つまり彼の起訴は偶然に当つていたのです。起訴と知つてベッティーが狼狽したのは無理からんことです。そこでかの女は檢事のもとに呼ばれて取調べた。取調べても証據がないんですから、ワベルスキーの負けになりました。だから、そのまゝで默つていれば、すくなくともベッティーは不幸を見ずにすんだのです。けれどもかの女はそれからあとで一つの過失をやりました。それはアノー、私がパリから取調べにくるということを聞いて、默つていればいゝのに、わざわざロンドンのあなたのところへ電報を打つたことです」 「どうして電報を打つたのが過失ですか?」  とフロビッシャーがすぐにきいた。 「なぜというに、私はあの電報を見て疑いはじめたのです。私がディジョンへ行くことは秘密であつたのに、それがどうしてベッティーに知れたのだろうと。むろん私はディジョンの警察へも噂の出処を訊ねてみました。けれどもはつきりしたことは分りません。たゞベッティーという女を不思議に思いはじめたのです。そして我々がディジョンへ乘込むとすぐ、あなたは電報をアノーに見せたとベッティーに話しました」 「えゝ、話しました。覚えています。するとベッティーが弱つた顏をしました」 「私がディジョンに来ることをどうして知つたか、それをかの女は説明せねばならん羽目になつたのです。といつて、まさか秘書テヴネーにきいたとも云えない。だから私がかの女に向いて、あなたは無名の手紙を受取つたことがありますかと訊ねると――じつはそれを調べるのが私のディジョンへきた本当の仕事だつたのですが――そう訊ねると、かの女はすぐに、えゝ、アノーさんがパリからくると書いた無名の手紙を、日曜の朝うけとりました、と答えました。私はそれを聞くとすぐ、ベッティーが嘘を吐いているなと思いました。なぜというに、日曜の晩までは、まだ私がディジョンへ行くなんてことは全然問題になつていなかつたのですから、いくら無名の手紙だつて、日曜の朝そんなことを書くはずはないのです。ベッティーは袋の鼠になつた形です。そして私がその手紙を見せろと追求すると、かの女は破つたと云つて拒めば嘘を吐いていると思われるので、その無名の手紙は封印した部屋のなかにあると答えたのです。封印した部屋にあると答えておけば、すぐ見せる必要はないし、またその間にこつそりプレビザール莊で手紙を書いて、拔道を通つて宝物室へ持つて行くことが出来るのです。けれども宝物室を封印したのは日曜の朝ですから、その無名の手紙が宝物室にあるというためには、どうしても日曜の朝受けとつたと云わねばならなかつたのです。そう云つたかの女は、私がディジョンへ行くことが何時きまつたかと云うようなことは知らなかつたんですよ。つまり、かの女はちよつとした過失から、嘘を吐いていることを私に見破られてしまつたのです。そして私はこの時からベッティーという女を怪しみはじめたのです」  こゝまで説明して探偵は口を噤んだ。  それはフロビッシャーが恐怖にみちた眼で彼を見たからである。 「では、あなたにあの女を疑わせたのは、私のようなものですね? あなたに電報を見せたのは私ですから。私はあの女を保護するために来たのに、それが却つて――」 「いや、フロビッシャーさん、御安心なさい。あなたが惡いわけじやない。もしあの女が本当に潔白だつたら、電報を見せようと見せまいと、構わなかつた訳ではありませんか」  探偵が重々しくいうと、フロビッシャーは默つてしまつた。 「そして初めてベッティーに会つたあとで、あなたがたが話しているまに、私は一人で階上へあがつてみたんです」 「そう」 「そしたらアンの部屋に面白いものがあつたのです。それが何だかわかりますか?」  探偵は自責の念に苦しんでいる相手の気を外らそうとしてこんな謎をかけた。そして探偵の意図は成功した。 「分りました。ストロファンストの本でしよう」フロビッシャーが微かに微笑んだ。[#「微笑んだ。」は底本では「微笑んだ」] 「そうです。毒矢の本です。屍体になんの痕跡ものこさぬ毒矢の本です。私はあの毒矢のことは昔から知つていたので、これを最初に利用する人間は誰だろう? もしこんな殺人ができたら、どうして証據をあげようと、平常から考えていたのです。ところがこんどはからずも、ハーロー夫人が死んだ同じ屋敷の一室に、その本が他の雜誌といつしよに積み重ねてあるのを発見したのです。吃驚しましたよ私は! どうしてこんな本がこゝにあるのだろう? 誰が持つてきたんだろう? 私はぱら/\ページをめくつてみた。ところがペンで註が入れてあつて、毒矢がハーロー家に一本あることが書いてある。私は無名の手紙のことなぞはすつかり忘れて、この事件に興味を持ちはじめました。ことによるとワベルスキーの起訴が本当で、夫人の死は他殺かも知れぬと思いはじめたのです。では犯人は誰だろう? 私はその本をチョッキの下に隱して階下へ降りました。アンという女は毒矢の話に興味を持つだろうか? かの女は夫人の死から何等かの利益を得るだろうか? それともかの女は自分の部屋のテーブルの上にそんな本があることを、全然知らずにいるだろうか?  私はこれらのことを知りたいと思いましたが、知ることが出来ませんでした。たゞベッティーが妙な目付でアンを見るのを認めただけです。私はその時、これはいよ/\ベッティーという女は普通の女でないと思つたのです。そしてベッティーに対する疑惑を一層深めながら、グルネイユ莊を出ました」  フロビッシャーは探偵と並んで腰かけて、「その時からベッティーを疑いはじめたとおつしやるのは本当ですか?」眞顏になつてきいた。 「本当です」 「でも、あの日、グルネイユ莊を出られると、あなたは鉄門のそとに立たせてあつた見張巡査を立去らせたとおつしやるじやありませんか」 「あれは家の中の者を疑つていないから立去らせたのではなくて、反対に、家の中の者を疑つているから立去らせたのです。あんな白ズボンの制服巡査が何になります。家のなかの者を監視するには、あんな者はいないほうが都合がいゝのです。見張巡査を立去らせたかわりに、巡査モローに平服を着せて尾行させました。すると、あの日の午後、あなたがホテルから荷物を運んでいる留守に、ベッティーが家を出たので、すぐモローが尾行したのですが、残念ながら途中で見失つてしまいました。無理はないんです。あまり近よるわけに参りませんからね。しかしベッティーを見失つたのはプレビザール莊の近くですから、いまから考えてみると、我々が入つたあの裏門からプレビザール莊へ入り、そこで恐らく私に示すべき無名の手紙を書いたのでしよう。とにかくかの女は一時間後にほかの街に姿を見せました。その日の午後、私はベッティーの交友を調べてみましたが、どうもエスピノーザ兄弟だの秘書テヴネーだのジャンヌだの、ろくでもない胡散臭い人物ばかりなのには驚きました」  フロビッシャーは頷いた。彼もベッティーがエスピノーザのような人物と交際しているのをみて、不審に思つたことがある。 「あなたがグルネイユ莊の涼しい庭で愉快に談笑しているあいだに、私はエディンバラの教授が書いた本を熱心にしらべました。そして一つの罠を思いついた。そして翌日の朝はやくグルネイユ莊を訪問して、その罠を掛けときました。つまり矢の本を本棚の見易い処に突込んでおいたのです」  こゝで探偵は例の青い紙箱から黒い卷煙草をだして、相手にもそれを一本すゝめた。 「それから私たちは、ワベルスキーの口から不思議な話、すなわちベッティーがガンベッタ街の藥屋を訪問したという実に奇怪な話をききましたが、これはワベルスキーがことによると自分でもはつきりしないことに尾鰭をつけて話したかもしれません。けれども彼の話は、私の仮定とぴつたり符合するのです。ベッティーが毒矢を使つたとなればそれを溶液にする必要があつたに違いないのですからね。あの女に対する私の嫌疑はいよ/\深くなりました。それからワベルスキーが帰ると、私は二人の女に向いて罠をかけました。本棚の毒矢の本を指差しながら、あの本は昨日あすこになかつたのにそれが今日はもどつている、誰がもどしたのだろう、とたずねてみたのです。するとアンは不思議そうな顏をしましたが、それはかの女が何も知らない証據です。かの女が何も知らないということは、あのモンブランの山を見るようにはつきり私に分りました。ところがベッティーは本を戻したのが私であるということをすぐ覚りました。その覚つたことを皮肉で現わした、かの女は、私があの本をアンの部屋で発見して、それを朝になつて図書室へもどしたことをよく知つているのです。だからかの女は、私がそんなことを訊ねても、ちつとも驚かなかつた。ではベッティーは何故アンの部屋のなかの雜誌の堆積のなかにそれを突込んでおいたか? そこまでは私にも分りませんが、多分、もし嫌疑がかゝるなら、その嫌疑をアンのほうへ向けたいと思つたのでしよう。潔白な女はそんなことを考えるものではありません。それから私たちはお庭へ出て、木蔭に腰かけてアンの話を聞きました。あの話を聞いたあとで、私はあなたにむいて世界の有名な犯人はみな芝居が上手だといつたはずです。庭に坐つてアンの話を聞いていた時のベッティーほど上手な芝居をした者を、私はまだ見たことがないです。まア考えてごらんなさい。自分で残忍な殺人を犯しながら、その話を第三者の口から聞いていなくちやならんのです。しかも目の前に探偵がいるのです。あの靜な庭でアンの話を聞いていた時のベッティーの心状を想像してごらんなさい。話がすむまでかの女は手に冷汗を握つていたに違いない。――アンの物語の結末はどうなるのだ? アンは最後に宝物室から病室を覗くだろうか? そして自分の姿を見るだろうか? いままではアンも眞の犯人を知つていながら默つていたけれど、もう探偵とフロビッシャーの前だから安心だと思つて、まるで眞実を喋つてしまうだろうか? アンの次の言葉は、こゝにいるベッティーが眞の犯人です、というのではあるまいか? ――こんなことを考えながらベッティーは気を揉んでいたに違いないのです」 「それでもあの女は心配しているらしい顏をしませんでしたね」 「もつともベッティーは用意だけはしていました。話の途中で家へ走つて帰つたでしよう?」 「あのときアノーさんは家へ帰るのを引止めようとなさる身振りでしたが――」 「そうです。じつは引止めようと思つたのです。けれどもあまり早くベッティーが飛び出したので、引止めるまがなかつた」 「そしてまた庭へ帰つてきたときにはハーロー夫人の写眞をもつていました」 「ところがベッティーがもつてきたのは、写眞だけではなかつたのです。あの女はアンの話を聞いているあいだ、手にもつハンケチをじつと見つめていましたが、アンが殺人の時刻を十時半だと断言すると、安心して気が緩んだのか、それとも驚いたのか、手にもつていたハンケチを芝生のうえに落しました。ハンケチを拾つたあとでも、その跡の芝生をじつと靴で抑えて放さないのです。話がすんでみんな家へ帰るときに、全身の重みをその靴に加えて芝生を踏みにじりました。私は芝生のうえにベッティーがなにか落したにちがいないと思つたので、後戻りして見るためにわざと椅子のうえに手套を忘れて帰りかけたのです。けれども後戻りしないうちに、ベッティーが走つて行つて手套を取つてきてくれたので、この計画は駄目になりました。しかし私は署長やあなたが図書室で待つているあいだに、一人でそこへ後戻りして、芝生の上に踏みにじられた物をみました。それが警察署であなたに見せた青酸加里の錠剤です。かの女はアンがどこまで突込んで話すか想像がつかなかつたし、それかといつて毒矢の溶液はプレビザール莊においてあるので、毒矢より一層効果のはやい、口に入れるとすぐ死ねるところの錠剤を写眞といつしよにもつてきて、いつでも自殺できる用意をしていたのです。そのときのベッティーの顏は蒼ざめていましたが、無理からんことです。いまから考えてみると、よくもあの時かの女が気絶して椅子から轉げ落ちなかつたものだと、感心するぐらいです。またいゝますがね、潔白な女は自殺の用意なんかしませんよ」  この言葉にたいしては、フロビッシャーも異議をとなえることができなかつた。 「なるほど。クラーデルという藥屋があるんですから、そんな劇藥を手に入れるのは容易だつたでしよう」 「さて、それからいよ/\部屋の封印を切るという段取りになつたんですが、そのまえに一同晝食のため解散しました。この解散のあいだにベッティーがなすべきことが沢山あつたのです。まず煖炉棚のうえの時計を寄木細工の戸棚のうえに移さねばならぬ。それから手紙の束を燒かねばならぬ」 「なぜですか?」 「手紙の束を燒いたという事実は分つていますが、なぜ燒いたかという理由は、たしかには私にも分りません。が、恐らく結婚前のハーロー氏と取交した手紙には、秘密の拔道のことが沢山書いてあつたのではないでしようか。とにかく私はあの晝食の時間に、宝物室とプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊との間に拔道があることを知つたのです。それは巡査モローに女を尾行させて分つたのです。巡査はこんどは女は確にプレビザール[#「プレビザール」は底本では「ブレビザール」]莊へ入るのを見とゞけました。そして私はこの塔から宝物室の煙突の煙を見たのです。ごらんのとおり、今日はあの煙突から煙が出ていないでしよう?」  モンブランに背をむけて、グルネイユ莊のほうへ眼を移すと、小さい家々にとりかこまれた建物は、黒々と繁つた大木のなかに、模樣のある黄色い急な屋根を光らせて、煙は建物の隅の台所の煙突から出ているだけで、そのほかの煙突からは少しも煙が出ていない。「それから午後になると一同が集つて部屋の封印を切りました。ところが私たちが夫人の寢室にいるあいだに、ちよつと不思議なことが起りました」 「そう、頸飾が失くなりました」フロビッシャーが確信を持つて云うと、探偵が面白そうに笑つた。 「こんどは私が掛けた罠にあなたが掛りましたね。頸飾ですか? なるほど、それも不思議な事件には違いないです。ベッティーは矢の本をアンの部屋に隱すだけでは気がすまなかつた。犯罪の動機を作らねば筋道がたゝぬ。アンは貧しくても、夫人が死んだからといつて何か分けて貰えるわけではない。そこでベッティーが頸飾をかくして、アンが盗んだように見せかけたのです。それも不思議な事件には違いありません。けれども、私があのとき不思議に思つたのは、もつとほかのことです。ほら、私がベッティーと署長を看護婦の寢室へ行かせて、ベルの試驗をしたでしよう」 「えゝ」 「署長だけは試驗がすむとすぐ帰つてきた」 「えゝ」 「けれども署長は一人で帰つて来ました。これが私の腑に落ちないのです。ベッティーはどこへ行つただろう? 私はそれが不審でならないので、病室から宝物室へはいる前に、しばらく待つていたのです。するとかの女がこつそり帰つてきて、一同のなかに加わりました。」 「そうそう、あなたはあのとき宝物室の把手を握つたまゝ、この部屋はベッティーの部屋だから、ベッティーに立合つて貰いたいと云いましたね。私はあの時にはベッティーがいないことが、そんな大事件とは思いませんでした」  アノーは手を振つて、いかにも満足げだつた。それは長いあいだの苦心が報いられて、大作を仕上げたときの藝術家の悦びとおなじであつた。彼はみんなから作品を褒めてもらいたいのだ。 「宝物室の捜索はあなたも見ていて知つての通りです。しかしこゝであなたの覚書のなかの質問に答えておきましよう。あなたは轎の内部を調べなかつたのを不審に感じたらしいが、それには理由がありました。しつのところは、私は宝物室へ入ると一番に秘密の拔道を探したのです。それはすぐ分りました。隅の壁際に飾つてある轎です。だから轎のなかのクッションなどは、わざとはぐつて見なかつたのです。それはベッティーに無名の手紙を示されても、封筒のスタンプを見せろと突込まなかつたと同じ心遣いです。ベッティーのほうで、アノーを旨く瞞してやつたと喜ぶなら喜ばしてやつていゝのです。宝物室の捜索が終ると階上へあがりました。そしてアンの部屋へ入つてはじめて、私はベッティーが先に姿を見せなかつた理由を知つたのです」  フロビッシャーは目を見はつて彼を見ながら、 「なぜそんなことが分りました? 私はアンの部屋へ入ると毒矢の軸でつくつたペンで覚書を書きました。ベッティーが姿を見せなかつた理由が、そのあいだにどうして分つたのです?」 「そのペンですよ。あのペンは前日私が本を探した時には部屋になかつた。あるのはたゞ若い女がよく使う馬鹿げた赤い鵞ペンだけでした。だから毒矢のペンは、それ以後に持つてきたのです。ではいつ? むろん、いまです。いまに違いない。では毒矢の軸はそのときまでどこにあつたのだろう? それは宝物室か、でなければプレビザール莊にあつたのです。それをベッティーが晝食の時間にとつてきて、着物のしたに隱していたのを、私たちが病室に集つている時刻を利用して、アンの部屋へ持つて行つたのです。アンに対する嫌疑をいつそう濃厚にしたかつたからであることは、云うまでもありません。調査を一通り終ると、私は公証人といつしよに帰りましたが、あの人は頸飾の入つたマッチを下水から発見した者もあるから、お前もそんな処を探してみろと忠告するんです。なるほど面白い考えには違いないが、私はそんな処を探さなくても、ほかに心当りがあつた。ほかでもありません。あなたとベッティーがドライヴしている間に、私は巡査モローと二人でプレビザール莊を探索して、テーブルの抽出のなかから、行方不明になつていた眞珠の頸飾を発見したのです」  フロビッシャーは塔のうえに立つたまゝ向きをかえた。そうだ、暗い熱情と、虚栄心と、勢力にたいする欲望とから起きた残忍な犯罪――そのすべての秘密が腑におちた。だがこの陰惨な物語には、一つの希望と明るい悦びもないだろうか? ふと彼は探偵のほうへむいて、 「あなたはさつき許しがたい一つの過失をしたと云われましたが、それはなんですか?」 「アンがどんな女か知りたければ、ノートルダム寺院の正面を見ろといゝました。あれが私の過失です」 「行つて見ましたよ」とフロビッシャーはグルネイユ莊の左にあるルネサンス式のお寺を指した。「あの寺の正面には最後の審判の恐ろしい浮彫がありました」 「そうでしよう」と探偵は頷いて、「しかしあれは聖ミシェルという寺です」  アノーはフロビッシャーの肩に手をかけて、モンブランのほうへ向かせた。すると塔のすぐしたのあたりに、まるで宝石細工のように綺麗なゴシック式のお寺が見える。 「ノートルダム寺院というのはあれですよ。なにが彫つてあるか行つてみましよう」  アノーは彼を案内して塔を下り、壯麗な寺院の正面に立つた。フロビッシャーがその正面の高いところを仰ぐと、半獸半人の惡魔や、げら/\笑う怪物や、頸をまげて後を振向く怪物や、想像のかぎりをつくした罪深い乱醉や恐怖が乱舞している。そのまんなかにたつた一人の少女が、美しい顏を悲しみと信仰に輝かして、しつかり両手を合して神にお祈りしている。怪物の群にとりかこまれたこの少女の憐れな姿は、見る人の同情を唆らないではおかなかつた。 「これをあなたに見せたかつたのですよ。けれどもあなたは見なかつた」  嚴粛な句調でこういうと、アノーは急に親切な顏を輝してちよつと帽子をとつて会釈した。  しばらく讃嘆の目を見はつてフロビッシャーが浮彫を仰いでいると、ふとうしろのほうからアンの声がして、 「で、アノーさんはこの妙な浮彫を、どうご解釈なさいますの?」  いつのまにか二人のそばにアンが立つていた。 「それは、アンさん、私にきかずにフロビッシャーさんにきいてください」  こうアノーが云うので、二人が彼のほうを振向いたのであるが、もう彼の姿はそこに見えなかつた。 底本:「矢の家」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS No120、早川書房    1957(昭和32)年1月31日発行 ※底本は新字新かなづかいです。なお拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。