吾等の一大損失 甲賀三郎著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)態《わざ》と -------------------------------------------------------  小酒井不木氏の突然の訃報は、私に非常な衝動を与えた。私は今までに幾度か先輩知人の死に遭遇しているが、これほどの衝動を受けた事はない。訃報を聞いた時に、顔色の事は分らなかったが、吾ながら声音が異様に響いた事を感じたのだった。そして、第一に考えた事は、我田引水的な考えかも知れないが、探偵小説界、惹いては吾等の一大損失だと云う事だった。  私は一度しか氏に会っていない。昨年の二月だったか、名古屋で放送する事になったので、氏を訪ねたいと書き送ると、忽ち氏から電報が来た。驚き怪しみながら開いて見ると、名古屋に着く時間を知らせよと云うのである。私は遠慮して未定と答えて、態《わざ》と知らせなかったが、もし知らせたら、無論氏は病弱の身体を押して停車場まで、迎えに来て呉れるのだった。その時は、放送局まで迎えに来て、手厚くもてなされたが、平素不遠慮に氏の作品を批評などしていた私は、すっかり恐縮して終《しま》った。其の後、親戚の青年が愛知医大の入学試験を受ける時など、掻い所に手の届くように、いろいろと世話をして呉れた。全く、氏は寛容そのもののような人で、恐らく、氏が激怒したと云うような事は見た人はないだろうと思われる。もしそれ氏の徹底した親切に至っては、到底常人の真似られる事ではない。同時に、氏がいかに意志の人であったかと云う事は、闘病術を一読すれば明らかな事で、民が巴里の客舎で、瀕死に見舞われながら、自若としていた所など、読みながら思わず襟を正さずには居られない。  作家としての氏には私は些か不満を持っていた。その一つは、私は、氏のアブノルマルな作品にはどうしても親しめない事だった。例えば、復讐の為に患者の健眼を潰させたり、或いは自己の失敗を蔽う為に、胎児を食う話など、私のような気の弱いものは正視に堪えない。然し、今日の読書階級の少なからざる数はアブノルマルを欲し、而もその数が日を追うて増加する傾向があり、作家のうちにはアブノルマルな人間でなければ、作家たる資格がないとまで極言する人さえある。であるから、氏の作品に対して正視に堪えないのは、決して氏の欠点ではなく、私自身の弱点であって、寧ろ氏は啻《ただ》に勝れたる科学者であるばかりでなく、多分に芸術的な要素を持った探偵作家と呼ぶべきであろう。  氏に対するも一つの不満は、氏の批評の態度であった。氏は何故にもっと態度を明らかにして、敢然陣頭に立って、探偵小説の行くべき道を示し、指導者たるの意気を示さなかったか。返す返すも遺憾に思う。然し、最近には不木氏もこの事に気がついたと見えて、健康の恢復と共に、ボツボツ創作を始め、同時に森下雨村氏に探偵小説本質論を書きたいと洩らしたそうである。近頃漸く探偵小説時代が来ようとして、探偵小説界正に多事ならんとしている時に、天この才人に齢《よわい》を藉《か》さず、縦横にその筆を振わしめなかった事は、探偵小説界の一大損失であり、将に来るべき探偵小説長篇時代の盛況を見ずして逝いた小酒井不木氏は、誠に不運と云わねばならない。  さあれ、私は三月下旬湯ヶ原より氏にはがきを送り、氏の健康の恢復を喜び、四月中旬には是非氏を訪問する旨を伝え、その時は探偵小説界の諸問題につき、大いに論じ合おうと楽しみにしていたのだったのに、そのはがきが氏の病床の枕頭につくかつかないうちに、氏は忽焉として返らぬ旅に旅立って終ったのだった。人生無常とは云いながら、暗然たらざるを得ない。  ここに尽きざる哀悼の意を表しつつ、筆を擱く。 底本:「別冊・幻影城」株式会社幻影城    1978(昭和53年)3月1日発行 底本の親本:「新青年」1929(昭和4)年6月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。