わが父わが母及びその子われ 佐藤春夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)八鏡野《やつがの》と [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)益※[#二の字点、1-2-22] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)だん/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  ……私は父に鞭や杖で亂打されたことが幾度あるかわからない。父は激情的な、それに理想家肌の人であつた。さうしてその子がだん/\父の氣に入らなくなつて來たのである。  私がそんな不良兒になるのは、父に言はせると母があまり甘やかしすぎるからだと言つてゐた。  實際、私は母の鍾愛の子であつた。二人の弟がありながら私は中學へ入學をする時まで母の傍で寢た。母とならばいくらでも口を利いたけれども、その他の人間となら誰にもものを言ひたくなかつた。父に向つてでもさうである。父がすこし何か言ひかけると私はすぐに泣けて來た。父が私にやさしく話しかけた時にでもさうなのだから困つた。父も私があまりなつかないので閉口してゐるらしかつた。そんな風にして少し大きくなつてみると、私は十三四五ごろから性質ががらりと激變してしまつた。文學熱が嵩じたのもこれと同時である。  手がつけられなくなつた息子を、母の方ではまた母で、父のせゐにしてゐた。といふのは、私が生れた前後には、父は旅の南畫家だの俳諧師だのを家に留めたり友達にしたりして、風變りな人間とばかりつき合つたものだから、さうして父自身でもそんな用もない風變りなことを好くものだから、母の言ひ方だと、私にまでもそんな風變りなことがうつ[#「うつ」に傍点]つてしまつたのだといふのである。  全く私は自分のなかに父の血を澤山持ってゐることに、今氣がつく。風貌から言つても私は、私の年ごろの父にそつくりだし、――人々がさういふしまた寫眞などを見てもわかるし、いや、ごく近年私は父その人と間違はれたことさへある。音聲ならば、二階で口を利いてゐると私の聲と父のものとを母でさへも區別することが出來ない。外貌ばかりではない。物好きで、さま/″\な無用[#「無用」に傍点]な事物に趣味を持つことも私は父に似てゐる。書畫や古器物、さま/″\な動植物。父は鶴を飼つてゐたこともある。父のいふところによると、音曲を學ばなかつただけでその外のことは何でもやつてみたらしい。獵銃も持つたことがあるし、馬に乘つたことがあるし、寫眞術にも凝つてゐたし、舶來のごく當初に自轉車をも愛好した。父は二十歳になる前に醫者の免状を得たので早く自立して、その爲めに年少の好奇心が動くままにそれを滿足させたものらしい。分家して父祖から何ものをも受けなかつたために乏しいなかからの道樂で、從つて眞に好きであつたと言へるだらう。父は東都遊學の資金のうちから僅に文人畫をあさつた程である。さうして當時、鴎外漁史の述作を讀み耽つたさうである。後年には漱石先生を敬して、親しく與へられた書幅扇子等を祕藏してゐる。  多趣味で、また多少うつり氣のやうではあるが、讀書と園藝と美術に對する愛好とは年とともに加はりつつあるやうに私には見える。父は「俗な」といふことをすべての非難の標準にしてゐる人である。さうして潔白が彼の道徳的理想であるかと思ふ。氣概を重んずる人であるが、一面妙な内氣で、つい二三年前に上京した時、母の話では、母は父と一緒に呉服屋などへ行くと品物を選ぶことが出來ない。折角、店にきちんと積んであるものをさうまぜ返しては氣の毒だと言つて、父は母に叱るからださうである。 「微醺を帶びるといふ言葉があるが、わたしは微愁を帶びてゐるのが反つて樂しい。樂しいといふのも何だかへん[#「へん」に傍点]だけれども……好きだ」  或る時、父がそんなことを話したのを私は覺えてゐるが、ヰリアム・クウパアの句に There is a pleasure in poetical pains, which poets only know とあるが、「詩的痛恨のなかには悦樂あり、そはただ詩人の之を知るのみ」。それならば私の父は詩人だと言へる。父は鏡水、後に梟睡、今は梟叟と號して、子規に私淑した俳人である。文字に對する敏感を持つてゐて、曾て私が窮乏して幽靈坂といふ地にゐたころ、父が私に與へた手紙の表には、その地名を必ず幽麗坂[#「幽麗坂」に白丸傍点]としか書かなかつた。  鏡水と號する由來は、その故家が八鏡野《やつがの》といひそのほとりに川があるが爲めである。鏡水の父は鏡村と號して又自ら鏡野隱逸とも名告つた。早世して鏡村詩集ー卷を遣した。私の家は、代々醫者であつてまた農夫である。小泉八雲ではないが、私の血のなかには父方にも母方にも商人の血は一滴もない。鏡村の父椿山は水野土佐守の典醫に召されたけれども、遂に仕官せずにただ村翁として和歌を好んだ。つぎ/\の詩魂は私の家の遺産である。天才は突發的なもので、遺傳するのはただ能才だけだといふ説がある。それなら私は何でもいい。ただ私はフレデリッヒ・ニイチェとともに祖先を誇るものである。 「子を看ること親に如かず」と私の父はよくさう言つた。さうして私を農夫にするのだと言つて、北海道の平原へ土地まで早くから用意して置いてくれた。私が後年人間よりも自然を愛するだらうといふことを父はよく知つてゐたのである。多分、父自身の性格に思ひ當るところがあつたのであらう。  詩魂は、前にも述べたとほり私は父から得た。しかし父は私を詩人にするつもりはずつと後までなかつたのである。父ほど子供の教育に熱心な人は尠いだらう。私が科學的の素質や、また沈著の美徳や、物を整理することや、また理材の才能がないであらうことをとつくに見拔いて、父は私に動植物の採集蒐集やら、毎朝百字づつの習字やら、また養鷄によつてその産卵を材料にした實際的の算術やら、さうして毎夕、日記を記入することやら、そんなことを勉めさせたのに、私は全く一つとして成し遂げたものはなかつた。父が私に習字のために寫本させたのは菊池容齋が日本史中から選んだ勇士や、貞女や偉人や名家の畫像に記した文――あれは何とかいふ有名な本だ、ちよつと胴忘れしてしまつたが、(追記、「前賢故實」)さういふ書物の選擇にも、父の好尚や理想が窺はれる。父は又、私の情操の教育を決して忘れなかつた。夏の朝早く起こして私を神社の森に誘ふたり、僧院の池へ蓮の花の開くところを見せに行つたりもしてくれた。父はこのとほり私に片寄つた教育はしなかつたのに、私は持つて生れただけの人間にしか育たなかつた。さうして今も一介浪々の詩を好む窮措大である。  私は母に就てはあまり言はなかつたが、私は母をどんな人と述べることが出來ないほど愛してゐる。さうしてただわが母といふ言葉より外には言へない。私にはわからないが母はひよつとして私を、父の言ふとほり甘やかしすぎたかも知れないのだ。私は彼女の最初の男の子だ。しかし私は考へるのだが甘やかされた子供といふものはいつも詩人である。つまり詩人をつくる爲めには甘い母が必要なのだ。  私は母に抱かれて聞いたいくつかの傳説的な怪異な話を覺えてゐる。母は説話の上手な人である。また父が音讀するさま/″\な書物に耳を傾けて、その年輩の女性としては文學に興味を持つてゐる人である。えらい政治家の母になつても不思議ではないと同時に、彼女の夫によつては詩人の母になつても不思議のない女性である。私の父はその妻、――即ち私の母の世才と忍從の美徳にはひそかに畏敬し感謝してゐるだらうといふやうな氣がする。それにしても私は母から與へられた血はどうもあまり澤山にないやうな氣もする。ただ私の見かけによらないへん[#「へん」に傍点]に堪へ性のある頑健な體質は父と、さうしてより以上に私の母の賜である。私の母は三度も重病に犯されながら不思議に直ぐと囘復して、年とるとともに健康は益※[#二の字点、1-2-22]輝いてくる。私の母は精神的にも然うだけれども、肉體的にも、異樣に強い心臟を持つてゐるさうである。――あやかりたいものだ。  母に對する私の愛慕は昔から寸毫も衰へない。さうして父にたいする敬慕は近ごろになつて年々に加はる。所詮、父の愛は母のそれよりも、子供にとつていくらか理解しにくいものだからではないだらうか。近年、年とともに優しくなつた父は私の姉の子供などに對してこの上なく慈愛ある祖父である。私は偶※[#二の字点、1-2-22]歸省の折ふしなどにそれを見て、昔、私が少年時代にあれほど峻嚴だつた父を思ひ比べることがあるが、私は父に愛撫されず、叱り飛ばされながら成育したことを今は超理論的に妙にうれしく思ひ出す。  私は兩親にたくさんの心配をかけた子供だけれども、その點では兄弟中で人後には落ちないが、だから親不幸な子供だと人が私を言つたら私は必ず心中甚だ平でない。そのくせ困つたことに、私はまだ父母に、乃至一般の誰にもやさしい氣ごころをまともに示すことが出來ない氣質である。――かういふ呪はしい氣質は、父から得たのでも母からでもない。私に於て變種的に突發したものであるかも知れない……  父は私の書いたものは殆んど殘らず喜んで讀んでくれる。  いつか父は、母をとほして遠慮ありげに「剪られた花」を讀んでもいいかと言つて聞いた。私は考へてみて、「惡くはないけれども、まあおやめなさい」と答へた。  今までの私の作品のなかで、一番父の氣に入つてゐるのは多分「星」ではないかと思ふ。「田園の憂鬱」を原稿で讀んで、父はあの近代的神經衰弱を好ましくないやうに言つた。さうして 「わたしは支那流の耽美主義だ。たとひ地酒ばかり飮んでゐても、文學では山陽と一緒に、酒は灘の生一本でなきや口にしないと書く方だ」と述べた。以てその好尚が知れる。  酒と言へば父は若い頃に大酒をしたらしい。しかし、多分四十になつた時、子供たちも大きくなるからと云つて全く禁酒した。私にもさう言つて聞かせた時の光景を、私は今思ひ出した。 [#地から2字上げ](一九三八年七月十七日「新潮」) 底本:「世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集」平凡社    1962(昭和37)年11月20日初版発行    1964(昭和39)年5月4日4版発行 入力:sogo 校正: 2013年4月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。