梅田ホテルでの話 渡辺均著  去る一日のお昼、名古屋から電話がかかって、小酒井さんが歿くなったという。あまりの突然に、私は、しばらくは、呆然としていた。  丁度一ヶ月前の三月一日、その日に私は、久しぶりで大阪へやって来られた小酒井さんに会って、しかも、今年のお正月、名古屋で会った時よりも元気だった小酒井さんの姿を見て喜んだのであったことを思うと、まるで嘘のような気がしてならなかった。  その三月一日には、私がお昼頃、社へ出かけると、朝から四度も小酒井さんが梅田ホテルから私に電話をかけて来られたということだった。  私は、小酒井さんがそれほど幾度も電話を性急にかけて来られるのは、一体どんな急用があるのだろうかと思って、梅田ホテルは社のすぐ裏手なので、それから、すぐその足で飛んで行った。  ホテルへ行って見ると、小酒井さんは、奥さんも同伴だった。奥さんは、小酒井さんを置いて、これからどこかへ出かけられるところだった。  私は、幾度も電話をかけて来られたことについて、どんな急用かということを先ずたずねなければならなかった。  しかし、それは、何の急用でもなかった。 「どうもね、朝早くこちらへ着いたんで、所在はないし、話し相手がほしくて、社へ四度も電話をかけたのでした」  といって、それから例の、小酒井さん独特の笑顔だった。  小酒井さんの笑顔は、実に小酒井さん独特の笑顔である。  顔じゅうに、太い皺を幾条となく刻ませて、満面に笑いが溢れる。しかも、その次の瞬間に、その笑いの皺は、全部奇麗になくなって、キョトンとした真面目な顔に早変りするのである。  私が小酒井さんと相識ったのはまだ日が浅くて、足掛四年位にしかならない。  その足掛四年前、はじめて小酒井さんに会った時、先ず私を驚かせたのは、この瞬間的な笑いであった。そして、実のところ、何となく、馬鹿にせられたような感じでさえあった。  ところが、その後、何度もお会いしていると、私には、この独特な小酒井さんの笑顔が、実に懐かしくて嬉しくなったのである。というよりも、そこに小酒井さんの優しさと几帳面さとが一緒に籠っているのだと思うようになった。  梅田ホテルで、それからいろいろの雑談に耽った。  小酒井さんは、滅多に旅をしない人である。それは健康の都合からでもあったろうが、滅多に外へ出られない。 「今度は、久しぶりで大阪へ来たもんですから、この機会に家内にも心斎橋あたりを見せようと思ってね」  といっては、又、例の懐かしい笑い。  小酒井さんは、元気だった。  それから、つい先頃、私がある雑誌に、私の三高時代の思い出話を書いた中に、その頃三高でドイツ語を教えて貰った成瀬無極氏の話なども書いたのだが、小酒井さんは、それを読まれたと見えて、 「私も成瀬先生には習いましたよ」  といって、それから二人の会話は成瀬先生のことが中心になって行ったりした。(小酒井さんも三高出身である)  小酒井さんは、私よりも四年か五年ほどの先輩だということが、この時の話で分った。それから、暫く、その頃の三高の話や先生の噂などで、大分、話に花が咲いた。  実のところ、小酒井さんとの対話において、この時ほど話題が多くてそれからそれへとつきなかったことは、殆どこれまでにない位だった。  そして、小酒井さんは元気だった。  その小酒井さんが、僅か一ト月後の四月一日には、もう歿き人となられた。  名古屋からの電話を聞いて、私は、ただ呆然とした。  あの温厚にして謙譲、且つ物事にこの上もなく几帳面な小酒井さんは、もう、この世の人でないのである。悲しいことである。 底本:「別冊・幻影城」株式会社幻影城    1978(昭和53年)3月1日発行 底本の親本:「サンデー毎日」1929(昭和4)年4月14日号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。