生れ月の神秘 山田耕筰 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)當《あた》るも八卦《はつけ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|月《がつ》の星《ほし》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#中見出し]はしがき[#中見出し終わり] ------------------------------------------------------- [#中見出し]はしがき[#中見出し終わり]  當《あた》るも八卦《はつけ》、當《あた》らぬも八卦《はつけ》と、古《ふる》い諺《ことわざ》は申《もう》します。眞理《しんり》の中《うち》にも迷信《めいしん》があり、迷信《めいしん》の中《うち》にも眞理《しんり》は潜《ひそ》んでゐます。果《はた》して迷信《めいしん》か、果《はた》して眞理《しんり》か、それは保證《ほしよう》の限《かぎ》りではありませんが、ともかくも私一人《わたしひとり》にあてはめて、恐《おそ》ろしいほど的中《てきちゆう》する不思議《ふしぎ》さに、この「生《うま》れ月《づき》の神秘《しんぴ》」を筐底《きようてい》から取《と》り出《だ》して、世間《せけん》にその價値《かち》を問《と》ふことにしました。  世間《せけん》では洋行《ようこう》したとさへいへば、西洋《せいよう》かぶれのした人間《にんげん》と思《おも》ひきめてしまふ人《ひと》が多《おお》いと同樣《どうよう》に、西洋《せいよう》とさへいえば、物質文明《ぶつしつぶんめい》の光《ひかり》が洽《あま》ねくみちあふれて、暗《くら》い迷信《めいしん》のかげなど、藥《くすり》にしたくも見《み》られないやうに思《おも》つてゐる人《ひと》もないではありません。けれども物質文明《ぶつしつぶんめい》の裏《うら》にこそ、却《かえ》つて迷信《めいしん》の闇《やみ》があります。無智《むち》な先人《せんじん》の殘《のこ》した遺風《いふう》はもとより、新《あたら》しい科學《かがく》が生《う》んだ、新《あたら》しい迷信《めいしん》さへもがそこには潜《ひそ》んでゐるのです。  この「生《うま》れ月《づき》の神秘《しんぴ》」もその一《ひと》つといへばいへるでせう。幾度海外《いくどかいがい》の土《つち》に親《した》しんでも、西洋好《せいようず》きになれない私《わたし》、古風《こふう》な迷信《めいしん》や八卦《はつけ》から、逃《のが》れ得《え》ぬ私《わたし》が、彼地《かのち》で發見《はつけん》したのがこの書《しよ》の原本《げんぽん》なのです。つれづれの折々《おりおり》にその節々《ふしふし》をつたない筆《ふで》に譯《やく》し述《の》べて人《ひと》に見《み》せた所《ところ》、意外《いがい》にもてはやされましたので、おだてられるとは知《し》りながら、つひ世間《せけん》に發表《はつぴよう》して見《み》る氣《き》になりました。  先《さき》にもいふごとく、眞理《しんり》か否《いな》かは保證《ほしよう》の限《かぎ》りではありませんが、たゞこの書《しよ》の特色《とくしよく》を強《し》ひて求《もと》めるならば、ひろく古今東西《ここんとうざい》から材料《ざいりよう》を集《あつ》めて、これを統計的《とうけいてき》に研究《けんきゆう》し、何等《なんら》の先入見《せんにゆうけん》なしに、極《きわ》めて合理的《ごうりてき》な、歸納的《きのうてき》な決斷《けつだん》を下《くだ》した所《ところ》にあるといえませう。當《あた》る當《あた》らぬは第二《だいに》として、つれづれの折《おり》のおなぐさみにもなどと遠慮《えんりよ》しないで、百發百中《ひやつぱつひやくちゆう》の珍本《ちんほん》であると敢《あ》えて自畫自讃《じがじさん》して………… [#2字下げ]大正十四年六月九日 [#8字下げ]三十九回の誕生の日に [#20字下げ]山田耕筰 [#改丁] [#大見出し]一月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、生《うま》れながらに指導者《しどうしや》たり、思索家《しさくか》たるの素質《そしつ》を持《も》つてゐます。殊《こと》に、商業上《しようぎようじよう》の企業《きぎよう》には悉《ことごと》く成功《せいこう》します。  異常《いじよう》な活動家《かつどうか》で、不羈獨立《ふきどくりつ》の心《こころ》と、堅忍不拔《けんにんふばつ》の精神《せいしん》に富《と》んでをります。  よき外交官《がいこうかん》であり、よき著述家《ちよじゆつか》であり、よき教師《きようし》であると共《とも》に、公私《こうし》あらゆる種類《しゆるい》の委任《いにん》に耐《たえ》うるよき代理者《だいりしや》であります。  この月《つき》に生《うま》れたものは、男女《だんじよ》の別《べつ》なく、廣汎多樣《こうはんたよう》の交友《こうゆう》を得《う》るさだめで、轉地《てんち》や旅行《りよこう》を好《この》みます。  不撓不屈《ふとうふくつ》の働《はたら》き手《て》ではあるが、他人《たにん》に羈《つな》がれてゐる時《とき》よりも、獨立《どくりつ》の經營《けいえい》に當《あた》つて熱中《ねつちゆう》する傾《かたむ》きがあります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、一般《いつぱん》に親切《しんせつ》で、そのうへ善良《ぜんりよう》な性質《せいしつ》を惠《めぐ》まれてゐます。そして陽氣《ようき》なときには人一倍陽氣《ひといちばいようき》になり、なさけないとなると、とりたてゝいふほどの理由《りゆう》もないのに、氣《き》をひき立《た》てる術《すべ》もないほど沈《しず》んでしまふ傾《かたむ》きがあります。  こヽろ優《やさ》しく、忠實《ちゆうじつ》で、祕密《ひみつ》を好《この》み、一度交《ひとたびまじわ》りを結《むす》んだら、生涯離《しようがいはな》れるといふことはありません。  他人《たにん》をよろこばすに妙《みよう》を得《え》、非凡《ひぼん》な話上手《はなしじようず》です。  どれほど困難《こんなん》だと思《おも》はれるやうな仕事《しごと》にも屈《くつ》せず、成功《せいこう》するまでは何度《なんど》でも努力《どりよく》を繰《く》りかへさうとする、勇邁《ゆうまい》な心《こころ》に充《み》ちてゐるので、終局《しゆうきよく》においては必《かなら》ず出世《しゆつせ》します。  すべての金錢《きんせん》や仕事《しごと》の取引《とりひき》には用心深《ようじんぶか》く、約束《やくそく》はあくまで几帳面《きちようめん》に履行《りこう》します。  この月《つき》に生《うま》れた婦人《ふじん》は、瑣末《さまつ》な事《こと》にも倦《う》まぬ力《ちから》を與《あた》へられてゐますから、屹度《きつと》、立派《りつぱ》な教師《きようし》になることが出來《でき》ます。  生來《せいらい》の磁力《じりよく》によつて、知《し》らず識《し》らずのうちに周圍《しゆうい》の人々《ひとびと》を惹《ひ》きつけます。が、といつて故意《こい》にお世辭《せじ》をつかうことは大嫌《だいきら》ひです。  すべてを自己流《じこりゆう》にしたがる性向《せいこう》がありますが、その一方《いつぽう》には、強《つよ》い順應性《じゆんのうせい》が流《なが》れてゐるので、それがために物《もの》ごとを巧《たく》みに調和《ちようわ》して行《ゆ》きます。  ともすると引《ひ》つこみ思案《じあん》になり勝《が》ちで、あらゆる天賦《てんぷ》の才能《さいのう》と、非凡《ひぼん》なる力倆《りきりよう》とを、善用《ぜんよう》しつくすといふことは、滅多《めつた》にありません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、異彩《いさい》ある意匠家《いしようか》であり、帽子屋《ぼうしや》であり、ホテルや商店《しようてん》のよき經營者《けいえいしや》であります。一言《いちげん》にしていへば、他《た》の月《つき》に生《うま》れた人々《ひとびと》とは比較《ひかく》にもならぬほど、商賣《しようばい》にかけては、勝《すぐ》れた手腕《しゆわん》をもつてゐます。それゆえ獨立《どくりつ》して事業《じぎよう》を起《おこ》しさへすれば、間違《まちが》ひなく富《とみ》を重《かさ》ねます。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は、大商業家《だいしようぎようか》、大政治家《だいせいじか》、すぐれた支配人《しはいにん》、大事業《だいじぎよう》を設計《せつけい》する技師《ぎし》として名《な》を成《な》します。そして小成《しようせい》に安《やす》んぜず、いつも先《さき》からさきへと事業《じぎよう》を展開《てんかい》させて行《ゆ》きます。  この月《つき》に生《うま》れたものは、確乎不動《かつこふどう》のこヽろを養《やしな》ひ得《え》たとき、もつとも成功《せいこう》を收《おさ》め、もつとも幸福《こうふく》を味《あじわ》ひます。癇癪《かんしやく》を起《おこ》したりすると、自分《じぶん》ばかりか周圍《しゆうい》の人々《ひとびと》までも、悲境《ひきよう》に陷《おとしい》れることになります。  好《この》んであらを探《さが》す人《ひと》や、口《くち》やかまし家《や》にあふとすぐにめげる傾向《けいこう》がありますから、いつも、さうした苦手《にがて》を避《さ》けなければなりません。  野心家《やしんか》で、人《ひと》の上《うえ》に立《た》つことを熱望《ねつぼう》してゐます。  遊《あそ》ぶことが好《す》きです。また實際《じつさい》その生來《せいらい》のよき健康《けんこう》をいつまでも保《たも》つためにも、視界《しかい》や刺戟《しげき》の轉換《てんかん》が必要《ひつよう》なのです。  人《ひと》に頼《たよ》らうとはしないけれど、その獨立《どくりつ》のためにはかなりの外交的手腕《がいこうてきしゆわん》を弄《ろう》します。  性《せい》のいづれを問《と》はず、すべて一月生《いちがつうま》れのものは、次《つぎ》の一事《いちじ》を忘《わす》れてはなりません。――あなたがたは獨自《どくじ》の思想《しそう》をめぐまれてゐるのです。それゆえ、あくまでそれを獨自《どくじ》の方法《ほうほう》で追求《ついきゆう》こそすれ、決《けつ》して他人《たにん》の模倣《もほう》に走《はし》つてはならないのです。  あなた方《がた》こそ、そしてあなた方《がた》のみが、あなた方獨特《がたどくとく》の方法《ほうほう》で物《もの》ごとを行《おこな》ふことが出來《でき》るのです。そしてそれをこそ社會《しやかい》は要求《ようきゆう》してゐるのです。  自恃獨立《じじどくりつ》――これがあなた方《がた》の合言葉《あいことば》です。然《しか》し、失敗《しつぱい》といふやうな不快《ふかい》な言葉《ことば》を味《あじ》はうまいためにはそのうへにもなほ、あなた方《がた》の仕事《しごと》に十分《じゆうぶん》の準備《じゆんび》を怠《おこた》らぬやうに努《つと》めねばなりません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、大《おお》きな事業《じぎよう》を成《な》し遂《と》げるために生《うま》れてゐるのですから、貧富《ひんぷ》いづれに拘《かかわ》らず、みな、よき實業教育《じつぎようきよういく》をうけなければなりません。  よしや最初《さいしよ》の規模《きぼ》はどれほど小《ちい》さくとも、仕事《しごと》は必《かなら》ず獨立《どくりつ》で、着手《ちやくしゆ》しなければなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、轉《ころ》んだり、脛《すね》や、腰部《ようぶ》や、足先《あしさ》きなどを怪我《けが》しないやうに十分《じゆうぶん》に注意《ちゆうい》を拂《はら》わなければなりません。それから、殊《こと》に、胃腸《いちよう》を大切《たいせつ》にしなければなりません。  冬《ふゆ》の間《あいだ》は、十分暖《じゆうぶんだん》のとれるやうな、防寒衣《ぼうかんい》をとヽのえる必要《ひつよう》があります。  始終大規模《しじゆうだいきぼ》な事業《じぎよう》の計畫《けいかく》に心《こころ》を奪《うば》われて、ともすると身《み》のまはりのことなどは忘《わす》れがちなものですから、どうしたら人《ひと》に快感《かいかん》を與《あた》へるかといふことをよく研究《けんきゆう》し衣服《いふく》や髪形《かみかたち》に十分意《じゆうぶんこころ》をそヽがねばなりません。  この月《つき》に生《うま》れたものは、男《おとこ》も女《おんな》も、經濟《けいざい》の許《ゆる》すかぎりは、服裝《ふくそう》をとヽのへなければなりません。しかも生來《せいらい》、美術的《びじゆつてき》、技巧《ぎこう》の才《さい》をめぐまれてゐるのですから、すこし氣《き》をつかへば人一倍趣味《ひといちばいしゆみ》のいヽ風《ふう》をすることが出來《でき》るのです。威嚴《いげん》を保《たも》つうへからなるべくしつかりとしたものを着《き》る必要《ひつよう》があります。  一月生《いちがつうま》れの婦人《ふじん》は、白《しろ》い縞瑪瑙《オニツクス》、紅玉《ルビー》、月長石《ムーンストーン》か石榴石《ガーネツト》の、入《はい》つた指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきであり。男子《だんし》はそれらの寶石《ほうせき》のいづれかのスカーフ・ピンをさすべきです。これらこそ、あなた方《がた》の幸運《こううん》を導《みちび》き身《み》を守《まも》る守護《まもり》の石《いし》なのであります。  さうして、あなた方《がた》に一番見榮《いちばんみば》えのする色《いろ》でいちばんの幸《さいわい》を與《あた》へる色《いろ》は、暗紅色《ガーネツト》と樺色《かばいろ》と、銀色《ぎんいろ》と白灰色《はくかいしよく》、海青色《かいせいしよく》と黒色《くろいろ》とです。  男女《だんじよ》いづれを問《と》はず、この月《つき》の生《うま》れのものは若《わか》いうちに結婚《けつこん》すべきであり、人生《じんせい》の日《ひ》のまだあけきらぬうちに愛《あい》と結合《けつごう》とを固《かた》めておかねばなりません。  一月生《いちがつうま》れのものは、五月《ごがつ》か七月《しちがつ》、二月《にがつ》か十一月《じゆういちがつ》の生《うま》れの人《ひと》といちばん合性《あいしよう》です。が、しかし、この以外《いがい》の月《つき》に生《うま》れた人《ひと》でも若《も》し精神的《せいしんてき》な愛《あい》に目覺《めざ》めて、しかもお互《たが》ひに幸福《こうふく》になる爲《ため》に缺《か》くべからざるものである自制《じせい》の徳《とく》をわきまへてゐさへすれば、よい配偶《はいぐう》となることが出來《でき》ます。先《ま》づ自分《じぶん》に打《う》ち克《か》つて後《のち》に、他人《たにん》を統御《とうぎよ》することが結婚生活《けつこんせいかつ》に對《たい》して、殊《こと》に必要《ひつよう》であります。  最大《さいだい》の成功《せいこう》ををさめようとするならば、肝要《かんよう》な仕事《しごと》には、三月《さんがつ》か十一月《じゆういちがつ》に着手《ちやくしゆ》すべきです。一週《いつしゆう》のうちでは、火曜日《かようび》か土曜日《どようび》に始《はじ》めると、必《かなら》ず成功《せいこう》します。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、智力《ちりよく》のみが頼《たよ》るべきものではなく、それ以外《いがい》にもつと尊《とうと》い力《ちから》があるといふことを悟《さと》らねばなりません。  男女《だんじよ》ともに勇敢《ゆうかん》で、元氣旺盛《げんきおうせい》で、勤勉《きんべん》で、社會《しやかい》の缺陷《けつかん》を充《み》たすために進《すす》んで働《はたら》く人《ひと》とならねばなりません。  自由《じゆう》でしかも寛大《かんだい》で、他人《たにん》のあらを探《さが》すよりもその長所《ちようしよ》を認《みと》め、あらゆる社會《しやかい》の尊敬《そんけい》に値《あたい》するものとならねばなりません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、すぐれた健康《けんこう》を惠《めぐ》まれてはをりますが、強壯《きようそう》といふほどではないのですから十分自愛《じゆうぶんじあい》しなければなりません。  年中快活《ねんじゆうかいかつ》といふ方《ほう》ではありませんが、なるべく物事《ものごと》のよい方面《ほうめん》に目《め》をそそぐやうに修養《しゆうよう》すれば、憂欝《ゆううつ》に襲《おそ》はれることは殆《ほと》んどなくなります。  思《おも》つてゐることをあまり口《くち》にしないので、よく薄情者《はくじようもの》のやうに誤解《ごかい》されることがありますけれど、ほんとうに戀《こい》をするあかつきには、心《こころ》の底《そこ》の底《そこ》まで眞實《しんじつ》かぎりもない愛《あい》に燃《も》えます。  お世辭《せじ》などで左右《さゆう》されるやうなことは斷《だん》じてありませんけれど、さればとて正當《せいとう》な讃辭《さんじ》をうける事《こと》もいやといふのではありません。  進《すす》んで自分《じぶん》の短所《たんしよ》を反省《はんせい》し、それを矯正《きようせい》しようとする努力《どりよく》に缺《か》けてゐます。  善事《ぜんじ》に對《たい》する秀《すぐ》れた力《ちから》を持《も》つていながら、それを働《はたら》かすことを知《し》らないでゐますが、狹《せま》い自分《じぶん》の殼《から》を脱《ぬ》ぎ棄《す》てヽ、高《たか》い所《ところ》を目指《めざ》しさへすれば、十分《じゆうぶん》それを役立《やくだ》たすことが出來《でき》ます。  不遇《ふぐう》を歎《たん》じ悲《かな》しみの日《ひ》をすごすのも、理智《りち》ばかりを頼《たよ》りにして生《い》くればこそで、智力《ちりよく》よりも尊《とうと》い力《ちから》があるといふことを知《し》つて、萬人《ばんにん》に誠心誠意《せいしんせいい》をもつて對《たい》しさへすれば、天分《てんぶん》もあくまで發揚《はつよう》し幸福《こうふく》も味《あじわ》ふことが出來《でき》ます。  ともすれば引《ひ》つ込《こ》み思案《じあん》に陷《おちい》つて、才能《さいのう》を埋《うも》れ木《ぎ》にしてしまふ傾《かたむ》きがありますが、しかし、正《ただ》しく世《よ》に生《い》き名《な》を成《な》すがためには、勇猛心《ゆうもうしん》を大《おお》いに奮《ふる》ひ起《おこ》さねばなりません。  棟領《とうりよう》の適材《てきざい》に生《うま》れながら、四圍《しい》のものの止《や》みがたい推擧《すいきよ》に出會《であ》ふまでは、あへてその位置《いち》につかうとしない傾向《けいこう》があります。しかし、一生《いつしよう》を通《つう》じていちばん偉《すぐ》れた事業《じぎよう》は、人《ひと》の頭《かしら》と仰《あお》がれてから惠《めぐ》まれるのであります。  同氣相求《どうきあいもと》むるといふやうな快心《かいしん》の友《とも》に圍繞《いによう》されて、はじめて幸福《こうふく》になれる生《うま》れでありますから、なるべく孤獨《こどく》に陷《おちい》ることを避《さ》けねばなりません。  自分《じぶん》の殼《から》を脱《ぬ》ぎ棄《す》てながら、高《たか》いところを目《め》ざして進《すす》むやうになることは、容易《ようい》に出來《でき》ない傾向《けいこう》がありますが、それをそのまヽ打《う》ち棄《す》てておけば、「自分《じぶん》で自分《じぶん》の將來《しようらい》を創《つく》り出《だ》す」ことはいつまで經《た》つても出來《でき》ません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  一月《いちがつ》に生《うま》れたものは、怒《いか》りや嫉《ねた》みの情《じよう》に驅《か》られて、物事《ものごと》の判斷《はんだん》を誤《あやま》たぬやうに愼《つつ》しまねばなりません。  人《ひと》に悦福《えつふく》せられるのも、つり合《あ》ひのとれた人格《じんかく》ゆゑでありますから、この平靜《へいせい》を失《うしな》つてはなりません。  人《ひと》に對《たい》して疑《うたが》ひを見《み》せるやうな態度《たいど》をとることは、身《み》に不利益《ふりえき》を招《まね》くもとですから愼《つつ》しまねばなりません。  ともすればからだをいため勝《が》ちなほど、活動的《かつどうてき》なこヽろを與《あた》へられてゐるのですから、仕事《しごと》にこり過《す》ぎるやうな事《こと》があつてはなりません。  外形《がいけい》に捉《とら》へられて精神《せいしん》を輕《かろん》じてはなりません。これを怠《おこた》るとあたら天賦《てんぷ》の才能《さいのう》をも、もちぐされにしてしまつて、徒《いたず》らに低級卑俗《ていきゆうひぞく》な生活《せいかつ》を送《おく》らねばならないやうな事《こと》になります。  短氣《たんき》を愼《つつ》しまねばなりません。自己《じこ》の權利《けんり》を侵《おか》された場合《ばあい》には、大《おお》いに義憤《ぎふん》を示《しめ》すべきであることは勿論《もちろん》ですが、その時《とき》にもなほ心《こころ》の平靜《へいせい》を失《うしな》つてはなりません。  出來《でき》るだけ早《はや》くから、何《なに》にまれ獨立《どくりつ》して仕事《しごと》をはじめるこそよけれ、決《けつ》して人《ひと》のために、使《つか》はれてはなりません。  獨創《どくそう》はすぐれた天惠《てんけい》でありますが、この月生《つきうま》れの人《ひと》はしかも豐《ゆた》かにそれを惠《めぐ》まれてゐるのですから、何事《なにごと》によらず人《ひと》の模倣《もほう》を避《さ》けることが肝要《かんよう》です。  侮蔑《ぶべつ》の色《いろ》を眼《め》に光《ひか》らせることや、復讐《ふくしゆう》の念《こころ》を胸《むね》に育《はぐく》むことほど、自制《じせい》の力《ちから》を失《うしな》はせるものはありません。かヽる感情《かんじよう》に捉《とら》へられぬやうに心《こころ》すべきであります。  この月《つき》に生《うま》れたものが特に愼しまねばならない[#「特に愼しまねばならない」に傍点]ことは、内氣《うちき》にとらへられて、自尊心《じそんしん》の缺《か》けた態度《たいど》を人《ひと》に示《しめ》すことであります。  社會《しやかい》といふものは、人《ひと》をその人自身《ひとじしん》の評價《ひようか》どほりに受《う》け容《い》れるものでありますから、幸運《こううん》にも一|月《がつ》の星《ほし》の下《した》で生《うま》れて來《き》た人《ひと》は天賦《てんぷ》の才能《さいのう》を十|分《ぶん》に悟《さと》つて、何物《なにもの》をもおそれず、自尊《じそん》の旗《はた》を高《たか》くかざして人生《じんせい》の大道《だいどう》を邁進《まいしん》しなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]一月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、別《べつ》して周圍《しゆうい》のものの性癖《せいへき》を摸《ま》ねやすい性質《せいしつ》でありますから、氣《き》むづかしい人間《にんげん》や、野卑《やひ》な人間《にんげん》に接近《せつきん》させてはなりません。  打《う》ち任《まか》せにしておくと、心《こころ》がおごり高《たか》ぶる傾《かたむ》きがあります。幼《おさな》いうちから自治《じち》の精神《せいしん》を養《やしな》はせ、また、性《せい》の何《なん》たるかを會得《えとく》させることが肝要《かんよう》です。  自己《じこ》のためよりも他人《たにん》のためを圖《はか》る心《こころ》を養《やしな》はせるためには、どんな勞苦《ろうく》も厭《いと》うてはなりません。  茶《ちや》も珈琲《コーヒー》も禁物《きんもつ》です。極《きわ》めてあつさりした滋養物《じようぶつ》を攝《と》らせるやうに、心《こころ》がけねばなりません。  質素《しつそ》で、しかも上品《じようひん》な身《み》なりをさせねばなりません。  生《うま》れながらに趣味《しゆみ》をもつてゐる子《こ》どもであるために、色《いろ》や地合《じあい》に對《たい》する好惡《こうお》の情《じよう》も人一倍強烈《ひといちばいきようれつ》でありますから、幼《おさな》いうちから、その身《み》につけるものは自分《じぶん》で選《えら》ぶに任《まか》せるやうにすることが賢《かしこ》い策《さく》であります。  嫌《きら》ひな着物《きもの》を強《し》ひて着《き》せるやうなことをするとその苦痛《くつう》は心《こころ》にしみ透《とお》つて、永《なが》いあひだ、決《けつ》して忘《わす》れられぬものになるのでありますから、心《こころ》しなければなりません。  一月生《いちがつうま》れの女《おんな》の子《こ》は、いかに早《はや》くから手藝《しゆげい》を教《おし》へても益《えき》あつて少《すこ》しの害《がい》もないほどに心《こころ》が活發《かつぱつ》に働《はたら》くのですから、縫《ぬ》ひ物《もの》、編《あ》みもの、繪畫《かいが》、そのほか幼稚園《ようちえん》で教《おし》へてゐる一切《いつさい》の課業《かぎよう》など、とかく手先《てさき》でする業《わざ》を、幼《おさな》いうちから修《おさ》めさせるやうにしなければなりません。  男《おとこ》の子《こ》は、手工《しゆこう》を修《おさ》めさせておけば、それが成長《せいちよう》のあかつきに大《おお》いに役立《やくだ》つものになります。で、幼《おさな》いうちから工具《こうぐ》に親《した》しませねばなりません。工藝學校《こうげいがつこう》などに通《かよ》はせられヽばなほさら結構《けつこう》であります。  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもを叱《しか》らねばならないやうな場合《ばあい》には、言《い》ひつけに背《そむ》いたからとか、嘘《うそ》を口《くち》にしたからとか、あるひは無作法《ぶさほう》であつたからとか、何《なに》にまれ必《かなら》ずその理由《りゆう》を言《い》ひ聞《き》かせることをしなければなりません。  人《ひと》の思《おも》ひも及《およ》ばぬほど深《ふか》く物事《ものごと》を考《かんが》へる性質《せいしつ》がありますから、一瞬《いつしゆん》のあひだでも腹《はら》たちまぎれの叱《しか》りを受《う》けたなどとは思《おも》はせぬように心《こころ》がけねばなりません。まヽ[#「まヽ」に傍点]しくあしらはれてゐるといふやうな想像《そうぞう》を、小《ちい》さな胸《むね》にいつも懷《いだ》かせておくと、またなく美《うつく》しい性格《せいかく》、性情《せいじよう》の人《ひと》と成《な》るべき素質《そしつ》をも堅《かた》い蕾《つぼみ》のうちに萎《しぼ》ませてしまいます。  慈愛《じあい》を旨《むね》とすると同時《どうじ》に、我儘《わがまま》を搨キ《ぞうちよう》させすぎぬやう訓育《くんいく》せらるれば、やがて周圍《しゆうい》の人々《ひとびと》の誇《ほこ》りともなり慰《なぐさ》めともなる立派《りつぱ》な人物《じんぶつ》に成《な》られることは必定《ひつじよう》です。  一月《いちがつ》も、下旬十日《げじゆんとおか》のあひだに生《うま》れた子《こ》どもは殊《こと》に豐《ゆた》かな天稟《てんぴん》を惠《めぐ》まれてをります。そして、社會的《しやかいてき》、および知識的《ちしきてき》の方面《ほうめん》で大《だい》なる榮譽《えいよ》を荷《にな》はれるのが運命《さだめ》です。  母《はは》としては子《こ》どもの特殊《とくしゆ》の才能《さいのう》を見出《みいだ》し、それをあくまで發揮《はつき》させるやうに、然《しか》るべき教育《きよういく》をあたえることが必要《ひつよう》であります。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、夙《はや》くから人《ひと》の棟領《とうりよう》と仰《あお》がれるのが運命《さだめ》でありますが、ごく幼《おさな》いうちから適當《てきとう》な訓育《くんいく》を施《ほどこ》さるれば、その天命《てんめい》を果《はた》すのに大《おお》いに資《し》するところがありませう。 [#改ページ] [#中見出し]一月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 豐臣秀吉《とよとみひでよし》 勝安房《かつあわ》 新島襄《にいじまゆづる》 假名垣魯文《かながきろぶん》 江原素六《えはらそろく》 加藤高明《かとうこうめい》 鎌田榮吉《かまだえいきち》 三井八郎《みついはちろう》右|衞門《えもん》 元田肇《もとだはじめ》 ベンジャミン・フランクリン(科學者《かがくしや》) ジュアン・ダルク(女傑《じよけつ》) バイロン卿《きよう》(詩人《しじん》) フレデリック大王《だいおう》 エドガア・アラン・ポオ(詩人《しじん》) ジョッフル將軍《しようぐん》(軍人《ぐんじん》) ロイド・ヂョージ(政治家《せいじか》) モツアルト(音樂家《おんがくか》) ジャック・ロンドン(小説家《しようせつか》) [#改丁] [#大見出し]二月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは人一倍強《ひといちばいつよ》いが、また人一倍弱《ひといちばいよわ》い人間《にんげん》であると言《い》はれてをります。が、ともあれ、大《おお》いに爲《な》す有《あ》るの才能《さいのう》を賦與《ふよ》せられてゐると同時《どうじ》に、何《なん》らかの方面《ほうめん》に對《たい》する、比《たぐ》ひまれな力《ちから》をもつてゐるのがならひであります。  氣質《きしつ》はと言《い》へば樂天的《らくてんてき》で、親切《しんせつ》で、家庭《かてい》に關《かん》することや、家庭《かてい》に愉樂《ゆらく》を與《あた》へるものならば、何《なん》によらず愛《あい》する傾向《けいこう》があります。そして、男女《だんじよ》ともよき趣味《しゆみ》、よき批判《ひはん》を惠《めぐ》まれてゐると同時《どうじ》に性格《せいかく》の判斷《はんだん》が實《じつ》に巧《たく》みです。  幸福《こうふく》や、快樂《かいらく》を味《あじわ》ふことが大《だい》の好《す》きでまた周圍《しゆうい》のものを幸福《こうふく》にする力《ちから》を惠《めぐ》まれてゐるやうな傾向《けいこう》がほの見《み》えます。  高潔《こうけつ》を尚《とうと》ぶこヽろが豐《ゆた》かです。しかしそれが往々鋭《おうおうするど》い感受性《かんじゆせい》にあざなはれて、無用極《むようきわ》まる心勞《しんろう》に惱《なや》まされることがあります。  この月《つき》に生《うま》れたものは、男女《だんじよ》の別《べつ》なく誠意《せいい》に燃《も》える眞實《しんじつ》の友《とも》ではありますが、一旦鋒《いつたんほこ》を逆《さかさ》まにしたが最後《さいご》、執念《しゆうねん》ぶかい敵《てき》となつて何《なに》か一大變化《いちだいへんか》でも起《おこ》らないかぎり、決《けつ》して赦《ゆる》すといふことはありません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は生《うま》れながらにして家庭《かてい》の建設者《けんせつしや》です。從《したが》つて家庭《かてい》に趣味《しゆみ》のある男子《だんし》はたれかれの別《わか》ちなく、二月生《にがつうま》れの婦人《ふじん》を妻《つま》とせらるれば必《かなら》ず幸福《こうふく》を味《あじわ》へます。  婦人《ふじん》は愛《あい》しながらも深《ふか》い情《こころ》を外面《おもて》へはあらはさないけれど、その實人一倍《じつひといちばい》の熱烈《ねつれつ》さで燃《も》えてゐて、戀人《こいびと》なり友《とも》なり同僚《どうりよう》なりの愛《あい》の報《むく》いを待《ま》つことに身《み》も世《よ》もないといふほどであります。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は妻《つま》のため、家族《かぞく》の者《もの》のためならば水火《すいか》もいとはぬほどの性情《せいじよう》をもちながら、しかも知《し》らぬ人《ひと》には非常《ひじよう》に冷《つめ》たく映《うつ》ります。  この月生《つきうま》れのものは誠實《せいじつ》そのものともいうべき人《ひと》で、一樣《いちよう》に幸福《こうふく》な結婚生活《けつこんせいかつ》に入《はい》ることが出來《でき》ます。  脛《すね》の下半部《かはんぶ》と踵《くびす》には十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》わねばなりません。特《とく》にその部分《ぶぶん》を温《あたた》かに包《つつ》んでおいて、リユウマチスや痛風《つうふう》などにかヽりやすい傾向《けいこう》を未然《みぜん》に防《ふせ》ぐやうに心《こころ》がくべきです。  我儘《わがまま》を通《とお》さうとすることにかけては人一倍《ひといちばい》はげしくて、「言《い》つた通《とお》りにするがいヽ。」といふやうな言《い》ひ方《かた》が何《なに》よりも好《す》きであります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は着道樂《きどうらく》で、然《しか》も高雅《こうが》な趣味《しゆみ》のもち主《ぬし》です。不斷《ふだん》、好《この》んで黒《くろ》つぽい地味《じみ》な色合《いろあい》のものを用《もち》ひながらも、たちまち評判《ひようばん》を得《え》てしまふほど、巧《たく》みにそれを應用《おうよう》します。  記憶《きおく》のよいこと驚《おどろ》くばかりで、目《め》にふれ、耳《みみ》にふれる、あらゆる物事《ものごと》からすこしの努力《どりよく》もなしに知識《ちしき》を吸收《きゆうしゆう》するといふ風《ふう》が見《み》えます。  どんな場合《ばあい》にも努《つと》めて人好《ひとず》きをよくし、尊嚴《そんげん》を保《たも》つ特質《とくしつ》があります。また、靈感《れいかん》に應《おう》ずる勝《すぐ》れた力《ちから》があるので、普通《ふつう》、高《たか》い精神《せいしん》上の目《め》ざめを期《き》することが出來《でき》ます。  この月生《つきうま》れのものは、性《せい》のいづれを問《と》はず人《ひと》を催眠状態《さいみんじようたい》に陷《おとし》れるやうな、一種偉大《いつしゆいだい》な力《ちから》をその眼《め》にそなへてゐると共《とも》に、怒《いか》れる人《ひと》、狂《くる》へる人《ひと》を御《ぎよ》するあやしい能力《のうりよく》を惠《めぐ》まれてゐるやうに見《み》えます。  肩書《かたがき》を愛《あい》することが非常《ひじよう》で、また容貌《ようぼう》を氣《き》にしすぎるきらひがあります。  時《とき》としてありあまる物質主義《ぶつしつしゆぎ》と怠情性《たいじようせい》に埋《うずも》れて、高《たか》く尚《とうと》い自分《じぶん》といふものの半面《はんめん》を忘《わす》れてしまいます。  この月生《つきうま》れのものは理解《りかい》され、眞價《しんか》を認《みと》められたその時《とき》にだけ、至上《しじよう》の權力《けんりよく》のある位置《いち》にのぼることが出來《でき》ます。  男女《だんじよ》を問《と》はず偉大《いだい》な人物《じんぶつ》の性格《せいかく》には、一點《いつてん》のくもりもない誠心《せいしん》が缺《か》くべからざるものである。といふことを體驗《たいけん》によつて學《まな》び得《え》てこそ無上《むじよう》の成功《せいこう》も收《おさ》められ、限《かぎ》りない尊敬《そんけい》も贏《か》ち得《え》られるのです。もとよりこれがためには多大《ただい》の苦痛《くつう》も味《あじわ》はなければならないのが常《つね》ではありますが、この修養は決して忘れてはなりません[#「この修養は決して忘れてはなりません」に傍点]。 [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり] [#改ページ]  この月《つき》に生《うま》れたものは、人生《じんせい》の勝利《しようり》の榮冠《えいかん》を戴《いただ》いて富《とみ》と幸福《こうふく》とに輝《かがや》く生活《せいかつ》をするためには、自恃獨立《じじどくりつ》のこヽろを養《やしな》ふと共《とも》に、思《おも》ひを一途《いちず》に凝《こ》らす術《すべ》を學《まな》ばねばなりません。  將來《しようらい》に思《おも》ひをひそめて、人生《じんせい》の行路《こうろ》を自己《じこ》の天才《てんさい》の方向《ほうこう》に選《えら》び、一旦《いつたん》かうと志《こころざ》したら、その路《みち》から決《けつ》して外《はず》れてはなりません。  機《き》を見《み》てこれに乘《じよう》ずることを忘《わす》れてはなりません。これこそ實《じつ》に尊《とうと》い天賦《てんぷ》の才能《さいのう》を啓《ひら》いてくれる鍵《かぎ》なのです。  男女《だんじよ》を問《と》はず、この月《つき》に生《うま》れたものは己《おの》が天稟《てんぴん》の何《なん》であるかに氣《き》づいたあかつきには、よしやどんな職業《しよくぎよう》を選《えら》び定《さだ》めやうとも、成功《せいこう》しないといふことはないのですから、先《ま》づふかく自分《じぶん》を省察《しようさつ》しなければなりません。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は、法學《ほうがく》、または醫學《いがく》の路《みち》を究めるべきであります。數多《あまた》の司法官《しほうかん》、數多《あまた》の醫師《いし》、ことに數多《あまた》の精神病專門醫《せいしんびようせんもんい》が、二月《にがつ》をその生《うま》れ月《つき》としてゐるのに徴《ちよう》してもこれが正《ただ》しい路《みち》であるのは明《あき》らかな事實《じじつ》であります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、結婚《けつこん》することが何《なに》よりであります。しかし、看護婦《かんごふ》、後見者《こうけんしや》、醫師《いし》、あるひは、養育院孤兒院《よういくいんこじいん》の保姆《ほぼ》などが適《てき》した職業《しよくぎよう》であり、また、音樂界《おんがくかい》、美術界《びじゆつかい》の明星《めいせい》と輝《かがや》き出《い》でる素質《そしつ》にも惠《めぐ》まれてをります。  この月生《つきうま》れのものは、先《ま》づ他人《たにん》の權利《けんり》を鑑《かんが》みてのちに、異論《いろん》を排《はい》して自分《じぶん》の見地《けんち》から物事《ものごと》を判斷《はんだん》しなければなりません。  目《め》ざめてゐるあひだは、束《つか》の間《ま》も怠惰《たいだ》の惡癖《あくへき》や、無關心《むかんしん》の惡習《あくしゆう》と、戰《たたか》ふことを忘《わす》れてはなりません。  實《じつ》に希代《きだい》の逸材《いつざい》をめぐまれてゐるのですから、あくまでそれを伸《の》ばさうといふ、覺悟《かくご》が必要《ひつよう》であります。  心《こころ》にもない約束《やくそく》をすることは、どんな場合《ばあい》にも避《さ》けねばなりません。  完全無缺《かんぜんむけつ》な獨立《どくりつ》を把握《はあく》してゐるために、外來《がいらい》の影響《えいきよう》から超越《ちようえつ》するやうに全力《ぜんりよく》をあげて努力《どりよく》することが必要《ひつよう》です。  結婚《けつこん》には、十月《じゆうがつ》か一月《いちがつ》、または六月《ろくがつ》の生《うま》れの人《ひと》と合性《あいしよう》です。しかし、その以外《いがい》の月《つき》に生《うま》れた人《ひと》も、お互《たが》ひに心《こころ》の平靜《へいせい》を保《たも》ち得《う》るならば、良《よ》き配偶者《はいぐうしや》となることが出來《でき》ないのではありません。  すべて、重要《じゆうよう》な企業《きぎよう》は、四月《しがつ》か八月《はちがつ》かに着手《ちやくしゆ》しなければなりません。そして一週《いつしゆう》のうちでは、土曜日《どようび》がいちばんの吉日《きちにち》であります。  まこと「知識《ちしき》は力《ちから》なり」でありますから、必《かなら》ず良書《りようしよ》を繙《ひもと》くことを怠《おこた》つてはなりません。  二月生《にがつうま》れの婦人《ふじん》は、青玉《サフアイヤ》か蛋白石《オパール》、土耳古玉《ターコイズ》か橄欖石入《クリソライトい》りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきであり、男子《だんし》はこれらの石《いし》のいづれかの入《はい》つたスカーフ・ピンをさすべきであります。  身《み》につけて最《もつと》も調和《ちようわ》し、また成功《せいこう》の祝福《しゆくふく》を呼《よ》ぶ色《いろ》はあらゆる濃《こ》さの青《あお》と淡紅《とき》の薄《うす》いろ、緑《みどり》の薄《うす》いろと黒《くろ》とであります。 [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり] [#改ページ]  この月《つき》に生《うま》れたものは、生《うま》れながらに勤勉《きんべん》の徳《とく》に缺《か》けてゐますから、何《なん》にせよ一定《いつてい》の仕事《しごと》を成《な》し遂《と》げやうと努力《どりよく》することを一日《いちにち》も怠《おこた》つてはなりません。  約束《やくそく》は進《すす》んで果《はた》さなければならないさだめに生《うま》れ合《あわ》せながら、却《かえ》つて反古《ほご》にしがちな傾向《けいこう》があります。約束《やくそく》を嚴守《げんしゆ》することこそ何《なに》よりも大切《たいせつ》なことなのでありますから、この惡癖《あくへき》に頭《あたま》をもたげさせぬやうにあくまで心《こころ》を戒《いまし》めねばなりません。  結婚《けつこん》まへの戀愛《れんあい》には案外忠實《あんがいちゆうじつ》を缺《か》き、良心《りようしん》をなやみすぎるきらひがありますが、目出度《めでた》く契《ちぎり》を結《むす》んだあかつきには、地上《ちじよう》またと無《な》いほどの歡《よろこ》びにひたされる幸福《こうふく》な人《ひと》であります。  非常《ひじよう》に明快《めいかい》、温健《おんけん》な批判《ひはん》の眼《め》をもつていて、公正《こうせい》を缺《か》くやうなことは殆《ほと》んどありませんが時《とき》に一抹《いちまつ》の無情《むじよう》がうかぶことの無《な》いこともありません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、往々十分《おうおうじゆうぶん》に目《め》ざめきつてゐないうらみがあります。で、眠《ねむ》つてゐる自恃《じじ》のこヽろと、權力愛《けんりよくあい》の炎《ほのお》とをゆり醒《さ》ましこれを教化《きようか》することをゆるがせにしてはなりません。  精神的《せいしんてき》に目《め》ざめて己《おの》が希望《きぼう》と信頼《しんらい》とをつなぐ人《ひと》のもとで働《はたら》かないかぎり、最高《さいこう》の心願《しんがん》を成就《じようじゆ》することはおろか、小《ちい》さい成功《せいこう》をもをさめることは出來《でき》ません。  何回《なんかい》か苦《くる》しみに出會《であ》つて手痛《ていた》い打撃《だげき》をうけ、それによつて内部《ないぶ》に眠《ねむ》つてゐる眞《しん》の力《ちから》をゆり醒《さ》まさないかぎり、最高《さいこう》の發展《はつてん》を期《き》する心《こころ》がけがまだ出來《でき》てはゐないのですから、人格《じんかく》はもとよりのこと、いづれの點《てん》でも向上《こうじよう》するといふことはありません。  この月生《つきうま》れのものは、人《ひと》の頭《かしら》に立《た》つだけの心《こころ》がけが缺《か》けてをりますので、時《とき》には成功《せいこう》が無理強《むりじ》ひに見舞《みま》はねばならないといふやうなこともありますが、しかし、結局《けつきよく》は手《て》をさしのべて生得《せいとく》の權利《けんり》であるその榮冠《えいかん》を戴《いただ》くこととなるのです。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、年《とし》うへのものと共同《きようどう》して商取引《しようとりひき》を行《おこな》つてはなりません。この注意《ちゆうい》を無視《むし》すると、生來《せいらい》の寛大癖《かんだいへき》のために失敗《しつぱい》を見《み》なければならなくなります。  空中《くうちゆう》に樓閣《ろうかく》を描《えが》くことをやめて、心願《しんがん》の實現《じつげん》を目《め》ざして働《はたら》かねばなりません。  過去《かこ》の成功《せいこう》を吹聽《ふいちよう》することも、將來《しようらい》の計畫《けいかく》を喋々《ちようちよう》することも、ともに愼《つつ》しむべきであります。  貴族《きぞく》であるとか、血統《けつとう》が正《ただ》しいとかいふ理由《りゆう》で、友《とも》を選《えら》ぶことはもとより、そんなことを心《こころ》にかけすぎてはなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、小心《しようしん》にとらえられたり、取越苦勞《とりこしくろう》をしたりすることを抑《おさ》へねばなりません。一旦自恃《いつたんじじ》のこヽろを養《やしな》ひさへすればもつて生《うま》れた平靜《へいせい》によつて、どんな障害《しようがい》をでも乘《の》り越《こ》えられるやうになるのであります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、投機的《とうきてき》な事《こと》にかヽはると不安《ふあん》に襲《おそ》はれる性向《せいこう》がありますから、株《かぶ》に手《て》を染《そ》めぬよう心《こころ》がけねばなりません。何《なん》にまれ堅氣《かたぎ》の商賣《しようばい》をしさへすれば、それにもまさる收獲《しゆうかく》を必《かなら》ずや惠《めぐ》まれるでありませう。  生《うま》れながらに、偉大《いだい》な力《ちから》をもつてゐるのですから、捉《とら》へそこねた機會《きかい》のことをいつまでも徒《いたず》らに悔《く》いてゐるやうな事《こと》があつてはなりません。  小事《しようじ》といえども、その中《なか》に人格《じんかく》を破壞《はかい》する萠芽《ほうが》は孕《はら》まれてゐるのですから、どんな場合《ばあい》にでも約束《やくそく》を破《やぶ》つてはなりません。  曠日彌久《こうじついやひさし》といふことには、大《おお》きな危險《きけん》がかくれてゐるのですから、因循《いんじゆん》に捉《とら》はれぬやうに心《こころ》がくべきであります。  二月《にがつ》の星《ほし》は世《よ》にも稀《めず》らしい大成《たいせい》の力《ちから》を惠《めぐ》んでいる代《かわ》りには、一意專心《いちいせんしん》その力《ちから》を磨《みが》いて怠《おこた》らない事《こと》を要求《ようきゆう》してゐるのですから、この星《ほし》の下《もと》に生《うま》れ合《あわ》せた幸福《こうふく》なものは、懶惰《らいだ》な夢想家《むそうか》には束《つか》のまも成《な》つてはならないことを何《なに》よりも戒心《かいしん》しなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]二月生の子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもには、時間嚴守《じかんげんしゆ》と約束嚴守《やくそくげんしゆ》との二《ふた》つの徳《とく》の訓練《くんれん》を、しかも極《ご》く幼《おさな》い時分《じぶん》から與《あた》へねばなりません。  幼年時代《ようねんじだい》に養《やしな》はれた時間嚴守《じかんげんしゆ》の習慣《しゆうかん》は、終生利益《しゆうせいりえき》をもたらすものでありますから、教師《きようし》にせよ、母親《ははおや》にせよ、學校《がつこう》の時間《じかん》に遲刻《ちこく》するとか、爲《な》すべき仕事《しごと》に間《ま》に合《あ》はぬとかいふやうなことを默許《もつきよ》してはなりません。  二月生《にがつうま》れの子《こ》どもに對《たい》しては、約束《やくそく》を違《たが》へるやうなことを、幼少《ようしよう》のうちにでも、決《けつ》して爲《し》て見《み》せてはなりません。約束《やくそく》を破《やぶ》ることは、この月生《つきうま》れの子《こ》どものあくまで制《おさ》へねばならない缺點《けつてん》で、これを矯正《きようせい》するのは母親《ははおや》の務《つと》めであります。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、正直《しようじき》には正直《しようじき》をもつて對《むか》い、卒直《そつちよく》には卒直《そつちよく》をもつて對《たい》するといふ風《ふう》に、ゐまはりの心《こころ》のまに/\動《うご》きやすい性情《せいじよう》にめぐまれてゐます。從《したが》つて、どんな信頼《しんらい》に出會《であ》つても、必《かなら》ずやそれに報《むく》いて忠實《ちゆうじつ》を示《しめ》すでせう。  そして、若《も》しも疑《うたが》ひの眼《め》で見《み》られヽば、これに報《むく》いるに、疑《うたが》ひと佯《いつわ》りとを以《もつ》てするでせう。  非常《ひじよう》に感《かん》じ易《やす》い、落《お》ちつきない生《うま》れでありますから、なるべく安靜《あんせい》にしておくことが肝腎《かんじん》です。騷々《そうぞう》しい音《おと》を立《た》てる機械工場《きかいこうじやう》や、製作所《せいさくじよ》などの近傍《きんぼう》には決《けつ》して連《つ》れて行《い》つてはなりません。  友《とも》だちは極《ご》く少數《しようすう》なのを可《よ》しとします。しかも、あくまで快活《かいかつ》で、元氣《げんき》で、忠實《ちゆうじつ》な子《こ》どもを選《えら》ばせなければなりません。  優《すぐ》れた記憶力《きおくりよく》を惠《めぐ》まれてゐます。が、それかと言《い》つてその意志《いし》に反《はん》してまでも、學校《がつこう》にいそしませるといふやうな無理《むり》をしてはなりません。教室《きようしつ》に倦《あ》き、教師《きようし》を厭《いと》ふやうな徴候《ちようこう》が見《み》えた場合《ばあい》には田舍《いなか》へ連《つ》れて行《い》き、終日野外《しゆうじつやがい》で過《すご》させることが肝要《かんよう》であります。  茶《ちや》や珈琲《コーヒー》など、とかく刺戟《しげき》の強《つよ》い飮料《いんりよう》を與《あた》へることは禁物《きんもつ》で、あつさりした滋養物《じようぶつ》を攝《と》らせることと、食事《しよくじ》の時間《じかん》を嚴重《げんじゆう》に規則正《きそくただ》しく守《まも》らせることを必《かなら》ず怠《おこた》つてはなりません。  勞働《ろうどう》は神聖《しんせい》なり。といふことを訓《さと》すと共《とも》に、手助《てだす》けを母《はは》は頼《たよ》りにしてゐるものであることを教《おし》へ、一事《いちじ》は一事《いちじ》より秀《すぐ》れた仕事《しごと》をするやうに絶《た》えず望《のぞ》みの火《ひ》を放《はな》ち、勇氣《ゆうき》づけて行《ゆ》かねばなりません。  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、驚《おどろ》くばかりの非凡《ひぼん》な天稟《てんぴん》を惠《めぐ》まれてゐるのではありますが、若《も》しその母親《ははおや》が賢明《けんめい》で、忙《いそが》しいことは幸福《こうふく》の所以《ゆえん》であると同時《どうじ》に、成功《せいこう》の國《くに》、名聲《めいせい》の海《うみ》に辿《たど》りつくことの出來《でき》る、たつた一筋《ひとすじ》の路《みち》であるといふことを幼少《ようしよう》のころから教《おし》へるならば、眞《しん》に有意義《ゆういぎ》な生活《せいかつ》に入《はい》らせるのを早《はや》めることが出來《でき》るでせう。 [#改ページ] [#中見出し]二月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 日蓮上人《にちれんじようにん》 新井白石《あらいはくせき》 三條實美《さんじようさねとみ》 大隈重信《おおくましげのぶ》 原敬《はらけい》 東郷平八郎《とうごうへいはちろう》 大谷光演《おおたにこうえん》 澁澤榮一《しぶさわえいいち》 箕浦勝人《みのうらかつんど》 寺崎廣業《てらさきこうぎよう》 小松原英太郎《こまつばらえいたろう》 ジョオジ・ワシントン(政治家《せいじか》) アブラハム・リンカーン(政治家《せいじか》) チャアルズ・ダアウ※[#小書き片仮名ヰ、59-4]ン(科學者《かがくしや》) ヘンリイ・ダヴリュウ・ロングフェロオ(詩人《しじん》) ヴ※[#小書き片仮名ヰ、59-6]クトル・ユーゴー(小説家《しようせつか》) メンデルスゾオン(音樂家《おんがくか》) [#改丁] [#大見出し]三月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、機械學《きかいがく》、演劇《えんげき》、および文學《ぶんがく》の方面《ほうめん》の才幹《さいかん》を豐《ゆた》かに惠《めぐ》まれてをります。  美術《びじゆつ》に對《たい》する鋭《するど》い感覺《かんかく》をもつてゐますが、とりわけ、建築《けんちく》と圖案《ずあん》とに對《たい》して敏感《びんかん》であります。  すべて、精神的興味《せいしんてききようみ》をもたらす方面《ほうめん》の事《こと》に對《たい》する知覺《ちかく》の敏捷《びんしよう》なこと、記憶《きおく》の鮮明《せんめい》なことは、常人《じようじん》の企《くわだ》て及《およ》ぶかぎりではありません。  宗教問題《しゆうきようもんだい》、教育問題《きよういくもんだい》には深甚《じんしん》の興味《きようみ》をもつ性《たち》でこの方面《ほうめん》に於《おい》て偉業《いぎよう》を成《な》し遂《と》げる生《うま》れであります。  強大《きようだい》な生氣《せいき》の持主《もちぬし》ではありますが、やヽ落《お》ちつきの足《た》りない、懷疑的《かいぎてき》な傾向《けいこう》をもつてをります。  性《せい》のいづれを問《と》はず、この月生《つきうま》れの人《ひと》は、愛情《あいじよう》は胸底《きようてい》ふかく祕《ひ》められてゐるのがならはしです。そしてその溢《あふ》るヽばかりの情《じよう》をば、飢《う》え渇《かわ》いてゐる限《かぎ》りのものに與《あた》へようとする焦躁《しようそう》の絶《た》え間《ま》がありません。  天眞爛漫《てんしんらんまん》な戀《こい》をする人《ひと》で、僞《いつわ》りの戀《こい》や、不正《ふせい》の戀《こい》を求《もと》めることは絶《た》えてありません。  自然《しぜん》でも繪畫《かいが》でも、美《うつく》しいものが大好《だいす》きでありますから、繪畫批評家《かいがひひようか》や、畫家《がか》や、作家《さつか》になることが出來《でき》ます。  人《ひと》を惹《ひ》きつける力《ちから》を豐《ゆた》かに惠《めぐ》まれてをります。そして、人《ひと》を助《たす》けよう、人《ひと》の力《ちから》にならうといふ欲求《よつきゆう》が大《おお》きいために、却《かえ》つて、自分《じぶん》の身《み》をやぶるやうなことが決《けつ》してめづらしくはありません。  好《この》んで責《せめ》を負《お》ふ性向《せいこう》がありますから、普通信用《ふつうしんよう》を博《はく》して、出納係《すいとうがかり》とか、會計係《かいけいがかり》とか、帳簿係《ちようぼがかり》などといふやうな、信用第一《しんようだいいち》の地位《ちい》を得《え》ることが出來《でき》ます。  ともすれば謙讓《けんじよう》に過《す》ぎて、自尊《じそん》を缺《か》くことがありますから、勇猛果敢出《ゆうもうかかんで》しやばり過《す》ぎるくらゐの人《ひと》と手《て》を携《たずさ》へて働《はたら》けば、成功《せいこう》も一倍《いちばい》と大《おお》きくなります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、何《なに》によらず粗惡低劣《そあくていれつ》なものが嫌《きら》ひであります。そして目出《めで》たく人妻《ひとづま》の身《み》になつたあかつきには家庭《かてい》を美化《びか》し淨化《じようか》して、小《ちい》さい地上《ちじよう》の天國《てんごく》にすることをこよない歡《よろこ》びとします。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は落《お》ちつきを失《な》くし易《やす》い傾向《けいこう》はありますが、思慮《しりよ》ぶかく秩序正《ちつじよただ》しい習慣《しゆうかん》をもつてをります。  ともすれば我田引水《がでんいんすい》の話に身《み》を入《い》れすぎるきらひがあるとともに、要《よう》もない質問《しつもん》をする厄介《やつかい》な癖《くせ》があります。  生來《せいらい》、正直《しようじき》で、清廉潔白《せいれんけつぱく》なこヽろを惠《めぐ》まれてをります。しかし、粗野賤劣《そやせんれつ》な習性《しゆうせい》のある人々《ひとびと》とは交《まじわ》りを結《むす》ばぬやうに警戒《けいかい》しなければなりません。  生得《せいとく》の輕噪癖《けいそうへき》に打《う》ち克《か》つためには、旅行《りよこう》を或《あ》る程度《ていど》まですることが絶對《ぜつたい》に必要《ひつよう》であります。  三十五歳以前《さんじゆうごさいいぜん》に、ともすれば大患《おおわずら》ひをしがちな傾向《けいこう》がありますが、その後《ご》は健康《けんこう》を増《ま》して、病氣《びようき》などにかヽるやうなことはなくなります。そして、普通地上《ふつうちじよう》の富《とみ》を大《おお》いに蓄積《ちくせき》するに成功《せいこう》します。  成功《せいこう》の捷徑《しようけい》は、先《ま》づ己《おの》が天職《てんしよく》を知《し》つて然《しか》る後《のち》に、身[#「身」に傍点]と心[#「心」に傍点]とたましひ[#「たましひ」に傍点]との一切《いつさい》を擧《あ》げてこれを行《おこな》ふことであります。  道《みち》はいづれであらうとも、人生《じんせい》に大《だい》を成《な》すのは自己《じこ》の主《あるじ》となつて、如何《いか》なる逆境《ぎやつきよう》をも乘《の》り越《こ》えて行《ゆ》く人《ひと》であります。  この月《つき》に生《うま》れたものは、しば/\小心《しようしん》になり、極度《きよくど》まで敏感《びんかん》に陷《おちい》ります。それゆえ自意識《じいしき》にとらへられぬやうにすると共《とも》に、あくまで自尊《じそん》のこヽろを養《やしな》はねばなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、憂欝《ゆううつ》に沈《しず》みやすく涙《なみだ》もろい性《たち》で、いかに萎《しお》れてゐるときでも、そのしをれた原因《げんいん》を正《ただ》してみれば九分九厘《くぶくりん》まで、空《くう》に描《えが》いた杞憂《きゆう》の雲《くも》にすぎないといふ風《ふう》であります。  注意《ちゆうい》すべきは、決《けつ》してさうした情緒《じようちよ》に動《うご》かされないやうにすることです。氣《き》の滅入《めい》つて行《ゆ》くおりに一《いち》、二度《にど》それに打《う》ち克《か》つたあかつきには、われと驚《おどろ》くばかりの自制《じせい》の力《ちから》が生《うま》れて來《く》るやうになるでせう。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは何《なに》はともあれ沈默《ちんもく》の尚《とうと》さに目《め》ざめねばなりません。  決《けつ》して人《ひと》の入《はい》つて來《こ》ないところで、毎日《まいにち》しばらくの間《あいだ》ひとり靜《しず》かに過《すご》さねばなりません。そしてこの必要缺《ひつようか》くべからざるものである獨居《どつきよ》の時《とき》を、決《けつ》して人《ひと》には犯《おか》させぬやうに心《こころ》がけるべきであります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、愛《あい》すべき變人《へんじん》である自分《じぶん》をとき/″\襲《おそ》ふ心配事《しんぱいごと》も、大抵《たいてい》の場合《ばあい》にはもつて生《うま》れた焦心《しようしん》や不安心《ふあんしん》のまぼろしに咲《さ》き出《い》でた、空華《くうげ》に過《す》ぎないものであることを悟《さと》らねばなりません。  あまり無雜作《むぞうさ》に金錢《きんせん》を與《あた》へることは、貧《まず》しさの中《なか》におくよりも人《ひと》を無頼《ぶらい》なともがらにしがちなものであることを知《し》り、親戚知友《しんせきちゆう》に對《たい》して執《と》るべき最良《さいりよう》の路《みち》は、自恃《じじ》のこヽろを養《やしな》ふことであるのを悟《さと》らねばなりません。  不動産《ふどうさん》、農作物《のうさくぶつ》、家畜《かちく》、馬《うま》などのやうな、すべて固定《こてい》したもの、生長《せいちよう》し繁殖《はんしよく》するものに資本《しほん》を下《お》ろすべきであつて、株式《かぶしき》などの投機的《とうきてき》なことには斷《だん》じて指《ゆび》を染《そ》めてはなりません。  自信《じしん》を養《やしな》ひ執着《しゆうちやく》を深《ふか》め、あくまで自己《じこ》に忠實《ちゆうじつ》であると同時《どうじ》に沈着《ちんちやく》を忘《わす》れてはなりません。そして、一旦爲《いつたんし》やうと目《もく》ろんだことは、眞《しん》の勇氣《ゆうき》をもつて行《おこな》はねばなりません。  長命《ちようめい》を保《たも》ち、山《やま》なす財寶《ざいほう》にとりまかれて逝《ゆ》くのが常《つね》であります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、結婚《けつこん》といふことに心《こころ》を惹《ひ》かれる折《おり》は極《ご》く稀《まれ》でありながら、その實理想的《じつりそうてき》な妻《つま》となり、家庭《かてい》の建設者《けんせつしや》となる素質《そしつ》を惠《めぐ》まれてゐるのですから、廣《ひろ》く男子《だんし》に知己《ちき》を求《もと》めて、良縁《りようえん》を得《え》ることに心《こころ》がけなければなりません。  男子《だんし》は生得《せいとく》の親切心《しんせつしん》に煩《わずら》はされて、あらぬ方《ほう》へと迷《まよ》ひ入《い》ることもありますから、結婚《けつこん》のまへには注意《ちゆうい》に注意《ちゆうい》を重《かさ》ねてよき配偶者《はいぐうしや》を選《えら》ばねばなりません。  結婚《けつこん》には、九月《くがつ》か十月《じゆうがつ》、または七月生《しちがつうま》れの人《ひと》と合性《あいしよう》です。しかしその以外《いがい》の月《つき》に生《うま》れた人《ひと》でも、精神的《せいしんてき》な愛《あい》の力《ちから》で賤《いや》しい本能《ほんのう》に打《う》ち克《か》つてゐるならば、よき配偶者《はいぐうしや》となることが出來《でき》ます。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、温雅《おんが》な淡色《うすいろ》の衣《きぬ》を着《き》るべき生《うま》れ合《あわ》せです。そして、化粧《けしよう》にかけてはなほ一層《いつそう》こまかい點《てん》まで注意《ちゆうい》を拂《はら》わねばなりません。  婦人《ふじん》は、橄欖石《クリソライト》か月長石《ムーンストーン》か淡紅色《たんこうしよく》の貝《かい》の入《はい》つた指環《ゆびわ》を嵌《は》め、男子《だんし》はそれらのいづれかのスカーフ・ピンをさすべきであります。  重要《じゆうよう》な企業《きぎよう》は五月《ごがつ》か六月《ろくがつ》かに着手《ちやくしゆ》すべきで、土曜日《どようび》が吉日《きちにち》であります。  いつも、「私には出來る[#「私には出來る」に傍点]、だから爲よう[#「だから爲よう」に傍点]。」といふ標語《モツトー》を眼《め》のまへに掲《かか》げておかねばなりません。  私《わたし》には出來《でき》る、だから私《わたし》の一生《いつしよう》を有意義《ゆういぎ》なものにしよう。  私《わたし》には出來《でき》る、だから自分《じぶん》の缺點《けつてん》を征服《せいふく》して、來《く》る日來《ひく》る日《ひ》の何《いず》れをも光輝《こうき》あるものにしよう。  私《わたし》には出來《でき》る、だから私《わたし》が近《ちか》づけば輝《かがや》き、去《さ》れば悲《かな》しいものに此《こ》の世《よ》がなるやうに生《い》きよう。  私《わたし》には出來《でき》る、だから目《め》ざめてゐる間《あいだ》は片時《かたとき》のまも全力《ぜんりよく》を盡《つく》そう。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、健康《けんこう》にまれ財産《ざいさん》にまれ自分《じぶん》のことにかけては、十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》が足《た》りません。  友《とも》を選《えら》ぶのに愼重《しんちよう》を缺《か》き、かりそめの友《とも》と交《まじわ》つたがために、高《たか》い地位《ちい》から落《おと》されることが度々《たびたび》あります。  憂慮《ゆうりよ》や不安《ふあん》を心《こころ》から一掃《いつそう》することが出來《でき》るだけの強《つよ》さが缺《か》けてをります。從《したが》つて、その懸念《けねん》は殆《ほと》んどいつも根無草《ねなしぐさ》に過《す》ぎないのですから、決《けつ》して、そのために心《こころ》をわづらわされてはなりません。  自分《じぶん》の持《も》ち物《もの》に對《たい》して十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》が缺《か》けてゐるので、よく他人《たにん》のものと間違《まちが》へることがあります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、主婦《しゆふ》としての注意《ちゆうい》が十分《じゆうぶん》ではありません。ですから物《もの》はどんな物《もの》でも、正《ただ》しく元《もと》どほりの處《ところ》に戻《もど》しておくやうにして、几帳面《きちようめん》の習慣《しゆうかん》をつけねばなりません。  落《お》ちつきが十分《じゆうぶん》でないので損《そん》をします。最高《さいこう》の目的《もくてき》に到達《とうたつ》しようとするならば、どうしても、胸《むね》と相談《そうだん》してみることは、少《すこ》しでも大《おお》きな尚《とうと》さがあるものであることを知《し》らなければなりません。  昨日《きのう》の試煉《しれん》を忘《わす》れ、また來《きたる》べき祝福《しゆくふく》の期待《きたい》に時《とき》を空費《くうひ》せず、現在[#「現在」に傍点]を完全《かんぜん》に利用《りよう》するやうにならないと、全力《ぜんりよく》の人《ひと》といふことは出來《でき》ません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、自分《じぶん》をも自分《じぶん》の才能《さいのう》をも信用《しんよう》したがらない傾向《けいこう》がありますから、自尊《じそん》のこヽろを培《つちか》ふことが大切《たいせつ》です。  社會《しやかい》といふものはわれ/\を、われ/\自身《じしん》の評價《ひようか》どほりに受《う》け容《い》れることがよくありますから、三月生《さんがつうま》れの人《ひと》は自分《じぶん》の才能《さいのう》なり、自分《じぶん》の財産《ざいさん》なりを決《けつ》して輕《かろ》んずるやうなことがあつてはなりません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  直覺《ちよつかく》こそこの月生《つきうま》れの人《ひと》が享《う》けてゐる最《もつと》も偉《すぐ》れた天惠《てんけい》の一《ひと》つで、その導《みちび》きに從《したが》つて岐路《きろ》に陷《おちい》るやうなことは、殆《ほと》んど無《な》いとも言《い》へるほどなのでありますから、鋭《するど》い自分《じぶん》の直覺《ちよつかく》に頼《たよ》るこそよけれ、理論《りろん》、條理《じようり》などは決《けつ》して頼《たよ》りにしてはなりません。  物《もの》を言《い》ふには輕卒《けいそつ》を愼《つつし》み、人《ひと》の談話《だんわ》には全身《ぜんしん》の注意《ちゆうい》を蒐《あつ》めて傾聽《けいちよう》すべきで、心《こころ》から知《し》り度《た》いといふ要求《ようきゆう》が湧《わ》くまでは決《けつ》して問《と》ひを插※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けてゐる、第4水準2-13-28]んではなりません。  落膽《らくたん》や自責《じせき》はしば/\重《おも》い病氣《びようき》の固《もと》となるものでありますから、さういふ責苦《せめく》の虜《とりこ》にならぬやうに心《こころ》すべきであります。  たとへ雨雲《あまぐも》はどれほどその表《おもて》が暗《くら》く見《み》えようとも、その銀色《しろがねいろ》の裏《うら》は、誰《だれ》のためよりも自分《じぶん》のために一層輝《いつそうかがや》かしい光《ひかり》を放《はな》つてゐるのであるといふことを絶《た》えず思《おも》つて、光明《こうみよう》に充《み》ち滿《み》ちた、うらヽかな心《こころ》を持《も》つやうにすべきで、天《あめ》の懸橋《かけはし》を出來《でき》あがらないうちに渡《わた》るやうなことは決《けつ》してあつてはなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、よしや何處《どこ》へと走《はし》つてゐる路《みち》に向《むか》つてであらうとも、一旦《いつたん》スタートを切《き》つたなら、左顧右眄《さこうべん》することなくまつしぐらに決勝線《ゴール》に入《い》るべきで、自分《じぶん》のしてゐることに不安《ふあん》を感《かん》じたり、そのために動搖《どうよう》したりしてはなりません。  男心《おとこごころ》は、焦心《しようしん》の掌《たなごころ》に握《にぎ》りしめられないやうに注意《ちゆうい》しなければなりません。  靜止《せいし》、休養《きゆうよう》、とりわけ食後《しよくご》にはそれが必要《ひつよう》なものであることを知《し》るべきで、絶《た》えずそれも大部分《だいぶぶん》は一顧《いつこ》の價値《かち》もない人《ひと》のために、働《はたら》いてゐるやうな習慣《しゆうかん》はあくまで廢《や》めなければなりません。  自愛《じあい》の必要《ひつよう》な肉體《からだ》を與《あた》へられてゐることと、どれほど努力《どりよく》しても縁者《えんじや》や友《とも》は結局救《けつきよくすく》へないものであるといふことを自覺《じかく》すべきで、決《けつ》してその爲《た》めに身心《しんしん》を浪費《ろうひ》するやうなことがあつてはなりません。  この月《つき》に生《うま》れた男子《だんし》は、どんな境遇《きようぐう》にいるときでも、また一週間《いつしゆうかん》でもたヾの一日《いちにち》でも、沒落《ぼつらく》に人《ひと》を誘《いざな》ふやうな物事《ものごと》にいらぬ手出《てだ》しをせぬことを心《こころ》がけるべきであります。  酒精性《アルコールせい》の刺戟飮料《しげきいんりよう》は、一切嚴禁《いつさいげんきん》です。 [#改ページ] [#中見出し]三月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、感《かん》じ易《やす》くて、親切《しんせつ》で、非常《ひじよう》に神經質《しんけいしつ》なのが常《つね》です。  幼兒《みどりご》の時分《じぶん》から獨立《どくりつ》の心《こころ》が旺盛《おうせい》で他人《ひと》に頼《たよ》ることが大嫌《だいきら》ひ。また、ものに大《おお》まかで、持《もつ》てゐるものは惜《お》しげもなく、何《なに》もかも人手《ひとで》にわたしてしまふ風《ふう》があります。  闊達《かつたつ》に過《す》ぎることは、よく不正直《ふしようじき》を育《はぐく》むものでありますから、特《とく》に此《こ》の點《てん》の注意《ちゆうい》が肝要《かんよう》で、どんな些末《さまつ》な事《こと》にでも正直《しようじき》を失《うしな》はせぬやうにしつけねばなりません。  金錢《きんせん》の尊《とうと》いものであるといふことを知《し》る必要《ひつよう》は、この月生《つきうま》れの子《こ》どもに於《おい》て特《とく》に重大《じゆうだい》なのでありますから、必《かなら》ずとも、一定量《いつていりよう》の金額以内《きんがくいない》で一身《いつしん》の費用《ひよう》を辨《べん》ずるといふ風習《ふうしゆう》を夙《はや》くから養《やしな》はせねばなりません。  自分《じぶん》の過失《かしつ》を認《みと》めることや、不從順《ふじゆうじゆん》を謝《あやま》ることは誇《ほこ》りでこそあれ、決《けつ》して恥《は》づべき行《おこな》ひではないといふことを十分《じゆうぶん》に教訓《きようくん》しなければなりません。  もとより、いつも變《かわ》らぬ愛情《あいじよう》をもつて接《せつ》しなければなりませんが、同時《どうじ》に、仕事《しごと》や勉強《べんきよう》に對《たい》して十分《じゆうぶん》に責任感《せきにんかん》を懷《いだ》かせるやうにすることも肝要《かんよう》です。  幼《おさな》いうちから、他人《たにん》のものを尊重《そんちよう》する氣風《きふう》を養《やしな》はせねばなりませんが、更《さら》に必要《ひつよう》なのは、身《み》のまはりを清麗簡素《せいれいかんそ》にしておく習慣《しゆうかん》をつけさせることで、これはいかに注意《ちゆうい》を拂《はら》つても足《た》りるといふことは決《けつ》してありません。  すべて物事《ものごと》は自分《じぶん》で考《かんが》へて自分《じぶん》で決《き》め、自分《じぶん》で定《さだ》めたことは飽《あ》くまで守《まも》る、といふ心《こころ》を幼《おさな》いうちから培《つちか》はせることが必要《ひつよう》です。  概《がい》して、非常《ひじよう》に意志《いし》の堅固《けんご》な生《うま》れです。そのために往々《おうおう》、兩親《りようしん》は子《こ》どもを頑《かたく》な者《もの》と思《おも》ひ誤《あやま》ることがありますが、これは實《じつ》に重大《じゆうだい》な誤解《ごかい》でありますから心《こころ》しなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、年齡《ねんれい》よりも老《ふ》けて見《み》えるやうなところがありますから、母親《ははおや》は派手《はで》で上品《じようひん》な身《み》なりを子《こ》どもにさせておくやうに心《こころ》がけるべきです。  一生《いつしよう》の幸福《こうふく》や安穩《あんのん》は、懸《かか》つて發育期《はついくき》に在《あ》るのですから、子《こ》どもに對《たい》する母親《ははおや》の態度《たいど》は、太陽《たいよう》のやうに、あくまで公明正大《こうめいせいだい》でなければなりません。  相談《そうだん》したり、説《と》き聞《き》かせたり、家事《かじ》を手傳《てつだ》はせたり、自分《じぶん》のものに十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》わせたりすることを絶《た》えず努《つと》めれば、この月生《つきうま》れの子《こ》どもは何《いず》れ劣《おと》らず、四季咲《しきさ》く花《はな》の中《なか》でも最《もつと》も美《うつく》しい、豐麗人目《ほうれいじんもく》をそばだたしめるやうな花《はな》に咲《さ》き出《い》でること必定《ひつじよう》です。  幼稚園《ようちえん》の課業《かぎよう》は必《かなら》ずこれを學《まな》ばせて、後年《こうねん》の生活《せいかつ》に大切《たいせつ》な目的《もくてき》の操守《そうしゆ》を、大《おお》いに養《やしな》はせねばなりません。  幼年時代《ようねんじだい》に頭《あたま》と心《こころ》と手《て》とを十分《じゆうぶん》に訓練《くんれん》しておけば、この三月《さんがつ》の花《はな》が人生《じんせい》の海《うみ》に船出《ふなで》するとき、必《かなら》ずやよき港《みなと》になるでせう。 [#改ページ] [#中見出し]三月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 杉浦重剛《すぎうらじゆうごう》 平田東助《ひらたとうすけ》 志村源太郎《しむらげんたろう》 山脇玄《やまわきげん》 有島武郎《ありしまたけお》 ウイリアム・ジエンニングス・ブライアン(政治家《せいじか》) 法王《ほうおう》レオ十三|世《せい》(宗教家《しゆうきようか》) ミケランジエロ(畫家《がか》) 副大統領《ふくだいとうりよう》トオマス・マアシヤル(政治家《せいじか》) ラフアエル(畫家《がか》) ショオパン(音樂家《おんがくか》) [#改丁] [#大見出し]四月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、生《うま》れながらに、推論《すいろん》の人《ひと》、思索《しさく》の人《ひと》で、すべて頭腦精神《ずのうせいしん》のはたらきを必要《ひつよう》とする職業《しよくぎよう》にたづさはれば、必《かなら》ず頭角《とうかく》をあらはします。  獨自《どくじ》の樣式乃至方法《ようしきないしほうほう》を案出《あんしゆつ》し、推理《すいり》し出《だ》すが運命《さだめ》ですから、若《も》しその規範《きはん》を他人《たにん》の心《こころ》や暗示《あんじ》に求《もと》めると必《かなら》ず迷《まよ》ひに陷《おちい》つてしまいます。  家庭《かてい》ででも、勤《つと》め先《さき》ででも、調和《ちようわ》を保《たも》ち秩序《ちつじよ》を維持《いじ》する美風《びふう》があると共《とも》に、時間《じかん》や規矩《きく》に關《かん》する一切《いつさい》はもとより、守《まも》らねばならない事《こと》は何事《なにごと》によらず一切嚴重《いつさいげんじゆう》に守《まも》ります。  どんな仕事《しごと》の場合《ばあい》にでも、適所《てきしよ》はいつも首領《しゆりよう》の地位《ちい》なので、從《したが》つて、人《ひと》の下風《かふう》にいつまでも甘《あま》んじてゐるやうなことは極《きわ》めて稀《まれ》であります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、同僚《どうりよう》や事業《じぎよう》の共營者《きようえいしや》から、何《なに》にまれ干渉《かんしよう》がましい事《こと》をせられると、自分《じぶん》の權利《けんり》を證明《しようめい》するために一切《いつさい》を投《な》げ出《だ》すはもとより、必要《ひつよう》とならば、己自身《じしん》を破壞《はかい》させることをも敢《あえ》て厭《いと》はぬといふやうな傾向《けいこう》があるので、渡世《とせい》が安穩《あんのん》ではありません。  戀《こい》をしても、結婚生活《けつこんせいかつ》に入《はい》つても、對手《あいて》の戀人《こいびと》なり愛人《あいじん》なりが、いつもその注意《ちゆうい》を自分《じぶん》に向《む》けていなければ承知《しようち》が出來《でき》ず、自分《じぶん》をないがしろにするやうな行爲《こうい》があつたと夢想《むそう》するだに嫉妬《しつと》の炎《ほのお》を燃《も》やさずにはいられない傾向《けいこう》があります。  自分《じぶん》の好《す》きな人間《にんげん》に對《たい》しては、寛大《かんだい》で少《すこ》しも介意《かいい》しないけれど、輕侮《けいぶ》してゐる人間《にんげん》に對《むか》つては、なぶつたり、苦《くる》しめたりすることはひどく好《す》きです。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、音樂《おんがく》と美術《びじゆつ》とが好《す》きで、器樂《きがく》、聲樂《せいがく》のよき教師《きようし》となることが出來《でき》ます。  ゐまはりのものの思念《こころ》や意志《いし》を、讀《よ》みとる事《こと》にかけて、實《じつ》に敏感《びんかん》でありますから、專門的《せんもんてき》な修業《しゆぎよう》をすればよき讀心術師《どくしんじゆつし》、よき心理學者《しんりがくしや》になります。  進《すす》んで復讎《ふくしゆう》を企《くわだ》てることは、まづ無《な》いけれど、容易《ようい》に敵《てき》を赦《ゆる》すといふことはありません。  極端《きよくたん》なほど、むら氣《き》で、うは氣《き》で、うつり氣《き》であります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、嫉妬《しつと》のために向上《こうじよう》の機會《きかい》を逸《いつ》し、こよなき才能《さいのう》をも枯《か》らしてしまふ事《こと》があります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、忍耐力《にんたいりよく》を惠《めぐ》まれてはゐないけれど、愛《あい》するものの爲《ため》ならば、愚《おろ》かしいほどの忍耐《にんたい》をも厭《いと》ふといふことはありません。  ともすれば仕事《しごと》に身《み》を入《い》れ過《す》ぎて、そのために一切《いつさい》を抛《なげう》ち、健康《けんこう》をも有爲《ゆうい》の才能《さいのう》をも、犧牲《ぎせい》に供《きよう》して惜《お》しまないといふ傾向《けいこう》があります。  かういふ性向《せいこう》のある人《ひと》は、仕事《しごと》のことや、金儲《かねもう》けのことにかけては非常《ひじよう》に幸運《こううん》ではありますが、怒《いか》りや短氣《たんき》のために誤《あやま》られて、多《おお》くの友《とも》を失《うしな》つたり、度々機會《たびたびきかい》を取《と》り逃《に》がしたりします。  寛容《かんよう》と誠實《せいじつ》との徳《とく》を惠《めぐ》まれては居《お》りますが、ともすればその宿命《しゆくめい》のうへに悲《かな》しむべき影響《えいきよう》を與《あた》へてゐる移《うつ》り氣《ぎ》の、虜《とりこ》になつてしまふ傾向《けいこう》があります。  性《せい》のいづれに拘《かかわ》らず、この月生《つきうま》れのものは、美《うつく》しい着物《きもの》と雅趣《がしゆ》のある環境《かんきよう》を愛好《あいこう》します。  立派《りつぱ》な衣裳《いしよう》のよく似合《にあ》ふことが、他《た》の月生《つきうま》れの人一倍《ひといちばい》なので、着物《きもの》や風采《ふうさい》のためには身分不相應《みぶんふそうおう》の費《ついえ》をもいとはぬ傾向《けいこう》があります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、金錢《きんせん》を濫費《らんぴ》することにかけて、實《じつ》に申《もう》し分《ぶん》のない天才《てんさい》をもつてゐます。  この月生《つきうま》れのものは、情《じよう》に深《ふか》いといふよりも、情炎《じようえん》に燃《も》えるといはねばならぬほどの人《ひと》で、また、思《おも》はぬ人《ひと》の情《なさけ》をばかり求《もと》めて徒《いたず》らに身《み》をこがす習《なら》ひがありますから、結婚《けつこん》のまへには熟慮時《じゆくりよとき》を久《ひさ》しうしなければなりません。  五官《ごかん》の放縱《ほうじゆう》も許《ゆる》しすぎれば、夙《はや》かれ晩《おそ》かれ神經組識《しんけいそしき》を破壞《はかい》してしまふものでありますから、「踊《おど》る者《もの》は提琴彈奏者《ことひき》に金錢《かね》を拂《はら》わねばならない」といふ、因果應報《いんがおうほう》のことわりを、絶《た》えず心《こころ》の|※[#「木+眉」、第3水準1-85-86]間《びかん》にかヽげてゐなければなりません。  何《なん》の雜作《ぞうさ》もなく避《さ》けられたものを、と過去《かこ》の失策《しつさく》を悔《く》いるに年《とし》を過《すご》さうより、失策《しつさく》を再《ふたた》びせぬやうに、注意《ちゆうい》することがはるかに賢明《けんめい》の策《さく》であります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、生來《せいらい》の優柔不斷《ゆうじゆうふだん》な性向《せいこう》を、幼《おさな》いうちに征服《せいふく》してしまはねばなりません。  採《と》らうと思《おも》ふ路《みち》に對《たい》して、萬全《ばんぜん》の策《さく》を樹《た》て、そして堂々《どうどう》と勝利《しようり》に向《むか》つて邁進《まいしん》しなければなりません。  沈默《ちんもく》の修業《しゆぎよう》が肝腎《かんじん》で、毎日《まいにち》、しばらくの間《あいだ》でも獨居《どつきよ》に過《すご》さねばなりません。  強《つよ》い言葉《ことば》も繰《く》りかへすと、二度目《にどめ》にはその効果《こうか》が薄《うす》らぐのが習《なら》ひであることを知《し》つて、言語動作《げんごどうさ》を繰《く》りかへさぬやうに努《つと》めることが大切《たいせつ》です。  この月生《つきうま》れのものは、男女《だんじよ》とも、醫師《いし》のすヽめが無《な》ければ、昂奮劑《こうふんざい》や藥劑《やくざい》は決《けつ》して服用《ふくよう》してはなりません。  毎日《まいにち》の食事時間《しよくじじかん》を規則正《きそくただ》しくすることには、何《なに》よりも注意《ちゆうい》を拂《はら》い、またあつさりした滋養物《じようぶつ》を攝《と》るやうにしなければなりません。  友人《ゆうじん》や隣人《りんじん》に恩惠《おんけい》を施《ほどこ》すよりも、少《すこ》しく自分《じぶん》のことを考《かんが》へなければなりません。  墮落《だらく》の路《みち》に踏《ふ》み込《こ》んでいる。人《ひと》づきのよい人間《にんげん》にでも、遇然《ぐうぜん》に出會《であ》つて交《まじわ》りを結《むす》ばうものならば、容易《ようい》にその路《みち》に深入《ふかい》りしてしまふやうな性向《せいこう》がありますから、惡《わる》い感化《かんか》には染《そ》まぬやうに他《た》の月《つき》の生《うま》れのものよりも一層不斷《いつそうふだん》の注意《ちゆうい》が必要《ひつよう》です。  この月生《つきうま》れの男女《だんじよ》は、生《うま》れながらの策略家《さくりやくか》で、そのうへ棟梁《とうりよう》の素質《そしつ》を亨《う》けてゐますから、政治《せいじ》の方面《ほうめん》へ志《こころざ》すべきであります。  堅忍不拔《けんにんふばつ》の意《こころ》を養《やしな》ひ、目《め》を最高《さいこう》の目標《もくひよう》につけて、努力《どりよく》の一《ひと》つ一《ひと》つをみな目的《もくてき》の達成《たつせい》に捧《ささ》げることが大事《だいじ》です。  必《かなら》ず結婚《けつこん》すべきです。しかし、先《ま》づ十分近《じゆうぶんちか》づきになつてからでなくてはなりません。そして、十二月《じゆうにがつ》に生《うま》れた人《ひと》と合性《あいしよう》ではありますが、自分《じぶん》の移《うつ》り氣《ぎ》に打《う》ち克《か》つだけの修養《しゆうよう》がつんでからなれば、いづれの月生《つきうま》れの人《ひと》を選《えら》んでも支障《さしつか》えはありません。  重要《じゆうよう》な事業《じぎよう》は、六月《ろくがつ》か、七月《しちがつ》に着手《ちやくしゆ》しなければなりません。また、最《もつと》も大《おお》きい成功《せいこう》を收《おさ》めるには火曜日《かようび》を選《えら》むべきです。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、紫水晶《むらさきすいしよう》か金剛石《こんごうせき》か瑪瑙《めのう》かの入《はい》つた指環《ゆびわ》を嵌《は》め、男子《だんし》はこれらのいづれかの石《いし》のスカーフ・ピンをさすべきであります。  婦人《ふじん》は、白薔薇《しろばら》、淡紅色《ときいろ》、あらゆる濃《こ》さの樺色《かばいろ》、これらのいづれかの色《いろ》の衣《きぬ》を身《み》につけると最《もつと》もよく似合《にあ》ふばかりか、最《もつと》も大《おお》きい幸福《こうふく》にも訪《と》はれるでせう。  成功《せいこう》といふものヽ本體《ほんたい》と、その眞《しん》の尺度《しやくど》とは、全力《ぜんりよく》を盡《つく》して爲《な》すところ、そしてそれが善《ぜん》であるのを知《し》るところに生《うま》れ出《で》る、歡《よろこ》びにほかならないといふことをさとらねばなりません。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は、實業《じつぎよう》の方面《ほうめん》に入《い》るべきで、とりわけ、不動産《ふどうさん》と仲買《なかがい》と法律《ほうりつ》に關係《かんけい》した事《こと》が適《てき》してをります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月生《つきうま》れのものは、肉體《にくたい》の骨組《ほねぐみ》は逞《たくま》しいといふほどではありませんが、どんな危機《きき》をもしのぎ得《え》られさうな、丈夫《じようぶ》さ、ねばり強《つよ》さをその資素《しそ》に惠《めぐ》まれてゐます。  異常《いじよう》な實行能力《じつこうのうりよく》を持《も》つてゐるので、時々自分《ときどきじぶん》の力《ちから》を過大視《かだいし》するくせがあり、その結果《けつか》やヽもすると、健康《けんこう》といふことに十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を缺《か》きます。  天性《てんせい》、忍耐力《にんたいりよく》が不足《ふそく》してをります。しかし、忍耐《にんたい》は生來《せいらい》の短氣《たんき》と移《うつ》り氣《ぎ》とを抑《おさ》へるためには有力《ゆうりよく》な味方《みかた》なのですから、何《なに》よりも先《ま》づこの徳《とく》を養《やしな》はねばなりません。  この月生《つきうま》れのものは、男女《だんじよ》の別《べつ》なく、自分《じぶん》の失策《しつさく》を口《くち》にせられると、それを口惜《くや》しく思《おも》つたり、腹《はら》を立《た》てたりする傾向《けいこう》があつて、なか/\、人《ひと》の指導《しどう》を受《う》け容《い》れることはありません。  敵《てき》にせよ、味方《みかた》にせよ、人《ひと》といふものはみな、それ/″\に主張《しゆちよう》や權利《けんり》をもつてゐるものであるといふことを悟《さと》らないでは、最《もつと》も高《たか》く最《もつと》も大《おお》きい成功《せいこう》を收《おさ》めることは到底出來《とうていでき》ません。  強《つよ》い、烈《はげ》しい性《せい》の衝動《しようどう》をもちながら、生《うま》れつきの移《うつ》り氣《ぎ》や嫉妬心《しつとしん》に禍《わざわい》されて、異性《いせい》のもつてゐるいろ/\の美點《びてん》を見出《みいだ》すことが出來《でき》ず、そのために若《わか》いうちには結婚出來《けつこんでき》ない傾向《けいこう》があります。  報《むく》いられない戀《こい》に煩《もだ》えたり、自分《じぶん》が倦《う》みはじめた戀《こい》の相手《あいて》に曳《ひ》きずられて行《い》つたりして、徒《いたず》らに時《とき》をすごすといふやうなことは殆《ほと》んどありません。  たとへどんな理由《りゆう》があつても、いつまでも泣《な》き悲《かな》しんでいるやうなことは、この月生《つきうま》れの人《ひと》には決《けつ》して見《み》られません。  男女《だんじよ》の別《べつ》なく、有爲《ゆうい》の材《ざい》を要望《ようぼう》する聲《こえ》は、地上《ちじよう》の至《いた》る處《ところ》で日一日《ひいちにち》と高《たか》まつて行《ゆ》きつヽあります。しかも、四月生《しがつうま》れの人《ひと》はその才能《さいのう》を系統的《けいとうてき》に啓發《けいはつ》すると同時《どうじ》に、敢然自分《かんぜんじぶん》の短所《たんしよ》と戰《たたか》つて、これを克服《こくふく》すれば人一倍重望《ひといちばいじゆうぼう》を擔《にな》ふやうになることが出來《でき》るのです。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、全心全力《ぜんしんぜんりよく》をあげて、忍耐《にんたい》と落《お》ちつきとを養《やしな》ふべきで、利己《りこ》と怒《いか》りと短氣《たんき》とには、決《けつ》して捉《とら》へられてはなりません。  何《なに》もの何《なに》びとかに對《たい》して、一旦不機嫌《いつたんふきげん》になつたが最後《さいご》、ありとある物《もの》、ありとある人《ひと》に對《たい》して不機嫌《ふきげん》になり、その不機嫌《ふきげん》のつヾくかぎりは何處《どこ》に行《い》つても、自分《じぶん》の周圍《しゆうい》に必《かなら》ず地上《ちじよう》の小地獄《しようじごく》を現出《げんしゆつ》させるやうな性向《せいこう》がありますから意氣沮喪《いきそそう》は大《だい》の禁物《きんもつ》です。  酒《さけ》に一度《いちど》でも溺《おぼ》れるとやめることは出來《でき》ても極《きわ》めて稀《まれ》で、飮《の》んだくれ死《じに》に終《お》わるのが習《なら》はしですから酒類《さけるい》は決《けつ》して口《くち》にしてはなりません。  僚友《とも》に抽《ぬき》んでて首領《しゆりよう》と仰《あお》がれた場合《ばあい》には、部下《ぶか》のものの缺點《けつてん》や過失《かしつ》は努《つと》めて大目《おおめ》に見《み》るこそ然《しか》るべきで、權力《けんりよく》の濫用《らんよう》は愼《つつ》しまねばなりません。  餘《よ》の者《もの》はさて措《お》き、この月生《つきうま》れの人《ひと》に關《かん》しては、立派《りつぱ》な衣裳《いしよう》の道徳的《どうとくてき》な効果《こうか》は、よもや過大視《かだいし》されることは出來《でき》ないのですから、たヾ上品《じようひん》に着《き》こなすこそ然《しか》るべきで、衣裳《いしよう》のことに絶《た》えず心《こころ》の全部《ぜんぶ》を吸《す》ひ取《と》られてゐるやうなことがあつてはなりません。  すべて、係爭問題《けいそうもんだい》はおだやかに示談《じだん》で解決《かいけつ》し、無暗《むやみ》に法廷《ほうてい》に持《じ》してその力《ちから》に頼《たよ》るやうなことは愼《つつ》しまねばなりません。  成功《せいこう》するもしないも、たヾ内在《ないざい》の力《ちから》と才能《さいのう》とを用《もち》ひる方法《ほうほう》の如何《いか》に係《かか》つてゐる事《こと》を、束《つか》のまも忘《わす》れてはなりません。  自分《じぶん》はわかつてゐることだけしか使用《しよう》することは出來《でき》ないものですから、この月生《つきうま》れの人《ひと》の進歩發展《しんぽはつてん》は、自己《じこ》を知《し》らうと努力《どりよく》しはじめたその時《とき》から始《はじ》まり、自己《じこ》の缺點《けつてん》に打《う》ち克《か》つことに依《よ》つて、成功[#「成功」に傍点]も、健康[#「健康」に傍点]も富[#「富」に傍点]も得《う》ることが出來《でき》ます。 [#改ページ] [#中見出し]四月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、純良《じゆんりよう》な感《かん》じ易《やす》い性情《せいじよう》と、強《つよ》い感情的《かんじようてき》な模倣《もほう》の衝動《しようどう》とを與《あた》へられてゐますから、十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》つて愛護《あいご》しなければなりません。  夙《はや》くから、自制《じせい》と自恃《じじ》と自信《じしん》との三徳《さんとく》を涵養《かんよう》させることが大切《たいせつ》です。  人《ひと》の模倣《もほう》、殊《こと》にその短所《たんしよ》を模倣《もほう》する性向《せいこう》があるので、正直《しようじき》は正直《しようじき》をもつて迎《むか》へるでせうが、欺《あざむ》きはやはり欺《あざむ》きをもつて迎《むか》へずにはゐないでせう。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、兩親《りようしん》または子《こ》どもの衝動的《しようどうてき》な性質《せいしつ》を眞《しん》に理解《りかい》してゐる年長《ねんちよう》が、絶《た》えず附《つ》き添《そ》つてゐるやうにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもの信頼《しんらい》を得《う》る路《みち》は、たヾ愛《あい》と親切《しんせつ》との二《ふた》つより無《な》いのですから、母親《ははおや》は子供《こども》を理解《りかい》することに全力《ぜんりよく》をそヽがねばなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもの大多數《だいたすう》は、決《けつ》して、眞《しん》に理解《りかい》せられるといふことはありません。搖籃《ようらん》から奧津城《おくつき》へと眞價《しんか》を認《みと》められないで、淋《さび》しく辿《たど》つて行《ゆ》く不幸《ふこう》な運命《うんめい》を與《あた》へられてゐるのです。  茶《ちや》も珈琲《コーヒー》も禁物《きんもつ》です。あつさりした滋養物《じようぶつ》を時間正《ただ》しく攝《と》らせることに、心《こころ》をそヽがねばなりません。  幼《おさな》いうちから、着物《きもの》は自分《じぶん》で選《えら》ぶやうにさせるのが賢明《けんめい》な策《さく》です。かくすればその獨自《どくじ》の趣味《しゆみ》が、必《かなら》ずいよ/\高《たか》まつて行《ゆ》くにちがひありません。  四月生《しがつうま》れの女《おんな》の子《こ》には、家事《かじ》に關《かん》する一定《いつてい》の仕事《しごと》を與《あた》へてその責《せめ》に任《にん》じ、思《おも》ひのまヽにそれを行《おこな》はせると同時《どうじ》に、絶《た》えず監視《かんし》を怠《おこた》らないでその責《せめ》を十分《じゆうぶん》に果《はた》させるやうにしなければなりません。  至高至福《しこうしふく》の實《み》を結《むす》ぶまで向上發達《こうじようはつたつ》させるためには、どんな場合《ばあい》でも、決《けつ》して責《せめ》たり叱《しか》つたりしてはなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、たとへば、愛《あい》と珍重《ちんちよう》との日《ひ》ざしを浴《あ》びて咲《さ》き出《い》でる花《はな》で、非難《ひなん》と輕侮《けいぶ》の冷氣《れいき》にあへばたちまち霜《しも》がれる蕾《つぼみ》であります。  鋭《するど》い正義感《せいぎかん》を惠《めぐ》まれてをり、惡《あく》はいつまでも忘《わす》れぬ性情《せいじよう》がありますから、親《おや》たるものは、子《こ》どもが惡《わる》い事《こと》をした事《こと》に絶對《ぜつたい》の確言《かくげん》がなくては、そしてまた、自分自身《じぶんじしん》が不機嫌《ふきげん》になつてゐない時《とき》でなくては、決《けつ》して子《こ》どもを叱《しか》つてはなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには不斷《ふだん》の監視《かんし》が必要《ひつよう》です。しかし、それを決《けつ》してさとらせてはなりません。若《も》しも監視《かんし》せられてゐる事《こと》をさとると、子《こ》どもはその胸《むね》に劇《はげ》しい怒《いかり》をおぼえて、不機嫌《ふきげん》になり沈欝《ちんうつ》になつてしまいます。ですから、心《こころ》しなければならないのはかヽる子《こ》どもの親《おや》となつた人達《ひとたち》で、實《じつ》に重大《じゆうだい》な責任《せきにん》を負《お》つていられるのであります。  親切《しんせつ》を旨《むね》とし、何《なに》よりも子《こ》どもの爲《す》る事《こと》なす事《こと》に對《たい》して、いつもその眞價《しんか》をくまうとするやさしい心《こころ》がけが大切《たいせつ》です。そして、また、常《つね》に獨立《どくりつ》を維持《いじ》してさへゐれば望《のぞ》み通《どお》りの生活《せいかつ》はもとより、自分等親《じぶんらおや》たちの期待《きたい》してゐる以上《いじよう》に立派《りつぱ》な、能才《のうさい》な、愛《あい》すべき人物《じんぶつ》になることが出來《でき》るのであるといふことを、教《おし》へ教《おし》へしなければなりません。  極《ご》く幼《おさな》いうちから「成功《せいこう》は意思《いし》ひとつ」といふ言葉《ことば》をその標語《モツトー》にさせ、次《つぎ》にまた、目標《もくひよう》は高《たか》きにおかせるやうにしなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]四月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 親鸞上人《しんらんじようにん》 松田正久《まつだまさひさ》 板垣退助《いたがきたいすけ》 松方巖《まつかたいわお》 山縣有朋《やまがたありとも》 三島彌太郎《みしまやたろう》 大石正巳《おおいしまさみ》 跡見花蹊《あとみかけい》 頭山滿《とうやまみつる》 石川千代松《いしかわちよまつ》 ユウ・エス・グラント將軍《しようぐん》(軍人《ぐんじん》) ワシントン・アーヴィング(文士《ぶんし》) ウィリアム・シェークスピーア(劇作家《げきさつか》) ハアバアト・スペンサア(哲學者《てつがくしや》) ビスマルク(政治家《せいじか》) アナトオル・フランス(小説家《しようせつか》) 大僧正《だいそうじよう》ファアレイ(宗教家《しゆうきようか》) [#改丁] [#大見出し]五月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、才智技術《さいちぎじゆつ》の兩方面《りようほうめん》に非凡《ひぼん》な天惠《てんけい》をもつてゐるのが常《つね》です。  焦躁《しようそう》に陷《おちいつ》てゐないかぎりは、いつも勇敢《ゆうかん》で親切《しんせつ》であり、同情《どうじよう》に驅《か》られて他人《たにん》の重荷《おもに》をも引受《ひきう》けることがしば/\あります。  すべて樂《たの》しい事《こと》、快《こころよ》いものが大好《だいす》きで、友《とも》を招《まね》いて宴《えん》を張《は》つたり會《かい》を催《もよお》したりして愉快《ゆかい》を味《あじわ》ひます。  人《ひと》でも物《もの》でも事《こと》がらでも、たヾ派手《はで》でけば/″\しくありさへすれば、それに氣《き》をとられてしまふ傾《かたむ》きがありますから、何《なん》にせよその眞價《しんか》を見《み》るやうにする習《なら》はしを培《つちか》はねばなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、智力《ちりよく》、精神力《せいしんりよく》の二《ふた》つが二《ふた》つながら秀《ひい》でてゐるのが常《つね》で、しば/\偉大《いだい》な指導者《しどうしや》となります。  大著作家《だいちよさくか》や名評論家《めいひようろんか》となり、また、能辯《のうべん》な論客《ろんかく》として名《な》を馳《は》せることもしば/\です。そして部下門下《ぶかもんか》はじめ、すべての隨從《ずいじゆう》する者《もの》の心《こころ》を鼓舞《こぶ》し動《うご》かす非凡《ひぼん》な力《ちから》を具《そな》へてゐるやうであります。  勝手氣儘《かつてきまま》が容《い》れられてゐる間《あいだ》は、つねに忠實《ちゆうじつ》な友《とも》ですが、敵《てき》になつたら、いづれの月生《つきうま》れの者《もの》にも勝《ま》して殘忍《ざんにん》であり酷薄《ごくはく》であります。  變通自在《へんつうじざい》で、どんな社會《しやかい》に入《はい》つても、また、どんな場合《ばあい》に出會《であ》つても、たやすく周圍《しゆうい》と調和《ちようわ》します。  非凡《ひぼん》な記憶力《きおくりよく》を惠《めぐ》まれてをります。從《したが》つて、議論《ぎろん》が實《じつ》に巧《たく》みです。  五官《ごかん》の感覺《かんかく》がいづれも竝《なみ》はづれて鋭《するど》いので、肉體上《にくたいじよう》の快樂《かいらく》にふけり過《す》ぎる傾向《けいこう》があります。  精神生活《せいしんせいかつ》が向上《こうじよう》しないかぎり、當然《とうぜん》の幸福《こうふく》を味《あじわ》ふことも、當然《とうぜん》の成功《せいこう》ををさめる事《こと》も出來《でき》ません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、通例《つうれい》、刺繍《ししゆう》や裝飾《そうしよく》に巧《たく》みな工匠《こうしよう》で、色彩《しきさい》に對《たい》する秀《すぐ》れた感覺《かんかく》をもち高尚《こうしよう》な趣味《しゆみ》をめぐまれてゐます。  獨創力《どくそうりよく》が豐《ゆた》かなので、非常《ひじよう》に秀《すぐ》れた美術的裝飾《びじゆつてきそうしよく》を、施《ほどこ》すと同樣《どうよう》に立案《りつあん》することが出來《でき》ます。  性《せい》のいづれを問《と》はず、この月生《つきうま》れの人《ひと》は、氣《き》まぐれの傾向《けいこう》がありますが、これは、結婚生活《けつこんせいかつ》の幸福《こうふく》にいつも悲《かな》しい障害《しようがい》を與《あた》へるものです。  能《あた》うかぎりの注意《ちゆうい》を拂《はら》つて配偶者《はいぐうしや》を選《えら》ぶこと、そのうへお互《たが》ひに、十分《じゆうぶん》に精神的訓練《せいしんてきくんれん》が積《つ》まれてゐること、この二《ふた》つの條件《じようけん》が完全《かんぜん》に滿《み》たされて、始《はじ》めて結婚生活《けつこんせいかつ》に幸福《こうふく》が味《あじわ》はれ滿足《まんぞく》が與《あた》へられます。  五月生《ごがつうま》れの人《ひと》は、自己を完成する[#「自己を完成する」に傍点]ために、あくまで盡《つく》さうとたヾそれのみに努力[#「努力」に傍点]しなければなりません。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は、實行力《じつこうりよく》が豐《ゆた》かであります。そして請負師《うけおいし》、建築師《けんちくし》、技師《ぎし》、辯護士《べんごし》として最《もつと》も大《おお》きな成功《せいこう》を收《おさ》めます。  ともすれば胃腸《いちよう》をそこなふ恐《おそ》れがありますから、食物《しよくもつ》の選擇《せんたく》に十分注意《じゆうぶんちゆうい》しなければなりません。  酒《さけ》を嗜《たしな》む傾向《けいこう》がありますが、恐《おそ》ろしい危險《きけん》はこの方面《ほうめん》にかくれてゐるのですから、酒《さけ》には趣味《しゆみ》をおぼえぬように何《なに》よりも嚴重《げんじゆう》に警戒《けいかい》しなければなりません。  五月生《ごがつうま》れの婦人《ふじん》は、特殊《とくしゆ》の才能《さいのう》を惠《めぐ》まれてゐる傾向《けいこう》がありますから、人《ひと》の警告《けいこく》に耳《みみ》を借《か》さないで、あくまでその才能《さいのう》を發揮《はつき》するように心《こころ》がけねばなりません。  家事《かじ》、家政《かせい》の方面《ほうめん》のことは何《なに》によらず嫌《きら》ひな性《たち》ですから、自分《じぶん》に立《た》ち代《かわ》つて劇《はげ》しい臺所仕事《だいどころしごと》をするに耐《た》へないやうな男子《だんし》と縁《えん》を結《むす》ばうとするやうな際《さい》には、自分《じぶん》の性向《せいこう》を十分《じゆうぶん》に考《かんが》へてみる必要《ひつよう》があります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、心《こころ》がまことの主《あるじ》で、肉體《からだ》は心《こころ》の僕《しもべ》にすぎないものであるといふ事《こと》を、夙《はや》くから知《し》つてゐなければなりません。  邪《よこしま》な考《かんが》へと、賤《いや》しい衝動《しようどう》とを制《おさ》へる修養《しゆうよう》をしなければなりません。  他人《ひと》の落《お》ち度《ど》には我慢《がまん》をするやうにして忍耐《にんたい》の習慣《しゆうかん》を養《やしな》はねばなりません。  他人《ひと》の喜《よろこ》びを講《こう》ずると共《とも》に、暴威《ぼうい》を揮《ふる》ふ惡癖《あくへき》を矯《た》める努力《どりよく》が必要《ひつよう》です。  絶《た》えず劇《はげ》しい口論《こうろん》を捲《ま》き起《おこ》すばかりか、ともすれば暴力《ぼうりよく》にさへ訴《うつた》へるやうな傾向《けいこう》がありますから、短氣《たんき》を制《おさ》へる修業《しゆぎよう》が別《べつ》して必要《ひつよう》であります。  異《ことな》る經驗《けいけん》、異《ことな》る人生觀《じんせいかん》によつて益《えき》せられることもあるのですから、人《ひと》の説諭《せつゆ》に耳《みみ》を傾《かたむ》けることは、決《けつ》して無益《むえき》ではありません。  修養《しゆうよう》の足《た》りない者《もの》を夫《おつと》にしてゐる、五月生《ごがつうま》れの婦人《ふじん》は、不幸《ふこう》をかこつことがしば/\あります。しかし、この不幸《ふこう》たるや、夫《おつと》が智惠《ちえ》と精神《せいしん》とのまへに額《ぬか》づくやうになりさへすれば、たちまち歡《よろこ》びと處《ところ》を更《か》へてしまふものに過《す》ぎないのです。  結婚《けつこん》とは、終生《しゆうせい》の契《ちぎり》を意味《いみ》してゐるものであることを、記憶《きおく》してゐなければなりません。  それゆゑ、戀《こい》のたわむれは常《つね》に避《さ》くべきです。ことに結婚後《けつこんご》はなほさらで、間違《まちが》つた路《みち》に一歩足《いつぽあし》を踏《ふ》み入《い》れたために、遂《つい》には身《み》の行末《ゆくすえ》を破滅《はめつ》の淵《ふち》に投《な》げ込《こ》むやうなことも、しばしばあるものです。心《こころ》しなければなりません。  一月《いちがつ》と九月《くがつ》と十月《じゆうがつ》に生《うま》れた人《ひと》と合性《あいしよう》です。が、しかし、おたがひに精神的修養《せいしんてきしゆうよう》が積《つ》まれて、言行《げんこう》が精神《せいしん》に律《りつ》せられてゐさへすれば、その以外《いがい》の月《つき》の生《うま》れの人《ひと》とも、決《けつ》して良《よ》き配偶者《はいぐうしや》になることが出來《でき》ないといふのではありません。  げに五月《ごがつ》は幸運《こううん》な月《つき》であります。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、或《あ》る種《しゆ》の仕事《しごと》に對《たい》する自分《じぶん》の強《つよ》い憎惡《ぞうお》を、結婚《けつこん》するまへには必《かなら》ず告白《こくはく》して、自分《じぶん》をそんな仕事《しごと》の奴隷《どれい》にしようと望《のぞ》むやうな男子《だんし》の、妻《つま》になることを避《さ》けるやうにしなければなりません。  常《つね》に自己《じこ》に忠實《ちゆうじつ》であれ。男《おとこ》らしい男《おとこ》は、卒直《そつちよく》を讃美《さんび》するものです。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、五月《ごがつ》と六月《ろくがつ》を、重要《じゆうよう》な仕事《しごと》に着手《ちやくしゆ》するのにいちばん吉《よ》い月《つき》と見《み》なければなりません。そして金曜日《きんようび》が吉日《きちにち》なのです。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》はみな、瑪瑙《アゲエト》、緑玉《エメラルド》か瑠璃《ラビスラズリ》の入《はい》つた指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきで、男子《だんし》はそれらのいづれかの石《いし》のスカーフ・ピンをさすべきです。  この月生《つきうま》れの人《ひと》には、あらゆる濃《こ》さの黄色《きいろ》、樺色《かばいろ》、赤色《あかいろ》と黒色《くろいろ》が、身《み》につけて似合《にあ》ふ色《いろ》、最《もつと》も望《のぞ》みの叶《かな》ふ色《いろ》であります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、困難《こんなん》の重石《おもし》にひしがれても愉快《ゆかい》な氣持《きもち》をもちこたへるだけの力《ちから》がいつもありません。ですから、後悔《こうかい》のもとヽなる怒《いか》りを爆發《ばくはつ》しないやうに警戒《けいかい》が必要《ひつよう》であります。  どんな場合《ばあい》にも、忍耐《にんたい》が足《た》りません。そして、落《お》ちつき拂《はら》つてゆつくりと仕事《しごと》をするやうな人《ひと》を赦《ゆる》すだけの寛容《かんよう》がないのがならひです。  腹《はら》のむしやくしやしてゐる時《とき》、即《すなわ》ち、おちつきといふ晴々《はればれ》しい心的状態《しんてきじようたい》に達《たつ》してゐない時《とき》には、そばにゐる者《もの》にとつては決《けつ》して氣持《きもち》のよい人《ひと》ではありません。  通例《つうれい》、金錢《きんせん》の奴隷《どれい》になるやうなことはなく、吝嗇家《りんしよくか》がするやうに無暗《むやみ》に物惜《ものお》しみするやうなこともありません。  友《とも》の選擇《せんたく》にはいつも成功《せいこう》することがありません。そして、そのために往々友情《おうおうゆうじよう》の尚《とうと》さを疑《うたが》ふやうになることがあります。  辱《はずかし》めに値《あたい》することがわかればいざ知《し》らず、決《けつ》して、人《ひと》の名譽《めいよ》をなみして喜《よろこ》ぶといふやうなことはありません。  あらさがし家《や》に生《うま》れついてはをりません。  理解《りかい》さへすれば、決《けつ》してむつまじく暮《く》らせない人《ひと》ではありません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、他人《ひと》の事《こと》に身《み》を入《い》れヽば自分《じぶん》の仕事《しごと》は疎《おろそ》かになるといふことを信奉《しんぼう》してゐるので、他人《ひと》の問題《もんだい》に奔走《ほんそう》するやうなことは、決《けつ》してありません。  人《ひと》に先《さき》んじて非難《ひなん》の矢《や》を放《はな》つこともなく、人《ひと》に後《おく》れて受《う》けた中傷《ちゆうしよう》の痛《いた》みを忘《わす》れるといふこともありません。  浮世《うきよ》は異《ことな》る性格《タイプ》の人間《にんげん》の寄合世帶《よりあいせたい》で、堪忍《かんにん》は誰《だれ》でも養《やしな》つたものヽ利益《りえき》になる徳性《とくせい》の一《ひと》つであるといふことが、悟《さと》れないうちは、人生《じんせい》からその精華《せいか》を取《と》つて味《あじわ》つてゐるのではありません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、土龍子《もぐら》の丘《おか》から山《やま》をつくる、といつた性向《せいこう》がありますから、取《と》るにも足《た》りないやうな事《こと》に腹《はら》を立《た》てヽはなりません。  同情《どうじよう》に驅《か》られて、喧嘩《けんか》や口論《こうろん》の一方《いつぽう》の肩《かた》をもつやうなことがあつてはなりません。  刺戟性《しげきせい》の飮料《いんりよう》を多量《たりよう》に飮《の》んではなりません。すべて酒精《しゆせい》は、液體固體《えきたいこたい》のどんな種類《しゆるい》のものに含《ふく》まれてゐる場合《ばあい》でも、精神上肉體上《せいしんじようにくたいじよう》の天賦《てんぷ》の特質《とくしつ》を磨消《ましよう》しないではおきませんから心《こころ》すべきです。  ちひさい賭《か》け事《ごと》でも相場《そうば》でも、賭《か》け事《ごと》には一切指《いつさいゆび》を染《そ》めてはなりません。  無暗《むやみ》に友情《ゆうじよう》を見《み》せびらかす人《ひと》や、つまらぬ事《こと》や、くだらぬ物《もの》にかヽはつて、金錢《きんせん》を浪費《ろうひ》してはなりません。  結婚《けつこん》の結果《けつか》の一《ひと》つを、莫大《ばくだい》な富《とみ》に求《もと》めることも、洗《あら》ふが如《ごと》き赤貧《せきひん》に求《もと》めることも禁斷《きんだん》です。眞《しん》の幸福《こうふく》を望《のぞ》むならば、必《かなら》ずこの兩極端《りようきよくたん》を避《さ》けることが安全《あんぜん》な路《みち》であります。  職業上《しよくぎようじよう》の事《こと》でも、家事上《かじじよう》の事《こと》でもおろそかにしてはなりません。十分《じゆうぶん》の訓練《くんれん》を經《へ》た公民《こうみん》のしるしの一《ひと》つは節儉《せつけん》といふ事《こと》であります。  五月生《ごがつうま》れの人《ひと》は、何事《なにごと》にも自己《じこ》の獨創力《どくそうりよく》に信倚《しんき》してこそ、最上《さいじよう》の自分《じぶん》を發揮《はつき》することなのでありますから、人《ひと》の話《はな》しぶりや身《み》ぶりを模《ま》ねやうとしてはなりません。  人《ひと》が出世《しゆつせ》の目的《もくてき》を刈《か》り集《あつ》めやうと働《はたら》いてゐる時《とき》に、それを拱手傍觀《きようしゆぼうかん》してゐてはなりません。 「しても宜い[#「しても宜い」に傍点]」といふ意思《こヽろ》に「しよう[#「しよう」に傍点]」といふ意思《こヽろ》を障《さまた》げさせてはなりません。  たヾ他人《たにん》の業蹟《ぎようせき》と同《おな》じ水準面《レヴェル》に達《たつ》しようとするばかりでなく、進《すす》んであらゆる點《てん》に於《おい》て群を拔かう[#「群を拔かう」に傍点]といふ決心《けつしん》をする必要《ひつよう》があります。 [#改ページ] [#中見出し]五月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、「少年《しようねん》は大人《おとな》の父《ちヽ》なり」といふ、かのコンコルドの哲人《てつじん》の言葉《ことば》の眞《まこと》であることをよく示《しめ》してゐます。  性質《せいしつ》は實《じつ》に活發《かつぱつ》で、智惠《ちえ》は實《じつ》に能動的《のうどうてき》であります。從《したが》つて、六歳《ろくさい》から八歳《はつさい》ぐらゐになるまでは、學校《がつこう》に通《かよ》はせてはなりません。極《ご》く幼少《ようしよう》の頃《ころ》から勉強《べんきよう》させると、普通《ふつう》ならば人世《じんせい》に見事《みごと》な地位《ちい》を着々《ちやくちやく》と築《きず》き上《あ》げてゐる筈《はず》であつた一生《いつしよう》を、却《かえ》つて臺《だい》なしにしてしまふことが往々《おうおう》あるものです。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、殆《ほと》んど除外例《じよがいれい》なしに覺《さと》りの早《はや》い性質《せいしつ》を享《う》けて來《き》てゐます。ですから、決《けつ》して勉強《べんきよう》を強《し》ひるべきではありません。  往々《おうおう》、腹立《はらだち》やすくなる傾向《けいこう》がありますから、その趣味《しゆみ》や氣性《きしよう》にそぐわないやうな課業《かぎよう》を、無理《むり》にさせるやうなことがあつてはなりません。  善《よ》きに向《むか》ふ傾向《けいこう》を惠《めぐ》まれてゐると同時《どうじ》に、容易《ようい》に搨キ《ぞうちよう》し、つけ上《あが》るといふやうな惡《わる》い傾向《けいこう》がありますから、兩親《りようしん》は子供《こども》の生《お》ひ立《た》ちに、飽《あ》くまでも注意《ちゆうい》ぶかい監視《かんし》の目《め》をそヽぐことを決《けつ》して怠《おこた》つてはなりません。  五月生《ごがつうま》れの子《こ》どもは、どんな行爲《こうい》を命《めい》ぜられても、それに對《たい》して理由《りゆう》を求《もと》める權利《けんり》を、立派《りつぱ》な理性《りせい》をさづけられてゐます。そして、幼心《おさなごころ》に判斷《はんだん》してみて、不必要《ふひつよう》と思《おも》はれる務《つとめ》を果《はた》せと強《し》ひられるやうな事《こと》があると、その智惠《ちえ》に反撥《はんぱつ》せられて怒《いか》ります。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもの教育《きよういく》は、何事《なにごと》にせよ事《こと》を行《おこな》ふ方法手段《ほうほうしゆだん》を教《おし》へるときには、それと同時《どうじ》に、どうしてそれが最上《さいじよう》の方法《ほうほう》であり、最良《さいりよう》の手段《しゆだん》であるかといふ理由《りゆう》をも説明《せつめい》して聞《き》かす、表明的教育法《ひようめいてききよういくほう》によらなければなりません。  自分《じぶん》の義務《ぎむ》は迅速《じんそく》に、潔《いさぎよ》く、進《すす》んで果《はた》すやふにいつも奬勵《しようれい》することを怠《おこた》つてはなりません。  どんな仕事《しごと》、どんな課業《かぎよう》にでも、進境《しんきよう》が見《み》えた場合《ばあい》には必《かなら》ずそれを賞美《しようび》することが肝要《かんよう》です。  多《おお》くの場合《ばあい》、子《こ》どもを信《しん》じてその判斷《はんだん》に任《まか》せ、さうして、自分《じぶん》には正《ただ》しく物事《ものごと》を判斷《はんだん》する力《ちから》が具《そなわ》つてゐるのだと信《しん》ずる勇氣《ゆうき》を養《やしな》はせねばなりません。そうすれば、屹度驚《きつとおどろ》くほど迅《すみや》かに物事《ものごと》を行《おこな》ふときに、その最上《さいじよう》の手段《しゆだん》を講《こう》ずることが出來《でき》るやうになります。  道《みち》を教《おし》へねばなりません。「徳《とく》はそれ自身《じしん》の報酬《ほうしゆう》である」といふこと、徳《とく》は萬人《ばんにん》に禮儀正《れいぎただ》しいことを報《むく》いるものであることを教《おしえ》ねばなりません。  心《こころ》を寛大《かんだい》にするやうに教《おし》へねばなりません。そうすれば、天性鷹揚《てんせいおうよう》に生《うま》れついてゐるのですから、友《とも》だちにものを分《わ》け與《あた》へる風習《ふうしゆう》も早《はや》くつき、全世界《ぜんせかい》に賞美《しようび》の的《まと》となつてゐる利他《りた》の徳《とく》の涵養《かんよう》される路《みち》が切《き》り拓《ひら》かれて行《い》くのです。  この月生《つきうま》れの女《おんな》の子《こ》は、家事《かじ》、家政《かせい》を執《と》るのが好《す》きになるといふことは決《けつ》して無《な》いさだめなのですから、何《なに》にまれ手藝《しゆげい》に習熟《しゆうじゆく》させるべきで、それには刺繍《ししゆう》や裁縫《さいほう》、編物《あみもの》や繪畫《かいが》などが適當《てきとう》であります。 [#改ページ] [#中見出し]五月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 大浦兼武《おおうらかねたけ》 三宅雄二郎《みやけゆうじろう》(雪嶺《せつれい》) 坪内雄藏《つぼうちゆうぞう》(逍遙《しようよう》) 芳賀矢一《はがやいち》 伊東己代治《いとうみよじ》 鴻池善右衞門《こうのいけぜんえもん》 高野長英《たかのちようえい》 圓山應擧《まるやまおうきよ》 村上彦之丞《むらかみひこのじよう》 ダンテ(詩人《しじん》) ヴィクトリア女王《じよおう》(女帝《じよてい》) ユウジェニイ皇后《こうごう》(皇妃《こうひ》) ドオグラス・フェアバンクス(俳優《はいゆう》) ジェエムズ・バリイ卿《きよう》(劇作家《げきさつか》) カアル・マルクス(思想家《しそうか》) ロバアト・ブラウニング(詩人《しじん》) アルフォンゾ・ドオデエ(小説家《しようせつか》) ホオル・ケイン(劇作家《げきさつか》) バルザック(小説家《しようせつか》) ジョン・スチュアート・ミル(經濟學者《けいざいがくしや》) リヒアルト・ワグネル(音樂家《おんがくか》) [#改丁] [#大見出し]六月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、二重《にじゆう》の性格《せいかく》を與《あた》へられてゐがちです。從《したが》つて成功《せいこう》の極致《きよくち》に達《たつ》するためには、良《よ》い方《ほう》、高尚《こうしよう》な方《ほう》の性格《せいかく》を主《しゆ》にしてゐるやうに絶《た》えまなく警戒《けいかい》してゐなければなりません。  いつも過去《かこ》を振《ふ》り返《かへ》つて、あヽすればよかつたものを、斯《こ》うすればよかつたものを、と悔《くや》んでは不滿《ふまん》に陷《おちい》り、神經《しんけい》を昂《たかぶ》らしてゐるやうな傾向《けいこう》があります。  焦躁《しようそう》に滿《み》たされていて、目的《もくてき》も考《かんが》へずに、たヾ現在《げんざい》を脱《だつ》しよう、何《なに》かを爲《な》さう、何《なに》かに成《な》らうとあこがれ悶《もが》く傾向《けいこう》もあります。  困《こま》つてゐる人、苦《くる》しんでゐる人《ひと》に對《たい》しては、同情《どうじよう》そのもの、親切《しんせつ》そのものになります。それゆゑ、醫師《いし》、看護婦《かんごふ》などの路《みち》にすヽめば必《かなら》ず大《おお》きい成功《せいこう》が得《え》られます。  この月《つき》に生《うま》れたものは、政治界《せいじかい》、宗教界《しゆうきようかい》の人《ひと》となるに適《てき》して居《お》り、また、科學《かがく》、文藝《ぶんげい》の方面《ほうめん》で名《な》を成《な》すこともしば/\あります。  たいていは大《だい》の旅行好《りよこうず》きで、一般《いつぱん》に三十五歳以前《さんじゆうごさいいぜん》に富《とみ》を積《つ》む傾向《けいこう》があります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、男女《だんじよ》とも、良《よ》い方《ほう》の性格《せいかく》を主《しゆ》にしやうといふ強《つよ》いねがひのある者《もの》は、善《ぜん》に對《たい》する力《ちから》を豐《ゆた》かに惠《めぐ》まれてゐます。  鳥《とり》も獸《けもの》もしたひ寄《よ》り、家《いえ》のまはりの草花《くさばな》の生《お》ひ立《た》ちも早《はや》いほどの徳《とく》を惠《めぐ》まれてゐます。  非凡《ひぼん》な實行的手腕《じつこうてきしゆわん》を具《そな》へてゐることがしば/\あつて、他人《たにん》のために仕事《しごと》の切《き》り盛《も》りをすることが出來《でき》ます。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、殊《こと》に色《いろ》と草花《くさばな》とが好《す》きで、自然界《しぜんかい》、美術界《びじゆつかい》に於《お》ける美《うつく》しいもの一切《いつさい》を愛《あい》します。  情愛《じようあい》が豐《ゆた》かで、利他《りた》の精神《せいしん》に富《と》み、犧牲《ぎせい》の心《こころ》が旺《さか》んではありますが、ひどく門閥《もんばつ》を鼻《はな》にかけるきらひがあります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、天性《てんせい》の泣《な》き言《ごと》いひ、小言《こごと》いひです。しかし、此《こ》の短所《たんしよ》を滅《めつ》してしまはないうちは、至高至善《しこうしぜん》の生活《せいかつ》といふものは決《けつ》して訪《おとず》れて來《こ》ないのですから、一分一秒《いつぷんいちびよう》のあひだでもこの敵《てき》と戰《たたか》ふことを怠《おこた》つてはなりません。  若《わか》いうちには結婚《けつこん》しない傾向《けいこう》があります。しかし、若《わか》くて結婚《けつこん》しても、持《も》つて生《うま》れた缺點《あら》さがしをしたり口小言《くちこごと》をいつたりする惡《わる》い癖《くせ》を出《だ》しさへしなければ、必《かなら》ず理想的《りそうてき》に幸福《こうふく》な家庭《かてい》がつくれます。  ともすれば胃腸《いちよう》をそこなふ傾《かたむき》があります。そのうへ病氣《びようき》にかヽると、ゐまはりの者《もの》を一人無《ひとりな》しみじめなものにしてしまふほど悲觀的《ひかんてき》になる癖《くせ》がありますから、からだには何處此處《どこここ》のきらひなく十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》わねばなりません。  疑《うたぐ》りぶかいと共《とも》に機嫌《きげん》をそこね易《やす》い性向《せいこう》がありますから、交《まじわ》りを結《むす》んでゐる人々《ひとびと》を信頼《しんらい》する習慣《しゆうかん》を不斷《ふだん》に養《やしな》はねばなりません。  權力《けんりよく》の巨人《きよじん》になつて、人生《じんせい》を充實《じゆうじつ》し豐富《ほうふ》にする素質《そしつ》を惠《めぐ》まれてゐます。しかし、そのためには缺點《あら》さがしをしたり、泣《な》き言《ごと》を言《い》つたりするやうな惡癖《あくへき》を、どこまでも矯正《きようせい》しなければなりません。  すること爲《な》すこと、みな極端《きよくたん》に走《はし》る傾向《けいこう》がありますから、中庸《ちゆうよう》の徳《とく》を養《やしな》ひ、また健康《けんこう》を失《な》くさぬやうに細心《さいしん》の注意《ちゆうい》が必要《ひつよう》です。  すべてを外面《がいめん》のみに依《よ》つて判斷《はんだん》するきらひが多《おお》いので、ともすれば友《とも》の選擇《せんたく》にも賢明《けんめい》を缺《か》き、はては閑却《かんきやく》と冷淡《れいたん》との苦汁《くじゆう》を甞《な》めさせられて大《たい》へんに苦《くる》しまねばならないやうな事《こと》があります。  性《せい》のいづれを問《と》はず、六月生《ろくがつうま》れの人《ひと》は、愛嬌《あいきよう》を豐《ゆた》かにして、あらゆる者《もの》を惹《ひ》き寄《よ》せるといふことによつてだけ、最高《さいこう》の發展《はつてん》を遂《と》げることが出來《でき》るのです。  これがあらゆる眞《しん》の權力[#「權力」に傍点]、あらゆる眞《しん》の偉大[#「偉大」に傍点]を握《にぎ》るための唯一《ゆいいつ》の祕法祕訣《ひほうひけつ》です。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、快活《かいかつ》の氣性《きしよう》、剛毅《ごうき》の精神《せいしん》を養《やしな》ふと同時《どうじ》に、他人《たにん》もまたそれ/″\に自己《じこ》の見解《けんかい》をもつ權利《けんり》のあるものであるといふことを鑑《かんが》みなければなりません。  忍耐《にんたい》、沈默《ちんもく》の二《ふた》つの徳《とく》を養《やしな》ひ、談話《だんわ》は、怒《いか》りを買《か》つたり口論《こうろん》を捲《ま》き起《おこ》したりするやうな人身攻撃《じんしんこうげき》にわたらないやうにいつも愼《つつ》しまねばなりません。  不平《ふへい》を鳴《な》らしたり、泣《な》き言《ごと》を口《くち》にしたりすることは、度重《たびかさ》なればいよ/\劇《はげ》しくなるもので、この月生《つきうま》れの老人《ろうじん》が、往々家族《おうおうかぞく》のもののひどい嫌《きら》はれ者《もの》になるのも、これがためですから、決《けつ》してこの惡習《あくしゆう》をつけぬやうに覺悟《かくご》を堅《かた》く定《さだ》めねばなりません。  手足《てあし》をじつとさせておくやうにする修業《しゆぎよう》も爲《な》すべきことの一《ひと》つです。これは、生來《せいらい》の、落《お》ちつきの無《な》い性癖《せいへき》に打《う》ち克《か》つ爲《た》めのよすがになります。  一《ひと》つの仕事《しごと》を完成《かんせい》するまでは、他《ほか》の仕事《しごと》には手《て》をつけぬやうにする習慣《しゆうかん》を、全心《ぜんしん》を以《も》つて養《やしな》はねばなりません。たヾこの方法《ほうほう》によつてだけ、恒心《こころ》のない性向《せいこう》を矯正《きようせい》することが出來《でき》るのです。  友《とも》や同僚《どうりよう》に非難《ひなん》の矢《や》を放《はな》たぬ決心《けつしん》をすることが肝要《かんよう》です、また、他人《たにん》の場合《ばあい》にも指彈《しだん》するやうなことは、決《けつ》して犯《おか》してはなりません。  咽喉《のど》と肺臟《はいぞう》とを大切《たいせつ》にすると同時《どうじ》に、全身《ぜんしん》に亘《わた》つて十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》ふべきです。  幼《おさな》い時《とき》から、大《おお》きな責任《せきにん》を負《お》ふやうにしなければなりません。責任《せきにん》を思《おも》ふことよりほかには、落《お》ちつきの無《な》い人《ひと》に、落《お》ちつきを與《あた》へるものはありません。  生來《せいらい》、成《な》るがまヽに打《う》ちまかせておいて、あらゆるものを手放《てばな》すといふやうな傾向《けいこう》がありますから、金錢《きんせん》にせよ、時間《じかん》にせよ、それを費《ついや》すに大《おお》まか過《す》ぎぬ修養《しゆうよう》を決《けつ》して怠《おこた》つてはなりません。  重要《じゆうよう》な企業《きぎよう》は、四月《しがつ》か八月《はちがつ》に着手《ちやくしゆ》すべきであり、一週《いつしゆう》のうちでは、金曜日《きんようび》が大吉日《だいきちにち》であります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、二月《にがつ》か十一月《じゆういちがつ》の生《うま》れの人《ひと》が合性《あいしよう》です。しかし、精神的《せいしんてき》な愛《あい》に目《め》ざめてをり、そしておたがひに自制《じせい》の修養《しゆうよう》が積《つ》んでゐる場合《ばあい》には、その他《ほか》の月《つき》の生《うま》れの人《ひと》でもよき配偶者《はいぐうしや》となることが出來《でき》ます。  人《ひと》づきのよいこそ好《よ》けれ、決《けつ》して、尊大《そんだい》であつてはなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、赤《あか》と藍《あい》ならばどんな濃《こ》さの色《いろ》でも身《み》につけてよろしく、出來《でき》るならば、白《しろ》もまた結構《けつこう》です。  藍緑玉《アクアマリーン》か緑柱玉《ベリル》、もしくは青玉入《サフアイアい》りの、婦人《ふじん》ならば指環《ゆびわ》を、男子《だんし》ならばスカーフ・ピンを用《もち》ふべきです。  思《おも》ふがまヽのものを食《く》ひ、思《おも》ふがまヽの生《い》き方《かた》をし、思《おも》ふがまヽの理想《りそう》を《しん》信ずべきではありますが、同時《どうじ》に、他人《たにん》にもその思《おも》ふがまヽにすることを許《ゆる》さねばなりません。かくて驚《おどろ》くべきほどの心《こころ》のおちつきも得《え》られ、正道《せいどう》を歩《あゆ》むことも出來《でき》るのです。これがあなた方《がた》の神に惠まれた生得權[#「神に惠まれた生得權」に傍点]であります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、堅固《けんご》な志操《しそう》を惠《めぐ》まれてゐません。しかし、これは夜[#「夜」に傍点]となく晝[#「晝」に傍点]となく修養《しゆうよう》しなければならないものです。  生來《せいらい》の弱點《じやくてん》を知《し》り、そのうへ、それを征服[#「征服」に傍点]しよふといふ覺悟《かくご》が生《うま》れて來《こ》ないうちは、まだ、自分自身《じぶんじしん》の主《あるじ》でもなく、自分《じぶん》の運命[#「運命」に傍点]の支配《しはい》となつてもゐないのです。  はげしい不安《ふあん》や焦躁《しようそう》のために、いつも精力《せいりよく》を放散《ほうさん》していながら、それを少《すこ》しも意識《いしき》してはゐないのですから、沈默《ちんもく》の貴《とうと》さと、ねばり強く耐へしのぶ[#「ねばり強く耐へしのぶ」に傍点]ことの貴《とうと》さとを悟《さと》らなければ眞《しん》の幸福《こうふく》を得《う》ることは到底出來《とうていでき》ません。  すべて努力《どりよく》の効果《こうか》をあげるに忠實《ちゆうじつ》な路《みち》は、一念集中《いちねんしゆうちゆう》にほかならないといふことを、信《しん》じてゐない傾《かたむ》きがあります。しかしこの事實《じじつ》は、夙《はや》かれ晩《おそ》かれ、どんな人《ひと》でも信《しん》じなければならない事《こと》であります。  友《とも》の選擇《せんたく》にかけて十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》が足《た》りません。友《とも》を選《えら》ぶには、たヾ表面《うわべ》の好《この》もしさといふことを理由《りゆう》にするだけでは足《た》りないことを、悟《さと》るべきであります。 「行《おこな》ふ話をしてゐることでは決《けつ》して物事《ものごと》は成就《じようじゆ》するものでない。爲す[#「爲す」に傍点]とことに依《よ》つてのみ成就《じようじゆ》を眞《しん》にすることが出來《でき》るのである」――これを悟《さと》らなければ、成功《せいこう》の域《いき》に達《たつ》することは出來《でき》ません。 「正《ただ》しき事《こと》を、正《ただ》しい方法《ほうほう》で、好機《こうき》を選《えら》んで行《おこな》へ。」この言葉《ことば》が座右《ざゆう》の銘《めい》になつてゐないあひだは、まだ全力《ぜんりよく》の人《ひと》といふことは出來《でき》ません。  そのうへ、毎日《まいにち》、「精神一到何事不成[#「精神一到何事不成」に傍点]」の一句《いつく》を唱《とな》へねばなりません。  この月生《つきうま》れのものは、人《ひと》がしてくれたことの有難味《ありがたみ》を知《し》らないで、いつも少々不滿《しようしようふまん》を感《かん》じるといふやうな傾向《けいこう》があります。  幸福《こうふく》は受《う》けることには無《な》くて、與《あた》へることに在《あ》るのであるといふ事《こと》を知《し》るだけの、賢明《けんめい》さが缺《か》けてゐますから、どんな事《こと》を思《おも》ひどんな事《こと》をする場合《ばあい》にでも、寛大《かんだい》の徳《とく》の修養《しゆうよう》を決《けつ》して忘《わす》れてはなりません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、生《うま》れながらの移《うつ》り氣《ぎ》に驅《か》られて、いちばん良《よ》く、いちばん輝《かがや》かしい希望《きぼう》を逸《いつ》し去《さ》るやうな事《こと》があつてはなりません。  境遇《きようぐう》をつくり運命《うんめい》をつくることも、一旦《いつたん》それに思《おも》ひを向《む》ければ、そして一身《いつしん》を集中《しゆうちゆう》する術《すべ》がわかれば、必《かなら》ず出來《でき》る運《めぐ》り合《あわ》せの下《もと》に生《うま》れて來《き》てゐる自分《じぶん》であるといふ事《こと》を、束《つか》の間《ま》も忘《わす》れてはなりません。  あやまちを犯《おか》したあとで、無益《むえき》な悔《くい》などに時《とき》を浪費《ろうひ》することは止《や》めて、過《あやま》ちによつて得《え》た智識《ちしき》をば、よりよい未來《みらい》を築《きず》きあげる助《たす》けにしなければなりません。  健康《けんこう》に勝《まさ》る寶《たから》はない、しかもこの月生《つきうま》れの人《ひと》は強壯《きようそう》に過《す》ぎるといふほどの神經《しんけい》を惠《めぐ》まれてはゐないのですから、無暗《むやみ》に肉體《からだ》の力《ちから》を浪費《ろうひ》することを愼《つつ》しまねばなりません。  六月《ろくがつ》に生《うま》れた人《ひと》は、望《のぞ》むかぎりの事《こと》を達《たつ》し、望《のぞ》むかぎりのものを得《う》るといふ幸運《こううん》を惠《めぐ》まれてゐるのが常《つね》であります。しかも、理想《りそう》の生活《せいかつ》こそ目的《もくてき》としなければならないものなのですから、決《けつ》して、範《はん》を低《ひく》きにおくやうな事《こと》があつてはなりません。  流《なが》れのまヽに漂《ただよ》ふといふやうな事《こと》は止《や》めて、われから水路《すいろ》を定《さだ》むべきです。そして、たとへ早瀬《はやせ》にもまれるやうな事《こと》があつても、ものかは、何處《いずく》にもせよ最《もつと》も大《おお》きい成功《せいこう》の決勝線《けつしようせん》が引《ひ》いてある方《ほう》へと、進《すす》んで行《ゆ》かねばなりません。  探《さが》したり求《もと》めたりするやうな事《こと》は、よき程《ほど》にしておいて、爲《な》すといふことを大《おお》いに努《つと》めなければなりません。さうすれば不平《ふへい》を言《い》ふ時《とき》もなく、あらさがしをする暇《ひま》も無《な》くなります。  一念《いちねん》を集中《しゆうちゆう》するといふ事《こと》は、絶《た》えず現在《げんざい》を更《さら》に偉大《いだい》な將來《しようらい》へと、かぎりもなく變《か》へて行《ゆ》くものでありますから、理想《りそう》の生活《せいかつ》に辿《たど》りつくまでは決《けつ》して滿足《まんぞく》してはなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、偉大[#「偉大」に傍点]と權力[#「權力」に傍点]と富[#「富」に傍点]とを開《ひら》く鍵《かぎ》を惠《めぐ》まれてゐるのですから、何《なに》よりも大切《たいせつ》な心《こころ》がけは、何《なん》にせよ至高至善以外《しこうしぜんいがい》のものには、決《けつ》して滿足《まんぞく》してはならない事《こと》です。 [#改ページ] [#中見出し]六月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、ともすれば感《かん》じ易《やす》くて氣《き》が弱《よわ》くて、稚《おさな》いうちは、むしろ蒲柳《ほりゆう》の質《しつ》といつた傾向《けいこう》があります。  刺戟《しげき》が多《おお》いと病的昂奮《ヒステリカル》に陷《おちい》る傾《かたむ》きがありますから、やさしくて物《もの》おだやかで、落《お》ちつきのある人《ひと》と親《した》しませるやうにしなければなりません。  嬰兒《みどりご》の頃《ころ》から、物《もの》はゆつくりと穩《おだ》やかに言《い》ひ、手足《てあし》はできるだけ靜止《せいし》さしてゐるやうに習慣《しゆうかん》をつけさせねばなりません。  別《べつ》にはつきりした原因《げんいん》もなくて病氣《びようき》になるやうな事《こと》がよくありますが、これは通例《つうれい》、蛔蟲《かいちゆう》のためや、または、あまり早口《はやぐち》に物《もの》を食《た》べることが原因《げんいん》になつてゐるのです。  惡《わる》いことをしようとする性癖《せいへき》といふものは、年《とし》と共《とも》に搗蛛sぞうだい》して行《ゆ》き、遂《つい》に多《おお》くの不幸《ふこう》をかもすに到《いた》るものでありますから、惡《あく》には決《けつ》して染《そ》ませぬやうに心《こころ》しなければなりません。  十分《じゆうぶん》に暖《だん》のとれるやうな着物《きもの》を體裁《ていさい》よく着《き》せること、そして飮食物《いんしよくぶつ》は豐《ゆた》かに攝《と》らせることが肝要《かんよう》です。  何《なに》に依《よ》らず刺戟性《しげきせい》の飮食物《いんしよくぶつ》を與《あた》へることは愼《つつ》しまねばなりません。また、味《あじ》の強《つよ》い食物《しよくぶつ》よりも寧《むし》ろ果物《くだもの》と生物《なまもの》を食《た》べさせるやうにすべきです。  出來《でき》るだけ戸外《こがい》で遊戲《ゆうぎ》をさせることと、運動場《ジムナジュウム》の入場權《にゆうじようけん》を得《え》てやることとが必要《ひつよう》であります。  仕事《しごと》を途中《とちゆう》で止《や》めることは、どんな場合《ばあい》でも斷《だん》じて許《ゆる》すべきではなく、まづそれ[#「それ」に傍点]を仕上《しあ》げてから何《なに》にまれ他《た》の事《こと》に着手《ちやくしゆ》するやうに、飽《あ》く迄主張《までしゆちよう》して、決《けつ》して抂《ま》げてはなりません。  女《おんな》の子《こ》には、家事家政《かじかせい》の手傳《てつだ》ひをさせることが必要《ひつよう》です。しかも、その手傳《てつだ》ひは、毎日《まいにち》たのみにされ當《あて》にされてゐると感《かん》じるやうな手傳《てつだ》はせ方をさせるべきで、をりをり氣《き》まぐれに手傳《てつだ》ふやうなことは、決《けつ》してさすべきでありません。  男《おとこ》の子《こ》には、家屋《かおく》や庭園《ていえん》に關《かん》する萬事《ばんじ》に興味《きようみ》を持《も》たせるやうにしなければなりません。そして機具工具《きぐこうぐ》を與《あた》へて、それをあくまで大切《たいせつ》に取《と》り扱《あつか》はせねばなりません。  殊《こと》に母親《ははおや》は、幼《おさな》い頃《ころ》には、正《ただ》しく導《みちび》くやう心《こころ》がけるべきです。正《ただ》しく導《みちび》き得《え》さへすれば、成巧《せいこう》のあかつきには、自分《じぶん》がその成長《せいちよう》の最大《さいだい》の動因《どういん》となつたことが思《おも》ひ合《あ》はされて、かぎりもない喜《よろこ》びを味《あじわ》ふことが出來《でき》るでせう。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、親切《しんせつ》の徳《とく》を養《やしな》はせ、周圍《しゆうい》の者《もの》の心《こころ》をくむことを習《なら》はせなければなりません。  利他《りた》の心《こころ》を少年時代《しようねんじだい》に培《つちか》はせておかないと、生《うま》れながらに持《も》つてゐる利己心《りこしん》の芽《め》がのびて絶《た》えず苦《くる》しみを味《あじ》はせるやうなことになりますから、母親《ははおや》たる者《もの》は、友《とも》だちに對《たい》して慇懃《いんぎん》や寛大《かんだい》を缺《か》くやうな子《こ》どもの仕打《しうち》は、斷《だん》じて赦《ゆる》してはなりません。  元來《がんらい》、頑健《がんけん》なといふやうなことは少《すこ》しもない肉體《からだ》を與《あた》へられてゐるのですから、健康《けんこう》を養《やしな》はせるために、バタをはじめ、すべて人體《じんたい》を肥滿《ひまん》させるやうな食物《しよくもつ》を豐《ゆた》かに攝《と》らせるやうに心《こころ》がけることが肝要《かんよう》で、菓子類《かしるい》は食《た》べさせぬやうにしなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]六月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 徳川光圀《とくがわみつくに》 弘法大師《こうぼうだいし》 後藤新平《ごとうしんぺい》 大岡育造《おおおかいくぞう》 花井卓藏《はないたくぞう》 早川千吉郎《はやかわせんきちろう》 小山健三《こやまけんぞう》 橋本雅邦《はしもとがほう》 黒田清輝《くろだきよてる》 久原房之助《くはらふさのすけ》 林子平《はやししへい》 木戸孝允《きどこういん》 ペテル・ポオル・ルウベンス(畫家《がか》) ジョセフィイヌ皇后《こうごう》(皇妃《こうひ》) グノウ(音樂家《おんがくか》) ヴエラスケス(畫家《がか》) ジャン・ジャック・ルウソオ(思想家《しそうか》) [#改丁] [#大見出し]七月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、大企業《きぎよう》を畫策《かくさく》し完成《かんせい》することにかけて、卓拔《たくばつ》した才智《さいち》と非凡《ひぼん》な能力《のうりよく》とを惠《めぐ》まれてゐます。  家庭《かてい》や家族生活《かぞくせいかつ》においてはその主權者《しゆけんしや》です。そして心《こころ》には極《きわ》めて情熱《じようねつ》をもちながらも、眞《しん》を知《し》らない人《ひと》には、往々《おうおう》にして冷情《れいじよう》の人《ひと》と見過《けんか》されることがあります。  好惡《こうお》が非常《ひじよう》に劇《はげ》しくて、好《す》き好《この》んでゐる人々《ひとびと》にとりまかれてゐないと、決《けつ》して幸福《こうふく》な生活《せいかつ》を味《あじわ》ふやうにはなれません。  一般《いつぱん》に、貧乏《びんぼう》を恐《おそ》れ、夜盜《やとう》や強盜《ごうとう》などを氣《き》づかふ性《たち》で、夜《よる》ひとり取《と》り殘《のこ》されてでもゐると、不安《ふあん》に驅《か》られ懸念《けねん》にむしばまれるのがならはしです。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、寛仁大度《かんにんたいど》で、優情《ゆうじよう》に富《と》み、高潔《こうけつ》な精神《せいしん》をもつてゐます。が、しかし友《とも》や同僚《どうりよう》を嫉《ねた》まないやうに、絶《た》えず心《こころ》を戒《いまし》めていなければなりません。  氣位《きぐらい》が高《たか》くて、正直《しようじき》で家庭《かてい》と、その周圍《しゆうい》を取《と》りまいてゐる人物事物《じんぶつじぶつ》を、深《ふか》く愛《あい》します。しかし、いつも家庭《かてい》の主權者《しゆけんしや》となつてゐるやうにしなければなりません。  些細《ささい》な事《こと》でも氣《き》にしないではゐられぬ性質《せいしつ》があります。ですから自己《じこ》の世界《せかい》といふものは、結局自分《けつきよくじぶん》が築《きず》いてゐるものに外《ほか》ならない、といふ事《こと》をさとつて、いつも愉快《ゆかい》な人物《じんぶつ》や愉快《ゆかい》な事物《じぶつ》を求《もと》めて、これと接《せつ》するやうに努《つと》めなければなりません。  性《せい》のいづれに據《よ》らず、この月生《つきうま》れの人《ひと》は旅行好《りよこうず》きです。そして、晩年《ばんねん》になつて長途《ちようと》の船旅《ふなたび》をすることがしば/\あります。  金錢《きんせん》を愛《あい》する性向《せいこう》がありますから、あまりに金錢《きんせん》を惜《お》しみ貯《たくわ》へて、吝嗇《りんしよく》に陷《おちい》ることがないやうに、絶《た》えず、しかも年《とし》をとるにつれていよ/\嚴《きび》しく、警戒《けいかい》していなければなりません。  この月《つき》に生《うま》れた婦人《ふじん》は、非常《ひじよう》に理智的《りちてき》で、華々《はなばな》しい作家《さつか》となり、秀《すぐ》れた辯論《べんろん》の人《ひと》となり、またしば/\社業事業《しやぎようじぎよう》の先頭《せんとう》に立《た》つことがあります。  男子《だんし》は土木技師《どぼくぎし》、電氣學者《でんきがくしや》、建築家と《けんちくか》して最《もつと》も成功《せいこう》します。そして、また、事業《じぎよう》の管理經營《かんりけいえい》に秀《すぐ》れた手腕才能《しゆわんさいのう》も惠《めぐ》まれてゐます。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、美麗《びれい》なもの、藝術的《げいじゆつてき》なものに心《こころ》を惹《ひ》かれる性質《せいしつ》があり、美《うつく》しく着飾《きかざ》ることが好《す》きで、同樣《どうよう》に美《うつく》しい家庭《かてい》をもつことを愛《あい》します。  やヽもすると咽喉《いんこう》や肺臟《はいぞう》や腎臟《じんぞう》の病《やまい》に冐《おか》される傾向《けいこう》はありますが、しかし、自命《じめい》の健康自分《けんこうじぶん》の生命《せいめい》をみずから左右《さゆう》し得《え》るほどの、旺盛《おうせい》な恢復力《かいふくりよく》を、めぐまれてをります。 [#ここから2字下げ] 眞の自己を顧よ[#「眞の自己を顧よ」に傍点]―― 眞の自己を知れ[#「眞の自己を知れ」に傍点]―― 眞の自己を固守せよ[#「眞の自己を固守せよ」に傍点]―― [#ここで字下げ終わり]  この三《みつ》つの言葉《ことば》が、採《と》つて以《もつ》て絶《た》えまなく眼《め》の前《まえ》に掲《かか》げておかなければならない標語《モツトー》です。この戒《いまし》めさへ守《まも》れば、成功《せいこう》も、幸福《こうふく》も、愛《あい》も、みな卿《おんみ》の掌中《しようちゆう》のものとなること必定《ひつじよう》です。  自分《じぶん》の名《な》が印刷物《いんさつぶつ》に載《の》るのが大好《だいす》きで、心《こころ》ではいつも、ひとから賞讃《しようさん》されることを追《お》ひ求《もと》めてゐます。  殘忍酷薄《ざんにんごくはく》で、怨《うら》みを含《ふく》むことが深《ふか》く、人身《じんしん》に亘《わた》る批評《ひひよう》を聞《き》くとすぐに立腹《りつぷく》するといふやうな性情《せいじよう》を持《も》つてゐることも、時《とき》としてはあります。  心《こころ》の變《かわ》り易《やす》いこと尋常一樣《じんじよういちよう》ではありません。この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、殊《こと》にそうです。  秀《すぐ》れた記憶力《きおくりよく》を惠《めぐ》まれてゐると共《とも》に、理解《りかい》が迅速《じんそく》で迅利《じんり》です。  この月《つき》に生《うま》れたものは、男女《だんじよ》とも、よき夫《おつと》となりよき妻《つま》となることも忘《わす》れてしまふほど、子女《しじよ》に對《たい》して、忠實《ちゆうじつ》な父《ちち》となり母《はは》となる傾向《けいこう》があります。  婦人《ふじん》はともすると、公益《こうえき》に對《たい》する憐恤《れんじゆつ》の情《じよう》に驅《か》り立《た》てられて、絶《た》えず心《こころ》にかけていなければならない筈《はず》の健康《けんこう》といふことさへ、忘《わす》れがちになるやうなことがあります。  人身《じんしん》の批評《ひひよう》といえば、自分《じぶん》のためを思《おも》つて言《い》はれた場合《ばあい》でさへ、腹《はら》を立《た》てるやうな傾向《けいこう》があります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、生《うま》れながらに缺《か》くべからざるものなのですから、何《なに》はさておき、陽氣《ようき》、快活《かいかつ》、上機嫌《じようきげん》、といふやうな心持《こころもち》を、絶《た》えず持《も》つてゐられるやうにしなければなりません。  世界《せかい》が闇《やみ》につヽまれて來《く》ると、ありとあらゆる恐怖《きようふ》や疑懼《ぎく》のまぼろしに襲《おそ》はれる習性《しゆうせい》がありますから、愉快《ゆかい》な人《ひと》と一緒《いつしよ》にゐてこそよけれ、決《けつ》して、夜《よる》をひとりで過《すご》すやうなことがあつてはなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》には、醫學上《いがくじよう》の治療法《ちりようほう》が効目《ききめ》をあらはすことは極《きわ》めて遲々《ちち》たるものですから、どんな病氣《びようき》にも、とりつかれぬやうに心《こころ》していなければなりません。  幼年《ようねん》の時代《じだい》から、意志《いし》を強固《きようこ》にすることに役立《やくだ》つほどの事《こと》ならば、何事《なにごと》にもあれ、必《かなら》ず修得《しゆうとく》すべきであると共《とも》に、また、如何《いか》なる人《ひと》に對《たい》しても、如何《いか》なる物事《ものごと》に對《たい》しても、その眞僞《しんぎ》を見分《みわ》ける修養《しゆうよう》を、決《けつ》して怠《おこた》つてはなりません。  他人《たにん》の意見《いけん》を尊重《そんちよう》することと、嫉妬癖《しつとへき》に陷《おちい》らぬこととを、絶《た》えず心《こころ》がくべきです。  たとへ天性《てんせい》の悲願《ひがん》どほりに、萬事《ばんじ》につけて、人《ひと》の首領《かしら》になり得《え》なくても、それで幸福《こうふく》にはなれなくなつてしまふ譯《わけ》では決《けつ》して無《な》いといふことを、曉《さと》るやうにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、結婚《けつこん》のまへに、自分《じぶん》といふものを十分《じゆうぶん》に研究《けんきゆう》して見《み》なければなりません。  結婚《けつこん》の幸福《こうふく》を味《あじわ》ふためには、自己《じこ》を制《おさ》へることを學《まな》び、心《こころ》の平靜《へいせい》を保《たも》つことを習《なら》はねばなりません。  生來《せいらい》の強《つよ》い嫌忌《けんき》の情《じよう》を制《おさ》へ、それと同時《どうじ》に、人《ひと》の長所《ちようしよ》を見《み》るやうに努力《どりよく》しなければなりません。 「一體、誰かが私に危害を加へようとせずにはゐられないやうな理由があるだらうか[#「一體、誰かが私に危害を加へようとせずにはゐられないやうな理由があるだらうか」に傍点]?」――かう度々自分《たびたびじぶん》の胸《むね》に問《と》うてみて、生來《せいらい》の過敏性を制《おさ》へるやうにすることを、終生《しゆうせい》、唯《ただ》の一日《いちにち》でも、忘《わす》れてはなりません。  自己《じこ》の見解《けんかい》を信《しん》じて、敬意《けいい》や追從《ついじゆう》に溺《おぼ》れない修養《しゆうよう》を、積《つ》むべきです。  この月《つき》に生《うま》れたものは、十一月《じゆういちがつ》、三月《さんがつ》か一月生《いちがつうま》れの人《ひと》と合性《あいしよう》です。しかし、お互《たが》ひに、心《こころ》の平靜《へいせい》を修得《しゆうとく》しえてゐる場合《ばあい》には、その以外《いがい》の月《つき》の生《うま》れの人《ひと》と結婚《けつこん》しても、良縁《りようえん》でないことはありません。  七月生《しちがつうま》れの婦人《ふじん》が、身《み》につけて最《もつと》も似合《にあ》ふ色を選べば、緑《みどり》と赤《あか》と、白灰色《はくかいしよく》とあらゆる濃《こ》さの樺色《かばいろ》とであります。  婦人《ふじん》は、碧玉《エメラルド》または黒《くろ》い縞瑪瑙入《オニックスい》りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきで、男子《だんし》は、そのいづれかの石《いし》の、スカーフ・ピンをさすべきです。  この月《つき》の生《うま》れの人《ひと》は、二月《にがつ》、九月《くがつ》のいづれかに業《ぎよう》を起《おこ》せば、必《かなら》ず最大《さいだい》の成功《せいこう》ををさめることが出來《でき》るでせう。そして、一週《いつしゆう》のうちでは、進《すす》んで吉《よ》き日《ひ》は、月曜日《げつようび》です。  たヾ/\完全無缺《かんぜんむけつ》なたましひを持《も》つてゐる智徳兼備《ちとくけんび》の人《ひと》だけが、有用《ゆうよう》で、幸福《こうふく》で、充實《じゆうじつ》した生活《せいかつ》をするやうになり、成功《せいこう》の實體[#「實體」に傍点]がもつてゐる意味《いみ》を、さとる事《こと》が出來《でき》るのです。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、調和《ちようわ》、安定《あんてい》といふことに缺《か》けてをりますから、心《こころ》の平衡《へいこう》を得《う》ることを絶《た》えず心《こころ》がけていなければなりません。  努力《どりよく》、即《すなわ》ち仕事《しごと》は、どんな種類《しゆるい》のものでも好《す》きといふことはないばかりか、しば/\、心《こころ》からのなまけ者《もの》であることさへあります。  生來《せいらい》、堅固《けんご》な節操《せつそう》を惠《めぐ》まれてゐることはありません。それゆゑ、結婚《けつこん》の前《まえ》には、熱心《ねつしん》に、長《なが》いあいだ、沈思默考《ちんしもつこう》しなければなりません。  往々正直《おうおうしようじき》を缺《か》くやうなことがありますから、几帳面《きちようめん》の習慣《しゆうかん》を養《やしな》ふことが何《なに》よりも大切《たいせつ》です。  人《ひと》に使《つか》はれて働《はたら》いてゐるあひだは、決《けつ》して成功《せいこう》するといふことはありません。ですから、夙《はや》くから獨立《どくりつ》して事業《じぎよう》をはじめるべきであります。  とかくの風評《ふうひよう》を耳《みみ》にすると、すぐさま、それを信《しん》じてしまふやうな傾向《けいこう》があるので、友《とも》に對《たい》しても、忠實《ちゆうじつ》さが十分《じゆうぶん》ではありません。  着實《ちやくじつ》さが十分《じゆうぶん》ではないので、しば/\職業《しよくぎよう》を更《か》へ、その結果《けつか》、成功[#「成功」に傍点]と名譽[#「名譽」に傍点]とを得《う》る途中で多《おお》くの時間《じかん》を空費《くうひ》してしまいます。  自分《じぶん》を研究《けんきゆう》し、自分《じぶん》で自分《じぶん》を制《おさ》へることが出來《でき》ないうちは、友《とも》として、信頼《しんらい》せられることはありません。  試煉《しれん》は男女《だんじよ》のいづれを問《と》はず、大人物《じんぶつ》をば完成[#「完成」に傍点]し、小人物《じんぶつ》をば破碎[#「破碎」に傍点]し去《さ》るものであるといふことがわからないうちは、至高至善《しこうしぜん》の成功《せいこう》を收《おさ》めることは決《けつ》してありません。  烈《はげ》しい暴風雨《あらし》の壓迫《あつぱく》を受《う》けながらも、なほ且《か》つ生長《せいちよう》して止《や》まない※[#「木+解」、第3水準1-86-22]の木[#「※[#「木+解」、第3水準1-86-22]の木」に傍点]に見習《みなら》ふべきで、これが出來《でき》るまでは、不朽《ふきゆう》の富[#「富」に傍点]や名聲[#「名聲」に傍点]を獲得《かくとく》することは出來《でき》ません。  七月生《しちがつうま》れの人《ひと》は、その心《こころ》が慰安《いあん》と友《とも》とを要求《ようきゆう》してゐるのですから、愉樂《ゆらく》を求《もと》める世界《せかい》に快《こころよ》く入《はい》つてゐるときが、無上《むじよう》の幸福《こうふく》なのであります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、若《わか》いうちに結婚《けつこん》するやうなことなく、浮世《うきよ》の經驗《けいけん》で思慮分別《しりよふんべつ》が出來《でき》て來《く》るまで、待《ま》つやうにしなければなりません。  一《ひと》つには自分《じぶん》の愛情《あいじよう》が絶對《ぜつたい》に確實《かくじつ》なものであるといふことを見《み》きはめ、二《ふた》つには、二人《ふたり》の幸福《こうふく》のために自分《じぶん》の義務《ぎむ》を果《はた》さうといふ堅《かた》い覺悟《かくご》が生《うま》れて來《く》るまでは、決《けつ》して結婚《けつこん》してはなりません。  萬已《ばんや》むを得《え》ない場合《ばあい》のほかは、葬儀《そうぎ》につらなつてはなりません。  よく無益《むえき》な饒舌《じようぜつ》をして過分《かぶん》の精力《せいりよく》を浪費《ろうひ》する癖《くせ》がありますから、口數多《くちかずおお》くすることは愼《つつ》しむべきで、むしろ、よき聽《き》き手《て》となるやうに心《こころ》がけねばなりません。  他人《たにん》の短所《たんしよ》を探《さが》し立《た》てるやうな事《こと》をしないで、寧《むし》ろ、その長所《ちようしよ》を認《みと》めるやうに努力《どりよく》しなければなりません。  強《つよ》い人格《じんかく》、趣味《しゆみ》ある性格《せいかく》の人《ひと》ならば、人事《じんじ》を談話《だんわ》の話材《わざい》にはしないで物事[#「物事」に傍点]をする、といふことを強《つよ》く心《こころ》に記憶《きおく》しておき、自分《じぶん》のことを吹聽《ふいちよう》したり、他人《たにん》の上《うえ》を蝶々《ちようちよう》したりすることは堅《かた》くつヽしまねばなりません。  自分《じぶん》の生活《せいかつ》を、感受性《かんじゆせい》のしもべとしてしまつてはなりません。これこそ、希望《きぼう》に充《み》ち滿《み》ちた、輝《かがや》かしい人生《じんせい》の行路《こうろ》を難破《なんぱ》させる暗礁《あんしよう》なのです。 「わたしの感情《かんじよう》を人《ひと》が傷《きず》つけやうとしなければならない理由《りゆう》があるだらうか? わたしは人《ひと》を傷《きず》つけやうとは斷《だん》じて思《おも》はない。だからわたしは、どんな輕侮《けいぶ》でも、それがわたしを立腹《りつぷく》させようために行《おこな》はれるものだとは信《しん》じない。」――かう、幾度《いくど》も自分《じぶん》の胸《むね》にさヽやき、そして、この疑問《ぎもん》から生《うま》れて來《き》た利益《りえき》を人《ひと》に施《ほどこ》さねばなりません。  事實《じじつ》をさとつて、傷《きず》ついた自負心《じふしん》などは弊履《へいり》のやうに投《な》げ棄《す》てヽしまへば、幸福[#「幸福」に傍点]も、成功[#「成功」に傍点]も掌中《しようちゆう》のものとなり、偉大[#「偉大」に傍点]への眞[#「眞」に傍点]の眞[#「眞」に傍点]なる向上《こうじよう》が始《はじ》まります。 [#改ページ] [#中見出し]七月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、別《べつ》して注意《ちゆうい》ぶかく愛護《あいご》し、非常《ひじよう》に早《はや》くから躾《しつ》けをしなければなりません。  感受性《かんじゆせい》が鋭《するど》いので、世話《せわ》がむつかしく、從《したが》つて優《やさ》しく、注意《ちゆうい》ぶかく取《と》り扱《あつか》はねばなりません。  もとより、悲《かな》しみや苦《くる》しみに對《たい》する同情心《どうじようしん》は養《やしな》はせねばなりませんが、しかし幼《おさな》いうちは、非常《ひじよう》に感動《かんどう》し易《やす》い性向《せいこう》がありますから、出來得《できえ》るかぎり、悲《かな》しみや苦《くる》しみといふものから、引《ひ》き離《はな》しておくやうにすることが必要《ひつよう》です。  たとへどんな仕事《しごと》でも、一旦着手《いつたんちやくしゆ》したからには、人《ひと》の言葉《ことば》などには耳《みみ》を假《か》さないで、あくまで仕遂《しと》げるといふ習慣《しゆうかん》を、赤兒《あかご》の時分《じぶん》から養《やしな》はせなければなりません。  目的《もくてき》を確《かた》く定《さだ》めることは、どれほど早《はや》くから母親《ははおや》が教《おし》へても、この月生《つきうま》れの子《こ》どもの場合《ばあい》には至極結構《しごくけつこう》なことであつて、決《けつ》して早《はや》きに失《しつ》するやうな憂《うれ》ひはありません。  此《こ》の變化動搖《へんかどうよう》たヾならない性向《せいこう》は、二葉《ふたば》のうちに摘《つ》み棄《す》てないと、終生一《しゆうせいひと》つのハンデイカツプとなつて、子《こ》どもの生活《せいかつ》に附《つ》きまとふやうなことになるでせう。そして、成功《せいこう》がその掌中《しようちゆう》に落《お》ちたと見《み》える刹那《せつな》にでも、なほ且《か》つその成功《せいこう》を、此《こ》の目的《もくてき》に不動《ふどう》といふがその手《て》から叩《たた》き落《おと》してしまふやうなことがあります。  生來《せいらい》、よき趣味《しゆみ》を惠《めぐ》まれてをるばかりか、身體《からだ》にしつくりと合《あ》はない、形《かたち》の惡《わる》い着物《きもの》を着《き》るやうな事《こと》があればそのために落《お》ちつきを失《な》くし、不安《ふあん》に陷《おちい》る性向《せいこう》があるのですから、極《きわ》めて簡素《かんそ》な、しかし形《かたち》のとヽのつた着物《きもの》を着《き》せるやうにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、物《もの》おだやかに、口數《くちかず》すくなに語《かた》る習慣《しゆうかん》を養《やしな》はせることが何《なに》よりも大切《たいせつ》です。  沈默《ちんもく》の貴《とうと》さを教《おし》へ、また、生來《せいらい》の心配性《しんぱいしよう》に打《う》ち克《か》つことがどれほど利益《りえき》のあるものかといふことを、悟《さと》らせなければなりません。  ともすれば神經過敏《しんけいかびん》に陷《おちい》り、病氣《びようき》をひきおこす傾向《けいこう》を與《あた》へられてゐますから、老人《としより》といつしよに寢《やす》ませることは、堅《かた》く禁《きん》ずべきです。  女《おんな》の子《こ》には、衣裳《いしよう》と寶石《ほうせき》を何物《なにもの》よりも愛《あい》するやうな風習《ふうしゆう》はつけさせてはなりません。そして、目的《もくてき》を確《かた》く定《さだ》めて動《うご》かさない事《こと》と、どんな些細《ささい》な物事《ものごと》についてでも必《かなら》ず正直《しようじき》を守《まも》ることと、人生《じんせい》が捧《ささ》げ得《う》ることの出來《でき》るいちばん偉大《いだい》なものは人《ひと》を愛《あい》し人《ひと》に仕《つか》へるやさしい性格《せいかく》であることを、教《おし》へなければなりません。  男《おとこ》の子《こ》には、自分《じぶん》のことをやたらに吹聽《ふいちよう》したりせぬことと、仕事半《しごとなか》ばに與《あた》へられた人《ひと》の忠告《ちゆうこく》には耳《みみ》を傾《かたむ》けぬやうにすることと、寧《むし》ろ一《ひと》つの目標《もくひよう》、一《ひと》つの目的《もくてき》、一《ひと》つの業蹟《ぎようせき》を心《こころ》で確《かた》くきめて、それからあとはその決勝線《けつしようせん》を目《め》がけて全力《ぜんりよく》を傾《かたむ》けて、進《すす》むやうにしなければならないことを教《おし》へなければなりません。  七月生《しちがつうま》れの、明《あか》るくて、輝《かがや》かで、有爲《ゆうい》な未來《みらい》をもつてゐる少年少女《しようねんしようじよ》には、生《うま》れながらにある胸《むね》の不安《ふあん》が制《おさ》へられるやうになるまでは、自分《じぶん》の運命《うんめい》の主《あるじ》になることは決《けつ》して出來《でき》ないものであることを教《おし》へ、次《つぎ》にもつてゐるかぎりの手腕《しゆわん》と愛《あい》と暗示力《あんじりよく》とを傾《かたむ》けて、たヾ母《はは》のみが與《あた》へることの出來《でき》る、よき手ほどき[#「よき手ほどき」に傍点]の利益《りえき》を與《あた》へるやうにしなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]七月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 岩倉具張《いわくらともはる》 徳川家達《とくがわいえさと》 高橋是清《たかはしこれきよ》 河野廣中《こうのひろなか》 大谷光榮《おおたにこうえい》 穗積陳重《ほづみちんちよう》 山川健次郎《やまかわけんじろう》 山田美妙齋《やまだびみようさい》 徳川家光《とくがわいえみつ》 二宮尊徳《にのみやそんとく》 高崎正風《たかさきせいふう》 ジュリアス・シイザア(政治家《せいじか》) ジョン・ディ・ロックフェラア(富豪《ふごう》) ガリバルヂイ(志士《しし》) ヘンリイ・フォオド(實業家《じつぎようか》) ジョン・ワアメエカア コロオ(畫家《がか》) レムブラント(畫家《がか》) [#改丁] [#大見出し]八月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、心《こころ》やさしく、寛大《かんだい》で、磁力《じりよく》をゆたかに惠《めぐ》まれてゐます。  感情的《かんじようてき》で、同時《どうじ》に鋭《するど》い直覺力《ちよつかくりよく》を授《さず》かつてゐますから、どこまでもこの力《ちから》に從《したが》はなければなりません。  強烈《きようれつ》な個性《こせい》の人《ひと》であり、高貴遠大《こうきえんだい》な理想《りそう》の持主《もちぬし》であります。  善《ぜん》を行《おこな》ふ力《ちから》が大《おお》いに備《そな》はつてゐて、常《つね》に、人《ひと》に感激《かんげき》を與《あた》へて善事《ぜんじ》を果《はた》させることが出來《でき》ます。  家族《かぞく》の者《もの》を深《ふか》く愛《あい》し、その惡評《あくひよう》には耳《みみ》を假《か》しません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、子《こ》を愛《あい》することがなみ/\でなく、我子《わがこ》の養育《よういく》に關《かん》しては、誰人《たれびと》の指圖《さしず》にも從《したが》はうとはしない傾向《けいこう》があります。  ともすれば、正《ただ》しい理由《りゆう》もなしに人《ひと》を忌《い》み嫌《きら》ふ傾《かたむ》きがあるばかりか、一旦厭《いつたんきら》ひ出《だ》したら誰《だれ》がどれほどその情《じよう》を制《おさ》へさせようとしても、意見《いけん》をひるがへすといふことは殆《ほと》んどありません。  自分《じぶん》の思《おも》ひ通《どお》りの方法《ほうほう》で、事《こと》を運《はこ》ぶのが大好《だいす》きなので、結局周圍《けつきよくしゆうい》のものは口《くち》を緘《ふう》じて、その爲《な》すがまヽに任《まか》せるのを、最善《さいぜん》の路《みち》と心得《こころえ》させられてしまふのが常《つね》です。  他人《たにん》のために、何事《なにごと》にせよ大網《たいもう》を樹《た》てることは上手《じようず》ですが、細目《さいもく》にわたることは嫌《きら》ひな性《しよう》であります。  ともすればひどい懶惰者《なまけもの》になる傾向《けいこう》があり、日向《ひなた》ぼつこをしたり、寢《ね》たりすることは、他《た》の月《つき》の生《うま》れのものよりもはるかに好《す》きです。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、生來《せいらい》、家庭《かてい》が好《す》き、家庭的《かていてき》な慰安《いあん》が好《す》きで、所謂主婦以上《いわゆるしゆふいじよう》に立派《りつぱ》な理想的《りそうてき》な「家庭《かてい》の守護者《しゆごしや》」であります。  この月生《つきうま》れのものは、男女《だんじよ》いづれもよき料理人《りようりにん》であり、脂肪《しぼう》の多《おお》い味《あじ》の強《つよ》い食物《しよくもつ》を好《この》みます。  何《いず》れの方面《ほうめん》にもせよ、小賣業《こうりぎよう》ならば、信用《しんよう》と責任《せきにん》とを必須條件《ひつすじようけん》とする地位《ちい》について、必《かなら》ず大《だい》なる成功《せいこう》ををさめることの出來《でき》る素質《そしつ》を惠《めぐ》まれてゐます。  初婚《しよこん》には失敗《しつぱい》する傾向《けいこう》があります。しかし、離婚《りこん》を求《もと》めて、再婚《さいこん》の方法《ほうほう》を講《こう》ずるに躊躇《ちゆうちよ》することはなく、再婚後《さいこんご》は幸福《こうふく》に見舞《みま》はれるのが常《つね》であります。  長命《ちようめい》をする生《うま》れではありますが、急劇《きゆうげき》な強烈《きようれつ》な痛《いた》みを腦《のう》へ與《あた》へぬやうに注意《ちゆうい》し、またいつも胃《い》を十分健《じゆうぶんすこ》やかにしておくことを心《こころ》がけていなければなりません。  多《おお》くは氣《き》さくな、陽氣《ようき》な性質《せいしつ》で、磁力《じりよく》の豐《ゆた》かなことは、知《し》らず識《し》らずのあひだに人《ひと》が惹《ひ》き寄《よ》せられてしまふほどです。  よき判斷力《はんだんりよく》を具《そな》へてゐる傾向《けいこう》があります。それゆゑ、他人《たにん》が何《なん》と言《い》はふとも、それには耳《みみ》をかさないで、あくまで自分《じぶん》の見解《けんかい》に信仰《しんこう》を持《も》たねばなりません。 [#ここから2字下げ] 行ふに非ずんば夢む勿れ[#「行ふに非ずんば夢む勿れ」に傍点] 是非すること勿れ[#「是非すること勿れ」に傍点] 欲するものを期待せよ[#「欲するものを期待せよ」に傍点] 進んで掌中に收めよ[#「進んで掌中に收めよ」に傍点] [#ここで字下げ終わり]  この規範《きはん》を遵奉《じゆんぽう》すれば、成功《せいこう》を收《おさ》め、人生《じんせい》の高位《こうい》にのぼること必定《ひつじよう》です。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、やヽもすれば、物《もの》を借《か》りるばかりか、早速《さつそく》それを返《かえ》すことを忘《わす》れてしまふやうな傾向《けいこう》があります。  暇《ひま》さへあれば、輕佻浮薄《けいちようふはく》な娯樂《ごらく》に耽《ふけ》つたり、眠《ね》たりする傾向《けいこう》があります。ですから、毎月《まいげつ》、少《すくな》くも有益《ゆうえき》な書物《しよもつ》ぐらゐは必《かなら》ず讀《よ》むやうに心《こころ》がけねばなりません。  生《うま》れながらに、忙《いそが》しく騷々《そうぞう》しい生活《せいかつ》の中《なか》に埋《うも》れてゐることが好《す》きに出來《でき》てゐるのですから、都會《とかい》に生活《せいかつ》してこそ最《もつと》も大《おお》きい幸福《こうふく》が味《あじわ》へ、最《もつと》も大《おお》きい成功《せいこう》もをさめることが出來《でき》ます。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、男女《だんじよ》とも、自分《じぶん》の意見《いけん》の正否も知《し》らずに、問題《もんだい》を論議《ろんぎ》する傾向《けいこう》があります。  獨創力《どくそうりよく》を豐《ゆた》かに惠《めぐ》まれてゐるのですから、衣服《いふく》や態度《たいど》や、家庭《かてい》の雰圍氣《ふんいき》や、言葉《ことば》づかひなどには、個性《こせい》のにほひをつけるやうにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、謹直《きんちよく》な、倦《う》むを知《し》らない働《はたら》き手《て》ですから、健康《けんこう》を保《たも》ちさへすれば必《かなら》ず成功《せいこう》します。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、何《なに》よりも先《ま》づ、沈默《ちんもく》の尚《とうと》さを、知《し》るやうにしなければなりません。  談話《だんわ》に精力《せいりよく》を浪費《ろうひ》しないで、むしろ生來《せいらい》の直覺《ちよつかく》の手《て》に導《みちび》かれ、仕事《しごと》を地味《じみ》にはじめねばなりません。  衝動《しようどう》に驅《か》られ易《やす》い天性《てんせい》のために誤《あやま》られて、ともすれば困難《こんなん》に出會《であ》うことがありますから、心《こころ》のおちつきを得《え》、自制《じせい》の徳《とく》を養《やしな》ふやうに絶《た》えず努力《どりよく》しなければなりません。  持《も》つて生《うま》れた火《ひ》のやうな氣性《きしよう》を制《おさ》へる覺悟《かくご》をし、覺悟《かくご》が定《さだ》まつたら、その喉頭《のどぶえ》から決《けつ》して手《て》を引《ひ》いてはなりません。  激《げき》し易《やす》く熱《ねつ》し易《やす》い性情《せいじよう》を與《あた》へられてゐることを悟《さと》つて、物《もの》は考《かんが》へてから言《い》ふやうにしなければなりません。さうすれば、友《とも》に去《さ》られるやうなことはなく、永遠《えいえん》に交《まじわ》りを結《むす》んで行《い》けます。  重要《じゆうよう》な企業《きぎよう》は、一月《いちがつ》か十月《じゆうがつ》に着手《ちやくしゆ》すべきで、一週《いつしゆう》のうちでは、日曜日《にちようび》が最《もつと》もよい日《ひ》です。  結婚《けつこん》は、悟性《ごせい》が穩健《おんけん》になり圓熟《えんじゆく》した晩年《ばんねん》になつてから爲《な》すべきです。そうすれば、必《かなら》ず終生《しゆうせい》の伴侶《はんりよ》に對《たい》して忠信變《ちゆうしんかわ》らぬ連合《つれあい》となることが出來《でき》ます。  結婚《けつこん》には、九月《くがつ》か十月《じゆうがつ》か十二月生《じゆうにがつうま》れの人《ひと》が合性《あいしよう》です。しかし、靈性《れいせい》が發達《はつたつ》し、自制《じせい》の徳《とく》が磨《みが》かれてゐるならば、その以外《いがい》の月《つき》の生《うま》れの人《ひと》をでも、配偶者《はいぐうしや》に求《もと》めて幸福《こうふく》が得《え》られないといふことはありません。  私心《ししん》を去《さ》ることに心《こころ》がけ、忍耐《にんたい》の徳《とく》を養《やしな》はねばなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、あらゆる濃《こ》さの緑《みどり》、赤《あか》、もしくは樺色《かばいろ》のうちのいづれかの色《いろ》の衣裳《いしよう》をまとはねばなりません。  婦人《ふじん》は、紅玉《ルビー》か金剛石《ダイヤモンド》か碧玉《ジヤスパー》入りの指環《ゆびわ》を嵌《は》め、男子《だんし》はそれらのいづれかの石《いし》のスカーフ・ピンをさすべきです。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は、仲買人《なかがいにん》か、現金係《げんきんがかり》か、企業家《きぎようか》として最《もつと》も成功《せいこう》し、中年以前《ちゆうねんいぜん》に富《とみ》を得《う》るがさだめです。  婦人《ふじん》は、作家《さつか》、唱歌者《シンガア》、または舞臺《ぶたい》の人《ひと》として成功《せいこう》します。  この月《つき》に生《うま》れたものは、自己[#「自己」に傍点]の資本《しほん》は、自己特有[#「自己特有」に傍点]の才能[#「才能」に傍点]の他《ほか》にはないのであつて、それを使用《しよう》した時《とき》に、はじめて成功[#「成功」に傍点]と健康[#「健康」に傍点]と富[#「富」に傍点]とが贏《か》ち得《え》られるのであるといふ事《こと》を悟《さと》るや否《いな》や最大《さいだい》の成功《せいこう》と最高《さいこう》の飛躍《ひやく》とを見出《みいだ》すことが出來《でき》ます。  責任《せきにん》をもつといふことは、人格《じんかく》を大《おおき》くし、高《たか》くさせて、信用《しんよう》の必要《ひつよう》な高《たか》い地位《ちい》を與《あた》へてくれるものでありますから、出來《でき》るだけ夙《はや》くから、責任觀念《せきにんかんねん》を養成《ようせい》するやうに心《こころ》がけねばなりません。  興味《きようみ》の配分《はいぶん》は失敗《しつぱい》の基《もとい》でありますから、自分《じぶん》の職業《しよくぎよう》のことに、氣《き》を配《くば》つたり心《こころ》を勞《ろう》したりすることは、なるべく避《さ》けねばなりません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、節操《せつそう》の堅《かた》さが十分《じゆうぶん》でありませんから、どんなに些末《さまつ》な事《こと》の場合《ばあい》でも、忍耐《にんたい》といふことを忘《わす》れてはなりません。  誠實《せいじつ》とか正直《しようじき》とかいふことにかけても、他《た》の月生《つきうま》れの人《ひと》と比《くら》べると、未《いま》だしいところがありますから、いつも此《こ》の缺陷《けつかん》を制《おさ》へることに努力《どりよく》しなければなりません。  一般《いつぱん》に、良《よ》き健康《けんこう》の持主《もちぬし》ですが、決《けつ》して強壯《きようそう》な肉體《からだ》を惠《めぐ》まれてはをりません。そのうへ、苦勞《くろう》といふものほど、人《ひと》の健康《けんこう》をそこなふものはないのですから、その苦勞《くろう》を、しかも長《なが》いあひだしつヾけるやうなことは避《さ》くべきです。  他《ほか》の事《こと》を好《この》んで是非《ぜひ》しながら、他人《たにん》の批評《ひひよう》は受《う》け容《い》れようとしない傾向《けいこう》があります。  いつでも人《ひと》を正《ただ》しく評價《ひようか》するといふことが出來《でき》かねますから、をり/\は人《ひと》の意見《いけん》にも耳《みみ》を傾《かたむ》けるやうに心《こころ》がけねばなりません。  仕事《しごと》が好《す》きといふ方《ほう》ではありませんが、餘儀《よぎ》なくせられると、自分《じぶん》の務《つと》めは完全《かんぜん》に果《はた》します。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、弱《よわ》い胃《い》を與《あた》へられてゐながら、それに注意《ちゆうい》を拂《はら》ふといふことがありません。そして、脂肪氣《しぼうけ》の強《つよ》い食物《しよくもつ》を攝《と》りすぎて、ひどく苦《くる》しむやうなことが度々《たびたび》あります。  心《こころ》から好意《こうい》を自分《じぶん》に寄《よ》せてくれてゐる人々《ひとびと》に對《たい》しても、偏見《へんけん》や嫌忌《けんい》の情《じよう》に捉《とら》へられ、その結果《けつか》、われとわが身《み》に公平《こうへい》を缺《か》くやうなことがあります。  望めば叶ふもの[#「望めば叶ふもの」に傍点]――であることは、望《のぞ》む量《りよう》の多少《たしよう》には關係《かんけい》するものではないが――しかし、心[#「心」に傍点]と腦[#「腦」に傍点]と手[#「手」に傍点]とに助力《じよりよく》の用意《ようい》をとヽのへて望《のぞ》まねばならない。――  このことがわかつたあかつきでなければ、至高至善《しこうしぜん》の仕事《しごと》に對《たい》してまだ準備《じゆんび》が出來《でき》てゐるのではありません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、自分《じぶん》のためにあくまで自分《じぶん》の存在《そんざい》を主張《しゆちよう》するだけの強《つよ》さが無《な》く、臆病《おくびよう》と弱氣《よわき》に捉《とら》へられ、生存競爭場裡《せいぞんきようそうじようり》から退却《たいきやく》する傾向《けいこう》があります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、自己《じこ》の直覺《ちよつかく》が、正《ただ》しいと告《つ》げた事《こと》から、遠《とお》ざかるやうな事《こと》があつてはなりません。  生來《せいらい》の衝動《しようどう》に驅《か》られ、性向《せいこう》や、短氣《たんき》のために目《め》をくらまされて、自分《じぶん》のためになる物《もの》を見落《みおと》してはなりません。何事《なにごと》に關《かん》してでも、疑問《ぎもん》が起《おこ》つた場合《ばあい》には、絶對《ぜつたい》の沈默《ちんもく》が得《え》られるやうなところへ行《ゆ》くやうにしなければなりません。  理想《りそう》を變《か》へることによつて、いぢけさせ、硬化《こうか》させては惜《お》しいほどの美《うつく》しい素質《そしつ》を惠《めぐ》まれてゐるのですから、無定見《むていけん》、無節操《むせつそう》には陷《おちい》らぬやうに愼《つつ》しまねばなりません。  自分《じぶん》は指導者《しどうしや》となる運命《さだめ》をもつてゐるといふ事《こと》を忘《わす》れてはなりません。そして自己《じこ》を制御《せいぎよ》することが出來《でき》るやうになつた時《とき》にだけ、その地位《ちい》につく術《すべ》がわかるのであるといふ事《こと》を、絶《た》えず記憶《きおく》してゐなければなりません。 「思《おも》ひのまヽにする浪費《ろうひ》は、悲《かな》しき窮乏《きゆうぼう》を生《う》むものである」――この言葉《ことば》をいつも心《こころ》に銘《めい》じてゐて、金錢《きんせん》を無制限《むせいげん》に撒《ま》きすてぬやうに心《こころ》すべきです。  あまり自分《じぶん》の見解《けんかい》に執着《しゆうちやく》しすぎてはなりません。  利己《りこ》の手綱《たづな》をゆるめると、生《うま》れながらの親切《しんせつ》な、同情《どうじよう》に充《み》ちた、魅力《みりよく》のある性情《せいじよう》を抹殺《まつさつ》されてしまいますから、利己心《りこしん》はあくまで抑《おさ》へなければなりません。  人間《にんげん》に理智《りち》が惠《めぐ》まれてゐる理由《りゆう》を考《かんが》へて、いつも情《じよう》の發露《はつろ》として事《こと》を行《おこな》ふといふやうな傾向《けいこう》を排《はい》し、時《とき》をりは頭腦《ずのう》も使用《しよう》すべきです。  交友《こうゆう》を選《えら》ぶに無謀《むぼう》であつてはなりません。そして、友《とも》を惹《ひ》きつけると同樣《どうよう》に、その友情《ゆうじよう》をつなぎとめる方法《ほうほう》も講《こう》ずべきです。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、男女《だんじよ》とも、自分《じぶん》の正しい[#「正しい」に傍点]位置《いち》に就《つ》かうとさへすれば、おのづから指導者《しどうしや》となる運命《さだめ》がありますから、意《こころ》を致《いた》せば、失敗《しつぱい》をも、成功[#「成功」に傍点]に變《か》へてしまふ事《こと》が出來《でき》ます。 [#改ページ] [#中見出し]八月生れの子ども[#中見出し終わり]  八月《はちがつ》に生《うま》れた子《こ》どもは、非常《ひじよう》に感《かん》じ易《やす》くて、熱情的《ぜつじようてき》な性向《せいこう》を與《あた》へられてゐますから、出來《でき》るかぎりの注意《ちゆうい》を拂《はら》つて育《そだ》てるやうに心《こころ》がけねばなりません。  幼兒《みどりご》の時分《じぶん》から、何事《なにごと》をも、すべて思《おも》ふがまヽの手段方法《しゆだんほうほう》で行《おこな》ふ習慣《しゆうかん》をつけさせるべきで、決《けつ》して模倣《もほう》することを許《ゆる》してはなりません。  御《ぎよ》することが出來《でき》ない子《こ》どもですから、母親《ははおや》は強《つよ》い手《て》をもつて、しかして優《やさ》しい情《こころ》をもつて導《みちび》くやうにすべきです。  詐《いつわ》りに氣《き》づくことも速《すみや》かですから、詐《いつわ》れば詐《いつわ》りをもつて迎《むか》へるでせう。  不羈獨立《ふきどくりつ》の人格《じんかく》を培《つちか》はせねばなりません。そして、その拵《こし》らへるものや言《い》ふことは、何《なん》によらずこれを稱揚《しようよう》して、個性《こせい》を發達《はつたつ》させるやうにしなければなりません。  一般《いつぱん》に、物言《ものい》ひぶりや身《み》ぶりを模倣《もほう》する力《ちから》が多分《たぶん》にありますが、しかし必要《ひつよう》なことは、あくまで自己《じこ》を失《うしな》はせぬといふ事《こと》なのですから、模倣性《もほうせい》を強《つよ》めるやうな育《そだ》て方《かた》は、愼《つつ》しむべきです。  單純《たんじゆん》で、しかもよき服裝《みなり》をさせることと、着物《きもの》には上等《じようとう》の品《しな》を用《もち》ひるやうにすることを心《こころ》がけねばなりません。  この月生《つきうま》れの女《おんな》の子《こ》には、面白《おもしろ》くて、しかも有益《ゆうえき》な仕事《しごと》に絶《た》えず忙《いそが》しく身《み》を入《い》れてゐるやうにさせ、同時《どうじ》にその仕事《しごと》の責任《せきにん》を感《かん》じさせるやうにすることが必要《ひつよう》です。  ごく幼《おさな》いうちに、住居《じゆうきよ》を綺麗《きれい》にし、食卓《しよくたく》を氣持《きもち》よくすることに興味《きようみ》をもつやうにしつけねばなりません。さうすればたちまち、かヽる仕事《しごと》をよろこぶやうになるばかりか、驚《おどろ》くほどの注意深《ちゆういぶか》さと知識《ちしき》とを示《しめ》すやうになります。  この月生《つきうま》れの男《おとこ》の子《こ》は、まるで小《ちい》さい獅子《しし》と言《い》ふやうな氣性《きしよう》をもつてゐるので、決《けつ》して、恐怖《きようふ》によつて慣《な》らすことは出來《でき》ないけれど、愛《あい》の力《ちから》には心服《しんぷく》してどんな事《こと》でも行《おこな》ふでせうから、弛《たゆ》まぬ愛情《あいじよう》と、變《かわ》らぬ温情《おんじよう》とをもつて制《おさ》へ導《みちび》かねばなりません。  正《ただ》しい教養《きようよう》をさへ與《あた》へれば、必《かなら》ず、廉恥《れんち》の心《こころ》の旺《さか》んな人《ひと》と成《な》ります。しかし、そのためには、兩親《りようしん》は、子《こ》どものために設《もう》けた規範《きはん》を自分《じぶん》で犯《おか》すことの無《な》いやうに、あくまで注意《ちゆうい》しなければなりません。  八月生《はちがつうま》れの子《こ》どもの多《おお》くは、決《けつ》して人《ひと》から理解《りかい》せられない悲《かな》しい運命《さだめ》を與《あた》へられてをり、そのため生涯《しようがい》のうちには、幾度《いくど》も心《こころ》の痛《いた》みを味《あじわ》ふことがあります。  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもには、その美《うつく》しい、感《かん》じ易《やす》い性情《せいじよう》を、自分《じぶん》が全靈的《ぜんれいてき》に愛《あい》する人間《にんげん》にむかつて表白《ひようはく》しますが、若《も》し愛《あい》のこもつた、温《あたたか》い評價《ひようか》に出會《であ》わないと、たちまち怯《おび》え退《しりぞ》いて、自我《じが》の殼《から》にとぢこもり、幾週《いくしゆう》となく悲《かな》しい物思《ものおも》ひに耽《ふけ》ります。  母親《ははおや》によつては我《わ》が子《こ》をみな同樣《どうよう》に取扱《とりあつか》ふといふ風《ふう》がありますが、これは大《おお》きな過《あやま》ちであつて、かヽる母親《ははおや》をもつたものの、幼年時代《ようねんじだい》の悲《かな》しみ苦《くる》しみの多《おお》くはこの無差別《むさべつ》の取扱《とりあつか》ひに因《よ》るのであります。  子《こ》どもはみなそれ/″\に、はつきりと定《さだ》まつた性質特質《せいしつとくしつ》を亨《う》けて此《こ》の世《よ》に生《うま》れ出《で》てゐるものでありますから、人《ひと》の母《はは》たるものは、幼《おさな》いものが幸福《こうふく》で、健全《けんぜん》で、有用《ゆうよう》な男女《だんじよ》に生立《おいた》つやうにしつけるべき、最上《さいじよう》の方法《ほうほう》の鍵《かぎ》を出來《でき》るかぎり子《こ》どもの幼《おさな》いうちに握《にぎ》らねばなりません。  母親《ははおや》は、成功[#「成功」に傍点]と名聲[#「名聲」に傍点]とに到《いた》るべき梯子《はしご》を登《のぼ》つて行《ゆ》くのを、助《たす》けるためには、子《こ》どもがまだ嬰兒《えいじ》の時分《じぶん》から、その天賦《てんぷ》の才能《さいのう》を十分《じゆうぶん》に利用《りよう》させるやうに絶《た》えず心《こころ》がけてゐなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]八月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 吉田松蔭《よしだしよういん》 柿本人麻呂《かきのもとのひとまろ》 平田篤胤《ひらたあつたね》 中將姫《ちゆうじようひめ》 榎本武揚《えのもとぶよう》 伊達政宗《だてまさむね》 細川立興《ほそかわたておき》 岩崎小彌太《いわさきこやた》 岩崎久彌《いわさききゆうや》 大木遠吉《おおぎえんきち》 横田千之助《よこたせんのすけ》 新渡戸稻造《にとべいなぞう》 藤山雷太《ふじやまらいた》 本山彦一《もとやまひこいち》 饗庭篁村《あえばこうそん》 ナポレオン・ボナパルト(軍人《ぐんじん》) グィ・ド・モオパスサン(小説家《しようせつか》) アルフレッド・テニスン(詩人《しじん》) [#改丁] [#大見出し]九月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、寛大《かんだい》で、情《なさけ》に厚《あつ》く、心《こころ》がやさしくて、人《ひと》を惹《ひ》きつける非凡《ひぼん》な磁力《じりよく》を惠《めぐ》まれてゐます。  規則《きそく》や秩序《ちつじよ》を守《まも》るに精嚴《せいげん》で、すること爲《な》す事《こと》みな成功《せいこう》するのが常《つね》です。  よき學者《がくしや》であり、よき音樂家《おんがくか》であります。そして教師《きようし》、またはあらゆる教育事業《きよういくじぎよう》の指導者《しどうしや》として秀《すぐ》れる運命《うんめい》があります。  家族眷族《かぞくけんぞく》を愛《あい》する人《ひと》で、門閥《もんばつ》の大信仰者《だいしんこうしや》です。  祕密好《ひみつず》きで、自分《じぶん》のことはあくまで祕《ひ》めると共《とも》に、友《とも》の祕密《ひみつ》をも、それに劣《おと》らず嚴守《げんしゆ》します。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、殊《こと》に衣裳《いしよう》のことに氣《き》むづかしく、流行《りゆうこう》に魁《さきが》けすることが何《なに》よりも好《す》きです。  男子《だんし》は天性《てんせい》の化學者《かがくしや》であります。そして新聞記者《しんぶんきしや》、演説家《えんぜつか》、音樂家《おんがくか》として秀《ひい》でることもしば/\あります。  よき資質《ししつ》を惠《めぐ》まれてゐることが人一倍《ひといちばい》なので、他人《たにん》にも完全《かんぜん》を期待《きたい》することが強《つよ》く、そのために往々自分本位《おうおうじぶんほんい》になり、口《くち》やかましくなる傾向《けいこう》があります。  商賣上金錢上《しようばいじようきんせんじよう》のことには飽《あ》くまで几帳面《きちようめん》です。ですから、欺《あざむ》いて一錢半錢《いつせんはんせん》でもせしめやうなどとする人《ひと》があれば、それこそ飛《と》んだ災難《さいなん》を受《う》けねばなりません。  蓄財《ちくざい》が好《す》きです。しかし、「雨《あめ》の日《ひ》」の用意《ようい》をとヽのへながらも、その一方《いつぽう》では、人生《じんせい》を享樂《きようらく》しながら暮《く》らして行《ゆ》くだけの賢明《けんめい》さを惠《めぐ》まれてゐます。  秩序《ちつじよ》や調和《ちようわ》といふことに極《きわ》めて敏感《びんかん》ですから、一絲亂《いつしみだ》れずとヽのひ、取《と》りかたづけられて、居心地《いごこち》のよい雰圍氣《ふんいき》の中《なか》にゐなければ、最大《さいだい》の幸福《こうふく》を味《あじわ》ひ、最大《さいだい》の功業《こうぎよう》を成就《じようじゆ》することは決《けつ》して出來《でき》ません。  大部分《だいぶぶん》は顯職《けんしよく》につくことが出來《でき》ます。政治國事《せいじこくじ》に干與《かんよ》して高位高官《こういこうかん》にのぼることもしばしばあります。  性《せい》のいづれに拘《かかわ》らず、この月生《つきうま》れの人《ひと》は、旅行好《りよこうず》きで、そして異《ことな》る風物《ふうぶつ》に接《せつ》することに依《よ》つていつも利益《りえき》を得《え》ます。  快活《かいかつ》で、陽氣《ようき》で、短所《たんしよ》を洗《あら》ひ立《た》てようなどとはしないやうな人《ひと》を選《えら》んで結婚《けつこん》しさへすれば、最大《さいだい》の幸福《こうふく》を惠《めぐ》まれます。  大《たい》へんにやかまし家《や》で、ともすれば人《ひと》をさん/″\に批評《ひひよう》する傾向《けいこう》がありますが、これに打《う》ち克《か》てば、必《かなら》ず愛《あい》すべき人物《じんぶつ》となることが出來《でき》ます。  到《いた》つて強壯《きようそう》、到《いた》つて健全《けんぜん》で、年《とし》を重《かさ》ぬるに從《したが》つていよ/\若《わか》やぐといつたやうな傾向《けいこう》があります。  暴飮暴食《ぼういんぼうしよく》をする傾向《けいこう》がありますが、これはあくまでも制《おさ》へねばなりません。若《も》しも制《おさ》へないやうなことがあれば、世《よ》に出て、嶄然頭角《ざんぜんとうかく》をあらはすといふことは到底望《とうていのぞ》むことが出來《でき》ないでせう。  この月《つき》に生《うま》れた人《ひと》が、何《なに》をおいても心得《こころえ》ねばならないのは、自分《じぶん》は神《かみ》に驚《おどろ》くべき性情《せいじよう》を惠《めぐ》まれてゐるといふ事《こと》と、しかし神《かみ》は自分《じぶん》に大成《たいせい》を期待《きたい》してゐるのであるといふ事《こと》との二《ふた》つです。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、個性《こせい》をあくまで磨《みが》かねばなりません。  自恃《じじ》のこヽろを壯《さか》んにしなければなりません。  非議非難《ひぎひなん》する事《こと》を止《や》め、援助《えんじよ》の手《て》を差《さ》しのべるやうにしなければなりません。  人《ひと》を幸福《こうふく》にしてわが身《み》の幸福《こうふく》を得《う》るといふことを努《つと》めねばなりません。  九月《くがつ》といふ月《つき》に生《うま》れた人《ひと》は、往々《おうおう》、進歩向《しんぽむき》の緩慢《かんまん》な傾向《けいこう》がありますが、しかし、精力《せいりよく》を、老熟境《ろうじゆくきよう》まで保《たも》つてゐて、人生《じんせい》の福利《ふくり》を味《あじわ》ふやうにしなければなりません。  中年《ちゆうねん》に及《およ》んでもなほ成功[#「成功」に傍点]と富[#「富」に傍点]と權力[#「權力」に傍点]とを掌中《しようちゆう》にをさめ得《え》ないでいる、といふやうなことは、この九月生《くがつうま》れの人《ひと》には無《な》いと言《い》つてもよいほどです。  晩年《ばんねん》は旅行《りよこう》に過《すご》す傾向《けいこう》が多分《たぶん》にありますが、その旅行《りよこう》とても、通例《つうれい》は贅《ぜい》のかぎりを盡《つく》したものです。  しば/\世界《せかい》を漫遊《まんゆう》し、到《いた》るところの美《うつく》しい土地《とち》で、十分《じゆうぶん》に長《なが》いあひだの苦鬪《くとう》の骨休《ほねやす》めをすることがあります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、自身《じしん》の缺點《けつてん》に目《め》をとめるこそ努《つと》めるべきで、他人《たにん》には決《けつ》して完全《かんぜん》を期待《きたい》してはなりません。  不當《ふとう》な酷評《こくひよう》は、頬《ほお》を打《う》たれるよりも忍《しの》び難《がた》いものである、といふことを悟《さと》らねばなりません。  他人《たにん》に對《たい》しては、その短所《たんしよ》を探《さが》す代《かわ》りに長所《ちようしよ》を求《もと》め、その缺陷《けつかん》を洗《あら》ひ立《た》てる代《かわ》りに良《よ》い批評《ひひよう》を加《くわ》へるやうに努力《どりよく》しなければなりません。  財貨《ざいか》も貴族的風采《きぞくてきふうさい》も、一人《ひとり》の眞《しん》の友《とも》の握手《あくしゆ》にくらべれば、その價値《かち》は半《なか》ばにも足《た》りないものであることを知《し》らねばなりません。  淡白《たんぱく》に、あけつぱなしにするやうに努《つと》めるこそ然《しか》るべきで、世評《せひよう》にあまり感《かん》じ易《やす》いことは愼《つつ》しまねばなりません。  社會《しやかい》が要求《ようきゆう》してゐるのは、獨創《どくそう》であつて模倣者《もほうしや》ではないことを悟《さと》り、物事《ものごと》はあくまで自己獨特《じこどくとく》の方法《ほうほう》で行《おこな》ふやう努《つと》めねばなりません。  性《せい》のいづれを問《と》はず、この月生《つきうま》れの人《ひと》は、産《さん》を成《な》すのがさだめであり、從《したが》つて、金錢《きんせん》を如何《いか》に始末《しまつ》すべきかといふことを知《し》らなければならないのですから、よき實業教育《じつぎようきよういく》を受《う》けるべきです。  非議非難《ひぎひなん》する性向《せいこう》に打《う》ち克《か》つことを努《つと》めねばなりません。  食物《しよくもつ》に十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》えば、清新《せいしん》さ、若々《わかわか》しさを、立派《りつぱ》に保《たも》つてゐられますから、決《けつ》して不注意《ちゆうい》に陷《おちい》つてはなりません。  身《み》にまとうて最《もつと》も似合《にあ》ふ色《いろ》は、あらゆる濃《こ》さの樺色《かばいろ》と、黄色《きいろ》で、また、濃淡《のうたん》いづれの青《あお》も結構《けつこう》です。  婦人《ふじん》は紅《あか》みをおびた碧玉《ジヤスパア》か、蛋白石《オパール》、または眞珠入《しんじゆい》りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきで、男子《だんし》は、それらのいづれかのスカーフ・ピンをさすべきです。  結婚《けつこん》には、三月《さんがつ》か五月《ごがつ》、または八月生《はちがつうま》れの人《ひと》が合性《あいしよう》ではありますが、しかし、物質《ぶつしつ》の世界《せかい》から超絶《ちようぜつ》すると共《とも》に、心《こころ》の平衡《へいこう》を保《たも》ち得《え》てゐる場合《ばあい》ならば、その以外《いがい》の月《つき》の生《うま》れの人《ひと》を求《もと》めても、良縁《りようえん》でないことはありません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、二月《にがつ》か十月《じゆうがつ》かに着手《ちやくしゆ》すれば、企業《きぎよう》は最《もつと》も成功《せいこう》するでせう。そして、一週《いつしゆう》のうちでは、水曜日《すいようび》が最上《さいじよう》の吉日《きちにち》であります。  外見《がいけん》に欺《あざむ》かれないやうに注意《ちゆうい》し、徳《とく》と眞價《しんか》とを信頼《しんらい》し讃美《さんび》するやうに努《つと》めねばなりません。  疲《つか》れた時《とき》には、まつしぐらに大自然《だいしぜん》のふところに飛《と》び込《こ》んで行《い》つて、偉大《いだい》な「戸外《こがい》」で時《とき》を過《すご》し、醫藥《いやく》では到底得《とうていえ》られぬものを得《う》るやうにすべきです。  この月生《つきうま》れのものは、成功[#「成功」に傍点]と富[#「富」に傍点]と地位[#「地位」に傍点]とを惠《めぐ》まれるのが運命《さだめ》ではありますが、そのためには次《つぎ》の三《みつ》つの言葉《ことば》を、絶《た》えまなく胸《むね》に繰《く》り返《かえ》していなければなりません。 [#ここから2字下げ] 不調和《ふちようわ》にはすべて反對《はんたい》である。 非議非難《ひぎひなん》にはすべて反對《はんたい》である。 惡《あく》にはすべて反對《はんたい》である。 [#ここで字下げ終わり]  この三《みつ》つの言葉《ことば》を絶《た》えず固守《こしゆ》していれば、やがてそれが習性《しゆうせい》となり、まもなく成功[#「成功」に傍点]を掌中《しようちゆう》にをさめることが出來《でき》ます。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、どんな類《たぐい》の爭《あらそ》ひをでも避《さ》けることが出來《でき》るやうにならなければ、成功《せいこう》をも、幸福《こうふく》をも、健康《けんこう》をも決《けつ》して得《う》ることはありません。  心《こころ》のおちつくまでは、食《た》べた食物《しよくもつ》が消化《しようか》しないやうに生《うま》れついてゐるのですから、若《も》し腹《はら》を立《た》てながら物《もの》を口《くち》にするやうな事《こと》があれば、それは神《かみ》に與《あた》へられてゐる驚《おどろ》くべき健康《けんこう》に、注意《ちゆうい》を怠《おこた》つてゐるものと言《い》はねばなりません。  物《もの》の眞價《しんか》を見出《みいだ》すことにかけて、十分《じゆうぶん》の敏速《びんそく》さが缺《か》けてゐます。それゆゑ、手《て》ざはりの滑《なめ》らかな表面《ひようめん》に欺《あざむ》かれぬやうにいつも心《こころ》を戒《いまし》めてゐなければなりません。  自主自在《じしゆじざい》のこヽろが十分《じゆうぶん》ではありません。そして、をりをり/\裕福《ゆうふく》な友《とも》だちの追從者《ついじゆうしや》や模倣者《もほうしや》になることがあります。  不幸《ふこう》な身上話《みのうえばなし》でうま/\と欺《あざむ》かれるやうな事《こと》はなく、いつも直覺的《ちよつかくてき》に、眞相《しんそう》をさとります。  金錢上《きんせんじよう》では利己的《りこてき》ではありませんが、讃辭《さんじ》にかけるとしば/\利己心《りこしん》を發揮《はつき》します。  男女《だんじよ》いづれを問《と》はずこの月生《つきうま》れの人《ひと》は、絶對《ぜつたい》の自制[#「自制」に傍点]を得《う》るまでは、最《もつと》も輝《かがや》かしい成功《せいこう》も最《もつと》も豐《ゆた》かな幸福《こうふく》も、決《けつ》して得《え》られることはありません。  自分自身の行動を監視[#「自分自身の行動を監視」に傍点]し、自分自身《じぶんじしん》の觀念[#「觀念」に傍点]を偉大な實在[#「偉大な實在」に傍点]にしなければ、天《てん》に與《あた》へられた偉大高壯《いだいこうそう》な性格《せいかく》を利用《りよう》してゐるといふことは出來《でき》ません。  交友《こうゆう》を求《もと》めて已《や》まない心《こころ》の叫《さけ》びを壓《お》し殺《ころ》さうとして、たとへ繪畫《かいが》や贅澤品《ぜいたくひん》の中《なか》に身《み》を埋《うも》れさせてみても、結局《けつきよく》、獨《ひと》りでは幸福《こうふく》の味《あじわ》へない人《ひと》です。  友《とも》に對《たい》する十二分《じゆうにぶん》の淡白《たんぱく》さが無《な》く、打《う》ち明《あ》けて語《かた》り合《あ》ひさへすれば、二三分間《にさんぷんかん》の説明《せつめい》で事足《ことた》りるやうな、輕侮《けいぶ》のまぼろしをも、胸底《きようてい》にひそめてゐて心《こころ》を勞《ろう》するといふ傾向《けいこう》があります。  趣味《しゆみ》や服裝《ふくそう》に、個性《こせい》をあらはすことに、未《いま》だしいところがありますから、自己特有《じことくゆう》の樣式《ようしき》といふものを養《やしな》はねばなりません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、他人《たにん》の問題《もんだい》に干與《かんよ》することを愼《つつ》しまねばなりません。  自分自身《じぶんじしん》の短所弱點《たんしよじやくてん》に眼《め》をつけて、それに打《う》ち克《か》つことを努《つと》むべきで、他人《たにん》のそれを非議非難《ひぎひなん》することは愼《つつ》しまねばなりません。  強《つよ》い藥《くすり》を飮《の》むことや、しば/\醫者《いしや》にかヽることは愼《つつ》しまねばなりません。 「他人《たにん》のために」でも、不快《ふかい》な事實《じじつ》を摘發《てきはつ》して、その感情《かんじよう》を傷《きず》つけるやうなことは愼《つつ》しまねばなりません。  外見《がいけん》に介意《かいい》しすぎることは、しば/\奢侈《しやし》を養《やしな》ふものですから愼《つヽ》しむべきです。  倦《う》まず弛《たゆ》まず、忠實《ちゆうじつ》に働《はたら》きさへすれば、成功《せいこう》すること必定《ひつじよう》な生《うま》れなのですから、何《なに》にまれ、事業《じぎよう》の着手《ちやくしゆ》をためらうやうなことがあつてはなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、他人《たにん》の稼業《かぎよう》に手《て》を貸さないで、出來《でき》るだけ迅速《じんそく》に、獨立《どくりつ》して業《ぎよう》を營《いとな》むべきです。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は、人《ひと》の部下《ぶか》となつて時《とき》を浪費《ろうひ》することなく、敢然《かんぜん》その地位《ちい》を捨《す》てて、小《ちい》さくとも商賣《しようばい》を始《はじ》むるなり、大商館《だいしようかん》の支配人《しはいにん》となるなり、ともかく、自由《じゆう》に手腕《しゆわん》を揮《ふる》ふやうにしなけれはなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、新鮮《しんせん》な大氣《たいき》にふれることが絶對《ぜつたい》に必要《ひつよう》な生《うま》れなのですから、終日終夜屋内《しゆうじつしゆうやおくない》に籠《こも》つてゐてはなりません。もし晝間《ひるま》はどうしても家《いえ》の中《なか》にゐなければならないければ、少《すくな》くも夜《よる》は戸外《こがい》で眠《ねむ》るやうにすべきです。  成功《せいこう》と富《とみ》との訪《おとず》れがおそくとも、決《けつ》してくよ/\してはなりません。  心《こころ》は、これに適當《てきとう》の訓練《くんれん》を與《あた》へて、成功を惹き寄せ得るほど[#「成功を惹き寄せ得る」に傍点]、晴《は》れやかにし、人格《じんかく》は、これを磨《みが》いて、眞《しん》の世に立つ力となり得る[#「世に立つ力となり得る」に傍点]ほど、強固《きようこ》にするまでは、終生《しゆうせい》の事業《じぎよう》には決《けつ》して指《ゆび》を染《そ》めるべきでありません。 [#改ページ] [#中見出し]九月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、眞《しん》の「自然兒《しぜんじ》」です。  好惡《こうお》の情《じよう》、強烈《きようれつ》な、拔群《ばつぐん》な、意志《いし》の力《ちから》を與《あた》へられてゐます。  ともすれば夙《はや》くから事務《じむ》の才《さい》をあらはしますが、この傾向《けいこう》は、あらゆる方法《ほうほう》をもつて助成《じよせい》しなければなりません。  母親《ははおや》は、幼年時代《ようねんじだい》から、他人《たにん》の短所《たんしよ》を探《さが》したり惡評《あくひよう》を口《くち》にしたりせぬやうに訓育《くんいく》しなければなりません。萬一《まんいち》、此《こ》の缺陷《けつかん》を制《おさ》へておかないと、子《こ》どもの進歩《しんぽ》はいつまでも望《のぞ》めないでせう。  他人《たにん》の長所《ちようしよ》を見《み》ることを絶《た》えず教《おし》へ、友《とも》だちの惡口《あつこう》をするやうな事《こと》は、決《けつ》して赦《ゆる》してはなりません。  母親《ははおや》は、過《あやま》ちの罪《つみ》を、潔《いさぎよ》く受《う》ける風習《ふうしゆう》を養《やしな》はせることに、絶《た》えずあくまで努力《どりよく》しなければなりません。  子《こ》どもが、先生《せんせい》または友《とも》だちの過《あやま》ちを探《さが》し出《だ》して言《い》ひ立《た》てた時《とき》には、 「それは先生《せんせい》(または友《とも》だち)のした事《こと》で、おまへがしたのではないのは確か[#「確か」に傍点]ですか?」と、いつも言《い》ふことが必要《ひつよう》です。  一瞬《いつしゆん》のあひだでも、人《ひと》に非難《ひなん》の鞭《むち》をあてることを容《ゆる》してはなりません。若《も》しもこれを容《ゆる》しておくならば、子《こ》どもの判斷《はんだん》は非常《ひじよう》に冷酷《れいこく》なものとなり、ためにその一生《いつしよう》を毒《どく》せられるに到《いた》るでせう。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、天性《てんせい》の研究家《けんきゆうか》ですから、いつも、立派《りつぱ》な圖書室《としよしつ》に出入《でい》りの出來《でき》るやうにしておいてやらねばなりません。  物《もの》を育《そだ》てることの上手《じようず》な性《たち》でありますから、小《ちい》さい庭園《ていえん》をでもあてがへば、幸福《こうふく》と健康《けんこう》とを惠《めぐ》まれることになるでせう。  音樂《おんがく》は調和《ちようわ》を促進《そくしん》すると同時《どうじ》に、種々《しゆじゆ》の利益《りえき》を與《あた》へてくれるものですから、音樂《おんがく》は必《かなら》ず學《まな》ばねばなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、膚目《きめ》こまやかで、感《かん》じ易《やす》い皮膚《ひふ》を與《あた》へられてゐるのが常《つね》であります。それゆゑ、浴《ゆあ》みをさせることと、皮膚《ひふ》の養生《ようじよう》を怠《おこた》らせぬことを忘《わす》れてはなりません。  新鮮《しんせん》な空氣《くうき》を吸《す》わせること、美味《びみ》で、淡泊《たんぱく》で、身《み》のある食《しよく》を與《あた》へること、幼《おさな》い時《とき》から深呼吸《しんこきゆう》を實行《じつこう》させること、この三《みつ》つの事《こと》も大切《たいせつ》であります。  信用《しんよう》ある醫師《いし》のすヽめによる場合《ばあい》のほか、どんな[#「どんな」に傍点]類《たぐい》の藥をも、決して服用させては[#「の藥をも、決して服用させては」に傍点]なりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、極《きわ》めて簡素《かんそ》な身《み》なりをさせるべきですが、趣味《しゆみ》にあはない色《いろ》に對《たい》しては、不思議《ふしぎ》なほど感《かん》じ易《やす》い性向《せいこう》をもつてゐますから、着物《きもの》の色《いろ》の如何《いか》は、その好《この》むに任《まか》せねばなりません。  夙《はや》くから、手仕事《てしごと》を教《おし》へるべきであります。手仕事《てしごと》を教《おし》へておけば、成長《せいちよう》ののちの道樂《どうらく》も、おのづから手《て》と腦《のう》とを使《つか》ふ方面《ほうめん》のことに傾《かたむ》くやうになるでせう。  實際《じつさい》、道樂《どうらく》といふものは、友《とも》だち代《かわ》りとなつて、その日《ひ》/\が單調《たんちよう》に、無味《むみ》になつてしまふことを防《ふせ》ぎ、また、邪惡《じやあく》な考《かんが》への湧《わ》き出《で》ることを制《おさ》へるものでありますから、誰人《たれびと》にとつても一《ひと》つは有《あ》つて結構《けつこう》なことです。 [#改ページ] [#中見出し]九月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 大倉喜八郎《おおくらきはちろう》 黒板勝美《くろいたかつみ》 黒岩周六《くろいわしゆうろく》 福島安正《ふくしまやすまさ》 平沼騏一郎《ひらぬまきいちろう》 江木衷《えぎちゆう》 渡邊崋山《わたなべかざん》 市川米庵《いちかわべいあん》 葛飾北齋《かつしかほくさい》 徳川慶喜《とくがわけいき》 小村壽太郎《こむらじゆたろう》 伊藤博文《いとうひろふみ》 トルストイ(小説家《しようせつか》) ネルソン提督《ていとく》(軍人《ぐんじん》) エッチ・ヂイ・ウエルス(思想家《しそうか》) リシュリュウ大僧正《だいそうじよう》(宗教家《しゆうきようか》) ブロスペル・メリメ(小説家《しようせつか》) エリザベス女王《じよおう》(女帝《じよてい》) [#改丁] [#大見出し]十月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、度量《どりよう》が大《おお》きく、胸《むね》は大望《たいもう》に燃《も》えてをり、しかもしば/\驚《おどろ》くばかりに才能《さいのう》づけられてゐます。  希望《きぼう》に充《み》ち、熱誠《ねつせい》に滿《み》ちてゐるのが常《つね》で、失敗《しつぱい》に失敗《しつぱい》が重《かさな》つても、落膽《らくたん》したり、倒《たお》れたりするといふことはありません。  ともすれば、金錢《きんせん》をおろそかにする傾向《けいこう》があります。從《したが》つて、金錢《きんせん》の尚《とうと》さを知《し》るために特殊《とくしゆ》の訓練《くんれん》が必要《ひつよう》です。  精神《せいしん》は正直《しようじき》なのですが、金錢《きんせん》の尚《とうと》さが殆《ほと》んどわかつてゐないために、支拂《しはら》ひが怠《おこた》りがちであり、時《とき》には全《まつた》く忘《わす》れてしまふやうなことさへもあります。  この月生《つきうま》れの男女《だんじよ》には、晝夜《ちゆうや》さながらの相異《そうい》があります。  男子《だんし》は、好《す》きな道《みち》を求《もと》めて世《よ》に出《で》ると、持《も》つて生《うま》れた鋭《するど》い直覺《ちよつかく》をたよりにして、一六勝負《いちろくしようぶ》に勝《か》たうために、しば/\仲買人《なかがいにん》や賭博者《とばくもの》になることがあります。  大凡《おおよそ》の女性《じよせい》を魅了《みりよう》し去《さ》る天分《てんぶん》を惠《めぐ》まれてゐますが、しかし、蜜蜂《みつばち》のやうに花《はな》から花《はな》へ飛《と》びうつるのがならひです。  社交的生活《しやこうてきせいかつ》の歡樂《かんらく》を吸引力《きゆういんりよく》におびき寄《よ》せられ、時《とき》には體面《たいめん》を保《たも》つために、向《むこ》う見《み》ずも贅澤《ぜいたく》も冐《おか》して敢《あえ》て意《い》に介《かい》しないやうな傾向《けいこう》があります。  世《よ》の中《なか》へ出《で》ては行《ゆ》かないこの月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、男子《だんし》ほどに無謀《むぼう》なところはありませんが、贅澤《ぜいたく》の點《てん》にかけては、はるかに男子《だんし》をしのぐ傾向《けいこう》を持《も》つてゐます。  金錢上《きんせんじよう》の事《こと》にかけては、やはりしまりがなく、返《かえ》さうといふ殊勝《しゆしよう》な意向《いこう》を持《も》ち合《あわ》せて、しば/\金錢《きんせん》を借《か》りながらも、催促《さいそく》をうけるまでは滅多《めつた》に返《かえ》さないといふやうな風《ふう》があります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、温厚篤實《おんこうとくじつ》で、親切《しんせつ》で、種類《しゆるい》の如何《いかん》によらず殘酷《ざんこく》なことには、強《つよ》い烈《はげ》しい嫌惡《けんお》を感《かん》じます。  非常《ひじよう》にきれい好《す》きで、骨折《ほねお》り仕事《しごと》や汚《きた》ない仕事《しごと》は嫌《きら》ひです。  詩人《しじん》として、作家《さつか》として、また、音樂家《おんがくか》として成功《せいこう》します。  投機《とうき》のあるところへは、何處《どこ》へでも顏《かお》を出《だ》したがる傾向《けいこう》がありますが、そのために、秀《すぐ》れた不動産賣買業者《ふどうさんばいばいぎようしや》となることもあります。  狼狽《ろうばい》し易《やす》くて、雜沓《ひとごみ》がきらひで、人通《どお》りのはげしい街衢《がいく》を横切《よこぎ》るときには殆《ほと》んどいつも慴《おび》え上《あが》ります。  持《も》ち物《もの》に不注意《ふちゆうい》で、物《もの》を落《おと》したり失《な》くしたりするのが常《つね》です。  書籍《しよせき》やその他《ほか》のものを、ともすれば借《か》りる癖《くせ》があります。しかもそれを早速返《さつそくかえ》さないからとて非難《ひなん》されヽば、それには耐《た》へ忍《しの》べない性質《せいしつ》です。  讃《ほ》められることが好《す》きであり、些細《ささい》なことにもすぐに氣《き》を惡《わる》くする機嫌買《きげんかい》です。  終始一貫熱《しゆうしいつかんねつ》す人《ひと》で世を《よ》すごし、家常茶飯《かじようさはん》のおきまりをいやしみます。  心配《しんぱい》や怒《いか》りや焦燥《しようそう》から起《おこ》る神經衰弱《しんけいすいじやく》と胃病《いびよう》とに、ともすれば襲《おそ》はれがちです。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、望《のぞ》むことの殆《ほと》んどすべてを成《な》し遂《と》げることが出來《でき》ます。そして、短氣《たんき》と苦勞性《くろうしよう》とに打《う》ち克《か》ちさへすれば、成功[#「成功」に傍点]に必《かなら》ずめぐまれるが運命《さだめ》であります。  徒《いたず》らに心配《しんぱい》することをやめて、不屈《ふくつ》の意志《いし》をもつて働《はたら》きさへすれば、成功《せいこう》ををさめること必定《ひつじよう》です。  起《おこ》るかも知《し》れない不意《ふい》の出來事《できこと》に、應《おう》ずるだけの準備《じゆんび》はたしかにとヽのつてはゐるが、その代《かわ》り、決して起らぬ[#「決して起らぬ」に傍点]事《こと》に心を勞し[#「心を勞し」に傍点]て、多《おお》くの精力《せいりよく》を消磨《しようま》するといふ、所謂苦勞性《いわゆるくろうしよう》の人《ひと》です。 「友《とも》を思《おも》ふことを多《おお》くし、敵《てき》を思《おも》ふことを少《すくな》くせよ。」――この言葉《ことば》を座右《ざゆう》の銘《めい》にしてゐれば、無上《むじよう》の幸福《こうふく》が味《あじわ》へ最良《さいりよう》の健康《けんこう》を樂《たの》しめます。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、自己《じこ》の直覺《ちよつかく》の命《めい》ずるまヽに行動《こうどう》していれば、決《けつ》して欺《あざむ》かれるやうなことはない、といふ事《こと》を何《なに》よりもまづ悟《さと》らねばなりません。  どれほど些細《ささい》な事《こと》にでも、秩序規律《ちつじよきりつ》はあくまで守《まも》る習慣《しゆうかん》をつけるべきで決《けつ》して不注意《ふちゆうい》のために人《ひと》に迷惑《めいわく》をかけるやうなことがあつてはなりません。  他人《たにん》の評價《ひようか》や賞讃《しようさん》を珍重《ちんちよう》しすぎないで、自分《じぶん》のことは、自分自身の見解[#「自分自身の見解」に傍点]を貴《とうと》しとしなければなりません。  性《せい》のいづれに拘《かかわ》らず、この月生《つきうま》れの人《ひと》は、成功《せいこう》にも、名聲《めいせい》にも惠《めぐ》まれるのが常《つね》で、しかもそれらが晩年《ばんねん》になつてから訪《おとず》れるやうな事《こと》があるのですから、忍耐《にんたい》の徳《とく》を養《やしな》はねばなりません。  おちつきを得《う》ること、高《たか》きを目《め》ざすこと、自分《じぶん》には大事業《だいじぎよう》を成《な》す可能性《かのうせい》があると思《おも》ふこと、この三事《さんじ》を忘《わす》れてはなりません。  思想《しそう》と實行《じつこう》、この二《ふた》つが相俟《あいま》つて人《ひと》をつくるものであることを知《し》らねばなりません。  この月生《つきうま》れのものは、人《ひと》の感化《かんか》を極《きわ》めて受《う》け易《やす》い性情《せいじよう》の持《も》ち主《ぬし》ですから、交友《こうゆう》の選擇《せんたく》には細心《さいしん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》ふべきです。  憎惡《ぞうお》と嫉妬《しつと》と羨望とは、却《かえ》つてたヾ自己《じこ》を害《がい》するばかりですから、こうした感情《かんじよう》を味《あじわ》ふことなしに生《い》きる術《すべ》を學《まな》ばねばなりません。  この月《つき》に生《うま》れた婦人《ふじん》は、金剛石《ダイヤモンド》か、蛋白石《オーパル》か、孔雀石入《メーラカイトい》りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきであり、男子《だんし》は、それらのいづれかの石《いし》のスカーフ・ピンをさすべきです。  よき外科醫《げかい》となり、大臣《だいじん》もしくは政黨《せいとう》の首領《しゆりよう》となる傾向《けいこう》があります。  都會《とかい》に住《す》むべきであります。  よき俳優《はいゆう》、よき司法官《しほうかん》、よき劇作家《げきさつか》となります。  どんな方面《ほうめん》に向《むか》ふ才能《さいのう》を啓發《けいはつ》しやうと思《おも》ふか、それを幼《おさな》いうちに決定《けつてい》し、一度決定《いちどけつてい》した上《うえ》は、その道一《みちひと》つをあくまで固執《こしつ》しなければなりません。  重要《じゆうよう》な企業《きぎよう》は、八月《はちがつ》、または十二月《じゆうにがつ》に、そして出來得《できう》べくんば金曜日《きんようび》に、着手《ちやくしゆ》すべきであります。  二月《にがつ》か五月《ごがつ》、八月《はちがつ》か三月《さんがつ》の生《うま》れの人《ひと》と結婚《けつこん》すべきではありますが、しかし、自制《じせい》の徳《とく》さへ得《え》てゐるならば、その以外《いがい》の月《つき》の生《うま》れの者《もの》をも、配偶者《はいぐうしや》に求《もと》めて敢《あえ》てさしつかへはありません。  身《み》にまとうべき色《いろ》は、黒色《くろいろ》、またはあらゆる濃《こ》さの赤《あか》および青《あお》であり、部屋《へや》の窓掛《まどかけ》、壁紙《かべがみ》にもそのいづれかの色《いろ》のものを用《もち》ふべきです。  男女《だんじよ》いづれにせよ、十月《じゆうがつ》の生《うま》れのもので、日々《ひび》の行《おこな》ひを金言[#「金言」に傍点]で律《りつ》する人《ひと》は、身勝手《みがつて》な慾望《よくぼう》に左右《さゆう》されながら行動《こうどう》してゐる者《もの》よりも、はるかにやす/\と、人生《じんせい》の障害物《しようがいぶつ》をのり越《こ》えて行《ゆ》くことが出來《でき》ます。 [#ここから2字下げ] 正直であれ[#「正直であれ」に傍点]―― 眞實であれ[#「眞實であれ」に傍点]―― 社會の尊敬に値する人であれ[#「社會の尊敬に値する人であれ」に傍点]―― 實行家であれ[#「實行家であれ」に傍点]、夢想である事勿れ[#「夢想である事勿れ」に傍点]―― [#ここで字下げ終わり]  叙上《じよじよう》の五箇條《ごかじよう》が、成功《せいこう》を得《う》るための標語《モツトー》であります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、あつて然《しか》るべきだけの堅實《けんじつ》さがありませんから、全力《ぜんりよく》をあげて、これを矯正填補《きようせいてんぽ》するやう、努力《どりよく》しなければなりません。  忍耐《にんたい》の徳《とく》に缺《か》けてゐるので、躍進《やくしん》のよき機會《きかい》をたび/\取《と》り逃《にが》します。  物事《ものごと》を判斷《はんだん》する場合《ばあい》に、たび/\の物質的立場《ぶつしつてきたちば》に立《た》つてするやうなことがあるといふ風《ふう》で、天成《てんせい》の、秀《すぐ》れた直覺的性情《ちよつかくてきせいじよう》を、十分《じゆうぶん》に利用《りよう》しない傾向《けいこう》があります。  自分自身《じぶんじしん》を統制《とうせい》する修養《しゆうよう》が積《つ》めないでは、決《けつ》して人《ひと》を助《たす》けたり、導《みちび》いたりするといふ事《こと》は出來《でき》ません。  天《てん》の惠《めぐ》みの才能《さいのう》に、十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》を拂《はら》ふことをせず、そのため、種々樣々《しゆじゆさまざま》のことを成《な》さうと試《こころ》みて、徒《いたず》らに時《とき》を費《ついや》すといふやうな傾《かたむ》きがあります。  この月《つき》に生《うま》れた人《ひと》は、愛《あい》を與《あた》へられるまで幸福《こうふく》を味《あじわ》ふことはありません。ですから、その尊《とうと》い愛《あい》を得《う》る祕法《ひほう》は、愛する[#「愛する」に傍点]ことに外《ほか》ならないといふことを、深《ふか》く、胸《むね》に刻《きざ》みつけていなければなりません。  家庭《かてい》をあとにし、親《した》しきものと離《はな》れてゐる時《とき》には、決《けつ》して幸福《こうふく》ではありません。それゆゑ、未《いま》だ人生《じんせい》の日《ひ》の朝日《あさひ》がのぼる頃《ころ》に、自分自身《じぶんじしん》の樂《たの》しい家庭《かてい》を購《あがな》ふことに努《つと》めねばなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、精神的《せいしんてき》にも肉體的《にくたいてき》にも、強《つよ》いといふほどではないのですから、いつも單純素朴《たんじゆんそぼく》な、健全《けんぜん》な生活《せいかつ》に生《い》きてゐなければなりません。  情《なさけ》を色《いろ》にあらはすことはありませんが、一度《いちど》こヽろから愛《あい》すれば、限《かぎ》りもない誠心《せいしん》と忠實《ちゆうじつ》とを捧《ささ》げずにはゐない性《たち》です。 [#ここから2字下げ] 過去を意に介する事勿れ[#「過去を意に介する事勿れ」に傍点]―― 現在をかこつこと勿れ[#「現在をかこつこと勿れ」に傍点]―― 己が所思に從へ[#「己が所思に從へ」に傍点]―― 直ちに成功を目指して出發せよ[#「直ちに成功を目指して出發せよ」に傍点]―― [#ここで字下げ終わり]  この四誡《しかい》に遵《したが》わないうちは、最大《さいだい》の成功《せいこう》を博《はく》するといふことはありません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、他《た》の計畫《けいかく》を追《お》ふことに依《よ》つて成功《せいこう》しようとしてはなりません。  指導者《しどうしや》たらうとすべきで、模倣者《もほうしや》、追從者《ついじゆうしや》とならうとしてはなりません。この月生《つきうま》れの人《ひと》の宿命《しゆくめい》は、實《じつ》に指導者《しどうしや》となることに在《あ》るのです。  獨自《どくじ》の想念《そうねん》と、天性《てんせい》の吸引力《きゆういんりよく》の、利用《りよう》を誤《あやま》つやうなことがあつてはなりません。  兒戲《じぎ》にも等《ひと》しい事《こと》に時間《じかん》を空費《くうひ》することを止《や》めて、國事民事《こくじみんじ》に心《こころ》を注《そそ》ぐやうにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、驚《おどろ》くべき直覺《ちよつかく》を惠《めぐ》まれてゐて、理由《りゆう》は言《い》へないまでも悟《さと》ることは出來《でき》るのですから、世評《せひよう》によつて人《ひと》を斷《だん》ずるやうなことをしてはなりません。  同情《どうじよう》を食《く》ひ荒《あ》らすやうな人々《ひとびと》または情況《じようきよう》のたヾなかに、われとわが身《み》を据《す》ゑることは、肉體《にくたい》の健康《けんこう》をそこなふ原因《もと》となりますから、何時如何《いついか》なる時《とき》でも、さうした事《こと》のないやうにしなければなりません。  天災《てんさい》や殺人事件《さつじんじけん》の新聞記事《しんぶんきじ》を讀《よ》むことは、愼《つつし》まなければなりません。さもないと、事《こと》こまかに書《か》き立《た》てられてゐる恐《おそ》ろしい場合《ばあい》の一《ひと》つ一《ひと》つが、胸《むね》にこたへ、身《み》に取《と》り憑《つ》かれてゐるやうな氣持《きもち》がして、氣分《きぶん》がわるくなつてしまふでせう。  繁劇《はんげき》と喧噪《けんそう》そのものである都會《とかい》によつて、最《もつと》もよい天分《てんぶん》を發揮《はつき》する傾向《けいこう》が見《み》えますから、決《けつ》して田園《でんえん》に居住《きよじゆう》すべきではありません。  この月《つき》に生《うま》れたものは、生來《せいらい》、同感《どうかん》と友情《ゆうじよう》とに縋《すが》らうとする強《つよ》い願《ねが》ひを與《あた》へられてゐますから、孤獨《こどく》に住《す》むことは斷《だん》じて止《や》めねばなりません。  たとへ人生《じんせい》の行路《こうろ》が、凹凸《おうとつ》たヾならなかつたり、嶮《けわ》しかつたりしやうとも、そのために神氣《しんき》を沮喪《そそう》することは禁物《きんもつ》で、成功は結局掌中に在る[#「成功は結局掌中に在る」に傍点]ことを、いつも牢記《ろうき》してゐるべきです。  將來《しようらい》のことに心《こころ》を勞《ろう》するやうな事《こと》は止《や》めて、今[#「今」に傍点]を支配《しはい》しなければなりません。今《いま》を支配《しはい》しさへすれば、明日《あす》は、來《き》たときにおのづから支配出來《しはいでき》るでせう。 [#改ページ] [#中見出し]十月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、しば/\劇《はげ》しい氣象《きしよう》を與《あた》へられてゐますから、大《おお》いに注意《ちゆうい》しなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、自分《じぶん》を御《ぎよ》し得《え》ない者《もの》は、人《ひと》の統御《とうぎよ》は出來《でき》ないといふ思想《しそう》と、自分《じぶん》は人《ひと》の首《かしら》に立《た》つやうに生《うま》れ合《あわ》せてゐるのであるといふ意識《いしき》とを授《さず》けて、夙《はや》くから、自制《じせい》の徳《とく》を養《やしな》はせるやうにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、機械《きかい》に關《かん》する方面《ほうめん》の天才《てんさい》を惠《めぐ》まれてゐるのが常《つね》ですから、この天才《てんさい》をあくまで磨《みが》けるやうな教育《きよういく》を施《ほどこ》すべきであります。  どんな苦痛《くつう》を拂《はら》つても、性《せい》の法則《ほうそく》を教《おし》へ、必《かなら》ず羞恥《しゆうち》の情《じよう》を取《と》り去《さ》るべきです。  しば/\缺點《あら》をさがしたり、小言《こごと》を言《い》つたりすることは、天性《てんせい》の短氣《たんき》を、劇《はげ》しくこそすれ、決《けつ》して靜《しず》めるものではありませんから、母親《ははおや》は、かヽることをせぬやうに、心《こころ》しなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、必《かなら》ず從《したが》ふことが明瞭《めいりよう》にわかつてゐる命令《めいれい》のみを下《くだ》すやうにすべきです。  兩親《りようしん》は、この月生《つきうま》れの子《こ》どもが、人性《じんせい》を敏速且《びんそくか》つ妥當《だとう》に裁《さば》く判官《はんがん》であり、ふれるものみなを見習《みなら》ふ巧《たく》みな模倣者《もほうしや》であることを、常《つね》に記憶《きおく》してゐなければなりません。  幼《おさな》いものの眼《め》のまへには、眞實[#「眞實」に傍点]を高《たか》くかざしておくべきものではありますが、殊《こと》に此《こ》の月生《つきうま》れの子《こ》どもには、たとへどれほど小《ちい》さな事柄《ことがら》の場合《ばあい》にでも、兩親《りようしん》はつねに、眞實《しんじつ》を告《つ》げるやうにしなければなりません。  自分《じぶん》の着物《きもの》は自分《じぶん》で選擇《せんたく》させるといふことは、この月生《つきうま》れの子《こ》どもの、個性的《こせいてき》な趣味《しゆみ》の發達《はつたつ》を促進《そくしん》する上《うえ》に、母《はは》として執《と》るべき賢明《けんめい》な方法《ほうほう》の一《ひと》つであります。  身《み》なりは、單純素朴《たんじゆんそぼく》なのを可《よ》しとしますが、服地《ふくじ》は、上等《じようとう》の品質《ひんしつ》のものを選《えら》ばねばなりません。  茶《ちや》も珈琲《コーヒー》も嚴禁《げんきん》です。食物《しよくもつ》は單純《たんじゆん》で、滋養《じよう》の豐《ゆた》かなものを選《えら》び、しかも食事時間《しよくじじかん》は正確《せいかく》に守《まも》らせることに注意《ちゆうい》を拂《はら》ふべきであります。  十月生《がつうま》れの女《おんな》の子《こ》には、家事《かじ》に關係《かんけい》のある一定《いつてい》の仕事《しごと》を必《かなら》ず與《あた》へて、その責任《せきにん》を持《も》たせ、しかもそれを行《おこな》ふ方法《ほうほう》は、思《おも》ひ通《どお》りにまかせることにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、人一倍鋭敏《ひといちばいえいびん》な正義觀《せいぎかん》を賦《あた》へられてゐるのでありますから、兩親《りようしん》たるものは、惡《わる》い事《こと》をしたといふことが、絶對《ぜつたい》に確實《かくじつ》な上《うえ》に、自分自身《じぶんじしん》がすこしも腹《はら》など立《た》てヽゐない時《とき》でなければ、決《けつ》して、子《こ》どもを叱《しか》つてはなりません。  説得《せつとく》したり、叱《しか》つたりするやうなことは、怒《おこ》つてゐるときにはあくまで避《さ》けて、あらし[#「あら」に傍点]の過《す》ぎ去《さ》るまで待《ま》たなければなりません。怒《いか》りさへ靜《しず》まれば、この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、やす/\と道理《どうり》を會得《えとく》しないではゐないでせう。  男女《だんじよ》いづれにせよ、功《こう》ををさめ偉大《いだい》な人物《じんぶつ》になるためには、自分自身《じぶんじしん》に打《う》ち克《か》つて、自分自身の運命の主[#「自分自身の運命の主」に傍点]にならなければならないものであるといふことを、何《なに》よりも先《ま》づ教《おし》へなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]十月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 二條基弘《にじようもとひろ》 西園寺公望《さいおんじきんもち》 山本權兵衞《やまもとごんべえ》 大山巖《おおやまいわお》 安田善次郎《やすだぜんじろう》 服部金太郎《はつとりきんたろう》 上田敏《うえだびん》 由井正雪《ゆいしようせつ》 フォッシュ元帥《げんすい》(軍人《ぐんじん》) テオドル・ルウズヴェルト(政治家《せいじか》) ジョン・キイツ(詩人《しじん》) フランツ・リスト(音樂家《おんがくか》) ロバアト・ランシング國務卿《こくむきよう》(政治家《せいじか》) ウィリアム・エス・スミス提督《ていとく》(軍人《ぐんじん》) レオナアド・ウッド將軍《しようぐん》(軍人《ぐんじん》) キッチナア卿《きよう》(軍人《ぐんじん》) アンリ・ベルグソン(思想家《しそうか》) ジャン・フランソア・ミレエ(畫家《がか》) サミュエル・ティイ・コオルリッヂ(詩人《しじん》) [#改丁] [#大見出し]十一月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、絶倫《ぜつりん》な意力《いりよく》と、偉大《いだい》なおちつきとを備《そな》へ、手工《しゆこう》にかけて非凡《ひぼん》な技倆《ぎりよう》を惠《めぐ》まれてゐます。  言葉《ことば》の取捨選擇《しゆしやせんたく》に豐《ゆた》かな趣味《しゆみ》と、巧《たく》みな手腕《しゆわん》とをもつてゐるのが常《つね》です。  大《おお》きい感化《かんか》を人《ひと》に與《あた》へがちですが、これも善《ぜん》に向《むか》つて注《そそ》がれてゐるのが習《ならい》であります。  眞面目《まじめ》な仕事《しごと》に手《て》を染《そ》めてゐるときには、慇懃《いんぎん》で、愛嬌《あいきよう》があります。が、しかし殘虐《ざんぎやく》を向《むこ》うにまはせば、不遠慮《ぶえんりよ》になることも出來《でき》るのです。  俗《ぞく》の世界《せかい》のめでたい物《もの》を愛《あい》し、衣裳《いしよう》には上品《じようひん》な趣味《しゆみ》をもち、口《くち》には美食《びしよく》を好《この》みます。  人《ひと》を惹《ひ》きつけづには措《お》かない熱辯家《ねつべんか》であり、しば/\機智鬼才《きちきさい》をもつて天晴名《あつぱれな》をあげます。  著作家《ちよさくか》、美術家《びじゆつか》、ホテルの支配人《しはいにん》として成功《せいこう》し、また、外科醫《げかい》、牧師《ぼくし》として秀《すぐ》れます。  他人《たにん》の仕事《しごと》には殆《ほと》んど干與《かんよ》するひまも持《も》たないほど、自分自身《じぶんじしん》の仕事《しごと》に熱中《ねつちゆう》するのが常《つね》です。  性《せい》のいづれを問《と》はず、この月生《つきうま》れのものは、一日延《いちにちの》ばしに物事《ものごと》を延《の》ばす習慣《しゆうかん》に染《し》みやすい傾向《けいこう》があります。が、しかし、この惡習《あくしゆう》を打破《だは》しないと、そのために遂《つい》に生活《せいかつ》を破産《はさん》するやうな結果《けつか》になるでせう。  讃辭《さんじ》や世辭《せじ》を愛《あい》し過《す》ぎる傾向《けいこう》があります。從《したが》つて完全《かんぜん》に課《か》された責務《せきむ》は、どんな責務《せきむ》でも、それ自身《じしん》の報酬《ほうしゆう》をもたらすものであるといふ事《こと》を悟《さと》らねばなりません。  ともすれば、ひどいやかまし家《や》、ひどい缺點《あら》さがし家《や》の場合《ばあい》があります。しかし、これも自制《じせい》の徳《とく》に缺《か》けてゐるあひだの事《こと》なのですから、かヽる惡習《あくしゆう》に打《う》ち克《か》つやうに不斷《ふだん》に努《つと》めなければなりません。  熱心《ねつしん》な働《はたら》き手《て》であります。とは言《い》へ、それは興《きよう》を催《もよお》してゐる時《とき》だけの事《こと》で、天性《てんせい》そのものは懶惰《らんだ》です。  大計畫《だいけいかく》に參與《さんよ》すれば最《もつと》も成功《せいこう》します。そして、その規模《きぼ》が、宏大《こうだい》で大膽《だいたん》であればあるだけ、大《おお》きな成功《せいこう》ををさめることが出來《でき》ます。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、絶《た》え間《ま》なしに新《あたら》しい趣向《しゆこう》を案出《あんしゆつ》し、いつも斬新《ざんしん》な仕事《しごと》に指《ゆび》をそめてゐます。  人《ひと》の頭《かしら》に戴《いただ》かれないうちは、決《けつ》して幸福《こうふく》が味《あじわ》へません。人《ひと》の下風《かふう》に立《た》つてゐては、大《おお》きな成功《せいこう》を惠《めぐ》まれるといふ事《こと》が殆《ほと》んどありません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、快樂好《かいらくず》きで、規律規則《きりつきそく》が大嫌《だいきら》ひです。  男子《だんし》は、變化《へんか》が好《す》きです。そして怠惰《たいだ》が本性《ほんしよう》でありながらも、富《とみ》と業蹟《ぎようせき》とのより大《おお》きな方《ほう》へ、より大《おお》きな方《ほう》へと絶《た》えまなしに、守護星《まもりぼし》に押《お》しやられ、押《お》しやられて行《ゆ》くのが運命《さだめ》です。  この月《つき》に生《うま》れたものは、天性《てんせい》の短氣《たんき》と、口《くち》やかましい習慣《しゆうかん》と、皮肉《ひにく》な傾向《けいこう》とを征服《せいふく》してしまえば、「|この世の鹽《ソールト・オブ・ジ・アース》(この世の腐敗をふせぐ義人、新約馬太傳五章)となることが出來《でき》ます。  樂《たの》しんでゐることが好《す》きであり、注目《ちゆうもく》の不斷《ふだん》の的《まと》となりたい要望《ようぼう》に燃《も》えてゐます。しかし、小事《しようじ》におぼれぬ自制《じせい》を養《やしな》つて、些事《さじ》に精力《せいりよく》を空費《くうひ》せぬやうにしないと、あくまで高《たか》く、あくまで大《おお》きい成功《せいこう》ををさめるといふことは出來《でき》ないでせう。  時《とき》には、自分《じぶん》の損《そん》にさへ「お人《ひと》よし」でゐるほどの、「お人好《ひとよ》し」の傾向《けいこう》があります。  金錢《きんせん》のことにつながれてゐない時《とき》に、もつとも幸福《こうふく》で、いつも受《う》けるより與《あた》へることが好《す》きな人《ひと》です。  贅澤《ぜいたく》に流《なが》れる傾向《けいこう》があります。それゆゑ、今日と同じやうに明日にもまた[#「今日と同じやうに明日にもまた」に傍点]目《め》をそヽぐことを學《まな》ばねばなりません。  十一月生《じゆういちがつうま》れの人《ひと》は、話上手《はなしじようず》でありますから、この才《さい》を磨《みが》けば、よき獨自者《どくじしや》、よき談話家《だんわか》、よき講師《こうし》となります。  長途《ちようと》の旅行《りよこう》をする傾向《けいこう》があります。また意氣投合《いきとうごう》の友《とも》をもつことが好《す》きです。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、自己《じこ》の性質《せいしつ》を知《し》り、自己《じこ》の短所《たんしよ》を矯正《きようせい》して、惠《めぐ》まれてゐる限《かぎ》りの出世《しゆつせ》をするやうに努《つと》めなければなりません。  一人《ひとり》の眞實《しんじつ》の友《とも》は、百人《ひやくにん》の追從者《ついじゆうしや》にも優《まさ》るものであるといふことを、心《こころ》に深《ふか》く刻《きざ》みつけていなければなりません。  猜疑《さいぎ》と嫉妬《しつと》との不徳《ふとく》は、最《もつと》も美《うつく》しい天惠《てんけい》をいぢけさせ、萎《しぼ》ませるものですから、あくまで制《おさ》へるやうにしなければなりません。  自己《じこ》の缺點《けつてん》を制御《せいぎよ》し矯正《きようせい》したあかつきには、成《な》らうと思《おも》ひ定《さだ》めさへすれば何《なん》にでも成《な》れるといふ生《うま》れですから、選定《せんてい》の準備《じゆんび》は高《たか》いところに置《お》かねばなりません。  自分《じぶん》のために口實《こうじつ》を見出《みいだ》すことは止《や》めて、犯《おか》した罪《つみ》の責《せ》めはあくまで潔《いさぎよ》く是《こ》れを負《お》ふやうにしなければなりません。  他人《たにん》の感情《かんじよう》になほ一層《いつそう》の注意《ちゆうい》を拂《はら》ふと共《とも》に、自分《じぶん》の感情《かんじよう》に優《やさ》しくしすぎるやうなことはせぬ覺悟《かくご》を定《さだ》めるべきです。  神經過敏《しんけいかびん》に陷《おちい》つて、世間《せけん》は自分《じぶん》を害《がい》しよう傷《きず》つけようとしてゐるなどといふ、愚《おろ》かな空想《くうそう》に驅《か》られることは避《さ》けるやうに、堅《かた》い覺悟《かくご》が必要《ひつよう》です。  何《なに》にまれ閑暇《かんか》のをりの心《こころ》を專《もつぱ》らにすることが出來《でき》るやうな、道樂《どうらく》といふほどのものに、興味《きようみ》を養《やしな》ふやうにしなければなりません。  この月《つき》に生《うま》れた婦人《ふじん》は、われとわが胸《むね》に相談《そうだん》して、あらをさがしたり、口《くち》やかましく言《い》つたりする癖《くせ》を矯《た》めやうと決心《けつしん》しなければなりません。  愛《あい》は、愛《あい》を與《あた》へる者《もの》を訪《と》ひこそすれ、絶《た》えず人《ひと》に非難《ひなん》を向《む》けてゐるやうな者《もの》を訪《たず》ねて來《く》ることは、決《けつ》して無《な》いものであるといふことを悟《さと》らねばなりません。  性《せい》のいづれに拘《かかわ》らず、この月《つき》に生《うま》れたものは、何《なに》はともあれ自制《じせい》の心《こころ》を養《やしな》はねばなりません。自制《じせい》の心《こころ》を養《やしな》はないと、重《おも》い罰金《ばつきん》を拂《はら》はせられることはもとより、時《とき》には生活《せいかつ》の全部《ぜんぶ》を破《やぶ》られるやうなことさへもあるものです。  六月《ろくがつ》か七月《しちがつ》、十二月《じゆうにがつ》か一月《いちがつ》の生《うま》れの人《ひと》と結婚《けつこん》すべきです。しかし、高《たか》く精神的《せいしんてき》に目《め》ざめてゐるならば、その以外《いがい》の月《つき》の人《ひと》とでも良縁《りようえん》といへないことはありません。  すべて重要《じゆうよう》な企業《きぎよう》は、一月《いちがつ》か七月《しちがつ》に着手《ちやくしゆ》すべきで、出來《でき》るならば火曜日《かようび》を選《えら》ばねばなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、橄欖石《クリソライト》か月長石《ムーンストーン》、または黄玉入《トッパーズい》りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきで、男子《だんし》は、それらの石《いし》のいづれかの入《はい》つたスカーフ・ピンをさすべきであります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、白《しろ》か、淡紅《とき》か、あらゆる濃《こ》さの緑色《みどりいろ》、または黒色《くろいろ》の衣裳《いしよう》を身《み》にまとはねばなりません。 [#ここから2字下げ] わたしには出來るのだから成らうと思ふものにならう。[#「わたしには出來るのだから成らうと思ふものにならう。」に傍点] 成らうとは行ふことである。[#「成らうとは行ふことである。」に傍点] 行ふとは爲すことである。[#「行ふとは爲すことである。」に傍点] 爲すとは爲し遂げることである。[#「爲すとは爲し遂げることである。」に傍点] 爲し遂げるとは贏ち得ることである。[#「爲し遂げるとは贏ち得ることである。」に傍点] [#ここで字下げ終わり]  上記《じようき》の言葉《ことば》を標語《モツトー》として採用《さいよう》し、日々一百回繰《にちにちいつぴやつかいく》り返《かえ》して誦《しよう》すべきであります。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、およそ着手《ちやくしゆ》するほどの事《こと》は殆《ほと》んどなんでも成《な》し就《と》げることが出來《でき》る、と思《おも》ひ慢《まん》じてゐるので、野心《やしん》といふものが十分《じゆうぶん》にありません。  靈性《れいせい》と道徳性《どうとくせい》が立派《りつぱ》に磨《みが》きあがるまでは、人《ひと》の首領《しゆりよう》と仰《あお》がれたり、高《たか》い地位《ちい》についたりするだけの資格《しかく》は備《そなわ》りません。  意氣投合《いきとうごう》の友達《ともだち》にとりまかれてゐないでは、幸福《こうふく》の味《あじわ》へない生《うま》れですから、決《けつ》して友《とも》に對《たい》して非難《ひなん》の聲《こえ》を放《はな》つてはなりません。  人《ひと》を非難《ひなん》し、世《よ》を非議《ひぎ》することを止《や》めて、讃美《さんび》の聲《こえ》が出《だ》せるやうになるまでは、有益《ゆうえき》なことをする力《ちから》を、自分自身《じぶんじしん》に與《あた》へてゐると言《い》ふことは出來《でき》ません。  喜《よろこ》びを人《ひと》に與《あた》へることの快味《かいみ》がわからないうちは、生《い》きてゐるといふことを、善用《ぜんよう》してゐるのではありません。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、自己《じこ》の環境《かんきよう》をかこつのを止《や》めて仕事《しごと》に身《み》を入《い》れ、絶えず心に春風を吹きそよがせてゐる[#「絶えず心に春風を吹きそよがせてゐる」に傍点]やうにならなければ、まだ、神《かみ》に賦《あた》へられた才能《さいのう》を使用《しよう》してゐるのではありません。  自己《じこ》の境遇《きようぐう》に安《やす》んずるといふことがありませんが、しかし、徒《いたず》らに、とやかく言《い》つてゐるだけでは決《けつ》してそれを變《か》へることは出來《でき》ないもので、境遇《きようぐう》を變《か》へ得《う》るためには、何《いず》れの方面《ほうめん》のことにせよ、實際《じつさい》の仕事《しごと》をするといふ一事《いちじ》が必要《ひつよう》であるといふことを悟《さと》らねばなりません。  一般《いつぱん》に、温厚《おんこう》で寛大《かんだい》な心《こころ》をめぐまれていながらも、生來《せいらい》の短氣《たんき》と非難癖《ひなんへき》とのためにそれをしば/\蔽《おお》い隱《かく》されてゐるので、通例人《つうれいひと》に理解《りかい》せられるといふことがありません。  飮食物《いんしよくぶつ》に十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》が足《た》りないので、よく胃《い》をそこなふことがあります。  小《ちい》さな心配事《しんぱいごと》に超越《ちようえつ》して、精力[#「精力」に傍点]を大事[#「大事」に傍点]のために蓄《たくわ》へるといふ風習《ふうしゆう》が養《やしな》はれないと、この月生《つきうま》れの人《ひと》は、富[#「富」に傍点]をも、健康[#「健康」に傍点]をも、幸福[#「幸福」に傍点]をも決《けつ》して味《あじわ》ふことは出來《でき》ません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、憤怒《ふんぬ》と嫉妬《しつと》とのために、身《み》を誤《あやま》るといふことがありますから、この感情《かんじよう》に捉《とら》へられぬやうに心《こころ》しなければなりません。  正《ただ》しい事《こと》をしたいといふ理由《りゆう》から義務《ぎむ》を果《はた》すべきで、巧言《こうげん》や賞讃《しようさん》を頼《たの》みにし過《す》ぎるやうなことがあつてはなりません。  頭領《とうりよう》となるよき素質《そしつ》をめぐまれてゐるのですから、絶對《ぜつたい》に必要《ひつよう》でないかぎり、決《けつ》して人《ひと》のための仕事《しごと》をしてはなりません。  どんな事情《じじよう》がある場合《ばあい》にでも、人《ひと》の下風《かふう》に立《た》つことは愼《つつし》むべきであります。從屬的《じゆうぞくてき》な地位《ちい》にゐて、仕事《しごと》に心《こころ》を苦《くる》しめると、最《もつと》もよい天性《てんせい》を歪《ゆが》めてしまふばかりです。  素養《そよう》が無《な》いからと言《い》つて、絶望《ぜつぼう》に陷《おちい》つてしまふことなく、この世《よ》の中《なか》のいちばん弱《よわ》い人間《にんげん》さへ、何《なに》かの才能《さいのう》を神《かみ》にめぐまれてゐるものであるといふ事《こと》を思《おも》ひ出《だ》して、仕事《しごと》に着手《ちやくしゆ》しなければなりません。  小《ちい》さい忠信《ちゆうしん》も、大《おお》きい賢明《けんめい》に比敵《ひてき》するほどの價値《かち》があるものですから、貧《まず》しき日《ひ》の交友《こうゆう》を忘《わす》れるやうなことは、大《おお》いに愼《つつ》しまねばなりません。  機會《きかい》を待《ま》つて仕事《しごと》をしようと夢《ゆめ》みるやうなことは止《や》め、進《すす》んで機會《きかい》を作《つく》るべきです。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、小事《しようじ》に對《たい》して几帳面《きちようめん》に過《す》ぎることを止《や》めねばなりません。實《じつ》に細事《さいじ》から心《こころ》を解放《かいほう》することにあくまで努力《どりよく》すべきです。  口《くち》やかましく小言《こごと》をいふことは、家族《かぞく》のもの全體《ぜんたい》を、みじめにし不幸《ふこう》に陷《おとしい》れるものですから、生來《せいらい》の小言癖《こごとへき》を、十分《じゆうぶん》に矯《た》め直《なお》さねばなりません。  蒔《ま》いた種《たね》は刈《か》り取《と》らねばならぬのがならひですから、猜疑《さいぎ》や不信《ふしん》のとりこにならぬやうに努《つと》めることが肝要《かんよう》です。  十一月生《じゆういちがつうま》れの人《ひと》は、自分自身《じぶんじしん》の主《あるじ》となり、そしてその結果《けつか》として、平安[#「平安」に傍点]と滿足[#「滿足」に傍点]、健康[#「健康」に傍点]と繁榮[#「繁榮」に傍点]、成功[#「成功」に傍点]と幸福[#「幸福」に傍点]とを掌中《しようちゆう》にをさめるまでは、決《けつ》して努力《どりよく》を中絶《ちゆうぜつ》してはなりません。 [#改ページ] [#中見出し]十一月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れた子《こ》どもは、驕慢《きようまん》の性情《せいじよう》を幼年《ようねん》の頃《ころ》にさへ發揮《はつき》する傾向《けいこう》があります。從《したが》つて、躾《しつけ》もその時代《じだい》からはじめるやうにしなければなりません。  一般《いつぱん》に、待《ま》て暫《しば》しのない氣短《きみじ》かものです。  絶《た》えずちやほやされてゐるのが好《す》きな生《うま》れですから、母親《ははおや》は、一人《ひとり》で遊《あそ》ぶやうにしつけねばなりません。  幼《おさな》いときから、自制《じせい》を教《おし》へることが肝要《かんよう》です。何《なん》にせよ、欲《ほ》しがつて泣《な》くからと言《い》つて與《あた》へるやうな事《こと》があつてはなりません。  何事《なにごと》に對《たい》し、何人《なんびと》に對《たい》しても、それを見下《みくだ》すやうな傾向《けいこう》が生《うま》れながらに備《そな》はつてゐますが、この性向《せいこう》を、十歳《じゆつさい》になるまでも矯正《きようせい》しないで放任《ほうにん》しておくやうな母親《ははおや》があつたら、そんな母親《ははおや》は呪《のろ》はれるべきです。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは快活《かいかつ》で、敏捷《びんしよう》で、よき記憶力《きおくりよく》を惠《めぐ》まれてゐます。  ひとりで遊《あそ》ぶことを教《おし》へ、おとなしくさせておかねばなりません。  よき教育《きよういく》を受《う》けさせること、そして、學業《がくぎよう》を中絶《ちゆうぜつ》させないことが必要《ひつよう》です。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは通常《つうじよう》、動物《どうぶつ》が好《す》きです。しかし、その好《す》きな動物《どうぶつ》を殘酷《ざんこく》にあしらふやうなことは、斷《だん》じて許《ゆる》さるべきではありません。  天性美《てんせいうつく》しい着物《きもの》が好《す》きで、美《うつく》しいものにとりまかれてゐることを喜《よろこ》ぶ傾向《けいこう》があります。しかし、母親《ははおや》たる者《もの》は、いつも子《こ》どもには單純素朴《たんじゆんそぼく》な身《み》なりをさせておくやうに努《つと》めねばなりません。  美《うつく》しい齒《は》を與《あた》へられてゐますが、菓子類《かしるい》を多《おお》く食《た》べることは、たヾ將來《しようらい》の苦《くる》しみの原因《げんいん》になるばかりで、何《なん》の足《た》しにもならないのですから愼《つつ》しませねばなりません。  十一月生《じゆういちがつうま》れの子《こ》どもは、すさまじいほどの記憶力《きおくりよく》を惠《めぐ》まれてゐるので、約束《やくそく》が滿《み》たされなかつた時《とき》などの苦《くる》しみといふものは、實《じつ》に幾年《いくねん》も幾年《いくねん》ものあひだ、その胸《むね》から拭《ぬぐ》ひ去《さ》られないのが常《つね》ですから、周圍《しゆうい》の者《もの》は約束《やくそく》をした以上《いじよう》、如何《いか》に幼《おさな》いうちであらうとも、決《けつ》してそれを破《やぶ》るやうなことがあつてはなりません。  人《ひと》から受《う》けた虐待《ぎやくたい》を忘《わす》れ、これを赦《ゆる》すといふ風習《ふうしゆう》を早《はや》くから養《やしな》はせないと、將來《しようらい》に大《だい》なる不幸《ふこう》を味《あじわ》はせるやうな事《こと》が往々《おうおう》ありますから、母親《ははおや》にせよ、教師《きようし》にせよ、子《こ》どもの教育《きよういく》の責《せ》めを負《お》ふ者《もの》は十分《じゆうぶん》に注意《ちゆうい》しなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、生來懶惰《せいらいらんだ》の傾向《けいこう》がありますから、絶《た》えず何事《なにごと》かに手《て》をつけさせておかねばなりません。それについては一定《いつてい》の責務《せきむ》を與《あた》へて、これをあくまで几帳面《きちようめん》に果《はた》させることにしたならば、賢明《けんめい》な母《はは》と言《い》へるでせう。  子《こ》どもも、大人《おとな》と同《おな》じやうに、みなそれぞれに性質天分《せいしつてんぶん》の異《ことな》つてゐるものですから、それ/″\の特殊《とくしゆ》な才能《さいのう》を、發達《はつたつ》させるといふ見解《けんかい》に立《た》つて、子《こ》どもの勉學《べんがく》の方法《ほうほう》を構《こう》ずべきです。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、たぐひ稀《ま》れな、驚《おどろ》くべき天才《てんさい》をめぐまれてゐます。しかし、母親《ははおや》が賢明《けんめい》で、嬰兒《えいじ》の頃《ころ》から自制《じせい》のこヽろを養《やしな》はせ、同時《どうじ》に、忙《いそが》しくしてゐることが幸福《こうふく》な所以《ゆえん》であることを教《おし》へるならば、一段《いちだん》と早《はや》くから、地《ち》についた、有益《ゆうえき》な眞《しん》の生活《せいかつ》に入《い》らせることが出來《でき》るものです。 [#改ページ] [#中見出し]十一月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 井上馨《いのうえかおる》 尾崎行雄《おざきゆきお》 三浦梧樓《みうらごろう》 島田三郎《しまださぶろう》 品川彌二郎《しながわやじろう》 小笠原長生《おがさわらちようせい》 和田豐治《わだとよじ》 野津道貫《のづみちつら》 桂太郎《かつらたろう》 坂本龍馬《さかもとりようま》 乃木希典《のぎまれすけ》 アンドリュウ・カアネギイ(實業家《じつぎようか》) マルチン・ルウテル(宗教家《しゆうきようか》) ツルゲエネフ(小説家《しようせつか》) オリヴァア・ゴオルドスミス(詩人《しじん》) ヨハン・シルレル(詩人《しじん》) [#改丁] [#大見出し]十二月生れの人々[#大見出し終わり] [#改ページ] [#中見出し]その人の性格[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、淡白《たんぱく》な、精力的《せいりよくてき》な進歩的《しんぽてき》な性格《せいかく》をもち、大《おお》いに同胞《どうほう》の信望《しんぼう》を贏《か》ち得《う》る運命《うんめい》を惠《めぐ》まれてゐます。  非常《ひじよう》に性急《せいきゆう》で、結果《けつか》を待《ま》ち忍《しの》ぶことの出來《でき》ないのが常《つね》です。  あくまで實際的《じつさいてき》、あくまで實行的《じつこうてき》ではあるが、そのために、自分《じぶん》と足竝《あしなみ》をそろへては進《すす》めないやうな人々《ひとびと》に對《たい》して、しば/\殘酷性《ざんこくせい》をあらはすことがあります。  うるさがり家《や》で、氣短《きみじ》かですが、恨《うら》みを含《ふく》むといふやうなことは決《けつ》してありません。  正直《しようじき》で、過失《かしつ》に對《たい》する良心《りようしん》が鋭敏《えいびん》です。しかし、他人《たにん》のために事件《じけん》を取《と》り扱《あつか》ふことは巧《たく》みでありません。  衝動的《しようどうてき》で、そのうへ獨斷專行《どくだんせんこう》の傾《かたむき》があるので、ともすれば、助手《じよしゆ》、助力者《じよりよくしや》を途方《とほう》にくれさせます。  愛憎《あいぞう》の情《じよう》が強《つよ》く、また、自分《じぶん》に了解《りようかい》の出來《でき》ない物事《ものごと》を蔑《さげ》しめがちな性向《せいこう》があります。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、普通《ふつう》、樂天的《らくてんてき》な性情《せいじよう》を惠《めぐ》まれてゐるばかりか、その樂《たの》しい期待《きたい》は、殆《ほと》んどいつも滿《み》たされるといふ幸福《こうふく》な生《うま》れです。  鋭《するど》い洞察力《どうさつりよく》の持主《もちぬし》であります。そして、豐《ゆた》かな資金《しきん》を必要《ひつよう》とするやうな大事業《だいじぎよう》に關係《かんけい》すれば特《とく》に幸運《こううん》が得《え》られます。  一氣呵成《いつきかせい》に事《こと》を行《おこな》ふ性向《せいこう》を矯《た》めないと、神經衰弱《しんけいすいじやく》のために斃《たお》れることが有《あ》りがちです。  すぐれた健康《けんこう》をめぐまれていて、齡傾《よわいかたむ》くまで生《い》きのびるのが常《つね》であります。  この月《つき》に生《うま》れた人《ひと》は、しば/\廣《ひろ》く足跡《そくせき》を遺《のこ》す旅行家《りよこうか》となります。そして、初《はじ》めて現世《げんせ》の光《ひかり》を見《み》た土地《とち》で、來世《らいせ》を迎《むか》へるといふことは殆《ほと》んどありません。  音樂《おんがく》ずきで、美術《びじゆつ》ずきで、しば/\これらの藝術界《げいじゆつかい》の明星《みようじよう》となります。  全靈《ぜんれい》を蒐《あつ》めて愛《あい》するといふ傾向《けいこう》がありますが、しかし、少《すこ》しでも自分《じぶん》の個性《こせい》に干渉《かんしよう》の手《て》をふれられると、無念骨髓《むねんこつずい》に徹《てつ》し、怒《いか》りを心頭《しんとう》に發《はつ》せずにはゐられません。  通常《つうじよう》、幼年時代《ようねんじだい》にさへ多忙で、どんな境遇《きようぐう》の下《もと》におかれても多忙《たぼう》を失《うしな》はない多忙人《たぼうじん》です。  自分《じぶん》の仕事《しごと》に專心《せんしん》し、自分《じぶん》の祕密《ひみつ》を嚴守《げんしゆ》する傾向《けいこう》があります。  仕事《しごと》にかけては丹念《たんねん》で、いつも、一事《いちじ》を成《な》し遂《と》げるまでは、あくまでも一事《いちじ》を守《まも》つて他《ほか》の事《こと》に決《けつ》して指《ゆび》を染《そ》めやうとはしません。  男女《だんじよ》を問《と》はず、この月《つき》の生《うま》れで、しかも資産《しさん》の無《な》い人《ひと》に、出會《であ》ふことは無《な》いと言《い》つてもよいほど、金錢上《きんせんじよう》では成功《せいこう》をめぐまれるのが常《つね》です。  人《ひと》の忠言《ちゆうげん》に從《したが》つたときよりも、自分《じぶん》の靈感《れいかん》に導《みちび》かれたときに、いつもはるかに秀《すぐ》れた成功《せいこう》ををさめます。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、よき主婦《しゆふ》であり、よき妻《つま》であると同時《どうじ》に、通常賢明《つうじようけんめい》な母《はは》であります。  この月《つき》に生《うま》れたものは、自分《じぶん》の思索《しさく》の經路《けいろ》を辿《たど》ることが人《ひと》には出來《でき》がたいほど、迅速《じんそく》に事《こと》を思《おも》ふて是《これ》を爲《な》す天性《てんせい》がありますから、ともすれば非常《ひじよう》に誤解《ごかい》せられます。 [#ここから2字下げ] 汝自身の成功に主たれ[#「汝自身の成功に主たれ」に傍点]―― 正しき情を持つて[#「正しき情を持つて」に傍点]、正しき事に[#「正しき事に」に傍点]、直ちに着手せよ[#「直ちに着手せよ」に傍点]―― 剛毅なれ[#「剛毅なれ」に傍点]、剛膽なれ[#「剛膽なれ」に傍点]、元氣溌剌たれ[#「元氣溌剌たれ」に傍点]、さらば成功は汝のものなるべし[#「さらば成功は汝のものなるべし」に傍点]―― [#ここで字下げ終わり]  右《みぎ》の標語《モツトー》を絶《た》えず眼《め》のまへにおけば、人生《じんせい》に於《お》ける最高最善《さいこうさいぜん》の成功《せいこう》をめぐまれます。  この月生《つきうま》れのものは、的確《てきかく》な事相《じそう》を追《お》はずにはいられない精嚴《せいげん》の人《ひと》で、約束《やくそく》をばあくまで神聖視《しんせいし》します。  眞實《しんじつ》を重大視《じゆうだいし》する生《うま》れでない交友《こうゆう》を、しば/\誤解《ごかい》するほど、心《こころ》は誠意《せいい》に充《み》たされてゐます。 [#改ページ] [#中見出し]その人の爲すべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、性急《せいきゆう》はしば/\氣苦勞《きぐろう》の先驅者《せんくしや》となるものであるといふことを悟《さと》つて、平靜《へいせい》と、沈着《ちんちやく》とを養《やしな》はねばなりません。  交友《こうゆう》は比較的少《ひかくてきすくな》く、親《した》しきを可《か》とします。また、友《とも》の感情《かんじよう》を害《そこな》はぬことを心《こころ》がけねばなりません。  友《とも》の短所《たんしよ》を看過《かんか》する努力《どりよく》が大切《たいせつ》です。自分《じぶん》は、友《とも》にその缺點《けつてん》を注意《ちゆうい》する使命《しめい》を帶《お》びてゐる者《もの》であるなどと思《おも》つてはなりません。  賞讃《しようさん》や感謝《かんしや》を頼《たよ》りに生《い》きぬやうに努《つと》めねばなりません。この月生《つきうま》れの人《ひと》は、賞讃《しようさん》や感謝《かんしや》を惠《めぐ》まれぬことが度々《たびたび》あるのですから、この心《こころ》がけを忘《わす》れると、その度毎《たびごと》に憂《う》き時《とき》を過《す》ごさねばならなくなります。  元《もと》より獨立自恃《どくりつじじ》のこヽろの旺《さか》んな生《うま》れなのですから、自分《じぶん》の仕事《しごと》を完全《かんぜん》に果《はた》したときには、自尊《じそん》と自己滿足《じこまんぞく》との價値《かち》を知《し》つて、完全《かんぜん》に果《はた》したといふその一事《いちじ》に心《こころ》を安《やす》んじなければなりません。  生來《せいらい》の淡白《たんぱく》な氣性《きしよう》にわづらわされて、たび/\人《ひと》を害《そこな》ふうれへがありますから、受《う》けた危害《きがい》は赦《ゆる》すばかりか、忘《わす》れ果《は》てるやうに努《つと》めねばなりません。  天賦《てんぷ》の力《ちから》を發揮《はつき》する祕法《ひほう》は、個性《こせい》の中《なか》に埋《うずも》れてゐるのですから、つねに個性《こせい》を失《うしな》はぬ心《こころ》がけが必要《ひつよう》であります。  自制《じせい》の徳《とく》を悟《さと》つて、「心《こころ》を勞《ろう》する小事《しようじ》」に目《め》をとめぬ力《ちから》を養《やしな》はねばなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は、金剛石《ダイヤモンド》か土耳古玉《ターコイズ》、または柘榴石入《カーバンクルい》りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めるべきで、男子《だんし》はそれらの何《いづ》れかの石《いし》のスカーフ・ピンをさすべきです。  身《み》につけるべき色《いろ》は、黄色《こうしよく》と、あらゆる濃《こ》さの紅《あか》および緑《みどり》と、黒色《こくしよく》とであります。  重要《じゆうよう》な企業《きぎよう》は、二月《にがつ》、または六月《ろくがつ》に着手《ちやくしゆ》すべきであり、木曜日《もくようび》が吉日《きちにち》です。  この月生《つきうま》れの人《ひと》は、成功[#「成功」に傍点]を亨《う》ける非凡《ひぼん》な力《ちから》をめぐまれてゐるのですから、どんな人《ひと》の外見《がいけん》をも決《けつ》して羨《うらや》んではなりません。  一事《いちじ》に通曉《つうぎよう》した專門家《せんもんか》のみが、成功《せいこう》をさだめられてゐるのです。ですから、一定《いつてい》の路《みち》に才能《さいのう》を磨《みが》くことを心《こころ》がけねばなりません。  四月《しがつ》か八月《はちがつ》、または十一月生《じゆういちがつうま》れの人《ひと》と結婚《けつこん》すべきです。が、しかし、靈性《れいせい》によつて賤《いや》しい本能《ほんのう》を征服《せいふく》し得《え》てゐる場合《ばあい》には、その以外《いがい》の生《うま》れの人《ひと》も、良《よ》き配偶者《はいぐうしや》となることが出來《でき》ます。 [#ここから2字下げ] 憂苦は[#「憂苦は」に傍点]、かつて幸運の一瞬をすら汝に齎らせし事ありや[#「かつて幸運の一瞬をすら汝に齎らせし事ありや」に傍点]? 嫉妬[#「嫉妬」に傍点]、または憎惡はかつて友の一人をすら汝に連れ戻せし事ありや[#「または憎惡はかつて友の一人をすら汝に連れ戻せし事ありや」に傍点]? 憤怒は[#「憤怒は」に傍点]、かつて快活なる友の一人[#「かつて快活なる友の一人」に傍点]、または微笑の一波をすらなんじに齎らせし事ありや[#「または微笑の一波をすらなんじに齎らせし事ありや」に傍点]? [#ここで字下げ終わり]  この僅《わず》かばかりの疑問《ぎもん》の言葉《ことば》を、日々目《ひびめ》にうつる處《ところ》に掲《かか》げておくべきです。 [#改ページ] [#中見出し]その人の短所[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、健康《けんこう》といふことについて十分《じゆうぶん》の注意《ちゆうい》が足《た》りません。何事《なにごと》にせよ、落《お》ちついてするやうにならなければ、神經系統《しんけいけいとう》の病《やまい》のために斃《たお》れるやうなことになります。  未完成《みかんせい》の仕事《しごと》を、絶《た》えず氣《き》にして、十分《じゆうぶん》の休息《きゆうそく》や睡眠《すいみん》をとらない傾《かたむき》があります。  人《ひと》の努力《どりよく》を鑑賞《かんしよう》することが出來《でき》ないほど、性急《せいきゆう》な性質《せいしつ》ゆゑ、人《ひと》を斷《だん》ずるのに寛大《かんだい》を缺《か》きます。  生來《せいらい》のやさしい、寛大《かんだい》な心《こころ》も、しば/\殘忍《ざんにん》と卒直《そつちよく》との雲《くも》に蔽《おお》われるので、人《ひと》に理解《りかい》せられるといふことが絶《た》えてありません。  談話《だんわ》には、おだやかさと親切《しんせつ》さとが缺《か》けてをります。不親切《ふしんせつ》なことは、言《い》はないでおく術《すべ》を養《やしな》はねばなりません。  容易《ようい》に欺《あざむ》かれるといふ事《こと》はありません。嘘《うそ》は遠《とお》くから嗅《か》ぎつける性《さが》をめぐまれてゐるやうであります。  己を知る[#「己を知る」に傍点]までは、成功《せいこう》は得《え》られません。己《おのれ》を知《し》つたのちには、自己《じこ》の主《あるじ》となり、自分《じぶん》の幸運《こううん》の支配者《しはいしや》となることが出來《でき》ます。  どんな雰圍氣《ふんいき》の中《なか》にあつても、快活《かいかつ》を生《う》み、上機嫌《じようきげん》を生《う》み、歡喜《かんき》を生《う》み、健康《けんこう》を生《う》むことが出來《でき》るやうにならなければ、まだその輝《かがや》かしい個性《こせい》を十分《じゆうぶん》に役立《やくだ》たせてゐるのではありません。 [#ここから2字下げ] わたしは自分の缺點を征服しよう[#「わたしは自分の缺點を征服しよう」に傍点]―― わたしは親切を旨とし[#「わたしは親切を旨とし」に傍点]、寛大を旨としよう[#「寛大を旨としよう」に傍点]―― わたしは純眞で有益な生き方をしよう[#「わたしは純眞で有益な生き方をしよう」に傍点]―― わたしは高きを目ざして[#「高きを目ざして」に傍点]、そこに辿りつかう[#「そこに辿りつかう」に傍点]―― [#ここで字下げ終わり]  これを口《くち》にし、これを志《こころざ》さないうちは、然《しか》るべき進歩《しんぽ》をしつヽあるのではありません。 [#改ページ] [#中見出し]その人の愼しむべきこと[#中見出し終わり]  この月《つき》に生《うま》れたものは、自己《じこ》の思慮《しりよ》に導《みちび》かれて進《すす》むこそよけれ、決《けつ》して他人《たにん》の助言《じよげん》を俟《ま》つべきではありません。  をり/\休息《きゆうそく》することは、働《はたら》くことと同樣《どうよう》に、必要缺《ひつようか》くべからざるものですから、絶《た》えまなしに心《こころ》を急《せ》き立《た》てヽゐるやうなことは愼《つつ》しむべきです。  自分《じぶん》の考《かんが》へを他人《たにん》に強《し》いようとしてはなりません。殊《こと》に、この月生《つきうま》れの人《ひと》が通例特質《つうれいとくしつ》づけられてゐるところの、天眞流露《てんしんりゆうろ》の卒直《そつちよく》さで強《し》ひることは嚴禁《げんきん》です。  絶《た》えまなしに働《はたら》いてゐることは、周圍《しゆうい》のものに、不快《ふかい》を與《あた》へずにはおきませんから、いつも/\忙《いそが》しくしてはゐないやうに心《こころ》すべきです。  怒《おこ》れば、劇《はげ》しい殘虐心《ざんぎやくしん》をあらはさずにはゐられない天性《てんせい》があるのですから、決《けつ》して怒《いか》りに捉《とら》へられぬやうに心《こころ》がけねばなりません。  自制《じせい》の徳《とく》を磨《みが》くことを不斷《ふだん》に努《つと》めるべきで、几帳面《きちようめん》に過《す》ぎ、傲慢《ごうまん》にすぎることは愼《つつ》しまねばなりません。  この月生《つきうま》れの婦人《ふじん》は裏切《うらぎ》りや、虐待《ぎやくたい》に出會《であ》ふと、沈默《ちんもく》に陷《おちい》り、希望《きぼう》を失《うしな》つてしまふ性質《せいしつ》ですから、熟慮《じゆくりよ》に熟慮《じゆくりよ》を重《かさ》ねた後《あと》でなければ、決《けつ》して嫁《とつ》いではなりません。  この月生《つきうま》れの男子《だんし》は、自分《じぶん》の愛《あい》の對象《たいしよう》が、久《ひさ》しいあひだの知己《ちき》でないかぎり斷《だん》じて娶《めと》つてはなりません。  妻《つま》を疑《うたが》ひ、嫉妬《しつと》するやうなことはあくまでも避《さ》けて、絶對《ぜつたい》の信頼《しんらい》を捧《ささ》げるやうにしなければなりません。さうすれば、自分《じぶん》も亦同樣《またどうよう》の信頼《しんらい》に會《あ》うことが出來《でき》るでせう。  この月生《つきうま》れのものは、人《ひと》の言行《げんこう》によつて意氣《いき》を沮喪《そそう》することなく、次《つぎ》の標語《モツトー》を採用《さいよう》して處世《しよせい》の規範《きはん》としなければなりません。 [#ここから2字下げ] 爲すに決せよ[#「爲すに決せよ」に傍点]―― 耐ゆるに決せよ[#「耐ゆるに決せよ」に傍点]―― 機會をつくれ[#「機會をつくれ」に傍点]―― 疑惑と恐怖とを去れ[#「疑惑と恐怖とを去れ」に傍点]―― 進んで成果を亨けよ[#「進んで成果を亨けよ」に傍点]―― [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#中見出し]十二月生れの子ども[#中見出し終わり]  この月生《つきうま》れの子《こ》どもに、一度《いちど》その信頼《しんらい》を失《うしな》つたら、挽回《ばんかい》することは殆《ほと》んど不可能《ふかのう》でありますから決《けつ》して欺《あざむ》いてはなりません。  友情《ゆうじよう》でつヽんでおくことと、どんな小《ちい》さな事《こと》ででも、その名譽心《めいよしん》を決《けつ》して傷《きず》つけぬこととが肝要《かんよう》です。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、いつも活動《かつどう》してゐなければならないほど活發《かつぱつ》な心《こころ》をめぐまれてゐるのですから、好《す》きなことに從事《じゆうじ》させておくやうにしなければなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもには、親《おや》の愛《あい》の有難《ありがた》いものであることを、いつも語《かた》りきかせて讃美《さんび》させねばなりません。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、愛《あい》のこもつた手《て》で導《みちび》かねばなりません。しかもその手《て》は同時《どうじ》に嚴格《げんかく》でなければなりません。  いかに弱《よわ》くとも、冷靜《れいせい》や無關心《むかんしん》の鞭《むち》は、愛《あい》すべきその多感《たかん》の性情《せいじよう》に不幸《ふこう》を味《あじわ》はせずにはおきませんから、母《はは》の胸《むね》にひしと抱《だ》きしめてゐなければなりません。  一種《いつしゆ》の天才《てんさい》を惠《めぐ》まれていて、みづから高雅《こうが》な性情《せいじよう》の持主《もちぬし》を友《とも》として選《えら》ぶ傾向《けいこう》がありますから、友《とも》だちや遊《あそ》び[#「遊び」は底本では「選び」]相手《あいて》は多《おお》くしておかねばなりません。  忠信《ちゆうしん》をこそ教《おし》ふべきであつて、友《とも》に對《たい》する惡語《あくご》は、唯《ただ》の一語《いちご》でも聽《き》かせてはなりません。またしば/\友《とも》を變《か》へさせぬことが肝要《かんよう》です。  ありとあらゆる人《ひと》を、豐《ゆた》かに愛《あい》する傾向《けいこう》が仄見《ほのみ》えてゐる子《こ》どもでありますから、正《ただ》しい教導《きようどう》をさへ母親《ははおや》によつて與《あた》へられヽば、必《かなら》ずや快活《かいかつ》で親切《しんせつ》な人《ひと》となるでせう。  味《あじ》の淡《うす》い單純《たんじゆん》な食物《しよくもつ》を與《あた》へるこそよけれ、決《けつ》して茶《ちや》や珈琲《コーヒー》を攝《と》らせてはなりません。また、食事時間《しよくじじかん》はあくまで正確《せいかく》を保《たも》つやうに心《こころ》がけねばなりません。  單純素朴《たんじゆんそぼく》でしかも立派《りつぱ》な身《み》なりをさせ、着物《きもの》には色《いろ》のさへたものを用《もち》ふるやうに心《こころ》すべきです。  夙《はや》くから時間《じかん》を嚴守《げんしゆ》し、約束《やくそく》を確守《かくしゆ》することを教《おし》へねばなりません。  生《うま》れながらにして、性急《せいきゆう》の傾向《けいこう》をもつてゐますから、おちつきと愼重《しんちよう》とをもつて物事《ものごと》を行《おこな》ふ習慣《しゆうかん》を養《やしな》はせねばなりません。  母親《ははおや》は、子供《こども》に過《あやま》ちのあつたことをあくまで明瞭《めいりよう》に掴《つか》んでゐないかぎり、決《けつ》して小言《こごと》を聞《き》かせてはなりません。しかも、自分自身《じぶんじしん》の心《こころ》が怒《いか》りの氣色《きしよく》を帶《お》びてゐる場合《ばあい》には、これをひかへることが肝要《かんよう》です。  この月生《つきうま》れの子《こ》どもは、賢明《けんめい》な指導《しどう》を俟《また》ねばならないところの、偉大《いだい》な才能《さいのう》を神《かみ》にめぐまれてゐるのですから、十分《じゆうぶん》の睡眠《すいみん》を得《え》させ樂《たの》しい環境《かんきよう》の中《なか》におくやうにしなければなりません。  些細《ささい》なことに心《こころ》を勞《ろう》さぬやう、自制《じせい》のこヽろを育《はぐく》ませることは母《はは》の務《つと》めです。  先《ま》づよき教育《きよういく》を受《う》けさせねばなりません。そしてその次《つぎ》には、好《この》むがまヽの方向《ほうこう》へ人性《じんせい》の路《みち》を辿《たど》らせるやうにしなければなりません。 [#改ページ] [#中見出し]十二月生れの偉人と名士[#中見出し終わり] 井上毅《いのうえたけし》 大谷光瑞《おおたにこうずい》 北里柴三郎《きたざとしばさぶろう》 三好學《みよしがく》 床次竹二郎《とこなみたけじろう》 大谷嘉兵衞《おおたにかへえ》 井上哲二郎《いのうえてつじろう》 尾崎紅葉《おざきこうよう》 徳川家康《とくがわいえやす》 西郷隆盛《さいごうたかもり》 福澤諭吉《ふくざわゆきち》 アイザック・ニュウトン卿《きよう》(科學者《かがくしや》) ロベルト・コッホ博士《はかせ》(科學者《かがくしや》) トオマス・カアライル(思想家《しそうか》) アレクサンドラ女王《じよおう》(英《えい》)(女帝《じよてい》) ウッドロウ・ウイルスン(政治家《せいじか》) ジョン・ミルトン(詩人《しじん》) グスタヴ・フロオベエル(小説家《しようせつか》) 底本:「生れ月の神秘」山田耕筰著、鏡リュウジ解説、有楽出版社    2005(平成17)年5月10日初版 初出:「生れ月の神秘」    1925(大正14)年 ※底本には「○月生れの人々」の下に「◆生れ月はすべて新暦にて見ること◆」と記載してあります。 ※底本は1925(大正14)年刊行の「生れ月の神秘」を復刻したものです。底本には山田耕筰氏の娘である山田浩子氏の『「生れ月の神秘」復刊に際して』という文章、鏡リュウジ氏が各月の記載について解説した文章がつけてありますが、それらは入力せず、山田耕筰氏が著した「はしがき」と各月の記載のみを入力しました。 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。