チャーリー・チャンの活躍 Charlie Chan Carries on アール・デア・ビガーズ Earl Derr Biggers 佐倉潤吾訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)椰子《やし》の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)ダフは化粧|箪笥《だんす》へ行って [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#2字下げ]※[#ローマ数字1、1-13-21][#「※[#ローマ数字1、1-13-21]」は大見出し] ------------------------------------------------------- [#2字下げ]※[#ローマ数字1、1-13-21][#「※[#ローマ数字1、1-13-21]」は大見出し] [#5字下げ]1 ピカデリーの雨[#「1 ピカデリーの雨」は中見出し]  ロンドン警視庁のダフ上席警部は雨のピカデリーを歩いていた。セント・ジェイムズ公園の後ろで、いま遠く微かに国会議事堂の上の大時計が、十時の時を打ったばかりである。一九三〇年二月六日の夜であった。上席警部ともあるものが登場する場合には、その時間と月日を読者は覚えている必要がある。ただしこの事件では、このことはそれほど重要ではない。これが法廷で証拠として提出されることはない。  ダフは天性、静かな落ち着いた人柄ではあるが、このときにはなんとなく落ち着かない気分でいた。この朝、長い手間どった事件が最後の結末を見たばかりだ。彼は法廷にいて、無気味な黒い帽子を冠った裁判長が、むっつりした顔の、目立たない小柄な男を絞首台に送る判決を読むのを、見守っていた。まあこれですんだと、彼はそのときに思った。良心も人間的感情も全然ない、卑劣な殺人犯人であった。最後の逮捕にいたるまでに、どんなに警視庁に手数をかけたことか。しかし忍耐が勝った――それとダフの多少の幸運が。犯人がバタシー・パーク・ロードの或る女に書いた手紙を押さえて、なんでもないような一つの簡単な文句に裏の意味があることをすぐ見てとって、それをつかまえて、一切がはっきりするまでねばった。それで成功した。もうすっかりすんだ。次はどんな事件にぶつかるだろうか?  ダフは外套にぴったり身をくるんで、歩きつづけた。古いフェルトの帽子のへりから、雨が滴たる。今まで三時間、彼はマーブル・アーチ映画劇場で、自分を忘れようとしていた。南太平洋でロケをして、撮影された映画だった――椰子《やし》の木にふちどられた海岸、輝く空、永遠の日光。それを見ているうちに、彼は数年前にサンフランシスコで会った、或る同じ探偵仲間のことを考えた。こういうところを舞台として、人狩り業に従事している控え目な人間だ。貿易風が花咲く木々に囁き、いつも気候は六月というところで、犯罪捜査の手がかりを探している。ダフはそれを思い出して、静かに微笑したことであった。  とくにどこへ行こうとも考えていなかったので、ダフはピカデリーをぶらぶら下って行った。彼にとっては思い出の多い通りであり、いろいろなことが思い出されて来た。しばらく前まで、彼はこのそばのヴァイン・ストリート警察署勤務の捜査係長の警部で、この流行地域の犯罪捜査を担当していた。富裕階級の住宅地やピカデリーを中心とする繁華街のあるロンドン西区は、彼の猟場であった。いま雨を通して見えるあの堂々としたりっぱな建物は、めったな人間を会員にいれないクラブで、そこで彼は穏やかに数語を交しただけで、拐帯犯の銀行家を捕えたことがあった。暗くなっている一軒の商店の表口は、パリ製のガウンが散らばったなかで殺されていたあのフランスの女の死体の上に、彼が屈みこんでいたあの早朝のことを、思い出させた。バークリー・ホテルの白い正面は、浴室から出たところを捕えられて、手も足も出ずにまごまごしていた残酷な恐喝犯人の記憶とつながっている。ハーフ・ムーン・ストリートをちょっと上ったところでは、地下鉄の駅の入口の前で、彼が色の浅黒い男の耳に一言囁いたら、その男の顔が蒼白になったことがあった。ニューヨークの警察があれほど捜していた殺人犯人は、彼に肩に手をかけられたときには、オルバニー・ホテルの居心地のいい自分の部屋で、晴れやかな顔をして朝食をしていた。往来の向こうのプリンス・レストランでは、彼は二週間毎晩そこで夕食をして、タキシードを着ていれば自分の心の浅ましい秘密をうまく隠せると思っていた男を、監視していたことがあった。そして、彼がいま着いたこのピカデリー広場では、真夜中にハットン・ガーデンのダイヤモンド泥棒と戦って、相手を死に至らしめたことが忘れられない。  雨は強くなって、新しく力を加えて彼を鞭うつようだった。彼は一件の戸口に入りこんで、目の前の光景を眺めた。不夜城街といわれるニューヨークのブロードウェイの夜を、ロンドンふうに慎ましやかにささやかにしたものだ。無数の電気看板の黄色いあかりが、降りしきる雨の中でぼんやりと霞み、小さな水溜りが往来に光っている。話相手がどうにもほしくなって、彼は広場をまわって、もっと暗い通りへ姿を消した。あかるい交通の多いところからわずか二百ヤード行くと、一階の窓に鉄棒をはめて、入口に電灯がぼんやりついている陰気な建物にぶつかる。次の瞬間には、彼はこのヴァイン・ストリート警察署の入口の懐かしい段を上っていた。  ダフの占めていた重要なポストの後任者、警察署勤務の刑事部の警部ヘイリーは、自分の部屋に一人でいた。痩せた、疲れたような顔をした男だ。旧友を見て、彼の顔は輝いた。 「やあ、いらっしゃい。話相手がほしかったところだ」 「こっちこそ」  ダフはこう答えて、水の滴たる帽子と濡れた外套を脱いで、腰をおろした。隣の部屋とのドアが開いているので、数人の刑事がめいめい安新聞を読んでいるのが、彼に見えた。 「事件のない夜らしいな?」ダフは聞いた。 「ああ、ありがたいことにね。もう少ししたら、ナイト・クラブを一軒、手入れをすることになっている。なにしろ、最近はこういうことぐらいが大きな気晴らしという始末でね。ところで、またお祝いをいってよさそうだな」 「お祝い?」ダフは不審そうな顔をした。 「そうさ――あのバロー事件のことさ。裁判官からダフ警部に特別の賞讃の言葉があったじゃないか。りっぱな仕事とか、知的な推理とか、そういういろんなことをいわれたじゃないか」  ダフは肩をすぼめた。「まあ、それはそうだ。どうもありがとう」彼はパイプを出して、詰めはじめた。「だがそれはもう過去のことになっている。あすになれば、忘れられてしまう」しばらく黙っていて、それからこう付け加えた。「妙な商売だなあ、われわれの商売は、なあ」  ヘイリーは探るようにダフを見て、「反作用だよ」といってうなずいた。「むずかしい事件のあとでは、ぼく自身もいつもそういう気分になる。あんたに必要なのは仕事だ。新しい謎だ。反省なんかしている暇はないようにすることだ。まあ、あんたがぼくのポストにいたとしたら――」 「いたよ」ダフは相手に注意した。 「そうそう、いたっけ。そのとおりだ。しかし過去のことは忘れてしまうという前に――忘れてしまうというのはいい考えで、ぼくは同意するが――、僭越だがぼくの口からもほめさせてもらいたいな。あの事件でのあんたの仕事は模範的な――」  ダフは相手の言葉をさえぎった。「ぼくの運がよかったのさ。それを忘れないでもらいたいな。なくなった総監のサー・フレデリック・ブルースがいつもいっていたことだが、努力と知性と幸運さ。しかもこの三つのうちで、幸運がなによりもものをいう」 「そうだったな。ブルース総監はお気の毒なことだった」 「今夜ブルース総監のことを考えていた。あの人のことと、それからあの人を殺した犯人をとうとう発見したシナ人の探偵のことを、考えていた」  ヘイリーはうなずいた。「ハワイの人だったね。チャン警部補――たしかそういう名だったな」 「名前はそうだ――チャーリー・チャンだ。しかしいまは警部になっている、ホノルルで」 「そうすると、あんたに便りがあったんだね?」 「ずいぶん久し振りでね」ダフはパイプに火をつけた。「ぼくは忙しい人間だけれど、通信はつづけていた。なぜか、チャーリー・チャンのことが忘れられなくてね。二月ばかり前に手紙を書いて、彼のことについてニュースを知らせてくれと、頼んでやった」 「で、返事が来たんだね?」 「うん、返事がけさ来たばかりだ」ダフはポケットから手紙を出した。「ニュースというほどのものはないようだが」と、微笑しながら付け加えた。  ヘイリーは椅子にもたれた。「それでも、どんな手紙か知りたいな」  ダフは封筒から紙を二枚引き出して、それをひろげた。地球の向こう側の別の警察でタイプされたその文字を、彼はしばらく眺めていた。それから、微かな微笑をまだ唇に浮かべたまま、警視庁の人間にしては妙にやさしい声で、読み出した。 [#ここから1字下げ]  尊敬すべき友よ  貴下の親切な書簡は長い旅を終え、予定の日時に到着し、賤しき私の心に過去の幸福な記憶を甦らせました。富とは何でありましょうか? 友人の名簿を書いてみれば答得られます。貴下の貴き多忙な頭脳に、この最も無価値なるチャーリー・チャンのこと考えて下さる余地まだあることを知りまして、私は大なる富を感じます。  当方も同じことにて、私貴下を忘れておりません。決して。私の露骨なる申し上げ方お許し願いますが、貴下の推測大いに不条理であります。貴下がかつて私にたくさん下された賞讃の言葉、私の記憶に止まり、私常に過分の誇りいささか感じております。  私の近況につき知らせよという御手紙の要求に関し、実に残念なる報告申しますが、お知らせすることありません。雨水、庇《ひさし》から同一の古き穴に落ちるという言葉、私の日々の生活の正確な描写であります。殺人、ホノルルでは多くありません。静かなる人、幸福な人であります。故に私、激しき不平訴えません。漁を行なう時あり、網を乾す時あること、東洋人知っております。  しかし網を乾す時非常に多きため、私時々多少やきもきすることあるようです。何故でしょうか? 私非常に多くの年を、せわしいアメリカ人の間で暮らしていることのため、東洋の性格私から消滅しつつあるのでしょうか? 構いません。私このこと隠しています。私非常に重要といえぬ職務、顔に心を表わさず、遂行しています。しかし夜ベランダにいて、眠れる街を眺めつつ、電話鳴りて重要な知らせ伝えてくれればよいと、不思議な望み抱くこともあります。しかし、当地の学校でよき英語学ぶ私の娘の言葉借りれば、“無駄よ”であります。  貴下には神様に与えられた違った運命待っていること、私喜びます。貴下が大都会に住むこと、貴下の運命であり、そこにいる貴下のこと、私よく考えます。貴下の優れた才能、淀める水のごとく動かずいること、許されません。何度も電話鳴りまして、貴下は捜査に出動します。成功常に貴下の傍に微笑していること、私心の中で知っています。貴下と共にいたという大なる名誉、私もちましたとき、そのこと私感じました。シナ人極めて霊感に富む人種であります。  私の子供等に関し、貴下の偉大な心煩わして、質問して下さったこと、非常な御親切であります。急いで総計しますと、子供の数いま十一であります。国を治めること容易であり、家を治めること困難であるといった、賢明なる人の言葉、私時々思い出します。しかし私努力して前進します。長女ローズ、本土の大学の学生です。アメリカの教育費の真相に、私はじめて遭遇しましたとき、現在の子供等の数に止め、これでしめくくりすることよろしいと、考えました。  非常なる好意ある御手紙に対し、再び私の絶大なる感謝申します。たぶん我々いつかまた会います。我々の間の恐ろしい長さの土地と水思いますとき、この考え夢のようにも思えますが。とにかく、私最後に改めて貴下に敬意表します。職務の行程において、常に貴下が安全に歩むこと祈ります。[#地から4字上げ]敬具 [#地から2字上げ]チャーリー・チャン [#ここで字下げ終わり]  ダフは読み終えて、その手紙をゆっくりとたたんだ。顔をあげたら、ヘイリーが信じられないような顔をして、じっと見つめているのが見えた。 「愛すべき手紙だけれど、しかし、そのお、少し幼稚だな。まさかこの手紙を書いたのが、ブルース総監の殺人犯人を追いつめた人じゃあるまいね」 「チャンの文章にだまされてはいけない」ダフは声をたてて笑った。「チャンの人物は文章よりいささか深遠だ。忍耐、知性、努力――これはロンドン警視庁の専売ではない。チャン警部はぼくたちの職業を飾るべき人物だ。ホノルルのようなところに埋れているのは、惜しいものだ」さっき映画で見た椰子にふちどられた海岸が、彼の目の前にちらついた。「しかしそれにしても、静かな人間は幸福な人間ということかもしれないな」 「そうかもしれない。しかしわれわれにはそれを試すチャンスはあるまい、あんたもぼくも。もう帰るのかい、あんたは?」  ダフは立ち上がっていた。 「ああ――下宿へ帰る。さっき来たとき、ぼくは少し気がめいっていたんだが、もう大丈夫だ」 「まだ結婚していないんだね?」ヘイリーは聞いた。 「結婚したって仕方がない。そんなよけいなことをしている暇はない。警視庁と結婚したわけさ」  ヘイリーは頭を振った。「それだけじゃ足りないよ。しかしぼくの関係したことじゃない」ダフに外套を着せながら、「あんたに事件の切れ目が長くないようにしたいな。そのほうがあんたにはいい。あんたの机の電話が――チャン先生はなんていったっけな? 電話鳴りて重要な知らせ伝えてくれればだ――そうすれば、あんたはまた元気になる」 「雨水、庇から同一の古き穴に落ちるだ」ダフはこういって肩をすぼめた。そのように、いつも事件を追い回している自分。 「しかし、あんたはその落ちる音を聞くのが好きじゃないか。それは自分でわかっているはずだ」 「ああ」ダフはうなずいた。「君のいうとおりだ。実をいうと、ぼくはそれを聞かないと、気が沈む。さよなら。ナイト・クラブの手入れがうまくいくように」  翌朝の八時に、ダフ警部はロンドン警視庁の自室へ勢いよく入って行った。もとどおり元気よくなっていた。頬に赤味が差して光っている。これは彼が首都警察に入る時に、ヨークシャーの農場で過ごしていた頃の遺産だ。彼は机のおおい蓋を開いて、多くもない朝の郵便物に目を通した。それからデイリー・テレグラフ新聞をとりあげて、いい葉巻に火をつけて、ゆっくりとニュースを読みはじめた。  八時十五分に、彼の机の電話が突然鳴った。彼は読むのをやめて、電話機を見つめた。電話はまた鳴った。鋭く、しつっこく、助けを求める声のように。彼は新聞を下に置いて、受話器をとりあげた。 「やあ、お早う」ヘイリーの声。「ぼくんとこの警部補からいまニュースが入ってね。何時かわからないが、夜の間に、ブルーム・ホテルで男が一人殺された」 「ブルームで?」ダフは聞き返した。「まさかあのブルームじゃあるまいな?」 「殺人の現場としては信じられないところだ、たしかに。しかし、そうなんだ。寝ている間に殺された。アメリカの観光客で、デトロイトとかなんとか、そんな妙なところから来た人だ。ぼくはすぐあんたのことを考えたんだ。きのうの夜あんな話をしたからね。それにだ、あんたの前の所管の地域だ。ブルーム・ホテルのあの気取った雰囲気のなかでどうやればいいか、あんたならよく心得ているにきまっている。ぼくから警視には話しておいた。すぐあんたに命令が来る。部下を連れて、急いで車に乗って、できるだけ早く、ホテルでぼくに会ってもらいたいが」  ヘイリーは電話を切った。  ダフが受話器をかけているところへ、彼の上司が急いで部屋へ入って来た。 「アメリカ人がハーフ・ムーン・ストリートで殺された。たしかブルーム・ホテルでだ。ヘイリー君が応援を求めて、君にといって来た。いい考えだと思う。すぐ行ってもらいたいが――」  ダフはもう帽子とオーバーを着て、戸口へ出ていた。 「行って来ます」  階段を駆け降りる彼の耳に、「頼む」という警視の声が聞こえた。  次の瞬間には、彼は歩道のふちに止めてある小型の緑色の車に乗り込んでいた。どこからともなく、指紋係が一人と写真技師が一人現われて、黙ってその車に乗った。緑の車は短いダービー・ストリートを下って、ホワイトホール通りで右に曲がった。  前夜の雨は止んでいたが、朝霧がたちこめている。車はどこともわからぬ世界を匐《は》って行った。絶え間のない車の警笛の音と、警官の呼子のかん高い叫びが、三人に聞こえて来た。両側に街灯の薄い光が見える。陰欝な灰色の中に弱々しくほのかに見える黄色い点というだけだ。それでも霧のカーテンの後ろのどこかでは、ロンドンは平常どおりの仕事をはじめていた。  この光景は、ダフが昨夜映画で見たそれとは、正反対なものだ。ここには輝く太陽も、打ち寄せる白波も、静かに首を垂れている椰子もない。しかしダフは、南太平洋の島のことは考えていなかった。それは全部彼の心からは拭い去られていた。彼はこの小さな車の座席で背中を丸くして、その目はただ前に見える道路にたちこめている霧の向こうを見ようとしていた。その道が長い長い道になるということは、このときの彼にはわからなかった。彼はそのほかのことは完全に忘れていた――旧友のチャーリー・チャンのことも。  このとき、チャーリー・チャンもダフのことは考えてはいなかった。地球の反対側のホノルルでは、二月のこの日はまだ暁にはなっていなかった。まだその前日の夜であった。このとき、このホノルルの警察の太った警部は、自宅のベランダに腰をおろして、未来のことを考えもせず、超然としていた。パンチボウル丘にあるその高いベランダから、ホノルルの町の明滅する灯の向こうのワイキキの浜の曲線を、眺めていた。浜は熱帯の月の下で白く光っていた。チャーリー・チャンは平静な人間である。そしてこのときは、彼の人生の最も平静な瞬間の一つであった。  チャーリー・チャンはロンドン警視庁のダフ警部の机の上の電話が鳴ったのは、聞かなかった。小さな緑の車が走り出したのが、忽然として目の前に見えたということもなかった。有名なロンドンのブルーム・ホテルの天井の高い一室と、そこのベッドの上の、鞄の革紐をきつく咽喉《のど》に巻きつけられた老人の永遠に身動きせぬ姿が、夢のように見えたということもなかった。  思うに、シナ人はやはりそれほど霊感に富んではいないのであろう。 [#5字下げ]2 ブルーム・ホテルの霧[#「2 ブルーム・ホテルの霧」は中見出し]  ブルーム・ホテルのことを、殺人という言葉に結びつけて説明するのは、冒涜《ぼうとく》のきらいがあるが、遺憾ながらそうしなければならない。この一風変わった古い旅館は、百年以上もハーフ・ムーン・ストリートに厳存している。スチーム暖房や給湯設備の点では弱いが、伝統的な名声という点では強い。伝え聞くところによれば、創立者のサミュエル・ブルームがはじめたときは、普通の一戸建の住宅であった。事業が栄えるにつれてほかの家をとりいれて、現在では十二のこういう住宅がいっしょになって、一つのホテルとなっている。ハーフ・ムーン・ストリートに広い正面があるばかりでなく、後ろはクラージェス・ストリートにまで及んで、そこに別の入口がある。  いろいろな住宅をやたらにくっつけたものだから、二階から上の廊下を歩いている客は、不可思議な迷路に迷い込んでしまう。階段を三段上ったかと思うと、二段よけいに下ったりする。とんでもないところに曲がり角があったり、全然予期しないところにドアやアーチのついた通路が突然現われたりする。暖炉用の石炭や、浴室のない部屋の客に旧式な罐にいれた湯をもっていく使用人は、なかなか辛い。浴室はあとから考えていやいやつけたもので、いくつもなく、浴室付きの部屋は手に入りにくい。  しかし近代的な設備がないからといって、ブルーム・ホテルの部屋が簡単に借りられると思ってはならない。このホテルに泊まれるというのは非常な名誉であり、ロンドンのシーズンには、ふりの客にとっては、ほとんど不可能なことである。そのときには、地方の豪家や有名な政治家と作家、貴族の群れで満員になる。一度亡命した国王に宿舎を与えたことがあるが、それはその国王と交際しているのがりっぱな人たちであったからだ。シーズン以外には、このホテルは近年はそうやかましいことはいわなくなった。アメリカ人さえ泊まれる。そしていま、この二月の霧の朝に、アメリカ人の一人が上の階で殺されたのだ。実に遺憾なことではある。  ダフはハーフ・ムーン・ストリートの入口から、薄暗い、物音一つしない中へ入った。聖堂に足を踏み入れたような気がした。帽子をとって、オルガンが鳴り出すのを待っているような気分で、じっと立っていた。しかし、音もなく通り過ぎるピンクの上着を着た使用人たちが、どうもこの幻想にはふさわしくない。この連中を聖歌隊の少年歌手と間違えるものはあるまい。彼らはほとんど全部が、サミュエル・ブルームが一軒だけの住宅で、自分の名をつけて開業した当時からいた人間のように見える。ブルーム・ホテルにいついたまま、灰色の髪の老人になった人たちだ。痩せた老人、太った老人。大部分は眼鏡をかけている。微妙な過去の雰囲気を、身のまわりにただよわせている。  首相のような態度をした一人の使用人が、ポーターの机の後ろの椅子から立ち上がって、重々しい足どりで、ダフのほうへやって来た。 「お早う、ピーターさん。いったいどうしたんだね?」ダフは聞いた。  ピーターは憂欝そうに頭を振った。 「大変に困ったことが起こりまして。アメリカのお方です。三階でございます、お部屋の番号は28で、裏側でございます。なくなられたそうです、私の聞きましたところでは」ピーターの震え声が低くなった。「これというのも、よその方をお泊めするからです」と付け加えた。 「全くそうだね」ダフは微笑した。「あんたには本当にお気の毒だ」 「私どもはみんな困っております。みんなひどくこたえております。ヘンリー!」ピーターは、そばのベンチでひどくこたえていた七十歳の“若者”を呼んだ。「ヘンリーがあなたさまの行きたいところには、どこにでもご案内いたします。こんなことを申してはなんですが、どうせお調べいただくのでしたら、あなたのような方にやっていただけば、大安心でございます」 「ありがとう。ヘイリー警部は来ているだろうかしら?」 「上においでです。その――あの部屋に」  ダフはヘンリーのほうを向いて、いっしょに来た指紋係と写真技師を指さして、「この人たちを28号室に案内してください」といった。それからピーターに、「ぼくは最初にケントさんと話したい。まあ、いいですよ、あんた。ケントさんは自分の部屋だそうだから」 「そうだと思いますが。お部屋はご存じでしょうな」  ブルーム・ホテルの総支配人ケントは、モーニング、灰色のチョッキとネクタイという正装で、左の襟に小さなピンクの薔薇《ばら》をさしていた。それでも、すこしも幸福そうな顔ではなかった。彼の机の横には、学者タイプの、顎ひげをはやした男が、陰気そうに黙りこんでかけていた。 「お入りください、ダフさん、どうか」ケントはすぐ立ち上がった。「これは運がよかった。けさはじめての幸運です。あなたがここへ来てくださるとは。願ってもないことです。とんでもないことが起こりまして、警部さん、全くとんでもないことが。できるだけ内密に取り計ってくだされば、こんな有難いことは――」 「わかってます」ダフは相手の言葉をさえぎった。「しかし残念ながら、殺人事件が世間に知れわたるというのは付きものです。被害者が誰か、いつここへ着いたか、連れは誰か、それをわたしは知りたいです。それに、ほかにもあなたから承れる事実がありましたら、どんなことでも」 「ヒュー・モリス・ドレイクという人です。デトロイトから来た方です――アメリカの都会ですな、たしか。ニューヨークから汽船でサザムプトンへ来て、そこから連絡列車で、三日の月曜に着きましてな。娘さんがいっしょです。ポッター夫人というやはりデトロイトの人が。それに孫娘の方も――その人の名はちょっと忘れましたが」ケントは顎ひげの男のほうを向いた。「あの若い方はなんといいましたかな、ロフトン博士?」 「パメラといいます」その人が冷たい、きつい声でいった。 「ああ、そうでしたな――ミス・パメラ・ポッターでした。そうそう、ところで博士、警視庁のダフ警部をご紹介いたします」  ダフとロフトンは頭を下げ合った。  ケントはダフのほうを向いた。「なくなられた人のことについては、私より博士のほうがよく知っておいでです。その人のことばかりでなく、一行の全部の方のことを。なにしろ、この方が引率者ですから」 「引率者?」ダフは納得がいかずに、聞き返した。 「そうですとも。この旅行の引率者です」ケントは付け加えた。 「なんの旅行です? 被害者は旅行団に加わって旅行していたというわけですか、世話する方がついて?」  こういって、ダフは博士のほうを見た。 「私は世話係というわけではありません」とロフトンは答えた。「もっとも、ある意味では、たしかにそうではありますが。あなたはロフトン世界周遊旅行団のことを、お聞きになったことがないようですな。これは私が約十五年間、ノウマッド旅行社と提携して、引率して行なって来たものです」 「聞いたことはありませんです」ダフは無愛想にいった。「すると、ヒュー・モリス・ドレイク氏は、あなたに引率されて、世界一周の旅行に出て――」 「お言葉中ですが」ロフトンは口をはさんだ。「厳密にいうと、世界一周旅行ではありません。世界一周といいますと、普通ただ同一の汽船で全距離を旅行する大きな団体だけをさすわけです。私のやり方は全然違うものでして、列車も変え、汽船もいろいろ変えますし、それに比較的小さなグループです」 「小さなグループといいますと?」ダフは聞いた。 「今年は参加者はわずか十七人です。つまりその、昨夜は十七人でした。今日はもちろん、十六人しかおりません」  こう聞いて、さしものダフも気が重くなった。「大勢ですなあ」と注釈を加えて、「ところで、ロフトン博士、あなたは医学博士でおいでですか?」 「いいや違います。私は哲学博士です。私は学位をいくつももっておりまして――」 「なるほど。昨夜より前に、この旅行中に何か問題がありましたですか? 恨みとか憎みとか、そういったことをあなたに思わせるような事件が――」 「とんでもない!」ロフトンはダフの言葉をさえぎって、立ち上がって、床の上を歩き出した。「何もありませんでした、何も。ニューヨークからの航海がひどく荒れまして、参加者の方たちは、ほとんど互いに顔も合わせませんでした。月曜にこのホテルに着いたときには、全部が知らない同士だといっていいくらいでした。それ以来、数回観光には出ましたが、それでもまだ――。まあ、私の申すことを聞いてください、警部さん!」ロフトンの平静さは消えて、顎ひげにおおわれた顔に赤味が差し、興奮の色が見えた。「私の立場は恐ろしいことになっています。私が十五年間努力して築き上げた私の一生の仕事、私の名声、私の地位、全部がこれでこわされてしまいそうです。お願いですから、旅行団のメンバーの一人がヒュー・ドレイク氏を殺したという考えは捨ててください。そういうことはあり得ません。どこかのこそ泥が――誰かホテルの使用人が――」 「とんでもないことをおっしゃる」支配人が興奮して大声を出した。「私の使っている連中をよく見てください。何年間もここで働いて来た連中です。このホテルの使用人は絶対に関係ありません。私は首を賭けます」 「では、誰か外部の人間です」ロフトンの調子は訴えているようだ。「私の団体のものだということはあり得ないと、私は申しているのです。私はめったな人間は加えません――最上の人たちだけです、いつも」彼はダフの腕に手をかけた。「興奮してすみません、警部さん。あなたが公平な立場をとってくださることは、私にはわかっています。しかしこれは私にとっては実に重大な問題でして」 「わかっております」ダフはうなずいた。「わたしはあなたのために、できるだけのことはいたします。しかしわたしはできるだけ早く、あなたの団体のメンバーに質問する必要があります。その人たちを、ホテルの談話室の一つに集めていただけんでしょうか?」 「やってみます。いま外出している人がいるかもしれませんが、十時までには全部必ず帰って来ます。なにしろ、私たちはドーヴァー・カレー連絡船に間に合うように、十時四十五分ヴィクトリア駅発の列車に乗ることになっていますから」 「そういう予定であった[#「あった」に傍点]というわけですな」ダフはロフトンの言葉を訂正した。 「そうです、それはそうです、もちろん。その時間に出発することになっていたと、いうべきで下。しかしこうなると――こうなったらどうなります、警部さん?」 「それはなかなか難しい問題です。どうなりますかな? 私は上へ行ってみます。よろしいですか、ケントさん?」  ダフは答えを待たずに、急いで部屋を出た。いつも曽孫の自慢をしているエレベーターの運転手が、ダフを三階まで乗せて行った。28号室の戸口で、ダフはヘイリーに会った。 「いやあ、ダフ君。どうか、おはいり」ヴァイン・ストリート警察署の警部はいった。  ダフが入った大きな寝室は、カメラのフラッシュの粉の匂いが強くしている。部屋の飾り付けは、ヴィクトリア女王がいまここへいっしょに入って来て、ボンネットを脱いで、いちばんそばのロッキング・チェアにかけたとしても、不思議はないほど古風なものだ。女王もここならくつろげたであろう。ベッドは窓からずっと離れた、奥のほうに別の部屋のように引っ込んだところにある。その上に横たわっている男の死体は、かなりの年配――六十代の終わりだろうと、ダフは推測した。死体の細い咽喉には、まだ鞄の革紐がまきついていたが、それがなくても絞殺だということは、ダフにはわかった。そして無益な死物狂いな抵抗をした痕跡が、死体に充分に示されているということも、ダフの鋭い目には明らかだった。ダフはちょっとの間じっと立ったまま、この新しい謎を見おろしていた。外では、霧が晴れかかっていて、下の舗道から、ロンドンのこの区域をいつも流しているたくさんの街のオーケストラの一つが演奏している“金糸に織り込まれた銀の糸”の曲が、聞こえて来る。 「警察医は来たかしら?」ダフは聞いた。 「うん――報告書を作って引き上げた。死亡時間は四時間ばかり前だということだ」ヘイリーは答えた。  ダフは前へ出て、ハンカチを使って、鞄の革紐をはずして、指紋係に渡した。それからデトロイトから来たというヒュー・モリス・ドレイク氏の死体を、注意して調べはじめた。死体の左腕をもち上げて、握りしめている指をほどいて見た。右手もそうしようとしたとき、彼の注意を引くものがあって、思わず彼は叫び声を立てた。痩せたこわばった指の間に、何か光っている。細いプラチナの時計の鎖の輪だ。それを握っている死体の右手をゆるめたら、それがベッドの上に落ちた。鎖の輪が三つで、その先に小さな鍵がついている。  ヘイリーがそばへ来た。二人はダフのハンカチの上に置かれたその発見された物を調べた。鍵の片面には“3260”という数字が、片面には“ディートリッヒ金庫錠前会社、オハイオ州カントン市”という文字が彫られている。ダフは机の上の物いわぬ顔を、ちらっと見た。 「えらいものだ」と彼は低い声でいった。「この人はわれわれを助けようとしてくれた。犯人の時計の鎖の端を引きちぎって――しかも持っていてくれた、ありがたい」 「これは手がかりになる」ヘイリーが注釈を加えた。  ダフはうなずいた。「そうだろうな。しかしぼくの趣味からいうと、どうもアメリカ的な事件になりすぎて来たようだ、君。ぼくはロンドンの刑事だからな、なんといっても」  ダフはベッドの横へ膝をついて、床をもっとよく調べ出した。誰かが部屋に入って来たが、ダフはそのときには調べるのに夢中で、顔を上げもしなかった。最後に顔を上げて、そこにいる人を見て、あわててズボンの埃を払いながら、ぱっと立ち上がった。ほっそりした魅力的なアメリカの若い女が、そこに立って、彼のほうを見ている。魅力的アメリカ娘のなかでもちょっと特別製の目をしているということを、彼には鑑賞する暇があった。 「これは――どうも――お早うございます」ダフはいった。 「お早うございます」彼女は重々しく答えた。「わたくしパメラ・ポッターです。なくなったのは――わたくしの祖父です。あなたがたはロンドンの警視庁のお方ですね。家族のものとお話しになりたいのでしょうね」 「もちろんです」  非常に落ち着いてしっかりしている娘だが、菫《すみれ》色の目のまわりに涙の痕がある。 「お母さんもこの旅行団とごいっしょでしょうね?」 「母はすっかりまいっております。しばらくすればよくなるでしょうが。でもいまのところは、わたくしがお答えするしかありません。どういうことを、お知りになりたいのですか?」 「この不幸な出来事の原因について、何か思いあたらんでしょうか?」  彼女は頭を振った。「なんにも考えられません。とても信じられないことです、本当に。世界中にあんな親切な人はいませんでした。敵なんか、一人もいませんでした。本当に、なんといっていいかわかりません」  クラージェス・ストリートの向こうのほうから、“長い長い曲がりくねった小路”の曲が、高く聞こえて来る。  ダフは部下の一人に向かって、「あの窓を閉めたまえ」と鋭く命令して、それから彼女に向かって、「あなたのおじいさんはデトロイトの社会では、有名な方だったのですね?」と聞いた。この地名の発音に自信がなくて、ロにアクセントがあるのに、デにつけた。 「ええ、そうでした――ずっと前からです。祖父は自動車業の草分けの一人でした。祖父は自分のやっていた会社の社長は、五年前に引退しましたけれど、重役の一人に残っていました。最近の数年間は、慈善事業に関心をもちまして、たくさんお金を出していました。誰でも祖父のことは、大切にして尊敬していました。祖父を知っている人は、祖父のことを愛していました」 「そうすると、おじいさんは非常にお金持だったのですね?」 「ええ、そうです」 「で、誰が――」ダフはいいかけて、言葉を切った。「失礼な質問ですが、聞くことになっているものでして。誰が財産を相続されます?」  彼女はダフを見つめた。「誰がって、わたくしそんなこと全然考えもしませんでした。でも、慈善事業に寄付される残りの分は、母が相続しますのでしょう」 「で、そのあとは――あなたにですね」 「わたくしと弟にです。そうだと思います。それが?」 「いいや、なんでもありません。あなたがおじいさんを最後に見られたのは、いつでした? つまり、生きている間に」 「きのうの夜、夕食のすぐあとでした。母とわたくしは劇場に行くことにしていましたが、祖父は行きたがりませんでした。疲れたと、祖父はいいましたが、それに、祖父はかわいそうに、芝居を楽しめませんでしたので」  ダフはうなずいた。「わかります。あなたのおじいさんはつんぼだったのですね」  彼女は目を見張った。「どうしてあなたはそれをご存じ――まあ――」彼女の視線はダフの視線を追って、電池のついた補聴器が乗っているテーブルへ行った。当然、彼女は涙にむせんだが、すぐ自制して、「ええ――あれは祖父のです」といって、それに手を延ばした。 「さわらないでください」ダフは急いでいった。 「まあ、そうでしたわ。さわってならないにきまっています。祖父はいつでもこれを使っていましたけれど、たいして役に立ちませんでした。きのうの夜、祖父はわたくしたちだけで行くようにといって、自分は早く休むつもりだといいました。きょうは疲れるだろうと予期していたものですから――わたくしたち全部、きょうパリへ出発することになっていましたから。わたくしたち、祖父に寝過ぎないようにと注意しました。わたくしたちの部屋は祖父の一階下なものですから。祖父はそんなことはない、毎朝八時ちょっと前に起こしてもらうように、ボーイに頼んであると、いいました。けさ八時半に、祖父といっしょに朝食をしようと思って、わたくしたち下のロビーで待っていましたら、ホテルの支配人から知らせがありました――あんなことがあったという」 「お母さんは気が転倒してしまわれたのですね?」 「あたり前です――あんな恐ろしいニュースを聞いたんですもの。母は気絶しました。わたくしやっとのことで、母を部屋へ連れて行きました」 「あなたは気絶しなかったのですね?」  彼女は軽蔑したように、ダフを見た。「わたくし、気絶をするジェネレーションには属していません。もちろん、ひどいショックは受けましたけれど」 「それは当然です。役目外のことですが、心からお悔み申します」 「ありがとうございます。ほかになにかお聞きになりたいことがありましょうか?」 「いまのところありません。わたしが帰る前に、ちょっとでいいですから、お母さんに会わせていただくように、お願いします。どうしても会わなければなりません、おわかりでしょうが。しかし一時間かそこら待ちます。その間に、下の談話室で旅行団のほかのメンバーに、わたしは会います。あなたに来てくださいとは、お願いしませんが――」 「そんなこと」彼女は声を大きくした。「わたくし行きますとも。わたくし弱虫じゃありません。それに、わたくしこの旅行団のほかの方たちを、よく見たいんです。いままで、知り合いになる時間がありませんでした、航海が荒れて。ええ、わたくし参ります。こんなひどい、こんな冷酷なことをするなんて。この謎が解けるまで、わたくし気が休まりません。わたくしにできることでしたらなんでも、ええと――」 「ダフ警部といいます。あなたがそういう気持でおられて、うれしいです。いっしょに謎の回答を求めましょう、お嬢さん」 「それで、それを発見します。しなければなりません」はじめて彼女はベッドを見た。「あんなに――あんなにわたくしに親切にしてくれたのに」こうとぎれとぎれにいって、急いで部屋から出て行った。  ダフはじっと立ったまま、彼女を見送っていた。 「実にしっかりした女だなあ」ダフはヘイリーに向かって、こう注釈を加えた。「アメリカの若い女性というものは、ああしたものかしら? まあ、いい。ところで、目下の手がかりはなんだ? 鎖の端切れと鍵だ。これでも結構役には立つ」  ヘイリーはちょっとすまなそうな顔をした。「ダフ君、ぼくはうっかりしていた。ほかにもある。医者がベッドで発見した――死体の横に置いてあった。無造作にそこへ置いてあったものだな、どうも」 「何が?」ダフはただ一言聞いた。 「これだ」  ヘイリーは上を紐でとめてある、小さな、すり切れたようなセーム皮の袋を渡した。何が入っているのか、どっしりと重い。ダフは化粧|箪笥《だんす》へ行って、紐をゆるめて、中身を箪笥の上へあけた。しばらく、彼は狐につままれたような顔をして、それを見つめていた。 「これは――いったいこれはなんだ、ヘイリー君?」 「小石だ。いろんな形と大きさの小石だ。滑かなのもある――海岸で拾ったようなのが」ヘイリーは小石の山を手で均《なら》した。「無価値な小さな小石というだけのものだ」 「さっぱりわけがわからんな。全く」ダフはこう呟いて、部下の一人のほうを向いた。「君、とにかくこれを数えて、袋へ戻しておきたまえ」  その部下がその仕事にとりかかったら、ダフは古風なイスに腰をおろして、ゆっくり部屋を見回した。 「特徴のある事件だ」ダフがいった。 「たしかにそうだ」ヘイリーが答えた。 「娘と孫を連れて世界周遊に出ている善良な老人が、ロンドンのホテルで絞殺された。ひどいつんぼで、穏やかな老人で、親切なのと慈悲深いので知られている人がだ。眠りをさまされて、抵抗して、犯人の時計の鎖の端をつかんだ。しかし力が尽きて、革紐が強くしまった。そして犯人が最後にしたことは、わけのわからない小石の袋をベッドへ放り出して行った。これをどう解釈するね、ヘイリー君?」 「さっぱりわからんねえ、どうしても」 「ぼくもだ。しかしぼくには一つか二つ気のついたことがある。君も気がついたろう、きっと?」 「ぼくはあんたに敵《かな》ったことはないよ」 「ばかな。謙遜はよしたまえ。きみは自分の目を使わなかったんだ。それだけのことだ。ベッドのそばに立っていた男が、ほかの男と命がけの格闘をしていたとすれば、カーペットのけばが靴で、ある程度くしゃくしゃになっている筈だ。こうした古い厚いカーペットだったら、ことにそうだ。ところが、このカーペットには、そういう踏みにじられた形跡がない」 「ない?」 「全然ない。それから――ベッドを見てくれたまえ」 「これは驚いた!」ヘイリーは目を見張った。「あんたのいう意味はわかった。もちろんこのベッドには人が寝ていたわけだが、しかし――」 「そこだ。裾と片側は、ベッドカバーがまだちゃんと挾みこまれたままになっている。全体がきちんと片づいているという感じだ。このベッドで命がけの格闘が行なわれただろうか、ヘイリー君?」 「そうとは思えない」 「そうではないと、ぼくは確信する」ダフは考え込みながら、自分のまわりを見つめた。「たしかに、これはドレイクの部屋だ。彼の持ち物は全部ある。彼の補聴器はテーブルに載っている。彼の服はその椅子にかけてある。しかしぼくは、ドレイクはどこかよそで殺されたのだという気がする」 [#5字下げ]3 心臓の悪い男[#「3 心臓の悪い男」は中見出し]  この驚くべき発言をしたあと、ダフはちょっとの間、黙って空間を見つめていた。ホテルの支配人のケントが戸口に現われた。その丸い顔がまだ心配そうに曇っている。 「なにか私にお役に立つことがあるかもしれんと思いまして」支配人がいった。 「ありがとう。最初に犯罪を発見した人に会いたいですが」とダフは答えた。 「そうだろうと思っていました。死体を発見したのは、この階を受け持っているマーティンというボーイです。ここへ連れて来てあります」  支配人はドアへ行って、手招きした。なんだか無表情な顔をした使用人が一人、部屋へ入って来た。同僚の大部分のものよりずっと若い男で、すっかり神経質になっている。  ダフは手帳を出した。「お早う。ぼくは警視庁のダフ警部というものです」  若者の態度はますます心配そうになって来た。 「けさここで起こったことについて、すっかり話してもらいたいが」 「はあ、そのお――私はドレイク様と約束をしておりまして。毎朝お起こしすることになっておりました。お部屋に電話がありませんものでして。あの方は下でご朝食をなさりたいというので、寝過ごすことを心配しておられました。あの方に聞こえるようにしますには、なかなか骨がおれましたです。たいへん耳が遠くておられましたので。二度、私は女中頭のところへ参って、鍵を借りて、お部屋まで入らなければなりませんでしたです。けさは八時十五分前にお部屋のドアをノックいたしました。なんどもノックいたしましたが、ご返事がありません。しまいに私は女中頭に鍵を借りに参りましたところが、きのうそれが見えなくなったということを、聞かされましたです」 「女中頭の鍵がなくなったというんですな?」 「はあ。下にほかに親鍵がございますので、私はそれを借りて参りました。何かあったとは、思いもしませんでした。ほかの朝にも、ノックして聞こえなかったことがありましたもので。私はこのお部屋の鍵を開けて、中へ入りましたです。一つの窓は閉っておりまして、カーテンがすっかり降ろしてありました。もう一つの窓は開いていまして、カーテンも上げてございました。その窓から日光が射しておりました。なにもかもちゃんとなっておりますように見えましたです。補聴器はテーブルの上にございましたし、ドレイク様のお服は椅子にかかっておりました。それから私はベッドのそばへ参りましたです――それで、これはすぐ支配人にお知らせしなければならないと思いました。これが――これが私にお答えできることの全部でございます」  ダフはケント支配人のほうを向いた。「その女中頭の鍵のことは、どうしたわけです?」 「それがどうもおかしなことでしてな。ここはご存じのとおり、旧式なやり方をしておりますもので、女中どもには部屋の鍵を渡してありません。お客さまがお出かけのときに、ドアに錠をおろしてしまいますと、女中どもは女中頭から親鍵を借りるまでは、部屋をかたづけられません。きのう27号室のご婦人が――隣のお部屋で、アイリーン・スパイサー夫人といわれる、やはりロフトン博士の旅行団の方ですが――、この方が出かけられて、ドアに錠をおろしてしまわれました。そうなさらんようにと、使用人たちからお願いしてあったのですが。  受持ちの女中は部屋に入るのに、女中頭の鍵を借りなければならないことになりました。その女中はその鍵を錠にさしたまま、仕事にとりかかりまして、そのあとで鍵をさがしたら、見えなくなっていました。いまだに紛失しています」 「そうでしょうな」ダフは微笑した。「その鍵は今朝の四時ごろに、使われたに違いないです」  ダフがヘイリーを見て、「予め計画したものだ」といったら、ヘイリーはうなずいた。  ダフはまた支配人に質問をつづけた。「このホテルで最近起こったことで、われわれが知っておくべきことが、ほかに何かありますか?」  支配人は考えてから、「あります」といった。「夜警のものが、夜の間にちょっと妙なことが二つあったのを、報告して来ています。この夜警はもういい年ですから、わたしは空いた部屋で横になって少し休めと、いってあります。しかし呼びにやりましたから、まもなくあなたのところへ参るでしょう。このことについては、当人から聞いてくださるほうがいいです」  ロフトンが戸口に現われた。 「やあ、警部さん。まだ帰って来ないメンバーも少しありますが、集められるだけは集めております。さっき申したように、十時までには全部帰って来ます。何人かはこの階におりますが――」 「ちょっと待ってください」ダフは相手の言葉をさえぎった。「わたしはこの部屋の両側の部屋をとっている人に、とくに関心をもっています。27号には、ケントさんのお話だと、スパイサー夫人という人がいるそうです。いるかどうかご覧になって、もしおられたら、ここへ連れて来てくださいませんか?」  ロフトンは出て行った。ダフはベッドへ行って、死体の顔におおいをかけた。ロフトンは三十歳くらいのしゃれた身なりをした女を連れて、戻って来た。たしかに美しかった女であったに違いない。目元の疲れた表情と口元の少しきつい線が、華やかといっていいような過去をもった女であることを、思わせる。  ロフトンが紹介した。「スパイサー夫人です。こちらはロンドン警視庁のダフ警部です」  女は突然興味をみせて、ダフを見つめた。「わたしに話したいことがおありというのは、どういうわけですの?」 「ここでけさ起ったことを、ご存じでしょうね?」 「なんにも存じません。わたし朝の食事は自分の部屋でしましたし、部屋から出たのは、いまがはじめてです。ただ、この部屋で話し声がたくさんしているのは聞きましたけれど――」 「この部屋の方が夜の間に殺されたのです」  ダフはこれだけいって、いいながら女の顔を検討していた。その顔が青ざめた。 「殺されたんですって?」女は叫んだ。体がすこしふらついた。ヘイリーが急いで椅子をもってきた。「ありがとうございます」と女は機械的にうなずいた。「お気の毒に、ドレイクさんがですの? あんないい方が。本当に――なんて――なんて恐ろしいことが」 「まことにお気の毒でした。この部屋とあなたの部屋の間には、薄いドアが一枚あるだけです。もちろん、このドアの錠はかけっぱなしになっていたでしょうね?」 「あたり前です」 「両側からですね?」  彼女は目を細くして、ダフを見つめた。「こちらの側のことは、わたし知りません。わたしのほうの側はかけっぱなしでした」  ダフのささやかな作戦は成功しなかった。 「夜、なにか物音を聞きませんでしたか? 格闘の音とか、叫び声とか、そんなものを?」 「なんにも聞きませんでした」 「それはすこしおかしいですな」 「そんなことありません。わたしぐっすり眠るほうですから」 「すると、殺人が行なわれた時間には、あなたはたぶん眠っておられたのですね?」  彼女は躊躇した。「あなたは頭のいい方ですわねえ、警部さん。いつ殺人があったのか、わたし知っていっこありませんわ」 「それはそうです。あなたがご存じのはずはありませんな。けさの四時ごろだと、われわれは思います。この部屋で誰かが話しているのは、あなたは一度も聞かなかったのですね? そうですなあ、二十四時間以内にです」 「考えてみます。わたしはきのうの夜、劇場へ行って――」 「一人でですか?」 「いいえ。ステュアート・ヴィヴィアンさんといっしょでした。やはり旅行団のメンバーの方です。十二時ごろわたしが帰って来ましたときには、この部屋はひっそりしていました。でも、この部屋で話し声がしていたのは、その前でしたら、わたしたしかに聞きました。きのうの晩でした――わたしがお夕食に行くのに着換えをしているときでした。とても大きな話し声でした」 「ほほお?」 「実を申しますとですね、まるで――口論のようでした」 「何人で話をしていました?」 「二人きりでした。男の方が二人でした。ドレイクさんとそれから――」彼女は言葉を止めた。 「相手の声もわかったのですね?」 「わかりました。あの方の声は特徴がありますからね。つまり、ロフトン博士の声は」  ダフはいきなり旅行団の引率者のほうを向いた。「あなたはきのうの夕方、夕食の前に、この部屋で被害者と口論をしたのですな?」  きびしい質問だった。ロフトンの顔に心配そうな色がはっきり出た。 「そういうわけではありません――口論とはいえません」ロフトンは抗議した。「私がきょうの予定を知らせようと思って、寄りましたら、ドレイクさんが旅行団の参加者の批判をすぐはじめました。メンバーの中に、あの人の期待にそむくものがいるといいまして」 「あの方がそういうのは、当然ですわ」スパイサー夫人が口をいれた。 「私にとって自分の評判が大切なのは当然です」ロフトンは話しつづけた。「私はドレイクさんのいったような非難を、受けたことはありません。今年はアメリカの経済状態が悪いので、普通ならば参加をお断わりしているような人を二、三人、受け付けなければならなかったというのは、事実です。しかしその人たちの社会的地位がどうであろうと、確かな人であることは、私は確信しています。ドレイクさんのいったことに、私が腹を立てて、話がすこし激化したということは、否定しません。しかし、重大な結果を生むような性質の論争ではありませんでした」こういいながら、彼はベッドに向かってうなずいた。「こういうような」  ダフは女のほうを向いた。「あなたには、その会話の内容は全然聞こえなかったのですね?」 「なんの話だったかは、わかりませんでした。わたしべつにわかろうともしませんでしたもの。お二人が緊張して興奮していたようだったということだけは、わかっています」 「あなたはどこからお出ででした?」 「サンフランシスコです。わたくしの夫はそこでブローカーをしております。忙しくて、この旅行にいっしょに来られませんでした」 「海外旅行はこんどがはじめてですか?」 「いいえ、どういたしまして。いままで何度もしています。世界一周旅行も二度しています」 「ほお。あなた方アメリカ人はよく旅行をしますなあ。わたしはロフトン博士の旅行団のメンバーの方々に、すぐ一階の談話室に集まっていただくように、お願いしているところです。あなたもそこへいらしってくださいませんか?」 「参りますとも。すぐ行きます」  彼女は出て行った。  指紋係がやって来て、ダフに例の鞄の革紐を渡した。 「なんにもありません、警部どの。きれいに拭いてから、手袋をはめて扱ったものらしいです」  ダフはその革紐を高く持って、ロフトンに見せた。 「ロフトン博士、あなたはこの革紐を、あなたの、その、お客さんの誰かの鞄で見たことはありませんか? どうもこれが――」  ここまで彼はいって、ロフトンの顔に現われた表情に驚いて、言葉を止めた。 「おかしいですなあ」ロフトンがいった。「私はそれとそっくりな革紐を、古い鞄の一つに使っています。ニューヨークを出発する直前に買いました」 「それを持って来てくれませんか?」ダフは頼んだ。 「よろしいです」  ロフトンは出て行った。  ホテルの支配人が前に出て来た。「あの夜警の者がもう来られるかどうか、見てきましょう」  支配人も出て行ってから、ダフはヘイリーのほうを見た。 「あの引率者はなんだか関係がありそうだな」 「腕時計をはめていた」 「ぼくもそれには気がついた。ずっとはめていたものかな? それとも、プラチナの鎖をつけた時計を持っていたのかな? しかし考えられないことだ。あの男はこの事件で大損害を受ける。事業がめちゃめちゃになるかもしれない。これは彼が白だという証拠になる」 「事業を変えることを考えていたとしたら、そうもいえないな」 「うん。その場合には、心から困ったような顔をしていたのは、巧妙な仮面ということになる。それにしても、同じような革紐をもっていると、彼がいい出した理由が――」  ロフトンが戻って来た。すこし狼狽しているように見えた。 「困ったです、警部さん。私の革紐は紛失しています」 「ええっ? では、これがたぶんあなたのでしょう」  ダフは革紐を渡した。ロフトンはそれをよく見た。 「どうもそうらしいです」 「これを最後に見たのは、いつでした?」 「月曜の夜、鞄を開けたときです。私はその鞄を暗い戸棚に入れて、それ以来手を触れていません」ロフトンは訴えるようにダフを見た。「誰かが私に嫌疑を着せようとしておるのです」 「それは確かです。あなたの部屋へ、誰が入りました?」 「全部です。みんなが旅行についての質問をもって、出たり入ったりしました。しかし私の旅行団のメンバーが疑わしいというのではないです。この五日の間に、ロンドン中の人が私の部屋に入れたわけです。ご存じのように、外出のときにドアに錠をおろさないようにと、女中にいわれていますから」  ダフはうなずいた。「ご心配には及びません。あなたがすぐに持ち主がわかる革紐で人を締め殺すほど馬鹿だとは、わたしは思いません。この問題はこれまでにしましょう。そこでお聞きしたいのですが、あの部屋に泊まっているのは誰か、おわかりですか?」ダフはもう一つの側の隣室との境のドアを指さした。「29号室ですな、たしか」 「ウォルター・ハニウッド氏です。たいへんりっぱな紳士で、ニューヨークの富豪です。われわれの旅行団の一人です」 「その人が在室でしたら、ここへ来るようにいってくれませんか? そうしてから、旅行団のメンバーの方々を下へ集めてください」  ロフトンが出て行ってから、ダフは立ち上がって、ドレイクの部屋と29号室の境のドアを調べた。こちら側から、錠がおりている。 「あの革紐は癪だね。あれでロフトン博士は白ということになるな、どうも」ヘイリーが低い声で意見をいった。 「おそらくそうだろう」ダフは同意した。「もっとも、あの男が素晴しく悪賢いとしたら別だが。おれの革紐だ――だからおれがそれを使うわけはない――自分の部屋の戸棚から盗まれたもんだとね。いいさ、人間はそれほど悪賢くはない。しかしとにかく困ったことになった。これでもう、ぼくはあの先生を信頼して相談する気がしなくなったものな。事件を解決するには、あの団体に誰か信頼して話せる人間が必要だというのに――」  三十代の末の背の高い美貌の男が、廊下へ出る戸口に立っていた。 「わたしはウォルター・ハニウッドというものです。たいへんなことができましたね。ご存じでしょうが、わたしは29号室にいるものです」 「お入りください、ハニウッドさん」ダフがいった。「あなたは何が起こったか、ご承知のようですな」 「ええ。朝食のときに聞きました」 「まあ、おかけなさい」  ニューヨークの紳士はいわれたとおりにした。年のわりにはちょっと若々しいバラ色の頬をして、髪は灰色になりかかっている。今までの短い人生を激しく生きて来たような感じを与える男だ。ダフはそれでスパイサー夫人のことを思い出した。口のまわりの深い皺と、人の世のいろいろなことにぶつかって疲れたといった目の表情を。 「朝食のとき話を聞くまでは、このことを全然知らなかったのですね?」ダフが聞いた。 「少しも」 「それはおかしいですなあ」 「それはどういう意味でです?」ハニウッドの顔に、ちらっと警戒の色が浮かんだ。 「つまりです――隣の部屋にいたというのにです。叫び声も、格闘の物音も、聞かなかったのですね?」 「何も聞きません。わたしはぐっすり眠るほうですから」 「すると、殺人が起こったときには、あなたは眠っていたのですね?」 「そのとおりです」 「すると、いつ殺人があったのか、あなたは知っておられるのですね?」 「それは――そのお、いいや、知っていっこはありません。わたしはただ、眠っていたにちがいないということをいっていただけです。さもなければ、きっと何か聞こえたに――」  ダフは微笑した。「なるほど、よくわかりました。そこでと――あなたの部屋とこの部屋のドアは、いつも錠がおりていたのですね?」 「ええ、そうです」 「両側から?」 「そのとおりです」  ダフは不審そうな顔をした。「こちら側からも錠がおりていたということが、どうしてあなたにわかります?」 「どうしてって、それは、そのお、いつか、朝、この階の受持ちのボーイがあの老人を起こそうとしているのが、聞こえました。それでわたしはこのドアの錠を、自分の部屋の側からはずしたわけです。そこから老人を起こせると思って。ところが、こっち側の錠がおりていました」  ハニウッドから世慣れた人間という感じがなくなった。汗をかいて、顔は病的に灰色に変わっていた。ダフは深い興味をもって、彼を見つめた。 「あなたのお名前はどこかで聞いたような気がしますが」 「そうでしょうね。わたしはニューヨークで劇のプロデューサーをやっています。ロンドンでも、そういう仕事をちょっとやったことがあります。わたしの妻のことも、あなたはきっと聞いておられるでしょう。シビル・コンウェイといって、女優です。こちらで出演したことがあります」 「なるほど。いまあなたとごいっしょですか?」 「そうではありません。二月《ふたつき》ばかり前にちょっとした喧嘩をして、あれはわたしのところを出て、イタリアのリヴィエラのサン・レモへ行きました。いまそこにいます。この旅行はそこへ寄りますから、わたしはあれに会って、仲直りをして、世界一周旅行のそれから先のコースに、わたしといっしょに加わるように、説得するつもりです」 「なるほど」ダフはうなずいた。  ハニウッドは煙草を一本出して、ライターで火をつけようとしていた。手が激しく震えている。顔をあげたら、ダフが彼を見つめているのが、彼に見えた。 「この事件でわたしはひどいショックを受けました」彼はこう説明した。「わたしは汽船でドレイクさんと知り合いになって、あの人が好きになりました。それに、わたしは体の具合がよくないのです。それで、わたしはこの旅行に参加しました。妻が出て行ってから、神経衰弱になって、医者に旅行を勧められました」 「それはお気の毒です。しかしどうも妙ですなあ、ハニウッドさん。神経衰弱になった人が、そのお、そうよく眠れるとは」  ハニウッドはどきっとしたようだった。 「わたしは――わたしは眠れなくて困ったということはありません」 「それは結構です。わたしは一階で、旅行団の全部の方にお会いします」  ダフは改めてこのことを説明して、ハニウッドに下で待っているようにいった。彼が出て行ってから、ダフはヘイリーのほうを向いた。 「君はどう思うね?」 「とてもびくびくしているようだったね」 「あんなに参っている男を見たことない。あの男は話しているよりずっと多くのことを知っている。とてもおどおどしている。だがそんなことはなんにもならない。これは証拠にはならない。ゆっくりやるんだな、君。われわれはゆっくりやる必要がある。しかしハニウッド先生のことを忘れてはならないな。彼は殺人がいつあったか知っていた。ドアが両側から錠がおりていたことを、知っていた。彼は神経衰弱だといっている。われわれにもたしかにそう見える。それなのに、子供のようによく眠れる。たしかに、ハニウッドのことは注意している必要がある」  ケント支配人がまた入って来た。こんどはディケンズの小説の善良な主人公、ピクウィック氏にそっくりそのままという体付きの年とった使用人といっしょだった。 「これはエベンといいます。ここの夜警です」支配人は説明した。「あなたはこれの話を聞きたいでしょうな、警部さん?」 「すぐ聞きたいです」ダフは答えた。「どんな話だね、エベンさん?」 「こういうことでございます。私は毎時間、何時かっきりという時間に、ホテル中を巡回しまして、時計に回ったというパンチをいれます。昨日の夜、二時の巡回でこの階へ来ましたら、一つのドアの前に、紳士が一人立っておられるのが見えました」 「どのドアだね?」 「それがちょっとはっきりしませんのですが、27号室だったと思います」 「27。あのスパイサーという女の部屋だ。それから?」 「はあ。その方は私のことを聞きつけまして、急いで向き直られて、私が立っておりました階段の上り口のほうへ参られました。“今晩は。階をまちがったらしい。部屋は下の階だった”といわれました。紳士のような方で、お客さまのようでしたから、私はその方をそのまま通しました。その方に質問すべきだったと思いますが、このブルーム・ホテルでは妙なことがあったということがございませんので――今まではです――それで私はうっかりしておりました」 「その男の顔は見えたのだね?」 「はっきり見ましたです。廊下にあかりがついておりました。私はその方を見ましたですから、まだその方がここにおりましたら、この人だということはわかります」 「よろしい」ダフは立ち上がった。「ロフトン博士の旅行団メンバーを、いますぐあんたに見てもらいたい」 「ちょっとお待ちください。ほかにもちょっと妙なことがありましたです」 「ほお、そんなことが! それはなんだね?」 「四時の巡回のときに、この階まで参りましたら、そのときにはもうあかりはついておりませんでした。真暗でした。電球が切れたのだと、私は思いまして、自分の懐中電灯を出そうとしました。ところがポケットに手を入れたときに、誰かが横に立っているのに気がつきました。たしかにそこに誰か男が静かな闇の中で激しい息づかいをしているのを、感じました。私は懐中電灯を出して、照らしました。その男がグレイの服を着ているのが、見えましたです。そうしたらそのとき、懐中電灯が私の手から叩き落とされました。その男とそこで、階段の上り口で、つかみ合いになりました。しかし私はもう昔のようには若くございません。私はその男をつかまえようと思いまして、その男の上着のポケットを、右のポケットを、つかむことはつかみました。相手は振りもぎろうとしました。切れがちょっと破れる音がしました。そのとき私はその男になぐられて、引っくり返りました。ほんのちょっとの間ふらふらとして、気がついたときには、その男はおりませんでした」 「だがその男がグレイの服を着ていたというのは、確かなのだね? あんたがその上着の右のポケットを引き裂いたということも?」 「この二つは確かだと、誓ってもよろしゅうございます」 「そのときの相手の男が、あんたが二時の巡回で会った男と同じ人物だったとは、そのとき思わなかったかね?」 「それがよくわかりませんでして、二番目のほうが少し重そうに思いました。ですがこれは私の想像したことで、気のせいかもしれませんです、どうも」 「それからあんたはどうしたね?」 「下へ行って夜勤のポーターに話しました。いっしょにホテル中を、お客様のお邪魔にならない限り、できるだけ捜しました。誰もみつかりませんでしたです。警察にということもポーターと相談しましたのですが、ここはとても上品な有名なホテルでございますので、なによりも――」 「そのとおり」支配人が口をいれた。 「なによりも新聞種にならないことが大切だと思いました。そうできますればです。それでそのときは、それ以上のことはいたしませんでした。ですがもちろん、ケントさんが今朝お見えになったときに、二つの出来事を報告いたしました」 「あんたはブルーム・ホテルに長い間いるのだね?」ダフは聞いた。 「四十八年間でございます。十四の子供のときから勤めております」 「りっぱな履歴だ。もうよろしいから、ケントさんの部屋で待っていてください。あとでまた用があるから」 「承知いたしました」  夜警はこう答えて、出て行った。  ダフはヘイリーのほうを向いた。 「ぼくは世界周遊旅行団員に会いに、下へ行く。君に頼みたいことがあるのだが、君は署から部下を少し呼んで、ぼくが連中を下に引き止めている間に、部屋を調べてもらえないかしら? ケント氏がきっと喜んで案内役をつとめてくださるだろう」 「私はそうはいい兼ねるですな」ケントは憂欝そうにいった。「しかし、必要というのでしたら――」 「必要ですなあ。ちぎれた時計鎖、ポケットが破れたグレイの上着――君がそれにうまくぶつかることはおそらくあるまい、ヘイリー君。だがもちろん何一つ見のがすというわけにはいかない」それからダフはまだ現場にいる指紋係と写真係のほうを向いた。「もうすんだかね?」 「だいたいすみました」指紋係が答えた。 「ここでぼくを待っていてくれたまえ、二人とも。それからごたごたしたものを片づけて」  ダフは命令を下してから、ヘイリーとケントといっしょに廊下へ出た。そこで彼は足を止めて、まわりを見回した。 「この廊下には部屋は四つしかありませんね。27号、28号、29号の三つは、スパイサー夫人と、ドレイク氏と、それからハニウッドの部屋です。30号室――あと一つ残っている部屋ですが、これは誰の部屋です? ハニウッドの部屋の隣の部屋は?」 「パトリック・テイトという人の部屋です」ケントは答えた。「やはりロフトン旅行団のメンバーです。六十くらいの男の方で、非常にりっぱに見える方です――アメリカ人としてはですが。たしかアメリカで有名な刑事弁護士です。気の毒に心臓が悪くて、そのために旅行のお供が付き添っています。二十代のはじめの青年が。しかしテイト氏には下で会えますよ、きっと――それから付添いの人にも」  ダフは一人で一階へ行った。ロフトン博士はドアの一つの前で、心配そうに歩き回っている。そのドアの中は、色のさめた赤いフラシ天張りの華やかな部屋で、そこに待っている人たちの小さなグループが、ダフにちらっと見えた。 「ああ、警部さん」ロフトンが挨拶した。「全部のメンバーはまだ集められていません。五、六人まだどこにいるのかわかりません。しかしもう十時に近いですから、すぐ戻るでしょう。いま、一人見えました」  堂々とした威厳のある男が、クラージェス・ストリートの入口から、廊下へ入って来た。雪のように白い豊かな乱髪で、実にりっぱに見える――アメリカ人としてはだ。  ロフトンがいった。「テイトさん、こちらはロンドン警視庁のダフ警部です」  老人は手を差し出した。「はじめまして」太い鳴り渡るような声でいった。「妙なことを聞きましたが、殺人ですって? 信じられませんなあ。全く信じられんです。誰が――お差しつかえなければ聞きたいですが――誰が死んだのですか?」 「まあお入りください、テイトさん」ダフは答えた。「詳しいことをすぐお話しします。まことに痛ましいことで――」 「全くそうです」  テイトは向き直って、しっかりした足取りで、談話室の敷居をまたいだ。ちょっとの間、彼は立ったまま、部屋の中のグループを見渡していた。それから息がつまったような小さな叫び声をあげて、前にばったりのめって、床に倒れた。  ダフが最初にそばに駆けつけた。老人をあお向けにして、これはと思って顔を眺めた。その顔は28号室の死人の顔のように生気がなかった。 [#5字下げ]4 ダフ、手がかりを見のがす[#「4 ダフ、手がかりを見のがす」は中見出し]  つぎの瞬間には、一人の青年がダフのそばへ来ていた。好男子のアメリカ人で、率直そうな灰色の目をしているが、その目にちょっとどきっとしたような表情が浮かんでいた。瓶から、小さな真珠のような物を出して、ハンカチでそれを押しつぶして、そのハンカチをパトリック・テイトの鼻の下に突きつけた。 「硝酸アルミです」青年はダフを見上げて、説明した。「これですぐ正気づくだろうと思います。テイトさんから、こういう発作が起こった場合にはこうしろと、いわれています」 「なるほど。あなたがテイトさんの旅行のお連れですね?」 「そうです。ぼくはマーク・ケナウェイといいます。テイトさんはよくこういうことがあるもので、それでぼくに給料を払って、いっしょに連れて来ているわけです」  間もなく、床に倒れている老人は身動きして、目を開けた。苦しそうに息をして、顔色はその銀髪よりもっと白くなっている。  部屋の奥に別のドアがあるのに、ダフは気がついていた。そこへ行ってみたら、もっと小さな談話室に続いていて、そこの家具のなかに、大きなゆったりした寝椅子があった。 「ここへ連れて来るほうがいいです。ケナウェイさん。まだ上へあがるにはふらふらし過ぎています」  ダフはこれだけいって、老人を抱えて、寝椅子へ運んだ。 「あなたはこの方といっしょにここにいてください。あなた方お二人との話は少し後にします」  ダフはもとの談話室に戻って、境のドアを閉めた。  ちょっとの間、彼は立ったまま、ブルーム・ホテルのこのいちばん大きな談話室を見渡していた。赤いフラシ天と胡桃《くるみ》材をたくさん使うというのが、この部屋の最初の装飾家のスキームであり、何年かあとの今でも、それはそのまま残っている。書棚には数冊の埃をかぶった本が入っており、テーブルには地方の新聞が積み重ねてあり、一つの壁にはスポーツの版画が何枚かかけてある。かつて白かった版画のマットは、年を経て黄色くなっている。  きわめて近代的な人たちのグループが、いまこの古ぼけた部屋にかけて、ダフ警部を見つめている。その視線は真剣というか、ダフにはむしろ不安げに思われた。外では太陽がやっと霧を破って現われて、強い光線がいくつにも区切った窓ガラスから射し込んで、人々の顔を照らしている。この顔がこれから長い間、ダフの大きな関心の対象となるのだ。  ダフはロフトンのほうを向いた。「一行の方で、ここにまだ見えない人がありますね?」 「ええ――五人です。奥の部屋の二人は別にしまして。それからもちろん、ポッター夫人もです」 「かまわんです」ダフは肩をすぼめた。「このまま始めましょう」  彼は小さなテーブルを部屋の中央へもって行って、そのそばに腰をおろして、手帳を取り出した。 「ここにおいでの皆さんは、何が起こったのかご存じのことと思います。昨夜28号室でドレイク氏が殺されたことをです」誰も黙っているので、ダフは話しつづけた。「失礼ですが、自己紹介をさせていただきます。わたしはロンドン警視庁のダフ警部というものです。第一に申しておきたいですが、ここにおられる全部の方と、旅行団のなかのメンバーの方の全部は、警視庁当局の許可があるまで、このブルーム・ホテルにいっしょに残っていただかなければなりません」  金縁の眼鏡をかけた小さな男が飛び上がった。「まあ、聞いてください」とかん高い声で叫んだ。「わたしはいますぐこの旅行団から脱退を申し出ます。わたしは殺人事件に巻き込まれるのは、ごめんです。わたしのいるマサチューセッツ州のピッツフィールドでは――」 「なるほど」ダフは冷たくいった。「助かりました。わたしはどなたから始めていいかわからなくて、困っていたところです。あなたから始めます」こういって、彼は万年筆を出した。「あなたのお名前は?」 「ノーマン・フェンウィックです」この名字を、その男はフェニックと発音した。 「名字の綴りをいってくれませんか?」 「F―e―n―w―i―c―kです。英国の名前ですよ」 「あなたは英国人ですか?」 「英国人の子孫です。先祖は1650年にマサチューセッツへ来ました。独立戦争に際しては、全員が祖国に忠誠を尽くしたものです」  ダフは苦笑した。「それは昔のことです。この事件には関係ありません」彼はしきりに英国人の機嫌をとろうとしているらしいこの小男を、やや冷たい目で見つめた。「あなたは一人で旅行しておいでですか?」 「いいえ、違います。妹がいっしょです」その男は、魅力のない灰色の髪の女を指さした。「ミス・ローラ・フェンウィックといいます」  ダフはその名前を書きつけた。 「そこでお尋ねしますが、あなた方のどちらでも、昨夜の事件について何かご存じですか?」  兄のほうが怒った。「いったいそれはどういう意味でです?」 「まあそういわんでください。わたしはここへ仕事をしに来ているので、時間を潰していられません。あなたは事件に関係がありそうなことを、何か見たり、聞いたり、或いは感じたということはありませんか?」 「何もありません。妹も同じです」 「あなたはけさホテルを出ましたか? 出ましたね? どこへ行きました?」 「ウェスト・エンドを散歩して来ました。ロンドンの見おさめに。わたしたちは二人ともこの都会が好きです。それは当然です、なにしろ先祖が英国の出ですから――」 「それはわかっています。さて、つぎの方に――」 「ちょっと待ってください、警部さん。わたしたちはこの団体をすぐ離れたいのです。すぐにです。殺人事件なんかに関係するのは――」 「こうしてくださいということはいってあります。それは動かせません」 「ではいいです。わたしはアメリカ大使に会います。大使は伯父の古い友人で――」 「どうか会ってください」とダフはいい放った。「つぎの方は? パメラさん、あなたとは話しました。それからスパイサー夫人――あなたにももうお会いしました。あなたのお隣の紳士の方は――」  その男は自分で名乗り出た。「カリフォルニア州のデル・モンテのステュアート・ヴィヴィアンです」すっかり日に焼けた、体の締まった男で、額の右側に深い傷痕さえなかったら、美男子といえる。「わたしはいいたいですが、フェンウィックさんのいうのはもっともです。この事件でわれわれが足止めを食わされるなんて、そんな理由はありません。わたし自身のことをいえば、わたしは殺された人のことは全然知りません。話しかけたこともありません。ここにいるほかの人たちのことも、わたしは知りません」 「一人を除いてですね」ダフは念を押した。 「ええ――そのお――そうです。一人を除いてです」 「あなたは昨夜、スパイサー夫人を劇場へ連れて行きましたね?」 「行きました。わたしたちはこの旅行に加わる前からの知り合いです」 「いっしょにこの旅行を計画したのですね?」 「とんでもございません」女のほうがかっとした。 「すこし質問の度が過ぎていませんか?」ヴィヴィアンが怒って声を大きくした。「全くの偶然です。わたしはスパイサーさんには一年も会っていません。ニューヨークまで来て、スパイサーさんが同じ旅行団のメンバーにいるのを知って、びっくりしました。親しくしていたからといって、すこしも不思議はありません」 「ごもっともです」ダフは愛想よくいった。「ドレイク氏が殺されたことについては、あなたは何も知りませんですね?」 「知っているわけがありません」 「あなたはけさ、ホテルを出ましたか?」 「出ました。散歩しました――バーリントン・アーケードでシャツを買いたいと思って」 「ほかの買物は?」 「しません」 「あなたのお仕事はなんです、ヴィヴィアンさん?」 「別にありません。ときどきポロ競技に出ます」 「その傷はそれでなすったのですね、そうすると?」 「そうです。数年前に馬からひどく落ちて」  ダフはみんなを見回した。 「ハニウッドさん、あなたにもう一つだけお尋ねしたいことがあります」  口から煙草を離したハニウッドの手は震えていた。 「なんですか、警部さん?」 「あなたはけさ、ホテルを出ましたか?」 「いいや。わたしは――わたしは出ませんでした。朝食のあとは、ここへ来て、ニューヨーク・トリビューンの古い号を見ていました」 「ありがとう。そのお隣の紳士の方は?」  ダフは、長い鷲鼻《わしばな》と異様なほど小さな目をした中年の男に、視線を移した。ちゃんとした身なりをして、すっかり落ち着いてはいるが、ここに集まっている人々にふさわしくないといった感じがする男だ。 「ロナルド・キーン大尉です」その男はいった。 「軍人ですね?」ダフは聞いた。 「それが――その――そうです――」 「軍人さんですわ」パメラ・ポッターが口を出した。彼女はダフをちらっと見た。「キーン大尉のお話ですと、英国の陸軍にいたことがおありで、インドと南亜で勤務なすったそうです」  ダフは大尉のほうを向いた。「そうですか?」 「それは――」キーンはためらった。「いいや、そういうわけじゃないです。あたしはそのお――ちょっと作り話をしたわけです。つまり、その、汽船の上で、その、美しい女性に――」 「わかります」ダフはうなずいた。「そういう場合には、たとえ事実でなくても、何か印象づけようとするものです。よくあることです。あなたはどこかの陸軍にいたことがおありですか、キーン大尉?」  またキーンはためらった。しかし、どうせダフには記録をとって調べることができるのだから、この問題でこれ以上嘘をつくことは不利だった。 「ちがいます。あたしは、ええ、この称号は実は名誉的なものです。これは、ええ、べつになんでもありません」 「あなたのお仕事はなんです」 「いまは何もしていません。前は――エンジニアでした」 「どうしてこの旅行に加わりました?」 「どうしてって――観光目的です、もちろん」 「それはお楽しみですなあ。昨夜の事件について、あなたは何を知っています?」 「全然知らんです」 「あなたもけさ、散歩に出られたことでしょうな?」 「ええ、行きました。アメリカン・エクスプレス旅行社の事務所で旅行小切手をかえました」 「ノウマッド旅行社の旅行小切手以外はもてないことになっていたはずです」ロフトンが職業意識に駆られて、口をいれた。 「ほかの旅行小切手も少しもって来たです。いかんという法律でもあるんですか?」キーンは答えた。 「この問題はわれわれの契約にはっきりと――」  ロフトンがこういい出したが、ダフがそれをさえぎった。 「あとはその隅の紳士の方だけです」  ダフはツイードの服を着た、背の高い男に向かってうなずいた。頑丈なステッキを持って、棒のように突っぱった片脚を前に出している。 「お名前は?」 「ジョン・ロスです。ワシントン州のタコマで、木材業をやっています。何年もこの旅行に来たい来たいと思っとったですが、こういうことになるとは夢にも思わなかったです。わたしの経歴には秘密は少しもありません、警部さん。聞いてくだされば、なんでも喜んでお話しします」 「スコットランドの方ですね、どうも?」ダフは聞いてみた。 「まだ発音に訛が残っていますかね?」ロスは微笑した。「そんなわけはないんですがなあ――もう何年もアメリカにおるんですから。あんたはわたしの足を見ていますね。皆さんが傷痕のことも内緒なことも話しておいでだから、わたしも話しましょう。数カ月前にアメリカ杉の切り出しに行ったときに、切り倒した木が右脚の上に落ちましてね。馬鹿なことをしたものです。骨をいくつも折って、つながり方が悪かったもので」 「それはお気の毒です。この殺人事件について、何かご存じですか?」 「なんにも知りません。お役に立てんでどうも。いい人でしたよ、ドレイクさんという人は。わたしは船の中で、あの人とかなり親しくなったです。あの人もわたしもどっちかというと大食いでして。わたしはあの人がとても好きでした」 「あなたもたぶん――」  ロスはうなずいた。「ええ、わたしはけさ散歩に出ました。霧や何か見に。面白い都会ですなあ。ここじゃなくて、太平洋岸にあればいいのに」 「われわれは太平洋岸をここへもって来たいです。ことに気候を」  ロスは興味をみせて、体を起こした。「あんたはあそこにいたことがあるんですね、警部さん?」 「ほんのわずかです――数年前に」 「わたしたちのことを、どう思いました?」  ダフは笑って、頭を振った。「その話は別の時にしましょう。いまはもっと差し迫った問題がありますから」  ダフは立ち上がって、「皆さん、ちょっとここで待っていてください」といい足して、出て行った。  フェンウィックがロフトンのそばへ行って、「さあ、わたしたちの旅行費用を返してください」と、厚い眼鏡越しに目を光らせていった。 「なんでそんなことを?」ロフトンは愛想よく聞いた。 「こんなことがあっても、旅行をつづけるつもりですか?」 「旅行はつづけます。あなたがつづけると否とは、あなたの自由です。私は何年間もこうした旅行をやって来ていますが、私の旅行団のメンバーの方がなくなったというのは、はじめてのことではありません。この場合、それがたまたま殺人であったにせよ、旅行計画は少しも変更しません。しばらくはロンドンに引き止められるでしょうが、それは神のしたことというものなのです。私との契約書をお読みになってください、フェンウィックさん。神のしたことに、責任は負いません。私は予定のコースに従って、この旅行団に世界周遊をさせます。あなたがお抜けになっても、会費の返却はいたしません」 「それはひどい」フェンウィックは大きな声を出した。それからほかの人たちのほうを向いた。 「皆さん、いっしょにやりましょう。大使館へ問題を持ちこみましょう」  だが誰も彼の気分に同調しそうに見えなかった。  ダフが戻って来た。夜警のエベンがいっしょに来た。 「皆さん」ダフは呼びかけた。「わたしはこの人に、あなた方を見て、昨夜の二時に部屋のありかをちょっと取り違えたらしい方がどなただったか、それがわかるかどうか見てくれと、頼みました。その人というのは、実をいいますと、殺人のあった階をうろついていた人です」  ダフはエベンのほうを向いた。エベンはこわい顔をして、この古風な談話室にいる男たちの顔を検討している。ロフトンをじっと眺め、それからハニウッドに、木材業のロスに、ポロの選手のヴィヴィアンにと、視線を移した。フェンウィックのぽかんとした顔はちらっと見ただけだった。 「この方です」エベンはロナルド・キーン大尉を指さして、きっぱりいった。  キーンは立ち上がった。「なにをいうんだ?」 「あたしが二時の巡回のときに会ったのは、あなただっていってるんです。あなたはあの階に間違って入った、自分の部屋の階だと思ったと、おっしゃいましたよ」 「そうなのですか?」ダフは厳しい口調で聞いた。 「それは――」キーンは不安そうにまわりを見回した。「それは――そのとおりです。あたしはあの階にいました。それというのは、眠れなくて、読む本がほしかったもので」 「どうも古い文句ですな、その読む本がほしかったというのは」ダフは注意した。 「それはわかってます」キーンは急に元気を取り戻して答えた。「だがそういうことは時々ありますよ――つまり、知識階級には。テイトさんが本をたくさんもっているのは、あたしは知ってました。あの青年が夜遅くまで読んで聞かせてますから。汽船にいるときに、あたしにはそれはわかっていました。テイトさんが三階にいるということも、あたしは知ってました。部屋の番号はよく知らなかったが。三階へ上がって行って、あっちこっちのドアの外で聞いていて、誰か読んでいる声が聞こえたら、入って行って何か借りようと、こう思ったわけです。ところがです、何も聞こえなかったので、もう時間が遅すぎたと気がつきましてね。この夜警の人に会ったときには、あたしは下の階へ帰る途中でした」 「あなたの部屋のあるところを間違えたといったのは、どうしてです?」ダフは突っ込んだ。 「それはです。本の必要があったということを使用人に話しても、とてもわかるまいと思ってです。本気にしますまい。最初に思いついたことをいっただけです」 「本を読むのが癖になっているようですな」  ダフはこういって、ちょっとの間じっと立って、キーンを見つめていた。下品な顔だ。なぜか知らないが、どうしても好きになれない顔だ。だがしかし、この説明は一応もっともだということは、認めないわけにはいかない。しかし彼はこの男を監視している決心をした。油断のない、食えない男だ。これのいうことは信用できない。 「わかりました」ダフはいった。「ありがとう、エベンさん。もう帰ってよろしい」  彼はまだ上の部屋を捜しているヘイリーのことを考えた。 「あなた方はわたしがいいというまで、全部ここに残っていてください」といい足して、抗議の合唱を無視して、彼は活発に足を運んで、小さいほうの談話室へ入った。  入って、境のドアを閉めてから見たら、テイトは寝椅子にきちんとかけて、手に飲物のグラスを持っていた。ケナウェイは心配そうにうろうろしていた。 「やあ、ケイトさん。よくなられて、安心しました」  老人はうなずいた。「なんでもないです。なんでもありません」響き渡る声が今は弱々しいつぶやき声になっている。「わたしはこういう発作の癖があって――それでこの青年にいっしょに来てもらっているのです。きっとわたしの面倒をよくみてくれることでしょう。ちょっと興奮し過ぎたんですな、おそらく。殺人事件だなんて。そんなこと夢にも思っていませんでした」 「それはそうでしょうとも」ダフはその言葉を受け入れて、腰をおろした。「もうすっかりよくなられたのでしたら――」 「ちょっと待ってください」テイトは片手を挙げた。「教えていただきたいことがあるのですが。誰が殺されたのか、わたしはまだ聞いておらんのです、ダフさん」  ダフは探るように老人を見た。「大丈夫ですか? それをお話ししてまた――」 「そんなことはありません。誰だろうと、わたしには同じことです。誰にこの悲劇が起こったのです?」 「ヒュー・モリス・ドレイクさんです、デトロイトの」  テイトは顔を下げて、ちょっとの間黙っていたが、それから、「わたしはあの人のことは、ごくわずかにですが、何年も前から知っています。一点の汚れもない経歴の人で、非常に人道主義的な人でした。誰にせよ、この人を殺そうなどと思う理由はありますまい。あなたは興味深い問題に当面しましたな、警部さん」 「同時に困難な問題です。すこしあなたとこの問題を検討したいと思います。あなたの部屋はたしか30号で、この不幸な事件が起こった部屋の近くでしたね。で、あなたがお休みになったのは、何時でした?」  テイトは青年のほうを見た。「十二時ごろだったな、ケナウェイ君?」  ケナウェイはうなずいた。「あるいは数分過ぎていたかもしれません。こういうわけです、警部さん。ぼくは毎晩、テイトさんの部屋へ行って、本を読んで寝かせつけます。きのうの夜は十時に読み出して、十二時数分過ぎには、テイトさんはぐっすり眠っていました。それでぼくはこっそり出て、二階の自分の部屋へ行きました」 「読むのはどういうものです、主として」ダフは興味を感じて聞いた。 「推理小説です」こういって、ケナウェイは微笑した。 「心臓の悪い人にですか? 興奮しては――」 「ばかな」テイトが口を入れた。「推理小説で興奮などはせんです。わたしはアメリカで何年も刑事弁護士をしていて、殺人という言葉などに――」  テイトは突然口をつぐんだ。  ダフは静かに促した。「あなたがいおうとされたのは、あなたに関するかぎり、殺人は興奮するような問題ではないということでしょう」 「そうだとしたら、それがどうなのです?」テイトの聞き方にはなんだか力がこもっていた。  ダフはつづけた。「ただわたしが不思議に思ったのは、あなたがなぜこの殺人にかぎって、さっきあのような激しい発作を起こしたのかということです」 「それは、その――実際に殺人にぶつかるというのは、本で殺人のことを読むのとはまるで違うです。法廷で殺人について論じるのとさえ違います」 「ごもっとも」ダフは同意した。  ダフは黙って、指で自分の椅子の腕を叩いていた。突然、彼は向き直って、機関銃のようなスピードと的確さで、老弁護士に質問の火花を切った。 「あなたは昨夜あの三階にいて、何も聞かなかったのですね?」 「全然何も」 「叫び声も? 助けを呼ぶ声も?」 「全然何も聞かなかったと申したとおりです」 「ひどい目にあっている老人の悲鳴も?」 「いまいったとおり――」 「わたしに聞かせてください、テイトさん。わたしがあなたに談話室の前で会ったときには、あなたは元気そうでした。あなたは殺人があったという噂は聞いておられたが、誰が殺されたのかは知りませんでした。あなたが談話室へ入るときの足取りは、しっかりしたものでした。中へ入って、みんなの顔を見渡して、そのつぎの瞬間には、あなたは床に倒れていました。まるで死ぬかと思われたような発作で――」 「発作はああいうふうに起こり――」 「そうですか? それともあなたはあの部屋で誰かを見て――」 「そんなことはない! ちがいます!」 「誰かの顔を――」 「ちがうといってます!」  老人は目をぎらぎらさせ、グラスを持った手が震えている。ケナウェイが前に出た。 「警部さん、失礼ですが」と彼は低い声でいった。「あなたは少しやり過ぎています。この方は病人で――」 「わかってます」ダフは穏やかに認めた。「すみません。わたしが悪かった。あやまります。それを忘れていたもので――しなければならない仕事があるので、それで忘れていました」  ダフは立ち上がって、いい足した。「しかしです、テイトさん。あなたはけさ、談話室の戸口に立ったときに、何かびっくりすることがあったのだと、わたしは思います。それがなんだか、わたしは発見するつもりです」 「どうにでも好きなように思うのは、あなたの自由です」とテイトは答えた。  ダフは部屋から出ながら、ヴィクトリア時代風の寝椅子にかけて、血の気のない顔をして苦しそうな息をしながら、ロンドン警視庁をばかにしている、この高名な刑事弁護士の姿を思い浮かべていた。  ヘイリーはロビーで待っていた。 「旅行団のメンバー全部の部屋を調べた。時計の鎖のちぎれたのはない。ポケットが破れたグレイの上着もない。何もない」こう彼は報告した。 「ないにきまっている。ほとんど全部の男は、けさ外出している。そういう証拠をもって出たのは、当然だ」ダフは答えた。  ヘイリーはつづけた。「ぼくはヴァイン・ストリート署の自分の仕事にどうしても戻らなければならない。あんたはここをすませたら、寄ってくれるだろうね?」  ダフはうなずいた。「行きたまえ。さっき、街のオーケストラがやっていたのがあったね? “長い長い曲がりくねった小路"だ。そのとおりだ。ヘイリー君。癪だが、そのとおりだ」 「ぼくもそうだろうと心配している。また署で会おう」  向き直ったダフの顔から、心配そうなしかめっ面の表情が消えた。パメラ・ポッターが談話室の戸口から手招きしていた。彼はすぐ彼女のそばへ行った。 「わたくし、あなたがいま母にお会いになりたいかどうかと思いまして。なんとかして差し上げられますわ」 「それはありがたいです。すぐごいっしょに上へ行きましょう」  ダフは談話室に入って、いまのところブルーム・ホテルから立ち去ってはならないということを念を押してから、集まっている人を解散させた。そしてロフトンに、「あとで、あなたの旅行団のあとの五人の人に会わせてください」といった。 「もちろんです。その人たちが帰って来たら、すぐ知らせます」  ロフトンは承知して、ロビーを下って行った。フェンウィックがすぐ後ろについて、まだしきりに論じ立てていた。  パメラ・ポッターとその母親が泊まっている続き部屋のドアの前で、パメラが中に入って行った間、ダフは待っていた。ドアの奥ではしばらく議論する声が聞こえていたが、やがて娘のほうが出て来て、彼を入れた。  彼が入った居間のシェイドは全部おろしてある。薄暗いのにだんだん目が慣れて、いちばん暗い隅の低い寝椅子にいる女の姿が、彼に見えた。彼はそこに近よった。 「この方がダフ警部さんです、お母さん」パメラがいった。 「おや、そう」その女はかすかな声で答えた。 「奥さん」ダフはなんとなく落ち着かない気持で呼びかけた。「お騒がせして、まことにすみませんです。しかしやむをえないことでして」 「そうでしょうとも。まあ、おかけください。カーテンをおろしたままで、ごめんあそばせ。あんな恐ろしいショックを受けましたもので、見苦しいところをお目にかけたくないと思いまして」 「お嬢さんとはもうお話をしました」ダフは椅子を寝椅子に、このくらいまでならいいだろうと思うだけ近よせた。「ですから、すぐお暇します。この事件につきまして、何かわたしに話せるということがおありでしたら、どうかそれをおっしゃってください。過去のことについては、あなたのほうがお嬢さんより、多少でもよけいに知っていらっしゃるのにきまっております。あなたのお父上には敵がありましたですか?」 「かわいそうに、父は――。パメラ、かぎ薬をちょうだい」パメラが緑色の瓶を出した。「父は聖人でした――あのお――お名前はなんとおっしゃったかしら、パメラ?」 「ダフさんです、お母さん」 「この世の中に聖人というものがあるとしたら、父がそれでした。世界中に敵など一人もおりませんでした。本当に、父に敵などというそんなばかなことを、わたくしいままで聞いたことございません」 「しかし、ばかなこととはいいきれませんよ、奥さん。それを発見するのが、われわれの役目です。お父上の過去に何か――」  ダフは言葉を切って、ポケットからセーム皮の袋を出して、「カーテンをすこし上げてはいけないでしょうか?」と娘にいった。 「よろしいですとも」彼女はこう答えて、カーテンを上げた。 「あたしきっとひどい顔をしているわよ」と母が抗議した。  ダフはその袋をかざした。 「ごらんください。奥さん。われわれはこれを、ベッドのお父上の横で発見しました」 「それいったいなんですの?」 「ただの小さな袋です、セーム皮でできている――シャモアともいいます」ダフは中身をいくつか、片手の手のひらにあけた。「中には百以上の小石がいっぱい入っていました。これに、何か心あたりはありませんですか?」 「全然ございません。あなたには何かございますか?」 「ありませんです、残念ながら。しかしお考えになってみてください。奥さん、たとえばです、お父上は鉱山に関係していたことはありませんでしたか?」 「たとえありましたとしても、わたくしは聞いたことございません」 「こんな小石が自動車業に関係あるということは、あり得ないでしょうな?」 「あるわけがございません。パメラ――この――枕が――」 「わたしが直しますわ、お母さん」  ダフは吐息をついて、袋をポケットに戻した。 「あなたは汽船の上で、旅行団のほかのメンバーの人とは交際なさらなかったですね?」 「わたくし、自分の船室から一度も出ませんでした。このパメラはしじゅう歩き回っておりましたですけれど。わたくしについていなければならないのに、いろんな方とおしゃべりばかりしていて」  ダフは鍵がついたままの時計の鎖のちぎれたのを出して、パメラに渡した。 「あなたは話をした人の誰かがその鎖を持っていたのに、おそらく気はつかなかったでしょうな?」  彼女はそれを調べて、頭を振った。 「いいえ、男の方の時計の鎖なんか見ている人はいませんわ」 「その鍵にも心あたりはありませんね?」 「少しもありません。お気の毒ですけれど」 「それをお母さんに見せてあげてください。その鍵か鎖を前に見たことはありませんですか、奥さん?」  女は肩をすぼめた。「いいえ、ございません。世間に鍵はいくらでもございます。こんなことをしていて、手がかりはつきませんですわ」  ダフは証拠品をポケットに戻して、立ち上がった。 「これでもう結構です」 「あの出来事は全くわけがわかりません、本当に」女のいい方は苦情をいうようだった。「全然考えられないことです。あなたが真相をつきとめてくださればいいと思いますけれど、それはできないでございますでしょうねえ」 「やってみます、とにかく」ダフは彼女に約束した。  彼は、虚栄心の強いひどく浅薄な女に会ったものだと思いながら、部屋から出た。娘が廊下まで彼を送って来た。 「あなたに母をお目にかけるほうがよかろうと、わたくし思いましたの。そうすれば、わたくしが一家のスポークスマンをやっているというわけが、おわかりになるでしょうから。一家のことを引き受けているとおっしゃっても、よろしいですわ。母はかわいそうに、ずっと体が弱いものでして」 「わかりました。もうお母さんを煩わさないようにします。あなたといっしょにやりましょう、お嬢さん」 「おじいさんのために」彼女は重々しくうなずいた。  ダフは28号室に戻った。彼の二人の助手は道具をもうしまって、待っていた。 「全部すみました」指紋係がいった。「ですが、ほとんど得るところはなかったようです。しかし、これがちょっとおかしいと思いますが」  指紋係はダフに、被害者の補聴器を渡した。  ダフはそれを受け取った。 「これがどうしたね?」 「指紋が一つもついていません。ベッドの上の被害者の指紋さえありません。きれいに拭きとってあります」  ダフは補聴器を見つめた。 「きれいに拭きとってあるって、ええ? そうすると、こういうことも考えられる。もしあの老人が補聴器をもって、ホテルのどこかよそのところにいたとすると――そこで殺されて、ここへ運ばれたとすると――それで補聴器もいっしょにもって来られたとすると――」 「どうもあなたのおっしゃることは納得いきませんです」助手はこういった。  ダフは微笑した。「ぼくは考えていたことを、声に出していっていただけだ。行こう、諸君。もう出かけなければならん」  彼は補聴器をテーブルの上に戻した。  彼はそのときはそうとは思わなかったのだが、いま謎《なぞ》への鍵を握ったのだった。ヒュー・モリス・ドレイクがブルーム・ホテルで殺されたのは、つんぼであったためであった。 [#改ページ] [#2字下げ]※[#ローマ数字2、1-13-22][#「※[#ローマ数字2、1-13-22]]」は大見出し] [#5字下げ]5 グリル・モニコでの昼食[#「5 グリル・モニコでの昼食」は中見出し]  一階に降りてから、ダフは二人の助手に、仕事の結果をもってすぐ警視庁に帰って、それから運転手にその緑の車で引き返させて、彼がブルーム・ホテルを出るまで待たせておくようにと、命令した。それから廊下をいくつも回り歩いて、やがてロフトン博士に行き会った。ロフトンはまだ落ち着かない不安そうな態度だった。 「旅行団のあとの五人のメンバーは帰ってきました」ロフトンはいった。「さっきの談話室に待たせてあります。すぐ会ってくださらんですか? そわそわしているようですから」 「すぐ会います」ダフは愛想よく返事して、ロフトンといっしょに、さっきの部屋へ入った。 「皆さんは何が起こったか、ご存じですね」ロフトンがいった。「こちらはロンドン警視庁のダフ警部です。皆さんとお話をしたいそうです。警部さん、エルマー・ベンバウご夫妻と、マックス・ミンチンご夫妻と、ラティマー・リュース夫人です」  ダフはじっと立ったまま、この奇妙な取り合わせのグループを眺めていた。おかしな連中だなあ、アメリカ人というものはと、彼は思った。あらゆるタイプ、あらゆる民族、あらゆる社会階級の人たちが、いっしょに平和に仲よく旅行しているようにみえる。なるほど、アメリカはいろんな人間の坩堝《るつぼ》だ。  彼が手帳を出そうとしていたら、エルマー・ベンバウという男が急いでそばへ来て、熱心に彼の手を握りしめた。 「お会いして嬉しいです、警部さん」ベンバウは大きな声でいった。「ほれ、これでアクロンに帰ったときの話の種ができるですよ。殺人事件に巻き込まれたとか、ロンドン警視庁だとかなんだとか――わたしがイギリスの推理小説で読んでいたことそのままですからな。わたしは推理小説をたくさん読みましてね。家内はそんなもの精神修養にならんといいますが。だが、わたしは毎晩工場から戻って来ますと、すっかりへとへとで、固苦しいものはまっぴらごめんで――」 「ほう、それは」ダフは相手の言葉をさえぎった。「ですが、ちょっと待ってください、ベンバウさん」  ベンバウは待った。雄弁の流れが一瞬阻止された。ぼちゃっと太った、気のよさそうな男だ。英国人がこれが典型的なアメリカ人だと思いたがる、ナイーヴな気取らない種類の人間だ。片手に、ムービー・カメラをさげている。 「いま、あなたが帰ったらといわれたところは、なんといいましたかな?」ダフは聞いた。 「アクロンです。アクロンというのは、聞いたことおありでしょうが。アクロンです、オハイオ州の」 「いまはじめて聞きました」ダフは微笑した。「観光旅行ですね?」 「そうですとも。何年もその話をしていたものですよ。仕事がこの冬はひまでしてね、わたしの共同経営者がわたしにこういったもんですよ。“エルマー、お前さんの古い金箱の底を洗いざらい探って、五年間もうるさく行きたい行きたいっていってた世界一周旅行に行ったらどうだ? あの株のガラのあとで、まだ金箱に何か残っていたらだ”とぬかしましたよ。ところが、たくさん残ってました。わたしは思惑はやらんですからね。安全ないい投資――これがわたしのモットーですよ。わたしは金を使うのはなんとも思わなかったです。経済の基調は健全で、そのうち好転するだろうと、わかっていますからね。わたしたちがアクロンに帰る時分には、景気は平生に戻ってますよ。なにしろ、ハーディング大統領もオハイオ州の出身だし。再割引率をみたって――」  ダフは時計に目をやった。「ベンバウさん、あなたにここへ来ていただいたのは、28号室のあの不幸な事件について、何か参考になることをうかがえはしまいかと思ってですが」 「不幸なとは、まさにそうです。あんたのおっしゃるとおりですよ。あんないい老人はおらんですよ。アメリカのえらい人の一人で、すばらしい大金持で、それを誰かが殺すなんて。わたしはあんたにいいますが、こんなことはアメリカの制度に対する侮辱で――」 「あなたは事件については、何も知らないのですね?」 「わたしがやったのではないです、そういう意味のお尋ねでしたら。わたしたちのおるアクロンはタイヤの大きな産地ですから、いちばんのお得意を、自動車のメーカーを、殺してなんかいられませんよ。とんでもない。ネッティーにもわたしにも、この事件はてんでわけがわかりません。ネッティーというのは、この家内です」  ダフはベンバウ夫人に向かって頭を下げた。きれいな、いい身なりの女で、工場で用はないから、人世のよきことのために、夫よりももっと時間があるらしい。 「はじめまして」ダフは挨拶した。「あなた方はけさロンドンを散歩されたですね?」  ベンバウはカメラを上げた。「もう少し写しておきたいと思いましてね。しかしほれ、ひどい霧で。いくつちゃんと写っているか、わからんですよ。これがわたしの道楽でして、全く。この旅行から帰ったら、何力月もわたしの家のブリッジなんかばかばかしくてやっていられないくらい、映画ができてますよ。そうなりゃ、わたしは嬉しいです」 「すると、あなたは今朝はずっと映画をとっていたのですね?」 「そうですとも。少し前に太陽が出ましてね、それからわたしはもう夢中でした。家内が“あんた、汽車に遅れますよ”といったもので、それでやっとやめましてね。とにかく、その頃にはフィルムが終わってました」  ダフはじっと手帳を検討していた。 「このアクロンというのは、――」彼はこういいかけて、手帳のページをくった。「そこはオハイオ州のカントンという都会の近くですか?」 「ほんの数マイルしか離れていません。マッキンリー大統領はカントンの出身ですよ。大統領の母国――わたしたちはオハイオ州をこういってますよ」 「ほほお」ダフは呟いた。  それから彼はラティマー・リュース夫人のほうを向いた。鋭い目をした、年の見当のつかない老婦人で、態度には教養がある。 「リュースさん、あなたにはこの殺人事件について、なにかわたしに話すことがおありでしょうか?」 「お気の毒ですが、何もお話しすることはありません」低い、感じのいい声。「わたしは一生の大部分を旅行し歩いていましたが、こんな経験ははじめてです」 「あなたのお住まいはどちらです?」 「それは――パサデーナです、カリフォルニア州の。住まいというものがあるとすればですが。わたしはそこに家はありますが、いたことがありません。いつも旅行してばかりいます。わたしの年になっても、旅行していると、いろいろ考える種があります。新しい景色とか、新しい顔とか。ドレイクさんの事件には本当に驚きました。とてもいい方でしたのに」 「あなたはけさ、ホテルから出られましたね?」 「ええ――カーゾン・ストリートで古いお友達と朝食をしました。わたしが二十年ばかり前に、上海《シャンハイ》に住んでいたときに、知り合いになった英国の婦人の方です」  マックス・ミンチン氏に視線を移したダフの目は、興味で輝いた。ミンチン氏は色の浅黒い、がっしりした男で、髪は短く刈り、下唇が突き出ている。ロンドン警視庁の人間に会っても、ベンバウ氏が見せたような感激は見せなかった。それどころか、不機嫌な、ほとんど敵意に近い態度を見せた。 「あなたのお住まいはどちらです、ミンチンさん?」ダフは聞いた。 「それがこの事件になんの関係があるんだね?」ミンチンも聞いた。毛むくじゃらの片手で、ネクタイに止めてある大きなダイヤをいじった。 「まあ、いえばいいじゃないの、あんた」大きな体が赤いフラシ天の椅子からはみ出している、彼の妻がこういった。「べつに恥ずかしいことじゃなくってよ」それからダフを見て、「あたしたちシカゴから来ました」と説明した。 「そうさ、シカゴさ、そうよ」夫のほうが荒々しくいった。「それがどうしたんだね?」 「あんたはこの殺人事件について、提供する情報はありませんか?」 「おれはデカじゃない。そう見えるかね? あんたが自分で情報を捜すがいいじゃないか。おれは――おれはなんにもいうことはない。おれの弁護士が――そうそう、ここにはいねえや。おれはしゃべらない。おわかりだね?」  ダフはロフトン博士をちらっと見た。たしかに今年は、ロフトン世界周遊旅行団に妙な人間が入りこんでいる。ロフトンはたしかに困ったらしくて、視線をそらせた。  ミンチンの妻も、困ったものだというような顔をした。「ねえ、あんた」と意見をした。「ぷりぷりしたってなんにもならなくてよ。誰もあんたのことを悪いなんていいませんよ」 「うるさい。これはおれに任しとけ」 「あんたはけさ、何をしていました?」ダフは聞いた。 「買物を」ミンチンはこれだけ答えた。 「この宝石を見てくださいよ」ミンチンの妻が太った片手を突き出した。「あたしこれを一軒の窓で見て、うちの人にいったんですよ。あたしにロンドンでのことを思い出させたいんだったら、これを見さえすれば思い出すって。そうしたらこの人承知しましてね。金っ離れがとてもいいんですのよ。シカゴの若い連中に聞いてみれば――」  ダフは吐息をして、立ち上がった。 「これ以上皆さんをお引き止めしません」彼はこうここの小さなグループにいって、誰もブルーム・ホテルを立ち去ってはならないということを、また説明した。  五人は出て行った。ロフトンがダフのほうを向いた。 「これからどういうことになるのです、ダフさん? 私の旅行団は予定が組まれています、もちろん。遅れると、あとが非常に面倒なことになります。汽船がです、おわかりでしょうが。至るところ汽船を使います。ナポリ、ポート・サイド、カルカッタ、シンガポールと。私の旅行団のうちの誰かをつかまえておくことができるだけの情報を、何かもたれたのですか? もしそうでしたら、その人たちだけ引き止めておいて、ほかのものを出発させてください」  ふだんは平静なダフの顔が、困ったようなしかめっ面になった。 「あなたには正直にいいましょう。こういう事態には、いままでぶつかったことがありません。いまのところ、わたしはこれからどうするかはっきりきめていません。本庁の上司と相談しなければなりません。午前中に検死法廷の死因調査が行なわれますが、すぐ数週間の休廷に入るにきまっています」 「数週間!」ロフトンは困惑して叫んだ。 「お気の毒ですなあ。わたしはできるだけ仕事を急ぐようにします。しかしあなたにいっておきますが、この事件が解決されるまでは、あなたの旅行の続行には、わたしは反対します」  ロフトンは肩をすぼめた。「それに対しては、こちらでなんとかします」 「きっとですか?」  二人は別れた。  ケナウェイが廊下に待っていた。「ちょっと話があるんですが、警部さん」  二人はそばのベンチにかけた。 「何か情報があるのですね?」ダフはちょっとうんざりした気持がした。 「まあ、そうです。たぶんなんでもないことなのでしょう。しかしぼくがきのうの夜、テイトさんの部屋を出て、二階まで下りて行くときに、エレベーターの前の暗いところに、男が一人うろついているのが見えました」 「どんな男が?」 「べつにあっというようなことでもありません。ぼくたちの知っている人、キーン大尉だったんですから」 「なるほど。本を借りようとしていたのでしょう、たぶん」 「そうかもしれません。夜勤のエレベーター運転手はよく本を読む男ですから。ぼくは読んでいるところを見ています。しかしたいして本はもっていません」  ダフはこの青年の顔をよく眺めた。どちらかというと、この青年に好感がもてた。 「あんたはいつからテイトさんを知っているのです?」ダフは聞いた。 「この旅行にいっしょに出てからです。ぼくはハーヴァード大学の法学部を、去年の六月に出たばかりなのですが、世間じゃぼくにとくに仕事を頼みたがりませんでしてね。友達がこの仕事の話をもって来たんです。ぼくは旅行がしたかったし、それに法律のことを教わるのにいいチャンスだと思えたんです――テイトさんのような人から」 「何か教わりましたか?」 「いいや。あの人はあんまりしゃべりません。いろんなことをいいつけます。もしけさみたいな発作がまたたくさん起こるんだったら、ぼくはボストンにいたほうがよかったと思うかもしれませんね」 「テイトさんの発作にぶつかったのは、あれがはじめてだったのですね?」 「ええ――いままでは全然なんともないように見えました」  ダフは固いベンチにもたれて、パイプに煙草をつめはじめた。 「あの人たちについてのあんたの印象を、すこし聞かせてくれませんか?」 「まあ、ぼくは特に観察力が鋭い人間だという確信はありませんが」ケナウェイは微笑した。「ぼくは少数の人たちとは、汽船で知り合いになりました。この遠征隊の基本的な特徴は、メンバーにヴァラエティーがあるということでしょうね」 「たとえば、キーンはとうです?」 「ほら吹きですよ――それに、人のことを探ってばかりいます。どこでこの旅行の金を手に入れたのか、ぼくには見当がつきません。これは金のかかる旅行ですからね」 「あの殺された人――ドレイクさんは、汽船では目立つ人だったですか?」 「とても。害のない老紳士でした。それに社交が好きで。それでほかの連中はちょっと困ったんです。なにしろ、つんぼなもので。しかしぼくは大学で応援団長をやってましたから、平気でした」 「ロフトンのことはどう思います?」 「やや超然としたタイプの人間です。教育のある人で――とても物知りです。ロンドン塔についてのあの人の説明を、あなたに聞かせたかったです。ほとんどずっと心配ばかりして、落ち着いていませんでした。不思議はありませんよ。こんな連中を引き連れているのでは」 「ハニウッドは?」ダフはパイプに火をつけた。 「汽船では、最後の朝まで一度も会いませんでしたね。船室にずっと閉じこもっていたんでしょう」 「彼はわたしには、航海中にドレイクさんとよく知りあったと、いいましたよ」 「いいかげんなことをいったんですよ。船がサザムプトンの埠頭《ふとう》に近づいたときに、ぼくが二人の間に立ってて、二人を紹介しました。それまで二人は口をきいたこともなかったと、ぼくは確信します」 「それは面白い」ダフはこういって考えこんだ。「あんたはけさ、ハニウッドのことをよく見ましたか?」 「見ました」ケナウェイはうなずいた。「まるで幽霊を見た人みたいだったじゃないですか。ぼくはびっくりしました。体が悪いんだなと、思いましたね。しかしロフトンさんの話だと、このあの人のやってる旅行は病人や老人にとても好評だそうです。ですから、さだめしとんだ楽しい旅行になることでしょうね」 「ポッターという令嬢は非常に魅力がありますな」ダフは相手の気をひいてみた。 「そうです――それだけのものです。ぼくにそれを発揮するでしょうね。これが有名なケナウェイ家の運勢というやつです」 「あのミンチンという男はどうです?」  青年の顔が輝いた。「ええ――旅行団中の花形です。毛穴じゅうから金が噴き出しています。航海中にシャンパン付きの夜食会を三度催しましたよ。誰も来なかったです、ベンバウ夫妻とキーンとぼくと――それからリュース老夫人のほかは。リュースという人はいい度胸ですよ。なんでもやってみるんだって、ぼくにいってました。出たといっても、ぼくたちが出たのは、最初の夜会だけです。そのあとは、キーンと、それからミンチンが喫煙室で拾い上げて来た気味の悪い乗客たちだけでした」 「パーティが派手すぎたんですか?」 「いいえ、そうじゃありません。しかしミンチンをよく見たら――なんていうか、シャンパンを出されても我慢できない招待者というのがいるもんですよ」  ダフは笑った。「キーンのことで教えていただいて、どうもありがとう」といいながら、立ち上がった。 「あれに何か意味があったと思わないでください。ぼく個人としては、告げ口をするのはぼくは好きません。しかしあの気の毒なドレイク老人はみんなにとても親切でしたから。じゃあ――またあとで会いましょう」 「またどうしても会うことになるでしょう」ダフは青年にいった。  ホテルの支配人とちょっと言葉を交して、ダフは往来に出た。小さな緑の車は待っていた。彼がちょうど乗り込もうとしたら陽気な声が後ろから聞こえた。 「ねえ、もしもし、警部さん。ちょっとこっちを向いて、あたしのほうを見てくださいな」  ダフは振り向いた。エルマー・ベンバウ氏が歩道に立って、大きな微笑を浮かべている。彼のムービー・カメラが向けられて、撮影開始というところだ。 「うまい!」ベンバウが大声を出した。「そこで、ちょっとそのシャッポを――帽子ですよ――脱いで。光線の工合がちょっと悪いが――」  心の中で呪いながら、ダフはいわれたとおりにした。アクロンから来た男はカメラを目の前に支えて、小さなクランクを回している。 「ちょっと笑ってみせてください――そうそう――アクロンにいる連中のために――さあ、ちょっと動いて――片手を車のドアにかけて――これだけじゃ国の連中はスリルは感ぜんでしょうな――有名なるロンドン警視庁警部が世界一周旅行団で起こった謎の殺人事件の捜査を終えて、英国はロンドンのブルーム・ホテルを立ち去るところであります――さあ、車へ入ってください――そうです――発車――ありがとう!」 「ばかなやつだ!」ダフは運転手に向かって呟いた。「ヴァイン・ストリートへ行ってくれたまえ」  車は間もなく、ウェスト・エンドの中心にあって、しかも人目につかない警察署の前で止まった。この通りは短くて、何もないところなので、大抵のロンドン人は知らない。ダフは車を捨てて、中に入った。ヘイリーは自室にいた。 「用はすんだかね、あんた」と彼は聞いた。  ダフは疲れたような顔をしてみせた。「いつまでもすむまいな。この事件じゃ」彼は自分の時計を見た。「そろそろ十二時だ。いっしょにちょっと昼飯を食べに行かないか、君?」  ヘイリーは賛成した。やがて二人は“モニコ”というグリルのテーブルに着いていた。注文をしてしまってから、ダフはしばらくただじっとして、空間を見つめていた。 「元気でいこう!」そのうちに彼の友達はこういった。 「元気でいこうどころじゃない!」とダフは答えた。「こんな事件が前にあったかね?」 「なにをそんなにめいっているんだね? たかが単純な殺人事件じゃないか」 「犯罪自体としては――そうだ。単純なものだ」ダフは同意した。「普通の条件の下でだったら、結局は解決できるにきまっている。しかしこういうことを考えてくれたまえ」彼は手帳を取り出した。「ここに十五人かそれ以上の人の名がつけてある。そのなかにおそらく、ぼくの探している人物の名があるだろう。そこまでは、まあいい。しかしこの人たちは旅行をしている。どこへだ? 世界中へといっていた。ぼくがちゃんとリストにつけた容疑者は全部、一つのこぢんまりした団体にまとまっている。いますぐ何か予期しないことが起こらない限りは、この団体は動き回る。パリ、ナポリ、ポート・サイド、カルカッタ、シンガポール――いまロフトンから聞いたばかりだ。動き回って、だんだん犯罪の現場から遠く離れて行く」 「だが、あんたはその連中をここへ引き止めておくことができる」 「ぼくにできるかね? 君がそう思ってくれるのは、嬉しい。しかしぼくはそうとは思わない。ぼくは充分な証拠さえつかめば、その瞬間に犯人をここへ引き止めておくことはできる。しかし、その証拠はすぐつかまなければならない。さもなければ、国際問題化するだろう。アメリカ領事館――おそらくは大使自身が乗り出すだろう。内務省からぼくに出頭命令が来るだろう。どういう証拠で、この人たちを引き止めておけるだろうか? そのうちの一人があの犯罪を犯したという証拠が、どこにある? いいかね、へイリー君、こういう事態の先例はないんだ。こんなことはいままで起こったことはない。ところがそれがとうとう起こってしまった。それにぶつかったぼくは、幸福な男というわけさ。忘れないうちに、君に礼をいっておく」  ヘイリーは声を立てて笑った。「あんたはまた謎の事件がほしいっていってたじゃないか、きのうの夜」  ダフは頭を振った。「静かなる人、幸福な人間さ」と呟いた。そのときロースト・ビーフとスタウトの瓶が彼の前に並べられた。 「あんたは旅行団の連中を調べて、何も得られなかったんだね?」ヘイリーが聞いた。 「決定的なものは何もなかった。旅行団のうちの誰かを、犯罪に結びつけるものは、何もなかった。間接的にもだ。かすかに怪しいなと思うことは、少しはあるさ。妙なことが少し。しかしそれでぼくが誰かを引き止めておけるようなものは、何もない。アメリカ大使館を納得させられるようなものはだ――ぼくのところの警視を納得させられることさえない」 「あんたのその手帳には、怪しげな名前がいっぱい書いてあるじゃないか。あんたが話した連中のリストを、検討してみようじゃないか? あんたにぱっと思いつくことがあるかもしれない――ないとはいえない」  ダフは手帳を取りあげた。 「ぼくが最初に連中の話を聞いたときは、君はぼくといっしょにいた。ミス・パメラ・ポッター、これは祖父を殺した人間をつきとめようと決心している、美しいアメリカの娘だ。あのロフトン博士というのは、殺された老人と昨夜ちょっと口論したし、この人の革紐で殺人が行なわれた。スパイサー夫人というのは、利口で頭の回転が早くて、予期しない質問でも受け流した。ハニウッドというのは――」 「ああ、そうそう、そのハニウッドだ。あの男の顔の表情から見ると、ぼくはあれだと思うね」 「陪審にそういってやればいい」ダフは皮肉った。「彼は犯人らしい顔をしていたというんだね。ぼく自身も、そうだと思う。しかしそれでどうだというんだ? それで何かになるというのかね?」 「あんたはほかの連中とも、下で話したんだろう?」 「話した。30号室の人に会った――パトリック・テイトという人だ」  テイトが談話室の入口で心臓の発作を起こしたことを、ダフは話した。ヘイリーは深刻な顔をした。 「あんたはそれをどう思う」ヘイリーは聞いた。 「彼はあの部屋で見た何かに――或いは誰かに――びっくりしたんじゃないかと、ぼくは思う。しかしアメリカでは、彼は有名な刑事弁護士だ。おそらく反対尋問の技術の大家だろう。彼がいいたくないと思うことを、何か彼から聞き出せたら、奇蹟だ。或いはまた、彼には話すことはないのかもしれない。発作はただ思いがけない事件が起こったためだと、彼はぼくに断言した」 「しかしだ、ハニウッドと同様に、彼のことは注意している必要がある」 「うん、それは当然だ。それから、もう一人いる」ダフはロナルド・キーンのことを説明した。 「昨夜何かしていたんだ――なんだかわからないが。ああいうのが、ズボンをはいた狐っていうんだな。食えないやつで――嘘つきだということを自分で告白した」 「そのほかの連中は?」  ダフは頭を振った。「いままでのところでは、何もない。テイトのお供をしているいい青年。傷痕のあるポロの選手――ヴィヴィアンという男だ。何かの点で、スパイサー夫人と関係があるらしい。ロスというびっこの男――西部沿岸で木材業をやっている。フェンウィックという兄と妹の二人連れ――兄のほうは横柄な小っぽけな男で、死ぬほどこわがってしまって、旅行団を脱退することにきめたらしい」 「へえ、そんなことを?」 「そうさ。しかし誤解してはいけない。なんでもないんだ。兎一羽殺す勇気もない男だ。四人きりだ、ヘイリー君、監視すべきは四人だ。ハニウッドと、テイトと、ロフトンと、キーンと」 「すると、あんたはそれ以外の旅行団のメンバーには、会わなかったんだね?」 「会ったさ。しかし問題にならない連中ばかりだ。アクロンという都会から来たベンバウという夫妻――夫のほうは工場を経営していて、ムービー・カメラをぶらさげて、それにまるで気違いみたいになっている。国へ帰ってから、自分のした世界一周旅行を見るつもりで、それまでは見物どころではないという男だ。だがちょっと待ってくれ――この男は、アクロンがオハイオ州カントンに近いということを、ぼくにいった」 「ほお、そうか――あの鍵に刻印してあったところだね?」 「そのとおりだ。しかしこの男はこの事件には関係ない。ぼくはそう確信する。そういうタイプじゃない。それから、リュース夫人というのがいた。世界中へ行ったことのある、年輩の女だ。ロフトン旅行団のような旅行団には、どれにも必ずこういう人がいるらしい。それからシカゴから来た夫婦がいる。とてもすごそうな人間だ、本当に。マックス・ミンチン夫妻といって――」  ヘイリーはフォークを下に置いた。「ミンチン?」と繰り返した。 「そうさ、そういう名だった。それがどうかしたかね?」 「なんでもない。ただあんたが、本庁から数日前に出た小さな通報を、見のがしたらしいというだけだ。そのミンチンという男は、シカゴのギャングの親分の一人らしい。最近、暴力と犯罪という魅力のある商売を休むように――おそらくはほんの一時的にだろうが――説得されてね」 「それは面白い」ダフはうなずいた。 「そうだとも。やつは商売上で、やむを得なかったかもしれないが、自分が手を下すなり人にやらせるなりして、何人も商売敵をこの世から葬っている。消すというやつだ。最近、なにか事情があって、王座から引退して旅に出る気になった。ニューヨークの警察から、やつがここを通るときには警戒していてやるほうがいいといって来た。ここにやつの或る仲間がいて、それが昔の借りを返そうとするかもしれないというわけだ。マクシー・ミンチンといって、シカゴの大物の一人だ」  ダフは考え込んでいた。 「昼飯のあとで、彼ともう一度話そう。気の毒なドレイク老人の死体は、機関銃の弾丸の穴だらけにはなっていなかった。しかしだ、ブルーム・ホテルの雰囲気が、マクシー・ミンチンにさえ、荒っぽいことをさせないという効果があったのかもしれない。そうだ、あの男と直接話そう」と彼はいった。 [#5字下げ]6 ヴィクトリア駅十時四十五分発列車[#「6 ヴィクトリア駅十時四十五分発列車」は中見出し]  昼食をすませてから、ダフはヘイリーとヴァイン・ストリート警察署へ戻った。二人で埃だらけになって忘れられていた世界地図帖を引っぱり出して、ダフがすぐアメリカ合衆国の地図のところをめくった。 「これはすごい」ダフは感嘆した。「なんていう国だ! 大き過ぎて気味が悪いといいたいくらいだ。ええと、シカゴはみつかった。マックス・ミンチンのいる都会は。そこでだ、いったいデトロイトはどこにあるんだろう?」  ヘイリーはダフの肩越しに屈んで、すぐ指をそのミシガン州の都会に当てた。「これがそれだ。こんな大きい国じゃあ、全然離れていないといっていい。となるとだね――?」  ダフは椅子にもたれて、「どうもわからない」とゆっくりいった。「この二つの都会はくっついている。そのとおりだ。あのシカゴのギャングとデトロイトの富豪の間には、なにか関係があったのだろうか? ドレイクは非常に尊敬されていた人だった。だがそれだけではわからない。酒はねえ、ヘイリー君、酒はデトロイトのそばの国境から密輸入されて来る。ぼくはアメリカへ行ったとき、これを知った。で、酒はミンチン先生にとって、少なくとも副業であったにちがいない。何か争いがあったのだろうか――何か昔の恨みが? あの小石がそれに何か意味をもつと考えられるだろうか? あの辺の湖水の岸から拾ってきたものかもしれない。全くこんなことをいうと、ばかばかしい空想のように聞こえるがね。しかし、アメリカではどんなことでもあり得る。この線は検討してみていいなあ、君」  ヘイリーの激励を受けて、ダフはそれを調べにブルーム・ホテルに向かった。ミンチンは自分の部屋だろうとのことだった。ダフがそこへ行ったら、この有名なギャングはワイシャツとスリッパというなりだった。髪がくしゃくしゃになっていたが、ミンチンは午後の昼寝をしていたところだと説明した。 「さっぱりするんでね、なあ、あんた」  ミンチンの態度はさっきよりも友好的になっていた。 「お邪魔してすみません」ダフはいった。「しかし一つか二つ――」 「わかってまさ。マクシーを拷問にかけるってわけだね、ええ?」 「ここじゃ、そんなことはしません」 「へえ?」ミンチンは肩をすぼめた。「そうだとすると、あんた方のほうがおれたちアメリカ人よりえらいね。そりゃあ、アメリカもだんだんよくなってはいるがね、まだ教わらなきゃならないことがあるようだ。話はなんです? 早くいっとくんなさい。おれたちは映画へでも行こうといってたところだから」 「このホテルできのうの夜、殺人がありました」  ミンチンは微笑した。「あんたはあたしのことをなんだと思ってたんです? シカゴの在から出てきたばかりの田舎者とでも思ってるのかね? 殺しがあったなあ、知ってますよ」 「わたしの聞いたところだと、たしか殺人はあんたの仕事の一つだそうですね、ミンチンさん?」 「なんだって?」 「暇潰しの一つといってもいいです」 「うん、あんたのいうことはわかった。そりゃあ、おれは時々消さなければならないやつがあったがね。だが、それは先方の自業自得さ、あんた。それにこんなこたあ、あんたにゃ関係ねえ。アメリカで起こったことだから」 「それはわかっています。しかしあんたのすぐそばで殺人があった以上は、わたしは、その、一応――」 「おれをちょっと疑ってかかるってわけだね、ええ? まあ、なんでも聞きなさいよ。おれに聞いたって、くたびれ損だね」 「あんたはこの旅行に出る前に、ドレイク氏に会ったことがありますか?」 「いいや。デトロイトじゃ、あの人の噂はよく聞いてた。あたしはデトロイトへ時々行ったから。しかし残念ながら、知り合いになったこたあないね。汽船であの人と話はした――いいお年寄りだ。おれがあの人を締め殺したなんて思うんだったら、それこそ大間違いだ」 「世界中にこんなやさしい人はいませんよ、うちの人ぐらい」ミンチンの妻が口を出した。彼女はゆっくりスーツケースから何か出していた。「商売をしていた時には、仕方なくて、ゴリラみたいなやつを何人か消せっていいつけたかもしれませんがね。そんな連中は生きてたって仕様がないんですよ。この人はもう商売から手を引いているんですよ。そうじゃない、あんた?」 「そうとも――おれは手を引いた」夫のほうは同意した。「帰ってもらえないかね、あんた? あたしはもう商売から手を引いて、すっかり足を洗うつもりで、堅気の人と同じように、こうして遊山旅行に出ているんですぜ。そうしたらたちまちおれの目の前で、人が殺されたじゃないかと、あんたはいうだろうな」溜息をついた。「どこへ行こうと、人間てものは商売からは足を洗えねえみたいだなあ」と憂欝そうに付け加えた。 「きのうの夜あんたが寝たのは、何時です?」 「何時に寝たっけな? そうそう――おれたちはショウへ行ったっけ。役者はうまいや、ねえ。だがのろくさくて――本当に、眠くなっちゃった。おれはわざわざ芝居へ行くからにゃあ、動きのあるものが見たいね。なんとも退屈な一座だったなあ。しかしほかになんにもないから、しまいまで見ていた。ここへ帰って来たのが十一時半ごろで、寝たのは十二時だった。それからはホテルで何があったのか、あたしは知らないね」 「商売から手を引いてるんですよ、この人があんたにいったとおり」妻が付け加えた。「子供のために手を引いたんです。一人息子でしてね。軍人の学校へ行って、成績がいいんですよ。生まれつきとても鉄砲が好きらしくて」  何も得られなかったが、ダフは声を立てて笑った。 「お邪魔してすみませんでした」彼はこういいながら立ち上がった。「しかしなんでも調べてみるのがわたしの仕事でして」 「そのとおりでさ」ミンチンは愛想よく同意して、自分も立ち上がった。「あんたにも自分の仕事はあるものなあ。あたしにもあるように――あったというほうがいいな。それから、ねえ、あんた、あたしに何かできることがあったら、そういっておくんなさいよ。あたしは警察の人といっしょにやれるんだ――敵に回してもやれるが。こんどはいっしょにやるつもりだ、なあ、あんた。この殺しは理屈に合わねえようだ。あたしは理屈なしにこんなことをするのは、反対だね。ねえ、あんた」ダフの大きな背中を叩いた。「この事件で手が要るようだったら、マクシー・ミンチンがいますぜ」  ダフは別れの挨拶をして、廊下へ出た。このミンチン氏からの援助の申し出にはとくに感激はしなかったが、たしかに誰かの助けが必要らしいと考えた。  一階で、彼はロフトン博士に行き会った。ロフトンといっしょに、すばらしくエレガントな若い男がいた。ステッキをもって、ぴったりと合った上着のボタン穴にくちなしの花をつけている。 「いやあ、ダフさん。いいところで会いました。こちらはジロウさんです、アメリカ大使館の書記官補です。昨夜の事件のことで、見えたわけです。こちらは警視庁のダフ警部です」ロフトンが紹介した。  ジロウ氏は大使館の誇りとする例の若い伊達男の一人である。こういう連中はたいてい昼間は寝ていて、それからパジャマをタキシードに着換えて、国家のために夜通しダンスをする。彼はダフに、尊大にうなずいた。 「検死査問会はいつです、警部さん?」 「あすの十時です、たしか」 「ああ、そうですか。そのときに新しい事実が出てこなかったら、ロフトン博士は予定どおり旅行をつづけてよろしいのでしょうね?」 「さあ、どうですか」ダフは呟いた。 「なんですって? すると、あなたは何か証拠をおもちなのですね、博士をここに引き止めておくことができるような」 「それは――そういうわけでもありません」 「旅行団の一部の人たちだけを止めておいたらどうです?」 「わたしは全員を引き止めておきます」  ジロウ氏は納得のいかない顔をした。「どういう証拠で?」 「そうですな――わたしは――わたしは――」  有能なダフもはじめて途方にくれた。  ジロウ氏は憐れむような微笑をみせた。 「それは、あなた、ちょっとおかしいですよ。そういうことは、英国ではできないはずです。あなたもそれはご存じです。検死査問会の結果、今よりももっと証拠が出て来ないかぎりは、あなたにはそういうことは許されません。ロフトン博士とわたしは事件を全部検討してみました」 「旅行団の誰かが、ヒュー・ドレイク氏を殺したのです」ダフは頑強に抗議した。 「そうですか? その証拠がどこにあります? 殺人の動機はなんです? あなたのいうとおりかもしれないし、或いは全然、的はずれのことをいっておられるのかもしれません。おそらくどこかのホテル荒しが――」 「プラチナの時計鎖をもったのがですか?」 「旅行団に関係のない誰かがです。そういうことも充分考えられますよ、あなた。そのほうがあたっているかもしれませんね。証拠です――証拠が必要です、あなたもご存じのとおり。さもなければ、ロフトン博士の一行にすぐ旅行を継続させるように、お願いせざるを得ません」 「考えてみます」ダフはむずかしい顔をして答えた。  彼はいやな気持を顔に現わしたまま、ジロウ氏と別れた。彼はエレガントな若い男というものは好きではない。この男はことにいやだった。それというのも、すぐに手がかりがつかめないかぎり、この男の予言が必ず実現するであろうということを、この男は見抜いていたからだ。  翌朝の検死法廷の査問では、すでに知られていること以上には何も判明はしなかった。ホテルの使用人たちも、ロフトン旅行団のメンバーたちも、ただ前日ダフに話したことを繰り返しただけだった。小石の入った小さな袋は大きな関心を引き起こしたが、それについての説明が何もできなかったので、その関心はたちまち消えてしまった。誰かを引き止めておくだけの証拠はどうしても得られないままに、査問会は三週間の休会になった。ジロウ氏が法廷の向こうから、彼に向かって微笑しているのを、ダフは見た。  その後数日、ダフは狂気のようになって働いた。旅行団のなかに、ブルーム・ホテルで格闘したときにちきれた時計鎖の代わりを、買った人はいなかったか? ダフはウェスト・エンドの貴金属店を全部訪ね、そこから離れた銀行街《シティ》でも、何軒も訪ねた。ポケットの破れたグレイの服を、質屋か古着屋に売ったものはないか? そういう店もすっかり調べた。それとも、この服は包みにして、何気なく捨てたものだろうか? この大都会でみつかった遺失物の包みを、ダフは全部自分で調べた。彼の努力は何も生まなかった。彼の顔はやつれ、目は疲れた。役所のおえら方がぶつぶついい出したので、もう時間はいくらもない、ロフトンが出発の準備をしているということが、彼にわかった。  ポッター夫人とその令嬢は、金曜に帰国の途につく計画をたてていた。ドレイク老の死体がブルーム・ホテルのあの部屋で発見された朝から、ちょうど一週間たった日にあたる。木曜の晩、ダフはこの二人の女と最後の話をした。母のほうは前よりも気力がなく、いままでにないほど参りきっていた。娘のほうは黙って、考え込んでいた。かつて経験したことのないような残念な思いで、彼は二人に別れの挨拶をした。  金曜の午後遅く、またしても無益な一日のあと、彼が自分の部屋へ帰って来たら、パメラ・ポッターがそこで彼を待っていたので、彼は驚いた。彼女といっしょに、ラティマー・リュース夫人がいた。 「これはこれは」ダフは大声を出した。「あなたは出発したのではなかったのですか、お嬢さん?」  彼女は頭を振った。「わたくしできませんでした。何も解決できずに――宙ぶらりんで――疑問の答えが一つも出ていないままでは、わたし、帰れません。母には付添いの女の人を頼んで、わたしが付添わずに帰しました。わたくし旅行をつづけます」  アメリカの若い女性が自分の思うとおりのことをするということは、ダフは聞いてはいたが、それでもびっくりした。 「それに、あなたのお母さんはなんといいました?」 「そりゃあ――呆れ返っていましたわ、もちろん。でも、こんなことは申したくはないんですが、わたし母が呆れ返るようなことをいままで何度もしているものですから、母はもうそれに慣れていますの。こちらのリュースさんが、監督という古めかしい役目を引き受けてくださいました。リュースさんにはお会いでしたわね?」 「もちろん、お会いしています」ダフはうなずいた。「失礼いたしました、奥さん。お嬢さんを見て、すっかり驚いてしまいましたもので――」 「そうでしょうとも」老夫人は微笑した。「この方は勇気がおありですよ、とても。でもね、わたし勇気は好きです。ずっとそうでした。この方のお母さんとわたしは、偶然共通の知り合いの方がいたものですから、わたしお母さんをいいくるめましてね。きまってるじゃありませんか? 子供というものは好奇心が強いものでしてね。わたしもその点は子供みたいなのです。ヒュー・ドレイクさんを殺した人の名と、その理由を教えてくだされば、いますぐ五千ドル差し上げましてよ」 「その質問は二つとも、ご返事に手間どる問題です」 「そうでしょうね、わたしもそう思います。あなたにはお気の毒ですね、むずかしい事件で。あなたはご存じかどうか知りませんけれど、ロフトン世界周遊旅行団は来週の月曜の朝、出発しますよ」  ダフはがっかりした。 「予期はしていました。それでも、わたしには悪いニュースだと、いわざるを得ません」 「元気をお出しなさい。ものごとというものは、思ったほど悪くはなりませんよ。わたし知っています。いままでの七十二年間の経験で、よくわかっています。パメラさんとわたしがいっしょに行きますからね――目と耳を大きく開けて。大きく開けてですよ、よくて、パメラさん?」  パメラはうなずいた。「わたしたちでつきとめますわ。それまでは、わたし休みません」 「えらい!」ダフはいった。「お二人をわたしの助手に任命しましょう。メンバーは全員行くんでしょうな?」 「一人残らずです」リュース夫人が答えた。「けさ、ホテルで会議をしました。あのフェンウィックという小さな男の人が謀反を起こそうとしたんですがね、失敗しました。当たり前ですよ。最後まで見ないなんて人は、くだらない人ですよ。わたしだったら、わたしだけ残してほかの人がみんな殺されてしまったって、旅行をつづけますね」 「するとフェンウィックが一騒ぎやったのですな? わたしもその会議に招待されるべきだったです」ダフは思ったことを、口に出していった。 「ロフトンさんがいやがったのです。おかしな人ですねえ、ロフトンという人は。わたし、あの人のことわかりませんね。わたし、自分にわからない男の人は嫌いです。まあ、とにかく、フェンウィックさんは旅行を取り止めにさせようとしたのですけれど、味方がいないのがわかったら、すごすごほかの人たちのいうとおりにしましてね。それで、わたしたち全部行きます――まるで幸福な大家族みたいに。殺人犯人を抱えたままですよ。それとも、わたしの見当違いかしら」  ダフは老夫人に微笑した。「あなたはめったに見当違いはなさらないでしょう」 「たいていしませんね。こんどのも見当違いじゃありませんよ、そうでしょうね?」 「そうだと、わたしは思います」ダフは保証した。  リュース夫人は立ち上がった。 「とにかく、わたし一生旅行してきました。すこし飽きてきましたけれど、これが強壮剤みたいなものでしてね。ロフトンさんの旅行を徹底的に楽しむつもりです。まあ、ごめんなさいね、こんなことをいって、パメラさん」 「かまいませんわよ」パメラ・ポッターも立ち上がりながら、微笑した。「わたし皆さんの興をさますつもりで、いっしょに行くんじゃありませんもの。できれば謎を解決するお手伝いをするつもりで、行くんです。悲しい謎ですけれど、陽気にしているつもりですわ」  ダフは感心して彼女を見た。 「あなたはスポーツマンです、お嬢さん。あなたが旅行をつづけると知って、わたしは新しく元気が出ました。月曜に出発なさる前に、お二人にまたお目にかかります。それで、そのあともあなたに連絡します、必ず」  二人の女が帰ってから、ダフは、上司がすぐ会いたいという覚書が机の上に乗っているのに、気がついた。彼は警視の部屋へ行ったが、呼ばれた理由はあらかじめわかっていた。 「やむを得なかった、ダフ君」警視はいった。「アメリカ大使自身がこの問題に関心をもってね。あの旅行団に出発を許可しなければならなくなった。そんながっかりした顔をしたもうな、君。君も知っているとおり、犯人引渡条約というものがあるのだから」  ダフは頭を振った。「すぐ解決できない事件というものは、たいてい迷宮入りです」 「その理論は通用しないね。警視庁の記録を見てみたまえ。いくつもの重大な事件で、何カ月もかかったことを、考えてみたまえ。たとえばだ――妻君殺しのクリッペン博士の事件がある」 「それにしてもです、引きさがって、あの連中がどこへでも行ってしまうというのを、手を拱《こまぬ》いて見ているのは、つらいです」 「君の立場はわかる、君。あのキーンという男を残しておいたらどうかね? 逮捕令状を手配してもいい」 「そんなことをしても無駄でしょう、きっと。わたしはそれよりも、ハニウッドを残しておきたいです。テイトでもいいです。しかしもちろん、それだけの証拠がありません」 「マックス・ミンチン氏はどうかね?」 「かわいそうに。こういうことから、すっかり足を洗おうとしているところです」  警視は肩をすぼめた。「まあ、それももっともだ。もちろん君は、引率者から旅行の完全な予定表をとるだろうね。変更があったら、すぐ君に通知するという了解つきで。それから、途中で抜けるメンバーがあったら、それもすぐ通知してもらわねばならんね」 「もちろんです」ダフはうなずいた。「それは大いに役に立つでしょう」 「さしあたり、君はロンドンで捜査をつづけるほうがいい。それで駄目だったら、誰かをやって一行を監視させよう――連中に知られていない人間を。そうすると君ではいかんな、ダフ君」 「わたしでは駄目です」  ダフはがっかり失望して、自分の机に戻った。しかし、彼は自分の気分を自分の活動に入りこませることはしなかった。いろいろいくつもの活動を、彼はした。土曜いっぱいと、店が全部しまっている日曜のハンディキャップの下でさえ、彼は捜査をつづけ、質問し、問題を検討した。ヘイリーが部下を貸してくれたり、陽気に意見をいったりした。だが得るところはなかった。ブルーム・ホテルの殺人事件は、最初に小さな緑色の車がそのホテルの格式をもった入口に止まった、あの霧の朝にくらべて、一歩も解決に向かって進んではいなかった。  月曜の朝、ダフはヴィクトリア駅へ行った。彼の使命は、警視庁の刑事部員にいままで要求されたことのないような、妙なものだった。世界周遊旅行団に別れの挨拶をし、全部と握手をし、楽しい旅行を祈るというために、彼はそこへ行った。しかも彼が握らなければならない手のうちに、二月七日の未明にブルーム・ホテルで、ヒュー・モリス・ドレイクを絞殺した二本の手のうちの一つがあることを、彼はひそかに確信していた。  彼がプラットフォームに止まっている、ドーヴァー行き十時四十五分発列車のそばへ行ったら、ロフトン博士が熱意をこめて挨拶した。ロフトンの態度ははしゃいでいた。長い休暇旅行に出かける生徒のようだった。ダフの手を強く握りしめた。 「お別れしなければならないのは、遺憾です」ロフトンはまるで浮かれているようだった。「しかし旅行は旅行ですからな。あなたには予定表を差し上げておきました。お出でになりたかったら、いつでも歓迎します。そうですなあ、ベンバウさん」  背中の後ろで何か回している音がしたので、ダフが振り返ってみたら、ベンバウが肌身離さぬカメラで大童だった。このアクロンから来た男は、急いでカメラを左手に持ちかえて、右手をダフに差し出した。 「事件がうまくいかんで、お気の毒でした」彼はお世辞抜きで愛想よくいった。「ロンドンの警視庁の人がうまくいかないとは、知りませんでしたよ――本では。しかしこれは本ではないですからな。実際の場合は違うんでしょうなあ?」 「あきらめるにはまだちょっと早すぎるようです」ダフは答えた。「ときにベンバウさん――」彼は鍵と時計鎖の輪を三つ、ポケットから出した。「これを前に見たことがありますか?」 「検死の法廷で見ましたね――しかし遠くからでした」ベンバウは鍵を受け取って、よく見た。 「これがなんだとあたしが思っているか、わかりますかね、警部さん?」 「教えてください」 「そのお、これはアメリカのどこかの銀行の保護金庫の鍵ですよ。鞄の鍵以外には、こういう旅行に人がもって歩きそうな鍵は、このくらいなもんですなあ。アメリカの銀行ではふつう、保護箱を借りる人には、鍵を二つ渡しますな。ですから、どこかにこれと対なのがあるかもしれんですなあ」  ダフはこの手がかりを教えられて、新しい興味をもって、それを考えた。 「それからこの名前ですが――ディートリッヒ金庫錠前会社、オハイオ州、カントンという――、これだとその銀行は、どこかあなたの近所とみていいでしょうな?」 「いいや、そんなことはないです。これは大きな会社でしてね。金庫と鍵をアメリカ中に売っていますよ。サンフランシスコだろうが、ボストンだろうが、ニューヨークだろうが――どこでもです。しかしわたしがあんただったら、この鍵のことを調べますね」 「調べてみましょう。わたしをだますために、死体に握らせたのかもしれないということも、もちろん考えられますが」  カメラに夢中になっていたベンバウは急に顔を上げた。「そのことは考えつきませんでした」  彼の妻がやって来た。「まあ、あんた。カメラをしまいなさいよ。わたし神経がいらいらさせられるわ」 「どうして?」ベンバウは不服そうに返事した。「こんなところに何も見物するものなんかありゃしない。ただの鉄道の駅というだけじゃないか。それともここは城跡とか、博物館とか、それとも何かなのかな? おれはもう何がなんだか区別がつかなくなって来た」  パトリック・テイトと若い同行者が、ぶらぶらやって来た。この老弁護士はとても健康そうにみえた。足どりはしっかりして、頬には赤味が差している。なぜか知らないが、ロフトンのはしゃいでいるのが、少し感染したような顔だった。 「やあ、警部さん。これでお別れですなあ。あなたに運がなくて、お気の毒でした。しかしもちろん、断念はせんでしょうな」 「しません」ダフはテイトの目をまっすぐ見つめた。「それがわれわれの流儀です、ロンドン警視庁の」  テイトはダフの凝視をちょっと受けとめていたが、それから視線をプラットフォームのあちらこちらに向けた。そして「なるほど。わたしもそう聞いています」と呟いた。  ダフはケナウェイのほうを向いた。「ポッターさんの令嬢のほうはいっしょに行きますね、やっぱり」  ケナウェイは声を立てて笑った。「そうだそうですね。いよいよ有名なケナウェイ家の運勢というやつです。いろんな運勢があるんです――いいのと悪いのが」  ダフはプラットフォームを横ぎって、スパイサー夫人とステュアート・ヴィヴィアンが立っているほうへ行った。ヴィヴィアンの別れの挨拶は冷たくて親しみがなく、女のほうのもあまり熱がなかった。しかし、そのそばにいたドナルド・キーンの挨拶は、心がこもっていないようでもなかった。むしろ握手に力を入れすぎていると、ダフは思った。びっこのジョン・ロスもそうだった。しかしこの男の場合は、熱心な握手がダフにはそう気にならなかった。 「いつか太平洋岸で会いたいものですなあ」ロスはこういった。 「たぶんそうなるでしょう」ダフはうなずいた。 「たぶんなんていわんでください」ロスは微笑した。「あんたをあそこのアメリカ杉に、どうしても紹介したいですよ。世界でいちばん見事な木ですからな」  ハニウッドがプラットフォームに現われた。「どの旅行団もロンドン警視庁の警部さんの見送りを受けるというわけにはいきますまいね」といったその声は、明かるくみせようとはしていたが、目には奇妙な表情がこめられ、ダフに差し出した手は、ねっとり冷たく湿っていた。  ダフはリュース夫人とパメラ・ポッターにちょっと最後の話をして、それからミンチン夫妻に挨拶した。それから時計を見て、ロフトンのそばへ行った。 「あと三分です。フェンウィックの二人はどこです?」彼は聞いた。  ロフトンは心配そうにプラットフォームを眺めた。 「知りませんなあ。あの二人はここへ来ることに、同意したのですが」  一分たった。ロフトンを除いて、全員もう列車に乗り込んだ。突然、プラットフォームの遠くの端に、フェンウィックの二人が走って来るのが見えた。着いたときには、すっかり息を切らせていた。 「やあ。来ないのではないかと、心配していました」ダフはいった。 「いやあ――来たですよ」フェンウィックはふうふういった。  妹のほうは列車に乗り込んだ。 「とにかく、ちょっと行ってみます。だが、もしまた変なことがあったら、わたしたちは抜けます。すぐ」フェンウィックはこういって、指を鳴らした。 「もう変なことなどはありません」ロフトンがきっぱり安心させた。 「あなたがいっしょに行ってくださるので嬉しいです」フェンウィックはダフにいった。 「ですが、わたしは行きません」ダフは微笑して、答えた。 「なんですって――行かないんですか?」フェンウィックは口をぽかんと開けて、ダフを見つめた。「あの事件はもう打ち切りだというのですか?」  列車のドアが閉まって行く音がする。 「乗ってください、フェンウィックさん」ロフトンが大声を出して、フェンウィックを押し上げるようにして乗せた。「さようなら、警部さん」  列車は動き出した。それが見えなくなるまで、ダフはプラットフォームのそこのところに立って、じっと見送っていた。あの一行のなかの誰かだ――あの一行はパリへ行く――イタリアへ――エジプトへ――インドへ――世界の隅々へ――。  ダフは溜息をつきながら、視線をそらせた。一瞬、彼はあの急行列車に乗っていられたらと思って、それを想像した。自分が人に見られずに、あの気になってたまらないいろいろな顔の表情を見守っているところを。  もし彼が乗っていたとしたら、仕切客室《コンパートメント》にただ一人いて、窓に顔をぴったり着けて、ロンドンの単調な建物の裏の空地が通り過ぎて行くのを見つめているウォルター・ハニウッドが見られたかもしれなかった。口を開き、視線を据え、額に小さな汗の玉が噴き出しているのを。  その客室の扉が開いた。音はほとんどしなかったが、全然しないわけではなかった。ハニウッドがさっと振り向くだけの音はした。彼の顔に、はっと恐怖の色が浮かんでいた。 「いやあ、これは」彼はいった。 「やあ」フェンウィックが答えた。  無口の活気のない妹を従えて、フェンウィックは客室に入って来た。 「ここへ入っていいですか? 遅れて来たもので――席が全部ふさがってしまって――」  ハニウッドは唇を舌でしめした。「どうかお入りなさい」  フェンウィックの二人は腰をおろした。大きな灰色の都会の美しくない部分が、窓のそばを通りこして行く。  そのうちにフェンウィックが口を開いた。「とにかく、ロンドンを離れるところですな。ありがたいことだ」 「そうです、ロンドンを離れるところです。」  ハニウッドはおうむ返しにいった。ハンカチを出して、顔を叩いた。恐怖の色が徐々に顔から消えて行った。 [#5字下げ]7 ロンドン警視庁の讃美者[#「7 ロンドン警視庁の讃美者」は中見出し]  その週の木曜の夜、ダフ警部はまたヴァイン・ストリート警察署のヘイリーの部屋へ入って行った。この署付警部は旧友の顔を一目見て、同情したように微笑した。 「聞くまでもないようだね」と彼はいった。  ダフは上着と帽子をとって、椅子の上に投げて、それからヘイリーの机のそばの別の椅子にべたりとかけた。 「そんなにはっきり顔に出ているかなあ? そうなんだ、そのとおりだ、君。何もない、全くなんにもない。自分が百歳の老人になったような気がしだすまで、ブルーム・ホテルにねばってみた。足が痛くなるまで、店を洗ってみた。利口な奴だよ、ドレイク殺しの犯人は。手がかりは全然ない」 「まいってしまうぜ、あんた。すこし休んで、何か全然ちがった方法でやってみたら」 「新しいやり方をしてみようかと考えているところだ」ダフはうなずいた。「死体が握っていた鍵のことだ」ベンバウから聞いたどういう性質の鍵らしいという話を、彼はヘイリーにした。 「これと対なのがおそらくあったに違いない。犯人はそれをいまでも持っているかもしれない。ぼくがあの一行に追いついて、みんなの荷物を調べてもいいんだが。しかし、彼らはぼくが何者かということを知っている。困難さは大変なものだろう。彼らの知らない人間をやったにせよ、大変な仕事だ。ぼくがアメリカへ行って、一行中の全部の男の郷里の都会を訪れて、誰かが銀行に3260号の保護箱を借りていないか、それを確かめてみてもいい。これも困難な仕事だ。しかしきょうの午後上司に話したら、賛成してくれた」 「すると、あんたは近くアメリカへ行くわけだね?」 「かもしれない。あすきめる。しかしだね、本当に大変な仕事のようだ」 「わかる」ヘイリーはうなずいた。「しかし、それが賢明な方法のように、ぼくには思える。犯人は対の鍵を持っていたにしても、とっくの昔に捨ててしまっているだろうから」  ダフは頭を振った。「そんなことはない。そんなことしたとは、ぼくには考えられない。そんなことすれば、帰って銀行へ行ったときに、鍵を二つともなくしたと報告しなければなるまい。そうすれば、隠していたいにきまっていることを、明かるみに出してしまうという大きな危険がある。ぼくが思っているとおり、鍵の持ち主が犯人だとすれば、どんな場合でもその対の鍵は手放さないと、ぼくは確信する。ただし捜してはおくだろう。小さい物だし、うまく隠せる。おそらく非常にうまく隠してあって、こっちがいくら探しても、みつかるまい。警視の考えはもっともだ――アメリカ行きにはっきり賛成したというのは。もっともこの仕事のことを考えると、ぼくはぞっとするがね。しかし、ぼくはここではもう、できるかぎりのことはしてしまった。といって、あきらめるわけにはいかんし」 「あきらめなんかしたら、あんたらしくない。元気を出したまえよ。あんたがまいったような事件は、いままで見たことがない。心配することあるものか。きっと最後にはあんたが勝つ。チャン警部はなんていった? “成功常に貴下の傍に微笑しておることでありましょう”さ。その人はそう感じている。当人にいわせると、シナ人は霊感に富むそうだから」  微笑がゆっくりダフの顔にひろがって行った。 「懐かしきチャーリー・チャンか。この事件で、彼がいっしょにいてくれたらいいと思うなあ」こういって、彼は言葉を切って、「あの旅行団の予定に、たしかホノルルが入っていたっけ」と考え込みながら、付け加えた。「しかしそれはずっと先だ。ロフトン博士の玉石混淆の一行がホノルルの港に着くまでに、いろんなことが起こるかもしれない」  ダフは突然決心した様子で立ち上がった。 「もう行くのかい?」ヘイリーが聞いた。 「うん。君といっしょにいるのは楽しいがね、ここにじっとしていたのでは、どこにも到達しないと、いまひょっと気がついたんだ。粘りだ――これがチャンの方法だ。忍耐と努力と粘りだ。ぼくはもう一当たり、ブルーム・ホテルであたってみる。あすこに何かあるかもしれない――何かぼくの気のつかなかったことが。もしあるとしたら、ぼくはそれをつかんでみせるつもりだ。死んでもやってみせる」 「あんたらしい言いぐさだ。やりたまえ。幸運を祈る」  またしても、ダフ警部はピカデリーを下って行った。午後の霧雨は雪まじりになっていた。歩道の彼の足が滑りそうになり、カラーの下にしみ通り、いやな気持だった。彼は低い声で、英国の気候を呪った。  夜勤のポーターは、ブルーム・ホテルのハーフ・ムーン・ストリート側の入口を入ってすぐの机にいた。夕刊を押しやって、眼鏡越しにダフをいたわるように眺めた。 「今晩は。これは驚いた――雪になっていますか?」 「なろうとしているところだ。いいかね、あんたとぼくはそう会ってはいないね。28号室でアメリカ人が殺された夜のことは、覚えているだろうね?」 「忘れられやしませんですよ。じつにいやな事件でしたから。わたしはこのホテルに長くいますが――」 「そうだとも。あんたはあの夜のことを、最近よく考えてみたかね? ぼくに話さなかったことで、何か思い出したことはないかね?」 「一つあります。あなたにまたお会いしたら、それを話そうと思ってました。いままであの電報の話は出なかったようですね?」 「どの電報?」 「十時ごろ配達された電報です。宛名はヒュー・モリス・ドレイク殿となってました」 「ドレイク氏に宛てて電報が来たんだね? 誰がそれを受け取った?」 「わたしがです」 「で、誰がそれをドレイク氏の部屋へ持って行った?」 「階付きのボーイのマーティンです。ちょうどその夜は、仕事がすんで帰るところだったんですが、走り使いのボーイがみつからなかったもので、わたしがマーティンに、それをドレイク様の部屋へ届けてくれないかと――」 「マーティンはいまどこにいます?」 「存じませんです。たぶんまだ使用人食堂で夜食中でしょう。お望みでしたら、呼びにやってもいいですが――」  だがダフはもう、ホールのずっと向こうのベンチの上でのんびり休んでいた年とったボーイを、手招きしていた。 「急いで」と彼は大声で呼んで、その老人に一シリングやった。「階付きのボーイのマーティンを、連れて来てくれたまえ。ホテルから帰らないうちに。使用人食堂を見てみたまえ」  老人は驚くようなスピードで、見えなくなった。ダフはまた夜勤のポーターに声をかけた。「前に話してくれればよかったのに」とこわい声で。 「これが大切なことだと、本当にお考えなのですか?」ポーターは穏やかに聞いた。 「こういう種類の事件では、なんでも大切だ」 「さようですなあ、あなたはわたしたちより、こういう事件にはずっと経験がおありですからなあ。なにしろわたしはすこし慌ててしまいまして、それで――」  マーティンが来たので、ダフはそっちを向いた。マーティンは急にテーブルを離れたもので、まだ口をもぐもぐさせていた。 「ご用だ――」こういいかけて、呑み込んだ。「ご用だそうで?」 「そうだ」ダフはもう活気がみなぎっていた。言葉はてきぱきして、はっきりしていた。「ヒュー・モリス・ドレイク氏が28号室で殺された夜の十時ごろに、君は彼の部屋に電報を届けたね?」  ダフは言葉を止めた。驚いてだ。いつも赤ら顔のマーティンの顔が蒼白になって、いまにもその場に崩れ落ちそうになったからだ。 「届けました」マーティンはやっとこういった。 「君は上へ持って行って、ドレイク氏の部屋のドアをノックしたことだろうな[#「ノックしたことだろうな」は底本では「ノックしことだろうな」]? それからどうしたね?」 「どうしたと申しましても――そのお、ドレイク様が、そのお、ドアに出て来られて、受け取りましたです。私に礼を申されて、チップをくださいました。たくさんにです。それから私はそこを離れましたです」 「それだけかね?」 「はあ、さようです。それだけでございます」  ダフはその若い男の腕を、ちょっと荒っぽくつかんだ。わざと荒っぽくするつもりだった――ロンドン警視庁の権力を全部そこにこめて。マーティンは縮み上がった。 「ぼくといっしょに来い」  ダフはマーティンを、人気のない薄暗い支配人室へ引っぱって行った。マーティンを椅子に突き放して、支配人の机の電灯のスイッチをさぐって、つけた。光線が全部マーティンの顔にあたるように、電灯を動かして、ドアをぴしゃっと閉めて、マーティンに向き合って、椅子に腰をおろした。 「君は嘘をいってるな、マーティン。断わっとくが、そんなことしたら、ぼくは我慢しないぞ。この事件にぼくは手間どらされたが、もうたくさんだ。君は嘘をついている。盲にだって、そんなことはわかる。だがもうつかせないぞ。本当のことをいうか、さもなければ――」 「はあ」マーティンの低い声。ちょっと泣き声になっている。「申し訳ありませんです。あなたにお話ししろと、女房にさんざんいわれましたんですが。すっかりお話ししろと。女房にせっつかれておりました。お話ししろって。でも、私は――私はどうしたらいいかわかりませんでして。その、私は百ポンド貰いましたです」 「なんの百ポンドを?」 「ハニウッド様がくださった百ポンドをです」 「ハニウッドが君に金をくれたのか? なんのために?」 「私を牢へやるようなことはなさらないでしょうねえ、警部さん――」 「君が話さなければ、すぐ話さなければ、今にでも放りこんでやる」 「悪いことをしたというのは、わかっておりますです。でも、百ポンドといえば大金なものですから。それに、私がそれを受け取りましたときには、人殺しのことはなんにも存じませんでしたもので」 「なぜ、ハニウッドが君に百ポンドくれたんだ? ちょっと待った。はじめから聞こう。本当のことをいうんだ。さもないと、ぼくは君をすぐいま逮捕する。君はドレイク宛ての電報を持って、上へ行った。28号室のドアをノックした。それからどうした?」 「ドアが開きましたです」 「そんなこときまっている。誰が開けた? ドレイクか?」 「いいえ」 「なんだって! じゃ、誰だ?」 「ハニウッド様が開けましたです。29号室のお客様です」 「じゃあ、ハニウッドがドレイクの部屋のドアを開けたんだな? ハニウッドはなんといった?」 「私は電報を渡しまして、“ドレイク様宛てです”と申しました。ハニウッド様はそれを見て、“なるほど”と申されまして、それを返してよこしまして、“ドレイクさんは29号室にいる。夜だけ、部屋を入れ替わったんだ”といわれました」  ダフの心はその言葉で躍った。やっとのことで、歓喜の情が彼の全身を包んだ。 「わかった。それから?」 「私は29号室――ハニウッド様のお部屋です――のドアをノックいたしました。しばらくしましたら、ドレイク様がドアに出られました。パジャマを着ておいででした。電報を受け取って、私に礼を申されまして、チップを下さいました。それで私はそこを離れましたです」 「で、その百ポンドというのは?」 「その翌る朝七時に、私が出勤いたしましたら、ハニウッド様に呼ばれましたです。また29号室に戻っておいででした。その前の夜部屋を入れ替わったことについて、何もいうなとおっしゃって、五十ポンド札を二枚くださいました。本当に私はびっくりしました。それで、私は約束いたしましたです――絶対いわないと誓いましたです。八時十五分前に、私はドレイク様が28号室で殺されているのを、発見いたしましたです。私はこわかったです、とても。私は――まるで考える力も何もなくなってしまいまして――そのくらいこわかったです。ホールで、私はハニウッド様に会いましたです。ハニウッド様は“君はぼくに約束してあるぞ”と念を押して“ぼくはあの殺人には無関係だということを誓う。君は約束を守ってくれ。それで後悔することはない”とおっしゃいました」 「それで、君は約束を守ったんだな」ダフは咎めるようにいった。 「すみ――すみませんでした。どなたも私に電報のことをお聞きにならなかった[#「お聞きにならなかった」は底本では「お聞きにならかった」]ものですから。もし聞かれましたら、そうはしなかったかもしれませんです。私はこわかったです――ただ黙っているのがいちばんいいと、思えましたです。家へ帰りましたら、私のしたことは間違っていると、女房にいわれました。女房は私に、話せと頼んでおりますです」 「これからは細君のいうとおりにするんだね」とダフは勧告した。「君はブルーム・ホテルの看板をよごした」  マーティンの顔がまた青くなった。「そうおっしゃらないでください。あなたは私をどうなさるおつもりです?」  ダフは立ち上がった。この意気地のない若者のために、こんなに遅らされた。しかし彼は本来ならばうんと咎めていいこのことに、そう怒る気がしなかった。こういったニュースを彼は待っていたのだ、祈っていたのだ。それがいま手に入ったので、彼の心は明かるく、とても嬉しい気持だった。 「ぼくは君なんかにかまっている暇はない。ここで君がぼくに話したことは、ぼくが話せというまで、黙っていてくれ。わかったな?」 「よくわかりましたです」 「君はぼくに居所を知らせずに、今の仕事をやめたり、引っ越したりしてはいけない。この条件を守れば、いままでとおりにしていてよろしい。奥さんに、奥さんのいうとおりだといってくれ。ぼくからよろしくとな」  ダフはしょんぼりして汗をかいているマーティンを、支配人室に残して、意気揚々と往来へ出た。あんなに雨が降ったあとで、小雪になって、気持がいい。ロンドンはこうなくてはならない。いい気候だ、英国は。人間を元気にし、活気と精力に満たしておくのに適した気候だ。マーティンの話は、ダフ警部の人生観をすっかり変えた。無理もなかった。  ダフはマーティンから聞いたことを考えながら、歩いて行った。“ドレイクさんは29号室にいる。夜だけ部屋を入れ替わった”とハニウッドはいった。そうだとすると、ドレイクは29号室で殺されたにちがいない。しかし朝には、ドレイクは28号室の自分のベッドに戻っていた。そうか、それで自分があのとき考えたことと、ぴったり合う。“ドレイクはどこかよそで殺されたのだという気がする”とあのとき自分はいった。そういう気がしたのは、正しかったのだ。自分の思ったとおりだ。すぐそう気がついたというところをみると、自分はまんざらの馬鹿でもない。こう思って、ダフは勇み立った。  朝には自分のベッドに戻っていた。誰がそこへドレイクを戻したのか? ハニウッドだ、もちろん。誰がドレイクを殺したのか? ハニウッド以外に誰がある?  だがちょっと待った。もしハニウッドが殺人を意図したものとするならば、部屋を替えた理由は何か? おそらくは、境のドアを開けて、ドレイクの体に自由に近づくための術策であろう。しかし彼はその前に、女中頭の鍵を盗んでいる。こんな術策の必要はあるまい。それに、もし、彼が殺人を意図していたとするならば、部屋を替えたことをマーティンに話して、平気で自分を係り合いにしたというのが、おかしい。  たしかにおかしい。ダフの夢がすこしさめた。問題は彼が考えたほど簡単には行かない。まだ謎だ。しかし一つのことは確かだ。ハニウッドがなんらかの点で関係があるということは。マーティンの話があれば、ハニウッドをヨーロッパ大陸からすぐにも連れ戻せる。いったんロンドン警視庁へ連れて来てしまえば、糸はほどけはじめるだろう。  ダフはもとに戻って、また考えてみた。ハニウッドはドレイクと部屋を替え、それからそのことをマーティンに話したときには、殺人の意図はもっていなかったものらしい。そうだ――その決心はそのあとからのことに違いない。おそらくあの電報が――。  近くの電報局へ行ってみたら、もう仕事をしまうところだった。職権でもって、ダフはドレイクが二月六日の夜受け取った電報の写しをもらった。それは単なる会社の用事に過ぎなかった。“重役会は七月一日から値上げに決定。貴下の賛成を望む”というものだ。この電報では、どうも回答にならない。それでもダフはこの電報を祝福した。  タクシーで警視庁へ行く途中で、ダフは上司の自宅へ寄った。ブリッジのゲームの途中を邪魔された上司は、はじめは話を簡単に切りあげてもらいたかった。しかしダフの話が進むにつれてこの部下の興奮に巻き込まれて来た。 「その旅行団はいまどこにいるね?」上司は聞いた。 「予定表によりますと、パリからニースへ今夜出発するはずです。ニースに三日間滞在することになっております」 「よろしい。君は朝になったら、ヴィクトリア駅からリヴィエラ行定期急行に乗りたまえ。それより早く出発しても、なんにもなるまい。それに乗れば、君はニースに土曜の朝早いうちに着ける。ぼくはあす君が出発する前に、君に会う。おめでとう。とうとう何かつかめそうだ」  警視はブリッジに戻った。フォア・ハートで得点を二倍にせろうというところだ。  ヘイリーと電話で元気よく話したあと、ダフは家へ帰って、鞄をつめた。翌朝の八時には、彼は警視の部屋にいた。警視はこういう場合に備えて金を用意してある金庫から、札束を出して、それを渡した。 「切符は申し込んであるんだろうね?」 「はあ。駅へ行く途中で、とってきます」 「フランスの警察に、ぼくが必要な書類の手配ができるまで、ハニウッドをニースに留置しておいてもらいたまえ。ぼくはすぐ内務省と打ち合わせする。じゃあ行ってきたまえ、ダフ君。幸運を祈る」  行動こそ、ダフの望んでいたことだ。彼は張り切ってドーヴァーへ行った。ドーヴァー海峡は波立っていたが、彼にはなんでもなかった。夕方までにはパリの郊外に着いて、それから列車はひっきりなしに止まりながら、パリのまわりの駅を回ってのろのろと旅をはじめた。やっとパリの市中のリオン駅に着いたときには、ダフはほっとした。そこからニースのあるリヴィエラ海岸までの道はまっすぐだ。  ダフはうまい夕食を楽しみながら、そしてパリ市の最後の城壁が夕闇の中に消えて行くのを見守りながら、ウォルター・ハニウッドのことをよく考えてみた。殺人のあとの朝、あの男があんなにおびえていたのは、不思議はない。あのときに逮捕していさえすれば、この長い旅行をしなくてもすんだろうに。しかし結局はうまく行きそうだ。案じることはない。ものごとはたいてい最後にはうまく行っている。間もなく同じ道を帰ってくることだろう、ハニウッドを連れて。おそらくあの男の自白書が、自分のポケットに入っていることだろう。強い性格ではない、ハニウッドは。こっちにこれだけのことがもうわかっている以上は、頑張りきれる男ではない。  その翌る朝、十時ちょっと前に、ダフのタクシーはニースのホテル・エクセルシオール・グランドの前に止まった。ロフトンに渡された細かな予定表に書いてあった旅館の名は、これだ。このホテルはだだっ広い不規則な建物で、市街と紺青の海を見下す高い丘の上にあって、庭がとても広い。オレンジとオリーブの木が、ダフに見えた。ところどころに高いサイプレスの木があって、明かるいリヴィエラの太陽の下でも、それが陰気な感じだ。タクシーの運転手が、喘息のような音がする警笛を鳴らした。しばらく待たされてから、ボーイが現われて、ダフの鞄を受け取った。ダフはボーイの後について、ホテルの横の入口へ行く砂利道を上って行った。大きな椰子の木が高くそびえ、歩道のふちには、香の高いパーマ菫《すみれ》の花壇がある。  ダフがホテルのロビーに入って最初に見た人間は、顎ひげを生やしたロフトン博士だった。次に見た人間に、彼は度胆《どぎも》を抜かれた。フランス人で、やはり顎ひげを生やしていて、高級がっているリッツ・ホテルのドアマンのように、ものものしく金モールの豪華な制服を着ている。その二人はほとんど顎ひげを触れ合うようにして、ひそひそ話をしていて、ロフトンの顔は心配そうだった。ロフトンが上を見上げたら、ダフの姿が目に入った。 「おや、警部さん」こういったロフトンの顔をかげがかすめた。「早かったですなあ。こうすぐお出でになるとは、予期していませんでした」 「あなたはわたしの来るのを、予期していたのですか?」ダフは不審に思った。 「当然です。ご紹介いたします、署長さん。こちらはロンドン警視庁のダフ警部さん」ロフトンはダフのほうを向いた。「こちらの方は、制服でおわかりのことと思いますが、当地の警察の署長さんです」  そのフランス人は急いでダフのそばへ来て、手を握った。 「お目にかかれて、じつに嬉しいです。私はです、私はロンドン警視庁の大変な讃美者であります。この事件につきまして、苛酷なご批判をなさらんように、お願いいたします。われわれが来る前に間抜けなことをされてしまいまして、それをまあこ斟酌《しんしゃく》ください。死体が倒れたままの位置にあるかというと、そうではありません。ピストルがもとの位置にそのまま置かれているかというと、それもそうではありません。全部が――全部が手を触れられていまして。門番と、ボーイ二人と、事務員と――五、六人の人間で。その結果、どうなりました? 指紋の点は絶望です。こういう間抜けなことがあると、あなたはお考えになれるものか――」 「ちょっとお待ちください」ダフは署長の言葉をさえぎった。「死体ですって? ピストルですって?」ロフトンのほうを向いた。「いったいどうしたんです?」 「ご存じないのですか?」 「もちろん、知りません」 「しかし私が思ったのは――そうですな、少し早すぎますな。やっとわかりました。あなたはもうここへ来られる途中だったわけですな。そうです、警部さん、いいところへ来られました。かわいそうにウォルター・ハニウッド氏が、昨夜このホテルの庭で自殺されました」  一瞬、ダフはものもいえなかった。ウォルター・ハニウッドは自殺してしまった――ロンドン警視庁が逮捕しようと来ている間に。良心の呵責、それに違いない。ドレイクを殺し、それから自殺した。事件は片づいた。しかしダフは得意にはなれなかった。逆に、してやられたというとても不愉快な気持がした。あまりにも簡単すぎる。全く実に簡単すぎる。 「ですがハニウッド氏は自殺したのですかな?」署長がこういっていた。「遺憾ながら、ダフ警部さん、われわれはそう断定できませんですが。ピストルの指紋――それは先程申したように、間抜けなホテルの使用人がめちゃめちゃにしています。たしかに、ピストルは死んでいく人の手から落ちたように、死体のそばにころがっていたです。その近所に、人の姿は見られておりません。しかしそれにしてもです、ロンドン警視庁の方のご意見をどうかうかがいたいものです」 「遺書はなかったのですか? 書き置いたものは何も?」 「遺憾ながら、ありませんです。昨夜、われわれはあの人の部屋を調べました。今日私がここへ来て、同じことを繰り返しました。あなたがご協力くだされば、まことにありがたいです」 「すぐまたうかがいます」ダフは帰ってくれという態度をみせた。  署長はお辞儀をして、出て行った。  ダフはすぐロフトンのほうを向いた。「この事件であなたの知っていることを、全部話してください」  二人は長椅子に並んでかけた。 「私は旅行団のパリ滞在は、三日だけにしました。ロンドンで失われた時間を取り返そうとしたわけです。われわれがここへ着いたのは、昨日の朝です。午後に、ハニウッドさんはモンテ・カルロまでドライブすることにしました。リュース夫人とパメラ・ポッターさんを誘いました。晩の六時に、私がこのロビーでフェンウィック氏と話をしていたら――この人はここだけの話ですが、旅行団中のいちばんの困りものなのです――リュース夫人とパメラさんがあそこにある横のドアから入って来るのが、見えました。私が二人にドライブのことを聞きましたら、とても楽しかったといいました。二人の話だと、ハニウッド氏は門のところで運転手に料金を払っているとのことでした。すぐここへ来るだろうとのことでした。二人は上へあがりました。フェンウィック氏は私を悩ましつづけていました。外でぱーんという音がしましたが、私はべつになんとも思いませんでした。車の排気ガスか、それともタイヤがバンクしたのだろうと思ったです。この辺の運転手はでたらめですからな。そうしたらすぐ、リュース夫人がエレベーターから飛び出して来ました。あの人はふだんは実に落ち着いた人ですから、私はその様子にびっくりしました。非常に興奮しているようで――」 「ちょっと待ってください。あなたはこういうことを何か、あの署長に話しましたか?」 「いいや。あなたに残しておくほうがよかろうと思いまして」 「結構でした。つづけてください。リュース夫人は慌てていた――」 「非常にです。私のそばへ大急ぎでやって来ました。“ハニウッドさんはまだ来ませんか?”と聞きました。私は顔を見つめて、“奥さん――どうかしましたか?”と大きな声で聞きました。“大変なことができました。ハニウッドさんにすぐ会わなければなりません。なぜまだ来ないんでしょう?”という返事でした。さっきのぱーんという音を、私は思い出しました。ピストルの音のようだったと、そのときに気がつきました。私は外に飛び出して、リュース夫人があとからついて来ました。もう夜になって、庭は暗くなっていました。フランス人は節約家なもので、まだ電灯をつけてありませんで。通路を途中まで行ったら、ハニウッド氏がそこに倒れていて、体は一部は通路に、一部はそのふちの花壇に乗っていました。心臓をぴったり貫いたものに相違なくて、ピストルは体のわきに、右手のそばに、落ちていました」 「自殺ですか?」ダフはロフトンを探るように見ながら、聞いた。 「私はそう信じます」 「あなたはそう信じたいのです」 「当然です。そのほうがいい――」  ロフトンは言葉を止めた。リュース夫人が長椅子のすぐ後ろに立っていた。 「自殺だなんて、そんなばかなこと」彼女は勢いこんでいった。「お早うございます、ダフ警部さん。あなたに来ていただいて、助かりました。また殺人です」 「殺人?」ダフはおうむ返しにいった。 「そうですとも。なぜわたしがそう思うか、いますぐお話しします。まあ、そんなにびっくりすることありませんよ、ロフトン先生。あなたの旅行団のメンバーがまた殺されましたね。これからさき供出できるだけの人数がいるかどうか、それがわたし心配ですよ。世界一周にはまだだいぶ距離が残っていますから」 [#5字下げ]8 リヴィエラの謎[#「8 リヴィエラの謎」は中見出し]  ロフトン博士は立ち上がっていて、ペルシャ絨毯《じゅうたん》に明かるく日光が当たっている上を、神経質に歩き回りはじめた。困ったときの癖で、口ひげの端を強く噛んでいる。リュース夫人はこれが嫌いだ。 「そんなこと信じられんです」ロフトンは大きい声を出した。「信じられません。旅行団に殺人が一つあったことは、認めてもよろしい。しかし二つなんて、そんなことは。誰かが私の仕事をぶちこわそうとしているなら、別ですが。私を恨んでいる人がいて」 「それより、誰かがあなたの旅行団のメンバーたちに恨みをもっているようですね」リュース夫人はあっさりいった。「この第二の事件も殺人だということが、信じられないとおっしゃるのでしたら、わたしのいうことをよく聞いて、それからどう考えるか、おっしゃってください」彼女は長椅子に腰をおろした。「さあ、その椅子をもってらっして、歩き回るのをおよしなさいな。あなたを見ていると、わたしが前にハンブルクの動物園でいつも見ていたライオンのことを、思い出しますよ。わたしはそのライオンと仲よくなりましてね。まあ、こんなことはどうでもいいことですけれど。ダフ警部さん、わたしの横におかけなさいな。お二人とも、わたしの話には興味があると思います」  ダフはおとなしくそこへ腰をかけ、ロフトンも命令に従った。なぜか知らないが、この老夫人は同じことを二度いう必要がないというタイプの女なのだ。 「ハニウッドさんとパメラさんとわたしは、昨日の午後、モンテ・カルロまでドライブしました。たぶんそのことはあなたはもうご存じでしょうね、警部さん。ハニウッドさんはこの旅行中、なにか落ち着かなくて心配そうでしたけれど、このモンテ・カルロ行きの間は、気が楽になったようでした。とても陽気でしたよ。全くこれがあの方の本当の姿だったんでしょうね。自殺を考えてなんかいませんでした――それはわたし保証しますよ。以前に、インドのダージリングの夏になると役所が移るところに、ある男の人がいましてね。たまたまわたしがその人の生きているところを見た最後の人間になったわけですが――まあ、こんな話は必要ありません。ハニウッドさんは嬉しそうで、まるではしゃいでいました。ここへ昨日の夕方帰って来たときにも、まだそういう気分でした。わたしたちは、門のところで料金を運転手に払っているハニウッドさんと別れて、中へ入って、自分たちの部屋へ行きました」 「私はあなたを見ました」ロフトンがいった。 「ええ、そうでしたね。それで、わたしは自分の部屋のドアの鍵を開けていたときに、錠がいたずらされているのに、ぴんと気がつきましてね。一度、オーストラリアのメルボルンで、わたしの泊まっていたホテルの部屋が泥棒に入られたことがありましてね――わたし経験があるんですよ。ここはドアの板が縮んで、隙間が大きくなっていますね。で、錠のところに何か鋭い道具の跡がついているのが見えました。たぶんナイフでしょう。バネをこじ開けるのは簡単なことですよ。中へ入ってあかりをつけたら、わたしの感じの当たっていたのが、すぐわかりました。部屋の中はめちゃめちゃ、隅から隅まで引っかき回されてました。トランクは開けられていて、確かめてみたら、わたしの心配していたとおりになっているのが、すぐわかりました。わたしが保管を頼まれていた書類がなくなっていました」 「どういう書類です?」ダフが興味をもって聞いた。 「ロンドンにいるときのことに戻らなければなりません。ドレイクさんが殺されてからあとのことです。ロンドンからわたしたちが出発したほんの二日前の土曜の午後に、ハニウッドさんからブルーム・ホテルの談話室ですぐ会いたいという伝言が、わたしにありました。わたしもちろん不思議に思いましたけれど、いわれたとおりにしました。ハニウッドさんはその部屋に入って来たとき、非常に悩んでいるようでした。挨拶も抜きにして、“奥さん、あなたが広い経験をおもちで、非常に思慮深い方だということはわかっています。こんなことをお頼みする権利はないのですが、お願いがあります”といって、ポケットから細長い白い封筒を出しました。“この封筒をあずかっていただきたいのです。大事に保管してください。もしこの旅行中にわたしに何かありましたら、どうかすぐ開けて、中を読んでください”といいました」 「盗まれたというのは、その書類なのですね?」ダフは聞いた。 「人の話の先き回りをしないでください。そのときわたしはちょっと驚いたんです。当たり前ですよ。わたしはそれまで旅行中に、ハニウッドさんとはほとんど口をきいたこともなかったのですから。“この封筒には何が入っているのです?”とわたしはハニウッドさんに聞きました。ハニウッドさんは妙な態度でわたしを見て、“べつになんでもありません。わたしが――わたしがもし死んだ場合の処置を、いろいろ書いてあるだけです”といいました。わたしは“ロフトン博士にあずけておけば、いちばんいいではありませんか?”といったのですけれど、ハニウッドさんは“ロフトン博士には絶対にあずけておけないものです”といいました。  それで、わたしはただじっと考えていました。何を心配しているのか、聞いてみました。ハニウッドさんは病気のことを何か呟いていました。人の身の上はわからないと、いいました。すっかりまいって、疲れきっているようにみえたので、わたしは気の毒になりました。二人ともなんだか神経がとがっていました。ハニウッドさんが神経衰弱らしいということは、わたし知っていましたから、これは煩悶している病人の気まぐれだろうと思いました。たいした頼みごとでもないと思って、わたしはその封筒をあずかるといいました。ハニウッドさんは喜んだようでした。“どうもありがとうございます。錠のおりるところへしまっておいていただくほうが、いいと思います。この部屋は別々に出ましょう。あなたが出るまで、わたしはここに残っています。それから、旅行団のほかのメンバーといっしょのときは、できるだけわたしによそよそしくしていてくださいませんか”といいました。  なにもかも、なんだかおかしな話でした。しかしわたしはその日の午後、ベルグレイヴィーア([#割り注]ロンドンの住宅地[#割り注終わり])にいる知り合いと約束がありまして、それにもうおくれていました。それでわたしはハニウッドさんの背中を叩いて、心配しないようにいって、急いで部屋を出ました。自分の部屋へ行ってから、わたしはその封筒を見てみました。封筒の表に小さな字で、“小生死亡の場合に開封のこと ウォルター・ハニウッド”としてありました。私は急いでそれを自分のトランクに入れて錠をして、外出しました」 「あなたはそのことを、すぐわたしに話してくれるべきだったのです」ダフは老夫人を咎めた。 「そうでしたでしょうかね? わたしそうとも決められませんでした。いまもいったように、病人が思いついたことで、重要なことではないと、わたし思いましてね。それにロンドンの最後の数日、とても忙しかったものですから。わたしが本当にハニウッドさんのことと、そのあずかった書類のことを考え出したのは、月曜の朝、ドーヴァー行きの列車に乗ってからでした。そのときはじめて、それがドレイクさんの殺されたことと、何か関係がありはしまいかということを、わたしは考えました。ドーヴァーで海峡連絡船に乗ったとき、わたしはそれをはっきりさせようと決心しました。  わたしはハニウッドさんが右舷の手すりにもたれているのを見て、そのそばへ行きました。ハニウッドさんはわたしがそうするのを、とてもいやがっていたようでした。わたしと話している間中、おびえたようなびくびくした目をして、甲板をあちこち、ちらちら見てばかりいました。わたしはこのときには、もうこの問題がとても気になっていました。“あなたからあずかった封筒のことを、わたしは考えていました。もう打ちあけた話を聞くべき時が来たと思います。あなたの生命が危険だと思うような理由があるのですか? 話してください”と、わたしはハニウッドさんにいいました。  ハニウッドさんはそれを聞いて、どきっとして、探るようにわたしのことを見ました。“そんなことは――ありません”と吃《ども》るようにいいました。“全くありません。この不確定な人生では、誰の生命でも危険だというだけです”といいました。この返事では、わたしには不満足でした。わたしは列車の中で思いあたったことを、口に出していう決心をしました。“もしあなたがドレイクさんと同じような運命にあったら、あなたを殺した人の名はあの封筒の中に書いてあるのですか?”と聞きました。  そのとき、ハニウッドさんは返事をしたくないようにみえました。それからわたしに向けた目が、とても悲しそうでしたので、わたしはまた気の毒になりました。“奥さん、そんな重荷をわたしがあなたにおかけするわけはありません。封筒の中身はいつかわたしがいったとおりのこと――わたしが死んだ場合の処置だけです”と、ハニウッドさんはいいました。わたしは“そうでしたら、なぜロフトン博士にあずけなかったのです? なぜわたしが注意して保管していなければならないのです? なぜあなたは、わたしたちがいっしょにいるのを見られるのを、いやがるのです?”と聞きました。ハニウッドさんはうなずいて、“それはもっともな質問です”と認めて“それにお答えできないのは、まことにすみません。しかし誓ってお約束しますが、わたしはあなたにご迷惑をかけるようなことはしません。どうか、お願いですから、あの封筒をほんのもう少しあずかってくださって、何もいわないでいてください。問題はまもなく片づくでしょう。これで、わたしはもう失礼させていただきます。気分がよくありませんので、中へ入って寝ます”といいましたが、いい終えるときも、やはりおびえた心配そうな様子で、あちこち見ていました。それで、わたしが何もいう余裕も与えずに、ハニウッドさんは行ってしまいました。  それからですね、わたしはパリへ行きましたが、やはり心配でした。残念ながら、あのかわいそうな人がわたしにいったことは、信じられませんでした。わたしのいつもの勘で真相をつかんだと、わたしは思いました。ハニウッドさんは殺されることを予期しているに違いないと、わたしは思いました。ちょうどドレイクさんが殺されたように、しかも同じ人にです。ハニウッドさんがその人の名を、わたしにあずけた手紙に書いておいたということも、おそらく間違いあるまいと、思いました。そうなると、わたしはドレイクさんが殺されたことについて、なにか共犯みたいな立場に立たされます。そんなこと、わたしはべつにこわくはありませんでした。以前、日本で、わたしはそこに三年いましたが、わたしはある人を保護するために――まあそのことについては、わたしの考えのほうが正しかったということだけいっておきましょう。しかしこんどの場合には、わたしは誰も保護したかったというのではなくて、ドレイクさんを殺した人間を発見して、罰を受けさせたかったのです。わたしは困ってしまいましてね――めったに困る人間ではないのですが。どうしたらいいか、わかりませんでしたよ」 「あなたのなすべきことは、ただ一つでした」ダフはこわい声でいった。「あなたがそれをなさらなかったので、わたしはあなたに失望しています。あなたはわたしのアドレスを――」 「ええ、それは知っています。でもわたしは自分の困っている問題を解決するのに、自分以外の人にすがる主義ではありませんからね。なすべきことは、ほかにも一つありましたよ。あなたがそれに気がついていないので、わたしこそあなたに失望しています。湯気で封筒を開けるという古いトリックを、あなたは聞いたことありませんか?」 「あなたは湯気でその封筒を開けたのですね?」ダフは大きな声を出した。 「開けました。でもわたし弁解はしません。愛と殺人の場合は、何をしても許されます。パリで夜、わたしは封筒を開けて、中に入っていた紙を出しました」 「それに何が書いてありました?」ダフは力を入れて聞いた。 「ハニウッドさんがわたしにいったとおりでした。 [#ここから1字下げ] “リュース様、お手数をおかけして申訳ありません。ただちに私の妻、シビル・コンウェイにご連絡くださるよう、ロフトン博士にご依頼くださるようにお願いいたします。妻はイタリア、サン・レモ、パラス・ホテルにおります” [#ここで字下げ終わり] ということを書いた短い手紙だけでした」 「それでは、全くなんの意味もありませんな」ダフは溜息をついた。 「そのとおりです」リュース夫人は同意した。「わたしそれを読んだとき、ちょっと恥ずかしい気がしました。そしてわけがわからなくなりました。いままでの七十二年のうちに、こんなにわけがわからなかったことはありません。ハニウッドさんはどうして、これをロフトン博士に伝言しておけなかったのでしょうか? それよりまず、こんな伝言の必要はありませんよ。ロフトン博士は、ハニウッドさんの奥さんの名も居所も知っていました。わたしたちのなかでも、大勢知っていました。ハニウッドさんは奥さんのことを何度も話して、サン・レモにいるといっていましたから。それだのに、ハニウッドさんはこんな不必要なことを紙に書いて知らせて、その紙をわたしにあずけました。わたしに命がけで番をしてくれと、わざわざいって」  ダフは空間を見つめて考え込んだ。「わたしにはわかりません」と彼は認めた。 「わたしにもわかりませんね。でも、わたしがハニウッドさんは殺されたと信じているのを、あなたは不審に思えますか? ハニウッドさんは殺されるのを予期していたに違いありません。あの目の表情でわかります。犯人は計画を実行する前に、わたしのトランクにあったあの紙きれを手に入れるのが必要だと思ったのです。なぜそう思ったのか、それはわかりません。こんな手紙のあることを、誰が犯人に話したのでしょう? ハニウッドさんでしょうか? わたしにはさっぱりわかりません。あなたが解決してください、ダフさん。わたしは全部あなたに任せます」 「それはありがたいです」ダフはこう答えて、ロフトンのほうを向いた。「ハニウッドの妻がサン・レモにいることを、あなたが前から知っていたというのは、事実ですか?」 「たしかに知っていたです。ハニウッド氏自身から聞きました。そこへ、パラス・ホテルへ、一日立ち寄らせてくれと、私に頼みました。奥さんを説得して、この旅行に参加させるようにしたいと、いっていました」  ダフはむずかしい顔をして、「謎は深まるばかりです」といって溜息をついた。「あなたはその奥さんに知らせたのでしょうね?」 「ええ、昨夜電話しました。私がニュースを伝えたとき、その人は気絶したに相違ありません。少なくとも、そうらしかったです。倒れる音がして、それっきり聞こえなくなったですから。けさ、その人の女中から私に電話がありまして、ハニウッド夫人――自分ではシビル・コンウェイといっていますが――は、ニースへ来られないから、遺体をサン・レモへ、私に持って来てもらいたいとのことでした」  ダフは考え込んだ。「わたしもできるだけ早く、その人と会う必要があります。ところで、博士、リュース夫人の話を聞いた上で、あなたはハニウッドの死をどう考えます?」 「どうもこうもありません。単なる自殺以上のものらしく見えはじめて来たと、認めざるを得ません。実をいうと、パリにいた間に誰かが私の部屋を何度も捜したということを、もう隠してはおられません。たしかに、ハニウッド氏はおそらく殺されたのでしょうな、警部さん。しかしここにいる三人以外に、それを知らせる必要がありますか? もしフランスの警察が知ったら――とにかく、この国の杓子定規はひどいですからな」 「あなたのいうのはもっともです」ダフは同意した。「わたしもこの際、パリの警視庁に事件に介入してもらいたくないです。あそこの知性と成績は大いに尊敬してはいますが。これはわたしの仕事です。わたしがやりたいです」 「そのとおりです」ロフトンは明らかにほっとした。「それに、こういう問題もあります。われわれが怪しんでいることを、旅行団のほかのメンバーに話したら、どうなります? みんなすでにいささかびくついています。フェンウィック氏は前に謀反を起こさせようとしたことがあります。こんどのことを話したら、きっとまたやるでしょう。旅行団が解散して、みんながばらばらに散ってしまったら、どうなります? それがあなたの捜査の助けになりますか? それとも、あなたは事件が解決されるまで、われわれが固まっているほうを希望されますか?」  ダフは微苦笑をした。「あなたのいわれることは実に論理的で、まさにもっともです。あなたが旅行団の人たちを集めてくだされば、わたしはみんなとまた話をしましょう。それから、あの署長をなんとかできるかどうか、やってみます。うるさいことはいいますまい」  ロフトンは出て行った。ダフは立ったまま、彼をじっと見送っていた。それから、かけているリュース夫人見下して、いった。 「ハニウッドはロフトンには絶対に封筒はあずけられないと、思っていましたね」  夫人は強くうなずいた。「その点ははっきりそう思っていました」  パメラ・ポッターとマーク・ケナウェイが、ホテルの横の入口から入って来ていた。ダフはうなずいて、二人に手を振った。二人はすぐそばへやって来た。 「まあ、ダフ警部さんじゃありませんか」と、パメラは明らかに喜んでみせて、大きな声を出した。「またお目にかかれて、うれしいですわ」 「今日は、パメラさん。ケナウェイさんも。散歩に行っていたのですか?」 「ええ。鷹のような目をした監督さんの目をかすめて、海岸を散歩して来ました。すばらしかったですわ――少なくともわたしはそう思いましたの。ところが、マサチューセッツ州の北海岸の空気ぐらい人を元気づけるものはないっていわれましたわ」  ケナウェイは肩をすぼめた。「ご機嫌を損じてしまったようだ。ぼくは自分の生まれた州をほめてみたんです。それに、デトロイトじゃマサチューセッツ州のことを、自動車のいい市場とも考えていないそうですね。ひどいことになっているもんですねえ。しかし、ぼくはニースはいいと思いますよ――」 「それでいいわ」パメラは声を立てて笑った。「まだけっこういいところですわよ。おや――テイトさんはなにか怒っていらっしゃるんでしょうか?」  この有名な弁護士は急ぎ足で近づいて来ていた。顔に紫がかった赤味が差しているのは、彼のような心臓の男には悪い兆候だ。 「どこへいったい――やあ、今日は、ダフさん。どこへいったい君は行っていたのだ、ケナウェイ君?」  青年はこの口調に顔を赤くした。「パメラさんと散歩していました」と低い声でいった。 「なんだって、散歩にだって? わしをおっぽり放しにして、体を動かさせるなんて。それを君は考えてみたか? わしに自分でネクタイを結ばせるなんて」テイトは自分の好きな水玉模様の蝶ネクタイを指さした。「この不恪好なこと見たまえ。わしにはどうしてもうまく結べん」  ケナウェイは声を高くした。「ぼくは従僕として雇われたとは知りませんでした」 「なんのために雇われたか、君はよく知っているはずだ。わしの同行者としてだ。ポッターさんが同行者がほしいなら、誰か雇えば――」  青年は興奮した。「そんなことは相手次第で喜んで――」 「ちょっと待ってください」パメラ・ポッターが、なだめるような微笑を浮かべて、前へ出て来た。「わたしがそのネクタイを直してあげますわ、テイトさん。ほら、これでよくなりました。鏡へ行って、見てごらんなさい」  テイトはすこし機嫌を直した。そうせずにはいられなかった。しかしまだ青年を睨みつづけていた。それから出て行こうとした。  ダフがいった。「すみませんが、テイトさん。旅行団の方たちに向こうの談話室に集まっていただくように、お願いしてあるもので――」  テイトはぐると振り向いた。「なんのために? またあんたのくだらない捜査ですか、ええ? ほかの人の時間は浪費させてもよろしいが、わしの時間はごめんだ、絶対に。あんたはへまばかりやる人だ、警部さん、無能でへまばかり。わしはそれをロンドンで見ている。あのときに何か効果がありましたか? 何もない。集まるなんていやなことだ」こういって数歩踏み出したが、向き直って戻って来た。後悔した顔だった。「すまんでした、警部さん。あやまります。血圧のせいで――神経がすっかりいらいらしてしまって。心にもないことをいいました」 「よろしいですよ」ダフは静かにいった。「よくわかっています。向こうのあの談話室へどうか」 「そこで待っています」テイトは下手に出た。「君も来るかね、ケナウェイ君?」  青年は一瞬ためらったが、それから肩をすぼめて、あとにつづいた。リュース夫人とパメラが、彼といっしょに行った。ダフはやっとホテルの受付へ行って、宿帳をつけて、ボーイに鞄を上へもって行ってもらうように頼んだ。受付を離れたら、ベンバウ夫妻にぶつかった。 「お会いするだろうと思っていましたよ」ベンバウは愛想よく挨拶した。「しかしあたしが思っていたより、早かったですなあ。ハニウッドさんはかわいそうなことをしたものですよ」 「実に気の毒です。あなたはあの事件をどう考えます?」 「どう考えていいか、わかりませんな。しかし――なあ、お話しするほうがいいだろうな、お前?」 「もちろん、お話しすべきですよ」妻が勧告した。 「この事件に関係があるものかどうかは、わかりませんがね。パリである晩、家内とストリップを見に行きましてね――いや、本当に黒眼鏡がほしいくらいでしたよ。それでホテルへ帰ったら、あたしたちの部屋がめちゃめちゃになっていました。鞄は全部開けられて、中が捜されてましたが、なくなったものはありませんでしたな。さっぱりわけがわからなかったですよ。ロンドン警視庁の仕業じゃないでしょうか?」  ダフは微笑した。「そんなことありません。ロンドン警視庁はそれほど無器用ではないです、ベンバウさん。すると、あなたの部屋を誰かが捜したのですね。お聞きしますが――あなたはロンドンを出発してから、ハニウッドさんとよく会っていましたか?」 「まあそうですな――会ってました。部屋が近かったですから、パリでは。あそこではちょっといっしょに見物しました。あの人はパリを、あたしがアクロン市を知っているくらい、よく知っていました。ねえ――あんたはあれを自殺だと思うんですか?」 「そうらしいです。あの談話室でわたしを待っていてくれませんか?」 「いいですとも」  ベンバウとその妻はダフにいわれた部屋へ行った。ダフはそのあとに続いた。彼が部屋に入ったら、ミンチン夫妻が目の前に現われた。夫のほうが親しげに挨拶した。 「やあ、また一人消されましたな」しゃがれた低い声で、ミンチンはいった。「この団体には何かあるようだ。あんたはどう思うね、警部さん?」 「あんたは?」 「わたしなんかにゃあむずかしすぎる。とてもあたしにゃあわからないね。しかしね、あのハニウッドって男は自殺したんじゃないな、それは確かですぜ。あたしはよく見ているからね。あたしは命を狙われてることを知らされたほかの連中を見て来ているが、たしかにあの男もそうだった。あの男の目を見てもわかったね。どこから弾丸が飛んで来るかと、びくびくしているようだったものなあ」 「ミンチンさん、あんたに頼みがあります。これからここでこの事件の話が出るわけですが、あんたのその意見は隠しておいてくれませんか?」 「わかってますよ。いつかいったとおりだ――あたしはこんどは警察の味方だからね。ぴったり塞いどきますよ、この口は」  ロフトンがそのとき、スパイサー夫人、ステュアート・ヴィヴィアンといっしょにやって来た。彼らが椅子にかけている間に、ロスがびっこをひきながら来た。つづいてキーンが来たが、腰をおろす前に、その油断のない小さな目は部屋中に注がれていた。 「これで全部ですが、フェンウィックの二人だけがいません」ロフトンがダフにいった。「外出しているようですが、私は大して捜そうともしなかったです。あの妙なのが現われる前に全部片づけば、そのほうがいいですから」  ダフはうなずいて、みんなに向き合って、「また来ました」とむずかしい顔をしていった。 「あなた方の将来の予定について、ちょっとお話ししたいことがあります、昨夜ああした不幸な事件がありましたので。つまりウォルター・ハニウッド氏の自殺に関連してです」 「自殺?」スパイサー夫人がだるそうな声で聞いた。白いドレスを着て、きちんとした小さな帽子を、輝く目が隠れるほど深く冠ったその姿が、非常にスマートに見えた。 「自殺ですとも。この不幸な事件について、皆さんのなかに何かお話しになることがありますか?」  みんな黙っていた。ダフはつづけていった。「よろしいです。それではわれわれは――」 「ちょっと待ってください」ヴィヴィアンがその言葉を遮った。部屋が明かるいので、額の傷痕が気味悪くはっきりと見える。「ほんの小さなことですがね、警部さん。何も意味はないかもしれません。しかしハニウッドさんとわたしは同じ寝台車の客室で、ここへ来ました。わたしはパリであの人とよく知り合いになりまして――わたしはあの人が好きでした。いっしょに食堂車へ夕食に行って戻って来たら、わたしの鞄が二つとも開けられて、たしかに中が捜されていました。ハニウッドさんの持ち物には、全然手がつけてなくて。わたしはちょっと変だと思いましたね。このことに気がついてから、ハニウッドさんの顔を見ていっそう変だと思いました。死んだように真蒼になってぶるぶる震えていました。どうしたのかと聞いたら、なんでもないといいました。しかしです、たしかにおびえているようでした――もっと強い言葉でいうほうがいいくらいに」 「ありがとう。興味のあることですが、それで自殺説はくつがえせませんな」ダフはいった。 「すると、あなたは彼が自殺したと思っているのですね?」信じられないという気持をほんの僅か含めて、ヴィヴィアンは聞いた。 「フランスの警察はそう信じていますし、わたしもそれに同意したいと思います。ハニウッド氏は精神的な打撃を受けていました。奥さんを非常に愛していたらしいですが、その人とは別居していました。この種の悲劇の舞台装置は備わっていました」 「おそらくそうでしょうな」ヴィヴィアンはこういったが、それには疑問がこもっていた。 「あなた方の旅行はこれまで災難つづきでした」ダフはつづけた。「しかしこれでもうあなた方には問題はなくなったと、わたしは思います。ドレイクさんの、そのお、事故の真相は、ハニウッド氏の死によって、未解決に終わるかもしれません。わたしがロンドンで発見した或ることが、そうだということを証明すると、申してもよろしいでしょう。とにかく、世間にはそう思わせておくほうがいいです。あのときの犯人はそれで油断するかもしれません。ここの警察の調べがすみ次第、あなた方には旅行をつづけていただきたいと思います。今後は不愉快な事件は起こることはあるまいと、わたしは確信します。旅行を続けたくないという理由が、何かありますか?」 「ありませんとも」リュース夫人がすぐいった。「わたしは旅行があるかぎりつづけます」 「あたしたちもそう思うがね、奥さん」ミンチンがつけ加えた。 「あなたがそうだということは、わかっていましたよ」リュース夫人はミンチンを激励した。 「そうですな、あたしは旅行を中止する理由は何もないと思いますが」キーン大尉が言明した。 「あたしは国の人たちに約束した映画を写さずには、アクロンへ帰れませんよ」ベンバウがいった。「町中の笑いものになってしまいます。世界一周――それがあたしの注文ですからな。あたしは注文を出したからには、それが果たされるのを見なくちゃ」 「ロスさんは?」ダフは聞いた。  この木材業者は微笑した。「やりますとも。旅行をつづけましょうや。長い間待って始めたことだから、いまやめたくありませんな」 「スパイサー夫人は?」  この夫人は長いシガレット・ホルダーを出して、煙草をはさんだ。「わたしは逃げるのはいやです。どなたかマッチをお持ちありません?」  ヴィヴィアンがすぐ行動した。彼女の命令にはなんでも従うらしい。 「とにかく誰がこんなことをいい出したのです?」テイトが聞いた。癇癪《かんしゃく》がまだすっかり収まっていないらしい。「中止するなどといっている人は、誰もおらんです、あのフェンウィックという小男の馬鹿以外には。これはどうも失礼なことをいってしまって。まあよろしい、あの人はここにおらんようだから」 「よろしいです」ロフトンがいった。「警察署長の許可があり次第、ここを出発しましょう。列車の時刻はあとからお知らせします。つぎの宿泊地は、イタリアとの国境を入ったサン・レモになります」  みんながやがやいいながら、解散した。ダフはリュース夫人のあとについて、部屋を出て、さっきいっしょに話していた長椅子のそばで、夫人を呼びとめた。 「ところで、あなたが昨夜帰られて、パメラさんといっしょにロビーに入ったときに、たしかロフトン氏はフェンウィックとそこで話をしていましたね?」 「あの人は――そうでした」 「あなたが封筒を盗まれたのに気がついてから、急いでまた降りて来たときには、フェンウィックはまだ博士といっしょでしたか?」 「そうではありませんでしたね。ロフトン博士は一人でした」 「あなたが入って来たときに、ロフトンさんはハニウッドのことを、あなたに聞きましたね?」 「ええ。どっちかというと心配そうに、ハニウッドさんのことを聞きました」 「そこまではおっしゃらないでください。わたしは注釈はいりません、奥さん。わたしのほしいのは事実です。あなたが自分の部屋へ行くために、エレベーターに乗ったその瞬間に、ロフトン氏とフェンウィックが別れたとしても、それはあなたにはわからないわけですね?」 「そうです。それでもしかすると、ロフトン博士が急いで外へ出て、ピストルを――」 「それはよろしいです」 「でも、わたしだってあの人は好きませんからね」老夫人は抗議した。 「だってというのは、どういう意味です? わたしには好きとか嫌いとかはありません、奥さん。そういう余裕はありません、わたしの仕事では」 「でも、あなただって人間でしょ、ほかの人と同じように」リュース夫人はこういって、そこを離れた。  ロフトンが来た。「ありがとうございました、警部さん。われわれの今後の予定をたちまち解決していただいて。あなたが署長にも同じようにうまくやってくだされば、それで万事すみますな」 「そうなるだろうと思います。ところで、ロフトン博士――昨夜、あなたは外の銃声を聞いたときに、まだフェンウィックと話をしておりましたか?」 「そうです、もちろん。あの男がどうにも離れませんもので」 「彼もその銃声を聞いたと、あなたは思いますか?」 「そうだろうと思います。ちょっとびくっとしましたから」 「なるほど。するとあなたも彼も、りっぱなアリバイがあるわけです」  ロフトンはちょっと緊張したような微笑をみせた。「そうだと思います。しかし残念なことに、フェンウィック氏はここにはもういないので、私のいうことを証明してくれるわけにいかんのです」 「それはどういう意味です、ここにいないとは?」ダフの声が高くなった。 「談話室では黙っていましたが、この手紙がフェンウィック氏の部屋の枕かけにピンで止めてありました。ごらんのとおり、宛名は私になっています」  ダフはロフトンから渡されたその手紙を読んだ。 [#ここから1字下げ]  ロフトン博士殿  また妙なことがあれば、我々は脱退すると、小生は貴下に報告しておきました。また妙なことがありましたから、我々は脱退します。小生は門番に頼んでありますから、夜中に車で出発します。貴下は我々を引き止めることはできません。それはおわかりと思います。貴下は小生のピッツフィールドの住所はご承知ですから、小生が帰宅の際、旅行会費の払い戻しがそこに来ているものと期待いたします。そのためには、直ちに送金くださるのがよろしいと思います。 [#地から2字上げ]ノーマン・フェンウィック [#ここで字下げ終わり] 「夜中に出発した」ダフは考えた。「どっちの方向へ行ったものですかな?」 「ホテルの人の話だと、フェンウィックはゼノアからニューヨークへ行く汽船のことを聞いていたそうです」 「ゼノア、ほお? するとリヴィエラ海岸に沿って東へ行ったわけです。もう国境を越していますね」  ロフトンはうなずいた。「そうです。国境を越して、イタリアへ入っています」 「あなたはむしろ喜んでいるように見えますね」 「喜んでいます。それを隠すには及びません。旅行業を十五年やっていますが、フェンウィックのようなうるさい人間に会ったことはないです。いなくなって、ほっとしました」 「それといっしょにあなたのアリバイがなくなってもですか?」ダフは突っ込んだ。  ロフトンは微笑した。「私にアリバイの必要があるものですかな?」と、穏やかな口調でいった。 [#5字下げ]9 サン・レモの夕闇[#「9 サン・レモの夕闇」は中見出し]  ロフトンは受付のほうへ行った。ダフは一人残って、このニュースにいささか当惑して、考え込んだ。旅行し歩いている彼の容疑者の群れから、二人が離れた。フェンウィック兄妹をロンドンの殺人事件となんらかの点で結び付けるものは、何も発見されていない。ハニウッドの事件についてもだ。しかしそれでも、ロフトン旅行団の全部のメンバーは、問題が解決されるまでは容疑者であり、フェンウィック兄妹もその例外ではないという気が、ダフにはした。あの男は殺人者のようには見えない。しかし経験は、殺人者のなかにはそういうのもたまにはいるということを、ダフに教えていた。彼はこのピッツフィールドから来た横柄な小男の高飛車な行動が、非常に不愉快だった。しかし彼にはなんとも仕方はない。ハニウッド以外の旅行団のメンバーをなんとかする権限は、彼は持って来てはいない。そのハニウッドは死んだ。  エレベーターの辺でざわめきが起こったので、ダフの注意はそちらに向けられた。つぎの瞬間には、あの堂々とした警察署長が彼のほうへ歩いて来ていた。そのけばけばしい制服がリヴィエラの色彩豊かな背景に実に似合う。 「いやあ、警部さん、あなたは上へ来られませんでしたな」署長が大きな声を出した。「私は待っていましたが、あなたが見えないもので」  ダフは頭を振った。「うかがうまでのこともありませんでした、署長さん。フランスの警察の鋭い眼力は、充分に存じています。この事件でのあなたのお手際は、実にお見事でした。わたしは調査しまして、あなたが示された知性に敬服しました」 「そうおっしゃられては、恐縮です」署長は顔を輝かせた。「この私の知っていることは、ロンドン警視庁のやり方を研究して学んだものに過ぎんのです」胸を張った。「まあ、あなたのいわれるとおりでしょうな――私はこの条件の下ではよくやったつもりです。だが、なんともひどい条件でして! どんな頭のいい人間でも、これでは無理ですよ。使用人たちが間抜けで――全く泣きたいくらいですわい。足跡は踏みにじってあるし、指紋はめちゃめちゃでして。これではなんともしようがありませんです」 「幸運なことに、あなたは何もなさる必要はありません」ダフは保証した。「自殺事件です、署長さん。それはわたしに断言できます」  署長の顔がほっとして、あかるくなった。 「それをうかがって安心しました。女が――女の問題が関係しているのでしょうな、きっと?」  ダフは微笑して、相手の出したきっかけをうまくつかまえた。「そうです。当人の妻のことです。当人は彼女を熱愛していたのですが、彼女は彼を見捨てました。失恋の痛手に耐えて、一人でやって行こうとしたのですが、やはり駄目でした。この魅力のあるあかるい町に来てさえも、彼は駄目だということがわかりました。それでピストルです。歩道の死体というわけです」  署長は頭を振った。「なるほど、女ですなあ、あなた。いつも女です! いかなる悩みも、いかなる悲しみも、女のせいです。それだのに――われわれは女なしにやっていけんものでしょうかな?」 「むずかしいでしょうな」ダフはこういってみた。 「絶対にできんことです!」署長は力を入れて、大きな声を出した。「考えると身震いするですが――」言葉を切った。「だが、話がどうも脱線したようですな。ロフトン博士から、あなたがここへ来られた理由は聞きました。自殺というあなたの言葉を、私は受け入れます。あなたくらいよく知っておられる人はないのですから。ですから、私は自殺の報告をいたします。それでこの事件は終了です」 「それがよろしいですな」ダフはうなずいた。「すると、一行はすぐ旅行をつづけてもいいわけですね?」  署長は躊躇した。とにかく、事件というものはそう軽々しく扱うわけにはいかないものだ。 「そうすぐにはまいらんですなあ、あなた。私はこれから予審判事のところへ参ります。最終的な決定は、予審判事がいたします。すぐ私からあなたに電話で、その決定をお知らせします。こういうことでよろしいですかな?」 「結構です。あなたのお手際に、改めて心から敬意を表します」 「重ね重ね恐縮です」 「どういたしまして。わたしは感心しました――実に感心しました」 「お礼の言葉もありませんです。あなたにお会いしたこの喜びを、なんと申していいかわかりませんです」 「まあ、そんなにおっしゃらないで」 「ではまたお言葉に従います。|失礼します《ボン・ジュール》、警部さん」 「|失礼します《ボン・ジュール》」ダフは英語のアクセントでこのフランス語をいった。  ぴかぴかした制服の署長は大股で出て行った。  ロフトンがすぐダフのそばへやって来た。「どうでした?」  ダフは肩をすぼめた。「うまく行くでしょう、たぶん。署長は自殺だといわれて、喜んでいました。しかし最終的な決定を下すには、予審判事に事件の報告をする必要があるそうです。わたしは電話で返事を待っていることになっています。早く返事があるといいですなあ。予定がわかり次第、わたしはサン・レモに電話をかけたくて、うずうずしていますから」 「私はホテルのどこかにいます。あなたが電話で返事を聞かれたらすぐ、私に教えてください。きょうの午後四時三十分に、豪華列車がありまして、どうしてもそれに乗りたいですから」  いつでも出発していいという返事が、署長からあるまでに、一時間かかった。ダフは急いでロフトンにそのことを走り書きして、ボーイに渡して、それから受付へ行った。 「サン・レモのパラス・ホテルに電話を頼みます。ウォルター・ハニウッド夫人を呼んでください。ミス・シビル・コンウェイというほうがわかりがいいかもしれない――そういう名前を使っているときもあるから」  これはホテルの人には厄介な仕事だと思われたようだった。奥で興奮した議論をしていた。ダフは近くの椅子にかけて、待っていた。何分もたってから、ボーイが息を切らせて、ニュースをもって来た。 「サン・レモのご婦人が電話に出ています」  ダフは教えられた電話室へ急いで入った。 「もしもし」彼は大きな声を出した。ヨーロッパ大陸の電話に強い不信感をもっているので、できるだけ声を張りあげた。  微かな、遠い、しかし音楽的な、返事の声が聞こえて来た。 「コンウェイに、どなたがご用事でしょうか?」 「そうです、わたしです。ダフ警部というものです、ロンドン警視庁の」 「聞こえません。何警部さんですの?」 「ダフです。ダフです」 「あんまり大きな声を出しすぎていらっしゃるのではありませんか? まだ聞こえません」  ダフは汗びっしょりになっていた。まるで吼えていたのに、突然気がついた。声をもっと低くして、もっとはっきりしゃべった。 「わたしはロンドン警視庁のダフ警部というものです。ロンドンで起こった、ロフトン旅行団のヒュー・ドレイクという人の殺人事件の捜査を、担当しています。いまニースに来ておりますが、ここで偶然あなたのご主人のウォルター・ハニウッドさんの不幸なご最期にぶつかりました」 「はあ」その声はとても微かだった。 「深くご同情いたします、奥さん」 「ありがとうございます。ご用事はなんでしょうか?」 「ご主人の死の謎を解くような手がかりを、何かご存じないかと思いまして」 「ロフトン博士から、自殺だと知らせがありましたけれど」 「自殺ではありません、奥さん」ダフの声はとても低くなっていた。「あなたのご主人は殺されたのです。聞こえますか?」 「聞こえます」非常に微かな声。 「その殺人はロンドンでドレイク氏が殺された事件と何か関係があると、わたしは確信しています」  すぐに答えはなかった。それから「たしかにあります、警部さん」 「なんですって?」ダフは叫んだ。 「その二つは関係があると、申しているのです。その二つは、いってみれば、同じ一つの殺人です」 「それは驚きました」ダフは喘《あえ》いだ。「それはどういう意味です?」 「お目にかかったときに、お話しします。長い話ですから。あなたはロフトン旅行団とごいっしょに、サン・レモにいらっしゃいますね?」 「必ず参ります。きょうの午後四時三十分にここを出発しまして、約二時間後にはあなたのホテルに着くはずです」 「そうですか。ではそのときまで、延ばして大丈夫です。夫はわたくしのために、このことを全部隠しておこうとしていました。それが知れると、わたくしの俳優生活に傷がついて、わたくしがそのために悲しむだろうということを、夫は心配していたものと思います。しかしわたくし決心しました。たとえわたくしがどうなりましても、犯人が処罰されるようにするつもりです。その――誰がわたくしの夫を殺したか、わたくしにはわかっています」  再びダフは喘いだ。 「誰だかわかっていると――」 「そうです、そのとおりです」 「では、お願いです、奥さん、寸刻を争う場合です。いま話してください――すぐ」 「わたくしにいえることは、ロフトン世界周遊旅行団といっしょに旅行している男だということだけです」 「しかしその名前――その名前を!」 「いまどういう名前を使っているか、わたくしは知りません。何年も前に、わたくしたちがその人に、そのお、遠い国で会ったときには、ジム・エヴァハードという名でした。いまその人はロフトン旅行団といっしょに旅行していますが、別の名を使っています」 「あなたにそのことを教えたのは、誰です?」 「夫から、そういう手紙が来ました」 「しかし名前は書いてなかったのですね?」 「ありませんでした」 「その同じ男が、ヒュー・モリス・ドレイクを殺したのですか?」  ダフは息を殺した。彼が発見しなければならないのは、ドレイクを殺した犯人なのだ。 「はい、その人が殺したのです」 「あなたのご主人は、そのことも手紙に書いたのですね?」 「はい――その手紙に全部書いてあります。それを今夜、あなたにお渡しします」 「しかしその男は――誰がその男なのか――わたしが発見しなければならないのはそれです、奥さん。あなたは何年も前にその男に会ったと、いわれましたね。またその男に会えば、わかりますか?」 「すぐわかると思います」  ダフはハンカチを出して顔を叩いた。すばらしいニュースだ。 「奥さん、まだそこにおいでですか? ハニウッドの奥さん」 「まだおります」 「あなたのお話は――非常に満足すべきものでした」ダフはいつでも物事を控え目にいう癖がある。「わたしは今晩の六時半ごろに、あなたのホテルに着くはずです。正確な時間ははっきりしていません。わたしといっしょに、ロフトン旅行団の全員が参ります」フェンウィックのことがちょっと彼の心をかすめたが、彼はそれを無視した。「間違いがあってはなりません。あなたにまたわたしから連絡があるまで、お部屋にこもっていてくださるように、お願いします。旅行団の全員があなたに見られるように、わたしが取りはからいます。なるべくあなたのほうは見られないですむ場所からにします。どの男か、あなたにわかりましたら、あとはわたしに任せてください。できるだけ、あなたがお困りにならないようにいたします」 「ご親切にありがとうございます。わたくしは自分の義務を果たします。わたくし決心しております。わたくし自身はどのような犠牲を払いましても――その犠牲は決して僅かなものではないと思いますが――、わたくしはあなたが夫を殺した人間を罰するのを、お手伝いいたします。わたくしをご信頼くださって、大丈夫です」 「わたしはあなたを信頼しております。心から感謝いたします。では、今夜また」 「ではまた。わたくしあなたのお電話を、自分の部屋でお待ちしております」  ダフが電話室を出たら、ロフトン博士が電話室のすぐそばに立っていたので、どきっとした。 「伝言を見ました」ロフトンがいった。「四時三十分の急行を申し込みました。ここにあなたの切符があります、ご入用でしたら」 「もちろん要ります。料金はあとで払います」 「急ぐことはありません」ロフトンは行きかけて、立ち止まった。「ええ――その――あなたはハニウッド夫人と話したですね?」 「いますんだところです」 「何か参考になることがありましたか?」 「なにもなかったです」 「それは残念でした」  ロフトンは何気ないようにいって、エレベーターのほうへ行った。  ダフはすっかり心を弾ませて、自分の部屋へ行った。困難な事件――彼がいままでに担当した最も困難な事件の一つ――それがあと七時間もすれば解ける。昼食のときに食堂へでかけながら彼はロフトン旅行団中の男子について、細かに検討してみた。どの男か? 表には絶えず微笑を見せていながら、実は悪党なのは、どれか? ロフトン自身か? ロフトンは旅行団といっしょに旅行している。あの女は、いっしょに[#「いっしょに」に傍点]といって、参加して[#「参加して」に傍点]とはいわなかった。それには意味があったのだろうか? そうかもしれない。ブルーム・ホテルの談話室に入った瞬間に、恐ろしい心臓の発作を起こしたテイトはどうだ? 除外はできない。絶対にできない。心臓が悪くても、ドレイクのような高齢の男なら、締め殺すだけの力をふるい起こせる男はいる。それにテイトは遠い国の人間のような感じがする。ケナウェイは? まだ子供だ。ベンバウは? ダフは頭を振った。ロスか、ヴィヴィアンか、キーンか? みんな可能性はある。ミンチンは? この男は条件にほとんど当てはまりそうにもないが、ああいったことは彼の専門に属すことだ。フェンウィックは? ダフの心は沈んだ。もしフェンウィックだとしたら――。さあ、それがどうしたというのだ? 彼のあとを追う。地球の端まででも――マサチューセッツ州のピッツフィールドというのがどこにあろうとも、そこへでも。フェンウィックのあとを追って、連れ戻してやる。  午後四時三十分には、全部がサン・レモ行き豪華列車に乗り込んでいた。ダフは誰にも打ちあけなかったから、何が予定されているのかを知っているのは、彼一人だった。彼は客室から客室へと回って、一人も欠けていないのを、もう一度確かめた。前に駅で数えてはいたが。彼はほかの数人と言葉を交わしてから、テイトとケナウェイのいる客室へ入って行った。 「いやあ、テイトさん」彼は席にかけて、愛想よく口を切った。「これで、この世界一周旅行であなたが興奮されるようなことはもうないと、いいですなあ」  テイトは無愛想な顔をした。「わしのことは心配しないでください」 「心配せずにはいられませんですな」ダフは微笑した。  それからダフはちょっとの間黙って、じっとかけたまま、通り過ぎて行く外の景色を眺めていた。木の茂った丘と豊かに耕やされた平野が消えて行く。寺院のある小さな港、廃墟となった城跡。その向こうに、地中海が青く輝いている。 「きれいな所ですね、この辺は」ダフはこういってみた。 「映画のようですな」テイトはこう呟いて、ニューヨーク・ヘラルド新聞のパリ版を取りあげた。  ダフは青年のほうを向いた。「海外旅行ははじめてですか?」  ケナウェイは頭を振った。「いいえ、大学の休みのときに、よく来ていました。あの頃はおもしろかったですね――自分の運勢がこうなるとは知らなかったです」老人のほうを見て、溜息をついた。「ぼくはなんにも心配はしていません――心配することなんかなんにもありませんね」 「そうはいってはいられません」ダフは相手の気をひいてみた。 「ぼくはいつでもそういう陳述書に署名します」青年は微笑した。  ダフは決心した様子で、また老人のほうを向いて、大きな声でいった。「さっきもいいましたが、テイトさん、わたしはあなたのことを心配せずにはいられません。わたしはあなたの発作を一度見ています、覚えておいででしょう。本当に――わたしはあなたはあれっきりかと思ったです、全くです」 「そんなにひどいものではなかったです。あんたにでも、それはわかったに違いないです」テイトは切り返した。 「わたしにでも?」ダフはけげんな顔をした。「なるほどねえ。わたしはたいした探偵ではありませんからなあ。解決できていないことが実にたくさんあります。たとえばです、あなたがブルーム・ホテルの談話室で何を見て、あんなひどい心臓発作を起こしたのか、わたしにはまだわかりません」 「わたしは何も見はせんです、本当に――何も」 「忘れていました」ダフは愛想よく話をつづけた。「前にあなたに聞きましたかしら? ドレイク氏が殺された夜、あなたはなんの物音も聞きませんでしたか――叫び声も? わたしのいうことはおわかりでしょうね?」 「聞くわけがないです。ハニウッドの部屋が、わたしの部屋とドレイクの部屋の間にはさまっていたです」 「なるほど、それはたしかにそうです。しかしです、テイトさん――」ダフの目は老人の顔に鋭く注がれていた。「ドレイク氏はハニウッドの部屋で殺されましたよ」 「なんですって?」ケナウェイが大きな声を出した。  テイトは黙っていたが、顔がすこし蒼くなったように、ダフには思われた。 「わたしのいったことはおわかりでしたね、テイトさん? ドレイク氏はハニウッドの部屋で殺されたのです」  老人は新聞を下に置いた。「おそらくあんたはわたしが思ったより、いい探偵ですなあ。するとあなたにはそれがわかったのですな?」 「わかりました。こうなった以上は、あなたの話をすこし変えたらいかがです?」  テイトはうなずいた。「ただあったことだけを、お話ししましょう。あなたは信じようとはせんでしょうが、そんなことは少しもかまわんです。あの二月七日の未明に、わたしはブルーム・ホテルのわたしの隣の部屋で、何か格闘のような音がしたので、目をさまされました。ハニウッドの部屋でしてね、それが。格闘は非常に短くて、わたしがすっかり目をさました頃には、なんの音もしなくなっていました。わたしはどうすべきか、考えてみたです。わたしは何カ月も前から、休養をとりたいと思っていたところなので、自分に関係のない問題に巻き込まれるということを考えただけで、実に不愉快な気持でした。殺人だとは、もちろん全然考えなかったです。何かごたごたがあった――そうです――それはわかりました。しかしそのときには、すっかり静かになっていたので、わたしはまた眠って忘れてしまうことにしました。  朝になって、わたしは早く起きて、外で朝食をすることにしました。コーヒーをすませてから――コーヒーは禁じられてはいるがかまわんです、人はいつまでも生きられるものではないし――わたしはセント・ジェイムズ公園に散歩に行って、ブルーム・ホテルへ戻ったときに、クラージェス・ストリート側の入口で、使用人に会って、その人から、上でアメリカ人が殺されたということを聞きました。その使用人は殺された人の名前は知らなかったが、わたしはそのとたんに、きまっていると思ったです。ハニウッドに。あの格闘がそれだと。わたしはハニウッドが殺されるのを聞いていながら、それを助けようとは、暴漢を逮捕しようとはしなかった。わたしはこう思いました。  わたしは談話室の入口であんたに会ったときには、すでに大きなショックを受けていたです。わたしはハニウッドが上で死んでいるものと信じきって、談話室の敷居を跨ぎました。ところが最初に目に入ったのが、彼でした。前のショックに加えるに、そのショックで、わたしはまいったわけです。心臓がいうことをきかなくなりました」 「わかりました」ダフはうなずいた。「しかしあなたはハニウッドの部屋のその格闘のことを、わたしに何もいいませんでした。それが公正な態度というものでしょうか?」 「おそらくいえんでしょう。しかしわたしがあんたをまた見たときには、わたしは弱って気分が悪かった。できるならば係り合いになりたくないということで、頭がいっぱいでした。あんたのする仕事だ――あんたがすればいい。自分の望みは平穏だけだ。こう考えました。これがわたしの話です。信じようが信じまいが、あんたの随意です」  ダフは微笑した。「わたしはそれを信じたいです、テイトさん。もちろん、これから何かわかってくれば別ですが」  テイトの表情がやわらいだ。「なるほど、あなたは確にわたしが思ったよりいい探偵だ」 「恐縮ですな。もうサン・レモに着いたようです」  夕闇の町の通りを走って行くホテルのバスの中で、ロフトン博士は引率している連中に一言いった。 「ここの出発はあすの正午です。どなたも絶対に必要だという物以外には、鞄の物は出さずにおいてください。できるだけ早く、ゼノアへ行かなければならんですから」  まもなく、一行はパラス・ホテルの入口に着いた。ダフは二階の、ロビーから上る階段のてっぺんのところに部屋をとった。まわりの様子を調べている彼の目に、彼の部屋のドアから遠くないところに、ヨーロッパ式のエレベーターのあるのが見えた。彼は簡単に興奮する人間ではないが、心臓が驚くほどの速さで脈打っていた。パラス・ホテルは比較的小さな建物で、町なかの大きなりっぱなホテルとは違うが、それでも広々とした気持のよさそうな感じがただよっている。夕食はあとわずか半時間後だった。客が晩餐に出る装いをする時間の観光地のホテルに付きものの、あの静かな雰囲気がロビーにも廊下にもみなぎっていた。  ダフは受付で、シビル・コンウェイ――彼女はこの名前で泊まっていた――の部屋が、四階にあるのを確かめた。彼の部屋に電話があったので、よかったと思った。コンウェイの部屋にかけたら、舞台で定めし魅力的だろうと思われるあの低い音楽的な声が、すぐ聞こえた。 「ダフ警部です、ロンドン警視庁の」ダフは半ば囁くような声でいった。 「安心しましたわ。お待ちしているのがとても辛くて。わたくし――わたくしいつでもあれをいたします」 「それはありがたいです。すぐお会いしなければなりません。旅行団のメンバーはいま全部、それぞれの部屋にいますが、まもなく夕食に出るので、またロビーに現われるでしょう。それを待っている間に、お話を聞きましょう」 「それがよろしいですわ。わたくし、夫がロンドンから出した手紙をおもちします。それでいろいろなことがわかります。それでそのあとで――」 「そのあとで、あなたとわたしで、ロフトン旅行団のメンバーが食堂に入るところを、監視しましょう。隠れ場所はきめておきました。椰子の植木がいくつも並べてある後ろです。あなたとお話をする場所は、こういうことにしておきました。一階のわたしの部屋のすぐ横に、人気のない小さな談話室があります。わたしが一階といった意味はおわかりでしょうね。ロビーの上の階です。たしかアメリカの方はそこを二階といいますね。その小さな談話室のドアは、中から錠がおろせます。そこでお会いしましょう。あなたの部屋はエレベーターに近いですか?」 「ほんの数歩です」 「それはいいです。エレベーターで降りて来てください。ちょっと待ってください。もっといいことを考えました。わたしが上がって行って、あなたを連れて来ます。40号室ですね、たしか――お部屋は?」 「ええ、40号です。わたくしお待ちしております」  ダフはすぐ廊下へ出た。廊下は、エレベーターのシャフトが壁でかこまれていないので、それに沿って下から射して来る光線で照らされているだけだ。薄暗いのが、彼には嬉しかった。彼はエレベーターのボタンを押した。時々パリの安ホテルを訪れていたので、自動式のヨーロッパ大陸風のエレベーターの工合がよく悪くなるということは、弁《わきま》えていた。四方が鉄格子になっているエレベーターは、ゆっくりと、そして堂々と、上がって来た。ありがたい、故障がないときにぶつかった。こう思いながら、彼は乗って、別のボタンを押した。こんどは四階のボタンを。  彼が40号室のドアをノックしたら、背の高い、品のいい女の手で、ドアは開けられた。後ろのあかりが明かるいので、顔は陰になっているが、美しいということは、すぐ彼にわかった。髪は着ているガウンと同じに金色で、はじめて電話線を通さずに聞く声は、鈍感なダフ警部さえ魅し去った。 「ダフさん――まあ嬉しいこと」彼女は少し息をはずませた。「これです――これがその手紙です」  彼はそれを受け取って、ポケットにしまった。 「感謝に耐えません。わたしといっしょに来てください。エレベーターが待っています」  彼は彼女を狭いエレベーターに乗せて、それから自分も乗って、二階のボタンを押した。ゆっくりと、ためらいながら、その不安定な乗物は降りはじめた。 「わたくしずっと体の工合を悪くしていました。こうしておりますのが、辛いような気がいたします。でもわたくし、やらなければなりません――どうしてもわたくし――」 「黙っていらっしゃい。いまは、どうか」  エレベーターは三階を通り過ぎているところだ。 「どうせすぐに、あなたは何もかもわたしに話さなければならなくなるんですから――」  ダフはここまでいって、はっとして言葉を止めた。彼の頭の少し上から、鋭い銃声が響いた。小さな物体が空中を飛んで来て、彼の足元に落ちた。彼女の顔を見て、彼はぎょっとした。彼女を膝に抱き止めた。彼女の金色の絹のガウンのボディスの上に、鈍い赤いしみが広がって行くのが、見えた。 「もうだめです」シビル・コンウェイの微かな声。  ダフは口がきけなかった。片手を延ばして、エレベーターの閉まったドアを夢中になって開けようとした。物に動ぜぬこのフランス人の発明品は、断固として動きつづけて行く。ダフはたまらない思いだった。  この光景はダフ警部を、彼が職にある間じゅう悩ましつづけることであろう。彼は一人の女性が自分の横で殺されるのを見た。死んで行く彼女を腕で抱き止めていた。彼女といっしょに、小さな檻にとじこめられていた。その扉は時が来なければ開かない。彼は暗い空間を見上げて、あきらめた。エレベーターから解放されるときには、もう間に合わない。  二階で彼は解放された。ほうぼうの部屋のドアが開いて、半ば装いをした客たちがのぞいている。彼はシビル・コンウェイを、談話室の長椅子へ抱いて行った。彼女は死んでいる、それは彼にわかっている。エレベーターへ走り戻って、彼はそこに落ちている物体を拾いあげた。小さなセーム皮の袋――開けてみる必要もなかった。中身は、彼にはわかっていた。どこかの海岸から拾って来た小石――つまらない、無意味なたくさんの小さな石。 [#5字下げ]10 ドレイク氏のつんぼ[#「10 ドレイク氏のつんぼ」は中見出し]  ダフがエレベーターを出て、ドアを閉めたら、ほとんどその瞬間にベルが鳴って、その鉄格子の檻は上りはじめた。彼はちょっとの間じっと立ったまま、それがゆっくり上って行くのを見つめていた。暗いなかに、そこだけがぽつんと明かるい。あの保護されていない台の上に立っている人間が、絶好の目標となるということに、彼は遅まきながら気がついた。ヨーロッパ大陸式エレベーターはたいていこうだが、このエレベーターが上下するシャフトは、隙間の大きな鉄格子を張ってあるだけで、あとは四方が開けっぱなしになっている。エレベーターの台そのものにも同じような鉄格子がついているが、それは普通の乗客の肩の高さだけしかない。あの金色の絹のガウンは、実によく光る的《まと》だった。廊下の床に膝をついて、エレベーターと中の荷物の人間がゆっくりと見えなくなって行くときに、上から鉄格子を通して狙い射ちにするのは、まことに簡単なことだ。起こってしまえばわかりきったことのようにみえるが、空想力に欠けている正直な人間に予見のできるようなことではない。エレベーターから離れながら、ダフは低い声で、何か荒々しく呟いていた。心の中で、彼の敵に対して、口惜しいが尊敬を感じていた。  ホテルの所有者兼支配人が息を切らせながら、階段を上がって来た。腹のものすこく突き出た男で、これを包んでいる黒いフロックコートは定めしたくさんの生地を必要としたであろう。こうなるには、スパゲッチを山ほど食べたにちがいない。そのあとから、事務員がついて来た。これもフロックコートを着ているが、痩せていて、慢性苦労性のように見える。廊下は興奮した客でいっぱいになった。  ダフは急いで二人を談話室に連れて行って、ドアの錠をおろした。二人はじっと立って、長椅子とその上の痛ましい姿を、見つめていた。  できるだけ簡単に、ダフは事情を説明した。 「エレベーターで殺されたのですと? 誰がいったいそんなことを?」主人は太った顔の目を、大きく見開いた。 「本当に、いったい誰が?」ダフはきっぱりいった。「わたしがそのときこの人といっしょにいて――」 「おや、あなたが? それならここに残っていて、警察が来たときに話してください」 「もちろん。わたしはロンドン警視庁のダフ警部というものです。この死んだ女の人は、ロンドンで起こった殺人事件の重要な証人になるはずだったのです」 「いくらかわかって来ました」主人はうなずいた。「本当にかわいそうなお方でした。しかしこういうことは、ご理解願いたいですが、このホテルの評判を落とします。ここにお医者さんが住んでいます」事務員のほうを向いた。「ヴィト――すぐ先生を連れて来てくれ。手遅れだとは思うが」  主人はよたよたドアへ行って、錠をあけて、客に面してそこに立っていた。衝立としては、効果的だった。 「小さな事故です」主人は言明した。「あなた方に関係のあることではございません。どうかお部屋へお引きとりください」  群衆はいやいや解散した。  事務員のヴィトが急いで主人のそばを通って行くのを、主人はその腕を押さえて、「市の警察にも知らせてくれ。わかっているな、国家警察ではなくて」と注意した。ダフをちらっと見て、「ムッソリーニ総統まで、この事件に引っぱり出そうとするでしょうからな」といって、肩をすぼめた。  事務員は階段を急いで降りて行った。ダフが部屋を出ようとしたら、太った主人が立ちふさがった。 「どこへお行きです?」 「調べたいのです。わたしはロンドン警視庁のものだということを、いってあります。いまこのホテルに、客は何人います?」 「昨夜泊まったのは、百二十人でした。いまがシーズンの盛りですから。すっかり満員です」 「百二十人」  ダフはむずかしい顔をして、この言葉を繰り返した。市の警察には骨の折れる仕事だ。この大人数のなかから、ロフトン旅行団のメンバーだけを考えればいいのだということを知っている彼にとってさえ、骨の折れる仕事だ。  なんとかして主人のそばを通り抜けて、ダフは階段を上へあがった。三階の廊下は静かで人気がない。エレベーターのシャフトのあたりには、なんの跡もついていない。もし手がかりのない殺人というものがあるとすれば、これがたしかにそれだと、彼は思った。がっかりして、彼はもう一階上がって、40号室のドアをノックした。  蒼白い顔をしたメイドがドアを開けて、顔を突き出した。ダフは簡単に事件を説明した。メイドはすっかりうちのめされたように見えた。 「あの方はこのことをこわがっておいででした。午後じゅうずっと、心配しておいででした。もしわたしに何かあったらと何度もおっしゃって、そのときのことをおいいつけになりました」 「どういうことをです?」 「ご遺体をわたくしにアメリカへ持って行くようにと、おっしゃいました。お気の毒な旦那さまのご遺体もでございます。電報を打つようにということも、おっしゃいました。ニューヨークのお知り合いの方に」 「それに、親戚の方にもでしょう?」 「ご親戚のことをおっしゃっておられたのは、聞いたことがございませんです。ハニウッド様もそうでございました。お二人にはご親戚はないようでした」 「ほお? あとで、あんたが電報を打つ人たちのリストをください。あんたはもう二階の談話室へ行くほうがよろしい。支配人に、あなたが誰だということをおいいなさい。きっとすぐあなたのご主人の遺体を、ここへ運んでくれるでしょう。わたしはちょっとここにいます」 「あなたがダフ警部さまでございますね?」 「そうです」 「ご主人はあなたのことを申しておりました。ここ何時間かの間に何度もでした」  メイドは出かけた。ダフは入口の小さな部屋を通り抜けて、感じのいい居間へ入った。  シビル・コンウェイのくれた手紙がポケットの中で、早く読んでくれと催促していたが、その前に、彼は部屋の中を調べたかった。すぐにイタリアの警察が来るだろうから、そうなっては手遅れだ。彼は手早く組織的に仕事にかかった。アメリカの友人たちからの手紙――いくつもなかったが――は、何も語ってはいない。引出しから引出しを、錠のおりていないトランクを、彼は急いで捜査をつづけた。最後に、シビル・コンウェイの寝室の鞄の上に屈んでいたとき、誰かが戸口から見守っているのに、彼は気がついた。彼は振り向いた。市の警察の警視が、浅黒い顔に驚きと不快の色を浮かべて、そこに立っていた。 「あんたは部屋を捜しておるですな?」  ダフは急いで答えた。「自己紹介をします。わたしはロンドン警視庁のダフ警部というものです。英国の領事が保証人になります」 「ロンドン警視庁から?」市の警察官は一応敬意を表した。「それでわかります。あの婦人が殺されたときにいっしょだったのは、あなたですな?」 「そうです」ダフは落ち着かない気持でうなずいた。「とんだ不幸な場面にぶつかりまして。まあ、おかけになって――」 「わたしは立っておるほうがいいです」  その制服では無理もないと、ダフは思った。 「どうかご随意に。この件でお話ししたいことがあります」  ダフはできるだけ簡単に、自分の担当している事件のことを話して、それに関してのシビル・コンウェイの役割を説明した。イタリアの警察にどの程度知らすべきか、それがまだ確信がなかったので、はっきりとはいわなかった。ことに、ロフトン世界周遊旅行団については何もいわないように、気をつけた。  相手は落ち着き払って、聞いていた。ダフの話が終わったら、ゆっくりとうなずいた。 「ご苦労でした。わたしに連絡なしに、サン・レモを立ち去るようなことはなさらんでしょうな?」 「いいや、そんなことはしません」  ダフは自分が同じようなことを、ほかの人に何度もいったことを考えて、微苦笑した。 「ここの部屋を捜して、何か発見したですか?」 「なんにも。何一つなかったです」  ダフは急いで答えたが、心臓の鼓動が少し早くなった。彼が手を出したことを、もしこの警察官が不愉快に思って、身体検査を命じて、ハニウッドの手紙が発見されたら、どうする?  ちょっとの間、二人は睨み合っていた。一つの国際的な危機だった。だがダフが動ぜずにきちんと構えていたので、それがついに勝った。  イタリアの警察官は頭を下げて、「またあとでお目にかかります」といった。この部屋を出ていいという意味だ。  ダフはほっとして、自分の部屋へ急いだ。一刻も猶予せずに、シビル・コンウェイが死の僅か数分前に渡した手紙を、読むつもりだった。ドアに錠をおろし、弱いあかりの下に椅子をもって行って、もう開封してあるその封筒を取り出した。上の左の隅に、ロンドンのブルーム・ホテルの紋章がついている。消印は二月十五日。ヒュー・ドレイクが殺されてから八日あと、ロフトン旅行団がロンドンを出発するほんの少し前だ。  ダフは封筒から厚い中身を出した。ハニウッドの字はとても小さいが、なおかつこの妻への手紙は数ページにわたっている。大きな期待をもって、ダフは読みはじめた。 [#ここから1字下げ]  愛するシビル  この便箋にホテルの名が印刷してあるから、それでぼくがニューヨークから知らせたように、医師に勧められた世界一周旅行でロンドンに今いることは、君にわかるだろう。この旅行はぼくにとっては、休息、解放、憩いの時となるはずだった。それだのに悪夢のような、この上もない恐ろしいことになってしまった。ジム・エヴァハードもいっしょに旅行に来ているのだ。ぼくにそれがわかったのは、二月七日の朝、今から一週間と少し前のことだった。最も恐ろしい条件の下にそれがわかった。実に奇妙な、恐ろしい条件の下にだ。まあ、順を追って説明しよう。  ぼくがニューヨークで汽船に乗ったときには、旅行のほかのメンバーは、名前さえ知らない人ばかりだった。その前に会ったのは、引率者だけだった。出帆の前に、ほんの少しの間甲板に勢揃いさせられて、そのときぼくはほかの全部の人たちと握手をした。ぼくはジム・エヴァハードに気がつかなかった。気がつくはずはない。ぼくが彼を見たのは、君も覚えているだろうが、あのとき一度だけだ、しかもそう明かるいところではなかった。あの君のところの小さな客間の薄暗い石油ランプの下でだった。もう何年も前のことだ。たしかに、ぼくはみんなと握手をした。ジム・エヴァハードともだ。ぼくを殺すと誓ったあの男――そして君も殺すと誓ったあの男ともだ。しかもぼくは少しも気がつかなかった。夢にも思わなかった。  さて、ぼくたちは出帆した。波が荒れて、ぼくはサザムプトンへ着いた朝まで、暗くなってからたまにデッキをちょっと散歩した以外には、自分の船室から出なかった。ロンドンに着いたが、それでもぼくは気がつかなかった。最初の数日間は見物で忙しかったが、ぼくはそれに加わらなかった。ぼくは見物のために外国へ来たのではなかったし、それになにしろロンドンは退屈なところだ。  二月六日の夜、ぼくがブルーム・ホテルの談話室にいたら、一行のほかのメンバーの一人が入って来た。ヒュー・モリス・ドレイクというデトロイトから来たりっぱな老人で、この上もなく親切な人で、非常なつんぼだ。二人で話をした。ぼくはその人に自分の病気のことを話し、隣の部屋で夜遅くまで、大声で本を読んでいる人がいるので、ロンドンへ着いてからほとんど眠っていないということを、付け加えた。休めないのがわかっているから、上へ行ってベッドへ入る気がしないということもいった。  それを聞いて、その老人は或ることを考えついた。つんぼだから、ぼくを悩ましているようなことは全然苦にならないといって、夜だけ部屋を入れ替わろうと申し出てくれた。聞いてみると、その人の部屋はぼくの部屋の隣なので、入れ替わることは簡単だと思われた。ぼくはドレイク氏の申し出を、感謝して受け入れた。それで、いっしょに上へ行った。二人とも持ち物をそのまま残しておいて、境のドアを開けて、ベッドだけ入れかわることにした。ぼくは境のドアを閉めて、ベッドに入った――ドレイク氏のベッドに。  ぼくは医師から最後の手段として使うために、睡眠薬をもらっていたので、必ず眠れるようにと、ベッドをかわっただけでなく、それも一服飲んだ。今までと違って静かだったのと、その薬のおかげで、ぼくは何カ月も経験しなかったくらいよく眠った。しかしぼくは六時半に目をさまして、その日の午前にパリへ出発することになっていたので、ドレイク氏は早く起きたいといっていたから、ぼくは隣の自分の部屋へ行った。  ぼくはそこへ入って、見回した。ドレイク氏の服は椅子にかけてあり、補聴器はテーブルの上に置いてあった。ドアも窓も全部閉まっていた。ぼくは起こそうと思って、ベッドのそばへ行った。ドレイク氏は鞄の革紐で首を締められていた。死んでいた。  最初ぼくにはなんのことだかわからなかった。朝早くて、まだ目がさめきっていなくて、――こういう時のことは君にわかるだろう。それから、ベッドの上に、小さなセーム皮の袋があるのが、ぼくの目に入った。君は覚えているだろう? ぼくたちがジム・エヴァハードにやったあの袋の一つだ。袋はたしか二つあったはずだ。ぼくの記憶に誤りのないかぎり、中に小石を入れた袋は二つあった。  ぼくは腰をおろして、よく考えてみた。簡単なことだ。ジム・エヴァハードがブルーム・ホテルのどこかにいたのだ。ぼくが旅行団といっしょにいるのを知ったのだ。昔のおどかしをいよいよ実行する決意をしていたのだ。夜中にぼくを締め殺して、あの小石の袋を返すために、ぼくの部屋にしのび込んだのだ。ぼくの部屋にだ! しかしその夜は、それはぼくの部屋ではなかった。ドレイク氏が、街灯のあかりが全然射してこない暗い隅にあるぼくのベッドにいたわけだ。それでドレイク氏は死んだ。ぼくに親切にしたために死んだ。皮肉ないい方が許されるならば、つんぼのために死んだ。  恐ろしいことだった。しかし、しっかりしなければならないということは、ぼくは知っていた。こうなってはドレイク氏をどうすることもできなかった。こうなることを防ぐためになら、ぼくは喜んで命を投げ出したであろうが、もう手遅れだった。ぼくはなんとかこの場の処置をしなければならなかった。ぼくは君に再会したかった。声を聞きたかった。ぼくは君を愛している。君に会ったその瞬間に君を愛した。もしそうでなかったなら、こんなことは決して起こらなかったろう。しかしぼくはそれを後悔してはいない。これからも決して後悔はしない。  ぼくは気の毒なドレイク氏を、ぼくのベッドの中に、ぼくの持ち物がそのままあるところに、残しておくことはできないと決心した。そんなことをしたら、説明のつけようがない。それでぼくは彼を彼の部屋へ運んで、彼のベッドの中に入れた。小石の袋があったが、ぼくはそんなものを持っていることはいやだった。それをどうしたらいいか、ぼくはわからなかった。こんなものは誰にもなんの意味ももたない。ジム・エヴァハードにとって以外には――そしてぼくたちにとって以外には。ぼくはそれを、ベッドの上のドレイク氏の横に置いて来た。そうしながら、ぼくは微笑しそうになった。ずっと何年間もそれを持っていて、最後に間違った場所にそれを残して来て、違った人間に復讐したジム・エヴァハードのことを考えてだ。しかしもちろん、彼はまだもう一つの袋を持っている。  ぼくは自分の部屋から廊下へ出るドアの錠を開けて、そこからまたドレイク氏の部屋に戻って、ぼくの部屋との境のドアの錠をそちらの側からおろした。補聴器にもぼくは気がついて、それも移さなければならなかったので、指紋をきれいに拭きとっておいた。それに気がついたのは幸運だった。それから、ドレイク氏の部屋から廊下に出て、バネ錠がおりるようにドアを閉めて、また自分の部屋に入った。誰もぼくを見なかった。しかしぼくは、夜ドレイク氏宛ての電報をボーイがもって来て、その男が部屋を入れ替わったのを知っているということを、思い出した。彼が出勤するとすぐ、ぼくは彼を呼んで、買収した。それは簡単にできた。それからぼくはじっとして、朝食の時間を待った。また新しい一日がきた。その日にぼくはジム・エヴァハードに会った。  ぼくは彼を見た。こんどは彼がわかった。目だ――人間の目には何年たっても決して変わらない何かがある。ぼくはホテルの談話室にかけて、ロンドン警視庁の警部を待っていた。そのときにぼくが見上げたら、彼がそこに立っていた。ジム・エヴァハード――いまはほかの名を使っている。そして同じく旅行団といっしょに旅行している。  警視庁の人が質問をしている間、ぼくはどうすればいいかを、しきりに考えた。旅行団から抜けてはまずいと思った。ぼくの立場はすでにまずいことになっていたから。ぼくは神経がまいって、質問にうまく答えられなかった。もしぼくが抜けたらば、ぼくはすぐ逮捕されるかもしれないところだった。そうなれば、あの不幸な過去のことが全部わかってしまうかもしれない。抜けることはできなかった。差し当たりぼくは旅行をつづける以外になかった。前よりも一層ぼくを殺す決心をしているに違いない男、いわばすでにぼくを殺したといっていい男といっしょにだ。  ぼくは旅行をつづける以外にないと決心した。一週間、毎晩ぼくは箪笥をドアに押しつけて眠った――少なくとも眠ろうとした。そのうちに、ぼくに自分を保護するための計画が考えられて来た。エヴァハードのところへ行って、ぼくの身に何か起こった場合に開封されることになっている封書を、安全なところにあずけてあるということを話すことにした。その封筒の中身には、彼の名が――ぼくが殺された場合の殺人犯人の名が、書いてあるというように思わせてやることにした。そうすれば、少なくともいまのところは、彼は何もできまいと、ぼくは考えた。  ぼくはそういう封筒を用意した。しかしその中の短い手紙には、エヴァハードのいまの名は書かなかった。たとえ何があろうと――たとえ彼が最後にぼくを殺そうと――あの昔の話を知られてはならない。あの暗い過去のことをだ。そんなことをしたら、君のりっぱなキャリアがめちゃめちゃになる。それは許せない。ぼくは君のことを大きな誇りとして来たのだから。  ぼくはその封筒を、やっと今日の午後、旅行団のメンバーで、誰もその人とは思いつきっこない或る人に、あずけたばかりだ。ほんの少し前に、ぼくはジム・エヴァハードがロビーにいるのを見た。ぼくはそこへ行って、彼のそばにかけて、まるで天気の話でもしているような何気ない調子で、ぼくのしたことを、彼に話した。彼は何もいわずに、ただじっとぼくのことを見ていた。ぼくは彼の名が中に書いてある封筒のことを彼に話した。名が書いてあるというのは、もちろん嘘だが、ぼくのプランは成功するだろうと思う。  だからぼくは旅行団といっしょに旅行をつづける。ニースまでは。そこへ着く前に、彼は何もしないであろうと、ぼくは確信している。ああやっておいたから、彼はすっかりおじけづいているらしい――それが当然だ。旅行団がニースに着いた最初の夜に、ぼくは闇にまぎれて車で抜け出して、サン・レモへ行って、君といっしょになるつもりだ。ロンドンの警視庁はいまのところ捜査を断念している。いずれにせよ、ぼくを引き止めることはできまい。ぼくたちは危険が去るまで隠れていよう。こういう予期しなかった危険に当面した以上、当然ぼくたちのいさかいはなかったものとしよう。  君は知りたかろうが、ぼくはジム・エヴァハードがこの旅行団といっしょの旅行で使っている名前を、君に知らせるつもりはない。君はいつもとても衝動的で、すぐ行動を起こした。もし君がその名前を知っていて、そしてぼくに何か起これば、君は黙ってはいられまい。一思いに君の輝かしいキャリアを放棄して、全部話してしまうことだろう。そして必ずそれを一生ひどく後悔することになるだろう。もしもぼくに何か起こったとしたら、お願いだから、すぐにロフトン旅行団のコースから離れてもらいたい。サン・レモから姿を消してもらいたい。君自身の安全を、何よりも先に君は考えなければならない。ゼノアまで自動車で行って、ニューヨーク行きの最初の汽船に乗りたまえ。ぼくのためだと思ってもらいたい。お願いだ。君の人生に残された年月をだめにしてはいけない。そんなことをしても、なんの役にも立たない。過去のために将来を犠牲にしてはならない。  しかしぼくには何事も起こるまい。君はただ、ぼくがいましているのと同じように、平静にしていさえすればいい。いまこの手紙を書いているぼくの手はすこしも震えてはいない。最後には何もかもよくなると、ぼくは確信している。君に会う時間のことは、電報で知らせる。ぼくが行くときに、ぼくを迎える用意をしておいてもらいたい。第二の蜜月旅行に出かけよう。エヴァハードと遠い昔の出来事は、いままで何年間も隠れていた闇の中にまた消えて行くだろう。永久の愛をこめて、[#地から2字上げ]ウォルター [#ここで字下げ終わり]  ダフは沈痛な顔をして、この手紙をたたんで、封筒に戻した。彼は強い絶望感に襲われた。またしても、いざこれで解決というところまで来て、その待望の鍵は最後の瞬間にもぎとられてしまった。ドレイクが殺されたのは単なる偶然であったということがわかったのは、彼をそう驚かせはしなかった。彼は最近の数日来、そうではないかと疑っていた。しかし偶然であろうがそうでなかろうが、その犯人は逮捕して、法の裁きを受けさせなければならない。そしてこの手紙の全部を通じて、犯人――いまでは三重殺人の犯人だ――の名は、ハニウッドのペンの先まで出かかっていたのだ。そこで、止まってしまった。どの名か? テイトか、ケナウェイか、ヴィヴィアンか? ロフトンか、ロスか? ミンチンか、ベンバウか、キーンか? 或いはフェンウィックとも考えられる。だが、そんなことはあるまい。フェンウィックはすでに旅行団といっしょではなかった。今夜の殺人に関係があるとは、ちょっと考えられない。  よし、最後には解決してみせる。さもなければ、あのエレベーターの悲劇を見た以上、永久に自分の名は汚れる。ダフのこの決心を示すように、唇が固く結ばれた。彼は手紙を鞄にしっかりしまって、錠をおろして、下へ行った。  そのときロビーにいたのは、ロフトン博士だけだった。ロフトンはすぐダフのそばへ来たが、その顔を見て、ダフは驚いた。顎ひげの下の顔は真蒼で、目はこっちを凝視していた。 「いったいどうしたということです?」とロフトンは聞いた。 「ハニウッドの細君です」ダフは冷静に答えた。「エレベーターの中で、わたしの横で殺されました。ドレイク氏とハニウッドを殺した犯人を、わたしに教えるところだったのです。誰だということを――あなたの旅行団のなかの」 「私の旅行団のなかの」ロフトンはおうむ返しにいった。「そうです、いまでは私はそう信じます。いままでは[#「いままでは」は底本では「いままはで」]ずっと、そんなことはあり得ないと、思っていたのですが」絶望したように肩をすぼめた。「旅行はもうだめです。これで止めにします」  ダフはロフトンの腕をぎゅっとつかんだ。人が食堂から出て来るところなので、ロフトンを隅のほうへ引っぱって行った。 「いいや、つづけてください。本当に、あなたにそんなことをされてはわたしが困ります。いいですか、こんど殺されたのは、あなたの旅行団のメンバーではないです。あなたはこの事件について、会員にほとんど何も話す必要はありません。土地の警察の捜査の対象にあなたが全然ならないように、わたしはしています。会員の人たちはおそらく質問は受けるでしょうが、それはホテルのほかの客と同じ立場でです。こんなイタリアの警察に真相はつかめっこはないです。もっと優秀な連中がやっても駄目でしょう。一日か二日すれば、あなたは出発できます――まるで何事もなかったようにです。わたしのいうこと、わかりますね?」 「わかります。しかしあまりたくさんのことがあったので」 「そんなことを知っているのは、われわれのなかのごく一部です。旅行をつづけてください。そうすれば、あなたの旅行団のなかにいる犯人は、安全だと思いはじめるでしょう。犯人はもう仕事をすませました。旅行を継続して、あとはわたしに任せておいてください――それからロンドン警視庁に。わかりましたね?」  ロフトンはうなずいた。「わかりました。あなたがそういうなら、やります。しかしこの最後の事件はちょっとひどすぎます。私はそれを聞いたときは、全くまいりました」 「それは当然です」  ダフはこう答えて、ロフトンから離れた。食堂のドアを入ってすぐのテーブルについて、夕食をしながら、彼はじっと考え込んだ。はじめて、ロフトンが旅行を中止するということをいった。この瞬間になって――犯人の仕事が成しとげられたときになって。  ダフがうまいスープに取り組んでいるとき、パメラ・ポッターが入って来て、彼のテーブルの横で立ち止まった。 「ところで、わたしニュースをもって来ましたわ。わたし、ケナウェイさんといっしょに、ここへ着くとすぐ、散歩に出ました。テイトさんがちょっと眠っていましたから。車が一台そこに止まって、待っていました。虫の知らせでしょうか、わたしちょっとそこに立ち止まって、何を待っているのか、見てみたいと思いまして」 「なるほど」ダフは微笑した。「それで、その車は誰を待っていました?」 「むずかしくおっしゃいますのね」彼女はうなずいた。「でも世の中のことは、何とか誰とか区別なさらなくてもいいですわ。そうじゃありません? そんなことより、その車が待っていたのは、わたしたちのお馴染の人だったんです。その人たちがこのホテルから急いで出て来ました、荷物を全部もって。フェンウィックの二人の方が」  ダフのもじゃもじゃした眉がぐっと上がった。「フェンウィックの二人が?」 「そうですとも。二人ともケナウェイさんとわたしを見て、びっくりしていたようでした。あすまではわたしたちはここへは来ないはずだと思ったと、いいました。わたし、予定が例によってまた変わったと、説明してやりましたわ」 「それは何時でした?」 「七時ちょっと過ぎでした。ケナウェイさんとわたしがロビーで落ちあったのが、ちょうど七時でしたから」 「七時ちょっと過ぎ」ダフは考え込みながら、それを繰り返した。  パメラはそのまま離れたテーブルにいるリュース夫人のところへ行った。ダフはまた腰をおろして、スープに戻った。エレベーターに弾丸が射ち込まれたのは、きっかり六時四十五分であったということを、彼は考えた。 [#改ページ] [#2字下げ]※[#ローマ数字3、1-13-23][#「※[#ローマ数字3、1-13-23]」は大見出し] [#5字下げ]11 ゼノア特急[#「11 ゼノア特急」は中見出し]  最後の肉の前の料理を食べている間、ダフはフェンウィックの問題を検討しつづけていた。心ここにあらずでは、今夜の料理長の傑作も本当に味わえないから、まことに惜しいことであった。あのイタリアの警察官を訪ねて、フェンウィックの二人を逮捕してサン・レモに連れもとすように、提案すべきであろうか? これは簡単にできよう。しかしそれからがどうなるか? ノーマン・フェンウィックに対する証拠はまったくない。彼に注意を向けさせることは、ロフトン旅行団を巻き込むことになろう。これはダフがどうしても避けたいことだ。いいや、フェンウィックがなんだかあわてて出発したことは、イタリアの警察には話すまい。必ず出てくるロースト・チキンを食べながら、ダフはこう決心した。  彼はそのあとで、市の警察の警視に会って、難問題に当面して困っているこの紳士を、フェンウィックのことでさらに困惑させないことにしてよかったと、思った。このイタリア人はシビル・コンウェイの部屋で会ったときには、かなり平静であったように見えたが、そういう心境は長続きしなかったものらしい。事件を調べて行くうちに、気の毒にも、彼には自分の当面している事態がどんなものだかわかり出して来て、もうすっかり不機嫌になって、感情に走りやすいラテン民族の特徴を現わしていた。手がかりのない殺人事件。指紋も、足跡も、検査すべき凶器もない。現場にいたのはダフ一人で、ロンドン警視庁から派遣された人間だから、これに嫌疑をかけるわけにはいかない。凶行の行なわれたときには、ホテルには百二十人の客と三十人の使用人がいた。このイタリア警察官が取り乱して、無益な質問をしてあたり散らし、しだいに興奮状態になって、最後には何も知らない興奮しやすい子供のようなボーイを相手に、むきになって、この事件について長い議論をしだしたのも、無理はない。  その夜の十時に、ダフはパメラ・ポッターとケナウェイがホテルのテラスの籐椅子にいるのにぶつかった。 「話をしているにはもってこいの場所ですなあ」といいながら、彼は二人のそばに腰をおろした。 「ほんとにそうです」ケナウェイがいった。「あのとても大きな月を見てごらんなさい。庭からオレンジの花の匂いもただよってきます。これも会費の中に入っているのか、それとも特別の費用として勘定書で請求されるのか、どっちだろうとぼくたちは考えていたところです。ロフトン博士との契約書のことなんです。ミネラル・ウォーターや酒類や洗濯物など、個人的な費用は負担しないとなってますからね。月の光やオレンジの花は、個人的な費用の中に入るのが、当然でしょう」 「ロマンチックな考えごとの最中を、じゃましてすみませんな」ダフは微笑した。「ポッターさんのお話だと、あなた方は二人で夕食のすぐ前に、散歩されたそうですね?」  ケナウェイはうなずいた。「食欲をつけようとしていたんです。こういう旅行をしばらくやっていると、人生は定食の延長にすぎないという気がして来ます」 「あなたがテイトさんに外出するといったとき、テイトさんはそれに反対しましたか?」 「いいえ、しなかったです。それどころか、むしろ賛成しました。とても疲れているから、八時前に夕食はしたくない、夕食の前にしばらく横になりたいと、いいました。ぼくたちの部屋はかなり小さいですから、たぶんぼくがうろついていると、じゃまになると思ったんでしょう」 「あなた方の部屋は何階です?」 「三階です」 「エレベーターに近いですか?」 「すぐ前です」 「なるほど。きょうの夕方の六時四十五分には、あなたはまだホテルを出なかったはずです。そのころピストルの音を聞きませんでしたか?」 「聞きました」 「そのとき、あなたはどこにいました?」 「ロビーに降りて、ポッターさんを待っていました。七時に落ちあうことになっていたんですが、テイトさんが追い出すみたいなことをしたもので」 「ほかに誰がロビーにいました? 旅行団のメンバーがほかに誰かいましたか?」 「いいや。ぼくと使用人が少しいただけです。ぼくはピストルの音を聞きましたが、それがなんだか、すぐにはわかりませんでした。エレベーターのシャフトから聞こえましたからね。あのエレベーターには乗って知っていますから、それで驚かなかったんです。あんなもの、いつ赤い煙に包まれて破裂するかもしれないと、思ってました」 「すると、そのピストルが射たれたときには、テイトさんは部屋に一人でいたのですね?」 「それは確かです。一人で、おそらくぐっすり眠って」 「おそらくね」ダフはうなずいた。  その瞬間に、テイトがテラスに現われた。姿勢を正して立っていた。リヴィエラの月の光に照らされた、タキシードを着た背の高い姿はりっぱに見えた。ダフは彼のことを、いままで老人だと思っていたが、見かけほど老人ではない気が、突然した。病気と心労は顔に表われているといえるが、老齢のかげはない。 「君はここにいると思った」テイトはケナウェイにいった。 「おかけください、テイトさん」ダフがすすめた。「われわれは景色を眺めていたところです」 「景色にはあきあきしたです。ニューヨークにいたらよかった。わたしのように一生活動して来た人間には、こうやってぶらぶらしているのは苦痛ですな」  テイトも旅行団から抜けようと考えているのだろうかと、ダフは怪しんだ。 「さあ、ケナウェイ君、早く行こう」テイトは言葉をつづけた。「わしはベッドへ入りたい。今夜はそう長く読んでもらわんでもよろしい」 「やはり推理小説ですか?」ダフは聞いた。 「どうして。本で殺人のことを読まんでも、実生活で殺人は充分です。いまはロシアの小説ですよ。ケナウェイ君の考えでしてな。ケナウェイ君はいいことを考えたものだと思ってですが、たしかにそうです。わたしは聞いているか、それとも眠るか、どちらかにしなければならんですから、そうなれば当然眠るほうを選ぶです。それでケナウェイ君は、ご婦人方のお相手をする時間がよけいできることになりますな」  テイトは向き直って、いま入って来た観音開きのガラスのドアのほうへ向かった。「さあ、ケナウェイ君」と肩越しにいいながら。  ケナウェイはいやいや立ち上がった。「ラッパの声義務を告げれば、若人それに応ずです。失礼します、ポッターさん。マーク・ケナウェイは引き上げます。オレンジの花に特別料金がかかるんだったら、これからはあなたが一人で負担するんですよ」 「いい青年ですなあ」ケナウェイの姿が見えなくなってから、ダフがいった。 「とても。時々はですよ。今夜はそういうときでした」 「時々とは、どういう意味です?」 「ときによって違うんですの。まるで、いったいなんだって粗野な中西部から来たこんな女と、口をきくようになったのかというような顔をして、わたしを見ることもありましてよ。とにかく、ボストンの人ですから。でも――こんなこと、あなたにはおわかりにならないでしょうね」 「わかりませんね。旅行団のメンバーはこんどの殺人を、どう受け取っています?」 「かなり平静らしいですわ。人というものは、なんにでもしだいに慣れてくるものだそうですから。ここへしばらく引き止められるんでしょうねえ?」 「わかりませんね。イタリアの殺人の捜査というのは、複雑なことになりがちでして。警察が三つあります。市の警察と国家警察と保安警察と。最後のは小さな犯罪を取り扱うだけですが、前の二つが同時に殺人事件の捜査に出動することが、よくあります。その結果は、たがいになんのかんのとつまらない喧嘩になります。今までのところ、この事件には市の警察しか来ていませんが、わたしは国家警察が乗り出さなければいいと思っています。それが乗り出さなければ、たいして面倒なことになりますまい。わたしはあの苦労している警視には、これはわたしの事件だから、心配しなくてもいいと、説得する自信があります、必ず」  パメラが急にそばへ体をよせた。「教えてください、お願いです」と真剣な調子でいった。「犯人はいつも同じ人なのですか? わたしの祖父のも、ハニウッドさんのも、こんどのハニウッドさんの奥さんのも? みんな同じ人に殺されたのですか?」  ダフはゆっくりうなずいた。「それは間違いありません、パメラさん。同じ男です」 「誰です?」彼女の低い、緊張した声。「誰なんです?」  ダフは微笑した。「時が来れば、わかることです。これはわたしの古い友人の言葉ですよ。シナ人で、あなたがホノルルに着いたら、この人に会ってもらいたいものですね。いまのところ、われわれは石の壁に突きあたっております。方向を変更して、新しい道を捜さねばなりません。これも、この友人の言葉です」  彼女はだまっていた。ちょっと沈黙があってから、ダフは話をつづけた。 「わたしは話したいことがあるので、今夜あなたを捜していました、パメラさん。少なくとも、事件の謎の一部は解けました。わたしは自分の鞄の中に、なぜあなたのおじいさんがこの事件に巻き込まれることになったのかを、完全に説明できる手紙をもっています」  パメラは飛び上がった。「そんなものを! わたしに見せてください」 「もちろんです」ダフは立ち上がった。「いっしょに上へ来てくだされば、それをお貸しします。自分の部屋へ持って行って、お読みなさい。あすの朝になったら、返してもらいたいです」  一言もいわずに、彼女は彼といっしょに、あかるく照らされているロビーに入った。それから、二人はエレベーターのほうへ向かった。ダフは不快の色をはっきり表わして、その小さな檻を眺めた。 「わたしの部屋は二階です」ダフは相手の気をひいてみた。 「じゃあ、こんなものに乗ることありませんわ。歩きましょう」  彼が手紙をもって来るまで、彼女はドアのところで待っていた。驚かないようにという言葉と同情の言葉を、彼は躍気になって考えたが、いい言葉が浮かばなかった。言葉は彼の得意ではない。彼にいえたのは、「あす、何時に会いましょうか?」だけだった。 「八時に。ロビーで」  彼女はこう答えて、厚い封筒をぎゅっと持って、急いでそこを離れた。  ダフは下へもどって、苦闘している市警の警視とまた話をした。これ以上捜査をつづけても無意味だという考えを、うまく相手の心に植えつけた。この特殊の殺人は絶対に解決できないと思われるが、幸いなことに、連続殺人事件の続きであり、最初のがロンドンで起こったのであるから、全部がロンドン警視庁の責任だということを、指摘した。イギリス警察がイタリアの警察に代わって、この困難な感謝されない仕事にあたるつもりだということを、打ち明けた。  イタリアの警視は、イタリアの警察としてはそうしてもらえばありがたいということを、打ち明けた。二人が別れたときには、イタリアの警視は前よりもずっとうれしそうにみえた。  そのあくる日は、いかにもリヴィエラ海岸らしいいい天気になった。紺青の空、輝く海、そして鋳造したての金貨のように光っている日光。予定どおり、ダフは八時にロビーで、パメラ・ポッターに会った。彼女はこの朝の美しさも感じないようであった。菫《すみれ》色の目は泣いたばかり跡を残して、曇っていた。彼女は手紙をダフに返した。 「驚かないようにと、あなたにいっておきたかったのですが、なんといっていいかわからなかったもので。どうも気がきかなくて、すみませんでした」ダフはいった。 「いいえ、どういたしまして」彼女は低い声で答えた。「ああしてくださったのが、いちばんよかったのです。かわいそうなおじいさま――なんの理由もないのに殺されて。ほかの人に親切にしたために、殺されて」 「そうあなたにいわれれば、あの方も浮かばれるでしょう」ダフは静かにいった。  彼女は美しい目を光らせて、彼を見た。「でも、わたしの気はこれではすみません。わたしはこの人をみつけたいのです――おじいさまを殺した人を。それまでは、わたしの心はやすまりません」 「わたしもです」ダフはエレベーターの事件を考えた。「わたしの心も絶対にやすまりません。わたしの目の黒いうちは、ジム・エヴァハードを追いつめるつもりです。あなたに何か気がついたことは――」  彼女は頭を振った。「わたしはほとんど一晩眠らずに、考えていました。旅行団の男の人のなかの誰なんでしょう? こんなことができそうに見える人は、一人もいません――ミンチンさんだって。誰でしょう、いったい? ヴィヴィアンさんでしょうか? あの人はスパイサーさんのことだけしか考えていないようです。キーン大尉は? こそこそ人の様子を探って――わたし嫌いです。でも嫌いだというだけでは、理由になりません。テイトさんは? あの人はときどきとてもいやな時がありますけれど、でも、お気の毒に病人です。ロスさんは? この人が関係があるとは考えられません。ベンバウさんときたら、映画にとって、アクロンに帰って人に見せることができないようなことは、なんにもしないにきまっています。まだロフトン博士がいます。それからあのちっぽけなフェンウィックというばかみたいな人が。でも、あの人だなんて、とてもばからしくて――」 「この問題で、ばからしくて考えられないということはありません」ダフは口をはさんだ。「ところで、あなたは旅行団のメンバーを一人、忘れていますね」 「まあ?」彼女は驚いたような顔をした。「誰です? 誰を[#「を」に傍点]ですというんでしたね。あなたは言葉の使い方がとてもやかましいですから」 「わたしがいったのは、マーク・ケナウェイ君のことです」  彼女は微笑した。「まあ、ばかなことおっしゃらないで」 「わたしなら誰のことも見のがしません。それに、わたしはあなたに仲間になってもらおうと思う以上は――」 「それはどういう意味ですの?」 「わたしがおそらく、しばらく旅行団から離れるだろうということです。これ以上、そのお、事故が起こるとは、わたしは予期しません。だから、わたしがいっしょに行っても、わたしにできることはほとんどありません。昨夜もいったように、わたしは石の壁に突きあたって、方向を変更して、新しい道を捜さなければならないわけです。遅かれ早かれ、わたしはまた必ず、あなた方といっしょになることでしょう。それまでは、わたしはあなたにわたしの代理として行動してもらいたいのです。どうか、一行のなかの男の人たちに注意していて、立ち寄るほうぼうの港から、ときどきわたしに手紙で知らせてください。どういう様子になっているか、それだけ書いてください。何か手がかりらしいと思われることにぶつかったら、なんでもいいから、教えてください。つまり――おもしろい噂《うわさ》話の手紙ですね。そういうことは、あなたは大いにお得意でしょう、きっと。何か重要なことが起こったら、電報を打ってください。ロンドン、警視庁で、わたしに届きます。やってくれますか?」 「もちろんです」彼女はうなずいた。「わたしもう二十人ばかり、ボーイ・フレンドに手紙を書いてます。大勢になるほど、おもしろいですわ」 「わたしをそのリストのなかに入れてもらって、恐縮ですなあ。どうもありがとう」  リュース夫人がやって来た。 「まあ、ここにいたのね、パメラさん。こんな安全なお連れがいて、結構ね。おや、そんな顔して、わたしのことを見ないでくださいな、警部さん。心の問題になると、あなたもほかの男と同じように、危険なんでしょうから。さあ――こういってあげれば、よろしいでしょ」  ダフは声を立てて笑った。「すばらしい朝ですね」 「そうかしら? わたし自分が南カリフォルニアから来たもので、べつにそうとも思いません」 「よくお休みになれまして?」パメラが愛想よく聞いた。 「わたしいつもよく眠れましてよ――ただちょいちょい寝る場所が変わっていさえすれば。人殺しがあっても平気ですよ。わたし覚えているけれど、いつかインドのデリーのメイドン・ホテルで――そりゃあ、ただの食堂の皿洗いのボーイでしたけれど――つまり被害者はね。でも、この思い出はわたしだけのことにしておきましょう。きのうの夜の事件はどうなりました、警部さん?」 「何もわかりません、例によって」ダフはむずかしい顔をした。 「そんなこと、わたし驚きません。あなたは超人ではないし、人を殺したくてたまらないわたしたちのお仲間は、超人のように思われて来ましたから。利口な人ですよ、たしかに。一つ安心することがあります――旅行団以外の人に手を出すようになりましたからね。わたしたち皆殺しにならずにすみそうです、結局。朝食に行きますか、パメラさん?」 「わたしおなかぺこぺこです」  パメラはリュース夫人について、食堂へ入って行った。  昼までには、イタリアの当局はホテルにいる観光客を誰も引き止めようとはしないことが、はっきりした。観光事業はこのリヴィエラ海岸地方では重要な事業であって、警察官の気まぐれを満足させるために、妨害されてはならない。ホテルの入口に鞄が積み重ねられて、数人の客が出発した。ロフトン旅行団の人たちに、二時のゼノア行特急に乗るということが伝えられた。みんな出発したがっていた。ロフトン自身も、前夜の絶望的な気分から回復していた。同時にあらゆるところに現われて、予定を知らせたり、注意を与えたりしていた。  市の警察の例の警視はというと、非常に元気になっていた。同僚と相談し、ローマへ電報を打った結果、事件の全部をロンドン警視庁に任せることに決定した。これでこの警視には、制服を着用することと、名流婦人たちを感心させる以外に、することはなくなった。この仕事は両方とも、彼の得意とするところであり、自分でもそのことは知っている。  またしても、いつかのロンドンの朝と同じく、ダフ警部は彼が捕えたくてたまらない獲物が必ずなかにいることがわかっていながら、そのグループに別れを告げるという妙な立場に立たされた。長い旅行に出る彼らを見送ったわけだ――ナポリへ、アレキサンドリアへ、ボンベイへ、東洋の端の港々へ。しかしこのときには、彼は運命の成り行きに任せるというあきらめがついていた。陽気な態度で、彼はみんなと、新市街のすぐ外の西港にある駅へ行った。  彼らはプラットフォームに集まって、発車を待った。ベンバウは例のカメラを持ち、ミンチンの妻は宝石店での新しい買物をいっぱいつけて。「うちの人なら税関に金を払わなくてもすむでしょうよ」と、彼女は誇らかに予言した。  急に、スパイサー夫人が小さな叫び声をあげた。「まあ、わたし今まで気がつきませんでしたわ」 「どうしたのです」ロフトン博士が心配して聞いた。 「わたしたち十三人ですわよ」彼女はおびえた顔で答えた。  ミンチンが彼女の背中をたたいた。「そんなことなんでもないでさ」  ロフトンはうんざりしたような微笑を見せた。「旅行団にはいまは十二人だけです。私は団員ではありませんからな、よろしいですか」 「いいえ、あなたも団員ですよ」彼女はいい張った。「しかも、あなたが十三人目ですわ」 「くだらないことを、アイリーンさん」ヴィヴィアンがいった。「あんたが迷信を信じるなんて」 「信じますわよ。誰だってそうよ」 「無知な連中ですよ。いや、これは失礼――」  あやまっても、ちょっと手遅れだった。彼女はもうヴィヴィアンを睨みつけていた。その視線が向けられていない人たちさえ、ぞっとするくらいだった。緑の目が危険な光を宿していた。 「わたしも迷信深いですよ」リュース夫人がとりなすように口を入れた。「しかし十三についてではありません。十三はいつもわたしには幸運の数でした。でも、黒猫ということになりますとね。十年前に、上海《シャンハイ》の静安寺路で、わたしの人力車の前を黒猫が通ったことがありましてね。それから数時間たったら、自動車が人力にぶつかりましたよ。わたしは無事でしたけれど、いつでもわたし、その猫のせいだと思っています。十三は、スパイサーさん、さっきもいったように――」  しかしスパイサー夫人は高ぶった態度で、もう向こうへ行っていた。  急行列車が轟音を立てて、入って来た。例によって混《こ》んでいて、一等の客室では、急いで席捜しがはじまった。ダフはリュース夫人とパメラが席を捜すのを、手伝った。最後にもう一度、彼はパメラに、手紙をくれということを頼んだ。 「だいじょうぶですよ」彼女は微笑した。「わたし万年筆を持つと、とても雄弁になるんです」  ダフはプラットフォームに飛び降りた。ドアがばたばた閉められて行って、ロフトン旅行団の人たちは次々に彼の視界から姿を消して行く。ベンバウが、カメラを黒い革紐で肩からぶら下げて、妻が手招きした客室へ乗り込むのが、彼に見えた。マラッカのステッキを持ったロスが、ポーターに助けられて車に乗るのを、彼は見た。キーン大尉から、何もかもわかっているよといわんばかりの最後の微笑を受けとった。彼が最後に見たのは、パトリック・テイトの顔、皺がよって、悩みがあって年よりも老けたといった顔で、このきらきらするリヴィエラの日光の下で、死んだように青ざめて見える。 「さあ、これですんだ」とダフは肩をすぼめて、ロンドン行きの列車のことを聞くために、ホテルへもどった。  その翌々日の朝には、彼はロンドン警視庁で、警視の部屋にいた。いま話の後半――エレベーターの中の殺人といういやな事件――をいい終えたところで、顔を真っ赤にして、盛んに汗をかいている。  上司は彼を慰めるように見た。 「そう深刻に考えんでもよろしい、君。われわれの誰にでも、起こり得ることだ」 「わたしは非常に深刻に考えます。わたしはジム・エヴァハードを発見するまで、捜査をつづけます。何ヵ月もかかるかもしれませんが、最後にはつかまえてみせます」 「当然だ」警視はうなずいた。「君の気持はよくわかる。本庁の全能力をもって、君に応援する。しかしこのことは忘れんでくれたまえ。ハニウッドと彼の妻の殺人事件についての証拠は、われわれにはなんの価値もない。この二つの事件は、ロンドンで公判に付することはできない。だから、われわれに関心があるのは、ヒュー・モリス・ドレイクの殺人だけだ。われわれはエヴァハードを逮捕して、ここへ連れて来て、法の裁きを受けさせなければならないし、われわれの証拠は完壁《かんぺき》のものでなくてはならない」 「それはわかっております。ですから、わたしはニースやサン・レモで長居をすることはよしました」 「君のこれからの行動の予定は立っているのかね?」 「いいえ、いませんです。それについてご相談しようと思ったわけです」 「よろしい」警視は当然そうすべきだという証拠に、うなずいた。「この事件の君の記録を全部、ぼくに渡してくれたまえ。ぼくは一日中、それを検討してみる。君がきょうの午後五時に来てくれれば、そのときに、どうすればいいかきめよう。それからもう一度いっておくが、あのエレベーターの事件は気にしないように。これで犯人を逮捕するためのより強い刺激になったというように、考えたまえ」 「ありがとうございます」  ダフは入って来たときよりも、はるかに元気な気分になって、部屋を出た。いい人だ、あの上司は。  彼はヘイリーと昼食をした。ヘイリーは警視よりも、さらにもっと同情的だった。午後の五時に、彼はまた警視の部屋へ行った。 「やあ。まあかけたまえ。君の記録は読んだ。たしかに、謎だ。しかしぼくは一つ気がついたことがある。きっと君も気がついたに違いないが」警視はいった。 「それはなんです?」 「テイトという人間だ、ダフ君」 「なるほど――テイトか」 「どうも妙だ、君、どうも。彼の話は、あるいはたしかに真実であるかもしれないが、ぼくは読んでいるうちに、疑念をもった。彼はハニウッドが殺されたものと思って、談話室に入って、ハニウッドが生きているのを見て、それで死にそうな発作に襲われた。そんなに深刻に考えるべき理由が、どこにあるね? ハニウッドと彼はいわば赤の他人だ。なぜこのことが、そんなにショックだったか? 考えられる理由はただ――」警視は言葉を切った。 「よくわかりましたです。考えられる理由はただ、彼が自分の手でハニウッドを前夜絞殺したから、ハニウッドは死んだと思ったからだというわけですね。いいかえれば、テイトがジム・エヴァハードというわけですね」 「そのとおりだ」警視はうなずいた。「これは考えてみる価値がある。そこでだ、これからのことだが。その旅行団に関してはだね、ダフ君、当分の間その中に入って君がやるべき役目は終わったと、ぼくは思う」警視はこういって、伏目になった。「誤解せんでくれたまえ、君。ぼくのいう意味は、君はそこの人たちに知られ過ぎているから、そこでは何もできまいというだけのことだ。ぼくは君がロフトンからもらった予定表を調べてみた。エジプトのあとに、航海が四つある。ピー・オー汽船の定期便でポート・サイド、ボンベイ間、英印汽船会社の船でカルカッタからラングーンとシンガポールまで、それからほかのピー・オー汽船の船で、そこからサイゴン経由で香港《ホンコン》へ行く。香港からは、ダラー汽船の定期船でサンフランシスコに向かう。しばらく旅行団をほうっておこう。われわれの獲物は、われわれが捜査を打ち切ったと思って、油断するかもしれない。数日中に、ぼくは適任者をカルカッタへやって、その男にカルカッタから先、そのときの情勢に応じたやり方で旅行団と行を共にするように、指令するつもりだ。まだはっきりとは決めていないが、ウェルビー警部補をやるつもりでいる」 「最も頭のいい連中の一人であります、ウェルビーは」 「そうだよ。しかも汽船のボーイとか、何かそういうものとして、ちゃんと通用しそうなタイプだ。元気を出したまえ、君。もしウェルビーが何か決定的なものをつかんだら、君がそこへ行って、逮捕するんだ。それまでの間、アメリカでするベき仕事がある。ハニウッドの過去を調査し――あのセーム皮の袋の意味をだね、それから3260という番号の銀行の保護箱を捜すということもある。それは全部、君に任せる。しかし君は、まだすぐに出発するという必要はない。アメリカでの調査が、ロフトン旅行団がサンフランシスコに上陸する日付けとだいたい合致して、西部海岸で終わるように、タイミングを合わせてもらいたい」  ダフはまた微笑していた。「実にいいプランですなあ。しかし一つ申し上げてよろしいですか?」 「もちろん。なんだね?」 「わたしはホノルルで、旅行団といっしょになりたいのですが」 「なぜ、ホノルルで?」 「そうすれば、ホノルルからアメリカ本土までの最後の旅行に、わたしが参加できます。サンフランシスコで旅行団から離れる人がいるかもしれませんです。それに――」 「それに?」 「わたしにはホノルルに、非常に親しい友人がおります。わたしがとても好きな人間です。たしかその人のことは、わたしはお話ししたはずですが――チャン警部です、ホノルル警察の」  警視はうなずいた。「そうだった。チャーリー・チャン――ブルース総監の事件だったね。チャン警部は君に会って喜ぶと、君は思うのかね?」  ダフは不審に思った。「喜ぶと、わたしは確信しております。なぜ、そんなことをお尋ねです?」  上司は微笑した。「ぼくはチャン氏の喜ぶことをしたいと、ずっと前から思っていたからだ。心配はない、君。ちゃんとホノルルということにしてあげる」 [#5字下げ]12 チョウリンギー・ロードの宝石屋[#「12 チョウリンギー・ロードの宝石屋」は中見出し]  ダフにとっては、待遠しい何週間かがつづいた。ダフは細かな仕事に気をとられるようにしていたが、心はそれにはなかった。ウェルビー警部補はピー・オー汽船の船で出発した。カルカッタ目ざして。その前の数夜を、ダフは彼のコーチをして、自分の作った記録を声を立てて読んだり、ロフトン旅行団でなし得ることについて、いっしょに考えたりした。ウェルビーが非常に頭のいい若者であることを、ダフは痛感して、複雑な感情に襲われた。ウェルビーは刑事部の大多数の人間とは違って、奥地の農家の出身ではなく、ロンドン産で、しかもロンドンの中心のバウ教会の鐘の音が聞こえるところで生まれた、小柄ながら生粋のロンドンっ子だ。いままでだいたいこの鐘の音を聞きながら、生きて来た。七つの海は、彼にとってはまったく未知の世界だ。それについては、読んだことさえない。自分の行先の地理が、彼にはなかなかのみ込めなかった。しかし、これから先のことについては、少しも心配せずに、絶大な自信でのぞんでいた。小石の入った小さな袋を何度も調べてみて、それに魅せられたようだった。ここに最も重要な手がかりがあると、彼はいった。早く出発したがって、身ぶるいしていた。  さて、彼はもう出発してしまった。ダフはいっしょにティルバリー桟橋まで行って、自分と同じこの刑事部員の元気な顔が見えなくなるまで、じっと見送っていた。それからその夜、潮が引いて塩の香が空気に強くしているヴォクスホール橋を歩いて渡りながら、大きな冒険を果たすべくもう何マイルも海上に乗り出しているウェルビーのことを、ダフは考えた。ウェルビーが謎を解くであろうか? 当然ダフの特別の仕事である謎を? ダフは心を広くもとうと思った。ウェルビーの幸運を祈った。本気でそう祈った。  二週間と少しして、ロフトン旅行団の最初のニュースが着いた。紅海の出口の港、アデンの消印の、パメラ・ポッターの手紙で伝えられたニュースだ。ダフは開いて、読んだ。 [#ここから1字下げ]  親愛なるダフ警部様  すみませんでした。エジプトを見物して紅海に入る前に、ポート・サイドから第一回の報告を差し上げるつもりでいたのですが、毎日昼間はとてもつまっていて、夜はとてもすばらしかったものですから。なんといいますか、私たちただ呑気《のんき》に旅行しつづけているというだけです。もしあなたがごいっしょでしたら、ちょっといらいらなさったことだろうと思います。私たちの旅行団に殺人犯人がいても、誰も気にしていないようです。私たちはいろんな買物をすませたり、スフィンクスに会ったりしました。私ちゃんと忘れずにいて、私たちが答えをとても知りたがっているあの質問を、スフィンクスにしたのですが、スフィンクスは返事をしてはくれませんでした。  私ポート・サイトを見物しました。評判どおりの悪いところかもしれませんけれど、そこはリュースさんが私に見せてくれませんでした。あの方はそのことを話して聞かせるといいました。そして聞かせてくださいました。本当に、あの方は例によって思い出でいっぱいです。あの方の話を聞くときには、世界地図が必要です。でも、あの方はいい方です。  私たちはスエズ運河を通過しました。泥の河のようで、水門のそばの詰所に、しょんぼり人がいるだけでした。私降りて、その人たちに、モーリス・シュヴァリエのトーキーの話をしてやりたくなりました。両側は広い砂地に、ところどころいじけたアカシアの木が生えているだけです。砂漠のすがすがしい気持のいい風が船の上を吹いていきました。私たちもう紅海を出かかっています。出ることができて、私ほんとうにうれしいと思います。暑いんですもの、とても。飛魚が私たちに会ってうれしいとでもいうように、デッキに飛びこんで来ました。毎日夕方見ていると、太陽が大きな赤いボールみたいになって沈みます。それが海面にぶつかるとき、じゅうっという音がするのが聞こえます。少なくとも、私にはそう聞こえます。ケナウェイさんの話ですと、太陽が水面にぶつかるなんていうことはなくて、私に聞こえるのは、烏《からす》の巣で卵が焼ける音だそうですが。  ご命令に従って、私は旅行団の男性諸氏と交際を深めています。今までのところの成果は、私が女性諸氏にとても嫌われるようになったということだけです。ミンチン夫人さえ、私が旦那様を盗もうとしていると思っています。私が彼氏をちょっと相手にしすぎたのかもしれません。でも、ミンチンさんはとてもおもしろい人です。ベンバウさんのモデルに何度もなりましたから、奥さんがいまにもカメラを取り上げてしまうだろうと、私は期待しています。ほかの人については、そうそう、ステュアート・ヴィヴィアン氏に対しては、私は大成功を収めたと確信しています。  ヴィヴィアンさんと彼のレディ・フレンドが、サン・レモ駅でおもしろい喧嘩をしたのは、あなた覚えておいででしょうね? 迷信のことで。それからは何日も、二人は口をききませんでした。つまり、彼女のほうがきかなかったわけです。しばらくしたら、彼氏のほうは口をきかせようとするのをあきらめました。私が彼氏の人生に入りこんだのは、そのときです。考えてみると、私たちはヴィヴィアンさんのことをよく知らないと思いましたので、私は活動を開始しました。やさしきアイリーンさんは、私のそのスピードを見て、大いに憤慨して立ち上がって、彼氏を取りもどしました。彼氏としては取りもどされたかったのかどうか、私にはよくわかりません。彼氏は相当もじもじしていました。うぬぼれの強い人です。私があの人の過去に大きな興味をもったのを、何か意味があるように思っていました。彼氏はどうしたって四十五にはなっているというのにです。  ヴィヴィアンさんのことを書いた以上は、親愛なるキーン大尉のことを書かなければなりません。先だって夜の十二時に、私が自分の船室へ帰る途中のことでした。私はその時間まで、誰かさんとデッキにいたわけです――男の人とでした、たしか。私はあなたの指令に文字どおり従おうとしていますのよ、よろしいですか。それからです、私が自分の部屋へ行く|狭い通路《アレイウェイ》(この言葉は陸にも使いますが本当は船の言葉で、とても狭いんです)へ入ったら、キーン大尉がヴィヴィアンさんの部屋のすぐ前で、うろうろしていました。何かつぶやいて、急いで出て行きました。まだ妙なことをしています、このとおり。本当に正体のわからない人ですけれど、こういう目立ちすぎる人は、かえってなんでもないのではないでしょうか。  そのほかには、私はロフトン博士の博識なお話と、ロスさんのタコマのお話とそれから太平洋海岸が発見されたのにそれでも中西部に住んでいる人の気が知れないというお話を、耳が痛くなるまで聞きました。それから、テイトさんのことですが、これは私の失敗でした。とにかく、この方だけには私の魅力が通じないようです。なぜだか教えてくださいませんか? たぶん私がケナウェイさんの時間を少しとってしまうので、それを怒っているのでしょう。少しといまいいましたわね? そういっては、必ずしも正確ではないかもしれません。ケナウェイさんはとてもお若いし、私はとてもきれいなのですもの。しかしとにかく、さっき書きましたとおり、私は全部の男の方との交際を深めました。ですが今までのところ、一つも手がかりは出てこなかったということを、私は認めないわけにはいきません。さっきのキーン大尉のことは、手がかりとはいえまいと思います。そうでしょう?  もうすぐアデンに着きます。リュース夫人は私を、そこのあの方の好きなレストランへ昼食に連れていってくださるそうです。たぶんあの方はそこの給仕長の名を親しく呼んで、全部の給仕のことを聞くことでしょう。あの方のお話ですと、アデンというところは、火の上に乗せたままおろすのを忘れてしまった坩堝《るつぼ》のように、いろんなものがいっしょにとけて入れまじっているところだそうです。そこへ着けば、私に最初の東洋の匂いがかげるそうです。しかし私はもう一つか二つ、かいだような気がします。私は大して好きではありません。しかしリュース夫人は、だんだん好きになるといっています。あの方はお国のパサデーナのお宅の中庭にいて、急にそれと思い出すと、留守番を雇って、玄関に錠をおろして、飛び出さずにいられなくなるそうです。そうかもしれません。このつぎにお手紙を差し上げるときには、このことについて、きっともっとお話しできることでしょう。  ミンチンさんの奥さんがいま私のすぐそばへ来て、アデンの宝石屋はどんなだろうと話しています。ミンチンさんは装甲トラックを、サンフランシスコの桟橋へ迎えによこすようにしておくのがよろしいでしょう。ミンチンさんは防弾ガラス付きの箱型自動車をもっているそうです。たぶんそれを迎えによこすことでしょう。  いい探偵になれなくて、すみませんでした。これからは、もっと幸運にぶつかることと思います。インド洋では、時間がたくさんあるでしょうから。 [#地から2字上げ]パメラ・ポッター [#ここで字下げ終わり]  その夜、ロンドンのヴァイン・ストリート警察署で、ダフはこの手紙をヘイリー警部と検討した。検討するほどの内容はないことは、二人にわかっていた。ダフはすこしいらいらして来た。 「事件と歩調を合わせるために女の子に頼ったというのは、これが初めてだ。もうごめんだ」ダフはこうつぶやいた。 「魅力のある娘だね、とにかく」ヘイリーは微笑した。 「そんなもの。その男のうちの誰かがいきなり彼女のほうを向いて、“実はわたしがあなたのおじいさんを殺しました”というほどの魅力はないね。ぼくの望むのはそれだけなんだ。魅力ではなくて、ジム・エヴァハードは何者かということだ」 「いつ、ウェルビーは一行といっしょになる?」 「なかなかならない」ダフは溜息をついた。「それまであの連中はぶらぶら旅行をつづけて行って、監視しているのは、若い娘一人だ。警視はすばらしいことを考えたものだ」 「最後にはなんとかなるよ。何かがぼくにそういっている」 「君のその何かというのに、ぼくのところへ来て話してくれるように頼んでくれ。ぜひそうしてもらいたいな」  つぎの通信を受けるまで、ダフはいよいよその何かにすがりたい気持だった。毎夜、彼はロフトンからもらった予定表を研究した。頭の中で、彼はこの小人数の旅行団のあとを追った。インド洋を越えてボンベイへ着いて、それから長いほうのコースで――一行はそのコースをとる予定になっていた――マウント・アブー、デリー、アグラ、ラクノウ、ベナレス、カルカッタへと。彼にふたたび連絡があったのは、一行がカルカッタにいるときであった。パメラから謎のような電報が来た。 [#ここから1字下げ]  あなたの部下がこの辺にいたら、すぐ私に連絡させよ。今夜まではカルカッタのグレイト・イースタン・ホテル。その後はラングーン、ペナン、シンガポール行き英印汽船会社定期船マラヤ丸。 [#ここで字下げ終わり]  ダフは今までにないような期待で胸をおどらせて、カルカッタにある、ある英国の機関宛てに、ウェルビーに打電した。それから――またしても沈黙。一片の報告もないやるせない日がつづいた。だめじゃないか、あの女は? この自分もこの事件に深い関心をもっていて、どうなっているのか知りたがっていることが、あの女にはわからないのか? ダフはこう思った。  やっとのことで連絡があった。ラングーンの消印の手紙が来た。ロンドンにいるダフは、待ちかねてそれを開いた。 [#ここから1字下げ]  親愛なるダフ警部様  私は通信員としてはだめなようですね。私の電報で、きっとあなたは少し興奮なさったでしょうに、その説明が遅れてしまいまして。問題は郵便です。本当に郵便のせいでございます。私はこの手紙の内容を、電報で打ってはまずいと思いました。この神秘的な東洋には、スパイがいて――どのタマリンドの木の後ろにもスパイがいるものですから。  ええと――この前はどこまでお話ししましたかしら? 間もなくアデンに入港するというところでございましたね、たしか。私たちはアデンに着いてから、また航海をつづけて、インド洋を横切って、ボンベイへ着きました。一行の人たちの神経がいらだちはじめました。こういう種類の団体というものは、幸福な大家族のようなつもりで出発するものでございます。私たちの場合には、最初にああいうことがありましたので、そうなるのが少し遅れましたが、イタリアとエジプトで、共同意識と相互の愛と尊敬が頂点に達しました。どなたもとても打ちとけていました。それから、気候が暑くなるにつれて、お互いの熱がだんだんにさめはじめてきました。いまでは、どの人もどこか部屋へ入るときには、旅行団のほかのメンバーが中にいなければいいと思って、それをあらかじめ確かめてから入るようになりました。  さて、私たちはインド洋を渡りました。ボンベイに着き、なつかしき船に別れを告げて、タジ・マハール・ホテルにたどりつきました。そこのロビーに誰がいたと思います? マサチューセッツ州ピッツフィールドのフェンウィックさんと無口の妹さんです。この二人はニースで私たちと別れてから、世界一周旅行に出たのだからそれをつづけようと、決心したものらしいです。ナポリで世界周航――つまり乗り換えずにそのまま航海をつづける大きな豪華船に乗り込んだらしいです。少なくとも、私たちにはそういいましたし、港でそういう船を見ましたから、これは本当だと思います。ちびのフェンウィックさんは、いやな人です。もっと殺人があったかと聞いて、自分たちの旅行の方法のほうが、私たちのよりすぐれているということを、長々と講釈しました。私たちは比較的新しい顔を――フェンウィックさんのような顔でもです――見て、うれしかったもので、おとなしく聞いていました。  私たちはボンベイに二日いて、それから丘を越えて、はるかあなたのカルカッタのほうに向かって出発しました。私は有名な大理石の霊廟タジ・マハールを見物し、それからひどい風邪をひきました。最後に終点のカルカッタに着きましたが、インドというところはなんだか悲惨なところで、こんなところはないほうがいいのにという気がしました。カルカッタで、あることがありました。電報の話の前置きが長くなりましたが、これからそれに入ります。  カルカッタでの最後の日の朝、ロフトン博士は私たちを、そこの目ぬきの大通りのチョウリンギー・ロードにある、ある宝石屋へ案内しました。博士は売り上げのコンミッションをもらうのだと、私は思います。私たちをそこへ連れて行くのに、とても熱心でしたから。その店の主人の名は、たしかイムリ・イスマイルといいました。中へ入って、私は来てよかったと思いました。本当にこんなすばらしい宝石は、あなたは見たことがないだろうと思います。スター・サファイアやルビーやダイヤや。でも、あなたはもちろん、こんなものには興味はおありではないでしょうね。ミンチン夫人はたちまち興奮してしまいました。さすがのミンチン氏も、彼女の買いっぷりを見て、少し青くなりました。  一行の大部分の人はただあれこれ眺めるだけで、出て行きました。しかし私は目に止まったダイヤのネックレスがあって、たしかに意志の力がぐらつきました。まぶたが垂れて、とても人相の悪い、体の小さなしなびた店員が、私のそのありさまを見てとって、しつっこく売りつけようとしました。私が瀬戸際で迷っていたら、ヴィヴィアンさんがやって来て、ちょっと待てと、止めました。ダイヤについて少し知っている、これはいい石だが、この店員がふっかけている法外な値段ほどの価値はないと、いいました。激しい交渉の末に、値段がすごく下がりはじめて、しまいにヴィヴィアンさんはその値段ならいい買物だといいました。そのときアイリーン・スパイサーさんが、やっとヴィヴィアンさんを捜しあてたらしく、飛び込んで来て、彼氏をさらって行きました。  びっくりするようなことが起こったのは、その私の店員がそのネックレスからいいかげんな値札をはずしているときでした。ほかの店員が私の受け持ちの店員の後ろからやって来たら、私の店員はその店員を通そうとして、カウンターのそばへ寄りながら、外国語で何かいいました。そのチンプンカンプンな言葉の途中に、英語が二つ、とてもはっきりと私の耳に聞こえました。その私の店員は“ジム・エヴァハード”という言葉を、ラジオ・アナウンサーのようにはっきりといいました。  私は心臓が止まったかと思いました。話しかけられたほうの店員は、一応好奇心をもったらしく、立ち止まって、ドアのほうを見ました。誰もそこには見えませんでした。私はまず旅行者小切手にサインする用がありましたから、それをしてから、小切手を渡すときに、私はそのまぶたの垂れ下がった店員に、何気ないように、“あなたもジム・エヴァハードさんを知っているんですね?”と聞いてみました。ここで私は大きなミスをしたわけです。その店員に小切手を渡す前に、いうべきでした。その店員は小切手を受け取ってしまったら、そんなことは何も知らんという顔をしました。平気で、英語はもうわからなくなったという顔でおじぎをして、私を送り出しました。  私はマイダンというここの有名な公園みたいなところへ散歩に行って、どうしようかと考えてみました。あなたに絵葉書を送って、それに“あなたがいてくださったらいいのに”と書こうかと思いました。本当に、いてくださったらよかったと思いました。それから、私は電報というすばらしいことを考えつきました。  その日の明かるいうちには、私にはなんの連絡もありませんでした。私は午後、ケナウェイさんとエデン公園を散歩して、それから英印汽船の船に乗るために、ダイヤモンド港に車を走らせました。私たちの行くのがかなり遅れて、ほかの人はみんなもう乗船しておりました。引き上げられようとしていた桟橋にかけた渡し板を、私たちが上りかけていたら、急いでそれを下りて来たのが、誰だと思います? あのまぶたの垂れた店員でした。誰かを見送りに、船へ来たのに違いありません。誰をだったのでしょうか? ジム・エヴァハードをだったのでしょうか? それとももう少し商売をしようとして、最後の瞬間の努力をしただけだったのでしょうか?  その夜遅く、私がマラヤ丸のデッキを歩いていましたら、ボーイが私を呼び止めて、二等に私に会いたがっている人がいるといいました。私は最初はびっくりしましたが、それから私の電報を思い出して、ボーイについて、下のデッキへ降りました。救命ボートの陰で、私はとても妙ちきりんな、体の小さな人に会いました。最初は少しその人に疑念をもちましたが、心配のいらない人でした。その人はあなたのお友だちの、刑事部のウェルビーさんでした。私はその人が好きになりました。頭のいい人です。それにとてもおかしな生粋のロンドン訛りのある人です。  私がその人に宝石店での出来事を話しましたら、その人は当然興味をもちました。数時間前にあの店員が船から降りるところを見たと、私が付け加えましたら、その人はうなずきました。その人は、そのころ自分で一等に上がっていて、ボーイの中にいる友だちと話をしていて、そのイムリ・イスマイルの店員が来たのに、注意をひかれたそうです。それでその店員のあとをつけて、どの船室を訪れたのか、見たそうです。「ロフトン旅行団のメンバーが二人いる部屋でしたよ、ポッターさん」と、そのウェルビーさんはいいました。  もちろん、私はどの二人か知りたがりました。私が教えてもらえたと、思いますか? そうではなかったということは、あなたはご存じでしょう。ウェルビーさんは私の情報に心からの礼をいっただけでした。「あなたのおかげで、わたしの仕事がとても楽になったかもしれません」といいました。それから、ヴィヴィアンさんはダイヤのことをどのくらい知っているらしかったかと、私に聞きました。それはわからないけれど、ほかの男の人が誰でもそうなように、なんについてもなんでも知っているつもりでいると、私は返事をしました。ウェルビーさんはうなずいて、私にもうお帰りといいました。香港から出るダラー汽船の船に、ボーイとして乗り込みたいが、それまではこの船でうろついている、しかし私に話しかけないかぎり、私のほうから話しかけてはならないと、いいました。いつだって私は完全な淑女ですから、男の人に話しかけるようなことはしないと、私は約束して、それで別れました。それ以来、会ってはいません。  こういうわけです。これが、私たちの汽船が二日間以上|碇泊《ていはく》しているラングーンのこの四月の暑い夜の現状です。東洋の匂いのことをこの前いいましたが、もう私はそれにすっかりおなじみになりました。悪臭を放つ狭い道路と、熱帯の太陽の下で腐って行く野菜と、死んだ魚と、コプラと、蚊除けの薬の匂いです。それから一時に一つの場所にいようとする大勢すぎる人の匂いです。私はそれに馴れました。私は平気になった鼻で、シナと日本へ行くのを、楽しみにしています。  たぶんまた、シンガポールからお手紙を差し上げます。これから何が起こるかによりますけれど。長い手紙を書いて、お許しください。でも私あなたに、万年筆を持つと雄弁になると申し上げておきました。それにこんどは、本当に書くことがあったものですから。 [#ここから6字下げ] あなたに熱き心をもって――気候がです―― [#地から2字上げ]パメラ・ポッター [#ここで字下げ終わり]  この手紙を読んだ一時間後には、ダフ警部は上司と相談していた。警視もそれを読んだ――ダフとほとんど同じくらい、大きな関心をもって。 「ウェルビーはゆっくり構えているようだな」こういった警視の言葉には、賛成できないという口調がはっきり出ていた。 「たぶん、まだ報告できるだけの決定的なことが、つかめないのでしょう。しかし、もしあの娘が、ウェルビーの捜査範囲を二人のうちの一人に縮めたものとしますと、すぐニュースが入って来るはずです。もちろん、それはなんでもなかったということになるかもしれませんです。彼女が宝石店で聞いたことは間違いであったということも、考えられます」  警視は考えていたが、それからこう聞いた。「ウェルビーが彼女に、ヴィヴィアンがダイヤモンドについてどのくらい知っていたかと聞いたのは、どういう理由だったのだろうか?」 「わかりませんです。あれは考えの深い人間です、ウェルビーは。なんらかの理論をもってのことに違いありません。カルカッタに電報して、その店員に、ジム・エヴァハードのことについて尋問させてみたら、いかがでしょう?」  警視は頭を振った。「いいや、ぼくはウェルビーに任せておきたいね。君のいったようにすれば、ウェルビーの仕事のじゃまになるかもしれない。その店員からエヴァハードに、警告の電報が行って、エヴァハードは旅行団から姿を消すかもしれない。それにだね、ポッターという娘の知っているそのまぶたの垂れた店員からは、何も聞き出せないと、ぼくは確信するね。イギリスの警察の手伝いをしたがっているような人間にはみえないからな」  ダフはポケット・カレンダーを出していた。 「ロフトン旅行団は、きょうは香港にいるはずです。たしか香港に一週間滞在して、その間に広東《カントン》に旅行することになっております。私があなたのおっしゃられた調査をすませて、それからホノルルに行くということにしますには――」  彼は警視の言葉を待った。 「君は出発したいらしいな」警視は微笑した。「いつ出発できるね?」 「今夜にでも――もし船がございましたら」 「あすはたちたまえ、いずれにしても」警視は同意した。  その翌日、ダフはついに行動の時が来たのに喜び勇んで、サザムプトンに向かって出発した。こんどは、旅立つ人を祝いそして激励したのは、ヘイリーであった。その夜には、ダフは大西洋航路のいちばん速い定期船の一つに乗っていた。スクリューの規則的な回転の音が、彼には音楽のように聞こえた。彼は右舷の手すりに立って、暗い水面を驚くようなスピードで切って行く船の舳先《へさき》を見つめていた。彼の心は軽かった。一瞬ごとに、彼は無礼にも彼を大西洋から太平洋に世界を一周させるに至った謎に、近づいているのであった。  ダフがニューヨークに着くとすぐ懸命に追ったハニウッド夫妻の過去の調査は、なんの収穫もなかった。二人がこの混雑した都会に来たのは、十五年ほど前であって、ダフが名前をハニウッド夫人の女中から聞いてきた友だちたちは、誰もどこから二人が来たのか、知らないようであった。ニューヨークというところは、他人のことを穿鑿《せんさく》などしないところらしい。きょうのことだけが問題なのであって、きのうのことは誰の関心もひかない。セーム皮の袋の話をしても、誰もぽかんとしていた。ダフは途方にくれて、この人間のごちゃごちゃした、他人のことに無関心な都会に、いささか腹を立てた。  3260という番号の保護箱についても、同様に得るところはなかった。ニューヨーク警察の援助によって、彼はテイトの銀行の保護箱について、またロフトンのについても、確かめることはできたが、どちらも違っていた。警察のある好意的な警部が、正規に取引きをしていない銀行にいくらでも秘密の番号の保護箱をもっている人がいるということを、教えてくれた。ダフはこれに手をつけてみて、まるで雲をつかむようだということに、すぐ気がついた。  それでも彼は最後までこつこつと捜査をつづけた。ボストンへ行って、マーク・ケナウェイの地位を調べた。名門であることを、彼は発見し、そして彼のようなよその人間にも、ボストンでは名門ということがいかに重大だかがわかった。つぎに彼はピッツフィールドを訪れたが、フェンウィック兄妹が長くそこを離れていることを、そこの土地の最上流階級からなっている小さな社交界が残念がっていた。フェンウィック家の地位はとにかく敬意を表さなければならないように思えた。アクロンでは、社会的地位はそうやかましくはなかったが、やはり似たようなものだった。ダフはベンバウの共同経営者に昼食に連れていかれて、ベンバウにはやく帰って来るようにという伝言を、頼まれた。噂によれば、景気はたしかに曲がり角をまがって、上昇しているとのことだった。  シカゴでは、マクシー・ミンチンの友人たちは何かいうことを非常に避けていた。口をつぐんで、ダフのいうことを聞いていただけで、向こうからは何もいわなかった。このギャングの帰国を、公衆はべつに望んではいないということを、ダフは感じた。それからダフは、タコマへ行った。ジョン・ロスが木材業界では重要な人物であることを、彼は発見した。サンフランシスコへ寄って、彼はステュアート・ヴィヴィアンのことを調べた。ヴィヴィアンは市民の指導層の多くによく知られていて、彼らはみなヴィヴィアンのことをほめた。アイリーン・スパイサーの夫の事務所へ寄ってみたが、ハリウッドへ行っていて、しばらく帰って来ないとのことであった。  穏やかな五月のある夕方、ダフはサンフランシスコのフェアモント・ホテルの自分の部屋に腰をおろして、この長い旅行の結果を総計してみた。答えはゼロと出た。ロフトン旅行団の全部の男について、その郷里での地位を調べてみたのだが、マクシー・ミンチンを除いては、全部が非難の余地がないように思われた。そのミンチンも、ああいう事件に関係があるとは思えなかった。だが、旅行団の全部の男について調べただろうか? そうだ、キーンについては、そこに住んでいるというニューヨークで、何もつかめなかったことは確かだ。キーンの名はどの名簿にもなかった。しかしダフはそれをほとんど問題にしなかった。最初から、どういう理由か自分にもはっきりわからなかったが、彼はキーンを容疑の外においていた。  これで、ただ一人を除いては、ダフは全部の男が郷里で人にどう見られているかを知ったことになるのだが、そのどれに殺人が可能であるかについては、前と同じように、さっぱり見当がつかなかった。しかし、このグループの中に殺人犯人はいる――いなければならない。ハニウッドの手紙が真実を語っているとすればだ。“ジム・エヴァハードが旅行団といっしょに旅行している。ぼくを殺すと誓い、君も殺すと誓ったジム・エヴァハードが”――手紙にはこうあった。  ダフは立ち上がって、窓へ行った。丘の上にあるこの広い部屋から、シナ人町のあかりが、港のフェリー・ボートが、湾の両側にずっとつながってる高いビルが、彼に見えた。この魅力ある都会を前回訪れたときの記憶がよみがえった。チャーリー・チャンの記憶も。  ボーイがドアをノックして、彼に電報を渡した。ロンドン警視庁の上司からであった。 [#ここから1字下げ]  神戸から電報あった。ウェルビーは成功近しと予期している。ホノルルへ行け。幸運を祈る。 [#ここで字下げ終わり]  短い電報ではあったが、ダフは非常に元気づけられた。ウェルビーの捜査は少なくとも進捗している。あの体の小さなロンドンっ子がついに問題を解決するであろうか? ふだんは空想的な人間ではないダフにも、ある愉快な場面を想像することができた。ホノルル埠頭でのウェルビーとの会見の場面を。ウェルビーがどんなやかましい陪審でも満足させるような証拠をもっている。ウェルビーが、誰かまだはっきりしない――いまこの瞬間にはだ――人間を、指さしている。「この男を逮捕してください、ダフさん。これが犯人です」と彼がロンドン弁でいう。もちろん、ダフが自分で証拠を発見したという場合にくらべれば、愉快さは足りない。しかし、そんなことはかまわない。ロンドン警視庁はいつも一つのチームとして仕事をしている。いつかは自分がウェルビーのために何かしてやる。  その翌々朝、ダフはマウイ号でホノルルに向かって出発した。この船で行けば、横浜からのダラー汽船の定期便がホノルルのアロハ・タワーの下に繋船される約二十時間前に、そこへ入港できる。その短い時間の間に、チャーリー・チャンとの旧交をあたため、自分が担当してきたこの新しい事件の話をしなければならない。それから、ロフトン旅行団、そして行動だ。はやい行動をと、ダフは希望した。彼は自分の行くことを、チャーリー・チャンに電報しないことに、きめていた。いきなり行って、驚かせてやるほうが楽しい。  二日間、ダフは船でぶらぶらしていた。すべてが平和に感じられた。すばらしい休憩だった。いざというときが来たら、元気一杯で行動できるだろう。二日目の晩、ボーイが来て、電報を渡した。封をひきちぎって、彼は差出人の名を見た。上司からだ。 [#ここから1字下げ]  ウェルビーがロフトン旅行団乗船の定期船出帆直後に横浜埠頭で殺人死体として発見された。エヴァハードを生死にかかわらず捕えよ。 [#ここで字下げ終わり]  電報を荒々しく握り潰しながら、しばらくはただじっとしたまま、ダフは船の手すりの後ろの闇を見つめていた。彼の目の前に、最後にロンドンで見たウェルビーの姿が見えた。微笑して、自信をもって、落ち着いていたその姿が。それまでバウ教会の鐘の音が聞こえる外には出たことのない小柄な生粋のロンドンっ子なのに、横浜の埠頭で殺されて。 「生死にかかわらずか」ダフは口をぐっとむすんでいった。「殺してからだ、おれの思うようにさせるというなら」 [#改ページ] [#2字下げ]※[#ローマ数字4、1-13-24][#「※[#ローマ数字4、1-13-24]」は大見出し] [#5字下げ]13 チャンの部屋のノック[#「13 チャンの部屋のノック」は中見出し]  それからいくらもたたないある日の午前のことである。ホノルルのベセル・ストリートの上り口のハレカウア・ヘイルの二階の軽犯罪即決裁判所で、三人の男が裁判にかけられていた。一人はポルトガル人、一人は朝鮮人、一人はフィリピン人である。罪状は街路上の賭博だ。いま証人席には、穏やかな落ち着いた一人のシナ人がいる。聞くところによれば、東洋では肥満に深い尊敬を払うとのことである。シナでは、高官は目方がふえるにつれて、権威を増して行く。日本では、大衆の英雄である力士は巨大な体躯をもつ。この証人席にいる東洋人は、この点では、同国人中の大物の資格がある。  判事がいった。「では、チャン警部。あなたの話を聞きましょう」  証人は石の仏像のように、身動き一つせずじっとしている。細い黒い目をほんの少し見ひらいて、口をきった。 「私、パワア小路を歩いておりました。私とともに、同僚の刑事、カシマ氏おりました。私たちの前に、ティモ魚店のドアのところに、多数の群衆が集まっているの、見えました。私たち速度はやめました。私たち近づくにつれまして、群衆しだいに散り、つぎの瞬間、いま被告席にいるこの三人、私たちに見えました。三人膝をついて、体かがめて、ダイスの遊びしておりました。そのダイスに対し、親愛の情示す言葉、三つの国語で三人の口から発せられました」 「まあ、チャンさん」検事がいった。赤毛の攻撃的な男だ。「失礼ですが、チャン警部。あなたの言葉は、例によって、アメリカの法廷には少し美辞麗句が多すぎますな。この連中はさいころ賭博をやっていたのです。あなたは、それをいおうとしたわけでしょう?」 「おそらくさようと思います」チャンは答えた。 「あなたはそのゲームはよく知っているでしょう? 見れば、わかるでしょうが」 「子供が母の顔を知っておるごとく、知っております」 「それで、この連中だということは間違いないのですね? 賭博をしていたのは?」 「疑問全然ありません」チャンはうなずいた。「この人たちにとり不幸なことでありますが、この三人それであります」  被告の弁護士の、弁の立つ小柄の日本人が、すぐ立ち上がった。 「異議を申し立てます。判事閣下、私は“不幸なこと”という言葉の妥当性について、疑問をもちます。証人の言は、あたかも私の依頼人たちがすでに裁判を受けて、有罪と認められたかのようであります。チャンさん、どうかこういう注釈を加えることはつつしんでいただきたいものです」  チャンは頭を下げた。「はなはだ遺憾でありました。避けられない結果を想定したこと、お許しください」  弁護士はちょっと反対の叫び声をあげたが、チャンは穏やかに言葉をつづけた。 「証言つづけますと、つぎの瞬間、三人は顔あげまして、私自身と尊敬すべきカシマ氏とを見ました。その同一瞬間、顔の表情驚くべく変化しました。三人飛び上がって、逃走果たそうとしました。三人小路を疾走し、私そのあと追いました。小路の終りに至る前に、私三人捕えました」  弁護士はチャンをじっと見つめた。それから自分の依頼人である痩せた三人の男を指さした。 「あなたはその太った体で、この細い脚に勝ったということを、法廷に納得させるつもりですか?」  チャンは微笑した。「良心の重荷なく走る者、最大のスピード出します」と静かに答えた。 「そのとき、カシマ氏はどうしていました?」弁護士は聞いた。 「カシマ氏は自分の義務知っていて、それ行ないました。彼あとに残って、置き捨てられたダイス拾い集めました。これ適切な行動でありました」  チャンはいかにも適切な行動であったというように、重々しくうなずいた。 「そうそう」判事が口を入れた。頭の禿げた男で、すっかり退屈しきったように見える。「で、そのダイスはどこにあります?」 「判事閣下」チャンは答えた。「私の目に大きな誤りなければ、そのダイスいまこの瞬間に、法廷に入りました。活動的なカシマ氏のポケットに入っております」  そのとおりカシマは入って来ていた。興奮しやすい小柄の日本人だ。その顔の悲しそうな表情を見て、チャンはがっかりした。カシマは急いで証人席の仕切りの中へ入って来て、チャンの耳に何か興奮してささやいた。やがてチャンは顔をあげた。 「私、大いに間違っておりました、判事閣下。カシマ氏そのダイス失いました」  法廷中が大笑いをし、判事が机をハンマーでたたいてもだめだった。チャンは身動きもせず、平然としているように見えるが、心は痛んでいた。すべての東洋人と同様に、彼は自分が笑いの対象にされることは好まない。この笑いの大部分は明らかに彼に向けられていた。彼がいま嘲笑される立場にあったことは否定できない。  弁護士ははっきり薄笑いを見せながら、法廷に呼びかけた。 「判事閣下。私は本件の告発を取り下げることを動議いたします。物的証拠がありません。この有名なるチャン警部すら、冷静を取りもどして、ふたたび発言される場合には、物的証拠がないと、閣下にいうでありましょう」  チャンは目尻のつり上がった小柄の弁護士に、沈痛な顔をして、こういった。 「チャン警部それよりも、日本人種の有能なことに対し、祝辞いいたいです」 「もうそれでよろしいです」判事が口を入れた。「またしても、本法廷の時間が空費されましたな。告発は取り下げます。つぎの事件の当事者を呼び入れてください」  できるだけなんとか威厳をとりつくろいながら、チャンは証人席を離れて、ゆっくり通路を下って行った。法廷の奥で、カシマがベンチにうずくまっていた。チャンはカシマの日に焼けた片方の耳を軽くつまんで、廊下へ引っぱって行った。 「また、あなた私に恐ろしいつまずきさせたです。なぜ私あなたにいつも我慢しているのかわからない。私自身驚いている」 「すみません」カシマは首をすくめた。 「すみません、すみません」チャンは相手の言葉をくり返した。「この言葉あなたの唇から、絶え間のない流れのように出て来る。悪意はなかったということで、何回もの過ちつぐなえますか? 朝露で井戸いっぱいになりますか? ダイスはどこで失われた?」  カシマは恐縮して、説明しようとした。この朝、法廷へ来る途中で、髪を刈ってもらいに、ホテル・ストリートのクリモト理髪店に寄った。上着を外套かけにかけておいた。 「その前に、ダイス店じゅうの人に見せた。それに違いない」チャンは突っ込んだ。  カシマは否定した。ダイスを見せたのは、クリモトにだけで、この男は正直な人間だ。髪を刈ってもらっている間に、何人も客が店に出入りした。理髪をすませて、またその上着を着て、大急ぎで法廷へ来た。階段を上がっている途中で、ダイスを紛失したという不幸な発見をした。カシマはこういった。  チャンは悲しそうにカシマを見た。「あなた最初の仕事のときから、非常な失敗した。しかし私、時たつにつれあなた進歩すると思いました。あなた探偵になったとき、神々大笑したにちがいない」 「すみません」カシマはまたいった。 「私見ていないところで、すみませんいってください」チャンは吐息をついた。「あなたのその言葉聞くと、私の頭おかしくなって、自制すること非常に困難な気がする」  チャンは大きな肩をすぼめて、そこを離れて、階段を降りて行った。  警察署は法廷のすぐ下の一階にあって、そこの奥に、チャンの誇りであり喜びである小さな私室がある。この部屋は、彼が一年以上も前にシェラー・フェイン事件で成功を収めてから、署長が提供してくれたものだ。彼は部屋へ入って、ドアを閉めて、立ったまま、この建物の後ろにある狭い小路を、開いた窓から眺めていた。  彼はまだ階上での出来事を気にしていた。しかしこれは思うに任せぬことばかりつづいたこの一年の、クライマックスだったというに過ぎない。“漁を行なう時あり、網を乾す時あること、東洋人知っております”これは彼が、ダフがヴァイン・ストリート警察署で声を立てて読んだ手紙に、書いた言葉である。しかし、その同じ手紙の先のほうで、彼が告白したように、いつまでも網を乾しつづけているということが、彼には苦しくなって来ていた。  彼は過去数カ月間、シナ人らしくもないと思われるような焦燥感に悩まされていた。いまも平和な小路を眺めながら、彼はそれを感じていた。この前の大きな事件以来一年以上もたつが、これといった事件は何もなかった。人目につかない裏通りで、賭博者を追っかけて少しいじめてみたり、いやな臭いのする台所へ入って行って、密造酒の蒸溜器を捜してみたり、キング・ストリートの駐車違反の車に札をつける仕事までやらされたり――これがチャーリー・チャンともあろうもののすることか? ホノルルは、実に好きだ。しかしホノルルが自分に何をしてくれているか? 予言者には必ず名誉を与えられるといっても、故国にいれられずだ。ホノルルは自分のことを、真面目に考えていてはくれない。さっき自分のことを笑ったばかりだ。ちょうど外《そと》のあの小路のように、ホノルルは狭い。自分の人生のように狭い。  大きな溜息をついて、彼は畳み込み式の蓋のついた自分の机に、腰をおろした。きれいに拭いてある。仕事から引退してしまった老人の机のようにきれいだ。彼は椅子をゆっくりと回した。椅子が心配して、きいきい音をたてた。毎日、老いて行く。しかしまあいい。子供たちはちゃんとやって行くであろう。ローズだ、たとえば。頭のいい娘だ、ローズは。あの本土の大学ですばらしい成績で――。  部屋のドアにノックがあった。彼は眉をひそめた。カシマだろう、おそらくまたあやまりに。それとも署長かもしれない、上でどうなったか聞きに。 「お入り」チャンは呼んだ。  ドアが開いて、その敷居口に、彼のよき友、ロンドン警視庁のダフ警部が立っていた。 [#5字下げ]14 パンチボウル丘の夕食[#「14 パンチボウル丘の夕食」は中見出し]  シナ人は一般にいって、驚きを表情に示すものではないし、よい探偵というものは、仕事についていくらもたたないうちに、感情を隠しておく賢明さを身につける。チャーリー・チャンの場合のように、この二つが重なれば、ものに動じなくなるのが当然である。それにもかかわらず、彼の目はびっくりするほど見ひらかれ、一瞬ぽかんと口をあけていた。少なくとも、いささか不意を打たれた形だといってよかろう。  そのつぎの瞬間には、彼はさっと立ち上がって、急いでドアのほうに進んで来ていた。 「あなたでしたか」と彼は叫んだ。「いまの瞬間、私自分の目疑いました」  ダフは微笑して、片手を差し出した。 「チャン警部!」  チャンはその手を握った。 「ダフ警部!」  ダフは書類鞄を机に投げた。 「とうとう来ましたよ、チャーリーさん。驚いたでしょう? ぼくは驚かせるつもりでした」 「少しの間、私、息できませんでした」チャンは薄笑いを浮かべた。「もっと強くいえば、喘《あえ》いだといってよろしいです」  チャンは客に椅子をすすめて、自分はまた机の後ろの椅子にかけた。 「この非常に大きな名誉と幸福、私長いあいだ望んでいました。それで幻影見たのではないかと、私心配しました。最初の質問、いま私いたします。あなた接した範囲で、ホノルルのことどう思います?」  ダフは考えた。 「そうですなあ、気持のいい清潔な都会のように思えます」  チャンは口には出さなかったが、非常に喜んだ。 「その強い言葉で、私感激せんばかりです。しかしあなたに重要なもの、行動で、言葉でないこと、私知っております。あなたのような忙しい人、観光客のようなつまらないことしている暇ありません。あなたが事件でここへ来たこと、私、断言します」  ダフはうなずいた。「そのとおりです」 「私、あなたのうまく行かないこと希望するのではありませんが、滞在長びいてくれること望みます」 「ほんの数時間です。ぼくはあすの朝、ここの港で、プレジデント・アーサー号を迎える予定で来ました。それからその船があすの夜、サンフランシスコに向けて出港するとき、ぼくもそれに乗って出発するつもりです」  チャンは手を振った。「短かすぎます。私それ聞いて、寂しいです。しかし私も義務の呼び声わきまえております。その船に容疑者きっといるですね」 「容疑者が七、八人います。チャーリーさん、ぼくはその容疑者たちに、船でも列車でもホテルでも、会って来て、しまいには自分があのえらい旅行業をはじめたタマス・クックか、少なくともその息子の一人のような気がしてきました。ぼくは実にめずらしい事件にぶつかっています。あなたの仕事の手がすいたらすぐ、話しますから、聞いてください」  チャンは吐息をついた。「話をするのにたとえ一週間必要であっても、私それ聞く時間たくさんにあります」 「あなたのほうには大きな事件はないようですね、お手紙によると?」 「一本の木の下二十年間すわっていたインドの聖者でも、私にくらべれば、行動的で、用事ある人です」  ダフは微笑した。「お気の毒ですなあ。しかしそうだとすると、あなたにはぼくの問題を少し考えてくださる暇がありましょうね。それで何か教えてくれることが、たぶんあるでしょう」  チャンは肩をすぼめた。「蚊が獅子に教えることありますか? しかしあなたがこの眠くなる楽園へ来た理由、私非常に聞きたいです」 「殺人事件です、もちろん。二月七日の朝、ロンドンの真ん中のブルーム・ホテルで起こった殺人事件です。ほかの殺人もそれに関連して起こりましたが、ぼくに関係あるのは、最初のだけです」  そして、ダフは話をはじめた。  チャンはじっと聞いていた。沈黙という貴重な贈り物を、ダフに捧げていたわけだ。像のようにじっとしていた。彼自身がさっきいった眠くなる楽園で、うとうとしているようなその姿を、知らない人が見たら、ほとんど興味をもっていないように見えたことであろう。しかし彼の小さな黒い目は、ダフの顔にずっと注がれていた。ダフの手がときどき書類鞄の中をせわしく探っても、手紙や記録を取り出して、それを読んで聞かせても、チャンの視線はこの長い物語がはじめられたときと同じところに、釘付けになっていた。 「それでそのつぎはウェルビーです」ダフはやっと話し終えた。「かわいそうにウェルビーは、横浜の埠頭の暗い隅で射ち殺されたのです。その理由は、ジム・エヴァハードが何者か、つきとめたからにきまっています。ぼくが捜査を命じられた奴のなかで、こんな残酷などんなことでもする奴はないといっていい人殺しの、正体をつかんだからです。どうしたって、ぼくがそいつをつかまえます。つかまえずにはいません。いままで、こんなにつかまえたいと思った人間はいません」 「それ当然の感情です」チャンは同意した。「私、単なる傍観者ですが、理解できます。私はなはだまずい昼食ご馳走したいですが、来てくださいますか?」  ダフは自分にとって世界で最も重大な問題を、突然無視されて、すこしまごついた。 「それは、そのお、あなたがぼくといっしょに食事をしてください。ぼくはヤング・ホテルにいます」 「その論争よしてください」チャンはいい張った。「あなた海陸八千マイルの向こう来た人です。それだのに、私に昼食ご馳走するといいます。私、驚きました。ここハワイです。人をたいへんにもてなすところです。私たちヤング・ホテル行きましょう。しかし私勘定払うこと、うるさく主張します」 「ぼくの記録のことですがね、チャーリーさん。それにこの手紙類もです。ここに金庫がありますね」  チャンはうなずいた。「そうです、警察の金庫この部屋にあります。あなたの貴重な書類そこへ入れて、錠おろしましょう」  二人はべセル・ストリートを歩いて上って、大通りのキング・ストリートへ出て、そこをヤング・ホテルのほうへ向かった。二人を照らしている真昼の太陽の光線が、体にしみこむようだ。タクシーの運転手は運転台で、気の向くままに居眠りをしているし、一軒の店の戸口のラジオは、“わたしの南海ローズ”をやっている。ダフはもっと何か、ハワイの印象をいわなければならないような気がした。 「ハワイはなかなかあかるいところですねえ。つまり、光線がとても強いですね」  チャンは頭を振った。「いまその問題いわなければならないことありません。あとで私、ハワイ観光協会のパンフレット差し上げます。そこに、いまあなたに思い当たらない言葉、書いてあります。いまはのんびりしてください。さあ、ホテルへ着きました。まことに粗末な食事、待っております」  ヤング・ホテルの食堂に腰をおろしてから、ダフは自分がなによりも考えている話題にもどった。 「ぼくの話をどう思いました、チャーリーさん? その旅行団の誰かに、あなたの霊感は働きませんでしたか? シナ人は非常に霊感に富む人種だそうですが」  チャンはにやりと笑った。「そうです。しかしホノルルの無名のシナ人の霊感もち出したら、ロンドンきっと大騒ぎになるでしょう。私の読んだとおりですと、そこは世界のどこより、有罪の決定的な証拠示さなければならないところです」  ダフは沈痛な顔をした。「そのとおりです。そのことが、ぼくの頭を離れないのです。ぼくはどの男がジム・エヴァハードか発見すれば、それで自分としては満足だといえるでしょう。自分の目に狂いはないと、確信をもつでしょう。しかしそれでも、本国で逮捕令状に値するだけの充分な証拠を、ぼくは得られないかもしれません。ロンドン警視庁のぼくたちに対する要求は、非常にうるさいでしてね、チャーリーさん。何人《なんびと》も有罪と証明されるまでは無罪なのです。あちらでは、それが守られています。二月七日のブルーム・ホテルでのあの事件は、もうずっと昔のことです。一刻一刻、その解決がむずかしくなっていっています」 「あなたの仕事たいへんです。しかし最後に成功かち得れば、それだけ勝利偉大となります。スープよろしいでしたか? そうですか? それは結構です。ハワイにはよろしくないスープ、たくさんにあります」チャンは目を細めて、ダフを見つめた。「あなたは二人の人間、捜すことです」 「そればどういう意味です、二人の人間とは?」ダフは面くらった。 「この南太平洋の島に住んだことある偉大な作家、“ジーキル博士とハイド氏”という本書きました。ずっと以前にハニウッド夫妻と何か奇妙な冒険したジム・エヴァハードという人、いまはきっと、自分自身にさえほとんど見知らぬ人です。何年間もその人、新しい名前で、穏やかに尊敬される生活送って来ました。その間中ずっと、昔の自分は隠されていて、人に気がつかれませんでした。しかしその火は消えずに、昔の恨み思い、昔の誓い守るときめていました。その火爆発させ、まだ活動起こさせたもの、なんでしょうか? 恨みに燃えて、半分忘れていた昔の自分が、一時に表面に出て来て、人の首締めたり、射ったり――しかも過たず正確に射つことできたのではないでしょうか? 人間の心の奇妙なゆがみや変化、私たちに理解できないものです。だがウェイター、チキン・フリカッセのまがい物持って来ました」 「とてもうまそうに見えます」 「見かけ、時として恐ろしい嘘であることあります。あなたあすの後、ロフトン世界周遊旅行団といっしょに出港するとき、これ大切なことですから、どうか覚えていてください。ジム・エヴァハードはよい人間に見えると、私、思います。新しい生活の偽装に完全に慣れきっていて、りっぱな人に見えるに違いありません。しかし、忘れてはいけません――口に甘いもの心に毒ということ、よくあります」 「もちろんです」  ダフはいらいらしながら同意した。この気にかかってたまらないという場合に、こんな抽象的な説教をきかされて、非常な失望を感じた。こんなことを聞いても、役には立たない。それはチャン自身も知っているはずだ。チャンの態度は、まるでこの問題に関心をもっていないかのようにみえる。そうなのか――それともチャンの才能が長い間使われずにいたので、錆びついたというだけなのか? ダフはあくびをした。べつに驚くことはない――この生活が安易で、努力を必要としない、日光に恵まれた土地にいては。探偵というものは、不断の活動を必要とする。烈風と吹雪も必要とする。南国の人間はいつも無気力で、いつも緩慢だ。  ダフは会話をもっと具体的なことにもって行こうとして、言葉をつづけた。 「この事件で、りっぱな人間に見えるということが、犯人のしるしだというのでしたら、容疑者は何人もいます。マクシー・ミンチンはもちろん外されるし、キーン大尉も、ぼくの考え方からいうと、そうです。しかしロフトン博士がおります。冷静で、超然としていて、知的なタイプです。それからテイトがいます。非常な才能をもった、教養のある人です。偶然かもしれませんが、自分自身犯罪の分野に関係がある人です。生涯を犯罪者の弁護に送って来ました。ヴィヴィアンとロスとベンバウがいます。どれもそれぞれの小さな世界では、申し分のない地位にいます。それからフェンウィックがいます。これを忘れてはならんです。めったな人間を入れないとぼくに思えた社会で、高い地位にいる男です」 「あなたフェンウィックに関心ありますね?」チャンは聞いた。 「あなたは?」ダフは急いで聞き返した。 「その人、何か考えながら空をゆっくり飛んでいる鷲のように、飛び回っていること、私よくわかっています。ニースで旅行団から離れて、それであなた、もう会うことないと思いました。しかし、また現われました、サン・レモで。ボンベイのタジ・マハール・ホテルでも、やはりいました」  ダフは体を起こした。こういう地名をすらすらあげて行ったチャンの態度は、やはり彼がそのねむそうな目に表われている以上に、この問題に関心をもっていることを思わせた。またしても、このホノルルの警察官について誤った考えをもったと、彼は思った。数年前に何度もサンフランシスコで経験したように、またしても、このシナ人に対する評価を急いで変えなければならない。 「しかし横浜のことはどうです? カルカッタの宝石屋のことはどうです? このどちらにも、フェンウィックを見た人はいません」 「それ確かなのですね?」 「実をいうと、ぼくは確信ありません。このことはもっとよく調べる必要があります。ことに、あなたがその男を気に入ったとなると――」  チャンはにたりと笑った。「私、その人、気に入ったとはいいません。たぶんその人の名前、私の注意ひいたのでしょう。ほんと一瞬間でしたが。いいえ――私気に入ったというものありません。たぶん、チョコレート・アイスクリーム別としてです。私、それをこの粗末な昼食の最後のコースにすること、あえて提案したいです」 「とてもおいしかったです」ダフはこういって、安心させた。  昼食をすませてから、チャンはこのイギリスの友人をまた警察署へ案内して、誇らかに署の人たちに紹介した。第一に署長にだ。署長は明らかに感銘を受けたようだった。カシマにさえ紹介したが、この男は全然なんの感情も示さなかった。 「カシマはあなたのように偉大な探偵になるべく、勉強しています」チャンはダフに説明した。「今までのところ、運命この人に味方していません。けさ、物の役に立たないこと証明したばかりです」チャンはこの日本人の肩をたたいた。「この人辛抱強いです。それ大切なことです」  午後そのあとで、チャンは自慢の色をはっきり見せて、ぴかぴかした新しい自動車を出して、ダフをホノルルとその周囲の見物に連れて行った。ダフは見物をし、礼儀正しく感嘆の言葉をいうのに努力し、まったく完全な客として振舞ったが、彼の心は落ち着かなかった。彼の大問題はまだ解決していないということを、忘れることはできなかった。全然べつな何かについて話をしている最中に、このことがいつも頭に浮かんで来て、彼を苦しめた。その夜はハワイ第一のローヤル・ハワイヤン・ホテルで夕食をしたが、チャンは勘定を払うといってきかなかった。この夕食中も、ダフは依然として同じ思いに悩んでいた。早くあすになって、行動にもどれることを、彼は望んだ。  あくる朝の十時に、ダフはチャンとともに埠頭に立って、プレジデント・アーサー号が入って来るのを見守っていた。この船の碇泊中は姿を隠していようかとも、ちょっと考えたのだが、そうしても別に得るところはないと結論を下した。どうせ船が出港すれば、すぐまたみんなに会わねばならないのだから。彼はチャンに、いっしょに来て、ロフトン旅行団のメンバーに会うように、説得した。彼の頭のなかでは、チャンが突然インスピレーションを感じて、実際に事件の解決に役立つことを教えてくれるかもしれないというささやかな期待があった。一晩中、彼はかつてサンフランシスコでブルース総監殺しの犯人を追っていたときのチャンのことを、考えた。そして、この同業者に対する彼の信頼は、前よりも強いものになっていた。  その大きな定期船は埠頭につき、渡し板がおろされた。すこしの間、上でごたごたしていたが、それから種々雑多な人たちがゆっくり降りはじめた。ホノルルへ寄港する船から上陸する群衆には、異様な多様性が必ずある。この連中はいったい何者だろうかという気が、見ている人にする。活動と敏腕を信条に世界のすみずみまで突進するセールスマン、粗野な濠州人、お辞儀をする小柄な東洋人、自分の足の下は必ずイギリスの一部だという気持で、安心しきって歩いて行くイギリス人、青い顔をした伝道師、疲れきったような植民地人、そしてひっきりなしの観光客。ダフは熱心に見守っていた。その横にチャンが立っている。もう見あきたという顔をして。  しまいに、ヘルメット帽をかぶったロフトンが渡し板のてっぺんに現われて、ゆっくり降りて来た。そのあとに、旅行団の十二人のメンバーがつづいた。その連中が渡し板のあるところまで来たとき、ダフは、彼の求めている男が必ずそこを歩いているのだ、ということを思った。ウェルビーを殺した男がだ。突然、怒りが、彼の心の中で爆発した。ロフトンが埠頭の建物へ来たとき、ダフは片手を差し出して、進み出た。ロフトンは見上げた。ロフトンの顔に現われたものは、厳密にいって、心からの歓迎の表情ではない。むしろ非常に迷惑だという表情――ほとんど不快の表情だった。チャンはじっとロフトンを見守っている。もう遠い過去のことになってしまったある出来事を、思い出させられるのが、ロフトンはいやだっただけなのだろうか? 「やあ、博士」ダフは大きい声を出した。「また会いましたね」 「ダフ警部さん」ロフトンは弱々しい微笑を見せた。  しかし、もうダフはほかの人たちとの握手に忙しかった。最初にベンバウ夫妻、それからミンチン夫妻、スパイサー夫人とヴィヴィアン、ケナウェイ、ロスその他、そして最後にテイトと握手した。テイトは前よりも疲れて、病的に見える。 「皆さんの旅行も終わりに近づきましたね」ダフはいった。  みんな同時にしゃべり出した。またアメリカの土地を踏むのを、喜んでいるようだった。ベンバウは埠頭でちょっと踊ってさえみせた。肩から革紐でぶらさがっているカメラが、ぐるぐる回った。 「皆さん、わたしの旧友の、ホノルル警察のチャン警部をご紹介します。わたしはちょっとこの人を訪ねようと思って、ここへ来たところです。太平洋随一の探偵です。ある事件で、前にいっしょに仕事をしたことがあります」  ヴィヴィアンがいった。「ここには長くご滞在ですか、ダフさん?」 「残念ながら、それができません。今夜あなた方の船で、出帆することになっています。お差しつかえないでしょうね?」 「大歓迎です」ヴィヴィアンは低い声でいった。額の傷痕がホノルルの目のくらむような日光で突然真紅に光った。 「車が待っているはずです。われわれはワイキキの浜に泳ぎに行って、それからローヤル・ハワイヤン・ホテルで昼食をします」ロフトンはみんなをせき立てた。  ダフの視線が、ほかの人たちからすこし離れて立っているパメラ・ポッターの上に落ちた。白の装いをして、かわいらしく見える。目に何か問いたげな色が浮かんでいる。ダフはそばへ寄りながら、ごくかすかに頭を振った。 「どうしてあなたが目に入らなかったのでしょうかな?」ダフは彼女と握手しながらいった。「前よりも魅力的になりましたね。きっとこの旅行があなたに合ったんですね」それから声を低くして、「ほかの人たちといっしょにいてください。きょうあとで会います」 「わたしたちヤング・ホテルに部屋をとります。いったい――」 「あとで話します」ダフはこう呟いておいて、リュース夫人と握手した。 「おや――あなたがいなくて寂しかったですよ」と老夫人はいった。「ほら、わたしここまで来ましたよ。ほとんど世界を一週して、まだ殺されませんからね」 「あなたはまだお宅には着いていません」ダフは注意した。  ロフトンが気乗りしない態度でいっしょに昼食をというのを、ダフは「船でいくらでもわたしに会えます」と笑いながら断わった。一行は待っていた自動車に乗って、ワイキキに向かって走り出した。ダフとチャンは歩いて、キング・ストリートにもどった。 「さあ、あれがぼくの旅行仲間です。あの中にいる犯人に気がついたですか?」  チャンは肩をすぼめた。 「今日では、殺人者に焼印押してありません。さっきの私のように、急いでちょっと見たのでは、充分でありません。扇で霧を散らすこと、できませんです。一つのこと、私、気がつきました。誰もあなたにまた会って、心から喜んでいませんでした。ただし美しい若い女の人別でしょうが。あのロフトン博士いま――」 「彼はたしかに迷惑がっているようでした」ダフは同意した。「しかしそれば、ぼくが不愉快な過去を思い出させるし、ぼくが仕事をやりつづけると、彼に困るようなことが世間に知られるかもしれませんからね。彼は自分の事業のことを、心配しています」 「現代は、それいちばんたいへんな心配です」チャンはうなずいた。「商業会議所に聞いてごらんなさい」  二人はまたいっしょに昼食をしたが、こんどはダフが払った。そのあと、チャンは細かな仕事を片づけるために、署に帰らなければならなかった。午後の二時ごろ、ダフが独りでヤング・ホテルのロビーにいたら、そこヘリュース夫人とパメラ・ポッターが入って来た。一行のほかの連中は、ヌアヌ峠からの眺望に車を走らせたらしいが、リュース夫人は何度も見ているし、パメラはそれよりダフと話したかった。二人の女性は受付へ行って、今夜出発するまで、居間と寝室とバスの続き部屋を借りた。ダフは二人がそこに落ち着いたと思われるころまで待っていて、それからそこへ上がって行った。  パメラは独りで居間にいた。 「やっとお目にかかれましたわね。わたし、とてもあなたと二人きりでお会いできることはないだろうと、思っていました。どうか、おかけください」 「あなたの話をまず聞かせてください。二度目にウェルビーに会ったのは、いつでした?」 「あなたが最後にわたしから受け取った手紙は、どれでして?」 「ラングーンからのです」 「わたしシンガポールからも出しましたし、それから上海からも出しました」 「それは残念でした。たぶんわたしのあとを追いかけているところでしょう」 「じゃあ、うまく追い付くといいですわねえ。べつにニュースは書いてないんですけれど、描写の文章の傑作ですもの。あなたが読まないなんてこと、ありませんわ」 「最後に着いたら、一言残らず読みます。しかしニュースはないと、あなたはいいましたね?」 「ええ――べつに大したことはありませんでしたもの。あれからウェルビーさんには、わたし香港でプレジデント・アーサー号に乗るまで、会いませんでした。あの方はわたしの船室と、それからほかのいくつかのボーイになっていました。英印汽船の船にいるときに、ボーイの仕事を勉強したといっていました。とても能率を発揮していました。あの方はすぐ船室の検査を始めたと、わたし思いますけれど、船が横浜に着くまでは、何も起こりませんでした」 「そこで何か起こったのですね?」 「ええ、そうですの。わたしたちその日は上陸しましたけれど、わたし少し見物にあきていました。それで、出帆の予定は夜遅くだったんですけれど、わたし夕食に船へもどって来ました。リュース夫人もそうでした。わたしたち――」 「失礼――ちょっと待ってください。その晩、夕食のときに、船にほかの旅行団のメンバーの人を見ませんでしたか?」 「ええ、テイトさんがいました。あの方は前から気分がとても悪いとかで、ほとんど一度も上陸しませんでした。それから――その――そう、そう――ケナウェイさんも。ほかにもいたかもしれませんけれど、わたし見ませんでした」 「なるほど。つづけてください」 「食堂を出るときに、わたしウェルビーさんに会いました。ウェルビーさんが合図したので、わたし上甲板までついて行きました。いっしょに手すりのそばに立って、横浜のあかりを眺めていました。ウェルビーさんはとても興奮していました。“ねえ、お嬢さん、これで遊びは終わりましたよ”と、低い声でいいました。わたしぽかんとして、“それどういう意味なんですの”って、聞いたんです。そうしたら、“目ざす男をつきとめたという意味です。もう一つの鍵のありかがわかりました――たしかに3260号のでした”といいました。 “それどこにあるんです?”って、わたし大きな声を出しました。もちろんわたしのいった意味は、誰がもっているかということだったんですけれど、ウェルビーさんはそれを文字どおりに受け取って、“あたしが発見したところにそのままあります”といいました。“あたしがその男をアメリカまで連れてって、ダフ警部の手に渡すまで、そこにそのままにしておきます。日本で逮捕するには、時間がもう少し遅すぎるし、こうするほうがよさそうです。ダフさんが自分でその男をつかまえたいだろうということは、わかっているし、あの人はもうサンフランシスコに来ているはずです。あたしはこれから上陸して、ロンドン警視庁気付で、ダフさんに電報して、必ずホノルルの埠頭に出ていてもらうようにいいます。あたしは、それ以上の冒険はしないつもりです”といいました」  パメラは言葉を止めた。ダフはじっと黙っていた。ウェルビーは実は冒険をしすぎてしまったのだ。彼は過ちをおかした。それはいまではあまりにもはっきりしすぎている。しかし、彼はよかれと思ってしたことだ。しかも彼は自分の過ちをつぐなわさせられた。 「その鍵の持ち主の名を、あなたがウェルビーにいわせてくれたらよかったのに」ダフは語気を強めた。 「でも、わたし本当にやってみたんです。さんざん頼んだんですけれど、ウェルビーさんはてんで相手にしないんです。知ったらわたしに危険があるだろうと、いいました。でもそればかりでなくて、わたしの見たところでは、あの人は旧式な女性観をもっていましたわ。女に秘密を打ち明けてはいけない――そういったような考えを。あの人は体は小さいけれど、りっぱな人でした。わたしあの方好きでした。ですから、わたしせがみませんでした。どうせそのうち全部わかると、自分にいってきかせました。あの方はその電報を打ちに、上陸しました。あくる朝、船がずっと沖に出てから、あの方はそれっきり帰って来なかったということを、わたし知りました」 「そうです」ダフは静かにいった。「あれはそれっきり帰って来ませんでした」  パメラははっと彼を見た。「あの方がどうしたのか、あなたご存じですのね?」 「ウェルビーはその船が出帆してから間もなく、埠頭で死体になっているのを発見されました」 「殺されて?」 「もちろんです」  充分世間慣れしているはずのパメラが泣いているのをみて、ダフはびっくりした。 「わたし――ひとりでに泣けてきたんです」彼女は弁解した。「あんなにいい人を。本当に、なんてひどいことするんでしょう。まるで獣《けもの》です……。犯人はみつかるでしょうか? どうしてもみつけなくては!」 「そうです、みつけなくてはなりません」ダフは沈痛な声で答えた。  彼は立ち上がって、窓へ行った。ホノルルは燃えるような太陽の下でまどろんでいる。往来の向こうの小さな公園の椰子《やし》の木の下で、皮膚の茶色な、ボロ服を着た男の子が、スチール・ギターをそばに放りっぱなしにして、大の字に寝ている。これが人生だと、ダフは思った。世の中に何一つ心をわずらわすものはない。何事もあす任せで、あすになればまた延ばすことだろう。後ろでドアが開く音がしたので、振り返ったら、リュース夫人が寝室から入って来たのが、見えた。 「ちょっとうたた寝をしていましてね」老夫人はこう説明して、パメラの涙に気がついた。「どうかしたの?」  パメラは説明した。老夫人は顔を青くして、いきなり腰をおろした。 「あの小さなボーイさんがそんな目に!」と大きな声でいった。「わたしは世界中で何百万というボーイに会ってきましたけれど、あの人は格別に気に入っていました。とにかく、わたしはもう二度とこういう長い旅行はしません。シナへちょっと行くとか、濠州へ行くぐらいなことはするでしょうが、それだけです。わたし年をとった気がしてきました。こんな気がしたのは、七十二年間にはじめてです」 「とんでもない。あなたはどうしたって五十上には見えません」ダフはいった。  彼女は顔を輝かせた。「本気でそうおっしゃるの? そうですね、実をいうと、たぶんすぐこんなの直るでしょう。パサデーナへ帰って、よく休めば。わたしまだ南米へ行ったことありませんの。どうして行かなかったのか、わかりませんね」 「わたしはお二人を招待しに来ました」ダフは伝えた。「とてもおもしろそうですよ。あなた方がけさ埠頭で会ったあのシナ人――あの人はいい人で紳士です。わたしはあの人に、今夜夕食にあの人の家へ来るように、招待されていますが、あなた方もお連れしてくれとのことです。お二人とも。あの人はそれをとても光栄に思っているようです」  二人が承知したので、ダフは六時半にロビーで二人を待った。夕方の涼しい空気の中を、彼らは車でパンチボウル丘を登った。前方の山々は雲に包まれているが、後ろの市街は夕日に照らされて、黄色がかったバラ色をしている。  チャンはベランダで待っていた。彼のいちばんいい洋服を着て、大きな顔を喜びに輝かせて。「わが家の歴史にまたとなき時であります」チャンは大きな声でいった。「わが家の敷居を、ロンドンの旧友またぎます。それだけで、この上なき光栄であります。加えるに、ほかの方おいていくだされて、私、実に誇り感じます」  粗末な家だとか、見苦しい家具だとか、いちいち言いわけしながら、チャンは彼らを玄関へ案内した。彼は追従抜きに真心から客をもてなした。これはもちろん、それが彼の客にふさわしいと思ったからである。されいな客間だ。床には珍しい昔の絨毯がしいてあり、天井から紅と金色のシナ風の燈籠が下がっていて、彫刻のしてあるチーク材の台がいくつもあって、それに汕頭《スワトウ》産の鉢や、磁器の酒壺や、盆栽が乗せてある。壁には、林檎《りんご》の木の枝に鳥がとまった絹地の彩色画が、一枚だけかけてある。パメラは新しい興味をもって、チャンを見た。彼女の知っているある室内装飾家たちに、この客間を見せたいものだと思った。  チャン夫人が現われた。最上の黒い絹の服を着て、しゃちほこばって、英語のしゃべり方に非常に気を使った。年かさの子供たちが何入か入って来て、形式ぶって紹介された。 「全部呼び入れて、あなた方を苦しめること、私いたしません」チャンは説明した。「それしたら、あなた方辛抱できませんでしょう」  チャンは遠く離れた本土の大学へ行っている、長女のローズの話をした。彼の声はやさしくなり、目には悲しげな色が浮かんだ。もしローズが――一家の花であるローズが――ここにいたら、さぞうまくここをさばいていくだろうに。妻はいつもは落ち着いているのに、すこしあがってしまっている。  年とった女の召使いが戸口に現われて、かん高い声で何かいった。みんな食堂へ移った。そこでチャンは、シナ料理ではなくてハワイ料理を差し上げると、説明した。最初のぎごちなさがとれて、チャン夫人はやっと微笑をしてみせた。リュース夫人が陽気にちょっとしゃべったあとでは、みんな気が楽になった。 「わたしのいちばん好きな民族です、シナ人は。チャンさん」リュース夫人はいった。  チャンは頭を下げた。「その前にアメリカ人あります、もちろん」  リュース夫人は頭を振った。「そんなことはありません。わたしは四カ月近くも、アメリカ人の中に閉じこめられて、旅行して来たばかりですが、もう一度繰り返しますけれど、シナ人がわたしのいちばん好きな民族です」 「世界一周旅行で、シナ人たくさん見ましたですね?」 「見ましたとも。そうね、パメラさん?」 「どこででも」パメラはうなずいた。 「シナ人は東洋の貴族です」リュース夫人はつづけた。「東洋では――マライ諸州でも、海峡植民地でも、タイでも――あらゆる都会で、シナ人は商人であり、銀行家であり、金持で勢力のある人たちです。非常に賢くて、有能で、正直で、東洋人の怠け者はとてもかないません。偉大な民族ですよ、チャンさん。でも、あなたはこんなことは、全部ご存じでしたね」  チャンは微笑した。「知っていることすべて、私いいません。あなたのようにほめていただくと、私の耳に、音楽のよう聞こえます。私たち、アメリカでは高く評価されません。私たち洗濯屋か、卜一キーの話に出るような悪者ぐらいに思われます。あなたのお国、偉大です。富み、誇り高く、自信もっています。世界のほかの国については――ごめんください――、ほとんど知らず、全然知ろうともしませんです」  リュース夫人はうなずいた。「まったくです。それで、わたしたちはいちばんの田舎者を、上院に送り出す時がありますからね。あなたは最近シナへ行きましたか、チャンさん?」 「何年も行きません。元気いい若者のとき、見たの最後です。そのころは、シナ平和な国でした」 「でも、今はそうではありませんね」パメラ・ポッターがいった。  チャンは重々しくうなずいた。「そうです、シナいま病人です。しかしある人賢明にもいったように、病人に同情する人のうち、たくさんがその病人よりさき死にます。そういうこと、シナの過去にありました。またそういうことあるでしょう」  外で風が強く吹き、つづいて屋根に激しい雨の音がした。「にわか雨になると、私思います」とチャンはつけ加えていった。  そのあとの夕食中、雨はつづいた。みんなが客間にもどったときも、雨は熱帯的な激しさで降りつづいた。ダフは自分の時計を見た。 「気を悪くしないでください、チャーリーさん。今夜はぼくの一生の最も楽しかった記憶の一つとして、ぼくは忘れません。しかしプレジデント・アーサー号は、ご存じのとおり、十時に出港します。もう八時半を過ぎています。ぼくはあの船に乗り遅れはしまいかと、ちょっと気になっています――あなたにもよくおわかりでしょうが。ぼくは電話で車を呼ぶほうが――」 「それ考えることありません」チャンは抗議した。「私、自動車もっています。その車、完全に扉しまり、四人楽に乗れます。私のような人間四人でもです――こんなに太った人いればです。私あなた方のご心配わかります。私あなた方連れて、いますぐパンチボウル丘降ります」  食事の楽しかったことをさんざんいってから、彼らは帰る仕度をした。「これがわたしの世界一周旅行で、いちばんの収獲でした」とパメラがいったら、チャンとその妻はうれしさに顔を輝かせた。数分後には、新しい車は丘を下って行った。遠くに、海辺のあかりがぼやけてぼんやり見えていた。  車はダフの鞄と、二人の女が陸へもって上がった小さな鞄をとるために、ヤング・ホテルに寄った。埠頭に向かって出発したとき、ダフは頭に手をあてた。 「これはいかん、チャーリーさん。ぼくはどうかしていた。すっかり忘れていました。事件のぼくの記録が全部、警察のあなたの金庫に入れたままです」 「私、忘れませんでした。私、今そこへあなた連れて行きます。あなたおろして、それから私、ご婦人たち埠頭まで送ります。私もどるまでに、あなた書類揃えてもっていられます。署長か誰か警察の人、あなたに金庫の扉開けてくれるでしょう。私たち最後の話しましょう。そしてあなた最後の一服お吸いなさい」 「それはありがたいです」  ダフは警察の建物の前で、滝のような雨の中を、車から降り、ほかの三人は走りつづけた。  埠頭で、チャンは二人の女にていねいに別れの挨拶をして、それから急いで警察署へ引き返した。踏み慣れた、すりへった段々を上がりながら、彼の気持は重かった。ダフが来たことは、単調を破る楽しいものだったが、滞在があまりにも短かすぎた。あすはまたほかの日と同じ一日になるだろう。熱帯の雨の激しい音が、まだ聞こえている。彼は廊下を横切って、自分の部屋のドアをぐっと押し開けた。そのとき、彼は予期しないことにぶつかった。三十六時間のうちに二度もであった。  ダフが机の椅子の横に、床の上に倒れている。両腕をだらんと頭の上に延ばしている。怒りと驚きのまざった叫び声を立てて、チャンは走って行って、ダフの上にかがんだ。ダフの顔は死んだように青いが、急いで脈に当てたチャンの指に、弱い脈が感じられた。チャンは電話に飛びついて、クイーン病院にかけた。 「救急車を」とチャンはどなった。「すぐ警察署よこしてください。大急ぎ、お願いです!」  チャンはちょっとの間、じっと立ったまま、わけがわからずにまわりを見つめていた。一つしかない窓は、いつものように開いている。外の暗い小路には、雨が降りそそいでいる。あの窓だ――それに違いない――そして霧のたちこめた暗い闇から、いきなり射ったのだ。チャンは机のほうを向いた。ダフの開けっぱなしの書類鞄が乗っている。中身には手をふれていないようだ。書類のいくつかは、鞄の仕切りの中に収まっている。無造作に散らばっているのが少しあるが、風に吹き飛ばされたものだということは明らかだ。  チャンが呼んだので、すぐそばの署長室から署長が来た。その瞬間に、ダフが少し身動きした。チャンはその横に膝をついた。ダフは目を開けて、旧友の顔を見た。 「あとを引き受けてください、チャーリーさん」ダフはこうささやいて、また意識を失った。  チャンはまっすぐ立って、自分の時計をちらっと見て、机の上の書類を片づけにかかった。 [#5字下げ]15 ホノルルから東をさして[#「15 ホノルルから東をさして」は中見出し]  署長は膝をついてダフの上にかがんだ。とても深刻な顔をしている。立ち上がって、不審そうにチャンを見た。 「どうしたのだね、チャーリー君?」  チャンは開いている窓を指さした。「射たれました」とずばりといった。「弾丸あそこから飛んで来て、それで背中射たれました。ダフ警部気の毒です。この人、きょうこの港に上陸した旅行団の中の殺人犯人捜すために、この静かな都会へ来ました。それで今夜その殺人犯人、自分の腕前見せようとしました」 「ずうずうしいにもほどがある」署長は突然腹を立ててどなった。「ホノルル警察署で人を射ち倒すとは――」  チャンはうなずいた。「それよりもっと悪いです。私、非常に誇りにしている私の部屋で、射ち倒されました。この殺人犯人逮捕されないかぎり、私、世間の笑い者になります」 「いいや、ぼくはそうはいわん」  チャンはダフの書類を全部、書類鞄に収めてしまって、バンドをかけていた。 「君はどうするつもりだね、チャーリー君?」署長は聞いた。 「きまっております。私のように面子《めんつ》なくした以上、攻撃しかえさずにいられますか? 私、今夜プレジデント・アーサー号で出発します」 「しかし君はそんなことはできは――」 「誰も私のこと止められませんです。この市で、どの外科医もっとも有能か、それを教えてください」 「そうだね、おそらくラング博士が――」  そのつぎの瞬間には、チャンは電話帳を手に持って、ダイヤルの番号を回していた。彼が話をしている間に、警察の建物の前に救急車ががたんと止まる音が聞こえ、白衣の病院の雑役夫が担架をもって、廊下へ入って来た。不運なダフを運び出すことは、署長が指揮し、チャンは外科医との話をつづけた。ラング博士はヤング・ホテルに住んでいて、救急車とほとんど同時にクイーン病院に着くと、約束した。  チャンは受話器をいったんフックにもどしてから、またそれを取り上げて、もう一度番号を回した。 「もしもし。お前だね、ヘンリーだね? お前は今夜は早く帰宅した。それ神様のおぼしめしです。よく聞きなさい。お前の父がかけている。私、一時間後に、本土へ向かって出発する。なに? 驚くことやめなさい。事はきまった。私、重大な事件で出発します。しっかり落ち着いて間違えるなよ――お前こういう言い方するの好きだ。大至急鞄詰めてもらいたい。歯ブラシと、ほかの服一着と、剃刀。私が何を必要とするか、それお前自分で判断して、持って来なさい。お前の母の力借りなさい。お前の車使って、ダラー汽船のプレジデント・アーサー号待っている埠頭へ、来なさい。私の鞄と、お前の母乗せて。船、十時に出発する。急がねばならぬということ、お前にわかるはずだ。これで終わり」  チャンが電話機から離れたら、署長が彼のほうに向き直った。 「よく考えてみるほうがいいね、チャーリー君」と署長は注意した。  チャンは肩をすぼめた。「私よく考えました」 「君はどうしてやるつもりだね――また休暇をとるのかね? ぼくはそれは警察部の幹部と相談する必要がある。数日はかかるだろうから――」 「それでは私、辞表出します」 「いいや、それはいけない」署長は反対した。「ぼくがなんとかする。しかし聞きたまえ、君。この仕事は危険だ――その男は人殺しで――」 「そのことは、私、誰よりよく知っています。それ重要なことですか? 私の名誉傷つけられました。私の部屋でということ、忘れないでください」 「ぼくは君が生命の危険を冒してはならんといっているのではないが、それは正当な職務の遂行の場合だ。とにかく、ぼくは――ぼくは君を失いたくない、チャーリー君。この事件はぼくには、イギリスの警察の仕事と思えるから――」  チャンは頑強に頭を振った。「もうたくさんです。これ今は、私の事件です。あなた私失いたくないといいますが、なんのためです? 小路を逃げる賭博者追わせるためですか? キング・ストリートに止まっている車に、呼び出しの札張りつけさせるため――」 「もっともだ。いままでろくな事件がなかったから――」 「いままで――そうでした。しかし今夜そうではありません。また忙しくなって来ました。私、その汽船が出航するとき乗ります。そして本土に着く前に、犯人捕えます。もしそれできなければ、私、捜査の警部の肩書永久に捨てます。深く悲しんで、引退します」チャンは金庫へ行った。「ここに現金二百ドル入っています。私それもって行きます。それ以上のぶんは、サンフランシスコへ私に電報で、送ってください。それホノルル警察署の構内で大それたことした犯人逮捕する必要経費とするか、それとも私の私費として、あとで返すかです。どちらでもかまいません。私、病院へ行きます。これでお別れ――」 「いいや、まだ早い。君が出帆する時間に、ぼくは桟橋へ行く」  ダフの貴重な書類鞄をしっかり抱えて、チャンは往来へ急いだ。ホノルルに特有な気まぐれ天気で、雨はもうやんでしまって、あちらこちらの雲の間に、星が輝いている。チャンはヤング・ホテルのロビーへ行って、最初に目についた汽船の職員の制服を着た男に、言葉をかけた。幸いなことに、それはハリー・リンチというプレジデント・アーサー号の事務長だった。  チャンは自己紹介をして、リンチ氏にいっしょに車に乗るようにすすめた。クイーン病院まで運転して行く間に、彼は事情をかいつまんで説明した。事務長は大いに心を動かされた。 「ロンドン警視庁の探偵がここから乗るということは、船長から聞きました。ウェルビーという人のことは、われわれはみんなもちろん知っていました。急に見えなくなったので、ひっくりしました。横浜からの通知は、ただ殺されたということだけでした。で、こんどはダフ警部が怪我《けが》をさせられたのですな? いいですとも、警察の方を船に乗せるのは、大歓迎です。仕事がたくさんあなたを待っているでしょうね、チャンさん」  チャンは肩をすぼめた。「私の才能きわめてわずかなものです」 「そんなことあるものですか? わたしは違ったことを聞いています」  事務長はそれ以上いわなかったが、チャンは彼に好意をもった。長い間何もしなかったのに、自分が覚えられているということを知って、うれしかった。 「あなたの切符は、わたしがなんとかします」事務長はつづけた。「こんどの航海はすいていますから、あなたにいい船室を独占させてさしあげます」  病院へ着いて、チャンは中へ入った。心配でたまらない気持だった。ラング博士が出て来た。すっかり白衣につつまれて、幽霊のような姿で、顔はアイ・シェイドのかげに隠れて見えない。 「弾丸の所在はつきとめました」この外科医は説明した。「それで、すぐ手術をしているところです。運よく、肋骨にぶつかって、コースがそれました。なかなかむずかしい手術でしたが、患者の健康状態が非常にいいようですから、回復しましょう」 「ぜひそうさせてください」チャンはきっぱりいった。ダフが誰で、なんでホノルルに来たかということを、医者に説明した。「最後のごくわずかの時間の面会お願いしたいですが――」と、慣れない場所なので、おどおどしながら、彼は聞いてみた。 「手術室へ上がっていらっしゃい」医者は承知した。「患者は少ししゃべっていますが、うわごとです。しかし、たぶんあなたにはそれから何かつかめるでしょう」  上のなんだか気味の悪い、薬の匂いのする部屋で、チャンは友人のシーツでおおわれた姿の上にかがんだ。ダフはあの弾丸を射った男をちらっとでも見たであろうか? もしそうであって、いまその名を聞けたら、それで事件は終わりだ。 「ダフさん」チャンは静かにいった。「私チャーリー・チャンです。実に、恐ろしいこと起こりました。ご同情いたします。あなた犯人の顔見ましたか? いってください」  ダフは体を少し動かして、不明瞭な声でものをいった。「ロフトン」と呟いた。「ロフトン――顎ひげのある男――」  チャンは息を呑んだ。あの窓に現われたのは、ロフトンだったのであろうか? 「テイトもいる」ダフは呟いている。「それからフェンウィック。フェンウィックはいまどこにいる? ヴィヴィアン――キーン――」  チャンは悲しそうに、そこを離れた。かわいそうにダフは、容疑者のリストをまたもう一度繰り返しているだけなのだ。 「もうそっとしておくほうがいいです、チャンさん」医者がいった。 「私、帰ります。しかし最後に、これ申さねばなりません。あすでもいつでも、この人、気がつきますと、たいへん落ち着かない患者できることになります。とてもベッドから起きたがり、また追跡つづけたがります。その場合、私こういったといって、落ち着かせてください。チャーリー・チャン、プレジデント・アーサー号でホノルルに向かった。汽船本土の岸に着く前に、犯人を捕える。こういってください。これ約束だと、いってください。それから、これ友だちに約束破ったことない人間がいったことだと、いってください」  医師は重々しくうなずいた。「そういいます、チャンさん。いいことを聞きました。それから――われわれはこの人のために最善をつくします。これはあなたへのわたしの約束です」  チャンと事務長がプレジデント・アーサー号が碇泊しているそばの埠頭に車をつけたのは、九時四十五分だった。チャンは車を降りたとき、そう遠く離れていないところに、息子のヘンリーと、それといっしょにいる黒い絹の服を着たずんぐりした小柄な姿が見えた。まだ夕食会の晴れ着を着ている彼の妻だ。彼はそこへ行って、二人を連れて渡し板を上がって、事務長のいるところへ行った。渡し板の下の小さな机のところに立っている一人の職員が、彼らが通り過ぎて行くのを、好奇的な目で見ていた。  甲板に立って、チャン夫人は不可解なことをする夫を、内気そうな目で見上げた。「あなたいまどこ行きます?」と聞いた。  チャンは妻の背中をやさしくたたいた。「突然、事件起こった。何も知らない通行人の顔に爆竹はねたように」  彼は役所の自分の部屋で何が起こったかということと、自分の面子を救い、失われた威信を取りもどすために、すぐ出発する必要があるということを、話した。  この温和な小さな女性は了解した。「鞄にきれいな切れ、たくさんあります」といって、それからちょっと考えていたが、「あなた行くところたぶん危ないと、私思うね」と付け加えた。  チャンは安心させるように微笑した。「神様のきめたこと、人間変えられない。わき道によけて、運命逃げることできない。心配することない。きっと何もかもうまく行く。それにそう幾日もたたないうち、ローズに会えるつもりでいる」  薄暗いあかりのなかで、妻のぽっちゃりした頬に涙が急に光ったのが、チャンに見えた。 「かわいいね。私かわいい言ったと、いってください。あの子あんな遠くへ行った」彼女は悲しみをこらえているように、急に両手をちょっと握った。「なぜあんな遠くへ行くのか、私わかりません」 「いまに自慢できる日が来て、そのときわかる」チャンは請《う》けあった。  乗客のいくつかの小さなグループが、だらだら渡し板を上って、ちょっと甲板にぶらぶらしていて、それから自分たちの船室へゆっくり行った。この出帆にはとくに人を興奮させるようなことは何もないらしい。  チャンの署長が現われた。「やあ、ここにいたね、チャーリー君。あと六十ドル捻出してあげることができた」といって、札束を渡した。 「ご親切、私、心からお札いいます」 「帰る費用はまた電報で送る。君が犯人をつかまえてからだ。君はつかまえるよ。ぼくは確信している」 「私よく考えてみる時間できましたら、それほど自信ありません。私の選んだ仕事、かなりむずかしいようです。私ダフ警部と話したことから、ダフさんを喜ばすことただ一つということわかっています。私、三カ月以上前にロンドンのブルーム・ホテルで人を殺した男誰か、それ発見しなければなりません。私、ずっと犯行現場から八千マイル離れたところいました。手がかりなくなり、足跡わからなくなり、逮捕できたかもしれない最も大切なこと関係者全部が忘れてしまったに違いないときになって、私その犯罪解決しなければなりません。私今夜、必要な資格なくて、超人の仕事、熱心に志願しました。今、私そう思います。たぶん私近いうち、負けて、名誉全部失って、這って帰って来ます」 「だが、そうとも限らない。たしかにむずかしい仕事のように見えるが、しかし――」  夜の闇から息を切らせて現われて、チャンに向かい合った小柄な人間が、署長の話を中断させた。カシマだった。 「やあ、チャーリーさん」その日本人が大声でいった。 「いやあ――親切に別れの挨拶いいに――」チャンはこういいかけた。 「別れの挨拶、どうでもいいです」カシマはそれをさえぎった。「ぼく重大な情報もって来ました」 「それはそれは」チャンはていねいな返事をした。「どういう種類のものかね?」 「あなたの偉い友だち射たれて怪我したすぐあとで、ぼく小路の出口通っていました」カシマは息を切らせて、話をつづけた。「男が小路を出て、あかるい通りへ行くの、ぼく見ました。大きなコート着た、背の高い男で、目の上まで帽子かぶっていました」 「すると、あなた彼の顔見なかったね?」 「それかまいません。顔必要ありません。もっといいものを見ました。その男たいへんなびっこで、ちょうどこんなふうに――」カシマは勢いこんで芝居がかりに、この甲板の上でびっこの男の真似をしてみせた。「その男ステッキついていました。淡い色で、たぶんマラッカ([#割り注]インド産の籐[#割り注終わり])の種類です」 「ありがとう」チャンは彼のいちばん下の子供にでもいうような声を出して、うなずいた。「あなた観察力鋭い。仕事覚えるの早いです」 「たぶんぼく、そのうちいい探偵なれます」カシマは希望をこめていってみた。 「そうかもしれないね」とチャンは答えた。  太い声が、桟橋へ降りる人はもう降りてくれと、告げていた。チャンは妻のほうを向いた。その瞬間に、カシマは署長にべらべらまくしたてた。繰り返していっている主旨は、チャンの助手として、サンフランシスコまでやってくれということらしい。 「ぼく捜し物するの非常にうまいです。チャンさんもそういいます」とカシマは主張している。 「どういうものかね、チャーリー君?」署長はにやっと笑った。「君はこの人が要るかね?」  チャンはちょっと躊躇して、それからカシマのそばへ行って、肩をたたいた。 「考えてごらん、カシマ。あなたの判断足りない。あなたと私二人とも同時にホノルルいなくなれば、悪事する人とても喜ぶにきまっている。島じゅう、犯罪の洪水になって、たいへん困ることになる。もう帰って、私留守の間、よくやっていてください。私たち誤りによって学ぶということ、いつも忘れないように。それわかれば、あなた私たちの中でいちばん有能な人になれる」  カシマはうなずいて、握手をして、甲板を降りて見えなくなった。  チャンは息子のほうを向いた。「私の車すぐ、パンチボウル丘のガレージに入れておきなさい。私いない間、なんでも母に従い、家中よく守りなさい」 「いいですとも」へンリーは承知した。「それからね、お父さん、帰って来るまでお父さんの車使っていいですか? ぼくがお父さんから譲り受けた古い車は、なんだか調子が悪いんです」  チャンはうなずいた。「その要求、私、予期していた。よろしい、私の車使ってよろしいが、非常に親切に扱いなさい。お前真似しているスピード・マニアの若者のように、車の力以上のこと、絶えず要求してはいけない。グッド・バイ」  チャンは妻に低い声で、何かちょっといって、西洋風にキスをして、渡し板の降り口へ連れて行った。 「幸運を祈る、チャーリー君」署長がこういって、握手した。  夜の静寂を破って、鎖のがちゃがちゃいう音がして、渡し板は下げられた。これでチャンは埠頭にいる人たちから、完全に切り離された。彼らが埠頭に立って、自分を見上げているのを見て、チャンは心を打たれた。彼らの態度に、彼を信頼し、彼が最後には成功すると信じていることが、はっきり出ている。しかし、彼にはそういう自信はなかった。とんでもない仕事を進んで引き受けたものだ。こう思って、彼はダフの書類鞄を抱えている手に、力をいれた。  大きな定期船はゆっくりと埠頭を離れて、航路へ出て行く。今夜は、オーケストラの別れの曲の演奏はない。船と岸をつないでいる派手な色のテープもない。いつもは島からの出帆につきものの華やかな光景は、何もない。ただ黙々と仕事が進められているというだけだ。一つの船が海に出るというなんの変哲もないことだけだ。  薄暗い埠頭の小さなグループは、やがて彼には見えなくなった。しかしそれでも、彼は手すりのそばの位置から動かなかった。エンジンの回転の音が強くなった。船の調子がそれに合って来た。間もなく、ワイキキ海岸だとわかるぐるっと半円を描いている光が見えた。彼の家のベランダにじっとかけて、市街のかなたのあの浜を眺めながら、何か起こればいい、行動をしたいと、ぼんやり考えていたことが、幾晩あったことか。だが、それがついに起こったのだ。そうだ、たしかに何かが起こったから、彼はこうして海の上の船から、ワイキキのあかりを見ているのだ。  彼は振り向いて、自分の後ろのこの定期船の暗い無気味な大きな空間を眺めた。彼はいま新しい世界にいる。小さな世界で、そこには、ロンドンで過ちによって人を殺し、つぎにニースとサン・レモで執念深く計画したとおりに人を殺し、さらにまた横浜の埠頭で、こんどは明らかに必要に迫られて人を殺した男が、自分といっしょにいる。今夜、容赦なく後を追って来るダフからのがれようとして、彼を殺そうとしたばかりの、何をするかわからない男だ。物に動じるような人間ではない、このジム・エヴァハードというのは。これから六日間、自分とその男とは、この鋼鉄と木のすばらしい建造物の中のとらわれ人として、限られた空間の中に同居して、互いに相手を負かそうとするのだ。勝つのは、どちらか?  チャンははっとした。誰かが音もなく、彼の後ろに来ていた。しいーっという声が、彼の耳に聞こえた。彼は振り向いた。 「カシマ」彼は息を切らせていった。 「やあ、チャンさん」カシマは薄笑いをした。 「カシマ――どういうわけ?」 「ぼく隠れていました。ぼくあなたの大事件手伝いに、いっしょに行きます」  チャンは船とワイキキ海岸の間の白波を見て、考えていた。 「あなた泳げる、カシマ?」と聞いた。 「全然だめです」相手ははればれした顔で答えた。  チャンは溜息をついた。「なるほど。神様の与えたものなんでも微笑して受け取れる人、人生という苦しい学校でいちばん大切な課目卒業した人です。ちょっと待ちなさい、カシマ。私いまその微笑できるように努力している」 [#5字下げ]16 マラッカのステッキ[#「16 マラッカのステッキ」は中見出し]  すぐにチャンの生来の人のよさが勝って、その微笑を浮かべることができた。 「私ごくわずかの間でも、少し狼狽したこと、すまなく思う、カシマ。しかたなかった。この前私たちいっしょにした仕事のこと、私思い出したもので。あのダイスの事件。しかしあなたのような冒険精神、軽蔑してはならない。私いまの事件に、あなたを歓迎します。この事件、あなたの来る前から、非常にむずかしい事件でね」 「ありがたいです」  事務長がそばの戸口から現われて、甲板を急いでやって来た。 「やあ、チャンさん。捜していました。いま船長に話したところが、あなたに空いているいちばんいい船室を提供するようにとのことでした。バス付きの船室で――もちろん、最低料金でです。いまベッドを一つ、仕度させています。鞄を持って、わたしについて来て――」カシマを見て、あっけにとられた。「この人、誰です?」  チャンはためらった。「ええ――リンチさん、ホノルル警察のカシマ刑事ご紹介します。警察でいちばん――」ちょっと言葉をつまらせた。「――有能な人の一人です。最後の瞬間に、この人助手として連れて行くこと、きまりました。この人の寝る場所捜していただきたいと――」  リンチ事務長は考えた。「この方も乗客として行くのでしょうな、おそらく?」  チャンはいいことを思いついた。「カシマ、専門家です。このごろは誰も専門もってはいるですが。物を捜すことうまいです。もし非常に頭使わないような乗組員の仕事与えてくだされば、りっぱな結果あげるかもしれません。そうすればこの人誰にも知られずにいられます。私、遺憾ながらこれできません」 「この船のボーイが一人、今夜ホノルルで密輸入でつかまりましてね」リンチは答えた。「連邦政府の役人たちは何を考えたんですかな、とにかく? それで仕事の分担を少し変えなければならなくなりました[#「ならなくなりました」は底本では「ならくなりました」]。カシマさんをビスケット・ボーイに――船室の通路にいて船室のベルに答えるボーイに――してもよろしいです。もちろん、そうりっぱな仕事ではありませんが――」 「しかしすばらしい機会です」チャンは保証した。「カシマ気にしません。彼にはいつも義務第一です。カシマ、あなたどう思うか、この方にいいなさい」 「ビスケット・ボーイ、チップもらえますね?」カシマは熱心に聞いた。  チャンは手を振った。「ごらんなさい――この人やりたがっています」 「じゃあ、今夜はあなたの部屋に休ませるほうがいいでしょう。あなたの船室ボーイ以外には、誰にもわかりません。それにはわたしから、何もいわないようにいっておきます」事務長はカシマのほうを向いた。「あすの八時に、ボーイ長のところへ行ってください。あなたが捜し物をするのはかまいませんが、つかまってはいけませんよ。わかりましたね。無関係な人に不快な念を与えるといけませんからな」 「もちろんそのとおりです」チャンは力をこめて同意した。しかしそれほどの確信はなかった。無関係な人に不快の念を与えるのは、これもカシマの専門の一つだということを、彼は考えた。 「船長が朝になったらお会いしたいそうです、チャンさん」  事務長は二人を案内して行った船室の戸口で、こういって、別れた。  チャンとカシマは特等室へ入った。ボーイがまだそこにいたから、もう一つベッドの仕度をするようにいいつけた。それを待っている間、チャンは自分のまわりを見回した。広い風通しのいい部屋で、考えるのに快適なところだ。これから六日間、たくさんのことを考えなければなるまい――夜も。 「私すぐもどる」彼はカシマにいった。  彼は上甲板へ行って、電報を打った。宛て先は署長で、本文はこうだ。 [#ここから1字下げ]  カシマの行方不明聞いても私に任せよ。私と同じ船いる。 [#ここで字下げ終わり]  彼が船室へもどったら、カシマがそこに一人でいた。 「私いまあなたの出発のこと、署長に知らせた。このビスケット・ボーイの仕事、たいへんに運よかったね。さもなければ、あなたの旅費誰が払うという問題起こるかもしれず、誰もその名誉断わるのではないかと、私それ心配だった」 「もう寝ましょう」  チャンはカシマに自分のパジャマを渡して、それを着た姿を見て、心の中で笑い出した。 「風船ちぢんで飛べなくなったように見えるね」  カシマは薄笑いをした。「ぼく何着ても眠れます」とはっきりいって、ベッドへもぐり込んで、それを証明してみせた。  やがてチャンは自分の枕の上のあかりをつけ、ほかを全部消して、ダフの書類鞄をもって、自分のベッドへ入った。その鞄を開けて、厚い紙の束を出した。ダフの記録には、ページを追ってナンバーがつけてある。一枚も紛失していないのを見て、チャンはほっとした。妻に宛てたハニウッドの手紙も、この事件に関係のあるほかの全部の通信や文書も、そのままだった。ジム・エヴァハードはダフを射ったあとで、部屋に入るのが恐ろしかったか、書類の中に心配なものはないと思ったか、そのどちらかだ。 「私、あなたのじゃまにならないようにするつもりだ」彼はカシマにいった。「しかし、密航者勝手なこという権利ない。われわれの事件の記録を、私完全に暗記できるまで、いま読むこと私の義務です」 「少しもじゃまになりません」カシマはこういって、あくびをした。 「おもしろがってだけいて、責任ないものね」チャンは溜息をついた。「あなたの人生幸福です。私、旅行団のちんばの人にとくに注意して、読むことにする。ダフさん気の毒に私の部屋で射たれて倒れていたとき、その人小路の出口で何をしていたものか? あなたそれ知らせて、事件の手がかり私に教えてくれた。お礼いいます」  彼は読みはじめた。そして空想で、はるかな旅をしたのである。いままでただ名前だけしか知らなかったロンドンは、よく知っている都会になった。ロンドン警視庁を出る小さな緑色の車が、彼に見える。彼はブルーム・ホテルの神聖な入口に、足を踏み込む。28号室のベッドに倒れているヒュー・モリス・ドレイクの死体の上に、かがみ込む。ホテルの古めかしい談話室へ降りて行って、そこでテイトが敷居口で心臓の発作を起こしたのを見、そしてハニウッドのおびえたような様子に注目する。それからパリを通って、ニースへ。ハニウッドが庭で死んでいる。サン・レモ。あのエレベーターでの恐ろしい一瞬。彼は妻に宛てたハニウッドの手紙を、注意して読んだ。それにはこと細かに説明はされているが、肝心の問題は答えられていない。この長い事件のあらゆる細かな点は、もう全部彼の心に焼きつけられた。  彼はダフからこの事件のことをすっかり聞いたのではあったが、そのときは、彼には関係のない、遠い事件のように思われた。今夜、それは彼の関係した事件になったのである。彼はダフになった。この事件は彼の事件になった。何一つ見のがせない。何一つ看過してはならない。最後に、彼はダフがこの日の午後、ホノルルで、パメラ・ポッターとした話の記録を検討した。ウェルビーが鍵を発見したことを、彼女が話したときの記録である。直前のことまで記録をつけ続けていたというのは、ダフの功績であった。  チャンは読み終えた。考えこみながら、カシマにいった。 「ロスという男、興味があるね。ロスどういう人間か? いつも陰にいて、びっこひいていて、一度も疑われたことない――今までは。ロス氏のこと、われわれまず最初に考える必要あるね、カシマ」  彼は言葉を止めた。向こうのベッドから聞こえる大きないびきが、唯一の答えだった。彼は時計を見た。夜の十二時を過ぎている。彼は最初にもどって、また全部読み直した。  最後に彼があかりを消したときは、二時を過ぎていた。それでもまだ、彼は眠る気にならなかった。横になったまま、先の計画を考えていた。  朝の七時半に、彼はその小柄な助手を荒っぽく眠りの国から引きずり出した。カシマはぼんやりしていて、正気にもどって、自分がどこにいるかわかるまでには、手間がかかった。カシマが簡単な洗面をすませている間に、チャンは事件について少し説明し、カシマがしなければならない役割を、念を入れて教えた。旅行団の持ち物の中から、3260という番号の入った鍵を捜すことだ。発見できるかもしれないし、できないかもしれない。おそらく今頃は、もう太平洋の底にあることだろう。しかし、とにかく努力はしなければならない。カシマはぼんやり、面くらったようなうなずき方をして、八時二分前には、ボーイ長に会いに行く用意ができた。  チャンは最後の訓戒を与えた。「よろしいね、カシマ。急ぎすぎること、致命的な結果になるかもしれない。何かする前に、自分のしようとしていること、充分時間をとって、考えなさい。あなたこれからビスケット・ボーイだから、われわれ船で会っても、あなた私のこと知っている顔してはいけない。われわれの話、全部この船室で、非常に秘密にしなければならない。さよなら、幸運祈ります」  カシマは「さよなら」と答えて、出て行った。チャンはちょっとの間、舷窓のそばにじっと立って、日光に輝く海を眺め、さわやかな空気を胸一杯吸い込んでいた。船の上の最初の朝というものには、何か力づけるものがある。すがすがしい平和な感じ、陸の危険から遠ざかったという安心感。満ち足りたような気がして、自信感が彼の心にみなぎった。晴ればれとした日で、未来はあかるくみえた。  彼が顔を剃っていたら、ボーイがドアをノックして、署長からの電報を渡した。彼は読んだ。 [#ここから1字下げ]  医師の報告では手術は成功。ダフ元気。カシマ迷惑をかけ同情する。 [#ここで字下げ終わり]  彼は微笑した。すばらしいニュースだ、このダフのことは。朗かな気持で、彼は問題に当面するために、甲板に出た。彼が最初に見たのは、マーク・ケナウェイといっしょに朝の散歩をしているパメラ・ポッターだった。彼女は立ち止まって、あきれたように彼を見た。 「まあ、チャンさん。あなたここで何していらっしゃるんです?」  彼はさっと、頭を低く下げた。「私、非常に気持のよい朝楽しんでおります。あなたも同じことしているようですね」 「でも、わたしあなたがいっしょにいらっしゃるなんて、少しも考えていませんでしたわ」 「私自身、考えていませんでした。昨夜遅くまでは。私、ダフ警部の無価値な代理です」  彼女はぎょっとした。「あの方――まさか、あの方も――」 「驚くことありません。怪我だけです」こういって、彼は何があったかを、急いで説明した。  彼女は頭を振った。「まるで切りがないようです」 「始まったこと、終わらねばなりません。この事件の凶漢、賢くて、陰で何かやります。しかしいかに賢い人も、過ちすることあります。私、この若い方、きのう埠頭でお会いしたと思います。お名前は――」 「失礼しました」彼女が答えた。「わたしあなたにお会いして、びっくりしてしまったものですから。ご紹介します――こちらケナウェイさんです。わたし昨夜のすばらしい会に、この方が来なくて惜しかったと、話していたところです。この方うろたえてましたわ。だって、この方ボストンのとても[#「とても」に傍点]名家の方で、除けものにされるなんて、慣れていないんですもの」 「つまらないことを」ケナウェイがいった。 「来てくだされたら、光栄でした」チャンはうなずいてから、青年のほうを向いた。「私自身、ボストンに深い興味もっています。いつかボストンの話聞きたいです。いまは、これ以上あなたの散歩のじゃましません。私、きのう旅行団の方全部に紹介されました。名前も肩書もです。ですから、私、正体隠すこと無益でしょう。あとであなた方全部に会って、昨夜のこと、少し話すことにします」 「またですか」ケナウェイが答えた。「この旅行のはじめから、ぼくたちはもう何度も警察官に会うので、集まっています。ですが、それにあなたが新顔で入られるのは、おもしろいです。うまくやってください、警部さん」 「ありがとうございます。私、最善をつくします。私この事件に、遅れてこっそり入って来ました。しかし、遅れてこっそり家へ入った海亀、最後に食卓のいちばんいい席についたという古い諺思い出して、元気づけられます」 「ああ、そうですか――スープに入ってね」  チャンは笑った。「古い諺、あまり文字どおり受け取るものでありません。私失礼して、この船の料理試食して来ます。あとで私もっとゆっくり、あなたとお会いします」  彼は食堂へ行って、そこでいい席を与えられた。朝食を充分にとってから、彼が立ち上がって席を離れたら、ドアのそばの席に、ロフトン博士がいるのが見えた。彼は立ち止まった。 「おや、ロフトン博士。私の顔、覚えていてくださいますでしょうか?」  ロフトンは見上げた。チャンを見て、親しげな微笑を見せずにいられる人はほとんどいない。しかしロフトンはそれができた。それどころか、むしろ渋い顔をした。 「ええ、覚えています。警察の方でしたな、たしか?」 「私、ホノルル警察署配属の捜査の警部です。かけてよろしいですか?」 「どうか」ロフトンはいやいやいった。「しかし私が無愛想にしていても、気になさらんでください。警察の方にはちょっとあきあきしているもので。あなたの友人のダフさんは、けさはどちらです?」  チャンはけげんな顔をした。「ダフ警部どうしたか、あなた聞いていませんですね?」 「いませんとも。私は面倒を見なければならない人間が十二人いて、それで手がいっぱいだと、はっきり申しておきます。あとをついて来る警察官の一人一人に、かまっておられんです。ダフさんはどうしました? さあ、あんた、いってください。まさか、彼も殺されたというのではありますまいな?」 「そこまでいきません」とチャンは静かに答えて、説明した。彼の小さな黒い目は、ロフトンの顔にそそがれていた。その顎ひげをはやした顔に、ショックも同情の顔も浮かんでいないのに、彼は驚いた。 「なるほど。そうするとこの旅行に関する限り、ダフさんはそれで終わりですな」チャンが話し終えたら、ロフトンはこういった。「それで?」 「それで私、気の毒なダフさんの代理します」  ロフトンはチャンを見つめて「あんたが!」と無作法に叫んだ。 「なぜです?」チャンは穏やかに聞いた。 「その、別に理由はありません。失礼しました。なにしろ、ここ数カ月の事件で、私は神経がすっかりいらいらしてしまっているもので。ありがたいことに、サンフランシスコで解散です。今後また海外旅行に出るかどうか、それを私は考えています。私は前から引退のことを考えていたですが、こんどが実にいい機会です」 「あなたの引退するしないということ、私的な個人的な問題です。そういう私的なことでなく、この旅行に加わった殺人犯人誰かという問題あるです。私その事件捜査に、ここへ来ました。そうする充分な権限与えられています。あなた十時に談話室に団員の方集めてくだされば、私仕事にかかります」  ロフトンはチャンを睨んだ。「いつまで、ああ、いつまで?」といった。 「私できるだけ短くします」 「そういう意味ではありません。いつまでこうした尋問のために、メンバーを集めつづけなければならないのか、という意味です。そんなことをしても、何も出て来ません。いままでそうだったし、おそらくこれからもそうでしょう」  チャンは探るようにロフトンを見た。「もし何か出て来たら、あなた困るのですね?」と思い切って聞いてみた。  ロフトンはチャンの視線を見返した。「あなたに嘘をいう必要はありません。この事件で、決定的な評判がぱっと立つというのは、私は望ましくないです。それは私の旅行業の終わりを意味します。必ずです。しかも、不輸快な終わり方です。私の希望は、この事件の噂が全部消えて行くことです。いいですか、私はあなたに率直にいっているのです」 「よくわかりました。ありがとうございます」チャンは頭を下げた。 「私はメンバーは集めます、もちろん。しかしそれ以上に、あなたが私の助けを求めようとしたら、それは見当違いというものです」 「見当違いすること、時間の非常な浪費です」 「それをわかっていただいてうれしいです」  ロフトンは立ち上がって、ドアのほうへ行った。チャンはおとなしくあとをついて行った。  船長に会いに行って、チャンはこんどはもっと心からの挨拶をされた。この海の古強者《ふるつわもの》は、いままでの追跡行の話を聞いて、しだいに腹を立てて来た。 「これだけのことはいえます。犯人をつかまえてもらいたいです」船長は最後にこういった。「できるだけのお手伝いはします。しかし、このことは覚えておいてもらいたいですな、チャンさん。一つ間違いがあったら、たいへんなことになるということを。あなたがわたしのところへ来て、ある人間を監禁してくれとわたしに頼んで、それが的はずれの人間だったということになったら、わたしの立場は収拾がつかないことになります。たぶん会社がいつまでも、それにかかり合わなければならんことになるでしょう――訴訟とかなんとかで。充分慎重にする必要があります」 「こういう大きな船の責任者、常に慎重であるべきです」チャンは穏やかにいった。「私、充分注意する約束します」  船長は微笑した。「あなたがそうしてくださることは、わたしにはわかっています。わたしは最近の十年間、太平洋航路にいて、あなたの話を聞かなかったことはありません。あなたのことは充分に信頼していますが、今の場合、わたしの立場はこうだということを、いわずにいられませんでしてな。いよいよ逮捕ということになったら、サンフランシスコの埠頭でやるようにしましょう。そうすれば、あとのいろんな問題が省けます」 「いい予言してくださいました。私、そうなること望みます」  船長はうなずいた。「わたしもそれを心から望みますな」  チャンはまたプロムナード・デッキへ行った。カシマが所々しか体に合っていない新しい制服に身を固めて、飛び回っているのを、彼は見た。パメラ・ポッターがデッキ・チェアにいて、彼に手を振った。彼はそばへ行った。 「あなたのご懇意のリュース夫人、まだここに見えませんですね?」チャンは聞いた。 「ええ、あの方は船では遅くまで寝て、朝食は自分の船室へ取り寄せます。いますぐあの方と、お話しになりたかったのですか?」 「私、あなた方二人と話したいと思いました。しかし、あなただけでたいへん結構です。昨夜、私あなたを九時ごろ埠頭に届けました。そのときと船室へ入るまでの間に、旅行団のメンバーのどの人にあなた会ったか、それ話してください」 「何人もの人に会いました。特等船室がとても暖かかったものですから、わたしたち上へ出て、渡し板の上のそばのデッキ・チェアにいました。間もなくミンチン夫妻が乗船して来て、奥さんのほうが立ち止まって、その日の獲物を見せました。そのなかには、士官学校にいる例の子供さんのためのウクレレもありました。それからケナウェイさんが上がって来ましたが、そこにわたしたちといっしょにはいませんでした。例によって寝がけに本を読んでもらうのに、テイトさんが待っているだろうと思ったものですから。それからベンバウ夫妻が来て、ご主人のほうは写してしまったフィルムをいっぱいもっていました。それだけでした。ケナウェイさんが数分たったら、もどって来ました。テイトさんが船にいないらしいといって、不審がっているようでした」 「それ全部ですね。マラッカのステッキ持った人、いませんでしたか?」 「そうそう――ロスさんのことですね、あなたがおっしゃったのは。ええ、あの人いちばん先に来たなかの一人でした、たしか。びっこをひいて、船へ上がって来て――」 「失礼――それは何時ごろでした?」 「九時十五分ごろに違いありません。わたしたちのいるそばを通りました。いつもよりもっとびっこを引いていると、わたし思いました。リュースさんが話しかけましたけれど、おかしなことに、ロスさんは返事もしませんでした。ただ急いで、デッキを降りて行きました」 「お聞きしたいですが――ロスさんのステッキ、旅行団で唯一のマラッカ・ステッキですか?」  彼女は笑った。「なにおっしゃるんですの、チャンさん。わたしたちシンガポールに三日間いましたのよ。マラッカ・ステッキを買わない人は、出してくれませんわ。旅行団の男の人は、みんな少なくとも一本は買いました」  チャンは眉をひそめた。「そうですか? すると、あなたのそばを通った人、ロスさんに絶対に間違いないということ、どうしてあなたにわかりました?」 「それは――その人がびっこをひいていて――」 「そのくらい真似しやすいことありません。よく考えてください。そのほかの点で、誰だかわかったということ、ありませんでしたか?」  彼女はちょっとの間、だまってじっとしていた。それから「これどうでしょうか? わたしちょっとした探偵ですわね。シンガポールで買ったステッキは、みんな先に金具がついていました。わたしそのこと知っています。でもロスさんのは、先に厚いゴムがついています。甲板を歩いていても、少しも音を立てません」 「それで、昨夜あなたのそばを通った男のステッキは――」 「音がしませんでした。ですから、ロスさんに違いありませんわ。わたし大したものでしょ? わたしのいうとおりだということを、いま実地に証明してお見せしますわ。いまあそこへロスさんが来ます。聞いててごらんなさい」  遠くにロスの姿が見えていた。こちらへびっこをひきながら、やって来るところだ。二人のそばを、微笑しながらうなずいて、角を曲がって、見えなくなった。チャンとパメラは顔を見合わせた。ロスが歩くのに伴って、固い甲板に金属がぶつかる、こつんこつんという単調な音が聞こえたもので。 「まあ、驚いた」パメラは大きな声を出した。 「ロスさんのステッキ、ゴムの先がなくなっています」チャンはいった。  彼女はうなずいた。「それどういうことなのでしょう?」 「謎です。私にして誤りなければ、これこの船でたくさん起こる謎の最初です。私、困りません。謎解くこと、私の仕事です」 [#5字下げ]17 グレイト・イースタン・ホテルのラベル[#「17 グレイト・イースタン・ホテルのラベル」は中見出し]  十時少し前に、チャンがかけているデッキ・チェアの前に、ロフトンが現われた。非常に不当な目に合わされているといった態度を、まだ見せていた。 「さあ、警部さん、旅行団のメンバーを喫煙室に集めておきました。この時間にはいつも人がいませんから、そこにしました。少し煙草くさいでしょうが、おそらく。みんなを長く引き止めておくようなことはなさらんでしょうな。すぐおいでください。旅行団というものを、わずかの時間でも一カ所にじっとさせておくことは、私の経験だと、むずかしい仕事です」  チャンは立ち上がって、「あなたも来てください」とパメラにいった。いっしょに歩きながら、「全部のメンバー、揃っておりますね?」とロフトンに聞いた。 「リュース夫人を除いて、全部です。あの人は遅くまで寝ていたがりますから。しかしご希望でしたら、起こさせましょう」 「それ不必要です。私、リュース夫人昨夜どこにいたか、知っています。実いいますと、あの人私の家で夕食しました」 「まさか!」ロフトンは本当に驚いたような声を出した。 「あなたもお呼びすればよろしいでした」チャンは微笑した。  彼らはむっとするような匂いがこもっている喫煙室へ入った。忘れらけかけた、はるか以前の、不幸なことを思い出させるような匂い。そして遠い昔の酒の匂い。中の人たちは好奇心をはっきり顔に出して、チャンを見つめた。チャンはちょっとの間、彼らに向き合って立っていた。簡単な演説が必要のようであった。 「心から朝のご挨拶申しあげます」チャンは口をきった。「あなた方私見て、驚いたに違いないと思いますが、私もあなた方皆さんにまたお会いすること、予期していませんでした。私この不格好な姿、皆さんの前へ出すこと好んだのでありませんが、運命がそのようにさせました。皆さんご承知のように、ダフ警部が太平洋の楽園ホノルルで、皆さんお待ちして、いっしょに東に向けて旅行するはずでした。昨夜、その楽園で歴史また繰り返されまして、蛇が現われて、ダフさん射ち倒しました。おかげさまで、ダフさんけさは大いによろしいです。たぶんもうすぐ、ダフさん皆さんにまた会います。それまでの間、ダフさんの代理として、それだけの頭脳も知識も名声もない愚かな者、部署につきます。すなわち、私それです」  彼は愛想よく微笑して、腰をおろした。「口、禍いの門といいます」と言葉をつづけた。「それ知っていますが、私それでもこれから、私の口たくさんに使わなければなりません。それしかたありません。私の最初にすること、昨夜の――その――八時から、十時の出帆の時間まで、皆さんのおられた正確な場所、皆さんの一人一人から、お聞きすることです。失礼なこと申してすみませんが、真実いわない方あれば、その方あとでそれ後悔することになるかもしれません。私自分が愚鈍であること申しました。これ事実です。しかし神様わざわざそういう人、助けてくださることあります。愚鈍の補いに、神様私に驚くべき幸運くださるときがあります。いつ私幸運に恵まれるかわかりませんから、ご注意ください」  パトリック・テイトが立ち上がって、いらいらした声でいった。「これはこれは。われわれを尋問するあなたの権限に、わたしは疑問をもちます。われわれはもうホノルルにいるのではないから――」 「話の途中失礼ですが、あなたのいうこと正しいです」チャンは相手の言葉をさえぎった。「法律上からは、私のすること、有名な弁護士の方に心臓のひどい発作起こさせるほど、驚くべきことに違いありません。そういうこと前にあったということ、事件の記録に出ていました。しかしわたしの後ろに、船長ジブラルターの岩のように、しっかり立ってついています。あなた方皆さん、ダフさんの襲われたことに驚き悲しんで、その犯人の逮捕切望しているものと、私考えて、それでこうしています。もしこの考え誤っているなら――もしあなた方のうちに、何か隠したい人おりますならば――」 「お待ちなさい」テイトは叫んだ。「わたしがそうだというようないい方は、やめていただきたい。わたしは隠すことはないです。ただ法律上の手続きというものがあるということを、注意したかっただけです」 「それ多くの場合、犯罪者のもっともよき友です」チャンは穏やかにうなずいた。「あなたも私も――私たちそれわかっています。そうでしょう、テイトさん?」  テイトは椅子にばたんと腰を落とした。チャンは言葉をつづけた。 「しかし私たち問題から遠く離れました。あなた方皆さん、正義の友です。私それ確信します。正義の足手まといの仲間である法律的手続きのこと、皆さんに関心ないです。その前提で、先へ進みましょう。ロフトン博士、あなた旅行団の引率者ですから、私あなたからはじめます。私のいった二時間、あなたどう過ごしました?」  ロフトンは不愉快そうに答えた。「八時から九時まで、私はノウマッド旅行社のホノルル事務所にいました。この会社がわたくしの旅行の世話をしてくれています。会計をいろいろ調査しなければならなかったし、タイプライターを打つ用もありました」 「わかりました。もちろん、その事務所にほかの人いっしょにいましたね?」 「一人も。事務所長がカントリー・クラブのダンスの会へ行くことになっていたので、私一人でそこに残りました。ドアにはバネ錠がついていますから、私はドアを閉めて帰りさえすればよかったです。船にもどったのは、九時半ごろでした」 「ノウマッド旅行社の事務所、たしか、フォート・ストリートですね? 警察署の後ろの小路の出口から、わずか数歩です」 「フォート・ストリートにあるというのは、そうです。あなたのいった警察署については、私は知らんです」 「あなた知らないの当然です。小路の近くで、旅行団のメンバー会いませんでしたか?」 「どの小路のことをいっているのか、私にはわからんです。私はその事務所に行ってから、船へもどるまで、メンバーの人には誰にも会いませんでした。尋問を急いで進めるほうがいいですな。時間が切迫していますから」 「誰にとって、切迫しています?」チャンは穏やかに聞いた。「私のこといいますと、私自由に使える時間、六日あります。テイトさん、あなた法律的権限固執しますか、それとも昨夜どう過ごしたか、このつまらぬ警察官に話してくださいますか?」 「いいですとも」テイトは努力して愛想よくしてみせた。「当然です。咋夜は、八時ごろに、談話室でブリッジがはじまりました。わたしのほかに、スパイサー夫人とヴィヴィアン氏とケナウェイ君とが加わりました。この四人のメンバーで、この旅行中に、何度もこうして競技を重ねて来ました」 「なるほど――旅行しているといろいろなこと覚えます。出帆まで、それしていたのですね?」 「そうではないです。それまでおもしろくやっていたのですが、八時半ごろに、ヴィヴィアンさんが大騒ぎを起こして――」 「まあ待ってください」ヴィヴィアンが口を入れた。「ゲームをぶちこわしたのは、わたしだとしても、りっぱな理由がありましたからね。わたしは自分のパートナーに、わたしが最初ツウでビッドしたら、そのビッドをオープンしておくように、何度もいったのを、あなた聞いたでしょう。たとえ――」 「ええ、あなたわたしに千回もそういいましたわ」スパイサー夫人は怒った。「同じことを百万回もいうでしょうね。それでもわたし我慢して、もし自分の手がよくなかったら、ビッドしないって、何度もいったじゃありませんか。たとえホワイトヘッドさんみたいな大家がピストルに身を固めて、わたしのそばについていたって、するもんですか。あなたのいけないのは、ちっとばかり知っているから危なっかしくて――」  チャンはいった。「口入れてすみませんが、問題非常に専門的になりまして、愚かな私ついていけません。ゲーム打ち切りになったという事実だけで、よろしいです」 「喧嘩で打ち切りになりました、八時半に」テイトがつづけた。「わたしはケナウェイ君といっしょにデッキに出ました。雨がひどく降っていました。ケナウェイ君はレインコートをとって来て、町を散歩して来るといいました。十分ばかりして、ケナウェイ君は船を出ました。わたしは船に残っていたいと、ケナウェイ君にいいました」 「それで、残りましたか?」チャンは聞いた。 「いいや、残りませんでした。ケナウェイ君が行ったあとで、きのうの朝、キング・ストリートの新聞売場の外に、ニューヨーク・タイムズの日曜版がぶら下がっていたのを見たのを、思い出しましてな。わたしはまたそこへ行って、それを買って来るつもりでおったのです。長い間読まなかったもので、とても見たくて。雨が小止みになって来たようでしたから、わたしはレインコートと帽子とステッキを――」 「あなたのマラッカのステッキを?」 「そうです――マラッカのステッキを持って行ったと思います。九時十分前ごろに、わたしはキング・ストリートへ歩いて行って、新聞を買って、船にもどりました。わたしは足が遅いですから、船にまた上がったのは、九時を二十分ばかし過ぎていたでしょうな」  チャンはチョッキの左側のポケットから、時計を出した。「あなたの時計、いま何時です、テイトさん?」と急いで聞いた。  テイトの右手が自分のチョッキのポケットへ行った。それからきょとんとした顔をして、その手をまた膝の上にもどした。そして左の手首を延ばして、そこにはめてある時計を眺めた。 「わたしの時計では、十時二十五分です」  チャンは微笑した。「正確です。私の時計、同じです。そして私、つねに正確です」  テイトのもじゃもじゃした眉が上がった。皮肉をこめて、「つねに?」と反問した。 「こういうことについては――そうです」  チャンはこういって、うなずいた。ちょっとの間、チャンとテイトは、互いに顔を見つめていた。それからチャンは視線をそらせた。 「世界一周していると、時間何度も変わります」チャンは静かにいった。「あなたの時計ここの時間になっていること、私確かめただけです。ヴィヴィアンさん、ブリッジやめてから、あなたどういう行動したですか?」 「私も上陸しました。頭をひやしたいと思って」 「帽子とレインコートとマラッカのステッキを持ってですね、きっと?」チャンは突っ込んだ。 「わたしたちはみんなマラッカのステッキを持っています」ヴィヴィアンはすぐ答えた。「シンガポールへ行くと、ほとんど義務的に買わされます。わたしは町を歩き回って、出帆のほんの数分前に、船にもどりました」 「スパイサー夫人はいかがです?」チャンの視線は彼女のほうに向けられた。  彼女は疲れて、うんざりしているように見えた。 「わたくしブリッジのテーブルを離れてから、ベッドに入りました。いやな思いをしたものですから。ブリッジがおもしろいのは、パートナーが紳士の場合だけですわ」 「ケナウェイさん、あなたの行動、すでにテイトさん説明しましたね」  ケナウェイはうなずいた。「そうです――ぼくは自分のステッキを持って、上陸しました。しかし、長くはいませんでした。テイトさんが本を読ませたがるだろうと思って、九時ちょっと過ぎには、船にもどって来ました。ところが、驚いたことに、テイトさんは船にいませんでした。テイトさんは、あなたにお話ししたように、九時二十分ごろ現われまして、ニューヨーク・タイムズを抱えていました。ぼくたちはいっしょに船室に入って、テイトさんが眠るまで、ぼくは新聞を読んで聞かせました」  チャンはまわりを見渡して、「この方は?」と聞いた。 「マックス・ミンチンでさ、シカゴの。隠すことなんかなんにもないですぜ」  チャンは頭を下げた。「では、あなたの行動すっかり話してくださいますね」 「いいでさ、一分もありゃすむこった」ミンチンはぴかぴかした金色の紙の輪をつけたままの、高価な、吸いかけの葉巻をうまそうに吸った。「あたしはサディと――女房でさ――雨んなかを、町を見物してた。それで、夜で別にあたしにおもしろいこともなかったから、女房を映画に引っぱり込んでね。だが、一年も前にシカゴで見たフィルムだったし、女房がまだ買物をしようとせっつくもんで、すぐ出ましたよ。それから、あっちこっちで買物ばかりしていた。トラックをもって来てなかったから、もう持てないってことになって、女房もやめることを承知してね。よろよろしながら船へ帰ったですよ。あたしゃピストルも持ってなかったし、マラッカのステッキも持ってかなかったね。あたしゃ杖をつくなんてことは、足が役に立たなくならなきゃいやだ。シンガポールで、女房にそういっといたが」  チャンは微笑した。「ベンバウさんいかがです?」 「ミンチンさんの話と同じです。買物をしたです。東洋の市場を見たあとでは、つまりませんでしたがな。しばらくヤング・ホテルのロビーで、雨の降るのを見ていたです。アクロンに帰りたいものだといったら、家内もだいたい同感でした。この旅行に出てから、このことであたしたちの意見が一致したのは、はじめてでしたな。しかしなつかしいアメリカの土を踏みましたよ、いくらか違っているにしても。それで、元気よく船へ帰って来たです。船に上がったのは、九時十五分ころでしたろうな。あたしは疲れ切っていたです。ホノルルで映画の映写機を買って、その重いことといったら」 「パメラさん、あなた昨夜どう過ごしたか、私すでに知っています。あと質問しなければならない方、二人きりです。このお方は――キーン大尉さんでしたね、たしか」  キーンは椅子にもたれて、あくびを噛み殺して、両手を頭の後ろで組んだ。「しばらくブリッジを見物していました。助言をするつもりじゃなかったですよ、いいですか」ヴィヴィアンをちらっと見た。「あたしは自分に関係のないことに、干渉はしませんな」  キーンが何度もよそのドアの外で様子をうかがっていたということを思い出して、チャンには、この言葉がどうも本心から出たものではあるまいという気がした。 「それでブリッジのあとでは――」と彼はうながした。 「ゲームがこわれてから、新鮮な空気が吸いたくなりましたな。あたしも自分のマラッカのステッキを持って、上陸しようかとも思ったが、雨でいやになりました。あたしは雨が嫌いでしてね、ことに熱帯性の雨は。それで船室へ行って、本をとって、この喫煙室へまた来ました」 「ほお、あなたいま本お持ちですね」 「なんでそんなこというんです、あたしをからかっているんですか? あたしはしばらくここで読んでいて、船が出帆したころ、ベッドへ入ったです」 「あなたこの部屋にいた間に、誰かほかの人ここにいましたか?」 「一人も。みんな上陸していました、ボーイたちも」  チャンはわざと最後に残しておいた男のほうを向いた。ロスはそう離れていないところにかけて、怪我をしたほうの足を見下ろしている。ゴムの先がなくなった彼のステッキが、そばの床の上においてある。 「ロスさん、あなた最後ですね。あなた昨夜上陸したですね。私そう聞きました」  ロスは驚いて見上げた。「いいや、そんなことないです。上陸しなかったです」 「本当ですか? しかしあなた九時十五分に乗船したところ、見られています」 「そんなことが?」ロスはけげんな顔をした。 「たしかな人が見ています」 「しかしこんなこといってはなんですが、このことに限っては、その方の間違いです」 「あなたたしかに船から出なかったのですね?」 「たしかですとも。こちらから聞きたいくらいですなあ」とても愛想のいい態度だ。「わたしは船で夕食をして、そのあとしばらく談話室にいました。骨の折れた一日でしたからなあ――たくさん歩いて、歩くと疲れるもので。足が痛くなったので、八時に部屋へ引っこみました。ぐっすり眠りこんでいたら、同室しているヴィヴィアンさんが入って来ました。十時ころだったでしょうな。けさヴィヴィアンさんがそういっていたです。わたしの目をさまさせないように、気をつけてくださったそうで。いつも思いやりの深い方でしてね」  チャンは考えこみながら、彼を見つめた。「しかし九時十五分に、私さっきもいいましたが、非難の余地ない正直な二人の人、あなたが渡し板上がって来るの見ました。そしてあなた甲板で、その人たちのそば通りました」 「どうしてその人たちに、わたしだということがわかったものですかな?」 「ステッキついていました、もちろん」 「マラッカのステッキですね」ロスはうなずいた。「そんなこと誰でもだというのは、あなたにわかっているはずです」 「しかしそれだけでありません、ロスさん。あなたのいつもの困難な歩き方でした。それ不幸な事故のためで、みなさんたいへん同情しています」  ちょっとの間、ロスはチャンを見つめていて、それからこういった。「警部さん、わたしはあなたがこの船へ来てから、じっと見ていました。あなたは頭のいい方ですなあ」 「それ非常な誇張です」 「いいや、そんなことはありません」ロスは微笑した。「たしかにあなたは頭のいい方です。ですからいま、きのうの午後遅くこの船で起こった小さな出来事をお話ししさえすれば、それで充分だと、わたしは思いますな」ステッキを取りあげた。「これはシンガポールで買ったものではなくて、何カ月も前にわたしが事故に会ったすぐあとで、タコマで買ったものです。これを買ってから、ほうぼう捜して、この先にちょうど合うゴムをみつけました。石突きというやつですな。それがあると歩きいいし、堅い木の床に傷がつきません。きのうの午後の五時ころに、わたしは船にもどって、船室でちょっと一眠りしました。それから起きて、夕食に食堂へ行ったときに、なんだか妙な気がしました。なにかおかしいという気が。最初はなんだかわからなかったですが、すぐわかりました。歩くと、ステッキが甲板にこつこつ音を立てましたよ。わたしはびっくりして、見てみました。ゴムの先がなくなっているんです。誰かがとったんですな」彼は言葉を切った。「覚えていますが、そのときケナウェイさんがそばに来たので、そのことをわたし話したです」 「そのとおりです」とケナウェイが証明した。「ぼくたち、おかしなことがあるものだといったものです。誰かがいたずらしたのだろうと思うと、ぼくはいいました」 「いたずらではありませんな」ロスが重々しくいった。「いまわかりましたが、誰かが、きのう夜になってから、わたしになりすまそうとしたものです。わたしのステッキが堅いものにぶつかったときに音がしないということを覚えている、頭のいい人間が」  誰も何もいわない。リュース夫人が向こうの戸口に現われて、急いでチャンのそばへ来た。チャンはあわてて立ち上がった。 「とんだことでしたね。ダフさんお気の毒に」 「ひどい怪我でありません。回復しています」チャンは老夫人を安心させた。 「それは結構でした。狙いがまずくなったんですね。腕が疲れて。まあ、あんなに射ったら、誰にだってよくありませんよ。あなたはダフさんの代わりに、わたしたちといっしょにいらっしゃるのですね、チャンさん」 「私それだけの価値ない代わりです」チャンは頭を下げた。 「価値がないなんて、とんでもない! わたしにそんなこと思わせようなんて、だめですよ。わたしシナの方は長い間知っているのですから――いっしょに暮らして。いよいよ何かわかりますね。わたしそう確信します」彼女は挑戦的にみんなを見渡した。「さあ、早くわたしに質問なさってください」 「いいとき来てくださいました。私あなたの証言お願いします。昨夜、私あなたを埠頭までお送りしたあと、あなたとパメラさん、渡し板の上の近くの甲板にかけていました。旅行団のメンバーの人、何人も船へ帰って来るのを、あなた見ました。そのなかに、ここにいるロスさんおりましたね?」  老夫人はちょっとの間、立ったままロスを見つめていた。それから頭を振った。 「存じません」  チャンは驚いた。「あなたロスさん見たかどうか、知らないのですね?」 「ええ、存じません」  パメラ・ポッターがいった。「でも、おばさま、あなた覚えていらっしゃるはずですわ。わたしたち手すりのそばにかけていましたら、ロスさんが渡し板を上がって来て、わたしたちのそばを通って――」  リュース夫人はまた頭を振った。「男の方が一人、ステッキをついて、びっこをひいて、わたしたちのそばを通った――それはたしかにそうです。わたしその人に話しかけましたが、返事がありませんでした。ロスさんは礼儀正しい方です。しかも――」 「なんです?」チャンは熱心に聞いた。 「しかもですよ。ロスさんはステッキを左手にお持ちですが、昨夜の人は右手に持っていました。わたしそれに、そのとき気がつきました。ですからわたし、その方がロスさんかどうか知らないと、申しているんです。あの瞬間のわたしの感じでは、そうではないようでした」  沈黙がつづいた。やがてロスがチャンを見上げた。 「わたしのいったとおりではないですか、警部さん? わたしはきのうの夜は、船から出なかったです。このことは、そのうち証明されるだろうという気はしていたですが、こんなに早く証明されるとは、思いませんでした」 「あなたの右脚、怪我したほうですね」 「そうです。こういう怪我をしたことのない人は、わたしが杖を右手に持つのがあたり前だと、思うかもしれませんな。しかしわたしの医者から教わったことですが、左のほうがいいんでして。そのほうがバランスがよくとれて、ずっと速く歩けます」 「そのとおりでさ、警部さん」ミンチンが口を出した。「二、三年前に、あたしの昔仲間が、あたしのふくらっぱぎに怪我させやがってね。そのときわかったことは、杖を反対側に持つことだった。そのほうが体を支えるのにつごうがよかった――ねえ」  ロスは微笑して、「ありがとう、ミンチンさん」といってから、チャンのほうを見た。「頭のいい奴というものは、必ずどこかでへまをやるものでしてな。自分のステッキがわたしのと区別がつかないように、わたしのゴムの石突きを盗むだけの頭をもっていながら、そのくせあわてて、わたしがステッキをどっちの手に持っているか忘れるんですからな。まあわたしにしてみれば、忘れてくれてよかったですよ」  こういって、彼はここに集まっている人たちを、探るように見渡した。  チャンは立ち上がった。「集まりこれで一応散会します。皆さんの親切なご協力、私大いに感謝します」  みんながぞろぞろ出て行って、最後にテイトだけがチャンといっしょに残った。彼は微苦笑を浮かべながら、チャンのそばへ行った。 「この集まりは、大した収穫がありませんでしたな」 「そうあなた思うのですね?」チャンは聞いた。 「思います。しかしあなたは最善をつくしたです。それに少なくとも一つの点では、実に鋭いところを見せました。時計のことです、つまり」 「そうです――時計です」チャンはうなずいた。 「いままでずっとチョッキのポケットに時計を入れていて、それから腕時計に切りかえた人間はいきなり時間を聞かれると、よくもとの場所へ手をもって行くものです」 「私それに気がつきました」 「そうだと、わたしは思ったです。しかしその実験を罪のない人間に試みたのは、実に無駄だったですなあ」 「もっと実験します」 「そうなさい。断わっておきますが、わたしが腕時計を買ったのは、この旅行に出る直前だったです」 「この旅行に出る前」チャンは“前”という言葉を実に軽くいった。 「そのとおりです。ケナウェイ君が証人になります。いつでも」 「いまのところ、私あなたの言葉受け入れます」 「ありがとう。あなたがほかの実験をやるときには、わたしもそこに出させてくださるでしょうな?」 「ご心配いりません。必ずそういたします」 「よろしい、わたしはあなたの仕事ぶりをよく見ていたいです」  元気よく大股で部屋を出て行くテイトの後ろ姿を、チャンは立ったままじっと見送っていた。  チャンは昼食に出る仕度をするために、船室へもどる途中で、捜査はまだ始まったばかりだと思った。けさは大して進捗しなかったが、出だしとしてはよかった。少なくとも、相手にしなければならない人たちの性格と能力について、かなり見抜くことができた。あすはもっとよくわかる。知り合いになるには、船ほどいい場所はない。  ボーイが電報をもってきた。チャンはそれを開いて、読んだ。 [#ここから1字下げ]  この事件を打ち切ることを、友人として切に願う。小生経過じつによく、すぐ自分で捜査にあたれる。こんな危険な仕事をあなたに頼めない。引き受けてくれるように頼んだときは、小生たしかに意識|朦朧《もうろう》としていた。ダフ [#ここで字下げ終わり]  チャンはひとりで微笑して、図書室の机の前に腰をおろした。しばらく熟考してから、返電を書きあげた。 [#ここから1字下げ] 昨夜貴下意識朦朧のことなかった。今の貴下の考え方私残念。私能力及ぶ限り、この興味ある事件、最後まで追及せずにいられない。安静にして、早く健康回復してください。その間私喜んで代理する。貴下が早く理性取りもどすこと祈ります。変わらぬ友、チャーリー・チャン [#ここで字下げ終わり]  昼食のあと、チャンは船室で数時間考えていた。これは自分の望んだ事件であり、六日という長い考える時間が与えられている。その間じゅう、彼の求めている人物は彼のすぐ手の届くところから、逃げるわけにはいかないのだ。  その夜、夕食のあとで、チャンは談話室の隅でコーヒーを飲んでいるパメラとケナウェイに会った。パメラにすすめられて、彼はそこに加わった。 「あなたの貴重な六日のうちの一日が終わってしまいましたわね、チャンさん」彼女はこういった。 「そうですね。それであなたの進行ぶりはどうです?」ケナウェイが聞いた。 「ホノルルから二百五十マイルまで来て、愉快に進行つづけています」チャンはこういって微笑した。 「けさはあまり得るところはなかったですね?」ケナウェイ。 「私の親愛な犯人、ロンドンでロフトン博士の鞄の革紐盗んだときと同じように、また罪のない人まきぞえにしようとしていること、わかりました」 「ロスさんのことですね?」とパメラ。  チャンはうなずいた。「あなた――いまではリュース夫人と同意見ですね?」 「そうです。わたしあのとき、その人がとてもへんなびっこのひき方をしていると思いました――いつものロスさんよりもっとずっとへんな。誰だったのでしょうか?」 「ぼくたちのうちの誰でもできたことです」ケナウェイがコーヒーを飲みながら、チャンを見ていった。 「そのとおりです。マラッカのステッキの力借りて、雨の町歩き回っていた人、誰でもです」チャンは答えた。 「それとも、本から離れられなかった先生だったかもしれないということも、あり得ますよ。少なくとも離れられなかったといっている先生、つまり読書マニアのあの陽気なキーン大尉のことです」 「なるほど――キーンさん。なぜあの人よその人のドアの前うろつくのが好きか、その理由わかった人おりますか?」 「わたしの知っている限りではいません」パメラが答えた。「それに、あの人、最近はあまりそんなことしていません。船が横浜を出てすぐ、あの人がうろついているところを、ヴィヴィアンさんがつかまえて、往来を何ブロックも離れているところからでも聞こえるような騒ぎがあったもので。もっとも、船にはブロックなんかありませんけれど」 「ヴィヴィアンさん騒ぎ起こす特殊の能力、もっています」 「たしかにそうです」ケナウェイが同意した。「だから昨夜のブリッジは、はじめからどんなことになるかわからなかったですね。ぼくの見たところだと、ヴィヴィアンさんはほとんど理由もないのに、騒ぎを起こしたと思います。まるで、ゲームをぶちこわしたがっていたようでした」  チャンは目を細めて、相手を見つめた。「ケナウェイさん、あなたを使っているテイトさん、ニューヨーク出る直前に、腕時計買ったそうですね?」  ケナウェイは声を立てて笑った。「ええ――あなたがそれを聞くだろうということは、テイトさんから警告されています。たしかに買いました。長い旅には、そのほうが便利だろうと思って。あの人の以前の時計と鎖は、トランクの中にあるはずです。見せてもらったら、どうです?」 「鎖そのままですね、もちろん?」 「そうですとも。少なくともぼくが最後に見たときは、そうでした――カイロで」  テイトが彼らのそばへ来た。 「リュース夫人とブリッジをはじめることにした。あんた方若い人たちに入ってもらいたい」 「でも、わたしとても下手ですから」パメラは抗議した。 「それはわかってます。だから、あんたをケナウェイ君と組ませたい。わしのほうが勝ちそうだ。わしは勝つのが好きで」  ケナウェイとパメラは立ち上がった。「失礼しますわ、チャンさん」とパメラがいった。 「私あなたの楽しみ、じゃましません」 「楽しみですって? 弱い者いじめだっていうこと、お聞きになったじゃありませんか。わたしを慰めるような、シナの昔の諺ありませんか?」 「あなたに注意してあげればよかった諺あります。鹿は虎と遊んでならない」 「わたしの聞いたブリッジのルールでは、それがいちばんですわ」  しばらくして、チャンは立ち上がって、部屋を出て、甲板へ行った。暗い隅で、手すりのそばに立っていたら、闇の中から、しのびやかな低い声がした。彼はカシマのことをすっかり忘れていた。  その小柄な痩せた助手がそばへ来た。謎にぶつかって興奮しきっているのが、闇の中でもはっきりわかった。 「全部捜しました」息を切らせて、カシマはささやいた。 「えっ!」チャンは低い声でいった。 「鍵を発見しました」  その言葉を聞いて、チャンの心は躍った。ウェルビーも前にその鍵を発見したということを、彼は思い出した。 「あなた仕事早い、カシマ。それどこにある?」 「ぼくについて来てください」  カシマは先に立って廊下へ入り、同じデッキの特別船室へ案内して、そのドアの前で、立ち止まった。 「この部屋にいるの誰?」チャンは聞いた。 「テイトさんとケナウェイさん」  カシマはそう教えて、ドアを押し開けて、船室のあかりをぱっとつけた。ブリッジをしていることを思い出して、チャンはほっとして、その部屋へ入って、ドアを閉めた。プロムナード・デッキの側にある舷窓はシャッターが下りていて、外から見られないということを、彼はたしかめた。  カシマは膝をついて、ベッドの一つの下から、いたんだ古い鞄を引っぱり出した。外国のホテルのラベルが、いくつも貼ってある。カシマはそれを開けようとはせずに、そのなかのとくにりっぱなラベルの上を、いつくしむように指でこすった。カルカッタのグレイト・イースタン・ホテルのラベルだ。 「あなたこうしてごらんなさい」カシマはチャンにいった。  チャンはそのラベルにさわった。下に鍵の輪郭がかすかに感じられた。ダフに見せてもらった鍵と、同じくらいのサイズのが。 「大成功、カシマ」と彼は呟いた。  その鞄の錠のそばに、金文字でマーク・ケナウェイの頭文字、M・Kとあるのが、彼に見えた。 [#改ページ] [#2字下げ]※[#ローマ数字5、1-13-25][#「※[#ローマ数字5、1-13-25]」は大見出し] [#5字下げ]18 マックス・ミンチンのパーティ[#「18 マックス・ミンチンのパーティ」は中見出し]  小声でカシマにいくつかの指令を与えておいてから、チャンはデッキにもどって、暗い水面にうつる銀色の月の光を眺めながら、じっと考え込んだ。まず感じたのは、助手のカシマに対する讃嘆の念だった。鍵のような物を隠すのに、うまい場所を思いついたものだ。鞄の皮がざらざらしているので、ほんのわずかしかふくれていなかった。目では絶対に探り出せなかったであろう――指でなくては。たしかにカシマはよく失敗するが、物を捜すということにかけては、他人の持ち物にちょっかいを出すということについては、天才的なひらめきがある。  それからしだいに、チャンは問題のもっと大きな面を考えはじめた。あの鍵が、ロンドンのホテルでヒュー・モリス・ドレイクが殺された朝その手に握っていたのと対《つい》の鍵が、ケナウェイの鞄にあるというのは、どういうわけか? もちろんチャンは現物を見たわけではないが、あれがその対の鍵だとみなして差しつかえないと思った。ウェルビーがパメラ・ポッターに、“これで遊びは終わった”といった夜、彼がありかをつきとめた鍵だ。かわいそうにウェルビーには、たしかにあれが一切の終わりだった。発見したら、危険が伴う物なのだ。  ウェルビーはどこで、それを発見したのか? いまあるのと、同じところでか? それにちがいない。カルカッタのグレイト・イースタン・ホテルのラベルの下に隠されている以上、あのインドの都会でそうしたものと当然考えられる。カルカッタのラベルを手に入れるのは、カルカッタ以外のところでは不可能だ。そうだ、あの鍵はすでに横浜で、現在のところにあったに違いない。そこで、ウェルビーはそれを発見して――。  だが待った。ウェルビーはパメラに鍵のことを、現物を見たかのように、話している。番号も何も。だが本当にそうだったのであろうか? おそらくチャンと同様に、それが対の鍵だと想定していただけなのであろう。それは当然の想定といえる。ウェルビーは、チャンがしたのと同じように、指で輪郭にふれただけなのであろう。そして、その発見を誰かが知って、彼の上陸を尾行して、殺したのだ。  誰が? ケナウェイがか? そんなわけはない。その人物がハニウッドとその妻を殺した犯人と、同一人物だったということは、明らかだ。ケナウェイはほんの子供に過ぎない。シム・エヴァハードとハニウッド夫妻に、関係がありようはずはない。ずっと以前にどこか遠いところで起こって、それから何年も明かるみに出ずにいた事件に。  チャンは頭に手をやった。謎だ、謎だ。ケナウェイということはあり得ない。できるならば罪のない人間にかぶせようとするのが、この殺人犯人の常套手段であることは明白だ。ロンドンでの鞄の革紐のこと、ロスのステッキからゴムの先を盗んだこと、それをみればわかる。そればかりでなく、犯人はあの鍵を、自分の持ち物の中から発見されたくなかったであろう。ほかの男の持ち物の中にそれを入れておくというのは、きまりきったことだ。  あの鍵をケナウェイの鞄に隠すチャンスを、最も持っていそうなのは、誰か? 無意識に月光を沿びた水面にじっとそそがれていたチャンの目が、急にぐっと細くなった。テイト以外に、誰がいる? けさいきなり自分は何もしていないと主張したテイト。腕時計に取りかえたのは、旅行に出る前だと断言したテイト。ドレイクが殺された隣の部屋に、眠っていたテイト。エヴァハードが殺すつもりであったハニウッドがまた生きていることを、その翌朝発見して、激しい心臓の発作に襲われたテイト。たしかにテイトの年頃は、盛りの頃にエヴァハードであって、あの小石の入った小さな袋を手に入れて、機会があればそれを返す決心をして、長い間それを持っていたのにふさわしい。テイトが自分の連れの鞄を利用したというのは、最もあり得ることだ。  チャンはデッキをゆっくり歩きはじめた。そうだ、あの鍵がケナウェイのものだということは、絶対にあり得ない。突然、チャンは足を止めた。もしウェルビーがあの鍵を現在の場所で発見したものであり、そしてそれがケナウェイのものでないとすれば、ウェルビーは犯人を発見したのではない。それならば、なぜ彼は横浜の埠頭で殺されたのか?  チャンはまた手を頭へやった。「おやおや、頭混乱して来た。眠って、あすのために頭はっきりさせるのがいい」と呟いた。  彼はすぐこの自分の忠告を受け入れて、プレジデント・アーサー号の第二夜は、何事もなく終わった。  翌朝、彼はマーク・ケナウェイにつきまとった。この青年がなにか気にして落ち着かないようだったので、そのために彼も大いに動き回らされた。ケナウェイは船中歩き回り、それといっしょにチャンも歩き回った。 「あなた若いです。落ち着くこと、習うべきです。あなた見たところ、二十をいくつも出ていませんですね」チャンはいった。 「二十五です。しかしこの旅行で、十も年とったような気がします」 「いやなことありましたからね?」チャンは同情して聞いた。 「看護婦みたいな仕事をしたことありますか? 本当に――ぼくはこんなことするつもりじゃなかったんです。夜になると、目か痛くなって、咽喉が砂漠の表面みたいにからからになるまで、声を立てて、本を読まされるなんて。しかもテイトさんの健康状態に、しじゅう気を使っていなければなりませんですからね」 「ブルーム・ホテルの発作のあと、また発作あったのですね?」チャンは聞いてみた。  ケナウェイはうなずいた。「ええ、何度もです。一度は紅海を通っているとき、汽船のなかであったし、カルカッタでとてもひどいのがありました。ぼくはあの人の息子さんに、サンフランシスコに迎えに来てくれるように、電報を打っておきました。本当に、早くサンフランシスコの港に入りたいですよ。あの人をそこで、まだ生きたまま上陸させることができたら、ぼくは運命の寵児だと思いますね。ぼくは東部の全新聞に、またカリフォルニア州の地震だと報道されるような、大きな安堵の溜息をつきます」 「なるほど。あなた非常に気を使っていたに違いありません」 「でも、それは自分で招いたことです」ケナウェイは憂欝そうに答えた。「ぼくは法律関係の仕事について、世界地図なんかほうっておくべきだったんです。ボストンのぼくの家の連中は、誰もこの旅行に賛成しなかったんです。ぼくに警告してくれました。しかしそのくらいなことは、ぼくは自分でよくわかっていました」 「ボストン」チャンはその言葉を受けていった。「きのう私いったように、私、非常に興味もっている都会です。そこの人たちの言葉づかい、非常にりっぱです。数年前、私ボストンのある家庭にすこし役に立ったことしまして、それまで経験したことないりっぱな言葉で感謝されました」  ケナウェイは笑った。「そうですか、それはよかったですねえ」 「非常にです」チャンは保証した。「私旧式な人間でして、言葉の選択、紳士の証拠だと思います。もっとも、いま申した事件では、貴婦人でしたが。私の子供たち、この点では私のこと、旧弊な頑固者と思っています」 「このごろは、子供たちは両親に尊敬の念が足りませんからね」ケナウェイはうなずいた。「ぼくはもう子供ではないですが、そう思います。とにかく、ぼくはこの旅行でさんざん苦しんだことを、両親に知られたくないんです。例の“だからそういったではないか”というのを聞くのは、ごめんです。もちろん、テイトさんのことだけではありませんがね。ほかにもいやなことがありました」 「ボストンの方、ものごと露骨にいいませんから、私それ以上聞きたくはありません。しかし、一例いってくださいませんですか?」 「いいですとも。あのポッターという若い女性です。まあ、こんなこというべきではなかったでしょうが」  チャンは驚いて、目を見開いた。「ポッターさんどこ悪いです?」 「何もかもです。言葉でいえないくらい、不愉快です」 「不愉快?」 「そうです。ぼくはいってしまったんですから、最後までいいます。彼女はあなたの神経にもさわりはしませんか? 実に中西部的にしっかりしていて。自信たっぷりで。八十一年間ボストンの中心に住んでいて、会う価値のある人間には全部会っているぼくの大伯母より、もっと落ち着き払っているんですからね」体をのり出した。「いいですか、ぼくは本当にそう信じていますが、彼女はこの旅行が終わる前にぼくがプロポーズすると、思っているんです。ぼくはそんなつもりありません。いやです。それで彼女の預金帳を、ぼくの顔に叩きつけられるなんてことは」 「そういうこと起こると、あなた思うのですね?」 「それにきまっています。ぼくはああいった中西部の人間を知っています。金のことしか、問題にしません。いくらもっているかってことしか。ボストンの人間は、それとはちがいます。ボストンでは、金は問題ではありません。ぼくの一族は絶対にそうです。エルドレッドという伯父は金を全部、ニューヨークとニューヘイヴンとハートフォードで、賭けでなくしました。ぼく――ぼくはなんだって、あなたにこんな話をしたんでしょう? しかし、ぼくの気持はわかるでしょう。看護婦みたいな仕事で疲れきって――しかも彼女のことがいつも気にかかっていて」 「ほう――すると、彼女あなたの気にかかっているのですね?」 「そうなんです。彼女はそうしようと思うときには、とてもやさしくなれるんです。チャーミングで、それでいて――その――チャーミングでいてですよ、それでいていきなりぼくを、まるで自動車に轢《ひ》かれたような気分にするんですからね。ドレイク会社の自動車に。ハンドル一つで、何百万の大金でも動かせるという」  チャンは時計を見た。「その彼女いま、デッキのずっと向こうに見えます。私思うに、あなた逃げたいですね?」  ケナウェイは頭を振った。「そんなことしてもだめです。船の上では、人から逃げられませんよ。ぼくは逃げるのを断念しています、ずっと前に」  パメラ・ポッターが二人のそばへ来た。 「お早うございます、チャンさん。まあ、マークさん。デッキ・テニスしません? わたし、けさはあなたに勝てると思うわ」 「あんたはいつだって勝つ」 「東部は老衰していますからね」  彼女は微笑して、捕虜のケナウェイを連れ去った。  チャンはデッキをいそがしく歩き回った。キーン大尉が船首のそばのデッキ・チェアに、一人でかけているのを発見して、その横の椅子に腰をおろした。 「これはこれは、大尉さん。けさいい天気ですね」 「そのようですな」キーンは答えた。「気がつかなかったです、本当に」 「あなたほかに考えねばならぬことあるのですね?」チャンはこういってみた。 「なんにもありません」キーンはあくびをした。「しかし、あたしは天気に注意したことありませんな。天気なんか気にする人間は、野菜みたいな人間としかいえんです」  機関長がデッキをぶらぶらやって来て、チャンの椅子のところに立ち止まった。 「機関室へ行ってみませんか、チャンさん?」 「そうでした。昨夜あなたとお話ししたとき、あなたご親切にその約束してくださいました。キーン大尉さんきっといっしょに見たいことと、私思います」  チャンはこういって、キーンのほうを尋ねるように見た。  キーンは驚いて、チャンを見返した。「あたしが? いいや、せっかくですが。あたしはエンジンには興味ないです。機械のことは全然わかりません。わかりそうもないです」  チャンは機関長を見上げた。「ありがとうございます。しかしお差しつかえなければ、私行くの延ばします。私、キーン大尉さんとちょっと話したいです」 「よろしいです」機関長はうなずいて、そこを離れた。  チャンはむずかしい顔をして、キーンを見つめていた。 「あなたエンジンのこと、何も知らないのですね?」 「知りませんとも。とにかく、なんでそんなこというんです?」 「数カ月前、ロンドンのブルーム・ホテルの談話室で、あなたダフ警部に、エンジニアであったことあるといいました」  キーンはあきれたように、チャンを見つめた。「ほお、あなたは大したもんですなあ。あたしがそんなこと、ダフさんにいいましたかな? すっかり忘れてました」 「それ真実でなかったのですね?」 「もちろん、そうじゃありませんとも。最初に思いついたことを、いっただけです」 「それあなたの癖ですね、どうも」 「それはどういう意味で?」 「私、あなたのことについて、読みました。ダフ警部の記録です。殺人の捜査、重大な問題ですから、私申すこと大いに無作法になっても、お許しください。あなた嘘つきだということ、自分で認めています。反省していないようです。旅行中ずっと、あなたの行動妙でした。ドアの外で、立ち聞きしました。りっぱな行ないといえません」 「そうです、あたしもそう思います」キーンは切り返した。「あんただって、自分の仕事をしていて、きっとそう思ったでしょう」 「私こそこそ人のことさぐる探偵と違います」チャンは威厳をこめていった。 「そうですか? それは、あんたがずうずうしいというもんですよ。あたしは六年間この仕事をやってますが、自分のしていることを、誇りには思っていません」  チャンは体を起こした。「あなた探偵ですね?」と聞いた。  キーンはうなずいた。「ええ――人にいわないでください。あたしはサンフランシスコの私立探偵事務所のもので――」 「ほお――私立探偵」チャンはほっとして、うなずいた。 「そうです。だが、ばかにせんでください。われわれもあんた方も同じことだ。あたしのことで、あんたの時間を無駄にさせたくないから、話してあげますよ。スパイサー夫人には夫がいて、それがあの女と別れたいんでさ。映画女優か何か、そんなものと結婚したくて。それで、あたしに離婚材料を手に入れられるかと思って、この旅行に参加させましてね」  チャンはキーンの下品な顔を、注意して眺めた。これは真実であろうか? この男はたしかに、私立探偵の役割によく合っているように見える。するとこの男は、自分のことで時間を浪費させたくないというのか? 意外な配慮というものだ、これは。 「あなた成功しなかったですね?」チャンはいった。 「そうです。最初から失敗でしたな。ヴィヴィアンはあたしを見た瞬間に、怪しいと思ったんですな。あたしはサンフランシスコに上陸したときに、スパイサー夫人の夫に会うのがこわいです。うんと金がかかってますからね。だが、あたしの見ている前で、愛情破綻ってやつがもちあがったからって、あたしの責任じゃありませんや。あの二人がブリッジで組みさえしなければよかったんだが――あれでおしまいでさ。いまは二人とも口をききもしないし、それにヴィヴィアンは、あたしが二度とそばへ寄ったら首を捻じ切るって、おどかしてますよ。あたしは自分の首がかわいいからね。だからあたしはこれから旅行が終わるまで、することなしです。ところで、これは内証ですよ」  チャンはうなずいた。 「私、あなたの秘密もらしません」 「あたしはこういうことを考えていたんですがね」キーンは言葉をつづけた。「この殺人事件で、あたしにあんたの手伝いをさせてくれんですか? 報酬とかなんとか、そういうものあるんですか?」 「よく仕事果たしたということ、報酬です」 「ばかなことを! まさかあんたは、あのポッターという娘と話をつけずに、この仕事に手を出したってわけじゃないでしょう? いいですか――あんたはマネージャーが要りますよ。あたしが行って、あの娘と話をつけて来ましょう。あの家には金がうんとある。あのじいさんを殺した犯人を知りたがってるにきまってます。あたしたちで折半ということにして――」 「やめなさい!」チャンは大きな声を出した。「あなたのいうこと、もうたくさんです。私、私立探偵ではないということ、覚えていてください。あなたの賤しいプランに、私、許可与えることできま――」 「ちょっと待ってください。その問題はよく相談を――」 「だめです。無知な人、議論で負けることありません。のみならず、相談すること何もありません。あなたこの事件から、離れていてください。これあなたに、少しも関係あることではありません。私これで失礼します」 「あんたは実に商売気のない人だ」キーンは不服そうにいった。  チャンは急いでデッキを下って行った。彼の平素の平静さは、荒々しくかき乱されていた。このキーンという奴はなんという蛆《うじ》虫か! 私立探偵だなんていうことをいって――それは真実であろうか? おそらくそうかもしれない。だが考えてみると、単なるごまかし、自分に油断させるためにほらを吹いたのかもしれない。チャンは溜息をついた。キーンのことは忘れてはならない。誰のことも、忘れてはならない。  船はぎしぎしいいながらも、鏡のような水面を順調に進みつづけて行く。カシマの報告によれば、例の鍵は依然として、ケナウェイの鞄にある。旅行団の一人一人と、ゆっくり長話をしてみたが、何も収穫はない。第二日が過ぎ、第三夜が過ぎた。第四夜になって、はじめてチャンはまた希望をもちはじめた。ミンチンが皆をもてなしたのは、その夜であった。旅行が終わりに近づいたというので、大祝賀会を開いたのは。  ミンチンは皆を招待してまわって、彼自身が驚いたくらいに、この招待は暖かく受け入れられていた。彼に対して慣れたということが、人間的な愛を生んでいた。何週間もいっしょにいたので、旅行団の人たちは彼の無作法を、見のがすようになって来た。リュース夫人はこういったものだ。「この旅行団のなかに、ミンチンさんよりもっと悪い人がいるということを、忘れてはならない」と。  皆が受け入れたので、ミンチンは喜んだ。このニュースを、彼が妻にもたらしたとき、妻は、ロフトンを入れるとテーブルに十三人つくことになると、注意した。 「いやなことはしないほうがいいわよ。あんた。あんたは今までとても運がよかったけれど、運勢をばかにしてはだめよ。もう一人捜して、十四人にしなさいよ」  ミンチンはチャンを、その十四人目にすることにした。 「あたしは警察の人を、別に悪くなんか思っていませんぜ。前にシカゴで、警察の人がいっぱい来たパーティを、開いたことがありますよ。とてもすばらしい料理を出したもんでさ。あんた来ておくんなさいよ。平服で。あたしはタキシードは着ていかないから」ミンチンはチャンにこう説明した。 「ありがとうございます。私その晩餐会で、殺人の問題に触れましても、あなた立腹しないように、お願いします」 「あんたのいうこと、わからねえな」ミンチンは面くらった。 「私その席で、ブルーム・ホテルのヒュー・モリス・ドレイクさんの不幸な事件のこと、お話ししたくてならないのです。皆さんからその事件についての話聞ければ、私幸いです」  ミンチンは妙な顔をした。「さあ、どうしたもんですかね。仕事の話はしたくないと、思っていたんだが。みんな愉快に楽しんで、質問なんか抜きということにね――わかるかね、あたしのいうこと? 連中のなかに、気がとがめてたまらないのが、一人いるわけだが、あたしはそいつが客である以上、その席でいやな思いをさせたくないんですがね。そのあとなら、あんたはそいつにいつ手錠をかけたっていいでさ――あたしのいう意味、わかるかね? そいつはあたしの仲間じゃねえ。しかし一晩ぐらいは――」 「私、慎重にします。質問はしません、もちろん」チャンは約束した。  ミンチンは手を振った。「まあいいさ、あんたの好きなようにやんなさいよ。話したかったら、殺しのことを話すがいいさ。あたしは何をしちゃいけないなんて、けちなことはいわねえ。マクシー・ミンチンが勘定をもつパーティは、無礼講御免だ」  無礼講御免の席は、デッキのバーということになった。その夜そこで、十四人がはなばなしく飾られたテーブルを囲んだ。ミンチン氏は船のパーティでの主人役の義務をよく心得ていて、皆におどけた帽子を用意していた。自分は緋《ひ》色の花形の記章のついたナポレオン型の三角帽子をかぶった。こうした膳立てで、彼はこの夜のパーティがはじまったときは、うまく行くという気がしていた。 「うんと食べてください、皆さん。うんと飲んでください。なんでもあたしのおごりだ。この船にあるいちばんいいものを出せって、いっときました」  料理のあとのコーヒーがすんでから、ミンチンは立ち上がった。 「さて、いよいよ大旅行もそろそろ終わりってことになりやした。われわれはいっしょに世界中見て、楽しい思いをした。そう楽しくないこともありましたがね。まあ結局のところは、最初から膳立てがすばらしかったんでさ。あたしにいわせれば、引率者がしゃれてた。グラスを挙げてください、皆さん。この船でいちばんえらい、親愛なるロフトン博士のために」  演説、演説という声があって、ロフトンはちょっと困ったような顔をして、立ち上がった。 「ありがとうございました、皆さん。私はこういう旅行団を何年間も引率して参りましたが、この旅行はいろいろな点で、はなはだ――そのお――印象の深い経験の一つであったということを、申したいと思います。皆さんは私に、ほとんど手数をかけることはなさらんでくださいました。もちろん、これは――皆さん方の大部分の方がという意味であります。衝突もございましたが、友好的に解決しております。皆さん方はすべて、きわめて合理的に行動せられ、時としては非常に努力までされてです、それに対して私は感謝するものであります。もちろん、この旅行がきわめて異例な、悲しむべき状況のもとに始まったという事実を、私は看過するものではありません。パメラ嬢にはまことにお気の毒でありますが、私は――そのお――パメラ嬢のご祖父がロンドンのブルーム・ホテルで、深夜不幸なる最期をとげられたことを、申しておるのであります。すなわち、深夜から朝にかけての間に起こった――そのお――事件でありまして、それに対して、私は皆さん方のどなたよりも、深い悲しみをいたすものであります。もちろん、いま申しあげたご婦人を例外といたしてでありますが。しかし、これはすでに過去のことでありまして、忘れ去ることが最善であろうと存じます。たとえこれが未解決の謎に終わるといたしましても、運命の意志として、われわれはそれを受け入れるべきであります。私が皆さん方全部をサンフランシスコに上陸いたさせますのは、間近でありまして、それでわれわれはお別れをいたします」よろこんでいるのがよくわかった。「しかしながら、私は皆さまと行をともにいたしましたことを、つねに貴重なる思い出といたすであろうということを、確信いたすものであります」  ロフトンが儀礼的な拍手のうちに腰をおろしたら、ミンチンが「ヒヤ、ヒヤ」と叫んで、「さあ、皆さん、博士がその話をもち出したから、あたしはいっていいと思うが、ブルーム・ホテルのあの殺しには、あたしたちはみんな残念です。そこでいまあたしは、ここにいる今夜の特別なお客のことをいいたいです。ハワイから来たシナ人の探偵さんのことを。まったく、皆さん、あたしはいろんな人に会って来たが、こういう人ははじめてだ。チャンさん、何か一言」  こういう紹介であったが、チャンは威厳を見せて、立ち上がった。落ち着いて、この小さな部屋を見渡した。 「最も大きな音を立てる太鼓の中身、空気でいっぱいであります。私ちょうどそのこと思い出しましたから、自分について大きなこと申しません。しかしご親切なご主人役と、あまたの宝石で目もくらむばかりのごりっぱなその令夫人に、敬意を表する機会与えられまして、うれしいです。運命は気まぐれな舞台監督であります。運命、あなた方を世界の警察官に紹介しました。ロンドン警視庁の私の尊敬すべき友人にも、フランスとイタリアの警察官にもです。こんどはここに、人種の坩堝《るつぼ》であるハワイの警察官の標本おります。私どもの楽園荒らす犯罪者わずかですが、それの残したかすかな手がかり追うこと仕事としている、このつまらぬシナ人のこと、ほんの一瞬間なりと、よく見てください。  あなた方の前に立っているこの私、完全に幸福な気持でありません。賢人申しました、“悲しみのあと追う勿《なか》れ、追えば悲しみ戻って来るであろう”と。この言葉、私パメラさんへの私の忠告として、申し上げたいです。しかし私このようにして立っております間は、古い悲しみあなた方の心から消えないでありましょう。  もしあの事件起こらなかったならば、私ここにいないであろうということ、あなた方思い出すに違いありません。ブルーム・ホテルの模様とか、もうすでに忘れてしまった過去の出来事とか、それあなた方思い出します。長い時間たっているのに、それが新しい意味もって、思い出されて来ることでありましょう。私がこういうこと思い出させるということ、私わかりますから、悲しいです。それで私早く引きさがります。その前に、私、付け加えたいことあります。ロフトン博士あなた方に、たとえ事件永久に解決されなくても、それ運命の意志であると、申しました。私シナ人です。私、運命の意志受け入れます。しかし私、長くアメリカの人たちと暮らして来ましたので、運命おとなしく受け入れる前に、運命と少し戦いたいということ考えます。もう私の大きな体、このはなやかな宴席に暗い陰たくさん投げました。私これで引きさがります」  ミンチンの見回していた視線が、テイトの上に落ちた。テイトは演説に慣れた物腰で立ち上がった。 「私はおそらく、ご列席の皆さんのどなたよりも、幸福でありましょう。ずっと以前に皆さんとお別れしなければなるまいと思えたときが、何度もありました。しかし生きるという決心は強いものでありまして、私は皆さんとごいっしょにはじめたこの旅行を、ごいっしょに終えるということを、お約束します。  いろいろな点で、私は幸運であるという気がいたします。私はいろいろなことに感謝せねばなりません。たとえばです、また私の友人、ヒュー・モリス・ドレイク氏とあの二月六日の夜のことになりますが――七日の朝と申しますか――私が28号室のベッドに寝ていたのかもしれないのでありまして――無関係な殺人の犠牲になったかもしれないのでありまして、その殺人たるや単に――」  彼は言葉を切って、困ったようにまわりを見渡した。「失礼しました。よけいなことをいい出しまして。これでは今宵をパメラさんにとって、むしろ不快な夜にしてしまいますな。私はただこの旅行で今まで生きていて幸福である、皆さん方とお知り合いになって、はなはだ愉快であったということを、申したかっただけです。ありがとうございました」  テイトはわずかの拍手のうちに、突然腰をおろした。リュース夫人は旅行談をしてくれたし、パメラ・ポッターはしとやかに何か少しいった。キーン大尉が立ち上がった。 「とにかく、すばらしい旅行でした。しかし、もうそろそろ終わりで、われわれのなかで仕事をもっている人は、それにもどれるわけです。いろいろおもしろいことがあって、あたしとしましては、ブルーム・ホテルの出来事のことはほとんど忘れてしまいました。あれにはちょっと緊張したです、まったく。ダフ警部の行動は、しばらくはこの旅行をつぶしてしまうつもりかと思えました――少なくとも、われわれのなかの何人かに対してはです。あの警部はかなり個人的なことを質問したです。あたしは人を殺すなんてつもりはないですが、皆さん覚えていられるかもしれませんが、偶然あの夜、ホテルの中をうろついていました。それでちょっとひどい目に会ったです。それに、われわれのなかのほかの人たちも、困った立場にいた方がいたようです。エルマー・ベンバウさんはちょっと心配していたようです――そうですな、ベンバウさん? あたしはいままで、これについて誰にも一言もいったことはなかったですが、もうアメリカへ入ったんですから、何いってもだいじょうぶだと思うです。あたしはベンバウさんを、殺人のあった夜の午前の三時に、見ました。ちょうどベンバウさんがホールから自分の部屋へ、こっそり入ろうとしているところでした。そのことをイギリスの警察に説明しないですんで、あんたはうれしかったでしょうな――そうでしょう、ベンバウさん?」  キーンの態度は気がるにからかっているようだったが、誰もこれにあざむかれはしなかった。その奥には、見ていて不輸快な、卑しい悪意があった。ミンチンさえも、その感じははっきりとは定義づけられなかったにせよ、大向こう受けをねらった悪趣味が露骨に出ているということを感じた。  ミンチンはぱっと立ち上がった。「いまここで、あんたに司会者をやってもらう必要なんかない。さあベンバウさん、このつぎの演説はあんたの番です」  ベンバウはゆっくり立った。 「わたしはここ数年来、何度も演説していますが、いままでこんな演説をしなければならなかったことは、一度もなかったです。たしかに、キーンさんのいわれたとおりです。わたしはブルーム・ホテルであの夜、自分の部屋から出ていました。ホテルへ帰って来て、寝てから、二月六日は娘の誕生日だったということを、急に思い出したもので。わたしも家内も、娘に電報を打とうということを、一日中考えていたのですが、忙しかったもので、二人とも忘れてしまいました。それでです、わたしは気が気ではなくなりました、本当にです。それから、わたしは時差のことを思い出しました――アクロンでは六時間前だということをです。まだ娘のところに、その日のうちに、電報が着けるかもしれないと、気がつきました。たぶん夜遅くにはなるだろうが、それでも誕生日のうちにです。わたしはベッドから飛び出して、服を着て、急いで部屋を出ました。ホテルのロビーには、掃除婦がいましたが、ほかの使用人には会いませんでした。行きにも帰りにもでした。このことを警察に話すべきは、もちろんだったのですが、事件に巻き込まれるのがどうしてもいやでした。外国でしたし――事情が違うし――皆さんにもおわかりでしょう。もしこれが国だったら――そうですな、わたしはこのことを全部、署長に話したでしょうな。しかしイギリスでは。相手がロンドン警視庁では。わたしはすっかりおじけがついてしまいました。  キーン大尉がこのことを、今夜ここでいってくださって、わたしはうれしいです。このことを説明できてうれしいし、わたしのいったことを皆さんが信じてくださるように、わたしは望みます。ところで――そのお――わたしは演説を用意したのですが、すっかり忘れてしまいました。そうそう――一つだけ覚えています。わたしはこの旅行中、皆さんもご存じでしょうが、ずっと映画をとって来ました。皆さん全部の方がそれに写っています。ホノルルで映写機を買いましたから、金曜の夜に――この船でのわれわれの最後の夜ですな――、わたしと家内で、皆さんをお招きします。皆さん全部に来ていただきたいです。旅行の模様を、すっかり上映してお目にかけます。これで――これでだいたいわたしのいうことは終わりです。いまのところ」  彼は大きな親しげな拍手のうちに、腰をおろした。何人かがキーンにとがめるような視線を送ったが、キーンは平気な顔で受け流した。ミンチンがまた立ち上がった。 「つぎの指名は、あたしに任せてもらってます。ロスさん、まだあんたの演説を聞いてませんが」  ロスは立って、ステッキにぐっともたれた。「わたしはあとから咎めだてするような持ち合わせがありませんが」と彼がいったら、小さな拍手が皆から起こった。「わたしにいえるのは、おもしろい旅行だったということだけです。わたしは何年間も、こういう旅行をしたいと思っていました。何年間かということは、皆さんに申しあげますまい。わたしが期待していたより、いくらか刺激が強過ぎたですが、わたしは後悔しません。この旅行にロフトン博士がおられ、また皆さん方全部がおられたというのは、幸いでした。ただわたしは、ベンバウさんのように賢明であって、わたしの経験したことを記録して、タコマに帰ってからの長い月日の慰めにすることができたら、さぞよかったろうと思います。あのロンドンの不幸な夜についてはです、お気の毒にもヒュー・モリス・ドレイクさんがブルーム・ホテルの、あの空気のこもった部屋に、死んで倒れていて、ロフトン博士の鞄の革紐が咽喉に巻きつけられて――」  突然、テーブルのずっと向こうから、ヴィヴィアンの声がした。「ロフトンの革紐だと、誰がいっているんです?」といきなり聞いた。  ロスはためらった。「それは――そのお――わたしが検死裁判所で聞いたことだと、ロフトン博士の戸棚から盗み出したもので――」 「今夜は本当のことをいいましょう」ヴィヴィアンがはっきりした、冷たい声でつづけた。「あれは、ロフトンさんの鞄の革紐ではありません。実をいうと、鞄の革紐なんかではありません。カメラの革紐でした――映画カメラを肩から下げるときに、使うものです。で、それがベンバウさんの所有品であったということが、わたしに偶然わかっています」  みんながいっせいに、ベンバウのほうを向いて、じっと見つめた。テーブルの裾の近くにいるベンバウは、顔に驚駭の色を浮かべて、じっとかけている。 [#5字下げ]19 果実のなっている木[#「19 果実のなっている木」は中見出し]  緊張した沈黙のなかで、ミンチンがゆっくりと立ち上がった。ナポレオン帽を頭からとって、これで退位だといったジェスチュアで、わきへ投げ出した。 「なあ、お前さんたちのおかげでとんだ晩餐会になってしまったぜ。サディ、こんななあ今までやったことないなあ、なあ? おれの考えじゃ、一つ釜《かま》の飯《めし》を食ってる人間てもなあ、テーブルじゃちゃんと仲よくしているのが、あたり前だと思うがね。帰りがけに階段の上で、射ち合いをおっぱじめるにしたってだぜ。だがね、あたしには自分のお客さんに、行儀よくしろなんてこたあいえないね。ベンバウさん、あんたは一席ぶったけれど、どうももう一度やらなきゃならないようだな」  ベンバウはぱっと立ち上がった。驚駭の色は消えてしまって、決然と決心したようであった。 「そうです、わたしが間違っていたようです。わたしがさっき皆さんに、娘への電報の話をしていたときに、その革紐について何かいうべきだと、ちょっと気がついたのですが――」 「あんたはそれを、誕生日の贈り物として、娘さんに送ったんでしょうな」キーンがあざけった。  ベンバウはキーンのほうを向いた。「キーンさん、わたしはあんたに、こんなに憎まれるようなことをした覚えはありません。わたしは最初からあんたのことを、下品な卑しいつまらない人間だとは思っていたが、こういうあんたへの批評は差し控えていたはずです。わたしはあの革紐を、娘に誕生日の贈り物として送りはしません。送ればよかったです。そうすれば、あれが最後に使われたような使われ方は、しなかったはずです」  ベンバウは水を一口飲んで、話をつづけた。「ドレイクさんが殺されたことを、わたしはそのあくる朝早く聞いて、わたしに何ができることはないかと思って、ドレイクさんの部屋へ行きました。アクロンにいたら、それがあたり前です――これが隣人としての親切な行為というものです。そのときには、その部屋には、ホテルの使用人が一人いたきりで、ほかに誰もいませんでした。警察はまだ来ていませんでした。わたしはそばへ行って、ドレイクさんを見ました。咽喉《のど》に巻きつけられた革紐を見て、わたしのカメラの革紐に非常に似ていると思いました。びっくりしました、本当に。部屋へ行って、カメラを見てみたら、ケースから革紐がなくなっていました。  それで、わたしたちはそのことを相談しました。家内とわたしで。わたしたちの部屋にはいつでも錠をかけてありませんでした。わたしは出て歩くときに、そういうふうにしておくのはいやでしたが、女中からそうしておくようにいわれていました。カメラは前の日の午後じゅう、部屋においてあったし、夜わたしたちが劇場へ行ったときも、そのままでした。誰でもこっそり入り込んで、革紐をとるというのは、簡単にできたわけです。家内はわたしに、ロフトン博士のところへ行って、話すほうがいいといいました」こういって、彼はロフトンのほうを見て、「わたしはすっかり話します」と付け加えた。  ロフトンはうなずいて、「どうか」といった。 「それでです、ロフトン博士は最初はわたしがこわがっているのをばかにしましたが、わたしが前夜電報を打ちに外出したことを話したら、真剣な顔をしだしました。わたしはロフトンさんに、それがわたしの革紐だということと、それからわたしが殺人のあった日の午前の二時と三時の間に、部屋から出ていたということを、警察に話すほうがいいだろうかと、聞きました。もっとわずかな証拠で、死刑になっている人はいます。しかもわたしは知らない国にいるわけです。なつかしいアメリカから出たのは、これがはじめてでした。それで、その、わたしはすっかりおびえていました。“これでもうあなたの旅行団ともお別れらしいですな”と、わたしは博士にいいました。博士はわたしの肩を叩いて、“何もいうな”といいました。“何もかもわたしに任せなさい。あなたがドレイク氏を殺したのでないことはたしかだと思うから、あなたが調べられないように、できるだけのことはする”と、いってくれました。まったく――わたしはありがたかったです。わたしはそれに従いました。つぎにわたしが革紐のことで聞いたのは、博士が自分のものだといったということでした。わたしのいうことは、これだけです。そうそう、ヴィヴィアンさんが英仏海峡の連絡船の中で、わたくしの革紐がどこにあるかと、聞きました。なんだか意地の悪いような聞き方でした。わたしがパリで別のを買ったとき、ヴィヴィアンさんはそれについて、何か皮肉をいいました。ヴィヴィアンさんがそのことについて知っているということは、わたしにわかりましたが、そのことでなにかするようには見えませんでした」  これまでだまっていたチャンが、はじめて口を開いた。関心をこめて、ヴィヴィアンのほうを見た。 「それ真実ですか?」 「ええ、そうです」ヴィヴィアンは答えた。「わたしは最初から、ベンバウさんの革紐だということは、知っていました。しかしなにしろ、外国にいたものですからね。それに、ベンバウさんの犯行だとは、わたしには考えられませんでした。わたしはどうしたらいいかわからなかったもので、旅行団のなかでそういうことを知っているはずの唯一の人に、相談しました。有名な刑事の弁護士、テイトさんです、つまり。わたしがだいたいのことを話したら、テイトさんはわたしに、何もいうなと勧告しました」 「それで、あなたいまその勧告無視しているのですね?」チャンは聞いた。 「そういうわけでもありません。わたしはテイトさんと、きょうその話をしました。そうしたらテイトさんは、革紐のことについて真相をもう話すべきだと思うと、いいました。わたしからあなたに話せと、すすめられました。この事件の捜査にあたった人で、あなたの頭がいちばん鋭いと思うと、テイトさんはいいました」  チャンは頭を下げた。「テイトさん私のことほめ過ぎます」と抗議した。 「じゃあ、これ以上わたしのいうことはありません」ベンバウが額の汗を拭きながらいった。「ロフトン博士が革紐は自分のものだといってくださったので、それでわたしは何も聞かれませんでした」  ベンバウは腰をおろした。  皆がロフトンのほうを見た。ロフトンは明らかに当惑したような態度だった。目が光っていた。 「ベンバウさんがいわれたことは、すべて真実です。しかし、わたしの立場も考えてみてください。私の旅行団に殺人事件があって、世界で最も有名な捜査機関を相手にしているという立場にありました。私の唯一の目的は、できるだけ早く彼らの捜査を切り上げさせて、団員全部が支障なく英国を出られるようにしたいということでした。もしベンバウさんがあの二つの困った事実を認めれば、ロンドンに止めておかれることは明らかであろうと、私は思いました。旅行団の一人がいなくなっただけならまあとにかく、それが二人となっては――とにかく、それではひどすぎます。旅行のそもそもの始めに、最もいい得意を二人失うという場合でした。それに私は、ベンバウさんがまったく関係がないという道義的な確信をもっていたです。  ダフ警部が革紐の問題をもち出したとき、私はすぐ逃げ道を見いだしました。私はあの前夜、自分の部屋を出なかったし、出たといえる人はいません。ドレイクさんと私の間に、ちょっとした言い合いがあったということはありますが、そんなことは、ダフ警部がすぐわかったとおり、別になんでもないことです。私はどこからみても、あの犯罪には関係ありませんでした。あの革紐は、私が古鞄に締めていたのと、似ていないことはありませんでした。あれほど幅は広くなかったが、色は同じで、黒です。私はダフ警部に、この見せてもらっている革紐と、同じようなものを持っていると、いいました。それから自分の部屋へ行って、それを鞄からはずして、衣装|箪笥《たんす》と床のわずかの隙間に隠しました。もし何かじゃまでも入って、こういかなかった場合には、部屋でそれを捜し出したようなふりをして、ダフ警部には、ただ自分の思い違いだったというつもりでした。それで、私は隠しておいてから、ドレイク氏の部屋にもどって、ドレイク氏を絞殺するのに使われた革紐は自分のものだと思うと、警部にいいました。  これが魔法のように、よく効《き》きました。これでもって、革紐の問題はロンドン警視庁の関心をひかなくなりました。ベンバウさんは安全になったし、そして――」 「そしてあんたも安全になった」キーンが煙の輪を天井に吹きつけながら、いった。 「なんですと?」ロフトンはこわい顔をした。 「ベンバウさんは安全になった、そしてあんたもそうなった、といったんです」キーンは平気でつづけた。「ダフ警部があんたになにか犯罪の疑いをかけようとしても、あんたはその場ですぐその革紐は自分のものだと主張したことで逆襲したわけですからな。ダフ警部は、もしあんたが有罪だとしたら、自分の革紐で殺人をやっておいて、しかもそれをすぐ自分のものだと認めるわけはないと、思うでしょうな。そうですよ、あんた、それが魔法のようによく効いて――」  ロフトンの顔が真っ赤になった。「いったいあなたは何をいおうと――」 「いいや、なんでもありません、なんでも。興奮することはないです。だが、この事件では、誰もあんたに大した注意は払っていませんでしたな。あんたの立場が――あんたの企画した旅行にこんなことが起こって、煩悶しているというわけで。しかし、そうなんですか? あんたにとって、旅行よりもっと重大なことが何かあったということも――」  ロフトンは椅子を横にやって、キーンの席へ大股でやって来た。 「立ちなさい。立ちなさい、けがらわしい。わたしは年はとっているが、決して――」 「まあ、あんた方。こ婦人がいることを忘れなさんな」ミンチンが大きな声をした。  チャンが大きな体を、ロフトンとキーンの間に入れた。 「理性のさわやかな微風、この問題に吹かせましょう」と彼は穏やかにさとした。「ロフトン博士、あなたこのきわめて軽率な人の不合理な話聞くとは、愚かです。この人の悪意あるあてこすり、なんの根拠もありません」  こういって、チャンはロフトンの腕をとって、数フィート引き離した。 「じゃあ、皆さん」ミンチンが宣言した。「夕食はすんだようだ。あたしは最後に、みんなで手をつないで、“螢の光”を歌おうと提案しようと思っていたんだが、それは省略するほうがよさそうだ。ドアを開けましょうや。学校へ行ってる息子のためにお願いするが、廊下でピストルの抜き合いはごめんですぜ」  チャンは急いでロフトンに付き添って、外へ出た。出て行く彼の後ろに、椅子ががたがたいう音が聞こえた。この興味のあったミンチンの夕食パーティが解散する音だ。 「この風のあたる甲板にいれば、熱した言葉冷えます。私の勧告受け入れて、あなたの怒り少し収まるまで、キーンのそば離れていてください」 「そうですな、私もそれがいいと思います。私はあの嘲笑的な若造が、最初見た瞬間から嫌いでした。しかし、もちろん、私は自分の立場を忘れてはならんです」ロフトンはこういってから、チャンを探るように見て、「彼の非難にはなんの根拠もないと、あなたがいわれるのを聞いて、私はうれしく思いました」 「私、なんの根拠も発見しません」チャンは穏やかにいった。 「どうも――いまになって考えてみると、あれはむしろ愚かな行動でした。私があの革紐を自分のものだといったのは。こういうグループといっしょに旅行する仕事を、ほんの数年間でもやってみますと、子供を引率しているように思えてきます。あのときの私の気持は、こう説明する以外にありません。しかも、少し愚かな子供で、自分で始末がつかずに、保護を必要とするといった子供です。私がまず本能的に考えるのは、いつも彼らを保護することです。私の連れている人の一人が、困った立場に立った。それで、以前にも何度もあったことですが、私はただその人の重荷を、自分の肩に引き受けて、運んで行ったということなんです」  チャンはうなずいた。「私よくわかります」と、この年長者を安心させた。 「ありがとう、チャンさん。あなたは理解のある方のようです。私はあなたにお会いしたとき、過小評価していたような気がします」  チャンは微笑した。「それいつもそうです。私、それ気にしません。私の目的、人と別れるとき、依然として過小評価されないようにすることです」 「あなたのその目的はいつも達せられることでしょう」ロフトンは頭を下げた。「私はもう船室へ帰ることにします。する仕事がたくさんありますから」  二人は別れた。チャンは甲板を散歩しはじめた。彼の足取りは元気よく、態度は平静で落ち着いていた。ミンチンの晩餐会で、いろいろなことがあった。実にいろいろなことがあったということを思い出して、彼は一人で微笑した。デッキ・チェアから、彼に声をかけた人がいた。 「これはこれは、テイトさん。あなたお差しつかえなければ、私あなたのそばにかけます」とチャンはいった。 「こちらからお願いしたいですな」テイトが答えた。 「それはどうも。あなたご親切に、私の貧しい頭脳の力、ヴィヴィアンさんに過分にほめてくださいました」 「わたしは心からそう思って、いったことです」 「すると、あなた充分な根拠なしに、判断なさいますね」 「いいや、わたしは決してそんなことはしませんです」  テイトが毛布をかけるのに骨を折っているので、チャンは手伝った。 「ありがとう。ところで、大した晩餐会になりましたな、結局。もしかすると、あれもあなたの実験の一つではなかったのですか?」  チャンは頭を振った。「いいや、あれご馳走好きなミンチンさん考えたことです。しかしです――私自分の目的に使えるかもしれませんですよ」 「きっとそうだと、わたしは思いますな」 「探偵というもの、わきにいて殺人犯人犯行についての出来事話しているの聞いていると、幸運にぶつかります。今夜いろいろな人、話をしました。犯人その中にいたことでしょう。誰かがうかつに何かいってしまったということ、ありましたでしょうか?」 「あなたは何か気がついたのですか?」テイトが聞いた。 「私、気がついたと申さねばなりません。それ――いきなり失礼ですが――あなたのいったことの中にありました」  テイトはうなずいた。「あなたを見たわたしの目に狂いはないです。わたしがうかつにいったことを、あなたが見のがすだろうとは、わたしはまあ思ってはいなかったです」 「私たちのいっていること、同じことに違いありませんですね?」 「それはたしかにそうですとも」 「では、あなたのいわれたこと、私に説明してください」 「喜んで。われわれのうちの誰でもが、あの夜ブルーム・ホテルで、ヒュー・モリス・ドレイク氏の立場におかれたかもしれないということを、わたしが認めたのは、口がすべったわけです」 「そうでした、たしかに。あの夜、ハニウッドさんとドレイクさん部屋を交換したこと、あなたもちろん知っていました。ダフ警部があなたにそのこと、ニース、サン・レモ間の列車のなかで、話しました」 「そうです――その交換のことを、ダフ警部がわたしに話したのは、そのときでした。あなたはダフさんの記録を、かなりくわしく知っているようですな、どうも?」 「私、それ必要です。それ私の唯一の便りです。しかし故ハニウッド氏が奥さんに書いた手紙をあなた読んだということ、記録になかったです」 「わたしはそんな手紙があったということさえ、知りませんでしたなあ」 「それだのにあなた、ドレイクさんはハニウッドさん殺そうとした人に殺されたということ、知っていました。あの気の毒な方殺されたのは、あなたいいかけたように、単なる偶然であったということ、あなた知っています。旅行団のどの男にも起こり得たということ、知っています」 「そうです――知っていたということを、わたしは認めないわけにはいきますまい。しまったことをいったと思うですが、今になって後悔しても、もう遅いです」 「どうして、あなたそれ知りました? ダフさんあなたに話したことありません」 「それはもちろんです。ダフさんはわたしに話したことはないです」 「では誰が話しました?」  テイトはためらった。「告白せんわけにはいきますまいな。わたしはそれを、ケナウェイから聞いたです」 「なるほど。それで、ケナウェイさんそれを誰から――」 「彼の話によると、パメラ・ポッターから聞いたそうです」  短い沈黙のあと、チャンは立ち上がった。 「テイトさん、私お祝い申します。このことについてのあなたへの疑い、きれいに晴れました」  テイトは笑った。「そして簡単にですな。ただ真実を話すことによってですよ、チャンさん」 「気持いい晩です。私失礼します。あなたいろいろ深遠な考えごとなさることおありでしょう」  こういって、チャンはゆっくりそこを離れた。  プロムナード・デッキでダンスをしている人たちを捜して、チャンはパメラ・ポッターがマーク・ケナウェイに抱かれて、その狭い床でダンスをしているのを発見した。音楽が止むまで、辛抱して待っていて、それから彼は二人のそばへ行った。 「ごめんください。このご婦人、つぎのフォックス・トロット私とすることになっています」チャンは宣言した。 「どうか」ケナウェイは微笑した。  チャンは重々しく腕を差し出して、彼女をそこから外へ誘《いざな》った。音楽がまたはじまり出した。 「私、比喩使っただけです。私の肥満とダンスよく調和しません」 「そんなことありませんわ。きっと、あなた一度もおやりになってみたことないんですね」 「賢い像、蝶の真似しようとすることしません」  チャンは彼女を手すりのそばの暗い隅へ連れて行った。 「私あなたをここへ連れて来たのは、あなたといっしょにいること実に楽しいですけれど、そのためばかりでありません。ほかに質問したいことあります」 「まあ――わたし、一人征服したのかと思いましたわ」彼女は笑った。 「それあなたにとっては、なんでもないことです。わざわざいうことありません。わたしお聞きしたいこと、こういうことです。あなたハニウッドさんの奥さんへの手紙で読んだこと、ほかの人に話しましたね? おじいさんの殺されたこと偶然であったこと、旅行団のほかのメンバーにいいましたね?」 「まあ、そんなことしたら、いけなかったのでしょうか?」彼女の低い声。  チャンは肩をすぼめた。「古い諺、耳は二つ、口は一つといっています。いうのは、聞いたことの半分になさい」 「ちゃんと叱られましてね」 「機嫌悪くすることありません。べつに害なかったと思います。私ただ、あなた誰に話したか、それ知りたいのです」 「ええと、リュース夫人に話しました」 「それ当然です。ほかに幾人です?」 「ほかには、たった一人です。マークさん――ケナウェイさんに」 「なるほど。ケナウェイさんそのことテイトさんに話したということ、あなた今晩おそらく気づきましたね?」 「ええ、ちゃんと気がつきました。それでわたし、ちょっと腹が立っていますの。わたしマークさんに、秘密だとはいいませんでしたけれど、わかっていそうなものですわ。あの人とてもわたしの癇にさわるんですの、あんな人って――」 「あなたの癇にさわる? 私あえていいますが――」 「ええ、わかっていますわ――わたしあの人とよくいっしょにいますわ。でも、ほかにどんな人がいまして? ヴィヴィアンさん? キーンさん? 問題になりませんわ。何かするときに、男性が必要だという場合には――たとえば、ダンスです――、当然わたしマークさんを選びます。でもやっぱり、あの人わたしの癇にさわるんです」 「それ口だけです」 「本気ですとも。あの人のやり方、見てごらんなさいよ。とてもえらそうがっていますわよ――ボストンだとかハーヴァード大学だとかなんだとか。本当に――わたしそれが癪《しゃく》にさわって――」  チャンは微笑した。「もしその癇にさわる青年、あなたに結婚申し込んだとしたら?」 「すると思いますか?」彼女は急いで聞いた。 「それ私にわかりようありません」 「でも――本当に気味の悪いようですわ、チャンさん、どうしてあなたのことを人がそんなに信頼したくなるのか。わたしお話ししてもいいと思いますけれど、彼が結婚を申し込んでくれるのを、望んでいますの。実をいうと、わたし彼をリードしているんです――ちょっと。わたし、彼にプロポーズさせたいんです」 「それから?」 「それから、わたしはねつけてやります。さぞいい気持でしょうね。ボストンの花形が、いやらしい中西部から来た粗野な下品ななんとかに、はねつけられるなんて」  チャンは頭を振った。「女の心、海の底の一本の針のようです」 「まあ、わたしたちそんなにわかりにくいことありませんわよ。わたしの動機は完全にはっきりしていますわ。もちろん、ある意味では、残念だとは思うでしょうけれど――あの方そのつもりになれば、とてもやさしくなれて――」 「それで?」 「それはそうですけれど、めったにそういうつもりにならないんです。たいてい、ただ冷たくて、超然として、ボストン風を吹かせて、それにわたし、あの人がわたしのお金のこと嘲笑しているの、知っていますわ」彼女はほっそりした手で、チャンの腕にさわった。「でも、わたしのせいじゃありませんわよ、祖父に金持になるだけの頭があったというのは」と、悩んでいるように付け加えた。 「名誉ある男、それあなたの責任と思うことありません」チャンはなだめるように答えた。「しかしあなたその青年リードしているのでしたら――ちょっとでもです――、まだその仕事おつづけなさい」  二人はデッキを、音楽のほうへ歩いて行った。 「あの人、あのことをテイトさんに話すべきでなかったんです。わたしどなりつけてやるべきですわ。でもよしますわ。今夜は、わたしやさしい気持がしていますから」 「その気持もっておりなさい」チャンは強調した。「私自分でも、そういう気持でいることのほう好きです」  チャンに気がついたことだが、ケナウェイは彼女をまた見ても、全然不愉快な顔はしなかった。彼女のほうも、とくに疳にさわっているらしくもない。  チャンが二人から離れたら、事務長が彼の前にいた。 「いっしょに来てください、チャンさん」と事務長はいって、自分の部屋へ連れて行った。  カシマが椅子にかけて、うなだれていた。非常にしょんぼりしているのが、はっきりわかる。 「どうしたのです?」チャンは聞いた。  カシマは顔を挙げた。「すみません」と低い声でいったので、チャンの心は重くなった。 「ここにいるあなたの助手が、困ったことになりましてな」と、事務長が説明した。 「あの女帰ってくること、ぼくわかるわけないです」カシマがいった。 「あなた謎のようなこといっている。誰、帰って来たのです?」チャンは聞いた。 「ミンチン夫人です」事務長が口を入れた。「今から数分前に、船室へ帰って来て、このボーイさんが部屋を捜しているのを、発見したわけです。彼女は鞄の中に何億ドルという装身具類を入れてあるもので、上海のアスター・ハウスのバーまで聞こえそうな、悲鳴をあげましてね。わたしが自分でこの若いのを海の中に放り込むと、彼女に約束しましたよ。この人を船室に出さずに、どこかほかのところにおいておかんといかんです。これでこの人は、もうあなたの役に立たなくなったようです」 「すみません」カシマはまたいった。 「待ちなさい」チャンがいった。「あなたすみませんいう時間、あとでたくさんある。その前に、これに答えなさい。あなたミンチンの船室に、何か興味あるもの発見したですか?」  カシマは飛び上がった。「そうだと思います、チャンさん。ぼく発見しました――ぼく一生懸命に捜したし、ぼく物捜すのうまいです――あんたがそういって――」 「よろしい、よろしい。何発見しました?」 「なんににも貼りつけていないホテル・ラベルのコレクション、発見しました。あの旅行団の人たちが行ったホテル全部の、きれいなラベルを。グランド・ホテルとか、スプレンディッド・ホテルとか、パレス・ホテルとか書いてあるラベルで――」 「それで、カルカッタのグレイト・イースタン・ホテルのラベル、そこにありましたか?」 「いいえ、ぼく二度見た。そのホテルのラベル、そこにあったなかになかったです」  チャンは微笑して、この小柄な日本人の肩を叩いた。 「もうあなた自分の腕前、過小にみることない。石は果実のなっている木にだけ、投げられる。近いうち、あなた本当に石たくさん投げられるかもしれない」 [#5字下げ]20 パメラ、リストを作る[#「20 パメラ、リストを作る」は中見出し]  チャンは事務長のほうを向いた。船でのカシマの今後の地位は、数分間できまった。下甲板にずらっと並んでいる船室の一つに移して、これから航海の終わるまで、できるだけサディ・ミンチンの大声から遠ざけることにした。カシマは意気銷沈して、逃げるように出て行った。チャンは甲板へもどった。彼はふたたび手すりのそばに立って、事件の最近の発展を考えた。  貼りつけてないホテル・ラベルがプレジデント・アーサー号にあるとすれば、あの鍵がカルカッタでケナウェイの鞄に隠されたものであり、したがってウェルビーが横浜で発見したときに、すでに今の場所にあったものだということは、いままで以上に、考えられなくなってくる。たしかに、ほかのところにあったに違いない、本当の持ち主の手元に。その人物は、その鍵を捨ててしまいたくはないし、そうかといってウェルビーの件で多少心配になってきたので、ケナウェイのスーツケースに、ずっと前に泊まってとうに出てしまっているホテルのラベルを、上へ貼りつけて隠すという、うまいことを考えたのだ、その人物はこういうラベルがどこにあるかということを、知っていたのだ。自分でこういうラベルをもっていたのかもしれない。マックス・ミンチンだということもあり得る。  チャンは一人で微笑して、数分間図書室にいてから、自分の船室へもどった。そこで彼がまずしたことは、ダフの記録を取り出して、もう一度検討するということであった。彼の読んだことは、彼を満足させたようであった。彼は元気よくベッドへ入って、乗船後はじめて、完全に休息した。  翌朝早く、彼は甲板を歩いているマックス・ミンチンに会った。ミンチンは運動する大決心をしたらしい。彼はミンチンと並んで、歩き出した。 「やあ、警部さん。嵐のあとの晴れた朝というやつだね」ミンチンがいった。 「嵐?」 「あたしが昨日の夜やった噛み合いパーティのことでさ。まったく、あの連中は仲よくするってことを知らないようだ、どうも。あんたが楽しんでくれたんだったらいいが」 「すばらしかったです」チャンは微笑した。 「あたしはちょっと心配したね。主人役をやってて、あんな気違い病院みたいな騒ぎになったんじゃ、おもしろくないですぜ。誰かが手錠をはめられることになるんじゃないかと、思ったときもあったっけ。だが結局のところ、あんたはまだ、犯人のお目当てがつかなかったらしいね」  チャンは重々しく溜息をついた。「残念ながらそのようです」 「本当にわけがわからねえ。あたしはね、あんないい年寄りを、誰かが殺したがったというそのわけが、見当つかねえ。テイトのいったことで、たぶん間違いじゃなかったのかなという気が、あたしもしましたぜ。たぶんドレイクはほかの人間と間違えられて、やられたんじゃないかって気が。そういうことは、よくありますぜ。あたしゃ覚えているが、一度シカゴで――だが、そんなことを警察の人に話すことはないやね。あたしはいおうと思ってたんだが、きのうの夜あたしたちの船室で、ちょっと事件があってね」 「ほお? どういう種類の?」チャンは少し好奇心を見せてやった。 「おれたち大金持は、油断も隙もありゃしねえ。あたしたちが金をうんと持ってるってことは、評判になってるんですぜ。それで、畜生! 世の中はどうなることだろうな。もう所有権の尊重なんてものはありませんぜ――いやになっちゃう。女房が船室へ帰ったら、ボーイの奴、つむじ風みたいな勢いでそこらじゅう引っかき回して、大騒ぎさ」 「困ったことです。貴重品何もなくならなかったでしょうね」 「それがおかしいんでさ。女房が手に入れた宝石や何かがうんとあるんだ――貴重品が。あたしが金を払ったんだから、間違いはない。それで、女房が船室へ入ったら、そのシナ人の奴がいて――」 「それ――その――べつになんでも――」チャンはいいかけて、きわどいところで押えた。 「そのシナ人の奴がいて、それがホテルの古ラベルを、手にいっぱい持ってやがった」 「あなたそういうラベルのコレクション、お持ちなのですね?」チャンは聞いた。 「そうでさ――あたしはホテルへ泊まるたびに、ラベルを集めてるんですよ。忰《せがれ》が自分のスーツケースに貼るように、持って帰ってやるつもりで。忰はいっしょに来たがったんだが、あたしは勉強が大切だといってやったんでさ。国に残っていて、口のきき方を習えってね。密輸をする奴だって、近頃は言葉づかいをよくしなけりゃなりませんや。上流階級と付き合うようになってるんだから。あたしは忰に、そういう商売をやらせたいっていうんじゃない――財産の管理だけで、忰は手一杯になりまさ。おれがラベルをもって来てやるからなと、あたしは忰にいってきた。そうすれば、旅行したも同じだって。で、いまもあんたにいったように、女房の貴重品がすっかりその辺にころがっているのに、そのシナ人の奴が目をつけたのは、ラベルなんですぜ。しかし一枚しか盗む時間がなかった」 「ほお――一枚なくなっているのですね?」 「そのとおり。女房がすぐ気がついてね。集めた中でいちばんりっぱなやつなんでさ。もらったときに、忰がさぞ喜ぶだろうと、女房と話したのを、思い出しましたよ。カルカッタのホテルんでさ。それがなくなってましたよ。二人でいくら捜しても、ないんでさ」  チャンはミンチンの顔を見つめた。その浅黒い顔に、単純な無邪気さが現われているのを見て、彼は意外に思った。子に甘い父親の心配だけしか、そこには見られない。 「あたしは事務長にうんと文句をいってやったさ」ミンチンはつづけた。「だが、事務長の話だと、そのシナ人の奴の身体検査をしたが、なんにもなかったというんでね。野郎あのラベルをどうにかしやがったんだ。これがシカゴで、昔だったら、こんなことしやがったら生かしちゃおかないんだが。だがね、まあいいでさ、ほっときますよ。忰は何がなくなったか知りっこないし、それでいいんだ」 「私お祝い言います。人生あなたを哲学者にしました。ですからこれから平和に生きられます」 「あたしは今そうなりたいと思っているところでさ」  あと二人は黙って、散歩を終えた。  その日の午後早く、チャンは不愉快なキーンに会った。チャンは会ったのを無視したかったが、キーンが彼をよび止めた。 「どうです?」キーンが口をきった。 「なにがです?」 「きのうの晩餐会。いろいろ出て来ましたな」 「たくさんに」チャンはうなずいた。 「あたしにはあれでたくさんですよ。あたしの見たところだと、事件はかなりはっきりしだしましたな」 「あなたベンバウさんのこというのですね?」 「ベンバウ、とんでもない! 冗談いってはいけませんよ。あたしの睨んでいるのはロフトンで、最初からそうだったんです。あれがあたしにサン・レモで、旅行は打ち切りだといったのを、あんた知っていますか? なぜです? わかりきったことですよ、チャンさん。ダフ警部があれに無理に旅行をつづけさせたんだが、あれはやりたくはなかったんですよ。仕事はもう片付けたから」 「それだけでイギリスの法廷で有罪の判決できると、あなた思うのですね?」 「いいや――そのくらいのことは、あたしだって知ってますよ。だがね、あたしはこの事件を引き受けているんですからな。ポッターさんがやれといってくれて、成功したら金を払うと、約束したです」  チャンは相手を睨んだ。「あなた私の名前出しませんでしたね?」 「そんな必要ありませんよ。あんたは事件が片づくまで、手を出さずにちょっとのぞいて見ていればいいんです。そうしているんですな――えらそうな顔をして。あんたはあたしの犯人の目当てが狂っていると、思っているんでしょうな」 「そういうこと絶対に思いません」 「なんですって?」 「私そういうこと思う理由ありません。町で最も愚かな人、学校へ行く道教えることできます」 「それいったいなんの意味です?」 「なんでもありません。昔のシナの諺《ことわざ》です」 「くだらない」  キーンはこう答えて、向こうへ行った。  午後の時間はたちまち過ぎて行った。船は夕日に照らされた静かな海面を走って行く。夜が来た――最後の一つ前の夜が。しかしチャンの態度は海面のよう穏やか[#「よう穏やか」はママ]だった。彼が夕食に出る身仕度をして、デッキに出たら、ちょうど喫煙室に入ろうとしているテイトに会った。 「こちらへ来ませんか、チャンさん?」テイトは誘った。  チャンは頭を振った。「私、ケナウェイさん捜しています」 「わたしが出たとき、まだ船室にいました」 「船室の番号は――」  そんな必要は全然ないのに、テイトに番号を聞いて、チャンは別れた。行ってみたら、ケナウェイは改まった黒ネクタイをしめているところだった。 「やあ、いらっしゃい、チャンさん。変わりばえもしませんけれど、ちょっとめかしているところです」 「なるほど――パメラさんといっしょにいる時間、残り少なくなりましたからね」とチャンは微笑した。 「なんだって、そんなこというんです? いつでもできるだけきれいに見せろというのが、ぼくのモットーです。弁護士を雇いたいというのが、その辺にいないとも限りませんからね」  チャンはドアを閉めた。 「私、あなたと内密の話あって来ました。あなた名誉にかけて、私のいうこと秘密にしてください」  ケナウェイは驚いたようだった。「もちろんです」  チャンは膝をついて、ベッドの一つの下から、問題のラベルを貼ったスーツケースを引っぱり出して、ラベルを指さした。 「これ、どうか見てください」 「カルカッタのグレイト・イースタン・ホテルのラベルですね? それがどうかしましたか?」 「あなた覚えていますか――これあなたカルカッタ出たとき、そこに貼ってありましたか?」 「覚えているかって、もちろんです。ぼくはそれに、カルカッタの港で乗船してから気がつきました。とても目立つラベルですから、気がつかずにはいられません」 「これがそのときあなた見たラベルということ、確かですね?」 「それは――確かかといわれると困ります。ぼくはちょうどそれと同じようなのを、見たわけです」 「そのとおりです。あなたちょうどこれと同じようなものを見ました。しかし、これ見たのではありません」  ケナウェイはそばへ寄った。「それはどういう意味です?」 「その後になって、第二のラベル、第一の上にきちんと貼りつけられたという意味です。そしてその二つの間に――。あなたその表面、指でさわってみてくれませんか?」  ケナウェイはいわれたとおりにした。「これ、なんです?」とけげんな顔をした。「鍵みたいな手ざわりですが」  チャンはうなずいた。「それ鍵です。二月のある朝、ブルーム・ホテルでヒュー・モリス・ドレイク氏の手に握られていた鍵と、対《つい》のものです」  ケナウェイは口笛を低く吹いた。「誰がぼくの鞄に乗せたんです?」 「私もそれ不審です」とチャンはゆっくりいった。  ケナウェイは自分のベッドの端に腰をおろして、じっと考え込んだ。彼の視線が部屋を横切って、パジャマの乗っているもう一つのベッドへ行った。 「ぼくも不思議です」  ケナウェイとチャンはしばらく顔を見合わせていた。 「私、スーツケースもとのところへ入れます」  いきなりチャンが強くこういって、鞄をしまった。 「あなたこのこと誰にもいっていけません。鍵、監視していてください。船入港する前に、それなくなると、私思います。なくなったらすぐ、私に知らせてください」  ドアが突然開いて、テイトが入って来た。 「おや、チャンさん。失礼しました。内密の話ですか?」 「いいえ、ちがいます」チャンははっきり答えた。 「ハンカチを持っていないのに、気がつきましてな」テイトはこう説明して、引出しを開けて、ハンカチを一枚出した。「いっしょに食前に、食欲増進に一杯どうです――二人とも?」 「残念ですが、それできません。私、食欲増進しないこと、何より望ましいです」  チャンは部屋を出た。微笑しながら、そして落ち着きはらって。  夕食のあとで、リュース夫人とパメラ・ポッターが並んでデッキ・チェアにかけているのを、チャンはみつけた。 「この私、おじゃましてよろしいですか?」 「おかけなさい、チャンさん」老夫人がいった。「この船では、あまりあなたにお会いしていませんね。でも、あなたお忙しかったのでしょうね?」 「私、予期したほど忙しくありませんでした」チャンは静かに答えた。 「本当ですか?」老夫人は聞きただすように、彼を見た。「気持のいい夜ですこと。南アフリカの草原の気候を思い出します。わたしそこに一年いたことあります」 「あなた世界中のことくわしいです」 「ええ――わたしほうぼうへ行きましたよ。今はパサデーナにある自分の家に、落ち着こうと思っています。でも、長い旅行を終わるたびに、そういつも思うんです。そのうちまた、汽船の時間表のいっぱい置いてあるウィンドウの前を通ると、また出かけてしまうでしょうね」  チャンはパメラのほうを向いた。「無作法ながら、昨夜のことお尋ねしてよろしいですか? たぶんあなたあの青年リードしたことでしょうね――もうすこし前へ?」  彼女は微笑した。「わたし子供のとき、しじゅう雪ダルマを作っていましたわ。歩ける雪ダルマに会って、おもしろいですわよ」 「あなた今夜ともう一晩あります――月の光、非常に美しく輝く夜が」 「北極海の半年つづく夜でも、だめですわ。もう見込みありませんわ」 「絶望いけません。忍耐勝ちます。それ私自分で努力して、確信していることです。ところで、あなたキーン大尉に、あなたのおじいさん殺した犯人彼が発見すれば、謝礼すると約束しましたか?」 「いいえ、そんなことありませんわ」 「しかしそのことについて、あの人あなたに話しましたね?」 「なんにも、わたしと話なんかしていません」  チャンは彼女をじっと見つめた。「あの人嘘をいっています。もうそのこというのよしましょう」  彼女が手に一枚の紙と鉛筆をもっているのを、チャンはちらっと見た。 「すみません――私おじゃましていたようです。あなた手紙書いているのですね?」  彼女は頭を振った。「いいえ、わたし――わたしただ、その――実は、事件の謎を解こうとしていたんです。時間がもういくらもありませんもの、あなたもご承知のように」 「それ私がいちばん承知しています」チャンは重々しくうなずいた。 「それだのにわたしには、まだわたしたち何もつかめていないように思えます。まあ、ごめんなさいね――でもあなたはこの事件に関係なさったの、ついこのごろからですもの。あなたには、そんなにチャンスはありませんでしたわ。わたしいま、わたしたちの一行の男の人のリストを作って、一人一人の名前のあとに、その人が怪しいと思われる点を、書いてみていたんです。わたしの見たところでは、ミンチンさんとマークさん以外は、どの人も怪しいと思われる時があって――」 「あなたのリスト正確でありません。その二人も全然怪しくないとはいえません」  彼女は息をのんだ。「旅行団の男の人はどの人も、除外できないというんですね?」  チャンは立ち上がって、ゆっくり彼女の手からその紙を取って、細かに破いた。そして手すりへ行って、それを海へ放り投げた。  それからもどって来て、彼女に忠告した。「この問題で、あなたの美しいあたま悩ますのおよしなさい。もう解決しています」 「それどういう意味です?」彼女は叫んだ。 「もちろん、イギリスの法廷に受け入れられる証拠捜すという厳粛な問題残っていますが、それこれから発見できます」 「わたしの祖父を殺したのは誰かわかっていると、おっしゃるんですね?」 「あなたご自身では、わからないのですね?」 「わかっていませんとも。わたしにわかっていっこありません」  チャンは微笑した。「あなた私と同じ場面見ています。しかし、あなたの心あなたの癇にさわる青年のことでいっぱいでした。ところが私、そういうハンディキャップなしに努力しました」  チャンはパメラとリュース夫人の二人に向けて、ていねいなお辞儀をして、何気ないようにデッキをぶらぶら下って行った。 [#5字下げ]21 プロムナード・デ・サングレエ[#「21 プロムナード・デ・サングレエ」は中見出し]  パメラはびっくりして目を大きく見開いて、リュース夫人を見た。 「チャンさんがあんなことをいったのは、いったいどういう意味なんでしょう?」  リュース夫人は微笑した。「あなたのおじいさんを殺したのは誰か、わかっているという意味ですよ。わたし、あの人どうもそれを発見したと思いますね」 「でもどうして発見したんでしょう? あの人、わたしもわかっているべきだと、いいましたわ。でもわたし全然――」  リュース夫人は肩をすぼめた。「今のお若い方は頭がいいけれど、そのなかでもあなたは頭のいいお嬢さんですよ。わたし、それに気がついています。一ドル銀貨のように光っているって、わたしたち昔いったものです。でも、あなたはチャンさんほどは頭がよくありません。たいていの人はそうですよ。わたし、それにも気がついています」そして立ち上がって、「ケナウェイ青年が来ますよ。わたし、談話室へ行くことにしましょう」 「まあ、お逃げにならないで」 「わたし監督を仰せつかっているのかもしれませんけれどね、あんた、わたしも若い時があったんですよ」  こういって、リュース夫人は向こうのドアのほうへ歩いて行った。  ケナウェイがちょっとおどおどしたように、リュース夫人がいまどいたデッキ・チェアの裾に腰をおろした。 「ああ、ああ、また一日たちましたね」  パメラはうなずいた。 「あんたはなんだかむっつりしていますね」ケナウェイはこういってみた。 「それでほっとしたでしょ。わたし――わたし、じっと考えていたんです。チャンさんからいま、とてもびっくりするようなことを聞いたもんですから」 「なにを、いったい?」  彼女は頭を振った。「いいえ、教えてあげられません。わたし前にあなたに話したことがあって――それをあなたは人にいいましたね」 「なんのことをいっているのだか、ぼくにはわからない」 「いいんです。その問題を、いま話す必要はありませんわ」 「ぼくが何をしたか知らないが、あやまります。本当に」  ケナウェイは非常にすまながっているように見えたし、のぼったばかりの月の光で、とてもハンサムに見えた。二人ともちょっと黙っていた。それから、ケナウェイの顔に突然関心の色が現われた。 「その――チャンさんあんたに話さなかったですか――犯人がわかったということ?」 「どうして、そんなことをわたしに話すというんですの?」 「それはそうですけれど――今夜、あることがあって――」また彼は口を閉じて、空間を見つめた。「わからない」と最後に言い足したが、その声は緊張してというか、むしろおびえていた。  パメラは彼をちらっと見た。かつてデトロイトのある青年がこういうふうに見られて、それで人間が変わってしまったことがある。 「この船にわたしたちがいるのは、あと一晩ですわね」彼女は念を押した。 「それは知っています」彼は憂欝そうに答えた。 「過ぎてしまったら、こうして喧嘩していたのを、なつかしく思い出すでしょうね」 「ぼくはね」と彼はうなずいた。「しかしあんたは――あんたはデトロイトへ帰って、楽しく暮らせる。自動車の女王さまですからね。百姓がみんなお辞儀して」 「なにいってらっしゃるの? あなたはボストンにお帰りになるんじゃありませんか――王家の血筋のいるべきところへ。ボストンの名家のケナウェイ家の人ですもの。名士ばかりのクラブが、あなたが着いたら、特別に集会を開くことでしょうね」  彼は頭を振った。「からかわないでください、お願いですから。なんだかぼくはそんなものはちっともおもしろくなくなったような気がしているんです」 「どうしたんですの? わたし、あなたがとても元気になるだろうと、思っていましたわ。旅行ももうすぐ終わってしまうし。お気の毒なテイトさんともとうとう離れられるし――それからわたしとも」 「それはそうです。ぼくは世界中で最も幸福な人間であっていいわけなのです。ところが、そうではないんです。まあ、いいや――これが人生というものですよ、きっと」 「それに、ボストンの高級住宅地で、あのかわいい方があなたを待ってましてよ」 「誰が?」 「あなたの婚約している方が」 「ぼくが婚約を? ぼくがそんなに弱虫に見えますかね? ボストンにはかわいい女性は大勢いるけれど、ぼくは誰とも婚約なんかしていません。ありがたいことに」 「いつかしようとしてみてごらんなさいよ。おもしろいですわよ、ちょっと」 「あんたしようとしてみたんですね?」 「ええ、そうよ――何度も」 「あんたに手紙をよこしている連中の一人とですか?」 「その一人とですって? わたし、そんなにけちけちしていませんわ。全部とよ、その時々で」 「じゃあ、早く選択することですね。誰にするかきめるほうがいい。人間というものは、いつまでも若くいられませんよ」 「わたし若いですわ――いつまでも若くいるつもりですわ。あなたお別れしてからも、わたしにお手紙くださるでしょ?」 「なんのために?」 「わたしお手紙いただくの大好きなんです」 「ぼくは手紙書くの大嫌いです。それに、ぼくはとても忙しくなるでしょうから。ぼくはわずかな財産を作るんだって、一生うんと働かなくてはなりません。誰でも全部自動車のメーカーというわけにいきませんからね」 「みんながそうなったらたいへんですわ。道路はもういっぱいですもの。じゃあ――わたしたちさよならをいったら、それでおしまいですのね?」 「それから幸福にといってね」彼はむりに陽気に付け加えた。 「そのほうがずっとロマンチックですわねえ。あなたもう入って、ブリッジをなさるほうがよろしいわ。テイトさんが待っていらっしゃると思いますわ」 「きっと待っているでしょう」 「わたしもブリッジに入るほうがいいとお思い?」 「どうでも。あんたはあまりうまくありませんよ、わかっているでしょう」 「そうらしいですわね」彼女は溜息をついた。 「しかし、あんたが入ると、あの病気の老人のテイトさんはたしかに喜びますよ。あんたがあの人と組みさえしなければ」 「あなた骨でしょ――わたしと組んだのでは」  彼は肩をすぼめて、立ち上がった。「いいや、かまいません。永久にではないということは、わかっていますから」  彼女が立ち上がりかけたので、彼は手を貸した。 「あなたがおっしゃるから、わたし入ってあげるんですのよ」 「ありがたいですなあ」と彼は微苦笑した。  二人は中へ入った。  リュース夫人とテイトがブリッジ・テーブルについていて、テイトは物ほしそうに部屋を見渡していた。ケナウェイを見て、彼の顔は輝いた。 「やあ、来たね。いっしょにやるかね?」 「ええ」 「それはありがたい。わたしは頼むのに気がひけてね。君の時間をさんざんつぶさせているし――それに君がこの船にいるのも、あと一晩きりだから」 「かまいませんよ。ぼくはほかにすることはないんですから」 「ブリッジを発明してくれた人がいて、本当によかったですわ」パメラがいった。「ねえ、ケナウェイさん、なんとかおっしゃいよ」 「何をいうんです」 「あなたはこう切り返してくるはずでしょ――“いつかブリッジを勉強なさい”って」  彼は声を立てて笑った。「ぼくはそんなに無作法にはなれませんよ」 「まあ、なれないんですって?」と彼女は応じた。  一方、チャンは図書室へ行って、本を一冊出して、一年間も友人に声をかけてもらいたくないような読書クラブの会員のような態度で、そこにかけて、読んでいた。十時まで読んで、デッキをぶらぶら散歩してから、船室へ入った。眠りがすぐに彼を襲った。この世の中には何一つ心配はないといった人間のような、夢一つ見ない眠りが。  翌朝八時には、彼は日光に照らされたデッキにいた。このきわめて重大な航海の、最後の二十四時間が迫っている。そのことが彼の念頭を去らないにしても、彼の態度はまさに平静な落ち着きはらったものだった。その態度からみれば、彼が最後の勝利を信じているらしいことは明らかだった。  その朝もっとあとになって、彼はダフからの長い電報を受けとった。彼はそれをもって、船室に帰った。そこで、彼は肩から日光を浴びながら、それを読んだ。 [#ここから1字下げ]  大ニュースあり。貴下に心から感謝する。証拠をつかんだ。貴下もつかむことと思う。上司よりの電報によれば、カルカッタの宝石店の店員を調査したところ、かつて南アフリカのI・D・Bであったこと判明した。I・D・Bとは違法ダイヤ購買者の意味。アムステルダムのダイヤ業者に問い合わせた結果、約十五年前キンバリー([#割り注]南アフリカのダイヤの産地[#割り注終わり])方面に、ジム・エヴァハードなる別のI・D・Bのいた事実がさらにわかった。手がかりになると思う。小石の袋思い出されたし。小生の事故のときニューヨークにいたロンドン警視庁員ウェイルズ警部補、上司の命により、いまサンフランシスコにいる。同人が逮捕の準備して、埠頭で貴下に会う。われわれの友人フラナリーも同行する。昔の場合と同じ。小生そこにおらぬのが残念。経過きわめて順調。近くサンフランシスコに行ける。そこで小生の感謝待たれたし。元気で。幸運を祈る。 [#地から2字上げ]ダフ [#ここで字下げ終わり]  チャンはもう一度読んで、フラナリー警視の名が出ているところへ来たら、これはおもしろいといった微笑が、大きな顔にひろがった。運命はすばらしい舞台監督だと、彼は思った。フラナリーに再会するのはうれしい。それから、ダフの電報を細かに破いて、舷窓から投げ捨てた。  何事もなく、時間はたって行く。午後遅く、ベンバウが彼のところへ来た。 「わたしの気持が、あなたにわかっていただけるかどうかわからんですけれど、今夜のわたしたちのパーティにぜひ来ていただきたいのですが。あなた抜きというわけにいきませんでしてね。世界中の警察官にと、あなたはいっていたですから」  チャンは頭を下げた。「非常に喜んでお受けします。あなたフィルム見せてくださるですね?」 「そうです。空《あ》いている特別船室の居間を、借りることにしました。そこで八時半ごろ、会いましょう。スクリーンは事務長から借りましたから、それを使いましょう。しかしどなたもそう興味をもってくださらんようでしてね」 「私、非常に興味もっています」 「でも――ほかの人たちがですよ。とても見たがりそうなものですがなあ。自分たちの旅行が写っているんですから」ベンバウは溜息をついた。「しかしいつもこうしたものですよ。せっかく映画を写しても、人は見たがりませんからな。アクロンで見せるときには、見物人が逃げ出さないように、部屋の錠をおろしておかないといかんでしょうな。では、八時半に、A号船室で」 「ご親切ありがとうございます。実に名誉に思います」  八時にならないうちに、いままでの航海がずっと快晴に恵まれていたのに、空が厚い雲にとざされてしまった。プレジデント・アーサー号は、ヒュー・モリス・ドレイクがブルーム・ホテルで死んで倒れていた朝のロンドンを思い出させるような濃霧のなかを、慎重に進んで行く。間歇的に鳴る太い、響く霧笛の音が、その瞬間、船の全部の人のあらゆる注意をひきつけた。  八時半に、チャンがA号船室のドアを開けたら、旅行団の全メンバーはもう中に集まっているようだった。彼らが無駄話をしながら動き回っているのを、能率的な女性であるベンバウ夫人が、すぐ白いスクリーンの前に半円を作らせて、腰をおろさせた。スクリーンの前ではベンバウが、自分のとった映画を見せようとする人間がやらなければならないいろいろな面倒なことを、一所懸命にやっていた。  皆が待っている間に、チャンがしゃべった。「私いままでずっと、旅行すること切に望んでいました――この部屋におられる皆さんもう終わりかけているような、長い旅行です。一つ、私お聞きしたくてならないことあります。あなた方この長い旅行で見たもののうち、どれがたくさんの記憶のなかで、強く印象に残っていますか? リュース夫人、あなた鋭い目した旅行家です。この世界旅行で、見たもののうち最も何に興味もちましたか?」 「それはすぐいえますよ。ニースの寄席で見た、馴らした何匹もの猫です。あれは決して忘れられませんね。あんなすばらしいもの、いままで見たことありません」  ロフトン博士が微笑した。「そんなに驚くことはないです、チャンさん。私はいつも旅行の終わりに、そういう質問をするのですが、ときどきこれはと思うような返事を聞かされるです。スパイサー夫人、あなたはどうか、お聞きしたいですが――」 「ちょっと考えさせてください」このサンフランシスコの女性は夢見るような目をした。「パリのオペラ劇場で見たガウンがありました。ただのガウンではなくて――羽衣みたいでしたね。それを着れば、どんな女の人でも若く見えますわ」こういって、物ほしそうな顔をした。 「わたしにとってはです」ヴィヴィアンがいった。「この旅行の眼目はこれからです。あすの朝カリフォルニアの海岸のファラローン群島を通り過ぎて、サンフランシスコの市内のロシア丘が霧の中から高く見えるときです。そうですな、そのときわたしに聞いてください、チャンさん。こんなことをいうのは失礼だとわかっていますが、わたしはこういわずにはいられません」  マックス・ミンチンが大きな葉巻を出して、いっぱいになっている部屋を見回して、それからそれをポケットにもどした。 「イタリアで牛車を動かしている子供がいたっけ。本当に、それを忰に見せてやりたかったですよ。そうすりゃ、あたしが旅行に出るすぐ前に買ってやった八気筒の自動車を、あいつは改めて見直すでしょうな」 「どなたか、パリのフォンデンブローの森の木を、覚えていますかね?」ロスが聞いた。「わたしは木が非常に好きでしてな。木というものは、がっしりして、落ち着いて、気持のいいものですよ。りっぱな材木になりますな、あれは」 「パメラさん、あなたまだいっていません」チャンはうながした。 「わたし印象に残っているもの、たくさんありますわ」彼女はこの最後の晩のためにとって置いたデルフィニウム・ブルーのガウンを着ていた。女の人には全部、それが目についたし、数人の男にさえ目についた。スパイサー夫人の夢に出るガウンは、これかもしれない。「いちばん何に興味があったと聞かれると、困ってしまいます。でも、紅海で飛魚が一匹、わたしたちの船に飛び込みました。とても悲しそうな、ロマンチックな目をしていて――わたしそれが忘れられませんわ」隣にいる青年のほうを向いた。「あなた覚えているでしょ――わたしそれに、ジョン・バリモアって名をつけたのを」 「ぼくには、それよりもエディ・カンターに似て見えました」ケナウェイはこういって、微笑した。 「何もかもすばらしかったですわ」ベンバウ夫人がいった。「アクロンとはまるで違っていました。わたし変化がほしかったんですの。インドのデリーで散歩していて、回教の王様がそばを高級車で通ったときの午後のことは、忘れられませんわ。とてもすてきななりをして――たしか、金襴で――」しきりに映写機の準備をしている夫のほうを、きびしい目で眺めた。「あなた、家へ帰ったらすぐ、服屋へ行くんですよ」 「この旅行では、いろんなことにあたしは興味をもちましたね」キーンが口を出した。「どうしても忘れられない一夜がありますがね――横浜の最後の夜です。あたしは町を散歩していて、電報局へ寄ったんです。ロフトン博士がそこにいて――それからウェルビーという小柄なボーイも。あたしは博士に、船へ帰るところかと聞いたら、博士があたしを相手にしないもんで、一人になりたいんだと思って、それであたしは一人っきりでまた歩き出しましてね。浜のほうへ――暗くて神秘的で――倉庫が並んでいて――闇の中をおかしな小さな人間が走り回っていて――木の小舟のあかりが見えて――絵のようでしたね、まったく。ああいうのが極東の感じというんでしょうな」言葉を切って、意味ありげにロフトンを見た。目に悪意の光があった。「ウェルビーが殺されて発見されたのは、あそこでしたね――」 「用意ができました、皆さん」ベンバウが大きな声でいった。「ケナウェイさん、あかりを消してくれませんか? ありがとう。最初に写るのは、ごらんになればわかりますが、ニューヨークを出港するときに、船の甲板でとったものです。そのときは、われわれはお互いによく知り合っていませんでしたな。自由の女神の像を写したと思いますが――ほら、出て来ました。脱帽、諸君! こんどは、大西洋横断の間に写したものです。あなた方はこれには、あんまり写っていません。大部分の方は甲板に出ずに、なつかしきベッドにしがみついておられたものと思います。お気の毒なドレイクさんが写っています――先のことを知らなくて、よかったです」  フィルムが回るにつれて、彼のおしゃべりがつづく。皆はふたたびロンドンを見た。そしてブルーム・ホテルも。フェンウィック兄妹がちょっとの間写った。ベンバウが町角で会って、子孫に伝えたいからとせがんだものだ。ピッツフィールドから来たこの小男は、この名誉になんだか腹を立てているのが、はっきりわかる。それからダフ警部が写った。ブルーム・ホテルの入口から車で出て行くところで、フェンウィックと同様、明らかに気の進まない俳優ぶりだ。ドーヴァーと英仏海峡連絡船。パリ。そしてそれから、ニース。  じっと見ている観客の態度には、しだいに興味がわいて来ているようだった。ニースの場面が展開されて行くにつれて、チャンは突然組んでいた太った脚をほどいて、前にのり出した。隣にいるテイトの声で、彼はまわりに気がついた。テイトは低い声でこういった。 「わたしは出ます、チャンさん。どうも、その、気分が悪くなって」薄闇の中でも、テイトの顔が真っ青になっているのが、チャンに見えた。「ケナウェイ君には何もいわずにおきます。今夜は彼の最後の夜だし、彼をわずらわしたくないです。ちょっとベッドで休めば、よくなるでしょう」  テイトは音を立てずに、こっそり出て行った。  ベンバウは新しく写し出されたフィルムを見つめている。彼が写した記録はきりがないように見えるが、もう観客はすっかり引きつけられていた。エジプト、インド、シンガポール、シナ。彼の場面の選択には、実際すばらしい知性が示されている。  ついに映画は終わって、皆はベンバウに感謝してから、ぞろぞろ部屋を出て行って、最後にチャンとベンバウ夫妻だけが残った。チャンはフィルムが巻いてある小さなスプールを、眺めていた。 「非常におもしろい晩でした」チャンはいった。 「ありがとう。みんなたしかにおもしろがってくれたと思いますがね」ベンバウは答えた。 「そのこと、私確信します。奥さん、あなたかよわき体に、その重荷の負担かけることよくありません。ご主人と私、いっしょにその品々、あなたの船室に運びます」  チャンは数巻のフィルムを持って、ドアのほうへ行った。ベンバウが映写機を持って、あとにつづいた。二人は下に降りた。  ベンバウの船室に入るとすぐ、チャンはフィルムをベッドの上において、ベンバウのほうを向いた。 「この部屋の両側の船室、誰が入っておりますか?」  ベンバウはあっけにとられたような顔をした。「誰がって――片方はリュース夫人とパメラさんです。先のほうの船室は空です」 「ちょっと待ってください」  こういって、チャンは姿を消したが、ほとんどすぐもどって来た。 「いまこの瞬間、両方の船室とも誰もいません。廊下も全然、誰一人おりません」  ベンバウは落ち着かなそうに映写機をいじっていた。ケースに入れて、長い黒の革紐の尾錠《びじょう》をかけはじめた。 「いったい――いったいどうしたんです、チャンさん?」 「これ、あなたに非常に貴重なフィルムですね?」チャンは穏やかな顔で、そうだろうとばかりにいった。 「そうですよ」 「あなた丈夫な錠のついたトランク、お持ちですか?」 「そりゃあ、ありますがね」ベンバウは隅の衣装トランクに向かってうなずいた。 「とるに足りない忠告ですが、フィルム全部それに入れて、錠しっかりおろしてくださいませんか?」 「いいですとも。しかし、なぜです? 誰もこんなもの――」  チャンは小さな目を細くして、相手を見つめた。 「それどうかわかりませんです。もしあなた大切なフィルムなしに、愛する郷里へ帰られたら、私大いに悲しいです。たとえば、ニースで写した場面入っているフィルムです」 「いったい、それがなんだというのです、チャンさん?」 「あなたその特別なフィルムについて、何も気がつきませんでしたね?」 「ええ、何もべつに」 「もっと鋭い目をした人たち、おそらくほかにいました。どうか心配しないでください。ただフィルム全部しまって、錠おろしてください。そのフィルムで、私にわかったことあります。ロンドン警視庁がそれ取り上げること決してありますまいが――」 「ロンドン警視庁ですって!」ベンバウは大声を出した。「面白いですなあ、あそこがそんなことを――」 「お話の途中すみません。私ただ一つ、質問しなければならないことあります。ニースの往来の写真うつした正確な日付、あなたいま覚えていますか?」 「あそこの有名な大通りのプロムナード・デ・ザングレエのことですね?」ベンバウはポケットからくたびれた紙切れを出して、それを調べた。「あのフィルムを写したのは、二月二十一日の朝でした」 「よくわかるようになっていますね」チャンは感心した。「私、感謝します。さあ、フィルム全部しまってください。私、手伝います。これバネ錠ですね、私そう思います。さあ、錠かかりました――とても丈夫そうです」  チャンは向き直って、出て行こうとした。 「ベンバウさん、私あなたに非常にお世話になりました。第一に、こんなにたくさん写真とっていただいたこと、第二に、それ私に見せてくださったことです」 「だって、だってあんた、そんなことなんでもないですよ」ベンバウは面くらって答えた。  チャンはそこを出た。その足で、いちばん上の甲板へ行って、無電室へ入った。ちょっとの間じっと考えていて、それから電文を書いた。 [#ここから1字下げ]  サンフランシスコ、裁判所ビル、フラナリー警視気付、ウェイルズ警部補  ただちにロンドン警視庁当局に対し、フランス、ニース、プロムナード・デ・ザングレエ、英国服店、ジミィ・ブリーンより、二月二十一日あるいはそのころ出来上がりたる仕事依頼し、当日朝それを取りに来た男の詳細な特徴ならびにその仕事の性質、聞くこと要求されたし。明朝埠頭で必ず貴下に会うこと期待する。[#地から2字上げ]警部チャーリー・チャン [#ここで字下げ終わり]  うきうきした気持で、チャンはその下の甲板へ降りて、考え込みながら、そのへんをぐるぐる歩き回り出した。しめった、べとべとするねっとりした霧が、船を一面にとりかこんでいる。今までの夜とうって変わって、彼の歩いているところには人一人いない。乗客たちは申し合わせたように、あかるく照らし出された社交室に入っていた。彼は、自分にもこの世の中にもすっかり満足した気分で、二度甲板をぐるっと回った。  彼が闇に包まれた後甲板を三度目に横切っていたとき、突然右手の暗がりの中に、黒い影が動くのが見え、鋼鉄のようなものがかすかに光ったのがちらっと見えた。弾丸が発射された瞬間に、彼がそっちに向かって走り出していたのは、実に賢明であったといわねばならない。それから彼はデッキに倒れて、身動きもせず、そこに横になっていた。  急いで逃げて行くしのびやかな足音が聞こえ、それから気味の悪い静寂の一瞬があった。その静寂は、彼の上にかがんでいる事務長の声で破られた。 「いったいどうしたんです、警部さん?」事務長は叫んだ。  チャンは起き上がった。「私ちょっと横になっているほうが、気持いいと思いました。私、天性激しいことするの嫌いですから」 「誰かがあなたを射ったのですね?」 「簡単にいえば、そうです。そしてはずれました――一インチ」 「ほう――そんなことをこの船でやるなんて、けしからん」事務長は憤慨した。  チャンはゆっくり立ち上がった。「腹立てることありません。射った男、明朝、船埠頭に着いた瞬間に、警察の手に捕えられます」 「しかし今夜――」 「心配することありません。本当に的《まと》に当てるつもり、なかったらしいです。この大きな的見てください。しかもあの狙い、いままではずれたことなかったです」 「警告というだけですな、え?」事務長はほっとした。 「そういう性質のものです」  チャンはこう答えて、ゆっくりそこを離れた。甲板から下の船室に降りる中央の階段のドアまで行ったら、ケナウェイが駆け上がって来た。青い顔をして、髪がひどく乱れている。 「チャンさん。すぐいっしょに来てください」ケナウェイは叫んだ。  だまって、チャンはケナウェイのあとにつづいた。ケナウェイは先に立って、テイトと共同にいる特等船室へ行って、ドアを押し開けた。テイトが死んだように、ベッドに横になっていた。 「おや――お気の毒に、また発作に襲われたですね」チャンはいった。 「それに違いありません。ぼくがちょっと前にここへ入って来たら、こういうふうに倒れていました。しかし――これどういうことなんです? 誰かがあなたを射ったということ聞きましたが――これごらんなさい!」  ケナウェイはベッドのそばの床を指さした。ピストルがころがっている。 「まだ暖かいです」青年はかすれた声で付け加えた。「ぼくはさわってみました。まだ暖かいです」  チャンはかがんで、無造作にその武器を拾いあげた。 「なるほど。まだ非常に熱いです。それ当然です。ほんの少し前、私の大きな体めがけて、射ったばかりです」  ケナウェイは自分のベッドの端に腰をおろして、両手で顔をおおった。 「テイトさんが。なんということだ――あの人がこんな!」 「そうです」チャンはうなずいた。「テイトさんの指紋、ピストルの輝く表面に、必ず発見されます」  チャンはこういってから、またかがんで、ケナウェイの鞄をベッドの下から引っぱり出した。一瞬、彼はなんでもないように見えるそのカルカッタのホテルのラベルを見つめていた。それから指でさわった。中心のすぐ上に、鍵の長さより少し大きな裂け目があるが、厚いラベルはもとのところに、また貼りつけてある。一カ所、まだちょっと湿っていた。 「手際大いに見事です。私思ったとおりです。鍵なくなっています」  ケナウェイは興奮して見回した。 「どこにあるんです?」 「それ、私のあってほしいと思うところに、あります。この拳銃を少し前に射った男の体に、ついています」  ケナウェイはもう一つのベッドを見つめた。 「彼が持っているというんですね?」 「いいや」チャンは頭を振った。「それ、テイトさん持ってはいません。何するかわからない殺人者の体に、ついています。そのベッドにいる気の毒なわれわれの友人の不幸を、自分のために平気で利用した男です。今夜、自分の鍵とりにここへ来て、テイトさん意識失っているのを発見して、これはうまいと思った男です。ここ飛び出して、私射って、それからここへもどって、テイトさんの手ピストルに押しつけて、指紋つけてから、わざと床に、それ投げ捨てた男です。実に頭いい犯罪者です。朝になって、私の旧友フラナリー氏に彼を引き渡すこと、私大きな喜びとします」 [#5字下げ]22 漁を行なうとき[#「22 漁を行なうとき」は中見出し]  ケナウェイは立ち上がった。非常に安堵した色が、顔に表われている。チャンは拳銃を自分のポケットにしまっていた。 「ありがたい。これで肩の重荷がおりました」ケナウェイはこういって、体をかすかに動かしているテイトをちらっと見下ろした。「意識を回復して来たようです。気の毒に。今夜ぼくはずっと考えていたんです――自問自答して――。しかしどうしても信じられなかったです。この人は親切な人です、表面はいばっているけれど。ぼくは信じられなかったです――この人にできるなんてことは、あんないろんな恐ろしいことが」  チャンはドアに行きかけていた。 「あなた何もいわないこと、私信頼します。私あなたにいったこと、あなた一言もよそにいいませんですね。私たちこれから、犯人逮捕しなければなりません。しかし犯人何も気がついていないと、私確信します。犯人この小さな計略成功したと思わせておけば、私たちのこれからすること、いよいよやさしくなるかもしれません」 「わかりました。ぼくを信頼して、だいじょうぶです」  ケナウェイはテイトの心臓に手を当てた。 「結局、ぼくはテイトさんを無事に、上陸させられそうな気がして来ました。で、今後は――こんな仕事はもうお断わりです」  チャンはうなずいた。「自分の運命の面倒みることだけで、誰も精一杯の仕事です」 「そうですとも」ケナウェイは心から同意した。  チャンがドアを開けたら、ケナウェイが、「あの――ちょっと待ってください、警部さん。もしパメラさんにお会いになるようなことがありましたら、ぼくが行くまで待っていてくれるように、おっしゃってくれませんか? ぼくはここに三十分くらいいるかもしれませんが、テイトさんが眠ったらすぐ――」 「よろしいです」チャンは微笑した。「私、喜んでその伝言伝えます」 「でも――わざわざ彼女を捜しに行くなんてことはしないでください。ぼくの気持はただ――これがぼくたちの最後の夜ですからね。ぼくはどうしても、彼女に別れの挨拶をすべきです」 「別れの挨拶を?」 「そうです――ただそれだけです。あなたいまぼくになんといいました? 自分の運命の面倒みることだけで、精一杯だと――」 「気の弱い人にとってはです」チャンは急いで付け足した。「人間はほかにいろいろなことできます。私さっきいったとき、愚かにも文句いい間違えて、すみませんです」 「そんなこと」ケナウェイは無表情でいった。  チャンは廊下へ出て、ドアを閉めた。  船長が中央の甲板昇降階段で、彼を待っていた。 「あんなことがあったのを、いま聞きました。わたしの船室に余分のベッドがありますから、今夜はそこでお休みください」 「私、非常に名誉に思います」チャンはお辞儀をした。「しかしそのような犠牲払われる必要、ありません――」 「どういう意味です、犠牲とは? これはわたしは自分のためにそうしようというので、あなたのためではありません。わたしの船で事故が起こると、困りますからな。お待ちしていますよ。船長の命令です」 「それ、もちろん、従わなければなりません」チャンは同意した。  パメラ・ポッターが談話室の隅で本を読んでいるのを、チャンは発見した。彼女は本を下において、とても心配そうに、彼を見上げた。 「あなたが射たれたって、どういうことなんですの?」  チャンは肩をすぼめた。「それ重大なことでありません」と安心させた。「私、ある同船者から、いささか注意払われております。そのこと、あなた心配いりません。私あなたに伝言もって来ました。ケナウェイさんあなたに、お待ちしてくれとのことです」 「あら、ずいぶん勝手なこというんですのね」 「テイトさん激しい発作に襲われまして――」 「まあ、それはお気の毒ですわ」 「回復しつつあります。差しつかえないようになれば、ケナウェイさんあなたを捜しに来ます」  パメラはだまっていた。  チャンは「彼非常にいい青年です」と付け加えた。 「でも、やっぱりわたしの癇にさわるんです」彼女ははっきりいった。  チャンは微笑した。「私、その感情理解できます。しかし私のためと思って、来るまで待っていて、最後的に疳にさわることにしてください」 「そうしましょう。でも、あなたのためにですわよ」  チャンが行ってしまうと、彼女はまた本を取りあげた。やがてそれをわきにおいて、ショールをして、甲板に出た。今夜の太平洋はその名にそむいて、暗く、怒って、嵐を含んでいる。彼女は手すりへ行って、霧の中を見つめた。どこか彼女の頭の上から、不安で声をからして叫んでいるような霧笛の音が、何度も聞こえてくる。  ケナウェイが突然、彼女のそばに現われた。 「やあ。チャンさんから伝言を聞いたんですね」 「まあ、そんなこと関係ありませんわ。わたし、船室に帰りたくなかったんです。あんなものが鳴っていたんでは、寝られませんもの」  二人は、ことにしつっこく鳴るのがやむまで、待っていた。 「笛というものは愉快でいいですね」ケナウェイは言葉をつづけた。「ぼくは子供のとき、クリスマスに笛をもらったことがあります。世の中は楽しいですよ」 「なぜ、いきなりそんなに元気になったんですの?」 「いろんな理由がありましてね。ぼくは一晩中気にかかっていたことがあったんですが、気にすることはないと、わかったばかりです。万事うまくいっています。朝になれば、船は港に入る――テイトさんの息子さんが待っているでしょう。それからは、ぼくは自由です。いいですか、ぼくは――」  汽笛がまた鳴った。 「何をいおうとしていらしったんです?」それがやんだら、彼女が聞いた。 「何をいおうとしていたのかな? そう、そう。自分のことだけ心配すればいいのだということです、あすからは」 「さぞいい気持でしょうね」 「きまっています。朝、あんたに会えないといけないと思って――」 「あら、お会いしますわよ」 「それで、ただあんたに、あんたを知って楽しかったということを、いいたかったんです。あんたはとてもいい人だ、本当に。魅力があって。ぼくはこの旅行にあんたがいなかったら、どうしたらよかったかわかりません。ぼくは、あんたのことをとても考えるでしょうよ――でも、手紙は書きませんよ、それは覚えていて――」  汽笛が二人の上で、金切り声を立てた。ケナウェイは大きな声で、よく聞こえない言葉をいいつづけた。彼女は、彼を見上げた。突然、彼女は実に愛らしく、そして訴えるように見えた。彼は彼女を抱いて、キスした。 「いいわ。あなたがどうしてもとおっしゃるなら」 「いいって、何を?」 「わたし、あなたと結婚しますわ、あなたがしてくれとおっしゃるなら。あなたがいっていたこと、それでしょ?」 「そうでもありません」 「わたしの間違いでした。よく聞こえなかったものですから。でも、たしかに“結婚”という言葉を、わたし聞いたような気が――」 「ぼくは、あなたがどこかのいい人と結婚して、とても幸福になってもらいたいと、いっていたんです」 「まあ。すみませんでしたわ、本当に」 「でも、いいですか。あんたは本当にぼくと結婚するつもりなんですか?」 「なぜ、そんなことおっしゃるんです? あなたわたしに申し込んではいませんわ」 「でも、ぼくは申し込むつもりです。申し込みます。申し込んでいます」  汽笛がまた鳴った。ケナウェイは言葉で時間を浪費はしなかった。鳴りやんだら、彼は彼女を放した。 「あなた本当にわたしのこと、思っていてくださったんですね、やっぱり?」 「ぼくはあんたに夢中だったんです。しかし、あんたに断わられると思い込んでいました。それで、申し込みたくなかったんです。あんたは、ぼくを突っぱねるようなことはしませんね、そう思っていいですね?」 「そんなばかなこと」 「いい夜だ」彼にはたしかにそう思われた。「ぼくはデッキ・チェアが二つあるところを知っています――後甲板の暗い隅に」 「それ、香港以来ずっとそこにありましてよ」  二人はその場所を捜しに行った。  べとべとする霧の中を二人が歩いていたら、汽笛がまた鳴り渡った。  ケナウェイがいった。「あれを鳴らしている男を、朝になったらびっくりさせてやる。ぼくはうんとチップをやるつもりです」  一方、チャーリー・チャンは、船長の船室という不慣れな環境にあって、じっと目をさましたまま、横になっていた。海の古強者というものは、誰でもこの船長のように、大いびきをかくものだろうかと、彼は怪しんだ。  翌朝、彼はドアのノックで目をさました。飛び起きたら、同室の船長はもう起きて、服装もちゃんとととのえていた。船長はちょっとあわてたようなボーイから、電報を受けとって、チャンに渡した。 「サンフランシスコ警察のフラナリー警視からです」チャンは電報を読み終えてから、船長に説明した。「彼とロンドン警視庁のウェイルズ警部補、移民局のランチに乗って来ます」 「それはけっこう。わたしにとっては、早いほどいいです。わたしはこうしたらどうかと思っていたのですが、警部さん。その二人が来る前に、わたしが犯人を拘禁しておくほうが、よくはないですかな?」  チャンは頭を振った。「必要ありませんです、せっかくですが。私、犯人に最後まで疑わさずにおくこと、もっといいと思います。テイトさんきっと朝じゅう船室から出て来ないでしょう。ですから私、ロフトン旅行団のなかに、テイトさんが犯人だという噂、こっそり振りまきます。本当の犯人それを聞けば、よけい用心しなくなると思います」 「あなたのいうとおりですな」船長はうなずいた。「わたしはべつに自分で行動をとりたくはないです。昨夜のあなたの話を聞いて、あなたの見込みに狂いはない、わたしの一年分の給料を賭けてもいいとは、思っていますが。二等航海士に、あなたのねらっている男を、警察の手に引き渡すまで、目を放すなと命令しておきます。船から人間が見えなくなったということも、ありますからな」 「それ賢明な提案です。私、あなたのご助力に感謝します」  チャンは話しながら、急いで服を着てしまって、もうバッグを持って、ドアのほうへ行きかけた。 「私、自分の部屋で身じまいつづけます。泊めていただいて、心からお礼いいます」 「どういたしまして。警部さん、まったくあなたのこんどの仕事ぶりはすばらしかったです。この事件の働きで、大評判になるでしょうな」  チャンは肩をすぼめた。「食事すんでしまってから、スプーンほめる人おりますか?」  こう答えて、彼は船橋へ出て行った。霧か急に散りはじめて、東の空には太陽が見えだして来た。  彼は自分の船室にもどって、例によってていねいに身仕度をととのえた。朝食に行く途中で、テイトとケナウェイのいる船室に立ち寄った。二人とも起きていて、テイトはずっと気分がよくなったように見える。 「いや、もうだいじょうぶです」テイトはチャンの身舞いに答えた。「わたしはサンフランシスコにちゃんと着くと、あなたに約束しましたものなあ。家へ着くまでに、ほかのほうぼうの都会も無事に通過しますよ。ケナウェイ君は、上陸の間際までわたしはベッドにいるほうがいいと、いっています。まったくばかげた話ですが、わたしは同意しました」 「それ非常にいい考えです」チャンはうなずいた。「ケナウェイさんあなたに、昨夜の事件のこと話しましたか?」  テイトは眉をひそめた。「話しました。そんな犯罪者は、わたしは弁護したくないです――百万ドルもらっても」  チャンがこの朝のプランを話したら、テイトはすぐ同意した。 「わたしはかまわんです。彼を捕えるためなら、どんなことでも。しかしもちろん、上陸する前に、旅行団のメンバーには、あなたから本当のことを話してくださるでしょうな?」 「当然です」 「では、そうしてください。犯人がわかったとおいいですな? わたしにはさっぱり――」 「それ、あとにしてください」チャンは立ち去りながら、微笑した。  朝食のあと、チャンは甲板で事務長に会った。  事務長はいった。「あなたの上陸証はできています。しかしカシマという人には――さあ、どうしたものですかな? あの人は前に本土にいたことはないし、もちろんハワイで生まれたという証明書も持っていません。密航者として乗り込んだわけでして――そのことはわたしに認めています。ですから、すぐ帰るほうがいいでしょう。わたしのほうの会社の船が一隻、同じ埠頭にいて、きょうの二時に出港することになっていますから、あの人をホノルルに帰すようにと指令して、その船の事務長に引き渡しさえすればすむことです」  チャンはうなずいた。「私、そのプラン賛成です。カシマもきっとそうでしょう。彼の仕事すみました。しかもいい仕事しました。そして彼、すでに家へ帰りたがっている兆候、見せています。急いで帰って、署長にほめられること、彼喜ぶでしょう。どうか、乗客として帰れるようにしてください。私、金払います」  忙しい事務長はうなずいて、急いで立ち去った。  それから甲板をもっと下って行ったら、チャンはステュアート・ヴィヴィアンに出会った。このサンフランシスコ人は双眼鏡を手にして、手すりのところに立っていた。その双眼鏡の空のケースを、肩からぶら下げて。 「お早う」ヴィヴィアンはいった。「ちょっと、ロシア丘を眺めていました。本当に、いままでこんなにうれしいと思って見たことはないです」 「疲れた目に、故郷の姿ほど休息を与えるものありません」 「そのとおりです。それに、わたしは何週間も前から、この旅行にあきあきしていました。ずっと前に抜けたかったのですが、あなた方警察の人に怪しまれはしまいかと、それが心配で――。ときに、あなたは殺人犯人を発見したという噂を、わたしは聞きましたが」  チャンはうなずいた。「きわめていやな事件でした」 「まったくそうです――ところで――そのお――犯人の名は秘密なのでしょうな?」 「そういうことはありません。テイトさん問題を公表すること、すっかり許可しました」 「テイトが!」ヴィヴィアンはこう叫んで、それからちょっとの間、だまっていた。「それはおもしろいですなあ」時計を見た。「あと十分すると、図書室で別れの集まりがあります。ロフトン氏がサンフランシスコから先へ行く人に、切符をくれて――それから、最後の祝福の言葉があるんでしょうな。このニュースで大騒ぎになりますよ」 「それはそうと、私思います」チャンは微笑して、甲板を下って行った。  二十分後に、船のエンジンはついに止まった。みんなはうねっている灰色の海の上で、税関史と移民局員を乗せたランチを、待っていた。  その小さなモーター船が着いたとき、チャンは梯子のいちばん上にいた。やがてフラナリー警視の赤い顔と大きな肩が、下から現われた。 「いやあ、これはこれは。これはなつかしい。チャン警部補じゃないですか」  二人は握手した。チャンがいった。「またあなたに会えて、非常にうれしいです。しかしずっと以前、私そばにいて、ブルース総監事件でのあなたのすばらしいお仕事見ていたときから、いろいろ変化ありました。たとえば、私いま警部に昇進しています」 「そうですか? なるほど、栗鼠《りす》をいつまでも地面においておくわけにはいかんですからな。シナの古い諺だと」  チャンは声を立てて笑った。「あなた私のこと、覚えていてくださいましたね」  それからフラナリーの後ろに立っている、がっしりした山のような男を見て、「この方が、たぶん――」 「紹介します。ロンドン警視庁のウェイルズ警部補です」 「はなはだ光栄です」チャンはいった。 「ダフさんから最近、どういうことをいってきましたか?」ウェイルズが聞いた。 「順調に回復しています。ダフさんといえば、あなたもちろんダフさんを襲った犯人、捕えに来たわけですね。お国のロンドンのホテルでヒュー・モリス・ドレイク氏殺した犯人を?」 「そのとおりです」 「私、その犯人あなたに引き渡すこと、幸福に思います。このことをあまり人目につかないようにするため、私小さなプラン立てました。私といっしょに、来てくださいませんか?」  チャンは二人を、ドアに119と番号の書いてある特等船室へ案内した。二人を連れて中へ入って、彼は二脚の籐椅子を指さした。部屋の両側に一つずつ、ベッドが二つあって、そのおのおののそばに、荷物が積んである。 「あなた方ここで待っていれば、獲物のほうからここへ来ます」チャンはそれからウェイルズのほうを向いた。「一つお聞きしたいことがあります。あなた昨夜、私の電報見ましたね?」 「ええ、見ました。それですぐ、本庁に連絡しました。ご承知のとおり、向こうでは朝で、ほんの数時間で返事がとれました。そのニュースがサンフランシスコに入ったのは、わたしたちがフラナリー警視の部屋を出る直前でした。大ニュースです。ニースの服屋のジミィ・ブリーンが、わたしのほうの連絡員に話したところだと、あなたが問題にしている男は、二月二十日に上着を修繕してくれと、そこへ持って行って、その翌朝、取りに来たそうです。グレイの背広の上着で、右のポケットが破れていました」 「なるほど」チャンはうなずいた。「二月七日の未明、ブルーム・ホテルの廊下で、老人のポーターの手で破られたものです。殺人犯人、その上着捨てるべきでした。しかし捨てるということ、彼の性質に合いませんでした。それに、最初から、彼はだいじょうぶと自分で思っていました。彼それをロンドンからニースへ、自分宛てに送って、それからあの有能なブリーン氏依頼したにちがいないと、私思います。彼いいところ捜しました。このごろ多くの服屋の看板に、“わからないよう修繕します”と書いてあるの、私見ます。スクリーン小さ過ぎて、ブリーンの店にそれ書いてあること、私見えなかったですが、書いてあったことでしょう。私その上着、何度もよく見ましたが、ブリーン氏たしかにわからなくする大家です」彼はドアのほうへ行った。「しかし、話しているだけで米煮えません。あなた方ここで、犯人待っていてください」こう付け加えて、出て行った。  ロフトン旅行団のメンバーが、ただ一人テイトを除いて、図書室に集まっているのを、彼は発見した。明らかに、非常に興奮しているようであった。この部屋に出入りする一つきりのドアのところで、彼は二等航海士に出会って、それとちょっと言葉をかわした。 「さあ、皆さん」二等航海士が叫んだ。「荷物の検査は、この船の中でやることになっています。税関の人はもう用意ができています。どうか、ご自分の船室へ行ってください」  マーク・ケナウェイとパメラ・ポッターが最初に出て来た。二人とも張り切っている。 「まるで、エール大学のタップ・ダンスの日みたいだ」と、この青年は笑っていった。「あんたは自分の部屋へ行らっしゃい[#「行らっしゃい」はママ]。チャンさん、あとでぼくたちお会いします。あなたにニュースがあります」 「うれしそうな声ですね」チャンはこう答えたが、顔の表情は真面目だった。  ミンチンとその妻が出て来た。 「また会えないといけませんから」チャンは握手しながら、挨拶した。「ご子息によろしく伝えてください。おとなしく、よく勉強するよう、いってください。怠惰な頭脳、悪魔つけ入ります」 「いっときますとも、警部さん。あたしが会ってうれしかった警察の人は、あんただけだ。じゃあ」  スパイサー夫人がうなずいて、別れの微笑を見せて、通り過ぎた。リュース夫人がつづいた。 「南カリフォルニアにいらしったら、知らせてください。この世界で、あんなすばらしいところは――」 「その判断は待ってください、チャンさん」ベンバウがやって来て、口を出した。「わたしたちがアクロンをお見せするまで、待って――」 「それから両方とも忘れて、北西部へ来て、見ることですな」ロスが付け加えた。 「あなた方のいうことは、全部違います」ヴィヴィアンが抗議した。「三十分すれば、チャンさんは天国を見られます」  キーンとロフトンが近よって来ていたが、チャンは待たなかった。二等航海士をドアのところに残したまま、彼は急いでそこを離れた。  一方、119号の船室では、フラナリー警視とロンドン警視庁から来た刑事は、少し落ち着きを失ってきていた。ウェイルズは立ち上がって、心配そうに歩き回った。 「何か間違いがなければいいですが」彼はつぶやいた。 「心配はいらんです」フラナリーが大様にいった。「チャーリー・チャンはサンフランシスコ以西では最もいい捜査官で――」  ドアが突然開いた。フラナリーは飛び上がって、突っ立った。ヴィヴィアンが戸口に立っていた。 「どうしたっていうんです?」ヴィヴィアンは聞いた。 「入ってください」フラナリーがいった。「そのドアを閉めて――急いで――さあ、お入りなさい。あなたは誰です?」 「わたしはヴィヴィアンといいます。ここはわたしの船室で――」 「そのベッドにかけてください」 「なんのつもりです――わたしに命令するなんて――」 「仕事です。かけて、じっとしていてください」  ヴィヴィアンはいやいや従った。  ウェイルズがフラナリーを見た。「この人だけしか来ますまい、きっと」 「しっ」フラナリーがささやいた。  外の、通路の固い表面に、こつん、こつん、こつんというステッキの音。  ドアが開いて、ロスが入って来た。一瞬、彼は問いただすようにまわりを見回した。それから、振り返って、ドアをちらっと見た。チャーリー・チャンがそこに立っている。その体が出口をふさいでいるといったのでは、穏やかすぎるいい方だ。  チャンはいった。「ロスさん、サンフランシスコのフラナリー警視ご紹介します」  フラナリーはロスの無抗抵な片手をつかんだ。チャンが前に出て、急いで体をさぐった。 「この旅行中なんども補給して来た武器の供給、ついに尽きたですね」 「何を――何をあなたはいっているんです?」 「気の毒ですが、フラナリー警視あなたの逮捕令状持っています」 「逮捕!」 「この方ロンドン警視庁からあなたを、今年二月七日未明ロンドンのブルーム・ホテルで、ヒュー・モリス・ドレイク氏殺したかどで、拘置すること依頼されています」  ロスは挑戦するように、あたりを睨んだ。チャンは言葉をつづけた。 「ほかのこともありますが、あなたそれについて追及されることないでしょう。ニースでハニウッド殺したこと、サン・レモでシビル・コンウェイ殺したこと、横浜でウェルビー警部補殺したことです。ホノルルでダフ警部殺そうとして襲ったことです。世界一周の殺人です、ロスさん」 「そんなこと嘘です」ロスがしわがれた声でいった。 「いまわかります。カシマ!」チャンは声を高くした。「もう隠れ場所出て来て、よろしい」  ほこりまみれになった小柄な人間が、ベッドの一つの下から、急いでころがり出て来た。綿屑と糸屑とほこりがいっぱいついている。チャンが手伝って、立たせた。 「おや、体少しこちこちになっているね、カシマ。もっと早く出してやることできなくて、気の毒だったです。フラナリー警視、東洋の侵略このとおり深刻になって、ここにもいます。ホノルル警察員カシマ氏に会ってください」  それからチャンはカシマのほうを向いた。「あなたあの貴重な鍵の現在のあり場所、知っていればいいと思うが?」 「知っています」  カシマは誇らかに答えた。膝をついて、ロスの右のズボンの折り返しから、その鍵を引っぱり出して、勝ち誇ったように、それを高くかざした。  チャンはそれを受け取った。 「これなんだと思います? 私には非常にいい証拠と思えます、ウェイルズさん。どこかの銀行の保護箱の鍵です。3260の番号ついています。ロスさん、あなたこれ捨てるべきでしたね。しかし私、理解できます。これなくしては、あなた貴重品危くてもう出せないと、それ心配しました」  チャンは鍵をウェイルズに渡した。 「これは陪審に見せるのに、いい証拠です」ウェイルズは満足していった。 「その鍵はわざとそこへ入れておかれたものです。わたしは何もかも否定します」ロスは叫んだ。 「何もかも?」チャンは目を細めて、相手を見つめた。「昨夜、私たちいっしょに、ベンバウさんの映画見ていました。あなたニースのある店の入口から出て来るところ、ゆっくり回しているフィルムに写りました。私それに気がつかなかったと、あなた思いましたか? 私気がつかなかったかもしれません――しかしその前から、私あなたの犯行であること知っていたので――」 「なんですと!」ロスは驚きを隠し得なかった。 「私、すぐ説明します。私ニースの話します。あの服屋のジミィ・ブリーン、覚えていました。右ポケット破れたグレイの上着のこと、覚えていて――」  ロスが何かいいかけたのを、チャンは片手をあげて、止めた。 「情勢あなたに不利です。あなた頭のいい人で、自分のこと高く評価しています。失敗したこと信ずるのは、あなたにとって困難です。しかし、現状そうです。頭いいです――たしかにそうです。あなたあの鍵、ケナウェイさんの鞄に隠したのは、頭よかったです。その鞄、当然ベッドの下に押し込まれて、ふたたび上陸の時間迫るまで、忘れられているでしょうから。あなたステッキからゴムのさき捨てて、それから違った手で、ステッキついて、誰か鋭い目がそれに気がつくよう望んだのは、頭よかったです。大勢の人に嫌疑かかっていましたから、あなたも疑われて、それから人が信ぜずにいられないやり方で、嫌疑から抜け出すことが利益だと、あなた思いました。あなたそれできたということ、私認めないわけいきません。昨夜、あなた私を当てずっぽうに射って、煙出ている拳銃を、気の毒なテイトさんのそばに落としておいて、また頭いいところ見せました。それ残酷な行動でした。しかしあなた残酷な人です。しかも実に無益な芝居でした。前に私いったように、あなた犯人であるということ、私その前から知っていたのですから」 「そんなばかなこと」ロスはあざけった。「で、どうしてそれがわかったんです?」 「あなたそう頭よくなかった瞬間あったので、私わかりました。その瞬間、ミンチンさんの晩餐会のとき、来ました。あなたそこで、演説しました。それ短い演説でしたが、一つの言葉その中にありました――一つの不用意なちょっとした言葉でした。その言葉で、あなた犯人ときまりました」 「なんですって? どの言葉がです?」  チャンはカードを出して、それに何か書いて、ロスに渡した。 「これ記念として、とっておきなさい」  ロスはそれを見た。顔がまっ青になって、突然非常に老けた。そのカードを細かく破いて、床に投げ捨てた。 「ありがとう」ロスは苦々しそうにいった。「だが、わたしは記念品を集めてはいません。そこで――このつぎは何が起こるんです?」 [#5字下げ]23 網を乾すとき[#「23 網を乾すとき」は中見出し]  そのつぎに起こったのは、税関の検査員がドアをノックして、そこの緊張した雰囲気のなかで、ヴィヴィアンとロスの手荷物を調べたということだった。税関吏のあとから、ボーイが鞄を下へ持って行った。ヴィヴィアンが抜け出し、カシマもチャンとちょっと言葉をかわしてから、出て行った。  フラナリー警視がハンカチを出して、顔を叩いた。「ここは下だから、かなり暑くなってきた。この男を上の図書室へ連れて行って、弁解があるのなら、聞きましょうや」とウェイルズに向かっていった。 「わたしは何もいうことはないです」ロスがむずかしい顔をして、口をはさんだ。 「そうですか? まあいい、わたしはあんたのような立場にある人が、考えを変えたのを、見て来ている」  フラナリーが先に立ち、それからロス、そしてウェイルズがすぐその後ろにつづいた。チャンがしんがりをつとめた。  彼らは階段で、ケナウェイのそばを通り過ぎた。チャンは立ち止まって、一言いった。 「犯人捕えました」 「ロスが!」ケナウェイは叫んだ。「これは驚いた」 「あなた旅行団のメンバーに、この話して、テイトさんの汚名そそいでください」 「いいですとも。ぼくは独立戦争のとき英軍の進撃を急報したポール・リヴィーアのタイムを破ってみせます――たとえ彼が馬で急報したんだって」  展望のきく甲板へ出てはじめて、チャンは船がまた動き出していることに、気がついた。右手には、昔のスペイン人の要塞、プレシディオの低い建物が見えるし、前にはアルカトラス島の要塞が見える。彼のまわりの至るところで、乗客たちが最後の別れを惜しんで、動き回っている。  フラナリーとウェイルズは、彼らの獲物といっしょに、ほかに人気のない図書室に腰をおろした。チャンが入って、ドアを閉めたので、外の騒ぎは低い呟き声のように、静かになった。  チャンがほかの人たちのそばへ行ったとき、ロスは激しい憎悪を浮かべて、彼を見た。いま、この男の目のなかの光が、一週間前にチャンがダフと共にした昼食のときのことを、チャンに思い出させた。「あなたは二人の人間捜すことです」と、このときチャンはダフにいったものだ。これはもはや、旅行団の人たちが知っていた、温厚な隠やかな態度のロスではない。きつい、無慈悲な、残酷な、別の人間だ。 「白状するほうがいい」フラナリーがこういっていた。  ロスの唯一の答えは、軽蔑するようにちらっと見ただけだった。 「警視はあんたに、いい忠告をしているんですよ」ウェイルズがやさしくいった。彼のやり方のほうが、フラナリーより物やわらかい。「わたしがこれまで職業上ぶつかって来たなかで、こんどの場合ほど、強い証拠がある事件に出会ったことはないですよ。もちろん、チャン警部のおかげですが。あんたのいうことはすべて、あんたに不利な証拠として、使われるかもしれないということは、わたしは業務上警告しておきます。しかしわたしがいいたいのは、あんたは有罪を認めるほうが――」 「してもいないことに?」ロスはかっとした。 「まあ、まあ。われわれにはあの鍵ばかりではなくて、服屋の話によると――」 「そんなこといったって、どこに動機があるです?」追いつめられた男の声が高くなった。「あんた方が鍵とか上着とか、いくらもち出しても、そんなものは、わたしはなんとも思わん。動機の証明ができないくせに。これは重大なことですぞ。あんた方にはわかっているはずです。わたしが殺したことになっている人たちに、わたしは前に誰にも会ったことはないです。わたしはアメリカの西部沿岸に、何年間も住んでいて――わたしは――」 「あんたには、きわめて明白な動機がありました、ロスさん」ウェイルズがていねいに答えた。「それとも、こういうほうがいいでしょうな――エヴァハードさんと。ジム・エヴァハードでしたな、たしか」  ロスの顔が幽霊のように血の気を失って、一瞬、卒倒するのかと思われた。いままで彼を支えて来た力を取りもどそうと、努力しているが、それは無駄な努力だった。 「そうですよ、エヴァハードさんだ――それとも、お望みならば、ロスといってもいいですが」ウェイルズは落ち着いて、言葉をつづけて行く。「ほんの数日前にロンドン警視庁に入った情報から判断すると、あんたの動機は実にはっきりしています。われわれはこのところ動機の点については、問題にしていなかったです。問題にしていたのは、あんたがその人間かということだけでした。それはチャン警部が賢明にも、発見しました。陪審に動機を求められたら、あんたの南アフリカ時代のことを、話しさえすればいいです。ハニウッドがあんたの女を盗んで――」 「おれのダイヤもだ」ロスは叫んだ。「おれのダイヤと、おれの女を。だがあの女はあいつと同じように、悪い奴で――」椅子から半分立ち上がりかけていたが、急にだまって、また椅子に深くかけた。  ウェイルズはチャンを、ちらっと見た。二人の視線が会ったが、二人とも、ロスからこの言葉を聞いた喜びを、注意して隠していた。  ウェイルズは話をつづけた。「あんたはたしか十五年ばかり前に、南アフリカへ行きました。ミュージカル・コメディのオーケストラのバイオリニストとして。シビル・コンウェイは一座の主役級の女で、あんたはそれと恋に落ちた。しかし彼女は野心家で、金と、スターの地位と、成功がほしかった。あんたはわずかの財産を相続することになったが、それでは不足だった。しかし、それであんたは事業をはじめるには足りた。後ろ暗い事業――I・D・Bという仕事を。土人や泥棒から、ダイヤを買う商売を。一年たたないうちに、あんたにはそういう盗んだダイヤでいっぱいになった袋が、二つできた。シビル・コンウェイはあんたと結婚すると、約束した。あんたはダイヤの鉱山地帯の最後の旅行に出て、そのときその二つの袋を、ケープタウンにいるあんたの女にあずけて行った。それで、あんたが彼女のもとへ帰ってみたら――」 「わたしは彼を見たです」ロスがいい足した。「まあ、こんなことをいっても仕方がない。わたしはあんたにはかなわない――あんたとこのシナ人には。わたしは帰った最初の夜に、彼に会いました。ウォルター・ハニウッド・スワン、そういう名だった。シビル・コンウェイが住んでいた家の小さな客間ででした」 「その男の家は、兄が相続していました」ウェイルズが教えた。「家にいては穀《ごく》つぶしというだけなもので、外へ出て、南アフリカの警察に入った男です」 「そうです、警察のものだということは、わたしは知っていた。それが帰ってから、わたしはシビルに、わけを聞きました。あれの話だと、そいつが怪しんで、わたしのあとを追っかけているから、すぐ逃げるほうがいいとのことだったです。ショウを打ち上げてから、あとから来ると、いいました。夜中に出港する船があって――オーストラリア行きの。あれがわたしを急がせて、その船に乗せました。出帆の直前に、デッキの闇の中で、あれがわたしにこっそり、あの二つの袋を渡しました。さわってみたら、中にダイヤの石の入っているのが感じられた。わたしはそのときに、中身を見るのがこわかった。あれはわたしに別れのキスをして、それで帰って行きました。  汽船が沖に出てから、わたしは船室へ行って、袋を調べました。なんとまさに石の入った袋だった。それだけのものでした――いろんな大きさの小石を百ばかり入れた、セーム皮の袋が二つでした。わたしはやられた。あれはわたしより、その警官のほうがよかった。わたしを売った」 「それであんたはオーストラリアへ行ったんですね」ウェイルズは穏やかにうながした。「そこであんたは、シビル・コンウェイとスワンが結婚して、男がいまはウォルター・ハニウッドと名乗っていることを、聞いた。あんたは二人とも殺すという手紙を書いた。しかしあんたは文無しで、二人のところへ行くというのは、容易なことではなかった。そのうちに年が過ぎて行って、最後にあんたはアメリカへやって来た。金ができたし、尊敬される市民になった。昔の激しい復讐心は消えて行った。ところが、突然、それがもどって来た」  ロスは顔をあげた。目が血走っている。「そうです、もどって来た」とゆっくりいった。 「それはどういうわけで?」ウェイルズはつづけた。「あんたが足を怪我してからのことですか? 横になったきりで、何もすることがなく、一人で、考える時間がたくさんあって――」 「そうです――それで考えることができた」ロスは大きな声でいった。「全部のことが、まるできのうあったことのように、いきいきと思い出されて来ました。あんなことをしやがった――わたしがそう思ったって、不思議はないでしょう。しかもそのまま逃がしてしまった」恐ろしい目をして、まわりを見回した。「いいですか、わたしのしたことは正当で――」 「いいや違う」ウェイルズは反対した。「あんたは過去を忘れるべきだったです。もしそうしたら、いま幸福な人間でいられたのに。そういう理由で、人が許すと思ったら、間違いです。あんたはドレイクを殺したのを、正当だと――」 「あれは間違いでした。すまないと思ったです。あの部屋が暗かったもので」 「それからウェルビー警部補は――あんないい男はなかったのに?」 「あれはやむを得ないことだった」 「それからダフ警部を殺そうとして――」 「殺すつもりはなかった。そのつもりが本当にあったら、殺していたでしょう。ただしばらくじゃまされないようにしたいと思っただけで――」 「あんたは容赦なく、残忍なことをして来た」ウェイルズの口調がきびしくなった。「あんたがその報いを受けるのは、当然です」 「わたしはそのつもりでいます」  ウェイルズはつづけた。「あんたがおくればせに復讐をしようとさえしなかったら、あんたのために、どんなによかったかもしれないのに。しかしあんたはしようとした。あんたはまだ足を怪我しないうちから、貴重品と貯金を全部まとめて、タコマを永久に去るつもりであったに違いないです。あんたは財産を全部、どこかよその都会の銀行の保護箱に入れておいた。それはどこか? われわれには間もなくわかることです。あんたはハニウッド夫妻を捜しに、ニューヨークに向かって出発した。ハニウッドは世界一周旅行に出かけるところだった。それであんたは、その旅行団に申し込みました。  ブルーム・ホテルで、あんたは第一の殺人を行なった。それは恐ろしい間違いだった。しかし、あんたはそれに屈しなかった。あの上着をニースへ送って、そこで修繕させた。あんたは時計の鎖を一部と、保護箱の鍵を一つ失ってしまった。どうしたものかと、あんたは考えた――もう片方の鍵を捨てるべきかと。ロンドン警視庁が3260という番号の保護箱の借主を発見するために、あらゆる努力をするだろうということは、あんたにはわかっていた。あんたをほとんど知っていない銀行へ行って、鍵を二つともなくしたことをいって、余分の注意をひくということは、あんたにはできることではなかった。あんたが財産をふたたび手にする唯一の望みは、そのもう片方の鍵にかかっていたわけです。  旅行団は旅行をつづけた。ハニウッドには、あんたのことがもうわかっていたが、彼もあんたと同様に、人に知られることはどうしてもいやだった。彼は、もし彼に何か起こったら、あんたが犯人だということが書いてある手紙のことをいって、あんたに警告を発した。あんたにはその手紙を捜して、とうとう手に入れて、その夜、ニースのホテルの庭で、彼を殺した。あんたは、シビル・コンウェイが隣の都会にいるということを、聞いた。しかし、あんたは旅行団から離れるのは、危険だと思った。旅行団と行を共にして、うまいチャンスをねらった。そこであのエレベーターが――あれはあんたの目的にぴったりだった。  それからあとは、万事順調と思われた。あんたは幸運に味方されていると、思いはじめた。ダフ警部には打つ手がなくなってしまったし、あんたにそのことはわかっていた。あんたは安心して旅行をつづけて行った。横浜までは。そこであんたは、ウェルビーがもう片方の鍵を発見したということを、知った。ところで、あんたはそのとき、それをどこへ隠しておいたんです?」  ロスは答えなかった。ウェイルズは[#「ウェイルズは」は底本では「ウェルビーは」]つづけた。 「どこか頭のいい場所ですな、きっと。しかし、それはどうでもよろしい。あんたはどういうことでか知らないが、ウェルビーが電報を打ちに上陸したということを、嗅ぎつけた。ウェルビーはあんたにじゃまされないうちに、その電報を打ってしまったが、あんたはそれにあんたの名前が書いてないかもしれないと、それに望みをかけて――実際そうだったが――、ウェルビーが帰って来たとき、埠頭で彼を射ち殺した。  それから、あんたはまた安心しだした。わたしは横浜を出てからのことは、よく知らんです。しかしあんたはホノルルに着いて、埠頭でダフ警部に会ったとき、危ないなとまた思ったものだと、判断します。あんたの旅行の終わりに近づいていて――あといくらもないというところで――しかも万事うまくいっていたのに――ダフさえいなければと、あんたは思った。この警部はすでにどれだけのことを知っているだろか? 何も知ってはいないということは、はっきりしている。しかし旅行の最後の過程で、どれだけ知るだろうか? 知らせないようにすることができれば、やはりなんにも知られっこない。あんたはこう考えて、ダフ警部にあんたを追わせないようにした」  こういって、ウェイルズはチャンをちらっと見た。「ロスさん、そのところで、あんたはとんでもない大間違いをしたわけです」  ロスは立ち上がった。船はもう埠頭にしっかり着いていて、窓の外には、乗客が渡し板の上にかたまっているのが見える。 「だからどうしたっていうんです? 上陸したらどうです?」ロスがいった。  彼らは甲板の上で、渡し板の群衆が降りてしまって、とり残された少数だけになるまで、ちょっと待っていて、それから降りはじめた。制服警官が一人、フラナリーの前に現われた。 「車が待っております」  チャンはウェイルズ警部補に、手を差し出した。「またお会いできるでしょう。私、鞄のなかに、ダフ警部の書類鞄もっています。その勉強、これで終わりました」  ウェイルズは心からの握手をした。「ええ、あなたはそれを勉強して、試験にパスしましたね」といって、微笑した。「しかも、優等で。わたしはダフさんが来るまで、サンフランシスコにいます。それまで、あなたがここにいてくださるといいですがなあ。ダフさんは自分であなたに感謝したいでしょうから、きっと」 「私いるかもしれません――しかしわかりません」 「まあいいです。とにかく、今夜どうしても、わたしといっしょに夕食をしてください。まだわたしの知りたい点がありますから。ミンチンの晩餐会でのロスの演説です、たとえば。ステュアート・ホテルへ、七時に、来てくれませんですか?」 「喜んで。私もそのホテルに泊まります」  ウェイルズは制服警官に伴われて、ロスといっしょに、歩いて行った。チャンがついに裁きの手に委ねたその男は、むっつり不機嫌にだまり込んでいる。この最後の瞬間に、彼の目はしきりにチャンの視線を避けていた。 「サンフランシスコに長くいるですか、チャンさん?」フラナリーがやって来て、聞いた。 「お答えしにくいです。私、南カリフォルニアの大学にいる娘います。私、それに会いたくてたまりません」 「それはちょうどいい」フラナリーが助かったとばかりに、大きな声を出した。「あんた南へ行って、ロサンゼルスの警察に手を貸してやってください。向こうでは、とてもそれを必要としている」  チャンは静かに一人で微笑した。「ここには、私手伝えるような小さな事件ないのですね?」 「何もないです、チャンさん。サンフランシスコ方面は、きれいなもんですよ。だがそれには、ここには非常に有能な組織がありますからな」  チャンはうなずいた。「強将の下、弱卒なしです」 「うまいこといったですな。あんたの使う古風な文句には、なかなか真理が含まれていますよ。とにかく、チャンさん、帰る前にわたしに会いに来てください。もう、わたしは急いで行かなきゃ」  チャンが鞄を受け取りに行ったら、そこでカシマと事務長に会った。 「この人を、プレジデント・タフト号へ乗せて来ます。二時にハワイに向けて帰ります」事務長がいった。  チャンはあかるい微笑を浮かべて、自分の助手を見た。「この人、栄光に包まれて帰ります。カシマ、あなたのことで、私の心、誇りでいっぱいです。あなた船の上でりっぱな捜索したばかりでなく、あの夜ホノルルで乗船したとき、あなたの鋭い目、すでに犯人を見ていた」カシマの肩を叩いた。「日陰に育った桃もいつか実結びます」 「ぼく逃げ出したこと、署長が怒らないといいですが」カシマがいった。 「署長にぎやかな音楽隊連れて、埠頭へ迎えて来る。私いったこと、あなたわからなかったようだね、カシマ。あなた英雄です。私もう一度いうが、あなた栄光に包まれている。暑い夜、毛布押しのけるように、その栄光いつまでも押しのけようとしてはいけません。さあ、ほかの船に乗って、私行くまで待ちなさい。私、町へ行って、あなたに新しいシャツ買って来る。そのいま着ているの、もう六日たったから、それで精いっぱいにきまっている」  チャンは自分の鞄を取りあげて、二人といっしょに、すぐそばのプレジデント・タフト号の渡し板のほうへ向かった。 「ここでとりあえず、私さよならいいます。また会います、たぶん一時に。あなた成功の輝く衣に包まれてばかりでなく、もっと衛生的なシャツに包まれて、帰るです」 「わかりました」カシマはおとなしく答えた。  チャンは埠頭の上屋から離れたところで、マーク・ケナウェイに出会った。 「やあ。パメラさんとぼくは、あなたを待っていました。車を頼んでありますから、いっしょに町へ行きましょう」 「それたいへんご親切です」 「いいや、ぼくたちの動機には、自分たちのためということもあるんです。そのわけは、すぐ説明します」  二人は、パメラ・ポッターがもう乗っている大型の車が待っている歩道のふちへ行った。 「飛び乗ってください、チャンさん」ケナウェイが付け加えた。  チャンは飛び乗らずに、例のとおり堂々とした態度で乗り込んだ。そのあとからケナウェイが乗り、車は走り出した。 「お二人とも非常に幸福に見えます」チャンが相手の気をひくようにいった。 「では、ぼくたちのニュース発表はよけいなことですね。お察しのとおり、ぼくたちは婚約して――」  チャンはパメラのほうを向いた。「失礼ですが、私驚きました。あなたこの癇にさわる若い方、結局受け入れたのですね?」 「そうなんですの。しかも、この方が申し込む一分前にだったんです。わたしあんなに骨を折って、それを無駄にするのいやでしたわ」 「お二人に、心からお祝い申します」チャンは頭を下げた。 「ありがとうございます」彼女は微笑した。「いろんな問題、マークさんみんな承知してくれましたわ。ボストンのこと忘れて、デトロイトで弁護士を開業すると、約束してくれました」 「男の愛これより大なるはなし」ケナウェイがうなずいて、こういった。 「ですから、結局とてもいい旅行になりましたの」彼女はつづけた。「たとえはじめ、あんなに悲しいことがあったにしても」微笑が消えた。「それでね、わたし、もう一分間も待ちきれないことがあるんです。ロスが犯人だということが、どうしてあなたにわかったのか、それわたし知りたいんです。あの夜デッキで、わたしにもわかっているはずだと、あなたおっしゃいましたわね。それでわたし、くたくたになるまでこの貧弱な頭をいじめてみました。でも、だめでした。わたし探偵になれませんわね」  ケナウェイが付け加えた。「ヴィヴィアンさんから数分前に聞いたことですが、何かロスがミンチンの晩餐会でいったことなんだそうですね。あのときのロスの演説を、ぼくたち何度も思い出してみました。ぼくの覚えているところでは、べつになんということもありません。ロスはろくにしゃべり出さないうちに、じゃまが入って――」 「しかしその前に、犯人だということ示す重大なこと、いいました」チャンは相手の言葉をさえぎった。「私それをいった文章、繰り返してあげます。私、暗記しています。注意して、聞いてください。“あのロンドンの不幸な夜についてはです、お気の毒にもヒュー・モリス・ドレイクさんがブルーム・ホテルの、あの空気のこもった部屋に、死んで倒れていて――”」 「空気のこもったですって!」パメラが叫んだ。 「空気のこもったです」チャンは繰り返した。「やはりあなた、私思っていたように、利口な女性です。考えてごらんなさい。あなたのごりっぱな祖父の方、ベッドに息絶えて発見された部屋、空気のこもった部屋でしたか? その階のボーイのマーティンの証言、思い出してください。それ、あなた方検死裁判で聞きましたし、私ダフ警部の記録で読みました。マーティンこういいました。“私はこのお部屋の錠を開けて、中へ入りましたです。一つの窓は閉まっておりまして、カーテンがすっかり降ろしてありました。もう一つの窓は開いていまして、カーテンもあけてございました。日光がそこから射し込んでおりました”これに私自身の言葉付け加えて、したがって新鮮な空気もたくさん入って来ていたと、私いいたいです」 「そうだったですわ。わたしそれを思い出すべきでした。わたしがその部屋にいて、ダフさんと話していたとき、その窓はまだ開いていて、街のオーケストラが外で、“長い長い曲がりくねった小路”をやっていました。その音楽がとても大きく聞こえて来ました」 「なるほど――しかしおじいさま殺されたのは、その部屋でありませんでした」チャンは彼女に思い出させた。「隣の部屋でした。ロスが晩餐会でこのこといったとき、彼の記憶悲しいいたずらしました。彼が思い出したもの、おじいさま最後に発見された部屋でなく、死んだ別の部屋でした。あなたウォルター・ハニウッドの妻にあてた手紙、読みましたね?」 「ええ、読みました」 「どう書いてあるか、思い出してください。こうです。“ぼくはそこへ入って、見回した。ドレイクの服は椅子にかけてあり、補聴器はテーブルの上に置いてあった。ドアも窓も全部閉まっていた”わかりますね、パメラさん――これ、空気のこもった部屋でした。あなたのおじいさまなくなった部屋です」 「たしかにそのとおりです。祖父は喘息もちで、ロンドンの夜気がそれに悪いと思っていました。ですから、寝るときにどの窓も開けさせませんでした。まあ――わたし本当にばかでしたわ」 「あなた、ほかのことに気とられていました」チャンは微笑した。「私、そうでありませんでした。ドレイクさんがあの夜、空気のこもった部屋で眠ったこと知っていた男、三人いました。一人は、ドレイクさん自身です――しかしドレイクさん死にました。つぎは、その部屋へ入って、死体を発見したハニウッドさんです――この人も死にました。第三は、夜そこへ忍び込んで、ドレイクさん絞殺した男――つまり殺人犯人です。簡単な言葉使いますと、ロスさんです」 「見事な解決です!」ケナウェイが叫んだ。 「しかしもう終わりました。シナの万里の長城築いた始皇帝、こういいました。“昨日の勝利語って、今日おごるもの、明日誇るもの何もなし”とです」  車はもうユニオン広場のホテルのドアの前に止まった。若い二人が降りたあと、チャンも降りた。そしてパメラの手を握った。 「私、けさあなたの目に、非常な喜びの色見ました。それいつまでもあるように、私希望します。笑う門に福来たるということ、覚えていてください」  チャンはケナウェイと握手して、自分の鞄を持って、急いで角を曲がって、姿が見えなくなった。 底本:「チャーリー・チャンの活躍」創元推理文庫、東京創元社    1963(昭和38)年8月2日初版    1974(昭和49)年7月12日7版 ※「けさ」と「今朝」、「なか」と「中」、「わたし」と「わたくし」と「私」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。