東西賭事往來 笠間杲雄 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)種《たね》も |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)「|數取り《ジユトン》」 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)(例)幾※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ブン/\ ------------------------------------------------------- 『濱の眞砂は盡くるとも……』世に賭事の種《たね》も亦盡きまい。それは全世界で野蠻國と文明國との別なく、又、いとも原始的なやり方から最近代の科學的施設を採り入れたものに至るまで、人はその運命を、數と金の上に賭けるスリルと冒險の味を忘れるものでない。まことに袁彦道の魅力こそ、人類と共に永遠だ。  アビシニアの土人が地べたの上に二人、差し向ひで胡座《あぐら》をかいて居る。二人の間の土の上には指で碁盤の目が描いてある。暑い國のことで蠅や虻《あぶ》がブン/\無數に飛んで來る。二人が凝と碁盤の目を睨み合つて蠅の一疋が自分の賭けた目に停るのを待つて居る。賭けた銅貨の取引を累ぬるほどに、自然が兩人の刻々の運命を裁いて行く……。  日本位、賭事ではやかまし[#「やかまし」に傍点]くて、而も種類の尠いところもあるまい。  私の青年時代など、嚴格な家庭では、一切の賭事を禁じられてゐた。そのため、今でも私などは碁、將棋、花札の弄び方を知らない。それが初めて太平洋を越えて米國へ渡り、賭事の多いのに先づ驚いた。私の身を寄せた家庭では、毎晩一家揃つてポーカーやブリツジに夜を更かす。僅かばかりの金が、必ず賭けられる。さういふ金の取引を罪惡みたいに考へ馴らされた私には、初は若いピユーリタンの純潔をけがされたかのやうに感じた。然しあちらでは極く普通な、健全な家庭で、パスタイムの一方法として、恰度倶樂部の酒場で振るダイスの目で、其夜のドリンクを持つといつた風な輕い娯樂の一つに過ぎないど覺るに及んで、漸くそれにも馴れたのであつた。それでも米國は賭博の取締りがやかまし[#「やかまし」に傍点]い方で、偶然の輸羸に由つて一時間二十五弗以上の取引のあるものを賭博として州法律で禁じられて居るところもある程だ。  歐米の社交界でも、普通の家庭でもカードを弄ぶことは最も一般である。一時は麻雀が世界を風靡したが、今では本家の支那と日本以外はそれも廢れてしまつたやうだ。家庭や倶樂部でやる賭事の王座は、品のいゝところでは矢張りブリツジであらう。  戸外での賭事としては、スペインの鬪牛、歐米のグレー・ハウンドの競犬は餘りにも有名だ。競馬と同樣、競技から來るスリルと賭けの魅力と、興味が二重になることが近代人の神經に好ましいのであらう。同じくスペインや、南米諸國では、バスク人の國技といはれるプロツト・バスク、所謂ハイ・アライが盛んである。これはスポートとしてはテニスと似た興味のものだが、賭けが寧ろ主である。メキシコあたりで、若い公使館員などが此のフロントンに身代を入れあげて、果ては公金にまで手をつけたといふやうな事件が、一昔《ひとむかし》前あたりは時々あつた。エヂプトのアレキサンドリアなどの盛り場でも、數年前まで同じものが隆盛を極めた。同地の日本のコロニーなど、これが夜毎のランデヴウになつた程だつたが、いろんな弊害もあつてそのうち嚴禁されたので、當時の職業選手たちは皆上海へ來てしまつたらしい。  同じ樣に支那とヨーロツパを結ぶものに、所謂廣東賭博がある。これはたぶん東洋のモンテ・カルロと稱されるマカオあたりから來たもので、マカオはポルトガル領だから、ポルトガルの首都リスボンが最も盛んだ。  此處の市中の一廓を占める盛り場ではどのカツフエにもダンスがある。ダンスの幕間に男も女も、色のついた紙片と首つ引きで十五分に一囘位の割で富籤の當りを待つてゐる。紙の上には六つづゝの番號が三段に分けて書いてある。ダンスのピストの横の小さな撞球臺に七十ばかりの棋子が立ててあつて、之に各々一から七十いくつまでの番號が書いてある。番頭でも客の中からでも誰か出て來て球を撞いて棋子《こま》を倒す。一突き毎に十ほど倒れるからこの倒れた番號が各自の富籤紙片に書いてある三段の數字の中に當つて、何れかの二段全部即ち十二個の違つた數字が一番先きに出てしまつたものが勝札となるのだ。倒れた棋子《こま》を籠に入れてザラ/\振り乍ら一つ一つ取つて讀み上げる。マイクと電字板で場の隅々まで知らされる。當つた者は手を擧げて『アオ!』と呼ぶ。一枚の富籤が五エスクード(約八十五錢)で賞金は三四十倍位が普通で客の多い時は五六コント即ち八十圓及至百圓程になる。これがダンスの合間十五分毎に一囘づゝ行はれるから一軒のダンス場一日の寺錢の上《あが》りも相當なもので、此の收入は全部リスボン市廳で慈善事業に使つてゐる。  一體に富籤の盛んな土地で、ポルトガルやスペインでは街角を身裝の汚い子供が富籤札を賣つて歩いてゐるのをよく見る。フランスやポルトガルの國營及び特許富籤では一等の當りは百萬圓少きも數千圓に達する。ポルトガルなどは政府はこの賣上げで乞食を無くし、貧民病院を建てた。スペインでは大學すら之で出來た。  西洋で賭事の本場といへば、何といつてもモンテ・カルロにとどめ[#「とどめ」に傍点]を刺す。モナコ王國の歳入は悉く此處のカジノから上る寺錢で成立つて居る。最大の博奕は勿論バカラであるが、普通人の遊びには此處のルーレツトが有名だ。これは人も知る如く一から三十六までの數を字青い毛氈を敷きつめた卓子の上に三行に並べ、クルピエ(番頭)の抛る王の行方で賭金の二倍から三十六倍までの賭け方が出來るやうになつて居る。  佛蘭西では、避暑地や避寒地のカジノにこのルーレツトを許可せず、一から九までの簡單な「玉ころがし」だけ許してゐたが、この二年程前から、場所を指定して本式のルーレツトを許すやうになつた。  モンテ・カルロのカジノの青い毛氈の周りには、毎年よく見かける同じ樣な顏觸れが集まる。中でも英吉利人などは家族總出でやつて來たり、親子三代打伴れて一つの卓子に座を占めたりして居る。お婆さんも若い孫娘も手帖を出して前日からのレコードをとつたり、樣々のシステムに基いて試みたり、數の上に意外な『傾向』を發見したりして、さも樂しげに打ち興じてゐる。騷々しい雰圍氣の中に、所謂ポーカー・フエースで一喜一憂してゐる圖は却々に觀物である。  中には之に凝つてすつかり身代限りをし、歸るに歸れず遂に自殺する者が平均一ヶ月に十七人もあると聞けば、恐ろしいやうでもある。此處の政府では、他國からやつて來て、カジノで全財産を摺つた者には、お情けに歸りの汽車賃だけは出してくれる定めがあるさうだが、そこまでは自分でやつて見ないから、眞僞の程は不明だ。  さる南國の任地で私が知つた、名ある貴族のお孃さんがあつた。彼女は毎年のやうにお母さんと二人で、避寒にモンテ・カルロにやつて來た。或る年の冬私も休暇で、此處に遊び偶然にも彼女たちと會ふことが出來た。  冬とはいへ、麗らかに晴れた小春日和で、眞青な空と、鏡のやうに凪いだ海に抱かれて岸傳へに走る所謂コルニツシユ・ドール(黄金蛇腹)を、彼女は朗かにドライヴしながらやつて來た――カジノへの道である。  その日、ルーレツトの卓子に向つた彼女は餘程の自信を有《も》つかのやうに、いきなり千法の紙幣を取出して之を「|數取り《ジユトン》」に替へ、そのうち若干を「三十五」へ賭けた。クルピエが『|お賭けなさい《メツシウ・フエト・ヴオ・ジユ》‥』といつて玉を抛る。玉がガラ/\と轉つて漸次囘轉が緩くなり、『|もう賭けてはいけません《リヤン・ヌ・ヴア・ブリユ》』と宣言してから二、三秒の手に汗を握る瞬間が過ぎる。‥‥と何といふ素晴しさ! 玉は「三十五」でピツタリと停まる。五十法賭けたのだから、一囘で三十六倍――既に千八百法を獲た。すると彼女は、その額をソツクリその儘再び「三十五」の所へ賭け、 『ライド!』(ルーレツトの術語、そのまゝ繰り返すの意)  と一聲、その調子は愈々確信ありげなのだ。第二囘の結果も亦「三十五」で大勝、第一囘の儲け高全部を賭けたその又三十六倍が忽ちの内に轉げ込んだ。更に第三囘、彼女は又も四五千法をそのまゝ「三十五」に殘したが、運命の玉も亦「三十五」に當つた。斯く「三十五」一本槍りで繰返すこと實に六囘。彼女は昂奮に兩の頬を眞紅にし、凄じい意氣込であるが。第六囘も「三十五」が出て大當りを取るや、颯と立つて『もう今日はこれで歸りませう』  ピタリと止してしまつたのである。三十五倍の自乘が山を成し終ひには勘定も出來なかつた。何十萬法! 之を眺めて並居る面面の驚嘆、逸早くも傍に居る連中が、同じ「三十五」を覗つて賭け出した。だが他の人では一向に當らない。  歸りに私は彼女に今日の大當りの祕密を訊ねた。  恰度その日は日曜で、朝彼女は教會にお詣りした。その時歌つた讃美歌の番號が「三十五」だつた――『何がその數字にハツとした靈感があつたのですわ……』彼女はさう答へて莞爾《につこり》とした。  賭事の祕訣とはそんなものである。  また或る年の冬の休暇に、私は北歐での舊友Sとモンテ・カルロで邂逅した。彼はルーレツトに關して實に詳細にして浩翰な調査資料を抱えて此處へ乘り込み、毎年相當の儲けを誇つてゐた。その彼獨特の方法といふのを私は訊いた。  彼がこれを始めた最初の一週間といふものは一切賭けをやらず唯觀察の爲にのみ通《かよ》つた。そして先づ二十分毎に交代するクルピエ(番頭)を、その顏や姿の印象から夫々|渾名《あだな》をつけた――例へば『鼻曲り』、『ニグロ』、『馬面《うまづら》』、『ペルシヤ猫』等々といふ風に。そしてその男夫々の玉を轉がす場合出る數の「大量觀察」を一々記帳し、之を統計的に整理して各番頭の力、傾向、慣性といふやうなものと數字と關聯性を割り出す仕事に沒頭した。  例へば、『鼻曲り』が玉を振る場合は、三段に分るゝ三十六の數のうちの上段(一から十二迄)に三四囘出たあと、今度は中段(十三から二十四)を跳び越えて、下段(二十五から三十六)のうちの數字に暫く停滯し、二三囘後初めて中段にゆく。之に反して『馬面《うまづら》』が轉がす時には上下兩段に行つた何囘位後に中段に續く。又『ペルシヤ猫』の玉は幾※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りすれば勢が弱まつてどう……といふやうに番頭に依る玉の特徴を見出すことに努めたのである。  斯くて大體の自信を得た彼は八日目から徐ろに卓子に座り込んで、その參考資料の結果に基いて、相手の番頭の顏の替る毎に數の選び方を變へながら賭けて行つた。而も彼は愼重に專門家の所謂マルタンガル(倍賭け法)に由るのである。之は四つの數字の枠の上へ(當れば八倍となる)負けても負けても其賭金の倍々と賭けて勝つまで行くのだ。結局八囘に一囘當てれば損のないやり方でそれを組織的に續けて行つたのであつた。  彼はこの方法で、何でも三四年續けてやつたらしい。時折の休暇旅行に私が此處で行き會わすと毎も景氣の好い顏をして威張つてゐた。ところが越えて數年、再び彼をモンテ・カルロに見出した時には、彼の、名にし負ふ多年苦心の調査資料など少しも持つ合さなかつた。審《いぶか》しんで私は訊いて見ると、 『やつぱり博奕《ばくち》は理窟ぢや駄目さ……』  さう吐き出すやうに言つて、苦笑しながらも、誰もがやるやうな、ほんのその場限りの小さな賭けを弄んでゐた。  賭事の好きな點では、世界の人種中、英國人の右に出づるものはあるまい。英國人にとつては如何なる機會、どんな因縁でも直ちに以て賭けの對象になる。  先年、私がジユネーヴに駐在した折、ゴルフに行けばよく、當時の聯盟事務總長で、今の駐伊大使であるサー・エリツク・ドラモンドと一緒になつた。氏は左の足が心持|跛《びつこ》を引いてゐるのに、ゴルフは却々《なか/\》強い。或る日も私はゴルフに行つて驟雨に遭つた。恰度第八番目のホールに懸つたところで、雨を避ける爲に近くにあつた小屋に入つて霽れ間を待つてゐると、後から/\と雨を避けて飛び込んで來る連中の中にドラモンド氏も混つて居た。  雨は却々歇みさうにもなく。とう/\退屈しきつたドラモンド氏は、ふと思ひついたやうにポケツトからマツチを出して、一本を小屋の壁になつてゐる破目板の合せ目の穴へ突き差して、傍の伴れを顧みやをら即興の賭を挑んだ。件《くだん》のマツチを目がけて一間程手前からゴルフのボールを投げつけ、當てた者が相手から一|法《フラン》づゝ取るといふのである。まことに典型的な英國紳士で、世界平和の大本山の元締であつたドラモンド氏にしてこの無邪氣な子供のやうにすぐ賭事をやる、堅實そのものである英國人の國民性の一面は充分學ぶに足りやう。  世界で最も保險事業の發達した英國では、恐らく如何なる危險でも保險の對象にならないものはないが、例へば甚しいのは、ダービーの競馬の日に雨が降るか、降らぬか、或ひは政府の豫算案の上程日が何日になるかといふやうなことの危險率まで負擔するといふ程で、誠に思ひも寄らぬ博奕が合法的に行はれてゐるのである。株や保險以外で『思惑』を對象とする取引年額が三十七億圓を超えると聞いて思半に過ぎるだらう。  先頃、政府の増税案の税率豫想を保險させて巨萬の利得を獲たさる競馬界の名士があつて、機密漏洩の廉で査問委員が出來、遂に勞働黨出身の植民大臣トムソンの辭職で結末がついた。英國官界としては近來珍らしい大事件だつた。  さて、賭事の大宗とも觀らるゝ競馬の話に移るが、競馬風景といへば何處も同じやうなものである。とはいふものの日本の競馬だけは、何となく戒嚴令下で恐る/\馬劵を買つてゐるやうな、又買う人の面持にしても、まるで親の仇でも覘はうとするやうな、眞劍とも、悲壯とも、言はんかたなきもの/\しさを極めてゐる。競馬にはスポートと馬匹改良との二つの使命があり、何れを主とするか國によつても違ふが、日本のは何だか國民精神を引緊める爲の賭事とでも言ふのか。世界のどの國の競馬にも見られる、なごやかな明朗さの無いことで、競馬そのものの持味までが無くなつてゐる。  尤も歐米の大都市では大體一年中近郊で毎日のやうに競馬があり、馬劵を買ふにも、又その配當金にも制限がないから、競馬フアンは日數に制限のある日本程悲壯な決意が現はれ無いのかも知れぬ。それに一日の二鞍三鞍の勝馬を一度に當てやうとするダブル又はトリプル・トウト、或ひは單も複も一日中の競馬をどれでも選んで、單又は複の五匹でも五匹でもの勝馬を一緒に當てるパロリといふ制度などは、時としては一人で數萬圓も儲かる。それに一つは馬劵を市中で買へるといふことも競馬をゆとりのある娯樂たらしめてゐる。勸業債劵の富籤賣出しが丸ノ内の交通を遮斷せねばならぬ程人氣の出る日本に、一人一枚主義の結果馬劵を市中で許さないやうな制度は大きな矛盾ではないかと思ふ。  堅實無比とされるアングロ・サクソン民族があれ程平氣で合法博奕をやり、又其外の大國で國營富籤などが國家財政の窮乏を救ふ程の立派な役目をしてゐるところを見ても、射倖心挑發を理由に非常識な禁制を強化することは、國民訓練の上に甚だ親切心の足りない遣り方だとしか思へない。尤もゴルフ・クラブで有産有閑のブルジヨア連の途轍もない大博奕を嚴禁するのは大賛成だが一勝負にボールの一つや二つ賭けるのは何の害もない筈だ。之に傍杖を喰はすのは如何かと思ふ。         ×   ×   ×  ダービー、ナシヨナル、リンカン、セザレウイツチ、ケムブリツシア、の英國五大競馬行事は餘りにも有名である。  フランスでも、パリのロンシヤンの『大優勝《グラン・プリ》賞』が、シーズンの最高峰で、大統領を初め列國の使臣、貴顯、富豪、それぞれ綺羅を飾つて居並び、中でも婦人は、此處で世界流行の魁を示すといふことになつて居る。それを又パリの衣裝屋は美人のマヌカン(マネキン)を放《はな》つて、こゝをせんど[#「せんど」に傍点]と流行の尖端を覘《ねら》ふ。ところが、これは晝の行事だけで、物足らないといふので、結局は「流行のパリ」を三年前からは夜も見せることになつた。其の夜はブーロニユ公園の杜《もり》が照明でオペラの背景を現實にして呉れる。男は燕尾服、女は夜會服、社交界の最高權威を網羅して、夢幻劇のやうな夜の競馬が一年一囘パリの最大行事になってしまつた。  それに比べては、わが國の競馬の何と殺風景で憂鬱であることか・女性の來てゐるのは尠ない。見えても、藝者や女給くづれ[#「くづれ」に傍点]みたいなところらしく、服裝からいつて、大分お粗末で見すぼらしいのを見受ける。それも然し、肩摩轂撃ともいふべきの穴場の凄まじさでは、いゝ衣物も着て居られない爲だらう。  某國の公使は隨處で競馬通の名が高かつた。日本へ赴任早々、競馬へ案内して呉れと云ふので連れて行つた。第一、馬劵を買ひに所謂穴場へ手を突込まねばならない。彼は先づ警察か、裁判所の出張所で指紋でも取られるのかと面喰つたらしい。盜人の取締の方が紳士の取引にも適用される。それに、日本の競馬があれだけ立派な設備をしてゐながら、刻々に賣れてゆく馬劵の額の積算掲示の電示板もなく、其の日の初からの成績を示して呉れる設備すら無い。  それから何處も同じ豫想を書いた新聞や、刊行物が隨分澤山出てゐるらしいが、ほんとに凡ての觀點から見たエカール(勝率、負率)を正確に示したものは却々見當らないやうだ。  さういへば日本の競馬で、馬劵の代價を二十圓に決めたのも、民度に合はぬ高いものだ。これは身分不相應な射倖心を唆らない爲めかも知れないが、それが却つて、身分不相應な競馬狂を造り、他方はノミ屋の※[#「足へん+丿/友」、U+47E6、170-上-3]扈を許すことゝなり、結局は多數のフアンの身を亡ぼす因を成すこととなつて、法律の豫想を裏切る結果となつてゐる。たとへ、競馬が無くとも、斯かる身の程知らずの賭博好きなら、何れの國にも、萬に一人や二人はあるものだ。それが例外ではなく、社會を擧げて賭博に憂身をやつすといふやうな國は大抵政治が惡くて、人民が朗らかな娯樂、落着いて健全な享樂の出來ない、世紀末的な頽廢氣分の結果に據るので、その責任はそれらの取締法律を作る人の側《がは》にあらう。  ともあれ、日本でも馬劵を一圓、二圓、五圓位の三種として、而も一囘に十枚位置へることにしたら、餘程競馬風景にゆとりが出來よう。勿論市中で無制限に許すのは本家のパリでさへ弊害があつて問題になつてゐるが、若干のコントロールの下に、市中の公認投票所を作つたら、大衆も馬に興味をもち、隨つて馬匹改良の效も擧げられるといふものではないか。又、配當の制限といふことも、至つて無意味な話で、實際はコツソリ一人で十枚も、二十枚も買へるさうだ。そんなことは恐らく公然の祕密と言はうか是非共限度を極めるなら、配當も五十倍位に極めた方がよくはないかと思ふ。  イカサマ、インチキは、賭事には附き物、博奕のサイコロやカルタに細工をして、いろんな手段で、人の射倖性につけ込むものは今往古來世界中にある話だ。  就中、賞金と賭金の多い競馬と來ては、開闢以來、いろんな話が傳へられてゐる。出場馬に藥品を注射して昂奮さしたり、相手の馬に祕かに藥を飮まして力を弱らしたり、それだから、ダービーのやうな大競馬には、出場前數日の厨舍の警戒は日本の總理大臣官邸ほどの嚴重さである。  競馬史上の最大インチキといへば、百年程前の英國で、あつ[#「あつ」に傍点]と言はせた出來事がある。當時のダービーでは常勝不落と言はれた名馬で「チエルスイ」といふのがあつた。美事な白馬だつたのだがそれをインチキ師が一シーズン後うまく手を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して借り切つて、ペンキですつかり栗毛に塗りつぶし、別な名をつけて全然新馬としてフランスへ送つた。そしてパリー附近の競馬場を、之で以てすつかり荒して大穴をあけ、數百萬の賞金と馬劵の儲けとを取つたのであつた。これが國際的な大詐欺として今でも競馬史上に殘つてゐる、その他、之に類するレースコース・スウインドラーが極めて多い。  ブツク・メーカーの輩が騎手と組んで工作をやつたり、騎手同志が談合で八百長をやつたり――といふやうな類ひは、恐らく世界共通だ、併し大國程不正は少ない。所謂豫想屋といふのも、手を代へ、品を替へ未熟のフアンを引つ掛けようとするやり方には却々《なか/\》堂に入つたものがある。  英國のニユーマーケツトの競馬で、いろんな豫想屋も居たが、中で手の込んだものにこんなのがあつた――一寸見ると調教師か騎手の仲間らしい男が、競馬の締切り間際に馬劵を買はうとする刹那《せつな》、目星をつけた御客にこそ/\近づいて來て、そうツとさも祕密らしく囁やくのである。 『七番の馬をお買ひなさい。大穴で勝つに極つてゐる。何十枚お買ひになつても大丈夫ですよ……』  さう言はれると、素人《しろうと》は、つひ、外《はづ》れても元々《もと/\》といふやうなつもりで、その馬を一枚か二枚買つて見る。案外の穴馬で一著の配當に、千圓近くも儲けたといふ人もあるが、そんなものがあるといつの間にか、金を受取る窓口へ、件《くだん》の男がちやんと待つてゐる。 『旦那、案の定、勝つたでせう……』  で當つた金の一割がとこをチツプに貰つて行く。  見てゐると、その男は又次の競馬の勝馬らしい番號を教へてくれるが、今度はテンデ當りはしない。それでも金を受け取るところでちやんとその囘の勝つた人から歩合を貰ってゐるのだ。結局彼は各競技毎に、馬が十匹走れば十人の人に、異《ちが》つた豫想番號を教へて、その内の一人は勿論當るに極つてゐる――といふ具合で、殘りの九人の計算で、勝つた配當から歩合をせし[#「せし」に傍点]めるといふ外《はず》れツこのない巧い商賣をやつてゐるわけだ。尤もさういう豫想屋の資格要件として、人の顏は實によく[#「よく」に傍点]覺えてゐて、負け馬を教へた御客には決して二度と近寄らぬといふ。  賭事に迷信は附き物だ。それは、賭けといふこと自身が、愛欲や結婚や政治や否人生そのものゝ如くに、大なる神祕に根ざすからであらう。  日本でも福引の籤を引くとき、鐵瓶の蓋《ふた》や御多福《おかめ》の面などをこつそり袂の奧に忍ばせるなどゝいふことを、私も幼い折から、よく聞いた。  モンテ・カルロの卓子の周圍では種々のマスコツトが珍重されてゐるのを見受ける。小さな豚や、象の玩具、それからエナメル製の「○」を腕輪などにくつつけ[#「くつつけ」に傍点]たもの(零《ゼロ》は賭博では鬼門とされて居る。ルーレツトでは一から三十六迄の數の奇數、偶數、或ひは黒と赤の二色中何れかを選んで當れば所謂「エガリテ」で二倍になるが、零だけは、常にその除外で、二分の一のチヤンスを覘ふものには一大鬼門となつてゐる)、時計の鎖に黄金製の「十三」をつけたもの、上衣の胸ボタンに小鳥を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]むもの、帽子のピンに蜘蛛の形を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]したもの、その他一々數へ切れない。  そしてこんなマスコツトをこつそり携へてゐるのは、却つて若い人たちに多いといふ現象も面白い。  私がモンテ・カルロで見たある老婦人は、卓子へ坐るとすぐ月桂樹の葉を出して自分の前に敷き、その上へ「數取り」を全部並べてからでないと賭けを始めない。この婦人は、見てゐると、最初のうちは馬鹿に當つて居るらしかつたが、次第に負け出して、終ひにはこの有難ひ月桂樹の葉など邪魔だとばかりにいつの間にか卓子の下に棄てられてゐたのは、一寸笑止な風景だつた。  それから、さる老人が「數取り」の上に兎の足を持ち込んで載《の》つけたり、若い男が象の毛らしいもので小指を卷いてゐたり、コブラ(毒蛇)の毒牙をしつか[#「しつか」に傍点]と握つてゐたりしてゐるのを見かけた。聞くところでは、この若い男は、「十七」ばかりを覘つて、それを十三囘續けて當つて、結局「カジノ」の銀行を破産させたことがあつたといふ。又、數年前にはお守《まも》りを洋傘を信心した男があつて、洋傘は帽子や外套と共に入場前に預けなければならないので、彼は仕方なしに、洋傘に取|外《はづ》しの出來る柄を工夫して作らせ、その柄だけをポケツトに祕めて入場し、勝負には之を握りしめながら盛んに賭けてゐた。おまじなひ[#「おまじなひ」に傍点]も此處まで行けば相當變つた方である。  そのほか、ハンカチを出してその上に座る男、玉の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて居る間中、拇指をしつかと掴んでゐる男、運勢表を見て好運の日なら三度程卓子の周圍を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてからでないと、賭けの座に坐らないなんといふお婆さんもあつた。  さういへば、之も二昔《ふたむかし》ほど前の話だが、一時毎年モンテ・カルロにやつて來た英國人のお婆さんで「白衣の夫人」と渾名《あだな》されてゐたのがあつた。いつも白い衣裝に白いヴエールを着けてゐたから、この名がつけられたのだが、常連の間では有名なもので、彼女が見えると爭つてその白衣の一端に觸れる。そしてその端を掴みながら[#「掴みながら」は底本では「掴みながな」]玉の轉がる間離さないでゐると屹度幸運な目が出るといふことが、何時《いつ》となしに傳へられ、「白衣の夫人」の御來臨は迷信的に多くの人から待たれてゐた。このお婆さんは數年前に死んだが、全く不思議な程この信仰は御利益《ごりやく》があつたさうだ。その癖、お婆さん自身の賭けは、いつでも負けばかり續いてゐたといふ。  私の時々見たのには、卓子の前にダイヤモンドを篏め込んだ小さな黄金の佛像を安置し、賭けを張る度に之を撫でたり、拜んだりしてゐる男があつた。――だが番頭達には、そんなマスコツトの種々相は見倦きて居ると見えて、高價な佛像の後光にも目もくれず、相も變らず、いとも冷やかな態度《ものごし》で、ガラ/\と玉を轉がすのであつた。 底本:「中央公論 昭和十二年 新年特大号」中央公論社    1937(昭和12)年1月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。