解説 秦豊吉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)伯林毎日新聞《ベルリイナア・タアゲブラツト》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)踊り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて -------------------------------------------------------  作者ベルンハルト・ケッラアマンは千八百七十九年(明治十二年)三月四日、獨逸フユルトに生れた。父は小官吏。學歴はミュンヘン工科大學に通つた事があるだけである。外國旅行に費したる日多く、伊太利、佛蘭西、英國、米國、日本、波斯、印度等足跡普く、歐洲戰爭中は從軍記者として西部戰場に活躍し、獨逸文藝院會員に推舉された。現住所はエルデル・アン・デル・ハアフエル。  ケッラアマンの作品は、「エステルとリイ(熱望の小説、千九百四年)、「インゲボルグ」(長篇、千九百六年)、「痴人」(長篇、千九百九年)、「海」(長篇、千九百十年)、「日本の散歩」(旅行印象記、千九百十年)、「さつさ・よ・やつさ」(日本の手踊研究、千九百十一年)、「トンネル(長篇、千九百十三年)、「西部戰線」(從軍記、千九百十五年)、「アルゴンネルワルドの戰」(皇太子ヰルヘルム序、千九百十六年)、「十一月九日」(長篇、千九百二十年)、「聖なる人々」(中篇、千九百二十二年)、「シユヱデンクレヱの經驗」(中篇、千九百二十九年)、「シエレンベルグ兄弟」(長篇、千九百二十五年)、「ミユンステルの再洗禮者」(五幕物戲曲、千九百二十五年、初演千九百二十五年十月十六日、デツサウ、フリイドリヒ座)、「波斯の隊商の道にて」(旅行記、千九百二十八年)、「神々の道、印度、小西藏、シヤム(旅行記、千九百二十九年)等がある。 [#5字下げ]なぜこの三篇を選んだか[#「なぜこの三篇を選んだか」は中見出し]  長篇「トンネル」は作者ケッラアマンの最も代表的の作品である。その著作時期は大戰前であつて、今日から見れば多少舊作とも思はれるが、大戰後の小説に於て、「トンネル」を凌駕するだけの力作はない。しかもケッラアマンの全作品を通じても「トンネル」程最も尖端的にこの作者を現すものがない。「トンネル」は今日に於ても、獨逸で最も愛讀されてゐる長篇大衆小説の一つである。その版數を重ねた點については、戰前の「トンネル」戰後の「西部戰線異状なし」と並稱される位である。ケッラアマンの作品には、短篇又は比較的短い中篇がないので「トンネル」に配するに、他の小説を持つてくる事は甚だ困難であつた。そこで、本書一册の一定した分量上、且つ「トンネル」が純歐米的の題材であるに對して、この異國的な作者の見たる日本を紹介することにした。但し「日本の散歩」の一篇から、譯者は最も興味ある都市のみを拔萃して冗長を避けた爲に、これは「日本印象記」といふ名で紹介する事にした。  ケッラアマンは大衆作家なり[#「ケッラアマンは大衆作家なり」は太字]――譯者は、この「トンネル」の讀者に對して、ケッラアマンは大衆作家であつて、この全集に收められた多くの他の藝術主義作家とは異るものであり、從つて「トンネル」もまた大衆小説であることを念頭に置かれることを切にお願ひしたい。大衆小説と藝術小説とは、その價値にどんな上下があるか。これは又別の問題である。  二十世紀の初めに伯林第一流の出版商のフィッシヤア書房では、多くの有望と認められた新進作家の作品叢書を發行した。その中に數へられた顏觸には、ヘルマン・ステエル、トオマス・マン、エミイル・シユトラウス、ヤアコッブ・シャッフナア、ヘルマン・ヘッセ、フリイドリヒ・フッフ、エヅアルド・フオン・カイザアリンク、ヤアコッブ・ワッサアマン等があつた。かういふ作家が華々しく打つて出た獨逸文壇で、しかも右のやうな人達が純藝術主義派であつた間に、幾分でも大衆性を帶びた作家にワッサアマンがあり、更に以上に大衆作家であるのがベルンハルト・ケッラアマンであつた。  ケッラアマンを之等の作家達に比べて、最も優れた點は、極めて熟練した技巧と、讀者心理の巧妙なる把握と、作品の效果に關する驚くべき知識である。こゝに於てケッラアマンを批評して、名人と呼ぶ人が多い。同時にケッラアマンの缺點とされる處は、その作品の内容性である。ケッラアマンの才筆は他の多くの作家を凌駕してゐる。けれどもこの作家は徐りに才筆を濫費して、甚だ表面的に走つた批難も少くない。例へばカイザアリンクの精神的な基調、ステエルの内面的苦鬪は、ケッラアマンの作には多く見られる處ではない。大衆作家としてのワッサアマンに比べても、なほ皮相的のそしりを受けるであらう。けれどもケッラアマンは、かういふ純獨逸作家に比べれば、その取材の範圍に於て、その構想の大さに於て、その描寫の明快さに於て、その色彩の國際的なるに於て、すべて他の作家に見られない異色を示したものである。特にケッラアマンはもつと重大な意味に於て他の作家と異つてゐる。それは常に藝術に對して甚だ窮屈過ぎる獨逸小説壇に於て、甚だ大規模な且つ大膽な通俗小説家、大衆小説家として名乘り出た事である。ケッラアマンは偉大なる藝術主義者ではないかもしれないが、好愛すべき大衆作家である。他の作家がすべて象牙の塔に籠り勝なるに反して、ケッラアマンは易々として街頭大衆の中に投じたのである。獨逸文壇では、この頃でこそ大衆作家は珍しくない。けれども今から二十五六年前に於て、この擧を敢てしたケッラアマンの非獨逸性は、決して看過すべきものではない。  ケッラアマンの作品には、北墺の作家クヌウト・ハムズンの影響が多いと見られてゐる。ハムズンの小説「飢ゑ」の激越な感情の自然性が甘くされて、ケッラアマンの小説「インゲボルグ」の洗練された美しい感情生活となつたと説く人もある。初期の作品「エステルとリイ」や「インゲボルグ」は、今日の大戰後の青春男女諸君の興味を牽くものではなからう。けれども、その華々しい甘美な戀愛小説は、また大戰前の「エルテル」と見ても好いが、この初期の時代に於てすら、この作家の豐富な才能の浪費を以て、ケッラアマンの弱點として惜まれたものである。 「エステルとリイ」や「インゲボルグ」には、叙事詩的筋書に乏しく、一種の戀愛讃歌に出來上つてゐるに反して、第三の小説「痴人」は、甘美な光に色どられた抒情詩的感情の渦卷が、はじめて叙事的な筋によつて整頓されるに至り、「痴人」に於てこの作家の人間的並に藝術家的發展が評價されたと言つてよい。この小説はハムズンの小説「神祕」ともよく比較されるもので、その人物もハムズン型だと言はれてゐる。この小説に於てもケッラアマンの抒情詩的情緒は、最後に至るに從つて濃くなつて來て、「インゲボルグ」に現れたケッラアマンの詩人としての姿が、再び顏を出してゐる。ハムズン型も、この小説を以て最後としてゐる。 「痴人」の次の「海」では、この小説家の旅行家としての姿が次第に現れて來てゐる。この作品は、小さなブルタニユの漁村を題材とし、主人公は遠い世界の端へ出掛けようとして、前の作品に見られる戀愛小説的古さは悉く捨てられ、國際的作家としてのケッラアマンの面影が、漸く顯著となつて來てゐる。極めて溌刺とした印象主義的色彩に富んだ作品だ。「海」には思想、苦惱は認められないで、外面的な體驗と束縛されない衝動的享樂を列べたものとするのが、この作に對する非難である。  その次の小説が「トンネル」である。「トンネル」は、ケッラアマンの作品の中で、最も好評を得たものであり、獨逸で最も多くの讀者を獲た作品の一つである。その構想に至つては、ケッラアマンの從來の作を初め、この時代の作家に到底見られない野心的なものであり、來るべき機械時代に於ける人間の偉力と金力を縱横に描寫して、その空想的なる點に於て、しかも今から十數年前に於て、今日の科學觀から見て少しも荒唐でない觀察をしてゐる點を見れば、ケッラアマンの叙事的才能が、決して單なる達筆に終始してゐるものでない事を知るのである。大西洋の海底にトンネルを貫通して、之に依つて歐米間の交通を目論む事は、ツエッペリン飛行以前に於ける歐米技術家の一大野心であつたかも知れない。然しこれを小説化さうとした大膽と、その具體的事實の適確さに於て、ケッラアマンの空想は誠に驚嘆すべきものである。これ丈の構想を敢てしただけでも、この作家は明かに純獨逸的な狹小な眼界に動いてゐる他の小説家とは比べられない、動的な國際性を持つてゐる。今日の獨逸で、これ程の構想の作品を探すならば、テア・フオン・ハルボウの「メトロポリス」でも持つて來なければなるまい。「メトロポリス」の非現實性に比べて、「トンネル」の現實性がどれ程科學的に組立てられてゐるか、これは讀者の容易に知られる處である。一つの科學小説としても、冒險小説としても、獨逸には他に見られないケッラアマンの最大傑作として、今日に至つても尚讀者を絶たない所以である。  歐洲大戰の間ケッラアマンは「伯林毎日新聞《ベルリイナア・タアゲブラツト》」から派遣されて、西部戰線に從軍記者として活躍して、優れた戰線記が「西部戰線」といふ本になつて出てゐる。大戰後の獨逸の混沌たる經濟生活中に苦んでゐる二つの型として、飽く事なき金と享樂の搾取者と、自己犧牲的な人道主義者を描いてゐるのが、「シエレンベルグ兄弟」である。この小説は映畫化されたが、コンラアド・フアイトが一人で性格の異る兄と弟とに扮した。唯この小説の範圍は、戰後の獨逸の特殊な生活の爲に、外國の讀者には感銘が乏しい。この小説と並んで世に現れたのは、獨逸革命を題材とした「十一月九日」である。この二篇の小説は、いづれも計畫的に筋を追うて一直線に進んで行つて、讀者の頭にはごく入り易い。それだけに精神的理想的なものとに乏しいかも知れない。けれどもその時代の問題と情緒を捉へ、今日の讀物を提供する大衆作家としてのケッラアマンの機敏と才能には、誰しも驚かないものはない。  ケッラアマンの全作品を通して見て、これを燦爛たる花火に比べた批評家がゐる。それは眩惑的な曲線となり、瀧となつて、讀者の心の空に打上げられる。讀者はその瞬間を樂むけれども、次の瞬間はまた闇の空を見るとの意である。ケッラアマンは偉大なる不世出の藝術家ではない。けれども今日の讀者に必要なる、一般大衆の需《もと》めんとするものを提供する作家である。大衆は常に巨大な彫像のみを鑑賞するものではない。一瞬にして消える花火をも娯むものである。ケッラアマンの作が見上げるばかりの巨人像でないと言つて非難するのは當らない。燦爛として空に耀く花火は、誰の目にも入り、誰の位置からも眺められ、誰の耳にも快く聞える音を響かせ、誰も共に見て、これを娯み嘆賞し得るものである。飽くまで大衆を喜ばせる作家である。獨逸には甚だ數の少い大衆作家として、ケッラアマンの右に出づるものは、先づ無いと考へてよい。  日本に來たケッラアマン[#「日本に來たケッラアマン」は太字]――ケッラアマンを日本の讀者に結び付けるものは、この作家の書いた二篇の日本印象記録である。しかもこの二篇は、他の多くの外國人の日本旅行記に比べて、全くその種類を異にした記録である。  ケッラアマンは戰前千九百九年に西比利亞鐵道で日本へ遊びに來て、東京、横濱、京都、宮島、大阪等お定りの見物旅行をやつてゐる。こゝまでは決して珍しい旅行家でもない。けれどもこの日本旅行の間で、結局どこが氣に入つたかといふと、縞の財布も空になるとさへ言はれた丹後の宮津である。この小さな海邊の町の藝者が大に氣に入つて、旗亭荒木屋で大盡遊びをやつたものである。今から二十年前の宮津の事であるから、定めて西洋人は珍らしかつた事であらう。けれどもケッラアマンには、狡猾な東京大阪の女よりも、無邪氣で親切な田舍藝者の方が、異郷を放浪する旅客には、大いに安心と親しみを感じさせたものであらう。その證據には「日本印象記」にも「さつさ・よ・やつさ」に於ても、獨逸人特有な惡意の觀察は少しも認められない。殊に「さつさ・よ・やつさ」は、この田舍藝者を相手にした日本手踊りの研究書である。しまひには、この大きな獨逸人も、メリンスの振袖の半玉と一緒になつて、さつさ・よ・やつさと踊り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる。これ程日本の讀者に親密を感じさせ、しかも外國人の皮肉と自負を見せてゐない、愉快な旅行記は未だ嘗てない。この愉快な、氣取らない獨逸人は、獨逸人の性格としても甚だ稀に見る國際性を持つてゐる。英米人には絶對に見られない愉快な獨逸人である。尤も丹後の宮津で現《うつゝ》を拔かしてゐたケッラアマンは、年僅かに三十歳の遊び盛りで、すでに「インゲボルグ」、「痴人」、「海」を書いた後の新進作家として、勢の好い時代であつた。「トンネル」はこの日本旅行を終つて歸國した後の第一作である。「トンネル」の中には一人の日本人技師も出てくるが、その忠實なる仕事振を褒めた一節も、ケッラアマンの日本の好印象の一端だと考へてよい。  長篇「トンネル」は、大西洋の海底をぶち拔く世界的大難工事である。讀者も定めて疲勞なさるに相違ない。そこでその間には一息つく積りで、吉原でも、奈良でも、花魁道中でも、日本印象記について見物下すつて、或は丹後の田舍藝者でよろしければ、「さつさ・よ・やつさ」と踊らして御覽になるのも、亦一興かと思はれる。(秦 豐吉) 底本:「第二期 世界文學全集(12) トンネル 外二篇」新潮社    1930(昭和5)年11月1日発行 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。