トンネル Tunnel ベルンハルト・ケッラアマン Bernhard Kellermann 秦豊吉訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)季節《シイズン》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)、六千|弗《ドル》と [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)轟々《ぐわう/\》と /″\濁点付きのくの字点(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)さま/″\な ------------------------------------------------------- [#4字下げ]第一編[#「第一編」は大見出し] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  この季節《シイズン》第一の呼物《よびもの》は、何と云つても、マヂソン・スクエア會堂の新築落成披露音樂會であつた。これは古今を通じて超特級の音樂會の一つであつて、オオケストラの樂士の數が二百二十名、その中のどの樂器も、夫々世界的名聲のある音樂家が之を受持つて、指揮者として拔擢されたのは、現代で最も尊敬されてゐる獨逸の作曲家某氏で、僅か一夕の出演に、六千|弗《ドル》といふ未曾有の謝禮を貰つたのである。  入場料には、流石《さすが》の紐育《ニユウヨオク》つ兒《こ》も、度膽《どぎも》を拔かれたものである。三十弗以下ではとてもどこの場所も手に入らない。そこへ拔目《ぬけめ》のない切符仲買の連中が、到頭、棧敷券《さじきけん》一枚を二百弗からそれ以上に迄せり上げてしまつた。苟《いやしく》も音樂愛好者を以て任ずる程の者は逸してならぬ大演奏會であつた。  もう夕方の八時頃には、二十六丁目、二十七丁目、二十八丁目、マヂソン通りは、爆鳴《ばくめい》を發《はつ》しながら待ちきれずに身を震はしてゐる無數の自動車で、すつかり封鎖されてしまつた。切符を取次いで賣る連中は、轟々《ぐわう/\》と詰め寄せる自動車のタイヤの間に命を任せて飛び込んで、十二度の寒さと云ふのに大汗を掻いて、弗《ドル》の紙幣束《さつたば》を手に、氣違ひのやうに走つて來る自動車の無限の激流めがけて、眞向《まつかう》から無茶苦茶に飛び込んで行く。さうしては車の昇降臺と云はず運轉手席と云はず、屋根の上へまで跳《と》びついて、その嗄《しは》がれ聲で吼え立てゝ、モオタアの急射撃を、更に幾倍にもさせようとするのである。 「いりませんか。御用はありませんか。平土間が二枚、列は十番目。棧敷席が一枚。平土間が二枚……」  斜《はす》かひに吹きおろす霰《あられ》は、機關銃の彈丸《たま》のやうに往來の上へ叩きつける。  どれかの自動車の窓ががちやんと鳴つて、「此方《こつち》へくれ」と云ふ聲がすると、忽ち賣子達は目にも止まらず潜水夫のやうに、復《ま》た車の間へ躍り込む。けれどもその賣買が濟んで、金をポケットに押込んでゐる間に、この連中の額の汗の滴《しづく》は、もう凍《こほ》りついてしまふのである。  音樂會は八時に初まる筈であつたが、八時を過ぎる事十五分になつても、まだ見渡しきれない自動車の列が、隙《すき》さへあつたら、夜霧と燈光《あかり》の中に毒々しく赤く輝やいてゐる會堂の玄關口へ乘りつけようと待ち構へてゐる。切符賣の連中の喚聲、モオタアの爆鳴、玄關屋根へ叩きつける霰《あられ》の音の中で、矢つぎ早やに入れ替つて來る自動車が、後から後からと新らしい人間の束《たば》を吐き出してゐる。物見《ものみ》高い群集は、黒い垣を作つて取り卷いて、來《く》る車、來《く》る人を大いに緊張して待ち構へてゐる。贅澤な毛皮の外套、耀く髮容《かみかたち》、光る寶石、絹の光澤に包まれた腿、惚々するやうな白い靴の足、笑ひ聲と小さい叫び聲……  紅鱒《べにます》の赤さと金色に飾られて、壯麗を極めて、のぼせ上る程蒸し暑い大|廣間《ホオル》は、ボストン、フィラデルフィヤ、バッファロオ、シカゴの第五丁目のあらゆる富を蒐《あつ》め、演奏の冒頭から最後まで、幾千の聽衆の忙しくひるがへす扇《あふぎ》で震へるかと思はれる位である。女の見物の白い肩や胸のあたりからは、むせ返るやうな香水の雲霧が立ち昇つてゐる。時時この匂ひに交つて、突然《だしぬけ》に鼻を掠める變に臭い匂ひは、この新築の廣間に使用された漆と石膏とペンキの平凡な臭氣だ。天井《てんじやう》の格子《かうし》からも圓天井からも、無數の電燈が方々に群を成して、燦爛と輝いてゐる。餘程頑強な健康な人でもなければ、この燃えるやうな光線には耐へられない程きらきら光つてゐる。粹《いき》な巴里の衣裳屋はこの冬の流行に、つばの無いヴェネチア風の帽子をはやらせた。淑女諸君は、これを髮の上へ、少し後へずらして召しておいでだ。衣裳といへば、レヱスや、金絲銀絲織り交ぜて、それに纓《ふさ》、モオル、眞珠、ダイヤモンド、高價な材料の飾り物をつけてゐる。しかもさういふ連中が絶え間なしに扇を震はして、絶えず頭を輕く動かしてゐるので、このぎつしり詰つた平土間の上は一面に燦爛として、ダイヤモンドの火花が、幾百幾子と到る處から輝いてゐる。  この音樂會場と同じやうに豪華《がうくわ》と新奇《しんき》を見せてゐる聽衆の上を、疾《とう》の昔に流行遲れとなつた巨匠連の音樂が吹き拔けて行くのである……  技師マック・アランとその若い細君のモオドとは、オオケストラの直ぐ眞上の小さな棧敷《さじき》に入つてゐた。アランの友達で、この新マヂソン・スクヱア大宮殿の建築者であるホッビイの計らひで、この棧敷の席に金を出さずに入れて貰つたのである。けれども、アランがわざ/\自分の製鋼所のあるバッファロオから此處までやつて來た目的は、音樂を聽かうといふのでは無い。アランには音樂の理解は少しもなかつた。その目的は、鐵道王で大銀行家であるロイドと、十分間ばかり話をする事で、それはアランには、何よりも大事な相談であつた。ロイドといふのは、アメリカ合衆國最大の有力者で、又世界で屈指の富豪の一人であつた。  この日の午後、汽車で來る途中から、アランは或る輕い昂奮を抑へきれなかつた。つい今數分間前までも、同じやうな特別な不安に襲はれてゐたのである。それは丁度向側の棧敷《さじき》がロイドの棧敷で、そこに誰も來てゐないのを一目見て確かめたからであつたが、今はもう、すつかり平靜に復《かへ》つて、もう一度この事柄を見直す事が出來た。  ロイドは彼處《あすこ》に來て居ない。恐らくいつまで經《た》つても來ないのだらう。又ロイドがやつて來たところで、まだ何事も決《きま》りはせん――ホッビイが寄越した電報には、もう半ば成功したと云はんばかりの文句があつたが。  アランは腰かけてゐる。或る物を期待し、しかもその期待に必要な忍耐《にんたい》を十分持つてゐる男のやうであつた。幅の廣い肩を椅子の後にもたせかけて、棧敷一ぱいに足を踏ん張つて、靜かにあちこちを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゐた。アランの體格は大きいといふ方ではなかつたが、丁度拳鬪家のやうながつしりした骨組を持つてゐる。頭の周圍は大きく、細長いといふより四角だ。やゝ粗野な感じのする無髯《むぜん》の顏の色は、特に暗鬱であつた。この冬の最中ですら、頬にはそばかすの痕を見せて、世間並みに綺麗に分けた頭の髮は、栗色で軟らかく、電燈の反射で銅色に光つてゐた。兩方の眼は、しつかりした額の下に溝のやうに窪み、明るく暗碧色の光を湛へて、いかにも人の好ささうな子供らしい表情であつた。全體から受ける印象は、たつた今航海から戻つて來たばかりの船のオフイサアと云つたやうなところで、新鮮な空氣を腹一杯吸ひ込んでゐるが、今日は思ひがけなく燕尾服《えんびふく》を着込んで、それがどうも體《からだ》に付かないといふ格好である。どう見ても、一個の健康な、少し粗笨ではあるが、人の好ささうな人間だ。智的教養も無いといふのではないが、何《いづ》れにしても大したものではない。  アランは出來るだけ退屈しないやうにした。この男に對して何の魅力も持たない音樂は、考へを纒め深めるかはりに、放散させ逃げてゆかせた。アランはこの廣大な廣間の容積を目測《もくそく》して、天井《てんじやう》と、周圍を取り卷く棧敷の構造とに驚嘆した。それから平土間《ひらどま》にきら/\と震へ動く扇の海を見渡して、兎に角この國にはうん[#「うん」に傍点]と金があるのだから、此處で今自分の考へてゐるやうな事が、計畫されない筈はないと考へた。又ごく實際的な事ばかりしか考へない男であつたから、この音樂堂で一時間の照明に要する費用を勘定し初めたものである。それは完全に一千弗は費《かゝ》る勘定であつた。それから續いて、一人々々の男達の研究に移つてみた。もとから女性に對してはまるで興味をもたない男で、やがてもう一度、ロイドの誰もゐない棧敷へ眼をやつてから、オオケストラの方を見下した。アランの席からはその右側が見渡せた。これで音樂にまるで理解のない連中と同じやうに、この男を唖然《あぜん》たらしめたものは、オオケストラを動かしてゐる機械的正確だつた。アランは少し半身を乘り出して、指揮者を眺めようとしたが、指揮棒を振つてゐる手と、その腕とが時々オオケストラ・ボックスの縁《ふち》を越して見えたに過ぎない。この痩せこけた弱々しい有名な指揮者に對して、一晩六千弗の金《かね》を支拂ふという事は、アランにはまるで不可解な謎であつた。アランは、その男をぢつと注目した。外見からして尋常外《なみはづ》れの男である。鈎鼻《かぎはな》に、小さい生々とした眼、固く結んだ唇、それから薄くなつた髮が後の方へ逆立つてゐる樣子は、禿鷹《はげたか》を思ひ出させた。まるで骨と皮ばかりで神經以外には何も無いやうに見えながら、音と騷音との混沌たる眞中に平然と突立つて、思ふがまゝに、棒の一上一下で處理して行く、その白い、見たところ力も無さゝうな手。アランは魔法使を目前に見たやうに驚嘆した。尤もその魅力と祕密の中へ踏入つて見ようといふやうな心持はなかつた。アランにはこの男が、遠い大昔の特殊な、不可解な、もう滅亡に近付いてゐる異人種としか思はれなかつた。  丁度この瞬間である。痩せこけた指揮者は不意に、兩手を高く差し上げて、狂氣のやうに振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。その兩手には忽然として、超人の力を宿したやうに見えた。オオケストラは爆發し、ぱつと燃え上つたと思ふと、一擧に靜まつた。  拍手《はくしゆ》と喝采の聲は雪崩《なだれ》の如くに場内に湧き返り、壯大な建物も搖かんばかりに轟《とゞろ》き渡つた。アランはほつと息をつきながら身繕ひをして、起ち上らうとした。けれども、それは思ひ違ひで、下では、その時既に木管樂器が緩徐調《アダジオ》を初めてゐた。隣り棧敷の方からは、こんな會話の終りも傳はつて來た……「二割の配當さ。どうだね。――とても素敵な仕事ぢやないか、まるでこれは……」  アランは仕方なく復《ま》た腰を降《お》ろしたが、もう一度周園の棧敷の構造を研究し初めたものである。この構造は、アランにはよくのみ込めなかつた。ところでアランの細君の方は、まだほんの初歩ながらピアニストであつたので、身も魂もこの音樂に打ち込んでゐた。夫と並べて見ると、モオドはいかにも華奢《きやしや》で小造りである。美しい栗色の髮の聖母型の頭を、眞白な手袋をはめた手で支へながら、透《す》き徹《とほ》るやうな綺麗な耳は、上下と云はず左右と云はず、八方から流れて來る高低さま/″\な音律の波を吸ひ込んでゐた。二百餘りの樂器が空氣に傳へる無數の振動は、モオドの全身のあらゆる神經を搖り動かさずにはゐなかつた。その眼は大きく開いて、瞬《またゝ》きもせずに遠い空間を見詰めてゐた。この若い細君が受けた感激は極めて強くて、軟かい、滑かな雨の頬は、圓く赤く染まつてゐた。  モオドはこれほど深い感動をもつて音樂を聽いた事はなかつた。第一これまで一度も、かういふ素晴らしい音樂を聽いた事が無かつたのである。ほんの短いメロデイや、つまらぬモチイフでさへ、モオドの魂へ今まで夢にも知らなかつた、或る輝きを喚起した。一つ/\の音調でさへ、生れてから初めての、匿《かく》された歡喜の脈管《みやくくわん》を燃え立たせ、それがぱつと流れ出て、心の底から魅惑し盡す勢であつた。この音樂がモオドの心に滲み込ませたあらゆる感情は、最も純粹な喜びと美しさであつた。音樂が見せてくれるすべての幻影は、モオドの心には、尊い光明の中に浮び出て、いかなる現實よりも美しいものであつた。  モオドの生活はその姿の通りに、有りの儘で單純であつた。これと云つて大きな事件も無ければ、別段に問題となる程の事も無く、世間有り觸れた若い娘や人妻と同じやうな生活をしてゐるのである。生れた土地はブルックリンで、父はそこに印刷工場を持つてゐた。それから、バアクシャイア・ヒルの別莊に連れて行かれ、其處で生粹《きつすゐ》の獨逸人である母親の膝下《ひざもと》に甘やかされて育つたのである。學校教育も立派に濟まして、二夏《ふたなつ》續けて、ショウトウクの夏期大學《サンマアスクウル》で講義も聽いたし、小さな頭にうん[#「うん」に傍点]と學問と知識とを詰め込まされたが、之は直きにまた忘れてしまつた。別に普通以上の音樂的才能があつた譯でもないが、ピアノは立派に仕上げて、ミュンヘンや巴里での稽古は一流の教師に就いたものである。それから母親と一緒に方々を漫遊した。その頃にはもう父親は死んでしまつてゐた。又スポオトをやつて、若い男達と他愛ない噂を作つた事も、若い娘に有り勝の例に洩れない。かうして青春の樂みは十分|堪能《たんのう》したのだが、今はもうそんな事なぞまるで忘れてゐる。それからモオドは建築技師ホッビイの戀を斥《しり》ぞけて、現在の夫である技師マック・アランと結婚したのである。その理由は、ホッビイを愛したのは、たゞ一個の友達としてに過ぎなかつたが、アランを愛したのは、何となく蟲が好いたからである。この結婚式がまだ擧げられない先に、大事にしてゐた小柄の母親が死んで、モオドは悲嘆の涙に暮れた。それから子供が生れたのは、結婚後二年目で、女の子であつた。モオドはこの子を何よりも可愛がつた。モオドの今日迄の生活はこれだけである。今は二十三で、幸福な生活を送つてゐるに過ぎない。  モオドが今うつとりした好い心持になつて、この演奏に聽き惚れてゐたその間に、胸の中に咲き開いて來たものは、豐富な色々の思ひ出であつた。取り止めもなく勝手氣儘に消えたり現はれたりする思ひ出ではあるが、不思議に總てが明瞭に、著しく暗示的であつた。同時に自分の生活が、急に神祕的な、深い、豐富なものに思はれ出したのである。眼前に現はれて來た小柄な母の姿は、無限の崇高《けだか》さと善良さを持つてゐた。けれども、さう考へても何の悲哀も伴はずに感じられるものは、たゞ云ひ現はし得ない情愛と悦《よろこ》びだけであつた。まるで、母親がまだこの世に生きてゐるやうな心持である。それと一緒に、今度はバアクシャイア・ヒルの景色が浮んで來た。少女の頃によく自轉軍で横切つた處だが、今思ひ出の中に甦《よみが》へつて來た風景は、神祕に滿ちた美しさと不思議な光に包まれてゐる。モオドはホッビイの事を思ひ浮べた。すると同時に、自分の少女時代の部屋の有樣が、眼の前に現はれて來た。樣々な書物が一杯に並んでゐる部屋だ。やがてピアノに向つて稽古してゐる自分の姿が見えて來た。けれどもさうすると直ぐその後から、再びホッビイの顏が浮んでくる。それはテニスコオトの片端《かたはし》のベンチに、自分と並んで腰かけてゐるホッビイである。もう大分薄暗くなつてゐて、コオトに引かれた白いラインだけがやつと見分けられる頃だ。ホッビイは脚を組んで、ラケットで白い靴の尖端《さき》をこつ/\と叩きながら、何か喋《しや》べつてゐる。この時の自分の姿が、モオドにはあり/\と思ひ浮んできたのである。それは、戀に夢中になつてゐるホッビイが突拍子《とつぴやうし》もない事ばかり云ふので、笑ひ出してゐる自分の姿だ。けれども今度は朗らかな自負と幾分か嘲笑さへ交へた心持が、このホッビイを掻き消して、次にモオドの心に呼び起したものは、あの樂しいピクニックの記憶である。それはマック・アランと初めて會つた日であつた。それはバッファロオのリンドレエ家を訪問した日で、時候は夏であつた。森の中で止まつた二臺の自動車には、總勢で十二三人の男と女が乘つてゐた。モオドはその一人々々の顏さへ、はつきりと思ひ出せた。暑かつたので、男達はシャツ一枚になつてゐた。地面は燬《や》きついてゐた。やがてお茶を沸《わか》さうといふ事になると、リンドレエは、 「アラン君、君ひとつ火を起してくれんかね。」と云つたので、アランは答へた。 「all right」  此處まで考へてくると、モオドはもうあの時分からアランの聲が好きであつたやうな氣がした。深みのある温かい聲で、胸に滲《し》み透《とほ》るやうな調子を持つてゐた。今度はアランが火を起してゐる樣子が見えて來た。默々として、一人ぼつちで、枝を折つたり割つたりして働いてゐる姿に、續いて、シャツの袖を捲《ま》くり上げて焚火《たきび》の前に跼《しやが》み、用心深い格好で火を吹いてゐる姿である。すると不意に、アランの右腕に、藍色の褪《あ》せた文身《いれずみ》があるのを發見したのもその時である。それはぶつちがひの斧の繪で、傍にゐたグレエス・ゴルドンに注意すると、この婦人はびつくりして、モオドの顏を見ながらかう言つたものだ。 「あら、あなた、御存知なかつたの。」 (この婦人は、最近に夫婦の間に一騷動起した人であつた)  それからこのマック・アランが「アンクル・トムの馬丁」であつた事や、この栗色に日燬《や》けしたそばかすの出來た青年の子供時代の色々なロオマンスを話してくれた。その時肝心のアランは、がや/\喋《しやべ》り合つてゐる上機嫌な連中にはお構ひなしで、相變らず跼んだまゝ一心に火を吹いてゐた。モオドがアランに好意を持ち初めたのは、この瞬間からであつた。確かにさうであつたに違ひないのだが、自分では、今日の日までそれに氣がつかずにゐたのである。さうしてこれ以來、モオドはアランに對する感情の赴くまゝに、すつかり心をまかせた。それから一風變つたマックの結婚の申込が思ひ出されて來た。續いて婚禮が濟んで、二人の夫婦生活の初めの幾月。やがて娘の小さなエディスを腹に宿してから生れる迄の月日。この時代に見せてくれたアランのあの何事をも犧牲にした優《やさ》しい心盡しは、モオドに取つて恐らくは一生忘れられないものであつたらう。實はその時代こそ、あらゆる女に取つて、自分の夫の情愛の深淺を測る尺度ともなるべき時期である。さう思ふと、不意に、アランが世にも思ひやりの深い、内氣な男であつたといふ事かしきりと思はれた。決してモオドはこの時代の事を忘れ切れまい。アランが本當に親切な男である事を知つたのはこの時代であつたからである。モオドは、胸一ぱいに溢れ迫つて來る情愛の切《せつ》なさに眼を閉ぢた。すると幻と思ひ出は掻き消されて、音樂はモオドの心を又連れていつてしまつた。一切を忘れてしまつたモオドは、全身が感覺だけであつた……  そこへ突然に、石垣の崩れるやうな爆音が、モオドの耳を貫ぬいた。モオドは我に返つて深く呼吸した。シンフォニイが終つたのである。アランはもう起ち上つて、兩手を手すりにかけて伸びをしてゐる。平土間《ひらどま》では、破《わ》れ返るやうな騷ぎだ。  モオドも起ち上つた。一寸頭がくら/\としたが、はつ[#「はつ」に傍点]と氣を取り直すと、いきなり兩手に力を入れて拍手しはじめた。 「あなたも手を叩いて頂戴よ。」  と、まるで夢中で大きな聲を出した。その顏は昂奮して眞赤になつた。  アランは細君の異常な昂奮ぶりを笑ひながら、二三度ぱち/\と大きく手を拍《う》つて、その機嫌を損ねまいとした。 「Bravo, Bravo」  とモオドは晴れやかな高い聲で叫びながら、半身を乘り出すやうにして棧敷の欄干から下を眺めた。その眼は昂奮に濡《ぬ》れてゐた。  オオケストラの指揮者は、痩せて疲勞に蒼ざめた顏を拭きながら、幾度も幾度もお辭儀をした。それでもまだ喝采が止みさうにもなかつたのを見ると、今度は兩手を擴げてオオケストラの方を示して見せた。かうした謙遜の態度には、無論聽衆に媚びる氣持がある事疑ひない。これを見ると豫《かね》て持論としてアランの抱いてゐた藝術家の心持に對する疑ひが、急に目を醒ましてきた。この男に云はせると、藝術家なぞといふ連中は、斷じて完全な人間並みには扱へないものであり、極端に云へば、無用の長物に過ぎない。けれども細君の方は、まるでもう有頂天《うちやうてん》になつて、また湧き上る喝采の嵐に加つてゐた。 「ちよいとあなた、手袋がこんなに裂けちやつたわ。とても素敵な藝術家ねえ、素晴らしいと思はなかつて。」  モオドの唇は身も世も忘れた喜びに震へ、その眼は琥珀《こはく》のやうに輝やいてゐた。アランは、恍惚としてゐる細君の顏を、常になく美しいものに見た。アランは微笑して、 「全くだね。素晴らしい男だよ。」 と、思つてゐるよりは冷淡に返辭した。 「あの人、天才だわ。」  と細君は大きな聲で云つて、また一生懸命に手を拍《う》ちながら、 「巴里や倫敦や伯林でも、これ位の音樂を聽いた事がありませんわ。」  と云ひかけて、扉口《とぐち》の方へ顏を向けた。丁度建築師ホッビイが、この棧敷席へ入つて來たからである。 「まあ、ホッビイさん。」  モオドはかう大きな聲で云ひながらも、まだ拍手の手を休めなかつた。他の幾千の聽衆と同じ氣持ちで、もう一度あの指揮者を呼び出さうと思ひながら、 「ホッビイさん、手を叩いて頂戴よ。もう一度今の指揮者《コンダクタア》に出て來て貰ふのよ。Bravo, Bravo……」  ホッビイは兩手で耳を抑《おさ》へて、不良少年がよくやるやうに口笛をぴいつ[#「ぴいつ」に傍点]と吹いた。  するとモオドは、 「まあ.あなたは、よくそんな眞似なさるわねえ。」  と言つて、モオドは癇癪《かんしやく》でも起したやうに、片足で床をばた/\蹴つたところへ、汗だくになつたさつきの指揮者が、頸筋のあたりにハンケチをやりながら、もう一度現はれて來た。拍手はもう一度激しく爆發した。  騷ぎが靜まるのを待つてから、ホッビイは、 「この連中と來たら、まるで狂人《きちがい》だ。」  と愉快さうに笑つて、 「何でもないですよ。僕が口笛を吹いたのは、一寸騷がしてやらうと思つたに過ぎません。ときにお孃さん、御機嫌は如何ですな。それから此方の御老體、お變りありませんか。」 やつと此處で、眞面目に挨拶を取交す暇を見つけることが出來たのである。  この三人の間柄は、お互ひに胸襟を開いた、稀に見る親密な友情であつた。ホッビイが今の自分の妻のモオドに對して昔どういふ心持を抱いてゐたか、無論アランもよく承知してゐた。それに就いてはお互ひに一言も云つた事は無かつたが、さういふ經緯《いきさつ》があつた爲めに、反つてこの二人の男同士の間柄は、特別な温かみと異樣な魅力とを感じ合つてゐるのである。ホッビイにしてみると、今でもまだモオドには多少の愛を感じてゐるのだが、調子のいゝ悧巧な男の事だから決してそれを氣取《けど》られるやうな眞似は見せない。唯モオドの女らしい確かな本能だけは、欺き了《おほ》せなかつたのである。モオドはホッビイの戀心を感じて、人知れぬ勝利の感じを味はつてゐた。その氣持は時々この女の温かい栗色の眼付に讀むことが出來たが、それと共に肉身の姉のやうな率直な愛情で、ホッビイの戀に報いてゐた。この三人は、三人とも異つた境遇に在つたので、心から喜んでお互ひに利用し合ひ、世話をし合つてゐた。殊にホッビイのお蔭を大いに蒙つてゐるのはアランである。例へば數年前に、或る工業上の實驗と、その工場の設立の爲めに五萬弗を調達してくれて、自らこの金額の保證人になつてくれたのもホッビイで、更に先週來アランの要件で鐵道王ロイドに會つて前に云つたやうな會見の機會を作つてくれたのも、このホッビイである。アランの才能に敬服してゐたホッビイは、自分に出來る事なら何でもしてやる氣でゐたのである。アランがまだ僅かにアラニットといふダイヤモンド鋼を發明した位の時分にでも、ホッビイは自分の知り合と會ふ毎に、「君は一體アランといふ男を知つてゐるかね。あのアラニットを發明した男だよ。成程、君もあの男の事は聞いてゐるんだね。」と云つたものである。二人が逢ふ機會は、年に二三度しか無い。それはアラン夫婦の方から紐育へ出掛けて來るか、ホッビイがバッファロオの二人を訪ねて行くか、どつちかである。毎年夏になると、規則正しく三週間を、バアクシャイア・ヒルに在るモオドの小さい農園の別莊で、三人の共同生活が初まるのである。かうして、一緒に會ふといふ事は、いつでも三人に取つて大きな喜びで、三つ四つ若返つたやうな氣持になつて、三人一緒に樂しく打ち解けて暮したあらゆる時間が、何かといつては生々と思ひ出された。  ところが今年は冬中會ふ機會が無かつたので、それだけに三人の喜びは一層大きく、お互ひに相手を上から下まで見上げ見下して、まるで子供が大きくなつたのを見た時のやうに、お互ひの無事を快活な調子で祝ひ合つたのである。モオドはホッビイが穿いてゐた洒落《しやれ》たエナメル靴を見て笑つた。爪先のところに、本物の犀の角をつけて、ぴか/\光る鞣皮《なめしかは》の靴だ。又ホッビイは、流行|衣裳屋《いしやうや》のやうにモオドの衣裳とアランの新調の燕尾服《えんびふく》を品評したものである。そこでまるで長い間逢はなかつたやうに、後から後からと矢繼早《やつぎば》やに訊《き》いたり答へたりしたが、別に何かに就いて立ち入つて話した譯ではない。ホッビイは相も變らず珍妙な本當に出來ないやうな冒險談を次々と散々に喋つた揚句に、やつと今夜の音樂會の事、毎日の話、友達の消息なぞを話し初めたのである。 「どうだい、この音樂堂は。」  とホッビイは、得意さうな微笑を浮べながら訊ねた。ホッビイは、二人がどんな返辭をするか心得てゐるのである。アラン夫婦は讃辭を惜まず、何もかも褒《ほ》めちぎつた。 「あつちの表玄關は、どんなものだね。」 「大したもんだよ。」 「たゞこのホオルだけが、あたし、何だか少しけば/\し過ぎるやうな氣がしますわ。もつと落ち着いた裝飾の方が好いわ。」  と口を出したのがモオドである。  建築技師ホッビイは人の好い微笑を浮べて、 「それに違ひないのですがね、然し此處へ來《く》る人が悉く音樂だけを聽きに來《く》るのなら、それも好いんですが、中々さうでもありません。此處へ來《く》るお客といふのは、唯何かにびつくりしたいか、誰かにびつくりさせて貰ひたくつて、來《く》るのです。そこでこの會社の方では、僕に向つて、是非ひとつ、思ひきつて素晴らしいものを造つて見せてくれ、これでもつて今迄のあらゆる音樂堂をぶち壞してやりたいんだから、と言ふぢやありませんか。」  アランの意見もホッビイと同じである。けれどこのホッビイの造つた會堂で、先づ第一に驚嘆したものは、裝飾上の豪奢ではない。寧ろ如何にもゆつたりと浮き上つてゐる周圍の棧敷の、思ひきつて大膽な構造だつた。  アランがその意見を述べると、ホッビイは我が意を得たりとばかりに眼を細くして、 「こいつには全く苦勞したよ。とても、頭を惱ましたものさ。何しろこの棧敷を捩釘《ねぢくぎ》で緊《し》める間は、一足歩いても棧敷全體が搖れたものだからね、こんな位に。」  と云ひながら、爪立つて體を上下に搖ぶつて見せた。 「だから職人達は、とてもびく/\ものだつたよ。」  さう云ひかけると、モオドは思はず、 「あら、こはいわ。」  と本當に怖《こわ》さうに云つて棧敷の欄干から身を引いた。  ホッビイは微笑しながらモオドの手に觸れて、 「大丈夫ですよ。僕は職人達にも云ひましたがね、まあ、この周圍の輪がすつかり繋《つな》ぎ上つてしまつてから見ろつて云ひましたよ。――ダイナマイトでもぶつけたら分りませんが、大抵の事ぢや大丈夫ですよ……」  かう云ひかけたホッビイは、ひよいと平土間の方を見下《みおろ》して、だしぬけに「おゝい、」と呼んだ。誰だかホッビイの知合ひが、メガホンのやうに今夜のブログラムを卷いて、口に當てゝ呼びかけたのである。それから棧敷と土間とで何か話が初まつた。これと同時に到る處に同じやうな不作法な怒鳴り聲が聞えてゐなかつたら、ホッビイの大きな聲は、會場到る處に聞えたに違ひないと思はれた。  何處へいつても人の眼を惹くのはホッビイの頭だ。この會場全體の中で一番明るい色の髮の毛といつたら、矢張りこの男のであらう。やゝ銀色がゝつて輝く金髮は、綺麗に左右に分けて撫でつけてあるし、氣輕さうな細長い顏は、何處か茶目な處のある云はずと知れた英吉利タイプで、少し上向《うはむ》きの鼻と、殆んど眞白といつてもいゝ位の睫毛《まつげ》を持つてゐる。すらりとした華奢《きやしや》な女のやうなこの男の格好は、アランとは好い對照である。忽ち四方八方から望遠鏡の先が、ホッビイの上に集まつて、其處からも此處からもこの男の名前が叫ばれた。ホッビイはこの紐育中でも最もポピュラアな人間の一人で、社交界での人氣者の一人であつた。この男をこんなにも早く有名にしたものは、生來の無遠慮さと、その天賦の才幹であつたのである。殆んど毎週といつてもいゝ位に、この男に關する奇談逸話の類が、紐育の新聞紙上を賑はしてゐる有樣だ。  ホッビイは四歳で花の繪の天才となり、六歳で馬の繪の名人となり、疾驅する馬の大群でも、五分間でスケッチしてのけた位である。それから今は、鐵とセメントの天才となつて、摩天樓《スカイスクレバア》を建て初めたのである。又女との出入りでも、この男らしい幾つもの戀愛沙汰を持つてゐたし、二十二歳の時には十二萬弗といふ大金を、モント・カルロの賭博場ですつてしまつた。現在金髮に銀色が交る年になつても、まだ法外な收入がある癖に、年が年中借金で首が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らないでゐる。それでゐながら、更にそんな事に懸念《けねん》するやうな男ではないのである。  朗らかに晴れ渡つた或る日に、ブロオドヱイの大道を、象の背に跨がつて悠々と乘り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した男もホッビイである。一年ばかり前に例の「四日大名」の豪奢遊びをやつて、イェロオストンパアクへ贅澤列車を走らせた揚句が、牛追ひに成り下つて舞ひ戻つて來たのも、この男である。又、連續ブリッヂの骨牌《かるた》では、四十八時間といふレコオドを持つてゐるし、電車の運轉手は皆馴染になつて、お前《まへ》、おれ、と云ひ合ふ仲であつた。それにこの男の警句や洒落《しやれ》と來たら實に無盡藏《むじんざう》で、生れながらの滑稽家で奇行家である。全亞米利加を擧げて、この男の洒落に笑ひこけた事がある。それは例の紐育、桑港間の競爭飛行の時だ。ホッビイは、有名な百萬長者でスポオツマンの※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ンダアスティフトの操縱する飛行機に搭乘したのだが、その飛行の間、人の集まつてゐる場所を覗いては、八百米突乃至千米突位の高所から、「おい、此處まで昇《あが》つてこい、僕達は君にちつと云ふ事があるんだよ。」と書いたビラを撒《ま》き散らしたものである。この酒落がまたホッビイ自身にも餘程氣に入つたと見えて、二日間に亙る長い空の旅の間中、倦《あ》きもせずに繰り返へしてやつたものである。これはつい四五日前の事だが、ホッビイはまたも、素晴《すばら》しいと同時に天才的な計畫を發表して、全紐育を面喰はせたばかりである。曰く、紐育をして亞米利加のヱネチアたらしめよ、といふのである。ホッビイの提案によると、商業地域の地面はもうこれ以上金を出す餘地はないのだから、ハドソンと東リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ァと紐育灣へ大きな摩天樓《スカイスクレバア》を建て、コンクリイトの角材で何本も大道路を造り、道路と道路との連絡には、吊橋《つりばし》を架けたら、大洋航海の大船舶にも別段邪魔とならず、樂《らく》に通行することが出來る、といふのである。この魅力に富んだホッビイの設計の見取圖が發表されたのは『ヘラルド』紙で、この男の計畫は、全紐育を醉はせてしまつた。  從つて、六十人ばかりの新聞記者が、ホッビイ一人のお蔭で食つてゐるやうな譯である。この男は、日夜せつせと働いては、自分自身の爲めに、「喇叭を吹いてゐる」のである。間斷なしに自分といふものの存在を、社會に確めないでは生きてゐられない男であつた。  ホッビイはこんな男で、その上に紐育中の最も天才的な、最も得易からざる建築家であつた。  やがてホッビイは、平土間との會話を打切つて、またアラン夫婦の方へ體を向け直して、「ときにどうです、奧さん、エディス孃ちやんは。」  と訊いたが、實はもう先刻《さつき》一度、自分が名附親になつてゐるその子供の事は聞いたのだつた。  けれども母親モオドの身にしてみると、何度訊かれてもこの事以上に心を動かされる質問は無い。だからホッビイの一言で、「手もなくまるめられて」しまつて、頬を赤くしながら、温か味のある栗色の眼に、うつとりとした感謝の心持を籠めて相手を見ながら、 「さつきも申上げたでせう、もうあの子は、一日増しに可愛くなるばかりですのよ。」  と優しい母親らしい口調で答へたが、その眼は包みきれない滿足の色で一ぱいであつた。 「いや、いつも可愛いお子ですがね。」 「えゝ。でもね……あなたにはまるでお分りにならないわ……あの子はとてもお悧巧なのよ。もう口を利くやうになりましたの。」  其處へ亭主のアランが口を出した。 「おい、あの牡鷄の話でもしてみたらどうだい。」 「さうね。」  とモオドは、幸福に輝やく眼を光らせて、ちよいとした滑稽な話を初めた。勿論その話の中の大事な役は、子供のエディスと一羽の牡鷄《めんどり》で、三人はそれこそ子供のやうに笑ひ合つた。  やがてホッビイは、 「僕も近い中にまた拜見に出掛けたいなあ。二週間以内にお訪ねするよ。さもないとバッファロオは、とても退屈で耐《たま》らないとか仰有つたつけね。」 「退屈で死んぢまひさうだわ。全く倦《あ》き/\してるのよ。」  と早口に云つたモオドは、美しい眉をひそめて、その瞬間本當に情《なさけ》ないやうな表情を見せながら、 「あなたも知つてゐらつしやるでせう、リンドレイさんのとこでも、モントリイルへお引越しになつてしまつたんですもの。」  と云つた。 「そいつは頗る殘念ですね」 「グレイス・コサットさんだつて、秋からずつと埃及へ行つてゐらつしやるんでせう。」  と思つてゐる事をすつかり相手にしやべつて、かうした一日といふものがどんなに退屈だか、また同じやうに夜がどんなに退屈で耐らないか、と話した揚句に、冗談めかして非難するやうな口調で、かう附け加へたものである。 「ねえ、あなたも御存知でせう、家《うち》の人ときたらお附き合ひなんてもの、とても駄目なのよ。この頃は以前よりもつとあたしの事なんか構つてくれないんですもの。どうかすると、まる一日工場から出て來ないのよ。それにまた近頃は、立派な道具がちやんと揃つてゐる上へ、試驗に使ふ鑽孔器をたんと買つてきてね、明けても暮れても花崗岩《みかけいし》だの、鋼だの、それから何の彼《か》のつて、いろんなものに孔を開けてばかりゐるのよ。そのまた機械を、家《うち》の人はまるで病人扱ひ※[#判読不可、15-上-6]して大事にしてゐるのよ。夜になると、その機械の夢を見るんですつて……」  此處で笑ひ出したのがアランである。  ホッビイは、 「まあまあ、やりたい事をさせてお置きなさいよ。」  と云ひながら、白い睫毛をぱち/\やつて、 「この人には自分のする事がよくわかつてゐるんでさ。だからまあ僕に免じて、そんな二三本の鑽孔器なんかを嫉《や》くのはお止《よ》しなさい。」 「でもその機械がとて憎らしいわ。」  と答へたモオドは、少し頬を赤らめて、 「だつてあなたもさう思ふでせう。家の人がかうして一緒に紐育まで來たのだつて、自分の用事が此處にあつたからこそですわ。」 「まあ何だ、そんな事を。」  とアランは細君を靜めるやうに云つた。  ところがホッビイの方では、モオドが冗談半分に云ひ出した非難で、大事な用事を思ひ出した。實はその事をアランに話さうと思つてゐたのである。そこで、急に考へ深さうな顏をして、アランの燕尾服を手で引張つて、少し小聲にかう云つた。 「君、ちつとまづい話なんだが、折角バッファロオからやつて來ても、今日は無駄足になつたぜ。ロイド老人ちよいと體の具合が惡いのだ。一時間ばかり前に娘さんのヱセエルに電話かけて見たがね、令孃にも、來られるかどうかまだ分らないつて挨拶だつたよ。本當に間《ま》の惡い話だが。」 「いや何も今日に限つた話ぢやないから構《かま》はんよ。」  とアランは平然と答へたが、實は腹の中では尠からずがつかりしたのである。 「兎に角僕は惡魔のやうに先生の隙を窺つてゐるからね、先樣もこれぢや油斷も隙もならんわけだが。ではこれで一寸失敬するよ。」  と言つたかと思ふと、もうホッビイの姿は、元氣のいゝ挨拶と一緒に隣りの棧敷《さじき》へ割り込んで行つた。其處には、三人の赤い髮の女連が、母親らしい婦人と腰かけてゐた。  その時不意に、例の痩せこけた禿鷹《はげたか》のやうな顏付の指揮者が、また臺上に立つた。微妙に盛《も》り上つてくるやうな音響が、大太鼓から湧き起つて來た。それに相和して、フアゴットは呼びかけ訴へるやうな甘美なモチイフを奏し初め、同じメロデイを繰り返しながら次第に高まつてきて、最後に急激なヴァイオリンの音色に、そのモチイフを奪はれ、移されていつた。  モオドはまたその音樂に聽き惚れてゐる。  けれどもアランの方は、冷淡な眼付をして自分の椅子に腰かけてゐた。この男の胸の内は、内心の緊張で大きく動いてゐた。こんな場所へ出掛けて來たことを後悔し初めてゐるのである。音樂會場の棧敷で、一寸お目にかゝらうと云ひ出したロイドの提案も、滅多に自分の邸宅へ人を迎へない、この富豪の奇癖を思ひ合はせて見れば、其處に別段不思議とする程の事もなかつたので、躊躇なくそれに同意したアランであつた。それに又、相手が本當に病氣だつた場合には、此方から詫びを云はうといふ心持さへ持つてゐた位である。けれども自分の今度の計畫に就いては、飽くまでも最大の顧慮と敬意が拂はれなければならない。この偉大なる計畫には、考案者である自分自身でさへも時に茫然たる事があるではないか。五年間といふ長い日子を、晝夜《ちゆうや》の別なく努力して、漸く考案したこの計畫は、今日に至るまでも唯二人にしか打ち明けてない。その一人が、ホッビイである。喋《しやべ》つて差支へない事は、舌を抑へつける事の出來ない限り喋り散らす代りに、一旦沈默を守るとなつたら何一つ口外しない男であつた。もう一人はロイドである。細君のモオドではなかつた。そこでアランは、ロイドが何事を措いてもこのマヂソン・スクヱア音樂堂に足を運んで來る事を要求したのである。或はせめて何か通知でも寄越して、後日の面談の機會を約束して欲しかつたのである。萬一それさへ怠るやうなロイドならば……宜しい、おれは斷じてそんな我まゝで病弱な金持なんぞ相手にせん。アランはさう腹を据ゑてゐたのである。  激しくふるへる音樂と、むせ返る香水、眼も眩《くら》む光線の流れ、耀《かゞや》く寶石の稻妻。かういふものに滿ち溢れて、温室のやうな會場の空氣が、アランを熱で圍んで、その考へをどこまでも明瞭にさせていつたのである。アランの頭は敏速に、しかも極めて精確に働き出してゐたが、實はこの時或る強烈な昂奮がだしぬけにこの男を襲つて來た。それは「この計畫が最後」だといふ考へであつた。この計畫を抱いて立つか、さもなければ、この計畫を抱いて斃れるか。」と[#「斃れるか。」と」はママ]いふ覺悟だ。アランは今日までに、實驗と研究と幾度となく準備した仕事のために、自分の全財産を犧牲にしたばかりではない。萬一この計畫が遂行《すゐかう》されなければ、明日は初めつからやり直さなければならなかつたのである。この計畫が、アランの生命であつた。自分の掴み得る機會《チヤンス》を、代數の問題のやうに計算した。この問題では、一つ/\の項が、前に出た結果の解答であつた。アランは今度の計畫の第一着手として先づ鋼鐵トラストを關係させることに成功したが、やがてこのトラストは、シベリア鐵との競爭で、ひどい目に會つた爲め、前代未聞の恐慌を蒙つて、休業状態となつてゐた。そこでこのトラストは、アランの計畫に十中八九飛びついてくるだらう。さもなければアランがトラストを敵に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、最後の血路を見出すまでは戰ふ外はなかつたのである。アランは世間の所謂大資本家のモルガン、ワンダアビル、グウルド、アスタア、マッケイ、ヘエヴメエヤア、ベルモント、ホ※[#小書き片仮名ヰ、17-上-17]ットネエその他の金持連中を、片端から襲撃することが出來た。大銀行團を掴まへることも出來た。それでも尚、一切が失敗に終つたら、最後の手段として、新聞社と手を結ぶことも出來た。  かうしてアランは※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り道をして、自分の目的に達することが出來た。これから考へれば、何も、ロイド一人なんぞを必要とはしなかつたのであるが、ロイドと結んでゐるといふ事は、既に勝つた戰であつた。これが出來ないとなると、この先へ進出する事に非常に骨が折れる。僅か一尺四方の地形を占めるにも、その一つ/\を手に入れて行かなければならないからである。  アランには、周圍の光景も物音もまるで分らなかつた。險《けは》しく眼を半ば閉ぢたまゝ、頻りに自分の計畫の進出策を、微細な點まで考へてゐた……  その時急に發作《ほつさ》のやうに、物音ひとつなく音樂に魅《み》せられきつてゐた會場の空氣を搖がしたものがあつた。一齊に聽衆の頭が動いた。寶石は益々きら/\輝いた。あつちこつちに眼鏡が光つた。丁度音樂は、ごく穩《おだ》やかに低く流れてゐたので、場内に起つたかすかな囁きを聽きつけた指揮者は、怒つたやうにその方へ眼をやつた。何か持ち上つたに違ひない、今夜の聽衆に對して、二百二十名の樂士よりも、指揮者よりも、不滅の作品を殘した作曲家よりも、もつと強い魅力を働らきかけたものが、何かはじまつたのである。  アランの隣り棧敷で、抑へつけたやうな低い聲で、かう云つた者がある。 「あの女の寶石は、薔薇ダイヤですぜ……アプヅウル・ハアミットの寶物の中ので………二十萬弗だ。」  この聲で、ふとアランは眼を擧げた。向側の棧敷は暗かつたが――其處に來たのは、ロイドであつた。  暗い棧敷なので、はつきりとは見えないが、そこに優しい上品な横顏を見せてゐるのは、紛れもなくロイドの娘の評判の高いエセエルであつた。ほの暗い薄明《うすあか》りの中でも、その輝く金髮が、見分けられた。聽衆の方に向けた左の顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]のあたりに光つてゐるのは、薄紅い火のやうな、大きな寶石であつた。 「見給へ、あの頸の邊と襟脚を。」  低くひそめた男の聲が、その隣りで囁いた。 「君、今迄にあれ位の襟脚を見たことがあるかい。人の話では何でも、建築家のホッビイが……さうさ、つい今しがた傍に居た、あの金髮の男さ……」 「さうかい、そいつは考へさせるね。」  と、よその男の聲が囁くやうに答へた。純粹な英吉利流の發音だ。續いて忍び笑ひの聲が起つた。  ロイドの棧敷の後《うしろ》は、カアテンで仕切つてある。ヱセエルの身の科《こな》しから察して、アランはこのカアテンの蔭に口イドが居るのだと睨んだ。それで脇《わき》の方へ半身を曲げるやうにして、 「でもやつと來たよ、ロイドが。」  と、細君モオドの耳へ囁いた。  ところが生憎と細君の耳は、音樂の方で塞がつてゐたから、アランの言葉は通じなかつた。百萬長者ロイドの娘ヱセエルが棧敷に現はれて、例の「薔薇ダイヤ」をぴか/\させてゐる事に、まだ氣が付かないでゐた者は、恐らく廣い會場内で、モオド一人位であつた。モオドは音樂によつて煽《あお》りつけられた一瞬の心の昂奮から、思はず小さな手を、探すやうにアランの方へさし延べた。アランはその手を握ると、機械的に撫でたが、この男の腦髓の中では、幾千の大膽俊敏な考へが活動してゐて、その耳は、ぢき近所でひそ/\やつてゐる言葉の斷片をも逃《のが》さなかつた。 「ダイヤモンドかい。」  と、さゝやくやうな聲が訊《き》くと、 「さうさ、人の噂では、あいつ、こんな具合に初めたんだ。濠洲のキャンプで。」  と、つぶやくやうな聲が答へる。 「ぢやあ一か八か、つてわけだね」 「あいつ流儀でね。あいつはもと繩暖簾の主人だつたのさ」 「だが、鑛山の權利はなかつたつてぢやないか。」 「ところが、あいつ獨特の權利でね。」  こゝでひそ/\笑ふ聲が洩《も》れた。 「僕には君の言ふ事がまるで分らないな。」 「かういふ評判があるのだ。あいつの鑛山ではね、と言つたつてあいつが一錢も金を出した譯ぢやないがね……坑夫達の身體檢査がとても嚴重なのださうだ、君も聞いてる通りにね……ダイヤモンドを腹へ呑み込んで出てくる奴があるんだ。……」 「そいつは全然初耳だね……」 「そこで曰くさ、あのロイドつて男は……酒屋の主《あるじ》で……ウ※[#小書き片仮名ヰ、19-上-15]スキイの中へ何か藥品を交《ま》ぜて飮ませるのだ……そこで坑夫が船に醉つたやうになつて、腹のものをダイヤモンドと一緒に吐き出すんだ……あいつの鑛山で……」 「へえ、まるで嘘のやうだね。」 「專らさう云ふ噂なのだよ。ところで今はあいつ、大學や天文臺や圖書館なんかに、何百萬て金を寄附してるんだから……」 「やれ、やれ。」  と、すつかり感心したのは、小さい聲を出してゐた方である。 「だからとてもあいつは頑固で、人嫌ひなんだ。邸《やしき》の周圍は、一米突もあらうつていふ厚いコンクリートの壁で取り卷いてさ、外の音がまるで入つてこないやうにしてゐるんだ。……何の事はない、まるで囚人だよ……」 「へえゝ、さうかね……」  こゝで、「しつ」と云つて、腹の立つたやうに聲のする方へ頭を向けたのがアランの細君だ。小さい聲はばつたり止んでしまつた。  休憩時間になると、例のホッビイのぴか/\光る金髮の頭が、ロイドの棧敷へ入つてゆくのが見えた。ヱセエルは、まるで仲の好い友達のやうに、この男と握手してゐる。 「どうだい、僕の云つた通りぢやないか。」  と、大きな聲で言つたのは、アランの隣りの棧敷の深い聲であつた。 「ホッビイて男は全く果報者だよ。尤もあすこにはワンダァスティフトも居るがなあ――」  暫くするとホッビイが此方側へやつて來て、アラン夫婦の棧敷へ首を突込んで、 「さあ、來て貰はう、あの御老人が君に會はうと仰しやるよ。」  と大きな聲で言つた。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し] 「こちらがマック・アラン君です。」  ホッビイはかう云ひながら、アランの肩を叩いた。  ロイドはその時薄暗い棧敷の中で、顏を下に向けて、背中を丸くして、腰を掛けてゐた。此處からは、笑ひさゞめく紳士淑女諸君で滿員の、周圍の棧敷の眩《まぶ》しい一斷面が見渡せるのである。ロイドは、ホッビイに紹介されても、顏さへ舉げようともしなかつた。まるで今の言葉が通じなかつたやうである。暫らくしてから、用心深いやうな、ぶつきら棒な調子で、嗄《しは》がれた、雜音の交る聲でアランに言つた。 「お目にかゝれて何よりです。わしは既にあなたの計畫は、詳細に研究しましたが、いや、中々思ひきつた御計畫で、えらい事業です。可能性は十分ありますぞ。わしに出來ることなら、お引受けしませう。」  かう言つて、初めてアランの方へ手をさし出した。それは短い四角な手だ。軟かい、疲れた、絹のやうにしなやかな感じだ。それから顏を、こちらへ向けたのである。  豫《かね》てホッビイから聞かされて、十分覺悟はつけて置いた顏だが、それでも尚ほアランは、下腹へうん[#「うん」に傍点]と力を入れて、この大富豪の顏から襲ひかゝつてくる恐怖の心持を、隱さうとしなければならなかつた。  ブルドックを想はせる顏だ。下の齒が少し突き出て、鼻の孔《あな》はまるく、涙を溜めてゐるやうで、火のついたやうな小さい眼が、まるで斜についた傷痕のやうだ。皮膚は枯れきつた鳶色の、無表情極まる顏である。頭はまるで禿《は》げて、頸筋から顏、頭へかけて、厭らしい痣《あざ》の痕が食ひ散らして、かさ/\にしてゐて、骨の上に辛うじて、煙草色した皮と萎《しな》びた筋肉とが張つてゐた。かういふ人間の顏は、恐るべき力を持つてゐる。大抵の人間なら、これを見て色を失ふ者から氣絶をする者も出來るであらう。こんな顏に面《めん》と向つても平氣でゐられるのは、よほど強い神經を持つてゐる連中だけである。ブルドックに髣髴とした悲喜劇的の顏だが、同時にこんな顏から發散する感じは、生きた骸骨のやうな恐怖である。アランは、印度土人の木乃伊《みいら》を思ひ出した。ボリ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]アの鐵道工事の際に目撃した木乃伊だが、どれもこれも四角な箱の中に蹲《うづくま》つてゐて、頭はどれを見ても乾《ひ》からびてゐて、萎び切つた唇の奧には、上下の齒が剥《む》き出してゐた。眼の球は、白と暗色の石で自然のまゝに象箝《ざうがん》されてあつたが、實に氣味惡く本物のやうに出來てゐた。  ロイドは自分の顏が話相手にどんな效果を及ぼすか、そんな事は十分に知り拔いてゐる。そこで今アランに與へた印象に滿足を感じながら、濡れた小さい眼で、アランの顏をしげ/\と見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、やがて、 「實際にあなたの御計畫は、わしが今日まで聞かされた中では一番大膽なものです――しかも實現出來る計畫です。」  と繰り返へして云つた。  アランは丁寧にお辭儀して、ロイド氏のやうな富豪が、自分の計畫に興味と關心を寄せてくれた事を光榮とする、といふ意味を述べた。しかも今自分の一生の浮沈《ふちん》が決定するといふ大事な瞬間に立つてゐながら、少しも動じない自分の心持には、我ながら驚嘆せざるを得なかつたのである。最初この棧敷へ足を踏入れた時は、さすがに心が躍つたが、今はもうすつかり落ち着いて、ロイドが發する短い精密な質問に對しても、てきぱきと正確に答へることが出來た。又アランはこの亞米利加切つての有力者を向うに※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、これと云つて確かな根據を擧げることは出來ないが、何か自分の立場の確實さを、瞬間的に感じたのである。勿論ロイドの樣子、經歴、富の程度は、ほかの人間ならそれに威壓されて間誤《まご》ついたかも知れない。 「ではあなたの御用意は、餘程出來てをりますかな。明日にでもその計畫を提《ひつさ》げて、世間へ打つて出ることが出來ますか。」  ロイドは最後にかう質問した。 「いや、まだ三ヶ月程の準備が必要で。」  とアランが答へるのを聞いて、 「ではあなたは片時もぐづ/\して居つちやいかん。萬事はすつかりわしにお任せなさるがいゝ。」  かうロイドはきつぱりと云ひ放つてから、輕くアランの袖を引くやうにして、娘の方を指しながら、 「これが娘のヱセエルです。」  と云つた。  アランはヱセエルの方へ眼をやつて挨拶した。令孃はさつきから話の濟むまで、アランをぢつと見守つてゐたのである。 「How do you do?」  と活溌《くわつぱつ》に云つたヱセエルは、相手の顏を見つめながら、いかにも亞米利加娘らしい自然さで、氣輕に手をさしのべた。それからちよいと間を置いて、何となく惡戲《いたづら》じみた美しい微笑を浮べながら、 「では、この方なのね。」  と云ひ添へて、アランに對して抱いてゐた自分の興味と關心とを匿さうとした。  アランはお辭儀したが、すつかり面喰つた。こんな若い令孃を相手に、どうあしらつていゝものか、まるで分らなかつた。  その中にアランは、ヱセエル孃の化粧が人並でない厚化粧であるのに氣づいた。何となくパステル畫を思はせるやうな姿である。ごく優しく柔らかな感じのある色彩だ。金髮の色、眼の紺碧、若さに輝やく唇の赤さ。その挨拶ぶりは、まるで世馴れた貴婦人そつくりだが、聲を聞くと、何處か甘つたれた子供らしいところがある。ホッビイは十九歳だと教へたが、それどころか、ほんの十二歳位にしか聞えなかつた。  そこで何か口の中で、丁寧な極り文句《もんく》の挨拶を言つてゐたアランの口許《くちもと》には、輕い狼狽の微苦笑が殘つてるた。  それでもまだ令孃の眼は、アランの顏から離れなかつた。まるで勢力のある貴婦人が、わたしの眼にとまつたお前さんは果報者よと云はんばかりの樣子と、まるで子供らしい好奇心とが相半ばした眼付であつた。  ヱセエル媒は、亞米利加美人の見本である。すらりとして、輕快で、しかも女らしい。房々として豐かな髮は、稀に見る美しい金髮である。之を嫉《ねた》む貴婦人令孃連が、いつも「あれは染めてるんだわ」と言つてゐた。それに睫毛《まつげ》も著しく長いので、白粉の痕がくつ着いてゐる。暗碧色の眼は、澄んで明るいが、睫毛が長いので、輕く掩はれる。その横顏、額、耳、襟脚、すべてが貴族的で、種族的な新鮮さを持つてゐる。けれどもその右側の頬には、父親の顏を醜怪にさせた、あの恐るべき惡疾の痕が現はれてゐた。※[#「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28]から唇の角にかけて、木の葉の纖維《せんゐ》のやうな線が、明るい栗色に何本か走つてゐるが、厚化粧の白粉に塗り隱されて蒼黒い黒子《ほくろ》のやうな色に見える。  此處でまた口を開いたのがロイドだ。 「このわしは、自分の非常に興味を感じた事柄に就いては、娘ともいろ/\話しますのが好きでしてな、この娘にあなたの御計畫を洩らした事も、決して惡くとらんで頂きたいな。これはごく口の固い女ですしな。」 「えゝさうよ、あたしおしやべりなんかしませんわ。」  とヱセエル孃は活溌な調子で言つて、微笑しながら美しい頭で頷《うなづ》いた。 「あたし達ね、あなたの御計畫を研究するのに、何時間も何時間もかゝりましたのよ。あたし父と長い間その事でお話してゐますうちに、到頭父まですつかり夢中になつてしまひましたの。今夢中になつてゐらつしやるのね、お父さんは。」  ロイドの顏は相變らず無表情だ。 「ねえ、アランさん、家《うち》の父はあなたをとても尊敬してますわ。是非あたし達の宅へもお出掛けになつて頂戴、いかが。」  かう云ひながら輕く睫毛《まつげ》で掩はれた瞳で、アランの眼にぢつと見入つた令孃は、美しく震へる唇に、朗かな若い微笑を浮べた。 「いろ/\御親切に有難う御座います。」  とアランは輕い微笑で、娘の熱心さと活溌なおしやべりに答へたのである。  この微笑が、またエセエル孃の氣に入つた。令孃は遠慮のない態度で、アランの白い強さうな齒並を見つめてゐたが、やがて唇を開いて、何か云ひかけようとすると、この瞬間に管絃樂が|※[#「革+堂」、第3水準 1-93-80]々《だふ/\》と鳴り出した。令孃は父親の膝を輕く搖ぶつて、もう少しおしやべりしててもいゝわねえ、とせがんだ。ロイドも非常な音樂好きであつた。それから令孃は、アランの耳に口を寄せて、何か大事な話でもするやうにかう囁やいたのである。 「ねえアランさん、あたしあなたのお味方してるのよ。父が心變りしないやうに、きつとお引受けしますわ。御存知でせうけれど、父は時々そんな事をしますの。でも大丈夫だわ、無理に押しつけてゞも、あたし萬事すら/\、運ぶやうにして上げますわ、では又ね。」  アランは慇懃《いんぎん》にお辭儀して、エセエル孃と握手したが、やゝ無頓着らしく頭をうなづかした態度が、令孃には多少物足りなかつた。――兎も角その場の話はこれで終つた。この話こそアランが畢生の事業であり、歐羅巴と亞米利加の新舊二大陸の連絡に、一新紀元を劃する事業を決定する話であつたのである。  アランの計畫の第一歩は成功した。この最初の勝利が心の奧に喚《よ》び起した考へや感情が心の中に湧き返つて、何か強く輝やく心持で、アランはホッビイと共にロイドの棧敷を出ようとした。  その時に扉口《とぐち》で、二人に突き當りさうになつた、二十歳にもまだならぬ位の若い男があつた。それでもまだ飛び退いて、立ち直るだけの餘裕《ゆとり》は持つてゐたから、突き飛ばされずには濟んだ。この若い男は、確かにロイドの棧敷の中の樣子を窺はうとしてゐたのである。その若い男は笑つて自分の無禮な振舞を述べて詫びたが、これはヘラルド紙の探訪記者で、今夜の音樂會から、何か社會面のニュウスを拾ひ出さうとしてゐたのだ。そこで遠慮もなくホッビイの前に立ち塞がつて、 「やあホッビイさん、一體こちらの紳士はどなたで。」  と切り出したものである。  ホッビイは足を止めて、頗る上機嫌で眠をぱち/\させながら、 「おや、君は知らないのか、この人を。」  と、訊き返へして、 「これこそバッファロオのアラン鋼鐵工場長マック・アラン君だよ。有名なるダイヤモンド鋼アラニットの發明者であると共に、グリイン・リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]アの拳鬪選手だ。世界有數の人物だよ。」  新聞記者は大聲で笑ひ出して、 「なぞと仰しやつて、あなたは御自分をお忘れですな。」  と答へて、頤でロイドの棧敷の方をそれと示しながら、 「何かニュウスでもありませんか。」  と恭々《うや/\》しく、しかも何か聞き出したいやうに小さい聲で云つた。 「大有りとも。」  と笑つて答へたホッビイは、歩き出しながら、 「君等は度膽《どぎも》をぬかれるぞ。何しろ、千呎もあらうつていふ途方もない絞首臺をぶつ建てるんだよ。これで、七月四日を期して、一齊に紐育中の新聞記者の首を吊つてやるんだ。」  ところがこのホッビイの冗談が、本當に翌日の新聞に書き立てられたばかりではない、間違つてはゐたが肖像の寫眞まで一緒に掲載して、「チャアルス・ホレエス・ロイド氏の棧敷に招かれて、驚くべき大事業計畫の交渉を遂げたるアラニット・ダイヤモンド鋼の發明者、マック・アラン氏」といふ説明までも麗々しく書き添へてあつた。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  細君のモオドは、相變らずいまだに音樂に聽き惚れてゐる。けれども今はもう先刻《さつき》のやうな淨《きよ》い敬虔な心持で、耳を傾けることは出來なかつた。この若い細君は、ロイドの棧敷の中の樣子をよく見てゐたからである。勿論何か新しい事業を初めるのに忙しいのだといふ事も、それが夫のいふ通り「大事業」である事も心得てはゐる。けれども、それがどんな風の發明なのか、どんな種類の計畫なのか、決して夫には訊ねなかつた。モオドに云はせれば、機械とか技術上の事柄位、自分に縁の遠いものはない。又自分の夫に取つては、このロイドと手を握り合ふ事が、どれ程大事だかもよく承知してゐたのだが、然し何も、今夜といふ今夜をそんな會談に當てなくともよさゝうなものだと、腹の中では夫に對して不滿を感じてゐた。長い冬の間のたつた一晩を、夫婦揃つて音樂會に出かけておきながら、第一かういふ音樂の最中《さいちゆう》にそんな職業上の事務や要件を考へ出すなんて事が、モオドにはまるで想像もつかない。どうかするとこのモオドは、自分の性質が亞米利加といふ國の風習にうまく合はないのではあるまいかと考へた事もあつた。この國では何でもかんでも事務《ビジネス》で、しかも事務《ビジネス》のみである。休養の時と事務の時間とを區別する事を辨《わきま》へてゐる歐羅巴の方が、自分には幸福だつたのではあるまいかとも考へるのである。けれども、モオドの心を不安にするものは、それだけでない。それはこの愛すべき細君の永久に目覺めてゐる纖細な本能だ。それはロイドの所謂「大事業」といふものが、自分の夫を獨占してしまふだらうといふ懸念《けねん》であつた。この事業に夫が愈々取かゝるとなれば、さぞ夫は現在に輪をかけて自分なぞ構ひつけまい。現在すでにバッファロオの工場と仕事すらも、モオドには尠からぬ不滿なのである上に。  モオドの樂しい心持に、一抹の暗影を投じたものは、この不安である。いつか額に深い皺が寄せられてゐた。けれども暫らくすると、急にその顏は、靜かに晴々して來た。それはフウゲのやうな、戲《たはむ》れるやうな輕快な、早い音樂の一節から、急にはつきりと子供の事が心に浮んで來たのである。實に謎のやうな聯想であつた。モオドは一人の幸福な母親として最も樂しい自分の立場にあることを思ひ起すことが出來たのである。そこでこの音樂の中に、自分の小さい娘の將來の豫言を聞き出さうと思ふ考へが、若い母親の心を誘惑した。初めは何もかも素晴らしくゆくやうに思へた。娘のエディスは、この音樂のやうに幸福なものにならなければいけないわ、エディスの一生は丁度あのやうでなければいけないわ、と考へてゐる内に、その戲れるやうな朗かな晴々した心持は、急に困窮と不吉な豫想を喚《よ》び起すやうな、重苦しく引きずる調子に移つていつたのである。  モオドの心臟は次第に緩《ゆつ》くりと鼓動して來た。「おゝ厭だ。可愛いあの子の一生が、こんな音樂みたいになつては堪らないわ。あたしは、あの子と子供のやうに遊んだり、經驗のあるお母さんのやうに氣をつけてやつてゐるのに、おゝ厭だ、そんな莫迦々々《ばか/\》しい事を考へたりして、あたし、とてもどうかしてるわ。」モオドは頭の中で、自分の子供を抱き庇《かば》つて、その可愛らしい體を、この重苦しい緊《し》めつけるやうな音樂に對して防ぎ護《まも》らうとした。暫くしてから漸くこの厭な考へを、別の方向へ轉換させることが出來た。  そのモオドを救つてくれたのも、矢張り音樂の力であつた。また急にモオドの心は、澎湃たる音の流れに、あてどもない憧憬の世界へ連れてゆかれたのである。その憧憬は熱烈で壯麗で、一切の考へを窒息《ちつそく》させてしまつた。モオドはかうして又體中を耳にする事が出來た。息をも繼《つ》がせず、奔躍する情熱で、音樂は進んでいつた。これを指揮するものは、誘惑するやうな熱い聲だ。モオドは暴風に吹き飛ばされる一枚の木の葉に過ぎなかつた。するとこの時である。荒い呼吸に喘《あへ》いでゐた情熱が、突然に何か知れぬ障碍にぶつかつて碎けた。巖《いは》に當つた大浪が碎け散つたやうであつた。それから轟々《ぐわう/\》と押し寄せた激浪は、震へ戰《おのゝ》く恐怖の悲鳴に碎け飛んでいつた。モオドは急に立ち止つて、自分には何だか譯の分らない、祕密な、知らないものを無理にも考へなければならないやうな氣がした。息づまるやうな暴風の後の靜寂は、平土間《ひらどま》にそよいでゐた扇《あふぎ》が、一齊に動かなくなつた位に、異樣な、人の心を縛りつけるやうな力を持つてゐた。やがて、また曲は續けられて、頼りないおどおどした不協和音が聞えて來た。それと共に、扇も動き初めた。そこで壓迫され、苦しめられてゐるやうなこの音は、重苦しく、やつとの思ひで韻律の形式を作らうともがいてゐるやうで、モオドの心持を、陰氣に考へ込ませてしまつた。フアゴツトは嘲《あざ》けるやうに下から呼びかけ、セロは正直に苦しんでゐる。モオドはまるで自分の全生涯が、今ここで急に分つたやうな氣がした。わたしは幸福ではなかつた、いくら夫がわたしを大切にしてくれて、わたしは又夫を偶像《ぐうざう》のやうに愛してゐても――いえいえ、決して幸福ではない、何か不足してあるものがあるのだ……  かう思つた瞬間である。丁度其處へアランが、肩を叩いて、耳許でかう囁やいた。 「ねえ、おい――お前とおれとは、水曜日に歐羅巴へ行くんだよ。それにはバッファロオへ戻つて、まだうん[#「うん」に傍点]と用意をして置かなければならん事もあるんだが。どうだね、今から行けば、夜汽車にはまだ間に合ふが、お前の考へはどうだい。」  モオドは返辭をしなかつた。默つて身動きもせずに腰掛けてゐる。逆流した血が、肩から、頸筋から顏に上つて來た。次第に涙が眼に溜《たま》つて來た。二三分經つた。この瞬間ほど自分の夫を憎らしいと思つた事はなかつた。自分の用事がいかにさし迫つてゐるからと云つて、折角一心に聽き惚れてゐる音樂會から、わたしを連れ出さうとするなんて、何てひどいやり方だらう。さうとしかモオドには思へなかつた。  アランは、妻が深い溜息をついたのを聞き、兩頬が眞赤になつてくるのを見た。自分の手はまだ女の肩に置いたままだ。アランは細君を愛撫するやうにその手を動かして、宥《なだ》め賺《すか》すやうに、 「ぢやあ好《い》いよ、此處にゐよう。今のはたゞ訊いて見たゞけなんだから、なに、明日の一番列車だつて、差支へはないさ。」  と囁やいた。  けれどもモオドの機嫌は、根こそぎ傷つけられてしまつた。それに音樂の方も、今は心を苦しめるばかりだ。緊《し》めつけるやうな不安を抱かせるばかりだ。モオドは今夫の言葉に從つた方がいゝか惡いか迷つてゐた。其處へふと眼についたのは、例のロイドの愛孃エセエルであつた。令孃は無遠慮にモオドの方へ望遠鏡を向けてゐた。之を見た瞬間に、モオドは起ち上つて、行かうといふ決心がついた。モオドは無理に微笑を作つて、エセールに見せつけようとした。まだ濡れてはゐたが、急に變つたやさしい細君の眼付に、アランは少からず驚いた。 「さあ、參りませうよ。」  モオドは、さう云つて立ちかゝると、夫のアランが慇懃《いんぎん》に手を貸してくれたのを悦びながら、晴れやかに微笑して、いかにも幸福この上ない心持をわざと見せるやうにして、棧敷の外へ出て行つたのである。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  アラン夫妻が中央ステエションへ着くと、丁度、汽車はプラットホオムから出て行つた。  モオドは、小さい手を毛皮の外套のポケットに突込《つゝこ》んで、深々と立てた襟の奧から、アランの顏を覗くやうにして、 「汽車が出ちまつたわ。」  と笑ひ聲で云つた。出て好かつたと思ふ滿足を隱すのには、何も難《むづか》しいことは無かつた。  二人の背後《うしろ》に立つてゐるのは、下男のレオンだ。年寄りの支那人で、誰も彼もリオンと呼んでゐる男である。そのリオンが旅行鞄を擔いだまゝ、萎《しな》びきつた皺くちやの顏の愚鈍らしい表情で、出て行つた汽車を見送つてゐる。  アランは時計を出して見て頷《うなづ》いて、 「殘念だつたなあ。」  と、人の好さゝうな口振で、 「リオン、ホテルへ逆戻りだ。」  アランは自動車に乘つてから、汽車に乘り遲れたのはお前の爲めにも反つて厄介な事になつたよ、といふ理由を説明して、 「もつとうん[#「うん」に傍点]と荷造りをしなくちやならなくなるよ。」  と云つた。  細君はにこりとして。 「どうして。」  と訊き返しながら、夫の顏を見て、 「だけど、なぜあたしがお伴《とも》するつて事に、決《き》めてらつしやるのよ。」  アランは驚いたやうに細君の顏を見て、 「お前は必ず一緒に行くとばつかり思つてたがなあ。」 「でもあたし本當に分らないんですもの。エディスを連れてこの寒空に旅行なんかしていゝでせうか。さうかと云つてあの子を置いて行くのは、あたしどうしても厭ですわ。」  アランは考へながら、自分の前を見詰めてゐたが、 「そいつは一寸氣がつかなかつたね。」  とためらふやうに暫くしてからこの男は云つた。 「成程さう云へばさうだが、然しどうだ、兎に角やつてみようぢやないか。」|  モオドは返辭をしなかつた。その次の言葉を待つてゐたのである。今度は、さう簡單に片附けられる問題ではない。暫くするとアランが云ひ添へた。 「船だつてホテルと同じ事だよ。それに船室も特等にしようと思つてるのだから、別に不自由はあるまいよ。」  モオドには夫の氣持がよく分つてゐる。これ以上に立ち入つて、一緒に來いと言ふ夫ではない。さう言つて頼む夫でもない。もうこれ以上くど/\云ふこともあるまいし、自分に取つても、萬一夫が一人ぼつちで出發するやうになつた處で、決して氣を惡くすることはない。  モオドは、夫がもうこの邊で妥協して貰ひたがつてゐることを見て取つた。  アランはすつかり考へ込んで、がつかりしたやうに自分の前を見詰めてゐた。細君の拒絶が喜劇に過ぎないといふ事に、氣のつくやうな男ではない。この年になるまで一度として喜劇の味を知らぬ男だ。モオドの方がいつも呆《あき》れ返る位に、性格がごく單純で律義《りちぎ》だ。  夫の困りきつた樣子を眺めてゐたモオドは、急に胸が一杯になつて來て、夫の手を握り、 「嘘よ、嘘よ。わたし無論お伴《とも》しますわ。」  と言ひながら、優しい眼許《めもと》に夫を見た。 「やつぱりさうだらう。」  アランは嬉しさうに細君の手を握り返した。  モオドは今までの厭な心持をどつかへやり、急に晴々とした氣持になつて、早口に元氣にしやべり初めた。ロイドとエセエル孃の事を話して、 「ねえあなた、エセエルさんて、餘程好い方でして。」  と訊くと、 「とても好い人だつたよ。」 「あの方をどうお思ひになつて。」 「おれには、ちつとも飾り氣のない人に思へたね。天眞爛漫で、ちつと無邪氣過ぎて、子供らしい處があるね。」 「まあ。」と細君は笑ひ出した。自分にはどうしてだか分らないが、それでまた夫の返辭でちよいと不愉快な氣持になつた。 「いやね。あなたはまるで女つてものが分らないのね。あのエセエルさんが天眞爛漫だなんて。何處を探したら、そんな無邪氣なところが。おほゝゝゝ。」  さすがにアランも笑ひ出さずにはゐられなかつた。 「おれにはさう見えたがな。」  と云ひ張らうとした。  すると躍起《やくき》となり出したのがモオドの方だ。 「いゝえ、違ひますわ。」  と大きな聲を出して、 「わたし今迄にそんな滑稽な話聞いた事がありませんわ。男つて、みんなさうなのね。あのエセエルさん位飾り氣の多い人はありませんわ。あの天眞爛漫が奧の手なのよ。エセエルさんて方はね、あなた、よく聽いて頂戴よ、とてもずるいコケットな人で、何でもかんでも打算《ださん》してかゝるのよ。男つて男は、片つ端《ぱし》から丸めてしまふ人よ。本當の話よ。わたしようく知つてますもの。あなた、あの方のスフィンクスのやうな眼を御覽になつて。」 「いや。」  と、アランは本當の事を云つた。 「あら、さう。だつてあの人、マアベル・ゴルドンさんに、かういふ事を言つたことがありますのよ。御自分の眼はスフィンクスの眼ですつて、皆さんがさう仰しやいますつて。そんな人をあなたは無邪氣な人だと見てゐるのね。あんな可愛い顏をして、とても野心家だわ。それにね、毎週尠くとも一遍は、あの方の寫眞が新聞へ出ますわ。それで、御自分ではかう言つて……兎も角晝でも夜でも、自分の宣傳をなすつてゐらつしやるんですわ。まるでホッビイさんそつくり。おまけに、慈善事業をするのだつても、みんな自家廣告よ。」  こゝでアランがふいと、 「だがあのお孃さんも、本當は好い人なんぢやないかね。」  と口を出した。  モオドはまた笑つて 「エセエルさんがですか。」  と言つてから、急に夫の眼の色を讀まうとした。丁度乘つてゐた自動車が、爆音と一緒に激しく搖られたので、ニッケルの握りをしつかり掴まへながら、 「エセエルさんて、本當にそんな綺麗なお方なの。」 「本當に美人だよ。だがおれにも分らんのはね、あのお孃さんがとても厚化粧《あつげしやう》をしてゐる譯だ。」  モオドは當てが外れたやうに、 「何だかあなたは、あのお孃さんに惚れたやうなのね、よその男の方と同じやうに。」  わざと心配らしい顏つきをして、何氣なく訊いてみた。  アランは笑ひ出して、細君を自分の方へ抱き寄せながら、 「何を莫迦《ばか》な事をいふ。」  と、しみ/″\言つて、細君の顏を自分の頬に押しつけた。  かうなると、またすつかり滿足したのは細君である。どうして今日は、こんな小《ち》つぽけな事に、一々|拗《す》ねたかつたんだらう。あんなお孃さんなんて、相手にとつて不足だわ、と思ひながら。  モオドは暫らく默つてゐたが、やがて眞面目な調子で、 「でもねえ、エセエルさんだつて、本當は好い人なのかも知れませんわ。わたしもさうは思ひますわ。」  と云ひ出した。  けれどもかう云ひきると同時に、氣がついてみると、自分では一向エセエル孃の善良さを本當に信じてはゐないのである。そこでもう、今夜は何事も、あの令孃の事は考へまいと思つた。  ホテルの食事は自分達の部屋へ運ばせた。それが濟んでから、ぢきに細君は寢床に入つたか、夫のアランはサロンに殘つて手紙を書いてゐた。寢床に横になつても、モオドはすぐに寢つかれない。この日の朝は早くから起きてゐたので疲れてはゐるのだが、ホテルの部屋の乾いた暑い空氣のせゐで、輕い熱が出た。今日一日で經驗した種々な昂奮、旅行、音樂會、群衆、ヱセエル・ロイド孃、かういふ一切のものが、疲れきつた頭に、もう一度浮び上つて來た。もう一度耳の中で、音樂や唄が聞え初める。自動車の疾走する響。喇叭《らつぱ》の音。何處か遠くに高架鐵道が騷がしく通る。モオドがうとうとして眠りかけると、今度は、暖房裝置《だんばうさうち》の中でぱちんといふ音がして眼が覺めた。同時に、ホテルの昇降機《リフト》が低く歌ふやうな音で昇つて來るのが聞えた。扉の隙間が、まだ明るく見えてゐる。 「あなた、まだ書いてらつしやるの。」  モオドは殆んど唇も開かないで訊くと、アランは、 「さあ、行つてお寢《ね》なさい。」  と答へた。けれどもその聲がひどく下の方から聽えて來たので、細君は輕い熱でうと/\してゐる中にも、思はず笑はずにはゐられなかつた。  細君はぐつすり寢込んだ。ところが、俄かに體中がぞくぞくして來て、また眼が覺めたのである。胸一ぱいの不安と、不思議な恐怖に襲はれながら、自分を戰慄させた原因が何であつたか、それを考へ出さうとした。それはすぐに分つた。夢を見てゐたのである。子供のエディスの部屋へ入つて行つたら、人もあらうに、あのヱセエル・ロイド孃が、其處にゐた夢であつた。眼も眩《くら》むほど美しいこの令孃が、例のダイヤモンドを額の眞中に飾つて、小さいエディスをやさしく寢かしつけてゐた――丁度、エディスの母親氣取で……  夫のアランは襯衣《シャツ》の袖をまくつて、長椅子の端に腰をかけて、手紙を書いてゐた。かたりと扉の方に音がしたので、見ると細君のモオドだ。寢卷《ねまき》のまゝで、眠さうな眼を眩《まぶ》しげに燈火の中に向けて、ぱち/\やつてゐる。  頭の髮がきら/\と光つて、その形は青春の盛りの少女のやうに見えた。何か新鮮な感じが、その體から迸《ほとば》しるやうだ。けれどもその眼を見ると、不安な色に燃えてゐる。 「どうかしたのかい。」  とアランが訊くと、細君は慌てゝ微笑して、 「いゝえ、何でもないの。とても莫迦《ばか》な夢を見たのよ。」  と答へながら、安樂椅子に腰を下して、頭の髮をさつ[#「さつ」に傍点]と撫でゝ、 「どうしてお休みにならないのよ。」  と訊き返した。 「この手紙は、ぜひ明日の船に間に合せないといけないからね。それよりもお前、風邪《かぜ》を引くよ。」  細君は首を振つて見せて、 「大丈夫よ、風邪を引くどころか、この部屋はとても暑う御座んすわ。」  と云つてから、初めてぱつちりとさえてきた眼で夫を見て、 「ねえあなた、なぜわたしには默つてらつしやるのよ、ロイドさんと一緒にお始めにならうつて事を。」  アランは微笑して、ゆつくりとかう答へた。 「お前だつて今迄そんな事を訊《き》きもしなかつたぢやないか。おれもこの事がまだ海の物とも山の物とも決まらん間は、話してみる氣はなかつたのさ。」 「そんなら今、話して下さらなくつて。」 「聞きたければ話すともさ。」  そこでアランは、この事業がどういふものであるか、細君に向つて説明し初めた。長椅子に凭りかゝつて、人の好ささうな微笑を浮べながらゆつくり/\と、今度の計畫といふのを解り易く説明した。丁度東リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]アに橋でも架《か》ける位にしか考へてゐない程度だ。寢卷のまゝで坐りこんで聽いてゐたモウドは、驚いたが呑み込めなかつた。けれども段々分るに從つて、益々驚いて來て、眼はいよ/\大きくなり、その輝やきを増して來た。頭の中はすつかり熱した。こゝで初めて、今日までの夫の努力、研究、模型、種々の山なす計畫書類の意味がはつきり分つて來たのである。又、今初めて、夫が何の爲めに出發を急いでゐるのかも分つた。夫は一分間の時でも、猶豫してはゐられなかつたのだ。今書いてゐる手紙が、どうして明日の船に間《ま》に合はなければいけないかも分つた。モオドはまるで夢を見る心持であつた……  アランが説明を終つて見ると、細君の眼は大きく張つて輝やいてゐた。それは情熱と嘆賞そのものであつた。アランは、 「さあこれで分つたらう、お前にも。」  と云つて、細君を寢床へ連れて行かうとした。すると、モオドは夫の前につか/\と進み出て、あらん限りの力で夫を抱き緊め、その唇に熱く接吻した。 「あなた、あなた。」  と吃《ども》るやうに云つた。  アランはもう一度モオドに、早く行つてお寢《やす》ゐと言ふと、モオドはそれをすぐ肯《き》く氣になつた。頭の中はまだ醉つたやうな氣持だ。今急に、夫アランの事業が、形こそ違ふが、今夜聽いたあのシンフォニイと同じやうに偉大なものである、といふ考へが閃めいて來たのである。  けれど五分と經《た》たない内に、また細君はアランのゐる處にやつて來た。アランはびつくりした。するとモオドは毛布を持つて來て、 「お書きになつてて頂戴よ。」  と囁やくやうに云ひながら、アランの脇へ、その毛布にくるまつて、長椅子の上に横になつて、夫の膝を枕に寢込んでしまつた。  アランは一寸手を休めて細君を見て、腹の中で、あゝ綺麗な、可愛い女房ぢやないか、この女の爲めなら、自分の生命を千倍にして捧げても惜しくない、と考へながら、また熱心に手紙を書き續けた。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  次の水曜日である。アラン夫婦と小さなエディスとが、歐羅巴行きの獨逸汽船で、大西洋を三日で乘り越す船に乘り込んだ。ホッビイも一緒である。この男は「八日間だけ一緒に居る」約束であつた。  モオドの氣持は、驚くべきほど上機嫌だ。晴れやかな氣持で、少女時代のやうな快活が復活したのである。この上機嫌は、不愛想な冬の大西洋の航海中續いてゐた。尤もアランが始終傍にゐたわけではない、夫の顏を見るのは、食事の時か夜ぐらゐであつた。絶えずにこ/\と笑つて面白さうに喋りながら、毛皮の外套にくるまつて、輕いエナメル靴で凍りつくやうな甲板のプロメナアドをあつちこつちと飛び歩いてゐたのである。  この汽船の中の一番の人氣者は、ホッビイであつた。船醫や會計の船室から、神聖視されてゐる司令塔に至るまでも、この男は我家のやうに心得てゐた。朝早くから夜遲くまで、船内到る處に、この男の開《あ》けつ放しな、いくらか鼻へかゝる聲を聽かないといふことは無い。  アランの方はこれと反對に、人と話しもしなければ顏も見せなかつた。一日中忙しさうであつた。この快速船のタイピストは、二人とも航海中ぶつ通しで、アランの手紙を書くので手が塞がつてゐた。何百通とも知れない手紙を書いて、一々それに宛名《あてな》を記入したのが、アランの船室に山となつてゐた。これはアランの大計畫の第一線に對する準備であつた。  今度の旅行は、先づ巴里から初まつて、其處からカレエとフォルクストンへ向つた。フォルクストンでは、海峽の水底にトンネルを掘つてゐる最中で、英吉利はこの工事を、萬一の場合に敵の襲撃に利用されることを恐れて、容易に承諾しなかつたものである。尤も之は笑止な話で、そんな敵襲は僅かに一箇中隊の砲列で十分撃退し得る筈だ。アランはこのフォルクストンに三週間程滯在した。それからロンドン、ベルリン、ヱッセン、ライプチヒ、フランクフルトを通つて、また巴里へ戻つた。巴里には二三週間滯在した。アランは午前中を自分の仕事で過して、晝飯を終るとすぐに會議へ出た。會議には、大會社の代表者、技師、工業家、發明家、地質學者、地理學者、海洋學者、統計學者を初めとして、各般に亙つての有力な代表者を網羅し、しかもこの會議は毎日のやうに開かれた。出席者の國籍を云へば、佛蘭西、英吉利、獨逸、伊太利、諾威、露西亞等、歐羅巴各國の智力を一堂に集めたものである。  それから夕飯は、細君と差向ひで喰べるのだが、それもうまく來客が來ない時だけである。  モオドの機嫌は、相變らず好い。夫のアランを取卷いてある仕事と計畫の雰圍氣が、モオドを生き/\させるのである。二人が結婚をして間もない頃で、今から二三年前であつたが、殆んど今度と同じやうな旅行をした事があつた。その頃のモオドは、夫が一日の大部分を他人との會談や、理解出來ないやうな仕事で潰《つぶ》してしまふ事を默つてはゐられなかつたものである。ところが今はもう、かういふ會議や仕事の意義を、十分にのみ込んでゐるので、一切の趣がまるで變つてしまつてゐた。  モオドは暇がたつぷりあつたので、この有り餘る時を綿密に區切《くぎ》つて、一日の時間の一部分だけは子供のために費し、後《あと》は博物館や寺院その他の決《きま》りきつた、所謂見物をして※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。新婚當時の旅行では、餘りかういふ見物をする氣にはならなかつた。尤も夫のアランは細君の方で行かうと言へば何處へでも連れて行つたものだが、モオドの方で、かういふ立派な繪畫、彫刻、古い織物や裝飾品なぞの美術品に對しては、夫が餘り興味を持つてゐないことに氣が附いたからである。アランの好んで見たがるものは、機械であつた。工業的製作物であつた。大規模な技術的裝置、航空船、工業博物館であつた。しかも細君の方はそんなものには一向知識も興味もない。  ところが今度は、たつぷり暇な時間があるので、モオドは到る處に幾千の見事な美術品を鑑賞して歩いて、歐羅巴大陸の尊さをしみ/″\と味はつた。モオドは、機會あるごとに、劇場や音樂會へも出かけた。亞米利加はそろ/\鼻についた。或る時は何時間も古い大通りや狹い露路をあつちこつちとぶらついて、これは面白いと思ふと、一寸した商賣店《あきなひみせ》とか横に曲つた古い家の破風《はふ》なぞをカメラに收めた。それから色んな本や、美術館陳列品の複製寫眞、新舊樣々の建築物の繪葉書なぞを澤山に買ひ込んだ。繪葉書の方は、ホッビイから頼まれたのである。かうしていろんな材料を拾ふのに一生懸命であつたが、愛するホッビイの爲めにも、どんな努力も厭はなかつた。  モオドは巴里で、八日程一人でゐた。アランはナントの近く、ビスケイ灣の海岸のレサブルへ、數名の測量師や、大勢の各專門代表者達と一緒に調査に出かけたのである。それが濟むと今度は、モオドも一緒に、測量師や技師を初め大勢の代表者と、アヅォオル群島へ船で出掛けた。アランはこの群島で、ファヤアル、サン・ヨルゴ、ピコといふ島々で三週聞以上に亙る調査をしてゐる間に、子供のエディスと一緒に待つてゐた細君は、今までに嘗て覺えなかつた位に美しい春を樂しむことが出來たのである。それから今度はアヅォオルから貨物船で、大西洋を斜めにベルムダ群島へ向つた。この時にモオドの心を何よりも喜ばせたのは、この貨物船の乘客が自分達だけであつたことである。やがて目的地へ着いてみると、群島中のハミルトン島で、思ひがけなくもホッビイと出逢つた。この人氣男は、態々《わざ/\》夫婦を出迎へる爲めに、此處まで出掛けて來たのである。アラン夫婦は大いに喜んだ。ベルムダ群島の用事はさつさと濟んで、六月にはみんな亞米利加へ引返へした。アランはブロンクスに別莊を借りたが、やがて、倫敦、巴里、伯林と同じやうな活動が、この亞米利加でも初められた。毎日アランは、合衆國中の各大都會からやつて來た代表者、技師、科學者と會議をした。同時に、アランとロイドとの長時間に亙る會談が度重なると、一般社會の注意も自然そこに向けられ初めて、新聞雜誌の連中は、まるで死骸の匂ひを嗅ぎつけた狼のやうに、血眼《ちまなこ》になつて祕密の正體を看破しようと奔走し初める。何か分らないが大冒險の大事業が計畫されてゐるに違ひない、といふ噂が紐育全市の人氣を沸騰させたのである。  けれどもアランは素より、その計畫を打ち明けられた連中も、みんな沈默を守つてゐる。そこで搦手《からめて》からと、細君のモオドに色々やま[#「やま」に傍点]をかけて見るが、これも笑つてばかりゐて、一向要領を得させない。  いよ/\準備行動が終つたのは、八月の末であつた。大合衆國の有力者ロイドは、資本家、大工業家、並に大銀行家の一流代表者を網羅した三十名に對して、お目にかゝつてお話申上げたいといふ招待状を發送させた。しかもその招待状は、ロイド自身が書いて、それを配達するにも特別な使ひに、受取る人に手渡しすることを命じて、この會合の重大な事を分るやうにしようとした。  そこで愈々この記念すべき大會議は、ブロオドヱイのホテル・アトランチックで開かれた。九月十八日である。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  その二三日の紐育《ニューヨーク》は、熱の波に浮かされてゐるやうに暑かつた。アランも決心して、會合の場所を、ホテルの屋上庭園と決《き》めたのである。  招待された名士連は、大部分紐育には住んでゐなかつたが、その日の内にみな集つて、中には昨日からもうこのホテルへ來てゐる人もあつた位である。  この人達は埃《ほこり》だらけになつた大型の旅行用自動車へ、細君や娘や息子まで乘せて、夏の別莊地のヴェルモント、ハムシャイヤ、メエヌ、マッシュウセッツ、ペンシル※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ニア等から駈けつけた連中であるが、大仰《おほぎやう》な事の嫌ひな人や一人でくる人は、殆んど各驛無停車の特別急行列車で、セント・ルイス、市俄古、シンシナチからやつて來た。かういふ連中の贅澤なヨットは、みんなハドソン・リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]アの船渠《ドック》に入つた。それから特別航空路によつて、市俄古――紐育中央公園間七百哩の室を、八時間で飛んで來たのが、市俄古の名士、キルガラン、ミュレンバッハ、及びシイ・モリスの三人である。スポオツマンとしても知られた※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ンダアスチフトは、午後になつてから單葉飛行機を操縱して、アトランチック・ホテルの屋上庭園に着陸した。續いてもう一組、餘り目立たぬ旅行者の格好で、ホテルの表玄關へと歩いて、各自に小さい鞄を提《さ》げてやつて來た連中もあつた。  これでみんな揃つた。ロイドは、極めて重要な問題であるからと云つて招いたのだが.體の血よりも金の方をもつと多く拵《こしら》へようとして團結した連中だから、その招待に出ないなんて事は許されなかつた。またこゝで一つの仕事を嗅ぎつけたので、誰も彼もやつて來たのでもない。(やつて來て反つて金を出させられるやうな事さへあるくらゐだ)。かうしてやつて來た第一の理由は、何かの企業の計畫の第一歩を援助することが出來ると共に、その計畫は自分達を大きくした企業慾を滿足させると期待したからである。この神祕的な計畫を名づけてロイドは通知状の中に「古今を通じて最も偉大にして最も大膽なる」と云つたのである。尠くともこの言葉だけでも、招待を受けた連中を地獄から引張り上げるに十分であつた。所謂新事業の計畫といふ事にかけては、生活それ自身のやうに考へてゐる連中だからである。  無論財界の巨頭連が、これだけ揃つて動いては、一般社會の注目を惹かずにゐるわけがない。どの一人を引き出して見ても、その一舉一動は絶えず八方から注目されてゐる人物ばかりだ。既にその日の朝の内に、取引所は僅かながら熱狂した。一寸聞き込んだ事が本當なら、それ一つで立派な財産が儲《まう》けられる今日だ。新聞紙はアトランチック・ホテルに集まる紳士といふ紳士の名前を、片端から報道して、その一人々々がどんなに社會的價値のある富豪であるかも忘れずに書き加へた。夕方の五時頃には、もうその總額が數十億圓に上る金持が集まつた譯である。ともかく何か分らないが、唯事でない事件が起らうとしてゐる。大規模な資本戰だ。或る二三の新聞紙は、まことしやかに次のやうな記事を掲載して、まるで記者がロイド氏と晝餐を倶《とも》にして、記者は報道すべきニュウスを咽喉まで一杯持つてゐるが、遺憾ながら、ロイド氏はその發表を固く禁じた、といふやうな報道を出したものである。又その他の二三の新聞紙では、親愛なるロイド君が|食後の果物《デザアト》の際に特に打ち明けた言葉として「別段大した事ではない」と書いてゐた。その外急行單軌電軍が、市俄古からサンフランシスコまで延長されるとか、航空路網を合衆國全體に擴張して、例へば今日ポストン行、市俄古行、バッファロオ行、セントルイス行と云ふやうに、何處へでも旅客の好きな都會へ飛んで行く事が出來るやうになるのだとか、書いたものもある。例の人氣男ホッビイの所謂「紐育をしてアメリカのヴェニスたらしめよ」といふ理想が、今すぐに眼の前に事實化して現はれる、と書いたものもあつた。  ホテルの周圍に眼を光らしてゐる探訪記者の連中は、まるで犯人を追跡し初めた警察犬である。誰も彼も、炎熱でふやけたブロオドヱイのアスファルトが、靴の踵《かゝと》で穴のあく程|力《りき》み返つて、ぢつとアトランチック・ホテルの三十六階もある天邊《てつぺん》を睨み上げては、きら/\光る白壁《しらかべ》の反射に眩《くら》まされて、みんなの頭の中に一種の錯覺を起させた。一人の機敏な男は素晴しい智慧を出したものである。電話線の工夫に化《ば》けてホテル内に紛れこみ、あはよくば財界巨頭連の部屋まで入り込んで、室内電話機でもいぢくり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、何か一言でも耳に入れてやらうといふのである。ところがこの男もホテルの支配人に見つかつて、「電話の故障は一本も御座いませんから。」と、いやに丁寧な言葉で追拂はれたるのである。  燃えるやうな暑氣と、逆上《のぼせ》るやうな昂奮とが煽《あふ》りつける眞中に、眞白な大きな塔のやうなホテルが默然として突つ立つてゐる。日が暮れると共に、愈々沈默してゐる。今日の午後の例の電話工夫になり損ねた男は、口髭までくつ附けて、飛行家※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ンダアスチフト氏の飛行機職人を裝《よそほ》ひ、機體檢査と稱して屋上庭園へ紛れ込まうとしたが、これもすごすごと引返へして來た。例の支配人に鄭重な笑顏で「※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ンダアスチフト樣のマルコニ機は、少しも異状が御座いませんから。」と斷《ことわ》られたからである。  ところが、その男は、往來へ出て來ると、急に跳《と》び上つて、何處かへ姿を消してしまつた。何か新しい手段を考へついたのである。果してそれから一時間ばかりすると、今度は、各國ホテルのラベルを一杯|貼《は》りつけた旅行鞄と一緒に、自動車に納まつてホテルの表玄關に現はれたものだ。世界漫遊客といふ觸《ふ》れ込みで、一番上の三十六階の部屋を要求したが、三十六階はホテルの雇人や從業員達の泊るところだつたので、結局この男は三千五百十二番といふ部屋で我慢する事になつたのである。支配人はいかにも愛嬌たつぷりの商賣人らしい顏付で、「そのお部屋ならば空《あ》いて居ります」と云つた。此處でこの男は、屋上庭園係りの支那人ボオイを買收して、コダック位の大きさの、眼に立たないマイクロフォンを、屋上庭園の鉢植の木の蔭に忍び込ませようとした。ところが、流石《さすが》の智慧者も、アラニット鋼がいかなる彈丸も貫《つらぬ》くことの出來ない堅い鋼であるのを忘れてゐた。  ともかくアランが、一流の綿密な命令を與へて置いて、それを又ホテルの支配人が責任を以て引受けてゐるのだから、敵《かな》はない。即ち、招待された代表者の全部が屋上庭園へ集まると同時に、昇降機は三十五階までゞ止《と》められてしまふ。それから給仕のボオイ達も、集まつた出席者の最後の一人が出てしまふまでは、この屋上庭園を出る事は許されなかつた。唯一つの例外として、七名の新聞代表者と三名の寫眞撮影師が列席することを許された。かういふ連中がこの日の大立物であるアランを必要としたやうに、アランの方でも、かういふ連中が必要であつたのである。けれどもそれも、會議の進行中は、絶對に外部との連絡を取らない、といふ固い約束をして、初めて許したのである。  やがてアランは、屋上庭園へ出て來て、自分の命令通りやつてあるかどうかを確かめた。丁度九時數分前である。ところがアランはすぐに、月桂樹の植木鉢に潜められてあつた無線電話の裝置《さうち》を發見したのである。おまけにそれから十五分の後には、この無電裝置が綺麗に紐《ひも》でからげられ封印までされて、至急小包となつて、三千五百十二番室へ送り返された。――勿論この男も驚かなかつた。この部屋で受話器で聞いてゐると、幾らか怒氣を含んだ聲で「君、この器械をどけてくれ給へ」と言つたのが、はつきりと耳に入つたからである。  九時になると昇降機が活動し初めた。  招待された名士連は、汗を流し息を切らしながら、ホテルから屋上へ出て來た。冷却裝置は十分にしてあるのだが、ホテルの部屋の中はとても燃えるやうに暑い。ところが屋上庭園もそれに劣らぬ位暑い。まるで地獄から出て來て淨罪《じやうざい》の劫火の中へ飛び込むやうなものである。誰も彼も昇降機から吐き出されたと思ふと、其處に待ちかまへてゐた暑氣の墻にぶつかつて、たじ/\となる。そこですぐに上着を脱ぎ捨てゝしまふ。その場に婦人が居合せようが、そんなものに丁寧に斷りを言つてゐる暇はない。この婦人とは別人ならぬアラン夫人のモオドである――晴れやかに、雪白のドレスを着けてゐる姿は花のやうである――それからもう一人は、ブラウン夫人である。この方は小柄の貧相《ひんさう》な婆さんで、黄色い顏に意地惡さうな眼を光らせた、耳の遠い吝嗇家だ。それでも合衆國第一の女金滿家で、有名な金貸である。  招待された連中は、誰も彼もお互に知り合の間である。ありとあらゆる競爭場裡で出會つたことのある同士だ。何年となく肩を並べて活躍した同士もあれば競爭相手となつて戰つた覺えのある連中もあつた。お互ひの間では餘り大した敬意を持つてゐない癖に、それでも表面はともかく丁寧である。誰を見ても胡麻鹽《ごましお》頭でなければ眞白で、秋の如くに、冷靜で品《ひん》があつて、澄まして愼重な樣子をしてゐた。大部分の人は、人の好ささうな、親しみのある、子供のやうな眼を持つてゐる。かういふ連中が、あつちこつちに一團を造つては、冗談を云ひ合つたり無駄談《むだばなし》をしてゐる。さうかと思へば、二人位づつ、あつちこつちを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つては小さい聲で話し合つてゐる。一人ぼつちの人、沈默家は、さつさと安樂椅子に腰を下して、冷たい眼で考へ深さうに、いくらかむつつりした顏付で、床に敷いてある波斯絨毯を見詰めてゐる。時々みんなが時計を出して見ては、昇降機の方へ眼をやつてゐる。まだ續々と遲れた連中がやつてくるのである……  遙か下の方では全紐育が煮え立つてゐる。そこから立ち騰《のぼ》る温氣《うんき》が、この暑さを更に煽《あふ》り立てゝゐるやうだ。紐育はまるで角力《すまふ》をとつた後の力士のやうに汗を掻いてゐる。三百哩を走り續けて、停車場のホオムに一息入れた機關車のやうに喘《あへ》いでゐる。無數の自動車が、ぐにや/\に熔けて來たアスファルトにべたつきながら、兩側《りやうがは》から建物の迫つたブロオドヱイを唸り吠えてゐる。それに電車がたて込んで、行列になつて、無暗にベルを鳴らす。何處かしら遠くの方で、けたゝましい鐘の音がわめき出したかと思ふと、地面をさらつてゆくやうに消防自動車が飛んで行く。まるで巨鐘《おほがね》が空中でぐわん/\鳴つてゐるやうである。それに交つて遠くから來る喚聲は、何處か遠くで、人間の一集團が虐殺でもされてゐるやうに聞える。  ぐるりと周園には、濃い群青《ぐんじやう》に沈んだ暑い夜に、燈火がぴか/\光つてゐる。一寸見たのでは、この燈火は室のものか地のものか分らない。この屋上庭園から見ると、二十|基米突《キロメエトル》の長い溪谷のやうなブロオドヱイの斷面圖が眺められる。紐育全市はブロオドヱイで左右に眞二つになつてゐるのだ。それは白熱しきつて、大きな口を開いた溶鑛爐だ。その中には樣々の色の焔が動き、その底に、芥子粒《けしつぶ》の灰の塊がうよ[#「うよ」に傍点]/\と蠢《うご》めいてゐる。それが人間だ。直ぐその傍《そば》の横通《よこどほ》りは、まるで溶かした鉛《なまり》の川のやうにぎら/\光つてゐる。ずつと向うにある斜《はす》かひの道には、明るい銀色の霧が煙つてゐる。或る廣場の電燈の灯の中に、白く二三本、幽靈のやうに立つてゐるのが摩天樓《スカイスクレバア》だ。それに續いて、ごちや/\に塊《かた》まつた塔のやうな建物が、黒く、默つて、大きな墓石《はかいし》のやうに突立つて、落ち窪んで、消え入りさうに並んでゐる十二階か十五階の小さい建物の上に聳えてゐる。遙か向うの空には、十二三ばかりの高い建物の窓硝子が、鈍く光つてゐる。其處此處に聳えてゐる四十階の高い塔の上には、幽《かす》かな光がちら/\見えてゐる。これはレジス、メトロポリタン、ワルドルフ・アストリア、リパブリック等の屋上庭園である。地平線にぐるり[#「ぐるり」に傍点]と輝やいてゐる重苦しい火は、ホボカン、ジェルシイ・シテイ、ブルックリン、東部紐育だ。ぼんやり見える二つの摩天樓の中間に、一分ごとに二重色の光の流れが明滅《めいめつ》する。これが第六丁目の高架鐵道だ。まるで、絶縁壁の間を飛ぶ電氣火花の縫合線のやうだ。  このホテルの周園には、盛んに花火が揚つてゐる。間斷なしに發射される光の噴水だ。五色の光線の束が往來から空へ向つて跳び上つてゐる。さつと走つた閃きが、高い塔を下から上へと掻き裂いたかと見る間に、途方もない大きな靴の花火だ。家が燃え出したかと見れば、その焔の中から眞赤な牡牛の姿が現はれる。ブル・ダルハム、煙草だ。火箭《ひや》のやうな花火がするすると中空に延びて、爆發すると人寄せの文句になる。菫色《すみれいろ》の太陽が狂氣のやうに、高く宙《ちう》で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉しながら、マンハッタンの上で火を吐く。探照燈の蒼ざめた光芒が、地平線の方へ延びて、眞白な建物の沙漠を照らす。高い空には、蒼ざめて影も薄くしよんぼりと弱り果てた星と月とが、火花を吐く紐育を見下してゐる。  砲臺の方から昇つた廣告の飛行船が、微かにプロペラの唸り聲を立てながら梟《ふくろふ》のやうな大きな眼をして現はれてきた。この怪物の横腹には、こんな文句が現はれたり消えたりする。「健康―效果―暗示―富―パイン町十四番地。」  この時アトランチック・ホテルの三十六階の遙か下には、このホテルをめぐつて帽子の大群である。探訪《たんばう》記者も代表者も、ブロオカアも見物人も、きら/\八方から照らしつける光の流れの中にあるから、影ひとつ無い。誰も彼も眼を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しさうに緊張し切つて、見上げてゐる先は、屋上庭園の光の花輪である。ホテルは熱に浮かされたやうな聲に取卷かれて、その騷ぎを拔けて、ブロオドヱイの鼠と云はれる新聞賣子が、はつきりした聲で呶鳴り散らしてゐる。 「號外、號外。」 『ウォオルド』紙は、最後の瞬間といふ時に、最後で、最大の勝利を占めて、他のすべての同業者を負かしたと思つた。『ウォオルド』紙は何も彼《か》も知り拔いてゐて、財界の巨頭連が、今この屋上庭園で汗だくになつて、計畫を進めてゐる内容を、精細に知つたといふのである。即ちそれは、海底の郵送事業で、A・E・L・M――アメリカ、ヨオロッパ間の電送郵便だといふのである。丁度今日地中の管《パイプ》を通す氣壓の力によつて、數通の手紙が、紐育から桑港へ壓し出されたのである。そこで強大な通風管をケエブルのやうに海底ヘ埋めて、歐羅巴へ發送しようといふ。まづベルムダとアヅォオル群島を通過して、三時間以内に歐米間を連絡するのだといふ事である。『ウォオルド』紙は、アランが辿つた旅程を精確に調べたことが分る。  屋上庭園の方でも、さすがに誰よりも冷靜な神經の男までも、蒸《む》すやうな暑氣と、熱し、燃え、輝く紐育の街上の影響とを蒙らないわけにはいかない。誰も彼も、待たされる時間が長びくにつれて、多少なりと逆上《のぼ》せて來た。するとそこへ金髮のホッビイが頗る眞面目くさつた態度で、開會の挨拶を述べ初めると、一同ほつと救はれたやうに感じたのである。  ホッビイは一通の電報を振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、ロイド氏が病氣の爲め外出が出來ない、從つて諸君にお目にかゝつて御挨拶申上げられない事を頗る遺憾に存じて居る、といふ意味を傳へた。それからロイド氏の依頼によつて、此處に諸君の前に御紹介申上げようといふのは、多年ヱヂソン工業會社の一員として活動され、且つダイヤモンド鋼アラニットの發明者として知られたマック・アラン氏である、と述べた。 「此處に居られるのが同君です。」  とホッビイはアランの方を指さした。アランは、細君と並んで籐椅子に腰かけて、ほかの人達と同じやうに襯衣《シャツ》一枚になつてゐた。  ホッビイは更に言葉を續けて、 「アラン氏は、是非皆樣のお耳に入れたい計畫を持つておいでで、それを此處に御提案なさらうといふので御座います。この計畫たるや、ロイド氏の言葉を以てすれば、空前絶後の最も偉大にして最も大膽なる計畫で御座います事は、諸君も既に御承知の事かと存ぜられます。アラン氏は、該計畫を完成するに十分なる天分才能を持つて居られるが、たゞ然し、これを實現するには、その資金を必要としてをられるので御座います。」  とまで言ふと、今度はアランの方を向いて、 「さあこの先は君に、マック君。」  と言ふと、アランは立ち上つた。  するとホッビイは、一寸待てといふ合圖を與へ、ちらりと前の電報へ目をやつて、次のやうに開會の辭を述べ終つたのである。 「私は忘れてをりました……今夜御出席の諸君がマック・アラン君の計畫に御賛成下さる場合には、ロイド氏自身に於ても、二千五百萬|弗《ドル》の出資をすると申して來られたので御座います。」  かう言つてアランの方を振返つて、 「さあ、君だ。」  アランはホッビイと替つて進み出た。蒸暑《むしあつ》い息詰まるやうな沈默だ。遙か下の街上は、愈々雜沓し、熱狂し、喧騷するばかりだ。一同の眼はアランの上に集まつた。何か途方もない計畫を發表するんだと言つてゐたのは、あの男だつたのか、と云ふ眼だ。――モオドの唇は、極度の緊張と不安とに大きく開いてゐた――アランはこの聽衆に向つて、決して自家廣告がましい言葉を述べなかつた。極めて落ち着いて會衆を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したこの男の態度には、何處にも、殆んど興奮の樣子は窺はれなかつたが、實は内心では、尠からぬ動搖を感じてゐたのである。元來、かういふ連中の頭を呑み込んでかゝる事は中々樂《らく》でない。それにアランは、何もかも分つてゐるのだが、雄辯家ではなかつた。又、所謂名士の連中の前で辯じるのは、これが初めてであつた。けれども愈々始めてみると、その聲は、落ちついてはつきりしてゐた。  そこで、ロイド氏の言葉から、諸君は、多大な期待をなすつておいでだらうが、却つてそれでは諸君を失望させることに終りはしまいかと恐縮してゐるが、大體自分の計畫はそんな空前絶後といふ大したものでなく、せい/″\パナマ運河か乃至は、セイロン島と印度とを結びつけたロオヂャア卿のパアク・ストリイト・ブリッヂに比較される位が關の山で、よく見れば甚だ單純な考へなのである、と述べたのである。  で、太いズボンのポケットから、白墨《チョオク》を一本出して、背後に立てた黒板ヘ二本の線を描《か》いた。 「此方《こちら》が亞米利加で、彼方《あちら》が歐羅巴だと致します。私はこの兩大陸間に、十五年計畫で一本の海底トンネルを開鑿し、二十四時間で亞米利加から歐羅巴へ汽車で走れるやうに、致したいと考へるので御座います。これが私の目下の計畫で御座います。」  かう言つた瞬間である。寫眞師の焚《た》くマグネシュウムの光がぱつ[#「ぱつ」に傍点]と燃え上つた。アランは一寸言葉を切つた。街上からはわあつ[#「わあつ」に傍点]といふ喊聲だ、屋上庭園の會議の愈々始まつたことが分つたのである。  初めはこのアランの計畫は、兩大陸の歴史に一大紀元を爲すものであり、この進歩した現代にも、決して平凡なものではなかつたが、それでも之を聞いてゐる人達には、一向感銘を與へなかつたやうな樣子であつた。大部分の連中は失望さヘしたやうであつた。何處かで一度聞いた事のある計畫のやうに思へたのである。どうも世間によくある雲を掴むやうな計畫に考へられた。これがまだ五十年前か、或は二十年前でも、かういふ計畫を持出す男があれば、誰も笑はずにはすまなかつた事であらう。こゝに來てゐる連中は一寸時計を卷く間にも、多くの人間が一ヶ月かゝつて稼《かせ》ぐ以上の金を儲けるやうな人達である。明日といふ日に全地球が爆彈のやうに破裂しようと、顏色一つ變へないやうな人々が、此處にゐるのである。その代りには、退屈を我慢してゐられるやうな者は、一人だつてゐない。この連中は誰もこの退屈を恐れてゐた。ロイド氏さへも、今日はやつて來ない位である。そこで今日はこの若いアランが、何か古臭い事でも持ち出して、例へば、サハラの沙漠に灌漑《くわんがい》設備をして、其處を田か畠にでもしようとか、そんな類の事を言ひ出さないものでもなかつたのである。然し今述べ立てた計畫は、尠くとも退屈ではなかつた。それだけでも聽く方には、大助かりであつた。殊に、例の一人ぽつちの速中と沈默家とは、ほつとして息をついた。  ところでアランの方では、この聽衆を自分の計畫で壓倒してしまふ事は、決して考へてゐなかつたので、自分の説明が與へた感銘で、すつかり滿足してゐた。さし當りこれ以上要求することは出來なかつた。自分の理想を徐々《じよ/\》に築き上げて行く事は、やれば出來たかも知れないが、アランはわざと散彈《さんだん》のやうに自分の考へを聽衆にぶつけてしまつたのである。表面にはわざと無關心を裝つて、どんな雄辯家でも辟易させるやうな、鈍重、訓練、倦怠、打算、自己防禦等の厚い鎧を、一擧に打ち破つてしまはうとしたのである。アランは、この七十億の資本家に、自分の計畫を是非とも聽いて貰はうとしたのである。それが自分の第一の使命で、それ以外には何も無い。しかもそれが今成功したやうに思はれた。何處かで革張りの椅子が鳴つて、二三の者は樂に體を延ばして凭りかゝらうとし、葉卷に火をつけたものもある。耳の遠いブラウン夫人は、「つんぼの聞える機械」を取上げ、紐育中央銀行のヰッタアスタイナアは、銅の方の重鎭モオルズの耳に何か囁いた。  アラン自身は、益々勇氣が出て來て、次のやうな事を勢ひよくしやべり續けるのであつた。  このトンネルは紐育の南百キロメエトルのニュウ・ジャアシイの海岸を發端《ほつたん》として、ベルムダ及びアヅォオル群島を經由して佛蘭西のビスケイ灣の海岸で陸地へ出てくるのである。途中の大西洋上に在る二つの中繼地は、ベルムダ及びアヅォオル兩島で、これは技術上の見地から、どうしても必要で、この二ヶ所と、亞米利加の一ヶ所、歐羅巴の二ヶ所、合計五ヶ所の地點が、トンネル開鑿《かいさく》工業の起點となるのである。更にかういふ海洋上の中繼地を作るといふ事は、トンネルの利益から見ても、重大な價値があるもので、ベルムダ島の方は、旅客輸送の全部と、メキシコ、西印度、中部亞米利加及びパナマ運河《うんが》等からの郵便物輸送とを一手に吸收する。一方アヅォオル島の方では、南部亞米利加及び亞弗利加方面からの輸送を引受けるのである。そこでこの中繼地點は、紐育及び倫敦に取つては重要な、世界交通上の樞軸《すうぢく》となるに違ひない。又亞米利加及び歐羅巴に設けられた三ヶ所のステエションが、將來全世界の上で、如何に重要な地點になるか、これは何等の説明を要しないほど明かである。某々二三國の政府は無理にもこのトンネル建設に許可を與へなくてはなるまい。アラン自身に於ても、之等の政府が自國の工業に損害を與へまいと考へる限りは、このトンネル會社の株を、その國の取引所へ出す事を是非とも承認させずにはおかない。  アランは更に言葉を續けて、 「ベエリング海峽のトンネル工事は既に今日から三年前に着手されてをりますし、又ドオ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ア、カレイ間のトンネルも、本年中にその竣工に近づく筈で御座います。之等の例に徴しましても、海底トンネルの工事は、最早最近の技術を以てすれば、敢て難事とするに足りぬといふことが、十分に證明されたので御座います。ドオ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ア、カレイ間のトンネルは、全長約五十キロメエトル、私のトンネルは全長五千キロメエトルの概算で御座います。私の任務と致します處は、今日までの英國人並に佛蘭西人の仕事を單に數百倍するに過ぎません。と申しましても、これを實現する上に、決して大なる困難がないとは考へてをりません。然しながら、皆樣に對しまして、事新しく申すまでもないとは存じて居りまするが、今日、我々が一箇の機械を据ゑつけ得るとすれば、既に我々は何の心配も持ちません。唯財政上から見て、この計畫の遂行如何は、偏《ひとへ》に皆樣の御賛同の有無に繋《かゝ》つて居ります。先刻ホッビイ君は、私の必要とするものが皆樣の金《かね》であるかのやうに申されましたが、それは當つて居りません。私はこのトンネルを、亞米利加と歐羅巴、否《いな》全世界の金によつて建設致します。技術的見地から致しまして、この計畫を十五年以内に實現する事は、皆樣御承知の私の發明に係るアラニット鋼の力によるのみで御座います。アラニットと名づけました鋼鐵は、最も硬度の高いダイヤモンドに比べても、僅かに一度ほど硬度が劣るだけでありまして、このアラニットを使用致しますれば、如何なる固い岩石工事も可能でありますと同時に、又、どのやうに無數の穿孔機でも、意のまゝの大きさに、しかも甚だ安い値段で製作出來るので御座います。」  聽衆は默つて聽いてゐた。大分居眠りを初める連中が出て來たが、それがまた、正にアランの計量を承知した證據に見えたのである。胡麻鹽《ごましほ》や白髮頭《しらがあたま》の大部分が前の方へこごんで來て、汗に光つたニ三人の顏だけが、仰向いて天を見上げてゐる。その空には星が硝子の破片《かけら》のやうに光つてゐる。唇をとがらして葉卷をぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉させて、アランの方を見上げながら、八の字を寄せた男もある。頻りに頷《うなづ》いては、顎へ手を當てゝ、考へ込んだやうに、自分の前を見てゐる男もある。人の好《よ》さゝうな子供らしい表情はもう誰の眼を見ても無くなつて、考へ込んだやうな、朦朧とした目に變つてゐる。中には幽靈のやうに凄く開いた目もある。アランの口許《くちもと》を睨みながら、鋭い、嘲笑するやうな、怒氣を含んでゐるやうな口付をしてゐるのが、例のブラウン夫人である。この三十人の奴隷支配者の頭腦めがけて、アランは自分の理想と議論を叩き込んで、一同を棒杭のやうに釘付けにしたのであるが、この時聽衆の頭は動搖して來た。それは金が、鐵が、鋼が、銅が、木材が、石炭が考へ出されたのである。アランの計畫は中々平凡な仕事ではない。よく考へてみる價値はある。こんな計畫は毎日その邊に轉がつてるものではない。しかもアランの計畫たるや決して容易なものではない。これは五六十萬石の小麥や二三百萬袋の棉花どころの問題ではない。濠洲に於けるキング・エドワアド・鑛山會社の株式どころの問題ではない。もつともつと途方もない大きな問題だ。一面から見ればアランの事業は鐵と鋼と石炭とに對する特別の危險のない金の山だ。これを決定するのは決して頭を拈《ひね》る程の事ではない。けれども別の一面から見れば、その金には非常な危險が伴ふとも云へる。ところが今此處には、もう眞面目に話に乘らうとする人が出來てゐるのである。それは外でもない。つまりロイドである。黄金魔のやうに創造し蹂躙して全地球上を濶歩する、あの全能のロイドがこの計畫の黒幕になつてゐる。ロイドは、自分のする事を眞によく心得てゐる男であり、その男にこのアランが推《お》されてきて、又アランもロイドを推《お》さうとしてゐるのである。ウォオルストリイトで、鑛山株と鐵工業株の莫大な取引が行はれたのはつひ先週である。――かう考へ合せてくると、藁人形を躍らして、全軍を進出させた黒幕の軍師は、やつぱりロイドであつたといふ事が、此處にゐるみんなにも分つて來た。今頃は金庫にでも納まつて、葉卷の煙を輪に吹いてる事だらうが、もう數週間以來|賣方《うりかた》に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐたのが、ロイドであつた事は明かである。さうしてこのマック・アランが、あの男の拳固になつてゐたのである。いつも拔駈《ぬけが》けをするのはロイドであり、相場の急變動がやつて來た時でも、いつでも最も好い權利を握つてゐるロイドである。けれどもまだ遲れたスタアトを少し取り返す時間はありさうだ。この會合が終つたら、直ぐに今夜の中に電報を世界中へ打つておけばよい。明日の朝では、もう遲過ぎる。  兎に角何かとこの氣持でゐなければならない……  頭の中で、こんな考へが忙しく※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り出した二三人は、アランといふ男を、もう少し蟲眼鏡でよく見た上で、この計畫に參加しようと思つたのである。アランはトンネルの構造や、坑道の掘り方、通風の仕方なぞを説明してゐる。それを注意深く聞きながら、アランの穿《は》いてるパテント・レザアの靴から觀察し初めたのである――眞白なネルのズボン、革帶、シャツ、カラア、ネクタイ――それから上へいつて、しつかりした額骨、それを越して、滑々《すべ/\》した赤銅色に光る頭。顏は汗で青銅のやうにぴか/\してゐる。けれども一時間前に見た時とはまるで變つて、少しの緊張を缺いた處もない。それどころか、愈々|生々《いき/\》と精彩を放つて來てゐる。眼もはじめ口を開いた時は、子供らしい、人の好《よ》ささうな色をしてゐたが、今はもう汗の流れる顏に、大膽明徹な光を放つて、ダイヤモンドより僅か一度だけ硬度が低いといふ例のアラニットそのまゝの硬い光澤と輝きを持つて來てゐる。アランは滅多にこんな眼付を見せるものではない。アランがあの堅い胡桃《くるみ》を食ふ時でも、決して胡桃割りなんぞは用ゐない。またその聲ときたら、まるで胸廓《きようくわく》の中で一度槌の如くに打ち、吼えてから出て來るやうである。アランは、黒板の上に略圖を書き初めた。そこで今度は、例のぶつちがひ[#「ぶつちがひ」に傍点]の斧を文身《いれずみ》した腕が、研究の對象になつたのである。栗色に日に燬《や》けたその腕は、どう見ても立派に叩き上げた庭球選手か劍客の腕だ。この連中は、アランをまるで、自分達が賭《か》けようと思つてゐる拳鬪選手の積りで眺めてゐるのである。この男なら大丈夫だ、勝利は疑ひなしと思へる。たとへ賭けて損をしたつて少しも見込|外《はづ》れを恥ぢる必要はない。流石はロイドの眼識《めがね》だ。――かうして觀察してゐる連中が、アランに關する知識と云へば、先づアランが十二歳の時に或る炭坑の馬方《うまかた》小僧をしてゐた事、その後二十年|經《た》つた今日では一躍、八百メエトルも深い地下の坑道から、この壯麗なアトランチック・ホテルの屋上庭園へくるまでに出世した事等である。これだけでも容易な事ではない。それからこれ程の大計畫を作り上げた事だけでも、確かに偉《えら》い。けれどももつと驚嘆すべき偉大な事は、アランがたつた一日でも大資本に値すべき財界の一流どころを三十人も揃へて、しかも一定の時間に態々《わざ/\》此處まで集めた上、華氏九十度といふ暑さに自分の講演を強制的に聽かせたといふ事だ。三十名の大資本家連中には、眼前の事實が、何か珍らしい芝居のやうに思へて、まるで誰かゞこの硝子の山を登つて自分達の方へやつて來て、自分の立場を要求し辯護しようとしてゐるやうにさへ見えたのである。  アランは言葉を續けて、 「トンネル坑道内の管理並にその電車の運轉に必要とするものは、あのナイヤガラ水力電氣會社が持つてゐる電力に略《ほゞ》匹敵する電力で御座います。然しながらナイヤガラ瀑布を利用する事は最早不可能で御座いますから、私は、私のナイヤガラ瀑布を建造したいと考へてをります。」  これを聞くと、聽衆はめい/\勝手な事を考へてゐたのが、俄然破られて、一同は思はずアランの顏を見詰めたものである。  此處でもう一つこの連中の氣の付いた事は、アランがしやべつてゐる間に、まるで笑ひもしなければ冗談の一口も言はなかつた事である。ユウモアといふものは、まるでこの男の知らない事らしい。尤もこの聽衆は唯一度だけ笑ふ機會があつた。それは寫眞師が何か激しい仲間喧嘩を始めた時で、アランは、 「おい、そんなナンセンスは止めて。」  と制した時であつた。  愈々講演の最後に讀み上げたものは、全世界一流の人物が、この計畫に對して寄せた意見で、その中には技術家、地質學者、海洋學者、統計學者、經濟學者等が網羅され、紐育、ボストン、巴里、倫敦、伯林から寄越したものもある。  この資本家連中が最も興味を惹き起したのは、ロイドが書いたこの企業《きげふ》の簡單な要領であつた。それはこの計畫の金繰り方法と收益とを書いたもので、アランは一番最後にこれを讀み上げた。三十人の頭腦は、最大の速さと精密さでそれを考へてみた。  暑さは急に三倍位になつたやうであつた。安樂椅子に納まつた連中はまるで湯を浴びたやうに汗が流れて、拭いても拭いても、汗は顏をだら/\と流れ落ちた。冷却裝置も諸所の鉢植の灌木や植込の後に設けてあつて、冷たい、オゾンを含んだ空氣が間斷なしに吹き送られてきたのだが、それ位では一向に涼しくならない。まるで熱帶地《ねつたいち》の暑さである。涼しさうな雪白の麻服を着た支那人ボオイが、幾人も足音も立てずに、椅子の間を歩いては、リモネエドや、ホオスネック、ジンフィッズ、氷水《アイスオウタア》を配つてゐたが、そんな事も一向駄目である。暑さは街上から蒸氣のやうに湧き上つて來て、煮えるやうな大氣となつて、手で觸れても感じる位にこの屋上庭園の上を轉げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた。鐵骨コンクリイトとアスファルトで出來上つた紐育は、まるで、何千とない電槽で出來てゐる蓄電池で、この二三週間の電熱を、今一時に吐き出してゐるやうだ。しかも、熱し切つたブロオドヱイの建物の谷は、遙かに深く下の方で、吠え、唸つてゐる。三千哩の海洋と三千哩の大陸との間に、人間の力で築き上げられた、休息を知らぬこの紐育は、自ら何處までも大きくならうとし、未曾有の發展を遂げようとして、自ら鞭撻し、激勵し、要求してゐるやうに見える。紐育は亞米利加の腦髓だ。何とも分らない途方もなく尨大な考へをあつちこつちに轉がし、何かを生み出さうと考へてゐるやうに見える……  この瞬間にアランの聲が止まつた。殆んど突然に、話の中途である。尤もアランの話は、何處までいつても切りがない。何處まで行つてもぐる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、昇りつめると元へ歸る。そこでこんな風に話を止めてしまつたのは、全く意外であつた。誰も彼も席に着いたまゝ、耳を傾けてゐたのに、當人のアランはさつさ[#「さつさ」に傍点]とこの席を退いて、この計畫を討議に任せようとしたのである。  そこへ廣告用の飛行船が斜《はす》かひに屋上庭園の上を横切つて、マンハッタンの上へかけて、こんな文字が現はれた。 「二十五箇年の生命延長……保證致します……ブルックリン・ドクトル・ジョスチイ。」 [#5字下げ]七[#「七」は中見出し]  アランは、細君のモオドと一緒に夕食をしに、十階まで降りて行つた。まるでびた/\の大汗であつたので、何もかもそつくり着替へなければならなかつた。ところが着替へてもすぐに又大粒な汗の玉が額に浮び出た。アランの眼は大きく開いて、瞬《またゝ》きもしない位に、まだアランの力は緊張してゐた。  細君はまめ/\しくアランの額を拭いてやつたり、氷水《アイスオウタア》で絞つたナフキンで、顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]を冷やしたりした。  そのモオドの顏は、實に晴々としてゐる。包みきれぬ感激に、獨《ひと》りでしやべつたり笑つたりしてゐる。何といふ素晴しい晩であつたらう。今夜の會合、電燈裝飾《イルミネエシヨン》、屋上庭園、見渡す限り魅惑的な紐育、この光景を恐らくモオドは一生忘れ得まい。今夜集まつた人達の名前は、細君がごく小さい頃から幾千度となく聞かされたものである。それを聞いただけでも、富と、權力と、天才と、大膽と、センセエションの空氣が出來てくる名前であつた。さういふ偉《えら》い人達がおとなしく腰を掛けて、夫アランの講演を謹聽してゐたのだから、細君はどこまでもアランの妻であることが得意になつた。夫の大成功に、すつかり感激してしまつて、もう夢にも、この結果に就いて疑ふ氣は起らなかつた。 「でもねえ、あなた、あたしどんなに心配してたか知れなくつてよ。」  と抑《おさ》へきれないやうに言つて、 「だけどあなたの御演説ねえ、あたし何だか夢みたやうな氣がしますわ。本當にお目出度う。」  モオドはアランの頸《くび》を抱いた。  アランは笑ひ出して、 「あんな連中を相手にするよりも、まだ惡魔を集めてしやべつた方が樂だよ。本當だよ。」 「でも今度はどの位かゝるんでせうか。」 「一時間かな。それとも二時間か。いや、ひよいとしたら徹夜かも知れんよ。」  細君はびつくりして口を開けて、 「あら、徹夜ですつて……」 「かも知れないのさ。だがあの連中だつて、我々にゆつくり晩飯《ばんめし》を食ふ位の時間は呉れるだらうさ。」  アランは今はもうすつかり落着いて來た。手の震へるのも止まつたし、眼付も穩やかな色になつてゐる。アランは夫として又|紳士《ジエントルマン》としての禮儀を忠實に務めて、細君の前へ、牛肉の一番|旨《うま》さうなのを置き、それからモオドの好きなうまいアスパラガスと青豆を置いてから、ゆつくりと、自分は自分の食ふ方に取かゝつたが、汗は相變らず大粒な玉になつて、アランの額に光つてゐる。食べ初めてから氣がついたが、實は猛烈に腹が減つてゐた。ところがその反對にモオドの方は、饒舌《おしやべり》に忙しくつて、喰べる暇もない有樣だ。今夜の會合に招待された名士連を一人々々槍玉にあげては、ヰッタアスタイナアは實に驚くべき程好い頭だとか、キルガランの若々しい樣子は女好きがするとか、鑛山王のジョン・アンドラスは河馬に似てゐるとか、銀行家のシイ・ビイ・スミスはまるで灰色の狡《ずる》い小狐のやうだとか、あの年をとつたブラウン夫人はよく/\見てゐると、女の生徒のやうだとか、そのブラウン夫人は本當の吝嗇《けちんぼ》から、家では燈火《あかり》もつけないといふが、本當かしらとか……  かうして夫婦が食事をしてゐる最中に、ホッビイがやつて來た。見れば大膽か無茶か、ホッビイはシャツ一枚で昇降機で此處まで降りて來たのである。  之を見ておやと思つたのはモオドである。 「どんな御樣子でして。」  と頭から叫んだのである。  ホッビイは笑つて、どしりと安樂椅子へ腰を下して、 「いやはや、何《なん》とも彼《か》とも、こんな事は生れて初めてですよ。向うの連中はまるで喧嘩でさ。選舉の後のウォオルストリイトそつくりの光景ですよ。シイ・ビイ・スミス君が引上げようとしてですね――まあ、默つて僕の話を聽いてゐらつしやい。スミス君は引上げようとしてね、こんな危險千萬な事業には關係したくないつて言つといて、昇降機《リフト》へ乘つたと思ひ給へ。さうすると大勢が後から飛んでつてね、上衣《うはぎ》の裾を捉《つか》んでまた引ずり出してしまつたんですよ。嘘ちやありません。ところが急にその眞中へ出て來たのが、キルガラン君だ、君の置いて行つた意見書を振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してね。『諸君、これに反對しようたつて駄目です、これに反對の意見は、何も言へませんぞ。』つて、まるで客引きのやうな大きな聲を張り上げたものぢやないか。」 「キルガランならやりさうな事だ。あの人には反對する譯が一つもないからな。」  と初めてアランが口を出した。キルガランは、製鋼トラストの頭株《あたまかぶ》であつたのである。  ホッビイは更に續けて、 「それからブラウン夫人だがね。寫眞屋が居合せて丁度|好《よ》かつたよ。この夫人の容子《ようす》と來たらまるで、有頂天《うちやうてん》になつちまつて、ぽかん[#「ぽかん」に傍点]と突つ立つてるところは、案山子《かゞし》さ。まるで氣違ひになつたんだね。危《あぶ》なくアンドラス君の眼玉を引掻くところだつたよ。それが夢中になつて、のべつ幕無しに、呶鳴り散らして、アランさんはこの世に又とない偉大な人物です、この計畫が實現されないやうなことがあつたら、それは亞米利加の恥辱です、とかうなんだよ君。」 「へえ、あのブラウン夫人が。」  とびつくりして眠を据ゑたのは、細君の方である。 「だつてあの人は、燈火《あかり》もつけないつて吝嗇《けちんぼ》な方ぢやありませんか。」 「ところがですよ、奧さん。」  と、ホッビイはまたはち切れさうに笑つて、 「惡い奴に限つて、人を見拔く力があるんですよ。あの婆さんとキルガラン君と、この二人できつと君の計畫は實現するよ。」  と答へると、アランはホッビイに向つて、 「君、一緒に飯を食はないか。」  と訊いた。アランは鷄の腿《もゝ》の肉を噛みながら、ホッビイのしやべるのを注意して聽いてゐたのである。 「えゝ、それが好いわよ。こつちへいらつしやいよ。」  とモオドは皿の支度をした。  けれどもゆつくりしてゐる暇のないホッビイである。元來この仕事には大して關係がないくせに、その逆上《のぼ》せ具合はアラン以上である。ホッビイはまたそこから飛び出して行つた。  それからホッビイは殆んど十五分おき位にやつて來ては、屋上の情報を持つて來た。 「おい君、ブラウン夫人が一千萬弗申込んだところだ。いよ/\始まつたぞ。」 「まあ」  と細君は鋭い叫びを擧げて、おどろいて思はず兩手を打合せた。  昂奮しきつてゐるホッビイは、腰を下すことも忘れて部屋の中をあつちこつちと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら、ポケットから出した葉卷の尖端《さき》を噛みきつて、兩手を動かしながら火を點《つ》けて、 「それでだね、あの婆さん、手提《てさ》げの中から手帳を引張り出したんだ。ところがそれが恐ろしく汚《きたな》らしい手帳でね、僕なら火箸で摘《つま》むのも眞平《まつぴら》な代物だが――とに角一千萬弗と書いたのさ。さすがにしいんとしちやつたね。誰も彼も眼を据ゑたよ。やがて婆さんに續いて、外の人達もポケットへ手を突込む。キルガラン君がぐる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り歩いて、その書付《かきつけ》を集める。もう一言も口をきく者はない。寫眞師連は眼が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るやうな忙しさだ。おい、君は立派に成功したぞ。僕はこんな嬉しい事はないぞ……」  かう言つて出て行つたホッビイは、その後いつまで經《た》つても姿を見せなかつた。一時間ばかり過ぎた。  モオドはやつとおしやべりをやめて、胸をとき/\させながら椅子に腰かけてゐた。何か思ひがけぬ事件が突發しさうな氣がして、耳を澄まし、眼を見張つてゐたが、かうした時間が長びくにつれて、細君の不安は段々昂|《たか》まつて來た。一方のアランは、安樂椅子に腰を据ゑて、何か考へ込むやうに、パイプを啣《くは》へてゐた。  とう/\モオドの方がもうぢつとしてゐられなくなつて 「ねえあなた、もしあの方達の決心がきまらないとしたら、どうなさるの。」  と小さい聲で訊ねた。  アランはパイプを口から離して、微笑を浮べた眼を擧げて細君を見ながら、 「さうしたらもう一度バッファロオへ歸つて、おれのアラニットでも製造してゐるさ。」  と、落着いて、深い聲で答へた。けれどもすぐ自信のあるやうに強く頭を振つて、 「大丈夫だよ、決心するに違ひないよ。」  と言ひ添へた。  その時急に電話の呼鈴《べる》が鳴りだした。ホッビイの聲である。 「大急ぎで上つて來てくれ給へ。」  アランが屋上庭園へ現はれると、待つてゐたやうに進み寄つて來たのが、製鋼トラストのキルガラン氏である。キルガランは、アランの肩を叩いて、 「君、大成功でしたぞ。」  と言つた。  アランの勝利だ。アランは赤い制服を着た使ひを呼んで、一束《ひとたば》にして電報を渡した。使ひは昇降機で降《お》りて行つた。  それから二三分後には、屋上庭園には誰もゐなくなつた。誰《だれ》も彼《かれ》もぐづ/\してゐないで自分の仕事に取りかゝつてゐた。ホテルの召使連中は植木鉢や椅子を片づけて、ヴァンダアスチフト氏の飛行機の爲めに、離陸場所を拵へた。  ヴァンダアスチフトは飛行機の操縱席に昇つて、スヰッチを入れた。プロペラが※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉し初めて、卷き起つた強い風で、ホテルの召使連中は隅の方へ吹き寄せられた。十二三歩ほど滑走したかと思ふと、もう宙に浮び上つた。この眞白な大鳥の影は、紐育の光の霧に向つて飛んで、やがて消えてしまつた。 [#5字下げ]八[#「八」は中見出し]  會合が終つて十分の後に、電信はニュウ・ジャアシイ、佛蘭西、ベルムダ及びアヅォオル群島に發せられた。それから一時間の後には、アランの代理人が二千五百萬弗で方々の土地を買ひ上げた。  この買ひ入れた土地は、トンネル工事に出來るだけ有利な位置にある土地で、豫《かね》てアランが數年前から眼をつけてゐた處である。土地としての價値から云へば、とても惡い、最も廉《やす》い地面で、砂地、荒地、泥沼、禿山の島、暗礁《あんせう》、淺Pになつた洲《す》である。これが二千五百萬弗とは、實は莫迦安《ばかやす》の値段で、これだけの土地全體の廣さが、一公國の領土くらゐ廣い。これに包括されてゐるのが、間口二百|米突《メエトル》でハドソン河に接して、廣々としたハバクンの大きな低地である。買ひ上げられた土地は、何處も大都會から懸け離れてゐて、アランに言はせれば、そんな大都會なんぞはまるで用がないのである。荒野と砂地が、やがて將來の大都會となるべき資格を持つてゐるのである。  世間がまだ眠つてゐた間に、アランの電報は有線無線の電信によつて、全世界の取引所を襲つたのである。夜が明けると、紐育、市俄古、亞米利加、歐羅巴、全世界が、「大西洋トンネル・シンヂケエト」といふ言葉に、震へ上つて驚いた。  各新聞社は夜通し晝間のやうに明るく電燈を輝かし、輪轉機は最大限度の速力で動き出した。ヘラルド、サン、ウォオルド、ジャアナル、テレグラフ、及び紐育に存在してるた各國新聞、英語、獨逸語、佛蘭西語、伊太利語、西班牙語、猶太語、露西亞語等の新聞紙は、悉く發行部數を數倍して印刷した。それから、この何百萬とも知れない新聞紙が、夜の明けると共に全紐育に撒布された。ざわつく昇降機の中、歩道の人ごみ、高架鐵道の騷々しい階段。滿員の車臺めがけて一個の空席へ坐り込まうと、毎朝激烈な競爭をやる地下鐵のプラットホオム、その他、幾百の渡船、幾千の電車等々、砲臺から二百丁目に至るまで、あらゆる場所に、まだ印刷インキの乾かない新聞紙を我れ勝ちに手に入れようとする大爭鬪が起つたのである。町の何處へ行つても號外の噴水が、犇《ひし》めき合ふ群集と、さし延ばした手の上に噴き上つた。  この報道ほど人氣を呼んだものはなかつた。空前絶後だ。奇想天外だ。大膽不敵だ。  マック・アラン……とは何者だ。どんな經歴の男だ。何處から來た人間だ。一夜の中に幾百萬の大衆の前に現はれたこの男は、抑もどういふ人間だ。  いや、どういふ男でも構はない。兎に角、今日も明日も同じやうな騷ぎを繰り返してゐた紐育を、軌道から抛《はふ》り出してくれたアランだ。  新聞を擴げて見てゐる人々の眼は、このトンネル事業に關して、各意見を電報の形で述べてゐる一流名士の説に吸ひ着けられてゐる。  シイ・エチ・ロイド氏曰く、 「歐羅巴は將來亞米利加の郊外となるであらう。」  煙草王ヱチ・エフ・ヘルブスト氏曰く、 「ニュウ・オルレアンスからセント・ペテルスブルグへ一貨車の貨物を輸送するのに、途中の積換《つみかへ》を要しないではないか。」  大富豪エチ・アイ・ベル氏曰く、 「わたしの娘が嫁《かた》づいてゐる先《さき》は巴里です。これからは、娘の顏を見るのも、一年三囘どころか、十二囘も見られるわけですね。」  交通大臣ド・ラ・フオレスト氏曰く、 「該トンネルが各ビジネスマンに齎す利益は、省約し得たる時間だけ生き延び得るといふ事である。」  世間では詳細なニュウスを要求した。要求する權利を持つてゐた。各新聞社の前の廣場にくると、通行人の足が止まつてしまふので、電車の運轉手は、靴の踵で必死に警鐘《ベル》を踏みつけて、辛うじて電車を通した。もう數時間も前からぎつしり詰まつた人間の塊りが、眼ばかり光らせて、ヘラルド・ビルディングの二階に出てゐる掲示板を見つめてゐる。尤も其處に出てゐる寫眞は、數時間前と同じものである。それはマック・アランとホッビイと、その他昨夜の屋上庭園で會合した富豪連の寫眞である。 「七十億の人類を代表せる人々。」 「マック・アラン氏、自己の計畫を述ぶ。」(之は映畫で) 「プラウン夫人、一千萬弗の申込をなす。」(之も映畫で) 「昇降機から引戻されたシイ・エチ・スミス氏。」 「ヴァンダアスチフト氏の屋上庭園に到着の光景を、着陸の刹那まで示し得るものは當私寫眞のみである。しかも當社の寫眞師は機體に觸れて大負傷した。」(同じく映畫で)「無數の窓の點々たる、眞白な紙育の摩天樓。其處から薄い白い煙が昇つてゐる。やがて白い胡蝶が現はれる。それが小鳥となり、鴎《かもめ》となり、遂に一臺の單葉飛行機。飛行機は、屋上庭園の上を掠めつゝ、曲線を描いて舞ひ降りる。やがて巨大な翼は、動搖しながら近づいてくる。映畫終り。覆いて一枚の肖像寫眞。シイ・ジイ・スピンネウエイ君、即ち我社の撮影技師。ヴァンダアスチフト氏の機體は、同君を床上に引懸け仆して、重傷を負はしめた。」  それから最近の撮影にかゝる、 「マック・アラン氏事務所へ行かうとして、夫人及び愛子と、ブロンクスで別れの光景。」  その後には、これと似たやうな映畫が幾組も寫し出された。  すると不意に、十一時近くである。映畫がばつたり止まつてしまつた。何か新しい事でも起つたのかと、群集の顏は上の方へ向いた。  肖像寫眞が現はれて來たのである。 「東區二百十一丁目三十七番地居住の仲買人ハンタア氏は、只今、紐育、歐羅巴間の處女運轉に對する旅客券の申込を終りました。」  之を見た群衆は笑ひ出して、手に/\帽子を振つて、喊聲《かんせい》を學げた。  電話交換手は疲勞し盡した、地上と地下の電信も、もつこれ以上働くことが出來なくなつた。全紐育何萬の事務所では先を爭つて電話から受話器の奪ひ合ひだ。誰も彼も電話を繋いだ相手と、このトンネルの話をしようとした。全マンハッタンが熱にうかされた。葉卷を口にくはへて、麥藁帽子を阿彌陀《あみだ》に、ワイシャツをまくり上げて、汗をたら/\流しながら、立つてゐる者、腰かけてゐる者、叫ぶ者、身振り澤山でしやべつてゐる者。銀行員。仲買人。代理人。事務員。株式申込をして、出來るだけ利益のあるやうに、しかも敏速に割り込まなければいけない。素晴しい大軍隊が目の前に迫つてゐるのだ。資本の國民戰だ。ぐづ/\日和見《ひよりみ》なんぞしてると踏み仆《たふ》されてしまふ。この途方もない事業の金繰りは、誰がやるのだらう。――一體先はどういふ事になるだらう。ロイドだと。誰だ、ロイドて言つたのは。なに、ヰッタアスタイナアだと。誰か少し知つてる奴はゐないか。マック・アランといふ惡魔は一體何處の馬の骨だ。一晩の中に二千五百萬弗の地所を買ひ上げた奴は。この地價は三倍にも五倍にも騰貴《あが》るぞ――何、何だつて。――百倍になるつて。  一番に熱狂してゐたのは、大西洋汽船會社の上品な重役室である。マック・アランは、大西洋旅客運輸事業に致命傷《ちめいしやう》を與へる人殺しに違ひない。トンネルが完成した曉には、しかもこの男の事だから、いつかは必ず完成するに決《きま》つてゐるが、その時こそ、今日の四十萬噸といふ船は消えてしまふ事になる。そこで贅澤船の旅客運賃を、三等客の運賃まで引下げるのも一案だ。船を空氣療養の病院船に改造して、肺病患者でも收容して見るか、亞弗利加へやつて黒人相手に經營を續けて見るか。――かうして僅々二時間の中に、トンネル建造反對同盟といふものが、電話と電信による相談で纒まつたのである。續いて、この同盟は、各國の政府に宛てる質問を起草した。  紐育にはじまつたこのトンネル騷ぎが、市俄古、バッファロオ、ピッツバアク、セントルイス、サンフランシスコにまで及んでくると、一方にこの狂熱は、既に海を超えて歐羅巴へ、倫敦、巴里、伯林までも襲ひ始めたのである。  今日も紐育は、白晝の炎熱に輝やいて、群集が再び大通りに流れ出した時に、あらゆる往來の角から、途方もない大掛りな廣告が群集めがけてやつて來た。 「十萬人の勞働者募集。」  漸くこれで、このトンネル・シンヂケエトの事務所の場所が分つたのである。それはブロオドヱイ、ウォオルストリイトである。  そこには、目も眩《くら》むやうな眞白な、竣工|半《なか》ばの塔型の建物が立つてゐる。その三十二階あたりでは、まだ職人達が群り働いてゐた。  この大廣告が紐育街頭に溢れ出してから、まだ三十分位しか經《た》たないのに、このシンヂケエト事務所には職を求むる勞働者が石灰のひつかゝつた板の敷いてある大理石の階段に押し合ひへし合ひして語めかけた。この當時五萬と言はれた失業者の大群が、ありとあらゆる往來から、下町のブロオドヱイめざして轉《ころ》げ出して來たのである。かういふ失業者群が、我れ勝ちに事務所の一階へ雪崩《なだ》れ込んで、アランの代理人の處へ詰めかけて來た。まだその邊は梯子《はしご》や脚立《きやたつ》や塗料《ペンキ》を入れた桶が轉《ころ》がつてゐる――代理人といふのは、奴隷商人のやうな素早い眼付をした、冷淡さうな、經驗を積んだ若い男ばかりである。この連中が、押しかけて來る失業者を片端《かたつぱし》から檢査して、衣服の上からでも、骨格、筋肉、腱《すぢ》を見て取つた。例へば、眉の格好、腕の彎曲を一目見れば、その男の體力は見別けられるのである。わざとらしい姿勢や、顏に何か塗つたり、髮を染めて來りしても、この檢査の眼を晦《くら》ますことは出來ない。白髮頭や弱い體力のやうに、紐育の殺人的勞働にもう搾取されきつた肉體は、落第だ。かうして檢査が、ごく短かい時間に、何百人といふ人間を見るのだからといつて、一度|刎《は》ねられたのが、もう一度やつて來ても、檢査をする男の眼の冷たさは、まるで脊骨の髓までも凍らせるやうで、頭から振り向かれるしないのである。 [#5字下げ]九[#「九」は中見出し]  その同じ日である。アランの計畫で決定されたトンネルの五箇のステエション、即ち佛蘭西、西班牙及び亞米利加沿岸の三驛と、ベルムダ島及びアヅォオル群島のサンジョルジオとに、一團の人々が現はれた。みんな馬車や貸切自動車に乘り込んで、道といふ道のない處を徐々《じよ/\》と車を進めながら、泥沼にはまり込んだり、海岸の砂濱をよろけたりして進んで行くのである。やがて或る一定の場所にくると、其處も別に周圍の土地と變つた處もないが、兎に角其處までくると、乘込んでゐた連中が皆飛び降りて、水準器、測量具、束にした標尺桿《へうしやくさを》を車から引きずり出して、仕事にかゝつたのである。落ち着いて、熱心に、照準し、測量し、算定してゐる。それがまるで庭でも設計してゐるやうな樣子としか見えない。汗は滴《しづく》となつて、皆の額から流れてゐた。やがて或る地域へ境界線の棒が立てられ、その線が精密に確定された角度で、海と反對の方向を示し、それが、遠く奧地へと引かれて行つた。それが終ると、みんな方々へ散り散りばら/\に離れて、それ/″\仕事に着手した。  するとこの荒野の中に、三輪の馬車が浮び出て來た。梁材、板、屋根にするスレエト紙、その他種々の道具類を積んだ馬車である。この馬車は全く偶然に此處へ來合せたものらしく、此方《こちら》で働らいてゐる測量師や技師も知らん顏をしてまるで關係がないらしかつた。その馬車が止まると、梁材や板は、地面へ投げ下され、シヤブルは暑い太陽の中に光り、鋸は軋《きし》み、金鎚《かなづち》の音は響き出した。  暫くすると、今度は自動車が一臺よち/\やつて來た。すると一人の男が自動車から飛び降《お》りて、大聲學げて手を振つてゐたが、やがてその男は束にした標尺桿《へうしやくさを》を抱へて、此方の測量師の方へ走つて來た。痩せた、それは明るい金髮の男、ホッビイであつた。亞米利加ステエション驛長ともいふべきホッビイであつた。  ホッビイは「おゝい」と呶鳴つて、笑ひながら、汗を拭いた。浴びたやうな大汗だ。ホッビイは大聲で、 「一時間の内に料理番がやつてくるからね。トム河の方では、ヰルソンがまるで野蠻人のやうになつてますぜ。」  かう言つて指を二本口に突込んで、ぴい[#「ぴい」に傍点]と鳴らした。  すると、車の方から、標尺桿を擔いだ男が四人ばかりやつて來た。 「さあ、此處にお居での人達から聞いて、君達の仕事を始めるんだぜ。」  さう言つてホッビイはまた馬車の方へ引返して、今度は材木の積み上げてある中を、あつちこつち飛び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる。  さうかと思ふと直《ぢ》きにまた自動車へ飛び乘つて、レエクハアストの方へ姿を消した。其處で電話線の臨時架設工事を急いでゐる人達の具合を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りに行つたのである。その途中でも、このトンネル・シンヂケエトの境界柵を横斷してゐたレエクハアスト、レエクウッド間の鐵道線路に沿つて、自動車を飛ばせながら、呶鳴つたり叱つたりして行つた。丁一度その眞中あたりだ。牝牛《めうし》や牝牛《おうし》があつちこつちで草を食つてる牧場の邊に、二輛の機關車が五十臺の貨車を引ぱつて盛んに煙を吐いてゐた。するとその後から五百人の勞働者を滿載した列車がやつて來た。丁度もう五時である。この五百人の勞働者を雇入れたのが、今日の午後二時で、三時にはハバクンの停車場を出發したのである。誰の顏を見ても、明るく上機嫌だ。みんな、茹《ゆ》で殺されるやうな紐育から離れて、廣々とした曠野の自由な空氣の中に仕事を見つけたことを喜んでゐるやうであつた。  勞働者達は、この五十臺の貨物列車に飛びついて、板、ナマコ板、屋根用の厚紙、料理用竈、食料品、天幕、毛布、箱、嚢、まるく束《たば》ねたものを、この牧場へどし/\と投げ下した。監督してゐるホッビイも、呶鳴つたり、口笛を吹いたり、猿のやうに貨車や板を積み上げた上へ飛び乘つて、大聲を擧げて命令を傳へてゐる。一時間ばかりたつと、野外炊事場が出來、今度は料理番が忙しくなつた。二百の勞働者は大急ぎで、今夜のバラックを急造してゐる間に、一方では殘りの連中はまだ貨物の積下《つみおろ》しを續けてゐた。  やがて暗くなると、ホッビイは、部下に向つて夜のお祈りを上げて、横になれと言つた。それ程に萬事が都合よく捗《はかど》つたのである。  それから、ホッビイは測量師や技師連中の方へ引返して、紐育へ電話で、自分の報告をした。  それが濟むと今度は、技師連中と一緒に砂濱へ水を浴びに出かけた。其處から戻ると、着のみ着のまゝで、急造バラックの板の床の上へごろりとなつた。少しでも眠つておいて、夜が明けると共にまた活動に取りかゝらうといふのである。  午前四時だ。材料を滿載した百輛の貨物列車が到着した。それから半時間ばかりすると、今度は五千人の勞働者が送られて來た。この連中は汽車の中で夜を明かして、腹を減らして疲れきつたやうな樣子をしてゐる。夜がしら/″\明ける頃からもう炊事場は大多忙で、麺麭《パン》燒き小屋は、盛んに蒸氣を吹いてゐた。  ホッビイは時間正確に現場《げんば》へ出掛けた。仕事が愉快で耐らないのである。睡眠時間はごく僅かでも、とても上機嫌だ。そのにこ/\した顏がまた勞働者團にも好感を與へた。この男は馬を一頭用意させて、それに乘つて一日中疲れもせずに彼方此方《あつちこつち》と跳《と》び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。灰色の毛並をした白馬であつた。  鐵道線路の傍は、種々雜多な材料品の山だ。八時になると二十臺の貨車を連結した列車が到着した、それに滿載されたものは、枕木、軌條、トロッコ、及び狹軌鐵道用の可愛らしい機關軍二臺である。續いて九時には、二番目の列車がやつて來た。今度は、技師と技手連中の一團だ。ホッビイは幾千人の夢働者達を督勵《とくれい》して、狹軌鐵道線路の建設に着手させた。其處から約三キロメエトルばかり隔つてゐる建築事務所へ連絡を執《と》らうといふのである。更に夕方着いた貨物列車が運んで來たものは、二千人分の野外用鐵製寢臺と、毛布だ。ホッビイは電話で呶鳴りこんで、人夫の方をもつと澤山寄越してくれと頼んだ。アランの返辭には、明日二千人の勞働者を送る、とあつた。  その約束通り翌日の朝まだ薄暗い内に、二千名の人夫が到着した。しかもその後からは、何百臺とも知れぬ貨車が材料を滿載してやつて來た。流石のホッビイも恨めしかつた。アランは文字通りこの男を材料で埋めてしまひさうである。けれどもその後で、與へられた運命に飽までも獻身の努力をしようとホッビイは悟つた。アランのこのテンポが、ホッビイにはよく頭に入つた。これこそ、殺人的亞米利加式テンポだ。しかもこのテンポは現代に至つて殆んど狂氣に近くなつてゐる。ホッビイは息つく暇さへなくなりながらも、このテンポには、敬意を表せざるを得なかつた。さうして自分の努力を愈々大にした。  三日目には、一囘も顛覆しないで、この汽車は建築事務所まで走つて行つた。その日の夕方に小さい狹軌機關車は、汽笛を鳴らしてキャムプの眞中へ到着した。誰も彼も思はず「萬歳」を叫んだ。この汽車で引張つて來た無數の小型貨車に滿載した品物は、板と梁材とナマコ板である。二千の人夫は、死物狂ひの速力で、バラックと、野外|炊事場《すゐじば》と、倉庫を建てた。ところがその晩に、猛烈な暴風雨がやつて來て、このホッビイ市は滅茶々々に破壞されてしまつた。  ホッビイはこの天の惡戲に、思はず長嘆息して、取敢へず紐育のアランに二十四時間の臨時休止を頼んだところが、アランは一向お構ひなしで、後から後からと材料を滿載した貨車を送りつけたので、流石のホッビイも、眼の前がまつ暗になつた。  この日の夕方七時頃である。アラン[#「アラン」は底本では「モラン」]は、細君のモオドと一緒に自動車を飛ばしてやつて來た。其處ら中を乘り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、盛んに呶鳴り散らし、叱言《こゞと》を食はせて、何もかも愚圖愚圖してゐると罵り、シンヂケエトは君達を只で使つてゐるのぢやない、最大能率の勞働を要求してゐるのだと捨て科白《せりふ》を殘して、さつさと自動車で引上げてしまつた。後では一同感心したり驚いたりするばかりであつた。  けれどもホッビイといふ男は、さうすぐに勇氣を無くすやうな人間ではない。この十五ヶ年に渉《わた》るべき、盲目的な競爭意識を持ち續けてやらう、と腹を決《き》めると、忽ち惡魔のやうな元氣で動き初めた。アラン[#「アラン」は底本では「アンン」]一流のテンポは、この男をも引張つていつたのである。  勞働者の一團は、レエクウッド方面の鐵道線路基礎工事で大多忙である。これは正規の汽車を通すための建設工事である。赤錆のやうな埃《ほこり》の雲が、この仕事の進路を示した。  第二團の勞働者は續々と到着する材料滿載の貨車に跳《と》びついて、目が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るやうなテンポで積み下《おろ》しては積み重ねてゐる。それは枕木、レエル、電柱、機械である。第三團は坑道《かうだう》のやうな大穴を掘つてゐる。第四團はバラックを建造してゐる。之等の勞働者團を指揮してゐるのは、技師達だ。技師連中は間斷のない叫喚と昂奮した身振とで、勞働者團を激勵した。  灰色がかつた白馬に跨がつたホッビイの姿は、何處へ行つても眼に入つた。勞働者達はホッビイに「陽氣なホッビイ」と綽名《あだな》をつけた。アランが「マック」で、技師長をしてゐたハリマンは單に「牡牛」だ。この男は、全生涯を、地球上のあらゆる大建築工事々務所に過した程で、いかにも牛のやうな太い頸を持つた陰鬱鈍重な男であつた。  かういふごちや/\した人間の間に、測量機械を持つた測量師の連中は、そんな騷動には眼も呉れず、この廣い地一面に、赤白の色の棒と杭《くひ》をばら撒《ま》かうとしてゐる。  この土地に最初のシャブルを入れてから三日目には、このトンネル都市は、鑛山のキャンプ團となつた。それが野營地となり、一週間の後には、驚くべきバラック町に變つた。そこには二萬の人間が生活し、屠殺場、牛乳屋、麺麭屋、日用品市場、酒場、郵便局、電信局、病院、墓地が出來た。このバラック町の横にはもう完成した家の大通りが出來てゐる。それはエヂソン式の組立家屋で、立ち所にどんな場所にでも二日間で完全に組立て上るのである。  町全體は、厚い塵埃《ぢんあい》を被《かぶ》つて、まるで白い町である。僅かばかり殘つた草原や、方々の草叢《くさむら》は、まるでセメントの山になつてしまつた。大通りはレエルと枕木だ。扁平《へんぺい》なバラック街は、電信柱の森の中に沈んでしまつた。  八日の後である。不意にこのバラック街の眞中に眞黒な、咆哮と叫聲を發する怪物が現はれた。亞米利加の巨大な貨物車索引用のトラクタアだ。大きな眞赤な車輪だ。これが何十臺とも知れない貨物車を引張つて來た。それが廢墟のやうな曠野に白い蒸氣を吐き散らし、ぎら/\と光つてゐる日輪めがけて黒雲のやうな煙を噴《ふ》き上げる。誰も彼もこの巨大な怪物を見て、絶叫し、感激して咆哮せずにはゐられなかつた。これこそ亞米利加だ、トンネル都市へやつて來た亞米利加だ。  翌日になると、この眞黒な、煙を吐く怪物は、群をなして押し寄せた。一週間後には大集團となつた。その腹から噴き出す蒸氣の音は空氣を震はして、その後に續く長い貨車の大蜥蜴を搖ぶり、その※[#「月+咢」、第3水準 1-90-51]と鼻の孔から白い蒸氣と黒い煙を噴上《ふきあ》げた。流石に尨大なバラック街も、この黒煙の中に見えなくなつてしまつて、時にはその黒煙が厚く濃い爲めに、その眞暗な中へ電光を放射するので、晴れ渡つた日でも、このトンネル都市の上には、雷《かみなり》が鳴るやうな音がした。叫喚。悲鳴。叱咤。爆音。電鳴。轟音。この中に全トンネル都市があつた。  この狂亂し、煙を吐いてゐる白い塵芥都市の眞中から、晝夜の別なく立ち昇つてゐる巨大な砂塵の柱がある。それが雲のやうな形になつて、まるで火山が爆發でもする際に觀測されるやうな格好をしてゐる。それが上空の氣層から壓迫されて、茸《きのこ》のやうな形に頭が扁平になり、無數の斷雲が、その邊から氣流の動きに從つて流れてゐるのだ。  これは風の吹き次第で、どうとも變化するが、この砂塵の柱を海上の汽船から眺めると、數キロメエトルも廣い石灰岩《せつくわいがん》のやうに白く光つた島に見えるのである。又、どうかすると、このトンネルの砂塵が紐育の空へ、細かい灰の雨を降らすこともあつた。  丁度其處が、トンネル工事の土工現場である。現場は四百メエトルの廣さで、眞直《まつすぐ》に五キロメエトルも陸地の奧へ延びてゐる。それは階段のやうに掘られて、一段ごとに深くなつてゆく。トンネル坑道の中へ行くと、その段々《だん/\》の最下底の床は、水面下二百メエトルの深さに達してゐるのである。  今日はまだ荒れた砂地に、赤白の棒や杭が立つてゐたと思ふと、明日は立派な砂床となり、明後日は砂利を敷きつめた溝道となつてゆく。岩石を割る。礫岩の巨大な凹みが出來る。砂利。粘土。石灰。最後に孔道《かうだう》が出來る。その中にはまるで蛆蟲のやうに無數の勞働者が蠢動してゐる。一番上の段階から見ると、ほんの小さく、砂と埃で白く灰色になつてゐる人間だ。灰色の顏。灰色の髮。灰色の睫毛。口の中には砂塵の粥だ。晝夜兼行で、この坑道へ突入してゐるのは、二萬人の勞働者である。海面のやうにきら/\と輝やくのは、鶴嘴《つるはし》とシャブルである。喇叭《らつぱ》が響く。すると、一時に砂塵がどつと渦卷き上る。石の巨人が急に崩れて、倒れ、碎ける。ごちや/\に塊つた人間が立ち昇る砂塵《さぢん》の雲の中でころげ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。齒ぎしりするやうな悲鳴を擧げる浚渫機《しゆんせつき》。間斷なしに唸りがちやつくバケットポンプ。ふらふらする起重機。空氣を裂《さ》いて走る車。無數のポンプが夜となく晝となく吸ひ上げる汚水《をすゐ》は、大の男が通り拔けられる位の管《パイプ》の中を、激流のやうに噴き上げてくる。  例の小さい機關車の一隊は、無數の浚渫機《しゆんせつき》の下をくゞつては走る。ころがつてゐる岩石の間を縫ひ、積み上げられた砂丘の上をよち/\と通つてゆく。けれども一旦坑道外の自由な道へ出て、堅牢《けんらう》なレエルの上へくると、忽ち滅茶苦茶に笛を吹き、がん/\ベルを鳴らしつゞけて、バラック街を工事の現場へと突進する。そこへ砂と石とを持つてゆくのである。其處から今度は、セメントの袋を山と積み込む。此方の勞働者は大きな兵營式の大きな建物を建てようとして大いに忙しい。四萬人の人間をこの冬には是非收容しようといふ建物である。  坑道から五キロメエトルばかり離れた地點へくると、其處には、油と熱氣と煙の雲の中に、四臺の黒い機械が、まだごく新しいレエルの上に立つて、盛んに煙を擧げながら待つてゐる。  その車輪の前では、シャブルや鶴嘴がぴか/\動いてゐる。大汗でびつしよりの一團が、地面を掘り下げて、片端《かたつぱし》から其處へ石塊や砂利《じやり》を投げ込んでゐるのだ。貨車の上を斜めにすると、さういふ石塊や砂利は、がら/\と雪崩《なだ》れ落ちる。石と石との間へ枕木をねかす。まだタアルがべとべとしてゐる枕木だ。枕木が階梯のやうに据ゑられると、その上からレエルをネヂで堅く緊《し》めつける。かうして五十メエトルづつレエルが据ゑ付けられると、四臺の眞黒な機械が蒸氣をしゆつ[#「しゆつ」に傍点]/\と吐いたり音を立てゝ、三四遍位づつ鋼鐵の關節を動かすと、もう直ぐにまたシャブルと鶴嘴の光つてゐる傍で立ち止る。  かういふ風にこの四臺の眞黒な怪物は、毎日少しづつ前進を續けて、或る日は、山のやうに兩側に積み上げられた砂利の間で立ち止り、或る日は、峻《けは》しい粘土《ねんど》の壁に圍まれた大きな煖爐の中のやうな場所で、階段の遙か下に立ち止つて、一つしかない眼玉をぎよろつかせながら、目前につき立つてゐる屏風《びやうぶ》のやうな岩壁《がんぺき》を凝視してゐる。そこから三十歩ばかり離れて、二條の巨大な弧形が見える――それがトンネルの入口であつた。 [#改ページ] [#4字下げ]第二編[#「第二編」は大見出し] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  亞米利加のトンネル都市と同樣に、佛蘭西でも、フイニステラでも、大西洋中の二つのトンネル停車場でも、汗水《あせみづ》垂らした何萬といふ人間が、地下へ地下へと掘り進んでゐた。晝となく夜となく、猛烈な煙と塵埃《ぢんあい》の柱が地球上の五つの場所から噴《ふ》き昇つてゐた。募集に應じて集つた十萬の大勞働者團の中には、亞米利加人も、佛蘭西人も、英國人も、獨逸人も、伊太利人も、西班牙人も、葡萄牙人も、黒人と白人の混血兒も、黒人も支那人もゐた。あらゆる現存の國語が入り混つてゐる。技師連中は、初め大部分亞米利加人、英國人、佛蘭西人、獨逸人だつたが、やがて間もなく全世界の工業專門學校から多數の技師達が押し寄せて來て、無報酬でも働かうといふ事になつた。日本人、支那人、スカンジナ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ヤ諸國の人、露西亞人、波蘭人、西班牙人、伊太利人が參加して來たのである。  續いて、佛蘭西、西班牙、亞米利加の沿岸各地及びベルムダ群島アヅォオレ群島等の各地へも、アランの技師連中と勞働者群が現はれて、あの五つの主要な工事現場と同樣、大 掛りな掘鑿《くつさく》工事を始めた。この連中の仕事はアランのナイヤガラと言はれる發電所を作ることであつた。その動力を用ゐて亞米利加から歐羅巴へ列車を通したり素晴しく長い地下道の照明と通風《つうふう》とを得ようといふのであつた。獨逸人のシュリック及びリップマンの改良法に基いて、アランは大貯水池を作らせた。此處へ滿潮時《みちしほどき》を利用して海水を流れ込ませ、更に一段と低く掘りさげた第二の貯水池へ瀑布《ばくふ》のやうに落下させる。その落水の勢ひは澤山のタアビンを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉させ、このタアビンによつてダイナモから電流が流れ出るといふ仕組である。そして海水は干潮時《ひきしほどき》に再び海へ戻されるのである。  ペンシル※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ニヤ、オハイオ、オクラホマ、ケンタッキイ、コロラド、ノオサムバアランド、ダルハム、南ヱエルス、瑞典、ヱストファアレン、ロオトリンゲン、白耳義、佛蘭西等、各地の製鐵場や精錬所は、アランから莫大な註文を受けた。又、各國の炭鑛は採炭を急ぎ、輸送と熔鑛爐のため石炭需要が増大したのに應じ始めた。銅、鋼鐵、セメントは空前の騰貴《とうき》をした。亞米利加と歐羅巴の大きな機械工場は、いづれも時間外勞働を行つた。瑞典、露西亞、匈牙利、加奈陀では、森林がどし/\伐り倒された。  いつも何百隻といふ貨物船や帆前船が佛蘭西、英吉利。獨逸、葡萄牙、伊太利各國とアヅォオレ群島との間や、亞米利加とベルムダ群島との間を通つて、皆材料品や勞働者を工事現場へ輸送した。  シンヂケエトの汽船が四隻、大西洋上に浮んでゐた。これに乘つてゐるのは一流の學者で、大抵は獨逸人と佛蘭西人であつた。トンネルは今迄に知られた海洋學的測量に基いて計畫されたのであるが、そのトンネル曲線を具合よく導かうとし、又出來た部分を再び調査しようとして、三十海里づゝの範圍に亙り、錘《おもり》を下して測定するのであつた。  五箇所のトンネル停車場、各地の工事現場、汽船、工業中心地などから晝夜發せられる連絡の糸は、ブロオドエイ・ヲオルストリイトの一角に立つトンネル・シンヂケエト・ビルディングに集まつて、更に其處から、たゞ一人の手に、アランの手に集まるのである。  僅か數週間の懸命な努力によつて、アランは全世界を動搖させるに至つた。アランの事業は地球全土を包圍しようとしてゐる。つい最近迄は全く知られてゐなかつたこの男の名前が、今はまるで流星の如く人類の頭上に輝いてゐる。  數千の新聞記者連中は大車輪《だいしやりん》に働いて、アランの生立《おひた》ちを調べ上げたから、暫くの後にはもう各新聞の讀者で、この男の經歴に通曉しない者は一人も無くなつてしまつた。  けれども、この男の經歴は斷じて平凡なものではなかつた。十歳から十三歳までのアランは數百萬の隱れた大衆の一人であつた。地の底で日を送り、しかも何人からも顧みられない大衆の一人であつた。  西部の炭鑛區に生れ、今でも忘れることの出來ない最初の印象は火焔だつた。夜になると空の各所に火が燃え上つて、見てゐる子供のアランには、まるで恐ろしい巨大な身體に澤山の頭がくつ着いて、その頭が皆火を吐いてゐるやうに思はれた。その火はあつちの方の爐から、火の山のやうな形で現はれて來た。その火の山をめがけて、焔を浴びた數人の男が八方から水をかけると、やがて何も彼《か》も大きい白い水蒸氣の雲となつて消え失せた。  この地方の空氣は、うすい煙や濃い煙や、工場の汽笛の叫び聲で一杯だ。煤《すゝ》の雨が降つて來る。時には夜の空がすつかり眞赤に燃えて見えた。  人々はいつも塊まつて、眞黒《まつくろ》に煤《すゝ》けた煉瓦の家の往來を歩いてゐる。行くにも歸るにも大勢塊まつてゐる。どの一人を見ても黒ん坊のやうに眞黒《まつくろ》で、日曜日にさへ、石炭屑が眼の中にはひつてゐる。かういふ連中の會話に、きまつて出て來る言葉は「アンクル・トム」である。  マック・アランの親爺《おやぢ》も、兄貴のフレッドもアンクル・トムで働いてゐる。この邊の連中は皆其處で働くのである。  マック少年の成長した町は、殆んど年中《ねんぢゆう》黒光りのする泥沼同然であつた。その傍を淺い小川が流れてゐた。岸に生える僅かばかりの草も青い色ではなく、眞黒であつた。第一その小川からして汚ならしく、大抵は、油が浮いて、いろんな色に光つてゐた。小川の直ぐ向うには、コオクスを焚《た》く爐《ろ》が長い列を作つて並んでゐる。その向うに突つ立つてゐるのは眞黒な足場で、鐵や木で出來た足場である。その足場には間斷なく小さい箱が上下してゐる。マック少年が一番大好きだつたのは、空中にかゝつてゐる一つの大きな本當の車輪であつた。この車輪は時々|一寸《ちよつと》休む。直きにまたぶん/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り初める。どし/\早くなつて、車の輻《や》はてんで見えなくなる。急に再び車の輻《や》が見出えして、空中にかかつた車輪の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉は緩《のろ》くなり、やがてぴたりと動かなくなる。暫くすると又再びぶん/\が始まる。  マックは五歳になると、兄貴のフレットや近所の馬丁小僧などから、これといふ固定資本なしで金の儲かる祕術を教はつた。花を賣る。馬車の扉を開《あ》けてやる。落したステッキを拾つてやる。自動車を呼んで來る。電車道に散らばつた新聞紙を集めて、それをまた賣る。マックは夢中になつて、かういふ町《まち》つ兒《こ》の仕事をした。一錢でも儲けた金は皆フレッドに渡したが、その代り日曜日毎には馬丁小僧どもと一緒に「酒場」に入《はひ》り込むことを許されたものである。その中にマックは、氣の利いた小僧なら一錢も使はず一日中遊べる方法を考へつく年頃になつた。まるで寄生蟲《きせいちゆう》のやうに、何でもかでも自分の眼の前に轉がつて來たもので、少しでも自分の足しになる者に取つ付いて生活した。もつと大きくなると、マックは自分の商賣を手廣くして、一本立ちで働くことにした。新築された家へ行つて、麥酒《ビイル》の空き罎を拾ひ集めて來て賣るのである。「うちの父つゝあんに言ひ付かつて來たよ」と言つて賣つた。  ところが到頭その最中に取捉《とつつか》まつて、ひどくぶん毆られて、この素敵な商賣も鳧《けり》が付いてしまつた。  八つになるとマックは、父親から灰色の大黒《だいこく》帽子と大きな長靴を貰つた。いづれもフレッドのお古《ふる》である。ところでその長靴は、とても大き過ぎる代物で、マックが穿《は》いて一寸でも足を振らうものなら、忽ち部屋の隅へ飛んで行くのであつた。  父親はマックの手を引いて、アンクル・トムの所へ連れて行つた。この日は、少年マックに取つて一生忘れ難い日である。今日も尚あり/\と思ひ出すのであるが、マックは、びく/\しながら、興奮しながら、父親の手につかまつて、騷がしい鑛山の敷地へ這入つて行つた。アンクル・トムは活動の眞最中だつた。空氣は叫び聲や汽笛の響きで震へてゐる。小さな箱が上へ下へ空中を走つて行く。鐵道貨車がごろ/\通る。何もかも動いてゐる。そして上の方、高い所で唸つてゐるのは捲上機《まきあげき》の車輪だ。もう數年來マックが遠くから見て知つてゐる車輪である。コオクス爐の後には、焔と眞白な煙の雲とが立ち昇る。煤と石炭の粉が雨のやうに降つて來る。樂《らく》に大の男が通れる位の太い導管《だうくわん》の中では、ぶん/\しゆう/\音がしてゐる。冷却裝置からは、瀧のやうに水が落ちる。太く高い工場の煙突からは、眞黒な煙が間斷なく空へ噴き出してゐる。  煤けた煉瓦作りの工場の窓|硝子《がらす》は、皆破れてゐる。その建物に近づいて行くと、騷ぎは益々大きくなり荒々しくなつた。まるで空の何處かで何千人の子供達が折檻《せつかん》されてるやうである。地面はぶる/\震へてゐる。 「あの泣いてるのは何だい、父つゝあん。」と、マックは訊いた。 「石炭が泣いてるんだ。」  石炭が泣くものだとは、マックはちつとも知らなかつた。  父親は大きな絶えず震へてゐる家の階段を登つて行つた。壁も龜裂《ひゞ》だらけであつた。それから父親は大きな扉を一寸明けた。 「今日は、ジョシア。うちの小僧にお前んとこの機械を見物させようと思つてね。」  と、中へ呶鳴るやうに云つてから、くるりと後を向いて階段へ唾を吐いた。そしてかう言つた。「來いよ、マック。」  マックが覗いて見ると、其處は石疊みの敷いてある綺麗な大きい部屋だつた。ジョシアといふ男は背中を見せてゐる。坐り心地のよさゝうな椅子に腰かけて、びか/\光る槓杆に兩手をかけて、身動きもせずに、部屋の奧の大きな圓筒を睨《にら》んでゐる。何處かで合圖《あひづ》の鐘が鳴る。そこでジョシアは一本の槓桿を動かす。すると大きな機械があちこちの太い棒を左右に動かし始める。マックには家ぐらゐの高さに見える大きい圓筒はだん/\激しく※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り出して、その周園でも、眞黒い、腕ぐらゐ太い鐵の綱が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り出す。  父親が説明して呉れた。「第六坑道へ籠が行くんだ。石を抛《はふ》り込むより迅《はや》いぞ。下から引奪《ひつたく》られるやうなもんだぞ。ジョシアさんは今千八百馬力で動かしてるんだ。」  マックの頭の中はすつかり混亂してしまつた。  圓筒の前にある白い棒のところでは、矢が何本も上つたり下つたりしてゐた。その矢が一番手前の邊へ來た時、ジョシアはもう一つの槓杆を動かした。すると唸《うな》つて※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた圓筒は、ゆつくりし始めて、やがて動かなくなつてしまつた。  マックは未だ嘗て、この捲上《まきあげ》機械のやうに、素晴しい力のものを見たことは無かつた。 「ジョシア、どうも有難う。」と父親はお禮を云つたが、ジョシアは振向きもしなかつた。  親子は機械室を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、狹い鐵梯子《てつばしご》を登つて行つた。マックは大きな長靴を穿《は》いてゐるので、登るのが實に大變であつた。登るに從つて、子供の泣くやうな鋭い叫び聲はひどくなつた。上へ行き着くと、騷がしい音は非常に激しく、お互ひの言葉は殆んど聽き取れない。途方もなく廣い部屋だ。薄暗く、石炭の埃が一杯で、鐵の箱が幾つもがらがら動いてゐる。  マックは胸が苦しくなつた。  この場所では石炭が悲鳴をあげてゐたのであるが、此處で父親は眞黒に煤《すゝ》けた男達にマックを預けて、其儘さつさと歸つてしまつた。マックがあたりを見て驚いた事には、石炭の川が流れてゐる。幅が一メエトルばかりの長い帶の上を、間斷なく石炭の塊が走つてゐる。その先には、床に穴が開いてゐて、其處から鐵道貨車の中へ落ち込む。まるで眞黒な瀧のやうに續いて落ちる。この長い帶の兩側には眞黒に煤《すゝ》けた子供達が並んでゐる。みんなマックと同じ位の小僧である。それが石炭の流れに素早く手を突込んで、何か或る形の塊を掴み出しては、鐵の箱の中へ抛《はふ》り込んでゐる。  一人の小僧がマックの耳の傍で呶鳴つて、よく見ろと言ふ。このちびも眞黒に煤けた顏だつたので、暫く見てマックはやつと、その三つ口で思ひ出した。直ぐ近所の子供だつた。つい昨日マックはこの子の後から綽名《あだな》の「兎」と呶鳴つたので、毆《なぐ》り合ひの喧嘩をやつたばかりだつた。 「おいマック、俺達は駄目な石を拾ひ出してるんだ。」と「兎」は金切《かなき》り聲で、マックの耳の傍で呶鳴つた。「石がまざつてちや、賣物にならんからな。」  翌日になるともうマックは、他の子供と同樣に、どれが石炭でどれが石であるかを、見分けるやうになつた。裂《さ》け目と、光澤《くわうたく》と、形で見分けるのであつた。それから八日|經《た》つと、まるでもう四五年も長くこの騷がしい石炭だらけの眞黒な部屋に住んでゐたやうに、すつかり慣《な》れてしまつたのである。  休む時なく流れて來る石炭の小川を覗き込んで、眞黒な手に「山」と云はれる石を探しながら――まる二年間毎日毎日定められた自分の場所、上から五番目の持場にマックは立ち續けた。何千噸といふ石炭が一度は皆、マックの小さな敏捷な手の下を通つて行つたものである。  毎週土曜日には賃銀を貰つたが、それを皆、ほんのちよつぴりの小遣だけを殘して、父親に渡さなければならなかつた。マックは今や九歳《こゝのつ》で、一人前の人間だ。用のない日曜日に、例の「酒場」へ行く時は、糊《のり》で固めたつば[#「つば」に傍点]のある帽子を冠つて、カラアを着《つ》けた。だぼはぜ[#「だぼはぜ」に傍点]見たいな口にパイプをくはへて、ゴムをくちや/\噛んでゐるので、舌と上顎の間はいつも唾《つば》と涎《よだれ》の貯水池であつた。一人前の男だつたから、一人前の口を利いた。たゞ聲の調子だけが、よく徹《とほ》る子供の金切り聲で、毎日々々騷がしい仕事部屋で暮す少年工の聲であつた。  かうした少年勞働者が扱つてゐるのは地上に掘り出された石炭だつたが、マックはそれは固《もと》より、他のあらゆる事情にも通じてゐた。父親よりもフレッドよりもよく知つてゐた。この炭鑛にゐた少年工の中には、一年|經《た》つてもまだ、石炭といふものが何處から出て來るのか、貨車の中にごろごろ這入る、この際限の無い石炭の流れが何處から來るのか、まるで見當も付かない連中が何十人もあつた。竪坑《たてかう》の鐵の扉は夜晝鳴り續けた。汗水垂らしてゐるやうな運炭籠は夜晝少しの休みもなく、四つの鐵の箱車を吐き出して、一度に五千磅 の石炭を吐き出した。夜《よる》も晝《ひる》も鐵の箱は、仕事部屋の鐵板をがら/\通つた。それが夜も晝も、床の穴の上の一定の場所に來ると、まるで串刺《くしざ》しの鷄のやうに、くるりと宙返りして、石炭を下の方へぶちまけて落すと、空《から》つぽになつて向うへ行つてしまふ。ところがその穴から抛り込まれた石炭は、珠數《じゆず》つながりの澤山の籠に入れられて再び上へ運ばれて大きな篩《ふるい》に搖ぶられることになる。石炭が悲鳴を擧げるのは此處である。大きな石炭は採掘炭として、貨車に積み込んで運び出される。無論此處までは他の少年工も知つてゐたが、然しそれ以上の事は知らない。ところで、這入つてからやつと一ヶ月のマックが言ふのには、この仕事部屋をごろ/\行く鐵の箱車は、とても石炭を皆運びきれるものぢやないと言ふ。その通りだつた。毎日貨車は何百臺も集まつて來た――アンクル・トム第二工場、第三工場、第四工場、と各工場からやつて來て、みんなアンクル・トム第一工場へ集まるのである。この第一工場ばかりで、精洗《せいせん》や、燒きや、「化學的操作」などが行はれるからである。始終拔目なく周圍を見てゐたマックは、何もかも分るやうになつた。篩《ふるひ》の目から落ちた石炭が、珠數つながりに籠のぶら下がつた鏈ポンプで、精洗所《せいせんじよ》へ運び出されることも知つてゐた。精洗所へ行くと釜の中を通るが、この釜の水は石を沈ませ、石炭を洗ひながら先へ送るのであつた。それから今度は色々な大きさの穴を持つた五つの篩を通つて、途方《とほう》もなく大きい圓筒へ送り込まれる。その中でひどい音を立てながら、ぐる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて掻きまぜられて品分けが行はれる。かうして出て來た或る二三種だけが、管によつて色々な漏斗《じようご》に送り込まれ、それから坑炭と呼ばれ、混合炭一等二等三等と呼ばれて、鐵道貨車へ抛《はふ》り込まれ、運び出されるのである。だが細かい石炭は、かけらや塵のやうな石炭は――これを皆捨てゝしまふものと諸君は思ふか。十歳の少年技師マックに訊《き》いて見給へ。かう答へるであらう。石炭は、もうそれ以上何も取れない位に、すつかり「絞り取られる」ものだ、といふ返事だらう。殘つた石炭屑は、鐵の空洞の梯子《はしご》を昇つて行く。この巨大な空洞梯子は、薄汚ない色に汚れて、一寸見ると靜止してゐるやうだけれど、よく見ると、靜かに――實にゆつくり動いてゐる。一階昇るのにまる二日かゝる位の緩《ゆる》やかさで、一階昇つてはくるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、石炭の塵《ちり》をこれも巨大な漏斗《じようご》の中へ振り落す。この大漏斗からコオクス爐へ這入つて行つて、コオクスとなる。そして、その際に蒸發する瓦斯は、眞黒なのつぽ[#「のつぽ」に傍点]の管の中で沈澱《ちんでん》させられて、タアル、アムモニアなど、凡そ生産される限りの色々なものになつてしまふ。アンクル・トム第一工場でやつてゐる「化學的操作」といふのがこれである。そして、マックはこれらの事をすつかり心得てゐた。  十歳になるとマックは、父親から黄色い布の厚い仕事服と、毛の頸卷《えりまき》を貰つた。そしてそれと同じ日にマックは始めて這入つて行つた――石炭の出て來る場所へ、這入つて行つた。 鐵の函《はこ》がぎし/\軋《きし》む。鐘が鳴る。運炭籠が降り始める。初めはゆつくりだが、それがだん/\早く猛烈な勢ひになると、マックは自分の坐つてゐる函の床が裂けるのではないかと思ふ。一時は眼の前が眞暗になつて胃の腑《ふ》を緊《し》め付けられるやうだつたが――やがて氣持がよくなつた。耳を劈《つんざ》くばかりの鋭い音を立てゝ、鐵の籠は凄じい勢ひで、八百メエトルの地底へ落ちて行く。籠は搖れながら鐵の索條《さくでう》にぶつかつて、物凄い音を立てる、今にも粒々《こな/″\》に碎けさうである。水が撥《は》ねかゝつて來る。びつしより濡れた眞黒な坑道の仕切り壁が、眼の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るやうな早さで上へ/\飛んで行くのが、カンテラの灯影に、籠の扉口《とぐち》からよく見える。マックは肚の中でこんなものかなあ、と思つた。マックはもう二年間といふもの、毎日々々|交替《かうたい》の休み時間に、カンテラを提《さ》げた坑夫や人夫達、あの仕事部屋へ現はれると螢のやうに見えた人達が――運炭籠から出て來たり、籠と一緒に落ち込んで行つたりする光景を眺めてゐたが、その間に事件が起つたのは僅か二度であつた。一度は、籠が天井にぶつかつた爲め、乘つてゐた坑夫達の頭が碎けてしまつた事件で、もう一度は、籠を上げ下げする索條《さくでう》が切れて、二人の坑夫と一人の技師が泥沼のやうな底へ落ち込んだ事件である。これは起り得る事件ではあるが、といつて滅多にある出來事ではない。  不意に籠が止まつた。第八炭坑である。急にあたりがひつそりした。其處へ、眞黒で誰が誰やら分らない半裸體の人間が、二三人迎へに出て來た。 「おうアラン、小僧を連れて來たのか。」 「さうよ」  マックがはひつて行つたのは熱いトンネルだつたが、竪坑《たてかう》に續いてゐる人口の所だけは、薄ぼんやりカンテラが點《つ》いて、その先は直きに眞暗闇となつてゐた。暫く行くと、向うの方にちらつと火が見える。白馬が一匹現はれて、その傍に馬丁小僧のジェイが――もうマックとは長い馴染のジェイがやつて來る。その後には石炭を一杯積んだ鐵の箱車を二十臺も引張つてゐる。  ジェイは齒をむき出した。「よう、遣つて來たな。」と呶鳴る。「おいマック、俺は昨日もな、自動ポオカアで三杯分儲けたぞ。こら、どう、どう、止まれよ。」  マックはジェイの助手にされて、まる一ヶ月、すつかり覺え込む迄は、まるで影のやうにジェイの傍に付いて※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。それからジェイは何處かへ行つてしまつて、マックは獨りで仕事をすることになつた。  第八深坑に暮して、マックは上機嫌だつた。そして十歳位の子供が、馬丁小僧とは違つた何かになれようなどとは、てんで夢にも考へなかつたものである。最初の中はあの眞暗闇《まつくらやみ》、又それ以上に物凄い靜けさなどが、マックにはこはかつたものである。こんな地の底では、四方八方から突《つつ》つかれたり、叩かれたりするのではないかと考へたものだつたが、なんといふ莫迦《ばか》だつたらう。そんな事をする者は、一人もゐなくつて、墓場の中のやうにまるで靜かで、口笛を吹けば、それがちやんと聞えるのだ。と言つたら、讀者は本當とは思はないかも知れない。たゞ少し騷がしい音を立てゝゐるのは、竪坑と石炭層の處だけだつた。竪坑の方では例の運炭籠《うんたんかご》が走つたり、二三人の男たちが箱を籠の中へ押込んだり、籠から引出したりしてゐた。石炭層では、マックに見えない所で、坑夫達が石と石の間にぺつたり身體を挾んで、石炭を切り出してゐた。この二箇所が一寸騷々しかつた。尤もたつた一箇所、物凄いやうな音響を發してゐる場所がこの第八炭坑中にもあつた。それは即ち掘鑿機《くつさくき》が活動してゐる場所である。瓦斯を使つた掘鑿機で、それを二人の男が肩に支へて岩壁に當てがつてゐた。この二人はもうとつくに聾となつたに違ひない。此處では一語も言葉が分らないのである。  第八炭坑内には百八十人も働いてゐた――しかもマックは滅多に一人にも會つたことがない。時に會ふのは誰か坑夫か坑夫長ぐらゐのもので、他にはさつぱり人に會はない。もしも暗い地下道の何處かにカンテラが光つて、走つて來る一人の足音でも聽えたら、それは必ず何かの事件が起つた時である。マックはこの淋しい眞暗闇《まつくらやみ》のじめ/\した道を辿つて受持の時間をあちこち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。石炭層やトロッコ軌道の所から、石炭が一杯の箱車を集めて、それを竪坑の方へ曳いて行く。其處でマックは用意してあつた一列の車に馬を附け替へる。この一列は空《から》の箱車だの、掘り取つた鑛脈《くわうみやく》の穴を塞げる石材を積んだ箱車だの坑道を修理する爲めの角材《かくざい》や板などを積んだ車から成つてゐる。さうして馬を附けてからマックは、この車をそれ/″\適當な場所に曳いて行く。まるで迷宮のやうな地下道をすつかり覺えてしまつて、何處と何處の梁《はり》が山の重みで折れ曲つてゐるかはつきり知つてゐたし、又どの石炭層も一々見分けて、それにヂョオヂ・ワシントンだの陽氣な叔母さんだの、でぶのビリイだの、いろんな綽名《あだな》をつけたものである。マックは又、テントがあると、それは重たい炭坑内の毒瓦斯が出て來る場所だとも知つてゐたし、「棺桶《くわんをけ》の蓋」と云はれるものが何處にあるか、それもよく知つてゐた。これは岩の中に混つてゐる短い柱のやうなもので、うつかりその岩を碎かうものなら、だしぬけに飛び出して來て、その男を壁へ釘付けにしてしまふものである。それから通風孔《つうふうかう》の事もよく知つてゐた。其處の戸は只開けようとしたのでは、いくら力自慢の男がかゝつても開きはしない。先づその戸に付いてゐる小窓を開けて、戸を壓迫してゐる空氣をこちらへ呼び込んでから開けると、樂《らく》に戸が開いて――空氣は氷のやうな突風となつて冷たくはひつて來る。けれども、坑道内には重苦しく熱い空氣が滿ちてゐるから、直きに又汗が顏から垂れることになる。さうして、他の大勢の馬丁小僧と同じやうに、マックも亦、受持ちの時間には、何回となくこの寒い地下道から暑い地下坑道へ出入りをしたものである。  受持ちの時間が過ぎると、マックは仲間と一緒になつて、運炭籠に乘込んで、矢のやうに音を立てゝ上へ登つて行く。やがて又再び炭坑に降《お》りて來る。その出入りの氣持はまるで、事務所へ行つたり、事務所から街上へ出たりする爲め、昇降機に乘る事務員の氣持で、殆どなんにも考へてはゐなかつた。  マックはこの第八炭坑の地下道で、ナポレオン・ボナパルト、略してボニイ、と近付きになつた。これは受持つた馬の名前である。ボニイはもう何年も地底の暗闇《くらやみ》に居たから、半ば盲目になつてゐる。脊骨は弓形《ゆみがた》に曲り、首は地面へつきさうである。天井の低い地下道内で、年中首を曲げてゐたからである。ボニイは狹いレエルの間の水溜りで蹄を割つてしまつたので、今はもう菓子みたいな、柔かい蹄である。もう盛りは過ぎてゐて、毛が大分脱け始めてゐる。眼と鼻の孔《あな》の周圍には、輪の形に赤い肉が見えてゐて、餘り感心した顏付ではない。けれどもボニイの歩き振りは堂々としてゐた。肥つて脂《あぶら》ぎつて重々しい馬となつてゐた。歩くのはいつもきまつた早足である。ボニイの頭が考へる事はたゞ早足ばかりと見えて他にどう變化させることも出來ないのであつた。或る時マックは箒《はうき》を擔《かつ》いでボニイの鼻先を踊つて行つた(箒に就いては直きまた話がある)――けれどもボニイは別に少しも急がないのであつた。今度はボニイを毆《なぐ》つて見た――すると、その時ばかりはさすがに老いぼれ馬のボニイも、更に馬力《ばりき》をかけた樣子をして、決心の程を表はして見せ、頭を激しく振りながら、威勢よく泥水を撥《は》ね飛ばしたものだが――足の方はやつぱり相變らずであつた。  マックのボニイに對する扱ひ方は、別にひどく優しいとは言へなかつた。ボニイを供に連れようと思ふと、ボニイの腹を肱でぐんと衝《つ》く。ボニイと來たら何しろ、歩き出さうと思つて兩方の耳を突立てても、肋骨《ろくこつ》の所をぐわんと遣られない限りは、どうしても動かない馬なのである。時々は居睡りをするが、そんな時は、拳固《げんこ》で鼻面《はなづら》を毆り付ける――これはマックの仕打ちに無理は無い。マックは運搬するのが役目であつて受持ちの箱車をすつかり始末出來ない日には、早速|首《くび》になつてしまふからである。だから遠慮|會釋《ゑしやく》はしてゐられないのであつた。いろ/\こんな事はあつたけれど、マックとボニイは仲好しの友達だつた。時々アランが自分の受持の仕事を片附け終つた時は――ボニイの頸をそつと叩いて、こんなお喋《しや》べりをする。「おいボニイ君、今日はどうだね。素敵な元氣かね、君。」  ボニイと知合つてから半年もすると、やつとマックはボニイがひどく汚ない事に氣が付いた。この暗闇の中でこそ、カンテラに照らされてこそ、白馬のやうに見えてゐた。萬一この馬が外へ引き出されたなら――holy Gee――ボニイ自身でさへ恥かしくつて顏を赤くしたらう。  マックはいきなり駈け出して、馬櫛《まぐし》を一本買つて來た。可哀さうに、ボニイの頭の中には、もうこの樂しみの記憶さへ無いんだ、とアランは考へた。ボニイが首を振つたからである。自分の足許で爆發が起つても、つひぞそんな眞似をしなかつたボニイである。けれどもやがてボニイは、便々《べん/\》と垂れ下つた腹を嬉しさうに搖つて、ブラッシをかけられる快感を味はつた。又マックは、ボニイを眞白な馬にしようと思つて、水でごし[#「ごし」に傍点]/\と擦《こす》り始めた。ところが水を掛けられるや否や、ボニイはまるで電流にでも觸れたやうに脇腹をぶる/\させて、不愉快さうに足を踏み交はした。この状態は乾いた櫛を入れる事になつても止まなかつた。それからマックが長いこと櫛を入れてやると、急に老いぼれボニイは頸を伸ばして、震へ聲で悲しがつている犬の遠吠《とほぼえ》みたいな聲を出した――嘶《いなゝ》きの名殘りといふ譯である。そこでマックは笑ひ出した、地下道中に響き渡るほど大笑ひに笑つた。――  マックは確かにボニイを可愛がつてゐた。今日でもまだこの男は、老いぼれの、背中曲りの、肥つた白馬といふのに非常な興味を持つてゐて、時々白馬と見ると往來で立止つて、その馬の頸筋を叩きながら、妻のモオドにかう言ふのである。「ボニイも丁度こんなだつたよ。實によく似てゐるんだよ。」ところがモオドは、いろ/\に違つたボニイを見せられるので、果してどれが本當のボニイに似てゐるものやら、さつぱり分らなくなつたものである。元來マックは、全然繪を解しない男で、繪などの爲めには一文も使はなかつた。さういふ男なのに、そのマックの身のまはりの物の中から、モオドは幼稚《ようち》な筆つきの、年取つた白馬を描いた繪を一枚見付け出した。話は變るが、マックが老いぼれの白馬に大いに興味を持つてゐる事は、結婚後二年以上經つた時、始めてモオドに氣が付いたのである。バアクシャイア・ヒルでの事であつた。急にマックは自動車を止めて、 「一寸御覽よ、あの白馬を。」とマック・アランは言つて、一頭の老いぼれた白馬を指さした。その馬は百姓車につけられて、道傍《みちばた》に立つてゐた。  モオドは笑ひ出さずにはゐられなかつた。「だつて、あなた、あれは幾らでもゐる、普通の老いぼれの白馬ぢやありませんか。」  勿論、それはマックもさう思つた。だから頷《うなづ》いた。「それはさうさ、だが俺はね、昔あれとそつくりの白馬を持つてたことがあるんだよ。」 「あら、何時《いつ》の事。」 「何時つて、お前。」と言ひながら、マックは妻から眼をそらした。自分の昔を言ひ出すのが、マック・アランには一番辛い事だつたからである。「それは、お前、ずつと昔の事だよ。アンクル・トムにゐた時さ。」  ところでもう一つ、アンクル・トムから記念に貰つた事がある。それは、猛禽類《もうきんるゐ》の鋭い叫びのやうな、「ヒェイ、ヒェィ」といふ掛け聲である。――それをマックは、誰かが自動車の前にうろ/\してゐると、ついうつかり口から洩らすのである。この掛け聲は、アンクル・トムの炭坑で習ひ覺えたものである。ボニイを歩かせようと思ふ時には、この掛け聲で追ひ、車が一臺レエルの外へ飛び出した時には、やはりこの掛け聲でボニイを止めたのであつた。  マックが第八炭坑に勤めてかれこれ三年となり、アンクル・トムの地下道内を、ざつと地球半周位の距離を走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてしまつた時、今日尚思ひ出す人の多い、あの炭坑慘事が起つた。それは二百七十二人の命を奪つたものだつたが、又、マックの運はこれから開けたと言つてよい。  聖靈降臨節から三日目の夜、朝の三時近く、アンクル・トムの一番底の炭坑に、炭化水素《たんくわすゐそ》の爆發が起つた。  マックは、ジョンスンの「酒場」の蓄音器が、毎晩呶鳴り散らしてゐた流行歌を口笛で吹いて、空《から》つぽの箱車を一列、後に引いて戻る所だつた。鐵の箱車のがら/\いふ騷音の外に、突然、遠雷のやうな音が響いたから、思はず知らず振り向いて見たが、まだ口笛は止めなかつた。見ると、支柱や梁木《はりき》が、まるでマッチの軸《ぢく》でも折るやうに挫《くじ》けて、山が落ちかゝつてゐるではないか。マックは、力一杯ボニイの手綱《たづな》を引いて、金切り聲で耳の傍へ呶鳴つた。「ヒェイ、ヒェイ、急げ――急げ。」ボニイは驚いた。後には支柱の碎ける音がするのだから、ギャロップで飛ばうとした。老いぼれボナパルトは肥《ふと》つた身體を思ふさま伸ばしたので、まるで平べつたくなつてしまつた。何しろ構はず四脚を衝《つ》き出して無茶苦茶な最後の頑張りをしようとすると――崩れて來た岩の下敷きとなつて見えなくなつた。マックは氣違ひのやうに走り出した。後から山が追ひ蒐《か》けて來るんだから堪らない。逃げるが勝だ。けれども驚いた事には、前の方でも支柱と梁木が碎けて、同じやうに天井が墜《お》ちかゝつて來るではないか。そこでマックは兩手で|顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]《こめかみ》を抑へながら、二三度|獨樂《こま》のやうにくる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、それから横の坑道へ飛び込んだ。地下道全體が轟然《ぐわうぜん》と碎けてゐる。横坑も勿論碎けるのである。だからマックは落ちかゝる岩石に追はれるやうに、夢中に敏捷に、其處を一目散《いちもくさん》に飛び出した。やがて到頭、どうすることも出來ないで、兩手を頭に當てた儘ぐる/\逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。そして大聲に泣き出した。  マックは身體中がぶる/\顫へて、すつかり力が拔けてしまつた。氣が付いて見ると、馬小屋の中へ走り込んでゐた。あの崩れて來た山の下敷きにさへならなかつたら、ボニイも矢張り此處へ遁げ込んだ事だらう。マックは腰を下さずにゐられなかつた。我慢にも立つてはゐられない。其處へぺつたり座り込んで、恐ろしさで頭が痺《しび》れきつて、一時間ばかりはまるで何にも考へられなかつた。やつとカンテラを探し出すと、心細い灯がちよろ/\點《つ》く。周圍を照らして見た。石ころや石炭に閉ぢ込められてゐる有樣である。どうしてこんな事になつたのか。原因を考へ出さうとしたが、何一つ思ひ出せない。  かうして長い間坐つてゐた。絶望と不安に耐らなくなつて泣いたけれど、やがて心を取直した。チユウインガムを一つ口へ抛《はふ》り込んだ。するとどうやら元氣になつて來た。  炭化水素か石炭屑が爆發したのだ、確かにさうだ。ボニイは山崩れでやられてしまつた――だが俺は、多分今にみんなが掘り出してくれるだらう。  かう考へてマックは小さなカンテラの傍に坐つて、ぢつと待つてゐた。二三時間も待つてゐると、急に氷のやうな冷たい不安に襲はれた。どきりとして跳上《とびあが》つた。カンデラを掴んで、地下道の中を右に左に歩きながら、石ころを照らして、何處かに逃路が明いてはゐないかと探して見た。何處にも無い。ではやつぱり、待つてゐる外は無い。飼料槽《かひばをけ》の中を調べてから地面に腰を下して、ぼんやりと、色々な空想の走るに任せてゐた。ボニイの事、一緒に炭坑へ入つた父親とフレッドの事、ジョンスンの酒場の事。それから蓄音器の流行歌だ。ジョンスンの酒場の自動ポオカア器械の事。それからマックは、空想の中で幾度も/\勝負をした。五錢玉を投げ込んで、把手《とつて》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して手を放すと――不思議にいつもマックの勝だ。フル・ハンドが付く。ロオヤル・フラッシュが付く……  こんな空想の勝負をしてゐると、急に妙な音がした。しゆうぱち/\と、電話器のやうな音である。マックは一生懸命に耳を澄ました。けれど何にも聞えない。あれは空耳《そらみみ》だつた。あたりは靜かである。耳は眠つてしまつたやうだ。それにしてもこの靜けさは遣りきれない。そこで兩手の人差指を耳の穴へ突込んで、掻き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してみた。咳拂ひをしてみたり、大きな音で唾《つば》を吐いてみたりした。それからまた坐り込んで、頭を壁に凭《もた》せ掛けて、ぼんやり前を見ると、藁がある。ボニイの爲めに敷いて遣つた藁だ。結局、その藁の上にごろりと轉がつて、どうしやうもない絶望の悲しい氣持で、その儘に寢入つてしまつた。  眼が覺めた。二三時間も眠つたらしい。身體が濡れてゐる。これで眼が覺めたのだ。カンテラは消えてゐる。一足歩いてみると、水溜りへ足を突込んで飛沫《しぶき》が飛んだ。腹が減つてゐたので、燕麥《からすむぎ》を一掴み頻ばつた。それからボニイを繋ぐ柵に腰かけて、身體を丸くして暗闇の中で眼瞬《まばた》きをしながら、一粒々々噛んでゐた。その間にも耳を澄まして氣を付けたが、叩く音も人聲一つも聞えない。水の流れる音と滴る音ばかりだつた。  恐ろしい暗闇だ。暫く經《た》つてから急に跳《と》び降りて、齒を噛みながら、頭の毛を掻き|※[#「てへん+毟」、第4水準 2-78-12]《むし》りながら、まるで氣違ひのやうに駈け出した。壁にぶつかつた。二三度頭をぶつゝけると、無茶苦茶になつて石を拳固《げんこ》で叩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。けれども絶望がさせたこんな氣違じみた動作は、やがて直ぐ止んでしまつて、そろ/\手探りしながら元の柵の方へ戻つた。さうして、燕麥《からすむぎ》をまた噛み始めて、しきりに涙をこぼした。何時間もさうしてゐた。何一つ動くものは無い。皆の者は俺の事を忘れてしまつたのか。  マックは腰かけて、燕麥を噛みながら考へてゐた。小つぽけな頭は働らき始めて、すつかり冷靜になつた。こんな恐ろしい目に遭つてゐる最中こそ、俺の値打《ねうち》を見せなけりやならん。果してマックは、立派にその値打を見せたのであつた。  急に又再び跳《と》び降りた。そして拳固を宙に振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。「あいつ等が迎へに來ないんなら。」とマックは呶鳴つた。「俺は自分で掘つて出て遣るぞ。」  けれど直ぐ穴掘りには取掛からなかつた。また柵に腰かけて、長い間、用心深く考へてみた。先づ、馬小屋の近所の坑道の地圖を、頭の中に描いてみた。南の地下道を行つたのでは駄目だ。萬一助かるとすれば、それはたゞ、陽氣な小母さんといふ綽名《あだな》の石炭層で、パッタアスン受持の石炭層を拔けるより外は無い。その石炭層の空坑までは、この馬小屋から七十、八十、九十歩位ある。この邊の事は實によくマックは知つてゐた。陽氣な小母さんの石炭は、岩山の重みで碎け易くなつてゐる。これが何よりの付け目である。丁度今日の一時頃だつた。マックは上の方を向いて、パッタアスンの方へ呶鳴つた。「おうい、パッタアスン小父さん、ヒッキンスさんが言つてたぞ、がらくたばつかり掘つてちや駄目だつて。」  するとカンテラの明りの射す中へ、パッタアスンの汗だらけの顏が出て來て、怒り猛《たけ》つてこんな事を呶鳴つた。「ヒッキンスの莫迦《ばか》野郎。俺がかう言つたと野郎にさう言つてくれ、マック。ヒッキンスの野郎、くたばりやがれとな。陽氣な小母さんには、がらくたの外は何にもねえや。山に壓《お》し潰《つぶ》されちまつたからな。ヒッキンスの野郎、默つてやがれつてさう言つてくれよ、マック。もうちつと丈夫に拵へてくれつてな。」  パッタアスンは、その石炭層へ新らしい丈夫な支柱を何本もしつかり當てがつた。山に壓《お》し潰《つぶ》されては大變だと思つたからである。この石炭層は絶壁のやうであつた。五十三メエトルも高く、第七炭坑のトロッコ軌道まで續いてゐる。  マックは足で計り始めた。七十まで數へると、緊張で身體が凍つたやうになつた。そして八十五と數へると、岩に衝《つ》き當つた。マックは嬉しさの餘り、思はず大聲を學げた。  力を籠める餘り、身體中を冷たくして腱《すぢ》も筋肉も硬《こは》ばらせて、マックは直ぐ仕事に取り掛かつた。膝まで水に漬《つか》りながら一時間ばかりすると、岩に大きな窪みが出來た。ところがもう疲れ切つた上に、惡い瓦斯で胸がむか[#「むか」に傍点]/\して來た。少し休まなければいけない。暫くして又再び働き出した。ゆる/\と、しかもよく考へ/\して。頭の上と左右の石を絶えず手を探つて、崩れ落ちる心配がないかどうか確かめる。石の破片《かけら》なぞが、今にも落ちさうにぶら下つてる大きな岩の間にあると、それを一々どけて、馬小屋から支柱や板なぞを持つて來て支へる。大きな岩の破片を押し轉がしたりする。一時間ばかりの間、咳をしながら、短い熱い息を吐きながら、マックはこんな仕事をした。それからすつかり疲れ切つて、柵の上に眠つた。眼が覺めると直ぐ、あたりに耳を澄まして見る。やつぱり何一つ聞えない。また仕事に取りかゝつた。  マックは掘つた、掘つた。かうして二三日も掘つたが――全體で僅か四メエトルであつた。後になつてからよく夢に見た。一生懸命に掘り續けて、到頭石の間を掘り拔けて通る夢である。  かうしてゐる中にふと氣が付いた。掘り始めた石炭層の入口に來てゐる。細かな石炭屑が手に觸《さは》るのだからそれに違ひない。滑り落ちた石炭からかういふ層が出來るものだ。マックはポケット一杯に燕麥《からすむぎ》を押し込んで、その石炭層に飛び込んで行つた。支柱は大抵しつかりしてゐる。崩れ掛かつた岩山は、この層の石炭を大して遣つつけてはゐなかつた。崩れ落ちた石炭は僅かなもので、しかも容易に取りのける事が出來ると分つた時、マックは喜びに震へた。もうあと五十二メエトルどうにかして昇れば、それから先は大丈夫と思つたからである。支柱から支柱へ移つて、眞黒な石炭層を上へ/\攀《よ》ぢ登つた。一歩毎に進路を崩して進むのであるから、もう後へ戻る事は出來ない。だしぬけに、手に觸つたものがある。長靴だ。皮が磨《す》り切れて、ざら/\する。それですぐ分つた。パッタアスンの長靴だ。眼の前には、パッタアスン爺さんが石に埋められて、横になつてゐる。餘りの事に驚き恐れて、マックは身體中が痺《しび》れたやうになつて、やゝ暫くぢつと其處にしやがんでゐる外は何も出來なかつた。今日尚マックは、この時の恐ろしい事を思ひ出す勇氣がないのである。さてマックは再び我に返つて、ゆつくり攀《よ》ぢ登り始めた。普通なら樂《らく》に半時間位で登り切れる石炭層である。けれどもマックは疲れ切つてゐたし、それに何噸といふ石炭を一々取り除《の》けねばならなくなつて、又、支柱が大丈夫かどうかを綿密に調べてかゝらなければならないのだから、隨分長い時間がかゝつた。やつとトロッコ軌道に着いた時は、汗だく/\で綿のやうに疲れ切つてゐた。このトロッコ軌道は第八炭坑から直接第七炭坑に通じてゐた。  マックは轉がるなり、其處へ眠つてしまつた。やがて又眼が覺めると、そろ/\レエル傳ひに登つて行つた。  到頭昇りきつた。其處の地下道は人つ子一人ゐない。  マックはぢつとしやがんで、燕麥を噛んだり、濡れた手を舐《な》めたりした。それからやつと竪坑《たてかう》の方へ歩き出した。第八炭坑と同樣に詳しく、この第七炭坑の地理にも通じてゐたマックであるが、處々が滅茶々々になつてゐるので、その度毎に道を變へなければならない。何時間とも知れず迷ひ歩いてゐる中に、耳の中で血が鳴り始めて來た。竪坑へ行き着くんだ、竪坑へ行くんだ――そして合圖の綱を引張るんだ……  けれども、突然――もうその時は、こんな處に閉ぢ籠められるのかと、恐ろしくなつて顫へ出した時――マックの眼に付いたのは、赤いやうな火の光だ。カンテラだ。三つ見える。  マックは、口を開《あ》けて叫ばうとした――けれども一言も口へ出せないで、氣を失つて倒れてしまつた。  マックは何か叫んだに違ひない。三人の坑夫の中の二人までは別に何も聞えなかつたと言つたが、後の一人は、どうしても低い叫び聲を聞いたやうな氣がすると言ひ張つたのであるから。  マックは夢現の中に、誰かゞ自分を擔《かつ》ぎ上げたと思つた。それから今度は、動き出してゐる運炭籠にゐるやうな氣がして、やがて籠がゆつくり上つて行くので眼が覺めた。誰かに毛布を掛けて貰つて、もう一度擔ぎ上げられて――と此處まではどうやら記憶に殘つてゐたけれど、それから先はもう覺えがない。  マックは、自分では、炭坑にゐたのは三日位だらうと思つたが、實は丸七日といふ間、閉ぢ籠められてゐたのである。第八炭坑で救はれた者はマック一人きりであつた。粉碎された炭坑の底から、まるで幽靈のやうに、この馬丁小僧はあがつて來た。當時の亞米利加と歐羅巴の各新聞に、この話が掲載された。アンクル・トム炭坑の馬丁小僧。その肖像や、毛布を被《かぶ》せて擔《かつ》ぎ出された時、小さな黒い手がだらりと下がつてゐる有樣や、病院の寢臺にきちんと坐つてゐる寫眞などが、ありとあらゆる新聞に出た。  マックが正氣づいて最初に言つた言葉は、全世界を笑はせ、泣かせた。マックは醫者にかう言つたのである。「小父《をぢ》さん、少しチユウインガムを下さい。」――人は笑つたが、當然すぎるほど當然な言葉は、自然にかう出て來たのである。マックの咽喉は乾き切つてゐたのだから、水をと言つてもいゝ所だつたが、チユウインガムの方が先に出て來たのである。  マックは八日で恢復した。それから、父親やフレッドの事を訊ねて見た。それに答へる返辭は皆遠慮勝ちだつたが、その返辭を聞くと、マックは痩《や》せ細つた手を顏に當てゝ泣き出した。急に世界にたつた獨りぼつちとなつた十三歳の子供であつて見れば無理もない。獨りぼつちにはなつたが、それ以外の事では、マック少年の幸福は素晴らしかつた。毎日の食物には事を缺かない。世界中からお菓子やお金や、葡萄酒が贈られるのである。だが、その際に、市俄古《シカゴ》の或るお金持の貴婦人が出て來なかつたら、恐らくはアランの經歴も此處までで終つてゐたかも知れなかつた。その貴婦人は、孤兒《こじ》となつた馬丁小僧の運命に同情して、この子を引取つたのであつた。そして將來の教育を引受けたものである。  さてマックの氣持では、坑夫の外には何もなりたくないといふので、後援者たる貴婦人は、鑛山大學に入れて遣つた。卒業して技師となつてから、アンクル・トムの炭坑へ戻つて、此處に二年勤めた。それからボリ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ヤのホアン・アル※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]レスといふ銀山へ行つた――人氣の荒い地方で、いつ何時|拳固《げんこ》のお見舞を受けるか分らない所だつた。この銀山は爆發したので、その後マックはボリ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ヤ、アンデン間の鐵道のトンネル工事を監督した。この時からマックの「考へ」が始まつた。ところで、この考へを實現するには、先づ從來の岩石|掘鑿機《くつさくき》を改良しなければならぬ――といふ事から、マックは仕事にかゝつた。何よりも好いのはダイヤモンド掘鑿機であるが、そのダイヤモンドの代りに、もつと廉《やす》い物質で、しかも略ぼ同じ位の硬度《かうど》のものが欲しい。そこでマックは有限責任ヱヂソン工場の試驗工場に入つて、極端に硬度の高い鋼鐵《かうてつ》を拵へようとした。辛抱強く研究を續けると、どうやら、所期の目的に近づいたので、ヱヂソン工場を退《ひ》いて、獨立した。  マックの發明したアラニット鋼は非常に儲かつた。その時分にモオドと知合ひになつた。元來、女の事に頭を惱ます暇は無かつたから、女なんぞ何とも思つてゐなかつた。ところがモオドを見ると、一目で氣に入つた。栗色の髮の毛で、可愛らしいマドンナのやうな顏。温味《あたゝかみ》のある大きな眼。太陽に照らされると琥珀色《こはくいろ》に輝く眼だ。少し考へ込んだやうな樣子。(實はその頃母親を亡くして、モオドは喪中であつた。)燃え易い、しかも喜び易い性格。かういふものが皆マックに深い印象を與へた。特に強く心を惹いたのは、モオドの肌の色であつた。マックが今迄に見た中で、最もきめの細かい、最も美しい、最も白い皮膚であつた。マックはかういふ女こそ、ほんの一寸した風にも耐へられない女だらうと思つた。それにマックがひどく感心したのは、この女の人生の首途《かどで》に立つ雄々《をゝ》しさであつた。モオドは當時バッファロオでピアノを教へて、朝早くから夜|晩《おそ》くまで忙しく暮してゐた。マックは一度、音樂や美術や文學に就いてのモオドの話を聞いた事がある――どれもこれも皆マックには全然分らない事柄ばかりであるが――そしてモオドの學問と聰明さに、途方もなく感嘆してしまつた。それから型の如く、すつかり惚れ込んで、かういふ事になつた男が誰でもする莫迦な眞似をしたものである。最初の中は、勇氣が無い。ひどく絶望して幾日幾時を過ごす。ところが或る日、モオドの眼の中に一種の眼付が見えた――どんな眼付であつたか、諸君はよく御存知だ――この眼付がマックに勇氣を與へた。すぐに決心して申込みをする。その後二三週間經つと、結婚式が行はれた。この後更にもう三年間、マックは自分の「考へ」を實現するために、倦《う》むことを知らない不斷の努力を續けた。  今ではもう、たゞマックとさへ言へば誰にも分る人間となつた。町端《まちはづ》れの寄席《よせ》藝人の唄にも出て來るマックである。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し]  トンネル事業が始まつてから最初の二三ヶ月間、モオドは滅多《めつた》に夫《をつと》の顏を見なかつた。  モオドにはもう最初から、夫の今度の事業は、バッファロオの工場の仕事とは全然性質を異にしたものであることが分つた。賢い女で氣の勝つた女だつたから、何とも言はず、夫の事業の爲めに自分を犧牲にした。夫の顏さへ見ない日が幾日もあつた。アランはトンネル工事の現場か、バッファロオの試驗工場か、又は緊急會議に出掛けるのであつた。朝六時から仕事を始めて、時には夜晩くまで續けた。すつかり草臥《くたび》れるので、時々ブロンクスに歸るのが億劫になつて、事務室の革張りの長椅子に寢て、夜を明かすのであつた。  モオドはこれも諦めて許してゐた。  かういふ場合、夫《をつと》の氣持が、多少でも好いようにと思つて、モオドはシンヂケエト・ビルディングの中に、浴槽附きの寢室と食事部屋とをこしらへてやつた。小さな立派な住宅だ。煙草もパイプも、カラアも肌着も、一口に云へば、必要とする物なら何でも其處に在つた。それからリオンといふ支那人のボオイを附けて、これに一切夫の事を任せてしまつた。この老人ほど、アランの相手として適當な者は無かつたからである。リオンは東洋人でなければ出來ない藝當《げいたう》の、何遍でも同じ事を平氣で――しかも必ず或る短い間を置いて言つた。「御飯です、旦那樣――御飯です、旦那樣」忍耐を忘れたこともなければ、氣持を惡くすることもないリオンであつた。何時も其處に控へてゐるが、まるで目には付かない。よく油を差した機械のやうに、音一つ立てず、いつも同じやうに働いてゐて、しかも萬事萬端きちん[#「きちん」に傍点]と整頓して置くのである。  アランと顏を合はせることは益々稀となつたが、モオドは我慢強く辛抱してゐた。天氣の好い夕方には、シンヂケエト・ビルディングの屋上で、一寸した晩餐をモオドが肝煎《きもい》りで開いた。屋上からは素晴らしい紐育の全景が見渡せた。アランが仕事仲間とかういふ晩餐をすることは、モオドには大いに嬉しかつたから、午後の時間は全部、その準備に潰《つぶ》したものである。どうかするとアランはほんの五六分ぐらゐしか、席に出て來ないのであつたが、それだけでもモオドは滿足した。  然し日曜日には、アランは必ずブロンクスに來て妻と娘のエディスの傍にゐた。その時は一週間の怠慢を取り返さうとするやうに、妻と子供の言ひなり放題となつて、明るい顏で、無邪氣な顏で、まるで大きな赤ん坊であつた。  それから又、時々の日曜には、モオドと一緒にニュウ・ジャアシイの工事現場へ自動車で出掛けて、「ホッビィに元氣を付けて遣」つた。  やがて一ヶ月間、會議ばかりの事があつた。シンヂケエトの發起人、大株主などゝ會議することもあれば、財政方面の人や、技師、請負師、衞生學者、建築家などゝ會議することもある。ニュウ・ジャアシイの工事は猛烈な水の氾濫に遭つてゐるとか、ベルムダ島では蛇紋石を貫通するトンネルが意外な難工事となつてゐるとか、フィニステラでは勞働者の素質が劣等だから、もつと善いのを雇入れなければなるまいとか、いろんな事があつた。その上に、工事が進むにつれて、一日々々と問題は殖えるばかりであつた。  アランは時々一日二十時間づゝ何日も仕事をした。そんな日には勿論、モオドは夫《をつと》に何の要求もしなかつた。  アランは妻に向つて、二三週間經てば、必ずもつと暇が出來ると言つた。細君の方でも、最初の突進さへ終れば、と言つた。モオドは辛抱した。たつた一つの心配は、アランに仕事疲れが出はしないかといふことであつた。  マック・アラン夫人である事、これがモオドの誇りであつた。この誇りを胸に祕めて歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。各新聞が、アランの事を「海底大陸の征服者」と書き立てて、その計畫の天才的なる事と大膽極まる事とを述べ立てると、モオドは實に嬉しかつた。一體モオドは、夫が急に有名な人物となつたので、まだ少し面喰つてゐる形であつた。時々、夫の顏をつく/″\眺めて、驚嘆と尊敬の眼を丸くした。けれどもよく見れば、矢張り昔とちつとも變りはない。眞面目一方のアランである。だからモオドは心配になつた。この質朴《しつぼく》愚直《ぐちよく》が世間の人に知れ渡つたなら、アランの社會的榮光は忽ち薄れてしまふだらうと思つたのである。又モオドはトンネル事業、及びアランに關する、あらゆる評論や新聞記事をせつせと集めた。時には、偶然通りかゝつた映畫館に這入つて、「アランの夫人」がトンネル都市で自動車から降りる所や、派手《はで》な塵除《ちりよけ》外套の風に飜へる所を見物する。新聞記者はあらゆる機會を捉《とら》へて、モオドに面會する。そしてその翌日の新聞に、「アラン夫人の言ふ所によれば、アランは紐育中、最も理想的の夫であり、父である」などといふ記事があれば、素晴らしい上機嫌で死にさうに笑いこけるのであつた。  モオドが何か買物に出掛けると、店中の人々が好奇心の眼でこつちを見る。これは、モオドの誰にも言はない、獨りで得意に思つてゐる事である。そしてモオドの一生の思ひ出となる、一番得意だつたのは、エセエル・ロイドがユニオン・スクエアの角で自動車を停《と》めて、モオドの方を指さして友達に教へたことである。  お天氣の好い日には、エディスを立派な乳母車に乘せて、ブロンクス公園を散歩する。そこでいつも動物園に這入るか、何時間も猿の檻《をり》の前に立ち止まつて、モオドまでが子供と同じ位嬉しがつて見てゐるのである。けれども秋になつて、ブロンクス一帶の濕地から霧が立ち昇ると、この樂みも終つてしまふ。  アランは、クリスマスになつたら、丸三日間、全然仕事を休んで、妻や子供の傍で暮すと約束した。だからモオドはその二三週間も前から大悦びであつた。二人が結婚してから最初に迎へたクリスマスと同じやうにしよう、二日目にはホッビイも招待して、三人でトランプのブリッヂをする、へと[#「へと」に傍点]/\になるまで續けよう、といふ事になつた。モオドの拵へ上げた、この三日間のプログラムは、とても大したものであつた。  ところが十二月に入ると、アランは殆ど顏を見せなかつた。毎日のやうに、財政專門家との相談で縛られてゐたのである。新年早々に開始される大々的經濟戰への準備なのである。  何よりも先づ第一に、アランは三十億|弗《ドル》といふ莫大な金が入用であつた。しかもこれだけの金が必ず出來ると確信してたのである。  何週間もシンヂケエト・ビルディングは新聞記者連中に包圍されてゐた。新聞社は大トンネル工事といふ大きなセンセイションを起す記事でうん[#「うん」に傍点]と儲けてゐたからである。どんな方法でトンネルは建設されますか。その管理方法は。トンネル内の通風裝置は。トンネル曲線《カアブ》はどういふ計算から出來ましたか。少し迂※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゐるのに、海洋航路よりも五十分の一ほど距離が短縮されるのは何故ですか。(「地球に針を一本通すんだよ、それで分つたらう。」)かういふ質問がどし/\浴びせられて、一般民衆は何週間も期待に胸を躍らせてゐる。結局、トンネル企業の是非に關する論戰がもう一度はじまつたのだ。各新聞ではまた新たに「トンネル可否論」が戰はされた。その烈しさとやかましさは、最初の時とすつかり同じ位であつた。  この論戰に古臭い理論を又再び引張り出して來るのは反對派の新聞である。こんな事を言ふ。花崗岩と片麻石で出來てゐる、この恐ろしく長い距離を掘鑿《くつさく》し貫通する事は、何人にも不可能である。海面四千乃至五千メエトルの深所といふものは、あらゆる人間的活動を拒絶し、その恐るべき熱と巨大なる壓力には如何なる物質でも耐へ得られるものでない――これらの理由により、トンネルが悲慘なる失敗に終る事は、火を賭《み》るよりも明かである。  一方には又、好意を寄せてゐる新聞があつて、讀者に向つて何遍もトンネルの長所を説明したものである。それはこんな事を言ふ。時間。時間。時間。正確。安全。列車が安全に走れる事は、陸上の列車と些かも異る所がない――寧ろ、一層安全である。もう、天候や霧や、波の状態などに左右される事は無い。大洋の上で魚の餌食《ゑじき》となる危險も除かれる。あのタイタニック號の遭難を思ひ出して見給へ。千六百人の命を失つたではないか。又、コスモス號の運命はどうであつたか、四千人を乘せたまゝ、大洋の眞只中《まつたゞなか》に行方不明となつたではないか。  航空船などは、もう大量輸送機關としての價値が考へられなくなるだらう。しかも實際今日までに、大西洋横斷に成功した航空船は、僅かに二隻ではないか、などゝ言ふのである。  當時、どの新聞どの雜誌を取つて見ても、「トンネル」といふ文句や、それに關した※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準 2-13-28]繪か、寫眞にぶつからない事は無かつた。  十一月に入ると、トンネルに關する報道が少くなり、やがて全然現はれなくなつた。シンヂケエトの印刷部は全く鳴りを靜めた。アランは工事現場の出入を嚴禁したので、新しい※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準 2-13-28]繪などの出よう筈が無くなつてしまつた。  世人に對して新聞のあふり立てた熱は去つてしまつた。二三週間も經つ中には、トンネルはもう昔噺になつて、誰の興味も惹かなくなつてしまつた。丁度この時新計畫が現はれた。それは世界一周飛行である。  その代りトンネルは忘れられてしまつた。  これがアランの覗《ねら》ひ處だつた。アランは世間の人間といふものをよく知つてゐた。最初の感激がいくら大きくても、百萬弗も集めることは出來ないと、ちやんと承知してゐた。適當な時期が來たなと思つたら、直ぐ第二囘目の感激を、アラン自身の手で煽《あふ》り立てる積りであつた。今度の感激は、人氣などゝいふ浮かれ切つたものに頼《たよ》らない、もつと人心をぐつと掴むものだ。  十二月になると詳細な説明入りの報道が各新聞紙上に現はれた。この報道たるや、アランの計畫が必らず實現されるといふ豫感を與へるものであつた。曰く「ピッツバアク熔鑛精錬會社は、千二百五十萬弗を投じて、トンネル工事繼續期間中に於て發掘されたる、鑛業的に用ゐ得べき一切の物質に關する權利を獲得したりと。」(この會社の株は、トンネル工事開始第六年には、六割騰貴したものである。)この報道と同時に又次のやうな記事も掲載された。曰く「エヂソン活動寫眞機《ビオスコオプ》會社は百萬弗を提供して、工事全期間を通じて、トンネルの寫眞撮影、映畫撮影、及びその發表に關する獨占權を獲得したり。」  エヂソン・ビオ會社はけば/\しい廣告を出して、「本社は、このトンネル工事最初の鋤《すき》の一撃より、歐羅巴行超特急列車の處女運轉に至るまでの經過を撮影《さつえい》して、人類最大の業績たるトンネル完成の歴史を、子々孫々未來永劫に傳へんとするものである。」この會社の豫定では、先づこのトンネル映畫を紐育で一齊封切をして、それから全世界三萬以上の各劇場へ配給しようといふのであつた。  まつたく、トンネルの宣傳としては、これ以上のうまい方法は考へられない。  エヂソン・ビオ會社は、即日から仕事にかゝつた。さうして紐育二百の會社直屬の劇場は、何處も滿員の盛況であつた。  エヂソン・ビオの映畫は、先づ最初がアトランチック・ホテルの屋上庭園、有名な會合の光景だ。續いて、五箇所の工事現場の猛烈な塵埃《ぢんあい》の柱。それからダイナマイトの爆發で噴き上げられる岩石。十萬の勞働者への食料配給。勞働者軍の朝の出發。續いてスクリインに現はれた一人の男は、胸に岩が當つて蟲の息であるが、やがて死んでしまふ。更に又、トンネル都市の墓場が出ると、十五箇の新しい土饅頭《どまんぢゆう》が見える。加奈陀に於ける木樵《きこり》の働き、アランの爲めに森林一つ、すつかり伐り倒してしまふ。――更に又、いろんなものを滿載した貨物列車。貨車には、皆A・T・Sと、アトランチック・トンネル・シンヂケエトの頭文字が書いてある。  この光景の條《くだ》りは、十分ばかりも續いたが、その題は味も素《そ》つ氣《け》もなくたゞ『鐵道貨車』といふのであつたが、この條《くだ》りが最も強い印象を、全く人を壓倒する印象を與へたのである。出るのも、出るのも、貨物列車ばかりである。瑞典、露西亞、墺太利、匈牙利、獨逸、佛蘭西、英吉利、亞米利加の貨物列車である。滿載した貨物は、鑛物、木材、石炭、レエル、鐵骨、管――その他數限りもない、いろんなものだ。機關車がもく/\と黒煙を吐くと、一切皆進み出す――皆進んで行く――間斷なく後から/\進んで行く。見てゐると、お仕舞には、そのごろ/\ごと/\言ふ音が本當に聞えるやうであつた。  最後に一寸映されたのは、アランとホッビイが、ニュウ・ジャアシイ工事現場を歩いてゐる光景であつた。  エヂソン・ビオ會社は毎週新しい「トンネル映畫」を見せたが、その映畫はどれも必ず最後には、アランの姿が色々な所に現はれて來た。  今日は拍手で迎へられたかと思ふと、明日は頸の骨を折つてしまつて、明後日は忘れられてしまふやうな飛行記録保持者のはかない名聲。昔こそは、このはかない名聲にも及ばなかつたアランの名前であるが、今はもうこの名前と、あの事業は確《かた》く結び付けられて、トンネルといへばアラン、アランといへばトンネルといふ風に、誰も直ぐ合點が行くやうになつた。  クリスマスの四日前の事である。紐育その他合衆國の大小都市には、家具運搬の車ぐらゐの、素晴らしく大きなポスタアが處々に張り出されて、その前には黒山のやうな群集がたかつてゐて、クリスマス週間の賣出し騷ぎも忘れ果てた有樣である。このポスタアの示すものは、妖精《えうせい》の國の都市である。空の眞上から見下《みおろ》した家又家の大海である。人は誰一人として、こんな光景を賞際に見たことも無ければ、夢に見たこともない。明るい色に描き出されたこの都市は霧も深いが陽《ひ》も出てゐる朝の紐育そつくりであるが、その中央にあるのは、素晴らしい大停車場で、これに比べてはハドソン・リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ア・終點驛や中央停車場やペンシルヴァニア停車場なども、ちよいとした子供の玩具である。この大停車場の足下から無數の線路が出て、三角洲を成してゐる。主《おも》な線路はトンネルの入口に通ずるものであるが、その他の線路と同樣、それに跨がつて無數の橋が架《か》けられてあり、その線路の兩側は皆、噴水のある公園や、花咲き亂れた高臺である。停車場廣場の周圍は、ぎつしり並んだ高層建築で、それは皆何千といふ窓のある建物だ。ホテル、商店、銀行、事務所ビルディングだ。遊歩道《いうほだう》、並木道、群衆がうようよゐる。自動車、電車、高架鐵道がそれを縫つて走る。眞四角《ましかく》な家が限りも無く續いて、地平線の靄の中に消えてゐる。前景左手には、得も言はれぬ美しい港が見える。倉庫、船渠《ドック》、波止場。そのどれも仕事の眞最中であるし、港には汽船が一杯で、煙突と煙突、檣《マスト》と檣がくつ付き合つてゐる。前景右手は陽《ひ》の照つた砂濱が見渡す限り續いて、ずらりと並んだ籐椅子に、その後《うし》ろは贅澤極まる海水旅館が堂々と建ち並ぶ。そしてこの如何にも美しい都市の下の方には「十年後のマック・アランの都市」とある。  途方《とほう》もなく大きいこのポスタアの上の方三分の二は、日光の輝く空である。ずつと上、縁《へり》に近く一臺の飛行機が飛んでゐる。鴎くらゐの大きさである。ところで、よく見ると、この飛行機の操縱士は、片手で何か外へ投げ出してゐる。最初その何かは、砂粒《すなつぶ》のやうだが、段々にどし/\大きくなつて、風に飜へるやうになり、ビラとなる。そのビラの何枚か、都市の直ぐ上に來てゐるのは、もう相當に大きくなつて、それに書いてある「地所を買へ」といふ字がちやんと讀める。  この圖案を考へ出したのは、ホッビイだ。一寸頭を叩きさへすれば、素敵もない事を考へ出すホッビイである。  矢張り同じ日に、同じ圖案の廣告が適當な大きさで、各大新聞に折込まれて來た。殆んど、紐育全市にはこの廣告で蔽はれた。諸官廳、會社、料理店、酒場、呑み屋、列車、停車場、渡船等の到る處で、この都市の繪が見られた。アランが砂を固めて作らうといふ奇蹟の都市である。誰も彼も、これを見て一寸笑ひ、驚き、嘆賞した。さうしてその日の夕方には、もうマック・アランの都市の樣子を知らない者は無くなつて、紐育全市民は、既に實際マック・アランといふ都會が存在してさへゐると思つたものである。  このアランといふ男は、まつたく、どうすれば人の噂に上るやうになるか、その祕術を心得てゐる男だ。 「こけ嚇《おど》しだ。こけ嚇しさ。いかさまだ。世界中この上もないこけ嚇しさ。」 「こけ嚇し。」と呶鳴る人間が十人ゐると、その十人の中の一人は、必ず手を揉《も》み合はせたり、相手の男の肩を搖ぶつたりしながら、青くなつて、こんな事を呶鳴る。 「こけ嚇《おど》しだつて、つまらん事を言ふな。腦の味噌《みそ》をもうちつとどうにかしろい。マックはきつと遣り遂げる。まあ長い目で見ようぜ。マックと來たら凄い奴だ。口に出したことは何でも遣つちまふ奴だよ。」  だが將來果して、こんな大都會が出來得るものだらうか。これが即ち、誰も彼も頭を惱ました疑問であつた。  忽ち翌日は、各新聞紙上には、最も著名な統計學者、國民經濟學者、銀行家、大工業家等の解答が掲載された。F氏曰く――といつた形式で發表されたが、その意見は皆、次の點で一致してゐた。即ちかうである。トンネルの管理及び技術方面だけでも、既に何萬といふ人間が入用であるから、この人數が既に相當な都會を形成する。これは誰も一致した意見であつたが、亞米利加、歐羅巴間の旅客の中、何分の一がトンネルを利用するかといふ事に就いては四分の三と言ふ名士もあれば、十分の九と主張する人もあつた。さて、現今では、毎日約一萬五千の旅客が、兩大陸間を航行中である。トンネルが開通すれば、交通は六倍に達するだらう。十倍になると言つた人もある。だから今の旅客の數字は益々増して、とても大變なものにならう。それから毎日、各トンネル都市に這入つて來る人間の數は、實に多くなつてくる。であるから、やがて二十年、五十年、百年後のトンネル都市は、果してどれ位の大きさとなるのか。今の時代の人間の、ちつぽけな尺度《しやくど》を以てしては、到底考へることが出來ない。大體こんな意見であつた。  アランは一撃又一撃と續けた。といふのは……  翌日、地所の値段《ねだん》を公表したのである。  誰しも思つてゐた事は、アランはひどい男ではないから、マンハッタンあたりの地價のやうに、一メエトル平方に何千弗のひどい値段は、まさか付ける事はあるまいといふのであつた。誰もさう思つてゐたのに、アランの發表した値段は實に法外《はふぐわい》なものであつた。およそ物に動じない連中さへも、開いた口がふさがらない始末であつた。地所の周旋屋達は、毒でも飮んだやうにきり/\舞をした。指や口に火傷《やけど》でもしたやうな格好をした。帽子をぺこ/\に叩き付けて呶鳴る奴もある。 「ちえつ、畜生。マックといふ野郎、一體何處にゐやがるんだ、出て來やがれ。折角、此處二三年の中に一身代作らうと思つてゐたのに、あの野郎のおかげですつかりおじやんだ。あいつ、一體どんな權利があつて、世界中の金をうぬ一人の財布に浚《さら》ひ込まうとしやがるんだ。」  誰が見ても、どう見ても、今度のアランの遣り口は、各時代を通じての最大|無鐵砲《むてつぱう》の地所投機だ。圖々しい野郎だ、このアランは。一町歩いくらと只みたいに買込んだ砂つ原を、一メエトル平方いくらと切り刻んで賣りやがる。まだてんで何處にも出來てゐない町のくせに、そのいかさま都市の一番安い地面でも、奴は何百倍と金儲けをする。一番高い所では、何千倍と儲けやがる。  投機業界は一寸も手を出さない。(けれども個々の投機帥連中は、お互ひに胡散臭《うさんくさ》さうに見張つてゐた。こつそりと變な事を、トラストやコンツェルンを企《たく》らみはしないかと思つたからである。)そしてまるで密集方陣の構へで、厚顏無恥《こうがんむち》なアランの要求に敵對した。アランの方は平氣でもう一押し、この特價提供は三箇月限り、とばかり嘯《うそぶ》いたものである。何とでも言ひたい事を言へ。今に見ろ、その内に分つて來《く》らあ、一體そんな汚《きたな》い泥沼に、金を出す物好きがあるものか、無いものか――へ、へ、ヘ――莫迦《ばか》か阿呆《あはう》でなきや、たどの水を貰つて、ウイスキイの値段を掃ふ奴は無いさ――  その内に分ると言はれたが、その内に起つて來たのは、次のやうな事であつた。  アランを蛇蝎視《だかつし》してゐた汽船會社は、目拔きの地所と波止場《はとば》と船渠《ドック》を申込んだ。ロイド銀行もしこたま[#「しこたま」に傍点]買ひ込むとワナメエカア倉庫會社がそれに倣《なら》つた。  かうなると誰も彼も、先を爭つて申込む。毎日の各新聞は新しい購買者を發表する。高い金を拂つて、何を買ふかと言へば――砂だ、石ころだ――しかも出來るか出來ないか分らない、いかさま都市の地所だ――けれども誰も彼も申込む、遲れては大變とばかり大|慌《あわ》てに慌てゝゐる、世の中は分らないものだ。何がどうなるか、見當は付かない。  主よ、御許《みもと》に近づかん――登る道は十字架であらうが、何だらうが、もう一歩も後へ引いてはならぬ……  アランはかう考へて、押しの手を少しも休めなかつた。世間の熱狂を此處まで引上げて來たのだから、この熱狂を一つ大いに利用しようと計つたのである。  一月四日には各新聞へ全面廣告で、第一期三十億弗を天下に募《つの》つたのである。總額の中三分の二は亞米利加に、三分の一は歐羅巴に割當てる。又その形式は、十億弗が社債で、殘りの二十億弗は株券といふ事であつた。  この加入勸誘廣告には、トンネルの建設費と開始時期や收益、利子の支拂方法、償却方法など、必要な事柄がすつかり書いてある。一日平均三萬の客があるとすれば、それだけでもうトンネル事業は利益を擧げる。ところで、どう見積つても、日に四萬以上の客は必ずある。その上、貨物、郵便、壓搾空氣《あつさくくうき》による超特急郵便、電信などで這入る金が莫大なものである。  この廣告に並べられた數字といふものは、今まで誰も見たことのない大變なものだつた。ごちや/\と、うるさいやうな、不氣味なやうな數字で、一々見てゐると息が詰まる、頭がぐら/\する。  勸誘文の最後にずらりと並んだのは、シンヂケエトの發起人《ほつきにん》や大株主の連中だの、合衆國一流の名士だの、著名各大銀行の名前であつた。紐育つ兒の吃驚仰天した事には、財政部長として現はれたのは、誰あらう、「ロイドの右腕」と謳はれたS・ウルフ、これ迄「ロイド銀行」の頭取だつたS・ウルフである。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  S・ウルフは、ロイド自身の推擧によつて、このシンヂケエトの幹部となつた。そこでS・ウルフの名前とトンネルとは、永遠に結び付けられることになつた。  夕刊に寫眞が出た。威嚴のある、謹直な、やゝ肥滿した東洋型の紳士だ。唇は厚ぼつたく、鼻は大きく、鉤鼻《かぎばな》である。髮は短く、眞黒で、縮れてゐる。髯は眞黒なのを短く刈込んでゐる。眼は暗い色の少し出眼《でめ》であるが、一寸憂鬱な光を帶びている。 「古着《ふるぎ》商人を振出しに――今は年俸二十萬弗のA・T・Sの財政部長。十二箇國語に堪能」  古着をどうかうしたといふのは、全くの作り話で、以前S・ウルフが冗談に自分からそんな事を言つたのである。けれどもS・ウルフの出が下層社會であることは確かである。十二歳迄はザムエル・ヲルフゾオンといふ名で、匈牙利のツエンテスで育ち、小さな小屋の埃《ほこ》りを蹴散らかして、玉葱を食つて大きくなつた。父親は死體を洗ふ人夫であり、墓穴掘りであつた。十三になると、ブダペストに行つて、銀行の給仕になつたが、五年間この町にゐた。このブダペストで始めて、窮屈な上着《うはぎ》を着ることになつた。S・ウルフの言ふ所によれば「上着にいぢめられる」やうな氣がしたのである。さてS・ウルフは名譽心に燃え、絶望と恥辱に苦しみ、權力が欲しいと喘ぎ、いろ/\な野望を抱いて、まるで病氣のやうになつた。そこで決心を堅めて、思ひ切つた事を始め出したのである。今に見ろ、きつと俺はえらくなるぞ、と心に誓つて、ザムヱル・ヲルフゾオンは夜晝せつせ[#「せつせ」に傍点]と働らき出した。齒を喰ひしばつて、猛烈な馬力《ばりき》をかけた。といふのは英語、佛蘭西語、伊太利語、西班牙語、露西亞語、波蘭語を習ひ始めたのである。ところがどうだ。この男の腦髓はまるでインキを吸ふ吸取紙のやうに、これらの國語を、大した困難もなく吸收した。會話を習ふために、あらゆる人間に、絨毯|商人《あきんど》、蜜柑賣子、食堂給仕、大學生、掏摸などゝ、相手選ばずに近付いた。目ざす處は維納であつた。直ぐ遣つて行つたが、此處でも上着にいぢめられた。まるで革紐に縛り付けられてゐるやうな氣がした。今度は伯林を目ざした。ザムエル・ヲルフゾオンはちやんと旅程を立てゝゐた。記憶の中へ、更にもう一萬ばかり單語を叩き込んで、外國語の新聞をいろ/\買つて、一生懸命精讀した。三年の後には到頭目的が叶つた。やつと食へるか、食へないか位の俸給だつたが、ある仲買人の通信員となつて、伯林に遣つて來たのである。けれども伯林でも上着に閉口《へいこう》した。それに此處へ來ると、急に、匈牙利系の猶太人として、ひどく輕蔑《けいべつ》された。これはどうしても倫敦へ渡らなければいかん、と考へて、三度方向轉換をやつて、倫敦の銀行に宛てゝ、片《かた》つ端《ぱし》から申込をしてみた。皆駄目である。倫敦の連中はそんな男はいらないと言ふ。で俺は、ザムエル・ヲルフゾオンは、あの連中の方から頭を下げて雇ひに來るやうにして見せるぞ、と思つてゐる中に、どうも何とは無しに支那語が遣りたくなつた。S・ウルフの頭腦は、この困難な國語さへも覺え込んだ。發音の先生は支那人の留學生だつた。御禮には郵便切手を集めて遣つた。當時のこの男、ザムエル・ヲルフゾオンの生活と來たら犬よりひどかつた。心付《こゝろづけ》なぞ一ペンニヒだつて遣つたことは無い。伯林名物、給仕の露骨なあてこすりなどを聞いても、平氣でゐるだけの勇氣があつた。又、電車に乘らない。勇敢に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るが、その實、情《なさけ》無い扁平足《へんぺいそく》は底豆《そこまめ》だらけで、とても痛い。一時間四十ペンニヒで語學の教授をし、又飜譯をした。金が欲しい。いろ/\な野心を逞しうしてゐると、身體がぶる/\して來る。名譽心に燃えて齒噛みをする。途方もなく素晴らしい將來の事を思へば、頭がくらくらする。休息も、保養も、睡眠も、戀愛も、そんなものは一つも無い。これ迄の苦しい生活で、屈辱や受け、折檻《せつかん》をされ通しであつたが、骨拔きにされてしまふやうな意氣地無しではない。背を曲げても、すぐ又すつくと立上がるのである。負けるか勝つかだ。或日突然、大決心をした。職を投げ出してしまつたのである。齒醫者に行つて、三十マアク出して、蟲齒を填《う》めて貰ひ、齒をすつかり掃除して貰つた。上等の靴を買つた。一流の裁縫師に命じて英國風の服舞を調《とゝの》へた。そして、堂々たる紳士として倫敦へ出發した。倫敦に來て、四週間も無駄な努力を拂つた後、銀行家のテイラア及びテリイの所へ行くと、矢張りヲルフゾオン型の一人の人物に出逢つた。尤もこの方のヲルフゾオンは、もう一寸した人物で昆蟲で言つたら一皮|剥《む》けて成長したやつである。これが又、各國語を操《あやつ》つて、丁度同じ位であつたが、若い高慢ちきな奴の鼻を明かさうと、一つ惡戲《いたづら》をしてみた。けれどもザムエル・ヲルフゾオンは凹《へこ》まなかつた。そこで認められて、今迄味はつたことの無い幸運に有り付いたのである。その次第といふのはかうだ。一かさ大きい方のヲルフゾオンは、若者を困らせようとして、支那人の通譯を呼んだのであるが、二人は早速ちやん[#「ちやん」に傍点]とした會話をしたのだから、すつかり吃驚|仰天《ぎやうてん》したといふ譯である。三日經つとザムエル・ヲルフゾオンは再び伯林に現れたが、憚りながら今度はそんな處に住まうといふのではない。今はもう、倫敦からのS・ヲルフスン氏で、名前の綴りからして違つてゐる。會話も英語一點張りだ。そして伯林に着いたかと思ふと直ぐその夕方に上海へ立つた。無論一等客で寢臺車の給任を頤《あご》で使ふといふ景氣である。上海に着いてからは相當に好い氣持であつた。決して下を見ず、いつも空と地平線ばかり見てゐた。だが、それでも尚、まだ少し上着《うはぎ》に閉口した。色々に苦心して倶樂部の連中を眞似《まね》てみるのだが、どうしても英國人と見て貰へない。その面當てに誰にも勸められなかつたが、洗體を受けて、カトリック教徒になつて遣つた。又その内に貯蓄が出來た。(父親のヲルフゾオン老人はお蔭で死體を洗ふ商賣を止める事になつた。)貯蓄が出來て亞米利加へ渡つた。そしてやつと伸び/\と息をしたものである。やつとだぶ[#「だぶ」に傍点]/\の上着を着て、實に好い心持となつた。自由な道が開けた。今迄は、物事をどし[#「どし」に傍点]/\遣つてしまひたい性分《しやうぶん》が抑へられ抑へられてゐたのであるが、今はもうその性分を思ふさま發揮してもいゝ事になつた。そこで敢然と、自分の姓名の終りの綴りを捨てた。まるで蜥蜴が尻尾を棄てるやうな具合で、此處にサム・ヲルフと名乘ることになつた。けれどもヲルフでは獨逸人臭くつていけないとばかり、Oの字を一字入れて、ウルフと讀ませる手段を取つた。英國|訛《なま》りを出さない事にして、又英國風の口髭《くちひげ》も剃つてしまひ、亞米利加式の鼻聲で喋《しや》べる事にした。精精《せいぜい》身振りも大仰に愛嬌たつぷりにして、上着を脱いで襯衣《シャツ》の袖を振つて街を歩き始めた。さういふ流行のトップを切つたのである。又、靴磨きの高い玉座のやうな椅子に乘る時は、いかにも生粹《きつすゐ》のヤンキイらしく振舞ふのであつた。さて然し、もう好い年頃である。他人の好き勝手に、三角でも四角でも丸くでもなる時代は過ぎてしまつた。S・ウルフは足を止めて思案した。今迄境遇に應じて色々に變形したのは、外でもない、自分自身を作り上げる爲めであつた。此處らが丁度いゝ句切《くぎ》り所だと考へて二三年は市俄古《シカゴ》の棉花市場で働いたが、その後紐育に出て來た後から考へて見れば、ぐるつと地球を一周して、初めて自分の落着く場所へ辿り着いた譯だつた。知識、才能、物凄い活動振りなどによつて、S・ウルフの地位は忽ち鰻上《うなぎのぼ》りに上がつた。そして今度は持前の扁平足《へんぺいそく》をがつしり踏まへて、構はず人の肩を踏み付けた。今まで他人に押へ付けられた返報といふ形である。仲買人|口調《くてつ》の高聲は止めて、何處となく威嚴が付いて來た。自然、この男は、もう一廉《ひとかど》の人物になりおほせて、好き自由な眞似《まね》の出來る人間だといふ事の證據に、全然人と違つた獨特の顏付を考へ出した。といふのは、短い頬髯を生やし始めたのである。  やがて二度目の幸運が、數年前の倫敦のとよく似た幸運が、見舞つて來たのも、この紐育であつた。もう一人のS・ウルフと出逢つたのであるが、これは又途方もなく大きい大口徑のS・ウルフである。とは即ち、ロイドである。當時ウルフは聯合取引所に居たが、決して重要な位置ではなかつた。ところがその内、運の好い事には、ロイドを相手の一寸した一勝負で、S・ウルフは指揮を承はつた。そして二つ三つ、駒捌《こまさば》きの器用な所を見せたものである。するとロイドは、かういふ盤上の掛引は何でも心得てゐる練達の士であつたから相手の男は並々ならぬ人間だと早速感付いた。あれはと、W・P・グリフインの手ではなしと、T・レヰスの手でもなしと――そこでロイドは穿鑿《せんさく》して見た。所が、遂にS・ウルフと判明した。そしてロイドはこの偉物《えらぶつ》を引つこ拔いて、自分の銀行に入れた。それからのS・ウルフの、物凄い程の進出ぶりは、頂上を極めるまでは停止しないといふ勢ひを見せた。さて今や大西洋トンネル・シンヂケエトの大立物となつた時は、丁度四十二歳、少し肥《ふと》り過ぎて、喘息《ぜんそく》持ちで、名譽心に燃え熾《さか》つてゐた。  S・ウルフは、今日迄にたつた一度一寸休息をしたことがある。その休息は未だに何故あんな事をしたかと癪に觸つてならないのである。市俄古にゐた頃、維納生れの美人に戀して、それと結婚した。ところが、それ程ウルフが夢中になつた維納女の美しさは、忽ち色も香も無くなつて、跡に殘つたのは、唯、喧嘩《けんくわ》つ早い、傲慢《がうまん》な厄介千萬此上も無い女房であつた。それに又うるさく燒餅《やきもち》をやく女であつたから、ウルフはいつも呶鳴り付けた位では濟まさなかつた。丁度六週間前その妻君が亡くなつたが、S・ウルフは別に悲しみもしなかつたものである。男の子が二人あつたのを、宿舍に預けた。歐羅巴なんぞへ遣つたのではない。ボストンへ遣つた。自由な氣象の、教養のある亞米利加人に育て上げようといふ譯だ。又一方、明るい金髮の瑞典女を世話して、聲樂を習ふといふその女に、ブルクリンで小さい住居を當てがつてある。――さて、これだけすると、ほつ[#「ほつ」に傍点]と一息ついて、シンヂケエトの仕事に掛かつたのである。  最初の第一日目には、副支配人、課長、出納掛、簿記係、書記、タイピスト、など大變な人數になるが、その顏と名前を紹介された。二日目には一切の締《し》め括《くゝ》りを自分一人の手にすつかり收め、三日目には、既に數年間もその位置に就いてゐたやうに、どし/\采配《さいはい》を振つた。  ロイドが、サム・ウルフを推薦したのは、ロイドが今迄に見た中で、最も有能な財政實際家と認めたからである。アランは又S・ウルフの人物を全然知らなかつたし、會つて見ても大して氣心が合ひさうもないと思つたが、二三日經つと、アランはS・ウルフを評して、非常なとは言へない迄も少くとも、嘆賞に値《あたひ》する活動家であると言つた。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  豫約加入勸誘書が公表されると、トンネルはずる/\呑み込み始めた。  社債は一口千弗であつた。株券は百弗、二十弗、十弗と三通りだ。  紐育株式取引所のがらん[#「がらん」に傍点]とした大廣間は、株券發行の即日には破《わ》れ返るばかりの騷ぎになつた。これ迄市場に現はれた株券で、このトンネル株ほど先の見えない株券は無かつた。未曾有《みそう》の暴騰を示すかも知れないが、また一錢の價値もないまでに下落するかも知れない。投機業界は興奮その極に達した。だから誰も手を出さうとはしない。最先《まつさき》に買付ける勇氣は、誰にも無かつたからである。然しS・ウルフはこれより先何週間も、ずつと寢臺車に暮して、方々を駈けずり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、トンネルと最大の利害關係を持つ鐵工業界のシンヂケエトに對する態度を、すつかり探索した。S・ウルフは元來、相手が確かな人間でないと、決して註文契約をしない男である。探索の序《ついで》に、それを見せて遣つた。だから鐵工業の代理者達は、正十時にどつ[#「どつ」に傍点]と押寄せて、買付の火蓋《ひぶた》を切つたのである。そして約七千五百萬弗のトンネル株を買つてしまつた。  堤は切れた……  けれども、アランの第一に目指すものは民衆の金であつた。一部の資本家や、機械業者の力によつて、トンネルを建設したくない。トンネルは民衆全體の所有物であり、亞米利加の否《いな》全世界の所有物とならなければならないのである。  ところで、愚圖々々《ぐづ/\》と出澁るのが、民衆の金である。民衆はいつでも大膽と富を嘆賞する。大膽は死に打ち勝つ勝利であり、富は餓ゑを壓倒して捷《か》つ。しかも死と餓ゑは、民衆の最も恐れるものである。  見込がないときまつてゐるものでも構はない、誰かが何か考へつくと、その考へに向つて民衆は押寄せる。それによつて熱狂し、夢中になり、自分達の無氣力と退屈とを忘れようとするのである。民衆とは新聞讀者である。日に二三度は、自分と全然無關係な人間の運命に心を熱く躍らせる。又、民衆とは見物人である。自分達の無力と貧困に深い憤りを感じながら、時々刻々に現はれて來る同胞の飛躍と顛落を見て樂しむものである。極く一部の選ばれたる人々のみ、贅澤《ぜいたく》をし、何かを體驗出來るのである。大部分の人間には、時と金と勇氣が無い。人生はこの連中に一顧をも與へない。この連中は地球の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りを轟々と※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる調革に捲き込まれて、慄へ上つたり息を詰まらせたりすれば、直ぐに振り落されて微塵《みぢん》に碎ける。しかも誰一人としてこれを顧みる者も無い。いや他人の事を心配する時間も金も、勇氣も、持合せがないので、同情なぞといふ事は一つの贅澤となつたのである。古い文化は破産した。そして大衆が殆んど一顧だに與へなくなつたものは、曰く藝術、曰く宗教、基督教の信仰療法派、神學、救世軍、接神術、いかさまの降神術――かういふものは、ほんの僅かの人間の精神的要求を滿たすに過ぎないものとなつた。安直な保養、芝居、活動寫眞、拳鬪、寄席、かういふものが歡迎されて、轟々たる調革《しらべかは》の休止した短かい時の間――※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉によつて惹起された眩暈を忘れようとする。けれども多數の人々は、それもしないで、明日の旅路を續けるに十分な體力を養成する爲め、肉體を鍛へるのに忙しい。かういふ鍛錬を名づけてスポオトと云ふのである。  人生は暑苦しく、眼まぐるしい。氣違ひじみて殺人的だ。空虚で無意義だ。何千人の人間は呆《あき》れ返つて、人生の希望を放擲してゐる。どうか一つ、新しいメロデイが欲しい。古臭い流行歌はもう眞平だ。  アランは新しいメロディを民衆に與へた。鐵と、飛び跳ねる電氣の火花との歌である。これこそ我等の時代の歌だ、と民衆は膝を打つて、頭上を走る轟々たる高架鐵道の音を聞いては、アランの峻嚴なタクトを耳にしてゐると感じた。  この男は天國の權利なぞを約束しない。人間の魂は七つの階梯を通らねばならぬなぞとは決して言はない。又この男は、未來の事柄で、結局はといふと掴まへ所もない、始末におへない事柄を使つて、まやかしの手品なんぞ使はない、この男が言ふのは現在だ。この男の約束するものは手で掴める、何人にも分り切つた事柄である。地球に穴を一つ明けようといふ。それだけの話である。  けれども、これ程單純な事ではあるが、この男の計畫が思ひ切つて大膽不敵なものであるとは、誰も思つてゐた。だからこそ、何百萬の人心を魅了《みれう》し盡したのである。  最初流れ込んで來た「しがない暮しの人間」の金は、極く僅かであつた。けれどもやがて滔々たる大河の勢ひとなつた。紐育、市俄古、桑港、全米を席捲する言葉は「トンネル株」であつた。※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]クトリア金鑛株とか、大陸ラヂウム株とかいふものは、買つた奴は皆大金儲けをしたさうである。世人は皆これを知つてゐたから、トンネル株は一擧、從來の株をすべて蹴落してしまつたのである。ひよつとすると、見事開通――したら、大變、さあ行け、さあ買へ。問題は千弗殖えるとか、減《へ》るとかいふ小《ち》つぽけなものでは無い。老後の安息所を建てるか建てないかだ。顎から齒がすつかり脱け落ちない前に、準備をして置くことだ。  何週間も續いて、シンヂケエトの花崗岩の階段の上に、人間の激流が渦卷いた。餘所《よそ》にいくらでも株券の買へる所があるのに、誰しも本元から直接買つて見たいものだ。御者が來る、運轉手が來る。食堂のボオイ、昇降機《リフト》係《がゝ》り事務員、女賣子、職人、泥棒、猶太人、基督教徒、亞米利加人、佛蘭西人、獨逸人、露西亞人、波蘭人、アルメニヤ人、土耳古人。あらゆる國民が、濃淡《のうたん》とり/″\の皮膚の色を見せて、シンヂケエト・ビルディングの前に押し掛けて、株券と坑道と配當金と利益金の話で逆上し切つてゐる。空氣まで金の匂ひがする。もしかしたら、本物《ほんもの》の金貨や、本物《ほんもの》の弗《ドル》紙幣《さつ》が、灰色の冬空からヲオル・ストリイトに降つてゐたかも知れなかつた。  殆んど毎日この通りの大勢が押し掛けたから、係りの者は集まつた金を處理する暇もない。それは丁度、昔のフランクリン・シンヂケエトの、幸福な「五二〇パーセントのミラア」の日とそつくりであつた。係りの者は金を無造作《むざうさ》に後の床へ抛《はふ》り投げる。やがて踝《くるぶし》の邊まで金の洪水に浸るのであるが、しかも一方では、小使の男たちが間斷なしに、洗濯籠に金を入れて、引擦つて運んでゐるのである。かうした金《かね》の洪水は、減るどころか増す一方で、窓口へ押しかける人々の眼は、この洪水を見ると、氣が狂つたやうな貪婪《どんらん》の光を帶びて來る。一掴《ひとつか》みでいゝ――片方の手で掴めるだけでいゝ――それだけ貰へばもう占《し》めたものだ、只の番號であり、モオタアであり、自動人形であり、機械であるやうに酷使される連中が、人間らしく生活が出來るのだ。誰も彼も亂痴氣《らんちき》騷ぎの跡のやうに、頭をくら/\させて歸つて行く。素晴らしい夢に醉つて、眼の中は熱がある。百萬長者になつた心持である。  市俄古、セントルイス、フリスコなど、合衆國にありとあらゆる大小の都會で、同樣な場面が演ぜられた。百姓も、牧童も、坑夫も、一人殘らずA・T・S株を買つて、一山かけたものである。  トンネルは呑み込んだ。金を飮んだ。まるで渇《かわ》き切つた大洪水以前の巨大な怪物である。しかも大西洋兩岸の二つの口から呑み込むのであつた。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  トンネル事業といふ大きな機械は、全速力を出して※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。アランは絶えず注意して、この機械のテムポを持續せしめた。アランの主義は、一切の仕事は何でも、それを完成するに必要だと考へた時間の半分で仕上け得るといふのであつた。だから、この男と接觸してゐると、識らず知らず、このアランのテムポが傳染してしまふ。これがアランといふ男の偉《えら》いところであつた。  鐵筋コンクリイトの三十二階建、人間の住む蜂の巣が、地下室の金庫から、平べつたい屋上《をくじやう》の無線電信所に至るまで、汗と仕事の匂ひで一杯だ。その八百の部屋には、シンヂケエトの役員、事務員、タイピストが蠢《うごめ》いてゐる。二十臺の昇降機が一日中上下してゐる。連續式昇降機もある。幾つも箱が珠數《じゆず》つながりになつてぐん/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐると、其處へ人が飛込むのであつた。中には又、第十階とか、第二十階とかまでは止まらない急行リフトといふ昇降機もある。最上階まで直通する昇降機もある。三十二階の上から下まで、遊んでゐる場所は少しも無かつた。郵便、電信、金庫、上部工事課、地下工事課、發電所課、都市建設課、機械課、船舶課、鐵課、鋼課、セメント課、材木課、ブロオドヱイの華《はな》やかな騷々しい雜沓の中に、夜の更《ふ》ける迄、煌々《くわう/\》と立つこの建物《たてもの》は、まるでお伽噺の塔である。  上から數へて四階迄の全部は、それが一つの巨大な廣告になつてゐる。ホッビイの立案で、色さま/″\の電燈を何千と使つてある。大西洋の海圖だ、素晴らしく大きい海圖だ。四方の縁《ふち》は、星と條《すぢ》を見せる色電氣だ。大西洋は紺碧《こんぺき》で、休む時なく打つてゐる波の線。左に北亞米利加、右に歐羅巴、英國諸島がある。何れもべた一面に無鐵の電燈を並べてある。星の塊りだ。トンネル都市、ビスカヤ、アヅォオル島、ベルムダ島、フィニステラは、紅玉色の電燈をぎつしり固めて探海燈のやうに光つてゐる。歐羅巴寄りの海上には、電燈を集めて上手《じやうず》に形どつた一隻の汽船が見える。この汽船はまるで動かない。紺碧の波の間には、赤い電球で緩《ゆる》い曲線が引いてある。ベルムダ群島、アヅォオル群島を經て、西班牙、佛蘭西まで達してゐる。これがトンネルだ。しかもこのトンネルを通つて、絶えず猛烈な勢の列車が兩大陸の間を往來する。五秒置きに發車する六臺連結の列車だ。光の霧が、ぎら/\した廣告の全面から立ち昇ると、上へ行つてぴたつ[#「ぴたつ」に傍点]と納《をさ》まつた、誇りに滿ちた、太い、牛乳色の大きな文字となる。大西洋トンネル。  自分の周圍の空氣が熱狂的になればなるほどアランは益益愉快で耐《たま》らなくなつた。素敵な上機嫌となつた。何時も熱中し、興奮してゐるやうに見え、以前よりも一層元氣さうに健康さうに見えるのであつた。頭は肩の上に一層樂々と据つて居り、肩は又一層がつしりと、幅《はゞ》が廣くなつた。子供らしい、人の好ささうな眼の色は消えて、眼付は、きつとして少しも散らない眼付となつた。以前は堅く結ばれてゐた唇までが、花のやうに綻《ほころ》びて、何とも形容し難い、目立たぬ微笑を湛《たゝ》へてゐる。如何にも健康さうな食慾で、眠ればぐつすり寢て、夢も見ない。そして仕事をした――急がず慌てず、終始變らない速力で、少しも休まない。  反對にモオドの方は、輝きと溌刺さを失つてしまつた。青春は去つて、少女《をとめ》から人妻となつたのである。頻にはもう昔の生々《いき/\》した赤みがない。少し色が褪《あ》せて、少し痩せた。緊張して、注意深い女となり、滑《なめ》らかだつた額には思ひ餘つた皺が見える。  モオドは惱んでゐたのである。  二月と三月に掛けては、幾週間かの嬉しい日が續いた。冬の間の退屈と空虚とは、それで十分償へたのである。それは、アランと一緒に、ベルムダ群島や、アヅォオル群島や、歐羅巴まで行つて來たからだ。殊に海上では、殆んど一日中、アランの傍にゐられたから、實に嬉しかつた。けれどもその代りには、歸つて來て又再びブロンクスに閉ぢ籠るのが一層|辛《つら》くなつたのである。  アランは數週間ずつと旅行中であつた。バッファロオ、市俄古、ピッツバアク、トンネル都市、沿岸各地の發電所と※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、まるで急行車の中で暮してゐる。しかも紐育に歸れば、また山のやうな仕事が待つてゐるのである。  勿論、そんな忙しい中でも、約束した通り、ブロンクスに來る囘數は多くなつた。殆んど決《きま》つてくる、けれども始んどいつでも、どうかすると日曜日でも、延せない仕事を持つて來る。時によると、唯、眠り、入浴し、朝飯を食べるだけに歸つて來て、そして又直ぐ出て行つてしまふ。  四月になると、太陽は大分に近くなつて、ひどく暑い日も二三日あつた。モオドはエディスを連れて散歩に出る。エディスはもう元氣に、母親と並んでよち/\歩きをする。ブロンクス公園は、朽ちた土の匂ひと若々しい青葉の匂ひでむせ返るやうである。去年の夏と同じく、今年もエディスを抱き上げて立ち止まるのが、猿の檻《おり》の前だ。何時間も立ち止まつてゐる。又、小さいエディスは可愛い小馬に乘つて、頬ぺたを眞赤《まつか》にして喜んでゐる。それから又、大きく口を明いて鐵格子の所に蹲まつてゐる熊に、その口の中へパンの切れを投げて遣る。お次は獅子の子供を見に行く――こんな事をして午後は潰《つぶ》れる。時々、モオドは思ひきつて、雜沓と塵埃《ぢんあい》の下町へ、エディスも連れて行くことがある。モオドは生き/\した人間生活の空氣を呼吸したかつたのである。それから度々砲臺のある遊園地へも行つた。すると遊んでゐる子供達の頭の上を、高架鐵道が雷のやうな音を立てゝ通つた。廣い紐育中でも、モオドの一番好きな場所は此處である。  水族館の傍《かたはら》には幾つもベンチが並んでゐる。そこへ腰を下したモオドは、廣い入江にうつとりと見入つてゐる。エディスは、綺麗な玩具で砂を掬《すく》つて遊びながら、興に乘つて時々大きな聲を立てる。眞白な渡し船が、ホボケン、ヱリス島、ペドロオ島、ステエト島、紐育ブルックリンの間を、絶えずあちこちと通つてゐる。牛乳を流したやうに見える廣い入江にも、ハドソン川にもうよ[#「うよ」に傍点]/\と動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐるその船の數は、どうかすると一時に三十位まで算へられる。どれを見ても、丁度|秤《はかり》の桿《さを》のやうな白い槓杆が、間斷なくその二本腕を上げ下げしてゐる。それに較《くら》べると、汽船はまるでお伽噺の七哩靴でも穿いてるやうに飛んで行く。ニュウ・ジャアシイ渡船會社のセントラル號が鐵道貨車を載せて來ると、曳船《ひきふね》や税關のボオトは、慌《あわ》てふためいて一目散に逃げる。遙か向うに、日光の霧の中にうつすら立つてゐる影が自由の像である。まるで波の上に浮んでゐるやうだ。その後に長く引いてゐる一本の青い線がステエト島であるが、それは殆んど見えない位である。汽船の煙突から眞白な蒸氣が一本光つた。暫くして、號笛《がうてき》がぼう/\、ぴいぴいと聞える。入江は音で一杯になる。一番鋭い曳船の悲鳴から、遠くの空氣まで顫はせる、重々しい大洋航路船の咆哮《はうかう》に至るまで、いろんな響きで一杯になる。間斷なく、鎖ががら[#「がら」に傍点]/\言ふ、それから何處か遠くで鐵を打つやうな音が聞える。高低強弱|多種多樣《さまざま》に入り混つた騷音が、一種異樣な音樂會となり、人の心に或る幻想と沈思《ちんし》とを呼び起すのである。  だしぬけに、直ぐ近い所でぼうといふ號笛《がうてき》が鳴つた。大きな快速船が一艘、一杯に日を浴びて、ハドソン河の青濁りの水を分けて走つてゐる。甲板に音樂隊の奏樂《そうがく》があり、どのデッキにも人間の頭が點々と見えて、船尾《せんび》の方の眞黒な塊は三等船客の一團である。 「エディス、お船よ、お船にはいつちやひなさい。」  エディスは眼を擧げて見る。さうしてブリキの小桶を振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して一生懸命叫ぶ――まるで曳船《ひきぶね》の笛と同じやうな聲である。  歸り路になると、決《きま》つてエディスは、必ずお父《とう》ちやんの所へ行くんだと言ふ。するとモオドは、お父ちやんのお邪魔になるからいけませんよと言ふ。  又モオドは、再び熱心にピアノの稽古《けいこ》を始めた。せつせ[#「せつせ」に傍点]と勉強して、再び教師にも就いた。實にすつかり忘れてしまつた。二三週間といふものを、モオドはあらゆる大きな音樂會に出掛けて行つた。月に二晩位は自分でも、女賣子や肌着を縫ふ女工などの寄宿舍に行つて演奏した。けれども音樂の韻律《メロディ》と一緒に血の中へ流れ込む歡喜の情は、もう昔と違つて、何か重苦しいやうな氣持がまじつて來て、しかもその重苦しさは段々増すのであつた。だからその中にはピアノに向ふ事も稀《まれ》となつて、遂には全く止めてしまつた。それから今度は育兒、衞生、倫理、動物愛護などの講演を聽きに行つた。又モオドの名前は、癈疾者保護や孤兒養育を事業とする、いろ/\な協會の婦人委員として現はれ出した。かういふ事業は、現代が生んだ野戰病院である。勞働といふ無情苛酷の戰爭に打ち倒された人々を介抱する所である。  けれども何としても、モオドの心の空洞《うつろ》は無くならない。この空洞には怨めしさと物足りなさが渦《うづ》を卷いてゐる。  夕方になると、必ずアランから電話である。その一聲を聽いたゞけで、モオドの氣持は安まつて來るのである。 「ねえ、あなた、今夜は御飯に來て下さる。」  と尋ねるが、まだ自分がかう喋《しやべ》つてゐる中からもう、アランの返辭を讀み取らうとして緊張する。 「今夜かい。駄目だなあ、今日はとても駄目だよ。だけど明日なら行くよ、さういふ都合にして置くからね。ところで、エディスはどうしてる。」 「あたしよりもずつと元氣よ。」  と言つてから、一寸笑つて見せる。自分の失望し切つてゐることを、夫《をつと》にかくさうとして笑ふのである。 「どうだね、あの子を電話口へ出して呉れないか。」  夫《をつと》の注意が子供の方へ行つたので、モオドはほつとしながら、小さいエディスを抱上げる。さうしてエディスに何か片言《かたこと》で言はせるのであつた。 「ぢや、左樣なら。今夜は我慢して上げますわ。でも明日は、どんな事があつても許して上げませんよ――よくつて。」 「よし/\、分つたよ。明日はきつとだ。ぢやお休み。」  こんな事であつたが、その後になると、いくらリオンに吩咐《いひつ》けても、アランを電話口に呼出せないことが度々あつた。アランは全く一寸も手が放せなくなつたのである。  するとモオドは、すつかり厭になつて、ぷん/\怒つて受話器をひどく抛《はふ》り付けて一生懸命涙を耐へるのであつた。  モオドは毎晩讀書する。書棚の本はすつかり讀み盡した。けれどもその結果モオドの發見した事は、大部分の書物は嘘の塊りだといふことであつた。いゝえ、違ひます。人生は決してそんなものではありません。とモオドは一人言ふのであつた。けれども時々は、モオド自身の苦しい惱みを、そつくりその儘述べてゐる本があつた。そんな時は、眼に一杯涙を溜めて、人の居ない靜かな部屋を選んで、彼方此方《あちこち》歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。到頭、モオドは素晴しい事を思ひ付いた。自分で本を書いて見ようといふのである。まだ誰も書かなかつたやうな本――それを書いてアランを吃驚させようといふのである。この考へがモオドの心を醉はせた。それから午後中《ごゝぢゆう》町を走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、自分の考へた通りの本を探した。到頭、思つた通りのものが見付かつた。日記帳である。鰐革《わにがは》の裝釘で薄い黄色い紙だつた。夕飯が濟むと直ぐ仕事に掛かつた。第一頁を開いてかう書き入れたのである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] 「わが愛する娘エディスの生活と、その言へる言葉。 母モオド認む。」 [#ここで字下げ終わり]  それから第二頁には、 「神よ、愛らしきエディスを守らせ給へ。」と書きつけ、第三頁から本文にかゝつた。 「先づ第一に、わたしの可愛い娘が生れた時……」  この本は、クリスマスにアランへの贈《おく》り物《もの》とする積りであつた。この仕事はモオドを樂しませた。幾晩も幾晩も、淋しさを紛らしてくれた。幼い女の子の生活の、どんな些細《さゝい》な事でもその通り一々書き込んで行く。滑稽な片言や、あどけないお悧巧な質問、油斷のならない注意力や、立派な一人前の意見だの、何でも書き加へて行く中に、どうかすると筆が逸《そ》れて、自分自身の心配や考へを述べ立てる事になつた。  モオドは日曜から日曜へと、日曜ばかり目當《めあ》てにして暮した。日曜はアランが來る。モオドには祭日である。家の中を美しく飾り付ける。特別念入りの獻立を作つて、アランに一週間分の取返しを一遍にさせようとする。けれどもその日曜さへ、やがてアランは時々來なくなつた。  或る日曜日にアランは、突然バッファロオの鋼鐵工場へ呼ばれて行つた。次の日曜日には、ブロンクスへ來たけれども、ベルムダ群島の工事現場を監督するシュロッセルと一緒に來て、二人で一日中專門の話ばかりしてゐたから、モオドにとつては夫《をつと》が來ないも同然であつた。  そこで或る日の午後、モオドはひよつこり、意外な時間にシンヂケエト・ビルディングに現はれた。そしてリオンを通じて、至急會ひたいからとアランに言つて遣つた。  モオドは食堂で待つてゐた。食堂はアランの事務室の隣りで、騷々しい太い聲が銀行の名前を續け樣に呼んでゐる。 「――マンハッタン――モルガン會社シャアマン――」  モオドにはすぐ分つた。大嫌ひなS・ウルフの壁である。急にその聲が止んで、アランが今大きな聲を立てる。 「直ぐだ、さう言ふんだ、リオン、直ぐだ。」  リオンが食堂に這入つて來て、囁くやうにアランの返辭を傳へる。 「待つてはゐられないのよ。」  この支那人は困つたやうな顏で眼をぱちくりさせたが、足音も立てずに出て行つた。  すると直ぐ、アランが這入つて來た。仕事に熱し切つた上機嫌の顏である。  來て見ると、モオドは手巾を顏に當てゝ激しく泣いてゐる。  アランは面喰つて、かう尋ねた。 「おい、モオド。どうしたんだ。エディスがどうかしたのか。」  モオドの啜り泣きは一層激しくなつた。エディス、エディスつて、あたしの事なんかちつとも考へて下さらない。あたしだつて、たまにはどうかする事もあるのに……。モオドは肩を震はせて泣くのである。「あたしもういや。どうしてもいや。」  と、しやくり上げながら言つて、益々強く手巾《ハンカチ》を顏に押付けた。益々激しく泣聲を立てた。かうなるとモオド自身でも手が付けられない。赤ん坊が泣き出したも同然である。どうしても泣き止まない。怨みと苦しみをすつかり言ひ立てたいのであるが、どうしても泣き止まない。  暫くアランは途方に暮れてゐた。やがてモオドの肩を撫でてかう言つた。 「だけどお前、聞いて呉れよ――この間の日曜はシュロッセル君に邪魔されたんだが、別に俺が惡い譯ぢやないよ。何しろシュロッセル君は遙々《はる/″\》あつちから來た人で、二日以上こつちにゐることは出來なかつたんだからね。」 「そんな事を言ふのぢやありません。この間の日曜一日ぽつちの事なんぞ――昨日は、だつてエディスの誕生日ぢやありませんか……お待ちしてゐました……あたし、きつといらつしやると思つてゐました……」 「エディスの誕生日だつて。」  とアランは當惑し切つて言ふ。 「さうです。まあ、お忘れになつたの。」  これにはアランも閉口した。 「まつたく、どうしてゐたんだらうなあ。一昨日《をとゝひ》はちやんとさう思つてたんだが。」  と言つてから、暫く間を置いて、 「ねえ、モオド、おれはこの頃、頭の中が一杯なんだ。ほんの暫くだよ、仕事がちやんと始まりさへすれば――」  と續けた。  するとモオドは跳《と》び上がつて、地團太《ぢだんだ》を踏んで、眞赤《まつか》になつて夫《をつと》を睨み付けた。涙が、頬を傳つてゐる。 「いつもそんな事を仰有るのね――もう何ヶ月も前からそればかり仰有つてゐるのね。――あゝ、いやだ、いやだ。」  としやくり上げながら、ぐつたり椅子に腰を下ろし、手巾《ハンカチ》で顏を蔽つてしまつた。アランは益々途方に暮れた。まるで叱り付けられた小學生のやうに突立つて、顏を眞赤にしてゐる。こんなに怒つたモオドを見るのは、これが始めてゞある。やがてアランは、 「だけれどね、まあ聞いてお呉れよ。」  と始めた。 「事業つてものはね、思つたよりも大變なものだ――だが、もう少しでよくなるさ。」  かう云つて、今暫くの間おれの事は辛抱して、音樂會や芝居に行つたり、ピアノの稽古でもしたり、何か氣の紛《まぎ》れるやうにしてゐてくれと頼むのであつた。 「そんな事、もうみんな遣つて見ましたわ、どれもこれも退屈よ――もう/\飽々《あき/\》してゐますわ――いつまで經《た》つても待つて居ろなんて――」  アランは首を振つて、諦《あきら》めたやうに、いかにも困り果てて、モオドの顏を見た。 「さうか、ぢや、どうしたら善いだらうね。――どうしたらお前の氣が濟むだらうね。」  と小聲に尋ねる。 「二三週間ばかり田舍へ行つたらどうだらう。バアクシャイアはどうだね。」  モオドは急に顏を振り擧げて、濡れて光つた眼で夫《をつと》を見詰めた。 「まあ、あなた、あたしを追ひ出すつもりですの。」  と、あけすけに訊《き》き返した。 「そんな事があるもんか。おれは唯、お前に一番いゝやうに、と思つたゞけだよ。お前を見てゐると、氣の毒になるんだ――ほんとだ、氣の毒に――」 「まあ、あなたから、氣の毒がられたりなんぞしたくはありませんわ、打つちやつて置いて下さい……」  かう言つてモオドは、又身を顫はせながら激しく泣く。莫迦《ばか》のやうに泣く。  アランは妻を膝の上へ抱き寄せた。宥《なだ》めようとして頻りに愛撫しながら、優しく色々と言つた。最後には、 「今夜行くよ、ブロンクスへ行くよ。」  と言つて、これでもう何も彼《か》も片附いたといふやうな調子であつた。  モオドは一杯濡れた顏を拭いた。 「えゝ。でも、もし八時半より遲れていらしつたら、離婚して頂きますよ。」  かう言つた時のモオドは、ひどく眞赤《まつか》な顏であつた。 「あたし、時々そんな事を考へたのよ――それは、あなた、可笑《をか》しかつたら笑つて頂戴、でも、あんな事つて、自分の妻といふものを、あんなにするつて事は無いわ。決して無いわ。」  モオドはアランに抱き付いて、熱しきつた頬を、夫の日に焦《や》けた顏に押し付けて、かう囁いた。 「あゝ、マック、可愛いあたしの……まあ可愛い方。」  モオドは眠を輝かせながら、三十二階の建物を昇降機で一息に降りた。もうすつかり好い氣持で、心も晴れ/″\としてはゐたが、何か少し恥かしくなつて來た。思ひ出せば、あの時アランは狼狽した。苦しさうな眼の色だつた。途方に暮れた樣子であつた。然し内々は、一體あゝいふ仕事が如何に大事なものかといふ事に、あたしがまるで無理解なのに、呆《あき》れてゐたに相違ない。 「まあ、あたし、なんて莫迦な眞似をしたんでせう。」――とモオドは考へた。――「あんな詰らない眞似をしたんだもの。マックはきつと、あたしの事を、勇氣も辛抱も無く、夫の仕事に理解も無い、下らない女だと思つてゐるに違ひないわ。――それにまあ、どうだらう、あたし、あんな嘘を言つたりして、離婚の事を度々考へてゐたなんて、まるで嘘の事を言つたりして。」これは今になつて、始めて氣が付いたのである。あの時は嘘とも思はず、喋りまくつたものである。 「まつたく、莫迦《ばか》な事をしたものね、莫迦さ加減は、まるで鵞鳥だわ――本物《ほんもの》の鵞鳥だわ。」  自動車に乘る時、モオドはかう口の中で言つた。それから小聲で笑つた。莫迦らしい眞似をしたものだといふ恥かしい氣持を、その笑ひ聲で吹き飛ばさうとしたのである。  アランはリオンに命じた。八時十五分前になつたら事務室の外へおれを抛り出して呉れ。きつちりその時間に、その通りになつた。八時數分前には、アランは大急ぎで或る店に飛び込んで、エディスへの土産をどつさり、モオドへのを幾つか、買ひ込んだけれど、別にあれこれと選り好みはしなかつた。かういふ物にかけては、さつぱり見當《けんたう》の付かないアランであつた。 「モオドの言ふ事に無理は無い。」とアランが考へてゐる時、アランの自動車は、六哩も長い眞直なレキシントン並木街を突進した。眞劍になつてアランは、今後どういふ遣り方をして、自分の家庭ともつと親しんで行かうかと、一生懸命考へた。けれどもいくら考へても、考へは付かなかつた。實際のところ、仕事の方は日一日と殖えるばかりで、減る見込は全然無い。「どうしたら宜《よ》からう。」と考へた。「シュロッセルを誰かと替へたいものだ、あの男は少し依頼心が多過ぎる。」  その時思ひ出した。急用の手紙を二三通、ポケットに入れて來てある。ざつと讀み返して署名した。ハアレム川まで來ると、それが濟んだ。車を停《と》めさせて、手紙を投函させた。八時半までにはまだ十分間ある。 「ボストン道路を通れ、アンディ[#「アンディ」は底本では「ンディ」]、大急ぎだ。然し人を轢いちや困るぞ。」  そこでアンディはボストン道路を猛烈な勢ひで走らせた。通行人はよろけた。馬に乘つてゐた男は、ギャロップで車を追ひかけた。アランは向ひ側の座席へ足を載せて、葉卷を一本|點《つ》けた。それから疲れ切つた眼を瞑《つぶ》る。殆んどもう少しで眠る所で、車がぐつと停《とま》つた。家中はすつかり明りが點《つ》いて、お祭りのやうである。  モオドが階段を駈け降りて來る。まるで小娘の足取りだ。いきなりアランの頸《くび》を抱く。まだ自動車まで來ない中、まだ前庭を走つて來る途中で、大きな聲でかう言ふ。 「ねえ、あたし、莫迦よ、莫迦よ。」  運轉手が聞いてゐるけれど、モオドは平氣でどし/\言ふ。  あんな莫迦はしたけれど、もう必ず辛抱して、これから決して泣言《なきごと》は言はないといふ。 「ねえ、きつとよ、あたし、本當よ。」 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  モオドはさう言つた言葉を反古《ほご》にはしてゐない。けれども樂なことではなかつた。  アランが日曜に來なくなつても、或は來ても澤山仕事を持つて來て、殆んど一分とモオドとは話をしない時でも、モオドは決して泣言を言はなかつた。夫《をつと》の仕事が超人的の事業である、といふことは、モオドにもよく分つてゐた。これが他の人間なら、精《せい》も根《こん》も盡き果てゝしまふに違ひない、さういふ大事業をしてゐる夫であるから、妻としてはそれ以上の負擔を夫に負はせない心遣ひが必要である。それ所では濟まされない。時たまの休息時間は、出來るだけ素晴らしい慰めを、夫に與へて遣らなければいけない。力《つと》めてさうしようとモオドは思つてゐた。  だからモオドは、夫が來てくれさへすれば、それでもう滿足して快活な樣子を見せる。毎日々々、夫の事ばかり考へて、無茶苦茶に悲しく暮してゐるが、そんな事は氣振《けぶ》りにも見せない。ところで、不思議な事には――夫のアランの方でも、何とも訊《たづ》ねないのである。それといふのは、この男は、妻がさぞ苦しいだらうなぞといふ事が、てんで頭に無いからである。  夏が來た。秋になつた。ブロンクス公園の木の葉が黄色くなつた。やがてモオドの家の前の木の梢《こずゑ》から、風も無いのに、幾枚も葉が塊《かたま》つて落ちる。  アランがモオドに、どうだ、トンネル都市に引越して住む氣はないかと言ふ。モオドは呆《あき》れて驚いたが、その樣子をうまく取繕《とりつくろ》つて隱した。アランの言ふのには、毎週二三囘は其處に用があつて行くし、今度からは日曜の午前は面會時間として、技師でも勞働者でも、誰でも希望や心配事を一々聞いて遣るやうにしたいといふ。「あつちへ移るのも、あなた次第よ。」 「おれはさうなつたら一番いゝんだよ。事務所をトンネル都市に移したいと思つてゐた所だから、さうなれば勿論、直ぐさうする。たゞ心配なのはね、お前がちつと淋しいんぢやないか――」  モオドは微笑しながら答へた。 「でもねえ、ブロンクスよりもましでせう。」  引越しは新年早々といふ事になつた。その準備の最中、モオドは時々手を休めて考へるのである。「まあ、あんなセメントの沙漠へ行つて、何をしたらいゝだらう。」  何か始めなければいけない。何か一生懸命にして、詰らない事を考へたり、空想したりする暇《ひま》を作らないことだ。  到頭素晴しい事を考へ付いた。そしてその考へを實現するやうに努力し始めた。その考へはモオドを元氣付けた。モオドは機嫌がぐつと好くなり、モオドの微笑には一々何か祕密な影が付いて來た。そこでさすが無頓着のアランも妙だなと感付いたものである。  最初の中こそモオドは、しきりにアランが聞きたがるのを、いゝ加減にあしらつて獨り悦《えつ》に入つてゐたけれど、やがて到頭、祕密を自分だけに藏《しま》つて置く事が出來なくなつた。實はかうなのよ。何かして見たいのよ、何かちやんとした事を、立派な仕事を。決して遊び事ぢやないものを、と思つてゐる中、ひよいと思い付いたのは、トンネル都市の病院で働く事。「笑つちやいやよ、マック。」  あたし、眞面目なんですもの。もう勉強も始めてゐるわ。ワッセルマン博士の小兒科臨床學を聽講してゐますのよ。といふ話である。  アランはぢつと考へ込んだ。  けれども、どうしても信じ切れなくつて、かう訊《き》いた。 「本當にもう始めてゐるのかい。」 「えゝ、さうよ、もう四週間も前からよ。來年になつてトンネル都市へ行けば、あたし、ちやんと仕事をするのよ。仕事でも無かつた日には、とても堪らないんですもの。」  かう言はれて、アランは全く度膽《どぎも》を扱かれて、大眞面目な顏で考へ込んでしまつた。面喰つて眼瞬《まばた》きばかりして、急には言葉も出ない有樣である。モオドの方は一人で有頂天になつてゐる。やがて、アランは二三度頭をうなづいて見せた。「何かお前が働かうといふなら、それも好いだらう」と、アランは考へ/\、勿體ぶつて言つた。「だが何も、病院に限つた譯のもんぢや無からうと思ふが――」  と言ひかけて、いきなりぷつと噴き出した。このモオドが看護婦の白い服を着るんだ、と想像したからである。 「ところで、月給はうん[#「うん」に傍点]と高いのかね。」  ところが、モオドは少しむつ[#「むつ」に傍点]としてゐる。あんまりひどく笑はれたからである。  アランはモオドの計畫を一時の氣まぐれの遊び事と思つてゐる。長續きはしないだらうと見てゐる。働かずにゐられないモオドの氣持が全然分らないのである。だからモオドは妻の氣持を理解しようとする、ほんの僅かの努力もしてくれない夫《をつと》が怨めしかつた。 「昔はこんな事も平氣でゐたわ。それがこんな氣になるのでは、あたし、少し變つて來たのか知ら。」と、翌日になつてから考へた。それから幾日も夜晝苦しんだが、その苦しみの原因は、唯自分の幸福の影が薄れてしまつたといふだけで、決して不幸が迫つたといふ譯ではなかつたのである。兎に角この苦しみの結果、モオドは次のやうな事が分り掛けて來た。妻といふものは精神的な愛情や崇拜ばかりで滿足するものではないといふ事が。  日が暮れると、モオドは一人閉ぢ籠つた。外はさつ[#「さつ」に傍点]と氣持よく降る雨である。モオドは日記帳に書入れを始める。  小さいエディスの言葉を幾つか書き留めた。その言葉は殘忍性の萠芽と、子供らしい利己心をあらはしてゐるものであつた。こんなに可愛く思つてゐる娘でも、やはりこんな言葉を言ふのであつた。それをモオドは書き留めたが、又、どの子にも見える色々な性質も、忘れずに書いて置いた。それからモオドの考へをどし/\押し廣めて、こんな事も書いた。 「本當に自分を捨てゝ人に盡すといふ事は、母となり妻となる女ばかりの出來ることのやうに思はれます。男や子供にはさういふ性質が缺けてゐます。でも男は、子供よりもましな點が一つあります。それは、小さい、外面的な、言はゞ詰らない事柄にかけては、自分を捨て、人に盡すことが出來るものであります。けれども一番深い感動や一番大切な希望などは、どうしても諦《あきら》めません。可愛く思ふ者があつても、その可愛い者がどうならうと一向にお構ひ無しであります。マックは男であります。さうして他の男の人達と同樣、矢張り利己主義であります。わたしはマックをそれはそれは愛して居りますけれど、この勝手の強いといふ點を非難する事だけは、わたしはしないでは居られません。」  エディスの眠つたのを確かめてから、肩掛を羽織つてヱランダに出た。籐椅子に腰掛けて、雨の音に耳を澄ました。西南の空は一面にぼつと明るい紐育である。  やがて寢室に歸らうとした時、ふと、机の上に開かれた儘の日記帳が眼に這入つた。もう一度ざつと讀み返して見た。すると、つい先程は心の何處かの隅に、自分の知識に一寸得意になつたやうな氣持があつたけれども、今はモオドは首を振つてその下にかう書いた。 「一時間後、雨の音をぢつと聽いてから。マックをあんなに非難した事は、わたしがいけなかつたのではないか知ら、わたしこそ、勝手の強い女ではないかしら。マックがわたしに何か要求したことがあるか知ら。わたしこそ、マックに何か犧牲にしてと、せがんだのではないか知ら。さつき言つた事はみんな、莫迦なわたしの譫言《たはごと》でした。今夜はもう、わたしはどう言つたらよいか分らなくなりました。雨の音は好いものです。平和と眠りを與へてくれます。――マックの妻、莫迦なモオド。」 [#改ページ] [#4字下げ]第三編[#「第三編」は大見出し] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  さて、この間にも五ヶ所の工事中心地では、マック・アランの掘鑿機《くつさくき》が眞暗闇《まつくらやみ》の地底をもう何理と掘り下げてしまつた。トンネルの入口は、まるで幽冥界へ行く恐るべき二つの門のやうに見える。  しかもこの門からは晝夜の別なく間斷《ひつきり》なしに岩石を滿載した長い/\貨物列車が、急行列車の勢ひで飛出して來る。又、晝夜の別なく間斷《ひつきり》なしに同じやうな猛烈な勢ひで門の中へ飛んで行くのは、勞働者を載せた列車と、材料を載せた列車である。このトンネルの二重坑道はまるで傷口である。眞黒に爛《たゞ》れた傷口である。一方では絶えず膿汁《うみしる》を噴《ふ》き出しながら、他方に新鮮な血液を呑み込んでゐるのである。その中には、深い地底には、何千人が心を揃へて、一人の人間のやうに、必死になつてゐる。  アランの仕事は世間一般の仕事のやうな生温《なまぬる》いものではない。無茶苦茶である、狂亂である。一秒を爭ふ大變な戰爭である。アランは岩石を衝破《つきやぶ》つて突走《つゝぱし》らうといふのである。  もしアランが、從來のやうな勞働制度を探つたら、機械も同じ、掘鑿機《くつさくき》の質も同じとして、この工事の完成には九十年を要したであらう。ところがアランは一日八時間制ではなく、二十四時間制を勵行した。日曜でも祭日でも、仕事を續ける。「掘進坑路」は一日六囘交代で仕事をする。そして愚圖々々《ぐづ/\》遣れば八時間かゝる仕事を、四時間で遣つてしまへと命令する。斯くしてアランは六倍の能率を擧げ得たのである。  掘鑿機《くつさくき》の動いてゐる處が、即ち掘進《くつしん》坑路であるが、この場所はトンネルで働く連中の間で、「地獄」と呼ばれてゐた。とてもひどい騷々しい場所で、勞働者は皆耳に綿を詰めてゐたが、それでも皆多少とも聾《つんぼ》になつてしまふ。アラン式掘鑿機は海底の岩山に穴を明ける。鋭い響を發する。岩山は悲鳴を擧げる、まるで何千といふ子供が一遍に殺されかかつてゐるやうな騷ぎだ。續いて今度は、無數の氣違ひが笑ひ出したやうな音を立てたかと思ふと、熱病患者の病院全體が一度に囈語《うはごと》を言ひ出したやうである。岩石の大|瀑布《ばくふ》の音である。煮《に》え沸《たぎ》るやうに熱い地下道には、五哩の長さに亙つて、恐ろしい、今迄聞いたこともない轟音とその干渉音が鳴り轟いてゐたから、實際に岩山が崩れ落ちたとしても、誰一人それに氣が付かなかつたであらう。凄じい雜音のため、指揮者の命令も合圖《あひづ》の音も、すつかり聞えなくなつて、命令は一切、光學的方法によつて傳へられることになつた。途方もなく大きな探照燈が、ぎら/\した光の圓錐形《ゑんすゐけい》を放射する。その光の色は或は白く、或は赤く、あたりの混沌たる状態を照らし出す。汗だらけの人間の塊りだ。處々にはちやんと人間の格好が見える。石が崩れ落ちて來ると、その石が人間の格好に似てゐる。反射鏡の投げる圓錐形の中に、まるで厚い蒸氣の雲のやうにもく/\動いてゐるのは塵埃《ぢんあい》である。そしてこの、人間の身體が轉がり、石が轉がつてゐる混沌の眞中には、塵《ちり》まみれの灰色の怪物が、のた打ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる。まるで有史以前の怪獸が泥の中に轉がつて出て來たやうな怪物である。これがアラン式掘鑿機である。  極く微細な點に至る迄、悉くアランの苦心に成る。丁度何の事はない、鐵甲《てつかふ》を鎧《よろ》つた巨大な烏賊《いか》である。内臟は電纜《でんらん》と電氣モオタアで、頭には素裸の人間の身體が幾つもたかつて、尾には電線と電纜を曳き摺つてゐる。急行機關車二臺に匹敵する勢ひで前へ/\這ふ。觸角《しよくかく》や、觸鬚《しよくしゆ》や、ぎざぎざの唇で岩山を探る。顎の間からは煌々たる光を吐いてゐる。原始獸の憤怒に身を顫はせ、破壞の樂しさに狂喜しながら、咆哮を擧げて、岩の中へ頭を突込む。やがて、觸角とぎざ[#「ぎざ」に傍点]/\の唇を拔いて、その拵へた穴の中へ何か吐く。烏賊《いか》が墨を吐く。觸鬚と唇は穴を穿《うが》つ大事な役目をするもので、尖《さき》はすつかりアラニット鋼で、中はがらんどうになつてゐて絶えず水で冷される。このがらんどうから穴の中へ吐き出すものは、爆藥である。ところで、實際の烏賊と同じやうに、この怪獸も急に身體の色を變へる。先づ、顎《あご》の中から眞赤な血が噴出する。背中の皺が不氣味に光る。その眞赤《まつか》な煙に包まれながら、本當の烏賊のやうに後退するが、實に物凄い。それからやがてまた前進が始まる。進んだり、退いたり、夜も晝も、何年間でも、少しも休まぬ。  怪物が體色を變へて後退《あとずさ》りをすると、一隊の人間が岩壁に飛び付いて、穿《うが》たれた岩壁の穴にぶらさがつてゐる何本かの鐵の綱を、必死になつて一纏めにする。それが濟むと、まるで恐怖に追ひまくられるやうに、この一隊は逃げ歸つて來る。俄かに震動し、鳴動し、轟く。岩の破片は、遁げ歸る連中の後から、どつと追ひかけて來る。細かい破片はもつと先まで飛んで來て、掘鑿機《くつさくき》の鐵甲《てつかふ》にがら/\當る。埃りの雲は、怪物の眞赤な火の息に向つて、もく/\押寄せる。忽ち、怪物の姿が再び眩《まばゆ》い白光に照し出されると、渦卷く埃りの雲の中へ、半裸體の連中が躍り込んで、まだ煙つてゐるがらくたの山を駈け登つて行く。  飽く事を知らず前進するこの怪物は、恐ろしい格好の道具を突出してゐる。大きな釘拔きだ、龍頭《りうづ》のやうな嘴だ。鋼鐵の下顎が前へ出たり、上方へ行つたりして、物凄い顏の、汗でてら/\光つてゐる何百の人間が怪物の口の中へ抛《はふ》り込む、石でも岩でも破片でも、すつかりぱくつ[#「ぱくつ」に傍点]と食つてしまふ。そしてこの恐ろしい怪物の顎は噛み碎き、呑み込みはじめる。地面まで垂れてゐる腹もぐい/\呑み込んで、肛門の所からは、岩と石が後から後から、果てしもなく流れ出て來る。  上の方を見ると、崩れ落ちる岩石の間に、汗水《あせみづ》垂らした惡鬼《あくき》のやうな人間が、大勢よろ/\してゐる。鎖を引張つてゐる。叫ぶ。咆える。がらくたの山は、この連中の足の下から、見る/\中に減つて行く。融けるやうに低くなつて行く。さあ急げ、岩石は早くどけてしまはなければならん。岩石は怪獸の糞だ。  一方では又、泥だらけの一團の人間が、怪物の口の下を潜つて、大|鑿《のみ》を揮ひ、穴を穿ち、掻き出してゐる。怪物の爲めに地均《ぢなら》しをするのである。荒い呼吸《いき》を吐きながら、枕木やレエルを運ぶ連中もある。枕木は横たへられ、レエルは螺旋釘《ねぢくぎ》で止《と》められる。すると怪物は前進するのである。  怪物の泥まみれの身體《からだ》には、脇腹にも、腹にも、もつくり高い背中にも、ちつぽけな人間がぶら下がつてゐる。この連中は、坑道の天井でも、兩壁でも、底でも、突出して來る岩塊にでも、穴を明ける連中だ。必要があれば直ぐその穴へ爆發藥を詰《つ》めて、爆破する。  掘鑿機の頭の方では、こんな無茶苦茶な活動が演じられてゐるが、尻尾の方でもこれに劣らぬ無茶苦茶な活動が演じられる。尻尾から果てしなく流れ出る岩石を處分するのである。ぎり/\三十分の間に片附けてしまはないと、この怪物は後退が出來ない。怪物は二百メエトルづゝ後退して、爆破のすつかり收まる迄待つて控へてゐるのである。  それから、始終行つたり來たりしてゐる鐵格子の臺が、大きな岩を載せて怪物の腹の下に近づくと、直樣《すぐさま》それへ荒くれ男が一齊に跳《と》び付いて、人間の力では持上げることが出來ない大きな岩塊にぶら下がる。この鐵格子の臺は、掘鑿機の後方十歩の所まで行くが、これに乘つてゐる連中は、其處まで行く間に、大岩塊をぐる/\卷きにしてゐる何本もの鎖を、怪物の背中から幾つも出てゐる起重機に引つ掛けてしまふ。すると起重機は岩塊を持ち上げてしまふ。  ところで、始終行つたり來たりしてゐる例の臺は、さして大きくない石や岩の破片だと、鐵の低い貨車の傷だらけなやつへ、それをから/\ざら/\投げ込む。この貨車は、炭坑に使ふ箱車とそつくりで、それが長い行列を作つて、半圓形の連絡《れんらく》レエルによつて左から右へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて來る。石や岩をすつかり積み込める程の數で、鐵格子の臺の向うにずらりと並んでゐる。この澤山の貨車を引くのは、蓄電池《ちくでんち》で動く坑道用電氣機關車である。眞蒼になつて、唇に泥の泡を吹いてゐる人間の塊りが、この墓や箱車の周園によろけながら、掘り返し、轉がし、掬《すく》ひ上げ、呶鳴り合ふ。その上を容赦なく探照燈の光が照らし付ける。嵐のやうに、通風機《つうふうき》から吹き付けて來る。  掘鑿機《くつさくき》の附近では慘《むご》たらしい戰鬪が行はれてゐる。毎日負傷者が續出する。又屡々死人がある。  四時間に亙る狂亂が終ると、皆交代する。ぐた[#「ぐた」に傍点]/\に疲れて、自分の汗でうだつてゐる。心臟が弱つて、顏色は眞蒼《まつさを》で、まるで人心地は無い。貨車の中の濡れた岩の上にばつたり倒れる。その儘直ぐ死んだやうに眠ると、地上に來るまでは眼が醒めないのである。  勞働者達は歌を歌ふ、その歌は、いづれこの連中の一人が作つたものである。かういふ文句で始まる。 [#ここから2字下げ] トンネルの奧地獄では いつも神鳴《かみな》り焦熱地獄 なんと兄弟、地獄の熱さ 一弗割増し一時間 一時間なら一弗増しよ マックから出るおいらの汗代《あせしろ》 ………… [#ここで字下げ終わり] 「地獄」を逃げ出してしまつた勞働者の數は何百人とも知れない。又、一寸働くと、直ぐ全然の癈人になつてしまつた者も大勢あつた。けれども、後から/\と新手《あらて》はやつて來た。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し]  小型《こがた》の坑道機關車が、岩や石塊を積んだ箱車を引張つて、トンネルの中を何キロメエトルも、ごと/\行くと、鐵道貨車の待つてゐる場所に着く。箱車は片端《かたつぱし》から起重機で吊上げられて空《から》つぽにされる。貨車が滿載されると、列車は出發する――一時間十二三囘も列車が出る――同時に入れ違ひに、材料と人間を滿載した新手《あらて》の貨物列車が代りに入つて來る。  亞米利加側の地下道は第二年の終り頃、九十五キロメエトル進んでゐた。そしてこの長い全距離に亙つて、死物狂ひの勞働が行はれてゐる。アランは絶えず鞭撻《べんたつ》して、最大の緊張を持續させてゐる。毎日、毎時、最大の緊張を續けさせる。命令されただけの能率を擧げ得ない技師はどし/\罷《や》めて貰ふ。息が續かなくなつた勞働者は、どし/\解雇する。  鐵の箱車がまだがら/\と走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、爆破されたばかりの地下道に、土砂や石の破片が一杯で、百雷のやうな音響さへまだ歇《や》まない中に、もう一方では反射鏡の光に照らされて活動してゐる一團がある。梁材や支柱や板などを引摺つて行つて、崩れ落ちる岩石に地下道が損じられないやうにする。又、電線を取付けたり、水や空氣の導管を一時的に引いたりしてゐる工夫連中もある。  貨物列車が來ると、處々で人夫團が飛びかゝる。材料を車から下して必要の場所へ配給するのだ。材料とは梁材、板、鎹《かすがひ》、鐵の支柱、螺旋、管、電線、大鑿、爆發藥筒、鎖、軌條《レエル》、枕木などである。  更に又、三百メエトルの間隔を置いて、支柱と支柱の間に活躍してゐる薄汚ない格好をした一團がある。手に/\鑿《のみ》を揮つて、人間の背丈《せたけ》ぐらゐの凹みを岩壁から抉《ゑぐ》り取つてゐる。轟々と貨車が來れば、直ぐ支柱の間に避ける。間もなくその凹《へこ》みが深くなると、もう貨車が來ても避ける必要が無くなる。更に五六日|經《た》つと、岩壁はがらんどうの音がするやうになり、やがて崩れ落ちて穴が明き、出て見ると平行地下道で、この平行地下道にも列車が同樣に走つてゐる。かうして一つ横穴が出來ると、更に三百メエトルだけ進んで、又新しい横穴を穿《うが》ち始める。  この横穴は通風《つうふう》の爲めであるが、勿論、その他にも色々の役に立つ。  更にこの一團を追ひ蒐《か》けて、後へ/\と立※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る別の一隊がある。その任務は、この狹い連結路をセメントで綺麗に壁張りする仕事である。年來り、年去つても、相變らず同じ仕事をしてゐる。けれども二十番目毎の横穴はその儘に手を付けないで置く。  進め、前進だ。  一つの列車が轟々と走つて來て、第二十番目の横穴の前で停まる。眞黒に汚れた連中が貨車から跳《と》び降りて、鑿《のみ》、鶴嘴《つるはし》、鐵の支柱、セメント袋、レエル、枕木等の材料を素早く横穴へ擔ぎ込む。その間にも、もう後から來た列車が何列車か停車して、待ち切れず、盛んに笛を鳴らして催促する。急げ、急げ。材料の運搬が終ると、この列車は出る。後からの列車も通つて行く。黒光りの連中は、すつかり横穴に入つてしまふ。鑿が鋭く叫ぶ。爆《は》ぜる音がする。岩が裂ける。地下道はどん/\擴がる。この地下道はトンネルの本道に斜《なゝ》めに掘られて、天井も壁も底も、鐵とコンクリイトである。やがて線路が一本此處を通る。待避線《たいひせん》である。  かういふ待避線がどし/\出來て、非常に便利となつた。即ち、絶えず往復してゐる材料列車と岩石列車とを、六キロメエトル目の所で、一方の地下道から他の地下道へ、都合の好いやうに移すことが出來るやうになつた。  一口に言へば何でも無い、この待避線《たいひせん》を作るといふ簡單な事によつて、工事設備一切を、六キロメエトルの距離ごとに區切つて、進捗させるやうになつた。  大梁材と角柱と支柱と横木とで出來た六キロメエトルの長い森は、その六キロメエトルが一齊に變つて、鐵骨と鐵筋で組立てた六キロメエトルの森となつた。  地獄があれば、煉獄もある。だから、トンネル工事に「地獄人」があつて、又「煉獄人」もあつた。即ち右に述べた工事の現場は「煉獄」と呼ばれてゐたのである。  この工事を始める事になると、この區域に列車の通行は禁じられてしまつて、何臺とも知れない貨車がぞろ/\ごろ/\入つて來る。貨車には人間が鈴生《すゞな》りである。忽ち色色な場所で、一齊に戰鬪が開始される。砲撃のやうな音、合圖《あひづ》の號笛、探照燈の稻妻。坑道が爆破されて、必要な大きさまで縱横に擴げられるのである。裝甲戰艦《さうかふせんかん》に砲彈の命中したやうな音である。地下道の底にある鐵の支柱もレエルもがん[#「がん」に傍点]/\鳴る。地下道内は、朱を塗つた鐵の洪水だ。鐵骨と鐵板。皆ペンシルヴァニア、オハイオ、オクラハマ、ケンタッキイ等各地の工場で鍛へ上げられたものである。使ひ古しのレエルは引き剥《は》がされ、ダイナマイトやメリナイトが坑内一面を引裂いてしまひ、鶴嘴《つるはし》とシャブルがびゆうびゆう動く。危《あぶ》ねえぞ。咆《ほ》える聲と喘ぐ音。歪《ゆが》んだ唇。膨《ふく》れ上つた筋肉。びく/\痙攣する|顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]《こめかみ》の青筋は、蝮《まむし》の蜿《うね》るやうだ。身體と身體がぶつかり合ふ。この連中は底板を引摺つて來る。底板はT字形を二つ並べた格好のがつしりした鐵板で、トンネル列車のレエルを支へるものであるが、トンネル鐵道は單軌式であるから、T二つで好い譯である。さて又技師連中は、測量の機械器具を持つて、地面に腹這ふ。全身の神經を緊張させて働いて、半裸體の身體は汗が幾條も流れて縞になつてゐる。長さ四メエトル、足の高さ八十センチ、底板は兩端を一寸|上向《うわむ》きに曲げられると、コンクリイトの中にべつたり浸《つ》けられる。船の龍骨《りうこつ》が作られるやうな具合で、次々に底板が並べられ、それを片端から、コンクリイトの洪水が沈めて行く。枕木が置かれる。それから、一本の藁を曳く蟻の群のやうに、大勢の男が息を切らし、膝を曲げて曳いて來るのは、三十メエトルのがつしりしたレエルで、これが枕木の上に据ゑ付けられる。その後から、重い鐵骨を、這ふやうにして曳いて來る一團がある。この鐵骨で、トンネル全體へ鐵の枠《わく》を張り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]さうといふのである。大體|楕圓形《だゑんけい》に組立てられてあるが、底の方は少し平らである。鐵骨は四つの部分から成つてゐる。底が一本、兩側が二本(これは壁柱の部分だ)、それから天井が一本、圓天井である。どれもこれも一|吋《インチ》の太さの鐵で作られ、がつしりした架構裝置《かこうさうち》で組合されてゐる。綴釘機《しめつけき》ががらがらと動き出すと、坑道全體が鳴動する。次々と鐵骨が箝《は》め込まれて行く。朱塗りの鐵格子が、地下道の周園を締め付けて行くかと思ふと、もう直ぐその後から左官《さくわん》が鐵骨の枠を攀ぢ登り始める。トンネルの内側全體をコンクリイトで塗り潰す。一メエトルも厚い鐵筋コンクリイトの鎧《よろひ》を着せる。如何なる壓力にもびくともしないやうにする。  がつしりしたレエルの兩側には正しい間隔を置いて、大小の管が何本も置かれ、鍛接されたり、螺旋釘《ねぢくぎ》で緊《し》めつけられたりする。電話線、電信線、電力線、途方もなく太い水道管と通風管。空氣はトンネルの外にある機械によつて一日中間斷なく地下道内へ押し込まれる。それから、壓搾《あつさく》空氣による超特急郵便の特殊な管がある。かういふ色々な管は皆、砂と砂利《じやり》で掩はれて、その砂利の上に敷かれる枕木とレエルとは、日常の工事の材料を積んだ貨物列車を走らせるものであるが、勿論、材料や岩塊を積んだ列車が急行しても大丈夫なだけの、しつかりした線路である。  つい今の今、一番最後の鐵骨が綴釘《くぎ》を打たれたばかりなのに、もうその六キロメエトルの區域には、忽ち線路が出來てしまふ。すると列車がどし[#「どし」に傍点]/\入つて來て、どし[#「どし」に傍点]/\通過して行く。けれども一方にはまだ左官の連中が、鐵骨の枠《わく》にぶら下《さが》つて壁塗りをしてゐるのである。  かくして、あの掘鑿機《くつさくき》が鳴り轟いてゐる掘進坑路から、三十キロメートル迄の箇所はまだであつたが、それからこつちは全部、地下道の鐵の骨組が完成してしまつた。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  かうしてどし[#「どし」に傍点]/\出來て行くが、これだけでは濟まない。豫《あらかじ》め考へて置くべきことが色々澤山ある。亞米利加からのトンネルと、ベルムダ群島から片麻岩を突破して來るトンネルとぴつたり出會ふことが出來た時、その時始めて地下道全距離が役に立つやうになるのである。  アランの計畫は極く細かい事まで、すつかり幾年前から考へてあつた。  二十キロメエトル毎に、岩山を切り開いて、小さい停車場を作り、線路番を配置する。六十キロメエトル毎には、中ぐらゐの停車場を、二百四十キロメエトル毎には大停車場を作ることにした。大中小何れの停車場も、豫備蓄電槽、機械、食料品を置く。大中の停車場には、別して變壓機《へんあつき》、高壓線の機械、冷却裝置、通風裝置の機械を置くことにする。更に又、列車の進む路を變へる爲めに、横に拔ける地下道も必要である。  かういふ種々の仕事に對して、それ/″\目的を異にした勞働者團が編成され、海底の岩山に食つてかゝつて、素晴らしく多量の岩石を切り取つた。  トンネルの口は夜も晝も岩石を吐き出した。大活動の眞最中の火山のやうであつた。ぱくつ[#「ぱくつ」に傍点]と明いたトンネルの口から何か一杯積んだ列車が續々猛烈な勢ひで飛び出して來た。胸がすつ[#「すつ」に傍点]とするやうな輕妙さで、坂を昇つて來て、忽ち上に昇り切つて、ぴたりと止まる。岩石やがらくたと見えてゐたものが、急に、貨車の上でむく/\動いて、眞黒々に汚れた、誰とも見分けのつかない人間が、列車から飛び降りる。さて本當の岩石を積んだ列車は、幾度も待避線《たいひせん》を通つて來るが、此處からもつと先まで行く。大迂※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながらマック・シテイ(トンネル都市はニュウ・ジャアシイで俗にかう言はれてゐる)を通り拔けて、やがて海岸にある無數の線路の一つに入れられて、其處で岩石をすつかり下ろすのである。この海岸にゐる連中は、海岸の終點へ來ると、皆景氣好く騷いでゐる。所謂「氣樂な仕事」をしてゐるからである。  マック・アランが今日迄に掘出した岩石は、延面積二百平方キロメエトルあつて、紐育からバッファロオ迄の石垣を作るに十分である。アランは世界一の石坑王となつた譯であるが、しかも、シャブル一杯の破片でも無駄にしない。廣大な地面の地均《ぢな》らしに使つてゐる。段々に侵蝕《しんしよく》されてきた海岸を、これによつて平らにし、淺瀬々々を幾キロメエトルかの遠方まで埋め立てゝしまつた。それから、深くなつた海の中へ、昔の沖合へ、どし/\岩石を沈める。毎日何千車といふ岩石をぶち込む。その中に段々、巨大な突堤《つゝみ》が海に突き出すやうになつた。これがアランの港の波止場《はとば》である。アランの計畫はかういふものを幾つも作る事であるが、しかもそのアランは、未來の都市云々といふ大法螺《おほぼら》を吹く男だと今迄は思はれてゐたのである。又此處から二哩の地點では、アランの部下の技師連が世界の何處にも無い最大の、最も均齊《きんせい》のとれた海水浴場を建設してゐる。素晴しく大きい海水浴ホテルを建てることになつてゐる。  けれどもマック・シテイは一面の切石ばかりの廣大な原で一木一草も生えてゐない。一匹の獸も一羽の鳥もゐない。日光に照らされるとぎら/\光つて、眼が痛くなる位である。ところが、この荒野には、ずつと遠くまで鐵道線路が敷設された。兩側へ扇形《あふぎがた》に延びてゐる線路は鐵の粉が磁石の極の所で作る磁力線に似てゐる。何方《どちら》を見ても汽車が走つてゐる。電氣機關車もあれば蒸氣機關車もある。何方を見ても機關車が濃《こ》い煙を立てたり、咆えたり、警鐘を鳴らしたり、號笛を吹いたり、警鈴を鳴らしたりする。沖を見れば、アランの計畫では臨時の港ながら、煙を立てる汽船や、高い帆を張つた帆前船が何隻でも群がつてゐる。鐵、木材、セメント、穀類、家畜、あらゆる種類の食料品などを、市俄古、モントリオオル、ポオトランド、ニュウポオト、チャアルストン、サ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ナ、ニュウオルレアンス、ガル※[#濁点付き片仮名ヱ、1-7-84]ストン等の各地から運んで來るのである。北東には煙が厚く壁のやうになつてゐて、先は全く見えない。材料列車の發着驛なのであるが、たゞ煙ばかり見える。  工事開始當時のバラックはすつかり無くなつてしまつた。線路の脇の高臺には硝子屋根が幾つも光つてゐる。機械工場と發電所だ。それに隣接するのは、塔のやうに高い事務所ビルディングだ。この石の原の中央に聳える二十階建のホテルは、「大西洋トンネル」といふ名である。眞白な、新築したばかりのこのホテルは、技師連中、大商會の代理人や、代表者などの宿に充《あ》てられるが、又日曜毎に紐育から押掛けて來る何千人の見物もこれを利用する。  これと相對して、ワナメエカア會社が間に合せに建てた十二階建の倉庫がある。廣い通りも完全に出來上つて、眞直《まつすぐ》に荒野《くわうや》を貫いて走る。線路の上には、幾つも橋が架《か》かつてゐる。この石の原の周圍には、打つて變つて住み心地の好さゝうな勞働者町が出來てゐて、學校、教會、運動場は勿論、酒場もあれば飮み屋もある。かういふ店の經營者は、拳鬪選手上がりの男や、自動車競爭の選手だつた男などである。この町からずつと離れて、低い松林の中にたつた一つ、置き忘れられたやうに、死んだやうに、一つの建物がある。猶太人の集會堂みたいである。火葬場である。長いがらんとした廊下が幾つかある。一つの廊下にはもう骨甕《こつがめ》が並んでゐる。その甕《かめ》には英國人、佛蘭西人、露西亞人、獨逸人、伊太利人、支那人などの名前があつて、その名前の下にある文句は皆大抵同じである。大西洋トンネル工事に於て「爆破工事中遭難す――爆破の際――埋沒さる――列車に轢殺さる」などとあるが、大抵|似寄《によ》つてゐる事は、丁度戰死者の文句が似てゐるのと同樣である。  海の直ぐ傍には、白い新しい病院が幾棟《いくむね》も立つてゐる。最新式の設計である。少し離れてその下に、新築の別莊がある。その庭もまだ作つてから間が無い樣子である。モオドの住居であつた。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  モオドは、華奢《きやしや》な手に出來るだけ澤山の仕事を引受けてしまつた。  第一に、マック・シテイの婦人子供療養所の所長だつたし、それから、醫師と女醫の組織する委員會の一人となつた。これは、勞働者住宅の衞生問題やら、産婦及び乳兒の看護、養育なぞを目的とするものである。その他、モオドが主になつて經營してゐたものに、若い娘達の爲めの手藝及び家政學校、幼稚園、細君連と娘達だけの倶樂部等があつた。この倶樂部では、毎週金曜日に、一寸した講演や、演奏會などが行はれた。モオドは仲々忙しい身體であつた。アランと同樣、「事務所」を持つてゐる。そして女祕書と、タイピストを一人づゝ使つてゐる。かうした一切の事業にモオドの應援をする者は、大勢の看護婦、及び女教師――とは實は紐育上流社會の令孃達――であつた。  モオドは誰に對しても出しやばらない。遠慮深く、深切で快活で、他人の運命にはいつも心から同情したから、誰もモオドを好いたものであるし、又モオドを尊敬する者さへ大勢あつた。  モオドは衞生委員會の一員として、殆どあらゆる勞働者の家庭に出入した。伊太利人町、波蘭人町、露西亞人町では、不潔物と毒蟲《どくむし》退治《たいぢ》に全力を注いで、しかも立派な成績を擧げることが出來た。どの家も時々|消毒劑《せうどくざい》を撒布《さんぷ》し上から下まですつかり綺麗に掃き出すことを強制してやらせた。どの家も殆ど大部分がセメントで出來てゐるから、まるで水洗場のやうにどし/\洗へた。度々勞働者の家庭を訪問したから、皆との間も親密になり、そしてモオドは機會さへあれば、力の及ぶ限り皆の者に助力と忠告を與へて遣つた。やがて、モオドの家政學校は滿員となつた。料理と裁縫には、優秀な女教師を雇ひ入れた。かういふ風に自分の經營する事業に就いては、常に目を放さないで、その管理や監督を忘れなかつた。又モオドは、必要な學理的知識を吸收しようと思つて、實に澤山の參考書を、悉く讀破してみた。すると、あらゆる方面に亙つて優秀な成績を擧げることは、自分には少し荷が勝ち過ぎてゐる、とつく/″\悟つた。殊に、生來あまり組織的才能に惠まれてゐなかつたモオドであるから、尚更樂ではないのである。それはともかく、どうやらかうやら仕事は續いた。モオドの事業に對して各新聞が讃辭を呈すると、モオドは大いに得意になつた。  けれどもモオドが最も力を注いだのは、婦人子供療養所であつた。  療養所の建物は、モオドの別莊の直ぐ傍である。庭を二つ通り拔ければいゝ。毎朝九時になると、必ず遣つて來て、一わたり見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。自分が世話をして人間一人々々の事を、皆一々よく心に掛けてゐたから、療養所の豫算が無くなつた場合には、自分の財布からお金を出すことも屡々であつた。モオドがとりわけ優しい心遣ひを與へたのは、委託された子供達であつた。  かうしてモオドは、仕事と、喜びと、結果とを持つた。人間と人生に對する交渉は、一層度繁くもなるし、一層實績を結ぶものともなつたが、モオドの眞意を打割つて云へば、この一切を引括《ひきくる》めても尚、結婚生活の幸福と引替へにはならないといふのである。  アランと結婚して、二三年は全く幸福に暮した――けれどもその中に、トンネルが出て來て、アランをモオドの手から奪ひ去つてしまつた。勿論、アランはまだモオドを愛してゐる。それは確かである。慇懃で、優しくしてくれる。それには違ひない。けれども、もう、以前のやうな事は無い――これは決して嘘《うそ》や僞《いつは》りでない。  工事開始の當時から比べると、この頃の方が夫《をつと》の顏を見る機會は多い。アランは勿論紐育の事務所を其儘に持つてゐたのであるが、トンネル都市に仕事部屋を設けてからは、ちよい/\間を明ける事はあつても何週間も續けてトンネル都市にゐるのであつた。だからこの點に就いてはモオドから何の苦情も出ない筈である。けれどもアランの人柄《ひとがら》が變つて來た。結婚當時モオドをあれ程に驚かせ、悦ばせた、あのアランの無邪氣さや心からの快活などは、どし/\消えて無くなつた。家庭の中でも、まるで、仕事や集會の時のやうな眞面目臭つた顏をしてゐる。勿論自分でも以前のやうな快活な上機嫌な態度を見せようと力《つと》めてはゐるが、どうしてもうまく行かない。ぼんやりしてしまふ、事業の事ばかり考へるからである。アランの眼から離れないのは、いつもたつた一つの事を考へる爲めに生ずる、全く放心した眼付である。顏付は痩せて刺々《とげ/\》しくなつてしまつた。  夫《をつと》の膝に抱かれて愛撫された時代は、もう過ぎてしまつた。勿論、今も來たり歸つたりする度に、接吻はしてくれるし、ぢつと眼を見詰めてくれるし、微笑しても見せるけれど――何處か昔と違つた夫である。さう思つたモオドの感じは、當つてゐた。それは次のやうな事があつたからである。不思議な事には、眼が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るやうに忙《いそが》しいけれど、一年中の「重大な日」を、悉く一日たりとも忘れなくなつた。エディスの誕生日とか、モオドの誕生日とか、結婚日とか、クリスマスとか、さういふ日を忘れない。その中にモオドは、或る日偶然に發見した夫の手帳には、さういふ日だけ赤い線が引いてある――これを見てモオドは仕方無しに苦笑を洩らした。夫は機械的にその日を忘れまいとする、温《あたゝ》かい心から毎日それを思つてゐるのではない。  これでは結局、モオドの立場はお友達同志の立場と變りが無い。お友達の御主人は、一日中工場なり銀行なり實驗室なりでせつせ[#「せつせ」に傍点]と働く一方、隨分大事にしてくれて、レエスや眞珠や毛皮で飾つてくれたり、時には劇場へ案内してくれたりするけれど、その御主人の心といふものは、仕事ばかりを考へるものだ、と聞いてゐる。世の中は大抵さうしたものである。けれども、モオドは、その大抵さうしたものが、堪らなく恐ろしいのである。いつその事、貧乏で、人には知られず、世の中から懸け離れてゐたい――その代り何時までも愛され、何時までも優しくされてゐたい。これがモオドの願ひであつた。時には莫迦《ばか》らしい願ひだと思つたが、矢張り捨て切れない願ひであつた。  モオドはよく、仕事が濟んでから、編物《あみもの》をしながら色々の考へに耽つた。そんな時いつも思ひ出すのは、アランに結婚を申込まれた頃の事であつた。思ひ出の中に現はれるアランは、いつも若々しく率直だ。婦人との交際法を全然知らないのであるから、戀を打明けるのに何か獨創的な事を考へ付く筈が無い。花束、書物、音樂會と芝居の切符《きつぷ》、一寸した素振り――極く平凡な事ばかりであつた。而もアランのそんな態度は皆、モオドには嬉しかつた。現在では尚更の事、嬉しく思ひ出される。最初はそんなアランであつたが、その中に思ひ掛けなく、急に態度を變へて、それからは現在のアランに似た點が、どん/\出て來た。その變り目はかうである。或る晩の事、モオドは兎角返事を避けたのであつたが、アランはきつぱりした調子で、殆ど不作法《ぶさほう》とも言へる位の調子でかう言つた。「よく考へて見て下さい。明日の五時まで猶豫して上げますがね、それでもまだ決心が付かないんでしたら、僕はもう決してこの事は申上げない事にします。左樣なら。」翌日、きつちり五時に遣つて來た。……この時の場面を……思ひ出すと、モオドはいつも微笑してしまふ。けれども又忘れる事の出來ないのは、アランがあゝ言つて歸つてしまつたその夜から、その翌日の五時までの間、來るか來ないかの心配で大變だつた事である。  トンネルが夫《をつと》を奪つてしまつて、遠くの方へ連れて行けば行く程、モオドの方では、益々頑固に、益々しつこく昔の事ばかり思ふのであつた。しつこく思へば思ふ程、嬉しくもあれば辛《つら》くもあるのだが、始めの頃の二人の散歩や、二人の話や、それから又、新婚當時のちよい/\した經驗、皆たはいも無いがしかも意味の深い經驗、かう言つたものが、思ひ出されてならなかつた。モオドはトンネルが憎くなつた。自分よりも強いトンネルだからである。昔こそは、夫《をつと》が偉《えら》くなつて呉れるやうにと思つたが、そんな虚榮心みたいなものは、今はもうモオドの心中にほんの少しも無くなつた。アランの名が五大陸に響かうが響くまいが、もうモオドにはどうでも善くなつた。夜になると、火事のやうなトンネル都市の反射が、モオドの部屋から見える。鬼火のやうに見える。すると憎くつて憎くつて堪らなくなつて、窓の戸をすつかり締めて、その照り返しが見えないやうにする。口惜《くや》しさ嫉《ねた》ましさに泣きたくなる。又實際人知れず涙を流すモオドであつた。地下道の中へ突進する列車を見ると、モオドは首を振つた。まるで氣違ひ沙汰ね、トンネルなんて。でもアランにして見れば、これ程分り切つた話は無いと言ふんだわね。けれども、色々かういふ事はあつたけれど、やがて又優しいアランになつて歸つて來て貰ひたい、といふ望みを懸けて、モオドは、その望みゆゑに氣を取直すのであつた。いつかは、トンネルもアランを返してくれる。最初の列車が通ることになれば…… 「でもそれは、まだずつと先の事なんだわ。」モオドは溜息をついた。辛抱しませう。辛抱しませう。差當つてモオドには、あゝいふ忙しい仕事があつた。可愛いエディスもあつた。もう仲々小まつちやくれて、大人みたいになつて、世の中といふものを物珍らしさうに、悧巧な眼付で眺めてゐる。又アランの遣つて來る事も一頃と比べれば、餘程多くなつた。それにホッビイが來てくれる。殆ど毎日モオドの家で食事する。色々な常談《じやうだん》を言ふホッビイで、話相手には持つて來いである。それから又、家の中の事も、モオドの身體が益々入用になつた。それはアランがよくお客を連れて來るからである。皆有名な人物で、アランはその有名な名前に敬意を拂つて、トンネルの中に這入る事を許して遣るのであつた。かうした訪問客がある度に、モオドは悦《よろこ》んだ。名士といふものは大抵老紳士で、皆、言はゞ單純な人ばかりであつたから、實に附合ひ易かつた。中には大學者もあつて、地質學上、物理學上、工學上などの質問をアランに向つて發して見たり、又器械を携へて何週間も、海面下何千メエトルの停車場に泊《とま》つて、何かしきりに探し出さうとしたりするのであつた。かういふ有名な人物に對しても、アランは妻やホッビイに對する態度と、同じやうにするのである。  けれどもこの偉《えら》い人物は、皆歸る時になると、アランに丁寧に頭を下げたり、握手したりして、非常に感謝して行つた。するとアランはいつもの通り、謙遜な、いかに好人物らしい微笑を浮べて、 「いや、どうも、失禮しました。」  と言つて、又お大事にお歸りなさいなどゝも言つた。かういふ人達は大抵遠方の人だつたからである。  或る時一人の貴婦人がモオドの所へ遣つて來た。 「エセエル・ロイドでございます。」  その貴婦人はかう言つて、面紗《ベエル》を外《はづ》した。  まつたく、本當にエセエルであつた。エセエルは顏を赤くしてゐる。モオドとの間柄は、突然訪問してもいゝやうなものでは無かつたからである。モオドの方も矢張り顏を赤くした――相手のエセエルが顏を赤くしたからでもあるし、又、エセエルを見た瞬間、不躾《ぶしつけ》な女だといふ考へが、ちらつと浮んだからでもあるし、その考へを眼付でエセエルに讀まれてしまつたらうと思つたからでもある。  顏を赤くしたが、エセエルは直ぐ立ち直つた。 「わたくし、あの、奧樣のなすつていらつしやる學校の事を、いろ/\な所で讀みましたの」  と口を切つたが、話し振りは仲々上手に流暢である。 「ですから、わたくし、御經營の實際を見せて頂きたくなつたのでございますの。實はわたくしも、紐育で矢張り同じやうな事をして居るんでございますが。」  エセエル・ロイドの樣子には生れ付きの自尊心と、見るからに具《そな》はつた品位があるけれど、相手に決して不愉快な感じを與へるものではない。それに、わざとらしくない明けつ放しな所と情の深い所もあつて、誰もこれには感心するのである。數年前にアランの心を惹いた子供らしい所は無くなつて、すつかり一人前の貴婦人になりきつてゐる。以前の美しさは何處となく甘いやうな、なよ/\とした風情であつたが、もう爛熟した美しさになつてゐる。數年前の印象は、パステル畫といふ風であつたが、今はもう眼も、口も、髮の毛も、何も彼《か》もはつきりとして、一々光つてゐるやうに見える。顎の水疱疹は目立たぬ程に擴がつて來て、心持ち少し色が濃くなつたやうであるが、エセエルはもう白粉で隱さうともしないのである。  モオドは案内に立つた。禮儀上から案内したのである。エセエルを連れて行つて見せたのは病院、學校、幼稚園、婦人倶樂部の質素な部屋々々などであつた。エセエルは何を見ても嘆賞したが、よく若い貴婦人が言ふやうな、あんな大袈裟《おおげさ》な讃辭を呈することはしなかつた。最後にエセエルは、何かお手傳ひ出來ませんでせうか、如何でせう、と訊ねた、これはエセエルが實に好い氣持だつた事の證據である。エディスとおしやべりする事になると、エセエルの話し振りは堂に入つたものであつたから、子供は忽ちこのお姉ちやんが大好きになつてしまつた。モオドはエセエルに對して、何となく蟲が好《す》かないといふ、別に理由も何も無い反感を抱いてゐたが、かうなるとその反感もどうやら無くなつて、エセエルを晩餐に引留めたものである。エセエルは「お父樣」に電話を掛けて、御馳走《ごちそう》になることにした。  食事にはアランがホッビイを連れて來た。ホッビイが來たので、エセエルは大いに助かつた。默んまりむつつりのアランだけだつたなら、とても助からない所だつたのである。エセエルは話の中心になつた。モオドの施設《しせつ》を褒める調子が、午後は簡にして要を得てゐた――若い貴婦人流の大袈裟でなかつた――けれど、今度は無暗に褒め立てるのである。モオドは又疑ひ出した。「アランを目當てにおしやべりするんだわ。」と思つた。けれども何より嬉しかつた事には、アランのエセエルを見る態度は、やつと禮儀を失はない程度のものであつた。美しい、甘やかされたエセエルを見るアランの眼は、まるでタイピストを見るのと同じく、冷淡無頓着な眼である。 「わたくし、婦人倶樂部の圖書は、まだ少し足りないやうに存じますけど。」  と、エセエルは言つた。 「えゝ、追々にすつかり揃へたいと思つて居ります。」 「では奧樣、わたくしにも寄附させて頂けませんかしら、少しばかりの本でございますが。あの、ホッビイさん、あなたからもお願ひして見て下さいな。」 「どうぞ、もし餘分の御本でも御座いましたら。」  とモオドは言つた――  すぐ其翌日、エセエルから屆けたのは大變な荷物である。それが皆本で、五千册ぐらゐある。モオドは心から禮を言つた。けれども、そんな丁寧な挨拶をするんではなかつたと後悔した。それ以來エセエルが足繁く遣つて來たからである。おまけにエセエルは、モオドとひどく仲好しになつたやうに振舞ふ。エディスちやんにはお土産をどつさり持つて來る。やがてその内、アランに向つて、何時かトンネルに連れて行つて下さいませんかと言ふ。  アランは吃驚してエセエルを見詰《みつ》めた。貴婦人からこんな事を言はれたのは、これが始めてだつたからである。 「それはいけません。」  アランの返事は簡單で、殆ど不作法とも言へるものであつた。  けれどもエセエルは別に氣を惡くしたやうな樣子も見せない。屈託《くつたく》無ささうに笑つてから言ふ。 「まあ、お氣に障《さは》つたんでしたら、御免下さい。」  それ以來エセエルの足は少し遠くなつた。これにはモオドも不服は無い。エセエル・ロイドを好きになる事は到底出來ない。どう骨を折つて見ても、好きになれない。モオドといふ女は、又一方、本當に好きな人間だけを交際の相手とする、狹い料簡の女である。  この點から言つて、ホッビイに來て貰ふと、モオドは大變嬉しかつた。ホッビイは毎日モオドの家に遣つて來た。晝食も晩餐もした。アランが居ようと居まいとお構ひ無しである。その中にモオドは、ホッビイが來ないと何だか物足りないやうになつた。アランが傍にゐてさへ、時々物足りなく思ふのであつた。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し] 「ホッビイさんて、いつも御機嫌の好い方ね。」  と、近頃よくモオドが云ふのである。  するとアランは答へる。 「あれは昔から面白い男だよ。」  さう云つて笑つて見せる。そして別に氣振《けぶ》りも見せないが、アランはちやんと氣が付いてゐる。モオドが度々ホッビイの機嫌を云々する裏には、夫《をつと》に對する輕い非難があるのだとは氣がついてゐる。けれどもアランは、ホッビイではない。ホッビイのやうに、始終にこ/\してゐるといふ才能もなければ、あんな氣輕な氣持にもなれない。ホッビイの眞似をして、十二時間の勞働の後で黒ん坊ダンスや歌などを上手に遣つてのけたり、いろんな面白い莫迦《ばか》騷ぎを演じることも出來ない。ホッビイといふ男は何時《いつ》誰が見ても洒落《しやれ》や常談《じやうだん》ばかりの男である。ホッビイは顏中を口にして笑ふ。口の中で舌を丸めると忽ち素敵な惡口が飛び出して來る。ホッビイの顏さへ見れば、誰も彼も直ぐもう笑ふ支度だ。人を笑はせる爲めに生れて來たやうな男である。だからアランは斷じてホッビイではない。アランの身上《しんしやう》と言へば、たつた一つ、他人の遊びの邪魔をしない事だけで、自分でも始終それを心懸けてゐる。モオドに對しても、その遊びの邪魔をしないように力《つと》めたが、今はもう、まづい事になつてしまつてゐる。モオドとの關係が段々親密でなくなつたのである。アランは自分に嘘が言へない男である。だからかう思ふ、おれのやうな男は家庭を作らない方がよかつたのかも知れない――とは思ふけれど、矢張りアランは、モオドと娘が可愛くてならないのである。  ホッビイは一日の仕事をしてしまへば、それでもう用は濟む。ところがアランは決して用が濟むことは無い。トンネルが伸びて行くに連れて、仕事の方も伸《の》びて行く。しかもその上に、誰にも打ち明けたことはないが、アランだけの特別な心配があつたのである。  既にこの頃では、アランは、十五年間にトンネルを完成し得るかどうかと疑つてゐる。アランの計算によると、最も順調に運んだ場合には出來るといふのである。それなのに敢て十五年と限つてみたのは、實は自分の企てに對して、輿論の賛成と民衆の金が欲しかつたからである。萬一、二十年、二十五年の期限であつたなら、恐らく半分の金も集まらなかつたらう。  約束の期限内には辛うじて、ビスカヤ、フィニステラ間と、亞米利加、ベルムダ間の複道トンネルが、出來るか出來ないかぐらゐである。  工事開始第四年の終りには、亞米利加線の地下道が、亞米利加沿岸から二百四十キロメエトル迄、ベルムダ島から八十キロメエトル迄進んだ。佛蘭西線では、ビスカヤ灣から二百キロメエトル迄、フィニステラから七十キロメエトル迄掘つた。けれども大西洋中の線では六分の一も出來てゐない。果してどんな方法を取つたら、フィニステラ、アヅォオラ間及びアヅォオル、ベルムダ間の大距離《だいきより》を征服することが出來るのであらうか。  その上に財政上の困難が來た。ほんの豫備工事ぐらゐに思つたベルムダ島の蛇紋岩《じやもんいは》を突拔けるのに、アランの計算よりもずつと超過して、非常に費用がかゝつてしまつた。けれども第二囘目の三十億|弗《ドル》を募集することは、どんな事情があるにもせよ、工事開始第七年か、急いでも第六年かにならなければ、絶對にしてはいけない。しても見込は無い。だから今新たに借入れないで遣るとすれば、もう直き資本が心細くなつて、已むを得ず大西洋中の大距離は差當つて單道のトンネルで進める外はあるまい。工事の爲めには非常に損な單道であるが、どうも仕方が無い。單道式の工事では、岩石を運び出すのに一體どうしたら好いだらう。工夫がつかない。日一日とどし/\多くなる岩石で、今の複道トンネルでさへ塞がれてしまひさうな形勢である。岩石は何處にでも、線路の間にも、横穴にも、停車場にも轉がしてあるが、それを運ぶ列車の方は、もうへと/\に疲れてゐる。  アランは何ヶ月もトンネルで暮した。工事の能率を高める方法を發見しようとしたのである。色々な機械は、發明されたものでも改良されたものでも、先づ亞米利加線のトンネルで實驗されて、それから各地の工事現場に使用されることになつた。又亞米利加線で鍛へられて、立派な「地獄人」や「煉獄人」となつた勞働者は、その後各地へ整速手《ペエスメエカア》として送られることになつた。極く徐々にではあるが、勞働者を急テムポと熱氣とに慣らす必要があつた。かういふ訓練を經ない男が「地獄」に這入つて行けば、一時間しない中に、もうへたばつてしまふ。  どんな一寸した作業でも、すつかり熟練させようとした。これによつて體力と、金と、時とを極端に節約しようとした。最も嚴密な分業組織を行つて、一人々々の勞働者は明けても暮れても同じ作業をさせるやうにしたが、するとその勞働者は遂には全く自動的に、つまりずつと迅速に、その作業が出來るやうになつた。そして、それ/″\專門家を付けて、分擔の勞働者團を訓練し教導し、各色々な事(例へば貨車から貨物を下す事)で、レコオドを作らせ、すぐそのレコオドを以て正規の作業能率として一般に要求するのであつた。一旦失はれた一秒時間は、もう二度と取り返せない。取り返せないとなると、莫大《ばくだい》な時と金を失つてしまふのであつた。一人の勞働者が一分間に一秒でも失ふと、十八萬の全勞働者中、六萬人が作業に從事するとして、日に失はれる總時間は、實に二萬四千時間である。アランは、一年|毎《ごと》に作業能率を五パアセントづゝ高めて行くことが出來た。それでも尚、遲くつていけないと言ふのである。  アランが特に頭を惱ましたのは、掘進坑路であつた。一番奧のこの五百メエトルの場所へ、更に人員を増加する事は絶對に不可能であつた。無理に増加すれば膝の皿をぶつけ合ふだけの話である。アランは色々な爆發藥を實驗して見て、到頭、適當なものを發見した。トンネル八號※[#判読不可、131-下-6]ある。岩山を爆破して、可なり一樣な大きさの、皆|樂《らく》に運搬出來る岩塊とするものである。アランは部下の技師連中の報告を何時間でもぢつと聞いた。倦《う》むことを知らず、技師の提案を議論したり、吟味したり、實驗したりした。  まるで海からでも上がつたやうに、だしぬけに、アランがベルムダ群島に現はれた。するとシュロッセルがゐなくなつた。マック・シテイの建設本部へ遺られたのである。代つて監督の位置についたのは、三十そこ/\の英國人、ジョン・ファアベエといふ男であつた。アランは技師達を呼び集めた。それから既に現在のテムポでさへ息も絶え/″\の技師連中に向つて、仕事を四分の一だけ早くしろと宣告した。どうしてもさうしろと言ふ。アランの役目は聲明した期限を守ることである。どういふ方法にしろ、仕事をしてしまふのが技師連中の役目だと言ふ。  續いてアランは不意にアヅォオル群島に現はれた。此處の工事監督は獨逸人、ミヒャエル・ミュツレルで、二三年海峽トンネルの工事に重要な位置を占めてゐた男で實に適材適所《てきざいてきしよ》であつた。二百五十|磅《ポンド》の體重があつて、「肥《ふと》つちよミュツレル」で通つてゐた。部下の人々から敬愛されてゐた――その原因は、見るからに笑ひ出したくなる程のでぶ/\が、人氣を呼んだからでもあるが、又疲勞を知らぬ精力家といふ點が皆から畏敬《いけい》されたのである。今の所ミュツレルの地下道は、アラン及びハリマンのニュウ・ジャアシイの地下道よりも迅速に進行してゐた。始終高笑ひをし、太い聲でがらがら言ふ。山が動き出したかと思ふやうな、肥つちよのミュツレルは、素敵な幸運に矢繼早《やつぎばや》に見舞はれた。それは、ミュツレル受持の工事現場の地質が、非常に面白く、又甚だ生産的な地質であることが分つたからである。此處の地質によつて大西洋も嘗てはこの附近まで陸地だつたことが十分に證明された。素晴らしい大きな硝石層も發見されたし、鐵鑛脈にもぶつかつた。喜んだのはピッツバアク熔鑛精錬會社である。一切の鑛物の採掘權を買占めてゐた會社であるからその株は六割上がつた。會社は採掘に一仙の金も要《い》らない。たゞ會社の技師連が、これと思ふ貨車に記號を付ければ、その貨車だけ引離されるのである。會社の連中は毎日毎時また何か空前の寳物が懷へ轉げこんで來るぞとばかり胸をわく/\させてゐた。數ヶ月前ミュツレルは、厚さ五メエトルの石炭層に掘り當てたが、この男の言ふには「惚れ惚れするやうな石炭」である。そればかりでは無い。この石炭層はトンネルの軸の方向に走つてゐて、しかも何時《いつ》までも何時までも續いてゐる。ミュツレルは岩山の中をぶち拔いて突進した。唯一の敵、敵の首魁は水である。今やミュツレルのトンネルは海底から八百メエトルも深い場所であるのに、尚且つ水にぶつかるのである。そこでミュレルは巨大な旋囘ポムプを幾つも幾つも並べて、汚水の激流を海の中へ絶えず押し出した。  アランは又、フィニステラにもビスカヤにも現はれて、ベルムダ群島でやつたと同樣、是非とも期限内に仕上げねばならぬから、工事を急ぐべしと要求した。佛蘭西線工事の技師長は、ゲエラアル氏といふ白髮の高雅な紳士で、非常に才能のある佛蘭西人であつたが、これをアランは馘首《くびき》つて、その代りステファン・オリンミュウレンバアグといふ亞米利加人を任命した。佛蘭西の新聞は盛んに騷ぎ立てたけれど、アランは平氣であつた。  突然地から生えたやうに、アランは各發電所に現はれた。どんな小さい事でもすつかり調べた。だから技師連中はアランが行つてしまふと、やれ/\助かつたと安堵《あんど》の息を洩らした位である。  アランが巴里に現はれると、各新聞は何段拔きかの記事を掲《かゝ》げ、出鱈目《でたらめ》な訪問記事を掲げた。それから八日後に發表された事は、佛蘭西の一會社が、巴里、ビスカヤ間の急行鐵道敷設を許可されたといふ事であつた。之によつてトンネル列車を巴里へ直通させようとするのである。丁度この時分、歐羅巴の各大都會に一擧無數のポスタアが現はれた。そのポスタアの畫は、ホッビイの奇想が描く魔都の一つ、「アヅォオル」トンネル停車場の光景である。ホッビイの描く魔都は、或人々にはてんで信じられないで、見るといきなり頭を振るのだつたが、又他の人々には、熱狂的歡迎を受けた。すべて何時だかの亞米利加と全く同樣である。ホッビイは再び自由自在の奇想を驅使したが、殊に人から嘆賞されたのは大ポスタアの一隅に描かれたスケッチであつて、その地所の現在と將來を描いてある。シンヂケエトは細長いサン・ジョルゴ島と、小島を二つ三つと、砂洲《さしう》を幾つも/\買ひ取つたのであるが、五六年後には四倍に擴張する豫定である。島と島は、幅の廣い大|防波堤《ぼうはてい》によつて連結され、更にその集まりと砂洲と悉く合併《がつぺい》されてしまふ。一見出鱈目みたいな話であるが、アランはちやんと考へて、或る工事現場では、四千平方キロメエトルの岩石(もつと澤山土地を作りたかつたら、もつと澤山の岩石)を海中に投げ込めば、さうすれば不思議な格好の大きな島が立派に出來上ると考へてゐる。  亞米利加の夢の都と同樣に、將來の「アヅォオル」にも、築堤、防波堤、燈臺などのある、巨大な立派な港を作る。そして特に人目を惹くものは、海水浴場の美くしい全景である。ホテル、高臺、公園、見渡す限りの砂濱。  ところで、それよりも、最も人の嘆賞したのは、言はゞ人の度膽《どぎも》を拔いてしまつたのは、このシンヂケエトの要求した地價である。それは歐羅巴の經濟状態に取つては法外な値段であつた。人は騷いだが、シンヂケエトの方は落着き拂つて、歐羅巴の大資本をぢつと睨み付けてゐる。鳥を覗《ねら》ふ大蛇《だいじや》といふ形である。勿論、將來のアヅォオルが、南米方面の旅客を一手に吸收するに違ひない事は、誰にも分る話である。又見易い道理は、巴里から十四時間、紐育から十六時間で行けるこのアヅォオルが、世界最大の海水浴場となる筈であるといふ事や、英、佛、米三ヶ國の上流社會が集まる地點となるだらうといふ事である。  そこで、歐羅巴の資本は動き出した。皆爭つて地所での投機をした。廣大な區域を買つて置いて、十年後にはそれを自乘した値段で賣らうといふのである。  巴里、倫敦、リバアプウル、伯林、フランクフルト、維納などから、金がどし/\流れ出して、S・ウルフの大きな衣嚢《かくし》に呑まれて行つた。S・ウルフのビック・ポケットと言へば、誰知らぬ者も無いことになつた。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  S・ウルフはこの金をポケットに突込《つゝこ》む。資本家と民衆から來たあの三十億|弗《ドル》も、ベルムダ、ビスカヤ、フィニステラ、マック・シテイの儲けた金も、皆突込む。別に有難うとも言はない、さて當時、次のやうな警告を發した者も無いではなかつた。こんな莫大な資本が一方に偏してしまふと、破産の雪崩《なだれ》が起ると豫言したのである。然るに經濟通のかうした豫言が的中《てきちゆう》したのは、ごく限られた一小部分だけであつた。へこたれてしまつたのは二三の工業だけであつたが、それもぢきに囘復することが出來たのである。  それといふのも、S・ウルフが金に錆《さび》を生じさせなかつたからである。鐚一文《びたいちもん》も錆びさせない、寢かして置かない。金はウルフの手に這入ると、直ぐ忽ちに例の循環運動を始めるのであつた。  S・ウルフは金を全世界に送り出した。  滔々《たう/\》たる黄金の潮は、大西洋を一跳びに、佛蘭西へ、英國へ、獨逸へ、瑞典へ、西班牙へ、伊太利へ、土耳古へ、露西亞へ行つた。ウラル山脈を跳《と》び越えて、西伯利亞の森の奧、バイカルの山奧までも押寄せた。南阿弗利加、ケエプランド、オラニエ、濠洲、新西蘭を浸してしまつた。ミネアポリス、市俄古、セントルイスへ、ロッキイ連山の山奧へ、ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ダヘ、アラスカへ、到る處へ押し寄せた。  S・ウルフの弗金貨は、何十億とも知れぬ勇猛な小兵士となつてあらゆる國民、あらゆる人種の金と戰爭する。どの一片も小ウルフだ。ウルフの精神を體してゐる小兵士で、その合言葉は曰く「マネエ」。この大軍は海底電線を傳つて押し寄せる事もあれば、空中を飛んで行く事もある。何にしても戰場に到着するや否や忽ち變形する小さな鋼鐵のハンマアと變じて、欲望を燃やして夜晝躍る。又、リバアプウルの活溌な梭《をさ》と變じ、又はホッテントット土人と變じて、南阿ダイヤモンド産地の砂原を滑り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。何百馬力の機械の接續棒と變じたり、又きら/\光る鋼鐵の巨大な棒と變じて、一日二十四時間、憤然押し返さうとする蒸氣を、力み返つて押へ付けてゐる。鐵道枕木を滿載した列車と變じて、オムスクから北京に通ひ、大麥を一杯詰め込んだ船腹と變じて、オデッサからマルセイユに向ふ。南ヱエルスに行くと、運炭籠《うんたんかご》に乘つて八百メエトルの地底へ飛び込み、石炭と一緒に飛び上つて來る。世界各地の何千といふ建物の中に蹲つて利に利を生んでみたり、加奈陀へ出掛けて穀類《こくるゐ》の刈入れをしてみたり、スマトラの煙草と變じて畑に立つたりする。  それが皆ウルフ部下の小兵士で、皆戰つてゐる。S・ウルフの命令一下、スマトラを引拂つて、ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ダへ行き、金を搗《つ》き碎く。忽ち濠洲を去つて、リバアプウルの棉花取引所に大擧攻め入るのである。  S・ウルフは、片時の休息も許さない。夜畫何百囘でも變形させて兵士をこき使ふ。S・ウルフは、事務所の安樂椅子に納まつて、葉卷を噛み、汗をかく。一遍に十二三本の電報や手紙を口授する。耳には受話器を當てながら或る課の係りの男を相手に話をする。右の耳で電話の聲を聞きながら、左の耳では事務員の報告を聽き取つてゐる。事務員に一言喋つて、その次の一言は電話口へ呶鳴り込む。片方の眼で、速記者やタイピストを一わたり見て、續きを待つてゐる者があるかどうか確めると同時に、もう一方の眼で時計を見る。今こんな時間だとすると、ネリイのやつ、もう二十分も待ち呆《ぼう》けを食つてゐるし、晩餐に遲れて行つたらさぞひどい顏をするだらうと思ふS・ウルフであるが、同時に又こんな事も思ふ。あの係りの男は、金鑛株の事はからつきし駄目なんだが、ガルニエ兄弟《けいてい》株にかけてはとても目先の利く男だ。又それからS・ウルフは、もぢや/\毛の生えた、湯氣《ゆげ》の立つ頭の奧の奧で、明日は維納取引所にかゝつて行つて、見事大勝とやらかさうかな、などと考へる。  S・ウルフは毎週百五十萬弗以上の現金を用意しなければならぬ。賃銀である。又四半期毎に何億弗の現金を用意しなければならぬ。それから、三ヶ月利子と割引高である。かういふ時期になると、幾日も事務所から出て來ない。その時は戰鬪の眞最中なので、やがてS・ウルフは勝利を博して出て來るが、汗と、脂肪《あぶら》と、呼吸とをひどく失つてしまつてゐる。  部下の軍團を呼び返す。すると歸つて來るが、どの一弗も武勳|赫々《かく/\》たる小勇士で、八仙十仙二十仙の分捕品《ぶんどりひん》を携へて來る。不具者となつて歸つて來る者も多いし、又戰場にあへない最期を遂げる者も少く無い――戰ひの常である。  かういふ息を繼《つ》ぐ暇もない猛烈な戰鬪を、S・ウルフはもう何年も續けて來た。夜も晝も、正攻法、奇襲、退却のいづれを、何時行ふべきか、絶えず偵察してゐる。毎時間ごとに、五大陸にゐる部下の司令官達に向つて命令を發し、又毎時間ごとに、戰況報告を閲讀《えつどく》する。  S・ウルフの働き振りは實に素晴らしい。金の天才で、何哩も向うの金を嗅《か》ぎ付ける。無數の株券や假株券を歐羅巴へ押付けた。萬一、黄金の豫備軍を召集しなければならない場合、亞米利加の金を確實に手に入れるためである。趣意書を書いたが、それを讀むとワルト・ホヰットマンの詩集のやうである。丁度よい時に、適當な酒手《チツプ》を適當な人の手に握らせることにかけては、S・ウルフ程の名人は無い。この戰術を用ゐてS・ウルフは、露西亞波斯など文化の程度の低い國々に於て、二十五割から四十割の利益を得る商賣、經濟界にばかり許されてゐるぼろい商賣をした。毎年の總會には斷乎として所信を貫いて行つたが、數年ならずしてシンヂケエトはこの男の俸給を三十萬弗に引上げた。これ程の男は外に一寸無いのである。  S・ウルフは働きに働いて、肺がぜい/\言ふやうになつた。紙を手に取ると、その紙には、皆|拇指《おやゆび》の指紋《しもん》が付いてしまつた。一日に百遍手を洗つても、さうなるのである。今日までに何度|脂肪《しばう》除去《じよきよ》手術を受けたか知れないのに、尚盆々肥滿するばかりである。けれども、汗ぐつしよりの頭を冷水に突込み、髮の毛と髭にプラシを掛け、新しいカラアを付け替へて、事務所を出るや否や、もう違つたS・ウルフである。悠然たる、又泰然たる、實に堂々たる紳士となる。尤もらしい顏をして、しやれた黒塗の自動車に乘る、その車の銀色の龍が、まるで大洋航路船の警笛のやうに鳴つて、ブロオドヱイを疾走する。一夕《いつせき》の歡を盡しに行くのである。  大抵晩餐は、大勢ゐる若い妾の誰かの家で食べる。大食をすることが好きで、食慾増進のため、強い高價な葡萄酒を一杯飮む。  毎晩十一時には倶樂部に現はれる。そして二時間|賭勝負《かけごと》をする。賭け振りは仲々考へて賭ける。多過ぎもしなければ少な過ぎもしない。口數は少く、眞黒な口髭《くちひげ》の奧の、赤い、厚ぼつたい唇を脹《ふく》らせてゐる。  倶樂部ではいつも珈琲を一杯飮む。それつきりである。  S・ウルフは紳士の典型である。  たつた一つ、惡い癖があつて、それを一生懸命世間に隱さうとしてゐる。その惡い癖といふのは、非常に女が好きなことである。S・ウルフの眼は暗い色で、動物的な光を帶び、眞黒な睫毛《まつげ》であるが、この眼が美しい女の肉體を見ると、ぢつと吸ひ付いて動かないのである。丸いお臀《しり》の若い綺麗な娘を見たが最後、血が耳の中でがん/\言ふのである。少くとも年に四囘、巴里と倫敦へ出掛けて行く。どつちの町にも一人か二人美しい娘が圍つてあつて、その贅澤《ぜいたく》な妾宅の寢部屋はすつかり鏡張りである。それから又若い可愛らしいのを十人から集めて、三鞭酒《シヤムペン》附きの晩餐を開くが、自分だけはフロックを着て女どもは眩《まぶ》しいばかりの眞裸である。又屡々、旅先から「姪」だといふ娘を連れて來て、紐育の何處かへ手植ゑの花とする。S・ウルフの女は必ず、美しく、若く、ふつくりして、しかも金髮でなければならない。特に大好きなのは英吉利女、獨逸女、スカンヂナ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ヤ女である。かうした事によつて、S・ウルフは可哀さうなザムエル・ヲルフゾオンの爲めに腹いせの仇討をするのである。何年か前、ザムエル・ヲルフゾオンは、美人を思ふと、直ぐ競爭相手が現はれてその美人はいつも體格の立派な庭球選手や月々の學費の豐かな連中などに取られてしまつた。その弔《とむら》ひ合戰である。昔はおめ/\と、金髮人種の土足に顏を踏み躙《にじ》られてゐたものであるが、今はその復讐として、その人種の女を金で自由にするのである。けれども、それよりも何よりも、今ウルフは足り無いだらけであつた青年時代の埋《う》め合はせをしてゐるのである。青年時代には、渇望を醫《いや》すべき時も金も無かつたけれど……  旅行する度に持つて歸るものは、澤山の戰勝記念品である。女の捲き毛や下つた毛である。種類は、冷たさうな銀色を帶びた金髮から、燃え立つばかりの赤まで、いろ/\ある。それを皆、紐育の自宅にある日本製の漆塗《うるしぬ》りの箱に入れて藏《しま》つてある。けれども決して口外しないから、誰も何にも知らない。  ところで、ウルフが歐羅巴への旅行を好む理由は外にもあつた。年取つた父親に逢ふ爲めである。父親に對しては、奇妙なほどの感傷的な愛着を抱いてゐた。年に二囘、二日間だけ故郷のツェンテスに歸る。電報を先に打つて置く。するとツェンテスの町中は大變な騷ぎになる。ヲルフゾオン爺さんのでけえ息子がよ、あの果報者がよ、えれえ野郎がよ、歸つて來るだとよ。  S・ウルフは父親に小綺麗な家を建てゝ、美しい庭を拵へて遣つた。まるで別莊のやうである。音樂隊が呼ばれて來て、※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]イオリンを彈《ひ》いたり踊つたりする。ツェンテスの人間は皆、この庭の鐵格子の所で押し合ひ、ヘし合ひしてゐる。  ヲルフゾオン老人は、身體をあちこち搖ぶりながら、小さく瘠せた頭をぐら/\させて、嬉し涙を流すのである。 「お前はまあ、えらくなつただなあ。誰だつて、まさかかうなるたあ、夢にも思はなかつただよ。えれえ子だ、おら、鼻がたけえ。おら、毎日、神樣にお禮を申ずだよ」  偉《えら》くなつたS・ウルフではあるが、誰とも親しくするので町中の人に愛されてゐる。貴賤老若《きせんろうじやく》の別なく、亞米利加式の民本主義のざつくばらんで誰とでも交際した。あんなに偉くなつてゞも、高ぶらねえだよ。  ヲルフゾオン老人は、神樣のお召しを受ける前にたつた一つ叶へて見たい望みがあつた。老人はかう言ふのである。 「おら、お逢ひしてえだよ。そのアラン樣だ。逢うて見たいがのう、大した御仁《ごじん》だよ。」  するとS・ウルフは答へる。 「出來るよ。ぢきにアランさんはまた維納か伯林へ遣つて來る。さうしたら、電報でさう云つて寄越《よこ》すよ。どん/\ホテルへ行つて、親爺だからつて云やあ、きつと吃驚して悦《よろこ》ぶよ。」  けれども、ヲルフゾオン老人は、小つぽけな萎《しな》びきつた手を上に伸ばして、首を振つて泣くのである。 「止《よ》す。おら、アラン樣にお目にかゝらねえだ。言葉をかけるなんて決してしねえだ。足が震へて堪《たま》つたもんぢやねえだ。」  別れる時はいつも二人とも辛《つら》かつた。ヲルフゾオン老人は曲つた足でよろ/\と、息子の乘つてゐる展望車の傍へ、もう二足三足近寄つて、大聲に泣き出すのである。ウルフの顏にも一杯涙が流れるのであつた。けれども窓を締め、涙を拭いてしまふと再び元のS・ウルフに返つて、暗色の髮の毛の、猶太博士のやうな頭は、どんな問を掛けられても返事をしないのである。  S・ウルフは立派に出世した。金も出來、有名にもなつて人から尊敬もされてゐる。大きな國家の大藏大臣でさへ、敬意を拂つてくれる。身體《からだ》の事は、少し喘息《ぜんそく》であるが、その外には別に惡い所は無い。食慾と消化力は素晴らしく、女に對する慾も亦素晴らしい。かういふ有樣であるが、しかも心は幸福を感じてゐない。  不幸な事にS・ウルフは、何でも解剖し穿鑿《せんさく》するといふたちで、おまけにブルマン會社式の寢臺車や汽船の椅子などに坐り込むと、そんな餘計な考へ事をする暇が、十分に出來たものである。今日までに出會つたあらゆる人間の事を考へて見る。活動寫眞のやうに次々と思ひ出されて來るがその一々の人間を皆比較して、やがて今度はその連中と自分とを比較して見る。すると莫迦《ばか》ではないし、批判的の頭が鋭いから、自分は、全然平凡な人間であるといふ事に、忽ち氣が付いて、少からず愕《おどろ》いてしまふ。成程市場といふものに明るい。國際貿易に明るい。市況の報告みたいな、取引所の電報みたいな男で、足の爪先まで數字が一杯の人間であるが――それでどうだ、その外に何か持つてゐる男だらうか。所謂個性といふものを持つてゐる男だらうか。斷じて然らず、少しも持つてはゐない。二千年の昔の祖先と雖も、まだしも個性を餘計に持つてゐる。といふ風に何にも個性の無い男であるが、墺太利人になつて見たり、獨逸人、英國人、亞米利加人になつて見たりしたのである。かういふ變形の時は、一々皮を脱《ぬ》いだやうに見事に遣つてのけたけれど――その擧句《あげく》の今は何になつてゐるのだ。今の自分は果して何であるか、全く自分でも分らないのである。さて、このS・ウルフの記憶力は、異常な素晴らしい記憶力で、桑港から市俄古へ行く時に乘つた車室の番號を、何年經つても機械的に覺えてゐるといふ風で、物事を決して忘れないのである。だからちやんと知つてゐる。自分の獨創として發表する意見も、實は何處から出たものか、その出處も、帽子を脱ぐ手付も、話し振りも、微笑の仕方も、お相手が厭になつた時相手を見る眼付も、皆出處があるが、それを皆知つてゐる。かういふ風に皆出處があると分つて見れば、あの落着き拂つた、威嚴をつく※[#判読不可、15-上-6]つた※[#判読不可、15-上-6]口數を利かない氣取つた樣子も、皆ちやんと出處がある。これこそは、自分の本能が然らしめて、この最も間違ひの無い樣子をするに至つたものと、心ひそかに得意になつてゐたけれど、それがちやんと出處があつて、色々な他人から借用した何百萬の要素が集まつて出來たものである。  それからアラン、ホッビイ、ロイド、ハリマンの事を考へる。それ/″\一箇の人間だ。ロイドは別として、他は皆どうも狹い人間だ。「四角四方」の事だけ考へる人間で、廣い世界の事は一度たりとも考へない狹い連中だ。然るに皆、それ/″\一箇の人間で、獨創的なものを持つてゐる。誰が見ても獨立的な個性と見える。これ/\とはつきり言へないにしても兎に角さう見える。そこでS・ウルフは、アランの持つてゐる品位に就いて考へ始める。どういふ譯で品位が生じたんだ。何故あの男は威嚴のあるやうに見えるか、誰かその理由の分つてゐる人があるか。誰も分つてはゐない。又あの男のおさへ付けるやうな力は、見る人が怖《おそ》れてしまふあの男の力は、何に由來《ゆらい》するのだ。誰にもその理由は分つてゐない。アランといふ男は、氣取つた態度なんぞ無い男だ。いつも明けつ放《ぱな》しで、單純で、ありの儘のアランでゐながら、しかも人にあんな感じを與へるんだ。おれは度々、あの男の雀斑《そばかす》だらけな茶色の顏を、眺めたものだ。上品なところや天才的なところは一つも無かつたけれど、あの單純な顏付、はつきりした顏付を眺めてゐると、いくら眺めても見飽きないものだつた。アランが一寸何か言ふと、それつ切りでもう十分なのだ。その命令に背《そむ》くは勿論の事、一寸聞き洩らすこともしまいとして、誰も皆あの男に畏《おそ》れ入つてゐるんだ。  ところで、S・ウルフは、明けても暮れてもこんな事ばかり考へてゐる男ではない。ほんの時々、汽車が田舍道を走つてゐる間だけ、こんな事に耽るのである。時々ではあるが、これをすればする度毎に、必ず不愉快な、苛々《いら/\》した氣持になるのであつた。  かういふ色々な事を考へてゐると、いつも必ず或る一點にぶつかつてしまつた。アランと自分との關係といふ一點である。アランは尊敬してくれる、丁寧に扱つてくれる、同輩として扱つてくれる――けれども他の連中に對する扱ひとは、何か違つた扱ひである。S・ウルブはそれがはつきり分つてゐた。  平生《へいぜい》おれの聞くところでは、殆ど大抵の技師でも技師長でも社員でも、皆アランから名前だけで呼ばれてゐる。然るに何故だ。おれだけはいつも「ウルフさん」と、さん附けだ。しかも一度たりとも忘れずに、必ずさうするのだが、一體何故だ。敬意のつもりか。斷じてそんな事は無い。アランといふ男は、自分だけしか尊敬しない男だ。その男がどうして、どうして。なぞとウルフは考へるが、さて又我ながら莫迦《ばか》らしいと思ふ望みを、心の奧底に祕めて持つてゐた。どうぞ何時か、アランがおれの肩を叩いて、「やあ、ウルフ、どうだい。」と呼んでくれゝばいゝが。莫迦らしい望みではあるが、かういふ望みを持つてゐた。――そして、何年かの間、待ちに待つても駄目であつた。  さうなるとS・ウルフは、今度はアランが憎くなつた。確かにはつきり憎くなつた――大した理由も無さゝうであるが、無性《むしやう》に憎くなつたのである。アランの自信が崩れる所を見たい、アランの眼色が變ればいゝ、アランの方からおれに助けを乞ふ事があればいゝ、などと望んだものである。  かういふ考へが出て來ると、S・ウルフは身體中がかつ[#「かつ」に傍点]と熱くなる。うむ、さういふ事もあるかも知れん。何時か、さういふ日が來るかも知れん、おれが、S・ウルフが――何時かはおれが、シンヂケエトの絶對支配權を握るかも知れん。さうはならんと誰が言ひ切れよう。  S・ウルフは、東洋人型の眼瞼《まぶた》を下して、眞黒な炯々《けい/\》たる眼をかくしてしまふ。そして肉がだぶ/\の頬を細かく顫はせるのである。  これは、ウルフが今迄に思ひついた中で一番大膽な考へであつた。そしてこの考へは、催眠術《さいみんじゆつ》のやうに、S・ウルフをうつとりさせるのであつた。  譯は無いさ、株券の十億もあれば、それ位の軍資さへあれば――その時こそマック・アランめ、このS・ウルフがどんな人間か思ひ知らして遣るぞ。  Sウルフは葉卷に火を點《つ》けて、滿々たる野心に夢心地となるのであつた。 [#5字下げ]七[#「七」は中見出し]  エヂソン・ビオ會社は毎週新しいトンネル映畫を提供して、層一層と素晴らしい成績を擧げて行つた。  映畫に現はれるものは、マック・シテイの材料列車發着驛の上、空を蔽《おほ》つて動かない眞黒な煙の層雲である。又現はれるものは、見渡す限りの貨車の大軍で、濃い煙を吐く何千といふ機關車が、米國各州から牽《ひ》き集めて來たものである。又現はれるのは、船荷の上げ下しに使ふ橋だ。※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉起重機だ。滑車だ。高架鐵道用の起重機だ。又、映畫に現はれるのは、惡鬼のやうな人間が一杯の「煉獄」と「地獄」だ。この時は同時に、蓄音器で物凄い騷音を聽かせる。「地獄」の騷音は、後方二哩でもこれ位に聞えるといふ所を紹介する。裝置で音寫したものであるが、それでも音響の烈しさ怖ろしさに、滿堂の人は皆耳を塞いだ。  エヂソン・ビオ會社の映畫こそは、近代的勞働の聖書である。而も其映畫すべての目指《めざ》す目標は唯一つ、トンネルだ。  さて觀衆は、たつた十分間ばかり前には、とてもひどい俗受け映畫を見て悦《えつ》に入つたものであるが、このトンネル映畫を見ると、忽ち次のやうに感ずるのであつた。このスクリインに躍る勞働の實景、色樣々に動き、煙を吐き、咆哮する勞働そのものゝ姿、これぞ正しく、更に/\偉大なる、更に/\力強い或る一つの劇の素晴らしい場面だ。その劇の主人公は、現代だ。おれ達の時代だ。  エヂソン・ビオ會社の大聲|疾呼《しつこ》するものは、鐵を歌ふ叙事詩である。古代の叙事詩のいづれよりも、傑作であり力強い鐵の叙事詩だ。  スクリインに相|踵《つ》いで現はれる西班牙北部のビルバオ、瑞典のゲリ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ラ、グレンゲスベルヒ、各地の鐵坑。オハイオ州の鑛山町、空は灰の雨、槍《やり》ぶすまのやうな煙突。炎々と燃える熔鑛爐は瑞典の何處かので、一面に眞暗な所へめらめら火の舌が一杯になる。地獄篇の一場面だ。ヱストファアレンの製鐵工場。硝子ばかりで出來た宮殿、機械、人間の考へ出したこんな大したもの、このマンモスに附添つてゐる一寸法師は、マンモスを拵へた人と馭者だ。一群の惡魔、肥つた惡魔が、しかも塔よりも高い。おや、いぶる、熔鑛爐だ。鐵の帶を幾つもしてゐる。時々天に向つて火の唾《つば》を吐く。鑛石を積んだ手車《てぐるま》が、がら/\と昇《のぼ》つて來る。爐の中へすつかり鑛石を詰める。有毒瓦斯が、肥つた惡魔の腹を轟々と通り拔けて、空氣を一千度まで熱すると、石炭やコオクスが白熱し始める。熔鑛爐一つが一日に熔かす鐵鑛の量は三百噸だ。爐の孔《あな》を衝《つ》いて落すと、鐵の川が鑄造場へ流れ込む。人間が燒けて見える。死人のやうな顏がぎらぎら光る。梨みたいな形のベッセマア式及びトオマス式轉爐。膨《ふく》れ返つた蜘蛛《くも》の腹だ。建物何階といふ高さだ。水の壓力で動いて、立つたり寢たりする。鐵の中へ空氣を吹き込むのだ。火焔の蛇と火花の束《たば》が頻りに外へ伸びる。烈火、灼熱《しやくねつ》の温度、地獄、それから凱歌だ。マルチン式熔鑛爐※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉爐、スチイム・ハンマア、ロオラア、煙、火花の踊り、燃えてゐるやうに見える人間、一寸一分も皆天才に漲つて、人間の勝利だ。鐵の塊りが燃えて爆《は》ぜる。圓筒の間の道を走る。そして延ばされる。まるで蝋のやうに伸びる。長くなる、長くなる、今出來たばかりの表面の上をまた走つて歸る。もう動かない。まだ熱くつて、汗をかいてゐるやうだ。眞黒になる。これで濟んだ。征服されたのだ。「エッセンのクルップ工場、トンネル用のレエルを延ばして作る。」  最後に現はれるのは、或る炭坑の地下道だ。馬の顏の大|寫《うつ》し、馬の全身、大きな長靴を穿《は》いた少年が傍について歩く。その後方には幾つも幾つも手車で、石炭を積んでゐる。馬は絶えず首を振つて來る。少年は踏み付け踏み付け歩いて來て到頭觀衆の近くまで來る。すると眞黒に汚れた、血の氣《け》の無い顏を此方《こちら》へ向けて、齒をむき出して笑ふ。  發明者の言ふには、「トンネルの建設者マック・アランも、二十年前にはかういふ炭坑の小僧でありました。」  猛烈な歡聲がどつと起る。世人の歡呼といふものは、精力と力とに向つて浴びせられる――自分自身に向つて、自分の希望に向つて。  エヂソン・ビオは三萬の映畫館で、トンネル映畫を毎日公開した。西伯利亞、波蘭の小屋でもこの映畫が見られた。當然の結果として、アランを始めトンネル工事の幹部連は皆、世界中に知れ渡つた。この人々の名は、民衆の記憶の中に刻《きざ》み込まれた。丁度スチイブンソン、マルコニ、エエルリッヒ、コッホ等《など》の名と同樣に。  本人のアランだけは、まだトンネル映畫を見なかつた。暇が無かつたからである。エヂソン・ビオは再三再四アランを誘つて見たのだが、どうも暇が無いと斷られた。 「マック・アラン、自身の活躍する映畫をエヂソン・ビオ會社に於て見物す。」かういふ映畫が出來ようものなら、それこそ大變な大儲けだからと思つて、エヂソン・ビオは躍起《やくき》になつたのであるが、殘念ながら右の次第である。 [#5字下げ]八[#「八」は中見出し] 「アランさんはどちらへ。」とホッビイは訊《き》いた。  モオドは椅子を搖《ゆす》つてゐたが、これを聞いて止めて、 「なんでも――さう/\、モントリオオルよ。」  夕方である。二人は、海を見晴らす二階の※[#濁点付き片仮名ヱ、1-7-84]ランダにゐた。下を見れば庭は暗闇《くらやみ》で、ひつそりしてゐる。海は波が少し大きいのか、鈍い音が一樣な間を置いて聞える。遙かに遠いぶん/\言ふ音、かあん[#「かあん」に傍点]といふ音は工事の騷音だ。二人は、食事の前にテニスを四ゲエムして、夕飯を濟まして、一時間ほど休息してゐるのである。家の中は靜まり返つて暗い。  ホッビイは疲れたやうに欠伸《あくび》をする。口の上を叩きながらする。一樣な間《ま》を置いて聞える、靜かな波の音で眠くなつたのである。  モオドの方は、椅子を搖つてゐて、眼はすつかり、はつきりしてゐる。  モオドはホッビイをしみ/″\と眺めた。派手《はで》な色の洋服、きら/\光る金髮、その加減か暗《くら》がりの中で見ると、どこもかも眞白な男に見える。黒つぽいのは顏とネクタイだけである。まるで陰畫《ネガチブ》にそつくりだ。モオドは微笑する。食事の時ホッビイから聞いた話を思ひ出したのである。――S・ウルフの「姪」の中の一人の事で、S・ウルフに棄てられたものだから、訴訟を起したといふ話である。だがモオドは、この話の事は一寸さう思つたゞけで、直ぐに考へをホッビイの事に戻してしまつた。モオドはこの男が氣に入つてゐる。いろんな莫迦《ばか》な眞似をする事まで、氣に入つてゐる。二人はすつかり仲好しで、どんな事でも打ち明けて話し合ふ。どうかするとこの男は、聞きたくもないやうな變な事を話し出すから、止して頂戴とお斷りするのであつた。又ホッビイとエディスとは、これが又大變な仲好しで、まるで親子のやうである。そんな風だから、時々、この家の主人はホッビイではないかと思はれるのであつた。 「ホッビイを夫《をつと》にしたらマックよりも好い夫かも知れない。」かう思ふと、モオドは身體が熱くなり、頬が赤くなつたやうに感じた。  するとその瞬間、ホッビイがくすつ[#「くすつ」に傍点]と笑つた。 「何故笑ふの、ホッビイ。」  ホッビイは伸びをしたので、椅子がきし[#「きし」に傍点]/\鳴る。 「なあに、一寸ね、明日からの七週間をどうして暮さうかと考へてたんですよ。」 「まあ、また負けたのね。」 「さうですよ。だが、フル・ハンドといふ手が付いてゐるのに、止める譯には行かないぢやありませんか。六千弗ふいにしちやつた。勝つたのは※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ンダアスティフトですよ。金持は強いて。勝負はいつもかうだ。」  モオドは笑ひ出した。 「だつて、そんなら一寸アランに何とか言へばいゝぢやないの。」 「さうですね、それはさうですね――」とホッビイは答へて、また欠伸《あくび》だ。口を叩いて、あわ[#「あわ」に傍点]/\をする。「人間が間拔《まぬ》けだとかういふ目に遭ふ。」  それから二人とも、勝手に自分の考へに耽り始めた。モオドは一寸一つ、小細工を考へ付いた。搖れ椅子を搖ぶつて、前へ遣つたり後へ遣つたりする。一歩近づいたり、一歩遠くなつたりする。さうしながらいつもホッビイの顏を見詰めてゐるのである。  モオドの心の中は混亂してゐる。諦《あきら》めの氣持と欲望と、こんぐらがつてゐる。  ホッビイは眼を閉ぢた。するとモオドの聲が、急に直ぐの近くで、かう言ふ。 「ねえ、フランク、どうだつたでせう、もしあたしがあなたの奧樣になつてたら。」  ホッビイは眼を明けた。瞬間にすつかり眠氣《ねむけ》が覺めてしまつた。モオドにこんなことを言はれて吃驚したのである。それに又、呼び名で呼ばれたにも驚いた。この何年來、呼び名で呼んでくれた人は一人も無かつたからである。又驚いた事には、見ればモオドの顏が眼の前に迫つてゐる。たつた今しがた、二歩は離れてゐたのに。モオドの柔かい小さな手は、今ホッビイの椅子の背に載つかつてゐる。 「そんな事が分るもんですか。」  とホッビイは有耶無耶《うやむや》に答へて小聲で笑はうとして見た。  モオドの眼が直ぐ前に見える。その眼の奧から出て來る金色の光は、何かしら温かさうな、訴へるやうな光である。暗色の髮の毛の下には、顏が微かに光つて、青く見える。痩せて見える。悲しみに曇つてゐる顏のやうだ。 「ねえフランク、何故あたし、あなたと結婚しなかつたんでせう。」  ホッビイは息を繼《つ》いだ。しばらくしてかう言つた。 「それはマックの方を好きだつたからですよ。」  モオドはお構ひなしに獨りで頷《うなづ》く。 「あなたと一緒になれば、きつと幸福だつたでせうねえ。」  ホッビイは益々面喰つた。一寸でも動けば、モオドの身體に餘り近くなり過ぎるので、動くわけに行かない。それも弱つた。 「さあ、どんなものかね。」  と、ホッビイは微笑するばかりである。 「ねえフランク、あなた、あの時分、あたしを本當に愛してゐたの、それともたゞそんな風をして見せたの。」  と、モオドは囁くやうに言ふ。 「本當に愛してゐましたよ、えゝ。」 「あたしと結婚したら、あなた、幸福になつて。あなた、さう思つて。」 「思ひますとも。」  モオドはまた頷《うなづ》いて、そのほつそりした眉が夢を見るやうに上に上がつた。そしてもつと低い聲で、「さうか知ら」と言つたが、嬉しさと悲しさの混《まじ》り合つた氣持である。  ホッビイはこの状態を續けるに堪へられなくなつた。あんな昔の事を、何故またモオドは言ひ出したんだらう。かう思つてホッビイは、今更そんな事を言つても始まらない、と口に出したかつた。何とか話を外へ向けたかつた。莫迦莫迦《ばかばか》しいや、おれという奴は未だにこのモオドが好きなんだ、おまけにそれ以來、ずつとくよ/\してやがるんだ、おれは…… 「でもねえ、モオド、もう仲好しのお友達になつたんぢやないか。」  とホッビイは、この場合出來るだけの平氣な、何でもないやうな調子で言つた。  モオドは殆んど分らない程度で頷いた。眼はまだホッビイを見つめた儘である。そして二人は、其儘一秒か二秒、眼と眼を見合つた。そして急に、大變な事になつた。先づホッビイが一寸動いた、ぢつとしてゐるのがとても苦しかつたから、一寸|身體《からだ》を動かしたのである――がたつたそれだけなのに、どうだらう――※※※※※※※※※※※[#判読不可、146-上-14]れてしまつたのである。  モオドは※※※※※※※[#判読不可、146-上-16]。小さな、押し殺した※※※※[#判読不可、146-上-16]げて、すつと立つて、暫くは身動きもせず其處に立つてゐたが、やがて暗闇《くらやみ》の中に消えて行つた。戸が一つ、締まる音が聞えた。  ホッビイはそろ/\籐椅子から下《お》りた。どぎまぎした放心したやうな微笑を浮べながら、暗闇の中を見送つた。唇の上には、モオドの口がまだ柔らかに温《あたゝ》かく感じられる。ホッビイの腕は疲れて、拔け落ちさうである。  やがて氣を取直した。すると波の音がまた聞える。遠くの方で汽車の響がする。何の氣無しに時計を出して見てから、眞闇《まつくら》な部屋を幾つか拔けて、庭へ下りて行つた。 「お別れだ」――と考へた。「これでおしまひだ。モオドはもうおれに會つてくれやしない。」  帽子掛けから帽子を外して被《かぶ》り、顫へる手で葉卷に火を點《つ》けて、この家を出て行つた。まだ興奮してゐる。嬉しいやうな氣持で、混亂し切つた氣持でもある。 「それにしても、どうしてあんな事になつたのかなあ」と考へながら歩みを續けた。  その間にモオドの方は、燈火も點けない居間で、身體を曲げて腰掛けてゐた。兩手を膝に置いて、吃驚したやうな眼で、前の方の床を見詰めてゐる。さうして小聲で呟やいた。「まあ、いやらしい――惡いことを――あゝ、マック、あなた。」かう言つてからモオドは、靜かに、時々齒をきりきり言はせながら、泣くのであつた。もう夫《をつと》に合はせる顏は無い、もう無い。でも、打ち明けなきやいけないわ。離婚して貰ふんだわ。えゝ、さうよ。きつと、さうして貰ふわ。でも、さうしたらエディスは。物がわかる年頃になればエディスも、お母さまの處置が立派だつたと思ふでせう……  モオドは吃驚した。ホッビイが下を歩いてゐる。その足音を聞いて驚いたが、すぐかう思つた。そつと歩いてゐらつしやるわ、いつもそつとそつと歩くのよ、あの方は。モオドの胸はどき/\躍つた。立ち上がつて、かう呼ばうか知ら、「ホッビイさん、いらつしやい――」と思ふと、モオドは顏を眞赤にして、兩手を握り緊《し》めた。まあ、飛んでもない――いやらしい事――何だつて、あたし、あんな事をしたんでせう。あゝ、あたし、かうなればもう、何もかも言つてしまへば、――あの方が接吻したら、どんなでせうなんて、――そんな莫迦な事を今日の晝間一日中思ひ續けて、晩になると、やつばりそんな事を考へながら、ホッビイさんをずつと見詰めてゐたんだわ……  寢床にはひつてからも、モオドは心配と後悔で涙を流した。その中に段々落着いて、やがて氣を取直した。「アランが歸つたら、あたし、打ち明けて、どうか許して下さいと願つて、それから誓ひを立てよう……又アランに、どうぞこれからは、一人ぽつちにして行かないで頂戴、と言つて見るんだわ。でも一寸面白かつたわね、ホッビイさんたらとても吃驚したんですもの。眠りませう、眠りませう。」  翌朝エディスと一緒に水浴した時は、心の何處かにほんの少し重苦しい氣持が殘つてゐるだけであつた。ほんの少しではあつたが、昨夜の事なんぞ、まるで思つてゐない時でも、少し重苦しいやうな氣がした。モオドの思つた事は次のやうな事であつた。いづれきつと、すつかり元通りになるでせう。きつと、いゝえ、もつと善くなるわ。だつて、あたし、アランを愛する氣持が、今迄よりもずつと強くなつたんですもの。モオドはこんな事を思つたけれど、その實、決してさうではなかつた。アランはモオドをなほざりにしてはいけなかつた。しかも矢張りなほざりにされてゐる。それからの二三日中、モオドは度々ぢつと考へ込んで、うつろな眼で前の方を見詰めながら、あたしの愛してゐるものが本當はホッビイ[#「ホッビィ」は底本では「ホ※[#判読不可、147-下-16]ビィ」]さんだつたら……と思ふのであつた。その烈《はげ》しい思ひに耽つたかと思ふと、忽ちその思いは消えて、不安な氣持が湧いて來る……  ホッビイは三日間遣つて來なかつた。晝の間は、遮二無二《しやにむに》働いて、夜になると紐育へ出掛けて、勝負をし、ウィスキイを飮むのであつた。何處からか四千弗借りて、それをすつかり使つてしまつた。  四日目になるとモオドは一筆書いて送つた。今夜きつとお出で下さい。お話ししたい事がありますから、といふ文句であつた。  ホッビイは遣つて來た。顏を見た時、モオドの頬は赤くなつたけれど、直ぐ快活に笑つて迎へた。  モオドはかう言ふ。 「もう決してあんな莫迦な眞似はしない事にしませうね、いゝこと。あたしねえ、隨分苦しんだのよ。眠れなかつたの。もう止しませうね、必ずね。あたしよ、惡いのは。あなたが惡いんぢやないのよ。でも、あたし、決して自分に罪を着てるんぢやないの。本當にあたしが惡いのよ。そしてあたし、アランに白状しませうつて、初めはさう思つたの。でも今はもう何にも言ふまいと決心してゐるのよ。それとも、あなた、白状した方がいゝと思つて。」 「それは何時《いつ》か折を見てするんだね。それとも僕から――」 「いけないわ、あなたぢやいけないわよ。あなたがしちやいけなくつてよ。さうね、折を見はからつて――ほんたうにさうねえ。ぢやこれで、また元通りの仲好しになりませうね。」 「宜しい、承知しましたよ。」  と言つてモオドの手を握つたホッビイはこんな事を考へた。モオドの髮の毛は、なんと綺麗に光るんだらう。一寸頬を赤くして、困つたやうな樣子は、なんと似合つた樣子だ。この女はなんといふ氣立ての好い、親切な女だらう。あゝ、あの接吻は、一、金四千弗なんだな。なあに、そんな事。 「球拾ひの小僧が來ましたよ。テニスをしませんか。」  かうして二人は元通りの仲好しになつた。たゞモオドだけは、時々ホッビイに一寸した眼付をして見せる。二人だけの祕密を持つてゐるんだわね、といふ事をホッビイに思ひ出させようとする眼付で、モオドにはどうしてもこれが止められなかつた。 [#改ページ] [#4字下げ]第四編[#「第四編」は大見出し] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  マック・アランは、まるで地上に立つて鞭を打ち振ふ妖怪だ。鞭を揮《ふる》つて工事をどし/\進めさせるのである。  全世界は緊張し切つて海底のその又下の息もつかせぬ死物狂ひの有樣を見守つてゐた。各新聞は特別欄を設けた。すべての人の目は先づこの欄を見た。まるで戰場の報告でも見るやうに。  工事開始から第七年目に入ると、その第一週に、アランは運命にぶちのめされた。亞米利加側の坑道に十月の大慘事が起つたのである。この慘事の爲めにアランの工事は、大打撃を蒙つた。  小さい不詳事や故障は毎日のやうにあつた。崩れ落ちる岩石に埋められ、爆破の時に粉微塵《こなみぢん》にされ、列車に壓《お》し潰《つぶ》される勞働者は、いくらでもあつた。死神はトンネルに入ると、いかにも氣樂になつて、ごく無雜作にトンネルの中の連中を引張つて行つてしまふのである。方々の坑道《かうだう》は何度も多量の水が浸入して來て、澤山の喞筒《ぽんぷ》が動いてやつとその水を喰ひ止めた。かうして何千人といふ人間が溺死しさうな危險を冒した。この勇敢な連中は、時とすると胸のあたりまで水に浸つてゐた。しかも時々この浸入して來る水は、煮えたやうに熱かつたり、間歇泉《かんけつせん》のやうに蒸氣を立てゝゐた。尤も大きな浸水といふものは大抵豫知されるので、その豫防策を講ずることが出來た。それはゲッティンゲンのレヴイ博士が最初に唱へ出した方法に基いて、無線電信の送信機に似たやうな特別な構造の裝置で、岩山《いはやま》の中へ電波が送られる。その電波は水或は鑛脈が、その中に在るとなると、忽ち反射されて來て、後から放射された電波と干渉を起すのである。又何遍も掘鑿機《くつさくき》が滅茶々々に壞れてその度に死者の無い事はない。最後の一秒に逃げ損つた人間は壓し潰されてしまつた。一酸化炭素中毒や貧血症は極く珍しくない現象だ。更にこのトンネルでは、新しい種類の病氣までも出來た。それは潜水函の勞働者に見られる潜函病によく似たものだ。この新しい病氣は、皆の中では「潜水夫病」、「背中曲り」と言はれた。アランはこの著しく目に立つて來た病人達のために、海岸にその病人だけの爲めの休養所を建てた。  度々こんな事はあつたが、全體として見れば、六年間にトンネルで死んだ犧牲者の數は、他の大工事に比べて決して多いものではない。總計一千七百十三人で、比較的少い數字を示してゐる。  けれども工事開始第七年十月十日は、アランの最大惡日であつた……  十月になると、毎年の例として、アランは亞米利加の工事場所をすつかり檢査した。この檢査は幾日もかゝつた。技師達や事務員達は、これを「最後の審判」と名付けたものだが、十月四日にアランは「市街《シテイ》」を檢査した。勞働者の住居、屠殺場、浴場、病院を見て※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。又細君のモオドの恢復患者療養所も見た。モオドは一日中何だか興奮のし續けで、その療養所の監督振りについて、アランからお世辭を言はれると、眞赤になつてしまつた。翌日アランは事務所ビルディング、貨物專用停車場、工場などを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。その工場にはダイナモが振動し、爆音を立て、超急速|喞筒《ぽんぷ》やドリリングス喞筒や、坑内通風機や壓搾機《あつさくき》が、無限に動いてゐた。  その次の日にアランはホッビイ、ハリマン、技師のベエルマンと一緒に、トンネルへはひつて行つた。  トンネルの檢査は幾日も續いた。アランは各停車場、すべての機械、すべての囘避線、地下道中のあらゆる横坑、あらゆる倉庫を檢査したからである。或る場所で用が濟むと、シグナルで列車を停めて、その貨物車に飛び乘つては、もう少し先へ進んだ。  地下道は穴倉のやうに眞暗だ。時々無數の光が傍を走り拔ける。その列車には組立てた鐵材とその鐵材の間に人間がぶら下がつて載つてゐる。赤いランプが一つ光つて列車の警鈴が鋭い音を立てる。すると人影が右左に逃げて散る。  眞暗な坑道は、その中を突進する列車の音で鳴り轟いた。割れるやうな、折れるやうな、爆發するやうな音を立てた。鋭い叫喚が遠くの眞暗闇の中へ響いていつた。何處かで狼の吠える聲がする。水から出た河馬が、鼻息を吐くやうな、猛烈な吹く音がする。さうかと思ふと一つ眼の巨神の大きな荒つぽい聲が、怒り哮《たけ》つてどし/\遣つてくるやうにも聞える。お互ひの話は一言もはつきりとは聽最れない。地下道を貫いて、七面鳥の鳴くやうな大笑いの聲が聞える。最後には、かういふすべての不思議な氣味惡い物音が、みんな一緒になつて、トンネルは何か臼で挽《ひ》くやうな音を立て、怒號し、號泣する。すると忽ち乘つてゐる列車は、鋭い響と騷がしい音の暴風雨の中へ飛込んで、人のしやべる言葉さへ分らなくなつてしまふ。堀鑿機《くつさくき》のうしろ四十キロメエトルのあたりで、トンネルは猛烈に轟いてゐる。まるで巨大な天の羊の角の中へ、地獄全體がぶち込まれるやうだ。此處では電燈や探照燈《サアチライト》が仕事場を照して、白熱した熔鑛爐でも見るやうだ。  アランがトンネルに來てゐるといふ通知は、忽ちぱつと擴がつた。何處かヘアランが遣つてくると……埃と泥で誰が誰やら分らない筈だが、それでも直ぐ分つて……そこの連中は『マックの歌』を歌ひ出すのである。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 「萬歳三唱、まだ足らぬ も一つおまけの萬歳だ マックが來《き》たら脱帽だ マックはおいらの英雄だ マックと來たら腕つこき 何でも出來る大將だ 豪勢《がうせい》な野郎よ、このマック 萬歳三唱、まだ足らぬ マックにやおまけにもう一つ」 [#ここで字下げ終わり]  岩石輸送の列車には、交代して歸つて行く勞働者の連中が乘つてゐた。この列車からも歌聲が起つて、坑道の轟々と鳴り響いてゐる中を、奧の方へ反響した。  アランは人氣があつて、勞働者と資本家との間の狂熱的な憎惡の許す限りに於ては、使つてゐる連中から好かれてゐた。アランは何百倍といふ力を持つてゐるのだが、みんなと同じ性の男だからである。 「マックかい……」と皆は言ふ。「あいつは、さうさ、好い野郎※[#判読不可、151-下-8]……」とかう言ふだけであつたが、これは最大級の讃辭であつた。  特にアランの人氣を助けてゐたものは、「日曜日の面會」である。この面會に就ても次のやうな意味の歌が一つある。「心配事があつたら、一筆書いてマックの所へ遣るがいゝよ。ちやんと物の分つた男だ。おれ達の仲間の一人だ。手紙より何よりもつと好いのは、日曜の面會に出掛けることだ。おれはよくあの男を知つてゐるが、あの男は、きつとお前の言い分を聞かないでは歸へすまい。あいつは勞働者の心持を一から十まで心得てゐる男だ。」  この坑道の「煉獄」では、電氣|綴釘機《ていていき》が、まるでプロペラが勢凄じく風を切る時のやうな、ぶん/\いふ音を立ててゐた。鐵材が物凄い音を立てた。此處でも皆は歌を唄つた。汚《きた》ない顏から、目ばかり眞白く輝いた。大勢の口は一樣に開くが、その聲は、さつぱり聞えない。  先に掘り進められた南地下道の、最後の三十キロメエトルは、殆ど全部を徒歩で歩くか、のろ/\と進む貨物列車に乘つて行つた。このあたりの坑道は、まるで粗《あら》削りの柱の森だ。無數の梁材の足場だ。何の音とも分らない、恐ろしい騷音に、あたりは搖れ通しである。その音のひどさを今忘れたかと思ふと、又直ぐ耳を打つ。又忘れるとすぐ繰返した。この邊の熱は攝氏四十八度で柱や梁を割つてしまつた。かういふ材木へは、度々水を掛けたり、絶えず通風機から新鮮な冷たい空氣が吹込まれたりしてゐたのだが、それでも駄目である。空氣は惡く、使ひ古された、とてもひどい坑内の空氣である。  或る小さな横坑に、油だらけの汚ならしい半裸體の死骸があつた。卒中《そつちゆう》にやられた機械組立工である。その死骸のまはりは、大騷ぎの勞働だ。忙がしく往來する足は、その上を跨いで行つた。この死骸の眼を瞑《つぶ》らせてくれる人さへなかつた。  アラン一行は、「地獄」へ入つて來た。轟々たる砂塵の渦卷の眞中に、背の低い、土氣色《つちけいろ》の顏の日本人が一人、彫像のやうに動かずにぢつと立つてゐて、燈火を使つて命令を下してゐた。その日本人の持つ反射器は、赤く白く光を投げた。時々緑色の光線を、掘つてゐる一組の連中の處へ投げる。するとその連中はせつせ[#「せつせ」に傍点]と働いてゐるのだが、死骸のやうに見えた。  此處では誰もこの一行に注意するものも無かつた。挨拶もしない。歌も歌はない。全く疲れ果てた人間が、半ば意識を失つて、無茶苦茶に動いてゐるのである。この連中はそんな一行に注意するよりも、仲間の者に注意しなければならない。喘ぎ/\、石ころの上を引き摺つて行く柱だとか、まるで皮でも剥《む》かれたやうな、筋だらけの六人の腕が、貨車の上へ投げ込む石塊だとか、そんなものに打ち倒されないやうに、他の人のする事をよく見てゐないといけないのである。  地下道もこの邊は餘程深い。海面下四千四百メエトルである。燃えるやうに熱い空氣には、埃の粉が一杯交つてゐて、氣管を傷《きずつ》ける。ホッビイは新鮮な空氣に飢ゑて、絶えず欠伸《あくび》をしたし、ハリマンの眼は、赤ら顏から突き出て來て、窒息でもしさうな樣子である。けれどアランの肺臟は、酸素に乏しい空氣でも平氣であつた。轟々と鳴り續けてゐる仕事、あちこち動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る人間の群、この中にはひつて來て、アランは元氣が出て來てゐる。アランの眼は、知らず識らず支配者のやうな、勝利に誇つてゐる輝きを帶びて來た。アランはいつもの沈着がなくなり、いつもの默まり屋がさうでなくなつた。あつちこつち歩いたり、大聲を出したり、身振りをして見せて、やがてアランの筋肉隆々たる背中は、汗で光り出した。  ハリマンは岩石の見本のやうなものを片手に、アランの方へ匍ひ寄つて來たが、それを眼の前に突付けて見せてから、兩手を口に當てゝ、アランの耳の傍で呶鳴つた。「これがあの、新發見の鑛物だ。」 「鑛物か」とアランはやつぱり同じやうにしながら大聲で問ひ返した。それは錆のやうな褐色で、無定形の塊であつた。ぢきに碎ける脆い質だ。このトンネル工事で見付けたのが、地質學上最初の發見である。この新發見の鑛物は、サブマリウム(海底鑛)といふ名を付けられたが、非常に多量にラヂウムを含んでゐて、熔鑛精錬會社からは毎日のやうに、その鑛物の大鑛脈に掘り當てはしないかと問合せが來てゐた。この事をハリマンはアランの耳の傍で呶鳴つた。  アランは笑ひ出した。「勝手な事をいふ奴等だ。」  掘鑿機《くつさくき》から滑《すべ》り下《お》りた一人を見ると、赤い髮の、恐ろしく筋骨逞しい、ゴリラのやうな長い腕をした男だ。泥と油にまみれた一本の柱のやうだ。眠さうな眼蓋《まぶた》の上には、ひどい埃が糊のやうにべつとりくつ着いてゐる。一寸見た所は岩石運びの人夫のやうだが、實はアラン股肱の、最も偉《えら》い技師の一人で、オニイルといふ愛蘭《アイルランド》人だ。右腕から血が出てゐる。その血は泥とまじつて眞黒な塊りになり、車輪へ注《さ》す油のやうだ。しつきりなしに埃を口から吐き散らして、嚏《くしや》みをする。一人の勞働者がこの男に水を掛けて遺つたが、どう見たつて象の水浴びといふ圖である。オニイルは素裸で、飛んでくる水を浴びながら、身體《からだ》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したり屈めたりしてゐたが、やがて水をだら/\垂らしながら、アランの所へ遣つて來た。  アランはそれを迎へて、握手をしてから、オニイルの右腕を指さした。  するとこの愛蘭人は頭を振つて、大きな兩手で、頭の髮の水を掻き落した。 「片麻岩の色がどし/\濃くなつてくるよ。」とオニイルは、アランの耳の傍で呶鳴つた。「色は濃くなるし、硬くなつて來た。例の赤い片麻岩なんか、これから見ればまるで玩具だ。一時間毎に掘鑿機の頭を、新しく代へないといかんて。それに又暑いのなんの、堪りやしない。」 「ぢきに上の高い所へ歸れるよ。」  オニイルは齒を出して笑つて、「三年經てばね」と呶鳴つた。 「先の方に水は無いかね。」 「無い。」  急に皆《みんな》は緑色に、幽靈のやうな鉛色になつた。あの日本人が、燈火の光をこつちへ向けたのである。  オニイルは物も言はずアランを傍に押しのけた。そこへ掘鑿機が歸つて來た。  交代が三組もあつた間、アランは待つてゐた。それからハリマンやホッビイと一緒に岩石列車に乘つて、歸途に就いた。みんな疲れてすぐ眠つたが、アランは寢てゐながらも、この列車が、トンネルの外の方へ向ふ四百キロメエトルの長い旅の間に受けたあらゆる障害を感じた。制動機がひどく鳴る。各車輛がぶつかり合ふ。そのため岩石が線路に轉げ落ちる。人影が車に攀《よ》ぢ登つてくる。叫び聲がする。赤い光がぱつ[#「ぱつ」に傍点]と射《さ》す。列車は或る囘避線に入つて、長い間其處に停まつてゐた。アランは半ば眼を醒まして見ると、自分の上を暗い人影が跨いで行つた。 「これはマックだぞ。踏み付けるなよ」  列車は出發した。停車した。また出發した。急に猛烈な勢で走り出した。するとアランはトンネルの中へ突進するやうに思はれて、やがてそのまゝ深い眠りに落ちてしまつた。  アランは目を覺ました。眞晝間の眩《まぶ》しい恐ろしい光が、きらきら輝くメスのやうに、眼の中へ飛び込んだ。  列車は停車場ビルディングの前に止まつた。アランの一行はほつ[#「ほつ」に傍点]と息をついて、「最後の審判」は終つた、しかも無事に濟んだと思つたのである。  技師達は浴室へ行つた。ホッビイは眠つたやうな格好で、湯槽《ゆぶね》に横たはつて、卷煙草をふかしてゐた。それと反對にハリマンは河馬《かば》のやうに頬を膨《ふく》らせて吹いたり、しゆつしゆつ言つたりしてゐた。 「ホッビイ、朝飯につき合つてくれんか。」とアランは訊いた。「モオドはもう起きてるだらう。七時だからな。」 「僕は寢なきやいかん。」とホッビイは卷煙草を口に啣《くは》へたまゝ答へて、「今夜又もう一度穴へはひらなきやならんのでね。だが晩飯には必ず歸つてくるよ。」 「ところが生憎その時分には、僕はもうこゝにはゐないんだ。」 「紐育へ行くのかい。」 「いや、バッファロオだ。掘鑿機の錐の新型を試驗するんでね。でぶのミュツレルが發明したやつだ。」  ホッビイはそんな穿孔機《さくかうき》なんぞには興味が無かつた。そこででぶのミュツレルの事に話を移して、ホッビイは一寸笑つて、眠さうに「昨日僕ん所へアヅォオルのペンドルトンから手紙が來たがね、そのミュツレルといふ男はひどい酒飮みださうだよ。」 「獨逸人なんていふ奴は、みんな底拔けの飮み助にきまつてるよ。」  アランは一寸抗議するやうな調子で言つて、足をブラッシで擦《こす》つた。 「ペンドルトンの手紙だと、そのミュツレルの園遊會にでも招《よ》ばれた日には、誰も彼も浴びるやうに飮まされて、ひどい目に逢ふんださうだよ。」  丁度此時に、例の小さい日本人がみんなの傍を通り過ぎた。ちやんと身裝《みな》りを整へてゐる。もう二度目の休息を終へてトンネルへ歸るのである。この日本人は丁寧に挨拶して通つた。  ホッビイは片方の眼を開けて、叫んだ。 「ジャップ、お早う。」  日本人が戸を締めて出て行つてしまふと、アランは言つた。「どうして、仲々使へる男だぜ。」  それから二十四時間經つと、その使へる男はもう夙《と》うに死んでゐた。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し]  翌日の朝、四時數分前である。大慘事が起つた。  この不祥事が起つた十月十日に、南坑道の掘鑿機《くつさくき》が、岩山を打ち碎いてゐた場所は、トンネルの入口から正に四百二十キロメエトルの處であつた。その場所から後へ三十キ口メエトルの處には、平行地下道のいろんな機械が動いてゐた。  丁度その四時數分前に、岩山は爆破された。昨日の日本人が、相變らず命令を下すあの探照燈は、轉がり落ちる岩石や、それを煙のやうに埃が騰《あが》ってゐる切石の山へ、どしどし積み上げてゐる半裸體の一團の人間を、眞白に照して見せた。丁度この瞬間だ。或る者は兩腕を高く擧げた。或る者は仰向けにぶつ倒れた。或る者はがくん[#「がくん」に傍点]と倒れ伏した。煙が立つてゐる切石の山は、猛烈な勢で忽ちこつちの方へ崩れて來た。渦卷く雪崩《なだれ》のやうに、體も頭も腕も足も呑込むのだ。あんなにひどい工事の騷音も、或る一つの殷々《いん/\》たる音に消されてしまつた。その音は餘りに恐ろしく大きいので、人間の耳には聽き取れない位であつた。一つの壓力が頭の周圍を包んで、鼓膜が破れるやうであつた。小さな日本人は忽ち倒れた。邊《あた》りは眞黒な夜になつてしまつた。この「地獄の連中」がその暗くなる瞬間に目に見たものはすぐ傍の一人がよろめく姿や、歪《ゆが》んだ口や、倒れかけた一本の柱だけであつた。誰一人耳に何か聞いた者はない。掘鑿機は、急行列車の機關車二臺の力によつて前進する、全部鋼鐵製の戰鬪艦とも言ふべきものだが、それがまるでトタン圍ひのバラックのやうに、線路から浮き上つて壁に叩きつけられ、へな/\と壓《お》し潰されてしまつた。人間の身體《からだ》が岩塊の雨霰の中を飛ぶのは、空中を行く彈丸のやうであつた。鐵の岩石貨車は掃き飛ばされ、粉々《こな/″\》に裂かれ、丸められた塊になつた。林立した柱は爆發して倒れ、落ちてくる岩石と一緒になつて、生命あるもの一切を埋めてしまつた。  これがたつた一秒間の出來事である。一瞬間が過ぎると、もうその後は靜まり返つて、この爆發の轟きは、遠くの方へ響いていつた。  この大爆發が打ち碎いたのは、二十五キロメエトルに亙る距離の間であつた。トンネルの中は、八十キロメエトルの間唸り轟いた……丁度大洋が地下道中へ響いてくるやうであつた。大きな砲彈が遠くへ飛んで行くやうな物音が一度聞えると、その後は靜寂がやつて來た、恐るべき靜寂が……それから砂塵の雲が……その埃《ほこり》の後からは煙が來た。トンネルには火事が起つたのである。  列車が何臺も煙を衝《つ》いて、氣が狂つたやうに飛び出して來た。驚いて度を失つた人間が鈴生《すゞな》りだ。列車の後には、眞暗闇の中を突走つて來た、誰とも見分けのつかない幽靈のやうな姿だ。その後からは何にも出て來《こ》なかつた。  この慘事の起つたのは、運惡く丁度休憩の交代時間に當つてゐたから、トンネルの突先の二キロメエトルの間には、約二千五百人の人間が詰め込まれてゐた。その半分以上は一秒の間に、打ち碎かれ、引き裂かれ、ぶち殺され、埋められたが、叫び聲一つ耳にした者は誰もなかつた。  けれどもその次には……大爆發の轟きが遠方に消える頃には……眞黒な地下道の死のやうな靜寂は、忽ち破られた。破つたものは、絶望の叫びだ。苦痛を訴へる聲高《こわだか》い悲鳴だ。氣の狂つた高笑ひだ。臨終の苦みを泣き喚《わめ》く聲だ。助けを呼ぶ聲だ。呪詛だ。咽喉《のど》を鳴らす音だ。動物的な唸り聲だ。隅といふ隅には、何かゞ掘り始めた。何か動き出した。石ころがころ/\落ちる。板が破《わ》れ飛ぶ。滑り落ちる音。地面をずつて行く音。軋《きし》る音。恐るべき暗闇。落ちてくる砂塵は、濃い灰の雨だ。何處か一つの梁が傍へどけられて、人が一人喘ぎながら、その邊の穴から匍ひ出して來た。嚏《くしや》みをして、砂塵の山の上に蹲《うづくま》つて呆然とした。  やがてこの男は叫んだ。「おうい、みんな、何處にゐるんだ。一體何處だ。」間斷なしに同じ事を叫ぶのだが、返辭といつては、只亂暴な叫びと動物のやうな呻《うめ》き聲ばかりだ。それでもこの男は、益々大聲を上げて吼《ほ》えた。驚愕と苦痛に吼える聲は愈々高くなるばかりだ。その聲は益々鋭く、益々氣の違つたやうになつて來た。  ところが急に、その男は默つてしまつた。眞暗闇の中に火の光が閃いたからだ。一軒の家のやうな格好の滅茶苦茶な山の隙間から、焔がちら/\見えたかと思ふと、忽ち矢を射るやうに高く、燻《いぶ》り燃える火の束が上がつた。この男は、黒ん坊で、大聲擧げたけれど、その叫び聲の尻は、驚いて咽喉をごろ/\言はせるばかりであつた。驚いたのも無理はない、その焔の眞中に一人の人間が現れたからである。その人間は、焔の中を上へ攀ぢ登つて行く。黄色い支那人のやうな顏で、身體一面から眞黒な煙を吐き出してゐる。恐怖を撒《ま》いて歩く幽靈だ。この幽靈は、音も立てず上ヘ/\と葡ひ上がつて、到頭その山の天邊《てつぺん》位の高さに行つたと見えたが、忽ち滑り落ちる音がした。この瞬間に、やつと黒ん坊のぼんやりした頭にも、記憶が浮んで來た。その幽靈は誰だか分つた。 「ホッビイ。」と黒ん坊は唸つた。「ホッビイ。」  ホッビイの耳には、何も入らない。何にも返辭をしなかつた。よろめいた。膝を衝《つ》いた。着物から火の粉を叩き落した。咽喉《のど》を鳴らした。空氣を呑込まうと喘いだ。ホッビイは呆然として、暫く地面に蹲《うづくま》つてゐた。火の光が射《さ》してゐる所へ、黒い一點の塊だ。その内に倒れるやうな格好をしたが、兩手を衝いてやつと止まつて、それからゆつくり機械的に葡つて來て、自分の名をさつきから呼んでくれる聲の方へ、本能的に向つて來た。ホッビイはだしぬけに、何か黒いものに衝き當つて、それつきり進まなくなつた。其處には、黒ん坊が血が溢れさうになつた顏で、蹲つて唸つてゐる處であつた。ホッビイを注視してゐるものは、二つの白い眼でもあり、一つの白い眼でもあつた。黒ん坊の片方の眼にしよつちゆう血が一杯に充ちてくるものだから、黒ん坊はその眼を痙攣的に、ぐつ[#「ぐつ」に傍点]と開かずにはゐられなかつたのである。  暫く二人は向ひ合つて蹲《うづくま》つて、お互ひの顏を見てゐた。 「あつちへ行け。」  と暫くしてからホッビイは囁いた。けれども、自分でも何の事やら分らずにかう言つたのだ。それから自動人形のやうに立ち上がつた。  その體へ黒ん坊がかじり付いた。 「ホッビイ。」と黒ん坊は驚いて吼えた。「ホッビイ、何が起つたんでがす。」  ホッビイは唇を舐《な》めた。何か考へようとする樣子だ。 「あつちへ行け。」嗄《しやが》れた聲でかうホッビイは囁いたが、相變らずぼんやりしてゐる。  黒ん坊はホッビイに、しつかり抱き着いて起き上がらうとしたが、何か一聲叫びながら地面にぶつ倒れた。「おれの足は。」と黒ん坊は唸つた。「一體どうしたんだ……おれの足はどうなつ……」  ホッビイには何も考へる力が無い。全く本能的に動いて、倒れる人を助け支へて遣る動作をした。ホッビイは、黒ん坊を立ち上がらせようとしながら、黒ん坊と一緒に二人共ぶつ倒れてしまつた。  ホッビイは頤を梁にぶつゝけた。頭が割れたかと思ふ位痛かつた。この痛さがホッビイの目を覺ました。痲痺したやうにぼんやりしてゐながらも、頤のあたりを一つがん[#「がん」に傍点]と遺られたと思つた。そしてとても敵《かな》ひさうもないが、無茶苦茶に防いで遣れと思つて立ち上がつた迄は、半ば無意識であつた。だが……だが氣が付いて見ると、ひどく妙な具合だつた。一人として相手は見えないのに、自分は砂埃の眞中で、兩手の拳を振上げてゐる。ホッビイは眼が醒めた。急にはつきり分つた。今自分は地下道にゐて、しかも何か恐ろしい事が起つたに相違ないのだ……ホッビイは震へ出した。あらゆる背中の筋肉は、驚いた馬の筋肉が引き釣るやうに、ぎゆつ[#「ぎゆつ」に傍点]と動いた。こんなに背中の筋肉が動いたのは生れて始めてだ。  ホッビイはやつと物を考へる事が出來るやうになつた。 「大慘事が……」と思つた。  半ば身を起したが、見ると掘鑿機《くつさくき》が燃えてゐる。驚くべき事には、あたり一面、素裸や半裸體の人間が山をなして、砂塵と土砂の上に、無慘な格好に手足を曲げて横はつてゐる。ぢつと動かない。何處にもゐる。ホッビイの近くにも、周園にも。口をぽかん[#「ぽかん」に傍点]と明けた人間だ。柱の間に締め付けられて、頭を壓し潰され、長々と横に寢てゐる人間だ。刺し殺された人間だ。粉々《こな/″\》に引き千切《ちぎ》られた人間だ。何處にでもゐる。恐ろしさに、ホッビイの髮の毛は逆立つた。頤まで埋められてゐる人間があるかと思ふと、絲玉のやうに丸められてしまつたのもゐる。あたりには無數の石塊、梁、柱、貨車の殘骸が散らばつてゐるが、無數の頭、背中、長靴、腕、手が、そのごちや/\の中から睨み付けてゐる。睨んでゐる方が多い、とホッビイは思つて、恐ろしさに身を縮めた。がた/\震へ出した。ぶつ倒れまいとして一生懸命に立つてゐた。やつと今になつてホッビイは、半ば暗い地下道の遠くにも近くにも充ちてゐる、あの奇妙な音が耳に聞えた。猫が鳴く聲だ。何か動物が悲しんで泣いたり叫んだりする聲だ。鼻息を立てる。吼えてゐるらしい。……今迄に聞いた事のない、決して聞いた事のない音だ……それがみんな人聞の聲だ。ホッビイの皮膚は、顏は、手は、寒さに縮まつたやうに硬くなつた。足は痲痺してしまつた。直ぐ傍には一人の男が坐つてゐて、その口の隅から血が泉のやうに湧き出てゐる。この男はもう息をしてゐないが、だらりとした腕は、丁度下まで屆いて、體を支へてゐるやうだ。ホッビイの耳には、その血のびちや/\言ふ音、さら/\流れる音が聞えた。見るとそれは、あの背低《せいひく》の日本人だ。その日本人の手が急に折れたかと思ふと、頭が下がり出す。地面に跳《は》ね返る。 「あつちへ行け、行け。」恐ろしさに震へながらホッビイはかう囁いた。「こんな所にゐられるもんか。」  黒ん坊は、ホッビイの帶革を掴んだ。傷を受けない片方の足で、せめて後押しでもしようといふものらしい。二人は塊りになつて、柱と死骸と岩石だらけの所を這ひながら、あの叫び、あの動物のやうな音を目蒐《めが》けて進んだのである。「ホッビイ。」と黒ん坊は呻いて、心配と驚きに啜《すゝ》り泣きし始めた。「ホッビイさん、神樣があんたの魂にお惠み下さるやうに……わしを捨てないでおくんなせえ、わしを此處に置いて行かないでおくんなせえ。あゝ、神樣、どうぞ……わしは女房と二人の小さい子供を、トンネルの外に殘して來た……この可哀さうな黒ん坊を棄てないでおくんなせえ。どうぞ後生《ごしやう》だから。」  燃えてゐる掘鑿磯は、眞暗な混沌の中へ、眩《まばゆ》い意地の惡い火の舌と、眞黒に動く影とを投げてゐた。ホッビイは石の間から手足や頭の出てゐるのが見えるので、それを踏まないやうに氣を付けた。顛覆した二臺の鐵材貨車の間に、突然一人の人影が現れた。それが手を伸ばして、ホッビイを探るやうにする。ホッビイはびつくりして身を引いた。そして誰とも分らない人の顏を見てゐると、その顏は又ホッビイを見詰めたが、白痴のやうな表情をしてゐる。 「どうする積りだ。」とホッビイは死にさうに愕きながらかう訊《き》いた。 「出るんだ。」とその顏は喘ぐやうに言ふ。 「あつちだよ。」とホッビイは答へた。「それぢや方向があべこべだ。」  その顏の表情は少しも變らないやうに見えた。けれどもそろ/\後へ退《すさ》り始めた。するとその姿はふつと音も立てず消えてしまつた。ごちや/\の山に呑み込まれたやうであつた。  ホッビイの頭は多少はつきりして來たので、考へを纏めようとした。方々の火傷が痛む。左の腕からは血が出てゐる。その外は大した事は無い。ホッビイはアランに頼まれて、オニイルへの傳言を言ひに來た事を思ひ出した。爆發の十分ばかり前、おれは岩石貨車の傍で、あの赤い髮の愛蘭人のオニイルとまだ話をしてゐたつけ。それから掘鑿機に攀《よ》ぢ登り始めたのだが、何故そんな事をしたのか、それは思ひ出せない。掘鑿機に足を掛けるか掛けない内に、下の地面が急に搖《ゆ》れ出したと思つた。びつくりした眼が二つ三つ、おれには見えた……それつきりで後は何も見えなかつた。何もかも其處迄ははつきり知つてゐるが、一體どうして掘鑿機の外へ出て來たものか、これはどう考へたつて不思議だ。爆發の勢で投げ出されたものかな。  呻《うめ》いたり泣聲を出したりする黒ん坊を後に引摺り乍ら、ホッビイは状況をずつと考へて見た。全然望みが無いとも思へない。昨日機械組立工の死んでゐた、あの横坑までこぎつければ助かる。あそこには繃帶材料がある。酸素吸入裝置がある。危急用の龕燈《かんどう》がある。その龕燈をアランが試《ため》してみた事さへ、ホッビイははつきり思ひ出した。あの横坑は右手にある。だがどの位離れてゐるだらう。三哩か。五哩か。それは分からなかつた。其處に達することが出來なければ、ホッビイは死ぬまでだ。煙は一分毎に濃くひどくなつて來た。ホッビイは自暴自棄《やけくそ》に這つて進んだ。  すぐ傍から聲がした。喘ぐやうにホッビイの名を呼ぶものがある。止まつて耳を澄《す》ますと、胸は早鐘を撞くやうだ。 「こつちだ。」その聲は喘《あへ》いで言ふ。「僕だよ、オニイルだ。」  オニイルであつた。あの偉《えら》い愛蘭人であつた。あんなに場所ふさげだつたこの大男の體は、柱の間に挾まれて坐つて、顏は右の片面が血まみれで、左はすつかり灰色だ。灰をなすり付けたやうだ。眼は苦痛を堪へて、眞赤な二つの一火だ。 「僕は駄目だ。」とオニイルは喘いで言ふ。「何が起つたんだ。僕はもう駄目だ。たまらない。苦しい。僕を射《う》ち殺してくれ。」  ホッビイは梁を一本傍に退《ど》けようとした。あらん限りの力を出して遣つてみたが、どうしたものか、突然地面に倒れてしまつた。  「そんな事、無駄だ、ホッビイ。」とオニイルは又言つた。「僕は駄目だ、苦しい。僕を射《う》ち殺してくれ。君は助かれ。」  その通りオニイルは見込がなさゝうだ。ホッビイにもそれが分つた。ホッビイは隱嚢《かくし》からビストルを取出した。手に取ると、この武器は、何といふ重さだ。ホッビイは腕を擧げることが出來ないやうに思つた。 「オニイル、眼をつぶり給へ。」 「そんな必要はないぞ……」オニイルは微笑したが、絶望の自暴自棄の微笑だ。「マックにさう言つて呉れ、僕に手落ちは無いんだと……ホッビイ、お世話になつたな。」  吹き付ける煙は目に痛かつたが、火光は段々薄くなつて來た。そこでホッビイは、もう下火だ、消えてくれゝばいゝと思つた。さうなれば、もう危險は無い。ところがその時だ。短いけれど猛烈な爆聲が、二度轟いた。「あれは爆藥だ。」とホッビイは思つた。  忽ちあたりがぐつ[#「ぐつ」に傍点]と明るくなつた。高く立つ柱が、一本炎々と燃えて、地下道のずつと遠くまで照らしたのである。ホッビイの目に入つたものは、大勢の人間だ。地面からもくもく湧いて出る人間だ。のそ/\少しづつ、少しづつ、前へ攀ぢるやうに行く人間だ。裸の汚れ腐つた腕や背中。それが火光に照らされて硫黄のやうに黄色い。泣く聲や叫ぶ聲が、岩石の間から聞える。手がにゆつ[#「にゆつ」に傍点]と出て、指を妙な風に握るやうにして何か合圖する。向うの方の地面は急に高く上がるやうだが、こつちのいろんな物が積み重なつた層は、反對に下がる一方のやうに思へたりする。  ホッビイはごそ/\這つて進んだ。喘ぐ。顏から汗が流れる。しかも一生懸命のホッビイは半ば無意識だつた。いろんな物の間から腕が突き出て、ホッビイの足を掴まうとするが、ホッビイは一向氣が付かずに進む。天井から滴《したゝ》り落ちる血の雨の中を、まるで無感覺なホッビイは攀ぢるやうに進むばかりだ。一人の人間には、實に血が澤山あるものだ。ホッビイはさう思ひながら、腹這ひにころがつた死人の身體《からだ》の上を、構はず行く。  この恐るべき時に、運命の神がホッビイの背中に抱き付いたまゝ、苦痛と恐怖に吼えたり泣いたりしたが、時々ホッビイの髮の毛に接吻して、どうぞ棄てないでくれと哀願した。 「わしの名前は、ウオシントン・ジャックスンと云ひやす。」と黒ん坊は喘いで言ふ。「わしはジョオジア州のアゼンスの生れで、ダニエルスビル生れのアマンダ・ベルを女房にしやした。三年前からトンネルの仕事をする事になりやした。石運びでがす。二人子供がありやす、六つと五つでがす。」 「こいつめ、默れ。」とホッビイは叫んだ。「そんなにしつかりと抱き付くな。」 「あゝ、ホッビイさん。」とジャックスンはお世辭に變つて、「あんたは好《え》えお人だ、みんながさう言ひやす……あゝ、ホッビイさん……」と言ひながら、ホッビイの髮や耳に接吻した。けれども、急にホッビイは黒ん坊の手を毆《なぐ》つた。黒ん坊は氣違ひのやうに怒り出した。ホッビイが自分を振り捩《もぎ》つて行くのだと思つたからである。有りつたけの力で、黒ん坊はホッビイの頸を兩手で締めつけて、喘ぎながら「やいホッビイ、手前の積りぢやあ、おれを此處でくたばらせる事が出來ると思つてゐやがるな。手前の積りぢやあ……あつ。」と言つたが、黒ん坊は大きな聲を擧げて地面に倒れた。ホッビイが拇指を、黒ん坊の兩眼に突込んだからだ。 「ホッビイ、ホッビイさん。」と黒ん坊は泣き聲になつて哀願したが、今度は本當に大聲で泣き出して、兩手を差出した。「わしを棄てゝ行かないでおくんなせえ、あんたのおつ母さんに免《めん》じて、あんたの年取つた好《え》えおつ母さんに……」  ホッビイは空氣を吸ひ込まうと、大きく口を開いた。胸は固く螺旋《ねぢ》で締められたやうだ。體全體が硬くなつて、長くなつて、もうこれでおれもおしまひかと思つた。 「こつちへ來《こ》い。」やつと又再び息をするやうになつてからホッビイはかう言つた。「仕樣がない奴だ。おれ達はこの列車の下を潜《くゞ》り拔けるんだ。おれを締め付けるやうな事をもう一度してみろ、すぐ貴樣をぶち殺すぞ。」 「ホッビイさん、あんたは好えお人だ。」それからジャックスンは[#「ジャックスンは」は底本では「ジャックス」]、片手でホッビイの革紐にぶら下がつて、啜り泣いたり呻きながら、ホッビイの後を這つて行つた。 「莫迦《ばか》、急ぐんだ。」ホッビイの顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]《こめかみ》はづき/\して、今に破裂しさうだ。  地下道は三哩の間が、殆ど破壞され、柱と岩石に埋められた。何處にも人が攀ぢ登つて進んで行くのが見えた。その人達は血まみれで、手足をもぎ取られて、號叫し、めそめそ泣き、物も言はずに、出來るだけ早く進まうと喘いでゐるのである。脱線してゐる岩石列車や、材料列車の上を攀ぢ登つて行く。滅茶苦茶になつたものゝ山を這つて上がつたり下りたりする。梁《はり》の重なつた間を、無理矢理に通り拔ける。先へ進めば進む程、道連れが多くなつて、みんな大急ぎで進むのである。この邊《あたり》になると四邊は眞暗で、時々弱々しい光りの火の舌が、こつちへ來《く》るやうに見えるだけだ。煙※[#判読不可、163-上-16]進んで來た。目でも何でも痛い。その煙の匂ひがして來ると、皆の者は無茶苦茶に足を早めた。  負傷してそろ/\這つてゐる者に追ひ附くと、我武者羅《がむしやら》にその體の上を乘り越えて行く。ほんの一歩進みたいばかりに、拳《こぶし》を揮つて毆《なぐ》り合ひが始まる。やがて一人の有色人種は小刀を振※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、邪魔になる人間を片端から手當り次第に刺し倒した。顛覆した貨車が一臺と、散亂した柱の塊りがあつて、その間の狹い通路へ來ると、本當の戰爭のやうな騷ぎが起つた。ピストルの音が何度もして、それに當つた者の叫喚は、取つ組合ひをしてゐる連中の怒號と交つた。けれども一人々々その隙間《すきま》に消えて行つて、※[#判読不可、163-下-6]の後から負傷者が呻きながら這つて續いた。  その中に道は大分に樂《らく》になつた。この邊にはもう邪魔な列車も少いし、爆發で折れた柱も全部ではない。唯この邊は全くの暗闇だ。喘ぐ。齒|軋《ぎし》りをする。汗と血を垂らして、滑り落ちたり攀ぢ登つたりして、逃げる連中が前へ/\行く。梁《はり》に駈け寄つて叫ぶ。貨車から飛び下りて道を探す。前へ。前へ。やがて段々に自分だけは助りたいといふ本能の荒れが靜まつて來ると、仲間思ひといふ感情がそろ/\甦《よみがへ》つて來た。 「こつちへ來《こ》い、こゝは通れるぞ。」 「通り拔けられるのか、此處は。」 「貨車の右を行くんだ。」  大慘事から三時間|經《た》つと、破壞された木組の地下道を逃げ出した連中の最初の一組が、平行地下道に達した。此處まで來ても電燈線が切れてゐる。眞暗闇の夜だ。皆は憤慨して恐ろしい聲を出して呶鳴つた。列車も無い。電燈も無い。平行地下道の連中は、もう夙《と》うに逃げ出して、列車はみんな出た後だ。  煙が遣つて來た。そこでまた例の氣が狂つたやうな競走が始まつた。  この一組は一時間ばかりの間、暗闇の中を只前の方へ滑つて行つた。走つた。突進した。やがて先頭の幾人かは、疲れて倒れた。 「莫迦々々《ばか/\》しいぢやねえか。」と叫ぶ連中がある。「四百キロメエトルなんて、とても駈けられつこねえぢやねえか。」 「そんならどうするんだ。」 「待つてるんだ、みんなが迎へにくる迄よ。」 「迎へにくるんだつて。誰がくるんだ。」 「その中に腹が減《へ》つて死んぢまわあ。」 「倉庫は何だ」 「危急用の龕燈《がんどう》は何處だ。」 「さうだ、何處にある。」 「マック……」 「さうだ、待つてゐろ、マックが……」  すると忽ち皆《みんな》の者の復讐心が燃え上つた。「待つてやがれ、マックの野郎。おれ達が出て行つたからにや……」  すると又煙が遣つて來た。皆は又突進を始めた。その中にまた足がひよろ/\になつた。」 「占《し》めたツ。停車場があるぞ。」  停車場は暗く、人一人ゐない。機械はぢつとしてゐた。誰も彼もこの大爆發に吹き飛ばされたのである。  例の一群は停車場に侵入した。停車場は馴染の場所だ。其處へ行けば、鉛で封をした箱に、食料品が入つてゐる事を知つてゐた。その箱を一寸開けばよい。  暗闇の中でがたぴしひどい音がした。實際腹の減つてゐる者は一人も無い。驚愕の餘り空腹なんぞ忘れてしまつたからである。けれども貯藏品の眞中に立たされてみると、誰しも胃の腑を一杯に詰め込みたいといふ狂暴な本能が目醒めて來た。皆《みんな》は箱に向つて狼の如く突進した。皆てんでに隱嚢《かくし》といふ隱餐に一杯食料品を詰め込んだ。その上にまた、驚愕と憤怒で何が何やら分らなくなつて、ビスケットや乾肉の袋をそこら中に撒《ま》き散らしたり、罎を何百本も碎いたりした。 「此處に龕燈《がんどう》があるぞ。」一人の聲がかう叫んだ。  乾電池《かんでんち》の危急用龕燈であつた。一寸電流を通ずれば好い。 「待て、スヰッチを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すと承知しねえぞ、このピストルがこはくねえか。」 「なぜ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しちやいけねえ。」 「そんな事すると、爆發が起るかも知れねえぞ。」  この考へ一つが、皆《みんな》の者を硬くしてしまふのに十分であつた。それが怖《こは》くて、昔はぴつたり靜まつてしまつた。  するとまた煙が來た。死物狂ひの疾走がまた始まつた。  突然皆の耳には、叫喚と發射の音が聞えた。光も見える。皆は一つの横坑を通つて、平行地下道に雪崩《なだ》れ込んだ。すると其處でも、幾塊りの大勢の人間が、たつた一つの貨車のたつた一つの座席を爭つて、拳固、小刀《ナイフ》、ピストルといふ騷ぎをしてゐるのが遠くの方に見えた。列車は出發してしまつた。すると皆は絶望して、地面にぶつ倒れて叫んだ。「マックの野郎。マックの野郎。待つて居やがれ、今におれ達が出たら」 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  恐慌がトンネルの中を掃《は》いて通つた。三萬の人間を地下道の外へ掃き出した。損傷を受けなかつた地下道の連中は、爆發の唸るやうな雜音を聞くと、直ぐさま仕事をやめた。 「海水がはひつて來たんだ。」と皆は叫んで、逃げ出さうとしかけた。技師達はピストルを擬して、その連中を引留めた。やがて煙の雲がこつちへ迫つて來た。呆然とした連中が、滅茶々々に走つて來た。さうなると、何と脅しても引留めることは出來なかつた。  皆は岩石列車に飛び乘つて、一目散に其處を逃げ出した。  或る囘避線で、一列車が脱線した。するとその後に續いた十列車が、急停車をさせられた。  幾群も幾群も、平行地下道に雪崩れ込んで、其處の線路に一杯立ち塞がつて、わい/\騷いだ。何臺も列車が立往生した。かう停《と》めてみたが、その列車はもう人間の山だ。そこで一つの席を爭つて、猛烈な爭鬪が初まつてゐるのだ。この恐慌はとても酷《ひど》かつた。果して何事が起つたのか、誰にも分らない。分つてゐる事は、何か猛烈に恐ろしい事が起つたといふだけだから一層|堪《たま》らない。技師連は皆の者を色々に説得して、どうにか落着けようとしたが、その中に列車がどん/\こつちへ遣つてくると、どの列車にもまるで驚き切つた顏の連中が滿載されてゐて、その連中は口を揃へて「トンネルが火事だ。」と叫ぶ……眞暗な地下道からは煙が這つてくる。さうなると技師達も恐怖に襲はれて來た。ありつたけの列車が外へ向つて突進した。いろんな材料や交代の連中を積んだ列車が、奧の方へ向つて進んで來たが、擦れ違ふ列車の人間の山が、何か荒々しい叫びを擧げて行くので停車した。それから外の方へ逆戻りを始めた。  かうして大慘事から二時間すると、トンネルは百キロメエトルの間が、全く何もかも打ち捨てられてしまつた。トンネルの奧の、各停車場にゐる機械係も勿論逃げたので、機械はぱつたり止まつてしまつた。たゞ所々の停車場には、勇敢な技師が幾人か踏み留まつてゐただけである。  技師のベエルマンは、最後の列車を守つて殘つてゐた。  この列車は全部で十車輛で、所謂「煉獄」の完成した部分にゐた。その部分は、もう鐵の肋材に釘が打たれてあつて、慘事の場所から後方二十五キロメエトルであつた。照明設備は此處でも矢張り故障が起つてゐた。けれども豫めベエルマンが蓄電池燈を用意してあつたから、その明りは煙の中を向うまで照らした。 「煉獄」に働く人は三千人であるが、約二千人はもう行つてしまつて、あとの千人を、ベエルマンはこの列車で連れ出さうとした。  みんな幾人も組になつて、息せき切つて遣つて來ては、驚いた餘りに氣違ひのやうになつて車に飛び込んだ。それがどん/\遣つて來た。ベエルマンは辛抱強くいくらでも待つてゐた。「煉獄の連中」の中には、この列車まで戻つて來るのに、三哩も歩かねばならないのが大勢あるからである。 「出掛けろ。出せ。」 「みんなを待つてゝ遣らうぢやないか。」とべエルマンは呶鳴つた。「こんな場合にけち[#「けち」に傍点]な眞似をするな。おれのピストルには六發あるぞ。」  ベエルマンは白髮頭の背の低い男で、足が短く、獨逸人だ。洒落も冗談も解しない、生眞面目《きまじめ》一方の男だ。  それが列車に沿つてあちこち歩いては、列車の上で興奮して動く頭や拳が煙の中に見えると、その方に向つて呪ふ言葉を呶鳴り散らした。 「見つともねえ眞似をするな。お前達はみんなどうせ出られるんぢやないか。」  ベエルマンはいつでも發射の出來るピストルを手に持つてゐた。(この慘事で分つたことだが、どの技師も、みんなピストルは立派に携帶してゐた。)  皆の口々から脅迫する言葉が段々|酷《ひど》くなると、ベエルマンは機關軍の機關手の傍へ上つて行つて、その機關手を脅かして、命令もないのに出發すると射《う》ち殺すぞと言つた。この列車のあらゆる緩衝機、あらゆる鎖、そんな所にまで一杯人がぶら下がつてゐて、みんな叫んだ。「出せ、出せ。」  煙がとても我慢出來なくなつたが、ベエルマンは、まだまだ待つてゐた。  すると一發の音がした。ベエルマンは地上に打ち倒された。列車は出發した。  絶望した幾組もの連中が、その後を眞赤になつて怒りながら追つ駈けたが、やがて息を切らして、喘ぎながら口のあたりを泡だらけにして突立つてしまつた。  この取り殘された連中は、四百キロメエトルも續く枕木と石塊の道を歩き出した。先へ行けば行く程、益々脅かす調子を張り上げてから叫んだ。「やい、マック、手前を生かしちや置かねえぞ。」  この連中の後には、ずつと後に、又|他《ほか》の連中が、もつと大勢|後《あと》から/\と、どし/\遣つて來た。  トンネルの中では、恐ろしい競走が始まつた。命を助けたい必死の競走だ。この事に就いては、後に各新聞に一齊に一杯の記事が出てゐた。  その走る連中が、駈けて遠くまでくればくる程、益々狂暴に、益々氣違ひじみて來た。倉庫でも機械でも、何もかもぶち壞した。それが電燈の輝いてゐる場所へ辿り着いても、まだこの連中の憤怒と心配は減《へ》らなかつた。又その中に最初の救助列車が遣つて來て、皆を外へ運び出すといふ事になると、もう全然危險が無くなつてゐても、一番先に列車に乘らうとして、小刀《ナイフ》やピストルを持出して爭つた。  トンネルのずつと奧で大慘事が起つた時、マック・都市《シテイ》はまだ夜であつた。陰氣な空模樣であつた。空の雲は一面に重く低く垂れてゐる。眠ることの無い時代に、最も眠りの無いこの都市が夜の汗をかくやうに、明るく光を投げてゐるのを反射して、空はうす暗く赤らんで光つてゐた。  マック・都市《シテイ》は晝間と同樣に、熱病に浮かされたやうに騷音を立てゝゐた。見渡す限りの地面が永遠に動搖しなから、燃え續ける熔岩流にでも覆はれたやうに、火花と火焔と蒸氣とを立騰《たちのぼ》らしてゐた。何萬と群る燈火は、所々から遠くまで光を放射してゐて、町全體は丁度顯微鏡で見た滴蟲類のやうに見えた。トンネルへ線路が入つて行く入口に近い高臺には、各工場が立つてゐる。その工場の硝子屋根は緑色に見えて、冬の冴《さ》え返つた月光に照らされた氷のやうであつた。警笛と警鈴がけたゝましく鳴り響き、あたりには到る處に鐵槌《てつつゐ》の音がして、地面は搖れ通しだ。  いつもと相變らず、矢を射るやうな列車が、何臺もトンネルの中へ下りて行き、又こつちへ上つて來た。眩《まぶ》しいやうに明るい工場には、ダイナモ、喞筒《ぽんぷ》、通風機などの巨大な機械が、音を立てゝ動いてゐた。  冷たい天氣である。麺麭燒竈のやうに熱いトンネルから戻つた連中は、寒さに縮み上がつて、列車が停まると、いきなり齒をがた/\させながら酒保に飛び込んで、熱い珈琲を飮んだり、湯で割つた火酒を呷《あふ》つたりした。それから喧しく騷ぎ立てながら電車に飛び乘つて、寄宿舍や家へ運んで行つて貰つた。  四時を數分過ぎると、忽ちトンネルに不幸が起つたといふ噂が擴まつた。四時十五分にハリマンは起こされて、中央事務所に遣つて來たが、さすがに疲勞で殆ど倒れさうな樣子で、まだ眠さうであつた。  ハリマンは元來が精力的な男で、かう決心したからには挺《てこ》でも動かぬといふ性《たち》であつたが、勞働の職場で鍛へられて、嚴格一方の人間である。けれども今日はひどく意氣銷沈してゐた。夜中を泣き明かしたからだ。昨夜電報が着いてハリマンの何よりも大事な獨り息子が、熱病に罹つて支那で死んだと知らせて來たからであつた。ハリマンは恐ろしく苦悶した。やがて眠りに就かうとして、催眠劑の散藥をいつもの二倍量飮んだのである。だからハリマンはまだ半分眠つてゐるやうな樣子で、トンネル内へ電話を掛けて、大慘事の詳しい模樣を聞かうとした。詳しい事どころか、確かな事を少しでも知つてゐる者はない。そこでハリマンは無感覺な無頓着な顏付で、安樂椅子に腰掛けて眼を開いてゐながら眠つてゐた。それと丁度同じ時刻に、勞働者住宅地の何百軒といふ家々に燈火がついた。町の通りでは話し聲がし、囁く聲がした。あの驚いた人達の囁きである。さういふ囁きは、ぐつすり寢てゐる人の耳にも、不思議と聞えて來た。女達が走り寄つてかたまる。南住宅地からも北住宅地からも、幾組も女や男が、眞黒に塊まつた組が、高臺のきら/\光る硝子屋根を目鬼《めが》けて、中央事務所へ押寄せて來た。  何喰はぬ顏で、徒《いたづ》らに高く突立つてゐるビルディングの前に皆《みんな》は集まつたが、その内に非常に大勢の群集になつてくると、その群集は自然にかう叫び出した。「ハリマンを出せ。何が起つたのか聞きに來たんだ。」  一人の書記が現はれた。癪に觸る程よそ/\しい顏付である。 「我々だつて何もはつきりした事は知らんのだ」 「何だ、書記か。書記なんか引込め。ハリマンに用があるんだ……ハリマンを出せ」  益々集まつて來た。四方八方から眞黒な束のやうなものが匍ひ寄つて來て、中央事務所前の群集と一緒になつた。  遂にハリマン自身が現れた。蒼白い、年をとつた顏で、疲れて、眠さうである。そのハリマンに向つて、何百人の聲が、「何が起つたのか。」といふ同じ質問を、あらゆる國語、あらゆる調子で浴びせかけた。  ハリマンは何か言はうとする合圖《あひづ》をした。すると一同は靜かになつた。 「南地下道で、掘鑿機《くつさくき》の所に爆發が起つた。それ以上は分らん。」ハリマンはかう言ふのも、やつとの事であつた。舌は硬ばつて、口の中に金屬の棒でもあるやうであつた。  狂暴な怒聲が、そのハリマンに答へた。「嘘つけ。詐欺師め。おれ達に教へねえな。」  ハリマンの顏には、かつ[#「かつ」に傍点]と血が上つた。その眼は、顏から飛び出しさうに怒つた。ハリマンはぢつと考へた。何かしやべらうと思つた。けれど頭が言ふ事をきかない、考へる力が無い。そこでハリマンはそこを退《ど》いて、扉を強く締めて行つてしまつた。  すると一つの石が空中を飛んで、地階の硝子戸を一枚破つた。一人の書記が、驚いて其處を逃げ出すのが見えた。 「ハリマン。ハリマンを出せ。」  ハリマンはまた戸口に現れた。ハリマンは冷たい水を浴びてきて、いくらかはつきりした氣持になつて來たのである。その顏は白髮の下で、蟹のやうに赤く見えた。 「何で莫迦な事をする。窓をぶち割つたりするんだ。」とハリマンは聲高く叫んだ。「先刻《さつき》言つた事の外は、それ以上何も分らんのだ。聞き分けが無くつては困るぢやないか。」  あつちこつちで叫んだ。 「死人が幾人か、それを聞かせろ。誰が死んだのか。その名前を。」 「君達はみんな莫迦の集まりだぞ、君達女は。」とハリマンは怒つて、「そんな事が今分つてたまるもんか。」と言つてから、ゆつくり後を向いて、齒の間で何か呪ふやうな言葉を言ひながら、また建物の中へ戻つて行つた。 「ハリマン。ハリマンを出せ。」  女達は押寄せた。  急に石が雨霰と飛んだ。平生は何も考へずに法律に從ふ民衆も、かういふ場合には生れ附いて持つてゐる正義の感情で、勝手な法規を拵へて、しかもそれを即座に用いるものである。今の場合がそれだ。  ハリマンがまた現れた。大いに怒つてゐる。けれども一口も口を利かない。 「その電報を見せてくれ。」  ハリマンは突立つたまゝである。「電報か。電報は受取らん。電話で報告があつたんだ。」 「それを見せろ。」  ハリマンは顏色一つ變へない。「よし、見せよう。」一分ばかりすると、また出て來た。手には電話の覺え書の帳面から剥《は》がした一枚の紙切れを持つて、それを大聲に讀み聞かせた。遠くの方の人にも、ハリマンの張り上げて言ふ言葉が聞えた。「掘鑿機……南地下道……爆破の際に爆發……死者二十乃至三十名及び負傷者……ホッビイ。」  讀んでしまふと、ハリマンはその紙切れを直ぐ傍の連中に渡して、また中へ戻つて行つた。  その紙切れは忽ち細かく引き裂かれてしまつた。大勢が同時に讀まうとしたからだ。暫くの間群集は落ち着いたやうであつた。死者二十乃至三十名……これだけでも相當恐ろしいが、大した慘事ではない。だから今度もいつかのやうに助かつてゐるかも知れない。それに丁度うちの人が、掘鑿機の所で仕事してたつて、誰も言つてやしないもの。こんな事を思ふと、ホッビイが電話で報告したといふ状態に皆は安心した。  けれどもまだ女達は家へ歸らない。どうも、變だ。女達の前の不安が戻つて來た。眼は血走り、胸は動悸《どうき》がする。何か重いものがみんなの頭の上に載《の》つかつてゐる。皆びくびくしたやうな視線で、互ひに見合つてゐた。  もしハリマンの言葉が嘘であつたら……  こつちへ上つて歸つて來る列車の停車場へ、皆はどつ[#「どつ」に傍点]と押寄せた。體は震へ、寒さに縮こまりながら、頭巾《づきん》や毛布を冠つて待つてゐた。その停車場から見ると、線路がずつと下つて行つて、そこでトンネルの入口になる。濕つたレエルはアアク燈の光に照らされて輝いて、レエルの先が合して細い一本の線になるあたりまで見える。ずつと下の方に、二つの灰色の穴が明いてゐる。その一つの穴に光が射した。はつきりしないがぱつ[#「ぱつ」に傍点]と明るく射した。一つの箭光が出て來たと思ふと、忽ち一つ眼の神のやうなきら/\光る一つ眼が見え出した。列車が線路の上を、こつちの方へ昇つて來た。  列車の往來は、まだ平生と少しも變りは無い。材料列車は同じ間隔を置いて、何度も中へ下りて行つた。ただ岩石列車の方はその間隔が不規則で、或る時は一列車、或る時は三列車、五列車、十列車も續いてくる事があるが、その不規則はいつもと同じである。全然いつもの通りだ。六年間夜晝やつて來た通りだ。その光景は、誰も彼もが何千度も見たことのある同じ景色だ。けれども皆は昇つてくる列車を一々ぢつと見詰めて、心は益々緊張して來た。  或る列車で交代の連中が着くと、その連中は忽ち取卷かれて、質問の暴風雨に會つた。けれどもこの連中は何も知らない。その時分には、發車してゐたからだ。  慘事の後十分も經《た》たない中に、その噂が知れ渡つたのは、どういふ譯か説明がつかなかつた。後で分つたが、それは或る技師が不注意にも一言洩らして、思はず知らず電話口へ叫んだからである。けれどもこんな事情は、今誰も知らなかつた。あの報告以上の事は何一つ知らなかつた。その報告は、いかにも大事さうに、口から口へと傳へられた。  材料列車も、交代の人數を載せた列車も、六時迄は、規則正しく時間を置いて、トンネルの中へはひつて行つた。(これらの列車は、命令によつて、五十キロメエトルの所まで送られた。)  六時になると、出發準備の出來た連中に向つて、材料列車が一つ脱線したから、それを片附けるまで待つて居ろ、だが出發準備は整へて置けと傳へられた。もう何度も經驗のある古株連は頷《うなづ》いて、お互ひに眼と眼を見合はせた。中の樣子はどうも惡いらしい、困つたな、とその眼は言つた。  女達には停車場を立|退《の》けと命令されたが、その命令に從はうともしない。身動きもせず立つてゐる。レエルが蜘蛛の巣のやうに集つてゐるその場所へ、本能の力で螺旋《らせん》でねぢ付けられたやうだ。そして線路のずつと下の方を見詰めたまゝだ。群集は益々大勢増して來た。子供達、大きい少年、勞働者、見物人。  この間にもトンネルは、絶え間なく、岩石を吐き出してゐた。  突然群集が氣が付くと、材料列車の入つて行く囘數が少くなり、何か頻りにがや[#「がや」に傍点]/\騷ぐ聲が渦卷き上つて來た。やがてその次には、もう材料列車は一輛も入つて行かなくなつた。群集は益々不安になつた。もう誰も、脱線した一列車が線路を塞《ふさ》いでゐるといふ、お伽噺のやうな話を本氣にする者は無くなつた。毎日そんな脱線はあつても、列車は同じ數だけトンネルに入つて行くからだ。そんな事は誰も知つてゐた。  やがて夜が明けた。  紐育の各新聞は、早速この大慘事を記事にした。「大西洋の海水トンネルに侵入す。死者一萬人。」  日光が冷たく光つて、海の上をこつちへ射《さ》して來た。電燈は一時に消えてしまつた。唯ずつと向うの波止場には、急に汽船の煙突から黒煙が上ると見ると、其處にまだ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉式燈臺が消すのを忘れたやうに※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉してゐた。暫らくするとその光も消えてしまつた。輝いてゐる時は、童話の中の都のやうなこの都市も、今はひどく見すぼらしい町に見えた。冷たさうなレエルの網。列車の海。電信柱。所々に無暗に高いビルディングがあつて、その上に灰色の雲が低く垂れこめてゐる。誰の顏も、徹夜したやうに黄色く、硬ばつて、寒さに蒼くなつて見える。海からは冷たい光と共に氷のやうな氣流と冷たい霧雨が遣つて來た。女達は自分の子供を、上衣《うはぎ》や頭巾《づきん》や毛布を取りに家へ遣つた。けれども自分達は、その場所から一足も離れようとしなかつた。  この時分になると、下から飛び出す岩石列車には、どれも人間が乘つてゐた。たつた今出發したばかりの材料列車や勞働者列車も戻されて來た。  興奮は愈々高まつて來た。  けれども、上つて出て來た連中は、慘事のあつた場所がどれ位の延長なのか、その點は全く知らない。その連中の言ふのには、向うからどし[#「どし」に傍点]/\出てくる連中があるから、それでおれ達も先に出て來たばかりだといふ。  さうなると女達はまた不安になつた。とても堪らなく心配になつて、下の方の、あの小さい黒い二つの穴を見詰めた。まるでその穴は、二つの腐つた眼だ。狡猾な眼だ。そこから不幸や恐怖が目を剥《む》いて睨んで、上を向いてゐるらしく見えた。  九時頃に來た列車が皮切りで、それから後のは皆さうだが、九時の列車には人と人がぎつしり詰まつて乘つて、それが皆興奮して、列車の停まるか停まらぬうちから何か身振りをしてゐる。この連中はトンネルの奧から來たのだ。奧ではあるが、あの恐慌の事實が傳はつて、それに恐れ震へて出て來た最初の連中だ。みんな呶鳴る。吼える。「トンネルが火事だぞ。」  恐るべき叫喚、恐るべき咆哮が擧がつた。群集は轉《ころ》がるやうに前に出た。あつちでもこつちでも前へ出た。  そこへハリマンが貨車の上に現れて、帽子を振つて何か叫んだ。朝の光りにハリマンは死骸のやうに見える。眞蒼な顏で、血《ち》の氣《け》はない。その樣子を誰も慘事の爲めだと思つた。 「ハリマンだ。靜かにしろ、何か言ふんだ。」 「わしは誓ふ。これからわしの言ふ事は眞實の眞相だぞ。」群集が靜まると、ハリマンはかう叫んだ。その言葉毎にハリマンの口から濃い湯氣《ゆげ》が飛び出した。「トンネルが火事だなんぞと、そんな莫迦な話はない。コンクリイトも鐵も、燃える筈はないぢやないか。爆發によつて掘鑿機の後《うしろ》の柱が二三本、少し參つてゐた柱が燃えたんだ。その話が傳はり傳はつて、あんな大層もない恐慌になつたんだぞ。もう既に技師連中が消しにかゝつて居る。だからみんなも、別に……」  かう聞いても、皆はハリマンを終りまでしやべらせなかつた。狂暴な叫びと口笛が起つて、ハリマンの言ふのを妨害し、女達は石を掴んだ。ハリマンは貨車から飛び下りて、停車場へ戻つて、ぐつたりと椅子に力無く腰掛けた。  ハリマンはかう思つた。もう何もかも、おれには手の付けようが無い。今此處で、この地上で、ひどい慘事が起らんやうにする者は、たゞアランばかりだ。  けれどもアランは、晩にならなければ此處へは歸つては來ない。  殺風景な寒い停車場のホオルには、技師や醫者や事務員が集まつてゐた。皆救助作業の準備を整へようとして、大急ぎに駈け付けて來た人達である。  ハリマンは催眠藥の力を消してしまはうと、眞黒な珈琲を一リットルも飮んだ。嘔吐をして、二度ばかり卒倒した。  大體ハリマンのすべき事は、どんな事だ。ハリマンが耳に入れた事の中で、たつた一つ信用して好い報告があつた。それはベエルマンからの知らせだ。ベエルマンに代つて、或る技師が第十六停車場から電話で言つて寄越した知らせだ。  ベエルマンの意見によると、木造地下道の柱が、熱のため自然發火をして、その火が爆藥《ばくやく》に移つて爆發をさせたものだらうといふ。それは一應|頷《うなづ》ける理窟だ。けれどもさうならさうで、その爆音は、第十二停車場まで聞えた位、あんなひどい音である筈がない。  ハリマンは救助列車を中へ送つたが、その列車は皆戻つて來た。四本の平行線上を走る列車が、すべてトンネルの外に向つてゐるので、押し戻されて出て來たのである。  ハリマンは四時三十分にアランに電報を打つたが、その電報は、紐育バッファロ間を走る列車の寢臺車にゐるアランに屆いた。アランは返電を打つた。特別列車で急いで歸る。爆發などする筈はない。爆藥は火の中で初めて燃え出すものだ。しかもその爆藥さへも機械の中にある量は實に少い。救助列車をどし/\出せ。各停車場に技師を配置せよ。燃えてゐる地下道を、水びたしにしてしまへ。  アランはさう言ふだけだから、何とでも言へよう。差當りたつた一列車でも、トンネル内へ送る事は全然不可能であつた。けれども一方にハリマンは早速手配させて、外に向つて走る線の列車だけでも、整然と出てくるやうにしたのである。  もう誰からも電話がかゝらない。たゞ第十五、第十六、第十八の停車場には、まだ技師がゐて、そこから報告は來たが、どの列車もどの列車も通過するといふ事だけであつた。  暫くすると、線路には何も走らなくなつた。そこでハリマンはトンネルの中へ救助列車を四列車續け樣《ざま》に送つた。  群集はさういふ列車が前を通るのを、陰鬱な顏で見送つた。  女達は幾人も、技師達に向つて口|汚《ぎたな》く罵つた。皆の氣持は、一分々々と興奮して來た。けれどもその内に、十時近くなると、「煉獄」からの勞働者を載せた、最初の列車が到着した。  さうなると、この大慘事は、誰が想像したよりもずつと恐るべき結果だといふ事が分つて來て、誰一人疑ふ者もなくなつた。  次第に幾列車もやつて來た。その中には、こんな事を呶鳴る連中がゐた。「一番先つぽの三十キロの間の奴は、みんなくたばつたぞ。」 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  トンネルから歸つた連中は、黄色い顏を泥や埃で滅茶滅茶に汚してゐるが、その連中は皆に取卷かれて質問の暴風雨に逢つた。けれどもその質問の一つにも答へることは出來ない。訊《き》かれる事は、まるで知らない事ばかりだ。仕方がないからこの大慘事について知つてゐる限りの事をしやべると、それを又何百囘もしやべらねばならなかつた。しかもその事は二口か三口で言へてしまふ事だ。亭主に逢へた女房達は、頸へかじり付いて、その喜びを平氣で見せた。誰にも隱さない。まだ恐ろしい不安に包まれてゐる、外《ほか》の女達に向つても隱さない。心配を顏に浮べた女達は、何度でも同じ事を、誰かうちの人を見掛けた者はないかといふ事を訊いてみた。ぢつとして靜かに泣いてゐるかと思ふと、あつちこつち走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。叫ぶ。呪ふ。その内にまたぢつと立止まつて、下の線路の方から目を放さない。やがて又心配に追立てられて、もう一度走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。  皆《みんな》はまだ/\望みを失はないでゐた。あの「先つぽの三十キロの間の人は皆死んだ。」といふ話は、大袈裟に言つた話だと分つたからだ。  やがて遂にあの列車が到着した。技師のベエルマンが誰かに射ち殺されるまで頑張つて、長い間出發させまいとした、あの列車だ。この列車は伊太利人の死骸を一つ載せて來たが、これが列車の運んで來た最初の死骸であつた。けれどもこの伊太利人は大慘事の爲めに命を取られたのではない。この男は同じ伊太利人の友達《アミコ》と小刀《ナイフ》を揮つて猛烈な斬り合ひを演じた。それは貨車の上の席を爭つたのだ。この男が勝つて、その同國人を刺し倒した。するとこの友達《アミコ》は跳ね起きると飛びかゝつて、この男の體を引裂いたといふ位にひどく遣つ付けた。この伊太利人は出坑の途中で死んだのである。兎も角、この男が最初の死者だ。エヂソン・ビオ會社の撮影技師は、ハンドルを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。  この死骸が停車場ビルディングに擔ぎ込まれると、群集の間に爆發が起つた。精神的爆發だ。憤怒が燃え上がつたのだ。忽ち皆《みんな》はトンネルの中にゐた連中と同じやうに叫んだ。「マックは何處だ。マックの奴、思ひ知らせて遣るぞ。」するとこの時に、ヒステリックの甲高な聲を擧げて、一人の女房が女連の間を掻きわけて來て、髮の毛をかき※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]り、寢卷を引裂きながら、その死骸の方へ駈け寄つた。 「チエザレ。チエザレ、まあお前は……」さうだ、やつぱりチエザレだ。  ベエルマンの列車に乘つて來た、興奮した勞働者達の大部分は、伊太利人と黒人であつたが、後からはもう一列車も來《こ》ないと言つた時には……ぴつたり靜まつてしまつた。 「汽車はもう來ないのか。」 「おれ達が一番おしまひだ。」 「お前さん達が何だつて」 「一番おしまひだ。おれ達が一番おしまひだ。」  散彈の霰が、群集の上へ落ちたやうな騷ぎになつた。皆あつちこつちに走つた。夢中で、ぼんやりして、彈丸が頭に當つたやうに|顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]《こめかみ》を兩手で押へてゐる。 「一番おしまひだ。あの連中が一番おしまひだ。」  女達は地面に伏して悲嘆に暮れた。子供達はわつ[#「わつ」に傍点]と泣出した。けれども他《ほか》の人達には、すぐ復讐心が燃え立つた。この凄い大群集は急に動き始めた。群集の上を雲のやうに包んでゐるものは、叫喚と騷音の交つた音だ。  軍人らしい髭をした、皮膚の色の淺黒い、角張つた體付の波蘭人が、石塊の上に昇つて吼えた。「マックの奴が、みんなを鼠|捕《と》りにかけやがつたんだ……鼠捕りによ……仲間の連中のため復讐しろ。」  群集は暴《あば》れ出した。急に手といふ手には、皆石を持つた。石は民衆の武器だ。その石は此處に澤山あつた。(大都市の往來をアスファルトにしたがる理由の一つは、或はこの邊だらう。)  三秒|經《た》つと、停車場ビルディングには、一つとして滿足な窓が無くなつた。「ハリマンを出しやあがれ。」  ハリマンは姿を見せない。  ハリマンはたつた今軍隊に電話をかけ終つたところである。僅かばかりのトンネル都市の警官では、無力に等しいからだ。今ハリマンは片隅に蒼然たる顏で喘ぎながら腰掛けてゐる。考へようとしても、何も考へることが出來ない。  群集はハリマンを罵つて、この建物を襲撃しようとする勢を見せた。けれどもその時だ。波蘭人はもつと他《ほか》の事を提議した。技師の連中もみんな同罪だ。だからその連中の家の天邊《てつぺん》へでも火をつけて、女房子供を燒き殺さうといふのである。 「何千人も、何千人も死んだ。」 「あいつ等をみんな遣つ付けちまふんだ」と叫んだのは、夫を殺された、あの伊太利女である。「一人殘らずだ。チエザレの敵打ちだ。」さう言つてこの女は、先に立つて走つた。着物は裂け、髮は掻き|※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》られ、ひどい形相《ぎやうさう》になつた。  群集は何とも分らない騷音に包まれた一團となつて、石塊の原の上を、灰色の雨を衝《つ》いて轉《ころ》がるやうに進んだ。夫が、一家の稼ぎ手が、父が、それが死んだ……困つた。情無い。敵打《かたきうち》だ。騷々しい叫喚の間に歌が切れぎれに聞える。いろんな場所の一塊りづつが、同時にマルセイユ、インタアナショナル、合衆國の歌を思ひ/\に歌ひ出した。「死んだ、死んだ、何千人も死んだ。」  興奮した群集には、破壞しろ、打倒せ、殺せといふ盲目滅法《めくらめつぱふ》な憤怒が燃えた。レエルは引起された。電信柱は押倒された。見張小屋は掃《は》き飛ばされたやうに無くなつた。碎けたり折れたりする音が聞える。粉々《こな/″\》になつて飛んでしまふのが見える。荒々しい鬨《とき》の聲が、どつ[#「どつ」に傍点]と擧がる。警官達は石ころを投げ付けられ、口笛を吹かれ、追ひまくられた。誰も彼も急に自分達の悲みを、怒りの餘りに忘れたやうであつた。  けれども先頭に突進するのは、最も亂暴な連中だ。野獸のやうになつて、氣の狂つたやうな女達だ。それがみんな技師連の家や別莊を目がけた。  この時海底の下では、あの無茶苦茶な競走が續いてゐた。轉がり落ちる岩石と火と煙の中を、まだ生きてゐる連中は絶えず前へ/\と走つた。熱い息を吹きかけながら追つかけてくる死神に、追ひ附かれないやうに走つてゐるのだ。トンネルの奧には、時々たつた一人の人間が髮を逆立《さかだ》て、齒を噛み合せながら、よろ/\前へ遣つて來《く》る。二人宛の組が喚《わめ》いたり泣いたりして來《く》る。幾人も塊まつて續いて、肺臟をひゆう[#「ひゆう」に傍点]/\言はせて喘《あへ》いで遣つて來る。負傷者や手足を取られた者は、地面に倒れて助けを呼ぶ。この恐ろしい長い旅を歩いて行ける人間は無いと思ふと、もう痲痺したやうに立止まる者がうん[#「うん」に傍点]とあつた。諦《あきら》めてしまつて、其處に横になつて、死ぬのを待つものが澤山ある。けれども又どし/\走る者もあつた。その連中は股を馬のやうに振つて、ひよろ/\と草臥《くたび》れた連中から、羨しがられ呪はれながら、ずん/\人を追ひ越して行く。  救助列車が警鈴をけたゝましく鳴らして、こつちへ來《こ》いと合圖《あひづ》をした。暗闇の中から幾人も飛び出して、助かつた事に興奮して啜泣《すゝりな》きながら列車に飛び付いた。けれどもこの列車は、トンネルの奧へ入つてゆくので、その連中は暫くすると驚いて跳《と》び降りた。第二の列車の處まで歩いて行かうとするが、その第二の列車は、五哩の向うに待つてゐた。  その救助列車は、實にのろ/\と前進した。最後にトンネルを出た列車に乘つてゐた狼狽した連中は、貨車の上の場所を廣くしようとして、構はず岩石を投げ出したので、さういふ線路を先づ綺麗に片附けなければならなかつた。そこへ煙が來た。目でも何でも痛む。ひり/\する。呼吸が苦しくなる。けれども列車は前進した。濃い煙が壁のやうになつて、照明燈《せうみやうとう》の光りが、その煙の壁を突拔けられないやうな邊まで達した。この救助列車には、命を物とも思はない勇敢な技師達が乘つてゐた。技師連は列車から飛び降りて、防煙マスクを着けて、煙の籠つた地下道をもつと奧へ急いで行つた。手に/\警鈴を振つた。この連中が進んで行くと、何もかも諦め切つて、疲れ果てた小人數の組に出逢つた。そこでもう千メエトル歩けば、列車に着くのだと激勵して、最後の努力を出させることが出來た。  ところがこの列車も後退りしなければならなくなつた。技師連の中で大勢煙の中毒に襲はれた。その中の二人は、夜に入つて病院で死んだ。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  この日の朝、モオドは大いに寢坊をした。看護婦が旅行に出たので、その代りに病院で働いて、やつと二時頃に寢たのである。そして目を覺ますと、小さいエディスは、自分の小さい寢床の上に坐つてゐて、退屈紛れに、綺麗なブロンドの髮を、細いお下げに編んでゐた。  二人がおしやべりを始めたかと思ふと、そこへ女中が入つて來て、モオドに電報を渡した。女中は不安さうな眼をしながら、トンネルに大變な事が起りましたと言つた。 「なぜ、この電報を早く持つて來《こ》なかつたんだい。」モオドは多少腹が立つてかう訊《き》いた。 「わたくしの所へも旦那樣から電報でございまして、奧樣をお起しゝないように、といふ事でございましたので。」  電報はアランが途中から寄越したものであつた。「トンネルに大慘事起つた。家を離れるな。夕六時歸る。」  モオドは眞蒼《まつさを》になつた。ホッビイは、とモオドは思つた。モオドの頭に最初に浮んだのはホッビイであつた。ホッビイは夕食をすますと、トンネルに入つて行つた。モオドと別れる時のホッビイは、上機嫌で冗談なぞを言つてゐたが…… 「母ちやん、どうしたの。」 「トンネルで何か大變な事があつたのよ。」 「大勢死んだの。」如何にも可愛らしい、子供らしい身振りで、お下げを編みながら、エディスは歌ふやうな聲で輕くかう訊《き》いた。  モオドは何とも返辭しない。前の方をぢつと見てゐるばかりである。あの時分あの方は、トンネルのずつと奧の方へ行つてらしつたか知らん。  するとその時エディスは、モオドの頸筋《くびすぢ》へ抱き附いて、慰め顏にかう言つた。 「心配しなくつていゝ事よ。だつてパパは、バッファロオにいらつしやるんですもの。」  エディスは笑つた。パパは大丈夫だといふ事を、モオドに信じさせよう爲めである。  モオドは水浴用の外套を急いで着て、中央事務所へ電話をかけた。隨分暫く經《た》つて、やつと電話が繋がれた。けれども其處の人達は何にも知らない、といふより何にも知らうと思はないらしいのである。ホッビイさんはと聞けば、ホッビイさんに就いては、まるつきりまだ報知《しらせ》はありませんと言ふ。  モオドの眼には涙が出て來た。何人《だれ》に見られても惡い涙である。慌《あわた》だしく拭ふ涙である。モオドは不安になつて興奮しながら、エディスと一緒に水浴をした。二人はこの樂みを毎朝するのである。モオドも矢張りエディスと同樣に子供らしい喜びを感じては、水の中で水を撥《は》ね飛ばすのである。浴室で笑つたり叫んだりする。さうするとその聲は實によく反響する。又|湯氣《ゆげ》のやうに煙が立つてゐる灌水栓からしやあ[#「しやあ」に傍点]/\と水を出す……すると身體は冷たく、段々冷たくなつて來る。小さいエディスは、氷のやうに冷たくなるので、まるで誰かに擽《くすぐ》られてゞもゐるやうに笑ひ出してしまふのである。その次には朝のお化粧、それから朝食。かういふ一時間は、モオドの一番樂しい時間で、決してこれだけの事を缺かしたことはなかつた。朝食の後で、エディスは「學校」へ行く。その學校といふのはエディスの部屋で、それが教室で、黒板《こくばん》がある……エディスの望みでさうしたのである……それから、小さい本當の學校用の腰掛がある。かうでもして無ければ學校でも何でもないだらう。  今日ばかりはモオドは水浴を早々に切り上げたが、氣持が好いといふ事は全然無かつた。エディスは考へられるだけの智惠を搾つて母の元氣を付けようとしたが、そのいぢらしい心盡しにはモオドはもう少しの所で涙が出る位だつた。水浴が濟むと、モオドはまた中央事務所へ電話をかけた。やうやくの事でハリマンと話をすることが出來たが、その話によると、今度の慘事は殘念ながら今迄に無い大きいものだと言ふ。  モオドは益々不安になつた。この時やつとアランの變な注意を思ひ出した。「家を離れるな。」何故だらう。アランといふ人はどうも分らない人。そこでモオドは庭を通つて病院へ出掛けて行つて、仕事をしてゐる看護婦達と囁くやうな小聲で話をした。此處にも亦、不安な氣持と、驚いて呆然とした樣子がある。モオドは又子供の患者と少しばかりお喋《しやべ》りしたけれど、何が何だかすつかりぼんやりしてゐたから、丁度うまい言葉は少しも出て來なかつた。結局モオドは、不安と興奮が一層増したゞけの事で、自分の部屋へ歸つて來た。 「何故《なぜ》あたしが家を離れちやいけないんでせう。」とモオドは考へた。「出てはいけないなんて事を、あたしに指圖《さしづ》するのは、アランもあんまりだわ。」  もう一度電話をかけてみたが、どうしても通じなかつた。  そこでモオドは頭巾《づきん》を手に取つた。「あたし、見て來よう」。と[#「見て來よう」。と」はママ]小聲でモオドは獨言《ひとりごと》をいつた。「アランが何て言つたつて構やしないわ。何故あたしが家にゐなきやいけないんでせう。こんな時なのに、みんなのお上さん達はきつと心配してゐる、丁度今誰かゞ遣つて來て話し掛けてくれゝばいゝと思つてるに違ひない。」  モオドは頭巾を手から放した。そして寢室からアランの電報を持つて來て、何度《なんど》も何度も讀み返した。  成程さうは書いてあるが、一體|何故《なぜ》だらう。どういふ譯なんだらう。  慘事があんまりひどかつたからか知ら。  さうかも知れない。だけどそれならその時こそ引込《ひつこ》んではゐられない。大急ぎでお上さん達や子供達の所へ行つて遣るのが、モオドの務《つと》めなのだ。かう思つて來ると、モオドは忽ちアランが憎らしくなつた、出掛けようと決心した。どんな事が起つたか實際を知りたいのである。けれどもまだモオドは躊躇してゐた。アランの不思議な指圖《さしづ》に背《そむ》くことは思ひ切つて出來ないのである。するとその次にはモオドの心にひそかな或る心配が湧いて來た。自分でも何故かわからない心配である。到頭決心してモオドは黄色のゴム引外套をするり[#「するり」に傍点]と着て頭巾《づきん》を頭に卷き付けたのである。  モオドは出掛けた。  けれども戸口まで來ると、急に何だか心配になつて來た。丁度かういふ日に小さいエディスを獨りぼつちにして置いて行くことが心配になつて來た。あゝ、アランよ、あんな電報を寄越したばつかりに、飛んでもない事が起つてしまつた。その凶變《きようへん》はお前が起したやうなものだ。  モオドは「學校」からエディスを連れて來て、合羽《かつぱ》を着せて遣り、それに付いてゐる頭巾《づきん》を、喜び勇んでゐる娘のブロンドの髮の毛へ冠せて遣つた。 「一時間ばかりで歸つて來ますよ。」モオドはかう言つて、二人連れで出て行つた。  濕《しめ》つてゐる庭の小徑《こみち》へ、蛙が一匹|跳《と》び出して來た。それを踏み付けさうになつたので、モオドはびつくりした。  エディスは喜んで叫んだ。「あ、ちつちやい蛙よ、ママ。なんて濡《ぬ》れてる身體《からだ》でしよ。雨が降ると何故《なぜ》出て來るの。」  その日はみじめな、厭な、呪ひたくなるやうな日だつた。  通りへ出ると風がひどく吹き付けて來るので、雨は斜めに落ちて來て冷《つめ》たかつた。「昨日はあんなに暖かだつたのに。」とモオドは思つた。エディスは大|悦《よろこ》びで、大胯に水溜りを踏み付けて行つた。數分經つとトンネル都市《まち》が見えて來た。事務所のビルディングがある、煙突がある、森のやうに澤山の電信柱がある。その都市は雨と泥の中で灰色に淋しく見えてゐた。すぐにモオドが氣が付いた事には、岩石を積んだ列車が一つも走つてゐない。こんな事は何年にもない話である。尤も煙突からはいつものやうに煙が上つてゐた。  丁度慘事の起つた場所にあの方がいらしつたなんて、そんな事はありさうもない、とモオドは心に思つた。トンネルは隨分大きいんだもの。けれどもモオドの心の中には、樣々な脅《おびや》かすやうな考へが滅茶々々に駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた。  急にモオドは立ち止つた。 「聞いてゝ御覽。」とモオドは言ふ。エディスは耳を傾けながら母を見上げた。  ざわ/\した聲が聞えて來る。やがて直ぐ人間までも見えて來た。灰色の一群だ、何千といふ頭がある一群だ。それが動いてゐる。しかし、どの方向へ向つてゐるのか、雨に煙つてさつぱり分らない。 「何故みんな大きい聲を出してるの。」とエディスは訊いた。 「大變な事があつたのでみんな心配してるのよ、ねえ。ちつちやい子供達のお父《とう》ちやんが危《あぶな》い目に逢つてゐると、みんなお母さん達が心配するのよ。」  エディスは頷《うなづ》いたが、暫くしてから言ふ。「きつとねえ、隨分ひどい事があつたのねえ。」  モオドは身體が震へ出した。 「さうかも知れないわね。」心には、いろんな事を思ひながら、モオドはかう答へた。「隨分|酷《ひど》い事だつたらしいわね。さあ、もつと早く行きませうよ。」モオドは歩き出したが、何をしようと思つてゐたかといへば……さうだ、何をしようと思つてゐたのであらう。モオドは何かしらしたくつて堪《たま》らなかつたのである。……  モオドは急に氣が付いてびつくりした。大勢の人達がこつちの方へ來《く》るではないか。叫び聲は大きくなつた。又モオドが見ると、たつた今迄眞直ぐに立つてゐた一本の電柱が、倒れて消えてなくなつてしまつた。モオドの頭の上の電線がふるへてゐる。  頻りとエディスは質問を發したが、そんな事にモオドは構ひ付けなかつた。たゞ興奮して早足に進んで行つた。みんな何をしたんだらう。何が起つたんだらう。モオドの頭の中は熱くなつた。ほんの一寸の間だけはかう思つた。家へ歸つて、アランの命令通り家に閉ぢ籠《こも》つてゐよう、と。  けれどもモオドには、他人の不幸を目の前に見たくないばつかりに、不幸な人達の所から逃げ出すのは卑怯な事のやうに思はれた。大して役に立つといふ程ではないが、何かしらあたしだつてきつと出來る。みんな女でも男でもあたしを知つてゐて、いつも何處へ行つても、みんなが一寸した用事をあたしに頼む位だ。アランがこの場合此處に居合せたら、どうするだらう。きつとアランはみんなの眞中に飛び込んで行く……とモオドは思つた。  轉がるやうに群集はこつちに遣つて來る。 「何故みんな、あんなに大きい聲をするの。」エディスは心配し始めて、かう訊く。「それから、ママ、何故みんな歌を歌ふの。」  さうだ、本當にみんなは歌を歌つてゐる。咆《ほ》えてゐるやうな滅茶苦茶な歌が、群集と一緒に遣つて來る。呶鳴る聲や叫ぶ聲が、その中から出て來る。それは一つの大軍だ。それが思ひ/\に、灰色をした瓦礫《ぐわれき》の野原に散らばつて來《く》るのだ。するとモオドは、その一分隊が石を投げ付けて、一つの機關車を破壞するのを見た。 「ママ……」 「あれはどうした事だらう。出て來なければよかつた。」とモオドは思ひながら、びつくりして立ち止つてゐた。もう今となつては歸つて行けない、遲過ぎる……  二人は見付けられた。モオドの目にはかう見えた。先頭の者達が兩腕をこつちへ差伸ばして急に道を變へてこつちへ遣つて來るのである。又モオドが驚いた事には、その連中は走つて來る、駈けて來るのである。だがモオドは連中の大部分が女だと分つたので、また氣がしつかりした。「女ばかりなんだもの……」  急にこの憐れな女達に對する限りない同情の念が湧いて來て、モオドはみんなの方へ向つて行つた。……何かきつと恐ろしい事が起つたに相違ないわ……  先頭の女の一隊は、息せき切つて遣つて來た。 「一體どんな事が起つたの。」とモオドは叫んだが、このモオドの同情には微塵《みぢん》も僞りは無かつた。それなのにどうだらう、女達の顏付は。モオドは見て驚いて眞蒼《まつさを》になつた。誰も彼も氣違ひのやうに見える、只ならぬ樣子だ。雨をぽた/\垂らして、まるで半分裸である。誰の眼にも荒々しい火が燃えてゐる。  モオドの言葉は誰も耳に入れはしなかつた。誰も返辭をしなかつた。みんなは口を曲げて、勝ち誇つたやうに鋭く呶鳴つた。 「みんな死んだよ。」かう言ふ聲が、あらゆる調子、あらゆる國語でモオドの耳へ響いて來た。やがて、急に一人の女の聲が叫んだ。「こいつ、アランのお上《かみ》さんだよ、ぶち殺せ。」  その時モオドの見たものは……自分の目を疑つた位であつたが……かうであつた。襤褸《ぼろ》を下げた女が、ずた/\になつた襯衣《シャツ》一枚で、憤怒のために藪睨《やぶにら》みになつたやうな目をして、石を一つ拾つたのである。石は空中を音を立てゝ飛んで來た。それがモオドの腕をかすつた。  モオドは本能的に、小さい青くなつてゐるエディスをしつかり引寄せて、身體を眞直に立つた。 「一體お前達にアランが何をしたといふの。」と叫んだ。その眼は心配しきつて、あたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。誰もモオドの言葉を聞いてくれない。  狂つてゐるやうなみんなは、荒れ狂ふ群集の全部の者は、悉くモオドが今前にゐるといふ事を知つた。たつた一人の咆《ほ》えてゐるやうな呼びが上つた。急にあらゆる方向から、石が飛んで來た。モオドは恐怖に襲はれて、身體中が震へた。皆がしてゐる事は、本氣なのだと今分つたのである。モオドは後を向いた。けれどもどこにも群集が居た。十歩ばかりの距離を置いてゐる。モオドは包圍されてゐるのだ。モオドは周圍の眼といふ眼の中へ助けを乞ふやうに、迷つたやうな驚いてしまつた視線を送つたが、その眼は悉く同じ火の光に憎惡と狂氣とに燃えてゐるのである。モオドは祈り始めた。冷たい汗が、その額から流れ落ちた。「神樣……神樣……この子をお守り下さいまし。」  けれども一人の女の聲が叫び續けて止まうとしない。鋭い警笛のやうに、「ぶち殺してしまへ。アランに思ひ知らせて遣れ。」  その中エディスの胸へ、石ころが一つ當つた。あまり激しく當つたのでよろ/\した。  小さいエディスは泣かなかつた。只その小さな手がモオドの手に握られてゐながら、びくつと動いたばかりで、エディスは驚いて母の顏を見上げた。びつくりした眼付で。 「まあお前さん達は何をするの。」とモオドは叫んで、蹲《うづくま》つてエディスを抱き緊《し》めた。すると心配と絶望で、涙がモオドの眼から流れ出た。 「アランに思ひ知らせて遣れ。」 「アランの奴、かうだつて事を知るがいゝ。」  彼處にも、此處にも、みんな狂ひ出したやうな身體と無慈悲な眼付。手に手に石を投げる……  モオドが卑怯な女だつたなら膝を衝いて手を差し伸べたかも知れない。恐らくモオドはこの氣違ひのやうな人々の心の中に、人間的感情を呼び返すことが、最後の危い瀬戸際にでも出來たであらう。けれどもモオドは、小柄な感傷的なモオドは、急に勇氣が出て來た。口から血を出して死人のやうに蒼白くなつたエディスを見たからである。石は雨霰と飛んで來た。けれどもモオドは決して憐れみを乞ひはしなかつた。  急に狂つたやうになつてモオドは眞直ぐに立ち上つた。子供をぐつ[#「ぐつ」に傍点]と引寄せて、憎みに一杯になつた周圍の顏を一一火の出るやうな眼付で見返しながらモオドは叫んだ。 「お前達は畜生だ。卑しい人達だ。汚《きたな》らしい下司《げす》の畜生だ。あたしにピストルがあつたら……お前達を打殺して遣る。犬のやうに打殺す。あ、畜生。卑怯な下劣な畜生。」  この時モオドの|顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]《こめかみ》へ恐ろしい勢で投げた石が當つた。モオドは兩手で空《くう》を掴みながら、一言も言はずに倒れて、エディスの上へ折重つた。モオドは小柄で輕かつたが、材木でも倒れて水が撥《は》ね上がつた時のやうな音がした。  荒々しい咆《ほ》えるやうな勝鬨《かちどき》が響き渡つた。呶鳴り聲だ。哄笑だ。口々にいろんな事を叫ぶのだ。「アランに思ひ知らして遣れ。さうだ、思ひ知るがいゝ、自分の身に思ひ知るがいゝ……みんなをペテンにかけたあいつだ……何千人といふ人間を……」  もうかうなると石一つ投げる者はなかつた。狂つたやうな群集は急に遠退《とほの》いて行つたのである。「その儘にして置けば、その内勝手に起きて行くよ。」地上に仆れてゐる二人の者へ、唯一人熱狂した伊太利の女が、胸を出して乳房を垂らしながら屈《かゞ》み込んで、唾を吐き掛けた。今度は技師の奴等の家だ。行け、進め。どいつもこいつも思ひ知らせて遣るんだ。ところがモオドを襲撃してしまふと、怒りの焔は冷《さ》めてしまつた。誰の心にも、今此處で何か順序に外《はづ》れたやうな事が起つたらしいといふ暗い氣持が蟠《わだかま》つた。一群一群と離れて行つて、石ころの野原の上に散りぢりとなつてしまつた。何百人か殘つたけれど、大して目に立たなかつた。その[#「立たなかつた。その」は底本では「立たなかつた その」]連中は躓《つまづ》きながら鐵道線路を横切つて行つた。例の伊太利人の女が率ゐてゐる先頭の怒り狂つてゐる一隊が、技師連中の別莊に達した頃には、もう皆溶けてなくなつたやうに少くなつてゐて、たつた一人の警官に喰ひ止められてしまつた程である。  みんな段々に散らばつてしまつた。  そこで又再び始まつたのは苦痛である。みじめな氣持である。絶望である。到る處に女達が前掛《まへかけ》を顏に當てゝ泣きながら走つてゐた。雨の中を、風の中を走つてゐた。何かに躓くが、地面を見ようともしなかつた。  そのみんなも先程は何か得體《えたい》の知れない群集的な狂氣といふやうなものに引摺られて、荒々しい、殘忍な、人を害しながら好い氣味と思ふやうな氣持で、モオドとエディスの傍《かたはら》から離れて行つたのである。その二人の身體は暫くの間雨に打たれて、石ころの原の眞中に、誰にも顧みられずに横たはつてゐた。  やがて其處へ十二ばかりの女の子が、赤い靴下は下の方ヘずり落ちた儘で遣つて來た。この女の子は、みんなが「アランのお上さん」に石を投げてる所をずつと見てゐた。この子はモオドをちやんと知つてゐた。去年この子は幾週間も病院に入つてゐたからである。  僞りの無い人間的の衝動に驅られて、この女の子は傍へ遣つて來た。ずり落ちた靴下のまゝ立つて見てゐたが、近寄る勇氣はとても無かつた。少し離れた處に幾人かの男や女が立つてゐた。やはり近くへ寄るだけの元氣が出ないのである。到頭女の子は恐ろしいので眞蒼《まつさを》になりながら、もう少し近くへ寄つて行くと、低い呻き聲が聞えた。  びつくりして女の子は後へ下がつたが、急に大急ぎで駈け出した。  音を立てゝ降る雨の中に、病院は死んでしまつたやうに淋しく立つてゐた。女の子は呼鈴を押すことさへ出來ないでゐた。やつと誰かゞ戸口から出て來たのを見ると、女中であつた。その時始めて女の子は格子に近づいて、停車場の方を指さしながらかう言つた。「あつちの方に倒れてゐるよ。」 「あつちの方に誰が倒れてるの。」 「アランの奧さんとお孃さんとだよ。」  地の底の地下道では、この時分になつても、まだ人々が駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  紐育へ着くと、アランはハリマンからの電報で、モオドとエディスが暴徒に襲はれたことを知つた。外の事は何も言つて來ない。ハリマンはアランに向つて、あのおそろしい事實を、モオドは死んで、子供は瀕死《ひんし》の状態にあるといふ、有りの儘を言つて遣るだけの勇氣も殘忍性も持つてはゐなかつたのである。  恐るべきこの一日が暮れかゝる頃、アランは自動車で紐育から歸つて來た。自分で運轉してゐる。いつも非常な速力で走る時にはさうした。  アランの車はおそろしい速さで、雨傘をさしてゐる女達や、トンネルの連中や、新聞記者達や物見高《ものみだか》い連中なぞの見渡す限りの群集の中を、停車場ビルディングへ向つて飛ぶやうに走つた。誰も皆アランのどつしりした埃《ほこり》のやうな灰色の車と、その警笛の音とを知つてゐる。  忽ち車は興奮した群集に取卷かれてしまつた。「あれがアランだ。」と皆叫んだ。「あれがアランだ。アラン。アラン。」  けれどもアランが身を起すと、みんな急にびつたり默つてしまつた。アランの身體を包んでゐる、經歴と天才と力とから成るあの後光《ごくわう》は、今になつてもまだ光を失はないで、群集の心に恥ぢ退く氣持と尊敬の念を起させたのである。大勢の者が本當にアランを尊敬しなければならないと思つた事は、運命がアランを打碎いた、この時よりも強い事はなかつた。それ程に今アランを威嚴ある人として仰いでゐるこの連中も、地下道の中で煙の中を逃げ迷つた最中には、見付け次第アランをぶち殺すと罵つたものである。 「道を開《あ》けてくれ。」とアランは高い聲で叫んだ。「殘念ながら一大事が起つた。俺達は誰一人として遺憾に思はぬ者はない。救ふことが出來る限り救はうではないか。」  すると方々からぶつ/\聲が聞えて來た。それは今朝から群集が叫び續けて來たあの叫びと同じものであつた。「お前に罪がある……何千人も死んだ……お前が皆をペテンに掛けたのだ……」  アランは足を踏板《ふみいた》の上に置いた儘ぢつと立つてゐた。その大きい顏は憂鬱になつてゐたが、興奮してゐる群集に向けた眼付は、不機嫌らしい冷たいものであつた。ところが急に……丁度アランが何か答へようと唇を開いた時……アランはぞつとした。一つの叫聲がアランの耳を打つたのである。一人の女の嘲るやうな怒りの叫びである。この叫びは、アランの全身を斷ち割つた。アランには、もう外の聲はてんで耳に入らなかつた。唯この一つの同じ叫びが何遍も/\無慈悲に恐ろしく、鐵槌《てつつゐ》のやうにアランの耳を打ち續けるのである。 「お前さんの女房と子供をみんなで殺したよ。」  アランの脊は伸びた、身體が伸びた。遠くの方をもつと見ようとするらしい。その頭は廣い肩の上で、頼り無げの顏付で、ぐるりと一※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りした。するとアランの憂鬱な顏は、急に鉛色となり、その鋭い眼付は消えて、只の眼となつて、びつくりしたやうな輝きになつてしまつた。自分の周園のあらゆる眼の中にアランは、この恐ろしい叫びが眞實を語つてゐるのだといふ事を見て取つたからである。ありとあらゆる眼が、悉くアランに向つて、あの恐ろしい事を叫び掛けてゐるのである。  もうかうなると自分を抑へて我慢してはゐられなくなつた。アランは一坑夫の息子である。嘗てはみんなと同じく一勞働者であつた。アランが最初に持つた感情は苦痛ではなく、怒りといふものであつた。アランは怒りを知らぬ人間ではない。  アランは運轉手を側へ突き退《の》けた。それからハンドルの後に坐るか坐らない中に、車を飛ばせ始めたのである。車は群集の眞只中へ突進した。群集は驚いて喚《わめ》きながら脇《わき》の方へ身を退《の》けた。  その人達は、雨に暗い夕闇の中へ、アランが突進して行くのを見送つてゐた。 「これで腹癒せが出來たんだ」と嘲けるやうな聲が丘ひに叫び交はした。「もうあいつも、どういふ事か思ひ知つたらう。」  これとは反對に、或る者は頭を振つてかう言つた。「あれはよくなかつた……女を、小さい子供を……」  けれども狂つたやうな伊太利人の女は、嘲けるやうに金切聲《かなきりごゑ》で叫んだ。「あたしだよ、一番最初石を投げたのは。あたしだよ。あたしは額《ひたひ》へぶつけて遣つたよ。あんな奴等、くたばるのは當り前だよ。」 「お前達はあの男を殺すのが本當だ。アランをだ。アランに罪があるんだ。けれどその男の女房なんぞ。あの女は氣だての好い女だつたぢやないか。」 「アランを殺せ。」苦しさうに息を吸ひ込みながら、伊太利人の女はまづい英語で聲を限りに叫んだ。「殺してしまへ、あいつを殺してしまへ、犬つころのやうに。」  いやな天氣の宵闇に立つてゐる邸《やしき》を見ると、まるで見捨てられた家のやうであつた。それを見るとアランは、何もかもすつかり分つてしまつた。靴の下で音を立てる前庭の砂利道を行く間に、アランの心には昔の經驗がひし/\と思ひ出されて來た。それは何年か前、ボリビヤ・アンデン・鐵道建設の時の事だ。その時アランは、或る友達と一緒にバラックに住んでゐたが、この友達はストライキの連中に短銃か何かで打ち殺されたのである。そんな事は少しも知らずに、アランは仕事から歸つて來たが、實に不思議な事には、殺された友達のころがつてゐたそのバラックは、いつもと違つた、見覺えのないやうな、何だか分らないが兎に角變つてしまつたやうな印象をアランに與へた。その時と全く同じ雰圍氣が今アランの家を包んでゐた。  玄關には石炭酸《せきたんさん》とエエテルの匂ひがした。エディスの小さい白い毛皮の外套が懸かつてゐるのを見ると、アランは眼の前が急に暗くなつたやうに思つた。もう少しでぶつ側れる所だつた。すると女中が啜り泣きしながら「旦那樣……旦那樣……」と大聲に呼んでゐるのが聞えて、その苦痛と絶望との響きを聞いて、やつとアランは我に返つた。殆ど眞暗《まつくら》な自分の居間へはひつて行くと、一人の醫者がアランの方へ遣つて來た。 「アランさん……」 「覺悟はして居ります。」とアランは言つたが、ごく靜かな、普通の聲だつたから、醫者は驚いて、アランの眼を急いで見た。「子供もですか、先生。」 「どう駄目らしいのです。肺をやられてゐます。」  アランは默つた儘|頷《うなづ》いて、階段の所へ行つた。するとその梯子段のある場所を、上から下まで通して、あの小さい娘の晴々《はれ/″\》しい、よく透《とほ》る笑ひ聲がふるへ響いてくるやうに、アランには思へた。上の方には尼さんが一人、モオドの寢室の所にゐて、アランに合圖《あひづ》した。  アランは入つて行つた。部屋のあかりは、蝋燭一本きりであつた。モオドは寢床《ねどこ》の上に横にされてあつたが、長々と寢て、不思議に平べつたく、蝋で出來たやうに、硬さうに見えた。顏は美しく平和に充ちてゐる。けれども、何だかその血の氣の無い顏付には、一寸謙遜した、おそる/\何か問ひたげな表情が浮べられてその儘になつてゐるやうでもあり、又半ば開けた青ざめた唇には、ちよいとした驚きの色が見えてゐるやうでもあつた。その閉ぢた眼の細い隙間は、うるんだ輝きを見せてゐた。ついさつき少しばかり涙でも流した、その名殘りであるやうにも見える。アランは一生涯決して、このモオドの青ざめた眼瞼《まぶた》の下の潤んだ輝きを忘れはしない。アランは聲を立てゝ泣きはしなかつた。啜泣《すゝりな》きもしなかつた。モオドの最後の臥床《ふしど》の傍に口をあけながら坐つて、モオドをぢつと見てゐた。何だか譯の分らぬものが、アランの魂を痲痺させたのである。アランは何にも考へなかつた。けれども樣々な考が朦朧と入り交つて、アランの頭の中をあちこちめぐりめぐつてゐた。アランはそれに氣が附かなかつた。これがおれの可愛いマドンナだ。おれはこの女を愛した。戀愛結婚をした。何でもない身分だつたこの女に、すばらしい生活をさせて遣つた。よく世話を燒いて面倒を見て遣り、毎日のやうに自動車に注意をおしよと言つたものだ。いつでもこの女の事は心配してゐた。別に打ち明けるといふ事はしなかつた。又近年は仕事に沒頭した爲めに、この女の事はまるで考へずに打ち捨てゝ置いたけれども、決して愛情が醒《さ》めた譯ではなかつた。おれの可愛い奴、氣立てのよい優しいモオド、それがこんなになつてしまつた。もし神といふものがあるならば、そんな神がなんだ、忌々《いま/\》しいあの沒分曉漢《わからずや》の運命の奴め。  アランはモオドの小さい丸い手を取つて、それを空《うつ》ろな輝きの無い眼で眺めてゐた。手は冷たかつたが、死んだのだから冷え切つてゐるのは當り前だ。そんな事を思つたから、その冷たさに驚きはしなかつた。この手の中のどの筋も、どの爪も、どの指節《ゆびぷし》も見覺えがある。左の|顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]《こめかみ》の上へは、誰かゞわざ/\撫《な》で付けたものだらう、鳶色の絹のやうな髮の毛がかぶせてある。アランは、その髮の毛が、織物のやうになつてゐるのを通して、青い色の一寸した痕があるのを見た。此處へ、あの石が當つたのだ。その石はといへば、海底何千米突の岩山から爆破《ばくは》して取り出したものだ。誰が爆破させたかといへば、このおれだ。忌々しいのは、あの連中だ、それからこのおれだ。忌々しいのはトンネルだ。  何にも知らずに、このモオドが行くと、だしぬけに意地の惡い運命が、怒り猛《たけ》つて目も見えなくなりながら、大胯にどし/\向うから歩いて來る。それにぶつかつたのだ。何故モオドはおれの指圖《さしづ》に從はなかつたのだ。おれの積りでは、モオドが下らない辱《はづか》しめに會はないようにと、たゞそれだけで注意したのだ。  こんな事があらうとは、おれは思はなかつた。何故おれは今日に限つて、この町にゐなかつたのだらう。  アランは又思ひ出した。ホアン・アルバレス鑛山が襲撃された時、おれ自身の手で二人の人間を射ち殺したものだ。モオドを守るといふ事になつたら、おれは夢中になつて、何百人でも射ち殺しただらう。モオドと一緒なら海の底深くへでも、何の文句《もんく》も並べず入つて行つたらう。何萬何千の野獸を相手でも、指一本でも動く限りは、モオドを守り續けたらう。だが、おれは此處にゐなかつた……。  いろんな考がアランの頭の中を駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。或は切々《せつ/\》たる愛情であり、或は烈しい呪詛《じゆそ》の念であつた。しかもアラン自身は何にも考へてはゐない積りなのである。  すると誰かゞ遠慮深く戸を叩く。「アランさんはいらつしやいますか。」 「ゐますが。何か。」 「アランさん……エディス……が」  アランは立ち上つたが、燭臺《しよくだい》に蝋燭がしつかり差さつてゐるかどうかよく見た。落ちたりしては困ると思つたからである。それから戸口へ行つて、もう一度其處からモオドの方をぢつと見た。アランの心の中にまざ/\と見えた光景は、自分自身の姿が愛する妻の身體の上へ折れ伏して、その身體を抱き緊《し》めて、啜り泣き、大聲に泣き、祈祷をし、又モオドに向つて、度々いやな思ひをさせたのだが、どうぞどんな小さな事でも許してくれと願つてゐる、その有樣だつた。けれども實際は、アランは戸口に立つて、モオドを見てゐるばかりであつた。  それからアランは歩き出した。  可愛い娘の死にかゝつてゐる部屋へ行く途中、アランは最後の力を心の奧底から搾《しぼ》り出した。今迄自分の經驗した恐ろしい瞬間を、すつかりもう一度思ひ出して見て、それによつてアランは武裝したのである。あの氣の毒な連中、ダイナマイトで粉々《こな/″\》にされたり、岩石のかけらで身體へ穴を明けられた連中。それからあの男、準機動輪に卷き込まれて壁へ叩きつけられ、ぐしや/\の塊になつてしまつた男……アランは閾《しきゐ》を跨いで行く時かう思つた。「あれを思ひ出せ、いつかお前がパッタアソンの古長靴の胴《どう》を、埋まつた地層の中で探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたあの時の事を……」  アランは丁度間に合つて、可愛い/\の臨終の息が消えて行くのを見守ることが出來た。幾人も醫者や看護婦や召使の者達が部屋中にぐるりと立つてゐた。若い娘は聲を出して泣いてゐる。醫者さへも目に涙を溜《た》めてゐる。  アランは默つたまゝ涙一滴浮べずに立つてゐた。「いゝか、地獄の名にかけて、パッタアソンの古長靴を思ひ出せ、さうして皆の前でぶつ倒れなんぞ決してするな。」  久しい時が經《た》つてから、寢床の脇にゐた醫者が立ち上つた。その醫者が溜息をつくのが聞えた。皆は部屋を出て行くだらう、とアランは思つたのだが、誰一人出て行かうとしない。  そこでアランは寢床に歩み寄つて、エディスの髮を撫でて遣つた。もし獨りきりだつたら、もう一度この小さい身體中を撫でて遣りたかつたが、今では仕方がない、さうする氣はしなかつた。  アランは出て行つた。  階段を下りて行くと、急にアランの頭の上で、大聲に嘆き悲しむ聲が起つた。けれどもそれはアランにさう思はれたゞけで、實際には低い聲の啜り泣きの外は全くひつそりしてゐたのである。  階下へ來ると、一人の看護婦に逢つた。アランが何か言ひたさうな樣子と見たから、看護婦は立ち止つた。 「あなたは。」  アランはやつと口を開いて言つた。 「あなたの名は何と仰有いますか。」 「エヴリンと申します」 「エヴリンさん。」とアランは續けたが、その聲は違つた人の聲のやうな、囁くやうな、物柔《ものやはら》かな調子であつた。「一寸頼まれて戴きたいんですが。自分でしたくない事なんです、自分ぢや出來ない事なんです……わたしは妻と子供の髮の毛を少しばかり取つて置きたいんです。わたしの代りにそれを遣つては戴けませんか。だけど誰にも分つちや困るんですが、きつとそれだけは約束して……」 「はい、決して。」看護婦はアランの目に涙が一杯なのを見て取つた。 「エヴリンさん、一生涯恩に着ますよ。」  暗い居間へ入つて行くと、安樂椅子にほつそりした女が、忍び音《ね》に泣いて顏に手巾《ハンカチ》を當てゝゐる。アランがその傍へ來ると、女は立ち上つて、青白い兩手を差し伸べて、囁くやうに言つた。「アラン……」  けれどもアランは通り過ぎて行つた。その後幾日か經《た》つて、やつとアランは、その女がエセエル・ロイドだつた事に思ひ當つた。  アランは庭へ下りて行つた。まるで眞冬《まふゆ》になつたやうにひどく寒く思はれたので、外套の中へしつかり身を縮めた。暫くの間テニスコオトをあちこち歩いたが、やがて濡れてゐる植込《うゑこみ》を通り拔けて海へ下りて行つた。海は波を揚げ、音を立てゝゐて、時々同じやうな間を置いては捲き縮れた泡の塊《かたまり》を、一面に平らな濡れ砂の上へ投げた。  アランは植込の向うの上の方を、家の破風《はふ》を見上げた。あそこに二人寢てゐる。それからアランは海上遙かに東南の方を見た。そつちの下の方には外の連中がゐる。その下の地の底には、ホッビイが指を硬《こは》ばらせて握つて、窒息した人がするやうに、首を後へ反《そ》らせて仆《たふ》れてゐるのだ。  ます/\寒くなつて來た。本當におそろしい寒さが、海から遣つて來るやうに思はれた。アランは、全身が氷のやうになつた。寒くつてふるへた。その手は極寒《ごくかん》の冬時《ふゆどき》のやうに硬《かた》くなつて、顏はこはゞつてしまつた。アランは氣が附いて見れば、踏めば細かい氷を踏むやうな音がするけれど、この砂は決して凍《こほ》つてはゐない。確かに凍つてはゐない。  アランは砂の上を一時間ばかり歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。夜になつてしまつた。それから凍り付いた氷のやうな庭を通つて行つて、通りへ出た。  運轉手のアンデイはスヰッチを捻《ひね》つてあかりをつけた。 「停車場へ遣つてくれ、ゆつくり行つてくれ。」とアランは嗄《しやが》れた響かない聲で言つて、車の中へ乘り込んだ。  アンデイは鼻を袖で拭いた。その顏は涙に濡《ぬ》れてゐる。  アランは外套にすつかりくるまつて、縁《ふち》無し帽を深く冠つてゐた。「どうもをかしい。」とアランは考へた。「慘事があつたと聞いて、おれは先づトンネルの事を考へ、それから次に人間の事を考へたんだ。」さう思つて欠伸《あくび》をした。すつかり疲れてゐる。手を動かす事さへ出來ない位である。  人垣が作られてゐた事は先刻《さつき》と同樣であつた。皆は救助列車の歸りを待つてゐるのである。  もう誰一人大聲を擧げなかつた。誰一人|拳《こぶし》を振※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しはしなかつた。もう今はアランも皆と同じ者になつてしまつて同じ苦痛を抱いてゐる者だからである。アランがずつと車を進ませたり、車から下《お》りたりすると、誰も何とも言はれずに自分から道を開いたのである。今のアラン程に青白い顏をした人間を、誰も今迄に見たことはなかつた。 [#5字下げ]七[#「七」は中見出し]  アランは停車場内の寒い協議室へ入《はひ》つて行つた。今までの待合室である。  工事現場では禮儀作法も何も無かつた。誰一人帽子を取ることもしないし誰かゞ來たからと云つて自分のしてゐる事をやめる者もなかつたのである。しかし今日ばかりは、何か興奮して喋《しやべ》り合つてゐた人々も、アランが入つて來ると急に默り込んでしまひ、疲れ切つて椅子に坐り込んでゐた人々は立ち上つた。  ハリマンは困り果てたやうな疲れ切つたやうな顏で、アランの方へ歩いて來た。 「アラン……」とハリマンは、醉つ拂ひのやうに呂律《ろれつ》が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らず言ひかけた。  アランは手を振つて、その言葉を遮つた。「もつと後《あと》にしてくれ給へ」  アランは酒保《しゆほ》から珈琲を一杯持つて來《こ》させて、それを啜つてゐる間に、一人々々の技師の報告を聞いた。  アランは頭をぢつと下げて、いつでも跳《と》び出せるやうな格好で坐つてゐて、誰の顏も見ない。又人の話を殆ど聞いてゐないやうに見えた。その顏は寒さに硬くなつてしまつたやうで、何にも色がなく、唇は青い錆でも附いたやうに見えた。その縁《ふち》の方は白くなつてゐた。鉛のやうな灰色の眼瞼《まぶた》は眼の上へ垂れてゐたが、右の眼瞼は時々神經の所爲《せゐ》か細かく顫へて、左側のよりも深く垂れてゐた。その眼はもう人間の眼差《まなざし》ではない。まるで硝子のかけらで、それが意地惡く光るやうであつた。硬くなつたやうな顏だが、時々は剃つてない頬までふるへたり、又唇も何かの粒を齒で噛み碎いてゐるやうに動いたりした。音もなく呼吸をしてゐたが、その呼吸の度母に鼻翼《びよく》がひく[#「ひく」に傍点]/\動いた。 「ぢやあ確かなんだね、ベエルマンが射《う》ち殺されたのは。」 「はい。」 「それからホッビイの事は、何にも報告がないんだね。」 「ありません。しかし地下道へ入つて行くのを、見掛けた者はあります。」  アランは頷《うなづ》いて口を開いたが、まるで欠伸でもしさうな口だ。「それから、後を續け給へ。」  トンネルは第三百四十キロメエトルの所までは全く常態にあつて、機械には技師がゐて運轉してゐる。救助列車の指揮をしてゐるロビンスンからの電話によれば、第三百七十キロメエトルの所よりもつと深く行く事は、煙が酷《ひど》くてとても出來ない。百五十二名を救助して歸つて來ると言ふ。 「さうすると死者は幾人かね。」 「合ひ札の數によると、すべてで二千九百人でせう。」  長い深い沈默。  アランの青い唇はぴくり[#「ぴくり」に傍点]と動いた。痙攣的に泣き出したくなるのを無理にこらへてゐるやうな樣子であつた。アランは頭を一層下げて、珈琲を無暗《むやみ》に啜つた。 「アラン。」とハリマンは咽び泣くやうに言つた。  けれどもアランはその方をびつくりしたやうな目で冷かに一瞥したきりであつた。「それから、後を織け給へ。」  又ロビンスンの電話によると、第三百五十二キロメエトル停車場に働いてゐるスミスは、ずつと奧の方で一つ空氣|喞筒《ぽんぷ》が動いてゐるらしいけれど、電話はどうしても通じないと言つてゐる、といふ事であつた。  アランは視線を上げた。「ホッビイかな。」と考へたには考へたが、そんな希望を懸けたに過ぎないことを口に出す氣にはとてなれなかつた。  それからアランはその日の出來事に就いて話し始めた。ハリマンは餘り香《かん》ばしい格好をしてゐない。疲れ切つて、頭痛がする頭を手に支へて、脹《は》れてしまつた眼には何の輝きもなく、其處に腰かけてゐた。  さて騷動だの破壞だのといふ話になつて來ると、アランは急にハリマンの方へ向き直つた。 「その時一體君は、何處にゐたんだね、ハリマン。」アランは鋭く、輕蔑し切つた調子でかう訊《き》いた。  ハリマンはぞつ[#「ぞつ」に傍点]として、重たい眼瞼《まぶた》を上げた。 「本當にわたしは、」とハリマンは興奮して、「出來るだけの事をしたんだよ、すべて遣つてみた。だがわたしには、ピストルを打つなんてことは出來なかつたからね。」 「君はさう言ふね。」とアランは叫んだが、その聲は一層脅かすやうな調子になつて來た。「君は哮《たけ》り狂つてゐる連中の前に、君の身體を投げ出すべきだつたんぢやないか。よしんばその連中が君の頭へ二つや三つ穴を明けるにしてもだ。それにしたつて君には拳骨があるだらう……それとも無いかね。ピストルでも何でも君は打てた筈だ……それなのに、何だ、何故さうしなかつた。部下の技師が其處にゐたらう、君はたゞ命令すりやよかつたんぢやないか。」  ハリマンは眞赤になつた。その太い首筋は太く膨《ふく》らんだ。アランの脅かすやうな調子が、ハリマンの血を沸かせたのである。「何を言ふんだ。」とハリマンは激怒して言ひ返した。「君はあの連中を自分の目で見てゐないからだ。君はこつちにゐなかつたよ。」 「僕はこつちにゐなかつたよ、殘念ながらね。君に委《まか》せて置けば大丈夫と思つてたんだ。さう思つた僕は間違つてゐた。君は老いぼれたよ、ハリマン。老いぼれたんだ。もう君なんかに用は無い。何處へでも勝手に行き給へ。」  ハリマンは跳《と》び上つて、赤くなつた兩方の拳をテエブルの上へ置いた。 「もう何處へでも行き給へ。」今一度アランは荒々しく叫んだ。  ハリマンは唇までが眞白になつたが、呆然としてアランの眼を見詰めた。アランの眼は輕蔑と無慈悲と殘忍性に輝いてゐた。「それは君あんまりだ。」とハリマンは喘ぐやうに言つて、ひどく侮辱された怒りを包んでゐる樣子で立ち上つた。  するとアランも跳《と》び上つて、指《ゆび》の節《ふし》でテエブルを叩いて、ひどい音をさせながら、「もう今後一切君なんか御免だ。」とアランは大聲に叫んだ。「行つてくれ給へ。」さう言つて戸口を指さしたのである。  ハリマンはよろ/\出て行つた。屈辱を感じたその顏は灰色になつてしまつた。ハリマンは一寸こんな事を思つた。アランに打ち明けてみようか知ら、息子が死んだものだから眠れなくなつて、睡眠劑の二倍量をのんだところが、それが午前中ずつと利いてゐて弱つてゐたのだと言はうか知ら。けれどもハリマンは何にも言はなかつた。それから出て行つた。  階段を下りて行くハリマンの姿は、まるで年取つた病《や》み窶《やつ》れた人のやうに見えた。眠は足許を見續けて、帽子は被《かぶ》らずに。 「ハリマンが飛んぢまつたぜ。」と嘲つたのは、外の連中である。「牝牛《をうし》みてえな奴のくせに、飛んぢまやがつた。」この言葉はハリマンの耳には入らなかつた。低い聲で泣いてゐたからである。  ハリマンが部屋を出て行くと、更にアランは五人の技師を取調べた。その五人は受持の場所を離れてしまつて、逃げ迷ふ群集と共に、トンネルの外へ出て來たのである。この五人を即座にアランは免職した。  今日は猛烈に風向きが惡い。さう思つて五人は一口も言葉を返さなかつた。  それからアランはロビンスンと電話で話したいと言つた。一人の事務員が方々の停車場を呼び出してロビンスンの列車を止めるやうに吩咐《いひつ》けた。アランはその間ずつと、破壞された地下道の地圖を見てゐた。部屋の中は靜かになつて、窓硝子の破れた處から雨が吹込んで落ちる音が聞えた。  十分經つとロビンスンが電話に出た。アランは長い間話をした。ホッビイの事は何にも分らんのか、やつぱりさうか。ロビンスン、君はどうだね、煙だらけの地下道に、まだ人がゐるといふ事は有り得ることと思ふかね、僕はさういふ事が無いとも限らんと思ふが。  それからアランは命令を下して、二三分後には三輛から成る列車が、技師や醫者を大勢載せて線路を下つて、トンネルの中へ消えて行つた。  アランは自分で運轉した。列車は實に物凄い速力で、鳴り囁いてゐる空虚なトンネルの中を突つ走つた。その爲めに平生から早い速力には慣れてゐる筈のアランの從者達までが心配し始めた位である。かれこれ一時間するとロビンスンの列車に出會つた。それは人で一杯だ。その列車に乘つてゐる人達で、先刻《さつき》アランに復讐するぞと誓つた連中は今暗闇の中で電燈の光にアランの顏を認めると、皆陰鬱な顏付で何か聲高《こわだか》に唸つた。  アランは更に進んで行つた。轉轍機《てんてつき》がある所へ來ると、すぐアランは、ロビンスン受持の線路へ曲つて行つた。その線にはもう一臺も列車はゐないと確かに分つてゐたからである。それから煙の眞只中へ入《はひ》ると、やつと其處で猛烈な速力を緩めた。  技師連中はこの邊の煙に包まれた各停車場にも働いてゐた。皆扉を閉《し》めてゐたのだが、その扉へ向つて煙は山のやうに塊まつた雲となつて押し寄せた。扉は閉《し》めても停車場はひどい煙で、機械が絶えず動いて新しい空氣を押し込んだり、酸素吸入裝置が十分に其處にあつたりしたからこそ、多少とも長い時間ゐることが出來たのだが、さもなければ到底ゐられたものではない。トンネルは技師達にとつてもアランと同樣に、自分の健康や生命と釣替へになつても構はない製作物なのである。  第三百五十二キロメエトル停車場でスミスに會つたが、スミスは其處で二人の機關士と幾つかの機械を運轉させてゐた。繰返してスミスの言ふには、トンネルのもつと先の奧で、一つ空氣喞筒が動いてゐるに相違ないといふ。そこで又アランは、ホッビイの事を思つた。運命はおれにせめて友達でも殘して置いてくれゝばよいが。  アランは直ちに地下道のもつと奧へ突進して行つた。列車の進行は、線路の上に轉《ころが》つてゐる石塊のために度々妨げられて、進み方がのろくなつた。煙はひどく濃《こ》くなつて、列車のヘッドライトの光は、壁にでも衝當《つきあた》つたやうに跳《は》ね返つて來た。半時間もすると、列車は死骸が澤山ある所へ來て止められてしまつた。アランは列車から下《お》りて、顏へ煙マスクを當てゝ、煙の中へ歩いて行つた。だしぬけにアランの手に持つた龕燈《がんどう》が消えた。  あたりは全く靜かだ。音も聞えない。唯アラン自身の酸素吸入裝置の瓣が、小さい音を立てゝゐるきりだ。アランは呻《うめ》いた。此處にはそのアランの聲を聞く人は一人もゐない。アランの胸はひどい傷でも受けたやうに、たまらない氣持になつた。それでも傷つけられた野獸のやうに呻き乍ら齒|軋《ぎし》りしながら進んで行つたが、時々は自分の荷《にな》ふ苦痛の恐ろしい重さに堪へかねて、ぶつ倒れたい位になつた。  五六歩行く度毎に人の身體にぶつかつた。けれども明りに照らして見ると、必ずそれはどう見ても死んだ人間にきまつてゐた。その死人は恐ろしい形相《ぎやうさう》に顏を歪《ゆが》めて、アランを見詰めてゐた。この死人の中にはホッビイはゐなかつた。  急に喘《あへ》ぐ音が聞えて來たので、アランは龕燈を上げて見た。それと同時に一つの手がアランの腕にさはつて、喘ぐ聲が微かにかう言つた。「ソオヴエ」。助かつたといふ佛蘭西語だ。アランの前に一人が倒れた。それは若い男で、猿股一つだ。アランはこの男を引擔いで、列車まで連れ歸つたが、昔は自分も矢張りこんな場合に暗い地下道を誰かに擔がれて行つたことがあると思ひ出した。列車の所へ着くと、醫者の手當でこの人事不省の男は直ぐに意識を取返した。加奈陀生れのシャルル・ルナアルといふ男で、その話によると、あの中では通風機がちやん[#「ちやん」に傍点]と動いて、そのお蔭で生命が助かつたのだといふ。するとこの男は、誰かからこんな事を訊《き》かれた。まだ地下道に誰か生きてゐるといふ證據でもあるか、と。  救はれた男は頷いて「ありますまとも。」とこの男は言つた。「時々ひどく笑ふのが聞えましたよ。」 「ひどく笑ふと。」一同は驚いて顏を見合はした。 「さうです、ひどく笑つてるんです。ちやんとはつきり聞えました。」  アランは電話をかけて、もつと列車と交代の人數とを寄越すやうに言つて遣つた。  アランはすぐさままた前進して行つた。列車の警鈴はけたゝましく鳴つた。この前進は實にひどかつた。度々煙のために押戻される位であつた。正午頃になると、第三百八十キロメエトルの近くまで進むことが出來たが、その時突然鋭い笑が遠くから聞えた。默々として煙を出してゐる地下道の中で、こんな音を聞いたのは、皆が今迄に聞いた一番恐ろしい事であつた。皆|硬《かた》くなつてしまつて、誰も息をする者はない。それから皆は前進して行つた。笑ひ聲は益々明らかに聞えて來た。荒々しく氣が狂つたやうに響いて來た。丁度こんな響きを時々潜水夫が聞くさうだ。乘組員は全部窒息してゐる難破《なんぱ》した潜水艇から、こんな響きが聞えるのださうである。  やがて小さな停車場に達した。皆は遮二無二《しやにむに》入《はひ》つて行つた。すると、煙の中に人がゐる、二人、三人、四人ゐる。地面へ轉がつたり脱臼《だつきゆう》でもしたやうな妙な恐ろしい身振りで踊つたりしてゐたが、その間絶えず鋭い何かに憑《つ》かれたやうな哄笑をし續けである。通風機からは音を立てゝ空氣が停車場へ吐き出されてゐた。それによつてこの不幸な連中は生命を取り止めてゐるのだ。すぐ傍には酸素吸入裝置があるのに……それは手も付けてないのである。  この不幸な連中は、急に明るい光と顏にマスクを當てた人々を見たので、びつくりして大聲を上げて後へ退《すさ》つた。四人とも或る片隅へ逃げて行つたが、其處には死人が一人長々と身體を伸ばしてぢつとしてゐた。四人はお祈りをしたり、心配のあまり泣き出したりした。みんな伊太利人であつた。 「伊太利語の出來る者はゐないか。」とアランは訊いた。「ゐたらマスクを取つてくれ給へ。」  一人の醫者が進み出て、咳をして息がつまりさうになりながら、この氣違ひになつた連中と話し始めた。 「この連中は何と言つてるんだね。」  醫者は吃驚して口が利けない位だつた。 「どうもはつきりしませんが、かう言つてますよ、今自分達は地獄にゐるんだなんて。どうもそんな積りでゐるらしいのです。」醫者はやつとの事でかう言つた。 「では君、神かけてかう言つて遣り給へ、天國へ連れて行かうとして我々が遣つて來たんだと。」アランはかう叫んだ。  醫者は喋《しやべ》つて喋つて喋りまくつた。やがてやうやくこの連中に醫者の言葉が分つた。  四人は泣いた。膝を衝いた。お祈りをした。歎願するやうに兩手を伸ばした。けれども人々が近づいて行くと、四人は荒れ狂ひ始めた。その一人々々を押へ付けて縛つてしまはなければならなかつた。トンネルから出る途中で一人が死んだ。二人は精神病院に入れられた。殘りの一人はめき/\恢復して健康な身體になつた。  この遠征から歸つてスミスの停車場に着いた時、アランは半ば氣を失つてゐた。あんな恐ろしい事はいつまで經つても止まないのか、と思ひながら、アランは荒い息をしながら全く疲れ切つて坐つてゐた。もうこれで三十六時間眠らずに起き通したアランである。  醫者達は口を酸《す》つぱくして、トンネルから出るようにと言つたのだが、アランは頑として承知しなかつた。 [#5字下げ]八[#「八」は中見出し]  煙は匍ふやうに進んで來た。ゆつくりと、一歩一歩、まるで意識のある生物のやうだ。一歩を踏み出す前に、先づ一寸探つてみる生物のやうだ。煙は舐《な》めるやうに、舌を出すやうに動いて、地下道の横坑へ入《はひ》り込み、停車場へ入り込み、天井を沿つて滑つて行き、あらゆる隙間《すきま》といふ隙間に充ちてしまふ。坑内の通風機は吸ひ込む。空氣喞筒は押し込める。何百萬立方メエトルの新鮮な空氣だ。やがて煙は、まるで分らない位ではあるが、うすくなり始めた。  アランは目を醒まして、充血した痛む眼で、牛乳のやうな煙の中を眺めた。自分が何處にゐるのか直ぐには分らなかつた。アランの直ぐ傍には、脊の低い長つ細《ほそ》い機械があつた。それは鋼鐵と銅で出來てゐて、音も立てず動いてゐた。半ば床土に埋められてある準機動輪は、ぢつと靜止してゐるやうに見えた。けれどももつと眺めてゐると、あちこちと滑り動いてゐる光つた筋が見えて來た。一分間に九百囘轉をして、しかも正確に動いてゐるので、靜止してゐるやうに見えるのである。そこでアランは又、自分のゐる場所もはつきりして來た。まだ相變らずスミスの停車場にゐるのである。霧のやうな煙の中に一つの人影が搖れた。 「スミス君か。」  人影は近くへ遣つて來て、見るとロビンスンだつた。 「スミスと交代したんです。」とロビンスンは言つた。脊の高い痩せた亞米利加人である。 「長いこと眠つてたかな、僕は。」 「いや、一時間きり。」 「他の連中は何處にゐる。」  ロビンスンの報告はかうであつた。他の連中は道を開かうと盛んにやつてゐる。煙は散つて、どうやら辛抱出來るやうになつた。第十九停車場(三百八十キロメエトルの所にある)にはなほ七人も生きてゐる。  まだ生存者があるのか。この恐ろしい地下道がまだ人間をかくまつてゐたのか。  又、ロビンスンの報告の續きはかうであつた。第十九停車場には、ストロオムといふ技師が機械を動かしてゐる。その技師は六名の者を收容して來て、全部別状が無い。救援の技師達は、まだその連中の所へ達することは出來ないが、電話を復舊して、その停車場と話しをすることが出來たといふ。 「その中にホッビイもゐるかね。」 「いや、ゐません。」  アランは足許を見た。そのまゝ暫くしてからアランは言つた。「誰だね、その……ストロオムといふのは。」  ロビンスンは肩のあたりを動かした。 「それがまた不思議なんです。誰もその男を知らないんです。トンネルの技師には、そんな名前の男はゐないんです。」  そこでアランは思ひ出した。ストロオムといふのは電氣技師で、ベルムダ群島の何處かの發電所に働いてゐる男だ。それから後になつて、どうもストロオムはたゞトンネルを視察に來ただけらしいといふ事になつた。ストロオムは爆發の當時ベエルマンの受持區域にゐて、第十九停車場を後に約三キロメエトルばかり來てゐた所であつた。その停車場を一時間前に視察したのだが、其處に働いてゐる連中はどうも大して信用が置けないと思つたから、ストロオムは直ぐ取つて返したのである。ストロオムこそは、トンネルの出口の方へ逃げ出さずに、奧の方へもぐり込んで行つた唯一人の人間なのである。  二三時間後にアランはストロオムと會つた。ストロオムは四十八時間働き續けだつたが、誰の目にも疲れた樣子は見えなかつた。アランが見て不思議に思つた事には、ストロオムの髮の毛は何事も起らなかつたやうにちやんと分けてあつた。ストロオムはあまり大きくない男だ。胸が狹く、三十にはなるまい。バルチック地方生れで、獨逸人と露西亞人の混血兒《あひのこ》だ。痩せた顏で表情は少しも無い。暗つぽい小さな眼で、眞黒な尖り髭がある。 「ストロオム君、これから友達になつて下さい。」とアランはこの若い男に言つた。アランはこの男の大膽さに驚嘆してゐるのである。それからストロオムの手を堅く握つた。  けれどもストロオムは顏の筋を一つも動かさず、たゞ一寸丁寧なお辭儀をしたばかりであつた。  ストロオムは絶望して走つてゐる連中を六人も自分ばかりゐる停車場へ收容した。地下道へ向いてゐる戸の隙間には油にしめした填絮《まきはだ》を詰めた。そのお蔭で空氣は割合に我慢が出來た。ストロオムは絶えず空氣と水を燃えてゐる地下道へ喞筒で送り込んでゐた。けれどもせいぜい三時間もすればその位置を保つことが出來なくなつたらう、その時分にはみじめな姿に窒息してしまつたらう……しかもストロオムはさうなる事をはつきり承知してゐたのである。  この停車場までは列車が通つて來られたが、此處からは皆|徒歩《とほ》で行かねばならなかつた。脱線し顛覆した車輛、岩石の山積、枕木、折れた柱、そんなものゝ上へ攀ぢ上つては一歩一歩進んだ、煙の中へ進んだ。或る處へ來ると、死骸の山があつた。やがて、何にも無い道へ出た。皆はどしどし早く歩いた。  急にアランが立ち止つた。 「聞いてみろ。」と言ふ。「あれは人間の聲ぢやなかつたか知ら。」  みんな立ち止つて耳を澄ませた。何にも聞えなかつた。 「確かに人間の聲が聞えたんだがな。」とアランは繰返して言つた。「みんな耳を澄ましてゐてくれ給へ、呼んでみるから。」  アランの呼ぶ聲に應じて、實際に返辭が聞えて來た。遠い微かな聲だ。丁度夜中にでも非常に遠くから聲がして來るやうだ。 「誰か地下道にゐるんだ。」とアランは興奮して言つた。  かう言はれて外の者も微かな遠い呼び聲が聞えるやうに思つた。  呼んでみたり耳を澄ましたりして、皆の者は暗い地下道を隈なく探した。やがて遂に一つの横坑へ來たが、その場所へは通風機が嵐のやうに風を吹き込んでゐて、其處に一人の白髮頭の老人がゐるのにぶつかつた。老人は地面に坐つてゐて、頭を壁に凭せかけてゐる。その傍には黒ん坊が一人死んで横たはつてゐて、口をまん丸く明け、齒をすつかり出して見せてゐる。老人は弱々しく微笑した。百歳位の人のやうに見えた。瘠せ細つて、しなび切つて、眞白な少しばかりの髮の毛が風に靡いてゐる。その眼は不自然に大きく開かれて、その爲めに瞳のまはりに白い角膜が見えてゐた。この男はひどく疲れてゐるので、身體を動かすことも出來ないのだ。やつと微笑することしか出來ないのである。 「僕の思つてた通りだ、アラン、僕を連れに君が來るだらうと思つてたんだ。」とその老人は、聞えるか聞えぬ位の聲で言つた。  アランはそれが誰だか分つた。 「ホッビイだ。」とアランは吃驚して叫んで、すつかり喜んで、その老人を立たせた。 「ホッビイだつて。」他の人々は信じられないやうにかう言つた。この老人を見て、さうとは思へないからである。 「ホッビイだとも……」喜びと激情を隱すことの出來ないアランは、皆がそんな事を言ふのを訝《いぶか》つてゐるやうな調子である。  ホッビイは頭をだるさうに動かした。「僕は大丈夫だ。」と囁くやうに言ふ。それから死んでゐる黒ん坊を指さして言つた。「この黒ん坊は僕も隨分骨を折つたんだが、到頭死んでしまつた。」  ホッビイは病院に收容されてから、何週間の間死生の境をさ迷つたが、大體丈夫なたちだつたから、到頭その瀬戸際を切り拔けることが出來た。けれども、もうもとのホッビイではなくなつてしまつた。  ホッビイの記憶は障害を受けてしまつて、一體どんな風にしてずつと先へ進んで、この邊りの横坑まで遣つて來たか、それが言へなくなつてしまつた。實際はかうである。ホッビイは酸素吸入裝置と龕燈《がんどう》を携へてゐて、それで助かつたといふに過ぎない。この二つのものは慘事の前日に死んだ機械組立工の死體の置かれてあつた、あの小さい横坑から持つて來たのである。又黒ん坊のジャックスンはといへば窒息したのではなく、饑餓と疲勞から死んだのである。  列車は時々一つづつトンネルから出て來て、又一つづつ思ひ出したやうに中へ入つて行つた。何大隊といふほど大勢の技師は、トンネルの中で男々《をゝ》しく煙と戰つてゐた。その戰いは危險を伴はない譯ではなかつた。煙の毒に當つて何十人も重病人となり、五人は死んで行つた。その中三人は亞米利加人で一人は佛蘭西人、一人は日本人である。  勞働者の大軍は何にもしないでゐた。仕事をやめてしまつた儘である。何千人と群がつて長い列を作つて高い所に立つてゐて、アランと部下の技師達がする事を傍觀してゐる。たゞ立つてゐて、手を一つ動かさうともしないのである。大きな照明機械や通風機や喞筒《ぽんぷ》は技師が動かすのであるが、その技師達は疲れ果てゝ、眼を明けてゐることさへ出來ない。寒さにふるへてゐる勞働者の群の中には、大勢の見物人も隨分まじつてゐる。恐ろしい事件の雰圍氣に引寄せられて來た連中である。毎時間に列車は新しく群集を吐き出してゐる。ホボケン、マック・シテイ間の線はうまい商賣をした。一週間のうちに二百萬弗の收入があつたのである。そこでシンヂケエトは直ぐ汽車賃を値上げした。トンネル・ホテルは各新聞社の通信員で滿員となつた。石ころだらけの都市には何千臺といふ自動車が通つたが、皆紳士淑女を滿載してゐて、その連中は不幸の起つた場所を一目見たいといふので遣つて來たのである。この連中は何かしきりにお喋《しやべ》りのし續けで、その手提籠《てさげかご》には御馳走をうん[#「うん」に傍点]と御持參である。けれどもこの連中も、トンネルの口に直ぐ近く、硝子屋根から十月の青空へ絶えず渦卷き上つて行く四本の煙の柱を見ると、流石に心ひそかに戰慄を覺えるのであらうか、ぢつと見詰めたきりになつてしまつた。あの煙は通風機が地下道から吸ひ出したものだ。今でもまだあの中に人々がゐるんだ、などゝ言ひながら、見物人達は何時間でも待つてゐるのである。ところが別に何にも見る事はない。死體の擔ぎ出されるのは夜だけだからである。停車場ビルディングからは、消毒のために燻《く》べる鹽化石灰《えんくわせきくわい》の甘い匂が香つて來た。  後片附《あとかたづ》けの作業は何週間もかゝつた。大部分が燃えてしまつた木造地下道が一番厄介であつた。前進するのはやつと一足々々である。其處には死骸が山をなしてゐる。その死骸は大抵|慘《むご》たらしく手や足が取れてゐて、時々は又|黒焦《くろこげ》の柱なのか黒焦の人間なのか中々わからないのがあつた。死骸は何處にもあつた。石ころの下に寢てゐるかと思へば、炭になつた梁などの後に蹲《うづくま》つて、進んで來た連中に向つて齒を出して笑ひかけるのである。こんな恐ろしい死人の部屋へ來ては、極《ご》く/\勇氣のある者でさへ、恐怖と戰慄に打ち負けてしまつた。  アランはいつも先頭に立つてゐた、決して疲れることを知らない。  各病院の死亡室や病室では、どんな慘事にも必ず附きものゝ、悲慘な場面が幾度か演ぜられた。泣き叫んでゐる女達や男達は、苦痛のために半ば氣も狂つて、身寄《みよ》りの者を探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る、見つける、喚《わめ》く、卒倒するのである。けれど大部分の罹災者は、確かにその人だとは分らない始末であつた。  マック・シテイから少し離れた所にある小さな火葬場は、夜も晝も忙しかつた。いろ/\な宗教の各宗派の僧侶が呼ばれて來て、交《かは》るがはる悲しみの儀式を執り行つた。森の中のこの小さい火葬場は、幾夜もぶつ通しに晝間のやうに明るく、又その廣間にはいつ見ても木の棺が限りもなく並んでゐた。  滅茶々々になつた掘鑿機《くつさくき》の傍だけでも、四百八十人死んでゐた。この慘事で生命を失つた者は、全部で二千八百十七人であつた。  掘鑿機《くつさくき》の破片がすつかり取除けられた。すると大きく口を明けてゐる穴が現はれた。掘鑿機の錐が大きな空洞に掘り當てたのである。探照燈で見ると、この空洞は約百メエトルの幅で深さはもつと少い。石を落すと下へあたる迄に三秒半かゝつた。これは六十メエトルの深さに相當する。  慘事の原因はどうしても不可解だつたが、權威ある有數の學者達はかういふ意見であつた。この空洞は化學的分解によつて生じたもので、其處に瓦斯が充ちてゐたが、掘鑿機に掘り當てられると、この瓦斯が地下道へ入つて來て、爆破の際にこの瓦斯が爆發したのであるといふ事であつた。  アランは直ぐその日、掘り當つた空洞の調査に赴いた。それは千メエトル足らずの長さの裂《さ》け穴で、水は少しもなくすつかり乾いてゐた。この穴の底と壁は、新發見の、あまり質の密でない鑛石から成つてゐた。この鑛石を地質學者はサブマリウム(海底鑛)と命名したが、非常に多量のラヂウムを含んでゐた。  地下道は整頓された。技師達は規則正しく往復した。けれども勞働者の仕事は止まつたきりであつた。 [#5字下げ]九[#「九」は中見出し]  アランはストライキをしてゐる勞働者に一つの宣言を發表した。三日間の考慮の時を與へる、その後再び就業すればよし、さもなければ解雇するといふのであつた。  マック・シテイの石ころだらけの原といふ原には、未曾有の大きな會合が催された。六萬人といふ人が思ひ/\に押寄せて來て、十箇所の演壇(それは貨物車であつたが)からは同時に演説が始まつた。  霧を含んで冷たい十月の空氣を通して、絶間もなく同じ言葉が響いた。トンネル……トンネル……アラン……大慘事……三千人……シンヂケエト。それから又再びトンネル……トンネル……  トンネルは三千人を呑み盡した。勞働者の大衆に恐怖を與へてゐる。あの火の燃えてゐる深い地の底で、みんなは手もなく忽ち黒焦《くろこげ》となり窒息してしまつたのだらう……又同樣な慘事が、おそらくもつとひどい奴が起るかも知れない、この想像は實に確からしい想像である。死神はもつと恐ろしい遣り方で、みんなに襲ひかゝつて來るであらう。あの「地獄」の事を思つてみたゞけでも皆はぞつ[#「ぞつ」に傍点]とする。すべての大衆の恐れをのゝきが始まつたのだ。この恐怖はアヅォオラ群島、ベルムダ群島及び歐羅巴の工事現場をも掴んでしまつた。この各地に於ても、工事は一齊に休んでしまつたのである。  シンヂケエトは、重立つた勞働者を數人買收して、その連中を演壇に送つた。  買收された連中は即刻再び就業すべしといふ意見を述べた。「我々は六萬人だ。」とこの連中は叫ぶのである。「他の地方の停車場及び附屬各工場などを通算すれば十八萬人だ。冬の寒さは我々の家の戸口まで迫つてゐる。此處を去つて我々は何處へ行くか。我々は妻子がある。この我々に食ふだけのものを與へてくれる者が果してあるだらうか。今我々が此處を去れば全世界の勞働市場のあらゆる賃銀を低下させることになるだらう、しかも我々は世間から呪はれることになるではないか。」  それはさうなるだらうと誰も思つた。更にこの買收された連中は、皆が工事に對して熱心だつた事や、シンヂケエトと勞働者間のいろんな關係や、比較的高い賃銀や、それ等の事を取り立てゝ述べた。「このトンネルを惡く言つて、やれ『煉獄』の、やれ『地獄』のとは言つても、此處で働けば誰でも、よそへ行つた日には靴磨きにも道路掃除の人夫にもなれないやうな奴が、一日五弗六弗と立派に貰へるんぢやないか。俺の言ふ事に嘘があるかどうか。」更に又各地の勞働者占有地に言及《げんきふ》して叫ぶのである。「君達の家を見ろ、庭を見ろ、運動場を見ろ。君達には浴場があり、圖書室がある。アランは君達を人間として、立派に取扱つてゐる。そこで君達の子供は皆小ざつぱりと丈夫に生長して行つてるぢやないか。紐育へ行け、市俄古へ行け、さうすれば君達は南京蟲と虱に食殺されちまふ。」更に力説した事は、六年間にこれが最大の慘事で他にこんな大事件はなかつた事、及び再びこんな大慘事の起らないやうに、シンヂケエト側では、實に愼重極まる豫防策を講ずるだらうといふ事だつた。  かう言はれると反對は出來ない、實際一言もない。けれども皆の者は又再びあの恐怖に襲はれてしまつた。さうなると、もうどんなに誰が喋べらうが、言葉は何の效目《きゝめ》もなくなつたのである。人々は呶鳴つた。口笛を鳴らした。辯士達に石を投げ付けた。又辯士に面と向つて、貴樣はシンヂケエトから賄賂《わいろ》を取りやがつたらうなどゝ言つたものでめる。 「あの忌々《いま/\》しいトンネルに指一本でも觸《さは》つてみろ、たゞは置かねえぞ。」これが他の辯士達の趣旨であつた。「どいつだらうがこいつだらうが、たゞは置かねえ。」するとそこで轟くやうな賛成の聲が起つて何哩にも聞えた。全大衆がこの意見に賛成してゐるのである。かういふ辯士達はトンネル工事の危險を悉く數へ上げた。この慘事以前に生命を奪はれた犧牲者達すべての事を演説した。六年間に約千八百人だ。これでも大した事ではないか。汽車に轢《ひ》かれ、粉微塵にされ、壓し潰されてしまつたこの千八百人の事を思ふ奴は無いのか。又「背中を曲げたつ切り」の潜水夫病の事を言つた。その爲めに何百人が幾週間も床に就くやうになつて、中には到頭|癒《なほ》り切らず、一生涯不自由になつた連中も隨分ある。 「アランの野郎の正體が分つたぞ。」とこれらの辯士は、咆哮《はうかう》した。(この内一部分は汽船會社から賄賂を貰つてゐた。汽船會社はトンネルの完成を出來るだけ遲らせようとしてゐるのである。)「アランの奴は勞働者の味方ぢやない。あいつの言ふ事はみんな出鱈目《でたらめ》だ、嘘つぱちだ。アランの奴は資本の手先に使はれてゐる人非人だ。今迄に地球上最大の極惡人だ。アランの野郎は羊の皮を被りやがつた狼だ。野郎の碌《ろく》でもない仕事のお蔭で、ぶつ倒れて了つた人間を、一年に二千人も病院へ叩つ込みやがる、さうして置いてから、その人間をくたばらせやがるんだ……決してうだつの上りつこの無い不具者《かたはもの》にしやがるんだ。人間が町中で腐つちまはうが、氣違ひ病院で斃《くた》ばらうが、野郎にはどつちでも同じなんだ。この六年にあの野郎は、途方もなく、大勢の人間の屑を拵へやがつた。さて結論だ。アランの野郎は何處からでも勝手に人間を連れて來るがいゝ。亞弗利加からでも黒ん坊を連れて來い、あいつの『地獄』に使はれる奴隷にはそれがいゝんだ……罪人だの懲役人だのを政府から拂下げて貰ふがいゝや。あれを見ろ、あつちの方に並んでる棺をよ。棺がずらりつと、二キロメエトルも並んでゐるぢやねえか。さあみんなどうする、はつきり決《き》めてくれ。」  暴《あば》れる、狂ふ、吼える。これが答であつた。  是《ぜ》と言ひ非《ひ》と言ふ爭ひがマック・シテイのあちこちで一日中演ぜられた。或は賛成を叫び、或は反對を叫ぶのだが、いつも同じ議論が何囘でも繰り返されるに過ぎない。  三日目になると、アラン自ら演説することになつた。  午前にモオドとエディスを灰にして、すぐその午後に……まだ悲しみと苦痛とで痲痺しながら……アランは何千の大衆に向つて、何時間も演説をしたのである。段々喋べつて行く中に、擴聲喇叭に言ふ聲が段々高い叫びとなつて行く中に、アランは益々元の力が、自分の仕事に信じ切つてゐた元の氣持が甦《よみがへ》つて來るのを感じた。  このアランの演説は何メエトルといふ大きな貼札で豫告されてあつたのだが、始まると同時に石ころの野原の各場所に、獨逸語、佛蘭西語、伊太利語、西班牙語、波蘭語、露西亞語に飜譯されて絶叫された。この演説は何萬枚といふビラに印刷されて、地球上到る處にばら撒《ま》かれた。この演説は又同じ時刻に七箇國語で、ベルムダ島、アヅォオル島、フィニステラ、ビスカヤの各地で勞働大衆に向つて、喇叭から叫び出された。  アランが現はれると、先づ沈默をもつて迎へられた。けれども群集の間を進んで行くと、人々は道を明けてくれて、帽子に手を掛けて取らうとした者さへ大勢あつた。物音一つ聞えない。あらゆる言葉を凍らせてしまつた氷のやうに靜寂な徑《みち》が、アランの歩いて行く先々にあつた。人間の頭の海の眞中にある貨物車の上へアランが現はれると……誰も皆顏を知つてゐるあのアラン、誰も一度位は言葉を交はして、握手したことのあるアラン、その白い丈夫さうな齒並びもみんな知つてゐる……そのアランが現はれると、トム小父さんの馬丁が現はれると……原一面に、おそろしい動きが起つた。大きな群の壯大な移動だ。大軍が痙攣した。集合した。澤山の楔《くさび》が、一つの中心に向つて、水壓に押されて集まつて行くやうだ。けれども、物音一つ聞えなかつた。  アランはメガフォンを通して叫んだ。一句一節を地球上の各地に傳へる爲めである。「トンネル人《メン》諸君、諸君とお話しようとして私は此處に立つた。」と口を切つた。「私はマック・アランだ、諸君はよく知つてゐる。三千人の人を私が殺したと諸君は叫んで言はれる。けれどもそれは嘘だ。運命の方が一箇の人間よりも力強い。三千人を殺したのは、あのトンネルの勞働だ。勞働は地球上で毎日何百人といふ人を殺す。勞働は戰爭だ、戰鬪が行はれゝば死人が出來るのは通例だ。諸君も知つてゐられる通り、紐育だけでも、勞働は毎日二十五人の人を殺す。けれども誰一人紐育で勞働をやめてしまはうなどゝは考へない。海は毎年二千人を殺す。しかも誰一人として海上の勞働をやめようなどゝ思ふ者は無い。トンネルメン、諸君は友人を失つた。それを私はよく承知してゐる。その私も友人をなくした……丁度諸君の通りだ。私と諸君とは勞働の上の同僚であると共に、又損失の上から言つても同僚なのだ。トンネルメン……」アランは再びあの熱情を、不可能と思はれたあの事業に對して勞働大衆が六年間持ち續けたあの熱情を、今再び煽《あふ》り立てようと試みた。アランは言ふ。トンネルを作るのは私一箇の慰みやなんぞではない。あのトンネルは歐羅巴と亞米利加を、二つの世界を、二つの文化を兄弟にしようとするためである。あのトンネルが何千人に麺麭《パン》を與へんが爲めである。幾人かの資本家の腹を肥《こ》やすために作られるトンネルではない。それどころか民衆にも同樣所有權があるトンネルだ。正にそれこそ私の望みであつた。「あの下の方にあるトンネルは、トンネルメン、諸君に屬してゐるものだ。諸君自身すべてシンヂケエトの株主なのだ。」  アランの感じでは、自分から火花が出て、人間の頭の海の上へ飛んで行くやうであつた。何か呼ぶ聲、呶鳴る聲、大波の打つやうな動き。あゝ、あれは火花の接觸があつたのだ…… 「私自身一箇の勞働者だ。」とアランは喇叭から叫んだ。「トンネルメン諸君、私は諸君と同樣一勞働者だ。私は卑怯者は大嫌ひだ。卑怯者はどし/\行つてしまへ。けれども勇氣のある者は殘つてくれ。勞働は單に腹一杯食ふための、たゞの手段なんかぢや無い。勞働は理想だ。勞働は現代の宗教だ。」  叫喚。  すべての状況はアランに有利であつた。けれどもアランが再び就業するようにと要求するや否や、忽ちあたりは再び氷のやうな靜寂《せいじやく》に返つた。あの恐怖が再び皆の心を掴《つか》んでしまつたのである……  アランは敗《ま》けてしまつた。  その夜、勞働者の幹部連は會合を開いたが、それは明け方まで續いた。朝になるとその代表者達は斷じて再就業せずと發表した。  大西洋中の停車場や歐羅巴の停車場は、亞米利加の同僚と相結束した。  この日の朝アランは、十八萬人を解雇した。皆の住んでゐた部屋は、四十八時間以内に、明け渡せといふことであつた。  トンネルは休息した。マック・シテイは死んでしまつたやうになつた。  たゞ所々に鐵砲を持つた兵士が立つてゐた。 [#改ページ] [#4字下げ]第五編[#「第五編」は大見出し] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  エヂソン・ビオ會社はこの數週間に一|身代《しんだい》儲けてしまつた。この映畫會社はトンネル内部の大慘事さへ映畫にして見せたのである。地下道内の生存徒歩競走をだ。各所の集會も見せた。アランの演説も。何もかも。  各新聞社にも莫大な金が懷《ふところ》へ轉《ころ》がり込んでその社主はいやが上にも腹を膨《ふく》らした。大慘事、救助作業、大集會、ストライキ……これはすべて地球上に充滿する新聞の讀者達、恐怖とセンセエションに餓ゑてゐる無數の大軍を十分|震駭《しんがい》するに足る巨彈であつた。人は爭つて新聞を買つて讀んだ。  五大陸すべての勞働者新聞は、マック・アランを目して、口に人間の頭を頬張り、兩手に鐵甲《てつかふ》の金庫を提《さ》げてゐる血と汚穢《をわい》に汚れた現代的妖怪なりとした。アランは毎日各國の輪轉機《りんてんき》によつて引裂かれたわけである。トンネル・シンヂケエトに對しては、これこそ各時代を通じて最も恥知らずの奴隷制度なりとか、資本主義の前代未聞の暴虐無道なりとか極印《ごくいん》を打つたのである。  解雇された勞働者は威嚇《ゐかく》的態度を示した。けれどもアランはそれを防止する策を講じた。何處のバラックにも、何處の町角にも、電柱にも次のやうな宣言が現れた。「トンネルメン諸君。シンヂケエトは螺旋《ねぢ》一つ取らうとする者に向つても、防禦の陣を布いてゐるぞ。我々は諸君に言ふが、シンヂケエトのあらゆる建物には機關銃が据ゑ付けてあるぞ。又我々は諸君に言ふが、これは洒落《しやれ》や冗談ではないぞ。」  あのアランの奴、何處から急に機關銃なんか持つて來たんだらう。それはかうだ、その武器はもう何年も前から祕密に据ゑ付けられてあつたんだ……何か事があつた場合のために。あのアランの奴と來たら大變な野郎だ、傍《そば》へも何も寄れたもんぢや無い。  解雇の申渡し後きつちり四十八時間|經《た》つと、勞働者占有地には電氣も水も來《こ》なくなつてしまつた。シンヂケエトを相手に一合戰やるんなら別だが、やらない積りならば、出て行くより外にしやうがない。  けれどもトンネルの連中ともあらう者が、至極おとなしく引込むなんて事は誰もいやだつた。皆誰も、世界に向つて自分達の存在を示したかつた。行つてしまふ前に一目自分達を見せて遣りたかつた。  翌日になると五萬人のトンネルメンが紐育に出掛けた。五十の列車に乘つて行つて、十二時にホボケンへ着いた所は、一つの大軍である。この大衆が紐育に入ることを禁ずる理由は、警察も一つも見出し得なかつた。紐育に來ようと思ふ人は、誰でも來られるからである。けれども各所の警察電話はしよつちゆうかゝり續けで、この大軍の情勢を監視した。  ハドソン川トンネルは二時間といふ間、殆ど一切の交通が遮斷《しやだん》された。トンネルメンはぞろ/\其處を通つて行く。蜿蜒《ゑんえん》たる長蛇の列だ。そしてこのトンネルは皆の足音や歌聲に鳴り轟いた。  トンネルから出ると、直ぐこの大軍は隊伍《たいご》を整《とゝの》へて、それからクリストフア街に曲つて繰り込んで行つた。先頭には樂隊が行く。おそろしく[#「おそろしく」は底本では「おろしく」]亂暴な音を立てゝゐる樂隊だ。それから一本の大きな旗を幾人もの連中が押し立てて來る。その旗には赤い字で「トンネルメン」とある。その次には國際勞働者同盟の赤旗が無數に續く。その後からは人々の頭上に世界各國の旗が何百本と飜《ひるがへ》つて遣つて來る。先頭は合衆國の星條旗だ。ユニオン・ジャックの英國旗だ。それから各國の、加奈陀、墨西哥《メキシコ》、アルゼンチン、ブラジル、智利、ウルグアイ、ベネズエラ、ハイチ、佛蘭西、獨逸、伊太利、丁抹、瑞典、諾威、露西亞、西班牙、葡萄牙、土耳古、波斯、和蘭、支那、日本、濠洲、新西蘭の旗だ。  色とり/″\の旗の林立《りんりつ》して行く後から、黒人が幾組も早足に遣つて來た。この黒人の一部は怒り狂つて、役者氣取りに目を剥《む》いたり、何やら夢中に呶鳴つたりしてゐるけれど、一部は又相も變らぬ善良な眞黒な連中であつて、白い齒を出して笑つて、そこらに「御婦人方」の姿でも見えると、早速いやらしい樣子をして見せるのであつた。その黒人の眞中には「地獄人」といふ字の大きく書いてある立て札が動いて行つた。それから、十字架を一つ擔いでゐる一組が來た。その十字架には人形が一つぶら下がつてゐる。アランだ。そのアランといふしるしは、古い袋で作つた丸い頭の上の火のやうに赤い假髮《かつら》だ。それから繪具で描かれた白い齒並みだ。その上に鞍覆《くらおほ》ひの布で大きな外套を作つてあるが、それが又アランの誰も見馴れた鹿皮色《しかがはいろ》のアルスタ長外套に實によく似てゐる。  十字架にかゝつたアランの前を行くのは、大きな立て札である。かう書いてある。 [#ここから4字下げ] 「マック・アラン、五千人を殺した男」 [#ここで字下げ終わり]  クリストフア街、ウォシントン街を通つて、ブロオドエイに波打つて進んで行く頭や頭巾や縁無帽《ふちなばう》や散々になつた山高帽などの上には、さういふ案山子《かゞし》人形が幾つも/\ゆら/\搖れて行つた。  アランの後からぶら下がつて行くのは、括《くゝ》り下げられたロイドである。  この人形の頭は胡桃色《くるみいろ》の茶色に塗られて、眼と齒並は、これでも恐ろしくないかといふ風に色取つてあつた。この亞米利加インディアンのトオテムのやうなものの前を行く立て札にはかうある。 [#ここから4字下げ] 「ロイド、億萬泥棒」 「人肉を啖《くら》ふ」 [#ここで字下げ終わり]  それからホッビイだ。藁で出來たブロンドの假髮《かつら》だ。瘠せつぽちで、旗のやうにあちこち靡いてゐる。その立て札はかうだ。 [#ここから4字下げ] 「ホッビイ」 「やつと惡魔から遁れたが、磔《はりつけ》になつた」 [#ここで字下げ終わり]  その次はS・ウルフである。これは赤い土耳古帽を冠り、無暗《むやみ》に厚い赤い唇で、拳《こぶし》位の大きさの眞黒な眼である。その顏には玩具の人形が澤山細引でゆはへてある。 [#ここから4字下げ] 「S・ウルフとその妾《めかけ》、手かけ」 「猶太人で詐欺師の親玉」 [#ここで字下げ終わり]  その次に來たのは有名な財界の巨頭連であり、各所の停車場の技師長であつた。その中でも特にひどく目に立つたのは、アヅォオルの「肥つちよミュツレル」である。風船玉のやうにまん丸で、古帽子の山高が載つかつてゐるが、それが頭である。 [#ここから4字下げ] 「地獄の鬼にはたつぷりの御馳走」 [#ここで字下げ終わり]  早足で行く連中の間には、何十組も樂隊が行進したが、それが一時に揃つてやらかすものだから、高い建物に挾まれて谷間のやうなブロオドエイは、アスファルトの上に何千枚も窓硝子が碎けたかと思はれる大變な音に充たされてしまつた。勞働者の群は喚《わめ》いたり口笛を吹いたり笑つたりして、どの人間も口を歪《ゆが》めて騷がしい音を出さうと一生懸命である。此處彼處の幾組かはインタアナショナルを歌ふ。また他の組はマルセイユの歌を、また他の組は勝手な歌をてんでに歌つた。けれど、その恐ろしい騷音にいつも附屬してゐる音は、踏みつけ踏み緊《し》める足の音である。重たい長靴の陰鬱な拍子を取る音である。それは何時間も續けて同じ言葉を繰り返してゐるのであつた。トンネル……トンネル……トンネル……  あのトンネルそのものが示威《じゐ》運動しようとして、紐育に遣つて來たやうであつた。  この行列の眞中の一組は、非常に人目を驚かした。その一組の前を行くのは各國の旗と、一つの大きな立て札とで、それにかうある。 [#ここから4字下げ] 「マック製造の片輪者《かたはもの》」 [#ここで字下げ終わり]  この一群はみんな、手か腕か足の無い連中であつた。義足の人が來る。それから二本の杖をついて、鈴のやうに身體を振つて進む者さへある。その後からは黄色い顏のいかにも病人らしい連中が早足で來る。これらはあの「背中曲り病」に罹つた連中である。  トンネルの連中は十人|宛《づゝ》の列で進んだが、五キロメエトル以上の行列となつた。その尻尾《しつぽ》が丁度ハドソン川トンネルを出ると、先頭はもうウオオル・ストリイトに達してゐた。このトンネルの連中の大軍は實に隊伍整然とブロオドエイを通つて行つたが、その通過した街は自動車の輪に磨かれてぴか/\光る通《とほり》なのに、翌日になつてもまだ靴の鋲《びやう》の痕が點々と殘つてゐる位であつた。この日の交通はぱつたり途絶えてしまつた。限りも無い列を作つて電車、馬車、自動車が行列の終りを待つてゐた。どの窓にもどの店の前にも、必ず見物人がゐた。誰も彼もトンネルメンを見ようといふのである。見ればそのトンネルメンといふのは、なるほど坑《あな》から出たらしい黄色い顏で、頑丈な手で、背中を曲げて、重たい長靴を引摺つて、どし/\行く。恐怖といふ雰圍氣をトンネルから一緒に持つて來た連中だ。この大勢が、みんなあの暗い地下道にゐたのだ。トンネルの中では、その友達を死神に取られてしまつたのだ。この大勢の行列からは鎖のがら[#「がら」に傍点]/\言ふ音が聞える。すべての權利を奪はれた惡人や罪人の匂ひがする。  寫眞師は狙《ねら》つて撮影する。映畫技師はハンドルをからから※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す。理髮屋からは石鹸だらけのお客が※[#「ぼう+臣+頁」、第4水準 2-92-28]の下にタオルを挾んで飛び出す。靴屋からは婦人連が片足に靴をつゝかけて飛び出す。衣裳屋《いしやうや》の店には肌衣《はだぎ》一枚のお客が立つて見てゐる。猿股一つのもゐる。商店や會社のビルディングは第一階から二十階まで、窓といふ窓に一杯の女賣子、雜役婦、女事務員だ。皆興奮して眞赤な顏で、好奇心に身體を動かしてはゐるが、窓框《まどかまち》から遠く乘り出して下を覗くので心配しながらである。それが皆叫ぶ、金切聲《かなきりごゑ》を出す、手巾《ハンカチ》を振るのであるが、街からの騷音の大波は、この連中の黄色い叫びを一緒に上の方へ持つて行つてしまふので、この叫びはさつぱり聞えないのである。  沸き返るやうな人の流れの眞中に何百臺といふ樣々の乘物が待つてゐたが、その中の一つ、質素な私用目動車にロイドとエセエルが乘つてゐた。エセエルは興奮と好奇心で身體をぶる/\顫はせてゐる。エセエルはしつきり無しに叫ぶ。「ほら、あの連中を……一寸まあ、あの連中を……ほら、まあ御覽なさい。」エセエルはこの行列に出會はせてくれた偶然をひどく悦んだものである。 「お父《とう》さん……アランを擔《かつ》いで來《く》るわよ。まあ素敵《すてき》。御覽になつて、お父さん。」  そこでロイドは車の後ろの方に屈《かゞ》み込んだやうにして坐つてゐたが、のぞき孔から外を見て、平然として言つた。「うむ、成程な。」  そのロイド自身が擔がれて傍を行くと、エセエルは晴々と笑ひ出した。大恐悦に我を忘れてゐる。 「今度はあなたよ、パパ。」  エセエルは窓にくつゝいて坐つてゐた席を離れて來て、ロイドを抱いた。「あなたよ、あれが見えて。」 「見えるよ。」 「地獄の連中」が傍を通る時、エセエルは窓を叩いた程我を忘れてゐた。黒ん坊達はエセエルを見て齒を剥《む》いて笑ふ。窓硝子に手の平《ひら》の煉瓦色に汚《きたな》らしく赤いのを押し付ける。けれどもこの連中は立ち止つてゐる譯には行かなかつた。後からの連中が踵《かゝと》を蹴り付けるからである。 「窓を決して明けるんぢやないよ、いゝかい。」とロイドは靜かに言つた。  そこへ、「マック製造の片輪者」が來ると、エセエルは眉を釣り上げた。 「お父さん。」といふエセエルは別人のやうな調子である。 「あれを御覽になつて。」 「あゝ、見てゐるよ。」 (翌日エセエルは一萬弗を「マック製造の片輪者」の間に分配して遣つた。)  エセエルの悦《よろこ》びは吹き飛ばされたやうである。何とも言へない人生のいたましさが、急にエセエルの胸を突き上げて來たのである。  エセエルは運轉手臺へのひさし戸を上げて、運轉手に命令した。「遣つておくれ。」 「行けやしません」と運韓手は答へた。  けれども暫くすると、エセエルはまた上機嫌になつた。  急ぎ足にちよこ/\遣つて來《く》る黄色い猿のやうな日本人の一隊を見ると、エセエルはまた微笑した。 「お父さん、御覽になつて、あのジャップの連中を。」 「うむ、成程な。」とロイドは同じ文句を答へるのである。  今親子二人は生か死かの危險に直面してゐるのだといふ事を、ロイドはよく承知してゐたが、それを言葉にも何もあらはさないのである。打ち殺されるのを恐《こは》がるやうなロイドではない。斷じて無い。けれども、ロイドにはよく分つてゐる事だが、「あれはロイドの車だ」といふ聲が一つでもすれば、きつと次の事が起るにきまつてゐる。見物人はこの車を取卷いて壓《お》し潰《つぶ》す。親子二人を(別に惡意も持たないのに)引摺り出して、やがて二人は壓し殺されてしまふ。精々の所でエセエルと二人は、黒ん坊二人が肩を組んだ上へでも一人|宛《づつ》擔がれて、紐育中を行く行列の仲間に入《はひ》れたら、それこそ大助かりといふ事になる。……かういふ事は決してロイドの趣味ではなかつたのである。  ロイドはいつもながら今更のやうに、エセエルには驚嘆した。エセエルは今も危險といふ事は考へてゐない。この點は母親そつくりのエセエルだ。  昔まだつまらない暮しをしてゐた時分、濠洲で起つたちよつとした場面を、ロイドは今思ひ出した。エセエルの母親を目蒐《めが》けて、怒り立つ猛犬が飛びかゝつた。その時どうしたかと思ふと、この女は猛犬を一つぴしやりと張り飛ばして、憤慨その極に達してかう言つたものである。「さあ、もつと/\かゝつてお出で。」するとその犬は、何かの理由でもあつたらうか、すご/\引退《ひきさが》つて行つたものである。この一件をロイドは思ひ出した。すると微笑せざるを得なくなつて、顏中皺だらけになつた。  そこへ忽ち、モオタアが唸り出し、車は動き始めた。  ロイドは干乾《ひか》らびた木乃伊《みいら》頭《あたま》を突き出して、聲を立てゝ笑つたが、笑ふ度毎に齒の間を舌が行つたり來たりする。ロイドはエセエルに向つて、二人がたつた今(一時間も)危險な目に逢つてゐたのだと教へて遣つた。 「ちつともこはかないわ、あたし。」エセエルはきつぱりかう言つてから、笑ひながら附け加へた。「こはがつたらをかしい位よ、人間をこはがる譯ですもの。」 「それでいゝんだよ、エセエル。何かこはがるやうになつたら、人間も半分死んでゐるのだからな。」  エセエルは二十六歳で、指一本人から指《さ》させない、獨り立ちの氣性《きしやう》つ張《ぱ》りで、父親に對してはまるで暴君なのだが、ロイドの方では娘を相變らずの小さい子供として取扱つてゐた。その又エセエルは、さうする父親をその儘にして置いたが、何としても結局はエセエルの思ひ通りの事をしてくれる父親だと、よく承知してゐたからである。  赤い旗の森がシンヂケエト・ビルディングの前に着いて、トンネルの連中の目に映じたのは、ビルディングの重い表扉《おもてど》がぴつたり締まつて居り、一階と二階の窓は、すつかり鐵の戸が下りてゐる事であつた。建物《たてもの》の正面にある四百の窓には、人一人顏を見せない。あの重い樫の表扉《おもてど》の手前、花崗岩の階段に、たつた一人の警官が立つてゐた。大男の肥つた愛蘭人で、灰色の布の制服で、灰色の布張りのヘルメットの革紐を薔薇色の二重※[#「ぼう+臣+頁」、第4水準 2-92-28]の下にかけてゐた。實に丸い滿月みたいな顏で、赤味がゝつた金色の剛《こは》さうな髭があり、碧《あを》い眼が面白さうに、大浪の如く押寄せる勞働者の大軍を眺めてゐて、氣の好さゝうな微笑を見せながら靜止するやうに片手を擧げる……その手は白い毛の手袋《てぶくろ》を嵌めた大きい手で、雪を一杯に掬《すく》つたシャブルみたいだ……その肥つた人は、から/\いふ笑ひ聲を一々立てゝは、繰り返し/\かう言ふのである。「癇癪《かんしやく》を起しちやいかんよ、いゝか。癇癪を起しちやいかんよ、いゝか。」  そこへまるで偶然のやうに、三臺のぴか/\光る蒸汽|喞筒《ぽんぷ》が(いかにも「歸る」ところのやうに見せかけて)ゆつくりとパイン街をがら[#「がら」に傍点]/\遣つて來たが、其處にみんなが立ち塞いでゐるので、その三臺はびたつと止まつて、辛抱強く待つてゐた。光つてゐる眞鍮の煙突からは、うすく白い煙が冷たい空に立ち昇つて、車全體の鋼鐵の身體には熱が漲つて、上の方でちか/\顫へてゐた。  ここに言はずには濟まされない事がある。それは外でもない。白い大きい手をした、氣の好《よ》ささうに微笑してゐる愛蘭人は小刀一本の武器も持たず棍棒一つ携へてはゐないのだが、呼子を一つ衣嚢《かくし》に持つてゐる。この呼子を已むを得ずして鳴らすとなれば、一分間|經《た》たない内にこの三臺のぴか/\光る、無邪氣さうにお行儀よく待つてゐる蒸汽|喞筒《ぽんぷ》は、力を抑へてゐる連中の前でこそ鳴りをひそめて彈機《はね》の上にぢつとしてゐるけれど、いざとなると一分に九千リットルの水を群集の中へ撒き散らすのである。その上、誰も氣が付かないが、第一階の窓框の所に懸けられてあるあの四メエトルの幅の卷いた布は、忽ちくる/\と卷き上げられて、それに書かれた大きな文字は通りへ向つて叫ぶやうに現はれるのである。「注意せよ。警官二百人ビルディング内にあり。注意せよ。」  尤も大男の薔薇色の愛蘭人は、呼子を握るべき場合には到頭ぶつからなかつた。  先づ最初に恐ろしい叫び聲が起つて、シンヂケエト・ビルディングの四百の窓に轟いた。暴風雨のやうな凄じい音で、例の樂隊の氣違ひ騷ぎは全くそれに呑込まれてしまつた。その次にマックの處刑《しよけい》が行はれた。物凄い叫びの起つてゐる中で、その人形は十字架の上へ下へ數囘上げ下げ引張られた。すると細引が切れて、マックは情《なさけ》無い顏をしながら皆の頭上に落ちて來た。細引は又|結《ゆは》へられて、刑の執行は鋭い口笛の中を何囘でも繰り返された。それから一人の男が、二人の肩に上《のぼ》つて、短い演説をした。その言葉の一つでも、その聲の音一つでさへも、沸き返る騷ぎに消《け》されて、聞えよう筈は無かつた。それでもこの男は顏中を歪《ゆが》めて、兩腕を盛んに突き出して、手の指を妙に曲げて、その中で言葉を捏《こ》ね※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した上、群集の頭上に投げるといふ譯で、顏と腕と手で演説したものである。口のあたりを泡だらけにして、兩手の拳骨《げんこつ》をシンヂケエト・ビルデンィグに向つて振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すと、やがてその男の演説は終つたのだが、この演説は誰にもよく内容がわかつた。叫喚の颶風が捲き起つた。この叫びは砲臺の邊まで聞えたものである。  ビルディング前の興奮はどし/\高まつて、無茶苦茶な熱狂になつてしまつたのであるから、やがての事には蒸汽喞筒が活動の必要を生じたかも知れなかつた。ところがすべて示威運動の性質として、かういふ事がある。あの肥つた愛蘭人を平つたく壓《お》し潰したり、三臺のぴか/\光る蒸汽喞筒を何處かへけし飛ばしたりするやうな、そんなえらい騷ぎは決して始まらないものである。今もどうしてそんな騷ぎが始まらなかつたかといふと、ビルディングの前で二千人が示威運動をしてゐる間に、四萬八千人は後からじりじり……自動機械的な一樣な勢で、押して來たからであつた。その結果はかういふ事が起つた。即ち、死んだやうなビルディングの前でさんざんに熱くなつたこの二千人は、凝縮《ぎようしゆく》の極點に達した後に、何か空氣|壓《あつ》を使ふ武器の矢かなんぞのやうに、ウォオル・ストリイトから外へ/\といつも押し出されるのであつた。  シンヂケエト・ビルディングは二時間以上も恐ろしい騷音に取り卷かれてゐたので、書記連やタイピストの女連はこはがつてしまつた位である。  騷音はパアル街やボワリイ街を通つて、第三丁目に上つて行き、其處から第五丁目に入つたが、此處には百萬長者連の惡趣味な邸宅が並んでゐる。この邸宅はひつそりして、まるで生氣といふものが無い。この堡壘に圍まれて潜《ひそ》み返つてゐる百萬長者連の傍を、湯氣《ゆげ》を上げる汗が、がや[#「がや」に傍点]/\騷ぐ汗が今過ぎて行くのである。ロイドの家は黄色い、多少風雨に古びたルネッサンス式の邸宅で、一條の庭園で通りから區切られてゐるが、その前に來ると、行列はまた堰《せ》き止められて、其處でロイドが「處刑」されたものである。ロイドの家は他の家同樣、まるで死んだやうであつた。第一階の隅の窓にだけ一人の女が立つて外を見てゐた。それはエセエルであつた。こゝらあたりに住む人間で、今の今姿を見せる勇氣のある人間が一人でもあらうとは、誰も思はなかつたのであるから、このエセエルを人は女中か何かと思つたのである。  行列は中央公園の横を通つてコロンブス廣小路に動いて行つた。其處から引返してマヂソン廣小路に來た。此處へ來ると、あの澤山の人形に火を點《つ》けて、熱狂した歡呼の中にそれを燒いてしまつたのである。  これが示威《じゐ》運動の終りであつた。トンネルメンは四散した。或る者はキヤスト・リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ア川添ひの酒場などに消えて、一時間もすると、大紐育はみんなをすつかり吸ひ込んでしまつた。  暗號《あんがう》が取りかはされて、正十時ホボケンのトンネル停車場前へ再び集合といふ事になつた。  ところが此處へ遣つて來るとトンネルの連中は非常に驚いてしまつた。停車場を守つてゐるものは、幾重にも厚い警官の壁である。警官の垣根である。トンネルの連中が集つて來るのは次第々々ではあつたし、又一方歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたり喚いたりアルコオルやなんかのために、何か遣つつけようといふ皆の盛んな氣持は、もう既に挫《くじ》けてもゐたから、皆集つても大きな力とはならなかつた。立て札があつてかう書いてある。獨身の勞働者はマック・シテイに來る用なし。結婚せる者に限り歸還すべきものなり。  大勢の事務員が嚴重な檢査をして、それから三十分|宛《づつ》の間を置いて列車がマック・シテイに歸つて行つた。朝の六時には一番最後の連中が片附いた。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し]  あの騷音がシンヂケエト・ビルディングを取り圍んでゐる間にアランはS・ウルフと、シンヂケエトの經濟方面でウルフに次いでの重役のラスムッセンと、三人で協議してゐた。  シンヂケエトの經濟的状態は決して危急を告げてゐるものではなかつたが、さりとて又決して樂觀を許すものでもなかつた。來年の一月のために十億の借入れをもう一度する豫定になつてゐた。現在の有樣ではそんな事は思ひも寄らない話である。誰一人、鐚《びた》一文貸しつこはない。  亞米利加側の南地下道での爆發の轟きと、ストライキの騷音は、全世界の財界に反響を呼び起した。トンネル株は二三日の中に二十五パアセント下がつた。誰も彼も出來るだけ早く手放したいと思ふ一方で、そんなもので手を燒いてみようなどと道樂氣《だうらくぎ》を出す人は一人として無かつたからである。大慘事から八日も經《た》つと、もうどうしてもばつたり行く事が、逃れられぬ運命のやうに見えた。けれどもS・ウルフは死物狂ひに一生懸命になつて、このシンヂケエトといふ經濟的大建築がよろ/\倒れかゝるのを支へた……さうするとそれが立直つたのである。ウルフは公衆に見せるため、實に素晴らしい貸借《たいしやく》對照表をでつち上げ、經濟記者の大軍を買收し、歐米の新聞雜誌には安心させるやうな記事をしこたま寄稿したものである。  トンネル株の相場は上がつた。安定した。S・ウルフはその相場を保ち、再び上へじり/\上がりに昇らせようとして物凄い奮鬪をし始めた。このビルディングの第十階にある自分の事務所で、ウルフは慘澹たる苦心を重ねに重ねて、河馬《かば》のやうに鼻息を吹いたり、ごろ/\言つたりしながら、掩護物《えんごぶつ》の全然無いこの野戰《やせん》に對する策戰を練つたものである。  さて皆の連中が下の方で吼えてゐる間、ウルフは自分の献策をアランに説明してゐた。「肥つちよミュツレル」の所の加里鑛と鐵鑛はすつかり掘り盡してしまへば好い。又各發電所の電力は他へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して金を取る事にする。慘事の原因となつたあの裂け坑はサブマリウムがあるから、それを掘り出せばいゝ。掘鑿試驗《くつさくしけん》の結果では平均十メエトルの鑛脈である……大した金になる。もう既にS・ウルフは、ピッツバアク熔鑛精錬會社に申し込をしてみた。會社が鑛石を掘り出す、シンヂケエトがそれを地上まで持つて來るのを引受ける。その代り純益の六十パアセントはシンヂケエトのものになるといふ譯である。會社側ではシンヂケエトの「お勝手|許《もと》が怪しい」のをよく承知してゐたから、三十パアセントと言ひ出した。ところがS・ウルフの方は、そんな莫迦《ばか》な話を承諾する位なら、生きながら幽閉される方がましだと蹴つたものである。さうしといて「アメリカン・スメルタアズ」に色目を使つて見せると、ピッツバアク會社は又遣つて來て、四十パアセントと言ひ出した。  S・ウルフは五十バアセントまで引下げてから、かう脅かした。シンヂケエトは今後|一握《ひとつか》みの鑛石も掘り出さなくなるかも知れない、地下道を通す側から言へば、鑛脈の所を突き拔けるか、それともその上の方を通り過ぎてしまふか、どつちみち同じ事だと言つたものである。到頭四十六と三分の一パアセントで折合ひがついた。この最後の三分の一といふものを得るために、ウルフは阿修羅《あしゆら》の如き大車輪の奮鬪を演じたもので、ピッツバアクの連中の言草によれば、あんな「鮫みたいな業突張《ごふつくば》り」を相手にするよりも惡魔の方がよつぽど始末がいゝとあつたさうである。  S・ウルフは最近の二年間に大層變つてしまつた。一層肥つて來た上に、前から患《わづら》つてゐた喘息《ぜんそく》がひどくなつた。それにしてもその暗つぽい眼だけは相變らずで、やゝもすれば憂鬱さうになる東洋人らしい輝きがあり、染めてゞもあるかと思はれる位に、眞黒な長い睫毛《まつげ》を冠つてゐた。けれどもその眼の烱々《けい/\》たる光は、もう消えてゐた。又S・ウルフは大變|白髮《しらが》が多くなつた。もう口髭を短く刈つてゐないで※[#「ぼう+臣+頁」、第4水準 2-92-28]と兩頬に髯の房を垂らしてゐる。額はがつちり廣く、兩方の眼の間は廣く、そして出眼で、大きな曲り鼻といふ譯で、何處やら亞米利加大陸の水牛といふ風がある……あまり威張《ゐば》り散らすので嫌はれて、その水牛の群から抛《はふ》り出された、獨りぽつちの仙人の水牛である。この水牛といふ印象を更に強くするのは、充血したその眼である。S・ウルフはこの數年來しよつちゆう頭に充血が來るので惱んでゐたのである。  下の方の叫びがひどくなる度毎に、S・ウルフはぞつと惡寒《をかん》がして、その眼は燃えるやうに閃いた。他の人達よりも臆病なたちではない、けれどもこの數年來の息も詰まるやうな我武者羅《がむしやら》な突進が、ウルフの神經を痛めてしまつたのである。  それからまだその外に、S・ウルフは全く人と違つた心配を持つてゐた。全く誰にも無い、ウルフだけの心配事である。それを世界中の何人にも洩らさないで隱してゐる、そこに拔目の無いウルフではある……  會議が終ると、アランはまた獨りきりになつた。それからその事務室をあちこち歩く。顏は憔悴して、眼は濁つて悲しさうである。獨りきりになると、忽ち不安に襲はれて、歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らずにはゐられなくなつたのである。何千囘でもあちこち歩いて、苦しい氣持を部屋の隅からあつちの隅へ引摺つて行くのである。時々立ち止つて何か考へる。けれども自分が何を考へるのか、自分でも分らなかつた。  それからアランはマック・シテイの病院へ電話を掛けて、ホッビイの容態を訊《き》いた。ホッビイは高熱《かうねつ》を出してゐて、誰にも逢はせる譯に行かないといふ。やがてアランは氣を引立てゝ、外へ出掛けて行つた。晩になるといくらかせいせいした樣子で歸つて來て、また仕事をし始めた。海底の谷間のやうなあの裂け坑をどう工事したらよいか、樣々な計畫をするのがその仕事であつた。その裂け坑へもつていつて、大停車場を一つ、巨大な倉庫や工場を幾つか建てられる。八十平方キロメエトルの岩石をその坑《あな》へ投げ込める。よく考へて見れば、トンネルの連中を殺さうとして、何百萬年も昔から死神が待ち構へてゐた、あの大慘事の裂け坑は、實に計り知れない大きな値打《ねうち》がある。この計畫を立てる事でアランは夢中になり、暗憺たる幻想は追ひ拂はれてしまつた。もう一秒たりともアランには他の事を考へる暇は無い。だからアランの背後にひそんでゐる事なんぞに、氣がつかう筈はなかつた……  それからのアランは夜|晩《おそ》く寢《しん》に就いて、その數時間の眠りがおそろしい夢に惱まされ續けでなかつた時は、起きてから大いに悦《よろこ》んだものである。  たつた一度だけ、アランはロイドの家の晩餐に客となつたことがある。  食卓に就く前、エセエル・ロイドが話相手をした。モオドとエディスの災難に就いては、エセエルは大變心の籠つた悔《くや》みを述べたので、其後アランはこの女をまるで違つた眼で見るやうになつた。急に幾歳も年を取つたやうに、その上益々ちやんとした女になつたやうに、アランは思つたのでゐる。  何週間もぶつ通しに、アランはトンネルの中ばかりで暮した。  數週間工事を休むといふ事になつたが、かういふ休業は普通の規則的經營の場合もしそんな事をすれば、經濟上に非常に大きな犧牲を拂ふことになるから、なか/\斷行出來ないのだが、丁度かういふ事になつて、結局アランには勿怪《もつけ》の幸ひといふものであつた。何年も續いてはげしい仕事に技師達は皆疲れ切つて、丁度休養を必要とする矢先だつたからである。又アランはこの勞働者のストライキを大してひどく重く見てはゐなかつた。機械組立工、電氣工、鐵工、コンクリイト工、石工、木工などのそれ/″\の連中が更に組合を作るとなると、トンネルから斷じて手を引くといふ組合の決議は結局到頭一度も成立しなかつたからである。  棄てゝ置けば地下道は早晩駄目になるのであるから、差當りそれを管理しなければならなかつた。この仕事にアランを助けてくれたのは、八千人といふ大勢の技師達で、只でも働かうといふ肩の入れ方であつた。この人達をアランは各所の地下道に分けて配置《はいち》した。この八千人は殆ど英雄に近い緊張をして、必死にこの大工事を守り續けたのであつた。  淋しいトンネルを通つて、時々たつた一列車が行く。その列車の警鈴《サイレン》は極めて單調に響いた。トンネルはむつつり默つてゐる。この地下道の死んだやうな靜寂に慣れるのには、誰も隨分長い間かゝつた。昔はあんなにも烈しく工事の音が轟《とゞろ》いてゐたからである。歐羅巴線、大西洋線、亞米利加線の地下道を、坑道專門の土木技師、鐵骨《てつこつ》組立技師、電氣技師、機械技師などの組が幾組も通つて行つた。あらゆるレエル、あらゆる枕木、あらゆる締《し》め釘《くぎ》、あらゆる螺旋《らせん》が一つ/\丁寧に檢査されて、修繕や改良の必要があると書き留められた。測量技師や數學者が、地下道の位置と方向を正確に計つた。その計つた結果は、前以て計算されたのとほんの僅かしか違つてゐなかつた。一番大きい違ひは「肥つちよミュツレル」の大西洋線の違ひで、横で三メエトル、縱で二メエトル間違つてゐたが……この誤差《ごさ》の原因はといへば、あの多量の岩石に影響された計測器の不正確によるのであつた。  不幸の起りのあの裂け坑では、夜も畫もクリイヴランド鑛業會社の勞働者が半裸體で汗水《あせみづ》垂《た》らして、千人もゐて、あまり密《みつ》でない層を成してゐるサブマリウムの掘鑿《くつさく》や爆破や採掘《さいくつ》に從事してゐるた[#「ゐるた」はママ]。熱帶の熱さのこの裂け坑は仕事の音で一杯で、まるで吼え暴《あば》れてゐるやうだつた。此處は何事も起らなかつたやうに昔の通りであつた。一日の産出量だけでも素晴らしい金額になつたのである。  けれども他の所では何もかも死んだやうであつた。トンネル都市は死に絶えたやうになつた。ワナメエカアはその倉庫を閉ぢてしまひ、トンネル・ホテルは大戸をすつかり締めてしまつた。勞働者占有地に住んでゐる者は、女達や子供達ばかりであつた。これはあの不幸に死んだ人々の寡婦や孤兒である。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  シンヂケエト全體が起訴されたけれど、數週間經つと、その裁判事件はまた止めになつてしまつた。その理田は、あの大慘事には、人間以上に大きい或る力が明かに働いてゐるからといふのであつた。  訴訟の間中、アランは紐育に留まつてゐなければならなかつたが、さうなるともう自由な身になつて、直ぐさま旅行に出た。  アランはその冬をベルムダ群島とアヅォオル群島で暮して、數週間ビスカヤに滯在した。それからケツサン島の發電所に現はれたが、それが最後で、アランの消息は杳《えう》として聞えなくなつてしまつた。  その春の間アランは巴里に住んでゐたのである。デンバア市の商人C・コンナアと名乘つて、リシュリウ街の或る古ぼけたホテルに泊つてゐた。誰もアランの肖像は何百囘も見てゐるのに、一人として今のアランを見知る者がない。それにしてこんなホテルをわざ/\選んだのは、一番大嫌ひなあんな階級の連中、金持でぶら/\してゐて、無暗《むやみ》とお喋《しや》べりの連中、ホテルからホテルと押し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、いやに勿體《もつたい》ぶつてお食事を召上がる連中、そんな連中から御免蒙りたいためであつた。  アランは全く獨りぽつちの生活をした。毎日午後になると、いつも同じのブウル※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]アル・カフエに行つて、自分の席ときめた丸い小さい白大理石のテエブルに就いて、きまつて珈琲《コーヒー》を飮みながら、街路の騷々しい人通りをぢつと靜かに無頓着に見遣つてゐた。けれども時々眼を外《そ》らして上を見る。向ひのホテルの第二階の露臺を見上げる。幾年か前に、モオドと一緒にアランはそのホテルに泊つてゐた事がある。今その二階には大抵の日に明るい色の着物を着た女が現はれる。するとアランはその露臺から目を放せなくなつてしまふのである。毎日アランはリュクサンブウル公園に出掛けて、その中の子供が何千人と遊んでゐる場所へ行く。其處にはベンチがあるが、そのベンチこそ昔モオドやエディスと腰掛けたベンチなのだ。アランは今毎日それに坐つて、子供達がその周圍を駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのに見入つてゐる。大慘事があつてから半年も過ぎた今、漸くにアランは二人を死なしてしまつた事と、その悲痛とをはつきり骨身《ほねみ》に沁みて感じ始めたのである。春から夏にかけてのアランは、何年か前にモオドやエディスを連れて旅行した、その同じ行程を辿る事にかかりつ切りであつた。倫敦に行つた。リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]アプウル、伯林、維納、フランクフルトと歩いた。その道連れといへば、いつも陰鬱な思ひ出、痛いやうな甘いやうな思ひ出であつた。  アランは前に泊つたホテルにまた泊つたが、しかも同じ部屋に泊ることさへ屡々あつた。昔モオドの手が開《あ》け閉《た》てした扉の前に、アランは度々足を止めた。いづれさういふ事は、夜|晩《おそ》い暗闇《くらやみ》の中であつたが、自分の家でもないホテルの廊下を行くアランは、間違へずにその扉の方へ行くのは、なんでもなかつた。長年の間を坑内といふ眞暗な地下の迷宮で暮したから、アランの方向感覺は實にしつかりしたものになつてゐたのである。又アランは眠らずに夜を過ごす事がよくあつた。暗い部屋に安樂椅子に掛けた儘である。身動きもせず、眼を大きく開いて、涙一粒浮べずにゐる。さうして時々小聲で、モオドに向つてちよいとした訓戒みたいな事を言ふ。モオドが生きてゐる頃よくアランはさうしたものだつたが、その通りにする。「もうお寢《やす》みよ、モオド」……「眼を惡くするぢやないか、駄目だよ。」あの頃は既に大工事のトンネルを計畫してゐたが、いくらさうだとしても自分の勝手ばかり考へてモオドの事を考へて遣らなかつたのは、とアランは自らを責めては苦悶した。可愛い妻と思つてゐたがその愛情を一度もすつかり打ち明けたことは無いやうに思はれる。一體愛し方が足りなかつたやうに思はれる……今モオドを思つてゐる程ではなかつた。確かにそれ程ではなかつた。モオドはよく、打つちやらかしにされて詰らないわ、とこぼしたものだが、そんな事を言はれて煩《うるさ》いとさへ思つた自分を、今アランは思ひ出して我と我身を拷問《がうもん》にかけるのであつた。さうだ、俺はあの可愛いモオドを幸福にする方法を知らなかつた夫《をつと》だ。いろ/\に思ひながらアランは燃えるやうな眼をして悲しみに絶えず胸をかき|※[#「てへん+毟」、第4水準 2-78-12]《むし》られ、死んだやうな部屋に坐つてゐると、やがて朝になる。「もうあなた、朝よ、鳥が啼いててよ、ほら。」とモオドが言ふ。するとアランは囁いて返辭をする。「あゝ、啼いてゐるね。」さう答へてアランは、寢床《ねどこ》の上にばつたり倒れるのであつた。  その内にアランは或る事を思ひついた。かういふ尊い部屋にある品を、燭臺《しよくだい》とか時計とか文房具などを、自分のものに貰つて行かうと思つたのである。すると何處のホテルの主人も、C・コンナア氏を金持の亞米利加人のくせに陰氣で妙な人だと思つてゐたから、構はずどし/\法外な値段を吹つかけたものである。それでもアランは値切《ねぎ》りもせずにその金を拂つた。  八月になると、この一周旅行から巴里に歸つて來て、またあのリシュリウ街の古ぼけたホテルに投宿した。そのアランの樣子は一層靜かになり、一層沈んで、眼には何だか薄氣味惡い光がある。周圍の生活に見向きもせず、たゞ自分ばかりの思案《しあん》に耽つてゐるやうで、精神病者のやうな感じを與へた。一週間以上も一口も喋《しや》べらなかつた。  或る晩アランはラテン區に行つてその曲りくねつた賑かな通りを歩いたが、急にぴつたり足を止めた。誰かが自分の名を呼んだと思つたからである。けれどもどつちを見ても素知らぬ顏の知らない人ばかりだ。するとすぐ眼の前に大きな字で自分の名前が、昔の名前が書いてあるのに今急に氣が付いた。  それはエヂソン・ビオのけばけばしい色刷《いろず》りの廣告札であつた。佛蘭西語でかうある。「かの『トンネル』の建設者マック・アラン及び技師長ホッビイ氏がマック・シテイに於て相共に建設に力《つと》むる人々と會談の光景。」 「仕事に赴くトンネル列車、歸る列車。」  アランは佛蘭西語が話せなかつた。けれどもこの廣告札が何を言つてるのかよく分つた。大いに好奇心をそゝられて、それでも流石《さすが》に躊躇しながらも、アランは暗い客席に入《はひ》つて行つた。見ると丁度、ある悲劇映畫の半ばであつたが、退屈極まる映畫だつた。けれどもこの映畫に一人小さい娘が出て來て、何處やら微かにエディスを思ひ起させるので、そればつかりにアランはこの滿員の小屋に半時間も辛抱してゐた。この小つちやいイボンヌはやつぱり同じやうに、高慢ちきな顏で、大人《おとな》のやうな眞面目な顏でお喋《しや》ベりする……  急にアランは、自分の名前を辯士に呼ばれた。その瞬間あの「自分の都市」も目の前に現はれた。埃《ほこり》と煙と太陽の光にちら/\見える。技師達の一群が停車場の前に立つてゐる。みんな知つた顏ばかりだ。その皆が合圖《あひづ》でもされたやうに一齊に振向く。一臺の自動車を待つてゐる。その車はゆる/\と遣つて來る。中にゐるのはアラン自身と、その傍にホッビイだ。ホッビイは立ち上つて何か技師達に叫ぶ。すると皆が笑ふ。アランはこの若々しい元氣一杯のホッビイを見て重苦しい痛みを感じた。あんなだつたホッビイが……今はもう他の大勢と同樣トンネルに滅茶々々にされてしまつてゐろのだ。自動車はゆつくり進んで行く。と忽ち映畫のアランが立ち上つて、車を下りて車へ倚《よ》りかゝる。一人の技師が帽子に手をかける。分つたといふ印《しるし》である。  辯士がいふ。「天才的建設者は、今やその協力者達に命令を下して居ります。」  そんな事にお構ひなく、その帽子に手を掛けた男は、だしぬけにこつちを見る、探すやうな眼付で見物席を見る、丁度アランを見る。まるでアランを見付け出したやうな風である。そこでアランはその男が誰かかつた[#「誰かかつた」はママ]。十月十日に射《う》ち殺されたあのベエルマンである。  映畫ではもうトンネル列車が走つてゐる。斜面《しやめん》になつた所を下つて行く。上つて來る。後から/\と走る。埃《ほこり》の雲がその上をずん/\過ぎて行く。  アランの胸は波打つた。坐つたきりのアランはまるで何かの力に縛り付けられたやうで、不安らしい樣子で、顏は熱く火照《ほて》つて、吐く息は何處かゞ締め付けられたやうに音を出すので、傍《かたはら》の連中が笑ひ出した程であつた。  けれども列車は列車で飛ぶやうに走る……アランは立ち上つた。外へ[#「立ち上つた。外へ」は底本では「立ち上つた 外へ」]ふいと出た。自動車を拾つて、ホテルに歸つた。歸るとアランは、亞米利加行きの快速船でこの次に出るのはと、支配人に訊《き》いた。この支配人は、いつもアランを腫物《はれもの》に觸《さは》るやうに至極丁寧大事に扱つてゐたものだが、かう訊かれて、あしたの午前リバアプウル出帆のキュナアド定期船がございますと教へてくれた。けれども又、晩の急行列車はもう出ましたとも言つた。 「では直ぐ特別列車を出させて下さい。」アランは言つた。  その聲とその調子にびつくりして、支配人はC・コンナア氏を今更のやうに見た。このお人は今日のお午《ひる》から、なんと變つた人になつてしまつたものだらう。さう思ふ支配人の前には全く知らない別の人が立つてゐるやうだつた。 「宜しうございます。」と支配人は返辭した。「ところで申兼ねますが、ひとつコンナアさん、保證の方をお願ひ致したいのですが……」  アランはもう昇降機《リフト》の方へ歩き出してゐる。「そんな事がいりますか。かう言つてくれ給へ、列車を註文するのは、紐育から來たマック・アランだと。」  そこで支配人はアランがわかつた。吃驚して一足下がつて、お辭儀一つして、その面喰《めんくら》つた驚きを繕つてしまつたものである。  アランは生れ變つたやうになつた。空氣が金屬かなんぞのやうな音を出す位に早い速力で、何處の停車場も通過してしまふ物凄く走る列車に乘つて、アランは前へ/\と突進したが、するとその速《はや》く動くといふ事によつて始めてアランはまたもとのアランになつたのである。この夜は實によく眠れた。實に久し振りである。たつた一度だけ目が覺めた。列車が英佛海峽トンネルを通る轟音《ぐわうおん》に目が覺めたのである。「この地下道はあまり小さ過ぎるやうだな」と思ふ中にまた眠つた。朝になるとさつぱりして、健康な自分だと感じて、明快な決斷力が充ち滿ちてゐるやうに思つた。列車から電話をかけて、汽船の船長とも汽船會社の幹部とも話をした。正十時にキュナアド定期船に着いたが、その汽船は待ち遠しさに熱を出して、煙突からは水蒸氣の雲をひゆう/\言はせて吐き出して、アランを待つてゐた。アランが片足船に乘るか乘らない中に、忽ち螺旋《らせん》推進器《すゐしんき》は水を蹴つて、白大理石を溶《と》かして液にしたかと思ふやうな眞白な泡を立てたのである。  半時間すると、あの遲刻《ちこく》した船客は他《ほか》ならぬマック・アランだといふ事が船中に知れ渡つた。  海へ出ると、アランは熱病に罹つたかと思はれる位無茶苦茶に電報を打ち始めた。ビスカヤ、アヅォオル、ベルムダ、紐育、マック・シテイには電報の雨が降つた。海底の眞暗な地下道には俄然何處にも一脈の活氣が流れた。アランがまた采配《さいはい》を振ふぞと、皆思つたからである。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  一寸暇が出來たところで、アランの眞先《まつさき》に訪ねたのはホッビイの家であつた。  ホッビイの別莊はマック・シテイから一寸離れた所にあつた。この別莊は重に凉みの間や露臺や縁側などばかりで出來てゐて、若い樫の木の揃つた小さい森に續いてゐた。  アランは呼鈴《よびりん》を鳴らしたが、戸を明ける者が一人もない。呼鈴は駄目にでもなつてゐると見える。家全體を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すと、もう長い間|空家《あきや》にでもなつてゐたやうだ。けれども窓はすつかり開け放してある。庭戸までも締めてあるので、アランは一寸考へたが直ぐ決心して、垣根を飛び越えた。庭の地面に足が付くか付かないに[#「付かないに」はママ]、番犬が一匹、猛然と遣つて來て、怒つて口を開けてアランの邪魔をするのであつた。アランはいろ/\犬に言葉をかけたので、やがて犬は道を明けてくれたまではいゝが、アランからちつとも目を放さないのである。庭は一杯の樫の落葉でこれも家と同樣|放《ほ》つたらかしの樣子である。ホッビイは外出でもしたらしい。  だからアランは、だしぬけにホッビイを目の前に見出した時、悦《よろこ》びや驚きといふものは一層大きかつた。庭へ下りる階段にホッビイは腰掛けて、片手に頬杖《ほゝづゑ》を突いて、考へ込んでゐる樣子であつた。犬が吠えたのも一向に聞えなかつたやうである。  ホッビイは相變らずちやんとした身裝《みな》りだつたが、その身に着ける物は皆若い男向きなのに、御當人は老人だつたから、ひどく氣取《きど》り屋といふ風に見受けられた。ホッビイの身に着けてゐたものは、先づ綺麗な縞の高價なワイシャツ、底がぺつたり平たくつて、絹のリボンを洒落《しやれ》て結んだ漆塗りの靴、黄色い絹の靴下、それから灰色のズボンには、折目が臀の邊《しり》まで正しく附いてゐた。身に沁みて冷たいといふのに、ジャケツ一つ着てゐない。  さうして坐つてゐる姿だけ見ると、いかにも健康な、又考へのしつかりした人間らしく見えたので、アランは嬉しさがこみ上げて來た。けれどもホッビイが、目を上げてこつちを見る、その何處かちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]の病人らしい眼付や、その皺だらけの青い老人の顏を見ると、アランは直ぐ、ホッビイの健康はまだなか/\だと分つた。 「やあマック、また遣つて來たね。」とホッビイは言つたが、手を差出しもせず動きもしない。 「何處へ行つてたんだい。」  その眼と口の周園で皺《しわ》が縮んで、もつと小さい皺になつた。ホッビイは微笑したのである。その聲は他の人の聲のやうで、又どこか合はない音があるやうに響いたが、しかもアランはホッビイの昔ながらの聲を、その中からはつきり聞き分けたのであつた。 「僕は歐羅巴に行つてたよ。時にどうだね、具合は。ホッビイ。」  ホッビイはさつきと同じやうに、また前方を見詰めて、「ああ大分いゝよ。それにこの僕の頭なんだがね、こいつがどうも言ふ事を聞かなくつて、癪《しやく》で/\仕方がなかつたが、もうよくなつて來たよ。」 「一體君は獨りぽつちで居るのかね。」 「うん、女中でも何でもみんな叩き出しちやつた。奴等があんまり喧《やか》ましいからね。」  その時になつて始めてホッビイは、其處にゐるのがアランだと分つたらしく、立ち上つてアランと握手して、悦《よろこ》んだ風を見せた。 「まあ入《はひ》り給へ、まあ御覽の通りの有樣だよ。」 「醫者はどう言つてるね。」 「どうもかうも無いね、滿足してゐるよ。たゞ辛抱だと言ふがね、氣を長くとね。」 「何故窓を皆開けとくんだね。おそろしく吹き込むぢやないか。」 「その風の通るのが好きなんだよ。」とホッビイは答へたが、取つて付けたやうに妙に笑つた。  それから二人は、ホッビイの書齋に上つて行つたが、その時ホッビイは身體中で飛ぶやうな格好で行つたので、白い髮の毛がふは/\した。 「僕はまた仕事をしてゐるよ。御覽に入れるかな。ちよつと素敵だがね。」さう言つてホッビイは右の眼だけまばたきしたが、それがまるで昔のホッビイの眞似《まね》のやうである。  ホッビイはアランに數枚の紙を見せたが、それには一杯、ふるへてゐる線が亂雜に引いてあつた。この繪はみなホッビイの今度飼つてゐる犬の繪だと言ふ。けれどもそれも子供の繪よりうまいとは言へない……しかも周圍の壁には停車場、博物館、倉庫などの立派なホッビイの設計圖がかゝつてゐて、皆それはこの天才の腕前を示してゐるのであつた。  さてこの犬のスケッチをアランが賞《ほ》めて遣ると、ホッビイは喜んで、 「ねえ、實際うまいもんだらう。」とホッビイは、得意《とくい》さうに言つてから、ぶる/\する兩手でブラック・アンド・ホワイトを二つのウィスキイ・グラスに注《つ》いだが、溢《こぼ》し/\して、やつと注ぎ終ると、「また直きに始めようと思つてるがね、どうもすぐ草臥《くたび》れちまつてね。だけどもう直き君にいろんな鳥を見せるよ。いろんな鳥だ。あゝして腰掛けてゐるとね、僕の頭《あたま》ん中に時々、いろんな不思議な鳥が見えるんだ……何百萬とゐる、それがみんな動いてるんだ。さあ、飮み給へ。さあ、さあ、遣り給へ。」  ホッビイは使ひ古した皮の安樂椅子に、どしんと腰を下ろして、欠伸《あくび》をした。 「モオドも一緒に、歐羅巴へ行つたかね。」とこんな事を急にホッビイは訊《き》くのである。  アランはぞつ[#「ぞつ」に傍点]として眞蒼《まつさを》になつた。一寸ではあるが目まひがしたやうだ。 「モオドかい。」と小聲にアランは言つたが、そのモオドといふ名は、自分の耳に何だか變に響いた。その名を口に出して言つては惡いものゝやうに耳障《みゝざは》りであつた。  ホッビイはまばたきをして、一生懸命に何か考へた。やがて立ち上つてかう言つた。 「もつとウィスキイを遣らないかね。」  アランは頭を振つた。「有難う。僕は晝間は飮まないんだから。」悲しげな眼差《まなざし》で、アランはめつきり秋らしい木々を通して海の方を見た。小さい黒い汽船がゆつくり南へ向いて行く。全く機械的にぼんやり見てゐると、枝の叉《また》になつた間に、汽船はふと止つてしまつて、ちつとも動かないのであつた。  ホッビイはまた坐り込んで、長い間二人とも全く靜かにしてゐた。風は部屋を吹き通して木々の葉を振ひ落す。砂地と海の上をあわたゞしく雲の影が、幾つも後から/\と行つた。その影を見ると、もう何もかも助かる望みは無く、しかも永遠に新しい苦しみが來るといふやうな感じが湧いて來るのであつた。  やがてホッビイはまた喋《しや》べり出して。 「僕の頭は時々かうなるんだ。」と言ふ。「こんなになるんだよ、君。勿論僕は何が起つたか、ちやんと知つてはゐるんだが、考へがごちや[#「ごちや」に傍点]/\になる事がよくあつてね。あゝ、モオドか、可哀さうにね。所で話は違ふが、君知つてるかね、ヘルツ博士が吹つ飛んぢまつたよ。實驗室も一緒にね。それが落ちて、往來にとても大きい穴が明いて、十三人一緒に遣られたんだよ。」  ヘルツ博士は科學者で、トンネルに使ふ爆發物《ばくはつぶつ》の研究をしてゐた人である。アランはこの事件を、もう汽船の上で聞いて知つてゐる。 「實に殘念だね。」とホッビイは附け加へた。「あの博士が拵へたあの新しいやつは、きつと素晴らしいものだつたらうがね。」それから物凄く微笑した。「殘念だね。」  そこでアランはホッビイの番犬に話を持つて行くと、一寸の間ホッビイもそれについて來た。けれども、直ぐまた話からまるで外《はづ》れた事を言ひ出した。 「モオドは可愛らしい女だつたなあ。」とホッビイはだしぬけに言ふのである。「まるで子供なんだ。そのくせ、どの人間の誰より偉《えら》いやうな積りでゐたなあ。この最近の何年かには、どうも大して君には滿足してゐない樣子だつた。」  アランはぢつと考へ込んで、ホッビイの犬を撫でゝゐた。「ホッビイ、僕には分つてたよ。」と言ふ。 「時々こんな事をこぼしたよ。君に置いて行かれて獨りで淋しいなんて。そこで僕は言つたもんだ。まぁ/\、仕方がないとね。僕達は接吻もしたものだ。まるで今日の事のやうに覺えてゐる。始め二人でテニスをした。それからモオドはいろんな事を何でも訊ねた。あゝ、あの聲が今聞えるやうだ。僕に『フランク』と呼びかけて、親しい口を利いたんだが……」  アランはホッビイを見詰めた。けれども何にも訊ねなかつた。ホッビイは遠くを見てゐて、その眼は怪しく恐ろしく光つてゐた。  暫くしてアランは立ち上つて、歸らうとした。ホッビイは庭戸まで送つて來た。 「ホッビイ、どうだね。」とアランは言つた。「一緒に行かないか。」 「何處へ。」 「トンネルへ。」ホッビイは色を失つて、その頬はふるへた。 「いやだ……いやだ……」かう答へるホッビイの眼は、臆病なうろ/\した眼だ。アランはこんな事を言ひ出して聞いたのを後悔しながら、見ればホッビイの身體中《からだぢゆう》がふるへてゐる。「ぢや左樣なら、また明日《あす》來るよ。」  ホッビイは心持ち首を傾《かし》げながら、青い顏で、病人らしい眼付で、庭の戸口に立つてゐた。その白い髮を風がなぶる。その足下には黄色い枯れた樫の葉が渦を卷く。例の犬がアランの後から怒つて吠え立てると、ホッビイは笑ひ出した……病人らしい子供つぽい笑ひだ。それが晩になつても、まだアランの耳についてゐて困つた。  その後數日のうちにアランは勞働者組合と再交渉を始めた。アランの感じでは、もう今では和解といふものが一層出來やすいと思つたのである。又實際に、組合はトンネルに對する封鎖《ふうさ》をもう續行出來なくなつてゐた。冬になると「農場の作男《さくをとこ》達」が西部から何千人と遣つて來て職を探すのである。組合は前年の冬、多額の金をこの仕事の無い連中の爲めに費して、しかもこの年の冬はもつと澤山の金が入用らしかつた。トンネルの仕事が休みになつて以來は、鑛山炭坑や製鐵場や機械工場の仕事も今迄にない不景氣となつてしまつて、大勢の人間を街上へ投げ出してしまつた。勞働の人手は有り餘る程提供されてゐたので賃銀は下がつて、それ故職に就いてゐる連中までも、貧弱極まる生活をしなければならなかつた。  組合は何遍も大會や集會を開いた。アランは紐育、シンシナチ、市俄古、ピッツバアク、バッファロオなどで演説した。アランは不撓不屈《ふたうふくつ》で決して疲れなかつた。その聲は以前同樣、胸廓の中からがん[#「がん」に傍点]/\響いて出て來る。その拳は空中をぶん/\音立てゝ飛ぶ、そんな演説であつた。七轉《なゝころ》び八起《やお》きのアランの性質が、またすつかり元通りになつた今は、あの昔の力もアランの身から流れ出るやうに、それも元通りになつたやうに見えた。新聞紙上にはアランの名前が度々出た。  アランには好都合に萬事が運んだ。十一月になれば、遲くも十二月になれば、あの工事をまた始められるだらうと見込《みこみ》が付いた。  ところがその時……アランには寢耳《ねみゝ》に水で……第二の嵐がシンヂケエトの上に襲ひかゝつて來た。その嵐こそは、あの十月の大慘事よりも、ずつと/\恐ろしい結果を生ずべきものであつた。  シンヂケエトといふ巨大な經濟上の建築の隅から隅まで、薄氣味惡い爆聲《ばくせい》が響き渡つた。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  S・ウルフは相變らず堂々として、その五十|馬力《ばりき》の車にブロオドエイを走らせた。相變らずきつちり十一時に倶樂部へ現はれて、ポオカアをし、珈琲《コーヒー》を飮んだ。日常生活を變へると、直接世間から疑ひの目で見られるといふ事をよく承知してゐたから、人に見える事柄では、實に些細な事までも從前通りにして見せたのである。  けれども昔通りのウルフでは斷じて無い。S・ウルフには心配事がある。しかもその心配は全く自身|獨《ひと》りに祕めて置かねばならぬものである。これは樂な事ではなかつた。今迄は氣晴らしのため毎晩の食事には、關係のある女の誰彼を引張つて來て、二人で食事したものだつたが、そんな事ではもう物足りなくなつた。滅茶滅茶な激動を受けたウルフの神經は、それを痲痺させるものとして亂痴氣《らんちき》騷ぎの酒宴やら、ヂプシイの音樂やら踊り子やら、そんなものが入用となつた。さてその夜中に疲れに疲れて寢床に就いても、身體はひく/\動くし、頭は心《しん》がめら/\燃えるやうに熱かつた。そこでどうにか眠らうとして、きつい酒を呷《あふ》つて醉つ拂ふ、それが毎晩々々の事であつた。  S・ウルフは自分の家を飾る事に大變やかましい男であつた。さういふ贅澤《ぜいたく》物を仕込むのに隨分金がかゝつたが、ウルフのとても澤山の收入はそんな事にはびくともしなかつた。心配といふのはそんな事ではない。もつと外にある。ウルフは二年前から、もつと違ふ種類の一つの渦卷にはまつてしまつて、しかも幾度か懸命の努力で、鏡のやうな水面に行き着かうといくら拔手《ぬきて》を切つて見ても、毎月々々そのぐる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る渦の中心に近づくのであつた。  S・ウルフのもぢやもぢやの毛の水牛頭《すゐぎうあたま》は、ナポレオン的の大野心を養つた。ウルフはこの野心と遊び戲《たはむ》れ、この野心の周圍を匍《は》ひ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのが無上の樂しみであつた。ウルフはこの野心を手鹽にかけて育て飼秣《かひば》をうん[#「うん」に傍点]と呉れた。それがウルフの道樂となり、閑潰《ひまつぶ》しとなつた。やがてこの野心は成長してヂンのやうになつた。あの亞剌比亞の物語にある漁夫の拾つた罎から出て來たヂンである、煙のばけもののヂンである。S・ウルフはこの自分のヂンに向つて、また罎の中へ匍《は》ひ込めと命令したが、するとその通りになつたので、チョッキの衣嚢《かくし》に入れて携帶する事が出來たものである。ところが或る日このヂンは「ストップ」と言つた。するとこのヂンは當り前の大きさになつてしまつた。摩天樓のやうになつて其處に立つて、眼からは稻妻が光り、口からは雷が轟く。そしてもう罎の中へは入《はひ》りたくないと言ふ。  S・ウルフは決心をきめねばならなくなつた。  金錢なぞをS・ウルフは何とも思つてゐなかつた。金錢といふものが何かの意味を持つてゐるといふ憐れな境遇の時代は、もうとつくに過ぎ去つてしまつてゐる。今のウルフはその金なんぞ、町の塵埃《ぢんあい》からでも空氣からでも作る事が出來る。金はウルフの頭の中に何百萬と山になつてゐて、只それを叩き落して出せばよいのである。名前をかくしながら、懷中《ふところ》には鐚《びた》一文も持たないのに一年の中に一財産作り上げてみろと、ウルフは自分自身に命令を下したものである。その金が欲しいのではない。目的のための手段に過ぎない。それといふのもかういふ譯からである。一體S・ウルフはアランの周圍を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る一つの衞星《えいせい》だ。ところがウルフは自分が一つの中心になり、その周圍を他の者がぐる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るやうにしたいと思つたからである。この目的を立てゝ見ると、今更ながらいかにも崇高であり堂々としてゐる目的である。そこでS・ウルフはきつぱり決心をきめたのであつた。  ロイドのやうな連中、財界の巨頭連中、彼處此處にゐるあゝいふ連中の皆やつたどえらい勝負を、何故おれがやつて見てはいけないだらう、おれも遣らう、とウルフは思つたのであるが、これは正《まさ》しくあれと同じ事なのだ。それは二十年前ウォルフゾオンの息子がした事だ。二十年前、若い息子たるウルフは、一枚のカアドにすべてを賭け、洒落《しやれ》た身裝《みな》りをし、三十|馬克《マーク》を齒並のうしろ、口の中へ隱して、英國行の船に乘つたのである。かういふ謀叛氣《むほんぎ》の起るのはウルフ生れ付きの氣性で、一つの法則といへるもので、一定の週期を經た後には、必ず同じ事をしろと命ずる法則なのであつた。  かういふ謀叛氣の起つた時には、S・ウルフはぐん/\背丈《せい》が伸びて、自分以上の者になるのであつた。ウルフの守り神がウルフの身體を引張つて、等身大《とうしんだい》以上にしてしまふのである。  ウルフの計畫はすでに出來上つて、頭の中に刻み込まれて、實に緻密なものであり、他の人には決して見えないやうになつてゐた。十年後には、一人新らしい巨頭が殖えるのだ。S・ウルフといふ巨頭だ。十年後には巨頭S・ウルフが、あのトンネルをすつかり貫通させるのだ。これがウルフの野心であつた。  S・ウルフ[#「S・ウルフ」は底本では「S ウルフ」]はその仕事に取り掛かつた。  今迄に何千人も人が遣つた事をするのである。けれどもこれ程の途方もない大規模には誰も遣つたことが無いのである。ウルフの目指すものは一財産どころではなかつた。ウルフの見積りでは、その計畫を遂行《すゐかう》するには五千萬弗が入用なのだ。そこでその五千萬弗を目蒐《めが》けて行つた。ウルフの行動は大膽で冷靜で、悔恨や偏見といふものが一切無かつた。  ウルフは自分の手で投機をしてみたが、ウルフの契約といふのでは、それが出來ないのは分り切つた事であつた。やつぱりウルフの契約は、一枚の死んだやうな役に立たない紙片に過ぎなかつた。かうなつたのも實はウルフの手を縛つて置きたい爲め、他《ほか》の巨頭連の差し金があつたからである。けれどもウルフはこんな事でへこたれはしなかつた。こんな事があつたのに、ウルフは南フロリダ州全部の綿花を買占め、一週間後にそれを賣り、二百萬弗|儲《もう》けたものである。これはS・ウルフがシンヂケエトを後楯《うしろだて》と頼んで遣つた仕事で、かういふ次第でシンヂケエトの金をウルフは一弗も持出さずに濟んだのである。一年經つとウルフは五百萬弗を握つてゐた。この五百萬を纒めて西印度諸島の煙草に襲ひかゝつて行つた。けれども旋風が捲き起つて煙草栽培を滅茶滅茶にして、あの五百萬の軍勢は片輪者の一大隊位に擦《す》り減つてしまつた。が、S・ウルフは戰ひをやめなかつた。また再び棉花を遣つて見ると、どうだらう、棉花は相變らずウルフに忠實である。ウルフは勝つた。勝つゞけであつた。どし/\勝つた。天晴《あつぱ》れな武者振りであつた。けれどもその中にウルフは思いも寄らぬ伏兵にして遣られた。銅を攻圍してゐたが、その銅に敗北したのである。何處か氣の付かない所に銅の在庫品があつて、それがウルフの背中に襲ひかゝつて、全くウルフの勢を殺《そ》いでしまつたのである。ウルフの流して失つた血は多量であつた。そこでシンヂケエトの豫備金から、借入しなければならなかつた。渦はウルフをつかまへた。S・ウルフは胸の中へ空氣を一杯に喞筒《ぽんぷ》で注ぎ込んで海に出た……すると渦が吸ひ込んだのである。S・ウルフは泳ぎに泳いだ。けれどもいつも同じ場所にある。ふりかへつて見ると、もう地盤を失つてしまつたと認めざるを得なかつた。S・ウルフは無茶苦茶に泳いだ。そして心に誓つた。もしもう一度、あの平らな水面に達し得たなら、差當り空氣を入れて息をつかう、そして再び冒險しようなどとは、なるべく思ふまい。  これがS・ウルフの心配事だつた。この心配を取り去つてくれることは誰にも出來なかつた。  去年はまだ、滿足させるやうな貸借《たいしやく》對照表をでつち上げることが出來た。まだシンヂケエトの全信頼を受けてゐるウルフであつた。  けれども時代が、世なみが惡くなつてしまつた。十月の大慘事は恐ろしい不景氣風を起してしまつた。來年の一月を考へると、S・ウルフはその度毎に白髮が一本々々殖える思ひであつた。  死ぬか生きるかの戰ひだ。  金だ。金だ。金だ。  ウルフに不足なのは、たつた三四百萬弗であつた。比較的僅かのものである。山が二つ三つ當れば、それでもうウルフは再び足の下にしつかりした地盤を踏むことになる。  よし來た、と思つてS・ウルフは死力を盡《つく》して防禦しようとした。  先づ最初は割に危險の少い一寸した戰爭をしたが、夏になつて、ほんの一歩地盤をひろめることが出來ると、もうウルフは大當りがせしめられさうだと遮二無二思つてしまつた。そこで、一刻の猶豫もなく砲撃を始めた。もう一度棉花を遣つてみて、かたはら錫にも手をつけてみたのである。この大やまが多少でも當らうものなら、忽ちウルフは助かつてしまふのである。  ウルフは何箇月も寢臺車と船のキャビンで暮した。  ウルフは歐羅巴と露西亞を旅行した。攻撃する値打《ねうち》のある目ぼしい陣地を偵察して※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたのである。身邊の費用は出來るだけ儉約した。もう特別列車にも、客間仕立ての車室にも乘らないで、S・ウルフは正規の一等車で我慢をした。倫敦と巴里では、今迄隨分金を食つた情婦達にひまを出した。女達は皆自分の要塞《えうさい》を死守して、青褪《あをざ》めた唇に泡を飛ばして何とかかん[#「かん」に傍点]とか言つた。けれどもそれは相手のS・ウルフがどんな人間か、よく知らなかつたからこそそんな眞似《まね》もしたのである。そのウルフと來たら、自分の豪奢《がうしや》な生活が突然崩壞する時が來るだらうと、もう何年か前から心にきめてゐて、數箇月このかた情婦達を探偵に監視させてゐた男である。さてウルフは女達に向つて、とても上手に怒つた風を裝ひながら、一々證據を突付けて詰つたものである。五月十日には、五月十五日には、五月十六日には……かく/\の日附には……これ/\の處にX氏やZ氏と居たらう……一寸した「氣晴らし旅行」と洒落込《しやれこ》んだらうなどと言つた。それで吃驚した女達にウルフは又蓄音器を聽かせたものである。その蓄音器は女達の身に覺えのある會話を、悉く今また繰返すのであつた。更にウルフは、床でも天井でも孔《あな》が明けられてあつて、その孔の一つ一つには夜晝《よるひる》一つの眼と一つの耳が樣子を窺つてゐたのだと女達に言つて遣つたものだから……到頭この連中は卒倒するといふ騷ぎであつた。やがてウルフは女達を追出してしまつた。  歐羅巴中を行くウルフは復讐の神のやうで、支店長や代理人をどし/\免職した。  ウルフはウェストフアリアの鑛山や白耳義の製鐵場を賣つた。出來さへすればウルフは直ぐ、鐵工業から金を取戻して、それを外へ、現在のところもつと見込のある他の價値に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してしまつた。又ビスカヤやアオルに土地權を持つてゐるが、不況のためその支拂を延ばしてゐる倫敦巴里伯林の土地專門の投機者達を動物に近いやうな無慈悲をもつてやゝつけた。この連中は奈落の底へ突き落される事になつた。小銀行は幾つも木《こ》つ葉《ぱ》微塵《みぢん》となつた。ウルフは自分の命を助けようと戰つてゐるので、情容赦《なさけようしや》など持合はせなかつたものである。ペテルスブルグでは三百萬|留《ルーブル》の一寸した酒代を使つて、一千萬留の値打《ねうち》の北シベリアの材木|伐採權《ばつさいけん》をせしめたが、これは年收入が二割あつた。又ウルフは自分の思惑《おもわく》一つあると、すぐそれを一つの株式會社にしてしまつて、そんな事でシンヂケエトの資本の半分を使つたものである。しかもその條件たるや狡猾《かうくわつ》極まるもので、シンヂケエトは今後ウルフと殆ど同じ額の利益を取るといふのであつた。市場の操縱は法律に直接觸れてゐた……けれども危急の場合の用意にウルフはその酒代を手に握つてゐた。出來る處なら何處でゞもウルフは金を拵へた。  S・ウルフのやうな男は……始終油斷なく見張つてゐて、そのあらゆる經驗や知識が殖えて來ると、その一々にうまく處して行かうとするのであるから……自分の本能のみに頼らねばならない。もし一度、最初に誤りがあつたなどといふ考へを起して、その考へに支配されることにでもなると、折角澤山の數學式を導いて來たのに、其處で途方《とはう》に暮れてしまふ數學者のやうに、ウルフはどうしてよいか分らなくなる譯である。だからS・ウルフのやうな男は、自分のした事は皆たつた一つの正しい事だと確信することによつてのみ、しつかり立つてゐる事が出來る。S・ウルフはその本能に從つた。おれは勝つんだ、と信じてゐた。  歐羅巴中を駈けずり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて野獸狩のやうな事をしてゐると、ほかに何にも暇はなかつた。けれど父を訪問せずに亞米利加へ歸る氣にはどうしてもなれなかつた。そして訪ねて行つて三日に亙る饗宴を開いて、ツェンテスの町中の人を招いたのである。このウルフの故郷で、或る貧しい女がウルフを生み落した匈牙利人の小屋、その同じ小屋にまだウルフがゐる時、不安を喚《よ》び起す電報の最初のやつが、手許へ着いたのであつた。  小さくやつてゐる方の山が幾つか外《はづ》れた。ウルフの軍勢の前哨《ぜんせう》が敗北したのである。最初の電報は亞米利加風の大きなズボンの衣嚢《かくし》へ、平氣で突込んだ。二度目のが來ると、もう歌唄ひの聲が急に耳に入らなくなつた。まるでその時だけ聾《つんぼ》になつたやうであつた。三度目が來ると、ウルフは馬車の用意を命じて、停車場へ行つた。見馴れた風景が太陽に照らされて燒けるやうだつたが、そんなものは、目に入《はひ》らなかつた。ウルフの眼は遠くを、紐育までの遠くを見て、マック・アランの顏がまざ/\と見える位であつた。  ブダペストに着くと、もう一つの新しい凶報がウルフを待ち構へてゐた。棉花の買占めをこの儘續けてゐた日には大損となる。賣るかどうか、返事を。といふ代理人の電報である。S・ウルフは躊躇した。迷つた。けれどもこれは考へ拔いての上でではない。その考へが纒まらなくつて困つたのである。三日前だつたら棉花でまだ數百萬儲けられたが、一束だつてウルフは賣らなかつた。そんな値では棄て賣りだと思つたからである。三年間棉花ばかり遣つてゐたから、ウルフは棉花を知つてゐた。市場を知つてゐた。リバアプウルを、市俄古を、紐育を、ロッテルダムを、ニュウオルレヤンスを……一人々々の仲買人を……取引の法則を知つてゐた、毎日財界といふ數字の森にもぐり込んだ、敏い耳を澄まして世界中の事を聞いてゐて、毎日澤山の無線電報を受け取つた。その無線電報は空中を來て、その暗號《あんがう》を知つてゐる連中ばかりが、それを受けたり暗號を解《と》いたりすることが出來るのであつた。ウルフはまるで極く僅かな震動をも記録する地震計のやうであつた。ありとあらゆる市場の動搖を書き留めてゐるのであつた。  ブダペストで巴里行の急行列車に投じて、維納に來て始めて、リバアプウルの代理人に賣れといふ命令を送つた。これは身を切られる辛《つら》い思ひであつた……要塞一つが爆發してしまふのだ……と悲しむばかりで、一かばち[#「ばち」に傍点]か遣つ付けてみようといふ勇氣などは、さつぱりもう無くなつてゐるウルフであつた。  この命令は、一時間|經《た》つともう後悔になつた。さりとて又それを、取消す決心もつかなかつた。仕事を始めてからのウルフが、自分の本能を疑つたのは、これが最初であつた。  ウルフは、亂痴氣《らんちき》騷ぎのあとのやうに疲れて、ぐんにやりしてゐた。決心はつかないで、しかも何かを待つてゐる氣持であつた。又ある毒物が血の中へ入《はひ》つて來たやうに思はれた。惡い豫感がしてふるへ出す。時々は少し熱があるとさへ思つた。半醒半睡《はんせいはんすゐ》の状態に入《はひ》つたが、直きまた目が覺めた。こんな夢を見た。事務所の電話をかけて、大都市の代理者達と話をする、とその皆が……一人々々順々に……電話を通してかう呼びかけて來る、すつかり駄目ですよ、と。又澤山の人聲が一緒になつて、不幸を嘆き悲しむ合唱となる、と思つた時、目がはつきり覺めた。けれどもウルフの耳にしたのは、カアプ[#「カアプ」はママ]の所で制動機をかけた列車の滑り軋《きし》る音であつた。ウルフは車室の天井に光る冷たさうな電燈をぢつと見詰めて坐つてゐた。やがて雜記帳を手にして、計算を始めた。その計算の間に、一つの痲痺が足から腕から匍つて、心臟に忍び込んだ。リバアプウルでの損失を、そのまゝ數字に書いてみる事は、ウルフには到底その勇氣がない。 「賣つてはいけなかつたな。」と獨言《ひとりごと》をいふ。「列車が停《と》まつたら、早速電報を打たう。何故この列車に電話を付けて置かないんだらう、この邊の森の中の田舍つぺは。今賣れば、おれは死ぬんだ。錫《すゞ》の儲けが四割ならいゝんだが、それはとても有り得べき事ぢやない。おれは何もかも冒險に遣つ付けてみよう、これがせめて最後の望みの綱だ。」  ウルフはこれを匈牙利語で言つた。この事も珍らしい。平生は英語で用を足《た》してゐたからである。金の事を話すには、この英語だけが正しい意味を通じ得るのである。  列車が急に停まると一旦は立ち上つたけれど、痲痺のやうなものが起つて、ウルフをまた座席に坐らせてしまつた。考へて見ればウルフの全軍は今豫備隊悉くを併《あは》せて砲撃をしてゐる。けれどもこの戰鬪には自信がなかつた、全然ない。ウルフの頭には數字が一杯だ。見渡すと何處にも歩哨が立つてゐる。五|桁《けた》や八桁の總額である。數字の階段である。いやに長つたらしい金額である。これらの數字は皆正確に印刷されてゐる、冷たい數字だ。鐵で出來た數字だ。これらの數字は自動的になつてゐるらしい。勝手に變つて行く。帳簿の借方から貸方へ自由に動いて行く。と思ふと又、消されちまつたやうに見えなくなつたりする。目を眩《くら》ますやうな數字の萬華鏡《まんぐわきやう》で、中では數字ががら[#「がら」に傍点]/\言つてゐる。これつぽつちの小さい數字が、鱗状《うろこじがた》に作つた鎧《よろひ》のやうに、下へ/\音を立てゝ落ちる。さうかと思ふと、素晴らしい大きさに輝いて、淋しい眞黒《まつくろ》な闇の中に立つて脅《おど》しつけるやうだ。こんな數字が見えるので、ウルフは冷汗をたら/\流した。それから氣が違ふのではないかとびくびくした。その數字はとてもひどく殘忍な怒り方をしてゐるので、ウルフは途方に暮れて泣き出したのであつた。  數字に追ひまくられて、死ぬ程の思ひをしながら巴里に着いた。それから數日|經《た》つとやつと落着きが取戻せたのである。けれどもそれからのウルフは丁度こんな人のやうであつた。何の病氣のしるしも無いのに、急に街上で卒倒して、二三時間すると癒《なほ》つたが、そんな衰弱の徴候があつたのだからと、おど/\ばかりしてゐる人のやうであつた。  一週間過ぎると、あのウルフの本能はやはり蟲が知らしたのだと分つた。  賣ると直ぐ、あの棉花買占めは他の人の手に渡つた。ある組合がそれを買つて、一週間持つてゐて、百萬弗儲けて賣つたのである。  S・ウルフは癪《しやく》で癪で腹の中が煮えくり返るのであつた。あの本能に從つたなら、もう今時分はしつかりした地面に着いてゐたらうに。  これがウルフの過《あやま》ちの最初の大きいやつであつた。數日の後には二度目のを遣つた。錫を持ち過ぎたからである。三日餘計に持つてゐて、それから賣つた。それでも儲けはした。けれども三日前ならその倍儲かつたのである。一割二分儲けたが、三日前なら二割五分儲けたのだ。二割五分。これだけ儲かれば、ウルフは大陸が眼界に見えるやうなものであつたのに。S・ウルフの顏は灰色《はひいろ》になつた。  一體どうしたといふのだらう、こんな過ちに過ちを重ねるとは。棉花は一週間早過ぎたし、錫は三日遲過ぎたのだ。おれはもうあやふやな人間になつたのか、さもなくてあんな事のありやう筈はない。かう思ふS・ウルフの手は、絶えず汗だらけでぶる/\顫へた。時々街の通りでよろ/\した。急にそんな風になるのであつた。又時としては一つの席へ上がつて行く元氣さへも無かつた。  十月になつた。十月の十日、大慘事の一年の記念日となつた。この日にウルフは考へたが、まだ三箇月、間がある。助かる見込はほんの少しだが有るには有る。それにしても二三日ゆつくり休んで勢を付けることにしよう。  ウルフはサン・セバスティアンへ立つた。  やがて其處に滯在して三日になると、身體の具合はめきめきよくなつて、婦人連に興味を覺え始める程になつたが、丁度その時アランから電報が來た。是非直ぐ紐育へ來て欲しい、大急ぎにすぐ次の汽船で來るやうに、とあつた。  S・ウルフはそれから間に合ふ列車にすぐ乘つた。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  十月の或る日、エセエル・ロイドがアランに面會を求めたが、何の用だらうと、アランは不思議でならなかつた。  入《はひ》つて來るとエセエルは素早く部屋中を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した「おひとり、」微笑しながら、かう訊いた。 「さうですよ、お孃さん、獨りつ切りですよ。」 「まあ好《よ》かつた事。」エセエルは輕く聲立てゝ笑ふ。「でも別に御心配はいらないんですわ、あたし急ぎのお使ひよ。お父さんに言ひ付かつて伺つたんですの。お手紙を持つて上がつたんですけど、お獨りつ切りの所で差上げるんだと言はれまして。」  エセエルは外套から手紙を一通取出した。 「それは有難うございました。」とアランは言つて、その手紙を受取つた。 「そんな事を言つて何だか妙な念の入れ方ね。元氣よくエセエルはかう續けて言ふ。「でもお父さんて人、よくいろんな事で變《へん》ちきりんなんですの。」それから、エセエル一流のはき[#「はき」に傍点]/\した遠慮のない調子でお喋《しや》べりを始めて、やがて到頭、無口のアランを會話に引き入れてしまつたが、その會話の大部分はエセエルが喋《しや》べつた。「歐羅巴に行つてらしつたのね。」とエセエルは訊いたが、直ぐ又「この夏あたし達も素敵な事をしましたの、あたし達、五人連れで、殿方《とのがた》が二人、女が三人。ヂプシイの馬車で加奈陀まで行つたのよ。ずつと好いお天氣續きで。野天《のでん》に寢たり、お料理をしたり、とても素敵だつたわ。天幕《テント》を一つ持つて行つて、それから又馬車の幌の上にボオトを一艘積んで……好い思ひ附きでしよ、さうお思ひにならない。」  エセエル獨特の怖《お》ぢ畏《おそ》れない大きな眼付で部屋中を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。美しい弓なりの、生き/\した赤に彩《いろど》つた唇(これは現代の流行である)には、何か考へてゐるやうな微笑を浮べてゐる。エセエルは熟した李《すもゝ》の色の外套で、小さい丸い帽子はそれよりもほんの少し明るい色で、その帽子からは青灰色の駝鳥の羽根が肩のあたりまで下がつてゐる。エセエルの着附けがぼんやりした消えさうな青灰色なので、その眼は實際よりもずつと青い色に見えた。暗い色の鋼とさへ見えた。  アランの事務室は恐ろしく殺風景だつた。模樣も分らない位に損じた絨毯。これが無くては困る革の安樂椅子が二つ三つ。金庫一つ。六つばかりの仕事机があり、上に書類の束が載つて、鋼の見本の切れつぱしで重しがしてある。卷いた紙や地圖などのある棚が幾つか。紙屑が堆《うづだか》くなつてゐる。恐らく誰かが部屋を掃いて其處へ固めたものらしい。大きなこの部屋の壁には、大きな圖がすつかり張り付けてある。その圖は一つ/\の工事線をあらはしてゐる。海の深さを測量した條《すぢ》が細かく書き込まれたり、トンネル曲線がインキで書いてあつたり、それらの圖はまるで吊《つ》り橋の寫生圖のやうに見えた。  エセエルは微笑した。「まあ、なんてお綺麗にちやんとしてらつしやるんでしよ。」と言つた。  この部屋の殺風景な事は、エセエルを失望させなかつた。「お父さん」の事務所を考へれば、この位の殺風景なら上等である。その「お父さん」のと來たら、一つの書き物机と一つの安樂椅子と、電話と痰壺《たんつぼ》と、それつ切りで他に何も無い有樣である。  エセエルはアランの眼をぢつと見た。「あなたのお仕事は、今迄に人間のした事のうちで、一番面白い事でせうねえ。さう思ひますわ。」とエセエルは言つたが、その眼付はすつかり感心し切つてゐる事を正直に語つてゐるのである。ところが急に、エセエルは大悦《おほよろこ》びで飛び上がつて、手を拍《う》つた。 「あらまあ、なんて景色でせう。」熱狂したやうになつてエセエルはかう叫んだ。その視線は窓を通して下の方へ向つて、紐育の横はつてゐる姿を見たのである。  澤山の平たい屋根から、うすい白い水蒸氣の柱が絲のやうに眞直ぐに、日向《ひなた》の中へ立ち騰《のぼ》つてゐる。紐育は働いてゐる。紐育は水蒸氣に包まれてゐる。一つの機械が、ありとあらゆる瓣《べん》から息を吹き出してゐるやうに見える。壓《お》し附けられて高くなつた塔のやうな建物の窓がきら/\光る。プロオドエイといふ谷間が暗く影になつてゐるが、その底には蟻だの點だの小つぽけな車だの這ひ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる。上から見ると、四角な塊《かたま》りの建物や、通りや、中庭などは、蜂の巣の蜂房《ほうばう》のやうに見える。見てゐると、どうしてもこんな事を思ふやうになる。人間共はこの蜂房をやはり似たやうな動物的の本能で作つたので、蜜蜂が巣を作るのと變りは無いのだなどと思へるのである。白い高層建築の群が二つある間に、ハドソン川が見え、その上を小つぽけな汽船が行く。四本煙突の玩具《おもちや》の船としか見えないが、大洋航路の五萬噸といふ巨船なのである。 「なんて素晴らしいんでせうね。」とエセエルは、何囘でも繰り返して叫ぶのである。 「高い所から紐育を御覽になつたことは無いんですか。」  エセエルは頷《うなづ》いた。「ですけれど」と言ふ。「時々ヴァンダアスティフトさんと上を飛んだことはあります。でも飛行機だと風がひどくつて、しよつちゆう面紗《ベール》をかけて居なければならないので、何にも見えやしませんわ。」  エセエルの話は自然で正直で、そのエセエルの全體からは、單純率直と眞情とが流れ出るのであつた。アランは、今迄エセエルの近くにゐても、大して氣持の好い事が無かつたものだが、それが不思議にも今は一體どういふ譯だらうと思つた。又アランはエセエルとお喋《しや》べりするのに何か遠慮しながらでないと出來なかつた。恐らくこれは只エセエルの聲がアランを苛々《いら/\》させたからであらう。大體に於て亞米利加には女の聲が二種類ある。その一つはやはらかい聲で、咽喉《のど》のずつと奧から響くので(モオドの話す時がさうだつた)、もう一つは鋭い、少し鼻にかゝつた聲で、大膽に押し付けがましいやうに聞えるものである。エセエルの聲はそれであつた。  やがてエセエルは暇《いとま》を告げた。戸口の所でアランにこんな事を訊《き》※[#判読不可、243-上-4]、いつか折を見てあたしのヨットで一寸した航海でもつき合つて下さらない、などゝ言つた。 「今の所、相談が澤山あつて、まるつ切り暇といふものがありません。」とアランは斷つて、ロイドの手紙の封を切つた。 「では、何れその内の事に致しませうね。左樣なら。」少しも氣持を惡くしないで、エセエルはかう言つて出て行つた。  ロイドの手紙には數箇の言葉が書いてあるきりである。署名はない。「S・Wに氣を付けらるべし。」  S・WはS・ウルフだ。アランの耳の中では、急に血が沸《たぎ》る音がした。  ロイドが注意してくれるのだから、理由の無い事ではない。この疑ひを起したのはロイドの本能といふ單なる感じばかりだらうか。ロイドは探偵でも使つたか知ら。アランは惡い豫感で一杯になつてしまつた。金の問題はアランの仕事ではなく、アランはそのS・ウルフの管轄區域に一度たりとも干渉しなかつた。金の問題は財産管理部の仕事で、ずつと何年も具合よく行つてゐたのである。  アランは直樣《すぐさま》、S・ウルフの代理人ラスムッセンを呼び付けた。そして全く何氣《なにげ》ない風で、シンヂケエト現在の經濟状態を正確に取調べるべき委員會を一緒に遣つてはくれまいかと、ラスムッセンに頼んだ。もう直き工事を始めたいから、差當りどれ位の金額が流用出來るか知りたいと言つた。  ラスムッセンは生粹《きつすゐ》の瑞典人で、その歐洲風の禮儀正しさが、二十年から米國にゐるのに、どうしても拔け切らない男であつた。  ラスムッセンはお辭儀をして、それから訊いた。「アランさん、その委員會を今日にも開き度いとお望みになりますか。」  アランは頭を振つて、「そんなに急いでゐる譯ぢやありませんよ。明日の午前位と思ふんですが。その時分迄にどうでせう、一緒に遣つて下さるか下さらんか、決心をきめて置いて下さい。」  ラスムッセンは微笑した。「それはきめますとも。」  この夜アランは組合代表者達の集會で演説したが、大成功であつた。  この夜、ラスムッセンはピストル自殺をした。  この事を聞いてアランは眞蒼《まつさを》になつた。直樣《すぐさま》S・ウルフに歸れといふ電報を打つ一方、時を移さず祕密の檢査を命じた。夜晝電報が往復した。その檢査をして見ると、手の付けやうの無いおそろしい混沌にぶつかつた。到る處に不正の記入がしてあり、巧妙極まる小細工が弄してあり、金を使ひ込んだ跡が分らぬやうに誤魔化《ごまか》してあつたが、その消費金の高は今の所はつきりしない。又これに責任があるのはラスムッセンなのか、S・ウルフなのか、それとも又他の人か、それも今は不明であつた。やがて又、S・ウルフの去年の貸借對照表は襤褸《ぼろ》隱しであり、豫備金は六七百萬弗の不足になつてゐるといふ事が判明した。 [#5字下げ]七[#「七」は中見出し]  S・ウルフは大西洋を航海中、自分を二人の探偵がつけてゐる事に、さつぱり氣が付かないのであつた。  いろ/\考へてS・ウルフは、損失の事をアランに打明けるのが一番よいといふ事を確信するに至つた。しかし又、この損失は他の儲けで確實に處理すれば、ほんの僅かなものになつてしまふ事を附け加へて言はうと思つた。かう考へると、ウルフは氣が樂になつた。無線電信でラスムッセンの自殺事件を聞くと流石《さすが》のウルフも空恐ろしくなつた。矢繼早《やつぎはや》に電報を紐育へ送つたものである。ラスムッセンの跡始末は引受けた、すぐ檢査を始めると言ひ送つた。それに答へてアランの返事は、もう電報を送るに及ばぬ、紐育に着き次第直ぐ訪ねろとあつた。  S・ウルフは、もう解剖のメスが自分に向けられてゐるといふ事を夢にも知らなかつた。未だに檢査を自分獨りでする事が出來るものと思ひ、逃路が見出せるものと思つてゐた。ひよつとするとラスムッセンの死んだ爲めに、俺は助かる事になるのかも知れない。陸地へ辿り着いて助かるといふならば、どんな事でもしようと決心してゐる俺だ……まかり間違へば、惡事の一つや二つ何でも無い。死んだラスムッセンになすり付けることも出來よう。その死んだラスムッセンに對して犯した罪は、跡に殘つた家族に十分な事をして遣れば、それで消えるといふものだ。  汽船がホボケンに繋留されるかされない中に、もうウルフは自分の車に乘つて、ウォオル街へ走らせた。直樣《すぐさま》アランに面會を求めた。  アランは待たせた。五分、十分、十五分。ウルフは他人扱ひにされたのである。そして一分毎にウルフの身體一杯に詰め込んで來た空景氣《からけいき》はどし/\減つて行くのであつた。やがてアランの部屋へ通されるとなると、ウルフは、その打碎かれたみじめな氣持を、喘息《ぜんそく》の苦しい息に誤魔化して隱した。喘息の息ならウルフがしても誰も怪しむ者は無い。  山高帽を阿彌陀《あみだ》にかぶつて、葉卷をくはへながらウルフは入《はひ》つて來て、戸口からもう話をしはじめるのである。「アランさん、部下の者を待たして置くんですか。」肥《ふと》つちよの人の笑いを響かせながら、咎めるやうに、がら/\な聲を出す。それから帽子を取つて額の汗を拭ふ。 「御機嫌|如何《いかゞ》です。」  アランは立ち上つた。「よく來たね、ウルフ。」と靜かに言つたが、そのアランの聲には心の中の事を示してゐるやうな響は何も無かつた。それから眼を外らして仕事机の上の何かを探すのであつた。  アランの調子はウルフをまた再び元氣付けて、ウルフは再び光明を認め得たのであるが、アランの只「ウルフ」と呼んで、「ウルフ君」と呼ばなかつた事は、忽ちウルフの背筋《せすぢ》を氷のやうに冷たいメスが走つた感じであつた。かういふ親しい呼び方は、昔はアランの極く内々の望みを打明ける時に用ゐたものであるが、今のこれは決して好い事の證據ではないと、ウルフには思はれた。  ウルフは嘆息をつきながら安樂椅子に座つて、新しく葉卷を一本取り出して、その端を噛んだが、齒ががち[#「がち」に傍点]/\言つた。それから葉卷に火をつけた。 「アランさん、ラスムッセンの事はどう思います。」とウルフは始めたが、息は苦しさうにはあ/\言つて、燐寸《まつち》を消えるまで振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、それを床に抛《ほふ》つた。「あんな立派な腕の男も珍らしい。惜しい事をしましたな。あの男は、きつと、我々の所へ素晴らしいものを持つて來てくれたでせうになあ。電報で申上げた通り、私がラスムッセンの後の事務を引繼《ひきつ》ぎませう。」  ウルフは言葉を途切らした。アランの眼に見られたからである。そのアランの眼は冷たかつた。正しく冷たい。人間らしい同情なぞは藥にしたくも無いものだつたから、人の感情を害する働きがあり、それでS・ウルフは急に口を噤《つぐ》んだのである。 「ラスムッセンはラスムッセンで又別な話になる。」とアランは事務的な調子に答へて、一束の電報を机から最上げた。「※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り路をしないで君の事を話さうぢやないか。」  ウルフの耳の周圍には、氷のやうな風が吹き荒れでもする心持であつた。  ウルフは前屈《まへこゞ》みになり、唇をふくらすやうにして頷《うなづ》いた。その樣子は、或る非難を受けながら、その惡口を承認してゐる人のやうであつた。それから深い息を一つして、眞面目な、燃えるやうな眼付でかう言つた。「もう電報で申上げた通り、私は今度ひどい目に逢ひました。棉花を一週間早過ぎて賣つたんですが、それはあのリバアプウルの代理人の莫迦《ばか》野郎が、何とかかんとか脅《おど》かしたので、つい私もさうしたんです。錫の方は賣るのが遲過ぎたんです。この損もあの損も口惜しいには違ひありませんけれど、またうまく取返せますよ。腦の味噌がどぶ泥みたいだつて人に言はれて、それもさうだと引込むのは、決して面白い事ぢやありませんからな。きつと遣りますよ、見てゐて下さい。」と結論を述べて、ウルフは苦しく息をしながら安樂椅子の所で身を起して、輕く聲を立てゝ笑つた。だがその笑は、自らを責め、憐れみを乞ふやうに響かせる積りだつたのに、思ふやうな音が出なかつた。  アランは頭を振つて待遠しいやうな樣子をした。胸の中は煮えくり返る程怒つてゐる。おそらくアランの生涯に、今この髮の毛のもぢや/\した外國人の喘息《ぜんそく》病《や》みを憎んだ程、一人の人間を憎んだことはないであらう。やつと今、一年過ぎて……みじめな一年が過きて……恐ろしい努力をしてやつと今、アランはすべてを固い地盤の上に再び置いたのに、この極惡人の株屋はアランの一切をまた投げ倒してしまつたのである。こんな男に掴《つか》みかゝるのに手加減の必要は無いと思つたから、アランはその敵の男を齒に衣を被《き》せず、どし/\早口に罵つた。「そんな事は今の問題ぢやない。」とアランは前と同樣靜かに答へたが、その小鼻だけはふくれ上がつた。「もしも君がシンヂケエトの仕事をして、それで損をしたものなら、シンヂケエトは何の躊躇もなく君をかばふだらう。けれども……」かう言つてアランは今迄|倚《よ》りかゝつてゐた仕事机から離れて、眞直ぐに立つてウルフを見据ゑた。その眼付は瞳だけしか見せてゐない細い/\眼で、撲《なぐ》り殺したい衝動を僅かに抑へてゐるといふ眼であつた……「君の去年の對照表は、あれは君、まやかしだつた。まやかしだ。君は自分の手で投機したんだ。おまけに七百萬弗使ひ込んだんだ。」  S・ウルフは木のやうに倒れた。土氣色《つちけいろ》になつた。その顏付には黴《かび》が生えた。ウルフは肉の厚ぼつたい手で心臟の邊を掴《つか》み、はつ[#「はつ」に傍点]/\と息をしながら後へ倒れた。その口は明《あ》いた儘でうろたへて白痴のやうになつたらしく見え、その血走つた眼は頭から飛び出るかと思ふ位にふくれ上がつたのである。  アランの顏の色は或は青く或は赤く變つた。自制しようと一生懸命になつたからである。やがてアランは相變らずの靜けさと冷たさでかう附け加へて言つた。「君も自分で檢《しら》べて見給へ。」アランは電報の束をウルフの立つてゐる前へいゝ加減に抛《はふ》り付けたので、電報は床に散らばつた。  S・ウルフは矢張り苦しい息をつきながら安樂椅子に坐つてゐた。足の下の地面は沈む。足は雲になつてしまつた。ぜい/\言ふ呼吸は自分の耳に瀧の音のやうだ。ウルフはこの高い所からでも突き落されたやうな、だしぬけの攻撃に面喰つてしまつたので電報をいゝ加減に投げ付けるといふ事に含まれてゐる侮辱を少しも感じないで怒りもしなかつた。灰色の瞼《まぶた》は垂れて、眼の覆《おほ》ひのやうになつた。何にも見えなくなつた。夜が見える。ぐる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる夜だ。俺は死ぬと思つた。死よ、迎へに來てくれと願つた……それからウルフは、再び目が覺めて、もうどんな嘘《うそ》を吐《つ》いたところで、嘘では助かる見込は無いといふ事を認めはじめたのであつた。 「アラン……」と吃《ども》つて呼んだ。  アランは默つてゐる。  S・ウルフは渦の中にもぐつてしまつたり、又喘ぎながら浮び上がつたりといふ思ひをしたが、到頭眼をぱつちり開いた。すつかりくぼんだ眼で、水から出されて長いこと經《た》つた魚のやうに腐つた眼だ。暫くしてウルフは喘ぎながら坐つてゐる姿勢を正した。「アラン、我々の状態はとても絶望だつたのだ」と言つたが、その胸は空氣に餓ゑて、突かれたやうに前へ出る。「私は金を作らねばならなかつたんだ……どんな事をしてでも金を……」  アランは憤然として跳《と》び上がつた。絶望の淵に墮《お》ちてゐる者は誰でも嘘を言ふ。嘘を吐《つ》く權利が有る位のものだ。けれどもアランはこの男に限つては同情なんぞ決してしない。この男の爲めにはどんな感情も感じて遣らない、何も感じない、憎惡と忿怒の外は何も。この男との話を手つ取り早く片附けて、この男を追つ拂ひ出したかつた。アランの唇は興奮の餘り雪のやうに白くなり、かう答へた。「君はブダペスト銀行に百五十萬の預金がある。ペテルスブルグには百萬、倫敦には一時預けのがあり、白耳義の各銀行に二三百萬ある。君は自分の手で例の仕事をして、そして最後にぺちやんこ[#「ぺちやんこ」に傍点]に遣られてしまつたんだ。僕は君に明日の晩六時までの時間を與へて遣る。それよりか一分も早くなく、一分も遲くなく、きつかり六時に、君を逮捕させるんだ。」  よろ/\しながら、死骸《しがい》のやうに黄色になつて、ウルフは立ち上つた。本能的な防禦慾に驅られて、アラン目蒐《めが》けて打ちかゝるためであつた。けれども片方の手を擧げる事すら出來ない。身體全體が痺《しび》れて、恐ろしく顫へた。突然數秒間だけウルフの意識が全くはつきりした。苦しく息をしながら、青い顏に汗の粒を點々と浮べて立つて、床をぢつと見詰めてゐた。その眼に自然と入《はひ》つて來るのは、床に散つてゐる電報に書かれた、歐羅巴の銀行いくつかの名前である。俺は何故この投機を始めたか、アランに打明けるべきだらうか。俺の心持を説明して遣るべきだらうか。斷じて金のためではなかつた事を言はうか知ら。けれどもアランは單純な簡單な人間だ。一人の人が權力を欲しがるに至る徑路なんぞ説明したつて分りつこ無い男だ。それといふのも……アランにはその權力が有るのだ。それを欲しがつて努力する事もなく、何時かそれを自分の物にし、しかもそれを知りも望みもしないで、只一寸その權力といふものを握つてゐるアランだ。この機械組立技師は頭の中には三つばかりしか考へは無く、世間の事を考へた例《ため》しはないので、何事も理解する事が出來ない。それはその通りだ。又若し俺のいふ事が理解出來たとしても、萬が一出來たとしても、どうせ有難い事にはならないのだ。俺は花崗岩《みかけいし》の塀に頭をぶつけて行く事になる。ブルヂョア風のこち/\に固まつた名譽心といふ塀に、ぶつかつて行く事になるのだ。この名譽心といふ觀念にぶつかるのが、小さい莫迦《ばか》な過《あやま》ちをした上ならばまだしもだが、大きい莫迦な過《あやま》ちをしたとなると、もう俺が助かる瀬は無い。アランから輕蔑され、罪ある者と排斥《はいせき》される事に變りはないといふ譯だ。こんなに話せない奴のアランはどうだ。當人自身、あの五千人をあゝしてしまつたのは、責任は無いとはいへ罪があるのではないか。又それにどうだ、何十億といふ金を民衆の財布《さいふ》から搾《しぼ》り上げておいて、何とかかんとか述べ立てた效能書の通り實現する事が一體可能なのかどうか、當人自身いまだに確信が無いといふアランではないか。いまにあのアランには、年貢《ねんぐ》の納め時が來るぞ。俺はそれを豫言する。そんな不屆《ふとゞ》きな奴のくせにどうだ。今日は俺を裁判して、しかもそんな權利があるものと自惚《うぬぼ》れてゐやがる。いろ/\思ふS・ウルフの頭は、やけくそに動いてゆくのであつた。逃げ路。助かる路。助かる見込だけでも。ウルフは又、アランの親切は誰も知つてゐる有名なものだといふ事を思ひ出した。そのアランが何故|鮫《さめ》の齒でもつて俺にくらひ付くのだろう。親切と慈悲とは全く別のものだ。  この絶望した人間は只心の奧底の考へにばかり耽つてゐたので、自分の周園の出來事を何秒かの間すつかり忘れてゐた。アランが召使を呼び、ウルフ氏の氣分が惡いから、水を一杯持つて來いと吩咐《いひつ》けた事は、ウルフの耳に入《はひ》らなかつた。そんな考へに耽つてゐればゐる程、段々その顏は死骸《しがい》のやうな色が、土氣色《つちけいろ》がひどくなるのであつた。  誰かが腕をつゝいた。誰かの聲がする。「もし/\」そこでウルフは眼が覺めた。見ればアランの召使のリオンが水を一杯持つて來て、自分に勸《すゝ》めてくれる。  ウルフはコップ一杯を呑み干して、やつと息をついて、アランを見た。どうも風向が今急に少しよくなつたらしい。此處でアランの機嫌を取る事さへ出來たら。かう思つてウルフは、しつかりした氣持になり切つて、太い聲でかう言つた。「まあ、まあ、さうは仰しやつても本氣《ほんき》といふ譯ぢやないでせう。七八年來一緒に仕事をした仲ですからな。私はシンヂケエトのために何百萬|儲《まう》けた……」 「それは君の骨折りだつた」 「ねえ、さうでせう。私としても、今度のはたしかに脱線だつたと認めます。それには違ひありませんが、金のためにした事ぢやありません。これをあなたにようく申上げたい。私の動機といふものをお聞き願ひたいんですが……それにしてもあれは本氣ぢやあないんでせうな。整理の事務がうん[#「うん」に傍点]とあります。その整理が出來る人間は、私の外には一人もない……あなたが若し私を沒落させれば、シンヂケエトも沒落する……」  S・ウルフの言ふ事は本當だ、とアランも知つてゐた。七百萬弗は惜しいばかりで、また何とかなりもしようが、それがぱつ[#「ぱつ」に傍点]と知れて惡い噂が立たうものなら、正に一大事である。さうとは承知しながらも、アランは苛酷《かこく》な態度をやめないのであつた。 「それは僕の問題だ。」とアランは答へた。  ウルフはもぢや/\の水牛頭をふるはせた。ウルフの考へでは、アランが實際に自分を捨て、突き落すものだとはどうしても思へない。そんな事は出來つこ無い。と思つてウルフはもう一度、アランの眼の色を窺つて見る事にした。けれどもその眼は穩《おだや》かな言葉で、ウルフにかう呼び掛けるのであつた。この眼の持主からは、もう憐れみの情けのといふ人情は期待したつて駄目な事だ、何も得られるものは無い、てんで無い、と言ふのであつた。ウルフは急に氣が付いた。アランは亞米利加人で、生れ付いての米國人で、俺は歸化人だ。さう考へるとアランの方が強い人間だと沁々《しみ/″\》思はれるのである。  ウルフ自らかすかな希望を描いたのだが、それも空《むな》しくなつた。もう駄目である。みじめな氣持にまたなつてしまつた。 「アラン。」と急にウルフはかう叫んだ。絶望に身體中を掴《つか》まれてゐるやうだ。「そんな事はあなたの本意ぢやない。さうぢやない。私を地獄へ追拂《おつぱら》ふなんて。そんな事はあなたの本意である譯がない。」  _もうかうなるとウルフの戰ふ相手はアランではなく、運命の神と戰ふやうな氣持であつた。けれどもその運命の神は、アランといふ冷靜な、決してたじろがない戰士を戰線に送つてゐるのである。 「それがアラン、あなたの本意だといふ事は無い。」何度でもウルフは繰返した。「あなたが私を地獄へ追拂ふ。」かう言つてウルフはアランの顏の下で拳を振※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのであつた。 「君に言ふべき事はもう無い」アランは戸口の方へ向いた。  S・ウルフの顏は一杯の冷汗《ひやあせ》で、何かの粘液《ねんえき》で覆はれたやうになり、髭は糊付《のりづ》けにされたやうになつた。 「金を辨償しよう、さうするから……」ウルフは荒つぽくかう叫んで、その兩腕は空中を飛んだ。 「何を今更、そんな世迷《よま》ひ言を」とアランはかう呼んで歩き出した。  その時ウルフは兩手で顏を覆ひ、打倒された牡牛《をうし》のやうに重い地響きで膝を衝《つ》いた。  扉はひどい音を立てゝ締まつた。  アランは行つてしまつたのである。  S・ウルフの肥つた背中がもく/\動いた。半ば失神したやうになつてウルフは立ち上つた。胸はぶる/\顫へる。涙の出ない啜泣《すゝりな》きをしてゐるのだ。帽子を手に取る。片手でその上を撫で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す。そしてのろ/\戸口の方へ行つた。  戸口の所でもう一度立ち止つた。アランは隣の部屋にゐる。呼べばその聲はアランの耳に入《はひ》る。ウルフは口を明けたが、音一つ出なかつた。出なかつたが、出たとしても同じ事である。何の役にも立たないからである。  ウルフは出て行つた。齒軋《はぎし》りをして行くが、その氣持は怒りと屈從と情無《なさけな》さョり無さのまざつたものだつた。口惜《くや》し涙が眼にあふれる。あのアランの奴、憎い/\奴だ。ウルフは憎みの餘り、自分の舌は今血を舐《な》めてゐるやうに思つた……あのアランだつて今に年貢《ねんぐ》の納め時が來る……  昇降機で下りて行くウルフは死人同然であつた。  自動車に乘つた。「河添ひにドライヴだ。」  運轉手は、主人の顏を一目探つて見るか見ないかだつたが、かう思つた。「S・ウルフはお陀佛《だぶつ》だ。」  小さく屈み込んで、灰色の顏で、くぼんだ眼で、ウルフは車に坐つてゐた。何にも耳に入れない、目に入れない。冷たい汗で寒くなつて、外套の中へもぐり込んだが、動物が貝殼の中へ縮まり込むやうな氣持であつた。時々ウルフはこんな事を思つたが、その度に口許へ苦《にが》い吐き氣《け》が突上げた。「あいつ、俺を冷かに罵倒しやがつた。俺を、猶太の儀式の殺し方のやうに、咽喉笛切つて殺しちまやがつた。」その外の事は何も考へる事が出來ないウルフであつた。  暗くなつた。運轉手は車を止めて、家へ歸るかどうか訊《たづ》ねた。  一生懸命にウルフは考へた。やがて響きの無い聲で言つた。「百十番地。」  それは現在ウルフの妾のルネの番地である。ウルフは今語り合ふべき友達も知人も無いと思つて、それで女のところへ行くのであつた。  自分の心の苦しさを運轉手に氣取《けど》られてしまつたらしい、とウルフは思つたから、その後は懸命にしつかりしてゐようと、力《つと》めた。ルネの家の前で車を下りて、平氣で、またいつも通り、いくらか命令的にかう言つた。「待つて居るんだ。」  ところが、運轉手の方はかう思つた。「手前《てめえ》もう何をじたばた[#「じたばた」に傍点]したつてお陀佛《だぶつ》だぞ」  ルネはさつぱり、ウルフの歸りを悦んでゐる顏を見せなかつた。拗《す》ねてゐるのである。ひどく退屈な風で、ちつとも嬉しくない風をして見せた。ルネはウルフの困り切つた樣子にまるで氣が付かずに、高慢ちきな、我儘に育て上げられた、勝手の強い自分の事ばかりに夢中であつた。 「女の利己主義もこれ位になると……」  と思ふとウルフは大聲に笑ひ出した。この笑ひは、絶望の自暴自棄がまじつてはゐたけれど、ウルフの調子をいつもルネとつき合ふ時の調子に戻してくれた。ウルフはルネと佛蘭西語で話をした。するとこの國語はウルフを別人のやうにして呉れたのである。時々數秒間……たつた數秒間だけだが……自分は死人同然だといふ事を忘れさして呉れた。ルネと冗談を言つたり、ルネの事を俺の育て損つた子供だの、意地の惡い人形さんだの、寳物だの、玩具《おもちや》だのと言つたり、ルネの美しいふつくらした口へ、冷たく濡れた唇で接吻して遣つたりした。ルネはリイル生れの北佛蘭西人で、赤味がかつたブロンドの素晴らしい美人で、去年ウルフが巴里から此方へ連れて來た女である。今ウルフは嘘をいふ。ルネのため巴里からとても素敵な肩掛と立派な鳥の羽根を買つて來たと言ふ。するとルネの顏にはさつ[#「さつ」に傍点]と光が流れた。ルネは食卓の用意を命じて、自分の心配やら機嫌不機嫌やらのお喋《しや》べりを始めるのであつた。  あゝ、大嫌ひの紐育。大嫌ひの米國人といふ國民。この連中は女といふものを取扱ふのに、とても敬意を拂つてゐるやうで、その癖どうでもいゝやうな扱ひだ。「お高くとまつて」何かお待ち遊ばしてゐるやうな、あんな事も大嫌ひ。あゝ、つく/″\あの方がいゝ、何でもない女帽子製造かなんかの女工でもして、巴里にゐた方が…… 「ルネ、お前もう直《ぢ》ききつと歸れるよ。」微笑しながらウルフはかう言つて接吻したが、さうしてゐる時もその微笑はルネの低い額の下で續いてゐた。  食卓では一口も唇を通せなかつたけれど、ブルグント赤葡萄酒はうん[#「うん」に傍点]と飮んだ。隨分飮んだ。頭が熱《やつ》くなつた[#「熱《やつ》くなつた」はママ]。けれども醉つた氣持にはならない。 「ルネ、音樂と踊り手を招《よ》ばうよ。」とウルフは言つた。ルネは猶太人街にある匈牙利料理の店へ電話を掛けた。すると半時間後に、踊り手と音樂の連中が遣つて來た。  この樂隊の隊長はウルフの好《この》みを知つてゐたので、美しい若い娘を連れて來た。これは匈牙利の田舍から直接に米國へ來た娘だ。ユリスカといふ名で、一寸した短い民謠を歌つたけれど、その聲が小さくて、誰の耳にも聽取れない位であつた。  一秒間も休み無しといふ條件を付けて、ウルフはこの連中に百弗遣らうと約束した。絶間もなく音樂、歌、踊りが繰り返された。ウルフは死骸《しがい》のやうに安樂椅子に寢て、その眼だけ光らした。赤葡萄酒ばかりいくらも飮んだが、さつぱり醉はない。ルネは臂掛椅子《ひぢかけいす》の中で、足をくるんで、立派な朱色の肩掛にくるまつて、緑色の眼を半ば閉ぢて、赤い豹のやうに蹲《うづくま》つてゐた。やはり相變らず退屈さうに見えた。このルネのいつに無い不仕鱈《ふしだら》な樣子が却つてウルフの心を惹附けた。その傍へ寄つて行くと、ルネは白痴の女みたいに意地惡の眼付をして、やがて恐ろしく騷がしい聲で叫び立てた。  あの氣の利いた隊長の連れて來た美しい匈牙利娘はS・ウルフの氣に入つた。ウルフは度々その娘の方に眼を遣つた。娘はその眼を避けるやうにして恥かしがる。やがてウルフは隊長に目配せをして傍へ呼んで、何か囁いた。暫くすると、ユリスカは見えなくなつてしまつた。  正十一時にウルフはルネの家を去つた。切子ダイヤの指輪を一つ、ルネに遣つた。ルネは唇でウルフの耳をなぶつて、何故此處に泊《とま》らないかと囁くやうに訊いた。ウルフはいつもの逃げ口上《こうじやう》で、仕事があると言つたが、するとルネは額に皺を寄せ、小さい口をすぼめるのであつた。  ユリスカはもうウルフの部屋で待つてゐた。ウルフに觸られるとぶる/\顫へた。その髮は茶色でやはらかい。葡萄酒を一杯|注《つ》いで遣ると、お行儀よくそれを啜《すゝ》つて、こんな事を言つたが、奴隷のやうなおづ/\した口振りだ。「旦那樣の御健康を。」それからウルフの望みで、例の短かい憂鬱な民謠を歌つたが、やはり又低い聲で、聽き取れない位である。 〔Ke't〕《キイト》〔la'nya〕《ラアニオ》 volt《ボルト》 a《オ》 falunak《フオルノク》 ……と歌つた……〔ke't〕《キイト》〔vira'ga;〕《ヴイラアゴ》 mind《ミンド》 a《オ》〔ketto:〕《ケテエ》〔u'gy〕《ウヂ》〔va'gyott〕《ヴアアヂオツト》 a《オ》 boldogsagra《ボルドグソクロ》 ……  村に二人の娘があつた。二つの花であつた。二人とも幸福を望んでゐた。その一人は婚禮の祭壇に導かれ、その一人は墓場へ連れて行かれた。  S・ウルフは若い頃何百囘となくこの歌を聞いたものだ。けれどもこの歌は今、ウルフを壓《お》しつけてしまつた。この歌を聞いてゐると、自分はもう全く助かる見込みはないと沁々《しみ/″\》思はれて來るのであつた。ウルフは坐つた儘で葡萄酒を飮んだが、眼には涙が湧いて來た。自分自身に同情して泣いたのである。その涙は蝋のやうな、海綿のやうなウルフの頬を、ゆる/\傳つて流れるのであつた。  暫くするとウルフは鼻をくん[#「くん」に傍点]と鳴らして、優しい聲で小聲にかう言つた。「あゝ、御苦勞だつたね。ユリスカお前ほかに何が出來る。」  ユリスカはウルフを見たが、その悲しさうな茶色の眼は、何處やら祕露《ペルウ》産の騾馬《ろば》の眼のやうであつた。ユリスカは首を振る。 「何にも出來ません、旦那樣。」  がつかりしたやうに、ユリスカはかう囁くのである。  ウルフは神經病の人のやうな笑ひ聲を立てた。「大した事ぢやないよ。」と言ふ。「いゝか、ユリスカ、お前に千|弗《ドル》遣るが、おれの言ふ通りの事をするんだぞ。」 「かしこまりました。」とユリスカは返事したが、謹んで服從してゐるやうでもあり、心配でたまらないやうでもあつた。 「いゝか、着物を脱《ぬ》げ。隣の部屋へ行け。」  ユリスカは頭を下げた。「かしこまりました。」と言ふやうに。  ユリスカの着物を脱ぐ間、ウルフは身動きもせず安樂椅子に坐つて、前方を見詰めてゐた。「若しモオド・アランがまだ生きてゐたら、俺は希望が持てたんだが。」と思つた。其處で氣が付くと自分は坐つてゐて、その自分の上に蔽ひ被さつて。眞黒な姿の不幸がゐる。暫くして、ウルフは目を上げた。するとユリスカが見える。着物を脱いで、戸口に立つて、帷《とばり》で身體を半分かくしてゐる。ウルフはたつた今、ユリスカの事をすつかり忘れてゐたのである。 「ユリスカ、こつちへお出で。」ユリスカは一足前に出た。右の手は未だ帷《とぼり》をしつかり掴んでゐる。最後の切地《きれぢ》を棄てたくない樣子である。  S・ウルフは通人の眼付で眺めたが、その娘の裸體はウルフにいつもと違つた考へを起させるのである。まだ十七歳といふのに、ユリスカはもうちやんと女であつた。その骨盤は着物の時想像したよりも廣かつた。股は丸々とした柱で、胸のあたりは小さく堅さうであつた。皮膚の色は淺黒い。この娘は粘土《ねんど》で作つて燒いて、日に乾かした陶器のやうに見えた。 「お前踊れるか。」とS・ウルフは訊いた。  ユリスカは首を振つた。上を見る事も出來ないのである。 「出來ません。」 「葡萄の摘取《つみと》りに踊つたことは無いか。」 「それはあります。」 「チヤルダスを踊つたか。」 「はい。」 「ぢやあ踊れ、チャルダスを。」  途方《とはう》に暮れたやうに、ユリスカはあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。それから踊つたが、澤山のお金を貰へると思つてといふより恐ろしさに驅《か》り立てられて踊つたのである。不器用に腕や脚を動かした。着物を着てゐないのでは、身體をどうしてよいのか分らない。硝子のかけらの上を踏みでもするやうに、よち/\歩いた。眼には一杯の涙で、その頬は恥かしさに燃え上つてゐた。おゝ、その足首は、あまり汚れてゐないとは言へないその足首は、どつちの方へ置いたらよいのだらう。  ユリスカは素晴らしかつた。もう何年といふ長い間、S・ウルフはかういふ羞《はづ》かしがつてゐる女の動く有樣を見たことはない。やがてウルフはそんなものを見てゐるのでは滿足出來なくなつた。 「うんと踊れ。」  ユリスカは不器用に脚や手を高く上げたが、後へ反《そ》らした頭からは涙の玉が胸の上へ滴《したゝ》り落ちて來た。やがてユリスカは踊りを止めて立つて、ぶる/\顫へてゐる。 「ユリスカ、お前、何が怖《こは》い。」 「何も怖《こは》くはありません。」 「ぢやあ、もつとこつちへ來《こ》い。」  ユリスカは這ふやうにして傍へ來た。「いよ/\あれを※※※[#判読不可、255-上-18]んだ」とユリスカは思つたが、又金の事も思つた。  けれどもS・ウルフは※※※※※[#判読不可、255-上-17]なかつた。ユリスカを膝の上へ引き寄せた。「心配しないで、俺をぢつと見るんだ。」ユリスカはその通りにした。ユリスカの眼付は火花が燃えてゐるやうであつた。S・ウルフはその頬に接吻して遣つた。ウルフは父親のやうな愛情が急に起つて、ユリスカをしつかり抱きしめた。ウルフの眼には涙が湧いてゐる。 「お前、紐育で何をする積りだ。」 「存じません。」 「誰がこつちへ連れて來た。」 「兄さんです。でも、もう西部へ行つてしまひました。」 「お前、今何をしてゐる。」 「ヂウラと一緒に歌を歌つてゐます。」 「ヂウラと離れてしまへ。一緒に歌を歌つたり、もう決してするな。あいつは惡者だ。それにお前はてんで歌へやしない。」 「はい、歌へません。」 「お前に金を遣るから、俺の言ふ通りにするんだよ。」 「きつと致します。」 「ようし、かうだ。英語を習ふんだ。ちよいとした綺麗な着物を買つて來て、女店員の口を探すんだ。俺の言ふ事をようく注意して聞くんだよ。あんなに素敵に踊つたから、お前に二千|弗《ドル》遣らう。それで三年間食べられる。何處かの夜學へ通ふんだよ。簿記《ぼき》だの、速記だの、タイプライタアを打つ事を習ふんだ。それからは自然にいろ/\な事が起つて來る。お前、今言つた通りにするかい。」 「はい、旦那樣。」とユリスカは心配さうに答へた。ウルフが怖《こは》くなつたからである。誰からか聞いた事がある、紐育では若い娘が大勢殺されるものださうだ。 「また着物を着てお出で。」やがてS・ウルフは、ユリスカに紙幣を一|掴《つか》み差出した。けれどもユリスカはそれを取る元氣が出ない。あれにあたしが手を掛けると、あの人は直ぐあたしを※※[#判読不可、256-上-10]すんだ、と思つたからである。 「まあお取り。」S・ウルフは微笑しながらかう言つた。「俺はもう金の入用はないんだ、あしたの晩正六時には死んでしまつてゐる俺だからな。」  ユリスカはぞつとして顫へた。  S・ウルフは神徑病の人のやうな笑ひ聲を立てた。「そら、もう二弗上げるよ。自動車を見掛けたら、直ぐそれに乘つて家へ歸るんだよ。ヂウラには百弗遣つて、俺からそれだけしか貰はないと言ふんだ。お前が金を持つてる事を誰にも言つちやいけないよ。世の中で一番大切な事は、金を持つてる事だ……けれどもその事を他人に決して知らせちやいけない。まあお取り」  ウルフはその紙幣をユリスカの手に押し込んだ。  獨りぽつちになるとS・ウルフの顏付は直ぐだらり[#「だらり」に傍点]としてしまつた。「臆病な女だ」とウルフは呟《つぶや》く。「けれども矢張りあれも墮落するんだなあ。」あの金が惜しくなつた。ウルフは葉卷を一本ふかして、コニャックを一杯飮み、それから部屋中をあちこち歩いた。電燈をすつかり點《つ》けた。少しでも薄暗《うすくら》がりがあつてはとても我慢してゐられなかつたからである。日本製の漆塗《うるしぬり》の箱の前にウルフは立ち止つてそれを明けて見た。中は捲き毛が一杯だ。ブロンドや金色や赤などの若い女の捲き毛だ。その捲き毛の一つ/\に紙切れが付いてゐる、藥瓶のやうな紙切れが、それに日附がある。ウルフはこの髮の毛の洪水を眺めては、輕蔑し切つた笑ひ聲を立てるのであつた。何故ならばウルフは、女達を輕蔑し憎惡してゐるからである。媚《こび》を賣る女をあまりはげしく漁《あさ》り歩いた男は、誰しもかなるものである。  けれどもこの笑ひは、笑つた當人のウルフを吃驚させた。この笑ひが昔何處かで聞いたことのある笑ひに似てゐると思つたからである。すぐ思ひ出した。ウルフの伯父がこんな笑ひ方をした。丁度この通りだ。しかもこの伯父はウルフの一番嫌つてゐる伯父である。何だか變な氣がした。  やがて又ウルフは歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。すると壁や家具がどしどし蒼褪《あおざ》めて行く。部屋が益々大きく、益々淋しくなる。もう獨りぽつちでゐる事はとても我慢が出來なくなつて、ウルフは倶樂部へ出掛けた。  夜の三時である。街《まち》の人通りは全く無かつた。けれども三つばかり建物を隔てた所に一臺の自動車が止まつてゐた。その運轉手はモオタアの下にもぐり込んで、あちこちしてゐた。ところがウルフの自動車がその傍を通り過ぎると、その車も跡をついて來た。ウルフは苦々《にが/\》しげに微笑した。アランの探偵か。倶樂部に着くと、ウルフは運轉手に酒代《さかて》を二弗遣つて、家へ歸らせた。 「やれ/\、もうすつかりお陀佛《だぶつ》なんだな。」と運轉手は思つたものである。  倶樂部にはまだポオカアの卓が三臺、盛んにやつてゐて、ウルフは顏見知りの連中の中へ割り込んだ。どうも少しをかしい、今夜はまあ何といふ手が付くんだらう。今迄誰も見た事の無いやうな手だ。「これでユリスカに遣つた二千弗は戻つた」とウルフは思ひながら金をズボンの衣嚢《かくし》に入れた。六時には勝負が打切られて、ウルフは家の方へ遠い路を歩いて歸つた。その後を二人の人が、肩にシャブルを擔いで、何か喋《しや》べりながらとこ/\遣つて來た。自分の家の近くへ來ると、ウルフは上機嫌の勞働者にぶつかつた。この男はその邊の建物《たてもの》に沿つてふらり/\と來て、醉拂ひらしく何か低い聲で下手糞《へたくそ》に歌つてゐた。 「一杯つき合はないか。」とウルフはその男に話し掛けた。  ところがその醉拂ひは受答へをしない。譯の分らぬ言葉を口の中でもが[#「もが」に傍点]/\遣つて、千鳥足に通り過ぎたものである。 「アランの早變りとござい。」  家に歸つてウルフはウイスキイを一杯やつた。大變きついので、身體がふるへた位である。別に醉ひはしなかつたが、何だかぼんやりした氣持になつた。水浴をすると、その浴場で寢込んでしまつて、心配した召使が戸を叩くので、やつと眼が覺めた位である。頭から足の先まですつかり新しい物を身に着けて、それから家を出た。もう明るい晝間になつてゐた。向う側に自動車が一臺ゐる。ウルフは傍へ寄つて、その車は空《あ》いてゐるかどうか訊《たづ》ねた。 「呼ばれた車です。」と運轉手は言ふ。ウルフは輕蔑して微笑した。アランは俺を取卷いてゐる、俺を包圍攻撃してゐる。或る家の戸口からは、黒い小さい折鞄を抱へた紳士が出て來て、街の向う側の歩道を歩いてウルフの跡をつけた。ウルフは急に電車に飛び乘りして、それでアランの探偵共をまいてしまつたものと思つたのである。  ウルフは或る喫茶店に入《はひ》つて珈琲《コーヒー》を飮んだ。それからその午前中ずつと、あちこちの街《まち》を歩いた。  紐育は十二時間競走を始めてゐた。活動といふ歩調リイダアに指揮されてゐるその競走の眞只中に、紐育は横たはつてゐた。自動車、電車、荷車、人間、それが皆ひゆうひゆう走る。高架鐵道は轟音を立てる。人間は建物《たてもの》から、自動車から、電車から飛び出す。地中の穴から地下鐵道といふ二百五十キロメエトルの長さの地下道から飛び出して來る。それが皆ウルフよりも早かつた。「俺は取り殘されちまふ」と思つた。そこでウルフは、一層足を早めたが、それでも皆は追越した。人は催眠術にかけられたやうに、せかせか歩いて行つてしまふ。この都市の巨大な心臟たるマンハッタンは人を吸込み、その心臟のマンハッタンは何千の血管から人を外へ抛《はふ》り出す。あらゆる人間は破片だ。原子だ。お互ひの摩擦によつて燃えてゐる。それ/″\固有な運動を持つてゐる事はあらゆる物質の分子と變りはない。しかもこの都市は、それらのものに超然として、自分の轟き渡る歩みを踏みしめて行く。五分毎にウルフを通り越して行く灰色の巨大な電車があつた。それは尾に燃えてゐるほくちを付けた象のやうに、ブロオドエイを席捲して行つた。それは朝飯電車であつた。その中で事務所への途中、珈琲《コーヒー》一杯とサンドヰッチを呑み込めるのである。さて小つぽけな飛ぶやうに行く人間共の間を、大きな圖體《づうたい》の臆面なしの幽靈が歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、こんな事を叫んでゐた。君の收入を倍額にしろ……何故君は脂肪《しばう》肥《ぶと》りに肥らねばならんのか……俺達は君を金持にする、一本葉書を書き給へ……ぶら/\歩きの諸君……君の條件を言つて見給へ……さうがみ/\言ふもんぢやない……醉拂ひの祕密療法……二倍の力……などといふ貼札《はりふだ》がそれだ……これこそ、あのせか/\歩く群集を支配してゐる偉大なる猛獸使ひなのであつた。ウルフは微笑した。腹一杯に滿足したやうな微笑である。このウルフが、俺が、廣告を藝術にまで高めた人間だ。  砲臺《バツタリイ》邊からウルフが見ると、レモン色に黄色い廣告用飛行機が三臺、灣の上を入れ違ひ入れ違ひして飛んでゐた。紐育に向ふ途上のお客を喰止めるためである。黄色い翼《つばさ》にはかう書かれてある。「ワナメエカア……休日」  ウルフの周園をうよ/\歩いてゐる何千人の中で、誰がこのウルフこそ十二年前「飛ぶ廣告札」を創立した當人である事に考へ到る者があつたらうか。  ウルフは紐育にへばり付いてゐた。このすべてを搗《つ》き碎く怪物の求心力に吸はれてゐたのである。一日中さうであつた。お晝を食べた。珈琲《コーヒー》を飮んだ。あちこちでコニャックを一杯づゝ飮んだ。立ち止ると眩暈《めまひ》がするやうだつたから、いつも足の向く方へ進んで行つた。四時頃になると中央公園に來たが、半ば失神してゐて、考へる力は無い。ウルフは市俄古ボストン紐育間飛行船會社の格納庫《かくなふこ》の横を通つて、それから街路を外《そ》れて公園にはひつた。雨が降り出して、公園の中はまるで人通りが無い。ウルフは歩きながら半分眠つてゐたが、急に愕然と驚いて眼を覺ました。それは自分の歩き方に驚いたのであつた。ウルフは背中を曲げ、膝を内へ曲げて、ぐら/\歩きに歩いて行く。その歩き方は丁度あのウォルフゾオン老人、運命に虐《しひた》げられ屈從的態度をするやうに馴らし付けられた自分の父親の、あのぐらぐら歩きそつくりであつた。それから又やがて、一つの聲がウルフに囁く……實にはつきりと囁く……死體洗ひの人夫の伜。  この驚きは、ウルフの眼を、すつかり覺ました。俺は何處にゐるんだ。中央公園だ。何故《なぜ》、この町にゐるんだ。何故《なぜ》、高飛びをしなかつたんだ、さうだ、えゝ……何故、山でも川でも飛び越して行かなかつたんだ。何故、一日中、紐育にへばり付いてゐたんだ。そんなことを誰かに命令されたのか。ウルフは時計を見た。五時數分過ぎだ。ぢやあまだ一時間、時間がある。アランは、言葉と行ひを違《たが》へない男だ。  ウルフの頭は活動を始めて、あれこれと素早《すばや》く考へた。五千弗|懷《ふところ》にある。何處へでも行ける旅費だ。高飛びしよう。アランなんかに捕《つか》まるものか。ウルフはあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した……見渡す限り何處にも一人もゐない。ぢやあアランの探偵共を綺麗にまいてしまへたのだ。この勝利感はウルフを活氣付けたので、電光石火の行動を探る事になつた。ある理髮店で髭を剃り落さしたが、理髮師の仕事をしてゐる間も、ウルフは高飛びの計畫をめぐした。今コロンブス廣小路にゐる。地下鐵で第二百街まで行かう。少し歩いて、それから行き當りばつたりの列車に乘らう。  六時十分前にウルフは理髮店を出た。葉卷を幾本か買ひ込んで、六時七分前に地下鐵へ下《お》りて行つた。  すると驚いた事には、コロンブス廣小路停車場のプラットフォオムに待合せてゐる人込みの中に、顏見知りの男が一人ゐるではないか。さつきの電車にも一緒に乘つてゐた男だ。その男がウルフをぢつと見さへしたが、どうだらう……萬々歳だ……ウルフといふ事がわからないのだ。しかもこの男は毎日のやうに喫煙室でポオカアの相手になつてゐた男である。  中の方のレエルを物凄い勢で、急行列車が驀進《ばくしん》して通過した。停車場は騷音と風で一杯にされてしまつた。ウルフは待遠しくなり、時計を見る。五分だ。  すると急に氣が付いた。今の待つてゐた男が見えない。振り返つて見ると、ウルフの背後に立つて、ヘラルド紙を夢中に讀んでゐる樣子だ。と見たウルフは同時に手足が皆|痺《しび》れたやうに感じた。恐るべき考へがウルフの頭に湧き上がつたからである。この待つてゐる男もアランの探偵の一人かも知れない、此奴はもう……もう佛蘭西北部のシェルブウルの港からつけてゐるんではないか……六時にはもう後三分しか無い。ウルフは二三歩脇へ退《しりぞ》いて、その男の方をそつと盜み見た。相變らず靜かにしてゐる。けれどもその新聞には一寸破いた穴があつて、その穴からは鋭い眼が一つ、ぢつと睨んでゐる。  たとへやうの無いおそろしい苦しさに、S・ウルフは、この眼を見返して遣つた。もう駄目だ。この瞬間、列車が勢ひよく入《はひ》つて來た。すると、S・ウルフは、待ち合せ客の驚きを後に、レエルの上へ飛び降りた。一本の手が指を擴げて、そのウルフの身體を掴《つか》まうとしたが、及ばなかつた。 [#5字下げ]八[#「八」は中見出し]  S・ウルフは、六時二分前に地下鐵の車輪に壓し潰されたが、半時間後の全紐育は、興奮の叫び聲にもう滿たされてゐた。 「號外、號外、さあさあ、これだ、これだ。銀行家ウルフの自殺の眞相。ウルフ一身の一切の眞相。」  新聞賣子は野馬のやうに駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。今日ウルフの歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた街々《まち/\》には、ウルフの名前が木魂《こだま》した。 「ウルフ、ウルフ、ウルフ。」 「ウルフの身體は三つに切斷された。」 「トンネルに呑まれてしまつたウルフ。」 「ウルフ、ウルフ、ウルフ。」誰も彼も何百囘となく、銀色の飛龍の紋章《もんしやう》を付けたウルフの五十馬力の車を見掛けたものである。その自動車は大洋航路の汽船のやうに唸《うな》つたものだ。誰も皆あのもぢや/\の水牛頭を知つてゐる。S・ウルフは紐育の一部分であつたのに、今はもう死んでゐる。S・ウルフといへば、世界最大の財産を管理してゐた男だ。あんなでかいものを自分の下に操縱した人間は、今迄に一人も無い。シンヂケエトに好意を寄せる新開はかう書いた。「災厄か自殺か。」敵意を持つ新聞はかうであつた。「さきにラスムッセン……今やウルフ。」 「ウルフ、ウルフ、ウルフ。」この名前を新聞小僧は吠え立てゝ、霧のこもつた都市に濛々たる土埃《つちぼこ》りの雲を擧げるのである。それは丁度、獲物《えもの》の肉を啖《くら》ふ狼どもの嗄《しやが》れた叫びにも似て聞えた。  アランはウルフの慘死を、それが起つてから五分後に聞いた。一人の探偵が電話で知らしたからである。  面喰つて、働くことが出來なくなつて、アランは事務室をあちこち歩いた。街は霧が一杯で、高層建築は夕日に照らされて、その霧の海の上に薄暗く聳え立つてゐた。ずつと下の底に紐育がゐて、荒れ狂つて吠えてゐる。惡い噂が擴《ひろ》まつてゐるのである。暫くしてからやつと元氣が出て、アランは發行部長や、經濟部長代理などゝ打合せをした。その夜一晩中、最後に見たウルフの姿が目先にちらついた。死骸《しがい》の色をして、苦しさうに息をして、安樂椅子に座つてゐるウルフの姿…… 「トンネルの仕業《しむけ》だ。」と、アランは獨りごとを言つた。自分の周圍に、脅迫や不幸が取り卷いてゐるやうに思へて、寒氣がすこしした。全く望みの無い時期の遣つて來るのが目に見える。「これでもう、何年でもつゞくんだ。終る瀬は無い……」かう考へて、アランは少しも眠らずに歩きまはつた。  ウルフの死によつて、この一晩中起きてゐた人は何千人とあつた。ラスムッセンのピストル自殺の時は世間は只神經過敏になつたゞけであつたがウルフの死に至つては全世界を震駭《しんがい》さした。シンヂケエトがぐらついてゐる。世界の各大銀行はトンネルに何十億と注ぎ込んでゐる。工業も何十億、下は新聞賣子に至る迄の民衆も何十億を注《つ》ぎ込んでゐる。桑港からペテルスブルク迄、シドニイからケエプタウン迄、到る處に沸《わ》き返るやうな興奮だ。各大陸の新聞は不安の種の記事で一杯だつた。トンネル株は下がりはしなかつた。墜落したのである。ウルフの死は「大地震」の始まりであつた。  特に召集されたシンヂケエト大株主の會は、十二時間續いたが、まるで慘《むご》たらしい、恐ろしい戰鬪に似てゐた。思慮分別のある人々も、この會の席上では、人の肉に噛み附いた。この結果、シンヂケエトは、一月二日に數億弗の利子と賦拂金《ぶらひきん》を拂ふことになつた。莫大な金額である。この金額に對する保證としては、何物を以てしても足りなかつた。  この大株主會議は又一つの通牒《つうてふ》を公けにした。それによると、經濟状態は現在の所よくない方であるが、恢復の見込は全然無い譯でもないと言ふ。この通牒は苦しまぎれの僅かに體面を保たうとしてゐるものであつたが、又悲しむべき事實をも暴露してゐた。  翌日になると十弗株券が一弗で買へた。先年一般の好景氣に釣られて投機に首を突込んだ連中は、今枕を並べて破産した。大軍の討死であつた。最初の第一日にもう一ダアス以上も破産したものである。諸銀行には人が殺到《さつたう》した。シンヂケエトに關係する所大いに深い評判の銀行ばかりでなく、多數の何も關係の深い[#「關係の深い」はママ]銀行までも、朝から晩まで取圍まれ通しで、人々は預金を引出した。多くの銀行では現金がなくなつてしまつて、支拂口の窓を閉ぢるの已むなきに至つた。千九百七年の恐慌もこれに比べればまるで冗談であつた。小銀行幾つかは既に最初の殺到でどかん[#「どかん」に傍点]と行つてしまつた。大銀行でさへも押寄せる怒濤に浸されて、上から下まで震動した。いろ/\の掲示や何かで公衆の氣を落着けようと試みたけれど、悉く無駄である。紐育市銀行、モルガン會社、ロイド、アメリカンなどで三日間に拂ひ出した金額は目の眩《くら》むほどな多額になつた。電信係は疲れ切つてぶつ倒れた。堂々たる銀行の建物《たてもの》は一晩中晝を欺くばかりに明るく、重役、出納係、祕書課の連中などは幾日も着物を脱がなかつた。金は益々貴くなつた。千九百七年の恐慌は日歩金《ひぶきん》の利率を八十乃至百三十パアセントに釣上げてしまつたさうだが、今は百乃至百八十パアセントになつてしまつた。時々千弗借りる事もてんで出來ない有樣であつた。「紐育市」銀行はグウルドがしつかり押へてゐた。口イドの銀行は必死《ひつし》になつて防禦した。アメリカンは倫敦銀行に支へられてゐた。この銀行を除いては、外のどの銀行も歐羅巴の銀行から一|仙《セント》だつて借りることが出來ないのである。歐羅巴の銀行は逸早《いちはや》く防禦の陣を布いてしまつたからだ。紐育、巴里、倫敦、伯林、維納の取引所では前代|未聞《みもん》の暴落が起つた。幾多の商會は支拂を停止した。一日として破産の無い日はなく、一日として犧牲者の出ない日はなかつた。ウルフの死に方は疫病《えきびやう》の如くに傳染した。毎日地下鐵の車輪の前へ幾人かの破産者が身を投げたものである。五大陸の財政といふ身體が傷を受けて、傷口が大きく明《あ》いて、出血で今にも死にさうであつた。商業、交通、工業、これらを併せた近代世界、一つの大きな機械といふべきものは、その燃料《ねんれう》に何十億を使ひ、何十億を吐出してゐたが、今はやつとのろ/\と草臥《くたび》れたらしく動くばかりで、今にも急にばつたり動かなくなるのではないかと思はれる有樣であつた。  トンネル停車場の建設地を賣買するのが事業のトンネル土地會社は、一晩の中に崩壞して、無數の人を野垂《のた》れ死《じに》させた。  この頃の新聞はまるで職場の報告だ。 「トンネルに呑み殺される者益々多し。」 「市俄古の銀行家ハリイ・スティウエル氏ピストル自殺す。……第二十六街株式業ウィリアムスンは破産のため毒藥を仰《あふ》いで一家心中を遂ぐ……ホボケンの工場主クレップステット地下鐵に投じ自殺」……チェンテスの町でヤアコプ・ウォルフゾオン老人が首を縊《くゝ》つて自殺したといふ報告は、全く誰の注意も惹かないで消えてしまつた。  これこそ恐慌であつた。恐慌は佛蘭西、英國、獨逸、墺太利、露西亞に飛んだ。最初にやられたのは獨逸で、一週間|經《た》つか經たぬ中に、合衆國と同樣な不安と心配と恐怖とに包まれてしまつた。  十月大慘事の影響からまだ囘復し得なかつた工業は今|坐礁《ざせう》するに至つた。工業株はトンネルのお蔭で、今迄聞いた事も見た事も無い華々しい景況となつたものだが……鐵、鋼、セメント、銅、電線、機械、石炭……などの株はトンネル株の慘落に引摺られてがら/\落しに落ちてしまつた。石炭王や鑛山王はトンネルでしこたま儲けたものだが、今はもう鐚錢《びたせん》一文も出してみようとしない。賃銀を引下げ、休業をし、數多くの勞働者を街上に抛《はふ》り出した。雇はれてゐる勞働者は同志と呼び交はして結束を固めた。それからストライキを起した。今度こそは最後の呼吸が絶える迄戰はう、もう決してあの嘘吐《うそつ》き野郎共の、少し景氣の見えた時には直ぐ反古《ほご》にしてしまふやうな、あんな約束に釣られはしないぞといふ意氣込《いきご》みであつた。世間の景氣が好い時には、何百萬と儲ける手助けになると言つて使ひ倒す俺達を景氣の惡い時となると、早速|抛《はふ》り出す奴だ。どの鑛山だらうが皆、水浸《みづびた》しになつちまへ。どこの大熔鑛爐だらうが、鐵滓《てつかす》になつちまへ。  ストライキは型の如く始まつた。先づリイル、クレルモン・フェラン、サンテチェンヌの盆地に起り、モオゼル地方、ザアル地方、ルウル地方に及び、シュレジェンに波及した。ヨオクシャイア、ノオサンバアランド、ダルハム、南ウェエルスの英國の坑夫や熔鑛職工は同情のストライキを宣言した。加奈陀と合衆國も呼應した、鬼火《おにび》のやうな火花はアルプスを越えて伊太利に飛び、ピレネエを越えて西班牙に飛んだ。或は血のやうに赤い、或は死骸《しがい》のやうに黄色い、各國幾萬の工場は靜止してしまつた。どこの都市も死んだやうになつた。熔鑛爐の火は消え、坑内で馬のやうに働かされる連中は竪坑《たてかう》の外へ出された。汽船は大船隊を成して、煙突と煙突を並べて、墓場のやうな港に碇泊《ていはく》してゐた。毎日巨額の費用がかゝつた。さて又恐慌は他の産業からも金を奪ひ取つたから、失業者何百萬の數は日に/\殖える一方であつた。状態は危險になつた。鐵道、電氣の中央變壓所、瓦斯製造所には石炭がなくなつてしまつた。亞米利加と歐羅巴には今迄の十分の一も列車が走らなくなり、大西洋の汽船の交通は殆どすつかり杜絶してしまつた。  暴動が起つた。ウェストファアレンでは、機關銃が發射され、倫敦では船渠《どつく》勞働者と警官隊と衝突して血を見るに至つた。それは十二月八日であつた。この夜、西印度船渠會社の附近の街路は勞働者並びに警官の死者で覆はれた。十二月十日には全英勞働者總同盟は、ジェネラルストライキを宣言した。佛蘭西、獨逸、露西亞、伊太利の總同盟もこれにつゞき、最後には、亞米利加の總同盟も、これに加はつた。  これは近代の戰爭であつた。小つぽけな前哨戰ではない、全線に亙る戰鬪である。各々密集した戰場には、勞働者と資本家とが相|對峙《たいじ》してゐるのである。  數日經つと、もう忽ちこの戰ひの悲慘が現れた。犯罪統計、小兒、嬰兒死亡數は戰慄すべき數字に達した。何百萬の人を養ふに足る食糧は、貨車や船倉の中で腐つてしまつた。各國政府は軍隊に應援を求めた。けれど軍隊はプロレタリアから成つてゐて、消極的の抵抗をするのであつた。只の仕事をするといふ樣子から一歩も出なかつた。しかも今といふ今ひどい罰則を喰はす譯には行かないのである。クリスマスが近くなると市俄古、紐育、倫敦、巴里、伯林、漢堡、維納、ペテルスブルグなどの大都市は、まるで燈光《あかり》といふものがつかなくなり、兵糧《へうりやう》攻めにされてゐるやうな危險に陷つた。人々は家の中でも寒さにふるへて、弱い者や貧しい者は皆死んだ。毎日のやうに放火、掠奪、怠業、盜難があつた。革命といふ幽靈が今にも現れさうであつた……。  國際勞働者同盟は、一歩もしりぞかなかつた。さうして勞働者を資本の我まゝから守るべき法律を要求したのである。  この不安と恐怖の眞只中にありながら、トンネル・シンヂケエトは相變らず突立つてゐた。なるほど穴だらけの難破船で、接《つ》ぎ目《め》といふ接《つ》ぎ目《め》にはぱち/\音がしてゐる。けれども立つてはゐるのである。  これはロイドの手柄だつた。ロイドは大債權者達を呼んで會を開いて、自分も出席した。演説する爲めであつた。この演説といふ事は、もう二十年來病氣が苦しいので、一度もした事はなかつたものである。ロイドはかう言つた。シンヂケエトを倒してはならぬ。現下の人心は絶望の底に呻《うめ》いてゐる。そこへシンヂケエトの沒落が起らうものなら、何ともたとへやうのない大不幸が世界中に擴がるだらう。多少とも賢明な遣り方をしたいならば、トンネルを救はねばならぬ。今一つでも策戰上の間違ひをしたなら、もうトンネルの運命はきつぱり決まつてしまひ、工業の發展は二十年前に退歩してしまふだらう。勞働者の大軍は餓死に瀕してゐるのだから、ジェネラルストライキは三週間とは續く筈がない。金は再び歸つて來るだらう。危機は新年になれば終るだらう。犧牲が入用だ。大債權者達は延期したり金を前拂ひしたりせねばならぬ。一方に於て株主、株券所有者は一月二日に、精密に計算した利子をすつかり受取る。かういふ事にしない限り、第二の恐慌をわざ/\招き寄せるやうなものである。  かう演説したロイドは、自ら犧牲の額《がく》を申し出たが莫大《ばくだい》のものであつた。かくしてロイドはシンヂケエトを救ふ事が出來たのである  この會議は祕密に行はれた。翌日の新聞紙には次のやうな記事が出た。シンヂケエトの囘復は進捗しつゝあり、會社は例年通り一月二日に株主株券所有主に對する義務を履行《りかう》するだらう云々。  人々の噂に高い一月二日は近づいた。 [#5字下げ]九[#「九」は中見出し]  一月一日には紐育の劇場、演藝館、料理店はすべて一杯の人となるのが常例《じやうれい》であつた。  けれども今年《ことし》の一月一日は死んだやうであつた。いつも通りの活氣を呈してゐるのは、僅かに幾つかの大ホテルばかりである。電車は通《かよ》はない。高架鐵道と地下鐵道は時々思ひ出したやうに列車を通すが、その列車は技師達が運轉してゐるのである。港にはガランとした、大洋航路の巨船が、何處の火も焚《た》かず點《つ》けずに船渠《ドック》に横はつたり、霧と氷に掴まれて身動きが出來なくなつたりしてゐた。街路は夜になると眞暗《まつくら》であつた。三つ目毎の街燈がついてゐるばかりで、今迄いつも規則正しく、ぱつ/\と燈火に照らされた廣告板も、その火が消えた儘であつた。  眞夜中の十二時になると、もうシンヂケエト・ビルディングの前には、徹夜の用意を整へて來た連中が、蟻の這ひ出る隙もなくぎつちりと數珠つながりにつながつてゐた。皆各々五弗、十弗、二十弗、百弗といふものを助けようと、それ/″\の利子を取りに來たのである。噂によると一月三日にシンヂケエトは戸を閉めてしまふさうだ。誰だつて金を棄てたい者はない。かう言ふ譯で遣つて來る連中が、どし/\殖えるのであつた。  この夜はすばらしく寒かつた。攝氏零下十二度に迄なつた。篩《ふる》ひにかけられた白い砂のやうに細かい粉雪が降つて來て、ひそまり返つてゐる塔のやうに高い建物《たてもの》の上部を包んでしまつた。寒さにふるへ、齒をがち/\言はせてゐる待遠な連中は、暖まらうと思つてお互ひに身體を押付け合つた。又めい/\にシンヂケエトや社債や株券などの話をしたり臆測をしたり心配をしたりして、お互ひの興奮を高め合つた。ぎつちり並んで立つてゐたから、立ちながらでも眠れたものではあるが、誰一人片眼つぶる者もない。心配で眠れる所の騷ぎではない。ひよつとするとシンヂケエトのあの戸は、結局開かず仕舞かも知れない。さうすると俺の株券は。急ち反古紙《ほごがみ》になつちまふんだ。こんな事を思ひながら皆は、寒さに青ざめた土氣色《つちけいろ》の顏で、恐れやら心配やらで眼を皿のやうにして、皆自分達の運命を待つてゐた。  金、金、金。  今迄の苦勞、汗、骨折、屈從、眠らない夜、白髮、踏付けにされた魂。まだそればかりではなく、これからの老年、死ぬ迄の二三年の安息。今金が取れなければ、これらのものすべてもう無くなつてしまふ。今迄の二十年はどこかへ吹つ飛ばされちまふ。そして來るものは夜、じめ/\の氣持、塵《ごみ》だらけ、貧乏……。  心配と興奮は一分々々高まつた。貯金を失つてしまふ事にでもなつたら、あらゆる詐欺師《さぎし》の親玉のマック・アランといふ奴を私刑に處してしまへ、などゝ皆は思つた。  朝が近くなると、益々大勢遣つて來た。數珠《じゆず》つながりの列はウオレン街まで伸びた。やがて仄白く明けて來た。  八時になると群集の中に急にざわめきが起つた。あのひそまり返つて、寒さの所爲《せゐ》か煙のやうなものに包まれてゐるシンヂケエト・ビルディングに始めて燈火がついたからである。  九時になると………鐘が鳴る……ビルディングの重い扉が、教會の扉のやうなのが開かれた。群集は壯麗な玄關に雪崩《なだ》れ込み、それから目が痛くなる位に明るい支拂口のある部屋へはひつた。小さい支拂口の窓の向うには、水浴《すゐよく》をしてさつぱりした、十分に睡眠を取つた事務員達が大勢うようよしてゐた。利札の引換は實に素早く行はれた。どの支拂口でも、ひら/\飛ぶやうな手が弗《どる》紙幣《しへい》を大理石の板の上へ數へて出し、小錢は音を立てゝゐる。そのすべてが靜かに進行して行つた。もう金を受取つたものは、後から押して來る群集によつて、自然と外へ押し出された。  ところが十時少し過ぎになると、その進行ははた[#「はた」に傍点]と止まつた。三つの支拂口は小貨幣がなくなつたので、揃つて窓を締めたのである。皆の連中は不安になつた。すると他の窓口の事務員は十人とか二十人の待ち切れぬ連中に一時にどつと押寄せられたものである。そこで出納係長はかういふ通告を出した。五分間各支拂口は閉鎖する。皆樣御|各々《めい/\》に小錢の御用意が願ひたい。さうしないと支拂ひが遲くなつて困るから、といふのであつた。そこで窓口は締まつたのである。  支拂口の部屋に待つてゐる連中の境遇は、決して氣持の好いものではない。後の方から一樣に外の連中が、新聞には三萬人と言はれた群集が、ぐん/\押して來るからである。丁度大木の幹が機械仕掛けで鋸《のこぎり》の中へ押込まれるやうに、人間の鎖がシンヂケエト・ビルディングの中へ押込まれて、それから……切れ/″\にされて……出口からウォオル街へ壓し出されるのである。先づ一人の男が片足を花崗岩の階段の一番下のやつへ載せる。一分經つと後から押す群集はこの男を押上げるので、この男はその一番下の花崗岩の階段に兩足で立つ。十分過ぎると、この男はもう階段の上へ上がつて、揉《も》まれ揉《も》まれて、そろ/\玄關を通ることになる。もう十分經つと、押され押されて、出納口の部屋にはひる。この男は、自分の固有運動は、何にもない機械的な人形になつてしまつたもので、この男の前の何千人も後の何千人も、この男と丁度同じ時間に丁度同じ運動をするのであつた。  さて支拂停止の結果として、二三分間の中に大きな支拂口の部屋は一杯の人となつてしまつた。玄關の連中の一部は上の階への階段を、上へ押上げられてしまつたものである。  支拂口の所に待つてゐる連中は、その位置をずつと保つてゐる譯に行かなくなつた。そこで大變な氣長《きなが》な考へを起す事になつた。十時間も待つてゐる中には窓口の所を押されて追はれて、出口の方へ押出されるだらう。さうしたら又|尻尾《しつぽ》へつながる事が出來る。などゝ思つたものである。  誰も彼も徹夜した。犬のやうに凍《こゞ》えた。朝飯拔きだ。こんな事をしてゐては時間を無駄にする。事務所や會社へ歸れば、どうせ碌《ろく》な事は言はれつこ無い……だから皆の氣分は凡そこの上の無い惡いものであつた。皆叫んだ。口笛を吹いた。この騷音は玄關から傳はつて、街路にゐる連中迄も始めた。  恐ろしい興奮が群集の間に起つた。 「支拂口が締まつたぞ。」 「金がなくなりやがつた。」  益々待ち切れなくなつて、押寄せる勢は愈々ひどくなつた。着物が裂ける。息苦しくなつた連中は悲鳴を擧げる、罵る。持上げられて胸のあたり迄、人々の頭の上に聳えるやうにされた者は、大きな聲で惡態《あくたい》をつくのだ。  窓口に堰《せ》き止められた連中は、息が詰まりさうつであつた[#「詰まりさうつであつた」はママ]。悲鳴や惡口雜言が高くなつた。一人の運轉手風の男が支拂口の窓硝子を拳で叩いて、息が苦しいのか顏を赤黒くして、呶鳴つた。「詐欺師の野郎共、おれの金を寄越せ。俺のは三百弗だ。その三百弗を返しやがれ、泥棒野郎め、人殺しめ。」  中の事務員は青白い顏で、その呶鳴る首をずつと見て、はねつけるやうに言ふのである。「御承知の通り株券を拂ひ戻すんぢやありません。お取りになれるのは利子だけです。それだけです。」  急にどこの窓口の戸も音を立てゝ、事務員達は再び無茶苦茶に早く金を拂ひ出す事になつた。けれどももう遲過ぎた。この支拂ひが始まつた時、どつと[#「どつと」に傍点]湧いた叫び聲は、大廣間や玄關に押合ひへし合つてゐる連中に誤解されて、その混雜がもつと/\恐ろしいものになつた。  出口に達した連中は大急ぎで逃げ出さうとした。けれども逃げ出す事の出來たのは極く一部分の者だけであつた。突然支拂口の戸はどれもこれも一擧に破壞されて、群集は出納係の部屋へ押されて入《はひ》つた。事務員達は逃げた。手當り次第、出來るだけの帳簿や金箱や金をさらつて逃げ出した。群集は大波の如く入《はひ》つて來て、樫でしつかり張つた支拂口の壁は、忽ち押し倒されて潰されてしまつた。かうなると息のつける隙間《すきま》が出來た譯である。中へ押されて入《はひ》つた連中は一生懸命に走つて、戸口と思はれる所から飛び出した。ところが、後からの押す力は、もつと激しいものになつて、人間の群が中へ彈《はじ》き飛ばされる位であつた、入《はひ》つて見ると驚いた、呆《あき》れた。掠奪され破壞された銀行にぶつかつたのだ。机は投げ倒され、紙切れは散亂し、インキは飛び散つて、小錢やら踏みにじられた弗紙幣の山である。  けれども誰にもたつた一つの事ははつきり分つてゐる。俺の金はなくなつた。吹《ふ》つ飛んだ。ふいになつた。俺の金も俺の希望も、何もかも。  ビルディング全體は、怒り猛《たけ》つて吼《ほ》えてゐるやうであつた。ぶち壞《こは》せる物なら何でもぶち壞し始めた。窓はがちやがちやに破れ、机も椅子も粉々《こな/″\》に飛び、何かゞ碎ける度毎に熱狂の叫びがどつ[#「どつ」に傍点]と擧がつた。  シンヂケエト・ビルディングは襲撃されたのである。  三萬人の人……もつと多かつたと言ふ者が隨分あるが……その三萬人が侵入して來て、どし/\階段の上の方へ抛り上げられた。整理のため出張の僅かばかりの警官は全く無力であつた。穩和《おとな》しい連中は何處か出口を探したが、猛《たけ》り立つてゐる連中は何處でも構はず割り込んで行つて、むしやくしや腹《はら》の腹癒《はらいせ》をしようとした。  この一月二日には、シンジケエト・ビルディングは殆ど空家《あきや》同然で、大抵の階は空《あ》いてゐた。緊縮の折柄、是非必要な部屋だけ使つて、跡の空いた階は賃貸《ちんが》しする事にきめたのである。シンヂケエト各部の中、大抵の部はもうマック・シテイに移つてしまつたし、殘りの部も移轉しようとしてゐた。辯護士だの商會などへ貸した階は、まだ今日は殘らず營業を始めてはゐなかつた。  二階と三階には、手紙だの計算書だの受領書だの設計圖だのゝ束が一杯あつた。新年早々新事務所へ送る筈になつてゐたものである。  怒り猛《たけ》つた連中はもう前後の考もなくなつて、この束になつた紙を窓から街路へ抛《はふ》り出したり、階段の所をそれで一杯にしようとしたりした。  第七階までの窓といふ窓には、急に顏がのぞいて出た。押し上がつた連中である。  アランの居る第三十二階まで昇つて來た者さへある。三人の若い大膽不敵の連中で、機械職工であつた。 「マックから返して貰はうぜ、俺達の金をよ。なあ、おい。」誰だつてころりと乘つてしまふ考へだ。 「ボオイやつて呉れ、……マックの所へ行くんだからよ。」  昇降機のボオイは拒絶した。こんな騷々しいごろつき速中を上げてはたまらない。其處で三人はボオイを昇降機から抛り出して、勝手に出掛けたものである。眞赤に怒つて呶鳴り散らすボオイに向つて、三人は顰《しか》めつ面をして見せて大笑ひに笑つた。昇降機は上つた、上つた……すると急に全くひつそりしてしまつた。二十階からの上になると、さしもにひどい騷音も遠くの町のざわめき位にしか聞えない。  昇降機は淋しい廊下の傍を過ぎて舞ひ上がつた。時々人を見掛けたが、その人々は二十階か二十五階の下で今起つてゐる出來事をちつとも知らないやうに見えた。一人の事務員が平氣な顏で自分の事務所の扉を開ける。第三十階では二人の紳士が葉卷を啣へて窓框《まどがまち》に腰掛けて、笑ひながら何か話をしてゐる。  昇降機は止まつた。そこで三人の機械職工は昇降機から出て、うんと呶鳴つたものである。 「マック、マック、マック。何處にゐる。出て來い、マック。」  どの戸口へも行つてみて、一々それを叩いてみた。  すると急に、ある戸口からアランが現れた。三人はぎよつとして、何遍も寫眞で見た事のあるこの男の顏を見詰めた。一言も物が言へない。 「何か用か。」アランは不機嫌らしくかう言ふ。 「金を貰ひたいんで、俺達の金を。」  アランは三人を醉拂ひと見た。 「地獄へ行け。」とアランは言つて、ばたん[#「ばたん」に傍点]と戸を締めた。  三人は立ちすくんで戸を見詰めた。此處まで來たのは外でもない、アランからどんな事をしてゞも金をねぢり取るためであつたのに、一|仙《セント》も取れないその代りに、地獄へ行けとまで言はれたのである。  三人は相談した。それから今の昇降機で立去る事にした。  三人の行く先は地獄ではなかつた。さうではないが、煉獄の火を潜《くゞ》つて行かねばならないか。第十二階では煙の中を突進した。第八階へ來ると傍の方で昇降機が一臺、一杯の火になつて燃えてゐたが、あつ[#「あつ」に傍点]と言ふ間に過ぎてしまつた。  恐ろしさに呆然として、半ば氣違ひのやうになつて、三人は玄關に着いた。着くと忽ち、外へ向つて逃げる連中の大波に呑まれて、一緒に街路へ出されてしまつた。 [#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]  どうして起つたのか、知つてゐる者はない。誰がしたのか、知つてゐる者はない。見た者はない。けれども正に起つたのである……  突然三階の窓框《まどがまち》に一人の男が上つた。この男は兩手をメガホン代りに口へ當てゝ、ビルディングの中へ押寄せる下の方の人群に向つて、間斷なく聲を限りに叫び續けてゐた。 「火事だぞ。ビルディングが燃えてるぞ。逃げろ。」  この男は、ジェイムス・ブラックストオンといふ銀行員であつた。人波に追はれて三階まで上げられたのである。この男の聲は最初は誰にも聞えなかつた。周圍で一杯|喚《わめ》いてゐるからである。けれどもこの男の金切聲《かなきりごゑ》は自動機械か何かのやうに何度も繰り返されたので、段々に大勢の人がそつちの上の方へ顏を向ける事になつて、その内突然、三階のブラックストオンが、何か叫んでゐるといふ事が街路の連中に分つた。けれどもその叫びの全部がわかつたのではない。たつた一語、急を告げる言葉の「火事だぞ」といふのが分つたきりである。又街路の連中が見ると、寒いので霧のやうなものが出來たと思つてゐた、あの灰色のもや/\は、ブラックストオンを包んでゐるもや/\したものは、寒さの所爲《せい》ではなく、實は煙だといふ事が急にわかつた。煙は濃くなつて、廣い幅の重々しい條《すぢ》となつて窓から出て來て、ブラックストオンの頭の上へずん[#「ずん」に傍点]/\空へ渦卷き上るのであつた。やがて又、煙は見る/\濃さがひどくなつて、ぐる/\※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り始め、ぷつぷと吹き出て、ブラックストオンの身體は全く見えなくなつた。けれどもブラックストオンはその位置を離れなかつた。この男は機械的に金切聲《かなきりごゑ》を出す警報であつて、物凄い盲目的な勢で、前へ/\と押し寄せる群集を段々に鎭《しづ》め、やがて遂に退却をさせたのである。  このブラックストオンの沈着のお蔭で、恐ろしい大慘事が一つ起らないで濟んだ。その金切聲の叫びは、前後の考もなくなつた群集に、思慮分別を呼び醒ましてくれたのである。この時ビルディングには何千の人がゐた。皆出口へ向つて押し寄せてゐたが、先は閊《つか》えて、人の壁が出來て※[#判読不可、272-上-6]る。あの連中は、外の景氣はどんなだらうと、外を眺めて立ち止つてゐるらしい。と先づ最初は、さう思つたが、やがて、プラックストオンの叫びが聞える、その叫びに鞭打《むちう》たれたやうになつて……皆ふり返つて、何百人の口々に、ブラックストオンの警報を叫んだ。「逃げろ、ビルディングが燃えてるぞ。」群集は横の小路へ押し付けられた。人波が溢れ出た。  ビルディングの廣い花崗岩《みかけいし》の階段を駈け下りるのは、人の頭、腕、脚などの物凄い瀧であつた。人間の渦であつた。人々は街路へ轉《ころ》がり出て、あたふたと起き上り、色を失つて逃げた。その人々はみんな、霰のやうになつて階段を下る時、あれを見たのだ……あの、奧の方で……あの恐ろしい物。あの燃えてゐる昇降機を。昇降機は三臺、四臺中は燃える紙束が一杯に詰まつて、上の方へ上がつて行き、其處から火の滴《しづく》をぼと/\落した。  ブラックストオンが急にまた煙の中に見えた。その身體がぐん[#「ぐん」に傍点]/\大きくなり、忽ちすぐ近くへ來た。ブラックストオンは飛び下りた。逃げる連中の一組の眞只中へ落ち込んだが不思議と一人も怪我《けが》をした者がない。逃げる連中はその中へ石ころが落ちた泥のやうに、四方八方へ散らばつた。皆素早く起き上がつてブラックストオンだけ獨り横たはつたまゝ取り殘された。それからブラックストオンは擔《かつ》がれて行つたが、すぐ我に返つた。たつた足首の骨が外《はづ》れたばかりであつた。  ブラックストオンが叫び始めてから、飛び下りる迄の時間は五分とはなかつた。その後十分經つとパイン街、ウオル街、トオマス街、シイダア街、ナッソオ街、ブロオドエイには消防自動車、黒煙を上げる蒸汽|喞筒《ぽんぷ》、病院自動車が群がつて走つた。紐育中の消防自動車がありとあらゆる車庫から吐き出されたものである。  消防司令のケリイは商業地帶が恐ろしい危險に陷つてゐることを忽ち見て取つた。「第六十六區」といふのは、ブルックリンなのだが、その第六十六區さへも、呼び出したくらゐである。こんな事はエクイタブル・ビルディングの大火以來無い事であつた。ブルックリン橋の北側通路は通行止にされて、八臺の蒸汽喞筒はそれに附屬する縱列《じゆうれつ》を從へて、冬の靄の中に幽靈のやうに架《かゝ》つてゐるブルックリン橋上を、マンハッタン指して疾驅《しつく》するのであつた。トンネル・ビルディングはあらゆる接《つ》ぎ目から黒煙を噴き出して、三十二階より成る巨大な爐のやうに見えた。その周圍を荒れ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るものは、まるで戰鬪の合圖であつた。人に警告を與へる恐ろしい喇叭《らつぱ》の音、けたゝましい警鈴の響、耳を劈《つんざ》く口笛。  火事は第三階であつた。しかも昇降機四臺に止まつてゐる。この昇降機は誰かゞ上へ昇せたものである。こんな莫迦な事を誰がしたものか、後になつてもどうしてもわからなかつた。  やがて燃える昇降機は墜落した。登山家が嶮《けは》しい岩壁に力盡きて落ちるやうであつた。一臺落ちると又一臺と相次いで落ちた。その一臺が落ちる度に、地下室から燃える塵埃《ぢんあい》の雲が湧き上がつた。玄關にゐると、昇降機の竪坑《たてかう》から砲撃の音が轟き、急射撃の爆聲が聞えた。竪坑に張つてある板羽目《いたはめ》は火熱にはじけ碎けて、螺旋釘《らせんくぎ》で留めてあつても飛んでしまふ。昇降機の竪坑は燃えて熱い空氣の唸り轟く一本の柱となつて、その空氣は燃える手紙の束を上の方へ引浚《ひつさら》つて昇るのである。その火の柱は明り取りの圓屋根《まるやね》をぶち拔いたので、屋根の外、上の方へ火花の噴水を散らす事になつた。ビルディングは火山に變つてしまつた。その火山からは燃える紙屑や火を吹く手紙の束が吐き出されて、さういふものが照明彈のやうに空中高く飛び、マンハッタン一帶の上を砲彈のやうに唸り舞つた。  ずつと上の火を噴く噴火口の周《まは》りには實に無茶な事にははら/\させるやうな近い所を一臺の飛行機が旋囘してゐる。まるで何か猛禽類《まうきんるゐ》の一種で、その猛鳥の大事な巣が燃えてゐるといふ風に見える。飛行機には、エヂソン・ビオ會社の撮影技師達が乘つてゐる。高層建築といふ雪に覆はれた高峰の連山、その山脈の眞中に活火山が一つ、といふ光景の鳥瞰圖を映畫に撮《と》らうといふのである。  昇降機の竪坑から火が這ひ出して、戸口を通つて各階に及んだ。  窓硝子ははじけた音を立てゝ飛び去り、向ひ合せの建物にぶつかつて粉碎した。窓の鐵枠《てつわく》は、火熱のためにひん曲つて、抛り出されて、空中に渦を卷く。それと一緒に渦を卷くのは飛行機のプロペラアの、何だか空《うつ》ろのやうな、ぶんぶん言ふ唸りである。窓のブリキだの屋根の樋《とひ》だのを接《つ》いでゐた亞鉛は熔けて、音を立てながら火の雨と降つた。(この亞鉛の塊《かたま》りが幾つも出來たが、後にこの塊りは高い金で買はれたものである。)  ケリイは實に目覺ましい奮鬪をしてのけた。ホオスを延ばす事二十五キロメエトル、百二十の水口からこの燃える建物《たてもの》に注いだ水は何十萬ガロンであつた。總計するとこの火事に使用された水は二千五百萬ガロンとなり、この火事で紐育市の使つた費用は十三萬弗であつた……千九百十一年のエキタブル・ビルディングの大火よりも三萬弗多い。  ケリイの戰つた相手は火であり、また同時に寒さであつた。消火栓は凍り付き、ホオスは破裂した。街路には一フイイト以上に厚く氷の皮が張つてしまつた。氷は又、燃える建物に厚く被《かぶ》さつて外套のやうになつた。パイン街には氷の粒が積つて一フィイト以上となつたが、これは風が水を吹き飛ばして氷の礫《つぶて》にしてしまひ、それが街路へ雨下したからである。この火山には、氷の火山礫《くわざんれき》が降つたわけである。  ケリイは部下の消防隊と敵を攻圍して、八時間の間敵の襲撃を悉く撃退した。周圍の屋根にはケリイ部下の人々が奮鬪してゐたが、煙で息が詰まりさうになり、攝氏十度の寒い中で身體一面氷塊に覆はれてゐた。その人々の間を新聞記者があちこち飛び違つた。撮影技師は凍えて硬《かた》くなつた手で、撮影機のハンドルを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。これらの人達も亦、疲勞にぶつ倒れる迄は働き續けたものである。  建物はコンクリイトと鐵で出來てゐたから、何千何萬の窓硝子が近所あたりへはじけ飛んだ程に熱くはなつたが、燒け落ちて倒れることはなかつた。それにしても建物は何もかもすつかり燒けたのであつた。 [#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]  アランは八階下のマアキャンタイル金庫會社の屋根に避難した。  あのごろつきの三人がわい/\騷いでアランを誘《おび》き出した時から數分經つと、アランは火事の始まつた事に氣が付いた。よろ/\したリオンが、心配やら驚愕やらでアランの所へ急いで來た時には、アランはもう外套を着込んで、ちやんと帽子をかぶつてゐた。丁度机の上の手紙類などを掻き集めて、衣兜《かくし》に突込んでゐる最中であつた。 「ビルディングが燃えます、旦那樣。」とこの支那人は喘《あへ》ぎながら言つた。「昇降機が何臺も燃えます。」  マックは鍵《かぎ》を投げて遣つた。「金庫を明けろ、騷ぐんぢやない。」と言つた。「この建物は火には大丈夫だ。」アランは黄色い顏になつてゐた。今又新たに不幸に襲はれて、全く呆然としてゐた。「これでおしまひだ」と思つた。アランは迷信深い男ではない。けれどもあんなこんなの色々な大打撃を受けたので、流石《さすが》のアランもトンネルには何か呪ひがかゝつてゐると思はざるを得なくなつたのである。全く機械的に、何を自分がしてゐるのかよくも知らずに、アランは見取圖《みとりづ》や設計圖や書類などを掻き集めた。 「リオン、めそ/\泣くな。」  とアランは言つたが、又二三度同じ事を繰返して言ふ。すつかり混亂して、氣も顛倒《てんたう》してゐるのである。 「めそ/\泣くな……」  電話がけたゝましく鳴つた。ケリイであつた。アランにかう言ふ。東側の壁を傳つて、マアキヤンタイル金庫會社の屋根へ下りて行けと言ふ。一分毎に電話は鋭く鳴る……もう危《あぶな》くなつた……到頭アランは電話を切つた。  アランは机から机へ、書架から書架へ歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、設計圖や書類を取出しては、それをリオンに投げて遣つた。 「これはみんな金庫へ入れるんだ。リオン、どし/\遣れ。」  リオンは心配で半ば氣が違つてゐた。けれども一言も口に出す元氣は無い。只唇だけ動いてゐて、その家の昔からの守《まも》り神《がみ》でも呼び出してゐるやうに見えた。リオンは一寸|横眼《よこめ》を使つて見て、主人の顏には荒れ模樣が、穩《おだや》かならぬ雲行《くもゆき》があると確かに見て取つたので、主人を怒らせまいと用心に用心をしてゐるのであつた。  急に戸を叩く音がする。不思議な事もあればあるものだ。戸口に現れたのは獨逸と露西亞の混血兒ストロオムである。戸口に立つてゐる。短い外套を着て、帽子を手に持つて、屈從的でもないが、さりとて又押付けがましい樣子も無い。立つてゐて、まるで辛抱強く待つてゐようとするやうに見えたが、ストロオムはかう言つた。「アランさん、もういゝ時分です。」アランには不可思議でならなかつた。一體どうしてストロオムは上まで來られたのだらう。とは思つたが、その事をよく考へるだけの時間はないのであつた。急に思ひ出した。ストロオムが紐育に來たのは、技師の連中の人減らしについてアランと相談する爲めであつた。 「先に行つてくれ給へ、ストロオム。」とアランはぶつきら棒に言つた。「僕はすぐ行く。」さう言つて再び紙の積み重ねの中をほじくり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。外を見ると煙が窓の傍を過ぎて行き、下の方からは消防の合圖の音が、泣く聲のやうに聞えて來た。  その時アランの視線は少しの間再び戸口の方へ向いた。見ればストロオムが相變らずぢつと待つて、帽子を手にして、立つてゐるのである。 「君はまだ居たのか。」 「お待ちしてゐるんです。」青白いストロオムは、謙遜な調子ながらきつぱりとかう答へた。  突然一團の煙が部屋の中へ侵入して、煙と一緒に一人の消防役員が白い兜帽《かぶとばう》をかぶつて現れた。この男は咳をしながら、「アランさん、ケリイの命令で來ました。もう五分すると、屋根へ行けなくなります。」 「ところが丁度その五分を私は入用だ。」  アランはかう答へて、紙を掴み上げるのを續けた。  この瞬間に寫眞器のぱちつ[#「ぱちつ」に傍点]といふ音が聞えたので、皆の者がふり向いて見ると、寫眞師が一人ゐて、アランを狙《ねら》つて撮《うつ》したのである。  白い兜帽の消防役員は、驚きの餘り一歩|退《すさ》つた。 「どうして此處まで來ました。」  面喰つて消防役員はかう訊《き》いた。  寫眞師は面喰つた消防役員を撮《うつ》した。 「あなたの後を登つて來たんです。」  氣落ちがしてがつかりしてゐるアランではあつたが、この有樣には大聲で笑はずにはゐられなかつた。 「リオン、終りだ。鍵を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]せ。さあ、行かう。」  アランはたつた一目も事務室を見返ることなく、戸口を通つて出て行つた。  廊下に出ると、痛い煙が一杯に、うんと濃く、眞黒になつてゐた。丁度|危《あぶな》い時であつた。絶えずお互ひに呼び交《かは》しながら行くと、狹い鐵の階段が付いてゐる屋根へ來たが、その三方は灰色の煙の壁で、上へ/\渦卷き昇つてゐるので、見通しは全然利かない。  その屋根へ上がると同時に、あの硝子の圓屋根は崩れ落ちて、皆の今上がつてゐる廣い屋根の中央に噴火口が一つ口を明いて、その口から煙や火花の雨や火の塊りや燃える紙屑が吐き出された恐るべき光景だ。だからリオンは大聲を擧げて泣き始めた。  ところが寫眞師が見えなくなつた。と思ふと、噴火口を寫眞に撮《と》つてゐるのである。又レンズを紐育に向ける。谷間《たにま》のやうな街路に向ける。屋根の上の群集に向ける。この男は氣違ひのやうになつて寫眞を撮《と》るのである。そこで到頭見兼ねた消防役員は、この男の襟首《えりくび》を掴んで、下へ降りる梯子まで引摺つて行つた。 「止めろ、莫迦《ばか》。」と怒つてゐる消防役員は怒鳴り付けた。 「何とか言つたね、莫迦だつて。」寫眞師の方も負けずに怒つてかう言ひ返した。「そんな事を言つて、今に覺えてゐ給へ。僕は今此處でいくらでも好きなだけ寫眞を撮《と》つてゐられるんだ。何も君なんぞに權利は無い……」 「いゝ加減に默れ、さつさと降りるんだ。」  と消防役員は呶鳴つた。 「何だつて、默れだと。又そんな事を。それも覺えてろ。僕はヘラルドのハリマンだ。噂位に聞いてるだらう。」 「皆さん、手袋をお持ちですか。手袋をしないと鐵の梯子《はしご》へ肉がくゝついてしまふんです。」  かう言つてから消防役員は、寫眞師に眞先に降りろと命令した。  けれども寫眞師としては丁度その降りる所を寫したいのであるから、大いに抗議した。「愚圖々々《ぐづ/\》しないで、」とアランは言つた。「屋根を降り給へ。つまらん眞似《まね》はよし給へ。」  寫眞師はサックの革紐を肩にかけて、それから胸壁の上を跨《また》いだ。 「あなただけは、アランさん、この屋根から私を追拂ふ權利がありますな、あなたの屋根ですからな。」ひどく怒つた寫眞師はかう言ひながら、そろ/\降りて行つた。その頭がまだ胸壁の向うに見えてゐる時 又[#「時 又」はママ]こんな事を附け加へて言つた。「しかし今のお言葉のつまらん眞似といふのは、あれは寔《まこと》に遺憾千萬ですな、アランさん。あんな事をあなたが仰しやらうとは思ひませんでしたよ」  寫眞師の次にリオンが降りたが、心配さうに下を見てゐる。それからストロオム、その次がアランで、殿《しんが》りは消防夫であつた。  降りて行くべき高さは八階で、梯子《はしご》を凡そ百段降りるのである。この梯子の所では、煙は少かつたけれども、下の方へ來ると、段の鐵棒に氷が厚く張つて掴むことが出來ない。又絶えず水沫がかゝつて來て、忽ち着物や顏に凍り付いて粒々になつた。  近所の屋根や窓には見物人が點々とゐて、この連中の下りるのを見てゐたが、見物人がはら/\氣を揉《も》む程の危險は實際は無かつたのである。  皆無事にマアキャンタイル金庫會社の屋根に達した。すると忽ち例の寫眞師が待ち構へてゐて、今度は撮影機のハンドルを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。  この屋根は氷河に似てゐた。そこへ小さい尖《とが》つた氷山がアランに近附いた。それは消防司令ケリイである。この二人の古くからの顏|馴染《なじみ》の間には次のやうな言葉が交はされたが、すぐその日の夕刊にどの新聞にも出た。  ケリイ「無事に降りて來てよかつたね。」  アラン「有難う。」 [#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]  紐育大火災の一つであるこの大火事に命を失つた者は、奇蹟的にもたつた六人であつた。先づ金庫番人のジョシュア・ギルマアで、この男は出納掛のライヒハルト及び出納掛長ウェブスタアと金庫のある鋼鐵張りの部屋にゐた所を火に襲はれた。消防の人々は格子を鋸《のこぎり》で切り破つて、ライヒハルトとウェブスタアを救ひ出した。ギルマアを引出さうとすると、その時がらくたと氷の雪崩《なだれ》が格子を埋めてしまつた。ギルマアは格子に凍り付いて死んでゐた。  それから二人の建築師、カペルリとオブライエン。この二人は第十五階から飛び降りて街路にぴしやんこになつた。消防夫のライウエットといふ男の足許で、この二人が粒微塵《こなみぢん》になつたので、この消防夫は神經の激動を受けて、三日驚き續けて後死んでしまつた。  會社支配人デイ。第三階の一部で床が墜落し、それと一緒に落されて、がらくたに打付けられて死んだ。  給仕のシン、支那人である。片附作業の時、氷塊に閉込められてゐる死體が發見された。氷塊をぶち碎くと、この十五歳の支那少年が青い綺麗な上着を着て、A・T・Sといふ字のある制帽をちやんと冠つて現れたので、人々は少からず驚いた。  機械係ジム・バトラアの働きは實に目覺《めざま》しかつた。バトラアは燃えてゐる建物《たてもの》に飛び込んで行つて、八つの釜の火を落着き拂つて消したものだが、その間頭の上には火が荒れ狂つてゐたのである。この英雄のお蔭で釜の爆發が起らずに濟んだけれど、もし起つたらとても恐ろしい事になつたであらう。ジムは義務を果したに過ぎないと言つて、賞金なんぞ目も呉れなかつたものである。けれども滿更の莫迦《ばか》でもないこの男は、ある興行師の申し出は拒絶もしないで、月に二千弗の給金で米國中を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、寄席《よせ》に出演する事を承知した。  三箇月の間バトラアは毎晩、短い歌を一つ歌ふのが藝であつた。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 「俺はジム、A・T・Sの機械方 頭の上は火の焔 それでも俺の言ふ事にや ジムよ、手前の火を消《け》やせ……」 [#ここで字下げ終わり]  紐育は火事の騷音と匂ひで一杯になつた。  火事の黒煙はまだ下町の上を舞ひ、炭になつた紙束が次色の空から雨と降つてゐる間に、もう新聞紙には、燃えつつあるビルディング、ケリイ部下の消防隊の奮鬪、火災に横死を遂げた人々の肖像、アラン一行の下攀《げはん》などを紙上に載せたものである。  シンヂケエトは死んだと噂された。あの火事は又と無い立派な火葬《くわさう》だと言はれた。この火事の損害は、保險が付いてゐたけれど、そんなものは物の數にもはひらない程大きかつた。この損害よりも、もつと大打撃を與へたものがある。それはあの怒り狂つた暴徒と火が成した仕業《しわざ》の、ひどいごつた返しといふものである。何百萬の手紙、受領書、設計圖などが滅茶苦茶になつてしまつたのである。さて米國の法律によると、新年最初の火曜日に總會を開くべしとある。その火曜日は火事から四日目に當る。この日になると、シンヂケエトは破産を聲明した。  これでお仕舞であつた。  この破産聲明當日の晩、アランの止宿してゐる中央公園ホテルの前に、一組の亂暴者が集つて、口笛を吹いたり喚《わめ》いたりした。ホテルの支配人は窓硝子を壞されてはたまらないと心配だつた。そしてやがて支配人は、アランのところへ何通かの手紙を持つて來たが、見ると脅迫状で、アランを今後|泊《と》めて置くなら、ホテルを空へ飛ばしてしまふぞと言ふ。  苦々《にが/\》しい、輕蔑したやうな微笑を浮べて、アランはこの手紙を突返した。「わかつたよ。」名前を變へてパレエス・ホテルに移つた。翌日はもうこのパレエス・ホテルを去らなければならなかつた。三日の後には紐育中のどのホテルもアランを受付けなかつた。今迄ならアランが部屋借りをすれば、その昇降機に各方面の巨頭を載せる事になるので大歡迎だつた各ホテルは、アランに玄關拂ひを喰はせたものである。  アランは紐育を立去る外は無かつた。マック・シテイに移ることも出來なかつた。アランが其處に現れたら最後、直ぐそのトンネル都市に火をつけるといふ脅迫があつたからである。そこでアランは夜汽車でバッファロオへ行つた。マック・アラン鋼鐵工場は警官に守られてゐた。けれどもその中に到頭、アランの其處にゐる事が知れ渡つてしまつた。その鋼鐵工場を空中へ飛ばしてしまふぞといふ脅迫である。アランはこの各工場を、釘一本までも抵當に入れて、有名な金持の女高利貸ブラウン夫人から金を借りたのである。各工場はもうアランの物ではない。だからそれを危險に曝す譯には行かない。  アランは市俄古へ行つた。けれども市俄古にも矢張り、トンネルで損をした連中が何十萬とゐる。此處からも追ひ出された。アランの泊《とま》つたホテルの窓硝子は夜中にピストルで何枚も打ち拔かれた。  アランは追放を受けてゐる有樣である。ついこの間までのアランは世界最大人物の一人で各國の君主から榮譽を受け、多數の大學の名譽博士であり、あらゆる著名なアカデミイや學會の名譽會員であつた。何年の間も人々はアランに歡呼を浴びせかけて、時としてその熱狂は前代の世に行はれた個人に捧げる禮拜であつた。アランが偶然に一寸あるホテルの客間に現れると、誰かの熱狂した聲が、直ぐこんな事を叫んだ。「この客間にマック・アランが來た。マックに萬歳三唱しよう。」新聞記者や寫眞師は獵犬の群のやうに、アランの後を夜晝追ひ蒐《か》けたものである。アランの一言、一擧手一投足、すべて公衆の耳に入り目に觸れたものである。  大慘事が起つてからは、何かアランの上にかぶさつてしまつたやうに、人から何とも言はれなくなつた。前の慘事に關係してゐるのは、只の三千人だけだつたた[#「だつたた」はママ]、今度は關係してゐるものが實に金なのである。金となると、公衆は心臟の眞只中《まつたゞなか》を遣られたやうに怒つて、アランに向つて鋭い砥《と》ぎ澄ましたやうな齒並を向けたのである。  アランの奴は民衆の金を、何百萬何十億と盜みやがつた。アランの奴はあんな氣違ひみたいな計畫を立てやがつて、貧乏人の臍繰金《へそくりかね》をふんだくりやがつた。何處から見たつてどう見たつて、アランの奴は追剥《おひはぎ》だ。彼奴とそれから氣取屋のS・ウルフめ。アランの奴があのトンネルといふ道化芝居《だうけしばゐ》を打つたのは、外でも無い、奴のアラニットがうんと賣れるはけ口《ぐち》を作つた迄よ、それだけよ……毎年の純益が百萬弗と來らあ。まあ物はためしだ、行つて見な、バッファロオにはアラン鋼鐵工場がずらりつと並んでらあ、一つの町といふ有樣だあ。成程あゝして置けばアランの奴の金も大丈夫といふ譯だつたが、到頭どかんと行つちまやがつた。昇降機のボオイでも電車の運轉手でも、誰も彼も思ふ存分の大聲に、マックは各時代を通じて最大の詐欺師《さぎし》だと喚《わめ》いたものである。  最初はアランの肩を持つた新聞がまだ多少あつた。けれども、その編輯局へ脅迫状だの分り切つた當て擦《こす》りだのが雨霰《あめあられ》と舞ひ込んだし……それよりもつとひどい事には、さういふ新聞は、てんで賣れなくなつたものである。寔《まこと》に尤も千萬な話である。人は自分も同感の意見でなければ、讀みたがらない、金を拂ひたくもないものである。かういふ手綱《たづな》を取り損《そこな》つた新聞は、早速方向轉換をして、よぢ上がる策を講じた。惜しいことには、もうS・ウルフがゐなかつた。線路目殺といふ、あまりぱつとしない死態《しにざま》をしたけれど、あの男ならちやんと、しかるべき額の酒代《さかて》なり何なりを、しかるべき人の手に握らせる才能を持つてゐたものだが。  アランは方々の都市に現れたが、何處へ行つても、また行方《ゆくへ》をくらました。やがてオハイオ州のヴァンダアスティフト家の客となつたが、二三日すると、どうだらう、ヴァンダアスティフトの模範農園の穀倉が、三つも焔と煙になつてしまつた。禮拜堂の牧師は、この機會に乘じて、アランを基督の敵と呼んで、ぼろい儲けをした。もはやアランを泊《と》めて呉れる者は一人も無い。そこへ、ヴァンダアスティフトの農場にゐるアランの所へ、エセエル・ロイドから電報が來た。 「アランさん、」とエセエルは電報で、「父からお願ひです、マニトバ州のタアトル・リバアのうちの地所に、お望みだけ長い間お住みになつて下さい。父のお客になつて下されば父は大層|悦《よろこ》ぶでせう。其處では鱒《ます》がとれます、又いゝ馬も澤山居ります。その中でもテデイがいゝだらうとお勸めします。夏になれば父と一緒にお訪ねします。紐育はもう落着き始めました。あなたに忠實なエセエル・ロイド。」  この加奈陀西部の州へ行くと、やつとアランは安らかな氣持になれた。アランのゐる事を誰も知らない。アランの名前は忘れられた。際物的《きはものてき》な嘘の報道を連發して、それで遣つて行つてゐる二三の新聞は、アラン自殺す、といふ耳目《じもく》を驚かす報道を掲げた。 「トンネルはマック・アランを呑み込んだ。」  けれどもアランをよく知つてゐて、死んでも死なないアランだといふ事を承知してゐる人達は、やがて直きに又現れるだらうと豫言した。しかも實際アランは現れた。紐育に歸つて來た。誰が思つてたよりも早く歸つて來た。  シンヂケエトの崩壞は何百といふ澤山の商會や私人を一緒に奈落《ならく》の底へ突き落した。その最初の打撃の來た時にはもう二三週間猶豫を與へてくれさへしたら、決して倒れはしないと言つた連中が隨分あつた。けれども第二の打撃が來ると、皆參つてしまつたのである。さういふ有樣ではあつたが、大體から云つてシンヂケエト破産の影響は、人が恐れてゐた程に猛烈なものではなかつた。あの破産はだしぬけに來たものではなく、人々の期待してゐたものであつたからである。それから又、世間一般の景況はこれより惡いものはないといふくらゐひどく惡くなつた。百年來に最も悲しむべき最もみじめな時代となつた。世界の發展は二十年退歩した。風が落ちるやうにストライキはなくなり始めた。けれども商業も交通も工業も相變らずの成つてゐない無氣力の底から脱し得なかつた。アラスカの端《はし》に至る迄、バイカルの山々、コンゴオの大森林の奧迄も、魔睡させるやうな不景氣が行亙つた。ミズウリ・ミシシッピ川、アマゾン川、ヴォルガ川、コンゴオ川には、無數の汽船やはしけが悉《こと/″\》く生氣を失ひ切つて、浮んでゐるのであつた。  宿無し者の宿泊所は滿員以上となり、大都市の各區は貧乏になつた。到る處に哀訴と飢餓と悲慘があつた。  この状態を起したのは偏《ひと》へにアランの罪だといふのは莫迦《ばか》げ切つた話である。あらゆる種類の經濟上の危機が働いたからこそ、かうなつたのである。けれどもアランの罪だと言ふ人があつた。各新聞は絶えずアランを責めた。人々は夜晝《よるひる》叫んだ。アランはまやかしの手品を使つて、民衆の懷《ふところ》から金を掏《す》り取つたものだ。七年間建造をしても、まだトンネルの三分の一も出來上つてゐないではないか。十五年すれば出來上るなどと言つたが、アラン自身そんな事を一度だつて、決して信じてはゐなかつたのだ。さうしてうま/\と民衆を欺《だま》したアランだ。  やがて遂に、二月|半《なか》ば、各新聞紙上には、大西洋トンネル建造者マック・アランの逮捕状が掲載された。アランは公衆の信頼を故意に欺き取つたといふ廉《かど》で告訴されたのであつた。  その後三日すると紐育は再び新開賣子の呶鳴る警に鳴り響いた。「マック・アラン紐育に來る。裁判所に出頭。」  シンヂケエトの破産清算部は巨額の保釋金を提供し、ロイドも同樣の事をした。けれどもアランはどちらの申し出でも拒絶した。アランは「墓穴」と呼ばれるフランクリン街の未決監に入つた。毎日何時間かストロオムと面會して相談をした。ストロオムはアランからトンネル管理を委《まか》されてゐたのである。  ストロオムは、アランがこんな厄介な事になつてしまつたのを氣の毒に思ふ樣子を、顏にも言葉にも現はさなかつた。再び逢へた事を悦《よろこ》ぶ樣子も見せず、微笑一つしない。たゞ報告をした。それつ切りであつた。  アランは此處にゐて非常に勉強した。だから決して退屈しなかつた。頭腦へうん[#「うん」に傍点]と詰め込んだが、その貯藏したものは後になつて(後の事を考へてゐるアランである)、筋肉的の力に換へる積りなのであつた。この「墓穴」に幽閉されてゐる間に、アランはトンネルを單道で進ませるべき建造方法を研究し盡したものである。ストロオムの外アランの面會者は、頼んだ數人の辯護士ばかりで、外には一人もなかつた。  一度エセエル・ロイドが訪ねて來たが、アランは面會を斷《ことわ》つた。  アランの裁判は四月三日に始まつた。既にその數週間前から法廷のどの席も約定濟となつた。席を融通《ゆうづう》して貰はうと莫大《ばくだい》な金を使ふ人があつた。又實に惡辣極まる共謀詐欺が行はれた。その傍聽したがる連中の中で、特に熱心なのは婦人達で、まるで氣違ひのやうになつた。婦人達は皆、エセエル・ロイドがどういふ態度をするか、それが見たかつたのである。  裁判長になつたのは、紐育中で最も恐れられてゐる裁判官シイモア博士であつた。  マック・アランの辯護に立つたのは、合衆國一流の辯護士、ボイヤア、ウインザア、コオエン、スミスの四人であつた。  この裁判は三週間つゞいた。その三週間といふものは、全米國が恐ろしい興奮と緊張をつゞけたものである。この裁判は、シンヂケエト創立、資金調達、建造、トンネル管理などの事柄を、精細|緻密《ちみつ》に物語つた。又度々の不幸も、十月大慘事も一々詳細に論じられた。婦人連は、文學上の傑作を朗讀されると寢込むものであるが、その婦人連が、この一々の細かい事を、それは事柄をよつく知つてゐる人間でなければ、到底了解の出來ないものであるが、それを聞きながら、眼を覺ましてゐた。實に幽靈の如く眠らなかつた。  エセエル・ロイドは一時間も陪聽を缺かさなかつた。長い審問の間ずつと、エセエルはその安樂椅子に掛けて、殆ど身動きもせず、一生懸命に耳を澄ましてゐたのである。  アランの姿が現れると、大變なセンセイションが起つたが、又多少人は失望の態《かたち》であつた。運命に打ち虐《しひた》げられたアランは、すつかり窶《やつ》れて疲れて出て來るだらう、そしたら、同情して遣らうと思つて、誰も待ち構へてゐたのである。ところがアランはそんなものはいらんと言ふ。昔と全く同じの樣子である。健康さうで、銅色の髮の毛で、肩幅は廣く、人の話を聞くのにわざとぼんやりした、どうでもいゝやうな風をみせる、その癖までが同じなのである。話す時になると、相變らずの幅の廣い聲で、ゆつくり、ぽつりぽつりと西部の言葉まで、すつかり同じであつたが、この西部語は、時々トム小父さんの馬丁だつたことを頷かせた。  大いに視聽を蒐《あつ》めた人はまだある。ホッビイである。證人として呼び出されたのである。ホッビイの樣子を見て、頼り無い調子でホッビイが物を言ふのを聞いて、人々は身顫ひをした。この老人がホッビイか知ら。象に乘つてブロオドエイを行つたホッビイか知ら。  アランは自分で自分の頸《くび》を折つてしまつたものである。四人の辯護士は、誓つてアランを無罪にすると言つてゐたものだが、アラン自身の言葉を聞いて、この上もなく驚いてしまつた。  この裁判全體の最大要點はといへば、勿論それはアランの發表したトンネル建造期間十五年といふ點であつた。この重大な點に向つて、裁判の第十七日目、シイモア博士は用心しながら忍び寄つた。  一寸間を置いてから、全く何氣《なにげ》ない調子にかう言つた。「あなたの誓約はかうであつたんですな、トンネルを十五年以内に建造すると。つまり十五年經過した後には最初の列車を走らせると、かうであつたんですな。」  アラン「さうです。」  シイモア博士は輕く、公衆の方を咎めるやうに見ながら「それだけの年數の間に建造を完成し得ると確信してゐましたか。」  誰も彼も今思つた、アランはこの質問に然りと答へるだらうと。ところがアランはさうしなかつた。アランの辯護士四人は、アランが眞實を語るといふ過《あやま》ちを犯した時、四人共|卒中《そつちう》の發作《ほつさ》が起つたやうになつた。  アランはかう答へたのである。「確信はしてゐませんでした。けれども私は良好な状態の下に、その期間で間違ひ無く出來ることを希望して居りました。」  シイモア博士「その良好な状態が必ず續くと思つてゐましたか。」  アラン「勿論私は一二の困難に出逢ふものと覺悟して居ました。場合によつては、建造は二三年長くかゝるかも知れないと思いました。」  シイモア博士「するとあなたは、あの建造を十五年では完成出來ないといふ事を確信して居りましたか。」  アラン「さう言つたのではありません。私の言つたのはかうです。何事もうまく行けばさう出來ると希望してゐたと、かう言つたのです。」  シイモア博士「十五年と期間を切つたのは、その計畫の始まりを樂《らく》にしようとする爲めだつたのですか。」  アラン「さうです。」 (居並ぶ辯護士連は死骸《しがい》のやうになつてゐた。)  シイモア博士「アランさん、眞理眞實を愛するあなたの心は、あらゆる尊敬を受けるべきものです。」  マックは眞實を述べた。それから生ずる結果をすべて我身に引受けたのである。  シイモア博士はその「總決算」を始めた。午後の二時から夜の三時まで喋《しや》べり續けた。一方婦人連は、何かある事で五分も待たされたら青くなつて怒り出す癖に、この時ばかりはお仕舞まで辛抱してゐたものである。シイモア博士の滔々と述べたものは、トンネルが世界に齎した不幸の全部であつた。戰慄すべきパノラマの全幅であつた。幾多の慘事、ストライキ、數々の破産であつた。アランのやうな人物が二人居たら、經濟上の世界といふものは全く破滅してしまふだらうと論じた。かう言ふシイモア博士の顏をアランは吃驚して眺めたものである。  翌日朝の九時に、辯護士たちの辯論がはじまつて、夜おそくまでつゞいた。辯護士たちは、机の上に平蜘蛛《ひらぐも》のやうになり、陪審官の※[#「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28]の下を撫でさするやうな妙な演説であつた。  やがて緊張の最もひどい當日が來た。何千の人間が裁判所の建物に押寄せた。その連中は皆二十弗、百弗、千弗をアランのお蔭で損をした連中である。皆その腹癒《はらいせ》の犧牲を得たのである。  陪審官達はアランの有罪を否定する元氣はなかつた。爆彈《ばくだん》にはね飛ばされたり、うちの階段を上る時|狙《ねら》ひ打《うち》に殺されたりそんな目に逢いたくなかつた。そこで陪審官達はアランを以て公衆を故意に惑はした罪、簡單に言へば詐欺の罪があると斷じた。再び又S・ウルフがゐればと惜しまれた。線路自殺といふ、あまりぱつとしない死態《しにざま》をした男だが、あの男の手は黄金の色に染まつてゐた。  判決は六年三箇月の禁錮であつた。  これは例の亞米利加流の判決で、歐羅巴の考へでは理解出來ない代物《しろもの》の、あの判決の一つである。これは民衆の壓迫と現在の世相を慮《おもんばか》つて下された判決である。又政治上の動機も介在してゐた。選擧が目前に控へて居るので、合衆國政府は民主黨にお世辭を使ひたかつたからである。アランはこの判決を平然たる顏色で聞いて、それから直ぐ上告をした。  判決を聞くと、法廷は數分間滿場寂然とした。  するとやがて怒つた女の顫へ聲がかう言つた。「もう合衆國に正義といふものはなくなりました。裁判官や陪審官はみんな汽船會社から買收されてゐるんです。」  それはエセエル・ロイドである。この一言を言つたばかりに、一寸した一財産といふ程の罰金に處せられ、それに辯護士達へ拂つた金が一萬弗もあつた。それから又この大評判のエセエルの審問の時に、エセエルはまたぞろ裁判官を侮辱したので、輕罪の廉《かど》で三日間の拘留を食つた。ところがエセエル・ロイドは罰金の一錢も進んで拂はうとしなかつた。そこで差押へをされる事になつた。しかもその執達史《しつたつり》が來ると、エセエルは釦の所にダイヤが入つてゐる手袋を二組差出したものである。 「これではまだ足りませんか。」とエセエルは訊いた。 「いや、どう致しまして。」  と役人は答へて、二組の手袋を持つて歸つて行つた。  ところが、エセエルが、いやな所へ入《はひ》るべき日が近づくと、エセエルは寔《まこと》に面白くなかつた。三日間牢屋だつて。いやな事。エセエルはその快走船「金魚號」に乘つて逃出した。遊戈《いうよく》してゐた處は海岸から二十哩離れてゐた。其處にゐれば誰もエセエルをどうする事も出來ない。毎時間エセエルは無線電話で父と話をした。新聞社の無線電信局はこの會話をすつかり横取りしたので、八日間といふものは紐育をやんやと悦《よろこ》ばせたものである。ロイド老人は娘の事で笑つて笑つて涙を出した位で、この事があつて尚更娘を崇拜するやうになつた。けれどもエセエル無しには暮されないロイドであるから、到頭歸つてくれと願つた。父病氣と言つて遣つたものである。エセエルは直樣《すぐさま》「金魚號」の舳《とも》を紐育に向けたが、着くと忽ち即座に警官の手に捕へられてしまつた。  エセエルは三日間をいやな所で暮したが、新聞はエセエルが放免となるまでの時間を指折り數へたものである。エセエルは笑ひながら出て來て、ずらりと並んだ澤山の自動車に迎へられて、その家へ歸る有樣はまるで凱旋行列《がいせんぎやうれつ》であつた。  けれどもその間にアランはアトランタの監獄にゐた。少しも元氣を失はずにゐた。あの判決は眞面目なものと思つてゐないからである。  六月になると、アランの裁判の再審が始まつた。  再び大掛りの審理が行はれた。あの判決は其儘にされて、アランはアトランタへ戻つた。アラン事件は最高法院まで行つた。更に三箇月經つと、最後の裁判が開かれた。これこそ眞面目で重大で、アランの生死、この一擧にかゝつてゐた。  その間に經濟上の危機は落着いて來た。商業、交通、工業は恢復し始めた。民衆はその熱狂的憎惡を忘れた。幾多の徴候から推して見るに、誰かゞアラン問題を整頓しようと働いた事が認められた。エセエル・ロイドがしてゐるのだと人は言つた。各新聞は好意の色の濃くなつた論説を掲げた。陪審官は全く違つた顏觸《かほぶれ》になつた。  最高法院に現れたアランの樣子は全く變つてゐた。顏色は土氣色《つちけいろ》で、いかにも不健康さうで、額には深い皺が刻まれて、話をする時でも消えない。|顳※[#「需+頁」、第3水準 1-94-6]《こめかみ》の所が白髮になり、大層痩せた。眼の光は消えてしまつた。時々アランは人の同情なんぞ屁《へ》とも思はない顏付をした。最近數箇月の精神の激動も度々の裁判も、アランを閉口垂《へこた》れさせる事は出來なかつた。けれども、アトランタに身體を禁錮されるといふ事で健康が害されたのである。生活と活動とから放されてしまふと、アランのやうな男は、全く駄目になつてしまふ。丁度機械があまり長い間靜止してゐると、崩れ潰れてしまふのに似ている。アランは安らかな氣持といふものがなくなり、眠れなくなつた。とても氣味の惡い夢ばかり見るので、朝になるとへと[#「へと」に傍点]/\になつて起き上つた。トンネルに惱まされて恐ろしい光景を見せつけられる。夢である。夢の中で世界中の海が地下道に入《はひ》り込み、何千人の人をまるで溺れた獸のやうな態《さま》にして、トンネルの出口へ追ひ出す。トンネルは漏斗《じようご》のやうに吸ひ込む。工場も建物《たてもの》も呑み込む。その恐ろしい咽喉《のど》の穴へトンネル都市が滑り込む。汽船も水も地面も入《はひ》る、紐育市は傾き始め、沈み始める。紐育が炎々と焔える。その熔《と》ける都市の多くの屋根の上をアランは逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。S・ウルフの身體が、三つに切れる光景を見る。すると、その三つの部分の一つ/\がまだ生きてゐて、アランに向つて、憐《あは》れみを乞ふ。  最高法院はアランに無罪を宣告した。この無罪の判決が下ると素晴らしい歡びの聲が起つた。エセエル・ロイドは手巾《ハンカチ》を旗のやうに振つた。  アランは護衞がついて自分の車まで行つた。何か記念になる物を欲しがる連中に、身體まで寸斷され兼ねまじい形勢だつたからである。建物の附近の街には人々の叫びが響き渡つた。 「マック・アラン。マック・アラン。」  再び風向が變つて、元のやうになつた。  けれどもアランの心にはまだ一つの考へが蟠《わだかま》つてゐた。精《しやう》も根《こん》も盡き果てたアランではあつたけれど、この考へだけは持ち續けた。その考へといふのは、淋しい獨りだ、俺を迎へる妻も子もない……  アランはマック・シテイに赴いた。 [#改ページ] [#4字下げ]第六編[#「第六編」は大見出し] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  トンネルは死んだも同然だ。  淋しい地下道に偶々《たま/\》一つ足音でもすると、それは遠くへ響き渡り、人聲は穴倉の中のやうに籠つて響いた。方々の停車場には、機械が夜晝同じやうに靜かな音を立てゝゐる。その機械に働いてゐる技師達は默りこんで、悲しさうな顏だ。時々思ひ出したやうに、列車が入《はひ》つて來て、出て行つた。唯一つの例外は海底の鑛坑である。其處ではピッツバアグ鎔鑛精錬會社の勞働者が相變らず採掘を續けてゐた。トンネル都市のマック・シテイはさびれて、塵埃《ぢんあい》にまみれ、死に切つてゐたこの町の空氣は、ついこの間まではコンクリイトを攪《ま》ぜて落す機械の轟音や列車の出入の間斷のない音で搗《つ》き碎かれ、まるで暴風雨のやうな騷ぎであつたのが、もう今はひつそりしてゐる。地面の搖れる事なんぞはもう無い。港には死んだやうな汽船が並んでゐる。今迄はあんなにも盛んに火花《ひばな》を散らし、まるで妖精の宮殿のやうに輝いた大工場は、一つ殘らず、たゞ眞黒に廢墟のやうになつて、生命《いのち》を失つて立つてゐた。港の燈臺は間を置いて光る式のだつたが、それも消《け》されてしまつた。  アランは事務所ビルディングの五階に住んでゐた。このビルディングの窓から見渡すと、一|望《ぼう》盡《こと/″\》くレエルの海だが、このレエルも空《むな》しく塵《ちり》まみれになつて横たはつてゐる。最初の二三週間といふものは、アランは家から一歩も外へ出なかつた。その後に幾週間か地下道の中で暮した。アランが附合ふのはストロオムだけである。マック・シテイにゐても一人も友達はない。ホッビイはずつと前に別莊を去つてしまつた。ホッビイは事業をやめて、メイン州に農場を買つたのである。十二月になると、アランはロイド老人と三時間ばかり會つて話をしたけれど、その結果、最後の望も絶えてしまつた。意氣|沮喪《そさう》して悲痛な面持で、アランは直ぐその日、シンヂケエトの汽船で海へ出た。アランは大洋洲や歐洲の各停車場を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたが、新聞紙は、ちよいと記事を掲げたばかりである。けれども、そんな記事を誰も讀みはしなかつた。マック・アランは死んだも同然だ。トンネルと同樣だ。世界の上に輝いてゐるのはもつと外の新らしい人の名前である。  新年になつて、マック・シテイヘアランが歸つて來た時、そんな事に注意を向ける者は誰もなかつた。唯一人、エセエル・ロイドだけはさうではない。  エセエルは、父の所へアランが訪《たづ》ねて來るだらうと、何週間か心待ちに待つてゐた。ところがアランからは別に何とも言つて來ないので、エセエルは此方《こちら》からアランへ宛てゝ、短かいながら心を籠めた優しい手紙を出した。文言《もんごん》はかうである。また此方《こちら》へお歸りになつてゐらつしやる由、承はりました。お序《ついで》の節にでもお尋ね下さいますなら、父もわたくしもこの上もなく悦《よろこ》びますでせう。御機嫌よろしく。  けれどもアランからは返事も來なかつた。  エセエルは驚きもしたが、又腹も立つた。そこで紐育切つての敏腕な探偵を呼んで、早速アランの樣子を探つて來て呉れと頼んだ。翌日探偵の報告した所はかうである。アランは毎日トンネルで働いてゐるが、晩の七時から十二時へかけて、その間は大抵家に歸つてゐる。アランの生活は全く世界から懸け離れて、今度こちらへ歸つて來てからも、まだ一人にも會つてはゐない。アランの所へ行くのには、ストロオムを通じなければならないが、このストロオムと來たら、監獄の看守よりもまだ始末が惡い冷血漢《れいけつかん》だ、といふ事である。  すぐその日の晩方《ばんがた》、エセエルは死んだやうなトンネル都市へ出掛けて行つた。アランに會ひたいと申込んだが、取次の者の言ふ事には、ストロオムさんに頼んで御覽なさいといふのである。かう來るだらうと思つてゐたエセエルは、もう既に準備を整へて來た。このストロオムさんから片附けて、とエセエルは思つて來たのである。アランの裁判の時、ストロオムを見掛けた事がある。エセエルはこの男を憎んでもゐたが同時に敬服もしてゐた。とても人間とは思へない位の冷たさと蟲|螻《けら》同然に人を見てゐる態度と、それが憎らしくて堪《たま》らなかつたが、この男の勇氣には敬服してゐた。さあ今日こそ、この男はエセエル・ロイドといふわたしにぶつかるのだ。さう思つて、エセエルは選《え》りに選つて次のやうな裝ひをして來た。シベリアの白狐《びやつこ》の毛皮の外套だ。帽子の上には狐の頭と前足だ。いよ/\會つた時のエセエルの顏は、誘惑的な美しさに滿ち、勝利を誇る者の顏付であつた。立ちどころにストロオムの心を奪つてしまへると、信じて疑はなかつたからである。 「ストロオムさんでいらつしやいますか」と始めたエセエルの聲音《こわね》は、媚《こび》を含んでへつらふ者のやうであつた。 「わたくし、エセエル・ロイドと申しますの。アランさんにお目にかゝりたいのでございますが。」  ストロオムは眉毛《まゆげ》一本も動かさなかつた。絶大な力のあるロイドといふ名も、白狐《びやつこ》も、微笑を浮べてゐる美しい唇も、この男には何の事もないのである。エセエルはかうして會つてゐる事が、この男にはひどく退屈らしいと感じて、何といふ無禮な男だらうと、じり/\して來た。 「アランさんはトンネルに居ますよ。」  素氣《そつけ》もなくかう言ふのである。この男のその眼付やら、平氣で嘘を言ふ圖々《づう/\》しさやらで、エセエルはすつかり怒つてしまつた。今迄かぶつてゐた愛嬌といふ假面をかなぐり捨てゝ、エセエルの顏は怒りの爲めに蒼白《あをじろ》くなつた。  輕く聲を立てゝ笑つて、怒りにふるへた笑ひで、エセエルは言ひ返した。 「嘘を仰しやい。たつた今伺つたところでは、此處にいらつしやるさうぢやありませんか。」  ストロオムはびくともしないで、かう言つた。 「私の言ふ事を信用なさる、なさらんは、あなたの御勝手です。私には何うにもなりません。」  それつきりで、もう言はない。  こんな扱いを受けた事は、エセエル・ロイドはこれが始めてだ。怒りにふるへながら、眞蒼《まつさを》になつてエセエルは言つた。 「覺えていらつしやい。あたしに向つてこんな失禮な眞似をした人は、今迄一人だつてありやしませんわ。ようございますか、あたしは、エセエル・ロイドは、いつかあなたに玄關拂ひを喰はせて上げますよ。きつとですよ。」 「そんな場合でしたら私は、今のあなたのやうに文句ばかりを並べやしませんよ。」  と、ストロオムは冷淡な返辭である。  エセエルはこの男の氷のやうな冷たい眼差《まなざし》と死んだやうな顏付とを睨みつけた。エセエルの腹の中では、あなたは紳士の作法を辨《わきま》へない人間だ、とこの男につけ/\言つて遣りたかつたが、一先づ我慢して默つてしまつた。この男に向つては輕蔑し切つた視線を(何といふ烈しい目付だつたらう)投げ付けて、それから出て行つた。  口惜《くや》し涙を目に一杯溜めて階段を下りながら、エセエルは考へた。あの唐變木《たうへんぼく》もやつぱり氣が違つたんだわ。トンネルのお蔭で皆が氣が違つてしまふ、ホッビイも、アランも……みんな誰でも、ほんの一二年、あの仕事をすれば、すぐさうなつてしまふんだわ。  紐育へ歸りの自動車の中で、憤怒と失望の餘りエセエルは泣いた。エセエルの前以ての腹勘定では、アランの隱れてゐる前楯《まへだて》になつてゐる、あのストロオムといふ男に向ひ、つてあらゆる[#「男に向ひ、つてあらゆる」はママ]祕術を盡くして攻め立てようとしたが、しかもその男の憎らしい程冷たい眼差一つによつて、考へ拔いたエセエルの策略は忽ち一掃されてしまつた。いかにも策戰がまづかつた、と思ふと又腹が立つて、エセエルは泣いた。けれどもやがて、エセエルは復讐の怨みに燃えて、次のやうな事を言ひ出したり、怒りを含んだ笑ひ聲を立てたりした。 「今に思ひ知らせて遣る、彼奴《あいつ》に、このエセエル・ロイドがどんな人間かといふ事を。……あゝ、あたしはあのトンネル全體を買つてしまはう、さうすれば彼奴を抛《はふ》り出してしまへる。一寸お待ちなさいよ。細工《さいく》は粒々《りふ/\》……」  この晩の食事に、父と對ひ合つて坐つたエセエルは、眞蒼な顏色で默り込んでゐた。 「ソオスの容《い》れ物《もの》をお父さまの方へ上げておくれ。」  と、エセエルは召使の男に命じた。 「大抵わかつてゐるぢやないの、樣子を見れば。」  エセエルの氣儘氣隨の性質をよつく呑《の》み込《こ》んでゐるこの召使は、命令通りにしたけれど、別に妙な顏もせず濟まし返つてゐた。  ロイド老人は可愛い美しい我が娘の、冷たい權高《けんだか》な目付をおづ/\隙見《すきみ》した。  エセエルといふ女は、障害にぶつかつてへこたれるやうな女ではない。そのエセエルがアランに目を付けて、アランと話しをしようと思つたのである。だからエセエルは何でも彼《か》でもそれを遣り遂げようと決心してゐるのだ。だがもう一度ストロオムに縋る事は、それ丈けは斷じてしないであらう。あんな男は大嫌ひだから。それにしてもエセエルは、あんな紳士でもないストロオムなんかのお世話にならなくつても、大丈夫目的を達せる自信がある。……  その後暫く、晩になるとロイド老人は獨りぽつちで食事をするといふひどい目に遭つた。氣分が惡いと言つてエセエルが顏を見せないのである。ところがそのエセエルは、毎日午後四時にマック・シテイへ行つては、十時半になると夜汽車で歸つて來た。それから六時と九時の間は、事務所ビルディングの大玄關から十歩の所に停めた貸自動車の中で待つてゐた。この車は、紐育からマック・シテイ迄|傭《やと》つて來たものである。車内のエセエルは毛皮の外套にくるまつて、寒さにふるへて、しかも奇妙な事には、この冒險に昂奮したり、自分の演じてゐる役割を考へて情無《なさけな》い氣持になつたりして坐つてゐた。窓硝子の外をすかして見ると、窓硝子が凍つて、時々それへ息を吹き掛けて覗《のぞ》き孔を拵へなければならなかつた。幾つかのアアク燈が夜暗を貫いて輝き、所々を明るくしてゐたけれど、車から見ると外は眞暗闇で、たゞ蜘蛛《くも》の巣のやうな、あのレエルばかりが鈍《にぶ》く微《かす》かに光つてゐる。何か動くものが見えたり、誰かがこつちへ來たりすると、エセエルは瞳を凝らして見る。胸がはずみ出す。  三日目の晩、始めてエセエルはアランを見掛けた。もう一人の男と連立つて線路を横切つて遣つて來た。歩き方で直ぐアランといふ事がわかつた。ところがその連れの男は、あのストロオムだ。エセエルは憎らしくてならなかつた。その中に二人は自動車のずぐ傍を通つたが、ストロオムはその顏を、きら/\光る凍り付いた窓の方へ向けた。その時エセエルは、車の中の人が誰か、この男に悟られてしまつたと思つたので、自動車に注意しろとでもアランに言ひはしないか、とびく/\してゐた。けれども、ストロオムは、一口もアランに話し掛けないで、そのまゝ行つてしまつた。  それから二三日|經《た》つと、アランは七時頃にトンネルから歸つて來た。徐行してゐる列車から飛び降《お》りて、レエルの所をぶら/\遺つて來る。段々近くへ來る。何か考へてゐるらしく、靜かに通り過ぎて行く。玄關の階段に丁度足を踏みかけた所で、エセエルは車の扉を明けて、アランの名を呼んだ。  アランは一寸歩みを止めて、あたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したが、直ぐに陸段を昇《のぼ》つて行かうとした。 「アランさん。」  もう一度エセエルは呼びかけて、傍へ急いで行つた。  アランはエセエルの方へ向き直つたが、よく分らないらしく、面紗《ベエル》の下の顏が誰か見ようとして、すばしこく眼を動かした。  アランはだぶ/\の茶色の外套で、襟卷《えりまき》をして、泥まみれの長靴を穿《は》いてゐる。顏は瘠せて、怖《こは》い顏だ。暫く二人は默つた儘、お互ひに見合つてゐた。 「エセエル・ロイドさんですか。」とゆつくり言つて、アランは訊いた。沈んだ聲だ。どうでもいゝやうな調子だ。  エセエルはうろたへて、すぐに返辭も出なかつた。アランの聲はもう前に聞いた事があるばかりで、エセエルの記憶の中にぼんやりとしか無かつたのが、今やつとあゝこの聲だと分つたからである。何とはなしに顏が眞赤になつたやうに感じて、エセエルは面紗《ベエル》を擧げることを躊躇した。 「えゝ、左樣でございますわ。」  エセエルは、どぎまぎしながら、やつと面紗を上へ擧げた。  アランは眞面目《まじめ》くさつて、はつきりした目で、エセエルを見据ゑた。 「こんな所で何をしてらつしやるんです。」  エセエルはもう落着いて、しつかりして來た。丁度うまい具合の調子といふものを、今この瞬間に捉《とら》へる事が出來なければ、萬事休してしまふ事を見通し得た程である。しかもそのうまい調子は、すぐ捉へた。本能的に捉へたのである。エセエルはまるで子供のやうに心から嬉しさうに笑つて、 「まあ、驚いた。そんなに仰しやると、まるであたしを叱り付けないばかりよ。あたし、お目にかゝりたいと思つて來たんですけど、誰にも會はないと仰しやるんですもの、二時間ばかりもこの車の中で待伏《まちぶ》せして居りましたわ。」  アランの眼付は相變らずである。けれども、エセエルに家の中へ入るように、と勸めた時のアランの聲は、無愛想なものではなかつた。  エセエルはほつ[#「ほつ」に傍点]とした。危險な瞬間は過ぎてしまつたからである。昇降機《リフト》の中へ足を踏み入れた時、エセエルはもう愉快になり、氣輕になり、幸福な氣持になつてゐた。 「お手紙をいつか差上げましたわね。」  と微笑しながら、エセエルは言つた。  その顏をアランは見もしない。 「なるほど、そんな事もありましたね。」  こんな返辭をうつかりした調子で言つて、足許の方へ眼を向けてしまふ。 「しかし正直な所を申上げると、あの時わたしは……」  アランはその後を何とか口の中で言つたが、エセエルには聽きとれなかつた。丁度その時昇降機も止まつた。アランの住んでゐる部屋へ通ずる扉を明けたのはリオンだ。久し振りにリオンと逢つて、エセエルはさも/\悦《よろこ》びも驚きもしたやうな樣子を見せた。 「まあ、リオンなのね。」とエセエルは大きな聲を立てゝ、片手を、仲の好い知人にでも差出すやうに、この瘠せつぽちの年寄りの支那人に向つて差伸べた。「暫くね、近頃どう。」「有難う。」度を失つたリオンは、殆ど聞えぬ位にかう言つて、洟《はな》を啜りながらお辭儀をした。  一寸失體させて頂きますとアランはエセエルに言つた。リオンがエセエルを案内して行つた所は、大きなとても曖かい部屋であつた。すぐにリオンは引き下つて行つた。エセエルは外套のボタンを外《はづ》し手袋《てぶくろ》を脱いだ。この部屋の有樣は沒趣味な平凡極まるものだ。大方アランが何處かの店へ電話でも掛けて出來合《できあひ》の道具を買つて、その家具の飾り付けは何でもない家具商人に委《まか》せつ切りにしたものであらう。丁度窓掛を取拂つてあるので、窓の十文字が一々むき出しに見えたり、其處の黒い四角い中には、冷たさうな光を放つ星が三つ四つづつ見えたりする。かなり待たせてから、またリオンが出て來て、紅茶とトオストを進めた。それからやつとアランが入つて來た。服を着替へて來た。編上げは短靴に替はつてゐる。 「どうも失禮、さあどうぞ。」アランは眞面目な靜かな調子でさう云つて安樂椅子へ腰をおろした。「如何ですな、お父《とう》さんは。」  さう言ふアランの顏には、エセエルなんぞに用は無いと明らかに書いてある、とエセエルには感じられた。 「お蔭樣で元氣でございますわ。」  呆然としたエセエルはこれだけ言つた。それからアランの容子《ようす》をつく/″\眺めるのである。大變に白髮が多くなり、隨分|老《ふ》けたやうに見える。とげ/\しい顏付になつてしまつて、表情は少しも無く、石で出來たやうな顏付だ。見るからに何だか底意地《そこいぢ》が惡さうで、又むつつりの利《き》かん氣《き》の所がある。眼は冷たい光で、生き物の眼とは思へない位で、その眼の中を覗き込む事は決して許さんぞといふ風であつた。  さてエセエルは、今こゝでアランと何か差し觸りのない話でもしてみたら宜いだらう。さうすればそのうちアランの氣持も、自分の氣持も、この場の空氣にだん/\慣れさせることが出來たらう。さうは思つても、またストロオムの事で愚痴《ぐち》をこぼしてみようかとも思つたが、何しろ前に坐つてゐるアランは、すつかり變つてしまつて、餘所々々《よそ/\》しく取り附く島もないやうな風であるから、エセエルはそれを言ひたくつて堪らないのを、無理に殺してしまつた。そんな事をしなくつてもまだ何とか、アランをぎゆつ[#「ぎゆつ」に傍点]とつかまへて、放さないで置く方法が、ありさうに思へたからである。  かう思ふと忽ちエセエルはまるで二人が昔は大の仲好しででもあつたやうな親しい打ち解けた調子になつた。「ねえアランさん、」とエセエルは青い眼をきら/\させながら言つて、手を差伸べた。「何てまあ嬉しいんでせう、またお目に懸かれて。」かう言ふ中にも昂奮して來るのを、やつとの事でエセエルは隱しおほせた。  アランも手を差出す。ざら/\して堅くなつた手だ。アランは微笑を浮べてはゐるが、その眼付には、こんなにしてエセエルから女らしい同情を寄せられるのは、大して有難くもな※[#判読不可、296-上-12]といふ色が、あり/\と讀めた。  そんな色は見えたけれど、エセエルはもうそんな事に頓着《とんちやく》はしない。  もう何が來たつて怖《おぢ》けはしない。  エセエルはアランをぢつと見て頭を振つた。 「お加減《かげん》でも惡さうねえ。今毎日してらつしやるやうな事はあなたにはいけないのよ。あたしかう思ふわ、暫らく開ぢ籠つて安靜にしてらつしやるといゝんでせうけれど、でもねえ、そんな事を長く續けてゐらしやると、それも又よくないらしいわねえ。あたしの口からこんな事を申上げちや何ですけれど、お氣を惡くなさらないでね。あなたに入用なものはあなたのお仕事で……あなたに大事なものはトンネル。ほかは何にもお入用ぢやないわね」  エセエルの云つた事は本當である。エセエルはアランの心臟を射拔《いぬ》いた。アランはたゞ坐つた儘、エセエルを見詰めてゐた。一言も返辭をせずに、又エセエルの言葉を遮《さへぎ》らうともせずにゐた。  エセエルは奇襲したのである。この奇襲によつてアランが面喰つたのを見て取ると、エセエルは懸命になつて、その相手の弱味《よわみ》を利用し始めた。そこでエセエルは早口に昂奮して喋《しや》べり出したのである。そのものすごい立て續けの勢は、それを遮り止めようとしたら、不作法にでもなる外は無かつた位である。エセエルはアランに向つて、友達とすつかり縁を切つてしまつた事や、この死んだやうな町に埋《うづ》もれてゐる事を非難した。ストロオムとの經緯《いきさつ》を手に取るやうに話して聞かせた。話は更にロイド老人の事になり紐育の事になり、知人の事になつたりしたが、結局話はいつもトンネルへ戻つて行つた。あなたがしなければ、一體誰がトンネルを完成出來るだらうとか、一體こんな大事業を誰に委《まか》せたらよいだらうとか。そんな事はまづ差措くとして、あのお仕事をもう一度お始めにならなければ、あなたは駄目になつてしまひます、といふその事を實は申上げたいんだとか……。  アランの灰色の眼は暗く憂鬱な光を帶びて來た。エセエルの話によつてアランの心の中からいろんなものが掘り出されて來たからである。悲しみと痛さと苦《にが》いやうな氣持と、それから熱望と。 「なぜそんな事を、わたしに仰しやるんです。」とアランは訊いて、怒つたやうな眼付でエセエルを見た。 「それはもうそんな事を申上げる權利なんぞ、あたしには無いとはようく存じて居りますわ。」 「女の友達だとか一寸顏見知りの女だとか、さういふ者としての權利のやうなもの、それだけしきやありませんわねえ。ですけれど、あたしがあんな事を申上げたのは……」  かうは言つたものの、エセエルは別にこれといふ理由も擧げることが出來なかつた。 「いゝえ、たゞあなたが間違つた事をしてゐらつしやるといふ、それだけの事を申上げるんですわ。こんなまあ碌《ろく》でもない部屋にばつかり埋《うづ》もれてゐらつしやらないで、もつとかう一か八かの大勝負を打つて御覽になるんですわ、トンネルをすつかり仕上げておしまひになればいゝのに。」  アランは別に怒つた風でもなく首を振つて、諦《あき》らめ切つたやうな微笑を浮べた。 「どうもあなたには、わたしといふ者がまるでお分かりになつては居らんのですね。わたしはちやんと一か八かの大勝負を打つてゐます。今でも毎日出來るだけの事をやつてみてゐます。しかし差當《さしあた》り事業を始める事だけは一寸考へられないんでしてね。」 「なぜ[#「なぜ」は底本では「たぜ」]駄目なんですの。」  アランは驚いたやうな目でエセエルを見たが、唯一言かう言つた。 「金が無いんですよ。」 「あなたでなくつて誰が、誰がお金の才覺《さいかく》が出來るものですか。」とエセエルは早口に言ひ返して、輕く聲を立てゝ笑つてから、「こんな所に閉ぢ籠つてらしつちや、誰もお金の貸して呉れ手はありませんよ。ほんとよ。」  アランはこんな話をしてゐるのがいやになつた。「いろんな事をしてはみましたがね、」と答へたが、そのアランの言葉の調子で、エセエルはもうアランから煩《うる》さがられるやうになつたことを知つた。  エセエルは手袋《てぶくろ》を取り上げた。その手袋を左手に嵌《は》めながら、「父とも話をして御覽になつて。」  アランは頷《うなづ》いたが、エセエルの視線を逃げるやうにした。 「ロイドさんとですか。しましたとも。」 「まあさう。どうでしたの。」 「お父さんにお願ひした所が到底駄目でした」  かう答へてアランはエセエルをぢつと見た。  エセエルは笑つた。あの例の氣輕《きがる》な子供らしい笑ひだ。 「何時《いつ》でしたの、それはいつの事。」  アランはぢつと考へてから 「あれは去年の秋でしたつけ。」 「まあ、秋でしたの。」  かう言つてエセエルは吃驚りしたやうな振りをした。 「あの時分でしたら父は一寸都合が惡かつたのよ。ですけどもう近頃は決してそんな事はありませんわ……」さてそれからエセエル[#「エセエル」は底本では「エセル」]・ロイドは兩舷の大砲を一時に發射したものである……「此間父はこんな事を言つてました。あの工事を俺が引受けてもいゝんだが眞逆《まさか》俺の方からアラン君のところへ妥協を申込むことは勿論出來ないから、アラン君の方から來てくれるといゝんだがなんて。」これだけの事を全く何氣《なにげ》ない調子でエセエルは言つた。  アランはぢつとして深く考へ込んで座つたまゝである。一言も返辭はしない。今言つたエセエルの言葉はアランの心臟へ火を投げ込んだのである。血が顏へ昇つて來た。急にアランの耳には事業の進行する轟音が聞えるやうになつた。一體そんな事が、果してあるだらうか。あのロイドが……アランの昂奮は烈しかつた。  堪らなくなつてアランは立ち上がつた。  暫く默つてゐたが、やがてアランはエセエルの方を見た。エセエルは兩方の手袋のボタンを嵌めてゐる。しかもその嵌める事がまるで大仕事であつて、エセエルの注意はすつかりそれに集中されてゐるやうに見えた。  エセエルは立ち上つてアランの方を向いて微笑した。「でもあたし、今のやうな事を申上げろつて、父から別に頼まれたんでも何でもないんですのよ。あたしが伺つた事なんぞ父に仰しやつてはいけませんよ。」エセエルは低聲《こごゑ》でかう言つて、片手をアランの方へ差出した。  アランがエセエルを見た目には感謝の籠つた温《あたゝ》か味《み》があつた。「よくまあ訪《たづ》ねて來て下さいました、有難うございました。」  アランはそう言つて、エセエルの手を握りしめた。  エセエルは一寸笑つた。 「御免なさいね、實はあたしこの間中から何にもする事がないので困つてたもんですから、それでつい、一體あなたはどんな事をしてゐらつしやるか、一寸|覗《のぞ》かして頂きたいなんて思つて、それで伺つた譯なの。さやうなら。」  エセエルは出て行つた。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し]  この晩のエセエルは、晩餐の間大變な上機嫌だつたので、サイド老人は心が浮き立つた。食事が濟むと、エセエルは老人の頸《くび》へ抱き付いてかう言つた。 「ねえ、お父さん、明日の午前中にあたしと話して下さる譯に行かない。重大な相談があるのよ。」 「なんだね、エセエル、今日でもいゝぢやないか。」 「いけないの、明日よ。それからお父さん、エセエルがお願ひする事、なんでもして下さる。」 「わしに出來る事ならな。」 「出來る事なのよ。」  翌日アランはロイドから自筆の招待状を貰つた。その親しい調子の溢れてゐる所から見ると、明かにエセエルが口授して書かせたものに相違ないのである。 「他に客とては御座無く候唯|内輪《うちわ》の三人の集まりと致すべく候」ロイドの手紙にはかう書いてあつた。  アランが行つてみると、ロイドは大層御機嫌がいゝ。ロイドは益々小さく縮んでしまつてゐて、アランの見る所では、どうやら子供に返り始めてゐるらしかつた。勿論ロイドは去年の秋にアランが訪ねて來た事をすつかり忘れてゐるのである。ロイドはもう一遍繰り返してエセエルの審問の時の事を細々《こま/″\》と話して聞かせて、それからエセエルが、當局の目をごまかして、海のあちこちをヨットで走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた時の模樣を話した時には、笑つて笑つて涙を出したものである。又ロイドは秋から冬にかけての間に出來た、ありとあらゆる新しいものに就いて駄辯《だべん》を弄し、又|香《かん》ばしからぬ戀愛事件や選擧の事も喋《しや》べつた。頭の中はもう大分|耄碌《まうろく》し始めてはゐるのだが、ロイドはまだ仲々元氣があり、あらゆる新しい事に興味を持つてはゐるし、いろんな策をめぐらす惡智慧もあるし、百姓のやうに狡猾《かうくわい》であつた。アランはぼんやりし乍ら好い加減な事を言つてゐた。自分の考へにまるで夢中になつてゐたからである。さうかうしてゐる中にもアランはトンネルの話を持ち出す機會を見出さないでしまつた。その中にロイドは天文臺《てんもんだい》の計畫をどうだらうと言つて、アランに聞かせた。何でもその天文臺は、各國の國民に一つづつ寄附したいといふのである。そこでアランは自分の思つてゐるあの事に話を向けようと、丁度しかけたその途端《とたん》に、召使の男が入《はひ》つて來て、お食事の用意が出來ました、お孃さんがお待ちして居ります、と言つたのである。  エセエルはまるで宮中の舞踏會へでも行くやうな寸分の隙も無い身裝《みなり》であつた。見る人の目を眩《くら》ましてしまふ位であつた。エセエルの身體から出て來るものは光輝だ。新鮮な爽かさだ。氣高《けだか》さだ。エセエルの頤の所にいやな膨《ふく》らんだ腫物さへ無かつたら、紐育第一の美人と謳《うた》はれようものを、その腫物が玉に疵である。アランはエセエルの姿を見てひどく驚いたものである。一體エセエルがどれ位の美人なのか、アランは今迄一度も注意して見たことが無かつたからである。ところがもつと/\アランを面喰はせたものがある。それはエセエルが挨拶の時に示したお芝居の眞似のいかにも巧《うま》い事である。 「よくまあいらつしやいましたわねえ」とエセエルは仰山《ぎやうさん》な聲を立てゝから、きら/\光る、如何にも嘘僞《うそいつは》りのないやうな青い眼でアランを見た。「隨分しばらくお目にかゝりませんでしたのねえ。その間ぢう一體どこに隱れてゐらしつたんでせう。」  ロイドは咎《とが》めるやうに言ふ。 「これ/\、そんな無暗《むやみ》に何でもお訊きしちやいかんよ。」  これを聞いてエセエルは、笑ひ出した。食卓に就いたエセエルはこの上も無い上機嫌[#「機嫌」は底本では「機孃」]であつた。  食卓は桃花心木《マホガニイ》製の大きな、圓いテエブルである。直徑二メエトルもあつて、その上へ毎日エセエル手づから花を飾るのである。食事が始まつた所で見ると、山のやうに堆《うづだか》い花の間に見えるロイドの頭は實に奇妙|奇手烈《きてれつ》だ、まるで褐色の木乃伊《ミイラ》の頭だ。エセエルは何くれとなく父の世話を燒いた。ロイドは娘のお許しが出たものでなければ、食べてはならないのである。何かエセエルからそれはいけませんと差止められると、その度にロイドは子供らしく笑ひ出すのである。ロイドの好物《かうぶつ》はすべて醫者から禁じられてるたからである。  海老《えび》のマヨネエズか何かをエセエルが進めると、ロイドの顏は嬉しさに顰《しかめ》つ面《つら》となつてしまつて、 「今日はやかましい事言ひつこなしにしませうね、アランさんがお客樣なんですもの。」  するとロイドは牝鷄《めんどり》のやうな聲で言ふのである。 「どうぞ精々度々いらして下さい、アラン君。あなたがお出でになると、わしの待遇《たいぐう》がよくなるでな。」  何か機會があると直ぐロイドは、アランの來てくれた事を悦ぶ心持を、何遍でもアランに傳へた。  食事が濟むと三人は天井の高い客間へ行つて珈琲《コーヒー》を飮んだが、その客間は熱帶植物の温室と言ひたい位に棕櫚《しゆろ》の木や其他の木や草が置いてあつた。素晴らしく大きい本物だといふ文藝復興期時代の煖爐《だんろ》があり、實に立派な金のかゝつた物だが、その中にはこれは贋物《にせもの》の大きな|山毛※[#「てへん+擧」、第 4水準 2-13-59]《ぶな》の丸太が、いかにも勢よく燃えてゐるやうに作つてあつた。何處かで噴水の音がするが、噴水はどこにも見當らない。部屋の中は暗いので、人の姿は輪廓だけしか見えない。眼を病んでゐるロイドの爲めにかうしてあつた。 「エセエルや、何か一つ歌つておくれ。」  ロイドはかう言つて、大きな黒い葉卷を喫《す》ひ出した。この葉卷は特にロイドの爲めにハ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ナで作らせたもので、こればつかりが、この老人の唯一の贅澤《ぜいたく》であつた。  エセエルは首を振つた。「駄目よ、お父さん、アランさんは音樂がお好きぢやないんですもの。」  ロイドの褐色《かつしやく》の木乃伊《ミイラ》頭はアランの方へ向いた。 「音樂は好きぢやないと仰しやるのかな。」 「聞いたつてまるで分らないんです。」とアランは答へた。  ロイドは頷いて、「あんたも[#「あんたも」は底本では「あんなも」]やつぱりさうなのかねえ、だがどうしてだらう。」と、どの老人も極《きま》つてする勿體《もつたい》ぶつて考へる樣子をしながら、「あなたは、物を考へることを生命《いのち》としてゐるんで、音樂なんぞ、いらんのぢや。わしも一頃は丁度その通りぢやつたよ。だが年を取つて來ると、どうも時々夢を見てゐたくなつてね、それでわしも急にその音樂といふ奴が好きになりましたよ。音樂なんてものは、唯まあ子供や女連や頭の弱つちまつた人間なんかの爲めのものさ……」 「まあ隨分ね。」とエセエルは搖れ椅子に掛けて居ながら言ふ。 「わしは老人の特權を樂しんでゐるのですよ。」とロイドは又喋々とやり出して、「又わしはエセエルから音樂の事を教へて貰つたんですよ……あの子が教へたんですよ、あのあそこに坐つて親爺《おやぢ》を笑つてる娘がですよ。」 「ちよつと、お父さん。」とエセエルは止《と》めようと口を出して、アランの方をぢつと見た。  それから……父親と娘の間に烈しい小競合《こぜりあひ》が始まつて、遂にその戰はロイドの散々《さん/″\》な負けに終つて……さてロイドが自分から口を切つて、トンネルの事を話し始めたのである。 「どんな具合ですな、アランさん、トンネルは。」  それからいろんな事を訊《き》き出したが、そのロイドの口振りから察すると、先づエセエルが何もかも父親に吹き込んであつたらしく、又ロイドは今自分の方へ「歩み寄つて妥協を申込んで來る」事を、アランの爲めに樂《らく》にしてやらうと骨折つてゐるらしいのである。 「獨逸人の連中は飛行船の定期航路を開かうとしてゐますぞ。」とロイドは言ひ出した。「だからアラン君、是非ともあなたはどし/\始めることにせにやいかん。」  待ちに待つた瞬間は來たのである。アランはきつばりと言ひ放つた。「ロイドさん、あなたの名前を貸して下さい。さうすれば、わたしは明日にも始めます。」  それに答へてロイドはよく考へながら言ふのである。 「一つあなたの所へ申込んでみたいとわしは先から思つてましたよ。さういふ意味の事をよつぽど手紙に出さうかとも思つたが、その時あなたは御旅行中でな。ところがエセエルはかう言ふんですよ。まあお待ちなさい、アランさんの方からこつちへ來る迄、なあんてね。あの子のお許しがどうしても出ない譯でね」  かう言つてロイドは牝鷄《めんどり》のやうな聲を出した。勝ち誇つた笑だ。エセエルに一本喰はせた積りなのである。けれども忽ちロイドの顏には顏中に呆然自失《ぼうぜんじしつ》の色が流れた。エセエルが急に怒つた顏になつて、片手の手の平で椅子の肘掛けをぴしやりと叩いて、口ばたまで眞蒼になつて立ち上り、それから火花《ひばな》の出るやうな烈しい眼付をしながら、かう叫んだからである。 「お父樣つたら。何故《なぜ》そんな事を仰しやるんです。」  エセエルは裾捌《すそさば》きも荒々しく出て行つたが、扉をしめる時に餘りひどくしたので、客間がふるへた。  アランは青い顏で默つたまゝ坐つてゐた。心の中ではこれはロイドが娘を裏切つたのだと思つてゐた。  そのロイドは呆然とした樣子で頭を振つて。 「わしはあの子に何をしたといふのだ。」と吃《ども》りながら、ロイドは言つて。「あんな事はほんの冗談《じようだん》だ。そんな積りで言つたんぢやないのに。一體わしは何を惡い事を言つたらう。やれ/\、ぢきに怒つちまつて困る娘だ。」とやつと氣を取直し乍ら、もう一度快活な信頼の置けるやうな風を見せようと一生懸命になつた。「もう直きに戻つて來ますよ、アランさん。」とロイドはやゝ落着いて言つた。「あの子は實に氣だての好《い》い子ですがね、たゞどうも機嫌買で氣が置けてしやうがないんですよ、丁度あれの母が、あの通りでした。しかし御覽なさい、もう少しすれば、きつとあの子は歸つて來て、わしの傍へ膝を突いて、わしを撫でたり、さすつたりしながらきつとかう言ひますよ。御免なさいね、今日は少し氣分が惡かつたもんですから、なんて言ひますよ。」  エセエルの掛けてゐた椅子はまだ搖《ゆ》れてゐた。あたりは全く靜かだ。何處か見えない噴水はさら/\と音を立てたり、忍《しの》び音《ね》になつたりする。往來からは霧の中の汽船の汽笛のやうな自動車の警笛が聞えて來る。  ロイドはアランが默りこんで坐つてゐるのをぢつと眺めてゐたが、その中に扉の方へ眼を遣つて聞き耳を立てゝ、暫くしてから呼鈴を鳴らして召使を呼んだ。 「お孃さんはどこだね。」 「お孃樣はお部屋へお出でになりました。」  ロイドは頭を垂れた。「ぢやあ今夜はもう出て來ませんよ。」一寸間を置いてから、低聲《こごゑ》に元氣の無い調子で、ロイドはかう言うのである。「かうなると明日もわしはあの子に逢へんのです。あの子の顏を見ないとなると、わしは生きてる空《そら》は無い。わしにはあのエセエルの外は何にも無いのですよ。」  ロイドは小つぽけな禿《は》げた頭を振つてゐたが、さつぱり氣が落着かぬ樣子で、「アランさん、明日もう一遍訪ねて來て下さると約束して下さい。さうすれば何とかエセエルの機嫌が取れるんですがねえ。どうも困つた娘だ。一體わしは何か惡い事でもしたか知らん。」  ロイドは悲しげな調子で、かう言つた。全く閉口《へいこう》してしまつたのである。それつきり默り込んだロイドは、頭を垂れたまゝ、前の方を見てゐた。その樣子を見ると、いかにも不幸のどん底へ落ちて、絶望しきつた人間のやうに見えた。  暫くするとアランは立ち上つて、もうお暇《いとま》したいがといふ事をロイドに言つた。 「わしがあんまり莫迦《ばか》な眞似をするんで、あなたもやはり面白くなくなつたんですか。」ロイドはさう言つて頷いた。それからアランに手を差出したが、その小さい手はまるで少女の手のやうに柔《やはら》かであつた。「あなたがお出で下すつたもので、あの子は大變|悦《よろこ》んでゐました。あの通り上機嫌でな。今日一日中あの子はわしに甘えたやうな口を利《き》き通しでしたよ。」  それからロイドは暗つぽい棕櫚《しゆろ》の客間にたつた一人で、廣い部屋の中に小さい姿で、暫くぢつと坐つた儘で、前の方を眺めた切りであつた。かうなると流石《さすが》のロイドも、寄る邊もなく見棄てられた一人の老人に過ぎない。  その間にエセエルは、自分の居間で、腹が立つやら恥かしいやらで半|打《ダース》のハンケチをずた/\に引裂き乍ら父に對する非難の取止めも無い言葉を口走つてゐた。「どうしてお父さんはあんな事を言つたんだらう……何故まああんな事を……アランさんはあたしをどうお思ひになつてるか知ら……」  アランは外套にくるまつて、ロイドの家を出て行つた。往來にはロイド家の自動車が待つてゐたが、アランはそれを斷《ことわ》つて、並樹路をゆつくりと歩いて行つた。雪が降つてゐた。音も無く、柔かい綿のやうな雪が降つてゐて、一面に敷き詰めた雪の絨毯《じうたん》の上を歩いて行くアランの足は、微かな音さへも立てなかつた。  アランは唇のあたりに苦々《にが/\》しいやうな凝り固まつたやうな微笑を浮べてゐた。やつと今アランはすべてを了解したからである。一體アランは僞りの無い明けつ放しの性質で、周圍の人間の心持なんぞを忖度《そんたく》した事は滅多《めつた》にない。熱情なんぞ持ち合せてはゐないから、從つて他人の熱情も理解する事はない。自分自らが決して氣が利いてはゐないのだから、他人が氣を利かせたり、蔭へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて何か企《たくら》らんだり[#「何か企《たくら》らんだり」はママ]する、そんな事を察しよう筈が無いのである。  だからアランはトンネル都市へエセエルに訪ねて來られても、別段それを何とも思はなかつた。成程エセエルは幾年か前にはアランの家へ時々來てはアランと親しくなつてゐたのだから、たゞその親しい友達の義理一遍からでも、エセエルが訪ねて來た上でロイドの手を貸さうとしてゐる事を打明けて呉れたりするのに何の不思議も無いと思つたばかりである。が今突然アランはエセエルの心中を見拔いた。どうも何だかエセエル一人にだけお禮を言はねばならないものらしい。あのエセエルといふ娘がその父親を説き伏せてロイド家財政上の大冒險を遣らせるやうにしたものらしいのである。詰まる所どうしても、アランの工事を續け得るか得ないかは、エセエル・ロイドに懸かつてゐるらしい……だがエセエル・ロイドは條件を持ち出してゐる。アランの身體がその代償だ。エセエルはアランを欲《ほ》しがつてゐる。ところがどうだらう、そのエセエルと來たらアランの人柄《ひとがら》をまるで知らない女ではないか。  アランの足取りは益々ゆつくりになつた。アランの氣持では、まるで雪の中へ、夜の中へ、辛《つら》い思ひの中へ、失望落膽の中へ沈んで行くやうに思はれた。ロイドこそはアランの最後の希望を懸けた人だつた。しかし今のやうなこんな状態では、もうそんな事は思ひも寄らぬ話だ。アランの最後の希望は、今夜といふ今夜みじめな有樣に打ち碎かれてしまつた……。  翌朝になるとアランはロイドからの電報を受取つたが、その中で老人はアランに向つて晩餐に來て呉れるようにと切《しき》りに懇願してゐる。 「我々と共に食事するやうエセエルに頼んで見よう。きつといやとは言ふまい。今日になつてまだあの子に逢はぬ。」  ロイドの電報にはかうも言つて來た。  アランは返電を打つた。今夜は行けない、この地下道に大變な水が侵入したから、と言つて遣つた。浸水の一件は本當であるが、其處へアランが出掛けて行く事は、強いてそれには及ばないのであつた。  毎日々々アランは死んだやうな地下道へ行つた。その中の闇黒《あんこく》が戀しかつたのである。自分の力ではどうしようもなく、仕方なしに仕事をしないでゐる事は、身を切られるやうに辛《つら》かつた。悲哀は人を瘠せさせるがそれと同じく今のアランは遊んでゐる事によつて骨身を削られるのである。  八日ばかり經《た》つて、よく晴れた冬の一日、エセエル・ロイドはマック・シテイへ遣つて來た。  エセエルがアランの事務所へ入つて來て見ると、丁度ストロオムと何か相談中であつた。エセエルは雪白の毛皮《けがは》の外套にすつかりくるまつてゐて、清楚とも輝くばかりとも見受けられた。「ハロオ、アラン」とエセエルは短刀直入に始めた。まるで何事もなかつたやうな風である。「まあよかつた、丁度お目にかゝれて。お父さんのお使ひよ。あなたをお連れして來るんですつて。」ストロオムの其處にゐる事はわざと知らん振りをするエセエルである。 「ストロオム君です。」  かう言つたアランはエセエルの泰然自若《たいぜんじじやく》の有樣や禮儀作法を吹飛ばした勢に押されて、ちと面喰つた形である。 「もう前にお目にかゝりましたな。」と口の中で言つて、ストロオムはお辭儀《じぎ》をして出て行つた。  そんな事の一切にはエセエルは目も呉れなかつた。 「えゝさうよ」とエセエルは快活に言葉を續けて「お連れしようと思つて來たんですの。フイルハアモニイの連中の演奏が今夜あるので、父が申しますの、御一緒にその音樂會へ如何《いかゞ》ですつて、あたしの車が下に待つてますわ。」  アランはエセエルの眼の中を靜かにちつと見た。 「まだ仕事があるんですがねえ。」  エセエルはそのアランの眼差《まなざし》を探るやうに見返して、それからがつかりしたやうな振りをした。 「まあどうしませう。」とエセエルは大聲を出して「分つてますわ、この間の事をまだ怒つてらつしやるんでせう。全くあたしも失禮な事をしましたわ。それには違ひないけれど、お父さんも惡かつたわ、あんな事を言ふんですもの、全《まる》であたしがあなたの不爲めになる企《たく》らみでもしたやうに言ふんですもの……でも父は申しますのよ、何でもかでも今日はお連れして來なきやいけないつて。まだお仕事がお有りでしたら、無論あたし、お待ちしてますわ。お天氣は好いし、あたしその間にそこいらを散歩して來ますわ。でもどうでせう、當てにしてもよくつて。父のところへすぐに電話でも掛けますわ……」  アランは斷らうと思つた。けれどもエセエルの眼を見ると、アランはかう思つた。今これを斷らうものなら、この娘の自尊心《じそんしん》は傷けられるし、さうなると又俺の希望も永遠に葬られてしまふ。かうは思つたものゝアランは承諾する決心が矢張り出來なかつた。そこで逃げを張つてかう答へたものである。「當てにはなるかも知れません。でも今の所どうとも言へませんな。」 「それにしても六時までには、どつちかお決《き》めになれるでせう。」とエセエルは極くおとなしく柔らかに訊《き》く。 「それはさうですな。だがどうも大抵駄目らしいんですよ」 「ぢや、さやうなら。」とエセエルは快活に叫んだ。「六時頃聞きに上がりますわ。その時には好い御返事を頂きたいものね。」  六時きつかりにエセエルは再びビルディングの前に立つた。  アランは出て來て「殘念ですが」と言つた。エセエルは自動車に乘つて其處を去つた。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  アランはもう何うする事も出來なくなつてしまつた。  目下の状態はいかにも望みの薄いものではあつたが、アランはもう一度最後の試みをしてみようと決心した。政府に縋つてみたのである。これは以前にもアランがしてみて成功しなかつた事なのである。アランは三週間ワシントンに滯在した。大統領の客となつた。大統領はアランを晩の正餐に招いたりして、人々のアランに對する態度は、まるで何處かの國の廢王にでも對するやうに鄭重《ていちよう》を極めたものであつた。けれどもトンネルに力を貸す事だけは、それは差當り政府の見向きもしてくれない事であつた。  こゝに於てアランは方々の銀行や財界の大立物の人々に向つて最後の交渉をしてみた。やつぱり不成功に終つた。尤も銀行や大資本家の中には、アランにかう言つてくれたものがある。若しもロイドが先に立つてするんだつたら或は我々も力を貸すかも知れないと言ふのである。そこでアランは又もロイドのところへ戻つて來た。  訪ねて行くと、ロイドは大層|※[#「肄のへん+欠」、第3水準 1-86-31]待《くわんたい》してくれた。靜かな書齋で會つてくれたのであるが、二人は先づ金融界の事や世界貿易の事を話し合つて、それからロイドは微に入り細を穿《うが》つて、石油、鋼鐵、砂糖、棉花、運賃の話をアランにしてくれたものである。前代未聞の騰貴のあとには前代未聞の下落が來るといふ有樣で、これでは世界はその經濟的發展の上で十年間だけ退歩してゐる一方、又それをどうにかしようとしていくら藻掻《もが》いてみても、さつぱり駄目だと言ふのである。  ロイドの話の途中で口を入れてもよささうな時が來ると直ぐアランは自分の目的へ目蒐《めが》けて眞直に進んで行つた。ロイドに政府の態度を話して聞かせたが、ロイドは頭を垂れて耳を澄ましてゐた。 「それは實際さうですよ。皆がさう言ふのは、あなたに嘘《うそ》を吐いた譯ぢやありません。どうも結局まだ三年か五年は、時機を待つてお出でになる外はありませんな」  アランの顏はぴくり[#「ぴくり」に傍点]と動いた。「そんな事は出來ません。三年か五年なんぞ。わたしはあなたにお願ひ申上げてゐるんですよ、ロイドさん。」  ロイドは考へ込むやうに頭をあちこちに振つて、暫くして、「それはどうも出來かねますな。」とかう言ひ放つて、唇をきつ[#「きつ」に傍点]と結んだ。  二人とも默つてしまつた。すべては終つたのである。  けれどもアランが暇乞《いとまごひ》をしようと思つてゐる中、ロイドはアランに、もう少し居て晩餐を一緒にする事にしてくれんかと勸めた。アランは決心がつかなかつた……淋しさうなロイドを今置いてきぼりにするのも何うやら出來なかつたのである。又一方|莫迦々々《ばか/\》しい話ではあるが、アランはまだ微かな望みがあるやうに思はれてならなかつた。 「エセエルはびつくりりして[#「びっくりりして」はママ]物も言へなくなるでせうよ。あの子はあなたのお出でをちつとも知らんのですから。」 「エセエル……エセエル……」とロイドが自分の偶像の名を口に出して言つた以上は、もうこの老人は話を他へ持つて行く事なんぞ出來なくなつてしまふのである。そこでロイドに向つて、自分の胸の中を割つて見せるのである。 「どうです、アラン君。」とロイドは言ひ出した。「エセエルの奴は十四日ヨットへ乘つてゐたんですよ、しかも丁度天氣があんなに惡い時にです。仕方がないからわしは電信係の男を買收しました……買收したんですよ、どうもエセエルにかゝつちや何時《いつ》もかうする外は無いんですからな。…….所がその電信係からは、何とも言つて來ないんです。エセエルはちやんとわしを見拔いて、さうさせたんですな。もう歸つて來てゐますが、あの子は機嫌を惡くしてましてな、この間またわしと一喧嘩やらかしたもんですよ。喧嘩はしてみたけれど、わしはあのエセエルを見ないでは一日もゐられん。かうして坐つてゐて、あの子を待つてゐるんですよ。わしは老人だ、もう娘の外には何にも無いわしだ。」  エセエルは、食堂へアランが急に入つて來たのを見て、非常に驚いた。額に皺を寄せて見てゐたが、やがてエセエルは急いでアランの傍へ行つて、少し顏を赤らめながら、嬉しさうにアランに片手を差出した。 「いらつしやいまし。まあ嬉しいわ。……でもあたしお怨《うら》みしてましたのよ……幾日も幾日も、本當にさうだつたんですの。」  ロイドは嬉しがつてくす/\笑つた。かう來れば、もう占めたものだ、エセエルの機嫌は直つてしまふと思つたからである。 「あの時わたしは音樂會へ行く事が出來なかつたんです。」 「まあ、嘘を仰しやつてるんぢやなくつて。お父さん、アランさんはあんな嘘を仰しやつてるのよ。お厭だつたんだわ。ねえアランさん、さうでせう。正直に仰しやい。」 「本當は……厭だつたんです。」  吃驚したのはロイドである。きつと嵐が起ると思つたからである。きつとエセエルは皿でも一枚割つて部屋から駈け出して行つちまふと思つたからである。けれどもエセエルはたゞ笑つただけであつたから、餘りの事にロイドは呆《あき》れる外はなかつた。 「そら御覽なさい、お父さん、これでこそアランさんよ。何時《いつ》だつて本當の事しか仰しやらないのよ。」  エセエルはこの一晩中いかにも嬉しさうに又可愛らしく見えた。 「ねえアランさん、一寸申上げたい事があるのよ。」別れる時になつてエセエルはかう言ふのである。「今度はもう決してあんなひどい事をなすつてはいけませんよ……もしそんな事をしたら、あたしもう堪忍して上げないから。」 「まあ精々骨を折つてみませう。」  冗談《じようだん》らしい調子でアランはかう答へた。  エセエルはアランをぢつと見た。こんな事を言つたアランの其調子がエセエルの氣に觸《さは》つたのである。けれどエセエルはそんな氣振《けぶ》りも見せずに微笑しながら言ふ。「ぢやあ何うなさるか、その時になつてよく見ませう。」  アランはロイドの自動車に乘つてから、外套にくるまつた。前の方を見ながらアランはかう言つた。「あのロイド老人は、あの娘がなかつたら何にもしないだらう……さうすればあの娘のためなら何でもする譯だ。」  二三日|經《た》つてから、或晩アランはエセエルと一緒にマヂソン・スクエア劇場のロイド家の棧敷《さじき》へ入《はひ》つた。  二人が入《はひ》つて來たのは、その晩の音樂會が始まつてゐた時で、その二人の入《はひ》つて來た事が、忽ち大變な視聽をあつめたものだから、その時のエグモント序曲はまるで滅茶々々になつてしまつた。 「エセエル・ロイドが……マック・アランと。」  エセエルの着物は一つの財産を代表してゐる。エセエルは紙育一流の裁縫師を三人も頼んでその智惠|嚢《ぶくろ》を絞らせたものである。その着物といふのは銀絲の縫取りと貂《てん》の毛皮から出來てゐて、エセエルの首筋と背中の美しさを、そつくりその儘見せるものであつた。髮の毛には蒼鷺《あをさぎ》の羽根を一束|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準 2-13-28]《さ》してゐたが、その留金《とめがね》には小さい切子のダイヤが素晴らしく光つてゐた。  エセエルとアランと二人きりである。それもエセエルの細工であつた。音樂會へ來る積りで支度を濟ませたロイドを、顏色が惡いからとか何とか言つて、間際《まぎは》になつてから到頭家に殘つてゐるやうに説伏《ときふ》せてしまつたのである。エセエルは父に向つて、あらん限りの甘えた言葉を浴びせ掛けたものだから、親馬鹿のロイドは、すつかり有頂天《うちやうてん》になつてしまつて、三時間も安樂椅子に坐つて娘を待つてゐることにした。  エセエルはアランと二人きりでゐる所を、人に見せたくつて堪らなかつたので、わざと棧敷《さじき》を明るくして置いたものである。幕間には、どのオペラグラスもその棧敷へ向けられて、こんな聲が聞えたりした。 「マック・アラン……マック・アランだ。」  アランの名は再び晴々したものとなつたが、それは外でもない、アランが億萬長者の娘の側に坐つてゐる姿を人に見せたからばかりである。アランは恥かしいやうな氣持で、益々棧敷の奧へ引つ込んだ。  ところがエセエルはアランの方へぴつたり向いて親しげな微笑を送るのである。紛《まが》ふ方も無い好い氣持の笑である。エセエルは棧敷から屈み込んで場内を眺めて、美しい齒を見せては美しく微笑して、滿場を支配した自分の勝利の證據をすつかり掻き集めた。  かういふ場面にゐてアランが我慢出來たのは、ある限りの力を盡して緊張してゐたからだ。アランは、モオドと一緒に棧敷に向ひ合つて坐つて、ロイドからの呼び出しを待つてゐたあの晩の事を思つた。又アランはモオドの透通《すきと》つた薔薇色の耳を、昂奮に赤らんだ頬を、前方を見詰めてゐる夢見るやうな眼差《まなざし》を今はつきりと思ひ出した。又同じやうにはつきりと、エセエルが初對面で始めて手を差出して「如何《いかゞ》でらつしやいますか、アランさん」と言つたその時のエセエルの聲も思ひ出した。アランは心竊かに自分に訊いてみた。お前は果してあの時ロイドが來なかつた事を望んでゐたか。トンネル工事を始める事が出來ないのを望んでゐたか。……ところがアランの内心は、いや望んではゐないと答へたので、アランは我乍ら呆《あき》れ返つた……モオドとエディスの二人のためにそんな事は厭だ、自分の事業を放棄《ほうき》する事は厭だ……。  翌日になると、もうトンネル株は七分程上がつたものだ。ある與太《よた》新聞なぞはその朝刊に、エセエル・ロイドは來月中にマック・アランと婚約すべしなどといふ記事を掲《かゝ》げたものである。  正午になると或新聞はエセエルの反駁《はんぱく》を掲げた。  ロイド孃は曰く、 「あんな噂を擴めた人は世界中一番の嘘吐きです。あたしはマック・アランさんの親しい友達です。それは本當ですわ。あたしはこれを誇りとしてゐます。」  ところが新聞記者連はその儘默り込んではしまはない。待ち伏せをしてゐた譯だ。二三週間經つとどの新聞にも、マック・アランは再び紐育に住むことになつたといふ旨の記事が現れたが、その記事は皆明らかに何事かを仄《ほの》めかす調子に書かれてあつた。  アランが紐育へ移つた事は本當であるが、エセエル・ロイドとアランの關係がどうのかうのといふ事とは全く別問題であつた。アランはホボケン地下停車場のビルディングに住む事にした。このビルディングはまだ建築中で、ホッビイが設計したものである。このビルデイングの兩側には窓が十並ぶ幅で、二十五階の細長い塔のやうな建物が二つ立つてゐる。その眞中に立つこのビルディングは窓が、一つの正面に五十並んでゐる三十階|建《だて》のものであつた。この中央部と兩側の塔とは、巨大な圓弧《ゑんこ》を描いてゐる地面に立つてゐて、その傾斜した地面は直接に大停車場の中へ通じてゐた。中央部の幅の廣い建物《たてもの》からはこの塔へ向つて左右へ二本宛橋が架《か》けてあつた。又幾分か變化を見せるために、この建物《たてもの》は屋根の上に澤山の柱を立てゝ、空中高く屋上庭園の連續アアチを並べようといふのである。  中央建築は第六階まで出來上つてゐた……上の方は第三十階と第二十九階が出來てゐた。その上と下の間には、鐵骨《てつこつ》の格子が縱横無盡に張り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]されて、その蜘蛛綱には、毎日晝間は小さな人間が攀《よ》ぢ登つて鐵槌《てつつゐ》を振つてゐた。  アランは第一階を占領して住んだ。すぐ下は停車場の中央にある大ホオルの圓天井《まるてんじやう》である。アランは事務を執る場所を、大食堂に近い大きい部屋へ移した。その部屋からは、ハドソン川や紐育水邊の町が實によく一面に見渡せた。  エセエルは誰が何と言つても止めずに、この殺風景《さつぷうけい》な大きな部屋へ何か裝飾になるやうな事をしようとした。この部屋は一目《ひとめ》見たばかりでも、見た人間を憂鬱にしてしまふと言ふのである。エセエルはマサチュウセッツにある自分の持物の幾つもの温室から、室内に置く草木をトラックに何臺といふ程取寄せた。又エセエル自身でも絨毯《じうたん》の卷いたのを、幾枚も自動車で運んで來た。  アランの顏付の具合がエセエルには氣に入らない。顏色は鉛色で、いかにも不健康らしい。白髮が殖えて來た。どうもアランはよく眠れないやうになり、食も進まなくなつた。  エセエルはアランの所へ父のコックを遣つた。この佛蘭西人の料理の名人は、人の顏付を見たばかりで、その人の氣に入るやうな獻立をきめる事が出來る男である。又エセエルは、地下道のためでアランの血が濁つたのであるから、今アランに必要なのは新鮮な空氣ばかりだと言つた。けれどもあまりうるさく言はずにエセエルは毎日きつかり六時に象牙色《ざうけいろ》に塗つた自分の車で遣つて來て、アランを引張り出しては、丁度一時間だけドライヴさせた。アランはエセエルの言ふ通りになつてゐた。ドライヴの途中一言も言葉を交はさない事も時々あつた。  婚約が間もなくあるといふ噂は、度々新聞に出た。その結果としてシンヂケエトの株は上がり始めたのである。(その株がまるで只みたいな値段《ねだん》で買へる時分に、ロイドはひそかに千萬|弗《どる》分だけ買ひ占めて置いた。今はもう一|身代《しんだい》になつてゐる。)  鐵工業の諸株は騰貴した。あらゆる物に……最も詰まらない小さい物にも……改良が行はれた。エセエルの車が毎日六時頃ホボケン停車場の前にゐるといふ、たつた一つの事實が世界の財界に影響を及ぼした[#「及ぼした」は底本では「及ばした」]。  アランは自分を苦しめたり赤面させてゐる喜劇のやうな事が嫌になつてしまつた。そこで談判しようと決心した。  或日のドライヴの途中、アランはエセエルに結婚申込をした。  するとエセエルは面白さうに笑ひ出して、それから大きな吃驚りしたやうな目でアランを見た。 「詰らない事を仰しやるもんぢやなくつてよ。」  とエセエルは大きな聲で言つたものである。  アランは立ち上つて運轉手の肩を叩いた。死人のやうに青ざめてゐるアランだ。 「どうなさるのよ。」エセエルは、本當にしないやうに驚いて、かう訊いたが、顏を眞赤にして、 「紐育から三十哩も來てゐるのよ。」 「そんな事構ひません。」  とぶつきら棒にアランは答へて、やがて車を下りた。挨拶一つしないで、アランは行つてしまつた。  二三時間の間、アランは怒りと恥かしさで一杯になつた氣持で齒ぎしりしながら、野原や森の中を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。もうあんな陰謀を企《たく》らんだりする女とは付合はない。もうしない。もう決して、決してこれからあの女に俺の顏を見せはしないぞ。あんな奴、鬼にでも喰はれつちまへ……。  やがてアランは或停車場へ出た。そこでホボケン行の列車に乘つて、眞夜中頃に着いた。アランは直ぐ自分の自動車を呼びに遣り、それからマック・シテイへ出掛けて行つた。  終日トンネルに居るといふアランの生活が始まつた。アランは人間をも日光をも見たくなくなつた。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  エセエル・ロイドは自家《じか》のヨットで小航海をした。八日ばかり海にゐたのである。エセエルはヴアンダアステイフトをこの航海に招待したが、餘り戲《からか》つて苦しめたものだから、遂にこの男はすんでの事に身投けをしようとし、それから今後決してエセエルの邪魔をすまいと堅く決心したものである。  紐育へ歸つて來ると直ぐその日に、エセエル[#「エセエル」は底本では「エセル」]はホボケン停車場前まで車を乘り付けて、アランへ面會を求めたが、アランはトンネルにゐるといふ事を言はれて、すぐマック・シテイへ電報を打つた。許してくれるやうにとアランに頼んだのである。エセエルはあの申込みがだしぬけで吃驚したので、どうしてよいか分からぬ中に、ついあんなひどい莫迦《ばか》な事をしてしまつたと言つた。明日の晩の正餐に來てくれと願つた。御返事は頂きたくないと言ひ、又それだからエセエルの方ではきつと富てにしてゐるのだといふ事を、承知してゐて下さいとも言つた。  アランはもう一度苦しい内心の鬪ひをしなければならなかつた。エセエルの電報を、トンネルの中で受取つたが、それを塵《ちり》まみれになつた白熱燈の下で讀んだ。それから邊りを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すと、同じやうな電燈が、一ダアス[#「ダアス」は底本では「ダスア」]ばかり地下道の暗闇《くらやみ》の中から、薄暗い光を放つてゐるばかりで、外には何にも無い。アランは死んだやうになつた方々の地下道の事を思つた。それがみな目に見えるやうである。亞米利加線の地下道、佛蘭西線の地下道、大西洋中の地下道。又たゞ徒《いたづ》らに動いてゐるばかりの澤山の機械、それも目に見えた。仕事の單調さに疲れ果てゝ、淋しい停車場に働いてゐる元氣を失つた技師達の姿、それも目に見えた。何百人といふ人々は變化の無い勞働に我慢が出來なくなつて、遂にアランを棄てゝ去つてしまつたのである。かう思つて來るとアランの目は怪《あや》しく光つた。アランはエセエルの電報を幾つにも小さく折り疊んでゐたがその時急に耳の中ががん[#「がん」に傍点]/\音がし始めた。アランの耳に聞えるのは、地下道を通つて行く列車の轟音である。亞米利加から歐羅巴へ向つて意氣揚々と疾驅《しつく》するトンネル列車である。アランの想像の中で、この列車は物凄い音を立てゝ猛烈に走つた。その素晴らしく速《はや》い勢はアランをすつかり醉はせてしまつた。  訪ねて行つたアランを迎へてエセエルは冗談《じようだん》めいた非難を浴びせた。あたしといふ娘は我儘者に育てられた仕樣がない娘なのに、それを御存じないんですもの、これから氣を付けて頂戴、などと言ふのである……この日から又毎日正六時にはエセエルの車がトンネル停車場の前に止まる事になつた。けれども今度はエセエルは策戰を變へた。今迄はエセエルの方から、何とかかんとか言つてアランをひどく奉つてゐたが、これはもう止めてしまつた。その代りに今度はアランを動かして、アランの方から、エセエルの我儘の、とはいつてもほんの一寸した願ひ事に從ふやうにさせた。例へばエセエルはかう言ふ。「ブランシュのお芝居が明日よ。行つてみたいんですけど、あたし。」  アランは棧敷《さじき》を一つ心配して、ブランシュ孃の芝居を見たが、ヒステリイの女が發作《ほつさ》を起して泣いてるかと思ふと急に今度は笑ふのを見てゐることは隨分退屈であつた。  さてこれから紐育市民はアランとエセエル・ロイドが一緒にゐる所を實によく見掛けた。エセエルは殆ど毎日アランの車に乘つてブロオドウエイを通つた。しかもアランは、まだ健康が衰へなかつた時分のやうに自ら運轉してゐた。その後の座席にはエセエル・ロイドが外套にくるまつて面紗《ブエル》を靡かせながら坐り込んで、眼を半ば閉ぢて街上を見遣つたりしてゐた。  エセエルは是非一度トンネルの中へ連れて行つてくれとアランにせびつた。アランはこの願ひ事さへも叶へたのである。  飛ぶやうな勢で列車が線路をくだつて行くと、エセエルは喜んで叫び聲を擧げた。トンネルへ入《はひ》ると、エセエルは吃驚し續けであつた。  エセエルはトンネルに關する書物をすつかり讀破したが何しろ空想好きのエセエルは專門的の事となると全《まる》で苦手《にがて》であつたから、地下道といふものを、はつきり頭に考へる事は到底出來なかつた。殆ど眞暗《まつくら》なトンネルの中の四百キロメエトルの距離とはどんなものであるか、そんな事は何も知らない。凄まじい轟音が列車の周圍を包んで、中にゐる人間はお互ひに話をするのに、呶鳴り合はなければならぬ位、轟音はひどかつたが、この音に吃驚《びつくり》してゐながらエセエルは寧ろ好い氣持であつた。停車場が來る度に、エセエルは大きな聲で叫んでは嘆賞した。こんな所に恐ろしくでかい機械が幾つもあつて、夜晝休みなく動いてゐるとは、エセエルの夢にも知らなかつた事だからである。それは海底にある機械の大廣間だ。それから通風機は人間をずたずたに吹きちぎつてしまひさうな暴風のやうに、恐ろしい音を立てゝゐた。  數時間|經《た》つと標識燈《へうしきとう》のやうな赤い光が、暗闇から見えて來た。  列車は停《とま》つた。慘事の起つた裂け坑《あな》に着いたのである。裂け坑《あな》を一目見るとエセエルは口を噤《つぐ》んでしまつた。この坑が六十メエトルから八十メエトルの幅があり、多くの人間が夜も晝も鑛石を掘り出してゐるといふ事を、エセエルは人から聞いたり本で見たりして知つてゐても、そんな知識はエセエルにはぴん[#「ぴん」に傍点]と來ない。どんな事とも思へなかつたのである。  今こそエセエルは自分の目で見た。六十メエトル八十メエトルといふものは恐ろしい深さだ、建物《たてもの》で言つたら二十階位の深さだといふ事を知つたのである。裂け坑《あな》の中で、見渡せる限りの處に充ちてゐる濛々たる塵埃《ぢんあい》に包まれて、ずつと下の方に、二十階の深さの底に、アアク燈が幾つも幾つも光つてゐた。そのアアク燈の間に何かゞ蠢《うごめ》いて動いてゐる……それが人間だ。突然に小さな煙の雲が上つて、それから大砲の發射《はつしや》するやうな音が、坑の中全體に轟き、トンネルの中へ響いて行つた。 「あれはなあに。」 「爆破です。」  それから二人は鑛石運搬籠に乘り込んで、下の方へ降りて行つた。ひどい勢でアアク燈の横を何度も通つた。下にゐる人間は、エセエル達の方へ眞直ぐに急に上がつて來るやうに見えた。エセエルは下へ着くと、今自分達のゐたあの高い所を見上げて何度も嘆聲を洩らしたが、その高い所は實は海の底である。トンネルの出口は、黒い小さい戸口のやうに見えた。巨大な影が、塔のやうに高い惡鬼《あくき》の影が、四壁の上をあちこち動いてゐる……。  頭の中は混亂して、すつかり有頂天《うちやうてん》になつて、エセエルはトンネルから戻つて來た。その宵はずつとロイドを捉へてトンネルの中の模樣を話して聞かせ、パナマ運河《うんが》の多くの水門も、あのトンネルに比べれば、子供の玩具に過ぎないなどゝ言つた。  翌日になると、全紐育にエセエルがアランと共にトンネルへ行つたといふ事が知れ渡つた。各新開は幾段にも亙つて會見記事を掲げた。  又その次の日になると、各新聞はアランとエセエルの婚約を報じた。二人の寫眞が出た。  六月末には結婚式が行はれた。その當日エセエルはトンネルに働く人々の爲めに、八百萬弗の恩給基金を投げ出した。結婚式は王侯も及ばぬ位に贅澤に、アトランティック・ホテルの祝祭用の大廣間で行はれた。このホテルの屋上庭園で、九年前に、あの有名な會合が開かれたのである。このセンセエショナルな結婚は、三日間といふ間、各新聞に材料を供給した。日曜鏡《サンデイ・ミラア》紙の如きはエセエル嫁入支度を詳細に亙つて報じた。二百足の短靴。千足の絹の靴下。エセエルの肌に着けるもの一切は極く細かいものに至るまで書き立てられた。この時分にアランが新聞を讀んだなら、昔トム小父さんの馬丁をした男が、ダイヤ入りの靴下留めを持つてゐるエセエル・ロイドと一緒になるとは何といふ大した出世だらう、といふ記事を讀んだであらうが、新聞を見もしなかつたから、そんな記事は目に入《はひ》らなかつた。  その結婚式のお客が又大したもので、そんなに立派な連中ばかり澤山集つた事は、長年この方《かた》紐育に無かつた程である。人中《ひとなか》へ出る事の嫌ひなロイド老人はその席へ出なかつた。かゝり付けの醫者を連れて、その以前に「金魚」號に乘つて出帆《しゆつぽん》してしまつた。  エセエルは光り輝くばかりであつた。薔薇色《ロオジイ》ダイヤモンドを着けて現れて、若く見え、光り出すやうに見え、愉快さうに幸福さうに見えた。  アランも矢張り幸編さうに見えた。冗談を言つたり、聲を出して笑ひさへもした。アランがエセエルに自分の身を金で賣つたといふ世間の噂を、アランの樣子で本當と思ふ人が一人でもあつてはならぬからである。けれどもアランはそんな笑つたり喋《しやべ》つたりする事を熱に浮かされてゐるやうな氣持でしてゐた。こんな喜劇を演じなければならないアランの大きな苦しみは、誰も氣が附かなかつた。アランはモオドの事を思ひ出すと、苦惱と不愉快で胸が締め付けられるやうになるのである。けれども、それは誰の目にも見えなかつた。九時頃になつて、エセエルと共にロイドの邸《やしき》へ向つた。そのロイド邸で結婚最初の幾週間かを送らうといふのである。お互ひに一|言《こと》も物を言はなかつた。エセエルもアランが何か喋べるようにと願ひもしなかつた。體《からだ》も疲れ氣力も失《う》せてアランは車の中にぐつたりしてゐた。眼を半ば閉ぢて外を見ると、雜沓《ざつたふ》してゐる街上には踊つてゐるやうな燈火で一杯だが、アランはそれをぼんやり見てゐた。たつた一度エセエルはアランの手を握らうとしてみたが、その手に一寸|觸《さは》ると氷のやうに冷たく、生きてゐる手とは思はれなかつた。  第三十三街で二人の車は止められて、一分間位止まつてゐなければならなかつた。その時アランには大きな貼札《はりふだ》が目に付いた。そのビラの血のやうに赤い文字は、街を照らしてゐるやうに見えた。 「トンネル。十萬人を求む。」  アランは目を開いた。その瞳孔《どうこう》は廣くなつた。外面はさうではあつたが、アランを痲痺させてゐた、あの恐ろしい情神的の疲勞は、一秒たりともアランの心から去つた譯ではない。  エセエルは棕櫚《しゆろ》の客間を明るくさせて置いたが、その部屋にはひると、アランに向つて、もう少し一緒にゐて貰ひたいと頼んだ。  エセエルは着物を着替へなかつた。きら/\光る婚禮衣裳《いしやう》で、薔薇色《ロオジイ》のダイヤモンドを額に飾つて腰掛けてゐた。それから卷煙草を一本つけて喫《す》ひ出したが、時々長い睫毛《まつげ》を上げては、こつそりアランの方を隙見《すきみ》した。  アランはといふと、たつた一人きりの時のやうな顏で、あちらこちら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、時々立ち止まつては、ぼんやりと家具や花などを見たりする。  客間の中は非常に靜かであつた。何處か見えない處にある噴水は、さら/\いふ音を立てたり、ざあ/\いふ音を立てたりする。幅廣く立つてゐる植物が、時々無氣味《ぶまみ》な[#「無氣味《ぶまみ》な」はママ]音を立てる。 「あなた、大變疲れていらしつて。」  とエセエルは暫く默つてゐた後で訊《たづ》ねた。ごく小さい聲で、又謙遜したやうな調子であつた。  アランはぢつと立ち止つてエセエルを見た。 「あゝ疲れてゐるね。」  アランは煖爐《だんろ》に凭《よ》りかゝりながら、一向響かない聲でかう答へた。 「何しろあの通りの大勢だつたからねえ。」  アランからエセエルまでたつた十歩くらゐの間であつたが、まるで何哩も離れてゐるやうに思はれた。こんな淋しい新郎新婦は又と無い。  アランの顏は鉛色《なまりいろ》に陰氣に見えた。その眼は輝きを失つて、消えたやうな眼だ。アランには外見を佯《よそほ》けつてゐるだの力もない。けれどもエセエルから見れば、アランは到頭一人の人間になつてしまつたのだ。エセエル[#「エセエル」は底本では「エセル」]と同じやうな人間だ。考へたり惱んだりすることの出來る心臟を持つてゐる人間だ。  エセエルは立ち上つて傍へ寄つて行つて、「マック」と低聲《こゞゑ》ながら力を籠めて言つた。  アランは眼を上げた。 「一寸聞いて下さらない」とエセエルは優しい聲ではじめた。「あたしお話したい事があるのよ。聞いて下さらない。かうなの。あたしあなたが不仕合せな事を決して祈つてはゐないのよ。それ所《どころ》かあなたが幸福のようにと心の底から祈つてますわ……どうぞうまく行くようにと。それからあなたは愛情から結婚して下すつたんだなどゝきめてるやうな莫迦《ばか》な女だとあたしをお思ひになつては困るわ。あたし決してそんな莫迦ぢやない事よ。あたしにはあなたの心を頂きたいつて要求する權利はないんだし、又あたしもそんな要求はしません。あなたは今迄とおんなじやうに自由で縛られてないお身體《からだ》なのよ。それから又あなたも、實は少しは愛してゐたんだなどゝ仰しやつて、あたしにそれを信じさせようと努力なさらないでいゝ事よ、それはまつぴら。そんな事をなすつたら、あたしを侮辱なさる事になるわ。あたしがあなたから頂きたいものは何にも無いの、本當に何にも無いのよ。たゞ一つ、何週間この方あたしが頂いてゐたあの權利だけ、せめてあなたのお傍にいつもゐてよいといふ、その事……」  エセエルは言葉を切つた。けれどもアランは何とも口を開かない。  エセエルは言葉を續けた。「あたしもうあんな喜劇のやうな事はしないのよ。あんな事はもうおしまひよ。あなたといふ人を得るためにはあたしは喜劇をしなければならなかつたの。だけと今はもうあなたはあたしのものになつてるんだから、もうそんな眞似《まね》はしなくつてもいゝ譯なの。あたしは正直にお話してあたしといふものをすつかり御覽に入れるわ。さうすれば、あたしが外の人達に厄介ばかり掛けてゐる我儘な厭な女ではないといふ事がおわかりになるのよ。聞いて頂戴、あたしといふものがお分りになるやうに、何でもかでも申上げますわ……實はあたし、始めてお見掛けした時から、あなたが好きになつたの。あなたのお仕事や男らしい氣性や活動なさる精力に、あたしはすつかり驚いてしまつたの。あたしの家にお金があるつてことは、子供の時からちやんと知つてたのよ、家《うち》にはお金があるつて事を。あたしは何か素晴らしいものにならなければいけない、とさう思つたのよ。はつきりさう思つた譯ではないけど、さういふ感じがしたの。十六になると夢みたいな事を思つたのよ、どこかの王子樣と結婚するんだなんて。それから十七になると、お金を貧乏な人達にすつかり分けて上げたいなんて思つたものよ。そんな事みんなナンセンスよ。ところが十八になると、もう別にこれといふ目當《めあて》も無くなつてしまつたの。お金持の兩親のよその子供と同じやうな生活をあたしもしたんだわ。だけどそれもやがて退屈で退屈で堪らなくなつてしまつたの。あたしは不幸な人間ではなかつたけれど、決して幸福な人間でもなかつたのよ。一日々々とたゞ日を送つては、何か保養になるやうな事をしたりして、出來るだけ時間を殺してゐたのよ。その時分あたしてんで[#「てんで」に傍点]何にも考へてはゐなかつたのね、今になつて考へてみるとどうしてもさうよ。そこへホッビイさんがあなたの計畫を持つて父のところへ來たんでせう。お二人があんまり祕密らしいやうな樣子をなさるんですもの何かと思つて、あたし、全く好奇心から、お仲間《なかま》に入れてつて父にせびつたのよ。さうするとホッビイさんが、あなたの計畫を教へて下さつたけど、あたしすつかり分かつたやうな顏をしてたのよ。でもあなたの計畫を大變面白いと思つた事だけは、それは本當よ。ホッビイさんはあなたがどんな方か、どんなに素晴らしい方かつて事を話して下すつたわ。それで到頭あたしはあなたにお目にかゝりたくつて堪らなくなつてしまつたの。やがてお目にかゝつたわね。その前からあたしあなたをそれは/\尊敬してゐたものよ、どんな人もあなた位尊敬してはゐなかつたわ。お目に懸ると、すつかり氣に入つてしまつたの。さつぱりした、強い健康さうな方に見えたわ。それからあたしは、どうぞあなたが親切にして下さるといゝつて思つてたんだけど、あなたは全《まる》で知らん顏でいらしたわね。あたしは度々あの晩の事を思ひ出したものよ。勿論あたし知つてましたわ、あなたがもう結婚していらつしやる事も。ホッビイさんが何もか仰しやつて下すつたんですもの。だからあたしちつともそんな事は思やしなかつたの……あの時は……あなたのお友達以上の者にならうなんて事は。でもそれから後になると、モオドさんを羨しいと思ふやうになつたわ。御免なさいよ、あの方のお名前をこんなに近しいやうな呼び方をしてはいけないわね。何處へ立つてみても、何處へ行つてみても、あなたのお名前が耳に入《はひ》つたり、目に見えたりしたものだわ。さうするとあたしこんな事を思つたの。モオドさんの代りになれないものかしら。さうなれば素敵だわ。お金持だといふ事も滿更でもないわ、何とか役に立つわ。なあんて考へたの。その代りになる事は、とても出來ないとやつと見極《みきは》めが付いて、あたしはせめてあなたのお友達の數に入《はひ》れたら、それでもう結構と思ふやうになつたの。そのお友達になりたいと思つて、あの時分あたしは度々お宅へ伺つたでせう。他の理由は何も無かつたのよ。成程あたしは莫迦らしい考へを起して、一體とうしたらあなたを夢中にならせて、奧樣も子供さんも棄てゝおしまひになる位夢中にさせる事が出來るだらうなんて、下らない工夫をしたものだけど、でもあたし、それを本氣になつて考へた譯でもなし、そんな事が本當に出來ようとも思つてはゐなかつたの。それは兎に角、お友達としてもあたしはあなたの傍へ近く寄つて行くことが出來なかつたのねえ。あなたはちつとも付き合つて下さらなかつたわね。あたしの爲めに時間を割《さ》いて下さる事もなかつたし、考へて下さる事もなかつたわねえ。あの時分あたしはとても不仕合せだつたわ。こんな事を今更言つても、センチメンタルな女だと思はないで頂戴ね。  その中にあの大事變が起つたのね。若しあたしの力であんな恐ろしい事が起らないやうに出來るんだつたら、何を棄てたつて惜しくはないのよ。本當にさうだつたのよ。思ひ出しても身震《みぶる》ひするやうな事だつたわね。あたしはあの時分それは恐ろしい辛《つら》い思ひをしたものだわ。だけどあたしはエゴイストよ、隨分ひどいエゴイストよ。だつて、モオドさんの事を思つて泣いてゐるあたしでゐながら、あなたはもう自由の身になつたんだといふ事が、自然と頭に浮んで來たんですもの。あなたが自由な身におなりになつたと思つたその時から、あなたに近寄らうと骨を折り出したものよ。あのストライキ、事業|閉鎖《へいさ》、破産、そんなものはみんな何よりの幸ひだつたの……運命の神樣があたしの爲めに働いて下さつたのね。それからあたしは何ヶ月といふ間父に頼んだの、あなたに手を貸して上げるようにつて。だけど父は『そんな事は出來ん』とばつかり言つてましたの。今年の一月にまたせびつてみたわ。すると父は『斷然出來ん』と言ひましたわ。そこであたし『出來るやうに骨を折らなきやいけないのよ。考へて御覽なさい、お父さんには出來るやうにする力があるぢやありませんか』つて言つて遣つたのよ。大好きな父ですけど、うん[#「うん」に傍点]と苛《いぢ》めて遺つたわ。毎日のやうに。そこで到頭父は承知しましたの。お手紙を上げて、お力になりませうと申上げようなんて、父は言つたのよ。だけどあたしはよく考へてみたの。さうした所でどうなるかしら。父が手を貸すと言へば、あなたは承知するに決《きま》つてる。二度か三度くらゐ家へ來て下すつて食事でもなさる……それからまたお仕事にすつかり夢中になつてしまつて、もうあたしはお目にかゝれなくなつてしまふ、などゝ考へたの。それからあたしは、あなたに對する武器としては、たつた一つのものしか持つてない事をよく知つてたの……その一つのものは父の名前とお金。御免なさい、こんなに何もかもぶちまけて申上げるなんて。今言つたやうな武器を利用するのに、躊躇してるやうなあたしぢやないのよ。あたしは父に向つて、後生《ごしやう》一生のお願ひだから、何故といふ事を聞かずに、たゞあたしの言ふ通りの事をして下さいつて言つたの。又あたしは年取つた可哀さうな父に向つて脅迫みたいな事も言つたのよ。若しあたしの言ふ事を聞いて下さらないと、お父さんを捨てますよ、もう二度と再びお目にかゝりませんよ、なんて。こんな事を言ふのは私が惡かつたわね。だけど外にどう仕樣もなかつたんですもの。實際の所あたしが父を棄てるなんて、とてもする筈はなかつたし、何と言つていゝか分らない位に大好きな父ですもの。唯あたし嚇《おど》かしてみたのよ。それから先の事は御存じの通り。あたしの遣り方は立派ぢやなかつたわね……でも外の事をしてたんでは、あなたの所へ來る事は出來なかつたものよ。それやこれやであたし隨分苦しい思ひをしたんですけれど、その苦しみの絶頂まで行つてみたいと思つたの。車の中であなたが申込をなさつた時、直ぐにも承諾したかつたのは山々でしたけれど、あたしこんな事も思つたのよ、あなたゞつて、少し位あたしの爲めに骨を折つてみるのもいゝでせうつて……」  これだけの話をエセエルは中位の聲で話したが、時々はやつと聽き取れる位の調子であつた。又話の間エセエルは優《やさ》しくおとなしく微笑を浮べたり、悲しさうな顏に見せるため頬を長くし額《ひたひ》に皺を寄せたりした。美しい首を振つたり、熱した眼差《まなざし》でアランを見上げたりした。時々昂奮の餘りエセエルは言葉が途切《とぎ》れた。  エセエルはかう訊《き》いた。 「あなた、あたしの話を聞いてらしつて。」 「聞いてゐたとも」とアランは低聲《こゞゑ》に言つた。 「これだけの事はすつかりお話しなければならなかつたのよ、正直に包まず隱さずにねえ。もうこれでお分りでせう。あたし達二人は、これでもう何のかのと言つても、仲の好いお仲間になれたでせう。どう。」  エセエルは熱の籠つた微笑をしながら、アランの眼に見入つた。アランの眼は前と同じく疲れ切つた悲しさうな眼であつた。アランは美しいエセエルの頭を兩手で掴んで、頷《うなづ》いて見せた。 「僕もさうしたいよ、ね。」とアランは答へたが、その鉛色の唇は痙攣《けいれん》して動いた。  そこでエセエルは自分の感情通りに、アランの胸にちよいと身を凭《もた》せかけた。それから深い呼吸をしながら立ち上つて、狼狽《うろた》へたやうな微笑してみせた。 「もう一つ言ひたい事があるのよ」とエセエルは又始めて「どうせあなたに話をしかけた以上は、すつかりお話しなければならないのよ。あたしはあなたが欲《ほ》しかつたの。それが叶《かな》つて、今あなたはあたしの物になつたんでせう。でも一寸聞いて頂戴、今あたしの望んでゐる事はあなたがあたしを信頼して下すつて愛して下さる事よ。これが今のあたしの宿題《しゆくだい》なの。よくつて、段々に、段々にさうなつていつて、到頭さうなつてしまふ、これがあたしの今信じてゐる事なの。せめてこれを信じる事でもなかつた日には、あたしはとても不仕合せな女かも知れないわ……ぢやあお休みなさい。」  エセエルは疲れ果て、眩暈《めまひ》で起してゐるやうな風で、靜かに出て行つた。  アランは煖爐《だんろ》に身體を凭《もた》せかけて、立つたまゝで身動きもしなかつた。疲れた眼差《まなざし》で、客間の中を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、この客間などには似つかぬ客であるアランは、こんな事を思つた、あの女と暮す事は結局どうも俺が考へてた程に、遣り切れない事では無さゝうだ、と。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し] 「トンネル」 「十萬人を求む」  どし/\遣つて來た、農場の作男《さくをとこ》や坑夫や日雇稼《ひやとひかせ》ぎや浮浪人が。トンネルはかういふ連中を、巨大な磁石《じしやく》のやうに吸い寄せたのである。この連中はオハイオ、イリノイス、アイオワ、ヰスコンシン、カンサス、ネプラスカ、コロラドなどの各州から來た。加奈陀や墨西哥《メキシコ》からも來た。特別列車が何度でも合衆國中を驀進《ばくしん》して通つた。北カロライナ、テネシイ、アラバマ、チヨオヂアの各州からは眞黒な連中が洪水の如くに押し寄せた。かくして嘗てあのトンネル大慘事に怯《おび》えて去つてしまつた大群集の中の何千人は歸つて來たのである。  獨逸、英國、白耳義、佛蘭西、露西亞、伊太利、西班牙、葡萄牙からも、建設のある場所|目蒐《めが》けて大勢遣つて來た。  死んだやうになつたトンネル都市は、いづれも目を醒ました。緑色に塗つてはあるが塵《ちり》にまみれた硝子《がらす》大工場には再び火が燃えて、青白い月が幾つもあるやうに見えた。起重機がまた動き出した。白い蒸氣の煙が上がり、黒煙が渦卷き、全く前の通りになつた。新建築の鐵骨を攀ぢ上つてゐる人影が見え、上の方にも下の方にも人が蠢《うごめ》いてゐた。地面は搖れ通した。廢墟のやうな都市は、今や再び鋭い叫びを擧げたり唸る聲を上げながら、塵《ちり》と蒸氣と黒煙と光や火を空に向つて吐き出した。  紐育、サヴアンナ、ニユウオルレアンス、桑港、倫敦、リヴアプウル、グラスゴオ、ハンブルヒ、ロッテルダム、オポルト、ボルドオなどの港に碇泊《ていはく》して墓場にでも眠つてゐたやうな汽船は、今急に再び濛々たる煙を煙突から吐き出した。滑車は大きな音を立て、荒廢に任されてゐた精煉所は轟音を立てるやうになり、塵だらけになつてゐた機關車は、車庫から出て息を吐《つ》いた。鑛山の運搬籠は驚くべき速力で鑛坑の中へ音を立てゝ下りて行つた。あの危機以來唯だら/\と動いてゐた大きな機械は、急に活溌に動き始めた。失業勞働者の宿泊所や養育院の廣間は空《から》になつてしまつた。破落戸《ごろつき》どもは街道から見えなくなつた。銀行や取引所は素晴らしく活氣を呈して、まるで空中に爆彈でも破裂したやうな景氣たつた。工業株は暴騰《ぼうとう》した。人々の企業《きげふ》心や元氣が、また歸つて來たのである。トンネル株は再び人々の垂涎《すゐえん》措く能はざるものになつた。 「ロイドがトンネルに手を出してゐる。」  ロイドたつた一人で、たつた一人の人間なのに、それがトンネルに手を出してゐるとなると、こんなにまで聲價を高めるのである。  トンネルは深い息を吐く。まるで巨大な喞筒《ぽんぷ》のやうに、人間の身體を吸ひ込んでは吐き出して、六日目には前と同じやうな速力で工事が行はれた。地下道では掘鑿機《くつさくき》が恐ろしい音を立てた。このアラニット製の赤熱《しやくねつ》した怒れる犀《さい》ともいふべき機械は、以前と同樣叫び唸つて、岩石の中へ突込んで行つた。地下道は荒れ狂つた。笑つた、無我夢中になつた。汗水《あせみづ》垂《た》らしてゐる人間の塊りは、照明燈の目を射るばかりの光に照らされながら、前へ後へと轉《ころ》がつて行つた。全《まる》で何事も起らなかつたやうな有樣である。ストライキも、大慘事も……みんな忘れられてしまつた。アランは人々を督勵して、以前の物凄い工程に達せしめたが、そのアランも矢張り自分が今と違つた元氣の無い人間であつたといふ事を、もう思ひ出しもしない。  亞米利加線のトンネルが、最も征服し易かつた。慘事の起つた裂け坑は、平地へ並べたとすると、八十平方キロメエトルになる程の岩山を入れる事になつた。夜となく晝となく大小樣々の岩山が、雪崩《なだれ》をなしてその深い坑へ落ちて行つた。その裂け坑を横斷して三百メエトルの幅の築堤が作られた。その堤《つゝゐ》には線路が何本も敷かれて、地下道からは間斷なく岩山列車が遣つて來て、その積んで來た物を下へ投げ落して行つた。一年ばかり經《た》つ内には、北側の部分がすつかり埋められて、平らにされて、その上にはダイナモや冷却機やオゾン器械などを備《そな》へ付けた大工場が建てられた。工事を再び始めてから五年になると、亞米利加の地下道とベルムダ群島の地下道とは大分に近づいたので、アランはベルムダで監督してゐるストロオムと、地中の土を通じて無線電話が出來るやうになつた。  アランは方向を知る爲めに、先づ試驗的地下道を掘らせた。全世界は二つの地下道がぶつかるべき瞬間を待ち焦がれて緊張し切つてゐた。しかし理論一點張りの科學界に於てさへも、兩地下道の相合する事を疑つてゐる人々があつた。その人々の言ふ所に依ると、絶大なる量の岩山と、地熱と、鐵及び電氣的エネルギイの驚くべき多量があるから、その影響は最も正確なる測量器械にも及んで、具合が惡からうといふのである。けれども試驗的地下道が兩方から五十キロメエトルの所まで進むと、既に地震計は向う側の地下道の爆破《ばくは》を、ちやんと感ずるやうになつた。工事開始第十五年にして、試驗的地下道は相合した。計測してみると縱で三十メエトル、横で十メエトルの偏差があつたが、こんな差はぢきに何の苦も無く調整されてしまつた。その後二年で亞米利加ベルムダ間の二重地下道が貫通して、鐵筋コンクリイトの内皮が完成した。  かうなると素晴しく都合が好くなつた。即ちベルムダ群島へ向つて列車が鐵、セメント、レエル、人間を輸送することが出來たからである。  トンネル株は二割上がつた。全民衆の金が戻つて來たのである。  佛蘭西線の地下道は、先づ單道で進ませる事にしたが、その建設は中々困難であつた。この側に於ては工事開始第十四年に、非常に多量の泥土の侵入が起つたのである。地下道は大洋中の「皺」の一つにぶつかつたのである。既に掘鑿《くつさく》された地下道の中三キロメエトルといふものは抛棄《はうき》されて、それと一緒に高價な機械や計測器械も棄てられてしまつた。どし/\入つて來る多量の泥や水に對しては、鐵筋コンクリイトの二十メエトルの厚さの壁が作られた。この泥土侵入によつて、二百七十二人の人命が失はれた。ところで地下道は大きな弧《こ》を描いて最も危險な場所を迂※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]する事になつた。さうすると又多量の泥土にぶつかつたが、決死的努力によつてこれも征服してしまつた。この佛蘭西線の中、かういふ部分の五キロメエトルには、六千萬弗といふ多額の金がかゝつた。第二十一年にはこの地下道も完成した。  佛蘭西線及び亞米利加線の完成によつて、建設費は大いに減少した。毎月毎月勞働者の大群が解雇される事になつたからである。それにも拘らずトンネルは、尚まだ何十億の金を食つた。エセエルはあれ程の大財産を最後の一仙迄、トンネルの中へ注《つ》ぎ込んでしまつた。若しトンネルが完成しないと、エセエルは全くの貧乏人となつて了ふのである。ロイド自身もこの工事にすつかり打込んでゐたから、あらゆる經濟上の智謀を傾けて、ぶつ倒れないやうにしなければならなかつた。  大西洋線となると、何しろ恐ろしく長い距離で最も難工事であつた。夜も晝も何年もぶつ通しで、汗だらけの大勢の人が岩山に向つて突進した。深く進めば進む程、益々輸送と給養とは困難になつた。殊にこの線は大部分が當分のうち單道に作られたからである。この線ではトンネルに動く人々の敵は、水に非ずして熱であつた。地下道は海面下六千メエトルまで降つてゐたのである。其地熱がひどい爲に、色々の場所へ材木を使はないで、すべて鐵を使つた。暑《あつ》つ苦しい深い所にある長い地下道の中の空氣は、實に惡い。二重地下道によれば稍良好な換氣がやつと得られるのであるが、さうでないから益々ひどかつた。十キロメエトル毎に岩山の中へ停車場を立てたが、その停車場では、夜となく晝となく、冷却裝置や、オゾン器械や、空氣|喞筒《ぽんぷ》が動き續けてゐた。  今迄に人類が成し遂げた仕事の中で、最も困難な、最も偉大な仕事は、これであつた。  掘鑿機《くつさくき》は兩方の側から、益々深い所へ深い所へと喰込んで行つた。「肥つちよミュッツレル」はアゾレ群島から、ストロオムはベルムダ群島からである。ストロオムは超人間的の働きをしてゐた。部下の者からは好かれなかつたが、すつかり敬服されてゐた。ストロオムといふ男は、幾日も續けて飮み食ひもせず眠りもせずにゐられた。殆ど毎日地下道へもぐり込んで、何時間も掘進の仕事を自ら監督してゐるのである。時としては燃えるやうな地下道から幾日も出て來ない事があつた。部下の者たちはストロオムに「露西亞人の鬼」といふ綽名《あだな》をつけた。  毎日地下道は岩山四千車をアゾラ島へ、三千車をベルムダ島へ吐き出した。廣大な地面が拵へられる事になつた。懸崖、砂洲、淺瀬、島などは一緒にされて大陸となつた。全く新しい土地だ。アランが創造した土地だ。アランの部下の築港技師は、最新式の築港工事、突堤、防波堤、船渠、燈臺を作つた。最も大きい汽船でも入港する事が出來る位であつた。アランの部下の都市設計家は、石のかけらから新しい都市を幾つも作り出すといふ魔法のやうな業《わざ》を遺《や》つてのけた。ホテルがある、銀行がある、倉庫がある、教會がある、學校がある……それがみんな新しく出來た。このアランの五つの新都市は、一つの特徴を持つてゐた。それはどの都市も、植物が無い。都市は片麻岩や花崗岩のかけらの上に立つてゐて、日に照らされると眩しい鏡のやうに見え、風が吹くと雲のやうに塵《ちり》が上がつた。けれども十年も經《た》てば、他の普通の都市のやうに緑の草木のあるものとなるであらう。倫敦巴里伯林にあるやうな廣場や公園が、ちやんと設計されてあつたからである。アランの部下の建築技師は、船に積んで土を輸入した。智利からは硝石《せうせき》が來た。海からは海藻が來た。その技師連は草や木を輸入した。さうして遂には此處彼處に公園のお化《ばけ》のやうなものが見られるやうになつた。塵だらけの棕櫚《しゆろ》やその他の木が植ゑられて、みすぼらしいちよつぴりした草原などのある公園である。  その代りアランの都市は、何か異つたものを持つてゐた。世界中で最も眞直ぐな街路を持ち、各大陸中最も美しい海岸公園を持つてゐた。五つの都市は兄弟のやうによく似てゐた。これらの都市はすべて亞米利加を|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準 2-13-28]木《さしき》にしたやうなものだ。意思力といふ武裝をし、活動力に充溢して進んで來たヤンキイ魂の前進陣地だ。  マック・シティは、その建設が終る頃には、もう百萬人以上の人口となつた。  工事中度々繰返して大小の凶變が起つたが、その慘事のひどさや囘數は、他の大工事に比べると大抵同じ位である。アランは注意深く神經質になつた。アランの神經は昔の通りでは無くなつてゐた。最初アランが心に懸けて心配してめた人は、百人とはなかつたが、今はトンネルに必要なすべての人の生命の一つ一つが、アランの精神の上に重荷となつてゐるのである。地下道には到る處に安全器や記録器械が備へ付けられた。「注意すべし」といふ器械の指示が一寸でもあると、アランはすぐ工程をゆるめた。アランは白髮になつて、今は「マック爺さん」と呼ばれてゐた。アランの健康は衰へた。殆ど眠らないで、何か慘事が起りはしないかと、しよつちう心配してゐる爲である。アランは淋しい人間となつた。そのたつた一つの保養といへば、晩の一時間を唯一人で庭園を散歩する事であつた。世界中に何事が起らうとも、アランは構はない。トンネルの創設者は、トンネルの奴隷《どれい》となつてしまつた。アランの腦髓は聯想する範圍がきまつてしまつて、機械、列車の型、停車場、器械裝置數字、立方メエトル、馬力などといふ事の外は考へられなくなつた。人間的の感情といふものは、殆どアランには鈍《にぶ》くなつてしまつた。たつた一人友達があつた。それはロイドである。二人は屡々宵の時間を一緒に過ごしたが、その時二人は安樂椅子に坐つて、煙草をふかし乍ら、默り込んでゐるのである。  工事開始第十八年には大ストライキが起つて、二箇月間續いたが、これはアランの方が敗《ま》けてしまつた。その次に起りかけて、誰も怖れ慄《ふる》へた第二の恐慌が、萠芽の中に押し潰《つぶ》されたのは、全くストロオムの冷血《れいけつ》動物的の態度によるのである。その次第は次の通りだ。或日の事、地下道中の熱は五度だけ上昇した。この現象の原因は、さつぱり分からなかつたが、注意を要するものとだけは分かつてゐた。勞働者は入坑する事を拒絶した。岩石の山が今にも口を開いて、燃えてゐる熔岩《ようがん》を自分達に向つて吐きかけはしないかと恐れたからである。中には又、地下道は燃え續けてゐる地球の内部へ近づいてゐるのだといふ莫迦《ばか》な説を擴めてゐる連中もあつた。多くの科學者は、トンネルの軸は、今や一つの海底火山の噴火口に切線をなしてゐるといふ考へに賛成した。工事は中止されて、その邊一帶の海底を正確に調査する事になつた。海底の地温は測定されたが、火山や熱の根源地は、どこにも發見されなかつた。  ストロオムは決死隊を募つて、四週間夜も晝も地下道にゐた。「露西亞人の鬼」は正氣を失つて倒れるまでは頑張つてゐた。一度倒れたが、八日も經つとストロオムは「地獄」の中へ又|入《はひ》つて行つた。  この線で働く人々は全くの裸であつた。汚《きたな》い油だらけの山椒魚《さんしよううを》のやうに、深い所にある地下道中をあちこちと匐《は》ひ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。半ば意識を失つてゐるのだが、昂奮劑を用ひてやつと倒れないでゐるのである。  開始後第二十四年の兩方の地下道の端は、計算に依ると六十キロメエトルの距離になつたが、ストロオムはアゾレ群島から來た「肥《ふと》つちよミユッツレル」と無線電話で岩山を通して話をする事が出來るやうになつた。六箇月の慘澹たる苦心の後には、兩方の地下道は互に進んで、もう直ぐ其處でぶつかるだらうといふ迄になつた。けれとも、ミユッツレルは、毎日三十囘も爆破してゐるに拘らず、ストロオムの方の地震計は、その爆發をたつた一つも記録しなかつた。そこで各新聞紙上には、地下道は路を過《あやま》てりといふ世上を震駭《しんがい》する電報が載せられた。方向を定める試驗的地下道の中の技師達は、彼處と此處と兩側から斷えず通信し合つた。アゾラからベルムダ迄の距離は、海上及び海底で、端數の一メエトルまでも正しく決定された。たゞ幾測定キロメエトルかの距離が問題となつてゐるらしいのである。精巧な器械で高熱に耐へるものが特別に作られたが、その器械も何等の反應《はんのう》を示さなかつた。  伯林倫敦巴里から學者連が遣つて來た。その中の幾人は煮えたぎるやうな地下道の中へ勇敢に入つて行つたが、別に何の收穫も得られなかつた。  アランは地下道を斜《なゝ》め上の方と斜め下の方へ進ませた。側道の地下道を幾つも幾つも掘らせて、全《まる》で網を作つてしまつた。この仕事は鑛山と變りは無い。暗い所知られざる所へ突込んで行く仕事は、實に堪らない。へとへとに疲勞させられる。熱さに遣られて、疫病《えきびやう》に罹《かゝ》つたやうに、ばたばた倒れる人間がある。氣違ひになり始める者も殆ど毎日あつた。喞筒《ぽんぷ》は間斷なく冷たい空氣を地下道中へ送り込んだが、それでも四壁は煉瓦を燒く竈《かまど》のやうに熱かつた。素裸《すはだか》で塵《ちり》まみれ泥まみれの技師達は、埃《ほこり》や熱のために目も見えなくなつたやうな姿で地下道中に蹲《うづくま》つて、記録する器械をぢつと觀測し續けてゐた。  かうなるともう死物《しにもの》狂《ぐる》ひの仕事である。身の毛もよだつやうな怖ろしい仕事である。アランは一寸の間も眠ることが出來なくなつた。  四箇月間探し續けた。側道の地下道を掘鑿《くつさく》するには、多くの時間を要した。  世界中は緊張の極に達してゐた。そこでトンネル株は下がり始めた。  ところがその内に、或晩の夜中にアランはストロオムに呼び付けられたので、地下道中を匐《は》ふやうに遣つて行くと、向うから來るストロオムに出會《でつくわ》した。汗をぽた/\垂らして泥だらけで、全《まる》で人間とは思はれない姿である。この冷靜な男は昂奮して微笑さへもしてゐる。この男のこんな事はアランには始めてゞあつた。 「ミユッツレルの居所が分つたよ。」  とストロオムは言つた。  深く入り込んだ、斜《なゝ》めの地下道の端は、管の先から室氣が吹込んで來て、冷たくしてあつた。記録裝置が坑夫用ランプの下にあつて、眞黒《まつくろ》な顏が、その裝置の傍に、二つあつた。  記録裝置は二時一分の所に、何ミリといふ微細な動きを描いてゐた。ミユッツレルは[#「ゐた。ミユッツレルは」は底本では「ゐた ミユッツレルは」]きつちり一時間後に再び爆破をする事にしてゐた。そこで四人の者は、裝置の前に一時間坐り込んで、緊張して息もつけなかつた。丁度三時二分に記録裝置の針はまた少し動いた。  新聞は號外を出した。あのミユッッレルが、若し大惡漢だつたとして、多數の探偵が寄つてたかつて遂にその居所を突き止めたとしても、これ程のセンセエションは起らなかつたらう。  もうこれからは仕事は樂《らく》であつた。十四日經つと、ミユッツレルがみんなの所へ遣つてこられる事が確實になつた。マックはミユッツレルに「遣つて來いよ」と電話をかけた。そこでミュッツレルは地下道を上の方へ掘つて行つた。更に十四日經つと、記録裝置は掘鑿機《くつさくき》の動くのまで記録する位に近くなつた。三箇月經つと、人の耳に爆破の音が聞えた。遠い雷を聞くやうに鈍《にぶ》い微かな音だ。更に三十日|經《た》つと、掘鑿機の音が人の耳に聞えるやうになつた。その次には偉大なる記念すべき[#「記念すべき」は底本では「記念すべ※[#判読不可、330-上-2]」]日が來て、一つの穿《うが》つた孔《あな》が地下道を繋《つな》ぐに至つた。  勞働者と技師は歡呼の聲を擧げた。 「マックは何處だ。」と「肥《ふと》つちよミユッツレル」は訊いた。 「此處だよ。」 「どうだい、元氣は。」とミユッツレルは肥《ふと》つちよの豪傑笑ひで言つた。 「うん、みんな元氣だ。」とアランは答へた。  この會話は、すぐその晩に紐育市俄古伯林巴里倫敦の市中へ、雨のやうに飛ぶ號外に載つてゐた。  この人達は二十四年間働らいた……この瞬間はこの人達の生涯中最も光榮ある瞬間だ……ところが一言もその事は言はない。一時間後にミユッツレルは冷《つめ》たくしたミュンヘン麥酒を一本アランに贈つた。翌日になると一つの孔を通じて、お互ひに匐《は》ひ寄れるやうになつた。……誰も彼もすつかり疲れ果てゝ、汗を垂らして、裸かで、汚《きた》ならしくつて、海面下六千メエトルの所で。  地下道を通つて行くアランの歸りは、まるで凱旋の行進であつた。勞働者の群は各所の暗闇で掘つてゐたが、アランが來ると、大聲を擧げて歡迎した。 「帽子をとれ、マックだ。マックは俺達の英雄だ……」  アランが通り過ぎると、その後では、忽ち掘鑿機《くつさくき》が再び鳴り轟いて、岩山へ突き進んでいつた。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  エセエルはモオドとは全く違つた女である。エセエルは工事の周圍に寄つて來るどころではなく、その騷がしい中心點に入《はひ》り込んだ。「一緒に話が出來る」ようにと思つて、エセエルは技師の講義録をずつと續けて勉強した。  アランと約束をしたその日から、エセエルは自分の權利を立派に守り續けた。  エセエルはもうこれで十分といふやうな顏をして、晝飯《ひるめし》の時にアランを自分の傍から放免して遣つたが、五時になると、正五時には、エセエルはもうアランの傍にゐた……アランが紐育にゐようが、トンネル都市にゐようが、同じ事である……さうしてエセエルは靜かに一口も口を利かずに、お茶の支度をした。アランの相談してゐる相手が技師だらうが、建築家だらうが、ちつともお構ひなしに、エセエルはさうしたのである。  エセエルは音一つ立てずに、自分の物になつてゐる片隅か隣りの部屋で、さういふ家政の仕事をしてゐて、お茶のテエブルが出來上ると、かう言ふ。 「あなた、お茶が出來ましたよ。」  アランが其處へ遣つて來るのは、獨りであらうが、連れがあらうが、それはどつちでも好《よ》かつた。  九時になると、エセエルは車を門の前に止めて、アランが出て來る迄辛抱して待つてゐる。日曜日はアランはエセエルの家で暮《くら》す事になつてゐた。その日にはアランの望み次第で友達を招いても、技師連中の一隊を呼んで來ても好い。エセエルの家は客扱ひの實に好い家であつた。いつ來てもよく、いつ歸つてもよいのであつた。エセエルは十五臺のお客用の自動車を、一つの大車庫に入れて持つてゐて、この自動車はどのお客をも、夜でも晝でもどんな時間にも、その人の望む通りの所へ連れて行つた。たまの日曜日には、ホッビイも農場から遣つて來た。ホッビイの農場は、一年二萬羽の鷄と數知れぬ玉子とを出した。ホッビイにはもう世間の事は何の事もなくなつてゐる。信心家になつて、禮拜堂へ出入してゐる。ホッビイは時々眞面目な顏で、アランの目に見入つてはかう言ふのである。 「マック、君の精神の幸福を考へ給へ……」  アランが旅行すると、エセエルも一緒に行つた。エセエルはアランと共に、度々歐羅巴、アゾレ群島、ベルムダ群島へ出掛けた。  ロイド老人は、マック・シティから北へ四十キロメエトルのロオレイといふ處に、一劃の土地を買つて、其處へエセエルの爲めに巨大な別莊で、一種の大邸宅ともいふべきものを建てた。その土地は海迄達してゐて老樹|鬱蒼《うつさう》とした庭園の眞中にあつた。その老樹は、ロイドが日本人の庭師に頼んで移植の準備をし、それからロオレイへ持つて來さしたものである。  ロイドは毎日エセエルを訪ねて來たが、この何にも優《ま》して可愛い娘の處で、丸一週間も動かない事も度々あつた。  結婚して三年目にエセエルは男の子を生んだ。まるで救世主のやうにエセエルはその子供を大事にした。それはアランの子である。大して言葉には出さないが、エセエルの心から愛してゐるアランの子である。しかもこの子は二十年|經《た》つと父の事業を繼《つ》いで、それを完成すべき子である。エセエルは自分でこの子を育てた。最初の言葉を教へて言はせ、最初の歩みを教へて歩かせた。  生れて一年の間この小マックは、體も瘠《や》せて、物に感じ易かつた。そこでエセエルの言ふには、この子は犬で言つたら「純良種で貴族的」なのだといふ。ところが三つになると肥《ふと》り出して、頭は大きくなり、雀斑《そばかす》が出來た。プロンドの髮の毛は、赤《あか》つ茶《ちや》けてしまつた。まるで馬方《うまかた》の子のやうになつてしまつた。エセエルはひどく悦《よろこ》んだものである。瘠せた物に感じ易い子供なんどは大嫌ひだといつた。子供といふものは肥つて、力強くつて、肺が丈夫になるやうにうん[#「うん」に傍点]と泣かなければいけない……丁度小マックはさうしてゐるのだが、と言ふのである。今迄心配といふ事を知らなかつたエセエルは今心配といふものを知るやうになつた。子供の事でしよつちう震へてゐた。エセエルの空想は今迄にあつた人さらひの物語で一杯になつてゐた。その人さらひの物語によると百萬長者の子供を盜んで行つて、片輪《かたは》にしたり盲目《めくら》にしたりする奴があるといふ。エセエルは自分の家の第一階へ銀行によくあるやうな鋼鐵の部屋を作らせた。この鋼鐵の部屋の中に小マックと乳母《うば》とが寢た。乳母と一緒でなければ、この子は庭園から離れてはならなかつた。人間に向ふやうに馴らされた二匹の警察犬が、いつもこの子に附いてゐて、更に一人の探偵が三哩以内のその邊りを常に嗅《か》ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた。エセエルがこの子と一緒に出る時には齒まで武裝してゐると言ひたい位の仕度をした二人の探偵が、その車に同乘した。運轉手は極くゆつくりと走らせる事になつてゐたが、或時「一時間に百理」といふ速力を出したばかりに、紐育の町中《まちなか》でエセエルは運轉手の横面《よこつら》を張つたものである。  毎日一人の醫者が、この子供を診察した。しかもその子供は立派に發育してゐるのにそれなのである。若し一つ咳《せき》でもすると、エセエルは直ぐ專門家に電報を打つた。  何方《どちら》を向いて見ても、子供に危い事だらけのやうに見えた。小マックを盜まうとして惡人どもが、海から上つて遣つて來るかも知れないし、空中から下りて遣つて來るかも知れないからである。  庭園には大きな草原があつたが、エセエルの言葉を借りて言へば、これは「飛行機の着陸に、お出で/\をしてゐるやうな」ものであつた。そこでエセエルは、その草原へ樹木をどつさり植ゑさせたから着陸でもしようとした日にはどんな飛行機でも滅茶滅茶《めちや/\》に壞れてしまふ事になつた。  エセエルは病院の擴張のために多額の金を寄附して、それに「モオド・アラン病院」と名を付けた。又五つのトンネル都市に、一つ宛世界中で最も善い託兒所を建てた。しまひにはエセエルも殆ど破産しさうになつてロイド老人にかう言はれた。「エセエルや、お前は儉約しなきやいけないよ。」  モオドとエディスの死んだ場所に、エセエルは垣根を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]さして其處を花壇のやうにしたが、これに就いてはアランに一言も話さなかつた。アランがまだモオドと小さいエディスの事を忘れない事をエセエルはよく知つてゐた。時とすると、眞夜中にアランが何時間もあちこちと歩いてゐる所を見掛けたり、低い聲で何か言つてるのを聞いたりした。又アランは仕事机の中に、何遍も讀んだらしい日記帳を一册、大事さうに藏《しま》つて置いてゐた。その帳面の表紙にはかう書いてあつた。 『幼くして逝《ゆ》けるわが愛する娘エディスの一生とその言葉』  死んだ人達にもそれ/″\の權利がある。エセエルは其人達のその權利を狹《せば》め減《へら》さうとは少しも思つてゐなかつた。 [#5字下げ]結末[#「結末」は中見出し]  掘鑿機《くつさくき》は大西洋地下道中の岩山を粉碎して了つた。毎日毎日トンネルの兩方の頭は、お互ひに近づいて來た。最後の三十キロメエトルは、とても怖るべき仕事であつた。誰一人として「噴火口」の中へ入《はひ》つて行かうとしない。仕方がないから、アランは二時間の仕事に十弗を拂ふことにした。この部分の地下道では、その内壁《ないへき》の外側へ、冷却管を蜘蛛の巣のやうに張り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]さなければならなかつた。一年間猛烈な仕事を續けると遂にこの地下道も征服されて了つた。  トンネルは完成した。人類がこれを企畫《きくわく》し、人類がこれを完成したのである。トンネルは汗と血とで作り上げられた。九千人の生命を呑み込んでしまつた。世界中へ名状《めいじやう》すべからざる不幸を齎した。だが今出來上がつた。この事實に驚いてゐる人は一人も無いやうであつたが、そんなに平氣でゐてもいゝのだらうか。  四週間後には海底眞空輸送急行郵便が開始された。  ある出版業者はロイドに向つて、トンネル物語を書くならば百萬弗差上げるがと言つた。アランは拒絶した。アランは唯ヘラルド紙に二段の記事を寄稿したばかりである。  この中に現れてゐるアランは、その人柄《ひとがら》のやうに謙遜であつた。けれどもアランが再三再四力を籠めて述べ立てた事がある。それは、若しもストロオム、ミユッツレル、リオン・ミユウレンベルク、ホッビイ、ハリマン、ベエルマンその他の多數の立派な人物の助けがなかつたなら、アランは決して工事を完成出來なかつたらうといふ事であつた。  アランは又こんな事を書いてゐる。 「又私は時代が私を追越してしまつた事を認めざるを得ない。地上及び地下にある私の機械はすべて古くなつて、時が經《た》つにつれこれを新式のものと替へなければならなかつた。嘗て私の誇りとしてゐた掘鑿機は舊式になつてしまつた。最近ロッキイ山脈貫通のトンネルが出來上つたが、その工事期間は若し私が遣つたとしたら、もつと長く費《かゝ》つたらうと思ふ。今日快速力の汽船は二日半でイングランドから紐育まで來るし、獨逸の大航空船は三十六時間で大西洋を飛び越えてしまふ。それよりも私の方が速い。汽船や航空船がもつと速くなれば、私はそれよりももつと速くなる。速力を一時間三百乃至四百キロメエトルにする事は容易である。又その外に快速力の船や航空船は、お金持でなければ拂へないやうな隨分な旅費がかゝる。私の方の旅費は民衆的である。トンネルは大衆と、商人と、移民のものだ。今私は毎日四萬人を運ぶことが出來る。十年經てば地下道はすつかり複道に出來上るから、八萬から十萬人運べる。百年後にはあのトンネル一つではとても用が足りない位の交通になるだらう。その時迄には今のと平行する地下道を作りたいといふのが、シンヂケエトの宿題《しゆくだい》となるだらうが、この平行地下道は比較的容易に且つ金があまりかゝらないで出來るだらう。」  アランはこの飾り氣なく武骨《ぶこつ》な調子に書いた記事中で次の事を發表した。今から丁度六箇月以内に、建設開始第二十六年の六月一日に、歐羅巴へ向けて最初の列車を走らせるといふのである。  この期日を違《たが》へないために、アランは技師や人夫を督勵《とくれい》して、死物狂ひの最後の頑張りを遣らせた。何箇月の間といふものは、古くなつた枕木やレエルを滿載した列車が、明るい外の方へ出て來た。トンネル列車の線路はきちんと整《とゝの》へられ、方々の地下道で試運轉が行はれた。大勢の機關手が練習をさせられたが、この連中は特にアランが選んで雇つたもので、元は誰も自動車競爭やオオトバイ競爭の選手だとか飛行機や飛行船に乘つてゐたとか、早い速力の職業に從事してゐた者ばかりである。  ビスカヤ停車場とマック・シテイ停車場には、この近年にとても大きな工場が出現した。トンネル列車|車輛《しやりやう》製作工場である。この車輛《しやりやう》が又大にセンセエションを呼び起した。高さはプルマン・カアよりも少し高いきりだが、長さはその二倍に近く、幅は二倍あつた。全《まる》で裝甲《さうかふ》巡洋艦だ。その船底は厚い車輪が四對あつて、それで疾驅《しつく》するのであるし、その又腹の中は、まるで一つの有機體の腹の中のやうに、獨樂《こま》のやうに囘轉する器械、冷却裝置、水槽、電纜、管《くた》など何でも彼《か》でもあつた。食堂車は贅《ぜい》を盡した客間であつた(その上に活動寫眞や音樂をやつたりして、トンネル旅行の退屈を慰める事になつてゐた)。  この新しい車室に乘つて、先づせめてマック・シテイまで行つてみたいといふ譯で、全紐育市民がホボケン停車場へ押し寄せたものである。實際のトンネル列車の座席の方は、もう何週間も前から、最初の三箇月間の席が一つ殘らず賣り切れてしまつたからである。  六月一日は近づいて來た……。  紐育市は國旗を掲げた。倫敦、巴里、伯林、羅馬、維納、北京、東京、シドニイも國旗を出した。世界中の文明人は盡くアランの最初の列車行を、まるで國民的祝典のやうに擧《こぞ》つて祝つたのである。  アランは夜の十二時を旅行の出發時刻とし、六月二日の夜十二時(亞米利加時刻)にビスカヤへ着かうとしてゐた。その當日より幾日も前から、既に特別列車が伯林倫敦巴里からはビスカヤへ、合衆國の大都市からはマック・シテイヘどし/\遣つて來た。汽船は何隻も何隻もアゾレ群島やべルムダ群島へ向つて出帆した。六月一日には早朝から毎時間二十囘も汽車がマック・シテイへ向つて走つた。その汽車は一杯の人だ。誰も彼もあの最初の亞米利加歐羅巴高速列車がどんな風にトンネルへ入《はひ》つて行くか、自分の目で見たいといふ連中なのである。紐育、市俄古、桑港、巴里、伯林、倫敦の大ホテルは、宴會の準備に忙殺《はうさつ》されたが、その宴會は十時に始まつて、たつぷり二十八時間續くようにといふ註文なのである。エヂソン・ビオはその製作にかゝる大トンネル映畫をかういふホテルのすべてに寫《うつ》して見せようとしてゐたが、この映畫は六時間續いた。寄席《よせ》や音樂堂には昔トンネルに働いた連中の合唱團が出演して、トンネルの唄を歌つた。街頭ではアランの肖像入りの繪葉書が何百萬枚と賣れたり、「トンネル・チヤアム」といふ名のお守りが何百萬と賣れた。このお守りといふのは、地下道の岩石の小さいかけらを、金具《かなぐ》へ嵌め込んだものである。  アランは夜の正十二時に出發する事になつた。世界最大のホボケン停車場の大構内は、昂奮した人々で一杯になつて、立錐《りつすゐ》の餘地もなく、誰も彼も首を伸ばして、出發の準備を整へて其處へ來てゐた、偉大なるトンネル列車を一目でも見ようとするのである。この列車は灰色に塗つて、一寸見ると塵《ちり》にまみれたやうだが、すつかり鋼鐵製であつた。  列車は一臺の機關軍と六車臺で出來てゐて、明るく電燈が點《つ》いてゐた。近くへ立つ事が出來た運の好い人達が覗いて見ると、立派な客間がある。客室は二つに仕切つて、それを客間のやうにしつらへた特別列車である。この旅行にはエセエルも一緒に行くのだらう、何しろあんなに澤山申込があつたのに、一切の旅客は拒絶されたからなどといふ噂であつた。十二時十五分前には、鐵の鎧戸《よろいど》が卸されてしまつた。群集の緊張は刻一刻と高まつて行つた。十二時十分前には、四人の技師が機關車に乘り込んだ。機關車は鋭い舳《とも》に二つの丸い眼を付けた水雷艇のやうな恰好であつた。もうアランも直ぐに來さうである。  十二時五分にアランが來た。その姿がプラットフオムに現れるや否や、ホボケン停車場が裂けたかと思はれる程の物凄いどよめきが、構内中に響いたのである。  青年時代に工事を始めたアランは、今かうして立つてゐるのを見れば眞白な髮で、消耗し切つて、色艶の惡い、何處か海綿みたやうな頬をして、氣の好ささうな青灰色《あをはひいろ》の童眼《どうがん》でゐた。アランと一緒にエセエルも出て來て、小マックの手を引いてゐる。エセエルの後には脊の曲つた小男が外套の襟を立てゝ、大きな旅行帽を目深《まぶか》に被つてゐる。その男は小マックと同じ位の大きさで、大抵の人はこの男を有色人種の馬丁とでも思ふだらう。それがロイドである。  この一メエトルそこ/\の木乃伊《ミイラ》は、エセエルと小マックとに握手してから、用心しながら攀ぢ登るやうな風にして車室の中へ入つた。然らばロイドが旅客なのである。最初の旅客は皇帝でも國王でもない、共和國の大統領でもない、ロイドといふ名の大權力であつた、金であつた。  エセエルは子供と共に後へ殘つた。エセエルは小マックにもこの記念すべき瞬間を經驗させようと思つて、ロオレイから連れて來たのである。アランは息子とエセエルとに別れを告げたが、エセエルは答へた。 「ぢやあ左樣なら。御無事で行つてらつしやい。」  機關車は※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉を始めて、構内を鈍《にぶ》い嘯《うそぶ》くやうな響で滿たしてしまつた。※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉機が一定の囘轉數に達すると、支へてゐた横の棒は自動的に離れてしまつた……列車は群集の熱狂した歡呼の中に、構内から滑り出た。探照燈は圓錐形《ゑんすゐけい》の青白い光りを、ホボケン、紐育、ブルックリンの空へ投げた。船渠、ハドソン河、下灣、イイスト・リバアにゐる汽船の汽笛は鳴つて咆《ほ》えた。電話機は音を立てた。電信機は踊つた……紐育、市俄古、桑港は沸騰したやうな騷ぎである。全世界の歡呼が、アランの旅行を送り出したのである。同じ時刻に、世界中すべての工業は、五分間だけ休止した。この瞬間に、世界中の海波を蹴《け》つてゐたあらゆる推進器は休止し、同時に進行中の列車と汽船の汽笛は咆え哮《たけ》つた。勞働それ自身が動物的な物凄い叫びを擧げて、その勞働の製作物に向つて歡呼したのである。  ロイド老人は、着物を脱《ぬが》して貰つて寢床に横になつた。  一行は進行の途中にあつた。……  あらゆるホテルでは、十時になると何千人といふ人々が晩餐を始めて、もう間近に迫つてゐる出發に就いて、昂奮しながら語り合つた。音樂隊が演奏した。熱狂は高まりに高まつた。誰も彼も有頂天になつて詩的な言葉を言ふ程にさへなつた。トンネルの事をかう言ふのでゐる。「あらゆる時代を通じての人類の最大業蹟」といふ。又言ふ事には、「マック・アランは鐵と電氣の敍事詩を作つた者だ」と。こんな氣取《きど》つた呼び方は實際の所これが始めてゞはなく既に工事開始第二十五年にマック・アランはその數奇《すうき》を極めた運命の故を以て「近代工業のオデイッソイス」と呼ばれたのでゐる。  十二時十分前になるとエヂソン・ビオの映寫幕がぱつ[#「ぱつ」に傍点]と光つて、その上に「靜肅」といふ文字が現れた。忽ち何もかも靜かになつた。それから直ぐ電送映畫が始まつた。地球上の各大都市では、ホボケン停車場の構内が黒山のやうな群集で一杯の光景を、同じ時刻に見ることが出來た。偉大なるトンネル列車が見えた、アランがエセエルや息子に別れを告げてゐるのが見える……見物人が手に/\帽子を振つてゐる、列車が構内から滑り出て行く……。  何と形容してよいか分らないやうな轟々たる歡呼が起つて、それが何分間でも續いた。テエブルの上へ昇る人がある、何百本といふ三鞭酒《シヤンペン》の罎が碎かれ、踏み躙《にじ》られた。音樂はトンネルの唄を奏してゐた。「萬歳三唱まだ足らぬ、一つおまけの萬歳だ。」ところが、騷ぎの方があまりひどいので、音の高低も何も分からなくなつた。  その内に幕へ文字が現れた。「主腦二十五人」工事を始めた當時のアラン、今日のアラン。感激の爆發がまた起つた。ホッビイ、ストロオム、ハリマン、ベエルマン、S・ウルフ、「肥つちよミユッツレル」、ロイド。それからいよ/\映畫が始まつた。先づ最初はアトランテッィク[#「アトランテッィク」はママ]・ホテルの屋上庭園に於ける會合、それから又「最初の一鋤き」。この映畫は時時休憩をしたが一晩中續いて、工事進行の全段階をすつかり見せた。アランの姿が現れる度毎に、更に新しく感激の叫びが起つた。この大映畫はあの大慘事やストライキも寫して見せた。また再びアランが現れて、メガフオンに口を當てゝ、勞働者の大衆に向つて演説する(その言葉の一部を蓄音機が聞かせた)。それから、トンネルに働く人々の大行列も、大火災も。何もかもすつかり見せた。  一時間|經《た》つて一時頃になると、映畫幕の上には電報が出た。「アランはトンネルに入つた。群集極度に熱狂し、混雜のため負傷多數。」  映畫は進んで行つた。たゞ半時間毎に中斷されて、その度に電報が出た。アラン百キロメエトルの處を通過す……二百キロメエトルの處を……アラン一分間停車す。猛烈な賭《か》けが行はれた。もう誰も映畫を見てゐる人は無い。誰も彼も、金の勘定をし、賭けをし、呶鳴つた。アランは時間を遲らさずにベルムダへ着くだらうか、といふのである。アランの最初の列車は、競馬か何かの競走になつてしまつた。一つの電氣列車の競走である。しかもその相手といふのは何も無い。レコオド王アランは、猛然と立つてゐるのだ。最初の一時間の間には、今迄伯林漢堡間の列車が保持してゐた電氣列車のレコオドを破つてしまつた。第二時間には飛行機の世界レコオドに肉迫し、第三時間にはそれも破つてしまつた。  五時になると、人々の緊張は第二の頂點に達した。すなはち…。  映寫幕には電送映畫によつて、眩しい日光に照つてゐるベルムダ停車場の構内が現れた。人間が蠢々《うよ/\》ゐる。皆が同じ方向を緊張して見てゐる。五時十二分に灰色のトンネル列車が現れて、見る/\中に入つて來た。アランは下車して、ストロオムと何か話す。それからアランとストロオムはまた車中へ入る。五分經つと列車は更に進行し始める。電報がかう出る。 「アランのベルムダ着は二分延着。」  宴會に出席してゐた人の一部は家へ歸つて行つたが、大部分はまだ殘つてゐた。その連中は二十四時間以上も眠らずにアランの旅行の刻一刻を知らうとするのである。又そのホテル内に部屋を借りた連中も隨分多かつたが、「何か起つた場合には」直ぐ起こすようにと命じて置いて、二三時間眠つた。街上にはもう號外が、雨のやうに降つてゐる。  進行中のアラン……  列車は地下道を飛ぶやうに走つて、その前と後では何哩の間も轟音がしてゐた。カアブへ來ると列車は巧みに作られたヨフトのやうに横に傾く。列車は帆走《はんそう》するのである。上り坂になると、飛行機のやうに靜かに一樣に上へ昇つて行く。列車は飛行するのである。眞暗なトンネル中の燈火は暗闇の中の裂け目で、信號燈は音を立てゝ走る水雷艇の舳《とも》の丸い窓へ飛び込んで來るいろんな色に光る星だ。停車場の燈火は傍を飛んで過ぎる流星群だ。トンネルの連中は(停車場の卷上げ扉のうしろに避けて固まつてゐたが)、あの十月の大慘事を經驗しても涙一つ流さなかつた不敵の連中は、今「マック爺さん」が飛ぶやうに過ぎて行くのを見ると、嬉し涙に暮れるのであつた。  ロイドは八時に起して貰つた。風呂《ふろ》に入つて、朝食をして、葉卷をふかした。ロイドは笑つた。此處が氣に入つたからである。到頭ロイドは、何人にも邪魔される事がなくなつた。到頭ロイドは人間から遠く離れて、今迄に誰も來る事の出來なかつた場所へ來てゐるのだ。時々ロイドは自分の明るいアパアトメントを散歩する。そのアパアトメントは機關車が引張つてゐる十二の部屋で、その中に滿ちてゐるのは、恐ろしく金のかゝつたオゾンの飽和《ほうわ》した空氣である。九時になると、エセエルから電話がかゝつて來て、ロイドは十分ばかり話をした(「あんまり煙草を上がつちやいけませんよ」とエセエルは言つたのである)。それからロイドは電報を讀んだ。急に列車が停まつた。「焦熱地下道」中の大きな停車場に止まつたのである。ロイドは覗き穴から見ると、大勢の群集が見え、その眞中にアランが立つてゐた。  ロイドは晩餐をして、眠つた。すると又列車が止まつて、ロイドの客間の窓が開かれた。硝子が壁になつてゐる所からすかして見ると、一方は青い海の展望で一方は一面の群集で、それが皆感激の叫びを擧げてゐる。アヅォオル島なのである。召使がロイドの所へ來ての報告には、油槽《ゆそう》が漏つた爲めに四十分ばかり延着したといふ。  それから又窓が閉ざされた。列車は深い所へ突進する。年を取つて干乾《ひから》びた小つぽけなロイドは滿足の餘り口笛を吹き始めたものである。こんな事は二十年來なかつた事だ。  アヅォオルからはストロオムが運轉した。ストロオムは何もかも精一杯の量をどし[#「どし」に傍点]/\使つたので、速力計の針は時速二百九十五|粁《キロ》にまでなつた。技師達は心配し始めたが、焦熱の地下道の熱で髮の毛は焦がされようとも神經は少しも侵される事は無く、氣力の衰へる事の無いこの男は、自分の仕事に他人の嘴を入れさせなかつた。 「あんまり遲く着くやうだと、俺達の恥だ。」  とストロオムは言つた。列車の進行は猛烈に早いので、ぢつとしてゐるやうに思はれた位である。方々の燈火は列車の方へ、火花のやうに音を立てゝ飛んで來た。  フイニステラである。  紐育はまた夜になつた。ホテルには一杯の人だ。あの恐ろしい速力を電報が報じた時には、物凄い熱狂であつた。延着を取返す事が出來るだらうか。出來ないだらうか。賭けの金額は途方もない澤山のものになつた。  最後の五十キロメエトルはアランが運轉した。  アランは二十四時間一睡もしなかつた。けれども昂奮のせゐでアランはしつかりしてゐた。青白い顏色で疲れ果てたやうに見えた。喜んでゐるといふよりは、寧ろ考へ込んでゐるやうな樣子であつた。アランの頭の中には、いろいろの事が思ひ出された……  もう何分か經《た》つと到着する事になつた。みんなは(粁《キロ》)と秒との計算をした。信號燈は傍を吹き飛んで行つた。列車は上り阪となる……  急に人々の目を射たものは、眞白な恐ろしいやうな日光である。晝間の光が列車の中へ入つた。アランは止めた。  十二分遲れて歐羅巴に到着した。 [#地から3字上げ]――了―― 底本:「第二期 世界文學全集(12) トンネル 外二篇」新潮社    1930(昭和5)年11月1日発行 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※「怒鳴り」と「呶鳴り」、「マヂソン・スクエア」と「マヂソン・スクヱア」、「ヱセエル」と「エセエル」、「尠からず」と「少からず」、「アヅォオル」と「アヅォオレ」と「アヅォオラ」、「ブロオドヱイ」と「ブロオドエイ」と「ブロオドウエイ」、「ウォオルストリイト」と「ヲオルストリイト」と「ウオオル・ストリイト」と「ウォオル・ストリイト」、「ザムエル」と「ザムヱル」、「ペンシル※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ニア」と「ペンシルヴァニア」、「リ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]アプウル」と「リバアプウル」と「リヴアプウル」、「ニュウオルレアンス」と「ニユウオルレアンス」、「帷《とばり》」と「帷《とぼり》」、「チヤルダス」と「チャルダス」、「マアキャンタイル」と「マアキヤンタイル」、「熔鑛精錬會社」と「鎔鑛精錬會社」、「ヴァンダアスチフト」と「※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ンダアスチフト」と「※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ンダアスティフト」と「ヴァンダアスティフト」と「ヴアンダアステイフト」の混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: 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