田山花袋先生 白石實三 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)朝目《あさめ》なき |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)愛されてゐた|※[#「女へん+甲」、104-上-13]妓《かふぎ》を待つ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)愛されてゐた|※[#「女へん+甲」、104-上-13]妓《かふぎ》を待つ /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)まご/\してゐれば *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]『蒲團』を書かれた頃[#「『蒲團』を書かれた頃」は中見出し]  明治四十年の夏だと記憶する。ある日、花袋氏をたづねると、ひどく意氣込んだ調子で『僕も、こんど新小説から百枚の長篇を書けといつて來てゐるのだが‥‥』と、ぽつり言つて、眼をそらした。  當時、田山花袋の名は、新興文學の有力なメムバアに數へられながら、技巧が拙劣なために、文壇の表面にあらはれなかつた。しかも、日本の自然主義文學は、その前年島崎藤村氏の『破戒』で火蓋が切られ、夏目漱石の諸作は、しきりに評判になる。獨歩集が出て、非常なセンセーシヨンを呼び起すといふ形勢で、花袋氏はひどく立ちおくれてしまつた。  不遇の位置におき捨てられて、默つて隱忍しなければならなかつた。その暗い焦躁の氣持が、『蒲團』といふ一作に集中されて、一時に爆發したのだが、も一つ、『蒲團』を書いた動機で、世にあらはれない逸話がある。  といふのは、仲間の作家で當時の花形である小栗風葉氏が、『蒲團』の材料を書かうとしたことで、それを花袋氏は、こんなふうに言はれた。 『小栗が、中年の戀を書くそうだ。僕が話したことを書くのかも知れないが‥‥』  實際まご/\してゐれば、自分の材料までさらはれさうな立場だつた。ぜがひでも力作を出さねばならぬハメだつた。いはゞ追ひつめられたやうな氣持で、急いで一週間で脱稿したのが『蒲團』である。  尤も、締切りも來ていたので、最初は、題をつけずに渡した。  すると、勤めてゐる博文館の方へ、新小説の編輯から、電話が來た。 『原稿は組みへまはしました、ところで題は?』 『實はいゝ題がなくて困つてゐるんですが』 『でも早くしないと、間にあひません』 『ぢや』と、咄嗟に『『蒲團』としておいて下さい』[#「咄嗟に『『蒲團』としておいて下さい』」は底本では「咄嗟に『蒲團』としておいて下さい』」] 『蒲團? 寢具の蒲團ですか?』  ともあれ、自然主義文學の代表作として、劃期的意義をおびる『蒲團』は、こんなふうにして書かれたのだ。  風葉氏の方のは、その後『戀ざめ』として日本新聞に連載されたが、禁止の厄に會つた。 [#3字下げ]『蒲團』で訴へられる[#「『蒲團』で訴へられる」は中見出し] 『蒲團』が、あれほどの反響を呼ばうとは、作者自身も豫期しなかつたし、作品としても『蒲團』よりはよい作が、同じ作者にある。  だが、あゝした時代に、敢然として『蒲團』のやうな作品を公けにした作者の思ひきつた態度に、態度の人としてのえらさがあるのであつて、必ずしも一代の幸運兒として片づけてしまふことは出來ない。  世をあげて、囂々たる毀譽褒貶の中に、作者は、得意でもあつたが、またひどく神經を尖らせてもゐた。それは、新小説の編輯者が反自然派の文士だつたが、『蒲團』の内容が甚だ非道徳だと云ふので、自分で檢事局へ訴て出たので、作者は呼び出されて、取調べを受けなぞしたのであつた。 『蒲團』のヒロインは、岡田美知代といつて、先頃共産黨の女鬪士として世を驚かした某女の叔母にあたる人、今はアメリカにゐるが、花袋氏は、亡くなる直前までその消息も知らなかつた。不治の病ではあるし‥‥と思つて、私が、彼女の消息を傳へると、 『さうかなあ、さうかなあ‥‥』と、さも感慨に堪へないやうに、うなづきながら聞いてゐられたのである。 [#3字下げ]死を凝視して[#「死を凝視して」は中見出し]  何にしても、あの偉大な體格だつた。それが、喉頭癌とあつて、いはゞ餓死されたのだから、發作が來ると、實に見てはゐられないほどの苦しみだつた。  その苦しみと戰ひながら、『實は死の苦痛を味はひわけてゐるのでね、死苦といふやつは、どのくらゐ辛いか、體驗してゐるんだ』  苦笑ひしながら、さう言はれた。不斷の鋭い觀察と推理は、特質となつて、死の床までつゞいたのである。  自分が亡くなつたあと、家人や周圍がどんな態度をするか、その心理も見たかつたのであらう、逝去の三日ばかり前、眼をつぶつて死んだやうな眞似などをされた。頭腦は、過敏で、尖鋭で、明晰で、死の直前一時間まで強く澄みきつてゐた。  殊に、あざやかに印象に殘つたのは、異常な若々しい氣持だつた。青年の特色たる抗爭心、反發心といふものを、末期まで持續されて、重態に陷るまで文藝雜誌を手にされてゐた。 『いよ/\文學がなくなつたね、死ぬにはちやうどいゝ時だ』 『生耻をかくよりも、死んだ方がよい、それに僕もいろんなことをして來たしね、遺憾はないよ』  さう言ひながら、月々の作品を片端から讀まれて、縱横に批評をされた。漢詩で、文藝時評をしたのもある。その意氣の壯んなこと、不治の病を宣告された重病者とは思はれなかつた。 [#3字下げ]※[#「女へん+甲」、104-上-6]妓を待つ歌[#「※[#「女へん+甲」、104-上-6]妓を待つ歌」は中見出し] 『朝目《あさめ》なきあしたの床《とこ》のをさな兒の頬のごとくにぬれてわれあり』  亡くなる一二年前に詠まれた歌であるが、この歌には、はしがきがあつて、 『某女久しく來らざりける頃、詠みてつかはしける』とある。すなはち、愛し愛されてゐた|※[#「女へん+甲」、104-上-13]妓《かふぎ》を待つ氣持は、『おめざのない朝のだだつ兒』のやうに泣けるといふのである。  で、これが實に六十の翁の心境だつたのである。あまりに若々しいその氣持に驚いて、私は幾分反語的に、 『驚きましたなあ、いや、これは唯事ではない、われ/\ですらもうそんな氣持はないのに‥‥』  すると花袋翁は、事もなげに、 『そりやあさうさ、君等は色戀に磨きをかけてゐないからさ、性慾といふやつは、磨けば磨くほど冴えて來る』  私は、一言もなく引きさがつてしまつたのである。 [#3字下げ]横寺町の小説道場[#「横寺町の小説道場」は中見出し]  その※[#「女へん+甲」、104-中-7]妓とは、二十餘年の長い深い割ない仲だつた。晩年の多くの作品は、彼女をモデルとした花柳小説で、また彼女に貢ぐために、多作もし、それが濫作にもなつたのである。  昔は牛込横寺町の尾崎紅葉の小説道場には、門弟札がずらりかゝつてゐたもので、その中には田山花袋の名もあつた。  花袋氏は、それを憤慨して、自分の名前を消しに行つたものだと語つたが、紅葉の全盛時代に一介のみすぼらしい文學書生であつた氏は、紅葉の全盛ぶりを見るにつけても、志を立てたやうである。そして打倒硯友社の旗じるしを立てゝ成功し、文壇の王座を占めてからも、豪奢な遊びぶりなどには、紅葉山人の流れを汲んだやうなところがあつた。  死の床に愛妓の侍つてゐたことなぞも、紅葉を思はせるところがある。 [#3字下げ]泥棒を捉へる[#「泥棒を捉へる」は中見出し]  まだ壯年の三十代の頃、自宅へ泥棒がはひつた。それを追ひまわして、捉まへた上、いくらか金を持たせて放つてやつたといふやうな逸話もあるが、負けぎらいで、強くて、無頓着で、そして率直で、多感な、殊に自信の強い人だつた。 『僕の自信の強いのには獨歩さへ驚いてゐたのだからね』よくそんなことを言つた。  文壇の先輩でも、敬意を拂つたのは、森鴎外一人で、鴎外一人にだけ『先生』の言葉を用ひた。  ある夏の日、花袋氏が浴衣がけで街を散歩してゐた。それを知人が見ると、氏の格好があまり變だ、肩が突張つてゐる、よく見ると變なはず、浴衣を衣紋竹もろとも着込んでゐたのであつた。 『蒲團』は毛筆で書かれたが、その後、人が萬年筆を使ふやうになると、氏は、鉛筆で書きはじめた。後年の原稿は、悉く鉛筆で書かれたのである。 『鉛筆にかぎるよ君、活字に組まれる頃は、ちやうど文字が消えて、あとへ殘らないからね』  さう言はれながら、机の前でよく鉛筆を削つてゐた。締切りを遲らすやうなことはまつたくなかつた。  書きあげると、それを風呂敷に包んで、雜誌、新聞社をたづねて、渡すのだが、ある時、某社で、 『稿料は取代へにくれたまえ』と言つて原稿を出した。編輯者があけてみると、それは白紙だつた。  机の上の白紙の原稿紙を聞達へて持つて來たのであつた。  ある晩、獨歩の家をたづねると、先客があつたとみえて、客間に菓子皿がおいてある。 『羊羹か、一ついたゞかう』  言つて、ぐしやと噛むと、それはマツチだつた。  といふやうな逸話が無數に殘されてゐるほど、花袋氏はせつからなそゝつかしやだつた。  私は、氏が物を喰べるのに噛むのを見たことがない。飯でも菜でも香の物でも、ほとんど鵜のみにするのを、例としてゐた。  そゝかしいところは、小説にもとき/″\あらはれて、 『青年達は、野原でベースボールを投げてゐた』などと、平氣でエラアをやつてのけたところが面白い。  ある夏、一緒に秩父の方へ旅行したことがあつた。  暑い日で喉が渇いたが、何分電車だから、食物がない、水がない。ひどく苦しんだ。  と、ドアをあけて向うから歸つて來た花袋氏が、 『君、とても旨い水を飮んで來た、君もいつぱいやつて來たまへ!』 『水ですか? 耳よりですなあ、どこにあります?』  私が立ちかけると、向うを指して、 『便所の手洗ひ水だがね‥‥とても旨いよ』  私は、ダアとなつて坐つてしまつた。さういふ無頓着ぶりであつた。 [#3字下げ]選者の看板料[#「選者の看板料」は中見出し]  某婦人雜誌が、懸賞小説を募つた時、花袋氏も選者の一人に依囑された。  ところが、いよ/\發表となると、雜誌では、選者には原稿を見せないで、勝手に雜誌むきの作を當選させ、別に選料としては金一封を持つて、社の婦人記者が花袋邸を訪問した。  すると、花袋氏は、頭から、 『これはをかしい。僕は選もしないのに、選料を貰ふわけがない、一體、この始末をどうしてくれるんだ?』  と、怒鳴りつけた。その語氣が荒かつたので、若い婦人記者は、わつと泣き出す始末だ。  女記者に泣かれてみると、鋭鋒も鈍つて、『一體、いくら持つて來たんだ?』と、眼の前で包みを破つてみると、五百圓はひつてゐた。 『五百圓か? 多いな』と言はれたが、ちよつと考へて、『ぢや、二百圓だけ、僕の看板料に貰つておかう、あとの三百圓は持つて歸りたまへ』  さうしたアマノジヤクが得意の花袋氏でもあつた。  小説といふものを強ひて面白くないものにし、物語のスタイルを壞したのは、たしかに自然主義の罪過であつた。  ところが當時文學に志したものゝ多くは、ロマンテイツクな歌はうといふ氣分から出立したので、私なぞも、先生として師事はしてゐながら、作品そのものには常に不滿であり、また不滿の氣持を露骨に言つたものだつた。  だが、態度の人としての花袋氏の純眞な氣持には、常に心からうたれざるを得なかつた。氏が最後の息を引いた時、その枕邊にあつたのは、雜誌『改造』であり、ひらかれたページは、創作欄であつたが、たしかに永久の若い文學青年として生涯を終始されたのであつた。  碁も知らず、將棊さへ厭つた氏は、かう言つた。 『僕は、遊び事、勝負事といふものは大厭ひさ、その時間があれば、文學に精進する』 [#3字下げ]田山花袋墓[#「田山花袋墓」は中見出し]  さて、毎年の五月十三日が來ると、私は、多摩墓地へ參詣するのを例とする。師たる花袋氏の墓が、あそこの第十三區にあつて、その日が忌命日にあたるからである。  五月も中ばに入ると、あそこは新高フさかりで、つゝじこそやゝ末だが、雜木の高ヘ日に燃えかゞやいて、松の翠の濃く交るのが、眼にしみるやうな感じを與へるのである。そこを自動車がゆく。新しい夏帽子と派手なパラソルがならんでゆく。見てゆく墓標が、各家思ひ/\の意匠をこらしてあつて、思ひきつてモダンな鋭い感じを出したもの、圓形のもの、ピラミツト型のもの、わざと氣取つて地味に澁く行つたものなぞ、さういふ墓地の工藝美術を觀賞するために、わざ/\出かけてもよいほどである。  花袋氏の墓は、小振りで落つきのある根府川の自然石。『田山花袋墓』とある文字は、島崎藤村氏の筆になるものだ。烏山にある蘆花氏の墓と共に、西武藏野の名墓であろう。 [#ここから1字下げ] 『脊梁信越雪劇しかるべし。 車蓋《しやがい》今朝白《こんてうはく》を載《の》せて還《かへ》る。 寒《かん》緊《きび》しく空晴れて雨|斷《た》つを知る。 林疏野|濶《ひろ》うして山環を看る』 [#ここで字下げ終わり]  關東平野を詠じた花袋氏の絶筆で、私の所藏してゐるものだが、故人は、特に關東平野が好きだつた。で、その一角の武藏野に、長く眠られるのも本懷であらうが、武藏野に花さき、新高ェ燃え、落葉散り、木枯の吹きあれるたびに、私は、はるかにこの墓地を思つて、かぎりないなつかしさを感じるのである。 [#地付き](昭和八年六月号) 底本:「文藝春秋八十年傑作選」株式会社文藝春秋    2003(平成15)年3月10日第三刷    2003(平成15)年4月5日第三刷 底本の親本:「文藝春秋昭和八年六月号」    1933(昭和8)年6月 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。