単騎遠征 福島安正 筑摩書房編集部編訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)北京《ペキン》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)夏|外套《がいとう》 [#]:入力者注 (例)※[#ここから1字下げ] -------------------------------------------------------      両大陸を横断せん  そもそも天下の大勢と列国の実力を熟察し、細心に、精密に、これに備えるための大計画を立てぬ限りにおいては、侵略と併合をくり返す今日にあって、いかにして東亜の形勝の地に独立を保つことができよう。かつては交通不便のために表面にあらわれなかった禍難も、今や十年を待たずに破裂せんとする勢いさえ、あらわれ来たった。  このたび、ロシアよりシベリア・モウコ・満州等の地を踏破しようと志したのも、この計画に資する実力調査のためである。今日に際して、世界の変局に処すべき方策を考え、国家の前途にあやまち無きようにし、大いに発展の基礎をつくることは、上下を問わず、朝野を問わず、国民一般の任務である。  ローマは一日にして成ったのではない。自然も人事も、共に一事一件の起こるのは、偶然のことではない。必ずその由来するところがあるはずである。結果があって原因のないようなことは、いまだかつて生じなかった。かくて因果の関係をたどりゆけば、上は無窮の過去となり、下は無極の未来におよぶであろう。よって遠大なる望みを国運の前途にかける者は、今日の原因を昨日において見、今日の結果を明日に計ろうとするだけで、足りるわけはない。少なくとも二十年、三十年の長時日において、これを観察しなければならないであろう。  ここにおいて余は、明治二十二年十月よりベルリンを中心にヨーロッパを周遊、特にバルカン諸国を歴遊して、その山川・風物に接し、人情を察し山河の形勢をさぐるところがあった。再びベルリンに帰ったのは、翌二十三年三月である。ついで近東より、なお東方の要地を歴遊して、将来、国際の変局に処するところを求めたいと念じた。最初の志は、ドイツよりトルコをへてエジプトに渡り、さらにペルシア・アフガニスタンより中央アジアに抜け、北上して外モンゴルよりロシア領に入り、シベリア大陸を横断して満州から北京《ペキン》に至らん、とするものであった。  よって明治二十四年一月一日、ベルリンより書を送って、この計画の許しを求め、かつ翌年一月をもって出発せんと願ったものである。しかるに、この年の秋、命令下り、ベルリン駐在の任期満つるとともに、ベルリンよりロシアの国都ペテルスブルク(今のレニングラード)を過ぎてシベリアにはいり、それより前記の各地を歴遊して帰朝せよ、との旨であった。しかしてあますところはエジプト、ペルシア、アフガニスタン、および中央アジアの各地がある。したがって今回の行は宿志のなかばを達するに過ぎず、余としては遺憾きわまりないが、官命とあれば、やむをえない。もって他日を期することとした。  この行は初志のなかばに過ぎないが、しかもその道は、ベルリンを発してロシア国都を過ぎ、シベリアを横断して満州に入り、その諸城を歴訪して再びロシア領にはいり、ウラジオストックより海路帰朝せんとする。その行程は約一万四千キロ、我が国の里程にしておよそ三千五百里。ベルリンを発したのは明治二十五年二月十一日、しかしてウラジオに着いたのは二十六年六月十二日であったから、その間は十七カ月にして四百八十八日。ようやく大陸を騎馬にて渡るという目的を達することができたのであった。  つくづく過去の経過より考えるに、汽車汽船の旅行は、一瞬にして数里を過ぎ、山川の地形を弁ずることができがたい。しかも、その通ずるところといえば、地は開け民は豊かであるゆえに、たとえ沿道にて数日の滞在をなすとしても、ただ大いなる家屋に宿って、わずかに表面の観察ができるばかりである。土地の実際と人情・風俗の機微、教育・宗教などを細かく観察して、一国の実力のあるところを推究することは、到底できない。馬車もソリも大同小異。今回の余の目的には適さない。よって考えた。  この目的に適当なるものは騎馬である。騎馬でなければ、決して思うままに山河を踏破することはできない。これ、断然この決心をしたる理由の大要である。  当時、これを聞く者は、戯《ざれごと》と呼び、あるいは言った――ロシアの地たる、人煙まれに、寒威ものすごく、積雪は野に満ちて、安眠すべき所もない。しかも東部の地は三年の飢饉によって、野に菜《さい》なく、牛羊も死にたえて、風物惨憺たるの時である。いわんやウラルの東、シベリアの地は人煙いよいよまれであり、盗賊は常に出没する。先年、コサックの一士官が冬季に当たってシベリアを渡るや、ロシア人は空前絶後の壮挙と称した。シベリアに生まれ、ロシアの地に騎乗して、かくのごときである。ましてや、外国人たる日本人が、単騎にて遠征をくわだてても、その目的を達することができようか。実に狂人のしわざである――  多くの人は、余の行為を信じなかった。時には冷笑さえ加えられた。  安正、ここに思う。困難は事業のもとでである。危険は研究の好材料である。はじめから希望するところである。ヨーロッパの弱兵に、日本男児の志が理解できようか。日本男児の心中は、ただ一片の忠愛の至誠があるばかり。死は軍人の常であり、生は天の命ずるところである。前途の難易は、かえりみる必要はない。勇壮直進、倒れてのちやまん。      ベルリンよりワルソーへ  明治二十五年二月十一日、紀元節の祝日をもってベルリンを出発した。これより先、ドイツ皇帝は余を引見して、赤鷲《あかわし》三等勲章を賜わった。しかしてベルリンに在留せる日本人は、ことごとく一堂に会して、余の行を盛んにせられた。  この遠征たるや、前途に酷寒酷熱の荒原・砂漠をひかえ、無人の荒野・深山・幽谷を過ぎるものである。護身の持ちものとしては、ひとふりの軍刀と、人より贈られた五連発の短銃を有するばかり。かくてひとり、遠途の道に上る。生還を期待することもできぬ。成敗も生死も共に天にあり、武運にめぐまれぬ時は、屍《しかばね》を外地の野にさらすばかり、と覚悟はありながらも、なお親しんだ土地と人びととに別れるに及んでは、断腸の思いを避けることができなかった。  友あり、ベルリンの城外まで送って、ハンカチを振り、帽子をあげて別れを告げる。また友あり、郊外の一村に待って、出発の第一夜を共に語る。親友の厚情、感激に耐えない。  翌十二日午前九時三十分出発、友と手を握って再会を約し、共に健康を祝して東方に向かう。時に細雨はさむざむと落ち、北風きびしく吹き渡る。しずかに馬を駆って行くこと約三百メートル、友情を禁ずるあたわず、はるかに振り返れば、友はなお立って帽を振りつづける。すなわち馬にひとムチあてて松林に突入すれば、ついに人影も見えなくなった。  余の単騎遠征の挙は、早くから全ヨーロッパに宣伝せられ、ドイツにては全新聞に掲載されたため、村のすみずみに至るまで今回のことを知っている。余が騎馬で通過する各町村においても、人びとは窓を開き、門口《かどぐち》に集まって余を送迎し、口々に「グリュックリヒヘル・ライゼ(道中ごぶじで)」と叫んでいた。いずこも変りなき人の情である。単身にて異国に旅する身には、ただこれだけのことばさえ、暖かい慰めであった。  かくてロシアとの国境に至る。ロシア政府より交付せられた旅券を示し、国境の柵門《さくもん》および税関を過ぎれば、一兵が騎乗して余を送った。国境に近いコニン駅に近づくと、この地に駐屯する軽騎兵第十三連隊の将校は、軍楽隊を率いて余を市街に迎えた。導かれて連隊に至り、夕食のもてなしを受け、かねて準備の旅館に休む。時にロシア歴の二月九日。  翌日の出発にあたっては、騎兵一中隊が余を送迎した。余は真っ先に進み、中隊は余につづき、その前後には軍楽隊が配されて奏楽する。一隊の兵士はみな行軍の歌をうたい、痛快きわまりない。かくして四日の後、ポーランドの故都ワルソーに着いた。  国ほろびて山河あり、城《しろ》春にして草木深しとは、亡国の跡をとむらったものである。余はいまポーランドに来たり、国ほろびたるに山河むなしく存し、麦もようやく伸び立って、煙ひややかに風邪寒きを感じた。  ああ、二百年前のポーランドは、実に中央ヨーロッパの一大王国であった。その境域は、北はバルト海より南は黒海につらなり、その面積はフランス、スペインと匹敵していた。時にあたってプロシャ王国はなお成立せず、ロシアもまた取るに足らぬ一小国に過ぎない。しかも、それより百年。北方のロシア、西方のプロシャはしだいに勢力を増大し、これにオーストリアを加えたる三国は、ポーランドの政情不安定なるに乗じ、これを分割して領有するに至る。時に西暦一七九五年、ポーランドの国家はまったく滅ぶこととなった。  これよりロシアの圧政は年とともに激しく、ロシア皇帝はポーランド国王を兼ねて、ポーランドはロシアに従属する王国となった。祖国の回復を願う愛国の志士は、しばしば立ってロシアの支配に抗したが、事の失敗はもとより当然である。数万の良将勇卒はシベリアに流されて、英姿を雪山氷河の中にうずめ、反乱に加わらなかったものも自由を奪われて、その母国の言語さえ使用することができない。ああ、なるまじきものは亡国の民である。      ワルソーよりモスコーへ  二月二十八日、ワルソーを出発。ロシア領を行くこと八百五十キロ、夜を数えること十一日にして、ジナブルグに達した。  国境よりジナブルグに至るまでの間は、いかなる村落にも、いかなる市街にも、至るところに兵士あり、実に山川草木兵士に満つ、と言っても誇張ではない。 歩・騎・砲兵、みな兵営をつらねて駐屯している。余は騎馬であったために、もっぱら騎兵の歓待を受けた。思うにロシアは、ドイツおよびオーストリアとの国境において、その陸軍の十分の八、九を備えている。その国境兵備の密なることは、かくのごとくであった。  しかしてジナブルグより北、首都ペテルスブルグに至る五百数十キロの間は、プスコフに一隊の駐兵あるばかり、そのほかは至るところうっそうたる大森林であって、兵卒の影を見ることがない。よってジナブルグから北は、送迎する者もなく、余は愛馬の「凱旋《がいせん》」と共に、影となり形となって進むばかりであった。  これより北上するにしたがってますます寒く、四面みな雪にして、満目一泊、野も川も山もうずめつくされて一点の青色も見ない。されば往来の大道は雪のために求めることもできず、ただ自然に人馬に踏み分けられた一条の小道あるばかり。ソリなどに出会った折は、道の狭いために馬をかわすこともできぬ有様である。すこぶる危険なことは、馬が尿をして積雪が解け、大きな穴のできたのを、馬が気づかずに足を踏みこみ、急につまずいて倒れることがあることであった。  首都に着いたのは三月二十四日。ベルリンをへだたること千七百キロ、これまでに四十五日を費した。この市の南にモスコー門があり、その門外に騎兵学校の将校数十名が出迎え、余を導いて学校に至った。その夜はさかんなる宴会が開かれ、校内の将校集会所を余の宿所に当て、従兵一名を付して、その待遇は懇切をきわめた。  この学校は騎兵の最高学府であり、付属には蹄鉄《ていてつ》学校もあって、全国の蹄鉄工を入学させている。余は首都に滞在せる十五日間を利用し、毎日この学校に至って、蹄鉄の打ちかたを学んだ。かつ出発にのぞんでは、蹄鉄機械を購入した結え、その後はいかに辺地を過ぎるにも、何らの不自由を感ぜずにすんだのである。  四月九日、首都を出発、モスコー門外にて騎兵学校の将校と別れを告げる。モスコーに至る道をとったが、路傍に並木もなく、行く人の影もまれであって、積雪は深い。四辺一帯は見渡す限りの荒野である。ペテルスブルグよりノブゴロドに至る四十八里の間、街道は一直線に走って、途中一つの曲折があるばかり。この距離は東京から信州上田までの間に当たり、その間ただ一面の広原であると言えば、いかに荒涼たる地域であるか、想像するに余りあるであろう。  行くこと四日にしてノブゴロドに至り、その地の旅館に一泊。翌十三日、さらに南に向かう。  十四日、零下二度の風雪のなかを、人も馬も苦しみつつ進み行くに、折から一台のソリの来たるに会う。年若き男女二人乗って、余を見て帽を振りつつ健康を祝福し、かつ言うには、「貴下が今日、ここを過ぎられる由を聞いて、久しく待っていたが、あいにくの風雪に、ご道中さぞ困難であろうと、途中まで出迎えた」とのこと。  余は深く好意を謝し、共にクレスツォフという地に着いた。この男女は宿屋の主人夫婦であって、清潔な二室を余にあてがい、その待遇は親切をきわめた。翌日の出発に当たり、宿賃を払おうとしたが、主人夫婦は辞退して受けぬ。よって使用人への茶代としてわずかの金を置き、主人夫婦へは感謝の印に写真一枚を残して記念とした。人情浮薄の世、異国人にして一面識もない余のために心情をつくす、まれに見る人びとと言うべきであろう。  この日、宿屋に至るや、付近の老幼が群集し、余の馬をさして、「これが新聞の伝えるアルハンブラーという馬だ」と言っている。アルハンブラーとはスペインの一都市の名であって、空中楼閣の意味がある。思うに余がベルリンを発するや、その世評はゴウゴウ、あるいは中止すると言い、あるいは成功すると主張し、ついに大金を賭《か》ける者を見るに至った。しかも彼らはなお満足しない、さまざまの浮説を新聞紙上にかかげて流布する者もあった。アルハンブラーの名も、またその一つであった。  これよりワルダイ、タルジョックをへて、四月二十一日ミエドノエに着いた。このあたり、うっそうたる大森林がつづき、林中は雪が解けて泥ぬまの道となり、馬蹄を没して騎行は困難である。日もようやく暖かく、雪解けの水は道にあふれ、ために昨日の氷田も今日は一大湖川となる。馬は水を恐れて渡らず、いたしかたなく下馬して、馬を引きつつ渡ったが、深さ一尺余に達するところもあった。  進めば雪はますます解けて、ついに残雪を見ぬに至る。ロシア領にはいって以来、氷雪の上ばかりを歩いた馬は、この日はじめて大地を踏むことができた。  ミエドノエ村はヴォルガ川の一支流にのぞんだ村である。川幅は四十間あまり。日はまだ高かったので対岸に渡ろうとしたが、上流から三、四尺の氷塊が絶えず流れてきて、船が出せない。やむなく村内の民家に泊まったが、夜半にいたって門外にわかに騒がしくなる。聞けば、氷塊のために水流がさえぎられ、水があふれ出して民家に浸水が激しくなった、よって家財道具を運び出しているのだ、と言う。  夜明けに至って氷塊も流れ去り、人びとも安心したが、流氷はなお絶え間ない。午後にはすこしく減じたが、船頭は首をふって船を出そうとせぬ。ここにおいては酒だと思い、対岸に至ればウオツカをたんまり飲まそうと伝えると、船頭はようやく準備を始めた。  水勢が急のために上流にこぎ上り、氷塊の間を縫ってゆく。途中、あわや氷塊に衝突しようとして、肝をひやしたこと再三であった。わずかに岸に達するをえ、船頭には酒手《さかて》を与えて、再び馬上の人となる。行くことしばし、大きな煉瓦造りのそびえるのが見える。これ、軽騎兵第一連隊の営舎であった。営舎はヴォルガ川の左岸にのぞみ、川をへだててツウエル市(いまのカリーニン)と対している。将校はみなツウエルに住むということであった。  翌日、連隊長はツウエルより来たり、余を伴って官舎に至る。名をリーゼンカンプといい、先帝の侍従武官であった。夫人はポーランドの名士パクレフスキー氏の娘である。パ氏は、かつてポーランドの義勇軍に加わってロシアにそむき、その勇名は一世を驚かしたが、むなしく敗れてシベリアに流罪となること二十余年。刑期満ちて許されるや、商業に従事して苦心と困難を重ね、ついに酒造をもって家運を復興、いまや支店はシベリア各地にわたり、富は巨万をかさねてシベリア屈指の豪商となった。すでにパ氏は死んだが、三子がその遺業を継いでいる。  連隊長夫人も、父の苦しみを目撃したゆえに、すこぶる人情に通じ、同情に厚い。すなわち余の前途の不便を察し、シベリア各地におけるパ氏の支店長に向かって、懇篤な添書《てんしょ》を与えた。翌日、出発にあたっては、連隊長夫妻および青年将校一同、余を送って遠く市外に至った。  モスコーに近づくにしたがい、身にボロをまとった窮民が、路頭にさまよって食を乞《こ》うている。この地方は、飢饉が最もはげしく、しかも交通不便であるため、食糧の供給ができずに、窮民は四方に流離している、とのことである。ああ、何という悲惨さであろう。  四月二十四日、モスコーに着いた。首都からここまで百八十里。十四日で達する予定だったが、雪どけのぬかるみのため、予定に遅れること二日に及んだ。この地に馬をとどめること十二日。      ウラルを越える  五月七日、モスコー軽騎兵営内の宿舎を出発。  兵営から市の東端に至るまで約十キロ。道は円石《まるいし》をしいてあるため、市外に出るころ、馬はすでに疲れて、進むことが困難である。それでもビッコをひきながら、無理に歩かせること二日、パクレフ市に至った。ああ、ベルリンを発してより今日まで、日を旅に重ねること八十八日、その間は風雪の中に堅氷を渡り、積雪を踏んで、あらゆる辛苦をなめつくし、今やようやく春となって、道平らかに新緑の色も美しく、気さわやかなる風光に対して、愛馬「凱旋」ついに病む。  パクレフにて獣医の診断を受けたが、「単なる疲労である、何ほどのこともなかろう」と言って、そのまま進発をすすめる。しかし大事をとって翌日は馬を休ませた。それでも「凱旋」の病状は依然として歩くこと困難である。獣医は出発をすすめる。余もまた前途の遠きを思えば、むなしく一日を費すことはできない。すなわち決然として、病馬にまたがって出発した。  やはり無理であった。二十キロばかりの間に休むこと二回、そしてついに馬は立つ力を失って、地上に伏してしまった。その背をなで、その首をさすり、励ましつつ徒歩すること十キロあまり、ボロジノにて診察を乞えば、急性リウマチスなりと言う。ここにおいて「凱旋」も、再起が不可能であることを知った。  十一日の夜、汽車にてモスコーに引き返し、新馬「うらる」を求める。十六日、「うらる」と共にボロジノに至り、翌日は新馬の試乗を行なった。病馬ともいよいよ永遠の別れかと思えば、名ごり惜しさに堪えない。首すじをなでさすって慰めながら、青草をとって食わせ、また扇子をもって背にむらがる蚊を追いなどして、一日中馬のそばを離れることができなかった。  五月十八日、いよいよ出発である。庭に下りて「凱旋」に別れを告げ、記念としてタテガミの毛を切り、懐中に納めて去ろうとした。しかも永別と思えば心もためらう。幾度か立ちもどったが、馬もまた両の前足を集めて、いなないて、立とうとして、かなわない。その情たるや、ソデにすがりスソにまつわって名ごりを惜しむにも似て、余はもちろん、見る人びとを断腸の思いに誘うのであった。当日の悲しみは深く骨身《ほねみ》に食い入って、忘れることができない。思い出すたびに、涙が出るのをどうすることもできないのである。  これより「うらる」にまたがり、ウラジミル市をへて七日の後、ニジニノブゴロド(今のゴルキー)に達した。ヴォルガ川に面し、モスコー以東第一の都会である。馬を休めるため、この地にとどまること三日にして、二十九日に出発。  勇気はげしき上に、並木もなく、炎天にさらされたままの前進である。春の季節がほとんどなく、冬より夏に移ることの早さが知られるであろう。カザンへの道は、ヴォルガ川に沿い、左岸は無限の森林、右岸には丘陵がつらなり、風光はなはだ美しい。川の岸近くを行く時は、往々にして、上流に向かう囚人船を見る。道は平らかなウラル街道、すなわちシベリアに行く者の必ず通る道であって、幅は五十二メートル、その規模は広大で全ヨーロッパに、くらべるものもない。しかし旅人の多くはヴォルガ川を汽船によって上下し、川の氷結した時でもなければ、この大道を行く者もない。  カザンの付近は、三年もつづいた凶作のため、人びとは大飢饉に襲われて、平年は一ポンドが六十二カペイカの黒パンも、今は一ルーブル三〇カペイカ以上である。各地には救済所が設けられ、救援に力が尽くされてはいるが、路上には餓死者が横たわり、窮民は群をなして道ばたに食を乞うている。しからば余も、十分な食料を得ることができない。わずかに黒パンと鶏卵を得て、飢えをしのぐ有様であった。肉類のごときは、見ることもできぬ。馬に食わすべき燕麦《えんぱく》も手に入らぬから、やむなくパン粉を与えていた。初めはいやがって食べなかったが、後には飢えて食物を選んでもいられず、喜んで食べるようになった。  カザン市はヴォルガ川の左岸にのぞみ、交通の一大要衝である。市中に入るや、警部に導かれて旅館に着いた。ドイツ人の経営にかかり、設備は完全にして、モスコー以来の快適な宿である。四日間滞在した。  この地で目にふれるものは、ヨーロッパのものとも、アジアのものとも言うことができない。両大陸の境界をなしているようである。すぐ気がついたのは、タタル人(韃靼《だったん》人)の多いこと。彼らはその昔、ジンギス汗《カン》に従ってロシアに侵入し、ついにヴォルガ河畔に一国を建てたが、それより春風秋雨七百年。モウコの勢威も衰えて、山河は主を代えること幾たびか。しかしてタタル人は、今なおこの付近一帯に住んでいるが、往時の意気は見るかげもない。彼らの宗教は回教(イスラム教)で、市上に半月形の塔を安置した寺院を建てている。  暑気はいよいよ激しくなって、日中は摂氏三十八度に至る。炎天烈日の下を行けば、馬の気息はたちまち迫り、行くこと数里にして疲労がはなはだしい。余もまた黒ラシャの冬服に夏|外套《がいとう》を重ねていたから、炎熱の下では堪えられない。呼吸は苦しく、吐き気さえもよおし、日射病にかかるかと心配になる。よってカザン以東は、昼に宿って夜のみ行くことに決した。  カザンを発したのは六月十三日午後八時。これよりは夜行にて、二十八日にペルムに着いた。ペルムはウラル山下の小都会である。駐屯部隊の出迎えを受け、市中に入れば軍楽隊は国歌「君ガ代」を奏し、市民は脱帽して敬意を表した。入浴して快適な夜を過ごす。とどまること三日、いよいよウラル越えにかかった。  このごろの北方は、いわゆる白夜の時期で、昼はほとんど十八時間、午前三時には日が上り、没するのは午後九時である。しかも当分は天なお白く、一時過ぎには早くも明かるい。暗夜とてはわずかに十二時より一時までの一時間ばかりである。そこで夜は虫もいないかと思ったのに、林の中には蚊・蜂・アブ・ハエなど、しきりに人馬を襲撃し、わずらわしさに堪えられない。ただ夜中の一時間ばかりは草木も眠る丑《うし》みつどき。さすがの虫どもも夢を結ぶか。その影もなく、人馬共に意を安んじて進むことができるのであった。  ウラルの山の頂きに近づくにしたがって、道は一歩一歩とけわしさを加え、山はいよいよ高くなったことを知る。ただし山中の道は上ると思えば下りとなり、かつ林は眼界をさえぎって展望がきかず、どこが山頂かわからない。山頂には両大陸の境を示す標柱があるはずゆえ、これを見落すまいと、石柱を求めて進んだるところ――  七月九日午前十一時、路傍の材木うっそうたる所に至って、一基の石柱を見いだした。その文を読めば、まさしく両大陸の境界標である。馬を一老樹につなぎ、木の根元に坐して石柱に対すれば、万感わき来たって感慨に堪えず。  ああ地球は本来、混然たる大塊のみ。なんぞ欧亜の区別があろう。この世に生ける者は、いずれも同じ人間なるに、面色言語の差によって待遇を区別しようとする。何という矛盾であろうか。時にあたって、わが国の威光はいまだあらわれず、朝鮮・シナそのほか、かろうじて独立の面目を保つのみ。西力の東進ようやく盛んにして、東亜の諸国みな存立の危機に立つ。かくて西人の専横となった。  奮然として、ひとムチ。馬をおどらして立てば、六年住みなれたヨーロッパの天地は後にある。いま身は両大陸にまたがって、悲喜の情こもごも至るを禁じえない。石柱のもとを行き来して、路傍の草花をつみ、記念のため手帳の間にはさんで、みずから言った。「花よ、汝《なんじ》はヨーロッパの花か、アジアの花か。いずれにもあれ、花は花なり。その色、その香、それ高下あらんや。人もまた、かくのごとし」  馬おどって土を蹴れば、瞬時にしてアジアの山河に入る。かえりみれば陰雲ひとむれ、天の一方にあり、雷鳴とどろいて山雨はまさに起こらんとし、樹木はことごとくふれなびいた。      コレラの地を行く  ウラルを下ること三十余キロ。一寒村を過ぎれば、雷雨大いに至り、服も帽子もことごとくうるおう。やがて雨おさまれば、はるかに寺塔と楼閣のつらなるのが望まれた。ウラル山下のエカテリンブルグ市である。この地にとどまること五日。  その一日、公園に遊んだところ、一紳士に声をかけられた。 「貴下は日本の福島少佐ではないか」 「しかり」  紳士は進んで握手し、 「余はパクレフスキーの次男ジョンである。先に姉むこのリーゼンガンプ大佐よりの書で、貴下の通過を知り、心待ちにしていた」とて、喜色は顔にあふれ、宏壮なる邸宅に招待して、さかんなる宴会を張るのであった。  七月十五日、パ氏等に送られ、シベリアの高原を進む。十九日、タリッツア村に到着。かのパクレフスキー氏の建てたウオツカ製造所は、ここにある。その昔は森林中の荒れ地であったこの地も、パ氏の工場が建ってより、一変して市街地となり、学校・官庁から停車場まで設けられた。パ氏の家は、山光水色の間に高く立って、王侯の宮殿のごとく、パ氏の一家はまさに一村の大王である。  行き届いた接待を受け、翌日は工場を見学。規模は広大にして、建築は広壮。その製造高を問うに、笑って答えない。貯蔵庫には、大漕十一個あって、それぞれ十五万ガロンを納めるという。ビンにして百六十五万本のウオツカが常に貯蔵されているわけであった。  午後に及び、パ氏一家に送られて出発。道はおおむね森林の中にあり、進むこと四十数キロにして、路傍に一つの標木が立つ。これはヨーロッパとアジアとの政治上の境界であった。今や、まったくシベリアの広原に足を踏み入れたわけである。炎熱はますます激しい。  先に余はタリッツアにおいて、ペルム付近にコレラが発生したことを聞いた。それより三日の後、すなわち二十二日に至って、ペルムを離れる三百八十五キロの地シュメンに着けば、コレラは早くもこの地に走って、患者はすでに四十四人に達し、しかもすべて死亡したという。  シュメンよりオムスクまで六百七十六キロ。この間は広原が一面につらなり、丘の起伏は波のごとく、道に樹木すくなくて烈日をさえぎるものがない。シュメンを発した七月二十五日より、気温ますます高くなって連日八十度を越え、三十日には九十四度(華氏)に達した。大地は熱して、烈火を踏む思いである。冬服の上に外套をかさねているから、重さは重し、汗は湯水と流れ、しばしば吐き気をもよおした。  加うるにコレラの広がりは、馬の走るよりも速く、シュメン以来、新しい患者はいよいよ多く、至るところに死体がころがる。シュメン――オムスク間は、わが東京――姫路間の距離であるのに、その間に市街というべきものはわずかに三つ。そこには形ばかりの医師や薬店があるにしても、互いにへだたること遠く、途中の寒村に至っては、医師はおろか薬店さえ存在しない。かくて病毒は、ますます猛威をふるうばかりであった。  村には衛生の設備なく、人民は病毒の恐るべきを知らない。炎天の下にさらされて、生水《なまみず》を飲み、生野菜を平気で食べる。予防策といえば、ギリシャ正教の牧師がキリストを描いた旗を持って家々を巡礼し、お経をよんで水を与えるばかり。かくて読経《どきょう》の声の終らぬうちに、神の水のかわかぬ間に、人びとは、ここかしこに倒れゆく。こっけいとも、悲惨とも、言うことができぬ。  万一の用意に、余はアヘン剤の小ビンを買い求めた。行く道は、すべてコレラである。患者の多い村は入り口に、昼は黒旗を立て、夜はカガリ火をたいて凶事をあらわし、番人を置いて旅人のはいるを許さない。ロシアの農家は貧しいゆえに、夜間は燈火を用いないが、コレラ患者の家は、看護または弔いのために火を点ずるから、深夜に村の外に至って、はるかに燈火の多いのを見れば、この村もコレラが激烈であるか、と知るのであった。  人のあるところコレラあり。余が一寒村にはいって民家に休み、馬にマグサを与えつつ、 「この村にもコレラがあるか」  と問えば、主人は言う。 「すこぶる盛んで、わしの家でも今日一人死亡した。いま野辺の送りより帰ったところだ。それ、あんたが馬をつないでいる、その車に死体をのせて行ったんだ」  ある村のごときは、一村五十戸のうち、患者十二人に及んだという。村の墓地には新しい十字架が林立し、死者の棺を車に乗せて、妻子たちが棺にもたれつつ墓地をさして行くのも見える。  かくてコレラの地を行くこと十四日、約五百キロの道のりを踏破して、オムスクに近きカルバコバ村に着く。全村コレラ無しと聞いて一泊した。駅舎は小さく不潔であったが、コレラがないのは幸いである。例の黒パンのほかに、久しぶりに鶏肉まで得、肉汁にノドを驚かす。農家の浴場にも一浴して、心身さわやかとなって、満身の疫気を洗いおとした感をいだいた。  これより平原と森林の間をこもごも行けば、やがてオムスクである。駅舎を求めて泊まりを重ね、八月六日午後七時、夕べの道を東に進む。森林はここかしこに点在し、その間に道路あり、道は平らかの上に蚊群も襲わず、騎行も楽につづけられる。  森を出ると馬は一つの丘に立ち、足の下には百尺のところ、清流に月の砕けるのを見る。これ有名なイルチシ川である。点々と断続する森林の間を河水は縫い、えんえんと屈折して白蛇が走るよう。夕日はすでに没して残照まったく収まり、円月が東に上れば、影は清流に落ち、山黒く水白くして、澄みわたった江山の夜景は、その凄絶なること、まことに絵にえがいたるがごとく、余はその美に打たれて馬をとどめたまま、しばらくは去ることもできなかった。  丘を下りて一小駅に休み、翌日は午前二時半に出発。平野を過ぎてはじめてイルチシ川のほとりに出た。このあたりには、天幕の中に住む民族が見られる。キルギス人である。十三世紀の初め、英雄ジンギス汗が、この川で馬に水を与えたという昔をしのべば、感慨また新たに起こってくる。  川の対岸はオムスク市。  オムスクの総督は、余の到着をいかにして知ったのか、巡査に命じて迎えさせた。巡査の導きにて川を渡り、直ちに旅館に案内される。その日は終日、休養した。  翌日、総督のタウベ大将を訪問する。温厚な人柄で、 「ペテルスブルクよりのしらせによって、貴下の到着を待っていた」と言われ、懇切な待遇を与えられた。総督の管轄区域は遠く天山以北からアルタイ山に至る清国《しんこく》領との境につらなり、西部シベリア一万余の軍兵に号令し、キルギスの遊牧民三百万を統治するものである。      セミパラチンスク街道  八月十二日午後五時、オムスクを出発。  初めてシベリア街道と別れ、南に折れてセミパラチンスク街道を取る。ここまで、世人は余を見るに好奇冒険の旅行者となし、東のかた一直線にウラジオストックに向かうのであろうと思っていた。しかるに馬首を南に向けてたいへんな回り道をなし、国境の要地を過ぎるのを見て、わが旅行が尋常・好奇のものでないことを知り、その目的に関して、さまざまの批評が起こってきたものであった。  このころ気候は、にわかに変り、秋冷の至るの感がある。かつオムスクよりセミパラチンスクに至る十九日の間、天は常に曇り、しばしばにわか雨に会い、時に暴風大雨さえ会って、一日の晴天もなかった。よって夜行をやめ、ただ残暑の強い日だけ、昼間の休憩をすることとした。  この道路はシベリア本街道と違って、草原の中を走り、道らしい道もなく、わずかに電柱をたどってゆく。七百四十キロの間に、遊牧民の天幕のほかはまったく人家なく、イルチシ川に沿って上れば、二、三十キロごとにコサックの兵営があるばかり。これをコサック村と称し、個数は十五、六戸から三、四十戸に過ぎない。いずれも国境防備のために駐屯しているものである。そして沿道の村々には、すでに軍務総督の命令が下っていたから、各村では村長以下、余を出迎えて準備せる小屋に案内し、すこぶる優遇された。  八月十九日、プリエスナヤ駅に至る。オムスクを去ること三百四十キロである。  ところで二頭目の乗馬「うらる」は、狂暴にして手に負えぬことあり。村にはいってメス馬を見るや、余を引き離していどみかかることも、しばしばであった。しかもイナホジツという性質にて、左右の足を前後同時に動かして歩くクセがある。そのため駆けるごとに左右に傾き、乗りごこちが悪いばかりか、鞍《くら》ずれのする恐れもあった。  事実、ウラル山を越えるころから、「うらる」はついに鞍ずれを生じ、日がたつにつれて騎行は困難となり、この四、五日は、まったく疲れはてて物の用にも立たなくなってきている。せめて足のつづくかぎりは、と乗ってきたものの、プリエスナヤに至ったころは、ついに絶望と見るほかなくなった。  馬を買いたい、と村長に相談したところ、近くにあったキルギス人の酋長《しゅうちょう》の天幕に案内される。客が来たと知ると、キルギス人たちは数十頭の馬を牧場より引いてきたが、みな意に満たない。そこに酋長は、わが愛馬のうち一を選べとて、数頭を引き出した。ところで馬のよしあしはひと目で見分けられるものではない。よって余は、 「おまえを信用するから、遠征の目的にかなう強健な馬を選んでくれ」  と言うと、鹿毛《かげ》の馬二頭をさし、これは兄弟の馬で強さは同等という。よって一頭を選び、価を問うたが、なかなか言わぬ。はっきりせよ、と迫れば、「百ルーブル」 「あまりに高すぎるではないか」 「では貴下のおぼしめしで」  という次第にて、七十五ルーブルで買いとった。  かくて寝に就き、翌日よりは二頭を交代に乗ろうと考えていたが、たちまち庭中に人の騒ぐ声がする。何ごとか、と起きて出れば、「うらる」がまたもあばれ出したのであった。「うらる」が疲労しているうえに、かくのごとく狂暴では、二頭を並び連れること、思いもよらぬ。さればとて新馬一頭に乗りつづけては、疲労することは明らかである。しかたない、もう一頭買おうと思い定めて眠りにつく。  翌朝、村長を招き、「『うらる』を与えるから、もう一頭買ってくれ」と頼むと、大いに喜んで、昨日の牧場より求めてきた。価を問えば三十ルーブル。さては、と昨日の酋長の態度を考えれば、苦笑するほかはない。  九十三日を共にした「うらる」とも、これで別れである。その狂暴には悩まされたものの、行路の苦しみを思えば、惜別の悲しみもまたひとしお。一片の黒パンを与え、首をなでて、連日の労苦を慰め、記念のためにタテガミの毛を切り取った。  かくて出発。二頭の馬をかわるがわる用いつつ、八月三十日セミパラチンスクに到着。しかし馬は酋長のことばにもかかわらず、足弱くして疲れやすく、時にはムチ打っても進まない。キルギス人の信義のなさを痛感した。  セミパラチンスクには六日間とどまり、軍政長官以下の接待を受ける。なお、この間に防寒の準備を整えた。今や、天ようやく寒く、すでに華氏五、六十度に下っている。進んでモウコの寒地にはいるためには、どうしても防寒着が必要であった。しかも新馬の購入などにて、懐中とぼしく、わずかに五百ルーブルを余すばかり。イルクーツクに電報して七百ルーブルを取り寄せ、もって今後の備えとした。六日の滞在も、そのためであった。  旅装は整った。しかしモウコに行くには、なお通貨が必要である。モウコには貨幣なく、磚茶《せんちゃ》(シナ茶の一種)がその代用をなすというが、かさが大きくなるから、とうてい運べない。ただモウコ人は銀を最も好むというところから、六日の間につとめて銀の小片を集め、二百ルーブルを銀片に替えて、袋四個に納めた。  九月六日出発。長官夫人は小さなサモアル(湯わかし器)を贈り、マシコフ参事官はキルギス風の鉄のムチを贈与された。余が、ここから東シベリアを横断し、モウコ・満州を過ぎて東京に帰るまで、一日も手を離さなかったのは、このムチであった。      アルタイを踏破  道はイルチシ川に沿い、路傍にはところどころ老松の緑したたらんとするを見る。荒涼たる広原を乗って来た目には、景趣すこぶる快く、さらに遠くを望めば、一帯の遠山が、はるか地平線のかなたに、かすかな青みを点じて行人を迎えるかのように見渡される。アルタイ山である。  やがて道はようやく高低を生じ、次第に山地に近づくとの感じをおぼえるところ、九月九日の夕刻、ウストカメノゴロスクに着く。この地は山間の小市街にて、海抜八百尺。人口四、五千に過ぎぬ村落の光景を呈するが、ロシアと清国との国境上の要地であって、歩・騎・砲兵の各部隊が駐屯している。  ここでまた馬を買った。二頭のキルギス馬は意外に弱く、かつ前途にアルタイの難路をひかえているため、山間になれた馬を求めたのである。警部長に頼み、月毛の馬の百四十ルーブルというのを、七十五ルーブルで世話してもらった。先の二頭のうち一頭は、記念として警部長に贈った。  九月十二日午前六時、多くの文武官に見送られて出発、アルタイ山脈にはいる。これより投宿するは、すべて寒村の駅舎であって、磚茶《せんちゃ》と黒パンのほかには何もないところが多い。砂糖さえないので、蜜《みつ》をもって代用した。アルタイ地方は道がけわしいために運輸が不便となり、かくも日用雑貨が欠乏しているのである。  十六日朝、イルチシ川に別れて、アルタイ駅道にはいった。これまで四十日間、イルチシ川に沿って毒気みなぎる野を行き、寂しさ限りなき境を過ぎ、その間の憂憤も清流のために洗われ、ひとり身の旅愁もこの水のために慰められたのであった。今や別れを告げようとする。「水よ、永遠に清浄なれ」と念じつつ、ムチを上げて山道に進む。行くことしばらくにして、遠く天地の一体となるかなたに、アルタイの雪が望まれた。  翌日の夜、アルタイ駅に着く。駅外には、同地に駐屯せるコサック連隊の中隊長が出迎えた。セミパラチンスクよりここまで六百七十キロ。この間、天は常に晴れて、気候もようやく冷ややかに、風光また美しくして、騎行もはなはだ快適であった。  アルタイ駅はロシア側国境の最前線に位置し、海抜三千二百六十尺の高所である。一中隊が駐屯して、夏期は駅外十数キロの山間、湖水のほとりに幕営を張り、湖水の凍結するに及んで駅に帰る。  これまでの馬は、もとより臨時の馬にすぎぬ。モウコの旅行に適する馬をこの地で求め、葦毛《あしげ》の五歳|駒《こま》の抜群なのを見て、四十ルーブルで買い入れた。これを「あるたい」と名づけた。さらに翌日、キルギス人の酋長がまた十数頭の馬を引いてきた。さまざまに試乗したあげく、ついに栗毛の六歳|駒《こま》を四十ルーブルで買う。これは「興安」と名づけた。これより、この二頭を乗馬とし、従来の二頭を駄馬《だば》(荷物用の馬)とすることとなし、モウコに入る準備として燕麦《えんばく》と鉄蹄とを積みこんだ。  さらに駅の官吏の注意もあり、しばしばモウコ地方に往来しているキルギス人一人をやとって案内役とした。かくてモウコ跋渉の準備は、まったく成ったのである。  九月二十日。夜来の雨はなおやまず、冷気しきりに膚《はだ》に迫る。いざ出発という時、使者が来て、しばらく待たれよと言う。待つことしばし、あまりに時刻が移るので馬に上り、雨のなかを出発する。時に午前九時半。そのとき再び使者があって、「どうか、そろそろ行ってください」と言う。理由のわからぬまま徐行すれば、やがて後方にクツワの音、ヒヅメの響きがして、一隊の騎馬武者が追いかけてくる。帽子をぬいであいさつするのを見れば、意外にも、美しい夫人や令嬢たちが男装して送ってきたのであった。  彼らは駅の官吏や士官たちの妻女であった。乗馬の心得ある者は、ことごとく男装して、夫たちと共に馬に乗り、余を数キロの先まで送ろうというのである。  やがて、雪をいただく高山のふもとに達した。人びとは馬を紅葉した老木につなぎ、枯れ草の上に毛布をしいて、互いに別れの杯をかわし合った。この人びとは長くアルタイ山中に住んで、そのけわしさを知っており、余が今や雪深き険悪の地にはいるを気づかって、かくもねんごろに見送ってくれたのであった。  名ごりは尽きぬが、いつまで時を過ごすこともできぬ。さらばと、ひとムチ。谷間をさして駆けおりたが、何やら呼ぶ声にふり返れば、一隊の女子と紳士はハンカチを振りつつ、口々に余の無事を祈って、高く叫んでいるのであった。  この日、行くこと三十六キロ、午後四時ジンギス台に至る。これはモウコ遊牧時代からの地名である。付近はキルギス人の遊牧の地で、天幕のほかは一軒の家もない。やや高い所に幕を張ったのは、アルタイ駅中隊から分遣された一小隊の野営地であった。野営は五月から八月に及ぶという。山間幽谷の地にありながら、士気さかんで勇壮の色は営外にあふれている。  翌二十一日、小隊長は余を送って、東方二十二キロのウロルスクに至る。ここはアルタイ村落の最終点で、以東には一村落も一人家もなく、車道もまたここで尽きる。見送りのなかにキルギス人の酋長がいた。年七十。ここにて余に向かって言う。 「年すでに老いてしまって、これ以上は送れない。ここでお別れしたいのだが」  余は、その厚い好意を謝して別れ、さらに小さな頂きのうえで小隊長とも別れた。  これより以東は、いよいよ急なる山道を上る。高さ約二千尺あまり。巨岩はそびえ立ち、大小の石は道に横たわり、ガケはまた削ったもののごとく、一歩を誤れば人も馬も、たちまち千仭《せんじん》の谷底に落ちるであろう。  二十二日、曇り。山はみな白雪をおび、やがて雪は雨にまじって冷気はげしく、摂氏八・七度に下がる。進むにしたがって雪はいよいよさかんに、帽を吹き面を打ちて、美しかるべきアルタイ山中の緑樹も見えず、いや眼前の寸尺さえ弁じがたい。雪は岩石を埋めて堅氷を結び、馬はその間を行くに、しばしばすべってつまずこうとし、膚《はだ》に粟《あわ》を生じたことも幾たびかあった。  ようやくにして岩石の間をたどり、山上に至れば、狂風ひとたび起こって雲を散らし、雪やんで天は晴れた。満目の風光は一変し、アルタイの満山の緑に包まれた姿が、今や一白全山、白光は輝きわたり、まさしく隔世の感があった。四面の山の、高く雪線の上にそびえるものは、一万尺以上の高さがあろう。しかも一万尺の高山が、あたかも丘の起伏のごとく、もって余の位置がいかに高所にあるかが知られるのである。  山上を行くこと数キロ、そこにも幕営があり、税関守備兵十一名が駐屯していた。一年交替の駐屯だという。六、七月に雪が降るというから、厳冬のころの寒さがしのばれよう。その夜は幕営に投宿した。食料は日数のたった黒パンと、キルギス人より得る羊肉だけである。  翌日はまた山中を行き、キルギス人の幕舎に泊まる。二十四日、朝七時半、岩道を登り、沢を渡って進むこと六キロ。十一時アルタイ山の絶頂たるウランダパに達した。ダパとは峰という意味である。海抜九千三百尺。  ここはロシア、清の二大帝国の境界である。国境の上に立って見渡すに、何らの境界標もない。境を守る人もない。荒涼として、風はむなしく木々のこずえを鳴らし、怪鳥の叫びすさまじく、巨岩と怪石とがただ道に横たわるばかり。  余は馬を下り、路傍の巨岩に上って、小刀をもって岩石に刻んだ。 「大日本帝国陸軍歩兵少佐福島安正|経過此地《このちをすぎる》」  かくて余は、さらに叫んだ。 「アルタイよ、汝の名は天下に高しといえども、いまわれ、汝より高きこと、まさに数尺」  ついに岩を下り、馬にまたがって西方はるかにロシアの山河を望み、「ロシアよ、さらば」と呼びつつ、ひとムチすれば、馬はここに清領モウコの土を踏む。      清国領に入る  アルタイ山を下れば、すでにモウコである。その風景は西方とまったく異なり、折り重なる山岳はみな禿山《はげやま》で、一本の樹木もない。山も谷も石つぶてがころがり、山中もとより道路もない。案内者の記憶に従い、谷に沿ってたどり行くばかり。谷といっても水は流れず、いくつかの流れが会する谷ですら、水声はかすかに聞こえる程度である。  ここで昼食をすまし、谷を降りて行くこと数キロ。右岸の方にあたって、もりあがった土マンジュウのようなものが、ところどころに落ちたのが見える。案内者に聞くと、モウコ人の天幕で、近ごろ水草を追って移ってきたものだろう、という。  幕の近くに至ると、たくさんのモウコ犬がさかんにほえ立てる。モウコ人が出てきて犬を制し、余をタイジ(台吉)の幕舎に導いた。タイジとは部落の長のことで、モウコの貴族である。おそらくジンギス汗の一族か、勲功あった将軍の子孫なのであろう。しかも、その貧しいさまは、見るに忍びない。  タイジは余を幕舎の中に入れ、タバコをすすめたのち、旅行免状を示せと求めた。余は清国総理|衙門《がもん》(今の外務省にあたる)の交付せる査証を差し出した。タイジも部落民も漢文は読めないが、総理衙門の印章を見て納得したらしい。  次の部落を聞くと、近い、と言う。よって馬に乗って出発したが、タイジは案内人を出してくれた。谷の左岸を行くに、道は狭くて馬の進むのがやっとのことである。キルギス人の案内者は、あちこち歩きまわっていたが、 「前にもここを通ったことがあるんだが、いま光景はすっかり変ってしまって、どこに部落があったのかわからない」  と言っている。思うにモウコ人は草を追って居を移し、一つところに定住することがないのである。荒涼たる四辺の光景をながめ、七百年前、欧亜の天地を席巻したモウコ人の往時の威勢を思うと、深い感慨にとらわれるのであった。  ふと左右を見れば、案内者が居らぬ。夕日は赤く空を照らして、風の色も惨憺たり。はるかに前面を望むに、一人の案内者は馬を駆って遠くを走る。今夜の天幕を求めに行ったのであろう。遠く後方を顧るに、一人の案内者は馬を降りて地に伏し、西天に没しようとする夕日に向かって礼拝している。キルギス人はみな回教を信仰し、一日に少なくとも三回は、顔と手とを洗い清めて、西のかたメッカに向かって礼拝するのが常である。いかに忙しくとも怠《おこ》たることがない。ややあって彼も追い着いてきた。星空のもと物さびしき石の道を登ること数キロにして、天幕の地に達する。時に午後七時半。  翌二十五日は早朝に出発。三たび山を越える。その三つ目の山はハイチンダパといい、海抜ほとんど一万尺。遠征中に通った中での最高の山である。高度をはかろうとして計器を出したが、象牙の部分が割れて度を示さない。山は高いが雪なく、空気もかわききって、人馬ともにノドのかわくのをいやすすべがなかった。  山を下れば道けわしく、岩石が多い。小坂を上ってしばらく行けば、七つ八つの天幕が並ぶ。スオックという部落である。国境の要地で、清国の官吏が駐在している。アルタイ駅を出てから六日、苦しい山越えをして、人も馬も疲労が激しいから、清国官吏の助勢をえて、一日の休養を取ろうと考えた。  官吏の幕舎には、赤い布に「令」の字を白く染めぬいた旗が立っている。幕内には、中央にロシア製の暖炉《だんろ》あり、床には毛布をしいて一尺ばかりの小机を置き、左右に赤い座ブトンがある。これが主人と客の席である。  余は幕内にはいって、まずあいさつをなしたるも、彼は官帽をかぶったまま尊大にかまえ、答礼もしない。余はみずから彼の右方の客席についた。彼は口を開いて聞く。 「何の用あってまいったか」 「余は日本帝国の福島少佐である。モウコ地方を旅行して、この地を過ぎ、人馬やや疲れたゆえに、宿を取りたい」 「しからば査証を示せ」  よって査証を提示したが、そこには『検査放行』(しらべた上そのまま通過させよ)の文字がある。 「ここには検査放行とあるばかりだ。助勢せよとは記してないから、あずかり知るところではない」  これでは取りつく島もない。余は、ことばをやわらげて、 「宿舎はなくともいたしかたない。ただ少量の羊肉を周旋せられよ」  と申すに、なおいわく。 「査証には、そのことも記してない。かつ我は官人である。貴下の頼みは私事である。あずかり知るところではない」  かたわらにモウコ人の通訳がいた。案内のキルギス人をののしり、また余の勲章を見て、 「こりゃ、洋鬼子《ヤンクイズ》のものだ」とあざけり、無礼をきわめる。余は、これを一喝《いっかつ》した。 「だまれ。なおも無礼をいたすと弁事大臣(コブトの長官をさす)に訴えて、厳重に処分させるぞ」  ようやく、おとなしくなった。  清国官吏はまた言った。 「査証には貴下一名の姓名があるのみで、従者ありとはしていない。よって二名の通過は許さない」  これを聞いたキルギス人は進んで官吏に向かって言った。 「主人は高等武官である。従者を伴うのは当然であって、怪しむに足らぬ。査証にしるす必要があるものか」  官吏は、さすがに黙ってしまった。もはや千万言を費やしても益はない。憤然として立って出た。国境の要地の官吏が、事の道理に暗く、外国の形勢に通ぜぬさまは、かくのごとくである。しかも通過したところには一兵もいない。これをもって精錬、勇壮なるロシア軍に直面しているのである。両国の将来は、果たしていかがであろうか。  官吏の幕舎は出たが、案内者たちは疲れきった様子である。 「日も暮れようとしているのに、どこに天幕があるか、わかりません。どうしましょう」 「馬のクラを枕に、野宿をしようや」 「食べるものがありませんが」 「馬に食わせる燕麦《えんばく》があるわ。これで、飢えをしのごう」  そう言って余は、先に立って歩いた。時に後方から追いかけてくる者がある、見れば、先ほどのモウコ人通訳であった。しきりに自分の天幕に来い、とすすめている。余は彼の無礼を起こっているから、返答もしないでいたが、二人の案内者は疲労に堪えず、その幕舎に行こうと願ってやまない。しかたなく、かのモウコ人の天幕に伴われた。  その通訳は、余に羊肉を高いねだんで売りつけようとしたのであった。案内者は「高いですよ。買ってはいけません。私はすこしですが脂肉《あぶらにく》を持っています」と注意する。モウコ人は、もちろんロシア語を解さない。しかし、儲けの邪魔をされたことは、様子でわかったらしい。ひどく怒って余に言った。 「奴らは今でこそ貴下の随行だから、通過は許すけれども、帰りに査証がなかったら、必ず懲罰を加えてやる」  モウコ人は妻と共に、新鮮な羊肉を目の前で調理し、余の前に差し出したが、案内者にはさわらせもしない。余は、彼らにも与えよ、と頼むが、どうしても与えぬ。しからば、と余も辞退して受けつけなかった。すると案内者たちは感激し、その脂肉を余にすすめる。余はパン粉を出して茶と共に食し、飢えをしのいだ。これより案内者たちは、ますます忠実に奉仕するに至った。  その夜、彼らは夜どおし幕外にあって、馬を守り、余は短銃を枕にして明けがたに及んだ。      西北モウコを行く  明くれば九月二十六日、午前八時四十五分出発。左右はみな山にして、中に草野があり、行くこと数キロ。モウコに入ってより初めて一隊の旅人と会う。ロシア商人二名が、コサック兵二名と連れだって跋渉してくるのであった。聞けば、コブトよりウランダパを越え、アルタイ駅に至ろうという。アルタイ山中はすでに雪だと伝えると、顧み合って色を変じた。さらに彼らの語るを聞けば、このさき数キロのところにロシア商人あり、幕を張って商業に従事しているとのことである。  行くことしばし、遠く左手に、一隊のモウコ人が水草を追って移動する姿が望まれた。軍隊の大演習のごとく、先頭は羊が四、五百頭、第二線は馬百余頭、第三線は牛五、六十頭、最後がラクダで、幕や器具を積む。正々堂々として隊伍を乱さず、実に広原の一大壮観であった。  さらに数キロにして、果たしてロシア商人の天幕があった。聞けば、ロシア宣教会から派遣された者で、この地にあること十八年、困苦にたえながら宣教と商業とに従事しているという。幕舎の中には、磚茶《せんちゃ》・タバコ・綿布類などを多くたくわえている。交通不便の北モウコの地であるゆえ、磚茶一枚の値段が三ルーブルにも上っていた。  時に一人のモウコ人が、ひどく酒に酔ってヨロヨロとやってきた。何やら口をきわめて主人をののしり、ついには顔にツバまで吐きかける有様。主人は隠忍して争わない。余は見るに忍びず、剣を取って立ち、その無礼を叱咤《しった》すると、彼は色を失って立ち去った。商人は余に感謝して、 「こういう者がしばしばやってきます。それでも忍耐するほかありません」 と言う。蛮地の生活が、これでも知られよう。その夜は幕内に宿泊し、翌日は午後二時出発した。  これよりコブト川を渡り、山を越え、谷に沿って行くこと五日。その間、モウコ人の小部落は各地に点在して、幕営を張っていた。十月二日、南に向かって山を越えると、右手の高地に湖水がある。大きくはないが、水は清澄であった。このところ馬は渇することがはなはだしかったので、走り寄って一気に飲んでいた。小憩して発し、またも峰を登れば、数キロにして眼界たちまち開け、山峰のめぐらす間を、ひとすじの水が流れ、城のまわりに天幕の連なる光景が望まれた。コブト城である。  余はアルタイ駅を出てより十三日、その間は高山と広野を進むばかり、貧しい幕営と牧畜の様のほかは一物も見ず、今や眼下に人煙繁華の地を望む。心神おのずから伸びやかとなり、ムチを振るって山を下り、城外に至った。まずアルタイ駅官の添書をもって、ロシア商人アサノフ氏をおとずれ、その家にとどまること二日、人馬の疲労をいやした。  コブト城は西北アルタイの要衝であって、清国の参賛大臣が駐在している。人口は約二千、おおむね中国内地から来たもので、商業に従事している。ロシア人の商人も数名おり、アサノフ氏は貿易商人頭取として領事の職務を取り扱っているのであった。  モウコの部落は、みな遊牧の生活で定住することがない。そこで部落と部落との間には案内人をやとう必要があるのだが、途中で案内人を替えるごとに多くの時間を費し、わずらわしさに堪えなかった。アサノフ氏は、余のために参賛大臣府に至り、部落ごとに案内人を出すよう、取りはかろうという。ところが大臣は、査証の中に案内をつけよと書いてないのを理由に、拒絶した。それをア氏は縦横に論破して、承諾を得たのである。  かくてア氏の尽力により、ウリヤスタイに至るまで、案内人を探すわずらわしさはなくなった。また中国語に通ずるモウコ人を得て調査の便にあてたいと思ったが、これもア氏の好意で適任者が見つかった。キルギス人の案内者には、十八ルーブルずつを与えて、ここから帰した。  時すでに初冬である。寒気も厳しくなっている。よってモウコ人の着用する羊の毛皮服や、長靴などを求め、燕麦を用意し、蹄鉄を改めて、準備まったく成った。ア氏やキルギス人の案内者たちに送られてコブトを発したのは、十月五日午前十時のことである。  人びとに別れて山上に至ると、一大門があった。凱旋門の形をなし、額をかかげて『鞏固《きょうこ》雄門』と題し、落款《らっかん》(署名)には「光緒《こうしょ》二年|科布多《コブト》参賛大臣|多倫布《ドロンプ》建之」と書してある。門柱にも文あり、右は『経文《けいぶん》』、左は『緯武《いぶ》』。思うに、清朝が威を辺境に示し、文を辺塞《へんさい》にしくことを表したものであろうか。 [#ここから1字下げ] 註――光緒二年は西暦一八七六年、わが明治二年で、福島少佐の通過よりは二十三年前に当たる。 [#ここで字下げ終わり]  城門より望めば、山下はるかに一大湖が荒野の中に光を放つ。これカラウス湖である。湖東の高峰は一帯に雪をいただいてそびえ立ち、互いに影をうつし合って、おのずから一幅の図画となる。湖畔には七、八の天幕が散在して部落をなしており、その夜はそこの幕舎に宿った。  翌日午前八時、天幕を出て湖東に至り、はるかに一天幕を見る。中国商人の天幕であった。雄門より見た高峰のふもとを迂回《うかい》、その地の部落に一泊。  十月七日、東南に向かって山に登り、また一大湖を見る。トルガノルである。ノルとは、モウコ語の湖である。一高山の下を行くに、山上には雪があった。過ぎゆくところは水草に富み、水辺には小樹が茂っている。  トルガノルのほとりに出たのは、八日のことであった。南岸より北を望めば、水光ただちに天に連なり、その果てもわからない。この日は風強く、波は岸を打って水の沸《わ》き立ち騒ぐさまは、海のようであった。湖畔の一帯は砂と石ばかりで、樹木なく、良草にも乏しい。カラウス湖にくらべれば、まことに物さびしい景色である。  湖東に連なる山中に入るに、山はみな流砂にして一滴の水なく、一株の木もない。風が吹けば砂は飛んで天にみなぎり、もうもうとして地をおおい、人馬の進むをさまたげる。この日は幸いにして風がなかったが、山を上り下りするごとに、馬蹄は深く砂中に没して、疾駆することができぬ。午後六時過ぎ、パハノルに着いたが、ここも水草乏しくて、馬に食わせることができない。馬は疲れがはなはだしかった。  翌日も砂の山を上下すること三たび。往々にして草はあっても、水がない。  十月十日、大河を渡る。さらに行くこと数キロ。このあたりも水草に乏しく、馬を牧することが困難である。夕刻、幕舎に着くころから、大風おこって怒号は雷のごとし。翌日も風はやまない。天暗く、砂石飛び、寒気はげしい上に空気は乾燥し、くちびる裂け、呼吸迫る。三つの峰を越えたが、ひろびろとした砂原で水草なく、部落に至れば、草はあっても水がない。終夜、馬に飲ますことができなかった。  かくのごとくにして進むこと二日。十月十三日に至り、はるかに一条の人煙を認める。ウリヤスタイ城外の市街である。二頭の駄馬《だば》は疲労はげしくして進まず、案内人が引いてようやく市に入ったのは、午後六時のことであった。アサノフ氏の添書をもって、ロシア商人ワセネフ氏をおとずれ、その家に投宿する。この家には草も燕麦も多く、馬どもは数日の疲労と飢渇とをいやすことができたが、駄馬のほうは病気にかかって、再起がむずかしく思われた。      モウコの諸部落  ウリヤスタイは海抜五千四百尺。コブトの東四百五十キロの地にあり、道路は四通八達、交通往来の衝に当たる。よって清朝は城をここにきずき、定辺左副将軍を置いて守らせている。しかしながらモウコの兵制は今や実を失い、通過した部落を見ても兵器は見あたらない。  この地でワセネフ氏の好意により、さらに新馬一頭を求め、また将軍から部落ごとに男一人、馬一頭を出して、余の行を助けることの承諾を得た。これよりクーロン(今のウランバートルでモンゴル共和国の首都)に至る道は地図にもなく、水草の有無も不明であるため、燕麦を携帯せねばならず、従来の馬では不足に思われたからである。かくてウリヤスタイにとどまること二日、新しい旅装を整えることができた。モウコ人の通訳は、ここから帰した。  十月十六日午後二時出発。行き行きて一山の下に達し、日すでに没したゆえ、一小部落に入る。通訳なきため、単身天幕に入って投宿を頼んだが、余がただ一人にて無縁なのを見て、群衆はあざけり笑い、侮慢こもごも至る。ウリヤスタイまでとは待遇が一変した。このように人を見て待遇を替えること、モウコ人の本当の姿を知るを得て、かえって研究には好都合である。この夜は土間で、クラを枕として明かした。  午前八時出発。谷水に沿ってゆけば、山はますます高く、樹木はあおあおと、水流の音も快い。ただ溪谷は縦横に流れ、いずれが進路なのかわからない。馬丁に導かれて行くこと26キロ、一部落に達した。  泊まった天幕には兄弟三人が同居し、長兄には妻があった。この夜、長兄は幕を出て馬を監視し、次兄は兄の妻と同じ床に入り、はばかるところなく戯れている。蛮俗、驚くばかりであった。  初め、余が幕に入るや、数人が集まってきて、何のあいさつもせずに、指さして笑い合っている。一人が進み出て問うた、「主《ぬし》ゃ、どこの汗《カン》か」。余が「日本汗だ」と答えると、彼らは顔を見合わせて首を傾け、みな「わからねぇ」と言う。彼らの頭には、ただ清国とロシアがあるばかり。その他の天地を知らないのだから、しかたがない。彼らは清の皇帝を満州汗《マンジュカン》と呼び、ロシア皇帝をオロス汗と呼び、その地位も勢力も、モウコの諸汗と同様だと考えているのだ。  天幕の主人は余がウリヤスタイで得た馬を見て、この馬は弱いから自分の健馬と交換しようという。見ると、すこぶる良いので、交換料に銀三|両《テール》を与えようと約束した。しかるに主人は余の袋いっぱいの銀を見るや、約束を変じ、五両なければいやだと言う。蛮人の強欲はかるべからず、と思い、ついに交換しなかった。  翌十八日午前九時出発。山を越えること三たび。最も高いものは海抜九千余尺、ところどころに雪があった。冷気は膚を刺し、正午には摂氏九度に下った。山下に一部落あり、日は高かったが次の部落が遠いので、泊まることにした。  天幕の主人は髪をそった老人で、モウコ字を書き、書物も読む。待遇もすこぶる厚く、余がロシア人でないことを知り、 「ロシアとシナと、どちらがよいか」 と尋ねる。余は答えた。 「今日はロシアのほうがよい」 「明日は?」 「知らぬ」 すると老人は喜び、余に向かって、 「ノイン(敬称である、閣下というがごとし)、よきかな、よきかな」と叫んだ。今日はロシアがよいが、明日は知らずと言った、その心情を喜んだのであろう。この夜のごときは、モウコにおいては、ただ一度であった。  翌日は九時出発。谷に沿って行く。夕刻に至り、プリエスナヤの馬は鼻口より粘液を出し、呼吸も迫って、地上に倒れ、手足も伸びきって、まさに死せんとした。この馬は、やや老いているので、余は常にスタリック(じじい)と呼んでいた。今や再起の不能なるを知り、悲しみつつ駆け寄って、馬首をなで、スタリック、スタリックと呼べば、馬はタテガミを振り、目を見はりつつ死んでいった。夕日もすでに沈み、あたりも暗くなっている。ああ、余は先に「凱旋」と別れ、「うらる」と離れ、しかしていま、この荒山において愛馬に死別したのである。辺地の旅に、馬は唯一の力であり友である。老馬の死体を見て悲しみに堪えず、涙をのんで立ち去った。その夜、天幕の主人から馬を買ったが、暴利をむさぼって二十|両《テール》というのを、八両に負けさせた。  二十三日、海抜八千五百尺の高山を越えた。ウランダパ以東の最高所で、シベリヤ国境バイカル湖に向かって低くなっている。  アルタイ山の東は、ことごとく高原で、みな八、九千尺の高さである。ために雨雪きわめて少なく、空気は乾燥していた。この分水嶺を越えると、地勢も気候も一変し、地は水草に富み、天も急に寒冷さをましてくる。  この夜、公用にしてウリヤスタイに行くというモウコ人官吏と同宿したが、官吏は傲然《ごうぜん》として礼を知らぬ。さらにクーロンにおもむくラマ僧の一行もやってきた。土人は彼らのために、深夜まで羊をほふって饗応し、立ち騒いで安眠することができなかった。  翌日もまた官吏とラマ僧をもてなして、余を省みず、命じても余がモウコ語に通じないので、言うことを聞かない。余がわずかに馬丁と馬とを得て天幕を出ようとすると、主人は初めて心づき、銀片ほしさに冷えた茶や、牛乳などを勧めたが、余は大喝《だいかつ》して馬に乗ってしまった。  この日も八千七百尺もの峰を二つ越える。余は朝から一ぱいの茶も一片の肉も得ず、飢渇はなはだしく、わずかに残った砂糖をなめながら進んだが、胃腸を損じたか、腹痛が激しい。午後、一部落に着き、幕舎に至って銀片と茶や牛乳・モチと交換したところ、部落中の者どもが集まってきて、牛乳・モチを持ち、銀片と替えてくれと言う。そこでみなに小銀片を与え、モチを得て、人夫どもに与えつつ出発したが、腹痛はやまない。食べたものもみな吐き出し、目はくらみ耳が鳴って、ほとんど卒倒せんばかりとなった。  ようやく四時ごろ、一幕舎に投じ、幕隅に寝て病を養った。天幕の主婦は親切にいたわって、羊肉の汁に麦粉などを入れてすすめてくれた。  二十五日も高原を歩く、その夜の幕舎は不潔きわまりなく、多くの男女が幕内に群がって余を囲み、笑ったり、持ちものを尋ねたり、わずらわしさに堪えない。かつ幕舎の主人は髪をそって仏に帰依し、念仏|読経《どきょう》をなしているが、残忍で酷薄、すこしも慈悲の心なく、その子が余のために茶をあたため、肉を煮て勧めようとしたのを、押しとどめる。さらに余が寝につくと、足を余の頭上に投げ出し、知らん顔して放屁《ほうひ》すること数度、その無礼さは言語に絶した。余は憤怒に堪えなかったが、こんな畜生にも等しい者を相手にするのも、おとな気ないと思い、隠忍して夜を明かした。  この夜、暴風しきりに至り、寒気にわかに加わったが、夜が明けて天幕を出ると、積雪三寸、山野は一面にうずもれていた。      腹痛に悩みつつ  十月二十六日、午前十時出発。寒気いよいよ激しい。雪を踏んで山を登れば、海抜七千八百尺の高山は、雪が氷結して坂はすべりやすく、馬が倒れそうになったことも、しばしばであった。日暮れ、一部落に至る。川にのぞみ、山を負い、夕日は河水に映じ、風光すこぶる美しい。  二十七日、部落長と少年二名を具して出発。タミル川を渡り、楊柳の樹間を過ぎれば、北方はるかに一市街を見る。中央に一高閣がある。これを問えばラマ廟《びょう》であった。一少年ムチを上げて来たり、廟をさして「来遊せよ」と勧める。「一覧する暇はない」と言うと、「あそこは念仏読経の所たるばかりでなく、また実に娯楽の場所なのだ」とのこと。「娯楽とはどういう意味か」と問えば、「さても、わからぬか」とばかり、手まねで言うに忍びぬことをする。「なおさら、わからん」と言えば、馬をひいている少年は「この年にして、まだ人情を解さぬか」と、あざ笑った。  ああ、ラマの勢力は過大となって弊害百出し、神聖なる寺院は娼楼《しょうろう》と化し、読経の場は売淫《ばいいん》の所と変じた。清朝がモウコを服属せし後、モウコ人を去勢せんとして送ったものは、ラマ僧であった。以来、モウコ人は気骨まったく消耗し、また往年の意気はない。かの荘厳なるラマ廟は、モウコ衰弱の一記念碑として見るべきであろう。  かくて東に向かって進めば、午後五時モホル部落に入る。ここを流れるオルホン川は、バイカル水系に属する大河であり、モホルは河東第一の部落にして、海抜五千二百尺の高地にある。部落の人心は温順で、幕舎の夫妻も厚く余を遇し、肉・茶のほか、松実まで馳走した。松実はモウコ唯一の果実であり、余もハッカ剤を贈って返礼とした。  翌日泊まった山下の幕舎は不潔のうえに、敷物も不十分であった。よって外套《がいとう》をまとって休み、一夜を明かした。早朝、三人の土人が来たり、主人と論争してやまず、一人は余をさしてオロス(ロシア人)なりとののしり、無礼にも余の膝《ひざ》に腰かけた。余は怒りのあまり、彼を一蹴《いっしゅう》し、憤然と立って鉄ムチをふるえば、彼らは辟易《へきえき》して、仰ぎ見ることもできぬ。人の弱きを見て暴を加え、強きに向かってはふるえ上がる、これモウコ人の性格である。  二十九日、山路に入る。満目、みな雪。加うるに天くもり、風はげしく、正午なお摂氏四度に下る。  三十日。北東に向かい、山を越えること三たび。雪は山野に満ちて、白一色のなかに幕舎点々と立つ。  三十一日。東南に進む。この日、天晴れて風なく、温度は摂氏十六度。四十二キロにしてパインゴール部落に達した。この夜、タイジの幕舎に泊まったが、彼は余がロシア人でないことを知り、丁寧に遇そうとしたのを、老婦が外から帰ってくるや、外人を厚遇しても何の益があろうかと押しとどめた。果ては夫婦げんかとなる。そのとき三子も帰り、老母を助けて余をののしり、無礼を加えた。  翌日、東南に行くこと数キロ。一渓流を渡り、雪を踏んで東北に進む。途中に一部落あり、小憩のおり、幕壁に楽器を見た。胡弓《こきゅう》である。主人の弾ずるを聞けば、漠北の胡野に切々たる哀調が流れ、旅愁おのずから迫り来たった。幕舎を出ると、日はすでに没している。月はこうこうとして雪にさえ、胡地の面目、さらに躍如たるものがあった。  二日。谷と山の中を行く。モウコにはいって以来、まったく穀類を食わず、肉食ばかりのため、便秘して大いに苦しみ、しんしんと頭が痛む。しかも下剤はなく、療養の方法もない。わずかに一ぱいの牛乳を得て、下剤に替えた。  明くれば十一月三日。わが天長節である。早朝に起床して、はるかに東天の一方に向かい、つつしんで天皇陛下の万歳を祝った。  夜来の暴風は朝になっても、やまない。大雪も降り出し、風は山野に入って、反響は雷のごとく、天地鳴動し、一天かきくもり、ほとんど寸尺も弁じない。この天候のため、人夫に応ずる者なく、ようやく二人の婦人が駄馬を引いて従った。三十八歳と十九歳の女である。馬にムチ打って風雪の中を行くさま、その意気の壮なることは、かえって男子をしのぐものがある。  四日、五日、北東に進む。便秘のため、心地ますます悪い。  九日。トラ川の左岸に沿い、東北に向かって進む。この日、朝は零下十二度、正午にも一度にすぎない。谷間に草は多く、地もやわらかで騎行には便利であったが、激動を腹部に感じて疾駆することができない。  十日。寒気最もはなはだしく、零下十七度。行くことわずかに二十キロ、一部落に着き、医者あると知って、招かせると、馬に乗ってやってきた。多くの革袋《かわぶくろ》をたずさえ、いちいちモウコ字で薬名を記している。  彼は左右の手で手首を取り、病状を診察したのち、袋の中からサジを取り出して薬を調合した。薬はみな草根木皮であって、チベットから来たもの、モウコ人の生命は一《いつ》にこれにかかっている。牛乳に入れ、せんじて飲めという。この夜、数服を飲んだところ、やがて放屁した。翌朝また来診し、薬をくれたので、銀塊を取って与えた。  十一日、トラ川の右岸に沿って進む。三たび山を越えた。天は晴れ、風もなかったが、正午なお零下十四度。仰いで天を見るに、雲でもない、霧でもない、一天もうもうとして日光をさえぎり、太陽の両側に光線が反射して、別に二日《にじつ》を生じ、反射した日影を貫いて虹《にじ》を生じ、まったく雲中の電燈のようである。物理の書には往々この現象が説かれているが、いま実景を目撃し、漠北冬季の天象の奇なるに驚いた。  十二日、東北東に向かう。零下十五度。天くもって寒気はげしい。この日、数日来の便秘がことにはなはだしく、腹痛に堪えられなくなった。よってしばしば馬を降り、野原を便所に代えたけれども、通じない。また徐行すること数キロ。腹鳴って痛み激しく、また下馬して試みる。通ぜんと欲しては、敵に追いついて引っつかみたるカブトのシコロのちぎれたるがごとく、口惜しきも力及ばず、今こそと思って満身の力をこめ、もはや肛《こう》やぶれ血流れてもなお、力をきわめて攻めかけて、一騎を切って落としては一騎を切り、ついに叱咤《しった》してことごとく敵の首級を得、十数日間の不快は、たちまち晴れて洗うがごとく爽快《そうかい》となった。  かくて馬に上るや、天くもりいても晴天のごとく、風は寒くも身にしみない。馬を一山の上に立てれば、すでにクーロンは眼下にあった。意気大いに上がり、ひとムチ、疾駆して直ちにクーロンに入る。時に午後二時であった。      バイカルのほとり  クーロンは四面を山に囲まれ、トラ川の右岸にのぞんで、漠北第一の繁華地である。ラマ教の大廟あり、チベットに次ぐ霊地として、遠くより参詣に集まるもの雲のごとく、堂坊が連なって一大市街をなしている。堂坊のほかはみな商店で、中国人あり、ロシア人あり、家はみなシナ風であるが、中に二、三の洋館もある。市街の処々に天幕の点在するのはモウコ人の幕舎、しかして市の東北の丘の上にそびえるのは、ロシア領事館である。  アルタイ駅より東、初めて郵便設置の地に達したので、馬をとどめること五日、旅行の概略を本国に報告した。連日の宴会には正賓として招かれ、モウコ旅行の困苦はまったくいやされた。なお、これより先は重い銀塊の携行をやめ、モウコ人の好みに合う雑貨類を携帯することとする。  クーロンを出発したのは、十一月十八日。これよりロシア領キャフタに至るまでは約三百二十キロ、八日間にて達することができる。地勢は北するにしたがって低く、気候もまた北にしたがって寒い。積雪は地をうずめ、堅氷は川をとざし、寒風は冷えびえとして骨を刺す。けれどもキャフタとの間は、ロシア商人の往来がさかんのため、部落も客を扱うのになれていて、クーロン以西のように人情も悪くはない。また侮慢を加える者もない。  二十五日、国境の売買城《マイマイチン》(今のアルタンブラク)を通過し、ついにロシア領に入って、キャフタに着いた。豪商二人、馬車を用意して余を迎え、学校をもって余の旅館にあてられる。かたわらに紳商クラブあり、その浴室にて二カ月ぶりに蛮地のよごれを洗い去れば、心気快然として、しかも室内の温度は十七度。鉄寝台の上に横たわった時の気持ちよさ、言い表わすべきようもないほどであった。  キャフタには、とどまること三日。連日の盛宴のあげく、同地の豪商たちより防寒の具を贈られる。  十一月二十九日、キャフタを出発。セレンガ川に沿って下る本道を捨て、貿易街道と呼ばれる最短の道を取る。これはセレンガ川を渡って、直ちに北に向かうものであった。氷を踏んで高原の中を行くこと五日。  十二月三日、初めてバイカルの湖畔のムサバヤ駅に達した。ここは湖上汽船発着の港であり、南より集まる物資は、すべてこの地よりイルクーツクに輸送される。冬期(一月−四月)結氷すれば馬ソリをもって湖上を走り、陸路はさびれて人の足跡もまれである。ただ船便が絶え、氷もまた硬くならぬ間のみ、湖岸の道が用いられる。  バイカル湖は東西に狭く、南北に長い。その面積は、ほとんどわが九州の二倍に及ぶ。淡水湖としては世界第一。余の経過した所は南岸の一部にすぎなかったが、煙波ひろびろと連なって際涯《さいがい》なく、水天《すいてん》まじわり合って大洋のごとし。道は急坂をなして、あるいは上り、あるいは下り、湖光を眼下に見る。時に北方の昼短い極のころ、日の出は九時、日没は三時。日中はなはだ短いゆえに、夜行くこと常に数里であった。毎夜、馬を湖上に駆り、時に馬を丘上に立て、首をめぐらせば月は東方に昇って、影の湖上に落ちるを見る。湖水はいまだ凍結せず、一面の波光は月色と映じ合って、月明らかに水青く、山白くして天は青く澄み、眼界すき通って心神ことごとく清められる。ああ、天下の巨湖にのぞみ、宇宙の勝景に立ち、空明澄徹の中にうそぶくこと、もとより遠征壮遊の客にのみ与えられるものであろう。  十二月八日、夜行二時間あまりにして、イルクーツク市に着く。イルクーツク市はシベリアの中心に位する第一の都会である。余は、この地にとどまること十日。駐屯の各部隊、病院、学校などを視察し、また参謀部長の好意によって、騎兵の氷上演習を見るをえた。この地、寒気は酷烈にして雨雪常に激しく、零下二十五度に下ることもしばしばである。一日、ロシア風の蒸しブロにはいり、室外に出るや、内外の寒暖の差が大きいために、呼吸を圧迫して苦しかった。  十二月十九日、イルクーツクを出発。再びバイカル湖畔の道をとって東に向かう。ムサバヤ駅にもどったのは二十六日のことであった。前日、この地を過ぎた時は、まだ氷結せず、汽船も湖上を走っていた。明月も天にあり、湖の色、山の姿、絵のようであったが、今は月なく、湖岸も氷結して、眼界まったく水を見ない。岸を打つ波音も聞こえず、道路は雪ますます深くして、寒さまたはなはだしいのを覚える。  二十八日、ついにバイカル湖と別れ、セレンガ川に沿って氷雪の中を進む。三十一日、ウェルフネウジンスク市に達した。この夜は実に本年の除夜であるが、ロシアは旧暦を用いて暦日が異なる。天涯《てんがい》の客は、ひとりさびしく旅宿にあって明治二十五年を送った。今年二月、ベルリンを発してより幾月か、海外万里の異域に、旅寝の夢を結んだ一年を回想して、感慨無量なるものがある。  明くれば明治二十六年一月一日、早朝に起きて、はるかに東方の天に向かい、新年を賀し、聖寿の万歳を祈り奉る。  二日、零下三十三度。  三日は零下三十六度に下る。  四日、ウ市を出て、チタに向かう。その間、約四百六十キロ、十一日にして達するをえた。寒気はますます酷烈に、馬の毛は氷結して、栗毛も今は白馬と化した。夜行には、外套《がいとう》二枚を着しても全身は氷のごとく、手足の指先は痛み激しくなって、ついに感覚を失い、わが身にあらざる感じとなる。さらに寒さが加われば、帽子も服も軍刀も、小刀もムチも、みなことごとく氷を結んだ。  一月十四日、ヤブロノイ山脈の頂上に達する。この山、海抜三千八百尺で、バイカル・アムール二大水域の分かれるところ。東方の水は、みな東流して日本海に入る。実にベルリンを発してより三百三十九日にして、初めて日本海に注ぐアムール水域に出たわけである。馬首を東方に向ければ、恍然《こうぜん》として夢のごとく、うたた壮快の感に堪えない。  十五日、山腹に沿って山間の高原に出れば、そこがチタであった。チタはバイカル州の首府として、行政上の要地である。新馬を求めるため、四日滞在。軍官のさかんな招宴がつづく。  十七日、騎兵連隊において、軍馬のなかより精選し、一頭の白馬を買う。「うすりい」と名づけた。はじめ「あるたい」は途上にてヒヅメを痛め、ビッコとなったゆえ、ここに捨てようかと思ったが、「興安」「あるたい」の交情は割るに忍びず、共に引いて帰ることに決心した。  一月二十日正午、チタを出発。これより駅ごとにコサック兵一名が交替して随伴することになる。行くこと二日、二十二日の朝、ツリナパポロシュナヤ駅を出ようとした時、チタの警部長は使者をつかわして、一書を送る。家郷よりの来信であった。開き見れば、天皇陛下は余の遠征を嘉賞《かしょう》し給い、去年十一月|御内帑金《ごないどきん》二千円を賜ったという。天恩の優渥《ゆうあく》なるに感涙を禁ずることができなかった。      結氷のアムール  一月二十六日、ネルチンスクに達した。この地、かつては清国領で、要塞をきずいてロシアに備えたが、今や城塞の後もない。気候は寒気酷烈で、二十七日には零下四十度に下った。  二十八日出発。連日、氷上を駆ける。霧はもうもうと立ちこめ、寒威は骨に徹し、帽も服も金属も、みな氷結する。二月二日のごときは正午に、零下四十四度までは寒暖計が示したが、それ以下は何度であるか、計ることができない。休むところも僻地《へきち》の民家となれば、茶はあっても砂糖なく、黒パンあっても肉なく、室は一枚張りであって、室の内外は温度の差が激しいため、ガラス破れて、風はそのすきまから刃《やいば》のように入り来たる。室内の暖気と室外の寒気とが戦い合って、蒸気が上るようであった。  外にあっては、鼻中すでに氷を結び、呼吸するごとに粘着するかのごとく、マツ毛もまた凍って氷柱となり、視線をさまたげる。しばし目を閉じると、氷がこれをとざして直ちに開きにくい。かつ、馬を走らせるごとに、帽子は動いて寒気がすきまから侵入し、脳が凍って痛みを覚えるに至る。馬もまた、しばらく進めば全身たちまち氷結するゆえ、少なくとも一時間ごとには、下馬してこれを払わねばならぬ。しかも、この寒天にかかわらず、馬小屋のないために、夜どおし露天に立たせておくほかなかったのは、哀れであった。  このころより頭痛と吐き気をもよおし、脈も百余となる。寒気にあたって熱病となったかと思うが、医薬を求める所もない。キレを水にひたして、頭部を冷やすばかりである。  道はシルカ川の氷上である。二月七日、左岸の一寒村に着く。バイカル州村落の終点である。これより東北方、パクレフスカヤ駅に至る二百キロの間には一つの村落もなく、河岸の七カ所に小屋があって、ソリの継ぎ立てをするばかり、しかも七軒の小屋は、互いにへだたること遠く、その間まったく人煙を見ない。称して七難所という。  連日、氷上を行き、河岸の小屋に泊まる。  二月十一日、紀元節である。余のベルリン出発の満一周年である。早朝、東に向かって天皇陛下の万歳を祝し、伏して国運の隆昌を祈る。顧みて日月の早きを思い、征途のなお遠きを望み、意気ますます奮い立って、さっそうと馬にまたがり、氷上を走る。  行くこと数キロ、日はすでに暮れ、四周は暗さをましている。三馬は駅を望んで疾駆し、汗流れて氷結し、全身みな白くなった。余は下馬して氷を払い、引いて徒歩する間、随伴の兵卒はソリを飛ばして、はるか前方に走り去った。「あるたい」「興安」の二馬も、また続いて走り行けば、余の引く「うすりい」もますます騒ぎ、二馬に従って駆けようとする。余はこれをとどめて乗ろうとし、路傍の氷塊に立って左足をアブミに置いた途端、腹帯ゆるんでクラは馬腹に落ち、馬驚いて、はね上がった。余はたちまち氷上に転倒し、いたく脳底を打って右手足の裏ことごとくマヒし、目はくらんで起きることもできない。  久しく氷上に伏し、やがて決然として立てば、頭頂に寒さを覚える。帽子を取って検するに、鮮血したたり落ちて、帽とエリとをぬらしていた。手で傷をあらためれば、ほとんど小指の先がはいってしまう。ここにおいて余は、万事休すとばかり、氷上に坐して死を待った。  死なぬ。天地は寂《せき》として声もない。やがて従卒はソリを駆って引き返してきた。乗馬至るも人なきを見て、変のあったことを知ったという。余の頭部に満ちた血を見、驚き助けてソリに乗せようとした。余は馬に乗ると言って立ち上がったが、目まいして進むこともできぬ。ついにソリに乗って行くこと七キロ、ウチョスナヤの小屋に入った。  小屋に着いたが、村も駅もないところであるから、医薬を求めるすべもない。余は命の旦夕《たんせき》に迫るを思い、文書をまとめて本国に送る準備をなした。時に小屋の主人は余の傷を見て言った。「この七キロ先に金抗がある。抗夫のために看病夫を置いているが、すこし医術を知っている」  まさに天幸であった。三時間を経て看病夫が来たり、傷の手当てをして言った。 「傷はさほど危険ではない。もし左右前後、一寸の差があったらば即死したろう」  出血が激しくて膏薬《こうやく》もはれない。布に石炭酸をひたして傷をおおい、ホウタイをほどこして去った。その夜は氷塊を枕の上に置き、氷を頭にあてながら、終夜眠れなかった。  翌日、ひる過ぎ、看病夫は防腐剤と防熱剤を持ってきた。かくて再び傷を洗い、出血もようやく止まったが、実に出血二十一時間、全身は蒼白《そうはく》に変じた。木の長イスの上に横たわること四日、まず快方に向かったので、ともかくも出発しようと決心した。ここの主人は親切で、鶏肉や肉汁を勧め、心を尽くしていたわってくれた。  二月十六日午前九時、傷を包んで馬に乗ったが、馬が駆けると頭にひびき、痛みに堪えられない。そろそろと進んだ。午後三時までに三十二キロを行き、ようやく七難所を過ぎて、パクレフスカヤ駅に達した。シルカ川は、この地でアルグン川と合流し、初めてアムール川(黒龍江)となる。  ここからブラゴエシチェンスクに至る間は、およそ八百二十キロ。しかもわずかに八つの村落と三十一の駅があるばかり、みな江上の氷を踏み、あるいは川に沿って岸べを行く。川は清国とロシアの国境となり、左岸は直ちにロシア領、右岸は清領満州であるが、右岸はことに人煙まれである。  二月十七日、初めてアムールの氷上を下る。午後三時、一駅に着いたが、東方は川をへだてて満州の一小村と対している。村には歩兵連隊の兵営があった。営外に数本の旗を立てている。まことに今日は、清国の暦(旧暦)で正月元日であった。旗は新春を祝すためのものであろう。  傷はなお出血する。時に看病夫を招いてホウタイを代えながら、連日氷上を進んでいった。  江上に三脚《さんきゃく》の木を交差し、中に木のカゴをつるしたものがあった。怪しんで近づいて見ると、カゴの中に中国人の首級がある。日数がたっているらしいが、寒風にさらされて顔の色はまっ黒。まだ腐敗していない。定めし、さらし首であろう。目に触れるもの、みな奇異のものばかりである。  泊まった民家は、みな小さくて不潔、窓は一枚ガラスのため、寒風が吹きこんで寒さ限りない。鶏も犢《こうし》も室内に養っていた。もし室外に出せば、直ちに凍死するという。  二十二日、アルバジンに着いた。ここまでは両岸みな山で平地すくなく、寒さもきびしいが、ここから先は南に下るにしたがって地勢が開け、平地も多くなって寒さもやわらいでくる。耕牧にも適し、人煙もようやく多くなっていった。  二十四日、傷もしだいに良くなり、今日からは疾駆しても痛みを覚えない。かくて三月に入り、その八日午後六時、ついにブラゴエシチェンスクに到達した。その地のコサック騎兵一中隊、途上に整列して余を迎え、余もまた軍隊の前に進んで答礼をなし、深くその好意を感謝した。      満州の広野を行く  ブラゴエシチェンスクはアムール川とセーヤ川の合流点に位し、右は直ちに清国黒龍江省に対している。軍政長官以下の盛大な歓待を受け、とどまること十日。  この間にウラジオストックに打電して、旅費八百ルーブルの送付を求め、また清国の官吏は査証の「検査放行」の字にこだわって、馬糧も与えず、旅宿も許さず、無益の時間を費やしたことが多かったので、今また清領に入るに当たり、こうしたわずらわしさを避けようと、ペキンの大鳥公使(圭介)に打電して、総理|衙門《がもん》(清国の外務省)から地方官に命令を与えられんことを依頼した。  十一日、電報が至り、中佐に進級したことを知る。翌日には大鳥公使から返電あり、願いが許されたことを報じてきた。  十七日、清国の官吏が来訪し、余に出発の日時および査証の有無を問う。余が査証を示すと、例の「検査放行」の文字だけのことに疑いを抱いているようである。よって総理衙門の電報を示したが、彼は英文を解せず、さらに総理衙門の印章がないから効力ない、と言う。電報に印章を要すると思ったのであろうか。腹をかかえるほかはない。  三月十九日午前十一時、ブラゴエシチェンスクを出発した。コサック連隊の将校および一中隊が余を送る。その夜は中隊の将校たちとともに、河畔のアムール汽船会社支店に投宿した。  翌二十日、愛琿《あいぐん》より清人一名が来た。愛琿副都統の通訳で、その内意を受けてきたものであった。午前十一時半、アムールの河上にてコサック中隊に別れを告げ、氷上を渡って午後二時、愛琿城に達した。ただちに副都統衙門を訪問したが、事に託して面会せず、ためにまったく要領を得ない。ここに至って総理衙門の照会が未着で、検査放行の文字が障害をなしていることを知った。  その夜は通訳の家に泊まり、今後の満州旅行のための必要品を取りそろえた。貨幣、馬糧、およびそれらを積みこむ馬車などである。看守としての中国人一名も、ここでやとった。  二十二日、出発に際して、愛琿副都統は世襲雲騎尉(将校の一階級)一人を随従させ、沿道では荷馬車を出して行李を輸送してくれることになった。行くこと二十キロにして黒龍江|站《たん》の駅舎に着く。ここで、また問答である。 「君は外にあること七年と聞く。査証はあるか」そこで査証を示した。 「査証の月日は光緒《こうしょ》十七年(一八九一)である。七年前ではない。また徳国|伯林《ベルリン》起程(出発)とあるが、徳国とは何の地か」 「余が査証を得たのが光緒十七年なのだ。貴国の西はロシア、その西が徳国(ドイツ)だ」  また余の胸をさして言う。 「それは何という玩具《がんぶつ》(おもちゃ)か」 「玩具とは何の言か。これ勲章である。功を賞し勲を表わすものだ」  さらに余が訪問した国名二十一国を聞かせると、そばの一人が尋ねた。 「まだ小人国、女人国、孔胴《こうどう》国などに行ったことはないか」 「孔胴国とは、どういう国か」 「胴に孔《あな》があり、富者が外出する時は、棒を胴の孔に貫ぬき、二人の男にかつがせるのだ」  また言った。 「君が行った二十一国は、みな小国ばかりだ。皇帝が億兆を統御する大国、中華のようなものは、天下に決してないじゃろう」  もはや話にならない。  愛琿より送ってきた雲騎尉は、二十六日に帰っていった。すでに小興安嶺を越え、満州の平野も目前にある。  二十七日。天晴れ、気うららかにして摂氏一・三度に上る。寒天に立つこと百七十八日にして温暖の気候に会った。道路の残雪もようやく消え、わずかに草間に点々としている。この日、メルゲン(墨爾根)に達した。  満州三省の面積は、わが国とフランス、ベルギーを合わせたのに等しく、土地も豊沃《ほうよく》であるが、人口はわずかに七百五十万にすぎない。うち黒龍江省は面積最も大きく、人口最も少ない。それも民人の移住を許さず、軍制をもって全省を治めているためである。盛京|吉林《きつりん》の二省は、自由に民人の移住を許し、府県の制を設けて、軍制と並び施しており、人口は日に増し、土地も日に月に開かれている。  また他の国は繁華の地ほど清潔であって、いなかとなるにしたがって不潔となるが、清国では反対に都会は不潔で、きたないが、へんぴなところのほうが、かえって清潔であった。  チチハル(斉斉哈爾)は黒龍江省の首府であり、将軍を置いて全省の政令を司《つかさ》どらせているが、市街も旅館も悪臭みなぎり、吐き気を催させるほどであった。ここに着いたのは四月三日のことである。  チチハルよりは、やがて大江(嫩江《のんこう》)の左岸に出、沿って下ること数日。駅路は田野の間を貫いて東に折れ、松花江のほとりに出る。駅路といってもアゼ道の中に一条を貫くばかり、わずかに一車が通じ得るにすぎない。さらに駅舎は多く不潔にして小さく、人びと群がり集まって、わずらわしさに堪えない。  土地、人柄ともに悪い満州の旅に、ついに余は病に倒れた。熱大いに発し、頭痛しきりに起こる。松花江畔の一小駅にとどまり、病を養うこと十八日。体温は三十九度五を示し、脈は百十に至った。医者の診察を請い、処方を受けたが寸効もない。カユを作り、卵と豆腐を煮て、食欲なくも無理に食し、昨日と過ぎ今日と暮して、ただ天命を待ったのであった。  五月七日、ようやく出発すれば、天地の風物は一変して、楊柳は新芽《しんめ》を生じ、野花は開き、満目の耕田は青み渡って、春色ようやくたけなわであった。九日、吉林城に達した。吉林は吉林・黒龍二省の中での第一の繁華地であるが、また第一の不潔境である。道路はやぶれて、ぬかるみ、でこぼこがはなはだしく、悪臭は鼻をつく。  吉林将軍はこの地にあって、一省の政令はみな将軍から出ている。翌八日、将軍|衙門《がもん》を訪問した。将軍は姓名を長順といい、すでに六十余歳。その容姿はいかめしいが、ことばは温和であった。茶を喫しつつ談笑のあげく、盗賊のことに及んだ。将軍は言う。 「この地はまことに盗賊が多い。捕らえれば殺しているが、今月も二日間に五十人を斬った。彼らのように人を殺し、財を奪い、死して悔いない者には、ただ斬《ざん》あるのみだ」  余は将軍に対し、これよりまた辺境に入るゆえに、一兵卒を出して便をはかっていただきたい、と申し出たところ、将軍は、 「そのことはすでに決定している。盗賊の出没地ゆえ、一、二の兵では役に立たない。士官と数人の兵を出して護送させよう」  と約束した。  吉林城外にスコットランドの教会から派遣された一医師がいる。グリーク博士という。その宅を訪れると、 「貴名を新聞紙上で知った、今ここで会えたのは喜ばしい」と、大いに歓待した。氏は、かつて吉林におもむくこと六回、初めは宿を貸す者もなかったが、往年万難を排して医術を開業した。しかもある日、市中を往来して兵卒数人に捕えられ、老樹の下に縛られて滅多打ちに会い、皮やぶれ肉ただれ、ほとんど死ぬばかりであった。やっとの思いで帰国し、公使に訴えて清国に照会したが、二年たっても落着《らくちゃく》しない。去年、氏は再び吉林に来て、施療院《せりょういん》を開いた。初めは外医を嫌うので苦しみを重ねたが、やがて中国医がサジを投げた大患も治療して効あってより、ようやく人びとの信用を得、今は医道も大いに行なわれて、殴打の恐れもなくなった、という。  余は熱病にかかって困ったことを話すと、氏は大いに驚き、必要な薬剤を調合しようとして、施療院に導いた。院は小さなシナ家屋であるが、五十人もの患者が診察を待っている。氏は順序に診察してゆくが、丁寧親切で、同胞に対するのと変りがない。中国人の助手が三人いて、氏を手伝っていた。薬を得て辞去しようとすれば、氏は門外まで送り、余が固辞するのを見て、「中国人に対し、外国人を扱う礼儀を知らせるのだ」と、門外で丁寧に手を握って別れた。氏が陰徳を積むことは、この通りであるが、なお市中を歩くと、群衆はののしりをやめない。婦人や子供たちはまったく外出しないという。      ついに遠征を終る  五月十四日、吉林城を出発した。将軍の言のごとく、士官一命と兵卒四名が余の護送に当たる。また沿岸の駅よりは荷馬車を出し、沿道に駐屯する兵営からは兵四、五人を出すことになっていると告げられた。ここから寧古塔《にんぐた》(今の寧安)をへて琿春《こんしゅん》に至るまで、群山は重畳として道路は険悪である。しかして山間には盗賊が出没し、行人を殺害するという。  途中小憩するに、兵士たちはアヘンを吸っている。昔は官吏や軍人がアヘンを吸うことは厳禁であった。今や清国の北境を守る練軍、しかも精英をもって称せられる兵卒も、またアヘンを吸うのを見ては、驚かぬ者があろうか。聞けば、かつては吉林の吸煙者は百の二、三にすぎなかったものが、今は百の六、七十に及び、兵卒で吸わぬ者はないという。一国の元気の消長は、これによっても知ることができよう。嘆かわしいことである。  十六日、前途に馬賊あらわれ、琿春より吉林に銃器弾薬を護送する一隊が襲われたという。兵卒どもは、これを聞いて色を失い、ふるえ出した。このあたり、四面みな山である。  十七日、雨が降る。兵卒たちは腰に傘をはさんでいたが、雨が至るや、馬上ゆうゆうと傘をかざして歩いてゆく。  かくて盗賊横行の山中を行くこと九日。沿道の駅舎の多くは、兵卒が分屯して盗賊に備えていた。しかも通るところは人煙まれで、駅舎にも物資はすくない。道中第一という大駅においても、肉・野菜を得ることができなかった。  五月二十五日、寧古塔《にんぐた》に着く。駐在の副都統は一隊を派遣して余を途上に迎え、また到着するや官吏を旅店につかわして接伴させ、慰問すこぶる丁寧であった。ここで初めて総理衙門の通達が届いたことを知る。吉林より護送した士官と兵卒には、この地で別れを告げた。  寧古塔はハルハ川の左岸にのぞみ、四山がその外をめぐっているが、山を越える道路が四方に通じ、山間の要地である。二十七日、出発に際しては、一官吏が至って副総統の代理と告げ、郊外には軍旗をもった一隊の兵が整列して余を送迎した。これより駅ごとに兵を郊外に出して余を送迎する。また駅舎には米飯・※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]卵・※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]肉などを準備して、応対も丁重である。これを清領モウコにおける官吏の亡状、黒龍江省における不便とくらべれば、その待遇は天地の差があった。これ、ひとえに査証の「検査放行」の文字がたたったものであった。  二十九日、ハルハ川と図們江《ともんこう》との分水嶺を越える。海抜二千七百尺にして、満州道中、最も険悪の地であったが、ウランダパのけわしさと比すれば、もとより同日の談ではない。山上には老樹うっそうと茂って眼界をさえぎり、岩石は道に満ちてノコギリの歯のようである。時に降雨はげしく、ぬかるみひどいために馬蹄を没し、騎行することができない。馬を降りて泥中を歩いた。  軍旗と兵の送迎を受けつつ、山間の道を行くこと五日。  あけて六月一日、高峰を越えること両度。さらに丘を越えて山上に達すれば、南のかたは谷が開かれて一水がその間を貫き、万畳の山脈が南に連なるのが望まれた。水はすなわち図們江にして、山は朝鮮|咸鏡道《かんきょうどう》の連山である。ここに東亜の両国の、名山と大川とが一望の中に集まり、壮快きわまりない。山下に一部隊が駐屯し、余を迎えて敬礼のうえ、明日の日程を問う。これを示せば、ただちに一兵を琿春《こんしゅん》に走らせて、到着の時刻を報知させた。  二日午後三時、琿春城に着く。この地にとどまること二日。その間、余は副都統を訪れて歓談し、副都統もまた余を旅店に訪問して談笑を重ねた。吉林将軍は満州の辺務|欽差《きんさ》大臣にして、琿春副都統はその副大臣である。彼、深く海外の形勢に着目し、その書斎には数百巻の蔵書あり、机上には万国地図を置いていた。余が在外七年間に歴遊した各国の形勢、および今回の遠征の経過を説くと、すこぶる同感する。談たまたま宗教のことに及び、余が孔子《こうし》の教は目前日常の大道を説き、これに過ぎる治世の要なく、仏教・キリスト教などの宗教にくらべて高きこと一等といえば、副都統は手を打って「快」と叫んだ。しかして言う、「これ千古の至論なり、同文同種の貴国人士にあらざれば、共に語るべからず」  琿春は、東のかたロシア国境を去ること二十キロ。実に境上の要地である。よって防衛軍約四千を駐屯せしめ、城は土をもってきずいていた。  六月五日、琿春を発し、親軍騎兵に送られて国境に至る。丘陵の頂きに茶店があり、これに小さい垣根をめぐらす。中に一つの銅柱が立っているが、これが清国の立てた国境標であった。余は、ついに四たび両国の国境を越えて丘を下り、十キロにしてロシア軍守備隊の屯所に達した。  六日。はるかに広々とした水を右手に望む。ポシェト湾である。この湾の水はただちに通じて日本海の水となり、故国の岸に寄せるかと思えば、懐郷の念たちまち起こり、帰心矢のごとく迫り来たった。  七日、八日、そして九日。ロシア軍隊の接待を受けつつ、丘陵を越え、草原を行く。  六月十日。騎兵二名と馬車一台を従えて進む。この日、天晴れて気暖かに、林間を過ぎれば蜂・アブなどが群がって飛び、人馬大いに苦しめられた。昼食ののち、ただちに山を登って山頂に達し、やがて馬を降りて徐歩しつつ林間を過ぎゆけば、緑樹の下に車をとどめて、白旗をひるがえす者がある。  近づいて見れば、旗には「歓迎」の二文字を記し、車のかたわらに三人が帽子を取って、余の安着を祝しているのであった。三人はウラジオ在留の日本人総代たる丸山、中川の二氏と大阪朝日新聞記者西村|天囚《てんしゅう》氏であった。余は思い設けぬこの歓迎に、同胞の厚意がしみじみとうれしく、夢かとばかり、感きわまって言うべきことばもわからない。互いに打ち見まもって落涙数行、ついに相伴《あいともな》ってイサエバ駅に達した。  翌十一日、ロシア騎兵の迎えを受けて、スイフン川を渡る。深林を貫いてゆけば、山色は緑濃く、ホトトギスの声は耳に悲しい。駅舎のあたりは、谷深くして水声とうとうと聞こえた。ここからは、早や一日にしてウラジオに達することができる。  六月十二日、明けがたに出発。四キロばかり行くと、後から車を走らせてくる者がある。追い着いて車上より三人の同胞が、余の健康を祝した。聞けばニコリスク(今のウォロシオフグラード)よりの帰途、昼夜兼行して余を迎えたのであるという。余は同胞の真情に、ただ感泣《かんきゅう》のほかはなかった。  かくて第一駅に着いたのは午前十時。ここでさらに四氏に迎えられた。しだいにウラジオに近づくにしたがって、あまりに厚い歓迎に、ただ涙がこぼれるばかり。多くの同胞、その他の人びとに囲まれつつ、午後五時、ウラジオストックのわが帝国貿易事務館に到着した。  余が単騎遠征の道に上るや、シベリアの荒原、モウコの漠野、厳寒酷暑の地がある。山河の嶮岨《けんそ》、跋渉の困難、あげて数えることもできない。もとより、これ期するところであった。ゆえにまた、ほとんど無事の生還は期待しなかった。しかるに行程三千五百里、日を数えること四百八十八日にして、天佑《てんゆう》にも無事にこの騎行を終り、いま、同胞の真情につつまれて、旬日ののちには祖国の山河を見ようとしている。感きわまって、涙せざらんとしても、なしがたい。  余の騎馬旅行は、かくてウラジオをもって終る。ウラジオ滞在中は、同胞およびロシア官民の厚い歓迎を受け、三月十六日、東京丸にて出発。元山に寄港し、釜山《ふざん》についたのは二十日であった。その夜、玄海丸に移乗し、二十一日長崎に着いた。ここに初めて故国の土を踏んだのである。  翌二十二日、下関をへて、二十四日神戸に至り、二十九日東京に入る。旅装を解かぬまま、ただちに宮城に参内して天恩に奉謝し、ついで上野|不忍《しのばず》池畔の歓迎場にのぞんだ。  その他のことは、ただ国民同胞の厚い同情と歓迎とであって、これを記すことは、かえって自賛に当たる。余は当時における同胞の厚情を、深く胸の内に銘記して忘れることができない。  かくして余が不肖《ふしょう》の身をもって、ともかくも公にしては官命の幾分を果たし、私にしては年来の宿志をとげることができたものは、一に天皇陛下の御威徳と、同胞の後援と、しかして広くドイツ・ロシア両国の官民、および中国官民の同情に負うものである。いま、さらにこれを回想して、ここに満腔《まんこう》の謝意を表する。 [#ここから1字下げ] 〔後記〕ここに掲げた『単騎遠征』は、福島安正の自筆になる報告書をもととし、また西村天囚が発表した『単騎遠征録』を参照した。福島中佐の文章も、その大部分は天囚の名文にもとづいたものである。いわゆる明治風の美文調で、今日では読解に苦しむところが多く、かつ軍事上の調査など、不必要と思われる箇所も少なくない。よって主要部分を抄出し、現在の文体に書き改めた。[#地付き](編集部) 底本:世界ノンフィクション全集3、筑摩書房    1963(昭和38)年10月15日再版 ※底本は、世界ノンフィクション全集に収録する際に、筑摩書房編集部により主要部分の抄出と新字新仮名への翻訳が行われています(後記参照)。 ※底本では、編集部後記の後『福島中佐歓迎の歌』黒川真頼作詞が載せてありますが、省きました。 入力:sogo 校正: ファイル作成日 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。