たけくらべ 川田順 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ませた[#「ませた」に傍点] -------------------------------------------------------  樋口一葉の命日(十一月廿三日)が近づいたので、私は久しぶりに「たけくらべ」を讀み返した。彼女が約一年居住してこの傑作の舞臺とした下谷區龍泉寺町界隈は、私にとつても幼少時代の思出の極めて深い土地である。  一葉が龍泉寺町の大音寺前に、私が其處と金杉通りを隔てた根岸のお行ノ松附近に住んでゐたのは日清戰爭の少し前の頃であつた。 「たけくらべ」がいろいろの觀點からしてすぐれた小説なることはことわるまでもないが、私が特に感じるのは、地方色が實に鮮明に描寫されてゐることである。大雜把にいへば、私は幸にも樋口一葉と同じ町内の住人であつたのだ。たゞ彼女が私よりも十歳とし上で、且つ境遇も異なつたので、不幸にも、今生で顏を合はせる機會に惠まれなかつた。  小説に描寫された新吉原の裏田圃も、お酉さまも、千束神社も、三島神社も、水の谷の原も、鶉の鳴いた横堀も、みな私に親しい處であつた。幻燈も、おはじきも、目かくしの福笑ひも、私の遊んだ遊戲であつた。子供達が表町組と横町組とに分れて反目し、祭禮の日に喧嘩したことは、龍泉寺に限らず、根岸でも同樣であつた。  小説中の小學校に集まつた生徒らと同じやうなのが、私の通學した「根岸小學校」でもたくさん見られた。惡太郎も、車夫の息子も、お寺さんのあと取りも、女郎屋の娘も、私の同級生の中に居つた。上級生には大黒屋の美登利のやうな、年齡よりもませた[#「ませた」に傍点]、仇つぽい女生徒もゐて、浮名を流したことさへあつた。それは鶯谷の或る料亭の一人娘で、色白の、大柄の、ややふとつた子で、とても小學校の小娘とは見えなかつた。評判によると、子供の初戀に共通な、淡々しいものではなかつたといふことであつた。小説の主人公の美登利にしても、副主人公の質屋の息子正太郎にしても、言語擧動が非常にませて[#「ませて」に傍点]ゐる。けれどもそれは不自然でない。あの頃の子供は今日の人々が想像する以上にませて[#「ませて」に傍点]ゐたのだ。かく申す私とても例外ではなかつた。當時下谷淺草方面で有名な代議士氏の娘と懇意になり、その娘を訪問する時に限つて一番いゝ着物を著せてくれと、母親にせびつた。着物を著換へて鏡の前に立つた。なんと、それは十一歳の私であつたのだ。私は又、女中のお竹が好きであつた。「鶉が鳴く横堀」の錢湯へは、彼女と一緒でなくては行かなかつた。柘榴口は湯煙でもうもうとして薄暗かつた。湯に浸つてゐるお竹の鼻を、湯の外から衝動的にぐいとひねると、よその小母さんの鼻であつた。「坊つちやん、もう一緒に連れて來ませんよ」とお竹に叱られて、私はべそをかいた。ませた[#「ませた」に傍点]話はまだまだ幾らでもあるが、思ひ出すと、老齡の今日でも顏が赤くなりさうだ。  三島神社の石垣に沿つた道を大音寺の方へ曲がつて、少し行くと、水の谷の原があり、ひろびろとしたその青い草原のまん中に清らかな池が湛へてゐた。「たけくらべ」では、その原で小學校の運動會が催されたことにしてゐる。或る七月の末、私は母親に内證で、一人でこの池に泳ぎに行つた。涼味を滿喫して歸つて來ると、三島神社と反對側の街角に酒屋がある。その酒屋の前で少年の私は立ちどまつた。店のまん中にピラミッドの如く積み上げた盥の山、その眞ツ白な山の頂上に一匹の素晴しく大きなトノサマバツタがとまつてゐた。私は直ちに下駄を脱ぎ、忍び足で近づいて、まんまと捕へた。片手に奴を握り、片手に下駄をさげて、逃げるやうにして街を走つた。この場合、バツタの所有權が酒屋にあつたか否かは、法律上問題であらう。けれども純眞な少年の良心は、それを「盜み」として呵責した。[#地付き](歌人) 底本:「文藝春秋 昭和二十八年十一月號」文藝春秋新社    1953(昭和28)年11月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。