職業を選ぼうとする人への手紙 トマス・ヘンリ・ハクスリ 吉田甲子太郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)拝啓《はいけい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)君は毎日|商業上《しょうぎょうじょう》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)[#7字下げ]千八百九十二年十一月五日、イーストボーン・ホードスリーにて ------------------------------------------------------- [#7字下げ]千八百九十二年十一月五日、イーストボーン・ホードスリーにて  拝啓《はいけい》  ほかの仕事が忙《いそが》しかったために、もっと早く君の手紙に御返事が上げられなかったのを大変《たいへん》すまないと思います。  私の考えでは、人間第一の義務《ぎむ》は自分の暮《くら》しを立てる道を見つけ、それによって自分の暮《くら》しのことで他人に迷惑《めいわく》をかけないようにすることです。そればかりか、世間《せけん》へ出て、実際的《じっさいてき》な役《やく》にたつ仕事を正確《せいかく》に注意《ちゅうい》ぶかくやってゆくことを覚《おぼ》えるのは、それがそのままごく大切《たいせつ》な教育《きょういく》なので、こういう教育の結果《けっか》というものは、ほかのどんな業務《ぎょうむ》に従事《じゅうじ》してもはっきりと表れて来るものです。自分で是非《ぜひ》やりたいと思うことがほかにあるのに、やりたくもないことをしている習慣《しゅうかん》は立派《りっぱ》なものとはいえません。私が若い時にこのわるい習慣《しゅうかん》からすっかりぬけ出していたら、どんなに多くの時間が倹約《けんやく》できたか知れなかったと思います。  すべて科学《かがく》の方面《ほうめん》で成功《せいこう》するには人一倍の才能《さいのう》と勤勉《きんべん》と精力《せいりょく》とを備《そな》えていなければなりません。これを備えているなら、君は毎日|商業上《しょうぎょうじょう》の仕事を片づけたあとで十分|暇《ひま》をみつけて、自分で科学者の仲間《なかま》入《い》りをする道をひらくことが出来るはずです。君にそういうものが備《そな》わっていないなら、君は商業を大事に守《まも》ってゆく方がよいのです。ほかの職業《しょくぎょう》を選《えら》んだなら、役にたつ立派《りっぱ》な社会《しゃかい》の一員となれたかも知れないものを、スコットランドの諺《ことわざ》にある「匙《さじ》をつくろうとして角《つの》をこわす」人のように、無理《むり》に自分に適《てき》しない学問の方面で仕事をしたがり、つまりは文学や科学の世界のつまらぬ居候《いそうろう》になる青年の運命《うんめい》、これほど望《のぞ》ましくないものは、まずありません。  この手紙は是非《ぜひ》君のお父さんにも御覧《ごらん》に入れて下さい。[#地付き]敬具《けいぐ》 底本:「日本少国民文庫 世界名作選(二)」新潮文庫、新潮社    2003(平成15)年1月1日発行 底本の親本:「日本少国民文庫 第十五巻 世界名作選(二)」新潮社    1936(昭和11)年12月16日発行    1998(平成10)年12月復刊 初出:「日本少国民文庫 第十五巻 世界名作選(二)」新潮社    1936(昭和11)年12月16日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。