ステリー・フレミングの幻覚 Staley Fleming's Hallucination ビアス・アンブローズ Bierce Ambrose 妹尾アキ夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)二人《ふたり》の -------------------------------------------------------  話をしている、二人《ふたり》のうちの、一人は医者であつた。 「せつかく先生に来ていただいたんですけれど、先生にはお分りにならないかも知れません。誰か神経科のお医者さんを、ご存知じやないでしようか? どうもわたしは気が変になつているらしいんです」 「べつに変つていませんよ」と、医者はいつた。 「どうしてだか、わたし、幻を見るのです。毎夜、目が覚めると、部屋のなかに、大きな、黒い、前足だけ白いニューファンドランド犬がいて、それがじつとわたしを見つめるのです」 「ほんとにあなたは、目が覚めている時、そんなものを見るのかしら。幻というものは、夢にすぎないことがよくあるものですが」 「ほんとに覚めているんです。時によると、寝たままの姿勢で、長いあいだ、犬と、にらめつくらをするのです――灯はいつもつけつぱなしです。そして堪らなくなると、ベッドのなかでむつくり体を起こすのですが、そうすると、もうなにも見えないのです」 「なるほど、その犬はどんな顔をしていますか?」 「こわい顔です。絵にかいた動物ならともかく、休んでいる動物は、みな同じ顔をしているものです。でもこれは本当の動物じやないのです。ニューファンドランド犬は、やさしい顔をしているものであるのに、どうしてわたしの見る犬は、こわい顔をしているのでしよう?」 「そりや、なんとも云えませんね。わたしは犬の医者じやないのですから」  自分で云つた冗談を笑いながら医者は、しばらく患者を尻目で見ていたが、 「フレミングさん、その犬は、殺されたアトウエル・バートンが飼つていた犬によく似ていますね」  フレミングは、椅子から立ち上りかけたが、また腰をおろし、強いて平静を装おつて、 「バートンはわたしも知つています。たしかあの人は――噂によると嫌やな死にかたをしたんでしたね?」  医者はまともに患者の目を見ながら、 「あなたの敵、アトウエル・バートンの死体は、三年前お宅と、あの人の家との間の、森の中で発見されたのです。致命傷は刺傷でしたが、手掛りがないので、犯人は分らずじまいでした。いろいろ、風説はあつたようですが、わたしにも考えはあつた。あなたのお考えはどうです?」 「わたし? わたしがそんなことを知るもんですか? わたしはあれからすぐ――いや、しばらくして、ヨーロッパへ行つたのです。旅から帰つて、まだ間がないのに、そんなことをおたずねになつても無理ですよ。じつは考えたこともないんです。その犬はどうしました?」 「その犬が、最初に死体を発見したのです。そして主人の墓場で餓え死にしました」  偶然の符合というものに、どんな冷酷な法則があるものか、私たちは知らない。ステーリー・フレミングが、飛び上るように椅子から立ちあがつたのは、必ずしも開いた窓から吹きこむ夜風が、狼のような犬の遠吠えを運んできたためでは、なかつたのかもしれない。医者の視線をあびながら、しばらく部屋を往きつ戻りつ歩いていた彼は、急に立ちどまると、どなるような声でいつた―― 「そんな話がわたしの病気と関係《かんけい》があるのですか、ハルダーマンさん? あなたはなんのために来て下さつたのか忘れていらつしやる」  医者は立ちあがつて、患者の腕に手をあてて、優しくいつた。 「ごめんください。あなたのような病気は、すぐ診断をくだすことはできません。明日まで待つてください。今夜は寝室のドアに、鍵を掛けないで、お休みになつてください。私は一晩ここで本を読んで過ごします。あなた寝たまま私を呼ぶことができるでしよう?」 「ええ、ベルがあります」 「そんなら、変つたことがあつたら、寝《ね》たままベルを押してください。お休みなさい」  気楽な姿勢で安楽椅子に身を沈めると、医者は赤くなつた石炭を眺めながら、長い間瞑想に耽つた。だが考えをまとめることは出来ないらしく、彼はなんども階段の見えるドアをあけては、耳を澄まし、それからまた大椅子に腰かけた。そのうち、彼は眠りにおちいり、真夜半をすぎて目を覚した。目を覚した彼は、消えかかつた火を掻きおこし、そばのテーブルの上にあつた本を取りあげて、その本の名をみた。デネカーの「瞑想録」であつた。なにげなくペイジをひらくと、 「すべての肉は精神をもち、したがつて、精神力をもつよう、神によつて定められているので、同様に、精神もまた肉の力をもつものなのである。そして、その精神が肉を脱却して別個の存在となつた後でさえ、その力をもつていることは、幽霊によつて多くの暴行が遂行されるのを見ても分る通りである。ある人々は、この力をもつのは、ひとり人間のみならず、獣類もまた同様であると云つている。そして――」  そこまで読むと、何物かが落ちるような音がして、はげしく家が震動したので、彼は本を投げすて、部屋をとびだし、階段を走りあがつて、フレミングの寝室のまえに立つた。だが、鍵をかけるなと云つていたに拘らず、そのドアには鍵がかかつていた。彼は肩をぶつつけてそのドアを開けた。寝着をきたフレミングは、乱れたベッドのそばの床の上で、最後の息を引きとりつつあつた。  医者が瀕死の男の顔を起こしてみたら、頭に傷が見えた。自殺だと思つた彼は「しまつたことをした!」と、呟《つぶや》いた。  だが、死後検査をしてみたら、深々と頸静脈に残つているのは、まぎれもない動物の牙の跡であつた。  それにもかかわらず動物はいなかつた。 底本:「宝石十一月号」岩谷書店    1954(昭和29)年11月1日 ※底本は新字新かなづかいです。なお拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。