須磨子の我儘と芝居氣 巌谷小波著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)俯視《うつむき》目 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)より好い[#「より好い」に傍点] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)「とう/\」 -------------------------------------------------------  須磨子の死は、少くとも大正八年劈頭の椿事であつた。而も頗る芝居氣のある所が、乃木式を假名で行つた樣でたしかに大向ふを呻らせもした。生憎僕は彼女とそれほど深く知らない、(ある新聞には文藝協會へ入つた當時の紹介者を僕である樣に傳へて居るが、それは誤りで、實は彼女の先失前澤氏が、私の知人であつたから、故藤澤淺次郎氏の俳優學校へ、同氏の關係した事は承知して居るが、その妻女を文藝協會へ入れた事は、後になつて聞いたに過ぎない。序だから斷つてをく。)隨て十分の批評は出來ないが、兎に角我の強い勝氣な女たる事は、彼女の成功した舞臺を通じてゞも確に認め得たのである。すればあゝ云ふ女の常としては、島村君の樣な男に對しては、常にあゝ云ふ態度を取つて居たのは、元より有り勝の事であると共に、その當の相手が、あんな死樣をしてしまつたとすると、その後でまた急に氣が咎めて、あんな死樣をしなければならなくなつたのにも、亦大いに點頭かれるのである。  無論あの死因には、他にも複雜な事情があらう。然しそれは追窮するにも及ばぬ。只一面、彼女の死は、彼女の爲めにも、亦死んだ島村君の爲めにもなまじ生き殘つて味噌をつけるより、より好い[#「より好い」に傍点]手段を取つたものだとは云ひ得る。  若し夫れ、遺骨の合葬問題の如きは、偶々彼女の我儘と、芝居氣とが、死後まで世間を騷がさうとするに過ぎない。あの乃木さんの時だつて遺言で家を断たうと云ふ事は、とう/\通されずにしまつたぢやないかまして須磨子の物の如き、必しも重きを置くに足るまい。  然し、たつて比翼塚が望みなら、僕に一大名案がある。それは今の藝術座の所に、抱月と須磨子を一基にした、新式の銅像をおつ立てることだ。その圖案にも案がある。即ち抱月君がフロクコートで、兩手をズボンのポケツトに入れて、例の俯視《うつむき》目に立つて居るとその膝の邊に取りついて、須磨子が泣いて居る形である。生前にさんざ尻に敷いた報《むく》ひは、死後には永く脚下に伏して、罪を公衆の前に謝すべきではないか。  若しそれが實現すれば、彼の陰氣な横寺町も、尾崎紅葉臨終の地なると共に、正に牛込の名所として大いに區の光彩を添へるであらう。 底本:「中外新論 二月號」株式会社中外新論社    1919(大正8)年2月1日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。