白い牙 ジャック・ロンドン Jack London 山本政喜訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)片耳《ワンイヤ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)見ろ! |白い牙《ホワイトファング》だ! [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)手※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]品を ------------------------------------------------------- [#1字下げ]第一部 荒野[#「第一部 荒野」は大見出し] [#5字下げ]一 肉の臭跡[#「一 肉の臭跡」は中見出し]  えぞまつの暗い森が、凍った水路の両側できむずかしい顔をしていた。木々は先程吹いた風に白い霜の覆いをはぎとられていた。そしていまやうすれてゆく光の中に、黒々と不吉に、互にもたれかかっているように見えた。茫漠たる沈黙が地上一帯を支配していた。土地そのものが荒涼の極みで、生命もなく動きもなく、いかにも淋しく冷たいので、その精神は悲哀さえも超えていた。そこには笑いを思わせるものがあったが、いかなる悲哀よりも恐るべき笑い――スフィンクスの冷笑のように喜びのない笑い、霜のように冷たく、絶対確実性のもつきびしさに通ずる笑いであった。それは生命の無效と生活の努力を嘲笑する永遠の、専横でひとにもらされぬ智恵であった。それは荒野、未開で心臓の凍りついた北国の荒野であった。  しかしそこに生命があった[#「あった」に傍点]のである、ちゃんとこの土地に、しかも挑戦的に。凍りついた水路を狼のような犬の一隊が骨折りながら下っていた。犬の密な綿毛は霜でむすぼれていた。犬の吐息は口から出るとすぐ空中で凍り、水蒸気のしぶきとなってとびだして、胴体の毛にとまり、かたまって霜の結晶になった。革の挽具が犬にかけてあり、挽革が犬をその後に曳いている橇にむすびつけていた。橇には滑子がついていず、丈夫な樺の皮でこしらえてあって、底の全面が雪の面につくようになっていた。橇の前端は巻物のようにまきあげてあって、前面に浪のようにおしよせてくる柔かい雪の津浪をおさえつけて下にしくようにしてあった。橇の上には細長い長方形の箱がしっかりと結えつけてあった。橇の上にはまだほかのものがあった――毛皮、斧、コーヒー・ポット、フライ・パンなどが。しかし主だったものはその細長い長方形の箱で、場所を一ばん大きくとっていた。  犬の先にたって、巾の広い雪靴をはいて、一人の男がせっせと歩き、橇のあとからもう一人の男が歩いていた。橇の上の箱の中には、自分で骨折ることのなくなったもう一人の男がねていた――荒野に征服され、たたきのめされて、ついに再び動きもあがきもしなくなった男が。動きを好むことは荒野のならわしではない。生命は動きであるから、生命は荒野にとって犯則である、それで荒野は常に動きを破壊することをねらっている。荒野は水を凍らせて水が海へそそぐのをさまたげ、木々の樹液をおいだしてしまう、それでついには木々もその強いしんまで凍ってしまう。そして何よりも一ばん兇暴にひどく、荒野は人間をふみにじり圧しつぶして、屈従させる――人間、それは生あるもののうちで一ばん落着きがなく、「すべて動きは結局動きの停止にいたらねばならぬ」という定言にいつも反抗している。  しかし先頭としんがりに、まだ死んでいない二人の男が、畏れず屈せず、せっせと歩いていた。二人の体は毛皮と柔かくなめした革につつまれていた。まつ毛と頬と唇が、凍った息の結晶に覆われて、顔の見わけがつかなかった。そのために二人は、幽霊の仮面劇、即ち何かの幽霊の葬儀をしている妖怪世界の葬儀屋のようであった。しかしそういう状態にあっても二人は、荒涼と嘲弄と沈黙の国に突入した人間、空間の奈落のように縁遠い異質の脈搏のない一つの世界の力と闘っている、巨大な冒険に夢中の、ちっぽけな冒険者であった。  二人は体のはたらきのために呼吸する以外にはものも云わないで旅をつづけた。八方これ寂莫、それが実体のある存在として二人にせまってきた。それは深海の強大な水圧が潜水夫の体に影響するのと同様に二人の心に影響した。それは果てしのない広漠さと変更を許さぬ命令のもつ重さでもって二人を押しつぶした。それは二人を押しつぶして彼らの心の一ばん奥底においこみ、そこから、ぶどうの汁のように、人間の魂のいつわりの熱情と有頂天と不当な自尊をすっかりしぼり出してしまった。そこでおしまいに二人は、自分らは弱い巧智と僅かな智恵でもって、偉大な盲目の四大〔地水火風〕と自然力の作用との相互作用の只中を動きまわっている、有限でこまかい、微小片であることをみとめた。  一時間が経ち、また一時間が経った。太陽のない短い日のあお白い光がうすれはじめていた。その時かすかな遠くの叫び声がしずかな空気に乗ってやってきた[#「やってきた」は底本では「やつてきた」]。それは急速に高まって、ついにその最高潮に達すると、そこで震えと張りをつづけ、やがて徐々に消えていった。それに一種の悲哀をこめた獰猛さと飢餓のための熱望といったようなものがこもっていなかったならば、それは迷った魂の号泣であったかもしれない。先に立った男が頭をめぐらしたが、やがてその眼が後の男の眼と出あった。そこで二人は、例の狭い長方形の箱越しに、お互にうなずき合った。  また叫び声が起って、針のような鋭いひびきで静寂をつんざいた。二人ともその叫びの出所をつきとめた。それは後方の、二人が通ってきたばかりの雪野原のどこかであった。またそれに答える叫びがおきた、それも後方で、二番目の叫びより左によっていた。 「やつらはおれたちをつけてるよ、ビル」と先の男が云った。  その声はしわがれて非現実的であった、しかもこの男はたしかに努力してものを云っていたのであった。 「肉がないんだね」と仲間が答えた、「ここ数日兎のあしあと一つ見つけない」  そのあと二人はもう何も云わなかった、しかしその耳は、背後で起りつづける追求の叫びに対して敏感であった。  暗やみが降りてくると、二人は水路のふちのえぞまつの杜の中に犬を追いこんで、野営を張った。火のそばにおいた棺が、座席と食卓の役に立った。橇犬たちは、火の向う側にかたまって、お互に唸りあったりけんかしたりしたが、暗やみの中へさまよい出てゆこうとする様子は見せなかった。 「おれは思うんだが、ヘンリ、やつらは天幕のごく近くにいるぜ」とビルが云った。  火のそばにつくばって、氷を一塊なげこんでコーヒー・ポットの沸きかえりをしずめていたヘンリはうなずいた。しかし棺に腰かけてものを食べはじめるまで何も云わなかった。 「こいつらは命の安全な場所を知ってるよ」とヘンリは云った、「こいつらは餌食になるより餌食を食った方がいいというところだ。こいつらは相当賢いよ、この犬どもは」  ビルは頭を振った。「いや、おれにゃわからん」  相棒はけげんそうにビルを見た。「お前が犬は賢くないてなことを云うのを聞いたのははじめてだ」 「ヘンリ」と相手は食べかけていた豆を念入りにかみながら云った、「おれが餌をやっていた時の、この犬どものあばれように気がついたかい?」 「いつもよりひどくあばれたね」とヘンリが承認した。 「犬は何頭いたっけね、ヘンリ?」 「六頭さ」 「さて、ヘンリ‥‥」ビルは自分の言葉を一そう重大にするために、しばらく話をやめた。 「さっき言ったように、ヘンリ、おれたちの犬は六頭だ。おれは袋の中から魚を六匹とりだした。犬に魚を一匹ずつやった、ところが、ヘンリ、魚が一匹足りないんだ」 「勘定をまちがえたんだよ」 「犬は六頭だ」と相手は冷静にくりかえして云った。「おれは魚を六匹とりだした。片耳《ワンイヤ》〔犬の名〕は魚にありつけなかった。おれはあとで袋のところへ戻ってきて、あれに魚をくれてやったよ」 「おれたちの犬は六頭だけだよ」とヘンリが云った。 「ヘンリ」とビルはつづけて云った、「みんなが犬だったと云うのじゃないが、魚を手に入れたやつは七頭だったよ」  ヘンリは食べるのをやめて、火をすかしてみて、犬の数をかぞえた。 「今いるのは六頭きりだ」 「おれはいま一頭のやつが雪の上をにげてゆくところを見かけた」とビルが冷静にきっぱりと云った。「おれは七頭見たよ」  ヘンリはあわれむように相手を見て云った、「この旅が終ったらおれはむしょうに嬉しいだろうよ」 「それはどういう意味だい?」とビルがたずねた。 「このおれたちの荷物がお前の神経にさわりはじめた、そしてお前にいろんなものが見えはじめた、という意味だよ」 「おれはそのことを考えた」とビルはまじめに云った、「そこで、おれはそいつが雪の上をかけさるのを見つけたときに、雪の上を見るとそいつの足あとが見つかった。それから犬をかぞえてみるとやっぱり六頭いた。その足あとはまだ雪の上にあるよ。お前はあれを見たいと思うかね? おれが見せてやるが」  ヘンリは答えないで、だまったままもぐもぐかみつづけた、そしてとうとう食事を終ると、最後のコーヒーを一杯のみほした。そして手の裏で口を拭いて云った。 「それじゃ、お前の考えではそいつは――」  暗やみの中のどこからか[#「どこからか」は底本では「どにからか」]きこえてくる、はげしくも哀しげな、長く号泣する叫びが、その言葉を中絶させたのであった。ヘンリは話を中絶してそれをきいていたが、それがすむとその叫びの方へ手を振って言葉を終った。「――犬のうちの一頭だというのか?」  ビルはうなずいた。「おれはほかのことよりそのことをいまいましく考えてたんだ。お前自身あの犬の騒ぎに気がついたろう」  つぎつぎに起る叫びと、それに答える叫びが、静寂を狂人病院に変えてしまっていた。八方から叫びがおきてきて、犬どもは恐怖をおもてにあらわして一しょによりかたまり、あんまり近く火のそばに寄ったので、毛がその熱のためにこげるしまつであった。ビルはもっと薪をなげ足しておいて、それからパイプに火をつけた。 「おれは考えてんだが、お前はちっと弱ってるね」とヘンリが云った。 「ヘンリ‥‥」ビルはしばらく考えこみながらパイプをすって、それから話しつづけた。「ヘンリ、この男の方がお前やおれなんかより、何ぼか運の好いことだろうとおれは考えてるところだ」  そして自分らが腰かけている箱の方へ親指をつきだして第三の人を指さした。 「お前とおれはね、ヘンリ、おれたちが死んだら、おれたちの死骸に犬が手をつけられないようにしておくだけの石をのっけてもらえれば運が好いというところだ」 「ところがおれたちには、この男のように、人間もかねもそのほかの何もかもないんだ」とへンリが答えた、「長距離葬儀はどうもお前やおれには及びもつかないことだ」 「おれの考えてるのは、ヘンリ、こういう男のことだよ、くににいりゃ閣下だか何だかで、食べものや毛布のことで気をつかうことはなかったんだ、それが何だって神の見すてた地球のはてまで出っぱりまわるんだ――がこれがどうもおれにはがてんのいかぬことだよ」 「うちにいたらすっかり老年になるまで生きていたかもしれないな」とヘンリが同意した。  ビルは何かいうつもりで口を開いたが、思いかえして、何も云わないで、八方からまわりにせまってくる暗黒の壁の方を指さした。まったくの暗黒の中にはものの形をしめすものはなく、燃えている石炭のようにぎらぎら光る一対の眼が見えるだけであった。ヘンリは頭でもう一つの一対の眼、さらにもう一つの一対の眼をさししめした。二人の野営のまわりに光る眼の円陣が描かれているのであった。時折一対の眼が動いたり、見えなくなったかと思うと一瞬の後にまた現れたりした。  犬どもの不安が増大していた、それで犬は突然に恐怖におそわれた様子で、火のそばへどっと逃げより、人間の脚のあたりにたちすくんだりはいつくばったりした。その場所せり合いのうちに、一頭の犬が火の端にひっくりかえった、そしてそのこげた毛のにおいが空にみちわたると、その犬が痛みと恐怖のために悲鳴をあげた。その騒ぎのために、眼の円陣がちょっとの間落着きなく動き、すこしばかり後退しさえしたが、犬が静かになるとまたおちついた。 「ヘンリ、弾薬がきれたのが運のつきだよ」  ビルはパイプをふかし終って、夕食前に自分が雪の上に敷いておいたえぞまつの枝の上に、仲間が毛皮と毛布の床をのべるのを手つだっていた。ヘンリはぶつぶつ云って、鹿皮靴のひもをときはじめた。 「薬包《たま》はいくつ残ってると云ったかね?」と彼はたずねた。 「三つだ」という答。「それが三百だといいんだがなあ。そしたらおれはやつらにものを見せてやるんだが、ちくしょうども!」  光っている眼の方へ怒ってこぶしをふってから、鹿皮靴をこがさないように火にかざしはじめた。 「それからこの寒気が急に止んでくれるといいと思う」と云いつづけた、「ここ二週間も零下五十度だったもの。それにおれはこの旅に出なきゃよかったと思うよ、ヘンリ。おれはこの様子がきらいだ。感じがほんとじゃないよ、なんだか。そこでおれののぞみをいえば、この旅が終ってけりがついて、今頃はお前とおれがフォート・マクガリ〔土民との交易市場の名〕で煖炉のそばに腰掛けてさ、クリベイジ〔カルタ遊び〕をやっているのだったらいいと思うよ――それがおれの願いだ」  ヘンリはぶつぶつ云って、床へもぐりこんだ。とろとろと眠ったころ、相棒の声によびさまされた。 「なあ、ヘンリ、あのはいりこんで魚を一匹とったほかのやつだがね――どういうわけで犬どもがそいつに襲いかからなかったのだろう? それがおれには気がかりなんだ」 「お前はあんまり気にしすぎるよ、ビル」とねむそうな答、「お前は以前にはこんなじゃなかった。ただもうだまって眠るんだ、そうすりゃ朝になるとすっかりさっぱりしてるよ。お前は気分が悪いんだ、それでくよくよすることになるんだ」  二人は一枚の毛布をかぶって添い寝して、はげしい息づかいをしながら眠った。火は衰えきって、光る眼が野営のまわりにひろげていた円陣を圧縮してきた。犬どもは恐怖してかたまり合い、時々一対の眼が近づくと威嚇するようにうなった。一度その騒ぎが大声になったので、ビルが目をさました。そして仲間の眠りをさまたげないように気をつけて床から出て、火に薪をなげ足した。それが燃えあがりはじめると、眼の円陣はずっと遠退いた。ビルは何げなく寄りかたまっている犬をちらと見たが、やがて眼をこすってもっとよく見た。それからまた毛布にもぐりこんだ。 「ヘンリ」と彼は云った。「おい、ヘンリ」  ヘンリは眠りから眼ざめに移るときにうめいていたが、やがて云った、「こんどはどうしたんだ?」 「何でもないよ」という答、「ただね、また七頭いるんだ。ちゃんと勘定したんだ」  ヘンリはそのしらせを受け取ったしるしにぶつぶつ云ったが、そのつぶやきはまたもうつらうつらと眠りこむにつれていびきにかわっていった。  朝になるとヘンリの方が先に眼をさまして、仲間を床からひきずりだした。もう六時だったが、夜明けはまだ三時間の後であった、そしてその暗やみの中でヘンリが朝食の支度にたち働き、ビルの方は毛布をまき、橇に犬をつなぐ支度をした。 「なあ、ヘンリ」とビルがとつぜんにたずねた、「犬は何頭いると云ったっけね?」 「六頭」 「ちがうよ」とビルが勝ちほこって云った。 「また七頭か?」とヘンリがたずねた。 「いや、五頭だ、一頭いなくなった」 「くそッ!」とヘンリは怒って叫び、料理の方はやめて、犬の数を勘定しにやってきた。 「お前の云う通りだ、ビル」とヘンリは結論した、「ファッティ〔ふとっちょ〕がいない」 「それにあいつかけだしたとなると油をひいた電光みたいにとんでいきやがった。烟のために見えなかった」 「見込みはまるきりないな」とヘンリが結論した、「やつらはまるで生きたままのみこんじまうんだからね。きっとあいつは、やつらののどを通るとききゃんきゃんないたよ、いまいましいやつらだ!」 「あれはもとから馬鹿犬だった」とビルが云った。 「しかしどんな馬鹿犬だったって、あんなぐあいに離れていって自殺するほど馬鹿であっていいということはないよ」ヘンリは推理するような眼で残りの犬の群を見わたし、たちまちそれぞれの犬の目立つ特徴を要約した。「ほかの犬はきっとあんなことはしないよ」 「棒でなぐったって火のそばから追払うことはできないさ」とビルが同意して云った、「ファッティにはどことなく具合の悪いところがあると、おれはかねがね考えていたんだ」  そしてこれが、北国の野道で死んだ犬の墓碑銘であった――もっとほかの多くの犬や、多くの人間の墓碑銘より貧弱ではなかった。 [#5字下げ]二 牝狼[#「二 牝狼」は中見出し]  朝食をすませ、貧弱な野営用具を橇に結びつけると、二人は楽しい火に背をむけて、暗やみの中へのりだしていった。たちまち、獰猛ながら悲哀をおびた叫びが――暗やみと寒気を貫いて呼びかわし、応答する叫びがおこりはじめた。叫び合いはやんだ。九時には夜明けがきた。日中には南方の空が暖まってばら色になり、地球のでっぱり〔地平線〕が正午の太陽と北方の世界の間にわだかまっている場所を標示した。しかしそのばら色は急速にあせていった。残った昼の灰色の光は三時までつづいたが、三時になるとそれもまたうすれて、極地の夜の黒布が淋しい音のない土地におりてきた。  暗やみがやってくると、右と左と背後の追求の叫びがさらに近づいてきた――あまり近接したので、一再ならず、それが骨折って橇をひいている犬ども一同に怒濤のような恐怖を感じさせ、つかの間の恐慌になげこんだ。  そういう恐慌が一わたりしずまると、ビルはヘンリと二人で犬どもを輓革につけもどしてから云った。 「やつらがどこかで獲物にありついて、そっちへいっちまって、おれたちをほったらかしてくれるといいんだがね」 「やつらはひどく神経にさわるね」とヘンリが同感して云った。  二人はそれから野営を張りおわるまで口をきかなかった。  ヘンリがしゃがんで、ぶくぶく煮立っている豆の鍋に氷を入れていると、なぐる音と、ビルの叫声と、犬の中からおこった鋭い苦痛のうなり声がきこえたのでびくっとした。いちはやくたちあがったので、おぼろげな姿が一つ雪原を横切って暗やみのかくれがへ消えてゆくのが見えた。それからビルを見ると、ビルは半ば勝ちほこり、半ばうちしおれて、一方の手に棒をもち、もう一方の手には日干鮭のしっぽと胴の一部分をさげて、犬の間に立っていた。 「あいつが半分とりやがった」とビルが云った。「しかしおれの方も同じく一つくらわしてやった、やつが音をあげたのがきこえたかい?」 「どんなふうなやつだった?」とヘンリがたずねた。 「わからなかった。しかし脚が四本で口が一つで毛がはえていて、いかにも犬のようだった」 「飼い馴らした狼にちがいない、とおれは思うな」 「ひどく馴れたもんだ、何であったにしても、飼いつけ時に此処へきてさ、魚の分け前にあずかろうってんだもの」  その夜、夕食が終って、二人が長方形の箱に腰かけ、パイプをふかしていると、光る眼の円陣が以前よりずっと近くせまってきた。 「やつらが大鹿の群だか何だかを狩りだして、おれたちをほったらかしていっちまってくれればいいのに」とビルが云った。  ヘンリはすっかりは同感しない語調でぶつぶつ云ったが、十五分間というもの、ヘンリは火を見つめ、ビルは火の明りからすぐ外の暗がりの中に燃えている眼の円陣を見つめて、二人ともだまっていた。 「ちょうど今ごろ、マクガリにたどりついているのならいいのに」とビルがまた云った。 「何とかしたらいいと云ったり、不平を云ったりするのはよせ」とヘンリが急に怒って云った。「胃がすえてるんだ。それで具合がわるいのさ。ソーダを一さじのんでみな、すばらしく気持がよくなって、もつと附合いよくなるから」  朝になって、ヘンリはビルの口から出るはげしい罵声で眼がさめた。ヘンリが片ひじついて体を起して見ると、相棒は薪を足した火のそばで犬の間に立ち、両手をあげて叱りつけ、顔は怒りにゆがんでいた。 「おーい!」とヘンリが呼んだ。「こんどは何事がおきたい?」 「フロッグ〔犬の名〕がいないんだ」という答。 「まさか」 「そうだよ」  ヘンリは毛布からとびだして、犬のところへとんでいった。気をつけて犬を勘定し、それから相棒と一しょになって、また一頭犬をぬすみ去った荒野の力をのろった。 「フロッグは中でも一番強い犬だった」とついにビルが云った。 「それに決して馬鹿犬でもなかった」とヘンリがつけて云った。  そこで二日後に二番目の墓碑銘がこういうふうに記録された。  陰気な朝食がすんで、残った四頭の犬が橇につけられた。その日は前にすぎ去った日々のくりかえしであった。二人はものも云わず、凍りついた世界の面をせっせと横切ってゆき、静寂は、眼には見えないが背後につきまとっている追求者の叫びによって破られるだけであった。午後の半ばに夜がくるとともに、かたの如く追求者が近づくにつれてその叫びがだんだん接近してきこえた。そこで犬どもが興奮しおびえて、へたに恐慌をおこし、輓革をもつれさせて、二人をなお一そうしょげさせた。 「そら、これできさまら馬鹿な畜生共も動けないだろう」とビルがその夜、仕事を終って腰を伸ばしながら、満足して云った。  ヘンリが料理をよして見にきた。相棒は犬をつなぎとめたばかりでなく、インディヤンのやりかたにならって、棒しばりにしていた。それぞれの犬のくびのまわりに革ひもをとりつけ、その革ひもに、そして犬がそれに歯をかけることができないほどくびに近いところに、長さ四、五尺の丈夫な棒をむすびつけていた。その棒の向うの端は、こんどは、地面にうちこんだ杭に革ひもでむすびつけていた。犬は棒の自分の方の端にむすんだ革をかみきることはできなかったし、棒がじゃまになって、棒の向うの端に結びつけた革にも口がとどかなかった。  ヘンリは賛成だと云わんばかりにうなずいた。 「片耳をおさえておくにはこういう考案に限る。あいつはナイフと同様にきれいに、しかもまるで半分ほどの時間で、革をかみきることができるもの。こいつらはみんな、朝にはさっぱりしてここにいることだろう」 「きっとそうだよ」とビルが断言した。「もしこのうちの一頭でもいなくなっていたら、おれはコーヒーを断つよ」 「やつらは、おれたちがうち殺すたまをもたないことを、ちゃんと知ってるよ」とヘンリが、床に就く時に、自分らをとじこめている光る円陣を指さしながら云った。「やつらにたまの二発もうちこむことができたら、やつらももっとえんりょするだろうが。毎晩だんだんよけいに近づいてきやがる。火の光が眼に入らないようにしておいてよく見てみな――ほうら! あいつが見えたか?」  しばらくの間、二人は、火の光のはずれにいるおぼろげなものの動きを見まもって面白がっていた。一対の眼が暗やみの中で光っているところをじっと見すえていると、その動物の姿がそろそろはっきりしてきた。二人はその姿が時々動くのまでも見ることができた。  犬の中からおきた音が二人の注意をひいた。片耳が性急な真剣な泣声をあげたり、暗やみの方へ棒の長さだけ突進したり、時折それをやめて、狂ったように棒に歯でかみついたりしていた。 「あれを見ろ、ビル」とヘンリがささやいた。  犬に似た動物が、こっそりと横歩きして、すっかり火の光の中へはいりこんだ。それは警戒するように人間たちを観察し、注意を犬に向けておいて、不信と勇敢のまじりあった態度で動作していた。片耳はその侵入者の方へ棒を長さ一ぱいにひっぱって、一しんにくんくんないた。 「あの馬鹿な片耳め、大しておびえてないみたいだ」とビルが低い声で云った。 「あれは牝狼だ」とヘンリがささやきかえした、「これでファッティとフロッグのいなくなったわけがわかる。あれは狼の群のおとりだよ。あいつが犬をさそいだして、それから他のやつがみんなで襲いかかって食っちまうんだ」  火がぱちぱちと音をたてて燃え、一本の丸太が大きくはねる音をたててとびはなれた。その音をきくとその異様な動物は暗やみの中へとび退った。 「ヘンリ、おれは考えてるんだ」とビルが云った。 「何を考えてる?」 「あいつはおれが棒でぶんなぐってやったやつだったと思うんだ」 「これっぱかしも疑いのないことだ」とヘンリの答。 「それに今ここで云いたいことだが」とビルが云いつづけた、「あの動物が野営の火になれてるってことがあやしいし、助平ったらしいよ」 「あいつはきっと人間に近づかない普通の狼が知らないことまで知ってるよ」とヘンリが同意して云った、「飼いつけ時に犬の間にまぎれこむほど物知りの狼だもの、いろんな経験があるんだよ」 「ヴィランおやじのとこにいた犬が狼とかけおちしたことがある」とビルが考えていたことを口にだしていった、「おれにはおぼえがある。おれはそいつがあのリトル・スティックの大鹿のまきばで狼の中にいたのを射殺した。そしたらヴィランおやじが赤ん坊みたいに泣いたよ。三年間も会わなかったと云ったが、その間じゅう狼と一しょにいたわけだ」 「狼にかわってたというんだね、ビル。その狼は犬になって、何べんも人間の手から魚をもらって食ったことがあるんだね」 「そこでその機をうまくつかまえたら、その犬だった狼をちゃんと肉にしてやるから」とビルが宣言した、「おれたちはこれ以上犬をなくするわけにはいかん」 「しかしたまは三発しかもたないだろ」とヘンリが反対した。 「おれは絶対外れっこない射程を待つんだ」という答。  朝になってヘンリは火を新たに焚きそえ、相棒のいびきの伴奏で朝食を調理した。 「あんまり気持よく眠ってたもんだからどうしようもなかった」とヘンリが、相棒を朝食にひきずりだしながら云った。「お前を起こす勇気がでなかったよ」  ビルはねむそうにして食べはじめた。コップがからなのに気がついて、コーヒー沸しをとろうと手をのばした。しかしコーヒー沸しは手のとどかないところに、ヘンリのそばにあった。 「なあ、ヘンリ」とビルはやさしくとがめた、「お前は何かを忘れてやしないか?」  ヘンリはひどく気にしてあたりを見まわし、頭をふった。ビルが空のコップをさしあげた。 「コーヒーはのめないよ」とヘンリが云った。 「きれたんじゃない?」とビルが不安そうにたずねた。 「いいや」 「おれの消化を害すると考えたんじゃなかろう?」 「いいや」  怒りの血でビルの顔がさつと赤くなった。 「それじゃお前の云いわけをいやでもききたいもんだ」とビルは云った。 「スパンカがいなくなったんだ」とヘンリが答えた。  不運をあきらめて、あわてない人間の態度で、ビルは頭をめぐらして、腰かけたまま犬の数をかぞえた。 「どうしてそういうことになったんだろう?」とビルはそっけなくたずねた。  ヘンリは肩をすぼめた。「わからないんだ。片耳がかみきってはなしてやったのかしれないが。自分じゃやれっこないよ、たしかに」 「あん畜生!」ビルは内にたぎる怒りを毛ほども見せずに、重々しくのろく云った。「自分で自分のをかみきって放れることができないばっかりに、スパンカをかみ放してやったんだ」 「うん、とにかくスパンカの苦労は終ったよ、今頃は消化されちまって、二十匹の狼のおなかにおさまって山野をはねまわってるとおれは思う」というのがこの最近にいなくなった犬に与えるヘンリの墓碑銘であった。 「コーヒーを飲めよ、ビル」  しかしビルは頭をふった。 「さあ、さあ」とヘンリはコーヒー沸しをさしあげて云った。  ビルはコップをわきへおしのけた。「飲んだら罰があたる。おれは一頭でも犬がいなくなってたら飲まないと云った、だから飲まない」 「すごく好いコーヒーだぞ」とヘンリがそそのかすように云った。  しかしビルは剛情で、飲物ぬきの朝食をたべ、片耳がそういういたずらをしたことをののしりながらもぐもぐかんでのみ下した。 「今度はお互にとどかないようにつないでやるんだ」とビルが、荒野の道を出発するときに云った。  二人が百ヤードほども行かないうちに、先にたっていたヘンリがかがんで、何か雪靴にぶつかったものをひろいあげた。暗かったので、それはよく見えなかったが、ヘンリはそれを手ざわりで見わけた。それを後へほうると、それは橇にあたってはねかえり、ビルの雪靴にあたってとまった。 「お前の仕事にそれがいるかもしれん」 とヘンリが云った。  ビルは叫び声をあげた。それはスパンカの唯一の形見であった――くくりつけられていた棒であった。 「皮もなにもかも食っちまったんだ」とビルが云った、「この棒も笛のようにきれいになめてやがる。両端にくっついてた革まで食ったんだ。やつらはくそ腹をすかしてやがるよ、ヘンリ、だからひょっとしたらこの旅の終らないうちに、お前とおれをとって食うかもしれんよ」  ヘンリは挑戦的に笑った。「おれは以前にこんなふうに狼につけられたことはないが、もっとずっとひどい目にあって、しかも無事にきりぬけたことがあるよ。ほんとにおれたちをやっつけるには、あの厄介な畜生どもの一にぎりくらいじゃ足りないよ、ビル、おい」 「どうだか、どうだかな」とビルは不吉そうにつぶやいた。 「まあ、マクガリにたどりついたら、お前にもけっこうわかるさ」 「おれは何も特にとりのぼせてるんじゃない」とビルが云いはった。 「顔色が悪いね、それは具合の悪いせいだよ」とヘンリがひとりぎめして云った、「お前はキナエンをのまなきゃならん、だからおれはマクガリに着いたらすぐ薬を調合してやるつもりだ」  ビルはその診断には不服だとこぼしていたが、やがて黙ってしまった。その日もいつもと同じだった。九時に明るくなリ、十二時には南の地平線が見えない太陽に暖められ、それから寒い灰色の午後がはじまり、それがやがて三時間の後には夜となった。  太陽が地平線上に現れようとする無効な努力のすぐあとのこと、ビルが橇に結いつけたものの中から鉄砲をぬきだして云った。 「お前はそのままいってくれ、ヘンリ、おれは様子をよく見てくる」 「橇のそばにいた方がいいよ」と相棒は抗議した、「たまは三発しかないし、何ごとがおきるかわかったものじゃないからね」 「今どき弱音をはくのは誰だい?」とビルは勝ちほこって云った。  ヘンリは何も答えないで、ひとりとぼとぼ歩いていった、しかし相棒が消えていった灰色の荒野の方を時々不安そうにふりかえって見た。それから一時間後に、橇がまわり道せねばならなかった掘割水路を利用して、ビルが追いついた。 「やつらは分離して、広く一列になって進んでる」とビルは云った、「おれたちに追尾しながら、同時に獲物をさがしてるよ。ねえ、やつらはおれたちをとったものと思ってるよ、ただおれたちを食っちまうには機を待たなきゃならんことを知ってるんだ。それまでは、何でも手近にやってくる食えるものを手に入れて満足してるんだ」 「お前は、やつらがおれたちをとったものと考えてる[#「考えてる」に傍点]というんだな」とヘンリがとがり声で反対した。  しかしビルはそれを無視した。「おれは二、三匹見たよ。相当やせてやがる。何週間も、ファッティとフロッグとスパンカのほかには一つのえさも食べなかったらしい、しかも狼の数が多いんだからそれも広くゆきわたらなかったんだ。目立ってやせてる。肋骨が洗濯板のようで、腹は脊骨にびったりくっついてる。やつらは相当やけになってるよ。もう気が狂いそうになってる、だから用心しなくちゃ」  それから数分の後、こんどは橇のあとから歩いていたヘンリが、低い警戒の口笛をふいた。ビルがふりかえって見て、それから静かに橇をとめた。後方の、最後の曲り角をまわって、はっきり目に見えて、二人がさっき通ってきたばかりの道を、こそこそした毛皮獣がとことこかけてきた。それは鼻で臭跡をかぎ、特異な、すべるような、無造作な歩きぶりでとことこやってきた。二人がたちどまるとそれもたちどまり、顔をつきだして二人をじっとながめ、鼻をぴくつかせて、二人の臭いをかぎつけしらべるのであった。 「あれが牝狼だ」とビルが答えた。  犬どもは雪の上に寝そべっていた、それでビルは犬のそばを通って橇のところで相棒と一しょになった。二人は一しょに、何日間も自分らを追求して、既に犬の群の半分までやっつけてしまった、この異様な動物を見まもった。  その動物は、よくよく調べてみたあとで数歩進み出た。それを何べんかくりかえして、ついにわずか百ヤード離れたところまできた。えぞまつの杜のそばにきて立ちどまると顔をあげ、眼と鼻で見張っている人間どものいでたちをしらべた。それは犬がやるように妙に物ほしげに二人を見たが、その物ほしさには犬にあるような愛情は一かけらもなかった。それは、それ自身の牙のように残忍な、霜そのもののように無慈悲な、飢餓からうまれたものほしさであった。  それは狼としては大柄で、そのやせた体躯はその種で最も大きいものに属する動物の輪廓を見せていた。 「肩のところでかれこれ二尺五寸のたけはあるね」とヘンリが云った。「そしてきっと身長は五尺にいかほどもかけてない」 「狼にしてはちょっと変った毛色だ」とビルの批評。「おれは赤い狼はまだ見たことがない、おれにはよっぽど肉桂色に見える」  その動物はたしかに肉桂色ではなかった。その毛は正もくの狼の毛であった。主な色は灰色で、しかもそれにかすかな赤みがかった色合がまじっていた――見きわめのつかない色で、現れたり消えたりして、むしろ眼の錯覚のようで、いまは灰色、はっきりと灰色だと思ってるとまた、普通の経験の言葉では分類できない漠とした赤色のほのめきを見せるのであった。 「どう見たって大きな丈夫な橇犬のように見える」とビルが云った、「あれがしっぽを振るのを見たって、おれは意外とは思わないね」 「おおい、その強いの!」とビルが呼んだ。「こっちへ来い、その名前のわからんの」 「お前にはちっともおびえないね」とヘンリが笑っていった。  ビルがそれに向って脅かすように手をふり、大声で呼んだが、その動物はすこしも恐れを見せない。二人が認めることのできた唯一のその動物の変化は、警戒が加わったことであった。それはまだ二人を無慈悲な飢餓のものほしさでながめていた。二人は肉だし、その動物は飢えていた。だからできれば二人に襲いかかって食べたいのであった。 「おい、ヘンリ」とビルが、自分の考えていたことにしたがって無意識に声をひそめて、ささやき声で云った、「たまは三発だ、しかしこれは必中射程だ。うちそこねはない。あいつはおれたちの犬を三頭ももってゆきやがった、だからおれたちはそれをおしまいにしなきゃならん。お前はどう思う?」  ヘンリは同意してうなずいた。ビルは橇に結えたものの中から用心深く鉄砲を抜きだした。鉄砲はビルの肩へゆきかけたが、ゆかずじまいになった。その瞬間に、牝狼が径から横っとびに、えぞまつの杜の中へとびこんで、見えなくなってしまったので。  二人は顔を見合わせた。ヘンリは長いこと、わかったと云わんばかりに口笛をふいた。 「こんなことはわかってた筈なのに」とビルは鉄砲をもとへもどしながら、自分を叱った。 「もちろん、飼いつけ時に犬の間にまぎれこむくらい何でも知ってる狼なら、飛び道具のことなんか知ってる筈だった。たった今云っとくがね、ヘンリ、あん畜生がおれたちの一切の苦労のもとだよ。あいつさえいなけりゃ、おれたちはいま、犬を三頭じゃなくて、六頭もっている筈だ。それから今云っとくが、ヘンリ、おれはあいつをやっつけるよ。あいつははしっこいから広っぱではうてない。しかしおれは待ちぶせするつもりだ。おれの名前がたしかにビルであるのと同じくたしかに、やぶのかげからやっつけるんだ」 「それをやるにはあまり遠くへ迷ってゆくことはないよ」と相棒がたしなめた、「狼群が一たんお前にとびかかりはじめたら、その三発のたまなんか地獄に三べんとびおりるだけのねうちもないよ。あの動物どもはくそ腹をすかしてやがるから、一たんとびかかってきたらさいご、きっとお前をやっつけるよ、ビル」  その夜は早く野営を張った。三頭の犬では六頭ほど速く、また長時間、橇をひっぱることができず、まぎれもなく力尽きた徴候をみせていた。そこでビルが先ず犬がお互にかみ合いできない距離をおいてつながれたことをたしかめておいて、二人は早く床についた。  しかし狼どもはだんだんよけい大胆になっていた。それで二人は一再ならず眠りをさまされた。狼がひどく近づいたので、犬どもは恐怖のために気が狂った、そこで冒険的な掠奪者どもを安全な距離に遠ざけておくために、時々火を補充することが必要であった。 「おれはさめが船に追尾した話を船員たちがしているのを聞いたことがある」とビルが、そういう火の補充をしたあとで、また毛布の中へもぐりこみながら云った、「そうだ、あの狼どもは陸のさめだ。やつらはおれたちよりもよく自分の仕事を心得ている、そしてやつらは、健康のために、こんなふうにおれたちの臭跡を追ってるわけじゃない。おれたちを食うつもりなんだ。やつらはきっとおれたちを食うつもりだよ、ヘンリ」 「そんな話しっぷりじゃ、お前はもう半分食われてるんだ」ヘンリがきつく答えた。「自分は負けたと云う男は、その時すでに半ば負かされているものだ。だからお前のやりくちから考えてみると、お前はもう半分食われてるようなもんだぜ」 「やつらはお前やおれよりも好い人間をつれていっちまったよ」とビルは答えた。 「おい、ぐずるのはよせ。お前のおかげでひどく疲れちゃった」  ヘンリは怒って寝返りをうったが、ビルが同じく怒った様子を見せないので意外だった。ビルはきつい言葉をきくとすぐ怒ったものだから、これはビルらしくないことであった。ヘンリは眠りこむ前に長いことそれを考えた、そしてまぶたがしぱしぱしてとろとろと眠りこむ時に、頭の中で考えていた、「見ちがいじゃない、ビルはひどくふさいでる。明日になったら元気づけてやらなくちゃならん」 [#5字下げ]三 飢餓の叫び[#「三 飢餓の叫び」は中見出し]  その日はさいさきが好かった。二人は夜の間に犬を失っていなかった、それですっかり明るく元気で、荒野の道へぽいとのりだし、静寂と暗黒と寒気の世界へはいりこんだ。ビルは前夜の虫の知らせを忘れてしまったようで、お午頃、犬が道が悪いために橇をひっくりかえした時には、犬にむかって笑いかけたくらいであった。  それはしまつの悪い混乱であった。橇は裏返しになって、木と幹と大きな岩の間にはさまったので、もつれをなおすために犬の輓革をとかねばならなかった。二人が橇の上にかがんでそれを直そうとしていると、片耳がこそこそすりぬけているところをヘンリが見つけた。 「こら、こら、片耳!」と、きっとなって犬の方を向きなおり、ヘンリが叫んだ。  しかし片耳は急にかけだして、輓革をあとにひきずったまま、雪原を横切っていった。見ると向うの、いま通ってきた道の雪の上で、例の牝狼が待っていた。片耳は牝狼に近づくと、急に用心深くなった。速度をおとして警戒する小きざみな歩きかたになり、やがてたちどまった。用心深くうさんくさそうに、しかし好ましげに、牝狼を見た。牝狼は片耳に笑いかけたようで、おどかすようにではなく、御機嫌取りに歯を見せた。狼はふざけるように二、三歩近寄ってはたちどまった。片耳はまだ警戒し用心して、尾と耳を立て、頭を高くあげて、近寄っていった。  鼻をつき合わせようとしたが、牝狼はふざけてはにかむようにひきさがった。片耳が前進する度に、それにともなって牝狼が後退した。一歩一歩と片耳をさそいだして、人間と一しょにいる安全地帯の外につれだしていた。一度は、漠然とではあれ、警戒心が頭にひらめいたものか、片耳は頭をめぐらして、裏返しになった橇を見かえり、仲間の犬を見、自分を呼んでいる二人の人間を見かえった。  しかしその頭の中にどういう考えができていたにしても、それは牝狼にうちけされてしまった、牝狼が進みでて、ほんのちょっとの間鼻をつきあわせたが、やがて片耳が新たに前進する前に、また例のはじらいの後退をはじめた。  その間にビルは鉄砲のことを考えていた。しかし鉄砲は裏返しになった橇の下につまっていて、ヘンリが加勢して荷を直した時までに、片耳と牝狼があんまり近寄りすぎているし、距離があんまり遠くなっていたので、一発やってみることはできなかった。  片耳が自分の誤りに気がついた時はもうおそすぎた。原因はわからないが、二人が見ていると、片耳が向きをかえて、二人の方へかけもどりはじめた。すると、十数匹のやせた灰色の狼が、道に直角に近づき、片耳の退路をたち切ろうと、雪原を躍進しているのが見えた。その瞬間、牝狼の、はにかみとふざけは消えさり、うなり声をあげて片耳にとびかかった。片耳は肩で牝狼をつきはなし、退路は断たれてもなお橇へ戻りたい一心で、遠まわりしても橇に達しようとして、走る方向を変更した。刻一刻とますます多くの狼が現れて追跡に加わっていた。牝狼は片耳の後方一跳びで達する距離にくっついて走りつづけた。 「お前はどこへ行くんだ?」とヘンリが、相棒の腕を抑えて、突然に云った。  ビルはその手をふりはなした。「おれはがまんがならん。おれでできることなら、やつらにこれ以上おれたちの犬をさらわせるわけにいかん」  ビルは鉄砲を手にもって、道に沿ってはえている下生えの中へとびこんだ。その意図は充分あきらかであった。ビルは橇を片耳が取りかこまれようとしている円陣の中心と見て、追跡に先だって、その円陣の或る一点に突破口を開こうと計画した。鉄砲をもっているし、まっ昼間のことだから、狼を畏れさせて犬を救うことができるかもしれなかった。 「おい、ビル!」とヘンリがあとから呼びかけた、「用心するんだぞ! 一かばちかの冒険をやるんじゃないよ!」  ヘンリは橇に腰かけて見まもった。ほかにすることはなかった。ビルはすでに視界から消えていた、しかし時折、下生えと散在するえぞまつの杜の間に片耳が見えたりかくれたりした。ヘンリはこの勝負には望みがないと判断した。犬は自分の危険をよくよく意識していたが何しろ、外側の大まわりの線を走っているのに対して狼の群の方は内側を、したがって小まわりの線を走っているのだった。片耳が狼より先に狼の円陣を突破して橇に達することができるほど、追跡者をひきはなしているとはどうしても考えられなかった。  いくつもの線が急速に一点に近づいていた。向うの雪原のどこか、木々ややぶのかげになってここから見えないところで、狼の群と片耳とビルが出会うことになるということを、ヘンリは知っていた、あまりにも速く、ヘンリが予期していたよりもずっと速く、それがおきた。一発の銃声が、それから矢つぎばやに二発の銃声がきこえた。それでビルのたまがつきたことがわかった。それから狼のうなりと犬の吠え声の大喧騒がきこえた。ヘンリは片耳の苦痛と恐怖の悲鳴を聞きわけ、動物がやっつけられたことを語る狼の叫びを聞いた。そしてそれでおしまいであった。狼のうなり声はやんだ。犬の悲鳴も消えさった。静寂が再び淋しい土地一帯におちついた。  ヘンリは長いこと橇に腰かけていた。さっき起きたでき事を見にゆく必要はなかった。それはまるで自分の目前でおきたようにはっきりわかった。一度は、はっとしてたちあがり、大急ぎで結えたものの下から斧をとりだした。しかし腰をおろしてとつおいつ考えこむ時間の方が長く、残った二頭の犬はその脚もとでうずくまってふるえていた。  ついに、体の弾力がすっかり抜けてしまったみたいに、けだるそうに立ちあがり、犬を橇につける仕事にとりかかった。自分の肩に索をかけ、人間用の輓索をつくって、犬と一しょになって橇をひいたが、あまり長距離は行かなかった。暗くなりかけるとすぐに急いで野営を張り、薪をふんだんに用意しておくように心がけた。犬に餌をやり、自分の夕食を調理して食べ、火のすぐそばに床をもうけた。  しかしその床に楽寝をするわけにはいかなかった。眼を閉じないうちから狼があまり近くにせまってきていたので、安全どころではなかった。狼を見るにはもはや視覚の努力を要しなくなっていた。狭い円陣をえがいて、自分と火をすっかりとりまいていて、ねたり、坐ったり、腹ばいして前進したり、こそこそと前後に動いたりしているのが、火のあかりではっきり見えた。狼は眠りさえした、あちらこちらに、雪の上に犬みたいにまるまって、ヘンリにはもう許されなくなった睡眠をとっているのが見られた。  火をあかあかと燃しつづけた、それは火のみが自分の体の肉と狼の飢えた牙をへだてるものであることがわかっていたからである。二頭の犬は両側に一頭ずつ人間のそばによりそって、保護を求めてよりかかり、ほえたり鼻をならしたり、時に一匹の狼がいつもよりすこしよけいに近くよってくると、必死にうなったりした。そういう瞬間に、犬がうなると、円陣全体がいろめきたち、狼は立ちあがって試しに前へおしだしてきて、狼のうなりと犬の必死の吠え声の合唱がヘンリのまわりにおこるのであった。やがて円陣はまたすわりこみ、あちらこちらで、中断されたうたたねをまたはじめる狼もあった。  しかしこの円陣はヘンリに向って、絶えずせまってくる傾きがあった。あっちで一匹、こっちで一匹、というふうに腹ばいで前進し、円陣全体が、ちょいちょいと、一寸きざみに狭まってきて、おしまいには野獣どもが殆ど一跳びで跳びつける距離以内にはいっていた。するとヘンリは火の中から燃え木をとりだして、狼の群の中へなげこむのであった。そうするときまって狼群はあわてて後退し、よくねらいをつけた燃え木があまり勇敢すぎる動物に命中して火傷をさせると、怒った吠え声とおびえたうなり声がそれにともなった。  朝になると人間はやつれて疲れはて、不眠のために眼がたるんでいた。暗やみの中で朝食を調理し、九時になって、夜明けがくるとともに狼の群が後退すると、夜中長時間かかって計画しておいた仕事にとりかかつた。若木を切りとり、それを立木の幹の高いところに結いつけて、足場の横木にして、橇の縛索を引揚索に使い、犬の助けをかりて、棺を足場の上にひきあげた。 「やつらはビルを食ったし、やがておれも食うかもしれない、しかしお前さんは食わないことはたしかですよ、若い人」とヘンリは立木の墓場の中の死体に向って云った。  それから荒野の旅をはじめ、軽くなった橇は喜んだ犬にひかれて邁進していった――犬もまた、安全はフォート・マクガリに到着することにある、ということを知っていたからである。狼群は今ではずっと大ぴらに追跡しはじめ、おちつきはらって後からついてきたり、両側に別れて並進したりして、赤い舌をだらりとたらし、やせた横腹には動くたびに起伏する肋骨が見えていた。狼はひどくやせていて筋肉の代りに糸をつかって骨組にかぶせた皮袋みたいなものであった――あんまりやせているのでヘンリは頭の中で、狼どもがまだ立っていられて、雪の中へへたへたとへたりこまないでいるのが不思議だと思うほどであった。  暗くなるまで旅をつづけるわけにはいかなかった。お午には、太陽が南の地平線を暖めたばかりでなく、あわいながらも金色の、その上の端を、地平線より高くつきだしさえした。ヘンリはこれを一つのしるしとして受け取った。日が長くなっていた。太陽が回帰してきていた。しかしその光の元気づけがすぎ去るとすぐ、ヘンリは野営を張った。まだ数時間は灰色とうす暗い黄昏があるので、それを利用してどえらくたくさんな薪をきり出して支度した。  夜とともに恐怖がおそってきた。飢えた狼がますます大胆になったばかりでなく、睡眠不足がヘンリにこたえてきた。火のそばにうずくまり毛布を肩にまきつけ、斧を膝の間におき、両側に一頭ずつ犬をだきよせていて、われにもあらずうたたねした。一度眼をさましてみると、自分の前の十尺とは離れてないところに、狼群のうちでは一番大きな、灰色の大きな狼がいた。しかもこちらが見ているにもかかわらず、その野獣は怠け犬がやるようにゆうゆうと伸びをして、まともに面と向ってあくびをしてから、まったく、この男はやがては食べるのだけれどもおあずけになっている食べ物にすぎないんだといったような、我物顔でヘンリを見るのであった。  狼群全体がこういう確信を示していた。勘定できるだけでも二十匹はたっぷりいて、がつがつしてヘンリをねめまわすのもあり、雪の上に平気で眠っているのもあった。それを見ていると、食事をならべた食卓のまわりにあつまって、食べはじめてもよいという許しを待っている子供らを思わせられた。そして自分がその食べられる筈の食物なのであった! どういうふうにして、そして何時その食事ははじまるのだろうかと思った。  火に薪をつみあげていると、それまで感じたことのなかった自分の体の値打に気づいた。自分の動く筋肉をじっと見ていると、自分の指の巧妙なからくりに興味をおぼえてきた。火の明りで指をゆるゆると曲げ、それから或いは一本ずつ、或いは五本とも一しょに、くりかえして指を広くひろげてみたり、急にものをつかむ運動をしたりしてみた。爪の構造をしらべてみたり、指さきをきつく或いはやわらかにつついてみて、その間に生ずる神経の感覚をはかってみたりした。それに身が入って、こんなに美しく滑らかに精巧に運転するこの自分の微妙な肉片が急に可愛くなってきた。それから、まち受けるように自分のまわりにせまってくる狼の円陣に危懼の一瞥をなげるのであったが、この自分のすばらしい肉体、この生きている肉は、それだけの量の食肉、貪食の動物の求めるものにすぎず、その飢えた牙にひきさかれこま切りにされ、大鹿や兎がしばしば自分の栄養物になったように、狼の栄養物になるのだという実感が不意におきてきた。  半ば夢魔のようなうたたねからさめてみると、赤い色の牝狼が眼前に見えた。それは六尺もはなれていないところに、雪の上に坐って物ほしげにヘンリを見ていた。二頭の犬がヘンリの脚もとで鼻をならしたりうなったりしていたが、牝狼はすこしもそれに気をとられず、人間を見ていた。それでヘンリはしばらくそれを見かえしていたが、牝狼には何も威嚇するようなところはなく、ただひどくものほしげに見ているのであった。しかしそれは同様にひどい飢餓から出るものほしさであることがわかった。ヘンリは食物であった、だからヘンリを見れば牝狼の味覚が刺戟されるのであった。口を開き、よだれをたらし、予想を楽しんであごをなめた。  恐怖のけいれんが体中をかけめぐった。狼になげつけるためにいそいで燃え木に手をのばした時に、指がまだその飛道具をにぎりしめないうちに、牝狼は安全なところへとび退った。それでこいつはものを投げつけられることになれていることがわかった。牝狼はとび退るときにうなったのだが、その時白い牙を根元までむきだし、物ほしさはすっかり消えさって、食肉獣の兇悪さがそれにとってかわったので、ヘンリは戦慄をおぼえた。燃え木をもっている手を見て、それをにぎっている指の精巧なこと、指が表面のでこぼこにちゃんと適応し、ざらざらした薪の上、下、周囲にからみつき、燃え木の燃えている部分にあまり近すぎる一本の小さな指が、敏感に自動的に、やけどするような熱いところからもっと冷めた握り場所の方へじりじりと退いてゆくことに気がついた。そしてその同じ瞬間に、この同じ敏感な精巧な指があの牝狼の白い牙につぶされひきさかれる幻影を見るような気がした。この肉体を保つことがいかにもおぼつかなくなった今ほど、自分のこの肉体を愛したことはなかった。  夜どおし燃え木でもって飢えた狼群とたたかって追いのけた。われにもあらずうたたねすると、犬の鼻をならしうなる声に眼をさまされた。朝がきたが、初めての経験として、日の光がさしても狼群は退散しなかった。人は狼の去るのを待ったがだめであった。狼は人間と火のまわりをとりまいたままで、所有するものの尊大さを見せて、朝の光から生れた人間の勇気をゆるがした。  一度はやけくそになって出かけようとしてみた。しかし火の防衛の外に出た瞬間に、一番大胆な狼がとびかかってきたが、とどかなかった。とびさがって身を救うと、太ももからわずか五、六寸はなれたところで、狼の上と下のあごがかち合った。ほかの狼がこんどはたちあがっておしよせてきた。それでそれを相当の距離まで追いのけるには、左右に燃え木をなげることが必要であった。  昼の光の中でも火のそばをはなれて、新たな薪を切りにゆくこともできなかった。二十尺はなれたところに巨大なえぞまつの枯木が立っていた。いつでも敵に向って抛りつけられるように燃えている薪を六本も手元に用意しておいて、焚火をその木のところまでのばすのに半日もかかった。一たんその木に達すると、まわりの森の具合をしらべてみて、最も多い薪の方角にその木をきり倒した。  その夜は、睡眠の必要が圧倒的になってきた点をのぞいて、前の夜のくりかえしであった。犬のうなりはその効果を失っていた。それにまた、犬がしょっちゅううなっていたし、人間のしびれてねむけのついた感覚は、もはや高さと強さの変ったことに気づかなくなっていた。はっとして目をさましてみると、牝狼が三尺も離れてないところにいた。余り近いので、彼は機械的に、燃え木をにぎったまま、狼のあけてうなっている口の中へぐいとばかりにつきこんだ。狼は苦痛の悲鳴をあげてとび去った。そして肉と毛の焦げた臭いを愉快がって見ていると、狼は二十尺ばかり離れたところで頭を振り、怒ってほえていた。  しかし今度は、またうたたねをする前に、火のついた松の木こぶを右手に結いつけた。眼をつむって数分しかたたないのに、焔で肉がやけたので眼がさめた。何時間もこのプログラムをまもり、こうして眼をさまされるたびに、燃え木をなげて狼を追い退け、火をつくろって、松の木こぶを手に結びかえた。万事うまくはこんだが、一度松の木こぶの結えかたが不確実なことがあって、眼をとじるとそれが手からはずれておちた。  夢を見た。フォート・マクガリにいるような気がした。暖かくて気持がよくて、仲買人とクリベイジをやっていた。その交易市場も狼に包囲されているようだった。狼が凡ゆる門のところで咆えていた、それで時々二人ともゲームを中絶して、耳をかたむけ、狼どものはいりこもうとする無効な努力をあざわらった。それから、それが夢の変なところで、ガチャッという音がした。扉がぱっと開いて、狼どもが市場の広い居間へなだれこんでいるのが見えた。狼は自分と仲買人にまっすぐにとびかかってきた。扉が開かれた時から狼どもの咆える声が途方もなく大きくなっていた。この咆え声がうるさくなった。夢は消えて何かほかのものになりかけていた――何だかわからなかった。しかしその間じゅう、咆え声がしつこくつけまわしていた。  眼をさましてみると、その咆え声はほんものであった。狼のひどいうなり声と犬の大した咆え声であった。狼が自分に向って突進していた。まわりをとりかこみ襲いかかっていた。一匹の狼の歯が腕にせまっていた。本能的に火の中へとびこんだが、とんだときに、脚の肉をかみきった鋭い歯の噛傷を感じた。それから火の格闘がはじまった。丈夫な手袋が一時は手の保護になったので、炭火を空中にすくいあげて八方に散らした、ついには焚火はまるで噴火山のようになった。  しかしそれが永くつづくはずはなかった。顔は熱さのために火ぶくれができ、まゆ毛とまつ毛はやけおち、足は熱くてたまらなくなっていた。燃えている薪を両手に一本ずつもって、火の外へとびだしてみると、狼どもは撃退されていた。四方八方、炭火のおちたところでは雪がじゅうじゅういってとけていた、そして次々にひっこんでゆく狼が物狂おしくはねて鼻いきあらくうなるので、そういう炭火をふみつけたことがわかった。  もっていた燃え木を一番近い敵になげつけておいて、人間はくすぶっている手袋を雪の中へつっこみ、足を冷すために地だんだをふんでまわった。二頭の犬がいなくなっていた、それで犬どもは、一昨昨日ファッティからはじまった長たらしい食事の一コースになったのだ、ということがよくわかった、その最後のコースには数日後に自分がなりそうであった。 「おれはまだきさまらに食われないぞ」と、こぶしを飢えた野獣どもに向ってやみくもに振りながら云った。するとこの声のひびきをきいて、円陣全体がいろめきたち、一せいにうなりだして、牝狼は雪の上をヘンリのそばまですりよってきて、がつがつとものほしそうに見張りはじめた。  思いついた新たな考案を実行する仕事にとりかかった。火をひろげて大きな円をつくり、その円の中にうずくまり、雪のとけるのに対するそなえとして寝具を下にしいた。こうしてこの焔の避難所にかくれてしまうと、狼群はもの珍しそうに火のふちのところまでよってきて、人間はどうなったのか見ようとした。それまでは狼は火に近寄ることができなかったのだが、今はもう犬のように火に接近した円陣をつくっておちつき、その珍しい煖気にあたって、またたきしたり、あくびをしたり、やせた体をのばしたりした。それから牝狼が坐りこみ、鼻を星にむけて咆えはじめた。すると一匹また一匹とそれにならい、ついには狼群全体が、腹ばいになって、鼻を空に向け、飢餓の叫びをあげていた。  黎明がきて、朝明けがきた。火の燃えかたが衰えていた。燃料がなくなっていて、もっと手に入れる必要があったので、焔の円陣から歩き出ようとしたが、狼どもがおしよせてきて対抗した。燃え木をなげつけても、わきへとびのきはしたが、もはやあとへとびさがりはしなかった。追っぱらうことに努力したがききめはなかった、あきらめて火の円陣の中へよろめきかえるとき一匹の狼がとびかかったが、狙いがはずれて、四足で炭火の上に落ち、恐愕して咆え、うなり、かけもどって雪で足をひやした。  人間は毛布の上に前かがみになって坐った。胴体は腰から前にのりだし、ゆるんで垂れさがった肩と、膝にもたれた頭のぐあいで、あがくことをやめたことがわかった。時々顔をあげて消えてゆく火を見ていたが、焔と炭火の円陣はきれぎれになって、所々にすき間ができていた。そういうすき間の大きさがまして、残りの部分は小さくなった。 「きさまらはもういつでもやってきて、おれを食うことができるだろう」とヘンリはつぶやいた、「とにかく、おれは眠るよ」  一度眼をさましてみると、自分のまん前の円陣のすき間のところで、牝狼がにらみつけていた。  もう一度眼をさましたのは、自分では何時間も後のような気がしたが、すこしばかり後のことであった。不可思議な変化なので、ぎょっとして一層はっきり眼がさめた。何ごとかがおきていたのだ。最初にはわけがわからなかった。やがてそれがわかった。狼がいなくなっていたのだ。狼がひどく近くせまっていたことを示す、ふみつけた雪だけが残っていた。またも睡気がわきおこって彼をひっつかんだ。頭が膝に垂れかかった、その時に急にはっとして眼がさめた。  人々の叫びと、橇のすべる音と、輓革のきしりと、はりきった犬の真剣ななき声がきこえた。四台の橇が河床から立木の間の野営にむかって曳かれてきた。六人の男が、消えかけた火の中心にうずくまっている男の手あてをしていた。ゆすったりつっついたりして意識をとりもどさせようとしていた。その男はよっぱらいのように人々を見、妙なねむたげな言葉でうわごとを云った。 「赤い牝狼‥‥飼いつけ時に犬の中にまぎれこむ‥‥はじめは犬の食べ物を食った‥‥それから犬を食った‥‥そのあとでビルを食った‥‥」 「アルフレッド卿はどこだ?」一人の男が、ヘンリを手荒くゆすぶりながら、耳に口をあててどなった。  ヘンリはゆるゆる頭を振った。「いや、あの人は食わなかった‥‥この前の野営のところの木の上にとまっている」 「死んでか?」とその男が叫んだ。 「ああ、箱の中だ」とヘンリが答えた。そしてさもうるさそうに肩をつかまえていた質問者をじゃけんにふりはなした。 「なあ、おれをほっといて‥‥おれはもうまったくへとへとなんだ‥‥おやすみなさい、みなさん」  眼がしょぼしょぼしてとじてしまった。あごは胸へたれさがった。そしてみんなで毛布の上に安楽に寝かしてやった時でも、いびき声が霜をふくんだ空中に高まっていった。  しかしまた別の音がきこえた。それははるか遠方で、遠くかすかだが、ついさっきとりそこねた人間とは違う他の肉の臭跡をかぎつけた時の、飢えた狼群の叫びであった。 [#改ページ] [#1字下げ]第二部 荒野に生れて[#「第二部 荒野に生れて」は大見出し] [#5字下げ]一 牙の闘い[#「一 牙の闘い」は中見出し]  例の人間の声と橇犬の鼻をならす音を最初にききつけたのは例の牝狼であったし、消えかかった焔の円陣の中で追いつめられた人間から、最初にとびすさってにげたのもこの牝狼であった。狼群はいよいよ追いつめたばかりの獲物を見すてるのがいやなのであった。それで数分間ぐずっていて、物音をたしかめ、それからこれもまた身をひるがえして、牝狼のつくった臭跡を追ったのである。  群の先頭にたってかけているのは、大きな灰色の狼――数匹の首領のうちの一匹、であった。狼群の進路を指揮して牝狼のあとに従わせたのはこの狼であった。群の中の若い連中が野心をおこして自分をおい抜こうとした時に、うなって警告したり、牙で咬みついたりしたのもこの狼であった。それから、もうその時は歩調をゆるめて雪原をかけていた牝狼を見つけて、あしを速めたのはこの狼であった。  牝狼は待ちあわせて、そこが自分にきめられた位置だというように、その狼のとなりに並び、それから群と歩調を合わせた牝狼がたまたま跳ねて首領より先に出ることがあっても、首領は牝狼に向ってはうなりもせず、歯をむきだしもしなかった。それどころか、首領は牝狼に対してねんごろな気があるようであった――ねんごろすぎて牝狼にはたくさんなようであった、なにしろ首領は牝狼に近くよりそって走りたがっているのだが、あんまり近寄りすぎると、牝狼の方が却ってうなって歯をむき出すのであった。それにまた牝狼は時によっては首領の肩をすばやく咬むことも辞せなかった。そういう時には、首領は怒りをすこしも表さず、ただわきへとびのいて、かたくなってきまり悪そうに四、五へんはねてはかけだした、そのものごしとふるまいが、赤面した田舎の色男そっくりであった。  これがこの首領の、群を先導するにあたっての、唯一の苦労であったが、牝狼にはまたほかの苦労があった。牝狼のもう一つの方の側には、灰色で、数度の闘いの傷痕のある、やせた老狼《としより》がかけていた。それはいつも牝狼の右側にいた。眼は一つしかなく、それが左眼であるという事実で、その説明がつくだろう。この老狼もまた、しつこく牝狼をおしつけ、牝狼によりそうので、ついにはその傷痕のある鼻っつらが牝狼の胴や肩やくびにふれるのであった。牝狼は、自分の左側を走っている仲間を遇する場合と同様、そういう媚態を歯でもって撃退したが、両方が同時にそれぞれの媚態を呈してくると、手あらく押しまくられるので、両方をすばやく咬んで、二匹をおっぱらい、しかも群と共に前進をつづけると同時に、前方の自分の足の進路を見きわめねばならなかった。そういう時には、一しょにかけている仲間二匹は、お互に威嚇するように歯をひらめかしうなり合った。この二匹は格闘もしかねないのであったが、求愛とそのための張合いも、全群のもっとさしせまった飢餓の要求には敬意を表するのであった。  はねつけられる度に、片眼の老狼は、欲望の対象である歯の鋭い牝狼からだしぬけに方向をかえて、自分の目の見えない右側をかけている三歳の若狼に肩をぶっつけていった。この若狼はぎりぎりの大きさに達していて、全群の衰弱し飢えきった状態を考えあわせれば、平均以上の体力と気はくをもつていたが、それにもかかわらず、頭が片眼の兄貴の肩とならぶようにしてかけていた。若狼が大胆にもその兄貴狼と胸をならべて(めったにないことだが)かけようとすると、唸ってかみつかれて、再び肩とならぶようにもどされた。しかし、時には、用心ぶかくそろそろとおくれておいて、やがて老首領と牝狼の間にわりこむこともあった。それは二匹からしかられ、三匹からしかられさえした。すなわち、牝狼が不快そうにうなると、老首領がその三歳狼にとびかかるのであった。牝狼が一しょにとびかかることもあったし、左側の若首領も時にはとびかかった。  そういう時には、その若狼は、三組の残忍な歯に攻めたてられて、急にたちどまり、ぴたりとしりをすえ、前肢を張り、口で威嚇し、うなじの毛を逆立てた。移動する狼群の先頭でおきたこういう混乱は、きまって後部に混乱をおこさせた。後の狼どもはこの若狼にぶつかり、その後肢や脇腹をきつく咬んで不快の情を示した。食料の欠乏と短気がともなったのだから、若狼は自分で苦労をつみあげているようなものであったが、若者のはてしらぬ信念でもって、ともすればしつこくこの策動をくりかえした、しかしそれは決して何ものを得ることにも成功せず挫折した。  もし食料があったら、求愛と格闘がどしどし行われたろうし、群の構成は解散されただろう。この群の立場は絶体絶命であった。みんなが長期の飢餓のためにやせていて、走るのも普通の速度以下であった。しんがりでは、ひどく幼いものとひどく年寄ったものと、足の弱い連中がびっこをひいていた。そして先頭には長も強い連中がいた。しかもみんなが体の満足な狼ではなくて骸骨のようであった。しかしそれでも、びっこをひいている連中は別として、この動物どもの動きはすべて軽快であり疲れを知らなかった。その筋ばった筋肉は無尽蔵の精力の源泉のようであった。凡ゆる筋肉の鋼鉄のような緊縮の背後に、また別の鋼鉄のような緊縮があり、またその背後に、更にまたその背後に、という具合で、果しがないようであった。  その日は何マイルも走った。その夜は夜どおし走った。そしてその次の日にもまだ走っていた。凍って死んだ世界の表面を走っていた。一つの生き物も動いていなかった。この狼群だけが広漠たる不動状態を貫いて移動していた。狼群だけが生きているのであった。そして生きつづけるために、他の生きているものをさがしもとめた。  その捜索が成果を得るまでには、狼群は低い分水嶺を越え、更に低い地域にある十ばかりの小川を跋渉した。それから大鹿にでっくわした。最初に見つけたのは大きな牝であった。ここに肉と生命があって、しかもそれは不可思議な火にも、焔のとび道具にもまもられていなかった。ぶざまな蹄と掌状の角はすでに知っているので、狼群はその習慣になっている忍耐と用心をなげすててしまった。格闘は短かくて激しかった。牝の大鹿は八方から襲われたが、大きな蹄で巧みに打ちすえて、狼を引きさいたり、その頭蓋を割ったり、大きな角でおしつぶしたり、つきさしたりした。取っくみ合いの格闘では狼を下敷きにして雪の中にふみつけた。しかしその命数は定まっていた、そして牝狼が無残にそののどにかみついたので大鹿はばったりと倒れ、ほかの狼が体じゅうに歯をたてて、大鹿の最後のあがきがまだ終らず、最後の致命傷もうけないうちに、生きたままむさぼり食っているのであった。  この食料は豊富だった。大鹿の重さは八百ポンド以上――その群の四十何匹の狼に対して、一匹あたりたっぷり二十ポンドの肉であった。しかし狼は度外れて断食することができたとしても、またやたらに食うことができた、それでまもなく、数時間前に狼群に面とむかってきていたあの立派な生きた野獣の名残りは、散在する数本の骨だけとなった。  次は多量の休息と睡眠であった。腹がくちくなると共に、若い牡狼の間にせり合いやけんかがはじまり、それがその後、群の解散する前の数日間つづいた。飢餓は終った。狼どもは今は獲物の多い地方にいた、それでまだ群をなして狩猟しはしたが、ずっと用心深くやり、出会した大鹿の小群から、重い牝かびっこの年より牡かをひきぬいた。  この豊富の地で、この狼の群が半分ずつにわれ、別々の方角に向ってゆく日がきた。牝狼と左側の若い首領と右側の片眼の老狼は、自分らの手にのこった半群をひきいて、マッケンジー河へくだり、東の方の湖水地方へこえていった。日毎にこの残群は縮小していった。牡と牝とが二匹ずつ離れていった。時折孤独な牡が競争相手の鋭い歯で追いはなされた。ついに、牝狼と、若い首領と、片眼と、野心のある三歳狼との、四匹だけが残った。  牝狼はこの時までに兇猛な気性を表していた。三匹の求愛者はみんな牝狼の歯にかまれたしるしを身につけていた。しかも三匹とも同じく歯で返報したことはなく、防禦姿勢をとることもなかった。どんな残忍な突撃に対しても肩をさしむけ、尾をふり小きざみに歩いては、牝狼の怒りをなだめようと努力した。しかし牝狼に対してはひたすらに温順であったにしても、お互に対してはひたすらに兇猛であった。三歳狼は兇猛なあまりに、野望をいだき、片眼の兄貴の眼のない方の側に咬みついて、その耳をずたずたに引きさいた。その灰色老狼は一方しか見ることができなかったが、相手の若さと活力に対して、永年の経験による智恵を働かせた。その無くなった眼と傷痕のある鼻づらがその経験の性質をものがたっていた。あまりにも度重なる闘いに生き残ってきた彼としては、一瞬間とても自分のなすべきことに遅疑するものではなかった。  闘いは公平に始まったが、公平には終らなかった。第三者であった狼が老狼に加勢して、老若の首領が一しょになって、野望をいだいた三歳狼を攻撃し、やっつけにかかったのだから、その結果がどういうことになるかわからなかった。三歳狼はかつての同志たちの無慈悲な牙に両側から攻撃された。共に獲物をあさった日々も、共にたおした獲物も、共に悩んだ飢餓も忘れられた。そういうことは過去のことであった。今は愛の仕事が手もとにあった。食を得る仕事よりかもずっときびしい、ずっと残酷な仕事が。  しかもその間、すべての原因である牝狼は、満足げにしりをつけて坐り、じっと見ていた。喜んでさえいた。今日は自分の日であった――そしてそれは度々のことではなかった――この日、牡たちのうなじの毛は逆立ち、牙が牙を打ち、或いはやわらかい肉を切りとり引き裂いた、それはすべて牝狼を得んがためであった。  そして、これを自分の最初の愛の冒険としていた三歳狼は、この愛の仕事で命をすてた。その死骸の両側に二匹の恋敵が立っていた。二匹とも、雪の上に坐って笑っている牝狼を見つめていた。しかし年上の首領の方が、闘いの場合と同様に恋の場合にもかしこかった、非常にかしこかった。若い首領が頭をまげて肩の傷をなめた、するとそのくびの曲ったところが恋敵の方に転じた。片眼でもって老狼は機を見てとり、火となって突進し牙をもって迫った。それは長く、引き裂く咬傷であった、そして同時に深くもあった。その歯は、はずみに、のどの大動脈の壁を破った。そうしておいて跳びはなれた。  若い首領は恐ろしくうなったが、そのうなりは中途でとぎれて、くすぐるような咳とかわった。すでにうちのめされて、血を流し咳をしながらも、老狼にとびついて格闘したが、生命はうすれてゆき、肢はわれにもあらず弱ってきて、日の光が眼に鈍く見え、打撃も跳躍もだんだん小きざみになってきた。  しかもその間じゅう、牝狼はしりをつけて坐って笑っていた。この格闘を何となく喜んでいたのである。けだし、これが荒野の求愛であり、自然界の性の悲劇であって、死んだ者にとってのみ悲劇である。生き残った者にとっては、それは悲劇ではなくて、実現であり成功であった。  若い首領が雪の上にたおれてもはや動かなくなると、片眼は牝狼へしのび寄った。その挙動は歓喜と警戒の混り合った拳動であった。片眼は明らかにはねつけられることを予期していた。それで牝狼の歯が怒って自分に向ってひらめかなかったので、同様に明らかに驚いたのであった。牝狼がはじめて片眼を親切な態度で迎えた。牝狼は片眼と鼻をつきあわせ、まるで仔犬のように一しょにはねまわったり、じゃれたり、ふざけたりしてくれた。それで片眼の方でも、老齢とかしこい経験にかまわず、すっかり同様に仔犬らしく、いやそれよりもっと馬鹿馬鹿しくさえ振舞った。  打ち負かされた恋敵と雪の上に赤い血で書かれた恋物語は、すでに忘れられていた。一度だけ、片眼がちょっとたちどまって、こわばってきた傷をなめた時だけをのぞいて、忘れられてしまった。その時には、その唇が半ばねじれてうなり声になり、くびと肩の毛が思わず逆立ち、跳ねあがるために半ばしゃがんだ間に、肢の爪はしっかりした足場を求めて、けいれんするように雪にくいこんだ。しかし次の瞬間、牝狼のあとについてはねていった時には、すっかり忘れてしまっていた、そして牝狼ははずかしげに片眼に後を追わせて森の中をかけまわっていた。  それから後は、この二匹は一つの諒解に達した親友のように相並んでかけた。日々が経っていったが、二匹はいつも一しょで、共同して肉をあさり殺して食べた。それからしばらくして牝狼はおちつきがなくなりはじめた。何かをさがし求めているのにそれが見つからないようであった。倒れた木の下にある凹みなどに気をひかれるようであったし、雪のたまった岩の広い裂け目や、さしかかった堤にある洞穴の中をかぎまわることにずいぶん時間をかけた。老いた片眼はすこしも興味をもたなかったが、おとなしく牝狼の捜索についてまわり、特別な場所で詮索が異常に永びく時には、牝狼がさきへ行く支度をするまでねて待っていた。  二匹は一所にとどまっていないで、原野をひろく旅してまわり、おしまいにはまたマッケンジー河へまいもどって、そろそろ下流へ下ってゆき、度々本流からそれて、本流に注ぐ小さな流に沿って餌をあさったが、いつも本流へもどってきた。時には普通一対で歩いているほかの狼にひょっくり出会ったが、どちら側からも、交際の親善も、会った喜びも、群構成に戻ろうという望みも表明しなかった。ひとりぼっちの狼にも何度か出会った。そういうのはきまって牡で、押し強く片眼とそのつれあいの仲間に加わりたがった。それを片眼は怒った、そして牝狼が片眼と肩をならべてつっ立ち、毛を逆立てて歯をむくと、その野心をおこした孤独な狼はあと退りして、しっぽをまき、またもとの淋しい道をたどりつづけた。  ある月夜のこと、静かな森の中をかけながら、片眼が急にたちどまり、鼻つらをもちあげ、尾をこわばらせ、鼻の孔をひろげて空気の臭いをかいだ。犬のやるように片肢をもちあげてみた。それでもなっとくがいかず、空気によって自分へもってこられたことづてを理解することに努めて、しきりに空気をかぎつづけた。つれあいの牝狼の方は一度無造作に鼻をひくひくさしただけでなっとくがいき、片眼に安堵させるためにとっととかけていった。片眼はそのあとについていったが、まだ心もとなくて、その警告をもっと注意深く調べるために、時々たちどまらずにはいられなかった。  牝狼は用心しいしい、木立の中にある広い空地のふちにはいよった。しばらく独りで立っていたが、やがて片眼が、あらゆる感覚をはりつめ、毛の一本一本から無限の疑惑を発散させて、はらばいしてそばへよってきた。二匹は並んで立ち、見張り、耳をかたむけ、臭いをかいだ。  二匹の耳には、けんかして取っ組合っている犬どもの声と、男たちのだみ声と、子供をしかる女たちのもっときつい声と、それから一度は子供の甲高い哀れな泣き声がきこえてきた。でっかい皮小舎は別として、手前にいる人々の動きでとぎれてみえる火の焔と、静かな空気の中へゆるゆるとたちのぼる煙のほかは殆ど何も見えなかった。しかし二匹の鼻にはインディヤンの天幕の多種多様な臭いがにおってきて、片眼には大部分わかりかねる物語をはこんできた、しかしその物語の細かいはしばしまで牝狼は知っていた。  牝狼は変に興奮し、しきりに鼻をひくひくさせて嗅いでいるとますます嬉しくなってきた。しかし片眼は疑いをもっていて、不安の念を面にだして、ちょっとにげてゆきそうにした。牝狼はふりむいて、安心させるように鼻っつらを片眼のくびにふれ、それからまた天幕の方をうかがった。新たなものほしさがその顔にあらわれてきたが、それは飢餓からくるものほしさではなくて、前へ進み出て、その火にもっと近づき、犬どもとけんかし、人間のよろける足をさけ身をかわしたい、という欲望でぞくぞくしていた。  片眼はそばでじれったくそわそわしていた。牝狼は、不安がまたもどってきて、自分がさがしていたものを見つけることの緊急の必要を再びさとった。牝狼は向きをかえて、森の中へかけ返った、そこで片眼はほっとして、すこし先に立って、すっかり木のかげにはいってしまうまでかけていった。  二匹は、月光の下を影のように音をたてずにかけていると、家畜の往復路にでっくわした。二匹の鼻が雪の中の足跡を追っていった。その足跡はごく新しいものであった。片眼が用心して先頭にたち、そのつれあいはあとにつづいた。二匹の足の広い肉趾はぐっとひろがり、雪にふれるところはビロードのようであった。片眼が白雪の中に白いもののほのかな動きを見つけた。片眼の辷るような歩きかたはうそみたいに速いものであったが、それもいま走り出した速さにくらべればくらべ物にならないほどであった。眼の前でさっき見つけたかすかな白いものが跳ねていた。  二匹の狼は両側にえぞまつの若木の茂みのある狭い小径をかけていた。木の間から小径の口が見えていた、月光で明るい空地への出口であった。片眼はそのにげてゆく白いものをどしどし追いかけた。どんどん進んで、ついに追いついた。もう一跳びすれば、歯がそのものにくいこむのであった。しかし跳ばずじまいになった。今ではもがいてとびはねている雪靴兎〔冬には白くなる野兎〕だとわかった。その白いものは、空中高くまっすぐにとびあがり、片眼の上空できてれつなダンスをおどり、決して一度も地上へ戻らなかった。〔註―兎がわなにかかっていたのである。〕  片眼はだしぬけに驚いて鼻をならして跳ねかえり、それから雪のあるところへひきさがってうずくまり、自分では理解のつかぬこのこわいものに向っておどかすようにうなった。しかし牝狼は冷淡に片眼のそばを通って前に出た。そしてちょっと身づくろいして、やおらそのおどっている兎にとびついた。これも高くとびあがったが、その獲物には届かず、その歯はむなしく金属性の音をたててかち合った。牝狼はもう一度、更にもう一度跳んだ。  つれあいの方はちぢこまっていた体勢をそろそろゆるめて、牝狼をじっと見ていたが、こんどは牝狼の重なる失敗に不興の色を見せて、自分で大きく上へ跳びあがった。歯がうまく兎をくわえたので、兎を地上へひきおろした。しかしそれと同時に自分のそばにぱちぱち音をたてて動く怪しげなものがあった。そこで驚いて見なおすと、えぞまつの若木が頭上に曲ってきて自分を打とうとしているのが見えた。くわえていたのをはなして、この異様な危険からのがれるために跳び退り、牙をむきだし、のどでうなり、毛の一本一本が怒りと驚きのために逆立った。するとその瞬間に、若木がすんなりした幹をまっすぐに立て、兎は再びおどりながら空中にまいあがった。  牝狼は怒っていた。それで叱責のつもりでつれあいの肩に牙をつきさした、片眼は、びっくりしたものの、この新たな猛襲のわけがわからず、なお一層驚いて猛烈に逆襲し、牝狼の鼻つらの横側を咬みさいた。片眼がそういう叱責に対して怒るということは、牝狼の方でも同様に思いがけないことであった。牝狼は憤激し、うなって片眼にとびかかった。片眼はそのとき自分の誤りに気がついて、牝狼をなだめようとした。しかし牝狼が容赦なく罰することにとりかかったので、ついになだめようとする企てはすっかりやめにして、ぐるりっと一まわりして、頭をわきへそむけた、そして肩に牝狼の歯の処罰を受けた。  その間にも兎は頭上の空中で踊っていた。牝狼は雪の上に坐った、そして片眼は、いまでは不可思議な若木よりも自分のつれあいの方が怖くなって、再び兎にとびついた。兎を歯でくわえて、おりてくると、例の若木に目をつけた。前と同じく、若木は自分について地面へ曲ってきた。さしせまった打撃のもとにちぢこまって、毛を逆立てたが、歯はなおも兎をしっかりくわえていた。しかし打撃は加えられず、若木は頭上に曲ったままであった。自分が動けば若木が動いた、それで片眼は喰いしばったまま若木に向って咆えた、自分がじっとしていると若木もじっとしていた、それでいつまでもじっとしている方が安全だと結論した。それでも兎の暖かい血が口へ流れこんでおいしかった。  片眼を陥った窮地から救ってくれたのはそのつれあいであった。牝狼は片眼から兎をうけとり、若木が頭上でおどかすように上下左右にゆれている間に、兎の頭を平気でかみきった。たちまちその若木ははねあがり、その後は、それを育てようとする自然の意図のままに、上品な垂直なしせいをたもったので、もはや面倒でなくなった。それから牝狼と片眼は、不可思議な若木がつかまえてくれた獲物をわけあってむさぼり食った。  ほかにも兎が空中にぶらさがっている動物の往復路や小径がいくつもあった、そこでこの狼の夫婦はそれを全部探索した、牝狼が先導して、片眼はついていって観察し、わなの獲物を盗む方法をおぼえた――この知識は将来の役に立つこととなった。 [#5字下げ]二 狼窟[#「二 狼窟」は中見出し]  牝狼と片眼は二日間インディヤンの天幕のまわりにつきまとった。片眼は気をもみ不安を感じたが、つれあいの方は天幕に気をひかれ、たち去ることをいやがった。しかし或る朝、すぐ近くで鉄砲の音が空気をつんざき、たまが片眼の頭から五、六寸はなれた木の幹にぶちあたった時、二匹はもはやちゅうちょせず、大またでとっとととかけだして、そういう危険から数マイルもはなれていった。  二匹は遠くは行かなかった――二日の旅であった。牝狼がさがしていたものを見つける必要が、もう緊急になっていた。牝狼はひどく重くなっていて、のろくしか走れなかった。一度などは、いつもなら楽につかまえたはずの一匹の兎を追っているときに、さじをなげてねころんで休んだことがあった。片眼が寄ってきたけれども、鼻づらでやさしく牝狼のくびにふれると、牝狼が急にはげしくかみついたので、片眼はうしろへひっくりかえって、牝狼の歯をのがれようと骨折っておかしなかっこうをした。牝狼は今では前よりずっと気が短くなっていたが、片眼の方は前より辛抱強くなり、やさしくなっていた。  それから牝狼はさがしていたものを見つけだした。それは小さな流れを数マイルさかのぼったところにあった、その流れは夏期にはマッケンジー河に流れこむのだが、そのときは表面はもちろん岩ばかりの底まで凍っていた――水原から河口まで固い白色の死んだ流れであった。つれあいをずっと前に先立てて、牝狼が疲れきってかけていると、きりたった高い堤に出会した。わきへそれてそこへ行ってみると、春の嵐と雪解けが堤の根元をけずっていて、ある所では狭い裂目の間に小さな洞穴をこしらえていた。  牝狼はその洞穴の口のところにたちどまり、気をつけて絶壁を見わたした。それから、その突兀たる大きな堤がずっと線のやわらかい風景からつき出ているあたりの、絶壁の根元のところを、先ず一方の側からもう一つの側へと走っていった。次に洞穴のところへ帰ってきて、その狭い入口から中へはいった。三尺たらずの間は這っていかねばならなかったが、それからは壁が広くなりだんだん高くなって、直径が六尺に近い小さな丸い部屋になっていた。天井は頭にすれすれであった。乾いていて居心地がよかった。牝狼はそれを丹念にしらべてみた、ところがさっきからついてきていた片眼は、入口のところに立って、辛抱強く牝狼を見張っていた。牝狼は頭をさげ、鼻を地に向け、寄せた四肢に近い一点を嗅いでは、その点のまわりを四、五へんまわって、それから殆どうめきに近い疲れた吐息をついて、体をまるめ、肢をゆるめて、頭を入口の方に向けてぐったりとねた。片眼は興味を感じ耳をたてて、牝狼に笑いかけた。その顔の向うに、白い光に輪廓がきわだった、片眼のブラシのようなしっぽが愛想よくゆれているのが見えた。牝狼は耳のとがった尖端を、すりつけるように頭の後にたれ、おだやかに口を開いて舌をだらりと出した、それはこういう具合にして、自分が気持ちよく満足したことを表現したのであった。  片眼は腹を空かしていた。入口に横たわって眠ったが、その眠りは断続した。しじゅう眼がさめては、外の明るい世界に向って耳をそばだてた、そこでは四月の太陽が雪原の上にもえていた。うとうととすると、眼に見えない流水のしたたりのかすかなささやきが耳にしのびよってきた、それで片眼は眼をさまして一心に耳をすました。太陽が返ってきて、眼ざめた北国の全世界がよびかけていた。生命が躍動していた。春の感触が空中にあり、雪の下で生長する生命、木々の中を昇る樹液、霜の拘束を破るつぼみの感触があった。  片眼はそのつれあいに不安の目をなげたが、牝狼はたちあがろうとはしなかった。外を見ると、五、六羽の雪ほおじろがはたはたとその視界を横切っていった。片眼ははっとして立とうとしたが、それからまたつれあいの方をかえりみて、腰をおちつけて眠りこんだ。甲高くかすかな歌声がしのびやかにきこえてきた。片眼は一度、ねむたそうに前肢で鼻をこすった。それから眼をさました。鼻さきの空中でただ一匹の蚊がぶんぶんうなっていた。それはすっかり成長した蚊、冬中乾いた丸太の中で凍ってねていたのが、いま太陽にとかしてもらったばかりの蚊であった。片眼はもはや外界のまねきをしりぞけることはできなかった。その上に空腹だった。  片眼はつれあいのところへ這っていって、牝狼をときつけておきあがらせようとした。しかし牝狼はただうなってみせるだけであった、それで片眼は独り明るい陽光の中へ出ていったが、足下の雪の表はやわらかくて、歩くのが困難であった。凍った小川の底をのぼっていったが、そこでは木のかげになって雪がまだ固くて結晶していた。八時間も出歩いていたが、暗やみをついて帰ってきたときには、出かけた時よりよけいに腹が空いていた。獲物は見つけたのだが、つかまえなかったのであった。片眼はとけかけた雪の面をふみ抜いてこけつまろびつしたのだが、雪靴兎はいつものとおりに雪の表を軽やかにかけていったのであった。  片眼は急に疑惑を感じて洞穴の口のところにたちどまった。かすかな、異様な音が内部からきこえてきた。それはつれあいのたてる音ではなかったが、しかも何となくしたしみがあった。警戒しいしいはらばいして中へはいってゆくと、牝狼の警告のうなり声に出あった。片眼はその警告を狼狽せずに受取り、それにしたがって近づかないようにしていた、しかし依然としてそのほかの音――かすかな、ひくい、くしゃくしゃ、めそめそしたなき声に興味をおぼえていた。  牝狼がいらいらしてあちらへ行けと警告するので、片眼は入口のところで丸まって眠った。朝がきてほのかに光が狼窟の中にゆきわたった時に、片眼は再び例のかすかに親しみのある音の原《みなもと》をさがしもとめた。つれあいの警告するうなりには新たな調子が加わっていた。それは嫉妬の調子だったので、片眼は適当な距離をとっておくようによく注意した。それでも片眼は見てとった、とても弱々しい頼りのない様子をして、五つの異様な小生命が、牝狼の体によりそってその肢の間にかくれ、まだ光に対して眼もあかないで、小さなくんくんいうなき声をあげていた。片眼は驚いた。彼の長い成功の生涯に、こういうことが起きたのは、これが初めてではなくて、何度もあったことなのだが、それでも相変らず新たな驚きなのであった。  牝狼は不安げに片眼を見た。しじゅう低い咆え声をたて、時々片眼があまり近づきすぎると思われると、その咆え声はきつい捻り声となってのどからとびだした。牝狼は自分の経験としては、これから起りかけていることの記憶はもたなかったが、すべての狼の母の経験であるその本能には、生れたばかりの無力な仔を食った父親の記憶がひそんでいた。それが牝狼の身内にあって強い危懼としてあらわれ、片眼に自分の生ませた仔狼をもっとくわしく点検することをさまたげさせたのであった。  しかし危険はすこしもなかった。片眼は一つの衝動の勧告を感じていた、それはこんどは、凡ての狼の父から伝わってきた本能であった。片眼はそれを疑わなかったし、それに迷いはしなかった。それは自分の体の繊維の中にちゃんとあった、だから、それにしたがって新たに生れた家族に背を向け、自分の生命のかてである肉の臭跡を追いにでかけて行ったのは、よにも最も自然なことであった。  その狼窟から五、六マイルのところで小川が分岐し、その分岐は直角をなして山々の間へはいりこんでいた。ここでその左の分岐をのぼっていって、新しい足跡にぶつかった。それをかいでみると、それがとても新しいものであることがわかったので、早急にうずくまって、それが消えていっている方角をうかがってみた。それからよくよく考えて方向を変え、右の分岐に向った。その足跡は自分の足跡よりずっと大きかったので、そういう足跡についていっても、自分がとれるような肉は殆どないことがわかったからである。  右の分岐を半マイルものぼったところで、片眼の敏感な耳がものを咬む歯の音をとらえた。その獲物にしのびよってみると、それは木に向ってたちあがってその皮をかじって歯をためしているやまあらしであった。片眼は用心して近づいたが望みはもてなかった。いままでこんな北国でそれにあったことはなかったが、この種のもののことは知っていた、そしてその長い生涯において、やまあらしが自分の食事として役立ったことはなかった。しかしずっと前から僥倖とか機会とかいうもののあることを知っていたので、じりじりと近寄りつづけた。生き物を相手の場合にはどうしたものかいつでも事の起り具合がちがうので、どういうことがおこるかわかるものではなかった。  やまあらしはくるくるとまるまって球になり、長い鋭い針を八方に放射して攻撃に備えた。片眼は若い頃一度、これと同じような、見たところ自動力のなさそうな針の球にあんまり鼻を近づけて嗅いだので、そのしっぽで急に顔をはたかれたことがあった。その時一本の針が鼻つらにささったままで、それが最後に抜けるまで、何週間も燃えるように痛んだ。だから片眼は、鼻をたっぷり一尺は離して、しかもしっぽの線から外して、楽にうずくまる姿勢でそこへねた。そうして完全に静かにして待つことにした、なんとも言えなかった。何事がおこるかもしれなかった。やまあらしが体をのばすかもしれなかった。柔らかい防備のない腹にうまく前肢を突込んで引き裂く機会があるかもしれなかった。  しかし三十分もまったあげく、片眼はたちあがり、その動かない球に向って怒って咆えておいて走り去った。過去においてあまりにも度々、やまあらしの体をのばすのを待って馬鹿を見たことがあったので、またも時間を空費する気にはなれないのであった。片眼は右の分岐をさかのぼりつづけた。時はどんどん経っていったが、狩りに報いるものは何もなかった。  眼ざめた父性の本能の催促がつよくはたらいた。肉を見つけねばならなかった。午後になってらいちょうにぶつかった。やぶから出てみたらその愚鈍な鳥とつらをつき合わしているのであった。それは鼻先から一尺とはなれていない丸太の上にとまっていた。お互いに見合った。らいちょうはびっくりしてたちあがったが、片眼はそれを前肢で打って地上にたたきつけ、それから再び空中へとびあがろうとして雪の上をかけていくやつを、つかみかかって歯でくわえた。歯がやわらかい肉と脆い骨につきささると、自然食べはじめることになったが、思いつくことがあって、そのらいちょうをくわえたまま、いまきた道を引返して帰路についた。  分岐点の一マイル上流のところで、いつものようにびろうどのような足で、新しい臭跡でも見つかればと、用心深くしのび歩く影のようにかけていると、朝早く発見したあの大きな足跡のその後の跡にぶつかった。その足跡は自分のゆく方に向っているので、川の曲り目ごとにその足跡の主に出会う覚悟をきめて、そのあとを追っていった。  その小川の並外れて大きい曲り目の始まりのところで、岩角からそっと顔をだしてみると、敏感な眼にあるものが見つかったので、すぐさまそこにうずくまった。それは例の足跡をつけた、大きな牝の山猫であった。山猫は、片眼がこの日一度うずくまったように、しっかりと丸まった針の球を前にしてうずくまっていた。片眼はそれまでは忍び歩きする影であったとすれば、こんどはそういう影の幽霊となって、ぐるっと大まわりして這ってゆき、だまって動かないこの一対の動物の風下へいった。  らいちょうをそばにおいて、雪の上にすわりこみ、低く育ったえぞまつの針葉の間からのぞいて、眼前の生命の競技――いずれも必死となって待っている山猫とやまあらし、を見まもった、そこがこの勝負の奇妙なところで、一方にとっての生きる道は相手を食うことにあり、他方にとっての生きる道は食われないことにあった。一方ではかげにうずくまっている狼の片眼もやはりこの競技に一役を演じ、自分の生きる道である肉の追跡のたすけになるかもしれない、何か変った気まぐれな僥倖をまちうけた。三十分経った、一時間経った、しかも何ごとも起きなかった。針の球はよし動いたとしてもまるで石のようであったし、山猫は凍って大理石になったといってもよかった、そして片眼は死んでいたといってもよかった。しかもこの三匹の動物がみんな、殆ど苦痛でさえある生きることの緊張にはりきっていて、この時見かけ上は化石化の状態にありながら張切っていた。それ以上に張切ることは今後めったにあるまいと思われるほどであった。  片眼はかすかに動いて、ますます真剣になってのぞいてみた。何ごとかがおきかけていた。やまあらしはついに敵はたち去ったものと断定した。そろそろと、用心しいしい、その堅固な装甲の球をひろげかけていた。予感に身をふるわせることはなかった。そろり、そろりと、その針の球はのびて長くなった。片眼はそれを見守りながら、自分の前に食事のようにひろがってゆく生きた肉に刺戟されて、われしらず急に口がうるおい、よだれの垂れるのをおばえた。  やまあらしはすっかり拡がってしまわないうちに敵を発見した。その瞬間に山猫が攻撃した。その打撃は電光石火のようであった。猛禽の爪のように曲ったごつい爪のある前肢が、柔らかい腹にとびつき、すばやく引き裂く運動をしてひっこんだ。もしやまあらしがすっかり伸びきっていたか、その打撃の加えられる何分の一秒か前に敵を発見していなかったら、山猫の前肢は傷つかずに逃れたであろう。しかししっぽで横打したので、前肢がひっこむとたんに、鋭い針がぐさりとささった。  あらゆることが同時におきた――打撃と、反撃と、やまあらしの苦悶の悲鳴と、大山猫の突然の負傷と驚愕のさけびと。片眼は興奮してたちあがり、耳をたて、尾を後へまっすぐにのばしてふるわせた。山描は怒りにわれを忘れて、猛然と自分を傷つけたものにとびかかった。しかしやまあらしは、悲鳴をあげてうなりながら、引き裂かれた痛手に弱々しく体をまるめて球状の防禦にもどろうと努力しつつ、再びその尾でぴしりと打った。すると再び大山猫が負傷と驚愕のために悲鳴をあげた。それから山猫は、しりごみしながらくさめした。その鼻つら一ぱいに奇怪な針さしのように針がささっていた。山猫は火のような針を抜こうとして、鼻を前肢でこすったり、雪の中につっこんだり、木の大枝小枝にこすりつけたりして、その間じゅう、苦痛と驚愕に気も狂いそうになって、前へ、横へ、あちらこちらへはねまわっていた。  山猫はつづけさまにくさめをし、切株のようなしっぽをはげしくぴくぴくさせて、しきりに猛打を加えようとした。やがてその奇妙なしぐさはやめにして、長い間しずまりかえっていた。片眼はそれを見守っていた。すると山猫が前ぶれもなくだしぬけにまっすぐに空中へとびあがり、同時に長いとても恐るべき悲鳴をあげたときには、片眼とてもギョッとして、われにもあらず背中の毛をさかだてずにいられなかった。それから山猫は、一とびことに悲鳴をあげながら、雪の野道をつたってとび去った。  山猫の騒ぎが遠のいてうすれゆき消えてしまってからはじめて、片眼はそろそろ出てきた。まるで雪の上一めんに、針の敷物が敷いてあって、しかもその針が直立していて、柔らかい足の裏をつきさすかのように、そろそろと歩いていった。やまあらしは片眼が近づくとはげしくうなり、長い歯をかみならした。やまあらしは再びどうにかまるまって球になりはしたが、どうももとのようなひきしまった球ではなかった。筋肉があまりひどくいたんでいるのでそうはできなかったのである。それは殆ど二つにさけていて、またひどく出血していた。  片眼はその血のしみた雪を一口ずつ何度もすくいとって、かみ、味わい、のみこんだ。それが薬味の役をして、ひどく空腹感を増したが、この世の年功をつんでいるので、用心を忘れはしなかった。片眼は待った。寝て待っていた、その間やまあらしは歯ぎしりをし、うなり、すすりなきし、時々小さな鋭い悲鳴をあげた。やがて、針がだらりとしおれ、大きな身ぶるいが始まったことに片眼は気づいた。その身ぶるいも急にとまった。長い歯が最後に、挑戦的に、かちかちと鳴った。それから針が全部すっかりうなだれ、体がのびて、まったく動かなくなった。  片眼は、神経がたかぶってしりごみしそうな前肢で、やまあらしの体を一ぱいにのばして裏がえしにした。何事もなくてすんだ。それは確実に死んでいた。片眼はそれをしばらく一心になってしらべてみた、それから気をつけて歯でよくよくくわえ、そのとげとげの塊りをふみつけることをさけるように、頭をわきへ曲げて、やまあらしを半ばひっさげ半ば引きずって、小川をくだりはじめた。何かを思いおこして、荷をおき、らいちょうを残してきた場所へとってかえした。一瞬間とてもちゅうちょしなかった。自分のせねばならぬことをはっきりと知っていたので、さっそくらいちょうを食べてしまってそれをはたし、それからまたもどってきてさっきの荷物をとりあげた。  一日の狩りの結果を洞穴の中へひきずりこむと、牝狼はそれをしらべてみて、鼻つらを片眼の方へ向け、かるくくびをなめてやった。しかしつぎの瞬間にはうなって仔狼のところから去れと警告したが、そのうなりはいつもほど荒くなくて、威嚇するよりはむしろお詫びするような具合であった。仔の父親に対する本能的な危懼は弱まっていた。片眼は狼の父らしい振舞をしていたし、牝狼がこの世へ生みだした幼い命をむさぼり食おうという、不信心な欲望をあらわしはしなかった。 [#5字下げ]三 灰色の仔狼[#「三 灰色の仔狼」は中見出し]  灰色の仔狼は兄弟姉妹とはちがっていた。きょうだいたちの毛は既に母親の牝狼からうけついだ赤味がかった色をみせていたが、この仔狼だけは、特にこの点だけ、父親のあとをとっていた。この一腹の仔のうちで唯一匹の灰色の仔狼であった。正真正銘の狼に生れついていた――実際、肉体的に片眼そっくりに生れついていた、ただ一つ例外があって、それは父親が一眼なのに対して眼が一対あることであった。  灰色の仔狼の眼は開いて間もなかったが、しかも既にはっきりと物を見ることができた。そして眼がまだつむっていた間は、よく感じ、味わい、嗅いでいた。彼は二匹の兄弟と二匹の姉妹とをよく知っていた。その兄弟姉妹と、弱々しく、不器用にふざけ、けんかさえしはじめたが、興奮して激すると、小さなのどが奇妙なこするような音(咆え声の前ぶれ)でふるえた。そして眼のあかないずっと前から、触感と味と臭いでもって自分の母親――暖かみと液体食料と愛情の源――を知ることをおぼえていた。母狼はやさしい、愛撫する舌をもっていて、それは、子狼の小さい柔らかい体の上を通ってゆくとき、仔狼をなぐさめてくれ、母狼にしっかり寄りそって、ついうつらうつらと眠りこんでしまうようになるのであった。  生れて最初の月の大部分はこうして眠ることですぎてしまった。しかしもうすっかりよく眼が見えるようになって、眼をさましている時間が長くなり、自分の世界がきわめてよくわかるようになってきた。その世界はうす暗かったが、ほかの世界のことを知らないので、そのことは自分ではわからなかった。うす明りだったけれども、その眼はそれ以外の光に調整する必要はなかった。その世界はきわめて狭かった。その限界は狼窟の壁であったが、外の広い世界のことはちっとも知らなかったので、自分の存在の狭い境界に圧迫を感ずることはなかった。  しかし自分の世界の一方の壁がほかの壁とは違うことを早くから発見していた。それは洞穴の口であり、光の源であった。それが他の壁とは違うことは、自分の考えなり意識的な意力というものをもたない頃から発見していた。それは眼が開いてそれを見るようになる前から、おさえきれない魅力であった。そこからくる光は閉じたまぶたにつきあたり、眼と視神経が、その暖色をおびて妙にきもちのよい、小さな火花のような閃光に合わせて脈うつのであった。自分の肉体の生命、自分の肉体の凡ゆる繊維の生命、自分の肉体のまさにその精髄であり、自分の個人的生命とは別ものである生命が、この光に向ってあこがれ、植物の巧妙な化学作用が植物を太陽へ向わせるのと同様に、その肉体をこの光の方へ向わせた。  はじめ意識的生活があけそめる前にはいつも、洞穴の口の方へ這っていったのであった。そしてこのことでは、きょうだいたちも一しょであった。その時期には、一匹も後の壁の暗い隅の方へ這ってゆきはしなかった。光がみんなを植物のようにその方へひきつけた、かれらを形成した生命の化学が存在の必要物として光を要求したのであった、そこでこれらの小さなかいらいである肉体が、葡萄木のまきひげのように、盲目的に化学的に這っていったのである。後になって、各々が個性を発達させ、衝動と欲求を身をもって意識するようになると、その光の魅力が大きくなった。みんながしじゅう光の方へあがきながら這っていっては、母親から追いもどされていた。  こういうふうにして、灰色の仔狼は、柔らかい、なだめるような舌とは別の、母親の属性を学び知った。しつように光の方へ這ってゆくうちに、きつく小突いて叱る母親の鼻を発見し、のちには自分をおし倒して、すばやく頃合をはかってなぐり、自分をころころころがす母親の前肢を知った。こうして怪我を知り、そのあげくには、先ず第一に怪我の危険をこうむらないようにすることによって、それから第二には、その危険をこうむった場合には、身をかわしてひきさがることによって、怪我をさけることを学び知った。それは意識的な行動であって、世界に関する初めての綜合推理の成果であった。それより以前には、自動的に光の方へ這っていったように、自動的に怪我からしりごみしていたのであった。それからのちは、それが怪我であることを知る[#「知る」に傍点]が故に、怪我から身をひいた。  灰色の仔狼は獰猛な仔狼で、きょうだいたちもそのとおりだった。それは当然予期されることであった。灰色の仔狼は肉食動物で、肉を殺すものと肉を食うものの血統の出身であった。父母はまったく肉だけを食って生きていて、子狼がその最初のかよわい生命で吸った乳は、肉から直接に変形された乳であった。そして、一月たった今、眼が開いて一週間たったばかりの時に、自分で肉を食べはじめていた。――肉といっても、牝狼が既にその乳房に対して大きすぎる要求をするようになった五匹の成長する仔狼のために、半ば消化してはきだしてやった肉であった。  しかし更に灰色の仔狼はこの一腹のうちで一番獰猛であった。きょうだいのうちのだれよりも大きな耳ざわりな咆え声をたてることができた。その小さな怒りはほかのもののよりずっとよけいに怖かった。巧妙に前肢で打って仲間の仔狼をころがすいたずらも一番早くおぼえた。それから一番早くからほかの仔狼の耳たぶをくわえて、引いたりたぐったりして、しっかりくいしばったあごの間からうなり声をだした。また仔狼を洞穴の口に近づけないために、母親に一番面倒な思いをさせたのも、たしかにこの灰色の仔狼であった。  光の魅力は日増しにつのっていった。ともすれば洞穴の入口の方へ三尺ばかりの冒険に出かけては、その度に追いかえされた。ただそれが入口だとは知らなかった。入口――一つの場所から他の場所へゆく通路については何も知らなかった。他の場所などは全然知らず、そこへゆく道はなおさら知らなかった。だから仔狼にとっては、洞穴の入口は壁――光の壁であった。仔狼からみたこの壁は、外に住んでいるものにとっての太陽のようなもので、自分の世界の太陽なのであった。それは蝋燭が蛾をひきつけるように、仔狼をひきつけた。仔狼はつねにそれに達しようと努力していた。体内で速かに伸張しつつある生命が、仔狼を光の壁の方へ不断にうながしていた。体内にある生命は、それが唯一の外への道、自分がふみゆくものと定まっている道である、ということを知っていた。しかし自分としてはそのことは何も知らなかった。いやしくも外に何かあることも知らなかった。  この光の壁については一つ変なことがあった。父狼(その父を、この世界の居住者のひとりとして、光に近いところに眠り、肉をもってきてくれる、母と同様なものとして、既に認めるようになっていた)――父狼は白い向うの方の壁へまっすぐにはいっていって見えなくなってしまうという癖があった。灰色の仔狼にはこのことが理解できなかった。その壁に近づくことは母に決して許されなかったが、そのほかの壁には近寄ってみて、やわらかい鼻の先に、固い障碍を感じた。それが痛かった。それでそういう冒険を何度かやったあとで、壁にはもうかまわないことにした。それについて考えたわけではないが、例の壁の中へ消えてゆくことは、乳と半ば消化した肉が母の特性であるように、父の特性なのだと解していた。  事実、灰色の仔狼は思考――すくなくとも、人間に普通な種類の思考、にはなれていなかった。その頭脳のはたらきは鈍かった。しかもその結論は人間のやる結論と同様に鋭くてはっきりしていた。理由と目的を問わないで、事物をそのまま受けいれるというやりかたであった。実際のところ、これが分類の行為であった。あることが起きた理由[#「理由」に傍点]に煩わされることはなく、それが起きた情況[#「情況」に傍点]だけでたくさんであった。そういうわけで、鼻を四、五へんも後の壁にぶっつけたとき、自分は壁の中へ消えてゆけないものだときめ、同様にして父狼は壁の中へ消えてゆけるものだときめたが、父と自分との違いの理由を見つけ出そうという欲望にはすこしも煩わされなかった。論理も物理も仔狼の精神構造の部分ではなかった。  荒野の大部分の動物と同様に、仔狼は早くから飢餓を経験した。肉の供給がとまったばかりでなく、乳が母の乳房から出なくなった時があった。最初は、仔狼どもは鼻をならしたり泣いたりしたが、大ていは眠ってすごした。ほどなくみんなが空腹の昏睡におちいった。もはやなぐりっこも、けんかもなく、小さな怒りも唸ろうとする企てもなかった。そしてその間は、かなたの白い壁へ向う冒険は全然やんでしまった。仔狼どもは、内なる生命が明滅してやがて消えゆくままに、眠りつづけた。  片眼は必死となっていた。遠く広く跋渉し、今は楽しみがなくみじめなものとなりはてた狼窟の中では殆ど眠らなくなった。牝狼までも仔をおいて出かけて、肉をさがした。仔狼が生れた直後には、片眼が何度かインディヤンの天幕まで出かけていって、わなにかかった兎を盗んできたものだが、雪がとけ小川が流れはじめると、インディヤンの天幕が移動してしまっていて、その方の供給源はとざされてしまった。  灰色の仔狼は、生きかえってまたあのかなたの白い壁に関心をもったとき、自分の世界にすむものの数が減っていることに気がついた。一匹の妹だけが残っていて、ほかのは全部いなくなっていた。だんだん丈夫になってくると、その妹がもはや頭をあげず、動きまわりもしないので自分ひとりで遊ばねばならぬことに気がついた。小さな体がありついた肉でまるまると太ったが、その食物は妹にとってはくるのがおそすぎた。妹は眠りつづけ、皮をはった小さな骸骨の中で、生命の焔が明滅してしだいに衰え、ついに消えてしまった。  それから灰色の仔狼が、父狼の壁の中から現れたり消えたりするのも、入口にねて眠っているのも見ない時がきた。それは二度目のそして前のほどひどくない飢餓の終りごろにおきたことであった。牝狼は片眼がもう帰ってこない理由を知っていたが、自分の見たことを灰色の仔狼におしえる方法がなかった。自分で肉をあさり、山猫の住んでいる川の左の分岐をのぼっていって、一日前の片眼の足跡をつたっていったのであった。そしてその足跡の終りのところで、片眼を見つけた、というよりは片眼の残骸を見つけたのであった。そこには格闘が行われたことと、山猫が勝利を得たあとで自分のふしどへ引きあげたことを語る無数のしるしがあった。牝狼は、たち去る前に、そのふしどを見つけたけれども、形跡からして山猫がその中にいることがわかったので、冒険して中へはいってみる勇気がでなかった。  そののちは、牝狼は狩りをするとき、左の分岐をさけることにした。それは、その山猫のふしどには一腹の仔猫がいて、山猫は獰猛で怒りっぽい動物であって、恐るべき闘士であるということを知っていたからである。狼が五、六匹もいれば、ぷうぷういって毛をさか立てる山猫を木に追いあげるには充分だが、たった一匹の狼が山猫に立ちむかうとなると、問題はまったく別なのであった――山猫が一腹の空腹な仔猫を後にしたがえていると知れた時は殊にそうであった。  しかし野性は野性である、そして母性は母性なのである。母性は荒野にいようと荒野の外にいようと、常に保護本能が旺んなものである、それで、牝狼がその灰色の仔狼のために、左の分岐も、岩の中のふしども、山猫の怒りも、思いきって冒す時がくる筈であった。 [#5字下げ]四 世界の壁[#「四 世界の壁」は中見出し]  母狼が洞穴を出て狩猟の遠征に出かけはじめた時までには、仔狼は自分の入口に近寄ることを禁ずる法則をよく学び知っていた。母の鼻と前肢によって、この法則が強くそして幾度も仔狼の頭に印象づけられたばかりでなく、恐怖の本能が身うちに発達していた。その短い洞穴生活の間に、恐るべきものに出会ったことは一度もなかった。けれども、恐怖心が身うちにあった。それは十万百万の生命を通して遠い先祖から伝わってきたのであった。それは直接に片眼と牝狼から受け取った遺産であったが、それはまた、その二匹にも、それ以前のすべての狼の世代を通じて伝わってきていたのであった。恐怖!――いかなる動物ものがれることはできず、また何物とも交換することはできない、あの荒野の遺産。  それで灰色の仔狼は、恐怖のなりたっている材料はわからぬながらも、恐怖を知っていた。恐らくそれを生命の制限の一つとして受け取っていた。というのは、そういう制限があるということを既に学び知っていたからである。空腹を知っていて、その空腹をいやすことができなかった時に、制限を感じたのであった。洞穴の壁の固い障碍や、母の鼻できつく押しつけられたことや、母の前肢でたたきつぶされたことや、数度の飢饉でいやされなかった空腹などが、世の中では何もかも自由というわけにいかぬことや、生命には限界と制限があることを、さとらせたのであった。こういう限界と制限が法則であった。それに随うことが怪我をまぬがれ幸福に近づくことであった。  仔狼は問題をこういう人間のやりかたで推理するのではなかった。ただ怪我させるものと怪我させないものを分類するだけであって、そういう分類をしたあとで、生の満足と報酬を享受するために、怪我させるもの、即ち束縛と制限をさけた。  そういうわけで、母によって規定された法にしたがい、あの正体の知れない名のつけようもないもの、即ち恐怖の法にしたがって、仔狼は洞穴の口からはなれていた。それは依然として光の壁であった。母の留守の時には、大てい眠っていて、たまに眼がさめている間もごく静かにしていて、のどをくすぐってどうしても声をたてそうな、くんくんという泣き声をおさえていた。  一度、眼をさましたままねていると、白い壁の中から異様な音がきこえてきた。それはあなぐまであって、自分の大胆な行いにふるえ、外に立って用心しいしい洞穴の中にあるものを嗅ぎわけているのだ、ということはわからなかった。仔狼はただ、その鼻をひくひくさせる音が異様で、分類できないもの、したがって正体の知れぬ怖いものである、ということだけを知った――正体が知れぬことは恐怖をおこさせる主要な要素の一つであったのだから。  灰色の仔狼は背中の毛を逆立てたが、それは音を立てずに逆立った。仔狼がこの鼻をひくひくさせているものは毛を逆立てて立ち向わねばならぬものである、ということをどうして知ったのであろうか? それは何も仔狼の知識から生れたのではないが、しかもその身うちにあった恐怖の目に見える表現であった。しかも仔狼自身の生命の中にはそれを説明するものは何もなかった。しかし恐怖にはもう一つ別の本能――かくれる本能がともなった。仔狼は狂わんばかりの恐怖状態にありながら、なおもじっとして音をたてず、凍りついて、化石したように動かず、どう見ても死んだようにして、ねていた。母狼は帰ってきて、あなぐまの臭跡を嗅ぎながら咆え、洞穴へおどりこんできて、度外れてはげしい愛情をもって仔狼をなめたり鼻をおしつけたりした。そこで仔狼はどうやら自分は大きな怪我をのがれたのだなあと感じた。  しかし仔狼にはもっとほかの力が働きかけていた。その最も大きなものは成長力であった。本能と法則は仔狼に服従を要求したが、成長は不服従を要求した。母と恐怖は白い壁に近寄らないことを強制したが、成長は生命であって、生命は永久に光に向う宿命をもっている。だから仔狼の中に高まっている生命の汐をせきとめる法はなかった――のみ下す肉の一口ごとに、吸う一息ごとに、高まっていた。ついには或る日、恐怖と服従が生命の突進によってはらいのけられ、仔狼は入口の方へよたよたと這っていった。  まえに経験したほかの壁とは違って、この壁はこちらが近づくにしたがって後退するように思われた。試みにつきだしてみたやわらかい小さな鼻に固い表面がぶつかりはしなかった。壁の実質は光のように手ごたえがなくて、はいりこんでゆけるように思われた。そこで、仔狼には見たところ、状況が形あるもののように映じたので、仔狼は壁と思われたものの中にはいりこんで、その壁を形成している実質を身に浴びた。  驚いたもので、これでは固形物の中をよちよち歩いているわけであった。しかも光はますます明るくなった。恐怖がひきかえせとすすめたが、成長が前へとおしすすめた、ふと気がついてみると洞穴の入口にきていた。自分がその中にいるのだと思っていた壁が、同じく突然に、測り知れぬ遠方へとび退いてしまった。光が痛いほど明るくなっていて、まぶしかった。同様にだしぬけに途方もなく空間が拡がったので、めまいがしてきた。眼が自動的にその明るさに調節し、増大した対象の距離に合うように焦点を合わせていた。最初その壁は視界の外にとびのいていたが、やがてまた見えてきた、しかしそれはいちじるしく遠いところにある相貌をおびていた。それにまたその外観が変っていた。それは今では、小川のふちに立ち並ぶ樹木と、木々の上にそばだつ向い側の山と、その山の上にひろがっている空とでできた、雑色の壁になっていた。  大きな恐怖が襲ってきたが、それはむしろ恐るべき未知のものという性質がつよかった。仔狼は洞穴の入口にうずくまって、外の世界をながめやった。仔狼はひどく怖かったが、それは外の世界の正体がわからず、自分に敵対するものであったからである。それで背中の毛はさか立ち、唇は獰猛な威嚇のうなり声を出そうとしてぴくぴくと震えていた。自分が弱小で恐怖しているので却って、広い全世界に挑戦し、威嚇したのである。  何ごとも起らなかった。眺めつづけているうちに、興味をおぼえて、うなることを忘れてしまった。それにまた怖がることも忘れた。しばらくは、恐怖が成長におっぱらわれてしまって、こんどは成長が好奇心の仮装をつけていた。仔狼は近くにある物に注意をむけ始めた。小川の広くなって日光にかがやいている部分や、斜面の裾に立っているしなびた松の木や、斜面そのものなど――その斜面は仔狼の方に向って高くなってきて、仔狼がうずくまっている洞穴の口の二尺ほど下のところでとまっていた。  さてこの灰色の仔狼は生れて以来ずっと水平な床《ゆか》の上でくらしてきていた。墜落の怪我を経験したことはなく、墜落の何たるかを知らなかった。それで仔狼は大胆に空中へふみだしていったが、後肢がまだ洞穴の口にかかっていたので、頭から先に下へおちていった。地面が鼻に手荒い打撃をくらわしたので、仔狼はきゃんと泣いた。それから斜面をころころころがりはじめた。仔狼は恐怖のあまりに狼狽していた。あの未知のものがついに仔狼をつかまえたのであった。未知のものが無残にひっつかまえて、何か恐るべき怪我を加えようとしていた。今や成長が恐怖によっておっぱらわれ、仔狼は何のことはない、おどかされた仔犬のようにきいきい泣いた。  未知のものが仔狼には何だかわからない恐ろしい怪我へと運んでいったので、仔狼はたえずきゃんきゃんきいきい泣いていた。これは、未知のものがすぐそばにひそんでいて、凍るような恐怖状態でうずくまっているのとはわけが違う事件であった。今や未知のものがしっかりとつかまえているのであって、黙っていても何の役にもたたなかった。その上仔狼が身もだえしたのは、未来の恐怖のためではなく、現在の恐愕のためであった。  しかし斜面はずっとゆるやかになり、その裾は草でおおわれていた。そこで惰性がなくなって、ついにぴたりととまると、仔狼は最後の苦悶の泣き声をあげ、それから長々とくんくん泣きだした。それにまた、まるで生れてから既に千たびも化粧したことがあるみたいに、いかにも当りまえのことのように、自分の体をよごしている土をなめ取り始めた。  その後は、坐ったまま、初めて火星に達した地球の人間のように、自分のまわりを眺めわたした。仔狼は世界の壁を突破したのであって、未知のものはつかまえていた仔狼を放していたし、仔狼は無傷でここにいた。しかし初めて火星にいった人間だって、仔狼ほどの不案内な気持ちを経験しはしなかったであろう。何らの予備知識もなく、こういうものが存在するという何らの警告もなかったので、仔狼は全く新しい世界の探検者になっているのであった。  恐るべき未知のものが手放してくれた今となっては、仔狼はその未知のものが驚愕すべきものをもっていることを忘れていた。自分のまわりの凡ゆるものに対する好奇心をおぼえるだけであった。足下の草や、すぐ向うにあるこけももの木や、木々の間の空地の端に立っているしなびた松の枯れた幹などを観察した。その幹の根元をぐるぐるかけまわっていたりすが、まともにぶつかってきて、ひどくびっくりさせた。仔狼はちぢみあがってうなったが、りすの方でも同じくひどく面喰って、その木へかけあがり、安全なところからはげしくしゃべりかえした。  このことが仔狼の勇気を助成した。それでその次にでっくわしたきつつきにはちょっとびっくりした。けれども、自信をもってずんずん進んでいった。その自信は大したもので、大鹿鳥が生意気にもひょいひょい跳んできたときには、前肢をさしのばしてじゃれかけたほどであった。その結果は鼻の先をきつくつつかれて、ちぢこまってきいきい泣くようなことになった。仔狼のたてる音があまりひどいので、大鹿鳥の方もたまらなくなって、安全を求めてとび去った。  しかし仔狼はものを学び知っていた。その曇った小さな頭が既に無意識な分類をやっていた。即ち生きたものと生きていないものがあった。それから、生きたものには警戒せねばならなかった。生きていないものはいつも同じ場所にいたが、生きたものは動きまわり、どんなことをするかわからなかった。生きたものに期待し得ることは、こちらの予期しないことである。それでそれに対しては用意しておかねばならなかった。  仔狼はひどく不器用に歩きまわった。柴木やら何やらにぶつかった。まだずっと遠くにあると思っていた木の枝がたちまち鼻をぶったり、あばら骨をひっかいたりした。地の表面にでこぼこがあって、時々踏みこして鼻をぶっつけることがあり、肢をあげ足りなくて肢をぶっつけることも同じく度々あった。それから砂利や石があって、それを踏むと足の下でころがった。それでそういうことから、生きていないものでも必ずしも洞穴のように同じ安定した平衡状態にあるわけではないし、生きていない小さなものは大きなものよりも倒れたりころんだりしやすい、ということを知った。とにかく災難にあうごとに学んでいた。長く歩けばそれだけ歩きかたがうまくなった。自ら適応していたのである。自分の筋肉の運動を測定し、自分の肉体の限界を知り、物と物の間、物と自分の間の距離を測ることをおぼえていた。  仔狼の幸運は初心者の幸運であった。肉をあさるものとなるべく生れ(自分ではそのことは知らなかったが)ただけあって、最初の外界侵掠の途上、自分の洞穴の口のすぐ外で、肉にでっくわした。うまくかくしてあったらいちょうの巣にでっくわしたのは、まったくの偶然によることであった。即ちその中へおっこちたのである。倒れた松の木の幹をつたって歩こうとしたのだが、そのくさった皮が足下でくずれて、仔狼は絶望の悲鳴をあげながら、彎曲した下り坂を落下し、小さな灌木の葉と茎をつきぬけて、その灌木の中心から地面へ落ち、七羽のらいちょうのひなのまん中におちこんだ。  ひながさわいだので、最初はそれを見て驚いたが、やがてそれがひどく小さいことがわかると、大胆になってきた。ひなどもは動いていた。一羽に前肢をかけてみると、はげしく動いた。それが楽しみの源泉になった。それを嗅いでみた。口にくわえてみると、それは身をもだえて舌をくすぐった。同時に仔狼は空腹感をおぼえさせられた。上と下のあごがとじた。もろい骨がぽりぽり砕けて、暖かい血が口の中へ流れこんだ。その味は好かった。それは肉であった、母がくれたのと同じだが、ただそれは歯の間で生きていた。だからよけいにおいしかった。それで仔狼はらいちょうを食ったのである。そして一腹のひなを全部食ってしまうまではやめなかった。それから母とすっかり同じやりかたであごをなめて、灌木からはいだし始めた。  すると羽根の旋風にであった。その旋風におそわれ、怒った翼に打たれて、混乱し目が見えなくなった。頭を前肢の間にかくしてきゃんきゃんないたが、打撃はますますひどくなった。らいちょうの親鳥が激怒していた、そこで仔狼も怒りだした、たちあがって、うなって前肢をつきだした。小さな歯で一方の翼にかみつき、頑強にぐいぐいひっぱった。らいちょうはそれに対抗して、かまれてない方の翼で打撃の雨をふらした。これは仔狼のはじめての格闘であった。元気が出てきて、あの未知のもののことはすっかり忘れ、もはや何物も恐れなくなった。自分に打ちかかってくる生きたものと格闘し、引き裂こうとしているのであった。それにまたこの生きたものは肉であった。殺したい欲望がもえたっていた。ついさっき小さな生きたものをやっつけたばかりで、こんどは大きな生きたものをやっつけるのであった。仔狼はあまりにも忙しくて幸福なので、自分が幸福なこともわからなかった。自分としては初めてで、それまでに経験したことがないほどひどく、身うちがぞくぞくして、意気が高揚した。  翼を必死にくわえたまま、くいしばった歯の間からうなった。らいちょうは仔狼を灌木からひきずり出したが、方向をかえ、灌木の中の巣へひっぱり返そうとしたとき、今度は仔狼がらいちょうを灌木からひきはなして、空地へひっぱりだした。そしてその間じゅう、らいちょうはぎゃあぎゃあなきたてて、あいている方の翼でなぐりつづけ、羽根が雪球のようにとびちった。仔狼の興奮の度はすさまじいものであった。狼属の凡ての闘争的な血が身うちにわきたち体中に浪打っていた。自分では知らなかったが、これが生きることであった。この世界における自分の意義を実感しているのであって、自分がつくられた目的――肉を殺し、肉を殺すために格闘することをはたしているのであった。自分の存在の正当さを証明していたのであって、生命はこれ以上偉大なことはなし得ないのである。なぜかといえば、生命は、その負荷されている任務を最高度に果す時に、その頂点に達するものだからである。  しばらくして、らいちょうは奮闘することをやめた。仔狼はまだその翼をくわえていて、二匹は地面に横たわってお互に見合っていた。仔狼は脅かすように、獰猛にうなろうとした。らいちょうが、鼻をつついた。その鼻は、さっきの冒険のためもあって、もう傷ついていた。仔狼はひるんだけれどもがんばってはなさなかった。らいちょうが何度もつづけてつついたので、仔狼はひるむ所を通りこしてくんくんなきだした、しかもらいちょうをくわえていればつまりひきずって行くことになるという事実を忘れて、らいちょうから退却しようとした。らいちょうは雨の降るようにしげく仔狼の虐待された鼻をつついた。闘志の汐が退いてしまって、仔狼はその物をはなし、後向きになって、空地を横切り不名誉な退却をとげた。  仔狼は空地の向う側の、茂みの端近くに横たわって休み、舌をだらりと吐きだし、胸はふくれあがってあえぎ、鼻がまだ痛むので、まだくんくんないていた。しかしそこにねていると、急に、何か恐ろしいことがさしせまっているという感じがしてきた。未知のものがあらん限りの恐怖をもって迫ってきたので、仔狼は本能的にしりごみして、灌木のかげにかくれた。すると、一陣の風があおってきて、大きな、翼のある胴体が不吉に音もなくかすめて通った。一羽の鷹が、青空から狙っておりてきて、危いところで仔狼を見失ったのであった。  仔狼が茂みの中にねて、恐怖がおさまり、こわごわのぞいていると、空地の向う側にいた親らいちょうが荒された巣からばたばたとでてきた。ひなを失ったために、らいちょうは空からふってきた翼の電撃に注意を払わなかった。しかし仔狼は見た、そしてそれは仔狼にとって警告であり教訓であった。――鷹の急速な下降と、地面すれすれのところで鷹の体がさっとかすめたことと、鷹の爪がらいちょうの体につきささったことと、らいちょうの苦悶と恐怖のなき声と、鷹がらいちょうをさらって青空へまいあがったこと。  長い時間が経ってから仔狼は避難所を出た。ずいぶん勉強になったのであった。生きたものは肉である。生きたものは食べられる。それに、生きたものは、相当大きい場合には、怪我を与えることができる。らいちょうのひなのような小さな生きたものは食べるといいし、らいちょうの親のような大きな生きたものはかまわない方がよい。それでも仔狼はちょっと野心の刺戟を、あのらいちょうの親鳥ともう一戦を交えたい欲望を、感じた――ただ鷹がそれを掠っていってしまっていた。たぶんほかにもらいちょうがいることであろう。仔狼は見つけにゆきたいと思った。  仔狼はだらだら坂になった堤を下りて小川のところへきた。それまで水を見たことはないのであった。足がかりは好いようで、水の表にはでこぼこがなかった。大胆にその上にふみだした、すると未知のもののふところへ落ちていったので、恐怖のために泣いた。それは冷たかった、そして仔狼は喘いで、せわしく呼吸した。いままで呼吸運動にきっとつきものであった空気ではなくて、水が肺の中へ突入してきた。この時経験した窒息は死の苦しみのようであった。それは死だと思われた。仔狼は意識した死の知識はもたなかったが、あらゆる荒野の動物のように、死の本能をもっていた。それは怪我の最大のものと思われた。それは実に未知のものの真髄であった。未知のものの恐怖の総計、自分にふりかかり得る終局の、考えも及ばない破局であった。しかしそのことは自分では何もしらず、それに関するあらゆることを恐れた。  水面へうきあがると、気持のよい空気が開いた口から突入してきた。再び沈みはしなかった。まるでずっと前から身についていた習慣のように、四つの肢でかいて泳ぎはじめた。近い方の岸は三尺しか離れていなかったが、浮きあがった時にはそちらへ背を向けていて、最初に眼にうつったのが反対の岸だったので、そちらへ向って早速泳ぎだした。川は小さかったが、淵のところでは広くなって二十尺に達していた。  泳ぎ渡る途中で、流れが仔狼をとらえて下流へおし流した。淵の底の小奔流につかまったので、もう泳ぐことはおぼつかなくなった。おだやかだった水が急に怒りだした。時には沈み、時には浮き、しじゅうはげしくつき動かされて、ひっくりかえされたりぐるぐるまわされたりするかと思うと、つぎには岩にぶっつけられたりした。そして岩にぶつかるたびに悲鳴をあげた。行程は悲鳴の連続で、その悲鳴の度数でぶつかった岩の数をわりだすことができた。  急流の終りのところに第二の淵があって、そこでもって渦巻につかまり、やさしく岸へ運ばれていって、同じくやさしく砂利の岸へうちあげられた。そこで気が狂ったように水からはいだして横になった。世界のことをまた少し学び知ったのであった。水は生きていない。それでも水は動く。それに水は土と同じように固形に見えるが、ちっとも堅固ではない。仔狼の結論は、ものは必ずしも見かけどおりではない、ということであった。仔狼の未知のものへの危懼は遺伝された不信であって、それが今や経験によって強められたのであった。それからのちは、物の性質上、仔狼は外観に対する根づよい不信をもったのであって、ものの現実を学び知ってのち始めてそのものに信をおくことができるのであった。  その日もう一つ別の冒険が仔狼にふりかかることになっていた。この世には母親というものがあるということを思いおこしていたのだが、そうなると、自分は世界のあらゆるほかのものより母親を欲しがっているという感じがおきてきた。その日の冒険のために体が疲れていたばかりでなく、小さな頭脳も同様に疲れていた。生れてから頭脳がこの一日ほどひどく働いたことはなかった。更にまた仔狼はねむたかった。それで自分の洞穴と母親をさがしに出かけたが、同時に淋しさと頼りなさの圧倒的にせまってくるのをおぼえた。  数本の灌木の間をはってゆくと、鋭い威嚇的な叫び声がきこえた。眼の前を黄色いものがさっとひらめいた。いたちがすばやく跳びさってゆくのが見えた。それは小さな生きたものであったので、仔狼はすこしも恐れを感じなかった。そのとき、すぐ前の自分の足もとに、たった五、六寸の長さの、きわめて小さな生きたものが見えた、それは仔いたちで、仔狼と同じように、親のいうことをきかないで冒険しに出かけていたのであった。それは退却しようとしたが、仔狼はそれを前肢でひっくりかえした。それは奇妙な、のどをかするような音をたてた。次の瞬間に、黄色の閃光が再び眼の前にあらわれた。再び威嚇的な叫びがきこえて、同じ瞬間に、くびのわきに鋭い打撃を受け、親いたちの鋭い歯が肉にくいこむのを感じた。  きゃんきゃん、きいきいないて、はって後退っている間に、親いたちが仔いたちにとびかかり、それをくわえて一しょに近くの茂みの中へ消えてゆくのが見えた。くびにくらった歯の傷はまだ痛んだが、感情の方がよけいひどく傷められていたので、坐りこんで弱々しく泣いた。この親いたちはとても小さいくせにひどく兇猛だった。いたちは大きさと重さに似合わず、荒野のすべての殺戮者のうちで最も獰猛で、執念深くて、恐るべきものであることを仔狼はまだ知らなかった。しかしこの知識の一部が急速にわがものとなることになっていた。  仔狼がまだないていると、親いたちがまたあらわれた。いたちは仔いたちが安全になった以上は、あわててつっかかってはこなかった。ずっと用心して近づいたので、仔狼は、いたちのやせた、蛇のような胴体と、直立した、ひたむきな、これもまた蛇のような頭を充分に観察する機会をもった。いたちはじりじりと近づいてきて、仔狼の練習をつまない眼にはとまらぬほど速く跳んだ、そしてそのやせた、黄色い体が一瞬間仔狼の視界から消えさった。次の瞬間には、いたちは仔狼ののどにくらいつき、その歯が毛と肉にくいこんでいた。  最初はうなって格闘しようとしたが、仔狼はとても幼くて、今日は世界へ出た初めての日にすぎないので、そのうなりは泣き声となり、その格闘はのがれるためのあがきとなった。いたちは決してかみついたのをゆるめず、くいさがって、生命の血がぶくぶくながれている大動脈まで歯をおしこもうと努力した。いたちは血を吸う動物であって、いつも生きているものののどから血を吸うのが好きなのである。  牝狼が灌木の間を跳んでかけつけなかったならば、仔狼は死んだだろうし、仔狼のことを書いた物語もなかったことであろう。いたちは仔狼をはなして、ひらりとばかりに牝狼ののどにとびついた。狙いははずれたが、そのかわりにあごにかみついた。牝狼は頭を笞をふるように振りまわして、いたちのかみついたのをふりきって、空中高くはねあげ、まだそれが空中にあるうちに、そのやせた、黄色い体をぱくりと咬み、いたちはぽりぽり噛みつける歯の間で死を意識した。  仔狼は母狼のまた違った愛情の激発を経験した。母狼が仔狼を見つけた喜びは、見つけ出された仔狼の喜びよりも大きいようであった。牝狼は仔狼に鼻をおしつけて愛撫し、いたちの歯でできた傷をなめてやった。それから、母仔水いらずで生血吸いのいたちを食べ、そのあとで洞穴へもどって眠った。 [#5字下げ]五 肉の法則[#「五 肉の法則」は中見出し]  仔狼の発育は速かった。二日休息してから、また冒険的に洞穴から出た。この冒険の際に仔狼は母親と一しょに食べた例のいたちの仔を見つけた、そしてその仔いたちに親と同じ道をたどらせた。しかしこの旅では迷児にならず、疲れてくると、洞穴へ帰って眠った。それからのちは、日毎に出かけては、だんだん広い地域をかけまわった。  自分の強さと弱さの正確な測定ができるようになり、大胆であってよい時と用心すべき時を知りはじめた。自分の勇猛なのに自信があって、ちっぽけな怒りや欲望に身をゆだねる、滅多にない瞬間は別として、しじゅう用心している方が得策だということに気がついた。  偶然、つれにはぐれたらいちょうに出会うと、きまって小さな怒りの鬼になった。あのしなびた松の上で初めてあったりすのおしゃべりに対しては、兇猛に応答せずにはおかなかった。ところが大鹿鳥を見ると殆どきまって最も激しい怒りにたたきこまれるのであった、それは自分が初めてこの鳥に出会ったとき、鼻をつつかれたことを決して忘れなかったからである。  しかし大鹿鳥を見ても影響を受けない時もあった、そしてそれは、自分が何か他のうろつきまわっている肉食動物からくる危険にさらされていると感じる時であった。鷹を決して忘れず、鷹が動いている影を見るときまって最寄りの茂みの中へはいこんだ。もはや不恰好によたよた歩いたりなどしないで、すでに、見たところでは努力してはいないような、こっそりとひそやかな、母親式の歩きかたをおぼえ、しかも目にもとまらぬと同時に目をくらますような速さで疾走した。  肉の件では、仔狼の好運はすべて端緒であった。七羽のらいちょうのひなといたちの仔が自分で殺したものの総計であった。殺したい欲望が日とともに強くなった、それであの饒舌にしゃべって、いつも野生動物全体に仔狼が近づいてるぞと知らせるりすに対して、渇えるような野心を抱いた。しかし鳥どもは空中を飛ぶし、りすは木へのぼることができるので、りすが地上にいる時に、見つからないようにしのび寄ることを試みるほかはなかった。仔狼は母親に対して大きな尊敬をいだいていた。母狼は肉を獲ることができたし、決して仔狼に分け前をもってこないことはなかった。更に、母狼はものにおそれなかった。この大胆不敵は経験と知識に基づくものであることに仔狼は思いおよばなかった。それの仔狼に及ぼした影響は力の印象の影響であった。母狼は力を代表していた、そして仔狼は、大きくなるにつれて、母狼の前肢の叱責がきつくなることにこの力を感じた。しかも鼻でつついて叱ることは、牙で咬むことにかわっていった。仔狼はそのために同じく母親を尊敬した。母狼は仔狼に服従を強い、仔狼が大きくなればなるほど、母狼はそれだけよけいに短気になっていった。  また飢饉がやってきて、仔狼はよけいにはっきり意識的に、空腹の苦痛をもう一度知った。牝狼は肉を求めてかけまわり、やせてしまった。もはや洞穴の中で眠ることはまれになり、大部分の時間を肉の追跡についやし、しかも無駄についやした。この飢饉はながくなかったが、つづいている間はひどかった。仔狼はもはや母の乳房から乳を得られず、自分で肉の一口も獲ることができなかった。  以前には、たわむれに、ただそれが面白いから、獲物をあさったのだが、今ではぎりぎりの真剣さで狩りをして、しかも何も見つけなかった。それでも、その失敗がかえって進歩を促した。なお一層注意してりすの習性を研究し、一層巧妙にしのびよって、奇襲するように努力した。木ねずみを研究して、その穴から掘りだすことをこころみ、大鹿鳥ときつつきのくせについて大いに学び知るところがあった。そしてついに鷹の影が見えても灌木の中ににげこまない日がきた。仔狼は前より強くかしこく、自信がつよくなっていた。それにまた、必死になっていて、目立つように空地にいて、しりをでんとおちつけて坐り、鷹に空からおりてこいと挑戦した。それは、頭上の青空に浮んで、肉がある、自分の胃がいかにもしつように望んでやまない肉がある、ということを知ったからである。しかし鷹はとびおりて格闘することを拒んだ。それで仔狼は茂みの中へはいこんで、落胆と空腹のあまりに泣くのであった。  飢饉が中絶し、牝狼が肉をもって帰ってきた。それは今までにもってきたどの肉とも違う、見なれない肉であった。それは仔狼のように半ば成長した山猫の仔であったが、仔狼ほど大きくなかった。しかもそれは全部仔狼のものであった。母狼はほかの所でもう空腹を満足させていた、しかし母狼を満腹させたのは山猫の仔の残り全部だった、ということを仔狼は知らなかった。況んや母狼の行為が絶体絶命のものであったことも知らなかった。ただそのびろうどのような毛皮の山猫の仔が肉であることを知っただけで、それを食べて、一口ごとにますます幸福になった。  腹がくちくなると不活動になる、そこで仔狼は洞穴の中に寝て、母親の脇腹によりそって眠った。母親のうなり声で眼がさめた。母狼がこんなに恐ろしくうなるのを聞いたことはなかった。おそらくそれは母狼がその全生涯中、かつて発した最も恐ろしいうなり声であった。それには理由があって、だれよりも自分がよく知っていた。山猫のふしどを荒したからには無事ですむわけはない。午後の光の一ぱいにかがやいている中で、洞穴の入口にうずくまって、仔狼は山猫の親を見た。それを見ると背すじの毛がさか立った。ここに恐怖があった、その恐ろしさは本能の力を借りるまでもなくわかっていた。そして見ただけでは充分でなかったとしても[#「充分でなかったとしても」は底本では「充分でなったかとしても」]、その侵入者の発する怒った叫び声――うなりから始まってだしぬけにしわがれた金切声まで高まっていった叫びが、それだけで恐怖を与えるのに充分だった。  仔狼は身うちにある生命の刺戟を感じ、立ちあがって、母親のそばで勇ましくうなった。しかし母狼は仔狼を滅茶苦茶につきのけて、自分の背後におしやった。入口の天井がひくいので、山猫はとびこむことができなかった、それで山猫がはいながら突進してくると、牝狼がそれにとびかかっておさえこんだ。仔狼にはその格闘がほとんど見えなかった。すさまじいうなり声と、ぷうぷういう声と、金切り声がきこえた。この二匹の動物はもみあって、山猫は爪でひっかき引き裂き、同時に歯もつかっていたが、牝狼は歯だけをつかっていた。  仔狼は一度、おどりこんでいって、山猫の後肢にかみついた。そしてひどくうなりながらそのまま喰いさがった。自分では知らないまま、仔狼は自分の体の重味でその肢の活動をさまたげ、それによって母親の大損傷を救った。格闘の具合が変って、仔狼は二匹の体の下敷きになり、喰いさがりをねじはなされた。次の瞬間には、この二匹の母親は離れていた、そして再び突きかかってゆく前に、山猫が巨大な前肢をのばして仔狼を打ち、肩を骨に達するまで引き裂いて、横ざまに壁へほおりつけた。そこで喧騒にさらに仔狼の苦痛と驚愕の甲高い泣き声が加わった。しかし格闘がひどく長くつづいたので、そのひまに仔狼は泣くだけ泣いて、やがて再び勇気のみなぎるのを覚えた。だから格闘の終りには、仔狼はまた山猫の後肢にかじりついて、歯の間から猛然とうなっていた。  山猫は死んでいた。しかし牝狼もひどく弱って具合が悪かった。牝狼は最初は仔狼を愛撫して肩の傷をなめてやったが、失った血が力をもち去ったとみえて、それから一日一夜の間死んだ敵のそばにねたまま、動きもせず、呼吸もあまりしなかった。一週間は水を飲みにゆくほかは洞穴から出てゆかなかった。そして水飲みにゆくときも、動作がのろくて痛むのであった。その一週間の終りには山猫は食いつくしていた、しかし牝狼の傷は充分になおっていて、再び臭跡を追うことができるようになっていた。  仔狼の肩はこわばって痛んだ、そしてしばらくは受けたひどい傷のためにびっこを引いて歩いた。しかし今や世界が変ったように思われた。仔狼は、山猫との格闘以前の日々にはまだ所有してはいなかった武功を感じ、前よりずっと大きな自信をもって、その世界の中を歩きまわった。生に対し一層兇猛な相貌を看取していた。自分で格闘していたし、敵の肉に歯をうちこんでいたし、しかも生き残っていた。そこでこれあるが故に、仔狼は、自分としては新たに得た挑戦的態度をもって、前よりずっと大胆にふるまうのであった。もはや小さいものは恐れず、憶病なところは大分消えうせていた、しかもあの未知のものは、触知できず常に脅威であるところのその神秘と恐怖をもって仔狼を圧しつけることを決してやめなかった。  仔狼は母親と一緒に肉の追跡にゆきはじめ、肉の殺しかたをずいぶん見て、それに一役を演じはじめた。そして遅鈍な自分の流儀にしたがって、肉の法則を学び知った。生命には、自分と同様のものと他の種類のものと、二つの種類がある。自分と同種のものは母親と自分を含んでいる。他の種類はあらゆる動く生きたものを含んでいる。しかし他の種類には区分があって、一部は自分の同種のものが殺して食べるもので、この部類は生物をまったく殺さないものと、少しは殺すものとからなっている。他の一部は自分と同種のものを殺して食べ、さもなくば自分と同種のものに殺されて食べられる。そしてこの分類から法則ができている。生命の目的は肉である。生命そのものが肉である。生命は生命を食って生きる。食うものと食われるものがいる。法則は、食えしからずんば食われよである[#「食えしからずんば食われよである」に傍点]。仔狼はその法則を明瞭なきまった言葉で定式化し、それについて道徳を云々したのではない。その法則を考えさえもしなかった、それについては全然考えずして、ただその法則に生きたのである。  自分のまわりのいたるところでその法則が働いているのを見た。自分はらいちょうのひなを食べた。鷹はらいちょうの親鳥を食べた。鷹は自分までも食べたかもしれないのであった。後になって、もっと強くなったら、あの鷹を食ってやりたいと思った。自分は山猫の仔を食ったが、山猫の親は、殺されて食われていなかったら、自分を食っていただろう。すべてそういう具合だった。その法則でまわりのすべての生きものが生きていて、自分はその法則の一部分なのであった。仔狼は殺すものである。唯一の食物は肉である、自分にあうといそいで逃げだすか、空中へとびあがるか、木にのぼるか、地中へかくれるか、面とむかって格闘をいどむか、局面を一変させて追撃するかする、生きた肉である。  仔狼は、もし人間式に考えたとすれば、生命を要約して、むさぼり食う食慾だといい、世界を要約して、多様の食慾が徘徊して、追いつ追われつ、狩りつ狩られつ、食いつ食われつ、すべてが盲滅法で混乱し、暴力と無秩序をもって、貪食と殺戮の混沌を現出し、慈悲もなく計画もなく目的もない僥倖に支配されているところだと云ったかもしれない。  しかし仔狼は人間式に考えはしなかった。ものを広い視力で見たのではない。目的はただ一つで、一時に只一つの考え或いは欲求をいだくだけであった。肉の法則のほかに、仔狼が学んで従わねばならぬ他の小さな法則が無数にあった。世界は意外なことで一ぱいになっている。身うちにある生命のおののき、即ち筋肉の働きは、無限の幸福であった。肉を追いつめることは痛快と得意を経験することであった。怒りと格闘が快楽であった。恐怖そのもの、それから未知のものの神秘も仔狼の生活を生んだ。  それから安易と満足があった。腹をふくらしていること、日向でだらけてうたたねすること――そういうことが熱心と骨折りの充分な報酬であって、しかもその熱心と骨折りはそれだけで自己報酬なのであった。それは生命の表現であって、生命は自分を表現している時にはいつも幸福である。それで仔狼は自分に敵対する環境とけっして[#「とけっして」は底本では「とけけっして」]けんかしなかった。仔狼ははなはだ元気で、大いに幸福で、大いに自らを誇っていた。 [#改ページ] [#1字下げ]第三部 荒野の神々[#「第三部 荒野の神々」は大見出し] [#5字下げ]一 火をつくるもの[#「一 火をつくるもの」は中見出し]  子狼は突然それに出くわした。それは自分の過ちであった。不注意であったのである。子狼は洞穴を出て、水飲みに小川へかけくだったのであった。寝ぼけていたために気がつかなかったのかもしれなかった。(終夜臭跡を追って戻ってきて、たったいま眼をさましたところであった。)そしてその淵へゆく道になれていたために、不注意だったのかもしれなかった。そこは度々通ったのだが、その途中で事が起されたことはかつてなかったのである。  しなびた松を通りすぎ、空地を横切って、木々の間へかけこんだ。すると、その同じ瞬間に、ものが見え、ものの臭いがした。眼の前に、五つの生きものが、腰をおろしてだまって坐っていた。そういうものは仔狼はそれまでに見たことがなかった。人間を見るのはこれが初めてであった。しかし仔狼を見ても、その五人ははねるようにたちあがりもせず、歯をむきだしも、うなりもしなかった。身動きもしないで、だまって、無気味に坐っていた。  仔狼も動かなかった。突然に、そして初めて、別の反対の本能が身うちにおきてこなかったら、生れつきのあらゆる本能にせまられていち目散に逃げだしたかもしれなかった。大きな畏怖がのしかかってきた。仔狼は自分は弱くて小さいという圧倒的な感じに打倒されて動けなくなった。ここには支配力と権力、自分には及びもつかない遠くはるかなるものがあった。  仔狼は人間を見たことはなかったが、それでも人間に関する本能があった。おぼろげながらも、人間が、闘って荒野の他のすべての動物に対する卓越の地位にのぼった動物であることを認めた。仔狼は自分の眼ばかりでなく、すべての先祖の眼でもって、人間を見ていた――暗やみの中で無数の冬の野営の火のまわりをまわり、安全な距離のところから、茂みのまん中から、生きたものに君臨するあの異様な二本脚の動物をのぞいてみた眼で見ていた。仔狼の遺産の呪文が、数世紀にわたる闘争と幾世代からの蓄積した経験から生まれた恐怖と尊敬が、かかっていた。この遺産は仔狼にすぎない一匹の狼にとっては、あまりにも強制的であった。成長しきった狼であれば、にげ去ったことだろうが、そうではないので、恐怖のために麻痺してちぢみあがり、人間の火のそばに坐って暖めてもらった最初の時から、その先祖の狼族が表示してきた服従の意を、すでに半ば表示していた。  一人のインディヤンがたちあがって、仔狼のところへ歩いてきて、上体をかがめた。仔狼はなお一そう地面にへばりついた。それはついに具体的な肉と血に具現した未知のものであって、自分の上に身をかがめ、自分をつかまえるために手をさしのばしたのであった。毛が思わず逆立った。唇を後へねじって、小さな牙をむきだした。宿命のように仔狼の上にかまえられた手がちゅうちょした。その男が笑いながら云った、「ワバム ワビスカ イプ ピトター」(「見ろ! |白い牙《ホワイトファング》だ!」)  ほかのインディヤンたちが大声で笑って、その男に仔狼をつまみあげろとすすめた。その手がだんだん近くおりてくるにつれて、仔狼の身うちに本能の戦いがあれくるった。二つの大きな衝動――降参しようとする衝動と、闘わんとする衝動を経験した。その結果としての行動は妥協であった。両方をやったのである。手が殆ど自分にふれるまでは負けておいて、それから闘って、歯をひらめかして手にふかくかみついた。次の瞬間には頭を横なぐりになぐられて、横たおしにころばされた。それからは闘志がすっかり抜けてしまって、子供心と屈従の本能に支配され、しりをついて坐ってきいきい泣いた。しかし手をかまれた人間は怒っていた。仔狼は頭の反対側をまた一つ打たれた。そこで仔狼は起きなおって、もとより大きな声できいきい泣いた。  四人のインディヤンがもっと大声で笑うと、かまれた男までも笑いだした。みんなで仔狼をとりまいて笑いはしたが、その間仔狼は恐怖と痛みのために泣いた。その間に仔狼はある物音を聞きつけた。インディヤンたちもそれを聞きつけた。しかし仔狼はその正体を知って、悲哀より勝利感を余計にこめた最後の長い泣き声をあげると、音をたてることをやめて、母親の、あらゆるものと格闘して殺し、決して恐れたことのない、自分の兇猛で不屈な母親の来るのを待った。母狼はうなりながら走っていた。仔狼の泣き声をききつけて、救いにかけつけていた。  牝狼は人間の間におどりこんだ、その気遣って戦闘的になった母性のすがたは決して美しい見ものではなかった。しかし仔狼にとっては、その仔を護る怒りの光景はたのしいものであった。仔狼は喜びの小さな叫びをあげて母親を迎えにとんでいったが、人間動物どもはいそいで数歩後退った。牝狼は仔をかばって立ち、人間どもに向って、毛を逆立て、のどの奥の方でうなった。その顔は威嚇するために引きゆがんで敵意をあらわし、鼻っ柱さえ尖端から眼のところまでしわになっていた、それほど母狼のうなりは度外れていた。  人間のうちの一人から叫び声が出たのはその時であった。「キチー!」と云ったのであった。それは意外なことを表す叫びであった。仔狼は母親がその声をきいてひるむのを感じた。 「キチー!」とその男は、今度は鋭く威厳をこめて、再び叫んだ。  すると、仔狼が見ていると、母狼の、あの恐れをしらぬ狼が、腹が地面につくまではいつくばって、くんくんなきながら、しっぽを振って、和平のあいずをしていた。仔狼はわけがわからなくて、怖れをいだいた。人間に対する畏怖が再び襲ってきた。仔狼の木能はあたっていた。母がそれを立証したのだ。母もやはり人間動物に屈従した。  さっきものを云った男が牝狼のところへやってきた。その手を牝狼の頭においた、すると牝狼はただもうはいつくばって近よった。かみつきはせず、かみつきそうにさえしなかった。他の人間どもがやってきて、牝狼をとりまき、手でさわったり、いじくったりしたが、そういうことをしても牝狼は怒ろうともしなかった。人間どもはひどく興奮していて、口々に多くの音をたてた。仔狼は、まだ時々毛を逆立てながら、できるだけ屈従しようとつとめて、母の近くにうずくまりながら、こういう物音は危険の前兆ではないのだときめた。 「変なことじゃないよ」と一人のインディヤンが云っていた。「こいつの父親は狼だったよ。なるほどこいつの母親は犬だったけど、おれの兄貴が、そのお袋を、サカリのついた時に、三晩もつづけて森の中につなぎっぱなしにしていたじゃないか。だからキチーのおやじは狼だったさ」 「一年になるなあ、灰色海狸《グレイ・ビーヴァ》、こいつが逃げだしてから」ともう一人のインディヤンが云った。 「変なことじゃないよ|鮭の舌《サマン・タング》」と灰色海狸が答えた。「ありゃ飢饉の時で、犬にやる肉なんかなかったからな」 「こいつは狼と一しょに暮してたんだぜ」と三人目のインディヤンが云った。 「そう思えるね、|三つ鷲《スリー・イーグルズ》」と灰色海狸が、仔狼に手をのせながら云った、「そしてこれがそのしるしだ」  仔狼はその手にさわられるとすこしばかりうなった。するとその手は一撃を加えるためにひらりとひっこんだ。そこで仔狼は牙をかくして、すなおにぺしゃんこになった、するとその手は、もどってきて、耳のうしろをこすり、背中をなでまわした。 「これがそのしるしだよ」と灰色海狸がつづけて云った、「これの母親がキチーだということははっきりしてる。しかしおやじは狼だよ。それだから、こいつには犬らしいところがなくて、狼らしいところが多いのさ。牙が白いから|白い牙《ホワイト・ファング》という名前にしよう。おれは云っとくぜ。こいつはおれの犬だ。キチーはおれの兄貴の犬だったじゃないか? そしておれの兄貴は死んでるじゃないか?」  こうしてこの世界の名前をもらった仔狼は、横になって見ていた。しばらくは人間どもは口の音をたてつづけた。それから灰色海狸が頸にぶらさがったナイフのさやをはらって、茂みの中へはいりこみ、柴木を切りとった。|白い牙《ホワイト・ファング》はそれを見ていた。灰色海狸はその棒の両端にきざみ目をつけて、そのきざみ目に生皮のひもをむすびつけた。一方のひもをキチーの頸にまきつけて結び、それからキチーを小さな松の木のところへつれていって、も一つの方のひもを松の木にくくりつけた。  ホワイト・ファングはその後についていって、母のそばにねた。鮭の舌が手をさし伸ばして仰向けにひっころばした。キチーは不安そうにただ見ていた。ホワイト・ファングは再び恐怖が身うちに高まるのをおぼえた。うなりをすっかり抑えることはできなかったが、咬もうとはしなかった。指が曲って別々にひろがっているその手は、ふざけるように腹をこすったり、右や左にころばしたりした。足を空にもがいて仰向けにころがっているのは、馬鹿げていて見苦しくもあった。その上に、それは途方もなくたよりない体勢だったので、ホワイト・ファングの全性質がそれに反抗したが、身を衛るためにどうすることもできなかった。もしこの人間動物が危害を加えるつもりであれば、自分はそれをまぬがれることはできないということをホワイト・ファングは知った。四つの肢を空中にさしあげたままで、どうして跳んでにげることができよう? それでも屈従のために恐怖を抑えて、ただやさしくうなるだけであった。このうなりは抑えることができなかったが、人間動物の方でもそれを怒って、頭に一撃を加えることはしなかった。それにまた、そこが変なところなのだが、ホワイト・ファングは、その手がなであげなでおろす時に、わけのわからぬ快感を経験した。横たおしにころがされるとうなることをやめ、人の指が耳のつけ根を押したりつついたりすると快感が増し、最後に人がこすって引掻いておいて、ほったらかして去ってしまうと、ホワイト・ファングの恐怖はすっかり消えてなくなっていた。今後、人間との交渉において、何度も恐怖を経験するわけだが、しかもそれは究極において経験することになっている、恐れを知らぬ人間との交りの前兆であった。  しばらくして、ホワイト・ファングは異様なもの音の近づくのを聞いた。分類するはたらきが敏捷で、直ちにそれが人間動物のもの音だということを知った。数分の後に、この部族の残りの者が、行進隊形で長くつらなってぞろぞろやってきた。男もまだ沢山いて、女と子供が大勢、都合四十人いて、みんなが野営の用具と手※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]品をうんとしょっていた。それにまた沢山な犬がいて、それが成長半ばの仔犬をのぞいては、同様に野営用具をしょっていた。その背には、下へしっかりと結えつけてある袋に入れて、二十乃至三十ポンドの重さのものをしょっていた。  ホワイト・ファングはそれまでに犬を見たことはなかったが、今それを見ると、犬は自分の同族であって、ほんのちょっと違うだけだと思った。しかし犬どもは、仔狼とその母を見つけると、狼と殆ど違わないところを見せた。突貫がはじまった。ホワイト・ファングは、口を開けてかかってくる犬の浪に面とむかって、毛を逆立て、うなってかみついていったが、倒され下敷きになり、体は鋭い歯のかみ傷を感じ、自分でも自分にのっかっている肢や腹を咬んだり引き裂いたりした。大へんな騒動であった。キチーが自分をさがしながらうなる声がきこえたし、人間動物の叫び声と体を打つ棍棒の音と、そうして打たれた犬の苦痛の悲鳴がきこえた。  数秒経ったばかりなのに、ホワイト・ファングはまたたちあがっていた。こんどは人間動物が棍棒と石で犬を追いかえし、自分を護り、どことなく同族らしくない同族の兇猛な歯から自分を救っているのが見えた。そしてホワイト・ファングの頭の中に、正義というような抽象的なものを明瞭に意識する理性があったわけではないが、それにも拘らず、自己流に人間動物の正義を感得し、人間をそのとおりのものとして、即ち法の製作者兼施行者として理解した。それにまた、人間がその法を実施する力をしみじみ味わった。いままで出あったどの動物とも違って、人間は咬みも引掻きもしない。人間動物は死物の力で自分の生きた力を補強する。死物が人間の命令にしたがう。かくして、棒や石が、この変な動物に指図されて、生きたもののように空中をとんでゆき、犬どもにひどい傷を負わせる。  ホワイト・ファングから考えれば、これは異常な力、考えも及ばない超自然の力、神のような力であった。ホワイト・ファングは、まさにその本性からして、神のことは何も知ることはできなかったし、せいぜいのところ、理解を超えたもののあることを知り得ただけであるが、これらの人間動物に対してもった驚異と畏怖は、山頂に立って、両手から驚倒している世界に向って電光をなげつける神獣を見たときの人間の驚異と畏怖に、いろんな点でよく似ていた。  犬は最後の一匹までも追いかえされていた。喧騒はしずまった。そこでホワイト・ファングは傷をなめながら、犬群の残虐とその犬群とのでいり[#「でいり」に傍点]を初めて味わったことについてつくずく考えた。ホワイト・ファングは、自分の同族が片眼と自分の母と自分以外のものからなりたっているとは夢想だにしていなかった。自分らだけで独立の一族をなしていたのに、ここで、だしぬけに、自分の同族とおぼしいもっと多くの動物を発見したのであった。それに、これらの自分の同族が、一目見るとすぐに襲いかかって自分をやっつけようとしたことに対する潜在意識的な憤りがあった。同様にして、たとえばそれが卓越した人間動物によってなされたにしても、自分の母親が棒でしばりつけられたことに憤りを感じた。それにはわなと束縛の懸念があった。しかもかれはわなや束縛のことは何も知らなかった。思いのままに徘徊し走りねっころがる自由が、かれの世襲財産であった。しかもここではそれが侵害されようとしていた。母狼の動きは棒の長さだけに制限されていた、そしてかれもまたその同じ棒の長さで制限されていた。かれはまだ母親のそばを離れることができなかったのである。  それがいやであった。人間動物がたちあがって、行進を続行した時にも、いやでしようがなかった。というのは、ちっちゃな人間動物が棒の片端をつかまえて、キチーを捕虜として後にしたがえ、キチーのあとに、いま乗りだしたこの新たな冒険にひどく困惑し悩まされながら、ホワイト・ファングはついていったのだからである。  一行は小川の谷を下り、ホワイト・ファングの歩いた一番広い範囲をはるかにこえて、ついに[#「こえて、ついに」は底本では「こえて ついに」]その小川がマッケンジー河に流れこんでいる谷の端に達した。そこの、丸木舟が空中高く杭の上にかかげてあり、魚を乾す魚棚が立っている場所に、野営が設けられた。そしてホワイト・ファングは驚異の眼でながめた。この人間動物どもの優越が刻々に増大した。牙の鋭い犬どもはすべて人間動物によって支配されていた。その支配は力をあらわしていた。しかし仔狼にとって、それより偉いのは、生きていないものを支配すること、動かないものに運動をつたえる人間の能力、まさにこの世界の相貌を変える能力であった。特に感動させられたのはこの最後のものであった。柱でできた骨組を高くあげる作業が眼をひいた、それでもそれは棒や石をとても遠方までなげたあの同じ動物のすることだから、それだけとしてはさして驚くべきことではなかった。しかしその柱の骨組が布や皮で覆われていくつもの天幕小屋にされてしまうと、ホワイト・ファングはあっけにとられた。びっくりしたのはその途方もない大きさであった。天幕小屋がいくつも自分のまわり一たいに、急速に成長する奇怪な形の生命のようにもくもくとたちあがった。それが自分の視野内の殆ど全面積をしめたので、それが怖くなった。それが無気味に頭上に浮び出ていた。風がでてそれが大きくゆらめくと、ホワイト・ファングは怖くなって地にひれふし、用心深くそれに眼をそそいで、もしかそれが自分の上に落ちかかろうとしたら、跳んでにげるつもりで、その用意をしていた。  しかし間もなく、天幕小屋に対する恐怖はきえていった。見ていると女たちや子供らがそれにはいったり出てきたりしても何の怪我もなかったし、犬どもも度々その中へはいろうとして、きつい言葉や石を投げられて追い払われていた。しばらくして、ホワイト・ファングはキチーのそばを離れて、用心しながら一番近くにある天幕小屋の壁へはいよった。成長の好奇心にかられ――経験をうみだす、学習と生活と行動の必要にかられたからであった。天幕小屋の壁に至る最後の五、六寸ばかりは、苦しいほどゆっくり、苦しいほど用心してはっていった。その日の出来事から考えて、未知のものがどんな途方もないどんな思いがけないやりかたで、現れてもかまわないだけの心構えをしていた。ついに鼻が天幕の粗布にふれた。じっと待ってみたが、何ごともおきてこなかった。そこでその人間の臭いのしみこんだ変な織物をかいでみた。その粗布を歯でくわえて、そっと引張った。天幕のそのあたりの部分が動いたけれども、何ごともおきなかった。もっときつく引くと、よけいに動いた。それは面白かった。もっと強く、何べんもつづけてひっぱると、ついに天幕全体が動きだした。すると内側から女のきつい叫び声がきこえてきたので、ほうほうのていでキチーのところへ逃げ戻った。しかしそれからのちは、ぬうっと立っている、かさばった天幕小屋をちっとも怖がらなくなった。  ホワイト・ファングはすぐさままた母親から離れてさまよい出た。母狼は棒が地上の杭にしばりつけてあるので、あとについてゆくことはできなかった。ホワイト・ファングよりいくらか大きくて日数の経った成長半ばの仔犬が見栄をはり好戦的に尊大ぶって、そろそろやってきた。その仔犬の名前は人に呼ばれているのをホワイト・ファングがあとで聞いたところによると、リプリプといった。それは仔犬同志のけんかに経験をつんでいて、もう弱い者いじめらしいものになっていた。  リプリプはホワイト・ファングと同属で、まだ仔犬にすぎないのだから、危険だとは思われなかった、それでホワイト・ファングは友達気分で迎える用意をした。しかしその見知らない犬の歩く肢がこわばって、唇をあげて歯をあらわした時には、ホワイト・ファングも身をひきしめ、唇をあけて対杭した。二匹とも、ためすように、お互のまわりを半分まわって、うなりながら毛を逆立てた。それが数分間つづくと、ホワイト・ファングは、これは一種の遊戯だというので、面白くなりはじめた。ところがだしぬけに、リプリプがとてもす速くとびかかり、さっと咬みついてまたとびのいた。その一かみは、先に山猫に傷つけられ、深く骨のあたりがまだ痛んでいる、肩にこたえた。意外だったし、それが痛かったので、ホワイト・ファングは悲鳴をあげたが、次の瞬間には、怒り心頭に発してリプリプにとびかかり、意地悪くかみついた。  しかしリプリプはそれまで野営生活をしてきて、仔犬の格闘は何べんもやっていた。三べん、四へん、それから五、六ぺんも、リプリプの鋭い小さな歯が新参者をやっつけ、とうとうホワイト・ファングは、はじを忘れて悲鳴をあげ、母親の庇護をうけに逃げもどった。これはこれからリプリプとやらねばならぬ多くの格闘の最初のものであった。二匹はのっけから敵同志であり、不断にぶつかる運命にある天性をもって、敵同志として生まれたのであった。  キチーは自分の舌でなぐさめるようにして、ホワイト・ファングをなめてやり、自分のそばにいつまでもいるように説きつけようとしたが、ホワイト・ファングは、好奇心が盛んにおきるままに、それから数分後には、新たな探求に出かけていた。出会ったのは人間動物の一人灰色海狸であった。灰色海狸は腰をおとしてしゃがみ、眼の前の地面にひろげた棒切れと乾いた苔でもって何かやっていた。ホワイト・ファングはそれに近づいて見守った。灰色海狸が口から音をだしたが、ホワイト・ファングはそれは敵対するものではないと解釈した、それでなお一そう近づいていった。  女と子供が灰色海狸のところへ更に多く棒切れや木の枝を運んでいた。それは明らかに重要なことと見えた。ホワイト・ファングは灰色海狸の膝にふれるまで近づいた、それほど好奇心をわかせ、このものは恐るべき人間動物であることをすでに忘れていた。突如として、霧のような変なものが、灰色海狸の手の下の棒切れと苔からたちのぼり始めるのが見えた。それから棒切れの間から、空の太陽のような色をした生きものが、ねじれてあらわれてきた。ホワイト・ファングは火のことはちっとも知らなかった。幼い仔狼時代に洞穴の入口の光がひきつけたように、それがかれをひきつけた。焔の方へ数歩はってゆくと、灰色海狸が頭上でくすくす笑うのがきこえたが、その音は敵意をもっていないことがわかった。その時鼻がその焔にふれた、そして同時に小さな舌をそれにむかってつきだした。  一瞬間体がしびれてしまった。棒切れと苔の間にひそんでいた未知のものが、鼻を無残につかんでいた。もがいて後ずさりして、きいきいと驚きの泣き声を破裂させた。この声をきくとキチーは棒の端のところで跳びはねてうなり、仔をたすけにゆくことができないので恐ろしく憤激した。しかし灰色海狸は大声で笑って、ももを叩き、野営のもの皆にこのでき事を知らせたので、とうとうみんながわあわあ笑いだした。しかしホワイト・ファングはしりをつけて坐って、きいきいと泣きに泣いた、人間動物のまん中で孤独なあわれな小さい姿であった。  それはかつて経験した最悪の傷であった。鼻も舌も、灰色海狸の手の下から成長してきた、太陽の色をした生きものに焦がされてしまっていた。はてしもなく泣きに泣いたが、新しく泣きだすごとに人間動物どもの笑いが破裂した。舌で鼻の痛みを和らげようとしたが、その舌もやはり焦げていた。そしてその二つの痛みが一つになってなお一そうひどい痛みになった。そこでホワイト・ファングは今までより一そう絶望してたよりなく泣いた。  それから恥かしくなった。ホワイト・ファングは笑いと笑いの意味を知っていた。或る動物がどういう具合に笑いを知っているのか、また自分が嘲笑されているのをどうして知るのか、我々には知りようもないが、ホワイト・ファングは同じような具合でそれを知っていた。そして人間動物が自分を嘲笑しているので、恥辱を感じた。それで火の損傷からではなく、もっと深くしみとおる笑いと自分の精神の傷から、後を向いてとんで逃げた。そして棒の端で気の狂った動物のように憤激しているキチーのところへ――世界中で自分を嘲笑していない唯一の生きものであるキチーのところへにげていった。  薄暮がおりてきて、やがて夜がやってきた。そしてホワイト・ファングは母親のそばにねた。鼻と舌がまだうずいた、しかしそれより大きな悩みに心がまよった。郷愁《ホームシック》にかかっていた。心の中に空虚を感じ、小川と崖下の洞穴の沈黙と静寂の必要を感じた。この世はあまり生命が多くなりすぎていた。人間動物、男と女と子供がとても沢山いて、みんなが騒音をたて、いらいらさせていた。それに犬どもがいて、しじゅういがみあったりけんかしたりして、大騒ぎをはじめ、混乱をひきおこしていた。自分がもと知っていた唯一の生活の安らかなわびしさはなくなっていた。ここでは空気そのものが生命で鼓動していた。それが絶え間なくむんむんぶんぶんうなっていた。それが不断に強度を変え、だしぬけに調子を変えて、神経と感覚につきあたり、神経をたかぶらせ、落着きをなくし、不断にでき事がさしせまっているという感じで悩ました。  人間動物が行ったり来たり、野営のまわりを歩きまわったりするのを見ていた。人間が自分のつくった神を見るのとほのかに似た仕方で、ホワイト・ファングは眼前の人間動物を見た。人間動物は卓越した生物、まことに、神であった。ホワイト・ファングの鈍い理解にとっては、神々が人間にとってそうであるように、人間は驚異をつくるものであった。人間は支配する生物であり、あらゆる未知の、不可能を可能にする力をもち、生きたものと生きていないものの主宰者であり――動くものを服従させ、動かないものに運動を与え、生命を、太陽の色をした咬みつく生命を、死んだ苔と薪の中から生じさせた。人間動物は火をつくるものであった! かれらは神であった。 [#5字下げ]二 束縛[#「二 束縛」は中見出し]  ホワイト・ファングにとっては、日々が経験で一ぱいになっていた。キチーが棒でしばりつけられている間に、ホワイト・ファングは野営中をかけまわり、研究し、観察し、学び知った。急速に人間動物のならわしをたくさん知ったが、親しんだからといって軽蔑する気はおきなかった。人間のことを多く知れば知るほど、人間の卓越していることがそれだけ余計に明らかになり、人間の不可思議な力がそれだけ多く現れ、人間の神性がそれだけ大きく浮びあがった。人間には、しばしば、自分の神々が廃棄され自分の祭壇が倒壊するのを見る、という悲しみが与えられたことがあるが、人間の足許にはいつくばうようになった狼と野生の犬に、この悲しみが来たことはない。人間の神は見えないもの、推測を超えたものであって、現実の衣裳を着せられぬ空想の湯気と靄であり、人間の望む善と力の亡霊であり、触知し得ない精神の領域への自己露出である。そういう人間とはちがって、火を慕ってやってきた狼と野生の犬は、触ってみれば固く、地球の空間を占有し、その目的とその存在の完成のために時間を要する、生きた肉の中に神を発見する。そういう神の存在を信ずるには、信仰の努力は決して必要でない。意志のいかなる努力も、そういう神を信じなくさせることはできない。それからはのがれようがない。そこにそれは立っている。二本の脚で、棍棒を手にして、どえらい力を内に蔵し、激しやすく怒りっぽく、愛情をもち、神と神秘と力はみな、裂かれれば血を流し、どういう肉とも同じく食べられる肉ですっかり包まれている。  そしてそのようにホワイト・ファングにも見えた。人間動物は誤りようもないのがれようもない神であった。自分の母親キチーが自分の名前を呼ばれるとすぐに人間動物に恭順を致したように、ホワイト・ファングも恭順を致しはじめ、疑うまでもなく人間に属するものである特権として、人間に道をゆずり、人間が歩く時には人間のじゃまにならぬようにした。呼べばゆくし、おどかされればへたりこみ、行けと命令されれば急いで立去った。人間の希望の背後にはきっとその希望を強行する力、いためつける力、横なぐりや棍棒、はては飛んでくる石やひりひりする笞打ちの形で自己を表現する力、があったのだから。ホワイト・ファングはすべての犬どもと同様人間に属するものであった。その行動は人間の命令する行動であった。その体は人間が手荒く扱い、足でふみつけ、ゆるしてやる体であった。そういうことが直ちにきもに銘ぜられた教訓であった。それは、そのままでは、自分の本性の中で強く支配している多くの性質にいたく反していたが、それを学ぶ時には嫌いながらも、自分では知らぬうちにそれを好むことを学んでいた。それは自分の運命を他者の手中におくこと、生存の責任の転嫁であった。独り立つよりも他によりかかる方がつねに容易なのだから、これはそれだけですでに報償であった。  しかしこの自分自分を[#「自分自分を」はママ]体も魂もともに人間動物に委ねてしまうことが、全部一日にして起きたのではない。野生的な遺産と荒野の記憶をたちまちにして棄てることはできなかった。森の端へはいより、立ちつくして、遠いかなたから自分をまねいているものに耳を傾ける日もあった。しかもきっと不安になり不快になって戻ってゆき、キチーのそばでやさしくものほしげに鼻声で泣き、真剣に物問いたげに舌でキチーの顔をなめた。  ホワイト・ファングは急速に野営のならわしをおぼえた。肉か魚かを食えといって投げ与えられる時に、年長の犬どもの不正と貪慾を知った。人間の男たちの方がずっと公正で、子供らは余計残酷で、女たちの方が余計思いやりがあって、肉のきれか骨かをなげてくれることが多い、ということを知るようになった。それから二、三度成長半ばの仔犬の母親たちと冒険をやって痛い目を見たあとでは、そういう母犬はほっといて、できるだけ近寄らないようにし、やってくるのを見たら避けるのが、いつでも得策だということがわかってきた。  しかし生活破滅の因はリプリプであった。大きくて、年上で、強いリプリプが、特別の迫害対象としてホワイト・ファングを選んでいた。ホワイト・ファングはおっと合点とばかりに格闘したが、何分にも段違いだった。敵があまりにも大きすぎた。リプリプはホワイト・ファングの夢魔となった。思いきって母親から離れてゆくといつでも、そのいじめっ児がきっと現れてきて、すぐあとからついてきては、うなりかけてけんかをしかけ、人間動物が一人も近くにいないとみると、跳びかかって格闘を強いる機会をうかがうのであった。リプリプがきっと勝つので、それをひどく楽しみにしていて、それが主要な生の喜びとなったが、それはホワイト・ファングの同じく主要な苦しみとなった。  しかしホワイト・ファングはその結果として臆病にはならなかった。損傷は大抵自分が受けたしいつも負けてばかりいたが、精神は依然として打負かされなかった。それにしても悪い影響が生れた。ホワイト・ファングは性が悪くなり気むずかしくなった。気性は生来兇猛だったのだが、それがこの果てしない迫害によって一層兇猛になった。その温和な、ふざけ好きな、仔犬らしい側面は殆ど表現されなかった。この野営のほかの仔犬たちとは決して一しょに遊んだりはねまわったりしなかった。リプリプがそれを許さないのであった。ホワイト・ファングが仔犬の近くに現れるや否や、リプリプがかかってきていじめたりおどしつけたりした、格闘しておしまいには追っ払うこともあった。  こういうことの結果は、ホワイト・ファングから仔犬らしいところを多く奪いとり、その振舞を年の割より老けさせた。遊びによる精力のはけ口を奪われて、ホワイト・ファングは自分自身に内向して頭のはたらきを発展させた。狡猾になり、無為の時をつくって、策略に思いふけるのであった。野営の犬全体に食餌が与えられるときに肉と魚の自分の分前をとることを妨げられると、ホワイト・ファングは利口などろぼうになった。自分で糧食をあさらねばならなかったので、上手にあさりまわったが、その結果として度々女たちをなやました。ホワイト・ファングは野営のあたりをこそこそ歩きまわり、狡くなり、どこで行われている何ごとでもかぎつけ、何でも見て聞いてしかるべく推理し、執念深い迫害者をうまく避ける手段方法を考案することをおぼえた。  迫害を受けた初めころ、ホワイト・ファングははじめて本当に大それた狡い勝負をやって、それによって初めて、復讐の味をしめた。キチーが狼と一しょにいた時に、犬どもを人間の野営からおびきだしてやっつけたように、ホワイト・ファングはそれとちょっと似たやりかたで、リプリプをおびきよせてキチーの復讐の牙にかけた。リプリプの前から後退し、ホワイト・ファングはまっすぐには逃げず、野営のさまざまな幕舎の中にはいったり出たり、まわりをまわったりしてにげた。走ることがうまくて、自分と同じ大きさのどの仔犬よりも速く、リプリプよりも速いのだが、この追っかけごっこでは全速力で走らずに、わずかに追いつかれないで、一跳びの距離だけ追求者から離れていた。  リプリプは、この追跡と、相手がしじゅう近くにいることに興奮して、警戒と位置を忘れていた。位置に気がついたときにはもう遅すぎた。ある幕舎のまわりを全速力で突進してゆくと、棒の端にねていたキチーに真正面からぶつかっていった。仰天した叫び声をあげたその時にキチーの処罰のあごがぱくりとかみついた。キチーはつながれていたが、リプリプはなかなかのがれることができなかった。キチーはリプリプが走れないように肢をはらってつっころばし、何度も何度もその牙で裂いたり切ったりした。  やっとのこと、ころがってキチーから離れることに成功すると、ひどく取り乱し、体も心も傷ついて、はうようにしてたち上った。キチーの歯で咬まれたところの毛が体中に房のようになってでっぱっていた。起きあがったところに立ったまま、口を開いて、長々と悲痛な仔犬らしい泣声をたてた。しかしその泣声すら終りを完うすることを許されなかった。その最中にホワイト・ファングがつっかかってきて、リプリプの後肢にむずと咬みついた。リプリプには闘志はすこしも残っていなかった、それで恥も外聞もなくにげだしたのだが、相手はすぐあとからつけてきて、自分の幕舎までにげ戻る途中なやましつづけた。幕舎につくと女たちが助けにきて、怒れる悪魔と化したホワイト・ファングは石の一せい射撃によってやっと追払われた。  灰色海狸が逃亡する虞れはなくなったものときめて、キチーの縛を解く日がきた。ホワイト・ファングは母親の自由を喜んだ。母について嬉しそうに野営のまわりを歩いたが、母親のそばにくっついている間は、リプリプも適当な距離をたもっていた。ホワイト・ファングはリプリプに向って毛を逆立て、肢をこわばらして歩きまでしたが、リプリプの方でその挑戦を無視した。リプリプとても決して馬鹿ではなく、どういう復讐を加えてやりたくとも、ホワイト・ファングが独りでいるのを見つけるまで待てばいいと思った。  その日おそくなってから、キチーとホワイト・ファングは野営に近い森の端へまよいこんだ。ホワイト・ファングが一歩一歩と母親をそこヘ導いていったのであって、いま母親がたちどまると、そそのかして、もっと行かせようとした。小川と狼窟と静かな森が呼びかけているので、母親も来てくれることを望むのであった。二、三歩先へかけていって、とまって、ふりかえってみた。キチーは動いていなかった。歎願するようにくんくん泣き、ふざけるように下生えの中へかけこんだりかけだしたりした。母親のところへかけ戻っては顔をなめ、またかけだした。それでも母親は動かない。たちどまって、一生懸命、真剣さをすっかり体に表して母親を見たが、それも母親が頭をめぐらして野営を見かえすと、徐々にさめてしまった。  何かしら自分に呼びかけるものが向うの広っぱにあった。母親もそれを聞いたのだが、またほかのもっと大きな呼声、火と人間の呼声も聞いた――すべての動物のうちでも狼だけが、狼とその兄弟である野生の犬だけが答えるように与えられた呼声を。  キチーは向きをかえて、のろのろと野営の方に歩き出した。野営がつかまえる力の方が、棒の物理的制御力より強かった。神々がまだその目には見えないが、神秘な力によってがっちり握っていて、どうしてもはなさないのであった。ホワイト・ファングはかばの木のかげに坐って、ものしずかに泣いた。強い松の香があり、美妙な森の芳香が空中にみなぎって、束縛の日々以前の昔の自由な生活を思いおこさせた。しかしまだ成長半ばの仔狼にすぎぬだけに、母親のまねきの方が、人間のまねきよりも荒野のまねきよりも強かった。今までの短い生涯のあらゆる時間を通じて、母親だけがたよりであったのだ。独立する時はまだきていなかった。だからホワイト・ファングは立ちあがってわびしく野営へかけもどり、一、二度はたちどまって、坐り、くんくん泣き、いまだに森の奥でひびいている呼声に耳を傾けた。  荒野では母獣がその仔と一しょにいる時間は短い、しかし人間の領域においてはそれがもっと短いこともある。ホワイト・ファングの場合はそうであった。灰色海狸は三つ鷲に借金していた。三つ鷲はマッケンジー河をさかのぼって大奴隷湖《グレイト・スレイブ・レイク》へゆく旅に出かけるところであった。一片の赤い布と、熊の皮と、実包二十発と、キチーが借金の支払いにあてられた。ホワイト・ファングは母親が三つ鷲の丸木舟に乗せられるのを見て、そのあとについてゆこうとした。三つ鷲が一撃をくらわせて陸へなげかえした。丸木舟はついと岸を離れた。ホワイト・ファングは水中におどりこみ、灰色海狸の戻れというきつい叫びもきかないで、泳いであとを追った、人間動物もホワイト・ファングは無視した、それほど母を失うことが恐ろしかったのである。  しかし神々は服従させることになれていた。それで灰色海狸は憤激して丸木舟を出して追っかけた。ホワイト・ファングに追いつくと、手をさしだして、首ねっこをつかまえて水からひきあげた。丸木舟の底へすぐにはおろさず、一方の手でぶらさげておいて、もう一方の手でなぐり始めた。これぞ殴打であった。手は頑丈で、なぐられる一つ一つがとても痛く、しかも数多く打たれた。  こっち側かと思うとこんどはあっち側というふうに、雨と落下する打撃にせまられて、ホワイト・ファングは、調子が変でぎくしゃく動く振子のように、前後に揺れた。わきおこってくる感情はさまざまであった。最初は意外な感じをおぼえたのであったが、やがて手でぶたれて数度悲鳴をあげた時には、瞬間的な恐怖を感じた。しかしあとにはすぐ怒りが発した。自由な本性が鋭鋒をあらわし、怒っている神に面とむかって、歯をむきだし、恐れることなくうなりだした。それは神を一層怒らせるのに役立つだけのことであった。打撃は一層しげく、一層ひどくなり、一層いたくなった。  灰色海狸はなぐりつづけ、ホワイト・ファングはうなりつづけた。しかしこれは永久につづくことはできなかった。どちらかが断念せねばならず、その断念したのはホワイト・ファングであった。恐怖が再び身うちにわきおこった。初めて実際に人間の手にかかったのである。以前に経験した棒や石による時折の打撃などは、これに較べると愛撫くらいのものであった。すっかり参ってしまって、わめき、悲鳴をあげはじめた。しばらくは打たれるたびに悲鳴をあげたが、恐怖がすぎて恐愕に変り、ついには悲鳴が、打たれるリズムとは関係なく間断なくつづいた。  ついに灰色海狸が手をひかえた。ホワイト・ファングはぐにゃりとぶらさがって泣きつづけた。主人はこれに満足したらしく、丸木舟の底へ手荒くなげおろした。その間に丸木舟が川下へ流れていたので、灰色海狸が櫂《かい》をとりあげたが、ホワイト・ファングがじゃまになるので、足でじゃけんにけとばした。その瞬間にホワイト・ファングの自由な本性がまた閃光のようにあらわれ、その鹿皮靴をはいた足にむずとかみついた。  前の殴打などは、こんど受けた殴打に較べれば何でもなかった。灰色海狸の怒りは恐ろしいもので、ホワイト・ファングの愕きも同様であった。手ばかりではなく、堅い木の櫂までも、打つのにつかわれた、そしてまた丸木舟の中になげおとされた時には、小さな体全体が打撲傷を負って痛かった。灰色海狸が再び、そして今度は目的をもってけとばした。ホワイト・ファングは足への攻撃はくりかえさなかった。また一つ束縛の教訓をまなんだのであった。事情がどうであろうとも、自分を支配する君主である神を咬むことをあえてしてはならないのであった。君主の体は神聖であって、自分のようなものの歯に汚損されてはならなかった。それは明らかに犯罪中の犯罪であり、つぐないようも、黙過しようもない一つの罪咎であった。  丸木舟が岸につくと、ホワイト・ファングはねたままくんくん泣いて動かず、灰色海狸の意志を待った。上陸することが灰色海狸の意志とみえて、ホワイト・ファングは岸へなげあげられ、横っ腹をひどくぶっつけて、打撲傷がまた新たに痛んだ。ふるえておきあがり、くんくん泣きながら立っていた。このなりゆきをしじゅう岸から見守っていたリプリプが、この時とばかりとびかかって、ぶっ倒しておいてむずとかみついた。ホワイト・ファングはあまりにも無力で防禦することができなかった、それで、もし灰色海狸がリプリプを空中にはげしくけあげ、十尺も向うの地上にたたきつけなかったならば、ひどいことになっていたであろう。これは人間動物の正義であった。それでその時でも、自分はあわれな境涯にいながら、ホワイト・ファングはすこしく感謝の身ぶるいを経験した。灰色海狸のあとについて従順にびっこをひきひき、村落を通って幕舎へもどった。そこでホワイト・ファングは、処罰する権利は神々が自分の手に保留しているものであって、神々の下にある劣った生物には拒否されている、ということを学ぶに至った。  その夜、あたりが静かになったとき、ホワイト・ファングは母を思いだし、母をしたって哀しんだ。あまり大声で泣いたので灰色海狸が眼をさまして打った。それから後は、神々があたりにいない時に、おとなしくなげいた。しかし時には、ひとりで森の端へまよいこんで、悲しみをまる出しにした、大きな鼻声と泣声で心ゆくまで泣いた。  この時期の間に狼窟と小川の思い出に引かれて、荒野へにげ帰ろうとしたかもしれないが、母の記憶がそれをひきとめた。狩猟をする人間動物が去っては帰ってくるように、母もいつかは村落へ帰ってくるだろう。そこでホワイト・ファングは束縛の中にとどまって母を待った。  しかしそれは徹頭徹尾嬉しくない束縛でもなかった。面白いこともたくさんあった。しじゅう何事かがおきていた。この神々は果てしもなく変なことをしているので、いつも好奇心をもって見ていた。その上に、灰色海狸とうまくやってゆく方法を学んでいた。服従、厳格なむらのない服従、これが期待されているのであって、その代りに殴打をまぬがれ、その存在が許されるのであった。  いや、灰色海狸自身が時には一片の肉を投げ与え、それをほかの犬が食べないようにまもってくれた。そしてそういう一片の肉は貴重なものであった。それは、何かしら変な具合で、女房の手から与えられる十片の肉よりも値うちがあった。灰色海狸は決して可愛がったり愛撫したりしはしなかった。ホワイト・ファングを感化したのは、おそらく灰色海狸の手の重味、おそらくその正義、おそらくその文句なしの力、おそらくこういうこと全部であったらしく、ある種の愛着のきずなが気むずかしい主君との間にできかけていた。  束縛の枷が、棒と石と手の殴打によるのと同時に、気のつかぬ間に遠まわしなやりかたで、ホワイト・ファングのくびにかけられていた。その同族のもっている最初人間の火に近づくことができるようにしたその性質は、発展することのできる性質であった。その性質がホワイト・ファングの身内で発展していた、そして野営生活が、悲惨にみちみちているが、絶えずひそかに親しいものとなってきた。しかしホワイト・ファングはそのてのことに気がついていなかった。ただキチーを失ったなげきと、キチーの戻ってくる望みと、かつては自分のものであった自由な生活を求める飢えのようなあこがれだけを意識していた。 [#5字下げ]三 仲間外れ[#「三 仲間外れ」は中見出し]  リプリプがひき続いて暗い思いをさせるので、ホワイト・ファングは生れつきの権利以上に意地悪く兇猛になった。獰猛はその素質の一部なのだが、こういうふうにして発展させられた獰猛はその素質を超えるものであった。人間動物の間でさえもあいつは意地悪だという評判をとった。野営の中で紛争や騒動がおき、格闘やせり合いがあり、女房が肉を一切とられたと叫ぶような場合にはいつでも、人間が見るときまってホワイト・ファングがそれに関係していたし、大抵はその事件のもとになっていた。人間たちは面倒なのでホワイト・ファングの行為の原因を探索することはせず、その結果だけを見たのだから、結果は悪かった。ホワイト・ファングは空巣狙いで泥棒で、離間者で、紛争煽動者であった、そこで憤激した女房たちは、いきなりとんでくる飛道具をかわす身構えで油断なくじろりと見ているホワイト・ファングに面とむかって、お前は狼であってろくでなしだから、きっと惨めな最後をとげるにきまってると云った。  ホワイト・ファングはこの大勢いる野営のまん中で仲間外れになっていた。仔犬は全部リプリプの指導にしたがった。ホワイト・ファングとの間に一つの相違があった。おそらく仔犬どもはかれの天然林育ちをかぎつけ、本能的に飼い犬が狼に対してもつ敵意をもったのであろう。しかしそれはともあれ、仔犬どもはリプリプと一しょになって迫害した。そして一旦宣戦したからには、宣戦を継続するのに都合のよい理由を見つけだした。全部が全部一匹のこらず、次から次へと、ホワイト・ファングの歯にやられた。そしてホワイト・ファングは、受ける以上のものを与えて、面目を施した。多くの犬は一騎打ちでならやっつけることができたが、一騎打ちは許されなかった。そういう一騎打ちの格闘のはじまりは、野営の中の仔犬全部への合図となって、みんながかけつけて突っかかった。  この群による迫害からして、重要なことを二つ学んだ、集団格闘において身を守る方法と、単独でいる犬に最短時間に最大量の損害を与える方法、敵集団の中にあって足を地につけて立っていることがすなわち生であった、そしてかれはそのことをよく会得した。そしてこの足を地につけて立っている能力においては猫に匹敵するようになった。おとなの犬がその重い体をぶっつけて、後へ或いは横様にふっとばしても、宙をとぶか地面をすべるか、いずれにしても、後すざったり横へとんだりはしたが、いつでも四肢は下にむけ、足先は母なる大地につけていた。  犬が格闘する時には、普通には実際の戦への予備行動――うなり、毛を逆立て、肢をこわばらせてきどって歩く行動があるものである。しかしホワイト・ファングはそういう予備行動を省略することをおぼえた。ぐずぐずしていたら仔犬全部がかかってくるのであった。事は速くすましてたちのかねばならない。そこで自分の意図に対する警告は与えないことをおぼえた。敵が応戦の準備をととのえられないうちに、予告なしで、つっこんでいって咬みついて、とたんに咬みきった。こうして敏捷にひどい損害を与える方法を会得した。それにまた不意打ちの価値も知った。うかつにも、それが何事だかわからないでいるうちに、肩を咬み裂かれたり、耳をリボンのように、ずたずたにされた犬は、もう半ば負け犬であった。  更にまた、不意打ちされた犬をぶっ倒すことはきわめてやさしかった。そうしてぶっ倒された犬は、きまってその頸の下側の柔らかいところ――攻撃すれば命取りの急所を一瞬間露出した。ホワイト・ファングはこの急所を知っていた。それは狼の狩猟していた世代から直接に譲られてきた知識であった。そこでホワイト・ファングが攻撃をとる時の方法はこうであった――まず仔犬が独りでいるところを発見する、次に不意打をくらわせて足をすくってぶっ倒す。それから次に柔らかいのどに歯をたてる。  まだ未成熟なので、あごが、のどの攻撃を致命的にするほどには、大きくも強くもなっていなかったが、ずいぶん多くの仔犬が、ホワイト・ファングの意図のしるしとして、のどを咬まれたまま野営のまわりを歩いていた。そして或る日、敵の一匹が独りで森の端にいるところをつかまえて、何度も何度もぶっ倒してのどを攻撃し、ついに大動脈をかみきって、生命をとってしまった。  その夜大騒ぎがおきた。見ていた人があって、殺された犬の持主にしらせたのであった。女房どもは肉を盗まれた実例を全部おもいだした。それで灰色海狸が多くの人の怒った声に攻撃された。しかし灰色海狸は決然として自分の幕舎の戸をしめ、その内側に被告をおいて、部族の仲間が要求する復讐を許すことを拒絶した。  ホワイト・ファングは人にも犬にも憎まれるようになった。  この発育期の間、一瞬間の安全も知らなかった。あらゆる犬の歯と、あらゆる人間の手が敵対していた。同属からはうなられ、神々からは罵られ石をなげられた。緊張した生活であった。つねに気をはりつめ、油断なく攻撃体勢をとり、攻撃されることを警戒し、思い設けないだしぬけの飛道具に目をくばり、まっしぐらにしかも冷然と行動する準備をととのえ、歯をひらめかして跳びこむか、威嚇のうなり声をたてて跳びのくかするのであった。  うなることにかけては、ホワイト・ファングは野営の老若のどの犬よりも恐ろしくうなることができた。うなる意図は、警告すること或いは脅かすことである、だからそれを用いる時を知るには判断が必要である。ホワイト・ファングはうなる方法もうなる時も知っていた。そのうなり声には、あらゆる毒々しいもの、悪意あるもの、恐ろしいものを合体させた。鼻は絶え間のないけいれんでしわがより、舌を赤い蛇のようにつきだしてはまたひっこめ、耳をべたりと垂れ、眼は憎悪にかがやき、唇はしわをよせてひきつけ、牙をむきだしてよだれを垂らしていれば、大ていの攻撃者は一時立ち止まらざるを得なくなった。その一時の停止が、うっかりしてる間に、ホワイト・ファングの行動を考えて決定する大事な瞬間を与えるのであった。しかしそうして得られた停止がのびて、ついには攻撃の完全な取りやめとなることがたびたびあった。ホワイト・ファングがこうしてうなったために、おとなの犬の前から名誉の退却をとげることができたことも一再ならずあった。  成長半ばの犬の群から仲間外れにされているホワイト・ファングの、兇暴な手段と著しい効力のために、犬群はその迫害の代償を払わされた。ホワイト・ファングが群と一しょに走ることを許さなかったために、群のものは一匹も群から離れて走ることはできないという奇妙な状態が生じた。ホワイト・ファングがそれを許さないのであった。その茂みのかげからとびかかったり、待伏せしたりする戦術のために、仔犬どもはひとりきりでかけることを恐れた。リプリプは別として、仔犬は自分らがこしらえた恐るべき敵に対して相互防衛のために、かたまっていなくてはならなくなった。仔犬がひとりで河の岸にいれば、すなわち仔犬が死んでいる、或いは仔犬が待伏せていた仔狼から逃げかえって、そのはげしい苦痛と恐愕で野営中の者の眼をさまさせる、ということになった。  しかし仔犬たちが一しょにかたまってなくてはならぬということを充分にさとった時でさえも、ホワイト・ファングの返報はやまなかった。犬がひとりでいるとホワイト・ファングが攻撃し、犬どもがかたまると今度は犬の方から攻撃した。ホワイト・ファングの姿を見ただけで、犬どもが追っかけはじめたが、そういう時には足が速いおかげで普通安全ににげおうせた。しかしそういう追撃のさいに仲間よりかけ抜けた犬こそ災難であった! ホワイト・ファングは、いきなりふりかえって群の先頭に立って迫ってくるものにとびかかり、群が到着しないうちにすっかり八裂きにしてしまうことを会得していた。犬どもは一旦怒ってしまうと、追撃の興奮にわれを忘れるが、ホワイト・ファングは決してわれを忘れないので、こういうことは頻々としておこるのであった。走りながらそっと後を見ていたので、いつでもくるりと向きなおって、仲間をかけ抜けた熱心すぎる追跡者にとびかかる用意ができていた。  仔犬は遊ばざるを得ない。そこでこういう危急の情勢上、かれらはこの模擬戦の形で遊びを実現した。そういうわけでホワイト・ファング狩りが仔犬どもの主要な遊戯となるようなことになった――なかんずく、危険な遊戯で、いつでも真剣な遊戯であった。ホワイト・ファングの方では、一番足が速いので、どこへ出かけても怖くなかった。むなしく母親の帰りを待っていた期間に、何度も何度も犬群のものすごい追撃を近くの森の中へひっぱりこんだ。しかし犬どもはきまってかれを見失った。騒いで叫ぶので犬群の所在がわかる一方、ホワイト・ファングの方では先代の父や母のやりかたにならって、びろうどのような足で、しずかに、動く影のように、木々の間をひとりでかけていた。更にかれは犬どもよりずっと直接に荒野にむすばれていて、荒野の秘密と戦術をよく知っていた。お得意の手は、寒水の中に足跡を没しておいて、それから裏をかかれてしゃくにさわった犬どもの叫び声がまわりにあがっている間、近くの茂みの中で静かにねているという手があった。  仲間にも人間にも憎まれて、屈服せず、不断に戦いをいどまれ、自分からも永久戦をもちかけていて、その発育は急速でかたよっていた。これは思いやりと愛情の花咲く土壤ではなかった。そういうものはホワイト・ファングはこれっぱかしももっていなかった。学んだ法典は強者に服従し弱者を圧迫することであった。灰色海狸は神であり強かった。それでホワイト・ファングはそれに服従した。しかし自分より幼い或いは小さい犬は弱かったので、つぶされるべきものであった。かれの発育は力の方向にむかっていた。不断の損傷と破滅の危険に対抗するために、生物捕食と防衛の能力が異常に発展していた。ほかの犬どもより、運動が敏速になり、足が速くなり、狡猾で、執念深く、しなやかに、鉄のような筋肉と腱があって一そうやせて、耐久力があり、一そう残忍で、獰猛で、聰明になった。どうしてもこういうものの全部にならねばならなかった。でないと身を保つこともできず、自分が陥っている敵意をもった環境をきりぬけることもできなかったであろう。 [#5字下げ]四 神々の臭跡[#「四 神々の臭跡」は中見出し]  その年の秋、昼が短くなり、霜のつめたさが空気にふくまれるようになったとき、ホワイト・ファングは自由になる機会を得た。数日間村落に大騒ぎがつづいた。夏の野営がたたまれて、部族全体が荷物ごと、秋の狩猟に出かける支度をしていた。ホワイト・ファングはそれをすっかり真剣な眼で見ていた、そして幕舎がつぶされはじめ、岸にあった丸木舟に荷がつまれる時になると、合点がいった。すでに出発する丸木舟もあったし、河下に見えなくなった丸木舟もあった。  ホワイト・ファングはよくよく考えてあとにとどまることにして、野営から抜けだして森の中へはいりこむ機会をうかがった。そこで、氷がはり始めている小川の流れにはいりこんで、足跡をくらました。それから茂ったやぶのまん中へはいこんでじっと待っていた。時間がすぎさり、ホワイト・ファングは何時間も断続して眠った。すると自分の名前を呼んでいる灰色海狸の声で眼がさめた。ほかの者の声もきこえた。灰色海狸の女房も、息子のミトサーも捜索に加わっているのがきこえた。  ホワイト・ファングは恐怖でふるえた、そして、隠れ場所からはい出したい衝動がおきたけれども、それをしりぞけた。しばらくして人声が消え去り、それからまたしばらくしてホワイト・ファングは自分の企ての成功をたのしむためにはい出た。暗闇が近づいていた、それでしばらく木々の間を遊びまわって、自分の自由を楽しんだ。それから、そしてだしぬけに、寂蓼をおぼえた。坐りこんで考え、森のしじまに耳を傾けているうちに、それがなやましくなった。何も動かず、何の音もしないのが、不吉なような気がした。見えず推測もつかず、危険がそこらにあるのを感じた。ぬうっと立っている厖大な木々や暗い蔭があらゆる種類の危険なものをかくしてやしないかと疑った。  それから寒かった。ここには寄り添ってゆく幕舎の暖かい方の側などはなかった。肢に霜がおりていたのでしじゅう前肢を一本一本交替にもちあげていた。ぼさぼさのしっぽをまげて肢を覆った。またそれと同時にまぼろしを見た。それには何も変なところはなかった。眼の内に連続した記憶の絵が印象された。野営と幕舎と火の焔が再び見えた。女たちの甲高い声と、男たちの無愛想な低声《バス》と、犬どものうなり声がきこえた。おなかが空いて、投げてもらった肉切と魚をおもいだした。ここには肉はなく、脅かすような食べられない沈黙のほかには何もなかった。  束縛のために柔弱になっていた。無責任のために弱くなっていた。独力でやってゆく方法を忘れていた。夜がまわりで大口をあいていた。野営の騒音と雑沓になれ、いろんな光景といろんな音の不断の衝撃になれていた感覚が、今では何もしないままになっていた。することも見るものも聞くものも、何もなかった。感覚は自然の静寂と不動のとぎれをとらえるために緊張していた。感覚は不活動のために、また何か恐ろしいものがさしせまっているという感じにおののいていた。  ひどく驚いてはっとした。何か無やみと大きい無定形のものが視野を横切って突進していた。それは月のなげた木の影で、月の面から雲がはらいのけられたのであった。見きわめがつくと、しずかにくんくん泣いたが、それがかくれている危険の注意をひきはしないかという恐れのために、その泣き声もおさえつけた。  一本の木が、夜の冷気で収縮して、大きな音をたてた。それはすぐ頭の上だったので、ホワイト・ファングは恐愕して悲鳴をあげた。恐怖にとらえられて、気が狂ったように村落の方へかけていった。人間の保護と友誼を求める圧倒的な欲求をおぼえたのである。鼻孔には野営の煙の臭いがのこっていた。耳の中では野営のさまざまな音と叫び声が大きくひびいていた。森をかけ抜けて、影も闇もない月光をあびた広っぱへ出た。しかし村落は眼にふれなかった。自分は忘れ去られ、村落は退散していたのであった。  ホワイト・ファングのやみくもの遁走は急に止まった。のがれてゆく場所がないのである。孤影悄然として撤去された野営のあとをしのび歩き、がらくたの山や神々がちらかしていった棒やきれっぱしのにおいを嗅いでまわった。怒った女房の石があたりにばらばらと音をたてたら嬉しかったろう、灰色海狸の手が怒って打ちすえてくれたら嬉しかったろう、リプリプと、うなる臆病な犬群全休だって喜んで歓迎したことだろう。  灰色海狸の幕舎がたっていた場所へいって、幕舎が占めていた地面の中央に坐ってみた。鼻を月に向けた。のどがきびしいけいれんに襲われ、口が開いて、淋しさと恐怖と、キチーをしたう哀愁と、来るべき苦難と危険を思う不安と共に過去のすべての悲しみと苦悩が、傷心の叫び声となって涌きおこってきた。それはのど一ぱいの長い狼の遠咆えであった、ホワイト・ファングが初めてあげた咆吼であった。夜があけると恐怖心は散じたけれども、淋しさが募った。ついさっきまでとてもにぎやかだった赤裸の土が、なお一そう強く淋しさをおしつけてきた。決心するのに長い時間はかからなかった。森の中へとびこんで、河岸を流れに沿って下っていった。終日かけて、すこしも休まなかった。永久に走りつづけるように思えた。鉄のような体は疲れを知らなかった。そして疲労がやってきた後でも、遺伝の耐久力が果てしない努力へとはげまし、疲労を訴える体を駆りたてて進ませることができた。  河が断崖につきあたっている所では、そのうしろの高い山によじのぼった。本流に流れこんでいる大川小川は歩いたり泳いだりして渡った。たびたび張りはじめている氷の縁をえらんで歩いたが、何度かふみぬいて氷のようにつめたい流れにおちこんで命がけの骨折りをした。しじゅう神々の臭跡を求めて、それが河をはなれて奥へはいっているかもしれぬ場所に気をつけていた。  ホワイト・ファングは同属の普通のものよりずっと利口だったが、それでもその知的視界はマッケンジー河の向う岸を含むほど広くはなかった。神々の臭跡がそっちの側へ向っていたらどうだろう、そういうことはホワイト・ファングの頭になかった。あとになって、もっとよけいに旅行し、もっと年をとって賢くなり、野道や河のことをもっとよく知るようになった時には、そういうことのあり得ることを理解し予知することができたかもしれないが、そういう知力はまだ将来のことであった。いまはただ盲滅法にかけているのであって、マッケンジー河の自分のいる側だけが勘定に入っていたのである。  夜も夜どおしかけた、そして暗やみのためにしくじって災難や障碍物にぶつかっても、おくれはしたがへこたれはしなかった。二日目の日中になると三十時間もひき続いてかけていたことになるので、鉄のような肉体もまいりかけていた。精神の耐久力がかけつづけさせていた。四十時間も、何も食っていないので、空腹のために弱っていた。幾度も氷のような水につかったこともまたこたえていた。きれいだった毛はひきずって汚れていた。広い足の裏は傷ついて、血が流れていた。びっこをひくようになっていたが、そのびっこが時がたつとともにひどくなった。一そう悪いことには、空の光がうすれて、雪が降りはじめた――冷たく、しめって、とけかけたべたべたする雪が、足でふむとすべり、横切ってゆく山野をかくし、地面のでこぼこを被いかくしたので、足の歩みがずっと困難に苦痛になってきた。  灰色海狸《グレイ・ビーヴァ》は、その夜、これから狩猟する方角にあたっている、マッケンジー河の向う岸で野営を張るつもりでいた。しかし暗くなる直前に、こちらの岸で、一頭の大鹿が水飲みにきているのを、灰色海狸の女房のクルークーチが見つけていた。そして、その大鹿が水飲みに来ていなかったら、もしミトサーが雪のために舟の進路をまちがえていなかったら、もしクルークーチが大鹿を見かけていなかったら、そして灰色海狸がそれを鉄砲でうまく射殺さなかったら、そののちのことは全部違ったものになっていただろう。灰色海狸はマッケンジー河のこちらの岸で野営を張らなかっただろう。そしてホワイト・ファングは通りすぎてどんどん行ってしまい、ついには死んでしまうか、荒野の兄弟のところへいって、その一員になり狼となってその一生を終るかしたことであろう。  夜になっていた。雪が一そうしげくふぶいていた、ところがホワイト・ファングは、ひとりひそかにくんくんなきながらつまずいたりびっこをひいたりして歩いているうちに、雪の中の新しい臭跡にでっくわした。それはとても新しい臭跡なので、何の臭跡だかすぐにわかった。一心に鼻をならしながら、河岸からその後を追って木々の間へはいっていった。野営のもの音が耳にはいってきた。火の焔と、料理しているクルークーチと、しりをつけてしゃがみ、一切れの生の獣脂をかんでいる灰色海狸が見えてきた。野営には新鮮な肉があった!  ホワイト・ファングは打たれることを予期していた。うずくまって、そのことを考えてすこし毛を逆立てた。それからまた前へすすみ出た。自分をまちうけていることがわかっている殴打が怖くていやなのであった。しかし、それ以上に、火の慰楽と神々の保護と、犬どもとの交わりが自分のものとなることを知っていた――最後のものは、敵意の交わりではあるが、それにもかかわらず交わりであり、群居の要求を満足させるのであった。  恐縮しはらばいながら光のあかりの中へはいっていった。灰色海狸が見つけて、獣脂をかむことをやめた。ホワイト・ファングは、卑下と服従を表す卑屈な態度で縮こまり頭をさげて、そろそろはいよっていった。まっすぐに灰色海狸の方へはっていったが、進む一寸ごとにだんだん遅くなりだんだん苦痛になってきた。ついに主人の足もとに横たわり、いまや自ら進んで、身も心もあげて主人の手中に投じた。自ら選んで、人間の火の傍に坐り、人間に支配されるためにやってきたのであった。ホワイト・ファングは処罰がふりかかるのを待ってふるえた。頭上で手がうごいた。殴打を予期して思わず縮みあがった。手は落ちてこない。そうっと見上げると灰色海狸は獣脂の塊を半分に裂いていた! 灰色海狸はその獣脂の一切れを与えようとしていた。ホワイト・ファングは最初はごくやさしく幾分疑いをもって、その獣脂をかいでみて、それから食べはじめた。灰色海狸は肉をもってこさせて、それを食べている間、他の犬に対して保護してやった。そのあとで、ホワイト・ファングは、感謝し満足して、灰色海狸の足もとに寝て、暖めてくれる火をながめ、明日になったら、自分は荒涼たる森林地帯をひとりさまよっているのではなくて、自分が身を委せ、今では頼りにしている神々と一しょに、人間動物の野営にいるのだ、と確信して、またたきをしたり、まどろんだりした。 [#5字下げ]五 誓約[#「五 誓約」は中見出し]  十二月も相当すすんだころ、灰色海狸《グレイ・ビーヴア》はマッケンジー河をさかのぼる旅に出かけた。ミトサーとクルークーチも一しょだった。一台の橇は自分で駆り、買うか借りるかした犬どもに曳かせた。もう一つの小さい橇はミトサーに駆らせ、それには一隊の仔犬がつけられた。それは何よりも玩具によく似ていたが、それでもミトサーには嬉しいことで、この世でおとなの仕事をやり始めるのだという気になっていた。それにまた、犬を御し犬を訓練することを学んでいるのであった。他方仔犬の方では輓具をつけるのに馴らされているのであった。さらにまた、その橇は、用具と食料を二百ポンドちかく運んだのだから、相当役にたった。  ホワイト・ファングは野営の犬どもが輓具をつけて労役しているのを見たことがあった、それで初めて自分に輓具をかけられることを大してうらみはしなかった。くびのまわりに苔をつめた頸輪がかけられ、それが胸から背中にかけわたしてある革ひもに、二本の輓革で連絡された。それに橇を曳く長い索がとりつけてあった。  七匹の仔犬が一隊をなしていた。他の仔犬は全部その年の始めに生れて、九乃至十ヵ月経っていたが、ホワイト・ファングはたった八ヵ月だった。めいめいの犬が一本の索で橇につないであった。索はどれも同じ長さでなく、しかもその長さの違いがすくなくとも、犬の体の長さはあるようにしてあった。おのおのの索が橇の前端にある輪にとりつけてあった。橇そのものは、樺の皮でつくったトボガンなので、滑子がついていなくて、前端は雪の中へつきこまないように上へ反らしてあった。この構造のために、橇とその荷の重みはできるだけ広い雪の表面に分配されるのであった。それは雪が結晶した粉のようでごくやわらかだからであった。重さをできるだけ広く分配するという同じ原理にしたがって、索の端につながれた犬は、橇の鼻のところから扇形に放射していた、それで他の犬の足跡を踏む犬はないわけであった。  更にまた、この扇状隊形にはもう一つの利点があった。索の長さが違うので、犬は自分の前をかけている犬を後から攻撃することができない。他の犬を攻撃するためには、自分のより短い索につながれている犬にかかってゆかねばならない。そういうことになると、攻撃相手の犬には面とむかうことになるし、しかもまた馭者の鞭にも面とむかうことになる。しかしすべてのうちで一番特殊な利点は、自分の前にいる犬を攻撃しようと努力する犬は橇をそれだけ速く曳かねばならない、しかも橇が速く進めば進むほど、攻撃される犬がそれだけ速く逃げられる、という事実にある。こうして、後の犬は決して前の犬に追いつくことはできない。速く走れば走るほど、追っかけられている犬がそれだけ速く走り、犬全部がそれだけ速く走る。それに附随して橇が速く走る、そこで、狡猾な間接法によって人間は動物の支配を強化する。  ミトサーは父親に似ていて、その老練の智恵を多くうけついでいた。過去において、リプリプがホワイト・ファングを迫害するのを見ていたが、その当時リプリプはほかの人の犬だったので、ミトサーは時折石を一つそっとなげつける以上のことはやれないのであった。しかし今ではリプリプは自分の犬である、そこでミトサーはリプリプを一番長い索につなぐことによって復讐することにした。そのためにリプリプは先犬になった、それで見たところ名誉のようであったが、実際には、そのために名誉をすっかりとり去られた。そしていじめっ児でも犬群の主でもなくなって、こんどは犬群に憎まれ迫害されることになっていた。  一番長い索の端をかけているので、他の犬はいつもリプリプが自分らから逃げてゆくのを見ていた。犬どもから見えるのはリプリプのぼさぼさしたしっぽと、にげてゆく後肢だけであった――その逆立ったうなじの毛ときらめく牙よりははるかに兇猛でも怖くもないながめであった。それにまた、犬のものの考えかたはそういうふうになっているもので、リプリプがにげているのを見ると、それを追っかけたくなり、リプリプが自分らから逃げているのだという感じをもつのであった。  橇が出発した瞬間から、犬の一隊はリプリプを追っかけ、それが一日中つづいた。最初リプリプは、ややもすれば自分の威厳を保ちたくて怒りを発し、自分を追っているものにかかりそうにしたものだが、そういう時にはミトサーが、三十尺もある、となかいの腸でこしらえた鞭ではげしく顔を打って、いやでも向きをかえて前進させるのであった。リプリプは犬群に対抗できるにしても、その鞭には対抗することはできず、長い索をぴんと張って、自分の横腹に仲間の歯がとどかないようにするほかに致しかたはなかった。  しかしもっとずっと大きな狡智が、このインディヤンの頭の隅にひそんでいた。果てしのない先犬追跡に一つの辛辣味を加えるために、ミトサーはリプリプを他の犬より厚遇した。そういう厚遇は他の犬の嫉妬と憎悪をかきたてた。ミトサーは他の犬のいる前でリプリプに肉を与え、しかもリプリプだけに与えるのであった。これは他の犬にとっては気も狂わんばかりのことであった。犬どもが鞭のとどかないすれすれのところにいてあばれまわっている間に、リプリプは肉をたいらげ、ミトサーがそれを保護していた。そして与える肉がない時には、ミトサーは犬共を遠ざけておいて、リプリプに肉を与えるふりをした。  ホワイト・ファングは快く仕事をした。神々の支配に服するために、ほかの犬より長距離を歩き、神々の意志にそむくことの無駄なことをよけいによく会得していた。それに加うるに、犬群からうけた迫害のために、ホワイト・ファングは犬どもを下等なものとし、人間を上等なものと思うようになった。ホワイト・ファングは同族にたよって交わりを求めることを学んでいなかった。それにチキーは殆ど忘れさられていた。それで残っている主要な表現のはけ口は、自分が主人として受入れた神々に対する忠順であった。それでホワイト・ファングは精出して働き、規律を学び、服従した。忠実と快諾がかれの労役の特徴となった。狼や野生の犬が飼いならされた時の根本的な特徴はこうしたことなのだが、ホワイト・ファングはこの特徴を異常に多くもっていた。  ホワイト・ファングと他の犬の間には一種の交わりがあるにはあったが、それは戦いと敵意の交わりであった。ホワイト・ファングは犬どもと遊ぶことは知らず、格闘することだけを知っていて、格闘するとなると、リプリプが犬群の首領であった時代に、みんなで自分に負わせた咬み傷と裂き傷を、百倍にしてかえした。しかしリプリプはもはや先導者ではなかった――リプリプが自分の索の端につながれて、仲間の前を逃げてゆき、橇が後から躍進する時は別だが。野営ではリプリプはミトサーか灰色海狸かクルークーチかの近くにいるようにし、神々から敢えて離れないようにした。それは今ではすべての犬どもの牙が自分にはむかっていて、ホワイト・ファングのかつてなめた迫害を、しんそこまでしみじみと味わったからであった。  リプリプが打倒されたので、ホワイト・ファングは犬群の首領になればなれたのであったが、あまり気むずかしく孤独なので、そうはしなかった。ただ仲間をやっつけるだけで、さもない場合には、無視してすごした。犬どもはホワイト・ファングが来ると道をあけ、いくら大胆な犬でも敢えてその肉を盗もうとはしなかった。それどころか、ホワイト・ファングにとられやしないかと心配して、自分の肉を大急ぎで食った。ホワイト・ファングは、「弱者を圧迫し、強者に服従せよ」という法則をよく心得ていた。自分の分け前の肉はできるだけ速く食べた。そうなるとまだ食べ終っていない犬こそ災難であった! うなり声と牙のひらめきにあって、その犬は不運な星のまわりあわせに泣いて怒りを訴えている間に、ホワイト・ファングはその分け前を食べ終るのであった。  しかし、ともすればどの犬かが憤激して叛逆しては、さっそく鎮定された。こうしてホワイト・ファングは絶えず鍛練されていた。犬群の中にあって身を持している孤立を大事にまもり、それを維持するためには度々格闘した。しかしそういう格闘は短時間で終った。他の犬には及ばぬほど敏捷だったので、犬どもは何事がおきたかわからないでいるうちに、咬みさかれて血を流していたし、格闘を始めもしないうちにやっつけられた。  神々の橇の紀律と同じように厳格な紀律が、ホワイト・ファングによって、仲間の間に維持された。ホワイト・ファングは決して自由を許さなかった。不断に自分を尊敬することを強制した。犬どもは犬どもの間ではすきなことをしてもよかった。それはホワイト・ファングの関するところでなかった。しかし、かれが孤独でいる時にはさわらぬようにそのままそっとしておかせ、かれが犬どもの間を歩こうという気になった時には道をあけ、いつでも自分の支配を認めさせるということは、その意図するところであった。犬どもが肢をこわばらせるとか、唇をあけるとか、毛を逆立てるとかいうきざしでも見せようものなら、無慈悲に残酷にとびかかっていって、さっそくそのやりかたの誤りを思い知らせるのであった。  ホワイト・ファングは途方もない暴君であった。その支配は鋼鉄のように厳格であった。弱いものを復讐をもって弾圧した。母親と自分が、孤独無援で持ちこたえ、荒野のきびしい環境をきりぬけたあの仔狼時代に、無慈悲な生きるための闘争にさらされたことは、無駄なことではなかった。また力のすぐれたものがそばを通るときにはそっと歩くことを学んだのも無駄でなかった。ホワイト・ファングは弱者を抑圧したが、強者は尊敬した。そして灰色海狸と共にした永い旅行の道すがら出会った、見知らぬ人間動物の野営のおとなの犬の間を、ほんとにそっとして歩いた。  幾月も過ぎていった。それでも灰色海狸の旅は継続した。ホワイト・ファングの力は、長時間にわたる行程と、橇を曳く間断のない骨折りによって発達していた。そしてその知的発展はほとんど完成に近いことであろうと思われた。自分が生きているこの世界をまったく充分に知るようになっていた。その展望は荒涼たるもので唯物的であった。その見た世界は、激しい野獣的な世界、曖昧のない世界、愛撫と愛情の明るく美しい精神の存在しない世界であった。  灰色海狸に対しては何らの愛情ももたなかった。なるほどかれは神ではあったが、とても野蛮な神であった。ホワイト・ファングはかれが主権者たることを喜んで認めたが、それは優れた知性と狂暴な力にもとづく主権であった。ホワイト・ファングの存在の素質の中に、かれの主権を望ましいものとする何ものかがあった、でなければ、荒野から引きかえしてきて忠順を致しはしなかったであろう。その本性の中に測ったことのない深みがあった。灰色海狸《グレイ・ビーヴァ》が親切な一語をかけ、愛撫して手を一触れでもしたならば、その深さを測ったかもしれないが、灰色海狸は愛撫したことはなく、親切な言葉をかけたこともなかった。それはかれの流儀ではなかった。その優位は兇暴であって、兇暴に支配し、棍棒でもって正義を行い、殴打の痛みをもって罪を罰し、手柄には親切をもってではなく、殴打を加えないことによって報いた。  それでホワイト・ファングは、人間の手に自分にとっての天国があるかもしれぬということはしらなかった。それにまた人間動物の手がそもそも好きでなかった。それを疑っていたのである。なるほどそれは時々肉をくれはしたが、傷を与える方が多かった。手は近寄らないようにしておくものであった。手は石をなげつけたし、棒切や棍棒や笞をふるって、平手打ちや横なぐりをくらわせた。そして手がふれたとなると、狡猾にもつねったり、ひねったり、ねじまげたりして痛いおもいをさせた。よその村落で子供らの手に出会ったことがあって、それが残忍で傷つけることを知った。それにまた、一度よちよち歩きのインディヤンの子供に、危うく片眼をえぐり出されそうになったことがあった。こういう経験からしてすべて子供らを疑うようになっていた。子供らには我慢がならず、子供らが不吉な手で近づいてくると、たちあがるのであった。  グレイト・スレイヴ湖の傍のある村落で人間動物の手の禍害に憤慨しているうちに、ホワイト・ファングは灰色海狸から学んだ法則、即ち、神を咬むことは許しがたい犯罪である、という法則を修正するようになった。この村落で、全村落のすべての犬の習慣にならって、ホワイト・ファングは食料徴発に出かけた。男の子供が凍った大鹿の肉を斧で切っていて、小片が雪のなかへはねていた。肉を求めてそばを通りかかったホワイト・ファングが、たちどまってその小片を食べはじめた。その男の子が斧をおいてふとい棍棒をとりあげるのを見て、ホワイト・ファングはとびのいたが、打ちおろした棍棒をのがれるのにわずかに間にあった。男の子は追っかけてきた、それでこの村落には不案内なホワイト・ファングは二つの幕舎の間ににげたが、気がついてみると高い土の堤にぶつかって追いつめられていた。  のがれようはなかった。唯一の出口は二つの幕舎の間にあった、しかもそれを男の子が守っていた。棍棒を打つかまえをしたまま、追いつめられた獲物にじりじりせまってきた。ホワイト・ファングは憤激した。毛を逆立ててうなりながら、男の子に面と向った。その正義感がふみにじられたのであった。ホワイト・ファングは食料徴発の法則を知っていた。凍った切れっぱしのような肉の屑はみんな、それを見つけた犬のものになるのであった。何も悪いことをしたのではなし、何の法も破っていやしないのに、いまこの男の子は打撃を加えようとしていた。ホワイト・ファングは何事がおきたのか殆ど意識しなかった。憤激の浪にのってやったのであった。そしてあんまり急速にやったので、男の子さえもそれがわからなかった。男の子の意識したことはただ、なんだかわけのわからない具合に雪の中にひっくりかえされて、棍棒をにぎっていた手が、ホワイト・ファングの歯に大きく咬みさかれた、ということであった。  しかしホワイト・ファングは自分が神々の法則を破ったことを知った。神々の中の一人の神聖な肉に歯をたてたのだから、とてもひどい罰しか期待できなかった。灰色海狸のところへにげ戻り、その咬まれた男の子とその家族のものがやってきて復讐を要求した時には、主人の保護してくれる脚のかげにうずくまっていた。しかし一行は復讐をとげないでいってしまった。灰色海狸がホワイト・ファングを擁護した。ミトサーもクルークーチも同様だった。ホワイト・ファングは、言葉の戦争をきき、怒った身振りを見ながら、自分の行為が正当だったことを知った。そこで神々のほかにまた神々があることを知るようになった。自分の神々があって、また他の神々があり、そしてその間には一つの相違点がある。正義であれ不正であれ、それは同じことで、すべてのものを自分の神々の手からとらねばならぬ。しかしほかの神々から不正を受けねばならぬのではない。それに歯をもって怒ることは自分の特権である。そしてこれもまた神々の法則である。  その日が終らぬうちに、ホワイト・ファングはこの法則のことをもっと学ぶことになった。ミトサーが、独りで森の中で薪を集めているとき、さっき咬まれた男の子に出会った。他の男の子らも一しょだった。激した言葉が交わされた。すると子供らが全部ミトサーを攻撃した。ミトサーの方があぶなくなりかけた。四方八方から殴打の雨がふりかかっていた。ホワイト・ファングは最初はただ見物していた。それは神々のことで、自分に関するところでないのであった。そのうちに、このひどい目にあわされているのは、ミトサーである、特に自分の神々の一人であるということがはっきりわかった。何も推理した衝動でホワイト・ファングがこのときのことをしたのではないが、狂気のような憤怒のほとばしりにかられて、その格闘のまん中にとびこんだ。それから五分の後には、山野はにげてゆく子らで一ぱいになり、子供らの多くはホワイト・ファングの歯が遊んではいなかったことのしるしとして、雪の上に血をたらしていた。ミトサーが野営に戻ってその話をすると、灰色海狸がホワイト・ファングに肉をやれと云った。かれはもっと沢山肉をやれと命令し、火のそばで満腹してねむくなったホワイト・ファングは、法則が立証されたことを知った。  こういう経験と同じ線に沿って、ホワイト・ファングは、財産と財産を防衛する義務の法則を会得するようになった。自分の神の体を護ることから、自分の神の財産を護ることへは、ほんの一歩であった。そしてその一歩がふみだされた。自分の神々のものは全世界を向うにまわしても――他の神々に咬みついてまでも、防衛すべきものであった。そういう行為は性質上涜神的であるばかりでなく、危険千万であった。神々は全能であり、犬はそれに敵すべくもなかったが、ホワイト・ファングは、その神々に対抗することを学び、猛然と敵対し恐れなかった。義務感が恐怖心に勝った。そこで盗みをする神々は灰色海狸の財産には手のつけられないことを知った。  ホワイト・ファングは、これと結びついて一つのことを急速に学んだ、それは盗みをする神は普通臆病な神であって、警戒の音をきくとすぐ逃げ出す、ということであった。それからまた、警戒の音をたてると寸刻をおかずして灰色海狸が応援にくるということを学んだ。泥棒を追い払ったのは自分に対する恐れではなくて、灰色海狸に対する恐れである、ということも知るようになった。ホワイト・ファングは吠えて警戒をあたえるのではなかった。決して吠えはしなかった。まっすぐに侵人者に向ってゆき、できるなら歯でかみつく方法をとった。気むずかしくて孤独であり、ほかの犬とも何の交渉もないので、主人の財産を護るのに異常に適していた。そしてそういうふうに灰色海狸から激励され訓練された。その一つの結果として、ホワイト・ファングは一そう兇猛に、一そう不屈に、そして一そう孤独になっていった。  数ヵ月が経過し、犬と人間との間の誓約をますます強く結びあわせた。これは、荒野から来た最初の狼が人間ととり交わした往昔の誓約であった。そしてそれにつづいて、同様なことをしたすべての狼や野生の犬と同じように、ホワイト・ファングはその誓約を独力で作成した。その条件は簡単であった。血と肉をそなえた神の財産と自分の自由とを交換した。神から受けとったものは、食料と火と、保護と交わりなどであった。そのかわりにホワイト・ファングは神の財産を護り、神の体を衛り、神のために働き、神に服従した。  神をもつには奉仕が必要である。ホワイト・ファングの奉仕は義務と畏怖の奉仕であって、愛の奉仕ではなかった。愛の何たるかを知らなかった。キチーの記憶は遠のいていた。その上、人間に身をまかせた時に荒野と同族をすてたばかりでなく、誓約の条件が、たとえキチーに再びめぐりあっても、自分の神をすててキチーと共にゆくことはしない、ということになっていた。人間への忠誠は、どうやら自分一身にとって自由の愛、同種同族の愛より大きいという法則のように思われた。 [#5字下げ]六 飢饉[#「六 飢饉」は中見出し]  灰色海狸《グレイ・ビーヴァ》がその長い旅行を終った時には、その年の春が近づいていた。四月になって、ホワイト・ファングは、故郷の村落に橇を曳き入れ、ミトサーに輓具をといてもらった時には、満一歳になっていた。まだ成長しきるには程遠いのではあったが、ホワイト・ファングは、リプリプについで、村落で一番大きな一年仔であった。父親の狼からも母親のキチーからも、背丈と力をうけついでいて、すでに成長しきった犬とならべて見劣りはしなかった。しかしまだ身がひきしまっていなかった。体はすんなりしてひょろ長く、力はどっしりしているというよりも、筋張った感じであった。毛がほんとの狼色の灰色で、どうみても本物の狼そのものであった。キチーからうけついだ四分の一の犬の血統は、肉体的には何のしるしも残していなかったが、精神的素質には一役を演じていた。  ホワイト・ファングは村落じゅうを歩きまわって、長い旅行の前に知っていたいろいろな神々をみとめてすっかり満足した。それから犬どもがいて、仔犬どもは自分と同じように大きくなり、成犬どもは、記憶にとどめていた姿ほど、大きくも怖くもないように見えた。それにまた、犬どもは以前ほど怖くなく、その中を威張って歩いてもたしかに気が楽であった、それは愉快なことであるとともに自分には新しい経験であった。  バシークという白毛まじりの老犬がいて、その若かったころには、ただ牙をむき出しさえすれば、ホワイト・ファングをわけなく立ちすくませ、うずくまらせた。ホワイト・ファングは、かれから自分のつまらないものであることをうんとさとらされたものだが、今では、かれから、自分の身に生じた変化と発展をうんと知らされることになった。バシークが年齢のせいで弱くなっていたあいだに、ホワイト・ファングは若さで強くなっていたのである。  新しく殺された大鹿を切りさばいた時のこと、ホワイト・ファングは、自分と犬の世界との関係が変化したことをさとった。蹄と脛骨の一部を自分でとっていたが、それには相当肉がついていた。他の犬どもの奪い合っている現場から引きさがって――実は茂みのかげの見えないところで――自分の獲物を食べていた。その時バシークがつっかかってきた。ホワイト・ファングは、自分のしていることが何かわからないうちに、その闖入者を二度も咬み裂いて、跳びのいた。バシークは相手の蛮勇と攻撃の敏捷なのに驚き、立ったまま、生の赤い脛骨を間に置いて、呆けたようにホワイト・ファングをながめていた。  バシークは老いこんで、すでに、自分がよくいじめた犬の力が増大していることを知るようになっていた。それは苦い経験ではあるが、バシークはそれを強いて呑みこんだ、そしてそれに対抗するために智恵のありったけをしぼった。昔ならば、正義の怒りにたけりたってホワイト・ファングに跳びかかったであろうが、今では、力が衰えかけているので、そういう行動はとれないのであった。激しく毛を逆立て、脛骨を中において無気味にホワイト・ファングを見た。そしてホワイト・ファングは、以前の畏怖を大分思いおこして、ちぢこまり、尻込みし、小さくなったようで、頭の中であまり見苦しくない退却をする方法を思いめぐらしていた。  しかもちょうどここのところでバシークが誤ったことをした。けわしい無気味な顔をするだけで満足していたならば、万事うまくいったのだ。ホワイト・ファングは、まさに退却しようとしていたのだから、肉はあとに残しておいて退却していただろう。ところが、バシークは待っていなかった。勝利はもうこっちのものだと考えて、肉の方へ歩み出た。それを嗅ぐために不用意に頭を下げた。ホワイト・ファングがちょっと毛を逆立てた。その時にでも、バシークが形勢を挽回するのに遅すぎはしなかった。ただ肉の上にたちはだかって、頭をあげ、ねめつけていただけなら、ホワイト・ファングは結局こそこそとにげ去ったことであろう。しかしその新鮮な肉の臭いがバシークの鼻孔をつよくうったので、貧慾にいざなわれてそれを一咬み咬んだ。  これはホワイト・ファングにとってあまりな仕打ちであった。ほんのこの数ヵ月の間、かれは犬群仲間を支配する生活を送ってきたので、自分のものである肉を他のものが食っているのをはたで手をこまぬいて見ているということは、どうにも我慢のならぬことであった。ホワイト・ファングは、自分の習慣にしたがって、警告ぬきで打ちかかった。第一撃でもってバシークの右の耳が引き裂かれてリボンのようになった。バシークはその突然なことにあきれ返った。しかしもっとほかのこと、もっと残念なことが、同じく突然におきていた。足をはらってぶっ倒され、のどを咬まれた。もがいてたち上ろうとしていると、その若い犬が二度も肩を深く咬んだ。その速さといったら、目にもとまらないのであった。憤激して口を開いて空を咬みながら、ホワイト・アァングに徒らにとびかかろうとした。次の瞬間には鼻を打ち裂かれ、よろめきながら肉から退いていった。  今や形勢が逆転した。ホワイト・ファングが、毛を逆立て脅かしながら脛骨の上にたちはだかり、バシークはすこし離れて立って、退却の準備をしていた。この若い電光のような奴と思いきって格闘する気にはなれず、再び、そして余計に苦々しく、迫りくる老齢による衰弱を知った。この威厳を保とうとする企ては英雄的だった。あたかもそんなものは自分の目にはとまらず、考慮の価値もないというように、平然として若い犬と脛骨に背を向け、もったい振って歩き去った。そして、すっかり見えないところまできてはじめて、たちどまって血の流れている傷をなめた。  その結果ホワイト・アァングは一そう自信を強め、一そう誇りを高めた。おとなの犬の間も前ほどおとなしくなく歩いたし、態度も前ほど妥協的でなくなった。事をもとめてはめを外したのではない。そんなことはなかった。ただ自分のやりかたに考慮を要求しただけである。じゃまされずにわが道を行き、いかなる犬にも道を譲らないという自分の権利を主張した。自分を考慮に入れてもらわねばならぬ、というだけのことであった。仔犬どもの境涯がそうであったように、またあとまでひきつづいて橇曳き仲間の仔犬の境涯がそうであったように、注目されず無視されることは、もはや御免なのであった。仔犬どもはおとなの犬に道をあけ道を譲り、強制されて肉を譲った。しかしホワイト・ファングは、つきあいにくく、孤独で、不愛想で、めったに右も左も見ず、勇猛で、顔付きがひとを寄せつけず、縁遠く、よそよそしいので、とまどいした年長の犬に同等のものとして受入れられた。犬どもはすぐにホワイト・ファングに構わないことを学び、敵対行動も敢えてとらず、友達づき合いの申込みもしなかった。みんなが自分をほっといてくれれば、自分もみんなをほっといた――この事態は、二、三度衝突したあとで、至極結構だということになった。  夏の半ばにホワイト・ファングは一つの経験をした。大鹿狩りのおともをして出かけていた間に村落のはずれに新しい幕舎がたてられていた。かれはそれを観察するために、いつものとおりだまってかけていると、キチーと真正面に出あった。たちどまって見た。ホワイト・ファングはキチーをぼんやりと覚えていた、しかし、ともかくも覚えていた[#「覚えていた」に傍点]のであった。ところがキチーの方では覚えているとは云えなかった。キチーは歯をむいてみせて、昔のようにうなって脅した、それでホワイト・ファングの記憶が明瞭になった。忘れていた仔狼時代のこと、その懐かしいうなりに連関のあるすべてのことが、一時に戻ってきた。神々を知らないうちは、キチーが自分にとっては宇宙の中心の針なのであった。あの頃の古い親しい感情がよみがえって、胸の中に浪のようにうちよせてきた。嬉しくなってキチーの方へはねとんでいったが、キチーは敏捷な牙でもって迎え、頬を骨に達するまで咬み裂いた。わけがわからなかった。面喰い当惑して後退りした。  しかしそれはキチーの過ちではなかった。狼の母は一年くらい前の自分の仔を記憶しているようにつくられてはいない。だからキチーはホワイト・ファングをおぼえていないのであった。だからホワイト・ファングは見知らぬ動物で、侵入者であった。そして現在の一腹の仔犬が、そういう侵入者に対して怒る権利を与えていた。  仔匹が一匹ホワイト・ファングの方へはってきた。お互は種違いの兄弟なのだが、お互にそれを知らないだけのことであった。ホワイト・ファングはもの珍らしげにその仔犬を嗅いだ、するとキチーがつっかかってきて、またも顔に深傷を負わせた。ホワイト・ファングはさらに遠く後退った。よみがえってきた古い記憶と連想は全部うすれていって、もとのように墓場の中へ消え去った。見ればキチーはその仔犬をなめていて、時々やめてはこちらにむかってうなっていた。キチーは自分にとっては何の価値もない。母なしでやってゆくことを自分はおぼえている。母の意義は忘れはてている。ホワイト・ファングの生活の目論見の中にはキチーを入れる場所はなかった、同様にキチーの考えの中にホワイト・ファングを入れる場所はなかった。  面喰って呆けたようになり、記憶はぬけて、一体全体どうしたものかといぶかりながら、じっと立っていた。するとキチーが、あたりからすっかり追っ払ってしまおうと思って、もう一度攻撃してきた。それでホワイト・ファングは追っ払われるにまかせてにげていった。相手はつまり同族の女性である、そして男性は女性と闘ってはならぬというのが、同族の法則である。ホワイト・ファングはこの法則のことは何も知らなかった。それは知力の帰納ではなく、この世の経験によって得られたのでもなかった。ただそれを秘密の指図として、本能の督促として知っていた――夜な夜な月と星にむかって咆えさせ、死と未知のものを恐れさせるのと同じ本能の。  幾月かすぎた。ホワイト・ファングは一そう強く、一そう重く、一そうひきしまってきたが、その間にその性格が、遺伝と環境によって定められた線にそうて発展していた。その遺伝は粘土になぞらえられる生命の素材であった。それは多くの可能性をもち、多くの異なる形に形成されることができた。環境がその粘土で型をつくり、それに特殊な形をあたえる役目をした。かくして、もしホワイト・ファングが人間の火に参加していなかったならば、荒野がかれを本当の狼に仕上げていたであろう。しかし神々が、異なる環境を与え、むしろ狼らしいところのある犬に仕上げたのである。しかしそれは犬であって狼ではなかった。  そこで粘土のような自分の本能と、自分の環境の圧力にしたがって、その性質がある特殊な形に仕上げられていた。それをのがれるすべはなかった。ホワイト・ファングはますます気むずかしく、ますます附合いにくく、ますます孤独に、ますます兇猛になっていた。一方では犬どもがホワイト・ファングとは交戦状態になるよりも和平状態にある方がよい、ということをますますよく知るようになり、灰色海狸は日毎にますますホワイト・ファングを珍重するようになった。  ホワイト・ファングは、あらゆる能力の力が充実しているように見えたが、それにも拘らず、つきまとう一つの弱点に悩んでいた。笑われることにがまんがならなかった。人間の笑いは憎くたらしいものであった。人間が人間だけの間でなら、自分を除く人間のすきなもののことを笑ってもよい、それなら構わなかったが、笑いが自分に向けられるや否や、かっとして甚だ恐ろしく怒るのであった。真面目で、威厳があって、陰気なかれが、笑われると滑稽になるほど狂乱した。そのためにひどく憤激し気が顛倒するので、それからは何時間も悪魔のような振舞いをするのであった。そこでそういう時にかれと仲違いした犬こそ災難であった。ホワイト・ファングは法則をあまりにもよく知っていたので、灰色海狸に復讐することはできなかった。灰色海狸の背後には棍棒と神格があった。しかし犬どもの背後には空間しかなかった。そこでホワイト・ファングが笑いのために狂乱して場面に登場すると、犬どもはその空間の中へ逃げこんでいった。  ホワイト・ファングの生涯の三年目に、マッケンジーのインディヤンに一大飢饉がおそってきた。夏には魚がとれなかった。冬にはとなかいがいつもの進路を見棄てた。大鹿がすくなく、兎は殆ど消え失せ、狩猟し食肉する動物は死にたえた。いつもの食料供給が絶え、空腹に弱らされて、お互に襲い合って共食いしたのである。強いものだけが生き残った。ホワイト・ファングの神々はいつも狩猟する動物だったので、老人と弱い者は飢えて死んだ。村落には泣き声がみち、女や子供らは、空しく肉を追って森の中を狩してきた、やせて眼のくぼんだ狩人達の腹に、自分らがもっている限りの僅かなものでもいれてやろうというので、外へ出ていった。  神々はこういう極端にまで追いつめられたので、鹿皮靴や手袋の柔らかくなめした革を食べた。そして犬の方では背中からはずした輓具を食べ、鞭までも食べた。それにまた、犬は共食いし、神々は犬を食べた。一番弱いのと値打ちの尠ないのがまず食われた。まだ生きている犬は見ていて理解した。最も大胆で賢い犬どもは、今では屠殺場と化している神々の火を見棄てて、森林へにげこんだが、つまるところそこで飢え死にしたり、狼に食われたりした。  この苦難の時に、ホワイト・ファングもまた森の中へしのびこんだ。仔狼時代の訓練がみちびきになったので、ほかの犬よりもずっとよくこの生活に適応した。特に小さな生きものに忍びよるのが上手であった。何時間もかくれていて、用心深いりすの一挙一動を眼で追い、自分が悩んでいる空腹ほどのひどい忍耐で待っていると、ついにはそのりすが地面へおりるのであった。そうなってもホワイト・ファングははやまらず、りすが再び木へにげこむ前にやっつける自信のつくまで待ち、それから、その時はじめて、かくれ場所から、灰色の弾丸となって、信じられないほど速くとびだして、決してその的をはずさなかった――にげるのが速いりすですらそれほど速くなかった。  りすでは成功したけれども、それを食べて生き、かつ肥ることをさまたげる一つの困難なことがあった。りすがそれほど充分にいないのであった。それでさらにもっと小さいものをあさらねばならなくなった。時には空腹がとてもひどくなったので、木ねずみをその地中の穴から掘りだすことも辞さなくなった。いわんや、自分と同じように空腹で、何倍も兇猛ないたちとも格闘することをいとわなかった。  飢饉の最もひどいときにホワイト・ファングはそっと神々の火のところへまいもどった。しかし火の間へははいりこまなかった。森の中に潜伏して、発見されることを避け、時たま獲物のかかったときにそのわなの獲物を盗んだ。灰色海狸がよろよろして、衰弱と息切れのために、度々坐りこんで休みながら、森の中を歩いている時、灰色海狸のわなにかかった兎を盗んだことさえあった。  或る日ホワイト・ファングは、飢饉のためにやせこけて、関節ががたがたになっている若い狼にであった。自分も空腹でなかったら、一しょにいって、ついには荒野の仲間の狼群に加わったかもしれなかったが、空腹なので、その若い狼を追いつめて、殺して、食ってしまった。  運が向いてきたようであった。いつでも食べものに最もひどくつまってくると、何か殺すものを見つけた。また、自分が弱っている時には、幸いにも自分より大きい食肉獣がかかってくることはなかった。そういう具合で腹をすかした狼の群がまっしぐらに襲いかかってきた時には、二日間山猫を食っていたために強くなっていた。それは長い、残忍な追跡だったが、ホワイト・ファングの方が栄養がよかったので、結局狼群をひきはなしてしまった。それに、引離したばかりでなく、大※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りして自分のもとの足跡にまいもどり、追求して困憊しきった狼を一匹獲物にした。  それからのちホワイト・ファングはその地方を去り、はるばる旅をして、自分が生れた谷へはいりこんだ。そこのもとの狼窟の中で、キチーにであった。キチーもまた、もとからのくせで、もてなしの悪くなった神々の火からのがれて、仔を生みにもとの避難所へもどっていたのであった。ホワイト・ファングがその場面に現れた時には、一腹のうちから一匹だけしか生き残っていなかった。しかもその一匹も永く生きる運命をさずかってはいなかった。幼い命はこういう飢饉の時には生きる見込みが殆どない。  キチーが自分の生長した息子に与えたあしらいはちっとも愛情がこもっていなかった。しかしホワイト・ファングは気にしなかった。母親より大きくなっていたのだ。そこで虚心担懐にしっぽをめぐらし、とっとと小川をさかのぼっていった。分岐点のところで左の分岐の方へ向い、そこで母親と自分とがずっと前に格闘した山猫のふしどを見つけた。そしてここの空巣になったふしどで、落着いて一日休息した。  夏の初め、飢饉が終ったころ、やはり森へはいりこんで、そこでみじめな存在を辛うじてつづけていたリプリプにであった。ふいにぶつかったのであった。高い断崖の麓を反対側からかけてきて、岩の角をまわってみると顔と顔をつきあわせていたのであった。二匹ともとっさに驚いて、うさん臭そうに見交わした。  ホワイト・ファングは上々のコンディションにあった。狩猟がうまくいって、一週間というもの腹一ぱい食べていたのである。ことに最近の獲物で満腹してさえいたのだが、リプリプを見た瞬間に、背なかじゅうの毛がさか立ちした。それはかれとしては無意識な毛の逆立ちであり、過去においてリプリプにいじめられ迫害された時に生ずる精神状態につねにともなった肉体的状態であった。過去において、リプリプを見ると毛を逆立ててうなったように、今も自動機械のように、毛を逆立ててうなった。時間を無駄づかいしなかった。事は徹底的に手っとり速く行われた。リプリプは退いてにげようとしたが、ホワイト・ファングが肩に肩をつよくぶっつけていった。リプリプは打倒されて仰向けにころがった。ホワイト・ファングの歯がやせこけたのどにくいこんだ。死のもがきがはじまった、その間ホワイト・ファングは肢をこわばらせ、油断なく見つめながら歩きまわった。それからまた歩みをつづけ、断崖の麓をとっととかけていった。  それから間もない或る日、そこから狭い空地がマッケンジー河へ向って傾いている、森のはずれへやってきた。ここへは以前地面に何もない時にきたことがあったが、今度はそこに村落が位置を占めていた。まだ木の間にかくれたまま、たちどまって情勢をうかがった。光景も音も臭いも親しみがあった。それは以前の村落が新しい場所に移ったのであった。しかしその光景と音と臭いは、逃げだす時に最後に経験したのとは違っていた。くんくんいう声も泣く声もきこえなかった。満足した音が耳にこころよくひびいた、そして女の怒った声がきこえると、それはおなかが一ぱいなときに出る怒りだということがわかった。それに魚の臭いが空中にあった。食料があった。飢饉は去っていた。ホワイト・ファングは大胆に森から出て、野営へかけこみ、まっすぐに灰色海狸の幕舎へ行った。灰色海狸はいなかったが、クルークーチが喜びの叫びと、捕ったばかりの魚全部でもって歓迎した。そこでホワイト・ファングは横になって灰色海狸の帰りを待った[#「帰りを待った」は底本では「帰り待った」]。 [#改ページ] [#1字下げ]第四部 高級の神[#「第四部 高級の神」は大見出し] [#5字下げ]一 同種の敵[#「一 同種の敵」は中見出し]  ホワイト・ファングの本性に、いかに稀薄であったにしても、同族と親密になる可能性がいくらかでもあったとしたら、そういう可能性は橇曳きの組犬の先犬にされた時に、とりかえしのつかないほど破壊された。それはこうなると犬どもが憎んだからである――ミトサーが特別の肉を与えるからかれを憎み、またかれが受けたひいきと受けたと想像されるひいきのために憎み、いつも犬群の先頭に立ってにげてゆくので憎んだ、そしてホワイト・ファングのぼさぼさしたしっぽがゆれ、臀部がしじゅうにげてゆくのを見ると、犬どもは狂おしくなるのであった。  そしてホワイト・ファングもちょうど同じくらいはげしく犬どもを憎みかえした。橇の先犬になることはどうしても気にくわぬことであった。三年間というもの、一匹一匹のこらず打ちのめして征服してきた犬群のなきわめくのを後にして逃げなきゃならんということは、殆ど堪え難いことであった。しかしそれは堪えねばならなかった、さもなければ死ぬだけのことであった。しかもかれの中の生命は死んでしまう欲求はすこしももたなかった。ミトサーが出発の命令を発した瞬間に、犬群は熱心な烈しい叫び声をはりあげて、ホワイト・ファング目がけてとびだした。  防備はなにもなかった。犬どもに向って向きなおれば、ミトサーが鞭で顔を打って刺すような痛みをあたえるのであった。残る手は逃げることだけであった、しっぽと臀部とをもって、咆えている犬群に向うことはできなかった。こういうものは、沢山な無慈悲な牙に対抗するに適した武器ではなかった。だからホワイト・ファングはにげ走った、そしてひと跳びするごとに自分の本性と誇りをきずつけ、終日跳びつづけた。  自分の本性の教示を犯していれば、必ずやその本性は自分の上にはねかえるものである。そのはねかえりは毛の逆生えのようなもので――身体から外へのびるはずの毛が、不自然にその根の方向に転じて、体の中へと伸びる場合のように――ずきずき痛み、化膿する傷である。そしてホワイト・ファングの場合がそうであった。あらゆる自分の存在の衝動が後ろで叫ぶ犬群にとびかかることを強いたが、それをやってはならぬ、というのが神々の意志であった、そしてそれを強制する意志の背後には、三十尺のところから痛くむちうつとなかい[#「となかい」に傍点]の腸の鞭があった。それでホワイト・ファングはただ苦々しさに断腸の思いをし、自分の本能の激しさと不屈さに匹敵するだけ僧悪と悪意を発達させるばかりであった。  動物がその同族の敵であるということがあるとすれば、ホワイト・ファングはその動物であった。慈悲を乞うたことはなく、与えもしなかった。不断に犬群の歯に大傷小傷をつけられ、同じく不断に自分でも、犬群に歯のあとをつけた。野営が張られ、犬が解き放たれると、神々の近くに寄りそって保護を求める大ていの先犬とはちがって、ホワイト・ファングはそういう保護を軽蔑した。野営のあたりを大胆に歩きまわって、昼の間に受けた仇に対して、夜になって罰を課した。ホワイト・ファングが犬群の先犬にされた時以前には、犬群はかれに道をあけてやることを学んでいた。しかし今は事情が違っていた。一日じゅうかれを追っていたことに興奮し、潜在意識的に脳裡にかれが逃げてゆく姿がしつこく現れてくるのに影響され、終日楽しんだ支配感にまどわされて、犬どもはホワイト・ファングに道をゆずる気にはなれなかった。ホワイト・ファングが犬どもの中に現れると、かならずせり合いがあった。ホワイト・ファングのうなり声と歯を咬みあわせる音と咆える声とでわかった。その呼吸する空気そのものが、憎悪と悪意にみちていた、そしてそのことは、ただかれの身うちにある憎悪と悪意をつのらせるのに役立った。  ミトサーが叫んで、犬群に停止を命ずると、ホワイト・ファングはそれに従った。最初はそれが他の犬どもの困る原因になった。すべての犬がその憎い先犬にとびかかると、たちまち局面が逆転した。その背後にミトサーがいて、大きな鞭がその手の中でひゅうひゅう鳴っていた。そこで犬どもは、犬群が命令によって止められた時には、ホワイト・ファングには構わないでおくことを理解するようになった。しかしホワイト・ファングが命令なしでたちどまると、できさえすれば、跳びついてやっつけることが許されていた。数度経験した後には、ホワイト・ファングは決して命令なしに止まらなかった。かれの悟りは速かった。それは異常にきびしい条件を生き抜くためには、速かに会得せねばならぬ物の道理であった。  しかし犬どもは、野営ではホワイト・ファングに構わないでおく、という教訓を学ぶことができなかった。毎日、ホワイト・ファングを追い挑戦的に吠えかかっていたので、前夜の教訓がきえてしまって、その夜また学びなおさねばならず、しかも同様にたちまち忘れるのであった。その上にまた、犬どもがホワイト・ファングを嫌うことには、もっとひどい執念深いところがあった。犬どもは自分らとかれの間に、種の相違――それだけでも敵意をもつにたる原因、を感得していた。ホワイト・ファングと同様に、犬どもは飼いならされた狼であった。しかし、犬どもは数世代にわたって飼いならされていて、野性は多く失われていた。それでも犬どもにとって荒野は未知のもの、恐るべきもの、常に脅威し常に戦をしかけるものであった。しかしホワイト・ファングには、外貌と行動と衝動において、荒野がくっついて離れなかった。ホワイト・ファングはそれを象徴しており、その権化であった。それで犬どもがかれに向って歯をむきだした時は、それは森の蔭や、野営の火のとどかぬ暗やみの中にひそんでいる破壊の力に対して、身を護っているのであった。  しかし犬どもが学んだ教訓が一つあって、それは一しょにかたまっていることであった。ホワイト・ファングがあまり恐ろしいので、どの犬だって独りでたち向うことはできなかった。犬どもはかれに集団編制で対抗した、でないと夜のうちに一匹ずつ殺されてしまうわけであった。それでホワイト・ファングは、犬を殺す機会をもたなかった。犬の肢をはらってころがしても、ぐんぐん追いつめて、のどにとどめの一撃を加えることができないでいるうちに、犬群がかかってくるのであった。争いのきざしが見えしだいに、全群がかたまって対抗してきた。犬どもは犬同志でけんかすることもあったが、ホワイト・ファングとの紛争がおこると、それは忘れ去られた。  ところが、いくらやってみても、犬どもがホワイト・ファングを殺すことはできなかった。あまり敏捷で、あまり恐ろしくて、あまり賢くて、及びもつかなかった。ホワイト・ファングは身動きのできない場所をさけた、そしてそういう所にいても、犬どもが包囲する見込みがある時には、いつでもそこから出て退くのであった。ところが、かれの肢をはらう段になると、そういう腕をふるうことのできる犬は仲間のうちに一頭もいなかった。ホワイト・ファングの肢は、かれが生命にかじりついているのと同じく頑強に、地面にかじりついていた。実際、この犬群との果てしない戦いにおいて、生命と足場は同意語であった。そしてホワイト・ファング以上にそのことをよく知っているものはなかった。  そこでホワイト・ファングは同族の敵となった。犬どもは実は飼いならされた狼なのだが、人間の火におとなしくされ、人間の力の保護する蔭で弱くなっていた。ホワイト・ファングは無情で執念深かった。かれの粘土はそういうふうに型どられていた。かれはすべての犬に近親復讐を宣言した。そして、この近親復讐をあまりひどくやったので、灰色海狸でさえ、自分が兇猛な蛮人でありながら、ホワイト・ファングの獰猛なのには驚かざるを得なかった。この動物のようなのは今まで決していなかった、と灰色海狸は断言した、そしてよその村落のインディヤンたちも、ホワイト・ファングの犬殺しの話を考えてみたとき、同様に断言した。  ホワイト・ファングがいますこしで五歳になるというときに、灰色海狸がまた長途の旅行につれていった。そしてマッケンジー河に沿い、ロッキー山脈を越え、ポーキュパイン河を下ってユーコン河にいたる途中の多くの村落の犬の間に、ホワイト・ファングがまきおこした大破壊が永く記憶された。ホワイト・ファングは同族に加える復讐をひどく楽しみにした。同族は普通の、疑うことのない犬どもであった。犬どもはかれの敏捷で単刀直入、無警告の攻撃に対して準備をしていなかった。犬どもはかれの本領、電光の閃めきのような殺陣を知らなかった。犬どもはかれに向って毛を逆立て、肢をこわばらせて挑戦するのに、ホワイト・ファングは念の入った予備行動には時間をかけず、鋼鉄のバネのように咄嗟に行動に移り、犬どもが何事がおきたかわからず、まだ不意打ちの痛みにあがいているうちに、のどにくらいついてやっつけたのである。  ホワイト・ファングは格闘の名人になった。力を経済して、決して無駄づかいせず、組打ちは決してしなかった。ひどく敏捷なのでその必要はなかった、そしてよし狙いが外れても、またひどく敏捷に跳びのいた。狼は接近した格闘を嫌うものだが、ホワイト・ファングの場合はまた格別であった。永いことほかのものの体に接触していることに堪えられなかった。そうすることは危険な気味があり、気が狂いそうであった。離れていて、自由で、自分の肢で立ち、生きたものには寄りつかないでいなくてはならなかった。それは荒野がまだかれにからみついていて、かれを通して現れているのであった。この感情は仔狼のときから送ってきた追放者のような憎まれっ子の生活によって強められていた。接触のなかには危険が潜んでいた。それはわなであった、永久にわなであって、それに対する危懼がかれの中に深く潜んでいて、その繊維に織りこまれていた[#「織りこまれていた」は底本では「織りこれていた」]。  その結果、ホワイト・ファングに出合った見知らない犬は、勝てる見込みはなかった。ホワイト・ファングは犬どもの牙をかわした。相手をやっつけたし、うまくいかない時はとびのいた、だからいずれの場合にも自分に怪我はなかった。当然それにも例外があった。数頭の犬がかかってきて、にげることができないでいるうちにひどい目にあわされることもたまにはあった。またただ一匹の犬が深傷を負わせることもたまにはあった。しかしそんなのは偶然のできことで、大体において、ホワイト・ファングは非常に有能な闘士になっていたので、傷を受けないでやっていった。  ホワイト・ファングがもっていたもう一つの強味は、正確に時と距離を判断する強味であった。しかしそれを意識してやったのではない。そういうものを計算したのではない。それは全部自動的であった。眼が正確にものを見、神経がその視覚を正確に脳につたえた。体の各部分がふつうの犬の場合よりもよく調節されていて、ずっと滑かにずっと着実に協働した。神経と知能と筋肉の整合が、うまく、いや遥かにうまくいっていた。眼がある一つの行動の表象を脳髄につたえると、脳髄は意識的な努力なしで、その行動を制限する空間と、その行動の成就に必要な時間を知るのであった。こうして、他の犬の跳びかかるのや歯で攻撃してくるのを避けることができたし、同じ瞬間に微少な時間内に自分の方から攻撃することができた。体も頭もずっと[#「ずっと」は底本では「ずつと」]よく完成されたからくりであった。そのために賞讃さるべきだというのではない。ただ自然が、ふつうの動物に対する場合よりよけいに寛大であった、というだけのことである。  ホワイト・ファングがユーコン交易市場に到着した時は夏であった。灰色海狸は冬の末にマッケンジー河とユーコン河の間の大分水嶺を横切り、ロッキー山脈の西につきでている支脈の間で狩猟して春の間をすごしたのであった。それから、ポーキュパイン河の氷がわれてから、丸木舟をつくり、ちょうど北極圏の直下でその流れがユーコン河と合流するところまで漕ぎ下った。ここに古いハドソン湾会社の交易市場がたっていた。そして沢山なインディヤンと、沢山な食料と、無数の興奮があった。それは一八九八年の夏であった、そこで何千という金を捜す人々がユーコン河をさかのぼって、ドースンヘ、クロンダイク川へ、とおもむくところであった。その目的地まではまだ数百マイルもあるのに、多くのものが途中で一年間もついやしていたし、ここまでくるのに一番近いものでも五千マイルは旅してきており、中には世界の反対側からきたものもあった。  ここで灰色海狸《グレイ・ビーヴァ》はとまった。金坑熱のうわさが耳に入っていたので、彼は幾梱もの毛皮と、腸で縫った手袋と鹿皮靴を一梱もってきていた。ぼろい儲けを見込まなかったら、こんな長途の旅には敢えて出かけなかっただろう。だがかれが見込んでいた儲け高は、実際にあげた高にくらべると物の数に入らないほどのものであった。彼がいくら突飛な夢をみたにしてもせいぜい百パーセントの利益を越えはしなかったが、実際には千パーセントも儲けた。そして本当のインディヤンらしく、たとえ商品をさばきつくすのに一夏すぎて冬までかかってもかまわないという決心で、腰をおちつけて用心深くゆっくりと商売にとりかかった。  ユーコンの交易市場でホワイト・ファングは初めて白人を見た。それまでに知っていたインディヤンに較べると、別種の存在、即ち一段高級の神々と思われた。白人は優れた力をもっているという印象を与えた、そして神格の宿るところは力なのである。ホワイト・ファングはそれをちゃんと推理したわけでもなく、頭の中で、白い神々の方がずっと強いというはっきりした綜合をやったのではなかった。それは感じであって、それ以上のものではなかったが、それでも同じく強力なものであった。仔狼時代に、人間のたてた幕舎のぼうっとして輪廓も分らないような大きさが、力の表現として感動を与えたように、今度は全部どっしりした丸太でできている住宅や巨大な交易市場が同じ感動を与えたのである。ここには力がある。白い神々は強い。白い神々は、今までに知っていた神々よりはずっと大きな、ものを支配する力をもっている。従来の神々の中では灰色海狸が一番強かったのだが、それでも彼はこれらの肌の白い神々の間に入ると、まるで子供神のようなものであった。  たしかに、ホワイト・ファングはこういうことをただ感じたのである。意識したのではない。しかし動物の行為するのは、思考によるよりは感じによることの方が多いのである、それでいまホワイト・ファングのとった行動はすべて、白人は高級の神であるという感じにもとづいたのである。第一にホワイト・ファングはその連中をひどく疑った。それらがどんな未知の恐怖すべきものをもっているか、どんな未知の怪我を負わせるか、わかったものではなかった。ホワイト・ファングは、かれらから注目されることを恐れながら、かれらを観察しなくてはならなかった[#「しなくてはならなかった」は底本では「しなくてならなかった」]。最初の数時間は、こそこそ歩きまわって、安全な遠いところから見守っていることで満足していた。それからかれらの近くにいる犬どもに何の危害もないことを見きわめると、もっと近づいていった。  今度はホワイト・ファングの方が彼等の大きな好奇の的になった。狼のような外貌が忽ち神々の眼をひき、神々はお互にホワイト・ファングを指さして示し合った。この指さしするという行為にホワイト・ファングは警戒するようになり、神々が近づいて来ようとすると、歯をむいて後退した。  ホワイト・ファングに手をかけることに成功したものは一人もなかったが、手をかけなくて仕合せなのであった。  ホワイト・ファングはすでに、こういう神々はごくわずか――十人ぐらいしかこの場所に住んでいないことを知った。二、三日ごとに汽船(また別の巨大な力の表現)が河岸へはいってきて、数時間とまった。白人たちがこういう汽船からおりてきて、またそれに乗って立ち去った。こういう白人の数は算えきれないようであった。最初の日あたりに、ホワイト・ファングは、生れてこのかた見たインディヤンの数より多くの白人を見た。そして日々が経っていっても白人たちは引きつづいて河をのぼってきてはとまり、それから河を上っていって見えなくなった。  しかし白い神々が万能であったにしても、その犬どもは大したものではなかった。そのことをホワイト・ファングは、主人たちと一しょに上陸してきた犬どもと交わってみて、たちまち発見した。形と大きさがまちまちで、肢の短い――あまり短かすぎる! のがいたし、肢の長い――あまり長すぎるのもいた。みんなが毛皮ではなくて毛をかぶっていた、しかもまたその毛がごく僅かしかない犬もすこしいた。そしてどいつもこいつも格闘のしかたを知らなかった。  同族の敵として、この犬どもと闘うのがホワイト・ファングの本領であった。それを実行すると、たちまちそのためにひどく犬どもを侮蔑するようになった。ホワイト・ファングが器用に狡くやってのけることを、犬どもは柔弱で力が無く、大騒ぎして、へたに精一ぱいの力をこめてやろうとして、じたばたまごつきまわった。吠えてつっかかってくると、ホワイト・ファングはわき腹へ跳びかかった。犬どもが相手がどうなったかわからないでいると、その瞬間に肩を打って、つっころばしておいて、のどに一撃を加えた。  時々この一撃が成功して、やられた犬が泥の中にころがると、待っていたインディヤンの犬の群がつかみかかって八裂きにしてしまった。ホワイト・ファングは賢くて、神々が自分らの犬が殺されるとひどく怒ることを、ずっと前から知っていた。白人もその例外ではなかった。それで白人の犬を一頭打倒してのどを大きく喰い破ってしまうと、自分はあとへ退いて、犬群がつっこんでいって、残酷な仕上げ仕事をやるのに委せることで満足した。その時になって白人がかけこんできて、その怒りを犬群に向ってひどくぶちまけるのだが、ホワイト・ファングは免れてすましていた。石や、棍棒や、斧や、あらゆる種類の武器が仲間の頭上に落下している間、自分はすこしばかり離れて立って見物していた。ホワイト・ファングはとても賢こかった。  しかし仲間もそれ相当に賢くなった、そしてその点でホワイト・ファングも仲間と一しょに賢くなった。面白いことのできるのは船が河岸に繋留したばかりの時だ、ということを知った。最初の二、三頭が負かされやっつけられたあとでは、白人たちがいそいで犬どもを船へ追いかえしておいて、攻撃軍に兇暴な復讐を加えた。一人の白人が、自分の犬のセッターが眼の前で八裂きにされるのを見て、拳銃を抜きだした。つづけさまに六発うつと、六頭の犬が倒れて死んだり、死にかけたりした――これはまた別の力の表現であって、ホワイト・ファングの意識に深くしみこんだ。  ホワイト・ファングはそういうことを楽しんだ。自分の同族を愛していなかったし、自分だけは機敏に怪我をまぬがれていた。最初は白人の犬を殺すことは一つの気晴しだった。しばらくたつとそれが自分の仕事になった。ほかにせねばならぬ仕事はなかった。灰色海狸は商売して金持ちになることに忙しかった。それでホワイト・ファングは、評判の悪いインディヤン犬の一味と一しょに荷揚場のあたりにまつわりついて、船が到着すると共に面白いことが始まった。数分の後、白人たちが驚きをしずめる頃には、一味は退散していた。そのたのしみは、次の船が到着するまでおあずけであった。  しかしホワイト・ファングがその一味の一員だとは言えなかった。一味とは一しょにならず、独りっきり、いつも独りっきりでいて、一味に恐れられてさえいた。いかにも、ホワイト・ファングは一味と一しょに仕事をし、一味が待っている間に、そのよその犬にけんかを売って、その犬をぶっ倒した時に、一味がやってきて仕上げをやるのであったが、その時にホワイト・ファングは退却して、一味に憤激した神々の処罰を受けさせた、ということも等しく本当のことであった。  そういうけんかを売るには、大して努力を必要としなかった。見知らない犬が上陸してきたときに姿を現しさえすればよいのであった。犬どもはそれを見たとたんに突っかかってきた。それは犬どもの本能であった。ホワイト・ファングは荒野[#「荒野」に傍点]であった――未知のもの、恐るべきもの、不断に脅威するものであった。犬どもは人間の火のそば近くにちぢこまって、本能をつくりかえ、自分らの故郷ではあるが見棄て裏切ってきた荒野[#「荒野」に傍点]を恐れることを学んでいたときに、ホワイト・ファングの方は原始世界の火をとりまく闇黒の中をうろついていたものであった。世代から世代へと、すべての世代を通じて、この荒野の恐怖が犬どもの本性にきざみつけられていた。数世紀間荒野は恐怖と破壊を代表していた。そしてその期間中、その主人から、荒野のものを殺してもよいという無料免許状が犬どもに与えられていた。それをやることによって、犬どもは自分自身とお伴させてもらっている神々の両方を護っていた。  それで、温和な南の世界からきたばかりのこれらの犬は、渡り板をとことことかけおりてきて、ユーコン河の岸におりたったところで、ホワイト・ファングを見たので、つっかかってやっつけてしまいたいという抑えきれぬ衝動を経験しないわけにはいかなかった。都会育ちの犬であったにしても、荒野に対する本能的な恐怖はやはりもっていた。明るい昼の光の中でこの狼みたいな動物が眼前に立っているのを、自分の眼で見たばかりではない、自分らの先祖の眼で見たのであって、その遺伝した記憶によってホワイト・ファングは狼だということを知り、いにしえの宿怨をおもいだした。  そういうこと全部が一しょになって、ホワイト・ファングの日々を楽しいものにすることに役立った。ホワイト・ファングを見るとそういう見知らぬ犬がかかってくるのだったら、ホワイト・ファングにとってはそれだけ結構なことであり、犬どもにとってはそれだけ悪いことであった。犬どもの方ではホワイト・ファングを正当な餌食と見なし、彼の方では犬どもを正当な餌食と見なした。  さびしい狼窟の中で初めて日の光を見、らいちょうやいたちや山猫と格闘したのが格闘の初めであったことは、無駄ではなかった。また仔狼時代にリプリプと仔犬の迫害に苦しめられたことも無駄でなかった。昔そうでなかったら、いまは違ったものになっていたことであろう。リプリプがいなかったら、他の仔犬たちと一しょに仔狼時代をすごして、もっと犬らしくなり、もっと犬を好くようになっていただろう。もし灰色海狸が情と愛をはかる測鉛をもっていたら、ホワイト・ファングの本性の深淵を測量して、あらゆる種類の情深い性質を表面に出したかもしれない。しかしそういうわけにはいかなかった。ホワイト・ファングの粘土の型付けは終ってしまって、ついに今日のとおりの、気むずかしくて孤独で、愛情がなくて獰猛な、同族全体の敵となってしまっていた。 [#5字下げ]二 狂った神[#「二 狂った神」は中見出し]  わずかばかりの白人がユーコン交易市場に住んでいた。この人たちがこの地方にきてから永い年月が経っていた。自らサワ・ドウズ〔すっぱい生《なま》パン〕と呼び、そういうふうに自分らを分類することに大きな誇りをもち、この土地に新しく来た他の人たちに対しては、軽蔑を感ずるだけであった。船から上陸してくる人たちは新参者であった。その人たちはチーチャコーズ〔足の弱い連中〕という綽名をつけられ、その綽名でよびかけられるといつもしょげるのであった。その人たちはベイキング・パウダーをつかってパンをこしらえた。それがその人たちとサワ・ドウズとの間のいまいましい相違点であった、サワ・ドウズは、実のところ、ベイキング・パウダーがないので、すっぱい生パンでパンをこしらえていた。  そういうことはどうでもいいが、市場の人々は新参者を軽蔑し、不幸な目にあうのを見て楽しんだ。特にホワイト・ファングとその評判の悪い一味によって、新参者の犬の間にひきおこされる大破壊をたのしみにした。船が到着すると、市場の人々はいつも河岸へ出て、その遊戯を見ることにしていた。インディヤンの犬どもと同じ期待をかけてそれを待ちうけたが、人々はホワイト・ファングの演ずる兇猛な狡い役割を鑑賞することを忘れなかった。  しかしその中にも特別にこの遊戯を楽しみにする者がいた。その男は汽船の最初の汽笛の音をききつけるとすぐかけてやってきて、最後の格闘が終りホワイト・ファングと、犬群が退散すると、残念さに顔をくもらせて、のろのろと市場へ帰るのであった。時々、柔弱な南国の犬がぶっ倒れて、犬群の牙のもとに死の叫びをあげると、この男はもう自分を抑えきれなくなって、空中へ跳びあがり、喜んで叫ぶのであった。そしていつも鋭いものほしそうな眼つきをホワイト・ファングに向けていた。  この男は市場の他の人たちから「美男《ビューティ》」と呼ばれていた。誰もこの男の呼名を知らなくて、この地方では一般に「美男《ビューティ》スミス」という名前でとおっていた。ところがこの男はちっとも美男ではなかった。この綽名は反語だった。何にもまさって美しくなかった。自然がこの男に対してけちだった。まず小さな男で、貧弱な胴体の上にさらにもっと目立って貧弱な頭がのっけられていた。頭のてっぺんは針先になぞらえてもよかった。実際、子供の頃、仲間に美男とあだ名をつけられる前には「針頭《ピン・ヘッド》」と呼ばれていた。  頭は、てっぺんから後の方へ、くびのところまでそげていて、前の方も、遠慮なしにそげて、ひくい目立って広い前額に及んでいた。自然は、けちけちしていたことを後悔したみたいに、額をてはじめとして、顔の道具だてを気前よく広くしていた。眼が大きくて、両眼の間は眼を二つならべるだけの距離があった。顔は、ほかの部分とのつり合い上、とてつもなく大きかった。自然は、必要な面積を見つけだすために、途方もなく大きくつき出たあごを与えていた。あごは広くて大きくて、外と下に向ってつき出ていて、はては胸の上に尻をすえているように見えた。おそらく、ほそいくびが疲れて、そういう大きな重荷を適当に支えることができなくなったせいで、こういうことになったのであろう。  このあごが激しい決断力の印象を与えた。しかし何かが欠けていた。多分それは過剰のためであった。多分あごが大きすぎたのであろう。とにかくそれは見かけ倒しであった。ビューティ・スミスは、腰弱者のうちでも一番弱い、はなったらしの臆病者として遠方まで知られていた。この面相の仕上げとして、歯は大きくて黄色で、しかもほかの歯よりは大きい二枚の犬歯が、うすい唇の下から牙のようにあらわれていた。眼は黄色くて濁っていた。まるで自然が顔料をきらしてしまったので、もってた限りのチューブのかすをしぼりだしてまぜ合わせたように。髪毛も同様な具合で、まばらで生えかたにむらがあり、濁った汚い黄色で、頭の上にのぼったり、顔からふきだしたりして、風に吹かれてよりかたまった穀物のような姿で、思いがけぬところに茂みや束をなしていた。要するにビューティ・スミスは怪物であった、そしてその責めはどこかほかのところにあった。かれに責任はなかった。かれの粘土が形成の途中そういう形にされてしまっていたのである。かれは市場のほかの人たちのために、料理や皿洗いや、面倒な小仕事をしていた。人々はかれを軽蔑しはせず、むしろ、不恰好に型づくられた被造物を容赦するように、寛い人情でかれを容赦した。それにまた、人々はかれを恐れた、怒ったりして、卑怯にも背後から一発とか、コーヒーに毒を盛るとかいうようなことになるのを恐れた。しかし誰かが料理をしなくてはならなかった、そしてビューティ・スミスは、ほかにどういう欠点があろうとも、料理することができた。  この男がホワイト・ファングを見て、その恐ろしい手柄を喜び、これを手に入れたいと思っていた。最初からホワイト・ファングにちょっかいをかけていた。ホワイト・ファングははじめは無視していたが、のちには、そのちょっかいがずっとしつこくなると、毛を逆立て、歯をむきだして、後退りした。この男をきらい、この男の感じが悪かった。この男の悪性を感得し、さしのばした手と、よそおったやさしい言葉をおそれ、そういうことのためにこの男を憎んだ。  単純な動物にあっては、好いことと悪いことは単純に理解される。好いものは、安易と満足と苦痛の休止をもたらすすべてのものを代表する。だから好いものは好かれる。悪いものは、不快と脅威と怪我をはらんでいるあらゆるものを代表していて、それ故に憎まれる。ホワイト・ファングのビューティ・スミスに対する感じは悪かった。面妖にも、この男の畸型な体とねじけた精神からは、毒気のある沼地からたちのぼる靄のように、内部の不健康な毒気が放射していた。推理によってではなく、五感だけではなく、他の遠く所在のわからない感覚によって、ホワイト・ファングには、この男には禍の凶兆があり、危害をはらんでいる、したがって悪いものであるから、憎んだ方が賢い、という感じがおきてきた。  ビューティ・スミスが初めて訪れた時には、ホワイト・ファングは灰色海狸の幕舎にいた。まだ見えないうちから、はるかなかすかな足音をききつけると、ホワイト・ファングは来る人間がわかって毛を逆立てはじめた。とても快く寝ていたのだけれども、すばやくたちあがって、その男が到着すると、ほんとの狼の流儀ですりぬけて、幕舎の端へいった。どういうことを云っているのかわからなかったが、その男と灰色海狸が話しあっているのが見えた。その男が一度自分の方を指さしたので、ホワイト・ファングは、まるでその手が、そのとき五十尺もはなれてあるのではなくて、まさに自分に落ちかかっているみたいに、うなりかえした。その男はそれに対して笑った、それでホワイト・ファングはこっそりと避難の森へにげこみ、そっとすべるように地面を歩きながら、頭をめぐらして観察した。  灰色海狸はその犬を売ることを拒絶した。商売で金持ちになっていて、何もほしいものはなかった。その上ホワイト・ファングは貴重な動物で、今までもったうちで一番強い橇犬で、一番よい先犬だった。さらにまた、マッケンジー河とユーコン河のほとりにはこれほどの犬はほかにはなかった。格闘することができるし、他の犬を、人間が蚊を殺すほど容易に殺した。(ビューティ・スミスはそれを聞くと眼を輝かして、熱心な舌で薄い唇をなめた)いや、ホワイト・ファングはどんな値段ででも売るものではない。  しかしビューティ・スミスはインディヤンのくせを知っていた。たびたび灰色海狸の幕舎を訪れ、外套の下にはいつも瓶を一本かそこらかくしもっていた。ウィスキーの利き目の一つは、渇きをおぼえさせることであった。灰色海狸はその渇きにとりつかれた。熱をもった粘膜とやけた胃が、その焼けつく液体をますます多く要求してきた。その一方かれの頭脳は、なれぬ刺戟にすっかりねじまげられてしまって、それを得るためには、どんな手段でもとることを許した。毛皮と手袋と鹿皮靴を売って得た金はなくなりはじめた。それはますます速くなくなり、金袋がそれだけとぼしくなり、気がそれだけ短くなった。  ついには金も商品も好い気分もすっかりなくなった、何物も残らず、手許は渇きだけになった。この渇きというやつは大した財産で、しらふで呼吸をする度ごとに、ますます大きくなっていった。こうなったところでビューティ・スミスが再びホワイト・ファングを売ることについて談判をはじめた、しかしこの時には、代価はドルではなく瓶で仕払うという話であった、それで灰色海狸の耳はずっと熱心に聞いた。 「あんたがあの犬をつかまえたら、もっていってもいい」と最後に云った。  約束の瓶は手渡されたが、それは二日後のことであった。 「おまえがあの犬をつかまえろ」というのが、ビューティ・スミスの灰色海狸に与えた言葉であった。  ホワイト・ファングは或る晩そっと幕舎へはいりこんで、満足のといきをついて坐りこんだ。気がかりな白い神はそこにいなかった。数日間白い神の自分に手をかけたいという欲求の表示がますます執拗になってきていたので、ホワイト・ファングはそのあいだ幕舎を避けねばならなくなっていたのである。その執拗な手によってどういう禍がおきようとしているのかわからなかった。ただその手で何らかの禍がおきかけている、だから自分はその手のとどかないところにいるのが一番よいということだけがわかっていた。  ところが、ホワイト・ファングが横になるかならないうちに、灰色海狸がよろめいてやってきて、革紐をくびのまわりに結びつけた。一方の手ではその紐の端をにぎって、ホワイト・ファングのそばに坐り、もう一方の手には瓶をもっていた、そしてそれを時々顔の上にさかさまにして、ごくごくという音をたてた。  こういうことで一時間がすぎた、すると地面にふれる足の振動を先だてて人が近づいてきた。ホワイト・ファングが最初にそれをききつけ、それと知って毛を逆立てたが、灰色海狸はまだ馬鹿みたいにこっくりこっくりしていた。ホワイト・ファングは紐をそっと主人の手から抜きとろうとしたが、ゆるんでいた手がしっかりしまって、灰色海狸が眼をさました。  ビューティ・スミスが幕舎へ大またではいりこんで、ホワイト・ファングを見おろして立った。ホワイト・ファングは、鋭く手の動きを見まもりながら、その怖いものに向って低くうなった。一方の手が伸びて頭上へおりてきはじめた。低いうなりは激しく荒くなった。手はそろそろ下りつづけた、ホワイト・ファングはその下にうずくまり、敵意をこめてそれを見、そのうなり声はだんだん短くなって、呼吸が速くなるとともに、その絶頂に達した。突然に口をひらいて、蛇のように牙をつきだした。手はぐいとひっこみ、歯は空しく咬み合って、鋭いかちという音をたてた。ビューティ・スミスはびっくりして[#「びっくりして」は底本では「びつくりして」]怒った。灰色海狸がホワイト・ファングの頭を横ざまに殴ったので、ホワイト・ファングはうやうやしく服従して地面にひくくちぢこまった。  ホワイト・ファングの疑う眼はあらゆる動きのあとを追った。ビューティ・スミスが出ていって丈夫な棍棒をもって戻ってきた。それから灰色海狸が革紐の端を手わたした。ビューティ・スミスが出かけた。革紐がぴんと張った。ホワイト・ファングはそれに抵抗した。灰色海狸が立たせて、ついて、ゆかせるために右と左から殴った。ホワイト・ファングは服従したが、突進して、自分を引っぱってゆこうとするよその人にぶつかっていった。ビューティ・スミスはとびさがらなかった。かれはそれを待ちかまえていたのだ。そして棍棒を激しくふるって、突進を中途で止め、ホワイト・ファングを地上にぶったおした。灰色海狸は笑って、こっくりして賛意を表した。ビューティ・スミスはまた革紐をひっぱり、ホワイト・ファングはそのあとからびっこをひき、くらくらしながら這うようにしてついていった。  再びとびかかるようなことはしなかった。棍棒で一度ひどくなぐられただけで、この白い神が棍棒の使いかたを知っていることを知るには充分であった、そしてホワイト・ファングは賢いので不可避のものと闘うことはしなかった。それでいやいやながらしっぽを肢の間に入れて、ビューティ・スミスのあとについていったが、それでもひそかに低くうなっていた。しかしビューティ・スミスは警戒の眼をくばり、棍棒をいつでもなぐられるように構えていた。  市場では、ビューティ・スミスはホワイト・ファングをしっかりつないでおいて床に就いた。ホワイト・ファングは一時間待ってから、革紐に歯をあてがい、十秒の後には放れていた。歯を使うのに時間を浪費しはしなかった。噛むことなんか無用だった。革紐は、ナイフで切ったようにすっぱりと、ななめに切れていた。ホワイト・ファングは市場を見あげて、同時に毛を逆立てて咆えた。それから向きをかえて、灰色海狸の幕舎へかけもどった。この見知らない恐ろしい神に忠誠を誓ったおぼえはなかった。灰色海狸には身をささげたのだから、自分はまだ灰色海狸のものだと考えていた。  しかし前におきたことが、また――すこし違ったふうに――くりかえされた。灰色海狸がまた革紐でしばりあげて、朝になってビューティ・スミスに手渡した。そこからここのところで前と違うことがはじまった。ビューティ・スミスが殴打をはじめた。ホワイト・ファングは、しっかりと縛られているので、ただいたずらに憤激して、罰に堪えるよりしかたがなかった。棍棒と鞭がつかわれて、生れてから初めての一番ひどい打撲を経験した。仔狼時代に灰色海狸からうけたひどい打撲も、これに較べればやさしいものであった。  ビューティ・スミスはこの仕事を楽しんだ。それを喜んだ。鞭か棍棒かをふりまわして、ホワイト・ファングの苦痛の叫びと、たよりない泣き声とうなり声に耳を傾けながら、小気味好さそうにこのいけにえをながめ、眼を鈍くもやしていた。それはビューティ・スミスが、臆病者は残忍である、という意味で残忍だったからである。かれは、人間の殴打或いは怒った言葉にはちぢみあがり、鼻声をだしながら、しかえしに自分より弱いものに復讐するのであった。すべて生命は力を好む、そしてビューティ・スミスはその例外ではなかった。自分と同類のものの間で力を現すことは禁じられているので、ひるがえって自分より劣った動物に向い、そこで内なる生命のうっぷんをはらした。しかしビューティ・スミスは自分で自分を創造したのではないから、責をかれに帰するわけにはいかない。かれはねじれた体と野獣の知性をもってこの世に出てきたのであった。それがかれの粘土であって、それはこの世界によって思いやりをもって型をあたえられたのではなかった。  ホワイト・ファングには自分が打たれる理由がわかった。灰色海狸が革紐をくびに結えて、その端をビューティ・スミスの手に渡したときに、ホワイト・ファングは、自分がビューティ・スミスについてゆくことが、自分の神の意志であるということを知った。またビューティ・スミスが自分を市場の外につないでおきっぱなしにしたとき、自分がいつまでもそこにいることがビューティ・スミスの意志であることを知った。だから両方の神の意志にそむいたことになって、その結果として罰を受けていたのである。過去において犬どもが持主を変えるのを見ていたし、逃げだした犬が今自分が打たれているように打たれているのも見ていた。ホワイト・ファングは賢かった、しかもその本性の中には智恵よりも大きないろいろな力があった。その力の一つは操守であった。灰色海狸を愛しているのではなかったが、しかも自分の意志と怒りに抗してまでも、灰色海狸に対して忠誠をまもった。そうせざるを得ないのであった。この忠誠はかれを形成している粘土の性質であった。それは特にかれらの同属の所有物である性質、かれの種を他のすべての種から分つ性質、狼と野生の犬が広っぱからやってきて、人間の伴侶となることを可能にする性質であった。  ホワイト・ファングは、打たれた後、また市場へひいてゆかれた。しかし今度はビューティ・スミスが棒でもって縛りつけておいた。神をすてることは容易でない、そしてホワイト・ファングの場合もそうであった、灰色海狸はかれの特別の神であった、それで、灰色海狸の意志にそむいて、ホワイト・ファングはまだ灰色海狸にしがみつき、灰色海狸を見すてようとはしなかった。灰色海狸はかれを裏切りふりすてたのだが、それは何の影響も与えなかった。ホワイト・ファングが身も心も灰色海狸にささげたのは理由のないことではなかった。ホワイト・ファングの方には何の隔意もなかったのだから、そのきずなは容易に断ち切られるべくもなかった。  そこで、夜のうちに、市場の人々が眠っている時に、ホワイト・ファングは自分をおさえている棒に歯をあてた。その木はよく枯れて乾いていた、そしてくびにあんまり近くくくりつけてあったので、なかなか歯をかけることができかねた、とてもひどく筋肉をはたらかし首をねじまげて、どうにかその木を歯の間にいれることに成功した、それもどうにか歯の間にいれただけのことである、それから数時間にわたるものすごい頑張りによって、ようようのことで棒をかみ切ることに成功した。これは犬がやろうとは思われぬことであった。前例のないことであった。しかしホワイト・ファングはそれをやってのけて、朝早く、棒の端をくびからぶらさげたまんま、市場からかけだしていった。  ホワイト・ファングは賢かったが、ただ賢いだけであったら、すでに二度も裏切った灰色海狸のところへ戻りはしなかったであろう。しかしそこにはかれの忠誠というものがあって、また戻ったのであるが、しかもまた三度裏切られた。またも灰色海狸に革紐でくびをくくられ、またもビューティ・スミスが受け取りにきた。そして今度はもっとひどく打たれた。  灰色海狸は、白人が鞭をふるっている間、ぼんやり見物していた。すこしも保護してやらなかった。もはや自分の犬ではないからであった。打撲がおわるとホワイト・ファングは気分が悪くなった。弱い南国の犬ならそれで死んだことだろうが、ホワイト・ファングは死ななかった。かれの生命の学校は他よりきびしかったが、かれは他よりきびしい素材でできていた。それに大きな活力をもっていた。生命をつかむねばりがあまりにも強かった。しかし非常に身体の具合が悪くて、最初は身をひきずることもできなかった、それでビューティ・スミスは三十分も待っていなくてはならなかった。それから、眼がくらみよろめきながら、ホワイト・ファングはビューティ・スミスのあとについて市場へもどった。  しかし今度は歯のたたぬ鎖でつながれた、そして急にとびだしたりして、つぼ釘を、それが打ちこんである木から引抜こうと努力したが無駄であった。数日後に、酔いもさめ破産した灰色海狸が、ポーキュパイン河をさかのぼってマッケンジー河へゆく長途の旅に出発した。ホワイト・ファングは、半分以上は狂っていて、しかも全部が野獣である男の所有物として、ユーコン河のほとりにとどまった。しかし、犬が狂気を意識したところで、何を知ることになろう? ホワイト・ファングにとっては、ビューティ・スミスは、恐るべきものであったにしても、やはり神であった。せいぜいのところ狂った神にすぎなかったが、ホワイト・ファングは狂気のことは何もしらなかった、ただこの新たな主人の意志に屈し、その気まぐれや幻想にも一々従わねばならぬ、ということだけを知っていた。 [#5字下げ]三 憎悪の支配[#「三 憎悪の支配」は中見出し]  狂った神の後見の下に、ホワイト・ファングは悪鬼になった。市場の裏手にある檻の中に鎖でつながれ、ここでもってビューティ・スミスが、さまざまなつまらない責苦でいじめて、じらして、狂乱させた。この男ははやくからホワイト・ファングが笑いに対して敏感なことを発見して、いたましくだましたあとで、きっと嘲笑することにきめた。この笑いは大声で、軽蔑をふくみ、同時にこの神はあざけるようにホワイト・ファングを指さした。そういう時にはホワイト・ファングは理性を失い、夢中になって怒っているうちにビューティ・スミスより余計に狂ってきた。  以前には、ホワイト・ファングはただ同族の敵、それも獰猛な敵であるだけのことであった。今ではあらゆるものの敵、そしていままでよりもっと兇暴な敵となった。それほどひどく責苦をうけたので、盲目的に、かすかな理性のひらめきもなく、憎悪するようになった。自分を縛っている鎖を憎み、檻の小割板の間からのぞきこむ人間を憎み、人間についてきて、自分でどうすることもできない自分に向って悪意をこめてうなる犬を憎んだ。自分をとじこめている檻の木までも憎んだ。そして、第一に、最後に、そして何にもまして、ビューティ・スミスを憎んだ。  しかしビューティ・スミスは、ホワイト・ファングに対してやるすべてのことに、一つの目的をもっていた。或る日数人の人間が檻のまわりに集まった。ビューティ・スミスが棍棒を手にもってはいってきて、ホワイト・ファングの首から鎖をはずした。主人が出てゆくと、ホワイト・ファングは放れて檻の中をかけまわり、そとの人間にとびつこうとした。目ざましいほど恐ろしい形相であった。身長は優に五尺はあり、肩の高さが二尺五寸はあり、同じくらいの大きさの狼よりずっと重かった。母親から犬の方の血を割合多くうけていたので、脂肪はなく、余分の肉は一オンスもないのに、九十ポンド以上の目方があった、全部が筋肉と骨と腱だけで――最も立派な条件をそなえた闘士型の肉体であった。  檻の戸がまた開けられていた。ホワイト・ファングはたちどまった。何か異常なことがおきかけていた。待っていると、戸がもっと広く開けられた。それから巨大な犬が中へおしこまれて、戸がぴしゃりと閉められた。ホワイト・ファングはこういう犬(それはマスティフであった)を見たことはなかったが、その侵入者の大きさと獰猛な面構えにはおびえなかった。こいつは木でもなく、鉄でもなく、憎悪をぶっつけるにはもってこいのものだ。ホワイト・ファングは牙をひらめかして跳びかかり、そのマスティフのくびの側面を咬み裂いた。マスティフは頭を振り、しわがれ声で咆えて、ホワイト・ファングに跳びかかった。しかしホワイト・ファングはあちらへ、こちらへ、またほかのところへと、しじゅう避けたりかわしたりして、跳びついては牙で咬みきり、またすばやく跳びのいてしかえしをまぬがれた。  外の人々が叫び、喝采した、するとビューティ・スミスは、喜びに有頂天になって、ホワイト・ファングの咬み裂き食うのを見て、にんまり笑っていた。最初からマスティフには望みがなかった。あまり体が重すぎて、のろすぎた。おしまいに、ビューティ・スミスが棍棒でホワイト・ファングを打ってさがらせ、その間にマスティフは持主にひきだされた。それから賭金が支払われ、ビューティ・スミスの手の中でちゃらちゃら音をたてた。  ホワイト・ファングは自分の檻のまわりに人が集まるのを熱心に待ちうけるようになった。それは格闘なのである、そしてこれが、自分の中にある生命を表現することを許す唯一の方法であった。責苦にあい、憎悪を激発させられながら、捕虜として監禁されているので、主人が時を見はからってほかの犬を自分にけしかける時以外には、その憎悪を満足させる方法はなかった。ビューティ・スミスがホワイト・ファングの力をよく評価していたので、ホワイト・ファングがいつもきまって勝った。或る日、三頭の犬がつづけさまにけしかけられた。また別の日には、荒野から捕まえてきたばかりの、成長しきった狼が、檻の戸口からおしこまれた。またもっと別の日に、二頭の犬が同時にさしむけられた。これはかれとしては一番ひどい格闘で、つまりは二頭とも殺しはしたが、自分もそのために半分死にかけた。  その年の秋、初雪が降って、河にどろどろの氷が流れていた時に、ビューティ・スミスはホワイト・ファングをつれてユーコン河をさかのぼってドースンヘ行く汽船に乗った。ホワイト・ファングはもうこの地方で評判をとっていた。「喧嘩狼」として広く知られていたので、汽船の甲板においてある檻はしじゅう珍しがる人々にとりまかれていた。ホワイト・ファングはその人たちに対して怒ってうなりかけたり、しずかに寝ていて、冷たい憎悪の眼でじっと見たりした。人々を憎んではならぬ理由があるか、そんなことを自ら問いはしなかったが、ただ憎悪を知っているだけで、その憎悪の激情に自分を忘れていた。生活が地獄のようになっていた。野生の動物は人間の手で密室に監禁されてがまんしているようにはつくられていなかった。しかも、まさにそのように取扱われているのであった。人々がじっと見つめ、格子の間から棒を突込んでうならせ、そうしておいて嘲笑した。  この人々が環境であって、それがホワイト・ファングの粘土を、自然がもくろんでいたよりは獰猛なものの形にしてしまった。それにも拘らず、自然がかれに適応性を与えていた。他の多くの動物だったら死ぬか元気を挫かれるかしたと思われる場合にも、ホワイト・ファングは適応して生きつづけ、しかも元気を損じはしなかった。魔王で拷問者であるビューティ・スミスならば、おそらくホワイト・ファングの元気を挫くことができたのだが、まだその成功する徴候はなかった。  ビューティ・スミスが身うちに悪魔をもっていたとすれば、ホワイト・ファングも別の悪魔をもっていた、そしてその二つの悪魔が不断にお互に対して怒っていた。以前にはホワイト・ファングは棍棒を手にした人間に対してはちぢこまって屈服する智恵をもっていたが、その智恵も今は抜け去っていた。ビューティ・スミスを見ただけでも夢中になって怒るのであった。そして近接戦になり、棍棒で打って撃退されると、ホワイト・ファングは咆えうなり牙をむきだしつづけた。最後の音をあげさせるということはできなかった。いくらひどく打たれても、きっとまた咆えた。そしてビューティ・スミスがあきらめてひきさがると、ホワイト・ファングは、そのあとから挑戦するようにうなるか、咆えるかして憎悪をあらわし、檻の格子にとびついたりした。  船がドースンに着くと、ホワイト・ファングは上陸した。しかしやはり檻に入れられて、公開の生活を送り、物見高い人々に取りまかれていた。「喧嘩狼」という見世物になり、人々は砂金で五十セント払って見物した。すこしの休息も与えられず、眠ろうと思って横になると、とがった棒でつつきおこされた――見物人がその金のあたいのものを得るように。その見世物を面白くするために、ホワイト・ファングはしじゅう怒らされていた。しかしそういうことよりもっと悪いのは、その生活の環境であった。ホワイト・ファングは野獣の中でも一番恐ろしいものだということになっていて、その考えが野獣檻の格子の間からかれにつたえられてきた。人々の言葉の一つ一つ、用心した行動の一つ一つが、かれに自分は恐ろしく獰猛だという印象をあたえた。それがそれだけ兇猛の焔に燃料を加えた。その結果はただ一つ、かれの兇猛が自らを食ってさらに激しくなった。それはからの粘土の適応性、即ち環境の圧迫によって型をつくられる能力、のもう一つの実例であった。  ホワイト・ファングは見世物にされるほかにまた、職業的闘獣であった。不規則な間をおいて、闘犬の手筈がつきしだいに、ホワイト・ファングは檻から出されて、町から数マイル離れた森の中へつれてゆかれた。それは通常夜におこなわれた。州の騎馬警官の干渉を避けるためであった。数時間待ってから夜明けになると、見物人と喧嘩相手の犬が到着した。こういうふうにしてホワイト・ファングはあらゆる大きさのあらゆる種類の犬と格闘することになった。所は野蛮な土地、人間は野蛮、そして格闘は通常死ぬまで行われた。  ホワイト・ファングはひきつづいて格闘したのだから、死んだのはほかの犬であったことは明らかである。ホワイト・ファングは決して負けることを知らなかった。リプリプや仔犬の大群と格闘した時の、若いころの鍛錬が大いに役にたった。ねばり強く地面に足をつけていた。いかな犬も足場をはずさせることはできなかった。或いはまっ正面から或いは不意に方向を変えて突貫してゆき、肩でぶつかり、ぶっ倒そうとするやりかたは、狼族の得意のやり口であった。マッケンジーの猟犬、エスキモー犬にラブラドー犬、ハスキーにメイルミュート――こういう犬が全部その手をつかって、全部失敗した。ホワイト・ファングが足場を失ったためしはなかった。人々はお互にそのことを話しあい、毎度こんどこそはと期待してみていた、しかしホワイト・ファングはいつも皆を失望させた。それからホワイト・ファングには電光のような敏捷さがあった。それが相手にたいするすばらしい優勢となった[#「なった」は底本では「なつた」]。犬どもがどういう格闘の経験をもっていたにしても、ホワイト・ファングほど敏速にうごく犬にであったことはなかった。それにまたその攻撃の端的なことを勘定にいれねばならなかった。普通の犬はうなったり毛を逆立てたりする予備行動になれていたので、格闘を始めないうちに、或いは驚きがおさまらないうちに、足をはらってぶっ倒され、やっつけられた。こういうことがあまり度々あったので、ほかの犬がその予備行動を終ってちゃんと用意ができるまで、はなはだしきは最初の攻撃をはじめるまで、ホワイト・ファングを抑えておくことが習慣になった。  しかしホワイト・ファングに都合のよいあらゆる強味のうちで、一番大きな強味はその経験であった。自分に刃向ってくるどの犬よりも多く格闘のことを知っていた。格闘した回数がはるかに多かったし、さまざまな技や方法に対抗する方法をよけいに知っていたし、独特の技をよけいにもっていた、しかもかれ独特の方法はもうそれ以上改良の余地がないほどであった。  時が経つにつれて、格闘する回数がだんだん減っていった。人々は対等のものを取組ませることをあきらめてしまった。そこでビューティ・スミスは狼を対抗させねばならなくなった。狼はこの目的でもってインディヤンに捕まえさせた、そしてホワイト・ファングと狼の格闘はいつも群衆をひきつけるにきまっていた。一度すっかり成長した、牝山猫がつかまった、そこで今度はホワイト・ファングは命がけで格闘した。山猫の敏捷なことはかれに匹敵した、山猫の獰猛なことはかれと等しかった。ホワイト・ファングが牙だけで闘っているのに、山猫は鋭い爪のついた肢までもつかって闘った。  しかしこの山猫との闘いの後、ホワイト・ファングの格闘はおしまいになった。格闘する相手の動物がもうなくなった――すくなくとも、格闘相手になる価値があると思われる動物がいなかった。それで春までは見世物になっていた、春になると伝助賭博師のティム・キーナンという男がこの土地へやってきた。それがクロンダイク河にはいりこんだ最初のブルドッグをつれてきた。この犬とホワイト・ファングが格闘することは避け難くなった、それで一週間というもの、予告された格闘の話が町の或る部分で会話の主題になっていた。 [#5字下げ]四 からみつく死神[#「四 からみつく死神」は中見出し]  ビューティ・スミスがくびの鎖を外して後しざった。  ホワイト・ファングも今度だけは端的な攻撃はしなかった、じっとつっ立って、耳をつんと前へつきだし、警戒しながらも珍しがって、自分に対抗している見知らぬ動物をじっと見ていた。こんな犬は見たことがないのであった。ティム・キーナンが、小声で「かかれ!」と云いながら、そのブルドッグを前へおしだした。背がひくくて、ずんぐりした不恰好なその動物は、よちよちと競技場のまん中へすすみでた。たちどまってホワイト・ファングに向ってまたたきした。  群衆の中から叫び声があがった、「かかれ、チェロキー! やっつけろ、チェロキー! 食っちまえ!」  しかしチェロキーは格闘したがってはいないようであった。首をめぐらして、叫んだ人たちにむかってまたたきして、同時におとなしく切株のようなしっぽを振った。こわがっているのではなくて、ただ不精なのであった。その上に、眼の前に見ている犬と格闘させられるのだとは考えていないのであった。こういう種類の犬と格闘することには馴れていなかったので、本当の犬をつれてきてもらうのを待っていた。  ティム・キーナンが進み出て、チェロキーの上にかがみ、両手で肩の両側を撫で、毛を逆にこすって、ちょっと前へおし出すようにした。そうすることはそれだけの暗示になった。それにまた、それが怒らせる効果をもったとみえて、チェロキーは、のどの奥深いところで、ごく低くだが、うなりはじめた。そのうなりと人間の手の動きの間には律動の一致があった。のどのうなりは、前へ押す運動が絶頂に達するごとに高まり、やがて低くなって、次の押す運動が始まるとまた新たにはじまった。運動の一つ一つの終りがリズムの強音符であって、運動が突然に終るとうなり声がぐんぐんと高まった。  これはホワイト・ファングに影響を与えずにはおかなかった、首から肩にかけての毛が逆立ちはじめた、ティム・キーナンが最後の一押しを与えておいてまた後しざった、前へ押されたはずみが消えると、チェロキーはつづけて、こんどは自発的に、ガニまたの肢で速くかけて前進した。その時ホワイト・ファングが攻撃した。はっとして讃嘆する叫び声がおきた。犬というよりは猫のようにすばやくそれだけの距離を駈けていって跳びかかったのであった。そして同じく猫のような速さで、牙で咬みきっておいてまた跳びはなれていた。  ブルドッグは太い頸にうけた裂傷のために、片っ方の耳の後から血をたらしていた。彼は何の身振りもせず、うなりもしないで、ふりむいてホワイト・ファングの後を追っていった。この両方の様子、即ち一方の敏捷と相手の落着きが、群衆の党派心を刺戟していた、それで人々は新たに賭けをしたり、もとの賭け金をふやしたりした。再び、それからまた一度、ホワイト・ファングは跳びかかって、咬みきり、つかまらないうちに跳びのいた、それでもなお、この奇妙な敵は、たいして急ぎもしないで、のろくもなく、慎重にしかも決然として、まるで事務的に後を追っていった。この方法には目的があった――どうしてもしようと思い、何をもってもやめさせることのできない、しとげようとしていることがあった。そのあらゆる振舞、あらゆる行動に、この目的が刻まれていた。  ホワイト・ファングはそれにまどわされた。こんな犬を見たことはないのであった。保護する毛なんかなくて、柔らかくて、わけもなく出血する。ホワイト・ファングが同種のほかの犬にかみついたときしばしば歯をはねつけたような、厚いむしろのような毛皮はなかった。歯でかみつくたびに歯は柔らかい肉にわけもなく深くつきささったが、犬の方では身を護ることができないようであった。もう一つ気になることは、その犬がいままで相手にした他の犬がきまって発したような、叫喚を決して発しないことであった。その犬は、咆えたり鼻を鳴らしたりはしないで、だまって懲罰を受け、しかも追及は決してゆるめなかった。  チェロキーはのろいのではなかった。相当速く向きをかえたりぐるぐるまわったりすることができたのだが、ホワイト・ファングがもうそこにいなくなっていた。チェロキーの方でもとまどっていた。こんなに追いつめることのできない犬と格闘したことはないのであった。いつでも双方から肉迫したがるものであった。ところがこの犬ときては、いつもある距離だけ離れていて、踊りまわって、あちらへこちらへ、四方八方へ身をかわすのであった。しかも自分に咬みつくと、くらいついてはいないで、たちまち放してまたとびのくのであった。  しかしホワイト・ファングはのどの下側の柔らかいところにかみつくことができなかった。ブルドッグはあまり丈が低くすぎて、しかもどっしりと大きなあごが防衛の足しになっていた。ホワイト・ファングはとびかかって、微傷も負わないで飛びのいたが、チェロキーの傷はふえた。くびと頭の両側が引き裂かれ咬み切られた。たらたら血を流していたが、困ったような様子はすこしも見せなかった。とぼとぼ歩きの追求は継続した。ただ一度、ちょっとたじろいで、ぴたりと止まって見ている人達にむかってまたたきして、同時に自分の闘志の表現として切株のようなしっぽを振った。  その瞬間にホワィト・ファングがとびついてとびのき、そのついでにちょんぎれた方の耳の残りをかみきった。チョロキーはかすかに怒りを表して、再び追求をはじめ、ホワイト・ファングがまわっている円形の内側を走って、ホワイト・ファングののどに噛みついて命をとろうとした。ブルドッグが間一髪で狙いをあやまり、ホワイト・ファングがぱっと反対の方角へ跳んで危険を脱すると、賞讃の叫びがあがった。  時が経った。ホワイト・ファングはまだ踊りつづけ、身をかわし、後戻りし、跳びついたりはなれたりして、しきりに損傷を与えていた。しかもブルドッグは、依然として物凄く落着いてあとを追っていた。早かれ遅かれ目的をとげ、咬みついて格闘に結末をつけるつもりであった。それまでは、相手が自分に加え得るあらゆる懲罰を甘受するのであった。両の耳たぶがふさのようになり、くびと肩は二十ヵ所も咬みきられ、唇すら切られて血が流れていた――それがみんな予想することも防ぐこともできない、例の電光石火の咬みつきのためであった。  ホワイト・ファングは時々チェロキーを突きころばそうとしたが、両者の背丈の高さの差が大きすぎた。チェロキーはあまりにも地面に近くしゃがんだ姿勢をとっていた。ホワイト・ファングはその手を使いすぎた。す速く後戻り、逆にまわっているうちに好機がきたのであった。チェロキーがずっとのろくまわりながら頭をわきへ向けたところをつかまえた。肩がむきだしになったので、ホワイト・ファングがそれに跳びかかったのだが、自分の肩ははるか高いところにあった、そこでひどい力でぶつかっていくと、そのはずみで相手の体を越えて向うへとんでいった。ホワイト・ファングがその格闘経験において初めて足場を失うのを、人々は見た。ホワイト・ファングの体は空中で半分とんぼがえりしたが、もしまだ空中にいるうちに、猫みたいに、地面に肢からさきに落ちるように骨折って、体をひねらなかったならば、仰向けに地面へ落ちたことだろう。体をひねったので、脇腹をひどくぶっつけた。次の瞬間にはたちあがったが、その瞬間にチェロキーの歯がのどにかみついた。  それはあまり低くて胸に近かったので、好い咬みつき方ではなかったが、チェロキーは喰いさがった。ホワイト・ファングは跳びあがり、やみくもに振りまわして、ブルドッグの体を振りはなそうとした。この、喰いさがってひっぱる重いもののために狂おしくなった。それが運動を束縛し、自由を制限した。それはわなみたいなもので、かれの全本能がそれに憤慨し、それに反抗した。それは熱狂した反抗であった。数分間はどうみたって気が狂っていた。身うちにある根本の生命がかれを支配した。体の生存意慾が身うちにみなぎった。この単なる肉体の生命愛が支配して、知性はすっかりなくなった。頭脳がまるでないみたいだった。生存し動き、万事を賭しても動き、動きつづけたいという肉体の盲目的な熱望に、理性は席をとられた、それは運動がその生存の表現だからである。  ホワイト・ファングはしきりに歩きまわり、ぐるぐるまわったり、あとがえりして逆にまわったり、のどにぶらさがっている五十ポンドの重いものを振り放そうとした。ブルドッグはただ咬みついたのをはなさないでいるだけだった。時々、そしてまれに、どうにかして肢を地につけ、一瞬間でもホワイト・ファングにむしゃぶりつくこともあった。しかし次の瞬間には足場を失って、ホワイト・ファングの狂気の旋回にひっぱられてぐるぐるまわりしていた。チェロキーは自分の本能を体現していた。くらいさがっているのは正しいことだということを知っていた、そこで満足の幸福な痛快味をいくぶん味わった。そういう瞬間には、眼をつむって、そのために怪我がおころうと構わない気で、体があちらこちらへぶらぶら振りまわせるままに委せた。怪我は構わない。咬みついていることが当面の問題であった、それで咬みついて放さなかった。  ホワイト・ファングは疲れきった時にだけ休んだ。何をすることもできなかったし、第一何のことだかわからなかった。あらゆる格闘を通じて、こんなことがおきたことはなかった。今まで格闘した相手の犬はこういうふうに格闘しはしなかった。咬みついて噛みきってははなれ、咬みついて噛みきってははなれするのであった。ホワイト・ファングはすこし脇腹をつけて横になり、あえぎながら呼吸した。チェロキーは相変らず噛みついていて、ホワイト・ファングに迫って、すっかり横倒しにしようとした。ホワイト・ファングは抵抗した。そして犬のあごが咬みつきを移動させ、ちょっとゆるめてはまたしめて、咀嚼する動作をしているのを感じた。咬みかたをかえるごとにそれはだんだんとのどの方へ近づいた。ブルドッグのやりかたは、咬みついたところにくらいついておいて、好機があれば更に深く食いこむというやりかたであった。ホワイト・ファングがじっとしていれば都合がよかった。ホワイト・ファングがもがけば、チェロキーはくらいついているだけで満足した。チェロキーの頸の後ろのふくれているところだけが、ホワイト・ファングの歯がとどくことのできる唯一の部分であった。肩から頸になっている根もとのあたりをくわえたけれども、咀嚼戦法を知らなかったし、あごがそれに適当していなかった。発作的に牙でもって一箇所を咬みきり引き裂いた。それから二匹の位置がかわって、ホワイト・ファングはわきを向いた。ブルドッグは何とかかんとかしてホワイト・ファングを仰向けにし、まだのどにくらいついていたので、上にのっかることになった。ホワイト・ファングは、猫のように、下半身を弓のようにまげて、上にのっている敵の腹に肢をふかくさし入れ、爪でひっかいて長い裂傷を負わせ始めた。チェロキーは、もし咬みついたまますばやく※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]転して、体をホワイト・ファングの体からはなして、それと直角にならなかったならば、腹わたを掻き出されていたかもしれなかった。  その咬みつきをのがれるすべはなかった。それは運命そのもののようで、運命のようにのがれようがなかった。それは徐々に頸静脈に沿って移動してきた。ホワイト・ファングを死から救ったものは、頸のだぶだぶの皮とそれを被っている厚い毛だけであった。だぶだぶの皮がチェロキーの口の中で大きな巻物になり、その毛が殆ど歯をはねつけた。しかし好機がくることにすこしずつすこしずつ、その皮と毛をだんだんよけいに口に入れた。その結果は徐々にホワイト・ファングののどをしめることになった。ホワイト・ファングの呼吸は瞬間瞬間がすぎ去るにつれてだんだん困難になってきた。  戦は終ったように見えはじめた。チェロキーの後援者たちは大喜びして、おかしなほど沢山な賭金をだした。ホワイト・ファングの後援者たちはそれに相応して悲観し、十対一や二十対一の賭けは拒絶した、しかし五十対一の賭けをきめるほど無茶なものが一人いた。その男はビューティ・スミスであって、競技場の中に一歩ふみこんで、ホワイト・ファングにむけて指さした。そして嘲けるように軽蔑するように笑いだした。それが望みどおりの効果をおさめた。ホワイト・ファングが、怒りで逆上し、残っていた限りの力を呼びあつめてたちあがった。五十ポンドの重さの敵があくまでものどにぶらさがったまま、競技場内をぐるぐるまわっていると、怒りは恐慌に移っていった。根本の生命が再び全身を支配し、知性は生きんとする肉体の意志の前にとび去った。ぐるぐるまわってはまたあともどり、つまずいて倒れてはまたおきあがり、時には後脚でたちあがって、敵を空中にきれいにもちあげまでして、そのまつわりつく死神を振りおとそうと骨折ったが無駄であった。  ついに疲れはてて倒れ、仰向けにころがった、するとブルドッグはさっそく咬みつきを移動させ、ますますひどくくいこみ、毛につつまれた肉をますます多くかみきり、ますますひどくのどをしめあげた。勝利者にたいする喝采の叫びがあがり、多くのものが叫んだ、「チェロキー!」「チェロキー!」それに対してチェロキーはちょん切れたようなしっぽをはげしく振って応答した。しかしその賞讃のさわぎにも気をちらさなかった。しっぽと大きなあごとの間に同感的な関係はすこしもなかった。しっぽは振っても、あごはホワイト・ファングののどに必死にくらいついていた。  この時に見物人の気をそらすことが起きた。鈴の音がきこえた。犬橇旅行者たちの叫び声がきこえた。ビューティ・スミス以外の者はみな、警官のおそれが強く、不安な顔つきをした。しかし、二人の男が、雪原道を向うへではなくこちらにむかって、犬橇を走らせてやってくるのが見えた。明らかに有望な旅を終って川を下ってきたらしかった。群衆を見つけると、その興奮の原因を見たくなって、二人は犬をとめ、やってきた群衆に加わった。犬橇の馭者は口ひげをはやしていた、しかしもう一人の丈が高くて若い男はきれいに顔をそっていて、皮膚は血のめぐりと、冷たい空気の中を走ったためにバラ色をしていた。  ホワイト・ファングは実際上あがくことをやめていた。時折発作的に抵抗したが、無駄であった。空気をすこししか吸うことができず、そのすこしが、ますます締めつけてくる無慈悲な咬みつきのためにますます少くなってきた。毛皮のよろいがあったにしても、もし最初にブルドッグが咬みついたところが、実際上胸だといってよいくらい低いところでなかったとすれば、のどの大きな血管はずっと前に噛みやぶられていたことであろう。チェロキーがその咬みつきを上へ移動させるには長い時間がかかったし、それがまた毛と皮のしわをよけい口におしこめることになるのであった。  そのうちにビューティ・スミスの身うちにある底しれぬ野獣性が頭にのぼってきて、かれがもっていた限りの僅かな正気を征服してしまった。ホワイト・ファングの眼が光を失いはじめると、喧嘩は負けたことに疑いはないということを知った。そこでとびだしていって、ホワイト・ファングにとびかかり、猛烈に蹴りはじめた。群衆の間にしッしッという声と抗議する叫び声がおきたが、それだけのことであった。それがつづき、ビューティ・スミスがホワイト・ファングを蹴りつづけているうちに、群衆の間に動揺がおきた。さっき来た丈の高い若い男が力ずくで押し通り、遠慮会釈もなく人々を右へ左へ肩でこづいていた。競技場へ割りこんでくると、ビューティ・スミスがちょうどもう一蹴りしようとしていた。体の重みが全部片足にかかって、不安定な均衡の状態にあった。その瞬間に新しく来た人のこぶしがかれの顔にまっこうから一撃をくらわした。ビューティ・スミスのもう一方の足が地面をはなれ、体全体が宙に浮いたように見えて、仰向けにひっくりかえり、雪の上に倒れた。新来者は群衆の方に向いた。 「卑怯なやつらだ!」とかれは叫んだ、「けだものだ!」  その男は自分流に怒っていた――正気の怒りであった。群衆に向ってひらめいた灰色の眼は金属的で綱鉄のように見えた。ビューティ・スミスはたちあがって、鼻をひくひくさせておずおずと近寄ってきた。新来者にはその意味がわからなかった。相手がひどく卑屈な臆病者なことを知らず、格闘するつもりで戻ってきたものだと思った。それで、「このけだもの!」と云って、もう一度ビューティ・スミスの顔をなぐって後へ打っ倒した。ビューティ・スミスは雪が自分にとって一番安全な場所だときめて、倒れたところにねたまま、おきあがろうともしなかった。 「おい、マット、手を貸せ」と新来者は、自分について競技場へはいってきていた犬橇の馭者によびかけた。  二人とも犬の上に屈んだ。マットがホワイト・ファングをつかまえ、チェロキーのあごがゆるんだらひっぱる用意をした。若い方の男はブルドッグの両あごを両手でつかんでおしひろげようとした。それは無駄な企てであった。あっちへ引きこっちへ引き、ねじまげたりしながら、しじゅう呼吸を爆発させて、「畜生ども!」と叫んでいた。  群衆はさわぎ始めた、そして競技をだめにすることに対して抗議するものも出てきたが、新来者がちょっと仕事をやめて頭をあげ、みんなをじろりと見ると、だまりこんだ。 「罰あたりの畜生ども!」と最後に爆発するように云って、また仕事にとりかかった。 「これじゃ駄目ですよ、スコットさん、そういうやりかたじゃ口を開けられやしません」とマットがついに云った。  二人は中止して、からまり合った犬どもをながめた。 「大して出血してやしません」とマットが説明した、「まだすっかりくいこんではいませんよ」 「しかしいまにも食いこむよ」とスコットが答えた、「ほら、あれを見たかい! 咬み場所をすこし移動させたよ」  若い方の男はますます興奮し、ホワイト・ファングを思う不安がつのってきた。かれはチェロキーの頭のあたりを何度も何度もはげしく打った。しかしそれでもあごをゆるめなかった。チェロキーはちょん切れたようなしっぽを振って、その殴られた意義はわかったが、自分がやっていることは正しいのであって、咬みついているのはただ義務を果しているだけのことだ、ということをしめした。 「だれか加勢しないか?」とスコットは絶望的に群衆に向って云った。  しかし加勢を申し出るものはなかった。反対に、群衆はひやかしに激励しはじめ、ふざけた忠言を注ぎかけた。 「てこをもってこなきゃなりますまい」とマットが忠告した。  相手は腰の拳銃袋に手をやって、拳銃をぬきだして、その銃口をブルドッグのあごの間におしこもうとした。押した上にもきつく押しまくると、やがて、綱鉄がかみしめた歯にぶつかる音がはっきりきこえた。二人は膝を地につけて、犬どもの上に屈んでいた。ティム・キーナンが大またで競技場の中へはいっていった。そしてスコットのそばでたちどまって、肩に手をふれながら、無気味に云った。 「見知らない人、その歯を折るんじゃないよ」 「それじゃ頸を折ってやる」とスコットは、拳銃の銃口を押しこみ割りこませる動作をつづけながら云った。 「おれはその歯を折るなと云ったんだ」と伝助賭博師はもとよりもっと無気味に云った。  しかしそれはこけおどしのつもりであったにしても、ちっとも利かなかった。スコットはその努力をすこしもやめず、ただ冷然と見あげて云った、 「お前の犬か?」  伝助賭博師は何かぶつぶつ云った。 「それじゃここへ来て、この口をあけさせろ」 「だって、お前さん」と相手はいらいらしながら云った、「おれは云っておきたいんだが、これは何もおれが仕組んだことじゃないんでね。おれにはそいつをどう扱っていいかわからないよ」 「それじゃどいてくれ」と答えた、「そしてじゃましないてくれ。僕は忙しいんだ」  ティム・キーナンはそばに立ったままだったが、スコットはもはやその存在を気にしなかった。一方側のあごの間には銃口をおしこむことに成功していた。そしてそれを反対側のあごの間にもおしこもうとしていた。それがうまくいくと、やんわりと用心深くこじあけ、一度にすこしずつあごをゆるめた、その間マットは、やはり一度にすこしずつホワイト・ファングの噛まれたくびをひきはなした。 「お前の犬を受け取る用意をしていろ」とスコットが厳然とチェロキーの持主に命令した。  伝助賭博師はおとなしくしゃがんで、チェロキーをしっかりとつかまえた。 「そら!」とスコットが最後のてこ入れをしながら警告した。  犬どもはひきはなされ、ブルドッグはさかんにもがいた。 「あっちへつれて行け」とスコットが命令した、それでティム・キーナンはチェロキーを曳きずって群衆の中へもどった。  ホワイト・ファングは二、三度おきあがろうと無駄な努力をした。一度はたちあがったが肢があまりにも弱って支えきれず、しだいに力が抜けて、また雪の上にへたりこんだ。眼は半ば閉じて、生気がなかった。あごは開いて、その間から舌がつきでて、だらりとして力が抜けていた。どう見たってしめ殺された犬のようだった。マットがしらべてみた。 「まずだいたい参ってますね」とマットが報告した、「しかし呼吸はあたりまえですよ」  ビューティ・スミスはたちあがっていたが、ホワイト・ファングを見にやってきた。 「マット、立派な橇犬はいくらぐらいするかね?」とスコットがたずねた。  橇犬の馭者は、まだ膝をついてホワイト・ファングの上にかがんでいたが、しばらく勘定した。 「三百ドルです」とかれは答えた。 「ところでこいつのようにすっかり噛まれちゃったのはいくらぐらいだ?」とスコットが、ホワイト・ファングを足でさしながら云った。 「その半分」という橇犬馭者の判断であった。  スコットがビューティ・スミスの方を向いた。 「聞いたか、けだもの君! 僕は君から君の犬をもらうつもりだが、そして君にその代として百五十ドルあげるつもりだ」  スコットは財布をあけて、さっと算えて出した。  ビューティ・スミスは両手を後ろへやって、出されたかねに手を触れることを拒絶した。 「おれは売るんじゃない」とかれは云った。 「なに、大丈夫売るんだ」と相手は断言した、「僕が買うんだから、ほら金だよ。この犬は僕のものだ」  ビューティ・スミスは、まだ両手を後にまわしたまま、後退りはじめた。  スコットは殴るためにこぶしをふりあげながら、とびかかっていった。ビューティ・スミスは殴られることを予期してちぢまりこんだ。 「おれは権利をもってる」とかれは泣きそうになって云った。 「お前はその犬を所有する権利を失ってる」とスコットが云った、「この金を受け取るか、それとももう一度殴ってやろうか?」 「いいですよ」ビューティ・スミスは怖くてあわてて云った、「しかしその金は抗議つきで受け取ります」と言い足した。「その犬は金の成る木です。わたしゃとられて黙っているつもりはない。人間にゃ権利がありますからね」 「まったくだ」とスコットは金をわたしながら答えた。「人間には権利がある、しかしお前は人間じゃない。お前はけだものだ」 「ドースンヘ帰るまで待ってるがいい」とビューティ・スミスがおどかして云った、「訴えてやるから」 「ドースンヘ帰りついてから、口を開いてみろ、町から追いだしてやる。わかったな?」  ビューティ・スミスはつぶやきで答えた。 「わかったか?」と相手はだしぬけに激しくどなった。 「へえ」とビューティ・スミスはつぶやいて、しりごみした。 「へえ、だけか?」 「へえ、旦那」とビューティ・スミスはうなった。 「気をつけろ! そいつは咬むよ!」と誰かが叫んだ、すると馬鹿笑いの嵐がまきおこった。  スコットはかれに背を向けて、ホワイト・ファングの手当をしている犬橇馭者の加勢をしにいった。  人々のうちにはもう去りかけているものもあり、かたまって立って、見物しながら話をしているものもあった。ティム・キーナンはそのかたまりの一つに加わった。 「あの間抜け野郎は何だい?」とかれはたずねた。 「ウィードン・スコットさ」と誰かが答えた。 「そしてそのウィードン・スコットてのは一体何者だい?」と伝助賭博師がたずねた。 「うん、あの腕利きの鉱山専門家の一人だよ。偉いとこはみんな知合いなんだ。かかり合いになりたくなかったら、あの男には一さい手をつけないことだよ、云っとくがね。役人連中とはすっかりうまくやってるし、金山監督官は特別の仲良しだよ」 「相当なやつにちがいないと思ってた」と伝助賭博師は云った。「だからおれは最初からやつから手をひいてたんだ」 [#5字下げ]五 不屈なもの[#「五 不屈なもの」は中見出し] 「これは絶望だ」とウィードン・スコットが云った。  自分の丸太小屋の上り段に腰掛けて、犬橇馭者をじっと見た、馭者は肩をすぼめて同じく絶望だと答えた。  二人は一しょに、つながれた鎖をひきのばして、毛を逆立て、うなりながら、兇暴に橇犬にかみつこうと骨折っているホワイト・ファングを見た。橇犬どもは、マットから棍棒でなぐられてさんざん御説教をくらい、ホワイト・ファングには構いつけないことを学んでいた、それでもちょっと距離をおいてねそべり、ホワイト・ファングの存在を忘れているふりをしていた。 「こいつは狼だから、飼いならしようはないんだ」とウィードン・スコットが云った。 「いや、それはわかりませんよ」とマットが反対した、「何とでも云えましょうが、こいつには犬らしいところがうんとあるかもしれません。しかし、私がたしかに知っていることが一つあります、そしてそいつがどうもふり離せないのです」  犬橇馭者は話をやめて、自信ありげに鹿皮山《ムーズハイド》〔地名〕に向けてうなずいた。 「そうかね、お前の知ってることを云いおしみするなよ」とスコットが、適当な時間だけ待ってから、するどく云った。「云っちまえよ。それは何だい?」  犬橇馭者はおや指を後ろへつきだしてホワイト・ファングを指さした。 「狼でも犬でも同じことです――こいつはもう飼いならされてますよ」 「違う!」 「たしかにそうですよ、そして輓具にも馴らされてます。よく見てごらんなさい。胸に横についてる輓具のあとが眼にとまりましたか?」 「お前の云うのは本当だ、マット。ビューティ・スミスが手に入れるまでは橇犬だったんだ」 「ですからまた橇犬になれない理由はさしてありませんよ」 「何をお前は考えてるんだ?」とスコットが熱心にたずねた。それから希望が消えて、頭をふりながら云い足した、「僕らはこいつを手に入れてからもう二週間になる、しかも今も今とて元より荒くなるばかりだ」 「私に一つためさせて下さい」とマットが相談した。「ちょっとの間放してみて下さい」  相手は信じられない様子でかれを見た。 「そうです」とマットはつづけて云った、「あなたがやってごらんになったことは知ってます、しかしあなたは棍棒をおもちにならなかった」 「じゃお前がやってみるさ」  犬橇馭者は棍棒をもって、鎖につながれた動物のところへ行った。ホワイト・ファングは、檻に入れられたライオンが、獅子使いの笞を見守るのと同じふうに、その棍棒を見守った。 「ごらんなさい、棍棒に眼をそそいでますから」とマットが云った、「これは好い徴候です。これは馬鹿じゃありません。私が棍棒をもっている限りは私にかかってこようとはしません。すっかり気が狂ってるのじゃありません、たしかに」  その男の手がくびに近づくと、ホワイト・ファングは毛を逆立て、うなって、うずくまった。しかしその近づいてくる手を見ている間にも、もう一方の手の棍棒がおどかすように頭上にぶらさがっているのを見ていられるようにしていた。マットが首輪から鎖を外して後退った。  ホワイト・ファングは自分が放されたことをほとんど本当にすることができなかった。ビューティ・スミスの所有に帰してから何ヵ月もたっていた、そしてその期間中、他の犬と格闘するために放される時をのぞいては、一瞬間の自由も経験しなかった。そういう格闘のあとはいつも早速また閉じこめられるのであった。  ホワイト・ファングはその自由をどうしたらよいかわからなかった。たぶん神々の何か新たな悪戯がしかけられているのであろう。いつ攻撃されてもよい用心をして、ゆるゆる警戒して歩いた。とにかく何をしたらよいかわからなかった。それほど何もかも前例のないことであった。見張っている二人の神からは文句なしに離れているようにして、用心しいしい小屋の角へ歩いて行った。何ごともおきなかった。てもなくまごついて、またまいもどってきて、十尺ばかりはなれてたちどまり、二人を一心にながめた。 「逃げないかな?」と新しい持主がたずねた。  マットは肩をすぼめた。「ばくちをやってみなきゃなりません。見きわめる唯一の道は見きわめることですから」 「かわいそうに」とスコットがあわれんでつぶやいた、「こいつのほしいのは、人間の親切をすこしでもみせてもらうことだよ」と云い足しておいて、向きをかえて小屋の中へはいっていった。  肉を一きれもちだして、ホワイト・ファングになげてやった。ホワイト・ファングはそれから跳びのいて、うさんくさそうに遠くからそれをながめた。 「おいこら、メイジャ!」とマットが警告して叫んだ、しかしおそすぎた。  メイジャがその肉めがけてとびかかっていた。メイジャがそれをくわえた瞬間に、ホワイト・ファングが打ちかかった。メイジャはぶっ倒された。マットが突進していったが、ホワイト・ファングの方が速かった。メイジャはたちあがりはしたが、のどからふきだす血が雪を赤く染めて、だんだん広がっていった。 「ひどすぎるが、当然の報いだな」とスコットがせきこんで云った。  しかしマットの足はすでにホワイト・ファングを蹴る途中であった。一跳び、歯のひらめき、鋭い叫び声。ホワイト・ファングは恐ろしくうなりながら、数メートル後退りした、マットの方ではかがんで脚をしらべてみた。 「みごとにやりやがった」とマットは、破れたズボンと下着と、だんだん大きくなる血のしみを指さして云った。 「絶望だと云ったじゃないか、マット」とスコットが落胆した声で云った。「僕はそのことを、考えたくもないのに、いろいろ考えていた。しかしもうその時がきた。こうするよりほかはない」  そう云いながら、気のすすまない様子で拳銃を抜きだし、弾倉をぴんと開いて、内容をたしかめた。 「ちょっと、スコットさん」とマットが反対した、「あの犬は地獄をくぐってきたのです。出てきてすぐまっ白な輝く天使になってることを望むわけにはまいりませんや。時を与えてやって下さい」 「メイジャを見ろよ」と相手は答えた。  マットはやられた犬をよく見た。雪の上で自分の血の輪の中にくずおれて、明らかに最期のあえぎをしていた。 「当然の報いだ。あなたがそうおっしゃったでしょう、スコットさん。やつはホワイト・ファングの肉をとろうとして、殺されたのです。それはそうあるべきことでした。私は自分の肉をとられまいとして格闘しないような犬には、金輪際はなもひっかけませんよ」 「しかし自分を見ろよ、マット。犬どもならまあいいさ、しかしどこかに一線を劃さなきゃ」 「当然の報いです」とマットは抗弁した、「何のために私は蹴ろうとしたのですか? あなたさえあいつのしたことは正しいとおっしゃったでしょう。ですから私にあいつを蹴る権利はなかったのです」 「殺してやった方が慈悲だよ」とスコットは云いはった、「飼いならしはできないから」 「まあ待って下さい、スコットさん、この気の毒なやつに努力する機会を与えて下さい。まだ機会をもったことがないのです。たったいま地獄をぬけてきたばかりで、放してもらったのはこれが初めてです。公平な機会を与えてやって下さい、そしてもし約束を守らなかったら、私が殺してやります。さあ!」 「僕が殺したくも、殺させたくもないことは神ぞ知るさ」スコットは答えて、拳銃をしまった。 「やつを放しておいて、人間の親切のほどを見せてやろうよ。そこでこいつで一つためしてみよう」  スコットはホワイト・ファングの所へ歩いていって、やさしくなぐさめるように話しかけた。 「棍棒を手許に持っていられた方がいいですよ」とマットが警告した。  スコットは頭を振って、つづけてホワイト・ファングの信頼を得ることにつとめた。  ホワイト・ファングは疑いをもっていた。何かがさしせまっている。この神の犬を殺し、仲間の神を咬んだ、それでは何か恐ろしい処罰以外の何が期待されようか? しかしそれに直面しても屈しなかった。ホワイト・ファングは毛を逆立て歯をむき、眼を見張り、全身警戒して、何がきてもよいように準備した。その神は棍棒をもっていなかった、それでごく近くまで寄ってくるのをがまんした。神の手が出てきて頭上へおりてきた。ホワイト・ファングはちぢこまって、手の下にうずくまりながら緊張した。これは危険だ、何かの裏切りみたいなものだ。ホワイト・ファングは神々の手を、その証明ずみの支配力を、その損傷を与える狡智を知っていた。その上に、もとから触られることがいやであった、なお一そう脅かすようにうなり、ますます低くうずくまったが、手はまだ下ってきた。その手を咬みたくなかった、それでその危険を忍耐したが、ついには本能が身うちに浪だってきて、その満たされない生命への欲求に支配された。  ウィードン・スコットは、自分は咬みつきくらいなら敏捷に避けられると信じていた。しかしかれはホワイト・ファングのすばらしく敏捷なことをまだ知らなかった。ホワイト・ファングは正確にとぐろをまいた蛇のようにすばやく咬みついた。  スコットは驚いて鋭い叫び声をあげ、かまれた手をもう一方の手でつかまえてしっかりおさえた。マットが大きな声でどなって、そばへとんできた。ホワイト・ファングはうずくまって後退り、毛を逆立てて、牙をむきだし、眼は敵意をこめておどかすようにした。こんどはビューティ・スミスから受けた殴打よりひどい殴打を予期していた。 「これ! 何をしてるんだ?」とスコットが急に叫んだ。  マットは小屋へとびこんで、鉄砲をもってきていた。 「何でもありません」とマットは、見かけだけはなんでもない平気な調子でゆっくり云った、「私の約束を果そうとしているだけのことです。私が申しあげましたとおり、私がやつを殺す時がきたと思いますんで」 「いや、やっちゃいけない!」 「いえ、やります。見てて下さい」  マットが咬まれた時にホワイト・ファングの命乞いをしたように、こんどはウィードン・スコットが命乞いをする番だった。 「お前はかれに機会を与えると云ったね。そうだ、与えてやるのだ。はじめたばっかりのところだもの、初手でやめるわけにはいかないよ。僕が当然の報いをうけたよ、こんどは。そして――あいつを見ろ!」  ホワイト・ファングは、小屋の隅に近く四十尺もはなれていたが、血も凝結するような毒気をこめて、スコットに向ってではなく、マットに向ってうなっていた。 「では、私は永久に呪われることになりますね?」とマットがあきれかえって云った。 「あいつの頭のいいことを見ろ」とスコットはいそいで云いつづけた。「人間と同じくらいよく火器の意味を知ってるね。頭があるんだから、その頭に機会を与えなくちゃならん。鉄砲はしまうんだ」 「けっこうです、そうしますとも」とマットは同意して、鉄砲を薪の山にたてかけた。 「しかしあれを見てごらんなさい!」とマットが次の瞬間に叫んだ。  ホワイト・ファングが静まってうなることをやめていた。 「これは観察する価値がありますよ。見て下さい」  マットが鉄砲に手をのばした、すると同じ瞬間にホワイト・ファングがうなった。マットが鉄砲から離れると、ホワイト・ファングは開いた唇をしめて歯をかくした。 「こんどは、ほんの冗談です」  マットは鉄砲をとりあげて、そろそろと肩へあげていった。その動きと共にホワイト・ファングのうなりが始まり、その動きが頂点に達すると激しくなった。しかし鉄砲の狙いが自分につく一瞬前に、横っとびして小屋の隅のかげへかくれた。マットは立ったまま、ホワイト・ファングが占めていた雪の上の空間の景色を眺めわたした。  マットはいかめしく鉄砲をおろして、それから向きをかえて主人を見た。 「あなたの意見に賛成です、スコットさん。あの犬はかしこくて、とても殺せませんね」 [#5字下げ]六 愛の主人[#「六 愛の主人」は中見出し]  ホワイト・ファングは、ウィードン・スコットが近づくのを見ながら、毛を逆立ててうなり、自分は処罰に屈しないつもりだという気持ちをあらわした。今、ほうたいして、出血をとめるために吊ほうたいで吊ってあるかれの手を、咬み裂いてから二十四時間経っていた。ホワイト・ファングは過去において、ずっと長びいてから処罰された経験があった、だからそういう処罰がいまから加えられるのではないかと懸念した。そうでない筈があろうか? 自分から考えれば涜神というべき罪を犯し、神の、しかも肌の白い高級の神の、聖い肉に牙を深くつきさしたのである。当然のこととして、また神々との交わりの性質上、何か恐るべきことが待ちうけている。  その神は数尺離れて腰かけた。ホワイト・ファングはそれには何も危険なところを見とめることはできなかった。神々が罰を加える時には立っているものである。その上にこの神は棍棒も鞭も火器ももっていない。それにまた自分は自由である。鎖でも棒でもつながれていない。神がたちあがっているひまに安全なところへにげることができる。それまでは待って見ててやろう。  神は依然じっとしてすこしも動かない、そこでホワイト・ファングのうなりは徐々に低くなって、のどの中へしりぞき、やがてやんでしまった。それから神がものを云った。その声の最初のひびきをきくと、ホワイト・ファングのくびの毛が立ち、低いうなり声がのどからとびだしてきた。しかし神は敵対動作はすこしもせず、しずかに話しつづけた。ホワイト・ファングはしばらく神といっしょになって低くうなった、するとそのうなりと人の声の間にリズムの対応ができあがった。しかし神は果てしもなく話しつづけた。ホワイト・ファングがかつて聞いたことのないような話しぶりであった。おとなしいなぐさめるような話しかたで、一種のやさしさがこもっていて、それが何となく、どことなく、ホワイト・ファングを感動させた。われにもあらず、本能の警戒する刺戟にもかかわらず、ホワイト・ファングはこの神を信頼しはじめた。これまでの人間との関係で得た経験では説明のつかぬ安全感を感じた。  長い時間の後に、神はたちあがって小屋の中へはいった。神が出てきたときに、ホワイト・ファングは不安げにしらべて見た。笞も棍棒も何の武器ももたなかった。怪我していない方の手も何かをかくしもっているのではなかった。前と同じく、数尺はなれて、同じ場所に腰掛けた。肉の小さなきれをさしだした。ホワイト・ファングは耳をたてて、うさん臭そうにそれを観察し、その肉と神を同時に見られるようにして、眼に見えるあらゆる行動に対して警戒し、体を緊張させて、敵意が見えたらすぐに跳び去る用意をしていた。  処罰はまだ遅延した。神はただ一きれの肉を鼻に近くさしつけるだけであった。そしてその肉には何も具合の悪いところはないようであった。それでもホワイト・ファングはうたぐった、そしてその肉は手をちょっと誘うようにつきだしてすすめられたのだが、それにふれることを拒絶した。神々はどうしてどうして賢い、だから見たところ無害な一切れの肉の背後に、どんな巧妙な裏切りがかくれているかわかったものではない。過去の経験において、ことにインディヤンの女房たちとの交渉において、肉と処罰がしばしば災厄的な関係をもっていた。  ついに、神々はその肉をホワイト・ファングの足もとの雪の上になげだした。ホワイト・ファングは用心してその肉を嗅いだが、それを見はしなかった。それを嗅ぎながら、眼は神にそそいでいた。何ごともおきない。その肉を口に入れてのみ下した。それでも何事もおきない。神は実にもう一切れの肉をさしだしていた。ホワイト・ファングはこんどもそれを手からとることを拒絶した、するとそれがまたなげ与えられた。こういうことが何度もくりかえされた。しかし神がそれを投げ与えることを拒絶する時がきた。神はそれを手にもったまましきりにとれとすすめた。  その肉は好い肉で、ホワイト・ファングは空腹だった。底知れぬほど用心して、ちょっぴり、その手に近づいていった。ついにその肉を手からとって食おうと決心する時がきた。眼は決して神からはなさず、耳を後へぴったりとつけ、毛は無意識的に逆立ってくびのところで高まり、頭を前へつきだした。それにまた低いうなり声が、なぶりものにしたら承知しないぞと警告するように、のどのなかでなっていた。その肉を食べたが何ごともおきなかった。一切れまた一切れと肉をすっかり食べたが、何ごともおきなかった。処罰はまだ長びくのだ。  ホワイト・ファングはあごを舐めて待った。神は話し続けた。その声の中には親切がこもっていた――ホワイト・ファングがすこしも経験したことのなかったものが。そしてそれが身うちに、同じく今まで経験したことのなかった感惰をよびさました。何かの要求が満たされたような、自分の存在のある空所が充足されたような、何だか奇妙な満足をおぼえた。するとまた本能の刺戟と過去の経験の警告がやってきた。神々はいつでも狡い、そして推量のつかない目的達成法を知っている。そうら、考えてたとおりだ! そらやってきた、神の手が、狡く傷つけようとして、自分の方へつきだされ、頭上へおりてきた。しかし神は話しつづけている。その声はやわらかでなだめるようだ。手は脅威を感じさせるが、声は信頼させる力がある。そして声は安心させるが、手は不信をおこさせる。ホワイト・ファングは相争う感情と衝動に分裂させられた。きれぎれになって吹きとびそうに思われた、身うちで支配権を争っている相反する力を、いつにない不決断な態度で一つにしようとして、統制しようとする努力はそれほどひどいものであった。  ホワイト・ファングは妥協した。うなって毛を逆立てて、耳をぺたりとつけたが、咬みつきもせず、とんでにげもしなかった。手はおりてきて、だんだん近づいてきた。それは立った毛の端にふれた。かれはそれを感じてちぢみあがった。手は後をおっておりてきて、ますます体にせまってきた。しりごみし、殆どふるえるようにして、それでもまだどうにかもちこたえることができた。この体にふれて本能を犯す手、それは責苦であった。人間の手でしかけられたすべての禍を一朝にして忘れてしまうことはできない。しかしそれが神の意志であった、それでそれにしたがうように努力した。  手はあがってまたおりてきて、叩いたり撫でたりした。それが継続した。しかし手があがるたびに、毛が立った。そして手がおりてくるたびに、耳がぺたりとねて、うつろなうなり声がのどにわきあがってきた。ホワイト・ファングはしつこく警戒してうなりにうなった。その手段によって、自分はすこしでも傷をうけたら仕返しする用意ができている、ということを発表した。神の究極の動機がいつ明らかにされるかわかったものでなかった。いつそのやわらかな信頼を起こさせるような声が、急に爆発して怒りの怒号となるか、そのやさしい愛撫する手が万力のような握りに変って、他愛もなく自分をひっつかまえて罰を加えるかもしれなかった。  しかし神はやわらかに話しつづけ、手は依然としてあがったりさがったりして、敵意なく撫でるのであった。ホワイト・ファングは二重の感情を経験した。それは本能にとって不快であった。それはかれを抑制し、身の自由を求める意志にさからった。ところがそれは体には苦痛でなかった。それどころか、肉体的には愉快でさえあった。その撫でさする運動は徐々に気をつけて耳のつけねをこする運動に変ってゆき、肉体の快感はすこし増大さえした。これでもまだ危懼をつづけ、二つの感情が交互に先だって自分を支配するにしたがって、或いは苦しみ或いは楽しみながら、不測の禍いを予期して警戒につとめた。 「やあ、これはまたあきれた!」  小屋から出てきたマットがそう云った、そでをまくりあげて、汚れた皿洗い水をいれた鍋を手にもっていたが、ウィードン・スコットがホワイト・ファングを撫でているさまを見ると、鍋の水をあける手を止めた。  マットの声が静寂を破った瞬間に、ホワイト・ファングがとびさがって、マットに向ってものすごくうなりだした。  マットは悲しげな不賛成な態度で主人を見た。 「私の感じをぶちまけてもかまわないなら、スコットさん、遠慮なく言いますがね、あなたは十七とおりの大馬鹿三太郎ですぜ、そしてそれが全部いちいち違うやつで、しかも相当のもんですよ」  ウィードン・スコットは鷹揚に笑って、たちあがってホワイト・ファングに歩みよった。なだめるように話しかけたが、それもあまり長いことではなく、それからそろそろと片手をさしだして、ホワイト・ファングの頭にかけ、中絶していた撫でさすりをまた始めた。ホワイト・ファングは、その自分を撫でている人にではなく、戸口のところに立っている人に、うさんくさそうにじっと眼をつけたまま、それをがまんした。 「あなたはナンバーワンの、とびきり上等の鉱山専門家だかもしれません、それはそれでいいですよ」と犬橇馭者は託宣みたいに意見をのべた、「しかしあなたは子供の時に家出してサーカスに加わらなかったので、一生の好機をとりにがしなすったんだ」  ホワイト・ファングはその声のひびきをきいてうなったが、こんどは自分の頭とくびの後ろを、長くなだめるように撫でている手の下から跳びのきはしなかった。  それはホワイト・ファングにとって終りの初めであった――昔の生活と憎悪の支配の終りであった。そして新しい予想がつかないほど前より美しい生活が明けそめていた。これを完成するには、ウィードン・スコットの大した思考と無限の忍耐が必要であった。そしてホワイト・ファングの方ではそれこそ一つの革命が必要であった。本能と理性の刺戟と督促を無視し、経験に抗し、生命そのものと矛盾せねばならなかった。  生命は、それまで理解していたところでは、今自分が理解しているだけのものを容れる余地をもたなかったばかりでなく、すべての流れが今自分が身を委せた流れとは逆に流れていた。要するに、あらゆることを考慮に入れると、自発的に荒野から出てきて灰色海狸《グレイ・ビーヴァ》を主人と仰いだ時に達成した態度決定よりは、遙かに広大な態度決定をとげねばならなかった。あの頃はほんの仔狼で、できたてのほやほやで、定形はなく、環境の指がいつでも細工をしかけられるようになっていた。しかし今は事情がかわっていた。環境の指がその細工をとてもうまく仕上げていた。それによって定形を与えられ固められて、烈しく執念深く、愛想がなくて愛されない喧嘩狼[#「喧嘩狼」に傍点]になっていた。この変化を成就することは、存在の逆流に等しかった、しかもそれが青春の適応性がもはや自分のものでなくなっている時、体の繊維がすでにこわくなり節くれだっている時、そのたて糸とよこ糸がかれをあらくて破れない、堅固な織物にしあげてしまっている時、精神の表が鉄となり、すべての本能と基準が固まってしまって、固定した法則と警戒と嫌悪と欲求となってしまっている時、にであった。  しかもまた、この新しい態度決定において、まさにその環境の指がかれを圧したりつついたりして、すでに固くなっていたものを柔らかくし、それをもっと美しい形に改造したのである。ウィードン・スコットが実はその指であった。スコットがホワイト・ファングの本性の根元にまではいっていって、親切をもって、すでにしなびて殆ど死にかけていた生命の潜勢力に触れたのであった。そういう潜勢力の一つは愛[#「愛」に傍点]であった。愛が好み[#「好み」に傍点]にとって代り、それが後になっては神々との交わりにおいて痛切に感じた最高の感情であった。  しかしこの愛は一日にして成ったのではない。それは好み[#「好み」に傍点]で始まり、好みから徐々に発展してきた。ホワイト・ファングは、放れたままでいることを許されたけれども、この新たな神が好きなので、逃げてゆきはしなかった。この生活はたしかにビューティ・スミスの檻の中で暮した生活より好い生活であったし、何らかの神をもつことが必要であった。人間の支配はかれの本性に必要なものであった。人間への依存の封印が、荒野に背を向けて、予期の殴打を受けるために灰色海狸の足もとへはいよった、あの幼なかりし日に、かれの上におされたのであった。この封印は、あの飢饉が終り、灰色海狸の村落に再び魚があった時に、二度目に荒野から戻ってきた時、再びかれの上におされたのであって、消すことができなくなっていた。  そこで、ホワイト・ファングは神が必要であったし、ビューティ・スミスよりウィードン・スコットの方が好いと思ったので、居残ったのであった。忠誠のしるしとして、主人の財産の護衛の役を引受けることにした。橇犬どもが眠っている間に小屋のまわりをうろつき、初めて夜間この小屋へやってくる者は、ウィードン・スコットが救いにくるまで、棍棒でもってホワイト・ファングを近づけないように戦わねばならぬ、というようなことになった。しかしホワイト・ファングはやがて、盗人と正直な人と区別し、歩きぶり身ぶりの真価を鑑別することをおぼえた。足音高く、小屋の戸口へ直線に歩いてゆく人は、そのままにしておいた――しかし戸が開いてその人が主人の許しを得るまでは、油断なく見張っていた。しかしまわり道をしてそっと歩き、用心してのぞいてみたり、ものかげを求めたりする人間は――そういう人間は、ホワイト・ファングから直ちに判決を受け、だしぬけに、あわてて、威厳をなくして逃げていった。  ウィードン・スコットはホワイト・ファングの罪ほろぼし――というよりはむしろ、人間がホワイト・ファングに加えた罪過の罪ほろぼしの仕事を引受けていた。それは道義と良心の問題であった。虐待されたホワイト・ファングは人間が負った負債であって、それは支払わねばならぬ、とかれは思った。それでいつものやりかたをはなれて、この喧嘩狼に特別に親切をつくした。毎日きまってホワイト・ファングを愛撫し、しかも長時間それをやることにした。  ホワイト・ファングは最初は疑いをもち敵意を見せていたが、やがてこの寵愛を好むようになった。しかしどうしても抜けきれないことが一つ――うなりがあった。愛撫が始まる瞬間からそれが終るまで、どうしてもうなるのであつた。しかしそれは新たな調子の加わった一つのうなりであった。知らない人はこの調子を聞きとることはできなかった、そしてそういう知らない人にとっては、ホワイト・ファングのこのうなりは、神経を引き裂くような、血を凝結させるような、本原的な獰猛さを示すものであった。しかしホワイト・ファングののどは、仔狼時代の洞穴の中で最初の小さな怒りを発して以来、長年月を通じて兇猛な音をだしてきたために、筋があらくなってしまっていた、それで今となってそののどの音を和らげて、自分の感じているやさしい気持ちを表現することはできなかった。それにも拘らず、ウィードン・スコットの耳と感応力はなかなか敏感で、殆ど獰猛さにうち消されているこの新たな調子をききとることができた――この調子は極めてかすかな、満足の歌声に似たものであった、そしてスコット以外の何人もそれを聞きとることはできなかった。  日々が経つにつれて、好みから愛への進化が速度を加えた。ホワイト・ファング自身が、意識的には愛の何たるかを知らないながら、そのことに気がつきはじめた。それはかれの存在の中にある一つの空所――充たされることを切望する、飢えた、痛みあこがれる空所、として表れた。それは苦痛であり不安であった、そしてそれはこの新たな神の存在に触れることによってのみ和らげられた。そういう時には、愛は喜びであり、無茶な、鋭くぞくぞくさせるような満足であった。しかしその神から離れていると、苦痛の不安がもどってきて、身うちの空隙が頭をもたげて、その空虚感をもって圧しつけ、飢餓がたえまなく噛みに噛むのであった。  ホワイト・ファングは自己発見の過程にあった。年齢は成熟期に達し、獰猛な固い型がすでにできあがっていたにも拘らず、その本能が拡大されていた。身うちに異常な感情と常ならぬ衝動の芽生えがあった。古い行動の法典が変化していた。過去においては、安楽と苦痛の休止を好み、不快と苦痛を嫌い、それにしたがって行動を調整していたのだが、今となっては事情が変っていた。この内にある新しい感情のためには、たびたび、わが神のために不快と苦痛を選んだ。かくして、朝早く、ぶらぶら歩いたり食物あさりをしたりせず、屋根のある隅っこに寝もせず、何時間も面白くもない小屋の上り段にいて、神の顔のあらわれるのを待っていた。夜には、神が外から帰ってくると、ホワイト・ファングは、親しく指でたたいてもらい、あいさつの言葉をかけてもらうために、自分で雪の中に設けた暖かいねどこから出てゆくのであった。神と一しょにいるためには、神から愛撫をうけるためには、或いはおともして町へ行くためには、肉を、実に肉すらも断念するのであった。  好み[#「好み」に傍点]は愛[#「愛」に傍点]にとって代られていた。そして愛は、好みが決してはいりこんだことのない、かれの深淵におろされた測鉛であった。そしてその深淵から答えがあって、この新しいもの――愛が出てきていた。自分に与えられたものを返したのである。これはまことに神、愛の神、暖かいかがやかしい神であった、そしてその光にあたって、ホワイト・ファングの本性が、花が太陽のもとに開くように開いた。  しかしホワイト・ファングは感情を表にあらわさなかった。あまり年をとり、あまり固くかたまっていたので、新しい方法で自己を表現することがうまくはならなかった。あまりにも沈着で、あまりにも孤立状態にあって落着いていた。あまりにも長い間、無口と無関心と無愛想を養成していた。生れてからかつて吠えたことがなかったので、今となって神が近づいてきた時に歓迎して吠えることをおぼえるわけにはいかなかった。自分の愛を表現するのに、わざとらしいことはせず、仰々しいことも、馬鹿げたこともしなかった。神をお迎いにかけてゆくことは決してしないで、ある距離をおいて待っていたが、いつも待っていたし、いつもそこにいた。かれの愛は、口をきかず言葉にださぬ崇敬、沈黙の讃美、の性質をおびていた。ただ眼でじっと見ていることによって、また神のあらゆる動きを絶えず眼で追うことによって、その愛を表現した。それにまた、時々、神が自分を見、自分に話しかける時には、自己を表現しようとする愛とそれを表現することのできぬ肉体との争いによってひきおこされる、きまりの悪い自己意識を露呈するのであった。  ホワイト・ファングはさまざまにこの新しい生活様式に適応することをおぼえた。主人の犬どもはそっとしておかねばならぬということをきもに銘じた。それでもその主要な本性が自己を主張して、まず犬どもをやっつけて、自分の優越と指導権を認めさせた。それがすむと、犬どもとのいざこざは殆どなくなった。犬どもはかれが往ったり来たり、その間を歩きまわったりすると、道をゆずったし、かれが自分の意志を主張するとそれに従うのであった。  同様に、ホワイト・ファングはマットを――主人の所有物とし、容赦するようになった。主人は滅多に餌をくれず、マットが餌をくれた、それがマットの仕事であった、しかもホワイト・ファングは、自分が食べる食料は主人のものであって、こうして主人が間接に自分に食餌を与えるのである、ということをわきまえていた。マットがホワイト・ファングに輓具をつけ、他の犬と一しょに橇を曳かせようとしたが、失敗した。ウィードン・スコットがその輓具をホワイト・ファングにつけて、仕事をさせた時にはじめて、このわけを理解した。マットが主人の他の犬とすっかり同じように自分を馭し仕事をさせることが主人の意志であると解釈した。  マッケンジーのトボガンとは違って、クロンダイクの橇には下に滑子がついている。そして犬を馭する方法も違う。組犬を扇形にすることはない。犬はたてに一列に並んで、二本の輓索を曳くのである。そしてここ、クロンダイク地方では、先導犬は本当に先導犬である。一番強いと同時に一番賢い犬が先導犬になり、組犬は先導犬に従い先導犬を恐れる。ホワイト・ファングが早速この地位を得ることは避けられなかった。マットがずいぶん不都合なことや面倒なことを経験したのちに知ったように、ホワイト・ファングはそれでなければ満足しなかった。ホワイト・ファングは自分でその役をひきうけ、マットが実験をやってみた後では、強い言葉でその判断を支持した。しかし、ホワイト・ファングは、昼間橇で労役しておきながら、夜間主人の財産を護衛する仕事は放棄しなかった。こうしてホワイト・ファングは始終任務につき、不断に油断なく忠実で、すべての犬のうちで一番貴重な犬であった。 「私の考えてることを遠慮なく言いますとね」とマットが或る日云った、「あれだけの金をあの犬の代にお払いになったときは、あなたはまったく賢いお方でございました、と申しあげたいですよ。あなたのげんこつであの顔をぶんなぐっておいて、きれいに、美男[#「美男」に傍点]スミスからまきあげなすったものね」  ウィードン・スコットの灰色の眼に怒りが再発してきらめき、スコットがはげしくつぶやいた、 「畜生め!」  晩春になってホワイト・ファングにひどく困ったことがおきた。予告なしで愛の主人がいなくなった。予告はあったのだが、ホワイト・ファングはそういうことにはなれていなかったし、手提鞄を荷造りすることの意味がわからなかった。主人が見えなくなる前に荷造りがあったことを、あとになっておもいだしたが、その時には何ごともかぎつけなかった。その夜主人の帰りを待った。夜半に冷たい風が吹くので、小屋の後ろで風を除けた。そこでうたたねしたが、親しい足音がいまにもきこえるかと聴き耳をたてていたので、半ねむりしかしなかった。しかし朝の二時になると、不安のあまり寒い表の上り段まで出ていって、そこにうずくまって待っていた。  しかし主人は帰ってこなかった。朝になると戸が開いて、マットが出てきた。ホワイト・ファングはものほしげにマットを見た。ホワイト・ファングが自分の知りたいことを教わることのできる、共通の言葉はなかった。幾日も明けては暮れていったが、主人は帰ってこない。生れてから一度も病気にかかったことのないホワイト・ファングが病気になった。ひどく具合が悪くなった。あまりひどいので、マットはついに小屋の中へつれこまねばならなくなった。それにまた、マットは主人へ手紙をだす時に、追伸としてホワイト・ファングのことを一ぱい書いてだした。  ウィードン・スコットはサークル市に居て、その手紙を読み、次の文句にであった。 「あの狼野郎は仕事をしません。ものを食べません。元気がまったくなくなりました。犬どもがみんなでやっつけています。あなたの消息を知りたがっていますが、私にはどうして知らせてやったらいいかわかりません。たぶん死にかけているのでしょう」  マットの云うとおりであった。ホワイト・ファングはものを食うことをやめ、元気を失い、どの組犬にでもかみつかれるままにしていた。小屋の中でストーヴの近くの床の上にねて、食物にも、マットにも、生命にも無関心だった。マットがやさしく話しかけても、悪口雑言しても、同じことであった、鈍い眼をマットに向けて、それから顔をまた前肢の上のいつもの位置に戻すだけのことであった。  そのうちに、或る夜のこと、唇をもごもごうごかして、本を読んでいたマットが、ホワイト・ファングの低く鼻をならす音をきいてはっとした。一瞬の後に人の足音がきこえた。戸が開いて、ウィードン・スコットがはいってきた。人間二人は握手した。それからスコットが部屋の中を見まわした。 「狼はどこにいる?」とかれはたずねた。  そのとき見つかった。ストーヴの近くの今までねていたところに立っていたのだ。他の犬のやりかたにならって突進してくる、ということはしなかった。ただ立って、見守って、待っていた。 「こりゃああきれた!」とマットが叫んだ、「見て下さい、しっぽを振ってますよ!」  ウィードン・スコットは大またで部屋の半分を横切ってホワイト・ファングの方へ歩いてゆき、同時に名前を呼んだ。ホワイト・ファングは、大きく跳んでではないが、やはり急いでよってきた。きまりの悪さははらいのけてみたが、近づくにつれて、その眼が奇妙な表情をおびてきた。何かしら、伝え難い広大な感情が、眼の中に光のようにうかんできて、かがやきだした。 「あなたがお出かけになってからずっと、ああいうふうに私を見たことはないのですよ!」とマットが説明した。  ウィードン・スコットは聞いていなかった。しゃがみこんでホワイト・ファングに顔をつき合わせ、愛撫していた――耳のつけ根のところをこすってやり、くびから肩にかけてすうっと撫でおろしてやり、背すじを指でかるく叩いてやっていた。そしてホワイト・ファングはそれに応じてうなっていたが、そのうなり声の歌うような調子がいつもよりはっきりしていた。  しかしそれだけではなかった。身うちにあって、つねに浪立ち、自己表現につとめていた愛が、新しい表現様式を発見することに成功したとき、かれの喜びはいかばかりだったろう。だしぬけに顔をつきだし、主人の腕と胴体の間におしこんでいった。そしてそこで、耳以外のところは全部見えないようにすっぽりとかくして、もはやうなりもせず、ぐいぐいと押しつづけた。  人間二人はお互に見合わした。スコットの眼はかがやいていた。 「畜生!」とマットが畏怖した声で云った。  一瞬後には、われに返って言った、「私はいつも、この狼は犬ですと言い張ってました。ごらんなさいよ!」  愛の主人が帰ってくると、ホワイト・ファングの恢復が速くなった。一日二夜を小屋の中ですごすと、もう外へ出かけた。橇犬どもはその勇猛なことは忘れていて、病気で弱っていた最近のことだけをおぼえていた。それで小屋から出てくるのを見かけると、さっそく跳びかかった。 「得意な一あばれをやってこい」と戸口に立って見ていたマットが楽しげにつぶやいた、「やつをこらしめてやれ、狼! こらしめてやれ――それも、うんとだよ!」  ホワイト・ファングははげましてもらうには及ばなかった。愛の主人が帰ってきただけでたくさんだった。すばらしく不屈の生命が再び身うちにあふれていた。ホワイト・ファングは歓喜のために格闘し、自分が感じていて他の方法では云い表せない多くのことを、その格闘の中に表現した。その結果は一つしかあり得なかった。犬共は見苦しく敗退してばらばらになり、暗くなってからようやく、一匹また一匹とこそこそ戻ってきて、柔和に卑下してホワイト・ファングに忠誠の意を表した。  ホワイト・ファングは、鼻をこすりつけることをおぼえてからは、たびたびそれをやるようになった。それは最後の一語であった。それを越えてゆくことはできなかった。いつでも特に大事にしていた一つのものは頭であった。いつも頭にふれられることが嫌いであった。接触をさけたいという恐慌的な衝動をひきおこしたのは、かれのうちにある荒野であり、怪我とわなに対する危懼であった。頭は自由でなくてはならぬ、ということは本能の命令であった。それで今や愛の主人に対した場合、鼻をすりつけるということは、故意に身を絶望的無力の地位に置く行為であった。それは完全な信頼の表現であり、あたかも、「私はあなたの手中に身を投じます。私をあなたの意のままにして下さい」とでも云うような、絶対的屈従の表現であった。  帰ってきてから幾日も経たない或る夜、スコットとマットが、寝る前にクリベイジの一勝負をやっていた。「十五の二と、十五の四、合わせて六になる」とマットが点数を勘定していた、そのときに外で人の叫び声とうなる声がした。二人ははっとしてたちあがって、お互を見合わせた。 「狼が誰かをひっかきましたぜ」とマットが云った。  もの凄い恐怖と苦悶の悲鳴をきいて二人はいそいだ。 「あかりをもっといで!」とスコットが外へとびだしながら云った。  マットがランプをもってあとからついていった、そして二人がその明りで見ると、一人の男が雪の中に仰向けに倒れていた。両手をかさねて顔とのどにあてていた。そしてホワイト・ファングの歯から身を護ろうとしていたのである。そしてその必要はあった、ホワイト・ファングが怒りにもえて、意地悪くその一番の急所を狙っていたのだから、肩から組んだ手の手首にいたるまで、上衣の袖も、青い、フランネルのシャツも、下着もぼろぼろにかみ切られていて、その腕までもひどく噛みさかれ、血がふきだしていた。  こういうことを二人は一瞬にして見てとった。次の瞬間にはウィードン・スコットがホワイト・ファングののどをつかまえて、ひきはなしていた。ホワイト・ファングはもがいてうなったが、それ以上咬もうとはしなかった、そして主人からきつい言葉をかけられるとすぐにおとなしくなった。  マットがその男をたすけおこした。その男はたちあがると組んでいた手をおろした、するとビューティ・スミスの野獣的な顔があらわれた。マットは、燃えている火をつまみあげた人のような動作で、あわててその男をつきはなした。ビューティ・スミスはランプの光にまたたきして、あたりを見まわした。ホワイト・ファングを見ると恐怖の色がさっと顔にあらわれた。  同じ瞬間に、マットが雪の中におちている二つのものを見つけた。ランプをそれに近づけて、主人にわからせるように足指でそれを差し示した――鋼鉄製の犬鎖と太い棍棒であった。  ウィードン・スコットは理解してうなずいた。一語も言わなかった。マットはビューティ・スミスの肩に手をかけて、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ右させた。一語も言う必要はなかった。ビューティ・スミスはあるきだした。  その間愛の主人はホワイト・ファングを撫でて話しかけていた。 「お前を盗もうとしたのか、え? それでお前がそうはさせまいとしたんだね! そう、そう、やつは見当違いしたんだ、そうじゃないか?」 「十七人の悪魔につかまったとでも考えやがったにちがいない」といってマットはくすくす笑った。  まだ興奮して毛を逆立てていたホワイト・ファングは、うなりにうなり、毛は徐々にねてゆき、歌うような調子は間遠くかすかだったが、のどの中ではだんだん高くなっていた。 [#改ページ] [#1字下げ]第五部 馴らされたもの[#「第五部 馴らされたもの」は大見出し] [#5字下げ]一 長途[#「一 長途」は中見出し]  それは空にかかっていた。その具体的な証拠のまだないうちから、ホワイト・ファングはせまりくる災厄を感得した。ある変化がさしせまっているという感じが漠然とせまってきた。どうしてだか、なに故だかわからないが、神たち自身から、でき事がやってくるという感じを感得した。神たちの意図は、神たちにはわからないほど微妙に、この狼犬に見えすいた、狼犬は小屋の上り段につきまとっていて、小屋の中には決してはいらなかったけれども、神たちの頭の中に起きていることを知っていた。 「あれをみてごらんなさい!」と或る夜夕食の時にマットが叫んだ。  ウィードン・スコットは耳を傾けた。戸口から、たったいま聞こえるようになった、音に出さぬすすり泣きのような、低い心配そうな鼻声がきこえてきた。それから長くくんくんいう声がきこえた、ホワイト・ファングが、自分の神はまだ小屋の中にいるのであって、まだ不可思議な独り旅に出かけてはいない、ということをたしかめているのであった。 「狼のやつきっとあなたを慕ってるのですよ」 とマットが云った。  ウィードン・スコットは殆ど嘆願するような眼で相手を見やったが、それはその言葉とうらはらだった。 「狼をキャリフォールニャにつれていったんじゃ、一たいどうしたらいいというんだ?」とかれは云った。 「それは私が云うことですよ」とマットが答えた。「狼をキャリフォールニャにもっていって、一体どうなさるんです?」  しかしその言葉ではウィードン・スコットは満足しなかった。相手はあたりさわりのない判断をしているように思えた。 「白人の犬はこいつにかかっては見るかげもないだろうよ」とスコットは云いつづけた。「こいつは見つけしだいに殺しちまうよ。損害賠償訴訟で僕が破産しなくたって、当局がやつを僕からとりあげて、電気死刑にするだろうよ」 「わけもなく殺しますからね」マットが註釈を加えた。  ウィードン・スコットは疑わしげにマットを見た。 「そいつがどうもいけない」ときっぱり云った。 「そいつがどうもいけませんね!」とマットが同意していった、「それじゃ、特別のあいつの世話をする人間をお雇いにならなくちゃなりませんよね」  相手の疑念はしずまって、快くうなずいたそのあとの沈黙のうちに、戸口のところで例の低い、半ばむせび泣く鼻声がきこえ、それから長く、もの問いたげに鼻をひくひくさせる音がきこえた。 「あいつがひどくあなたのことを考えていることにまちがいはありません」とマットが云った。  相手は急に怒ってじろりと見た。「そんなことを云うのはよせ、おい! 僕は自分の心を知ってる、一番いいことも知ってる!」 「わたしゃあなたと同じ考えです、ただ……」 「ただ何だい?」とスコットがかみつくように云った。 「ただ……」とマットはおだやかに云いはじめたが、やがて気をかえて、高まってくる自分の怒りを云いあらわした、「まあ、そのことでそんなにかっとならなくともいいでしょう。あなたのやってることを見たら、どうもあなたは自分の心がわかってないと考えられますよ」  ウィードン・スコットはしばらくいろいろと考えて、それからずっとやさしく云った、「お前の云ったことは本当だ、マット、僕は自分の心がわからない、そしてそれが困りものなんだ」 「だって、僕があの犬を連れてゆくのは、ひどく馬鹿げたことだろう」としばらく間をおいて云った。 「そのとおりですね」とマットが答えた、するとまた主人はその言葉にあまり満足しなかった。 「しかし一体全体どうしてあいつがあなたのお出かけになることを知ってるか、そいつがわからない」とマットは無邪気に云った。 「それは僕にもわからないよ、マット」とスコットは、なやましく頭を振って云った。  それから、開いた小屋の戸口から、ホワイト・ファングが、床の上に致命的な手提鞄があり、愛の主人がそれにものをつめこんでいるのを見る日がきた。それにまた、人が往ったり来たりして、いつもはなごやかな小屋の雰囲気が異常な動揺と不安にかきみだされた。これこそまがいもない証拠であった。ホワイト・ファングはすでにそれをかぎつけていた。今はもうそれを推理した。自分の神がまた居なくなる準備をしている。そして、この前には自分を連れていかなかったのだから、今度もあとに残されることがわかる。  その夜ホワイト・ファングは長い狼の遠咆えをあげた。仔狼時代に、荒野から村落へにげ戻ってみると、村落は消えてしまっていて、灰色海狸の幕舎の敷地のしるしになる屑物の山以外には何もなかった時に、咆えたように、今度も鼻先を寒々とした星の方に向けて、自分の苦悩を訴えた。  小屋の中では二人が床に就いたばかりであった。 「あいつはまた食べものをとりませんよ」とマットが床の中から云った。  ウィードン・スコットの床からぶつぶついう声がきこえ、毛布が動いた。 「この前あなたがお出かけになった時のあいつの様子から考えてみると、今度は死んだって不思議じゃありませんよ」  相手の寝床の毛布がいらいらして動いた。 「おい、黙れ!」とスコットが暗い中で叫んだ。「お前は女よりうるさい」 「わたしゃあなたと同じ考えです」とマットは答えた、そしてウィードン・スコットには相手がくすくす笑ったのか笑わなかったのか、あまりはっきりしなかった。  次の日にはホワイト・ファングの心配と不安がなお一そうはっきり目に見えた。主人が小屋を出るときっとあとについてゆき、中にいる間は前の上り段につきまとった。開いた戸から床の上にある荷物が見えた。手提鞄は二つの大きなズックの袋や一つの箱と一しょにされていた。マットが主人の毛布と毛皮外套を小さな防水布にまきこんでいた。ホワイト・ファングはその作業を見ながら鼻をならした。  あとで二人のインディヤンがやってきた。ホワイト・ファングは、その二人が荷物をかつぎ、寝具と手提鞄をもったマットにつれられて、山をおりてゆくのをじっと見ていた。しかしそのあとについてはいかなかった。主人がまだ小屋の中にいた。しばらくしてマットが戻ってきた。主人が戸口ヘやってきて、ホワイト・ファングを中へよびこんだ。 「かわいそうに」とやさしく云いながら、耳をこすり、背すじをたたいた。「おれは長い旅に出るんだよ、おい、お前がついていけない遠くへな。さあ一つうなってくれ――最後の、うまい、さよならの一うなりを」  しかしホワイト・ファングはうならなかった。うなりはしないで、ものほしげな、ものをさがすような顔をして、鼻をすりよせてゆき、主人の腕と胴の間に顔をすっぽりとおしこんでしまった。 「汽笛がなってます!」とマットが叫んだ。ユーコン河から河蒸汽船のしわがれた汽笛の音がきこえてきた。「それは簡単にきりあげていただかなくちゃ。表の戸はまちがいなく鍵をかけて下さい。私は裏の戸口から出ます。さあいって下さい!」  二つの戸口は同じ瞬間にしめられた、そしてウィードン・スコットはマットが表へまわってくるのを待った。戸の内側から低い鼻声と泣き声がきこえてきた。それから長く、深く鼻いきをする声がきこえた。 「よく面倒をみてやらなくちゃならんよ、マット」とスコットが一しょに山を下りながら云った。「あいつの消息を手紙で知らせてくれ」 「きっとします」とマットは答えた。「しかし、あれをお聞きなさいよ!」  二人ともたちどまった。ホワイト・ファングが、主人の死んだ時に犬が吠えるようなふうに吠えていた。絶対の苦悩を表現しているのであって、その叫びは大きな心臓を破裂させるようなほとばしりとなって爆発し、しだいにしずまって苦悩のふるえ声となり、また重畳してくる悲痛のほとばしりとなって高まった。 「オーロラ」号は今年外へ出る最初の汽船であった、それでその甲板は、成金になった冒険者や失敗した金坑探索者ですしづめになっていた。みんながひとしく、初め奥地へはいりたがった時と同じように熱狂して早く外へ出たがっていた。渡り板の近くで、スコットは上陸の用意をしているマットと握手していた。しかし後ろをちらりと見て、そのままそこにいる或るものを見すえているうちに、マットの手は相手の手のなかでぐんなりした。スコットもそちらを向いて見た。甲板の上の四、五尺はなれたところにホワイト・ファングが坐っていて、ものほしげに見守っていた。  マットは、畏怖した口調で、やわらかにののしった。スコットはただ驚嘆して見ているだけであった。 「表の戸に鍵をかけられましたか?」とマットがたずねた。  相手はうなずいて、それからたずねた、「裏の方はどうだい?」 「たしかにかけました」という熱心な答え。  ホワイト・ファングは歓心を買うように耳をぺたんとねかしたが、依然もとのところにいて、近づこうとはしなかった。 「私が陸へつれて行かねばなりませんね」  マットは二歩ホワイト・ファングに近寄ったが、相手はすりぬけた。あとを追っかけてゆくと、ホワイト・ファングは人々の脚の間へ身をかわした。ひょいとかがんだり、くるりとまわったり、後戻りしたりして、甲板中をにげまわり、相手の捕まえようとする努力をそらしてしまった。  しかし愛の主人が話しかけると、ホワイト・ファングはさっそくいうことをきいて近寄ってきた。 「この三ヵ月間餌をくれてやったこの手のところへ来ないんですからね」とマットは無念そうにつぶやいた、「それにあなたは――あなたは最初馴らす間だけで、その後は一度も餌をくれはなさらなかった。あなたが親方だってことを、いったいどうして考えだしたもんだか、私にゃどうしたってわからない」  ホワイト・ファングをなでていたスコットが、急にずっと近くかがんで、鼻つらの新しい切り傷と眼の間の裂傷を指さした。  マットもかがんで、ホワイト・ファングの腹に手をまわした。 「窓を忘れてましたよ。傷だらけで、腹はえぐられてます。窓をつき破ってきたにちがいありませんよ、畜生!」  しかしウィードン・スコットはきいていなかった。いそいで考えていた。オーロラ号の汽笛が最後の出発の合図をふきならした。人々があわてて渡り板をかけおりていた。マットは自分のくびにまいてたバンダナ〔派手な色の大きな絹ハンカチ〕をはずして、ホワイト・ファングのくびにかけはじめた。スコットはマットの手をつかんだ。 「さようなら、マット、御苦労だった。狼のことは――手紙で知らせてくれなくともいい。わかったな、僕は……」 「何ですって!」とマットは叫んだ、「あなたはまさか……?」 「まさにそうしようと思うんだ。ほらお前のバンダナだ。僕[#「僕」に傍点]の方からお前[#「お前」に傍点]に手紙で知らしてあげるよ」  マットは渡り板の半ほどでたちどまった。 「あちらの気候に堪えられませんよ!」とマットは叫んだ、「暖かい日に毛を刈ってやらないと!」  渡り板はひっこめられて、オーロラ号はゆれて岸をはなれた。ウィードン・スコットは手を振って最後のわかれをつげた、それから向きなおって、そばに立っていたホワイト・ファングの上にかがんだ。 「さあうなれ、やい、うなれ」と云って、手答えのある頭を軽く叩き、ぺたんとねかした耳をこすった。 [#5字下げ]二 南国[#「二 南国」は中見出し]  ホワイト・ファングはサン・フランシスコで汽船から上陸した。驚きおそれた。心の奥深く、推理過程や意識のはたらきのまた下のところで、力と神格をむすびつけていたのだが、サン・フランシスコのねばっこい歩道をあるく今ほど、白人たちがそういうすばらしい神と思われたことはなかった。いままで見てきた丸太小屋はなくて聳え立つビルディングが一ぱいあった。街路には危険なもの――四輪馬車に二輪馬車に自動車がむらがっていた。大きな、張りきった馬が巨大な運搬車を曳き、怪物のようなケイブルや電車がそのまん中をぶうぶうがんがん音をたてて通り、北方の森の中で経験した山猫のやりかたにならって、執拗な脅威の叫びをあげた。  こういうものは全部力の表現であった。それを通じて、それの背後に、人間がいて、支配し、統制し、昔とかわらず、物の支配によって自己を表現していた。それは巨大で驚倒的であった。ホワイト・ファングは畏怖を感じた。危懼がのしかかってきた。仔狼時代に荒野から灰色海狸の村落へ初めてきた日に、自分の小さいこととつまらないことを感じさせられたように、充分背丈ものびて力に誇りをもっている今にして、また自分の弱小を感じさせられた。それにとても沢山な神がいる! 神々の雑沓で目がくらんだ。街路のとどろきが耳をつんざいた。途方もなくはてしのない雑沓とものの動きに面喰った。今までになかったほど、愛の主人に頼っていることを感じ、じきそのあとにくっついていって、どんなことがおきようとも見失わないようにした。  しかしホワイト・ファングはさながらこの都市の夢魔のような幻影を見ることになっていた――この経験は、非現実的な恐ろしい、悪夢のようなもので、ずっと後までかれの夢につきまとった。主人から荷物車の中へ入れられ、トランクや旅行カバンの山のまん中の片隅につながれた。そこではずんぐりした頑丈な神が支配していて、ひどく騒がしく、トランクや箱をほおりまわり、戸口からひきずりこんで山積みにしたり、戸口からほおりだして、ぶっつけたりこわしたりして、外で待っている他の神たちに渡したりしていた。  そこで、この荷物地獄の中に、ホワイト・ファングは主人においてけぼりにされた。或いはすくなくともホワイト・ファングはおいてけぼりにされたと思った、しかしそのうちに自分のそばに主人のズックの衣裳袋があるのを嗅ぎつけて、それを護衛することにとりかかった。 「大かたおいでになる頃と思ってました」一時間後にウィードン・スコットが戸口に現れると、貨車の神がどなるように云った、「あのあなたの犬が、あなたの物に指一本さわらせないんですよ」  ホワイト・ファングは車から出た。あきれかえった。夢魔の都市がなくなっていた。例の車は家の中の部屋のような気がしていた、そしてその中へはいった時には、都市がまわり一面にあった。そのはいってた間に、その都市が消え去っていた。都市の轟音はもはや耳にひびき渡らなかった。眼の前には、太陽の光が流れ、静かに、のどかな、にこにこした田舎があった。しかしこの変化を感心してながめているひまは殆どなかった。神々のすべての説明のつかない仕わざや表示を受け入れるのと同じやりかたで、それを受け入れた。それが神々のやりかたであった。  馬車が待っていた。一人の男と一人の婦人が主人に近づいてきた。その婦人の両手が出てきて、主人のくびにしがみついた――敵対行為だ! 次の瞬間にウィードン・スコットはその抱擁からはなれて、ホワイト・ファングにかかっていった、ホワイト・ファングはうなり、怒る悪鬼となっていたのである。 「大丈夫ですよ、お母さん」ホワイト・ファングをしっかりおさえてなだめながら、スコットが云った。「あなたが僕に危害を加えようとしていらっしゃると考えて、がまんがならなかったのです。もう大丈夫です。大丈夫です。すぐにおぼえますから」 「そしてそれまでは、私はその犬があたりにいない時だけ、私の息子を愛することを許されるわけね」その婦人は笑っていった。驚きのために色あおざめて弱っていたけれども。  婦人に見られると、ホワイト・ファングはうなって、毛を逆立てて、悪意をこめてにらんだ。 「こいつはおぼえこみますよ、いやおぼえこましてやりますよ、いますぐに」とスコットが云った。  スコットはホワイト・ファングにやさしく話しかけ、ついにしずめてしまってから、声をきびしくした。 「すわれ! おい、すわれ!」  それは主人から教わったことのうちの一つであった、それでホワイト・ファングは服従して、いやでふくれながらもすわった。 「さあ、お母さん」  スコットは母親にむかって両手をひらいた、しかし眼はホワイト・ファングに向けていた。 「坐れ!」と警戒した。「坐れ!」  そっと逆毛を立て、たちあがろうとして半ばうずくまっていたホワイト・ファングは、また坐りこんで、敵対行為のくりかえされるのを見守った。しかしそのためには何の害もおきなかったし、そのあとで行われた見知らぬ男神との抱擁からも害はおきなかった。それから衣裳袋が馬車の中へもちこまれ、見知らぬ神たちと主人がつづいて乗りこみ、ホワイト・ファングはその後を追って、油断なく後からかけていったり、かけている馬どもに毛を逆立ててみせて、自分はお前たちが地上をそんなに速くひっぱってる神に、何も害が降りかからないように、見張りにきているんだぞと警告したりした。  十五分後には、馬車は石の門をはいり、二列になってアーチ形に枝を交えているくるみの並木の間をすすんでいった。両側に芝生がひろがり、その広い広がりのあちらこちらのとぎれたところに大きな、枝の頑丈な※[#「木+解」、第3水準1-86-22]の木があった。近いところに、手入れした芝の若緑に対照して、陽にやけた乾草畠が黄褐色と黄金色を見せていた。そして向うの方に朽葉色の丘や高台の牧草地があった。谷の平面からなだらかにもりあがった最初の高みの上の、芝生の頂から、ポーチの奥深い、窓の多い住宅が見おろしていた。  ホワイト・ファングはこんなものを全部見る機会は殆ど与えられなかった。馬車が屋敷内へはいるや否や、眼をかがやかし、鼻っつらのとがった羊の番犬が、正義の威厳をもって、怒って、つっかかってきた。その犬は主人との間にはいりこんで、かれをへだてた。ホワイト・ファングは警告のうなりを発しはせず、逆毛をたてて、一流の無言の恐るべき突貫を敢行した。この突貫は遂行されなかった。前肢をこわばらせてはずみをとめ、殆ど尻をつけて坐るようにして、きまりの悪いほどだしぬけにたちどまった、いま攻撃しかけた犬にぶつかることをそれほどまでにして避けたいのであった。その犬は牝であった、それで同族の掟が障壁を突き入れたのであった。その犬を攻撃するには、実に本能に違犯する必要があった。  しかし羊の番犬の方ではそうではなかった。牝なのでそういう本能はもっていなかった。ところが、羊の番犬だから、荒野に対する、殊に狼に対する、本能的な恐怖が異常に鋭かった。ホワイト・ファングは、この犬からみれば、狼であった、羊が初めて飼育され、この犬の遠い先祖に護衛された時以来、羊群を餌食にしてきた、世襲的掠奪者であった。そこで、ホワイト・ファングが突貫をやめて、接触をさけるためにふみとどまると、犬の方から跳びかかってきた。ホワイト・ファングは肩に歯のあたるのを感ずるとわれ知らずうなったが、うなるだけで傷つけようとはしなかった。きまり悪るそうに肢をふんばって、後退りし、よけてまわってゆこうとした。あちらへかわしこちらへかわし、曲ったり向きをかえたりしたが、どうにもならなかった。その犬はいつまでもゆくてをさえぎった。 「これ、コリー!」と馬車の中の見知らない人が呼んだ。  ウィードン・スコットは笑った。 「かまいませんよ、お父さん。これは好い訓練です。ホワイト・ファングは多くのことを学ばなきゃなりません、それで今から始めるのもいいんですよ。大丈夫適応します」  馬車は走りつづけ、コリーはやはりホワイト・ファングの道をふさいだ。馬車道をはずし芝生の上をまわって追い抜こうとしたが、その犬が近まわりしていつもついてまわり、二ならびのきらきら光る歯で向ってきた。もとへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りみちして、馬車道を横切り反対側の芝生へ出たが、またもコリーが先に立っていた。  馬車が主人を運び去っていた。ホワイト・ファングはそれが木立の間に消えてゆくのをちらりと見た。情勢は絶望的であった。もう一度遠※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りをこころみたが、コリーも速く走って後を追った。するとだしぬけに向きをかえてコリーの方を向いた、それがもとからの格闘の手であった。肩を肩に真正面からぶっつけたのである。コリーは倒されただけではなかった。あんまり速く走っていたので、或いは仰向けに或いは横ざまに、ころころころがっていった、そしてふみとどまろうとしてもがいて、肢で砂利をひっかき、傷つけられた誇りに憤慨して甲高い声で泣いた。  ホワイト・ファングは待っていなかった。道のじゃまはなくなった、そして望むところはそれだけのことであった。コリーは、叫びをやめないで、あとを追ってきた。今や一直線であった、そしてほんとのかけっくらとなれば、ホワイト・ファングは目にもの見せてやることができた。コリーは狂ったように、ヒステリーのように走り、極度に緊張して、跳ねるごとに自分の努力を見せびらかしていた、そしてその間じゅう、ホワイト・ファングは、なんにも云わず、努力もしないで、幽霊のように地上すれすれにすべるようにして、するするとコリーをひきはなしていた。家をまわって車寄せのところへくると、馬車にであった。主人がおりるところだった。その瞬間に、まだ全速力でかけていたホワイト・ファングは、だしぬけに脇からの攻撃に気づいた。それはディーア・ハウンド〔鹿猟犬〕がとびかかってきたのであった。ホワイト・ファングはそれに対抗しようとした。しかしあんまり速く走っていたし、その猟犬があまり近づきすぎていた。それが横っ腹にぶつかってきた、そこで前へ進むはずみがとても強かったし、それがあまり予期外れだったので、ホワイト・ファングは地面にほおりだされて、きれいにころがった。おきあがった時の形相は意地悪く、耳はぴたりと後にたおれ、唇はねじれて、鼻にしわがより、牙がわずかのところで猟犬の柔らかいくびの狙いをはずした時には、歯がかちかちとかみ合った。  主人がかけよっていたが、あまり遠くのところにいた、そこで猟犬の命を救ったのはコリーであった。ホワイト・ファングがまだ跳びついて致命の一撃を加えられずにいるうちに、まさに跳びかかるかまえをしているところへ、コリーが到着した。コリーは、容赦なく砂利の中にころがされたことは云わないにしても、出し抜かれかけ抜かれていた、だからその到着は龍巻の到着のようであった――犯された威厳と、正しい怒りと、この荒野の掠奪者に対する本能的憎悪とでできた龍巻。コリーはホワイト・ファングの跳んでる最中を直角にぶつかった、それでホワイト・ファングはまたも肢を払われてころがった。  次の瞬間に主人が到着して、片手でホワイト・ファングをおさえ、その間に父親が犬どもを呼びはなした。 「まったく、これは、北極からきたかあいそうな独りぼっちの狼にとっては、相当手厚い応接だよ」と主人は言った、その間にホワイト・ファングは主人の愛撫する手でしずめられた。「一生のうちたった一ぺん肢を払われたことがあるんだが、ここでは三十秒の間に二度もころがされたものなあ」  馬車はひっぱっていかれていて、他の見知らない神々が家から現れてきていた。中には敬遠して離れてたっているものもあったが、そのうちの二人の婦人は、主人のくびにかじりつくという敵対行動をとった。しかしホワイト・ファングはこの行為を容赦しはじめていた。それからはなんの危害もおきないようであったし、その神々がたてる音はたしかに脅威的ではなかった。この神々もまたホワイト・ファングに交渉をはじめたが、ホワイト・ファングはうなって遠ざけた、すると主人も同様に口の言葉でそうした。そういう時にはホワイト・ファングは主人の脚にずっともたれかかって、頭を安心させるように叩いてもらった。  猟犬は、「ディック、坐れ!」という命令を受けて、階段をあがっていって、ポーチの片側に坐ったが、まだうなりながら、しぶい顔をしてこの侵入者を見張っていた。コリーは女神の一人に引取られて、くびをだいてもらって、撫でさすってもらっていた。しかしコリーはくんくん泣いておちつかず、ひどく当惑し心配して、この狼がいることを許されていることに憤慨し、神々は考えちがいをしているのだと信じた。  神々はみんな階段を上って家へはいりはじめた。ホワイト・ファングは主人のすぐあとについていった。ディックがポーチの上でうなり、ホワイト・ファングは階段の上で逆毛をたててうなりかえした。 「コリーをうちへ入れて、二匹は外においたまま喧嘩させたらいい」とスコットの父が云った。 「喧嘩がすんだら仲好しになるだろう」 「そうしたらホワイト・ファングは、友情を示すために、葬儀の喪主にならなきゃならんでしょう」と主人が笑って云った。  スコットの父は、信じかねるように、まずホワイト・ファングを、次にディックを、そして最後に自分の息子を見た。 「お前のいう意味は……?」  ウィードンはうなずいた。「まさにそういう意味です。ディックは一分間たたぬうちに死にますよ――長くてせいぜい二分ですね」  かれはホワイト・ファングの方を向いた。「さあこい、狼。お前こそ中へはいらなきゃならないんだ」  ホワイト・ファングは肢をこわばらして段をあがり、しっぽをきりっと立ててポーチを横切っていったが、側面攻撃を警戒してディックに眼をそそぎ、同時に家の中からつかみかかってくるかもしれぬ、未知のものの猛烈な表現に対して備えていた。しかし恐ろしいものは何もつかみかかってこなかった、そして内側にはいると用心してあたりを見まわし、それをさがしたが、それは見あたらなかった。そこで主人の足もとに坐って、満足げにぐるぐるとうなり、いつでもたちあがって、わなのかけてある屋根に潜んでいるらしい恐るべきものと命がけの格闘する用意をととのえて、そこで行われているすべてのことを観察した。 [#5字下げ]三 神の領土[#「三 神の領土」は中見出し]  ホワイト・ファングは生れつき適応性があるばかりでなく、ずいぶん広く旅行していたので、順応の意味と必要を知っていた。スコット判事の屋敷の名前はシエラ・ヴィスタと云うのだが、このシエラ・ヴィスタで、ホワイト・ファングは急速に居つきはじめていた。犬どもとはそれ以上重大な紛争はおこしていなかった。犬どもの方が南国の神々の癖をよけいに知っていた、それで犬どもから見ると、ホワイト・ファングは神々について家の内側へはいった時に、資格がついたのであった。狼なのだが、そして先例のないことなのだが、神々がホワイト・ファングの存在を認可したのだから、神々の犬であるこの犬どもは、その認可を認めるほかはないのであった。  ディックは、いやでも、最初は二度や三度手荒いあいさつを受けねばならなかったが、そののちはおとなしくホワイト・ファングをこの屋敷の附属物として受け容れた。ディックの思いどおりにいけば、二匹は仲好しの友達になっていたことだろうが、ホワイト・ファングは友情がきらいだった。ほかの犬に求めることは、ほっといてくれることだけであった。全生涯にわたって、ホワイト・ファングは同族から離れてくらしてきたのだから、この時もひとり離れていることを望んだ。ディックの交渉はうるさかったので、うなってことわってしまった。北国にいる時、主人の犬には手だしをしないものだという教訓を学んでいたので、今もこの教訓は忘れないことにした。しかし自分の隠遁と独居を固守し、すっかりディックを無視したので、この性の好い犬もついにはあきらめて、厩舎の近くの繋ぎ杭ほどにも関心をもたなくなった。  コリーの場合はそうではなかった。神々の命令であるのでホワイト・ファングを受け容れはしたが、ホワイト・ファングを平和に放置しておかねばならぬ理由にはならなかった。かれとかれの同族が自分の先祖にしかけた無数の犯罪の記憶が、コリーの存在に織りこまれていた。羊群を荒された記憶が一日にして、いや一世代で、忘れらるべくもなかった。こういうことが一しょになって、コリーに拍車をかけ、コリーをつっついて喧嘩させた。ホワイト・ファングを許した神々の面前で跳びかかることはできなかったが、それでもいろんなつまらないことで惨めな思いをさせることをさまたげはしなかった。時代を経た不和が両者の間にあった、それでコリーとしては、ホワイト・ファングに思い知らせるようにしてやろうというのであった。  そしてコリーはホワイト・ファングをいじめ虐待するのに自分の性を利用した。ホワイト・ファングの本能はコリーを攻撃することを許さなかったが、コリーの執拗さはホワイト・ファングが彼女を無視することを許さなかった。つっかかってゆくとホワイト・ファングはその毛皮で保護された肩を歯にさしつけておいて、肢をこわばらせ、堂々と歩き去った。あんまりひどくせまってゆくと、ホワイト・ファングは、肩をさしつけておき、頭をそむけ、顔と眼にはうるさい表情をうかべて、我慢してぐるぐるまわりをせねばならなかった。しかし時には、おしりを咬まれて、急いでにげだし、しかも威儀も何もなくしてにげだすこともあった。しかしだいたいにおいて殆ど厳粛に近い威厳を保つことができた。できるだけコリーの存在を無視し、コリーをさけることにしていた。コリーの姿を見たり、来る音を聞きつけたりしたら、おきあがって歩き去った。  ほかのことでホワイト・ファングが学ばねばならぬことがたくさんあった。シエラ・ヴィスタの複雑な事情に比べると、北国の生活は簡単そのものであった。まず第一に、主人の家族をおぼえねばならなかった。そのためには幾分準備ができていた。ミトサーとクルークーチが灰色海狸に属し、その食料と火と毛布にあずかっていたように、今このシエラ・ヴィスタでは、家の居住者全部が愛の主人に属していた。  しかしこのことでは、一つの相違、いや多くの相違があった。シエラ・ヴィスタは灰色海狸の幕舎よりはるかに広大なものであった。沢山な人間を考慮に入れねばならない。スコット判事とその妻がいる。主人の妹が二人、ベスとメーリーがいる。妻のアリス、それから子供たち、四歳と六歳のよちよち歩きのウィードンとモードがいる。誰だってこの人たちのことをホワイト・ファングに教えてやる方法はなかった、そして血のつながりと親戚関係については何も知らず、知る力もなかった。それでもみんなが主人に属するものだ、ということはたちまち会得した。それから、機会あるごとに観察することによって、行動と言葉と、実にその声の抑揚を研究することによって、徐々に親密の度合と、主人から受けている恩寵の度合を会得していった。そしてこうして確かめた標準によって、その人たちを相応に待遇した。主人にとって価値のあるものを尊重し、主人にとって親愛なものは、大事にし、注意深く護衛した。  二人の子供の場合もそのとおりであった。一生を通じて、ホワイト・ファングは子供が嫌いであった。子供らの手を憎み恐れた。インディヤンの村落にいた時代に、子供らの専制と残忍について学んだ教訓は生やさしいものではなかった。ウィードンとモードが最初近寄ってきた時には、ホワイト・ファングは警戒してうなり、悪意のある顔つきをした。その時主人に打たれ、きつい言葉をかけられたので、やむなく子供らの愛撫を許したが、それでもちいさな手にさわられるとうなりにうなったし、そのうなり声には歌うような調子がなかった。後になって、その男の子と女の子は主人の眼には大した価値のあるものだ、ということを観察した。それからは、子供らが撫でるのに、打つことも叱ることも必要でないことになった。  それでもホワイト・ファングは決してあふれるばかりの愛情を示すことはなかった。主人の子供らには、不承不承ながら、いさぎよく降参し、痛い手術に堪える人のように、子供らの愚弄に堪えた。もはや我慢しきれなくなると、おきあがって、決然としてたち去った。しかし、しばらくすると、子供らが好きにさえなってきた。それでも感情をむやみとあらわすことはなく、自分から子供らの方へ寄ってゆくことはしなかった。しかし、子供らの姿を見るとたち去りはしないで、向うから寄ってくるのを待った。それからもっと後になると、子供らが近寄ってくるのを見ていると、喜ばしい光が眼にあらわれ、子供らが他の楽しみを求めていってしまうと、妙に悲しい顔をしてあとを見送っているのが、人の目についた。  こういうことは発展の問題であって、時間がかかった。子供らの次にホワイト・ファングの関心をもったのは、スコット判事であった。それにはおそらく二つの理由があった。第一に、スコット判事は明らかに主人の貴重な所有物であったし、次に、スコット判事は感情を外に表さなかった。ホワイト・ファングは、スコット判事が広いポーチで新聞を読んでいるときに、その足もとにねていることが好きだった。判事は時折ホワイト・ファングをちょっと見たり、一言言葉をかけてくれたりした――ホワイト・ファングの存在を、現在そこにいることを認めてくれている、まぎれもないしるしであった。しかしそれは主人があたりにいない時だけのことであった。主人が現れると、ホワイト・ファングの関する限り、他のものは全部存在することをやめるのであった。  ホワイト・ファングは家族の全員に、自分を愛撫し大切にすることを許したが、主人に与えるものを与えることは決してなかった。その人たちがいくら愛撫しても、のどに愛の低唱をのぼせたことはなく、その人たちが、いくらやらそうとしても、鼻をこすりつけさせることはできなかった。この捨て身と降服と絶対の信頼の表現は、主人だけのために保持していた。実際、家族の人々を愛の主人の所有物としてしか見なかったのである。  それにまたホワイト・ファングは、早くから、家族の者と家の召使とを区別するようになっていた。召使たちはホワイト・ファングを怖がっていたが、こちらではただ召使たちを攻撃することを差控えているだけであった。それは召使たちも同様に主人の所有物だと考えたからであった。ホワイト・ファングと召使たちとの間には中立があっただけのことであった。召使たちは、クロンダイク河でマットがやっていたのと全く同様に、主人のために料理、洗濯、皿洗いその他のことをやっていたのである。召使たちは、要するに、家庭の附属物であった。  家庭の外には、ホワイト・ファングがおぼえねばならぬことがむしろ余計にあった。主人の領土は広くて複雑だった、それでも境界と限界があった。土地そのものは田舎道のところで終りになっていた。外側にはすべての神の共通の領土――往還と街路があった。それから他の垣根の内側には他の神々のそれぞれの領土があった。無数の法律がすべてこれらのものを支配し、行動を決定していた、しかしホワイト・ファングは神々の言葉を知らなかったし、経験による以外にはわかる方法がなかった。それが何かの法律とぶつかるまでは、自分の生得の衝動にしたがうことにした。それは何べんかくりかえすと、法律がわかってきて、それからは法律にしたがった。  しかし教育法が一番有効なのは、主人の手で打たれることと、主人の声の叱責であった。ホワイト・ファングの愛がきわめて大きかったので、主人の殴打は、灰色海狸やビューティ・スミスがかつて与えた殴打より、遥かにひどくこたえた。あの連中はただ肉体を傷つけただけであって、肉の下では精神が、ちゃんと屈しないで、まだ憤激していた。しかし、この主人の場合には、殴打はいつもあまり軽くて肉を傷つけはしなかった。しかもそれはずっと深くこたえた。それは主人の不賛成の表現だったので、ホワイト・ファングの精神はそれを受けるとしなえてしまった。  実際には、殴打はめったに加えられなかった。主人の声で充分なのであった。それによってホワイト・ファングは、自分の行為の正否を知った。それによって、行為を整え、行動を調整した。それは舵をとり、新しい土地と生活の風習を図表にすることを学ぶ、羅針盤であった。  北国では飼い馴らされた動物といえば犬だけであった。他の動物はすべて荒野に棲み、怖くて手におえないものは別として、犬の合法的な獲物であった。生涯を通じて、ホワイト・ファングは食料として、生きたものをあさり食っていた。南国では事情が異なる、ということは、頭にはいっていなかった。しかしそのことは、サンタ・クララ谷に住むようになった初めっころに、おぼえこむことになった。朝早く家の角をまわってぶらついているうちに、鶏舎からぬけだしていた鶏にであった。ホワイト・ファングの生得の衝動はそれを食うことにあった。二跳躍、歯の一閃、それからおびえた悲鳴、するとホワイト・ファングはその冒険好きの鳥をさらいとっていた。それは農場で飼われたもので、太ってて、柔らかであった。それでホワイト・ファングはあごをなめ、こんな御馳走はうまいものだときめた。  その日の後ほど、厩舎の近くで、また一羽迷い出た鶏にであった。馬丁の一人が救助にかけつけたが、ホワイト・ファングの素姓を知らないので、武器として軽い馬車用の鞭をもってきた。その鞭で一打ちくらうと、ホワイト・ファングは鶏をすてて、その男にかかっていった。棍棒ならばホワイト・ファングを止めることもできたろうが、鞭ではだめであった。すこしもひるまず、ただだまって二度目の鞭打ちを受けながら突進し、のどに向ってとびかかると、馬丁は、「わあッ!」と叫んで、よろめき退った。鞭をとりおとして、両手でのどを防いだので、前腕は骨に達するまで噛み裂かれた。  その男はひどくおびえた。ホワイト・ファングの獰猛さではなくて、むしその黙っていることの方が、馬丁の胆を奪った。馬丁はまだ噛まれて血のたれている腕とのどと顔を防ぎながら、納屋へ退却しようとした。そしてもしその場ヘコリーが現れなかったならば、ひどい目にあったことだろうが、コリーが前にディックの命を救ったように、今度もこの馬丁の命を救った。コリーは狂ったように憤激してホワイト・ファングに跳びかかった。コリーの考えは正しかった。コリーはへまな神々よりよく知っていた。嫌疑がすっかり立証されたではないか。現に古来の掠奪者がいつもの悪業を再びはたらいているではないか。  馬丁は厩舎へにげこんだ、そしてホワイト・ファングはコリーの意地の悪い歯にあって敗退した、というよりは、自分の肩をその歯にさしつけておいて、ぐるぐるまわりした。しかしコリーは、ずいぶん長い間こらしめたあとでも、いつものようになかなかやめなかった。それどころか、刻一刻とますます興奮し憤激してくるので、とうとうホワイト・ファングは、威厳もなにも空中にふりすて、てもなくコリーから逃げだして畑へとびこんだ。 「鶏に手をつけてはいけないことを教えてやらなくちゃ」と主人は云った。「しかし現場をおさえないことには教訓を与えることはできない」  それから二晩後にその犯行があったが、それは主人が予想していたよりもずっと大規模なものであった。ホワイト・ファングは鶏舎と鶏の習性を綿密に観察しておいたのであった。夜になって鶏がねぐらについたあとで、ホワイト・ファングは最近積みあげられた木材の山の頂によじのぼった。そこから鶏舎の屋根にとび移り、棟木をつたっていって内庭へとびおりた。一瞬の後には鶏舎の中へはいりこんで、殺戮がはじまった。  朝になって主人がポーチヘ出てみると、馬丁が一列にならべておいた、五十羽の白色レグホーンの牝鶏が目にとまった。主人は、初めは驚いてひとり軽く口笛を吹いたが、それからおしまいには、讃歎の口笛を吹いた。主人の眼は同様にホワイト・ファングを見たが、御当人は恥じる様子も、悪びれた様子もなかった。あたかも、まったくのところ、賞讃に価し名誉赫々たる行いをなしとげたみたいに、誇らしい態度をとっていた。罪を意識しているようなところはなかった。主人は不快な仕事にとりかかるについて、唇をかみしめた。それからこの身におぼえのない犯罪者に荒い言葉をかけたが、その声にはただ神らしい怒りだけがこもっていた。それからまた、主人はホワイト・ファングの鼻を殺された鶏につきつけ、同時にひどく殴りつけた。  ホワイト・ファングは決して再び鶏舎を襲わなかった。それは法に反することであった、そしてホワイト・ファングはそのことをおぼえたのであった。それから主人は鶏舎へつれていった。ホワイト・ファングは、生きた食べ物が自分のまわりやつい鼻の先をとびまわっているのを見ると、それにとびかかりたくなるのが、その生得の衝動であった。ホワイト・ファングはその衝動にしたがったが、主人の声にさえぎられた。主従は三十分も鶏舎の中にいた。何度もホワイト・ファングの衝動がわきおこってきて、その衝動に負けるたびに、主人の声に制止された。こうしてホワイト・ファングは法をおぼえたわけで、この鶏の領土を去る前にすでに、その存在を無視することを学んでいた。 「鶏殺しを矯正することはできないよ」とスコット判事が、昼食の食卓に向っていて、息子がホワイト・ファングに教訓を与えたことを話したときに、悲しげに耳を振って云った、「一たん習慣がついて血の味を知ったからには……」そしてもう一度悲しげに頭を振った。  しかしウィードン・スコットは父の意見に一致しなかった。 「僕がしようと思ってることをお知らせしましょう」と息子はついに挑戦した、「僕はホワイト・ファングを午後じゅう鶏と一しょに閉じこめておきますよ」 「しかし鶏どものことも考えてやらなくちゃ」と判事が反対した。 「それよりも」と息子は云いつづけた、「ホワイト・ファングが鶏を殺したらその一羽ごとに、正金貨一ドルずつあなたに払いましょう」 「しかしお父さまにも罰金をかけなくちゃ」とベスが口を入れた。  その妹もそれに賛成し、食卓のまわりから賛成の合唱がわきあがった。スコット判事は同意してうなずいた。 「よろしい」ウィードン・スコットはちょっと考えた。「そこでもし、午後の終りに、ホワイト・ファングが一羽の鶏も傷つけていなかったら、あなたは、ホワイト・ファングが中にいた時間の十分ごとに一回、ちょうどあなたが法廷に坐って、厳かに判決を言いわたしていらっしゃるみたいに、真面目に慎重に『ホワイト・ファングよ、汝はわしが考えていたよりは利口じゃよ』と云ってもらわなくちゃなりません」  家族のものは隠れた形勝の地点から、その実演を見守った。しかしそれは失敗だった。ホワイト・ファングは、中庭にとじこめられて、主人がいなくなると、ねころんで眠ってしまった。一度おきあがって、水桶へ歩みよって水を飲んだ。鶏どもを平然と無視した。ホワイト・ファングの関する限りでは、鶏なんかはいないのであった。四時になると走り高跳びをやって、鶏舎の屋根にとりつき、外の地面へとびおりて、そこから真面目くさって家の方へぶらぶら歩いていった。法をおぼえきっていたのである。そこでポーチの上では、喜んだ家族を前にして、スコット判事がホワイト・ファングに向い、ゆっくりとしかも厳かに、十六回も、「ホワイト・ファングよ、汝はわしが考えていたよりも利口じゃわい」と云った。  しかし法律があまりにも多様なので、ホワイト・ファングはまごついてしまって、たびたび面目を失した。他の神々のものである鶏にもふれてはならぬ、ということを学ばねばならなかった。それから猫と兎と七面鳥がいて、これもみんなほっておかねばならなかった。実際、法律を一部分しかおぼえていなかった時には、すべて生きたものには、かまわないでいなくてはならぬ、という印象をうけていた。裏の牧草地では、うずらが鼻さきでとんでも傷つけられないですんだ。すっかり緊張して熱望にふるえながら、本能を抑えてじっとしていた。神々の意志に従ったつもりであった。  ところが或る日、また裏の牧草地に出ていると、ディックが野兎を狩りだして追いつめているのを見た。主人も見ていながら、干渉しなかった。それどころか、ホワイト・ファングにその追跡に参加することをすすめた。こういうふうにして野兎には禁制がないことを覚えた。ついには法律を完全におぼえてしまった。自分と家に飼われているすべての動物との間には敵対があってはならない。親和でないにしても、少くとも中立が維持されねばならぬ。しかし他の動物は――りすや、うずらや、野兎は、人間に恭順を致していない、荒野の動物である。かれらは犬の合法的餌食である。神々が保護するのは飼い馴らされたものにかぎる、それで飼い馴らされたもの同志の死闘は許されない。神々がその臣下に対し死活の権力をもっていて、その権利に執心する。  北国の単純な生活を経験したあとでは、サンタ・クララ谷の生活は複雑だった。そしてこういう文明の交錯によって要求される主要なことは、統制であり、制御であった――かげろうの翼のはばたきのように微妙であると同時に、鋼鉄のように剛直な、自我の平衡であった。生命は無数の面をもっていた、そしてホワイト・ファングはそのすべての面に出あわねばならぬことに気づいた――馬車のあとについて町へ出て、サン・ノゼ(サン・ホウゼー)へいったり、馬車がとまってる間方々の街をうろついたりした時がそうであった。生命が、深く広く雑多で、かれのそばを流れ通り、不断に五感につきあたり、即刻の果てしない順応と応答を要求し、殆ど常に、生得の衝動を抑制することを強いた。  手のとどくところに肉がぶらさがっている肉屋の店があった。この肉には触ってはならなかった。主人が訪問する家には猫がいて、これもほっとかねばならなかった。それからいたるところに犬がいてうなりかけたが、これも攻撃してはいけなかった。それからまた、雑沓する歩道に、自分に注意を向ける人が無数にいた。そういう人たちはたちどまってホワイト・ファングを見て、お互に指さし合って、よくよくしらべてみては何か話し合い、それから、一番悪いことには、撫でるのであった。そしてそういう見知らない人々の手の危険な接触も、すべて、がまんせねばならなかったが、その我慢もできるようになった。それにまた、きまり悪く思ったり気おくれがしたりすることも、卒業してしまって、多数の見知らない神々の心づくしを、威張って受け取った。そのわざとらしい親切をいんぎんに受けた。一方、ホワイト・ファングの方には何となく深い親しみをさまたげるところがあった。その人たちは頭をなでておいて、自分らの勇敢な行為に満足し歓喜して、去ってしまった。  しかしそれらのことはホワイト・ファングにとってすっかり容易なことでもなかった。サン・ノゼの場末を馬車のあとについてかけていると、いつも石をなげつける小さな男の子たちに出会った。しかしその子供らを追いつめて引き倒すことは許されていない、ということを知っていた。この際、自己保存の本能にそむかねばならなかったのだが、飼い馴らされて文明に与かる資格をつけているところであるから、敢えて本能にそむいたのである。  それにも拘らず、ホワイト・ファングはそういう取り極めにすっかり満足していたわけではない。正義と公平について抽象的な概念をもっていたのではないが、生命の中には一定の公正感が住んでいるもので、その公正感が石を投げる者に対する防衛を許されていないことの不公平に憤慨した。自分の神々との間に結ばれた誓約の中で、神々が自分を世話し防衛することを誓った、そのことを忘れているのであった。しかし或る日主人が鞭を手にして馬車からとびおりて、その石を投げている子供らを打った。それから後は、子供らはもう石をなげはしなかった、それでホワイト・ファングも納得がいって満足した。  同様な性質のまた別の経験をした。町へゆく途中、四つ辻にある酒場のあたりをぶらついていると、そばへゆくときっととびかかってくる犬が三頭いた。主人は、ホワイト・ファングの殺気をおびた格闘法を知っているので、格闘してはいけないという掟をしじゅうきざみつけるようにしていた。その結果、その教訓をよくおぼえこんでいたので、ホワイト・ファングはその四つ辻の酒場のそばを通るたびに辛い思いをした。毎度、犬どもは、最初突貫してみたあとは、ホワイト・ファングがうなると、遠くはなれはするが、あとからぞろぞろついてきて、きゃんきゃんないたり、ののしったり、侮辱したりした。こういうことがしばらくつづいた。酒場の男たちはその犬どもにホワイト・ファングを攻撃しろとすすめさえした。或る日その男たちが公然と犬どもをけしかけた。主人が馬車をとめた。 「かかれ!」と主人はホワイト・ファングに云った。  しかしホワイト・ファングは信ずることができなかった。主人を見ては犬どもを見た。それから真剣にたずねるように主人を見返した。  主人はうなずいた。「やつらにかかれ、大将。食べちまえ」  ホワイト・ファングはもはやちゅうちょしなかった。向きをかえて、だまって敵の間にとびこんだ。三頭とも向ってきた。大きなうなり声と吠え声、歯のかち合う音と体のぶつかり合いがあった。道路のほこりが雲となってまいあがり、戦闘をかくした。しかし数分間のおわりには、二頭の犬はほこりの中でのたうちまわり、もう一頭はまっしぐらに遁走していた。溝をとびこえ、鉄柵をくぐりぬけて、畑を横ぎってにげていった。ホワイト・ファングは、敏捷に音もたてず、狼の流儀で、狼の速度で地上をすべるように追っかけていって、畑のまん中でその犬をひき倒し殺してしまった。この三重殺でもって、犬どもとの大きな紛争はおしまいになった。うわさが谷のあちらにもこちらにもひろがって、人々は自分の犬が喧嘩狼のじゃまをしないように心がけた。 [#5字下げ]四 同族のまねき[#「四 同族のまねき」は中見出し]  幾月か来りまた去っていった。南国には食料が豊富で仕事はなかった、そしてホワイト・ファングは肥って、富裕で幸福な生活をした。地理的に南国にいるだけではなく、南国に生活していた。人間の親切は太陽のように光被し、ホワイト・ファングは好い土壤に植えられた花のようにときめいた。  それでもホワイト・ファングは依然として他の犬とはどことなく違っていた。掟をほかの生活を知らない犬たちよりもよく知っていて、よけいきまりよく遵奉したが、それでもどことなく獰猛さをかくしもっているという気配があって、あたかもまだ荒野が身うちに残っていて、身うちの狼はただ眠っているだけだというふうであった。  他の犬とは決して仲好しにならなかった。同族に関する限り、それまで孤独な生活をしてきたのだから、これからも孤独な生活をつづけるつもりであった。仔狼時代にはリプリプと仔犬群の迫害の下に、またビューティ・スミスと共にした喧嘩狼時代に、犬に対する嫌悪が定着してしまっていた。生活の自然な針路がそらされてしまって、同族からしりごみして、人間にすがりつくようになっていた。  それにまた、南国の犬はすべて、ホワイト・ファングを疑いの目で見た。ホワイト・ファングを見ると犬どもの身うちに荒野に対する本能的な恐怖がうまれ、いつでもうなりと吠え声と好戦的な憎悪をもって、ホワイト・ファングに応待した。ホワイト・ファングの方では犬どもに対して歯を用いる必要はないことを心得ていた。牙をむきだし、唇をねじまげれば、一様に有効であって、咆えてつっかかってきた犬がしりをつけて坐りこまないことはめったになかった。  しかしホワイト・ファングの生活に一つの試煉――コリーがあった。コリーは一瞬間の平和も許さなかった。ホワイト・ファングほど法に従順でなく、主人がホワイト・ファングと仲好しにさせようとするあらゆる努力を無視した。いつもホワイト・ファングの耳の中でコリーの鋭い神経のたかぶったうなり声がひびいた。コリーは鶏殺しの一件を決して許さず、執拗にホワイト・ファングの意図は悪いという信念を固執した。行動する前から有罪とみとめ、それに応ずる待遇をした。厩舎や屋敷のまわりをつけてまわる警官のようなまるで疫病神になってしまって、ホワイト・ファングが好奇心をおこして鳩か鶏をそれこそちらりと見ただけでも、ただちに憤慨と怒りの叫びを発した。コリーを無視するおとくいの方法は、頭を前肢にのせてねて、眠ったふりをすることであった。そうするときまってコリーはあきれかえって、だまりこんだ。  コリーを例外として、何もかもホワイト・ファングの都合の好いように運んだ。統制と平衡を会得していたし、法を知っていた。落着きと、平静と、賢明な寛容を身につけていた。もはや敵対する環境の中に住んでいるのではなかった。危険と怪我と死は、まわりのいたるところに潜んでいるのではなかった。そのうちに、つねにさしせまっている恐怖と脅威のものとしての未知のものが、うすれていった。生命はやさしく、ゆったりしていた。それはなめらかに流れてゆき、恐怖も敵も路傍に潜伏してはいなかった。  自分ではそれと気がつかないまま、ホワイト・ファングは雪のないのがさびしかった。もしそのことを考えていたとすれば、「不当に長い夏」だなと考えたことだろう、じつは考えたのではないのだから、ただ漠然と、潜在意識的に、雪のないことを感じただけであった。同じような具合で、特に太陽になやまされる夏の熱いときには、北国をおもうかすかなあこがれを経験した。しかしそういうあこがれの唯一の影響としては、それが何だか自分ではわからないまま、不安になり落着きがなくなるだけのことであった。  ホワイト・ファングはひどく感情を表にあらわしたことはなかった。鼻をすりつけてゆくことと、愛のうなりに低唱の調子を加えること以上に、自分の愛を表現する方法は知らなかった。それでもそのうちにもう一つの方法を発見することになった。いつでも神々の笑いが気になっていて、笑われると気が狂い、気狂のように怒ったのだが、愛の主人に対しては怒る気にはならなかったので、その神が人の好さそうに、ひやかすように、自分を嘲笑する時には、すっかり当惑してしまった。昔ながらの怒りが身うちにわきあがろうとし、愛に反対しようと努力すると、その針とげを感ずることができた。怒ることはできないが、何かをせねばならなかった。最初は威儀をただしたが、そうすると主人が一そうひどく笑った。こんどはなお一そう威儀をととのえようとすると、主人が前より一そうひどく笑った。おしまいには、主人が笑いつぶして威儀をなくさせてしまった。ホワイト・ファングのあごはすこしばかり離れ、唇がすこし開き、滑稽というよりは愛に近い妙な表情がその眼にあらわれた。ホワイト・ファングは笑うことをおぼえたのであった。  同様にしてホワイト・ファングは、主人と一しょにふざけて遊び、ひっくりかえされたり、さまざまな手荒いいたずらをされることをおぼえた。仕かえしに怒ったふりをして、逆毛をたてて獰猛にうなり、すっかり恐ろしい意図らしく見せかけた咬みかたで、歯を打ち合わせたが、決して己れを忘れはしなかった。咬むのはいつでも空をかむようにそらしていた。打ったりはたいたり、咬みついたりうなったりするのが、速くて激しい、そういうふざけ遊びの終りになると、双方がだしぬけにとび離れて、四、五尺も間をへだてて立ち、お互ににらめっこした。それからこれもまただしぬけに、太陽が嵐の海に昇るように、双方が笑いはじめた。そしてそのおしまいにはきまって、主人の手がホワイト・ファングのくびと肩を抱き、ホワイト・ファングは低唱し自分流の愛の歌をうなるのであった。  しかし他の誰もまだホワイト・ファングとふざけたことはなかった。ホワイト・ファングがそれを許さなかった。威儀を正していて、人がふざけようとすると、ホワイト・ファングの警告するうなりと逆立てたうなじの毛は、決して冗談ごとではなかった。主人にこういう自由を許したからといって、ホワイト・ファングが、あちらで愛想をみせこちらで愛想をみせ、ふざけと楽しみのための万人の財産である、ただの犬になる理由はなかった。ホワイト・ファングはひたすらな心で愛し、自分自身をも自分の愛をも、安っぽくすることを拒んだ。  主人はずいぶん馬に乗ってでかけた。そしてそのお伴をすることが、ホワイト・ファングの生活の一つの仕事であった。北国では輓具をつけて労役することによって忠誠を証拠立てたが、南国では橇がなかったし、犬も荷をかつぎはしなかった。そこでホワイト・ファングは、主人の馬と一しょにかけることによって、新しいやりかたで忠誠を致した。どんな長い日にだって、ホワイト・ファングは疲れ切るようなことはなかった。その歩きかたは、円滑で、疲れをしらず努力を用いない、狼流の歩きかたであって、五十マイルも歩いたあとでも、軽快に馬の先にたつのであった。  この騎乗に関連して、ホワイト・ファングはもう一つ別の表現法を会得した――一生涯においてただの二回だけそれをやった、という点で注目にあたいする。第一回は、主人が元気のよいサラブレット種の馬に、乗り手が下馬しないまま門を開閉する方法を教えているときにおきた。たびたびくりかえして何度も、門を閉めようとしてその門のところまで、馬を乗りつけたが、そのたびに馬がおびえて、後※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りして、跳ねかえった。馬は刻一刻とますます神経がたかぶり興奮した。馬が後退ると、主人はそれに拍車をかけて、前肢を地面へおろさせた、すると馬は後肢で蹴はじめようとした。ホワイト・ファングはそのなりゆきを見ていたが、だんだん不安がつのってきて、ついにもはや我慢ができなくなり、馬の前へとびだしていって、激しく、警告するように吠えた。  それから後たびたび吠えようとしたし、主人もそれを奨励したが、成功したのはただ一度で、しかも主人のいるところでではなかった、牧草地を横切ってかけたことと、野兎が馬の足もとからだしぬけにとびだしたことと、急旋回と、つまずいたことと、主人が落馬して脚を折ったこと、そういうことがその原因であった。ホワイト・ファングは怒って、罪を犯した馬ののどにとびかかったが、主人の声に制止された。 「家へ! 帰れ!」と主人は自分の傷をたしかめてから云った。  ホワイト・ファングは主人をおいてきぼりにしたくなかった。主人は手紙を書こうと思ったが、ポケットに手を入れて鉛筆と紙をさがしても見つからなかった。そこで再びホワイト・ファングに帰れと命令した。  ホワイト・ファングはものほしげに主人を見て、それから出発したが、やがてもどってきてかすかに鼻をならした。主人はやさしくはあるがまじめに話した、それでホワイト・ファングは耳をたてて、痛いほど一心になってきいた。 「それでいいんだ、お前は、うちへかけて帰ればいいのだ」と話はつづいた、「うちへ帰って、おれのことをみんなに話すのだ。うちへ帰れ、狼、うちへ帰るのだ!」  ホワイト・ファングは「うちへ」の意味を知っていた、それで主人の言葉の残りの意味はわからなかったが、自分がうちへ帰ることが主人の意志であることがわかった。向きをかえて、いやいやながらかけ去った。それから決心がつかないでたちどまり、肩ごしにふりかえった。 「うちへ帰れ!」というきつい命令がきこえてきた、それで今度はそれに従った。  ホワイト・ファングが到着した時には、家族の者はポーチにいて、午後の涼をとっていた。ホワイト・ファングは、ほこりをかぶり、喘ぎながら、その間へはいってきた。 「ウィードンが帰ったよ」とウィードンの母が云った。  子供らは喜びの叫びをあげてホワイト・ファングを歓迎し、迎えにかけだしていった。ホワイト・ファングは子供らをさけて、ポーチをとおっていったが、子供らが揺り椅子と手すりの間においつめた。ホワイト・ファングはうなって、子供らの間をすりぬけようとした。母親が不安そうにその方を見た。 「ほんとのことを云えば、あれが子供らのそばにいると神経がいらだちます」と母親が云った、「そのうちに不意に子供らにとびかかりはしないかと心配なんです」  ホワイト・ファングは激しくうなって、隅からとびだし、男の子と女の子をつっころばした。母親は子供らを自分のそばへ呼んで、なだめて、ホワイト・ファングに手出しするんじゃありませんよと云った。 「狼は狼だよ」とスコット判事が云った、「信頼なんかできるもんじゃない」 「しかしあれは全くの狼ではありませんよ」とベスが、ここにいない兄を代表して口をいれた。 「お前はウィードンの意見をそのままとっているだけのはなしだ」と判事が云った。「ウィードンはただ、ホワイト・ファングには犬の血統が幾分あると推量しているだけだ、しかし本人が云うように、それについては何も知らないのだ。こいつの外貌ときたら……」  その文句は終りまで云えなかった。ホワイト・ファングがその前に立って、激しくうなったのだ。 「あっちへ行け! 坐れ、こら!」とスコット判事は命令した。  ホワイト・ファングは愛の主人の妻の方を向いた。その衣物を歯でくわえてひっぱり、ついにはその弱い織物がちぎれたので、夫人はおびえて悲鳴をあげた。この時にはホワイト・ファングが皆の関心の中心になった。うなることはやめていて、頭をあげて立ち、みんなの顔を見ていた。のどは発作的に骨折っていたが、何の音もたてず、しかも全身をもがき、発表したくて努力しているのだが伝えることのできないことを、何とか言い放とうと努力していた。 「気が狂いそうなのではないでしょうね」とウィードンの母が云った。「暖かい気候は北極の動物には合わないのじゃないか、と私はウィードンに言っておいたが」 「何か云おうとしてるのよ、きっと」とベスが説明した。  その瞬間に話す力がホワイト・ファングに生れてきて、大きな吠え声の爆発となってとびだした。 「ウィードンがどうかなったのですよ」と夫人がきっぱりと云った。  そこでみんなが立ちあがった、するとホワイト・ファングが階段をかけおりて、ついてこいと云いたげにふりかえって皆を見た。一生涯で二度目にそして最後に、ホワイト・ファングは吠えたのであって、しかも理解してもらったのである。  この出来事以来、ホワイト・ファングは、シエラ・ヴィスタの人々に手厚い思いやりを受けるようになり、まえに腕を咬まれた馬丁でさえも、ホワイト・ファングは狼であっても賢い犬だと認めた。スコット判事は依然として同じ意見をもっていて、それを百科全書やさまざま博物学の著作からひっぱりだした、測定や記述によって証明し、みんなの不満を買った。  日々が来てはまた去り、不断の陽光をサンタ・クララ谷にそそいだ。しかし日が短くなり、ホワイト・ファングの南国における二度目の冬がやってきたとき、かれは異常な発見をとげた。コリーの歯はもはや鋭くなくなった。コリーの咬むのにはふざけ気味とやさしさがあって、そのために実際には痛くなくなった。ホワイト・ファングは、コリーがつらい思いをさせたことを忘れ、コリーが自分のまわりでふざけると、厳粛に応答し、ふざけようと努力して、おかしなかっこうになった。ある日、コリーはホワイト・ファングに長いこと自分の後を追わせて、裏の牧草地をとおり、森の中へつれていった。主人の騎乗に出かける筈の午後であって、ホワイト・ファングはそのことを知っていた。馬は鞍をつけて、戸口で待っていた。ホワイト・ファングはちゅうちょしたが、その身うちに、いままでにおぼえたすべての法律よりも、かれの型をつくった慣習よりも、主人に対する愛よりも、独り生きたいという意志よりも、さらに深いものがあった、そして、決断しかねている瞬間に、コリーが咬みついておいてかけさったので、向きをかえて、その後についていった。その日主人は独りで騎乗した。そして森の中では、狼のキチーと片眼がずっと前に、北国の静寂な森の中を一しょに走ったように、ホワイト・ファングは、コリーと肩をならべて走っていた。 [#5字下げ]五 眠れる狼[#「五 眠れる狼」は中見出し]  この頃、新聞紙には、サン・クウェンチン監獄の囚人の大胆な脱走のことがいっぱいのっていた。その囚人は獰猛な人間で、できの悪い人間であった。生れがよくなかったうえに、社会の手から受けた型つけによっては、すこしも助けられるところはなかった。社会の手は荒っぽい、そしてこの男はその手の細工の著しい見本である。その男はけだもの――人間的けだものであった、なるほどそうであろうが、それにも拘らず、いかにも恐るべきけだものなので、食肉獣といったら一番よく特徴が云い表せるくらいであった。  サン・クウェンチン監獄では、その男は矯正不能ということになっていた。処罰ではその精神を挫くことはできなかった。黙りこくったまま最後まで闘って死ぬことはできたが、生きている限りぶちのめすことはできなかった。激しく闘えば闘うほど、社会がそれだけむごくこれを取扱った、そしてむごく扱うことの唯一の結果は、かれを一そう兇猛にすることであった。狭窄衣や、ひぼしや、笞や棍棒による殴打は、ジム・ホールにとっては間違った取扱いであった、しかしその取扱いをかれは受けた。そういう取扱いを、かれは、サン・フランシスコの貧民窟で、小さなよわい子供の時から受けてきていた――社会の手中にあり、何ものかに形成されるばかりになっている粘土なのに。  ジム・ホールはその第三服役期の間に、自分と殆ど同じくらいひどい獣のような看守に会った。その看守はかれを不公平に取扱い、典獄にうその申告をしてかれの信用を失わせ、かれを迫害した。この二人の間の相違は、看守の方は一束のかぎと拳銃をもっている、という点だけであった。ジム・ホールは素手と歯をもっているだけであったが、或る日その看守にとびかかって、まるでジャングルの動物のように、相手のくびに歯で咬みついた。  それから後はジム・ホールは改悛不能監房で暮すことになった。そこで三年暮した、その監房は、床も壁も屋根も、鉄でできていた。ジムはこの監房から一歩も出ず、空も陽光も見なかった。昼は薄明で、夜は暗黒の沈黙であった。鉄の墓場の中に生き埋めになっていたのである。人間の顔を見ることなく、人間に話しかけることもなかった。食料がさし入れられると、野獣のようにうなった。あらゆるものを憎み、昼も夜も、宇宙に対して怒りの咆吼をつづけた。何週間も何ヵ月も決して何の音もさせず、だまりこくって自分の魂をむしばんだ。ジムは人間であって怪物であった、狂った頭脳の幻影の中でいつまでもうわごとを云っているもののように、恐怖すべきものであった。ところが、ジムは或る夜脱獄した。典獄たちはそれは不可能だと云ったけれども、それにも拘らず、監房は空になっていて、看守の死休が半分はみだしていた。ほかに二人の看守の死体があって、ジムが監獄の中を通って外の壁へとりついた経路がわかった、ジムが音のしないように手で殺したのであった。  ジムは殺された看守たちの武器をもっていた――生きた武器庫のようなもので、社会の組織された力に追求されて、山々をとびまわっていた。多額の賞金がその首にかけられていた。欲張った百姓たちが猟銃をもって狩りたてた。ジムの血で抵当を償却するとか、息子を大学にやるとか、いうことになるかもしれないのであった。公共心のある市民は鉄砲をとりおろして、ジムを追いに出かけた。一群のブラッドハウンド〔警察犬〕がジムの出血している足の跡を追った。そして法のスルースハウンド〔嗅覺の鋭敏な一種の猟犬、探偵のこと〕、給料をとっている社会の戦闘動物〔警官のこと〕が、電話と電報と特別列車で、夜も昼もジムの足跡に追いすがっていた。  時々その人たちがジムに出会うことがあって、英雄のように立ちむかうか、有刺鉄条網の垣をくぐって遁走するかして、朝食の食卓に向ってその記事を読む一般の人々を喜ばした。そういう遭遇戦の後では、死傷者が馬車で町へ運ばれ、その欠けた持場には人間狩りに熱心な人々がついた。  そのうちにジム・ホールが姿を消した。ブラッドハウンドが行方不明になった臭跡をさがしたが無駄であった。奥地の谷の罪のない牧場経営者が、武装した人々にホールド・アップされて、無理やりに身許証明をやらされた。ところが一方では、貪欲な血の懸賞金をほしがる人たちが、十ヵ所もの山腹でジム・ホールの遺骨を発見する、というようなことになった。  その間シエラ・ヴィスタでは、新聞を読んで、興味ではなく、不安を感じた。婦人たちは恐怖した。スコット判事は鼻であしらって笑っていたが、実は笑う理由があったのではない。というのは、判事の法延生活の終りの頃のある日、ジム・ホールがかれの前に立って宣告を受けたのだからである。そして公開の法廷で、ジムがみんなを前にして、自分に宣告を与えた判事に復讐する日がきっとくる、と宣言したのであった。  この時だけはジム・ホールが正しかった。かれが宣告をうけた犯罪は、実はジムが犯したのではなかった。それは、泥棒と警察の言葉でいえば、「でっちあげ」の事件であった。ジム・ホールは、犯したことのない犯罪のために、「でっちあげられ」て監獄に送られるところであった。前科二犯の故で、スコット判事が、五十年の刑を宣告した。  スコット判事は事情を全部知っているのではなかったし、自分が警察の陰謀にまきこまれていることも、証拠が計画的な偽証であることも、ジム・ホールが告発された罪を犯していないことも知らなかった。そして一方ジムの方では、スコット判事が知らないだけのことであるとは知らなかった。ジム・ホールは、判事がそのことを全部知っていて、警察とぐるになって怪しからぬ不正義をはたらいたのだ、と信じていた。そこで、スコット判事が五十年の生ける死の宣告を与えたとき、ジム・ホールは、自分をしいたげる社会のあらゆるものを憎み、たちあがって法廷中をあばれまわり、ついに五、六人の青服を着た敵〔看守〕にひきずりだされた。ジムにとっては、スコット判事は不正義のアーチの要石《かなめいし》であって、ジムはこのスコット判事に怒りの毒汁をひっかけ、来るべき復讐の脅威をなげかけた。それからジム・ホールは生きながらの死におもむいた、そして、脱獄した。  ホワイト・ファングはこのことについては何も知らなかった、しかしホワイト・ファングと主人の妻アリスとの間には秘密があった。毎晩、シエラ・ヴィスタの人達が床に就いた時に、夫人がおりてきて、ホワイト・ファングを中へ入れて、広い玄関の間で眠らせた。さてホワイト・ファングは座敷犬ではなかったし、家の中で眠ることは許されていなかった。それで毎朝早く、夫人がそっとぬけてきて、家族の者が眼をさまさないうちに出してやるのであった。  そういうふうにしていたある夜、家じゅうの者が眠っていた間に、ホワイト・ファングが眼をさまして、静かに横になっていた。そして静かに空気を嗅いでいると、空気に見知らない神のいる臭いのあることをさとった。そして耳には見知らない神の動く音がきこえた。ホワイト・ファングは激しい叫び声をあげはしなかった。それはかれのやり口ではない。その見知らない神はそっと歩いたが、ホワイト・ファングの方がもっとよけいにそっと歩いた、それは体にすれる着物をきていないからであった。ホワイト・ファングはだまってついていった。荒野にいた時、とても臆病な生きた肉をあさっていたので、奇襲の有利なことを知っていた。  その見知らない神は大きな階段の上り口のところでたちどまって耳を傾けた、しかしホワイト・ファングは死んだも同然であった。見張って待っている時には、それほど動かないのであった。その階段をあがれば、愛の主人と愛の主人の一番大事な財産のところへ通じていた。ホワイト・ファングは逆毛をたてたが、待っていた。見知らぬ神が片足をあげた。上りかけたのである。  その時ホワイト・ファングがとびついた。何の警告もあたえず、うなって自分の行動を予告することはしなかった。跳ねて体を空中にもちあげ、見知らぬ神のせなかにとびのった。前肢でその男の肩にしがみつき、同時にその男のくびに牙を深くうちこんだ。しがみついたのは一瞬間だが、その間に充分その神を仰向けにひきたおした。双方が一しょに床に音をたてて倒れた。ホワイト・ファングはとびはなれて、その男がもがいて立ちあがろうとするところを、またしても牙で咬んだ。  シエラ・ヴィスタの人々は驚いて眼をさました。階下の騒ぎは、二十人もいる格闘する悪鬼の騒ぎであった。拳銃の音もした。一度男の声が、恐怖と苦悶の悲鳴をあげた。盛んにうなり声と吠え声がして、更にそれよりもひどく家具とガラスのぶつかる音とこわれる音がした。  しかしその騒ぎは、おきるのがだしぬけであったのと殆ど同じくだしぬけに、やんでしまった。闘いは三分間以上はつづかなかった。おびえた家族の者は階段の上にかたまった。下からは、暗黒の奈落からくるように、ぶつぶつという音が、あぶくが水の中からでてくるように、きこえてきた。時々このぶつぶついう音が、殆ど口笛のように、しゅうしゅういう音になった。しかしそれもまた、たちまち弱っていって止まった。それからは暗やみの中からきこえてくるものは、しきりに空気を求めて骨折っているある動物の、ひどい喘ぎだけであった。  ウィードン・スコットがボタンを押すと、階段と下の玄関の広間が光にあふれた。それからかれとスコット判事が、拳銃を手にもって、用心しいしい降りていった。そういう用心の必要はなかった。ホワイト・ファングがその任務を果していた。倒されてこわされた家具の残骸のまん中に、半ば横倒しに、顔を手でかくして、一人の男が倒れていた。ウィードン・スコットがかがんで、手をのけて、その男の顔を上向きにした。大きく裂けたくびが、その死に方を説明していた。 「ジム・ホ―ルだ」とスコット判事が云った、そして父と子は意味ありげに見交わした。  それから二人はホワイト・ファングの方を向いた。ホワイト・ファングも横倒しにねていた。眼はつむっていたが、二人がかがむと、二人を見ようとして目ぶたがかすかにひらいた。そしてしっぽもむなしく振ろうと努力してわずかに目にとまるくらい動いた。ウィードン・スコットがなでてやると、のどがそれを認めてごろごろとうなった。しかしそれはせいぜいのところ弱いうなりで、たちまち止んでしまった。目ぶたは垂れて、やがてしまり、体全体がゆるんできて、床の上に平ぺったくなったように思われた。 「すっかり参ってる、かわいそうに」と主人がつぶやいた。 「それをたしかめよう」と判事が云って、電話をかけに行った。 「つつまず申しますと、快くなる見込みは千に一つですね」と、外科医は、一時間半もホワイト・ファングに手当てをした後で云った。暁の光が窓から流れこんで、電燈の光を薄くした。子供らを除く家族一同が外科医のまわりに集まって診断をきいた。 「後肢が一本折れてます」と医者は続けて云った、「肋骨が三本折れてますし、そのうちのすくなくとも一本は肺臓にささっています。体中の血が殆ど全部なくなってます。どうも内傷があるようです。踏みつけられたに違いありません。三ヵ所に貫通銃創のあることは云うまでもありません。千に一つの見込みというのは実は楽観にすぎるのでありまして、万に一つの見込みもありません」 「しかし、すこしでも助かりそうな見込みがあったら、それを失わしてはならん」とスコット判事が叫んだ。「費用なんかかまわん。X光線にでも――何にでもかけよう。ウィードン、早速サン・フランシスコのドクトル・ニコルズに電報をうちなさい。あなたに対する不信任じゃありませんよ、ドクトル、おわかりですね、しかしこれにはすこしでも見込みがあればそれを活かしてやらねばなりませんのでね」  外科医は寛大らしく微笑した。「もちろんわかります。どんなことでもしていただける資格があります。人間を、病気の子供を看護するように看護してもらわねばなりません。それから私が体温のことについて申しあげたことをお忘れなく。十時にまた参ります」  ホワイト・ファングはそういう看護をうけた。スコット判事の看護婦を雇いたいという提案は、憤慨した娘たちにしりぞけられ、娘たちがその仕事を引受けた。そしてホワイト・ファングは、外科医に否定されたその万に一つの見込みをかち得た。  外科医はその誤診をとがめられるべきではなかった。これまで、保護された生活をし、保護された多くの世代のあとをひいた、文明の柔弱な人間ばかりを治療し手術してきたのであった。ホワイト・ファングに較べれば、そういう人々は脆弱柔軟で、握る力はなくて生命にすがりついていた。ホワイト・ファングは、弱いものは早く死に、保護はだれにも与られていない、荒野から直ちに来ていた。その父親にも母親にも、その前の世代にも、弱いところはまるでなかった。鉄の体躯と荒野の活力がホワイト・ファングの遺伝であって、精神と肉体において、その全体そのあらゆる部分が、その昔すべての被造物のもっていた粘り強さで、生命にかじりついた。  囚人のように一ぱい縛られ、石膏と繃帯で運動までも許されないで、ホワイト・ファングは幾週間も生死の間を彷徨した。長時間眠ってはしきりに夢を見た、そして頭の中を果てしもない北国の幻影のペイジェントが通っていった。過去のすべての亡霊が現れてかれと一しょになった。再びキチーと一しょに狼窟に住み、恭順を致すためにふるえながら灰色海狸の足もとへはいより、リプリプと吠えたてる狂気の仔犬の群に追われて必死に逃げだした。  再び静寂の中を走り、飢饉の数ヵ月間生きた食料をあさりまわった、再び組犬の先頭に立ち、ミトサーと灰色海狸の腸鞭が後ろでぴちぴちと鳴り、かれらの声が、「ラ! ラア!」と叫ぶと、狭い通路にさしかかって、犬どもはそこを通過するために扇形に集まった。再びビューティ・スミスと一しょに暮した日々と、あの時闘った格闘を経験した。そういう時には眠ったまま、鼻をならしたりうなったりした、それで傍で見ている人たちは、ホワイト・ファングは悪い夢を見ていると云った。  しかし特に苦しい特別の夢魔が一つあった――ホワイト・ファングからみると巨大な金切声をあげる山猫である、電車というチンチン、ガランガランとなりはためく怪物であった。やぶのかげに潜伏して、りすがその木の避難所からおりて、地面を恰好のところまでちょろちょろやってくるのを見守っていて、やおらとびかかってゆくと、りすはたちまち威嚇し恐るべき電車に変形して、山のようにそびえたち、金切声をあげ、ガランガランと鳴り、火をふきかけた。空からとびおりてくる鷹に挑戦した時と同じであった。青空から突進してきて、頭上におちかかってくると、それがあたり一面の電車になっていた。するとまた、ビューティ・スミスの檻の中にいた。檻の外には人々が集まっていた、それで格闘があることを知った。相手がはいってくるのを待って戸口を見守った。その戸が開くと、おしこまれてくるのは怖い電車であった。こういうことが千回もあった、しかもそれからうける恐怖は毎度以前と同じく生々しく、同じく大きかった。  それから、最後の繃帯と最後の石膏がとりのけられる日がきた、お祭り日であった。シエラ・ヴィスタの全員が集まっていた。主人が耳をこすってくれた、そしてホワイト・ファングは自己流の愛のうなりを低唱した。主人の妻がかれに「ブレッセド・ウルフ」〔神聖な狼〕という名前をつけた、その名前は大喝采をもって採用され、婦人たちはみなかれをブレッセド・ウルフと呼んだ。  ホワイト・ファングはたちあがろうとしたが、何度かやってみたあとで、衰弱のために倒れた。あまりながく寝たままだったので、筋肉がきかなくなり、力をすっかり失っていた。まるで、本当に、神々のためにせねばならぬ仕事をしくじったみたいに、すこし恥を感じた。そのために、こんどは英雄的努力をして立ちあがろうとした、そしてついに、ともかくも四つ肢でたって、よろめいて前後にゆれた。 「ブレッセド・ウルフ!」と婦人たちが合唱した。  スコット判事が勝ち誇ったようにそれをながめわたした。 「お前たち自身の口から出たな」と判事は言った、「しじゅうわしが論じていたとおりだ。ただの犬ではああいうことはできない。これは狼だよ」 「|神聖な狼《ブレッセド・ウルフ》ですよ」と判事の妻が訂正した。 「そうだ、|神聖な狼《ブレッセド・ウルフ》だ」と判事は同意した。 「だからこれからはわしもそう呼ぶことにしよう」 「また歩くことを学ばねばなりません」と外科医が言った、「ですから今すぐ始めさせた方がいいでしょう。体にさわりはしません。外へお出し下さい」  そこでかれは、王様のように、シエラ・ヴィスタの全員につきそわれ、いたわられながら、外へ出た。ひどく弱っていて、芝生まで来ると坐りこんで、しばらく休んだ。  それから行列が出発した、すると筋肉をつかっているうちに、その筋肉がすこし力づいてきた。厩舎のところへきた、するとその戸口のところにコリーが寝ていて、五、六匹のずんぐりした仔犬が、そのまわりの日向で遊んでいた。  ホワイト・ファングは珍らしそうにそれを見た。コリーが警戒してうなった。それでホワイト・ファングは離れているように気をつけた。主人が足指ではいまわっている一匹の仔犬をたすけて、ホワイト・ファングの方へはってゆかせた。うさんくさいと思って逆毛をたてたが、主人が大丈夫なんだよと警告した。コリーは、婦人たちのうちの一人の手でおさえられていて、油断なく見張り、うなりでもって、大丈夫ではないぞと警告した。  その仔犬はホワイト・ファングの前へはってきた。ホワイト・ファングは耳をたてて、好奇心をおこしてそれを見守った。やがて双方の鼻がふれあって、ホワイト・ファングは仔犬の暖かい小さな舌をあごに感じた。ホワイト・ファングの舌が、自分ではなぜとも知らず、つい出てきて、仔犬の顔をなめた。  神々の拍手と歓呼がこの所作を祝った。ホワイト・ファングは驚いて、面喰った顔で人々を見た。そのうちに衰弱があらわれてきて、横になり、耳をたて、頭をかしげて、その仔犬を見守った。ほかの仔犬どもも、コリーがひどく嫌うのに、ちょろちょろはってきた、それでホワイト・ファングはまじめな顔をして、仔犬が自分にはいのぼって、ころがったりするのをがまんしていた。最初は、神々の喝采の中で、昔ながらの内気ときまりの悪さがすこしあらわれた。仔犬らの道化やいたずらがつづくうちに、それも消えさり、がまんして半分眼をとじて横たわり、陽光をあびてまどろんだ。 [#改ページ] [#1字下げ]あとがき[#「あとがき」は大見出し] [#5字下げ]ジャック・ロンドンについて[#「ジャック・ロンドンについて」は中見出し]  十九世紀の一八七六年に生れ、今世紀の初めにたてつづけに作品を発表して、一九一六年にはすでに死んだ、ジャック・ロンドンの作品を、今私たちが読んで面白いだろうか、そして読む価値があるだろうか。  その答はアメリカ及び世界の読書界の事実が与えている。次々に新しい作品があらわれ、ベスト・セラーだ、ピューリッツァ賞だと目まぐるしく新作が評判となっては、やがて忘れられてゆくアメリカの読書界にあっても、過去のすぐれた作家の作品は相かわらず熱心な、理解力と鑑賞力のある多数の読者をもちつづけていて、着々として重版また重版をかさねている。そのような過去の作家のうちにわがジャック・ロンドンが加わっていることは云うまでもない。一九四七年の八月号のリーダーズ・ダイジェスト誌が、今更のように最近書かれた異色のあるジャック・ロンドンの伝記の要約を紹介し、ロンドンについての記事をかかげたことだけでも、アメリカにおけるロンドンの人気の一斑を知るたすけになるかと思う。  最近、東京の有力新聞に、ソヴィエト連邦の読書界のことが記されてあったが、それによるとスターリンの著書の刊行がずばぬけて多いが、その次はジャック・ロンドンの作品で、スターリンのものとは比較にはならぬが、相当多数(廿九の民族語に翻訳されて総計千百万冊)刊行されていて、外国文学ではロンドンが第一位、次にモーパッサンとユーゴーとアプトン・シンクレアが第二位を争い、ついでウェルズ、シェイクスピア、ゾラ、アナトール・フランス、バルザックの順になっているという。  その他の国々においてもロンドンの作品が読まれていることは事実で、日本でも大正の末頃に映画がきたり、翻訳が出たりして、一部の人にむさぼり読まれたが、版権の関係もあり、当時のベスト・セラーを追っかけた出版傾向に押されて、僅かに二、三冊の翻訳を見ただけであった。  ジャックは一八七六年一月十二日にサン・フランシスコで生れた。まだ小さい時に、親たちがリヴァモア谷の農場に定住し、ジャックはそこで、六歳から八歳まで、ひどい労働に従事した。学校にはろくろく行かないので、僅かばかりの本を貪るように読んでいたが、その読書慾は、一家がオークランドヘ移ってから、充分にみたされ、公立図書館でありったけの時間を費すようになった。それもしかし長くつづかず、家計をたすけるために、新聞売りや、車の後押しや、掃除人夫をやった。  十四歳でオークランド中学校を出ると、製罐業にやとわれ、一時間十セントで犬のように扱われて働いた。やがて家を出てカキ密漁者の仲間にはいったり、鮭漁者になったり、鮭業監視の小役人になったりして、沿海冒険者として歩きまわった。  こういう生活をしていては、普通の者なら、ならず者になるのがおちであるが、ジャックはその生活の下らないことを自覚して、一八九三年即ち十六歳の時に、その仲間と別れて、まともな船員になり、あざらし捕りの船に乗って、ベーリング海のロシヤ側で数ヵ月をすごした。家へ帰ってから、石炭積みと波止場人足をやって、すこし金をためたが、その間に初めてものを書くことを始めた。母にすすめられて、日本海上の颱風のことを書き、それで初めて賞金を得たので、それから作家になる望みをいだきはじめた。同時にオークランド公立図書館でまた例のむさぼるような読書をはじめ、時間を見つけては不断にストーリー書きの練習をした、しかもその時には毎日長時間黄麻工場で重労働をやっていたのである。  黄麻工場をやめて、火力発電所の石炭運びをやったが、これがまたひどい、安い仕事で、それをやめて、放浪者の生活にはいった。太平洋岸から大西洋岸まで、或いは歩き、或いはいかだに乗り、或いは貨物列車の連結器に乗って、アメリカとカナダを放浪してまわり、東部の貧民窟に出入りし、一再ならず浮浪罪で留置された。その間に社会主義者となり、新たな人生観を抱いて帰国し、オークランド・ハイスクールに入学した。そこでまたひどく勉強し、むやみと読書するとともに、富裕な生徒を通じて上流社会のいわゆる洗煉された生活をかいまみ、学校の雑誌に自分の冒険生活のストーリーを書いた。その間あらゆる種類のアルバイトをやっていたが、のんびりと学校なんかに通っている気にはなれず、超人的な勉強をやってのけて、三ヵ月でハイスクールの全課の試験にパスし、キャリフォールニャ大学に入学を許された。学資をかせぐために蒸気洗濯をはじめ、それでも足りなかったので、ペンで身をたてようと思って、盛んに書いたが、認められなかった。  そのうちにクロンダイク地方の金坑が発見されたニュースがつたわり、ジャックは二十二歳にして、この北国の冒険に向って出発した。不成功のまま一年の後、病を得て、帰ってきたが、自分では、「ユーコン河上で私は自己を発見した」と云っている。  父が死んだので、一家をささえるために、あらゆる種類の手と肉体の労働に従事したが、やがて断然公けに認められることを期して、著作の仕事にかえった。二十四歳になった一八九九年に、「オーヴァランド・マガジーン」から五ドルの原稿料をもらったが、それから他の雑誌で採用され、もっとよい原稿料がとれるようになった。一九〇三年に「荒野の呼び声」〔野生の呼び声という表題で翻訳がある〕が出版されると、一躍して大作家として迎えられ、それ以来二十年間に驚くほど多量の著作をだした。  ジャックは雑誌ばかりでなく、日刊紙にまでストーリーを書いたが、これは恐らくかれが初めてであろう。講演もしばしばやり、ロンドンの貧民窟を訪れては、その見聞記を「奈落の人々」という小説にし、それを自分としては最大の傑作と考えている。日露戦争の時には新聞の通信員として極東及び日本に来て、いくつかの好ストーリーを書いた。夫婦で小さなスクーナーに乗って、太平洋諸島を歴訪し、オーストラリヤに至り、帰りには南アメリカにも寄っている。  オークランドの市長に指命されたこともあり、飲酒の害を攻撃することに熱心なので、禁酒派のものが、本気になってジャックを合衆国大統領の候補者に指命することを考えたものである。  最後にキャリフォールニャ州のグレン・エレンの立派な農場におちつき、はじめて快適な生活をはじめたが、一九一六年十一月二十二日に四十一歳でそこで死んだ。最期のきわまで書いていたという。  無数の作品を分類してみると、大体、自分の生活のための苦闘を書いたもの、ユーコン河地方と南太平洋の冒険を書いたもの、人間が人間に与えた不正義の要素の観察と、有史以前の過去の夢と社会的大変動の予想とにわけられる。 [#5字下げ]「ホワイト・ファング」について[#「「ホワイト・ファング」について」は中見出し] 「ホワイト・ファング」は、右にのべた第二の分類に属するもので、「荒野の呼び声」と相並んで、動物を取扱った文学の世界的傑作として認められている。  幾分の犬の血をうけた狼の仔が人間に飼われてだんだん犬に近づき、狼のすぐれた点をそのままもった、すばらしい犬になってゆく、というのが荒筋であるが、その間の動物の心理と行動のすぐれた観察と、北国の風土、風景、インディヤンと諸動物の生活の活写、さらに人間の心理と生活の間接ながら克明な暗示――こうした特質が、読者をとらえて、驚かせ、楽しませ、考えさせる。  原作は簡潔な名文で、全篇ゆるみなく、ぐいぐいひっぱってゆく力をもっている、だから翻訳するのにずいぶん苦心をかさねた。  この小説は、前にも書いたように、大正十四年に堺利彦氏の訳で一度出版されたし、のち岩波文庫に本多顕彰氏の訳で出ている。  アラスカ地方の特異性のために、特異な単語や固有名詞が二、三あるので、念のためにここに註を加えておこうと思う。 「臭跡」と訳した原語は trail であるが、これは、動物が万物を認識し区別するのは大部分嗅覚のはたらきによるのであって、人間や動物が移動した経路や行先を発見するのに、動物はその人間や動物の体臭のあとを鼻で追うことは御承知のとおりであるが、その体臭の土や雪に附着している経路のことを臭跡という。犬がしじゅう道端の木や石やごみ箱に放尿するのは、自分で自分の臭跡を意識的にこしらえた習慣の名残りなのである。なおこの trail は、雪の上や砂漠や草原やジャングルに、人がふみならしてできた道の意味のこともあり、臭跡をつたって追跡するその追跡の意味のことも、足跡の意味のこともある。  ユーコン河はアラスカの東南から発して北東にのび、西に流れてベーリング海にそそいでいる。クロンダイク河はその支流でドースンのあたりで合流している。ユーコンといえば河の名を指すことも、その流域の地方をさすこともあり、クロンダイクも同様、河の名前のことも、その流域の地方の名前のこともある。  なお、インディヤンの名前は、殆どグレイ・ビーヴァ(灰色海狸)、サマン・タング(鮭の舌)、スリー・イーグルズ(三つ鷲)等、動物に関係のある名前からつけることになっている。 底本:「白い牙」角川文庫、角川書店    1953(昭和28)年4月25日初版発行    1958(昭和33)年2月20日7版発行 「凡ゆる」と「あらゆる」、「言い」と「云い」、「一層」と「一そう」、「言った」と「云った」、「後」と「後ろ」、「既に」と「すでに」、「共」と「ども」、「他の」と「ほかの」、「殆ど」と「ほとんど」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。