青春の氷河 アルフレッド・エドワード・ウツドゥリィ・メイスン Alfred Edward Woodley Mason 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)登山季節《シーズン》は [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)はりえにしだ[#「はりえにしだ」に傍点]が -------------------------------------------------------  登山季節《シーズン》は終りかかっていたし、一週間も悪天候がつづいたので、雨は昨夜から止んだにもかかわらず、緑したたる谷間は、ふかい霧にとざされ、山麓の斜面にこんこんと水があふれていた。  チャロナーは雨が止んだのが嬉しかった。そしてリフェルアルプのホテルの窓際で、空一面をおおう黒雲をあおぎながら、 「天気がよくなりそうです。この調子じゃすぐ晴れますよ。」といった。  きのうからホテルで知りあいになった、名も知らぬ少女と彼は話しているのだ。 「ええ、もう大丈夫でしょう。」少女は窓の外の腰掛に浮かぬ顔をしてすわっている二人の案内人を見ながら、「あの案内人はあなたがお雇いになったのでしょう? 案内人をつれてお登りになるんですか?」  女の声にはたしかに非難するような調子があらわれていた。つとめてあらわさぬようにしてはいても、かすかな軽蔑が浮ぶのをどうすることもできなかった。チャロナーは笑った。 「そうなんです。いつでも登りたい時に、案内人をつれてでたらめに山を歩きまわるのが好きなんです。友人を探したり、前々から計画をたてたりするのが嫌いでしてね、もうあの二人と仲好しになってしまって、五年もまえからいっしょに登っているんですよ。」  そこまでいって急に口をつぐんだ。自分の臆病と無能を、下手に弁解しているように、相手に解釈されはしないかと思ったからである。 「結構ですわ。」  と女は鷹揚にいったけれど、口もとに浮んだ微笑は、「いいたいことがあるんですけれど、止しときますわ。」と云っているようにみえた。かの女は自慢したい秘密はあっても、それは口へはださず、ただ黙って指先でこつこつ窓ぎわをたたいて音をたてる。チャロナーがその指をみると、結婚指環をはめているのだった。  彼はびっくりした。子供のように思っていた女が、指環をはめているのだ。十九になるやならずの目のぱっちりした美人で、学校の教室の窓から世間をみているような、向うみずの自信にみちたところがある。しばらくすると、女はわざと落着いたふうをしながら、どこかへいってしまった。その日はそれきりあわなかった。  山登りめあての客は、もういなかったが、それでもホテルは満員で、あくる日の夕方六時には、ツェルマットの谷にむかった庭の大きな望遠鏡のそばで、たいへんな騒ぎが起った。その時チャロナーは二人の案内人と手摺にもたれて、あすの登山の相談をしていたのだが、あまり騒がしいので、ふと望遠鏡のほうをみたのである。望遠鏡のそばには、数人のドイツ人がより集まっていたが、そのうちの一人の、今までしきりに興奮して喋っていた男が、チャロナーをみると、なにかたいへんなことを知らせるといったふうの顔つきで歩いてきた。 「あなたはあすお登りになるんでしょう。ちょっと望遠鏡をのぞいてごらんなさい。じつにたいへんなことが見えるんです。雲でみえたり隠れたりしていますから早く――」 「どうしたんです?」チャロナーがきいた。 「ワイスホルンの頂上に誰かいるのです。二人。」 「ほんとですか? でもいま晩の六時ですよ。しかも暴風雨のあとです。そんなはずはない。」 「でも、私はたしかに見た。」  チャロナーは谷のむこうに目をやった。山々は羊毛のような軟かい霧におおわれ、ただ青黒い裾の方が少しばかりみえるだけで、岩場や、氷河や、雪にとざされた渓谷は、どこにあるか分らない。ドイツ人は話しつづける―― 「いつも忙しいものですから、私、こんなところへきたのは初めてで、あすまたかえらなくちゃならないんです。だのにホテルに滞在中、ふりつづきで、この調子じゃ、ろくに山をみずにかえるのかと悲観していたのですが、いまワイスホルンの頂上をみて満足しました。」  商人らしい中年のドイツ人が、頂がみえたといって子供のように喜んでいるのをみて、チャロナーは意外におもうどころか、むしろ当り前だとは思ったが、それにしても、いまどきワイスホルンの頂上に人影がみえたというのは、なにかの間違いではないかという気がした。 「どんなふうにみえたのです? くわしく話してください。」  そこで、ドイツ人が望遠鏡でみた事実を話しはじめたのであるが、それによると、彼が漫然と望遠鏡をのぞいていたら、はじめにはまっ白い雲が一面にみえただけだったが、そのうち突然雲がはれて、はるか遠方に朦朧と黒い断崖と、雲より白い雪の斜面が光をうけているのがみえた。それで胸を躍らせてなおもレンズをのぞいていると、水蒸気はだんだん晴れて、大きな雲の塊から、ぬっと頭を高くもたげたワイスホルンの頂がみえだした。その頂上に日光でもさしてきたら、申分ないと思っていると、まるで幽霊のように、思いがけなく、二人の人影がその頂上に登ってきたが、それは南面か、西南面から登ってきたものらしいというのである。 「そんなら、シャリグラートから登ったということになりますが、あすこからは登れませんよ。」  チャロナーがいった。 「いや、たしかに南面か西南面です。私はこの目でみた。みそこないじゃない。二人の男は頂上で休もうとせず、すぐツェルマットのほうへおりる長い尾根へ歩いて行きました。」  ドイツ商人はなおも言葉をつづけて、 「前の男はひどく疲れて、危なっかしい足どりでぽつぽつ歩いていたが、後の男は弱っていないのでしょう、二人の間にたるんでたれているザイルをもちあげ、強くゆすぶって、雪を払い落したりしていましたよ。」 「そんなことまでみえたんですか? それからどうしました?」 「それだけです、雲が出てみえなくなったのです。」  非常な興味で、チャロナーはこの話をきいた。そして望遠鏡のうしろの椅子に腰かけて、長いことレンズをのぞきこんだが、目にうつるのはしだいに暮れゆく空に渦巻く霧だけだったので、ついに椅子をはなれて立ち去った。ホテルに登山客は彼一人だった。だからその話――すなわちドイツ人がみたというその光景が、かりに事実だとすれば、じつに憂慮すべき出来事なのだけれど、誰もそれに気づくものはなかったらしい。だが、チャロナーはじじつとは思わなかった。ドイツ商人のみそこないだと思った。  もしこれが天気のいい日だったら、登山隊の一行が、前人未踏の新ルートからの登攀を試み、そのため夕方六時にワイスホルン頂上にたっすることは有りうるかもしれない。が、こんな悪天候では、正気のある者なら、あの山の頂上はおろか、中腹にさえのぼりはしない。朝だって登らないのに夕なのである。それにもかかわらずドイツ商人は、錯覚や幻影といってしまうには、余りにこまかすぎるところまで見ている。その点がチャロナーのふにおちなかった。シャリグラートからワイスホルンへの縦走は、アルプスのなかでも、最も難コースとされている。それにドイツ人は、後の男がザイルの雪をはらいおとすところまでみたといっている。これはおそらく、オーストリーの山岳会の年報でも読んで、山をみたいみたいと思っていたので、ついそんな幻影をみたのだろう。事実とするには、あまりに不思議な話である。  チャロナーは、その日一日そう思いつづけ、翌日もそう思っていた。ところが夕方食堂をでかけると、真顔になったホテルの女支配人が呼びとめて、ちょっときてくれという。帳場へはいると女支配人はドアをしめて、 「遭難がございました。」  すぐチャロナーはドイツ人の話を思いだした。 「ワイスホルンでしょう?」 「ええ、たいへんなことになりました!」  女支配人は、ぽろぽろ涙をこぼしながら椅子にすわった。  かの女の話によると、フロビッシャー、リストンの二人のイギリス人が、一週間前、このホテルへ登ってきて、案内人がとめるにもかかわらず、ワスの谷から、スノードンの尾根へむけて登攀した。二人ともアルプスの危険なことなぞ、なんとも思っていなかった。 「それにね、お二人ともまだお若いかたで、フロビッシャーさんのほうは、奥さんを残してお登りになりましたの。」 「奥さん?」 「御主人もお若いかたですが、奥さんときたら、まだ子供みたいなかたですわ。なにも御存知ないもんですから、御主人を信じ切って、ちっとも御心配なさらない。二人とも子供ですよ。ですから無理にでもお止めすればよかったんですが、恰度その時、ウィーンからランクスさんがおいでになったのです。」  遭難のいきさつが、段々明らかになったとチャロナーは思った。ランクスは有名な登山家、分別盛りの四十歳で、軽装で長期登山をするのが得意、同伴者にたいしてあまり親切でないという非難もある。よくきいてみると、この男が二人をつれて、シャリグラートから登ったのだ。彼らはランダへおりて、そこで一晩泊り、悪天候にもかかわらず、わずか三日間の食糧携行で、ワイスホルン登攀をこころみた。そのご消息がなかったが、今日午後三人のうちランクスとリストンの二人だけが、両方とも綿のごとく疲労し、その中のリストンはひどい凍傷にやられて、ランダのホテルにたどりついたというのである。 「そうですか。そりゃ困ったことになりましたな。」  とチャロナーはいった。しかしもっと困るのは、ランクスがこのホテルに宛ててよこした手紙で、女支配人はそれを出して読ませるのだった。 「天候回復をまち、我々は山小屋に二晩泊り、翌朝晴れはじめたので、毛布をもってシャリバークの氷河をわたり、シャリホルンの尾根にテントをはりました。このとき食料が欠乏したので、ランダへかえるとよかったのですが、青年二人をつれているので、いまさらかえることもできません。一晩中非常な寒さでしたが、雪はふらず、朝になるとかすかな太陽がさしました。そこでただちに出発、四時間半の後シャリヨッホに着き、コルのちょっと下で朝食、それから尾根わたりをはじめました。ところが、その尾根の岩には氷がはりつめていましたし、二人の青年が不慣れでもあったので、かなりの難行軍で、その上、二つ三つのジャンダルムを縦走したので、思わぬ時間を費しました。このジャンダルムは東側を縦走するのが普通なんですが、我々は西側をとおらなければならなかったのです。それに朝方日のさしていた空は、十時半頃から曇りはじめ、鎌尾根の寒さ危なさはお話にならぬほどで、お昼ごろからいよいよ暴風になりました。午前中休まずに進みましたが、昼食をとろうにも食物はなく、午後二時、やっと大きな赤い岩の下に安全な場所をみつけ、そこで休憩しました。そのときフロビッシャーはもう動けぬといい出しますし、リストンのほうは元気はあっても、これから先の難場をこせるかどうか疑問です。それに寒さのため、二人ともしきりに眠がります。そこで一同協議しました。半病人をかかえて、下山することはできず、それかといって、食物なしに寒い尾根で一夜を明かすわけにもゆきません。考えてみますと、頂上はすぐらしいので、また二人をせき立てて登りはじめました。赤い塔のような岩に、亀裂があったので、私はそこへ登って、ザイルで二人を曳きずり上げたのですが、この塔一つこすのに一時間もかかりました。そしてその塔のむこうの剃刀の刃のようなコルで、とうとうフロビッシャーがたおれてしまったのです。寒気と疲労で心臓が弱ったのです。我々は彼が息をひきとるまでそばにいて看護しました。風が強くて危険でしたが、たしかに息をひきとるまでそばにいました。それからもってきた予備ザイルで、彼の屍体をコルの突き出た岩にしばりつけておき、リストンと二人でまた登りはじめ、鎌尾根の上の、岩の塔を三つ四つわたって、やっとワイスホルンの頂上へついたのは、午後六時頃だったでしょうか。それから今度は順序をかえ、リストンを先頭にし、平易な東尾根をおりましたが、雪がまだ固まらないので、かなり歩行困難で、その晩は、風に吹かれながら、四〇〇〇メートルの地点に寝ました。寒さがひどいので、リストンは翌朝までもたぬかも知れぬと思いましたが、幸に無事、しかも朝になると暖い日さえ照ったので、用心しながらぼつぼつ下り、十二時山小屋着、そこに、来る時食べ残したパン屑なぞありましたので、それで久しぶりに空腹をしのぎ、また山をおり、百姓屋でミルクを飲み、やっとランダのホテルへ着きました。リストンは手足を凍傷でやられたので、二、三日中にルツェルンの病院へ送るつもりです。悪かったのは私です。全責任をおいます。あなたがホテルの人々に、『ランクスが悪いのだ』とおっしゃっても、私はなんの抗弁もいたしません。それどころか、私は明日、チューリッヒの新聞に、自分が悪かったと書こうと思っているぐらいなのです。」  二度くりかえし読んだチャロナーは、手紙の最後の責任感のつよそうな文句を、妙に不愉快に思った。フロビッシャーが息を引きとるまでそばを離れなかったと強調しているあたりも、弁解がましくて、空々しい感じがする。 「いやな手紙ですね。」  そうチャロナーはつぶやいたが、女支配人はそれには答えず、体を左右にふり動かし、じっと相手の顔をみながら、 「誰がこのことを奥さんに話します? 同国人ですからあなた話してくださいません?」  チャロナーはびっくりした。 「なんのことです!」 「本人の奥さんがこのホテルに泊まっていらっしゃるんです。」 「フロビッシャーの?」 「ええ。結婚してまだ二月にしかならないんですって。御主人より一つ二つ下なんですが、まるで子供みたいですわ。わたしフロビッシャーというかたはあまり好かないのですけれど、奥さんはとても好い良人だと、自慢に思っていらっしゃるらしいのです。わたしだったら、自分の娘をあんな人のところへお嫁にやろうとは思いません。そんな話は別として、早く知らせて上げなくちゃ――」 「このホテルにいるんですか?」 「そうなんです。あなたきのういっしょに話していらしたじゃない?」  ああ、あの女か! 「承知しました。私が引きうけました。」  ちょっと厄介とは思ったが、仕方がないので承諾して立ちあがった。部屋をでかけると女が呼びとめて、 「ねえ、あなた。あすまで打明けるのをまったほうがよくはないでしょうか? 今夜はもうどうすることもできませんし、この事を知っているのは、あなたとわたしだけです。背負いきれないほどの悲しみを負うのですから、もう一晩安心して寝させたらどうでございましょう。」  考えてみれば、それもそうだとチャロナーは思った。彼はことし二十六、まだ人生の苛酷な試練に、そんなに直面したことはない。あの女にどう話すべきか? それはよく考えてみなければならぬ。良人の遭難を知って泣きだす光景は、想像するだに心苦しかった。 「じゃあ、明日の朝にしましょう。」そういって彼は帳場をでた。広間の前までくると、ワルツの音楽につれて、ホテルの客たちがダンスをしていた。その音楽がうるさく耳に響くので、早く庭にでようと思ったが、庭にでるにはどうしても広間をとおらねばならぬ。広間で彼は妙な皮肉な光景を見て、唖然となってたちすくんだ。フロビッシャーの未亡人が踊っているのだ。しなやかな姿態を持つ十九の女は、自分の良人が四〇〇〇メートルのワイスホルンの尾根に、屍体となって雪の上にうなだれながら、風の吹くままにゆらゆら体をゆるがしていることも知らずに、たのしげに踊っているのだ。チャロナーがはいると、楽しそうな顔に微笑を浮べてちょっと会釈したが、それは案内人をつれて山に登る弱い男にたいする、特別の恩恵のように思われた。彼は急いでそこを通りぬけて庭にでた。  翌朝、女の部屋をおとずれて、彼はできるだけおだやかな言葉で、遭難の顛末をうちあけた。泣いたり取り乱したりするだろうと思っていたのに、女は案外落着いて、難解の書物のページを睨むように、じっと眉をひそめて相手をみる。 「嘘でしょう。どうしてわたしをびっくりさせようとなさるんです。」  頭から信用しなかった。ランクスの手紙をみせても、暗号文をとこうとするかのような目付でみるだけだった。 「この手紙、借してくださらない、あとでよく読んでみますから。」  女がそういうので、手紙をおいて部屋をでた。  一時間もするとよびにきたので行ってみた。  こんどは信用したらしいが、それでも心の中の悲しみをやわらげる涙は、その目にうかんでいない。ただ二度とみたくないとチャロナーが思ったほどの、はげしい苦悩が顔に漂っていた。そして不思議に思われるほど素直になっていた。すこしもとり乱していない。が、とり乱したふうのみえないのは、感情をおさえているからではなくて、まだ若いかららしかった。 「さきほどはあんなこと申し上げまして、すみませんでした。ご親切に話して下さったのに、わたしが馬鹿で分らなかったのです。こんどはよく分りました。つきましてはお願いしたいことがあるのですけれど――」 「なんです?」 「屍体を収容することは、できないものでしょうか?」  窓の外を眺めながら、女は低いが熱意のこもった声でそういった。 「なんとかしましょう。」 「有難うございます。」  あまりうちしおれて気の毒だったので、チャロナーは、骨がおれるとは思ったが、屍体収容を引きうけてしまったのである。  女は窓から彼のほうへ目をうつして、 「あなた行ってくださいます?」 「むろんぼくが行きます。」 「それはどうも――あなたよりほかに知ったかたがないものですから――」  その日の午後、チャロナーは八人の案内人をかりあつめ、自分でもなじみの二人の案内人をつれてそれにくわわり、案内人中の古参者をリーダーとして、ワイスホルンの山小屋へむかった。翌朝は快晴、東のアレートを、こしてシャリグラートへおりると、フロビッシャーの屍体はランクスの手紙にあるとおり、胴と肩をザイルにしばられ岩角に結びつけてあった。  ぽかんと口をあけ、眼を見ひらき、細い稜線に跨がって両足を両方の断崖にぶらさげて、強い風が吹くと、ぐらぐら首を動かすさまは、ぞっとするほどだった。チャロナーのみたところでは、凍死した人というより、麻痺した人のようで、顔はチーズ色をしていた。  一同は苦心の末、屍体をだきおこして、大きな麻袋のなかに入れ、上からザイルでしばり、かついだりひきずったりして、やっと氷河の上まで運びおろした。  その時午後三時だったが、それから三十分ほどたって、この気味悪い日のもっとも気味悪いできごとがおこった。どうしたはずみか、袋のザイルがとけて、屍体が袋から飛びだし、下の氷河めがけて断崖を転げ落ちたのである。一同「あっ!」と叫んだ。そして人形のように両手をぶらぶら振りながら、雪の棚から棚へとしだいに速力をまして落ちゆく屍体を、ただ茫然とながめた。屍体は氷河の亀裂にのまれてみえなくなった。  みんな真蒼になって立っていた。チャロナーは赤い岩の塔のそばで、初めて屍体をみた時とおなじ感じにうたれた。死人とは思われない。まるで生きた人間が、袋から飛び出して、逃げて行くようだった。  むろん、彼らはその氷河の亀裂のそばまでおりて、一人の男をザイルにしばっておろしたが、亀裂の底までたっすることができず、いかんながらまたザイルを引っぱりあげなければならなかった。「ここがこの人の墓場だ。」ブラウエルという案内人が厳粛な声でつぶやいた。一同むなしくランダへおりた。  帰ってどう女に説明したらいいだろう。信頼を裏切ったようで、チャロナーの心は鉛のように重かった。ホテルへかえって女に説明する時の彼の心はいっそう重かった。女は初めて泣いた。テーブルにうつぶしてすすりあげて泣いた。 「持ってかえってくださるとばかり思っていましたのに。あんな淋しい氷の中に寝かしておくのかと思うと――」 「お気の毒です。――誰かたずねてこられたようですな――」 「誰でしょう?」  階段をおりると、むこうからチャロナーも顔見知りの男が歩いてきた。 「チューリッヒの新聞に書いときましたよ。悪いのは私だと。私一人で全責任をおいます。」  ランクス氏はすっかりふとっぱらの男になりすましていた。  その年の暮、ロンドンの法学協会々館につとめているチャロナーは、見なれぬ手で書いた一通の手紙をうけとった。封を切ってみると、フロビッシャー未亡人からで、いつやらはたいへんお世話になったが、悲しみのあまりお礼をいうのも忘れていたと無沙汰をわびてある。手紙をうけとった彼はむろん喜んだ。山の小駅でかの女を見おくっていらい、いちどもあったことがない。その時汽車の窓からのぞいた蒼白い真面目なかの女の顔は、いまでも瞼に残っている。  ある土曜日、彼は手紙にある宛名をたよりに、ドーセット州のかの女の家を訪問した。海岸沿いの広大な古い邸宅で、冬なのに広い庭に花が咲きみだれている、女は喜んで彼をむかえてくれた。それいらい時々訪問するようになった。そして、海が紺碧に冴えわたり、後ろの山にはりえにしだ[#「はりえにしだ」に傍点]が黄金色に咲いたある夏の日、彼は女に結婚を申しこんだ。  女はまがおになって、 「そんなことはできません。わけをお話しいたしましょうか。あなたカースリー教授をごぞんじ?」  チャロナーはびっくりして女の顔をみた。 「知っています。アルプスであったことがあります。」  女はうなずきながら、「氷河のことは世界であの人が一番詳しいのです。」  ぼんやり女の心が読めて、チャロナーは意外に思った。 「そうだそうですね。」 「わたしケンブリッジへ行って、あのかたにお会いして、ワイスホルンの遭難のことを話しましたら、よく調べておいてやるといわれましたの。それからしばらくして、知らせがあったので行ってみますと、氷河の流れ出る年どころか、日まで教えて下さったのです。屍体は今から二十四年後の七月二十一日に、ホホリヒト氷河のしたへ出るそうです。」  二十四年!  チャロナーは、この予言にけちをつける気にはなれなかった。こうした科学上の計算は往々驚くべき正確さで的中するものだ。 「でも、それまでお待ちになるお考えじゃないでしょう?」  女はしばらく黙って考えていた。  その心は、日光を浴びた海や、気持よい芝生などから、遠くはなれているらしかった。 「いえ、待ちます。尼のような心で待つつもりです。」  氷に包まれた不滅の競争者にたいして、チャロナーはどうすることもできなかった。  女はさらに言葉をつづけて、「どうぞむだな暮しかたをなさらないで、他のかたと結婚なさってください。わたしもむだな暮しかたはしていません。これから、二十四年後の一時間のために生きて行くつもりです。」 「でも、わたしはほかの女と結婚する気にはなれないのです。」  女は口もとに微笑をうかべて、「あなたに同情すればいいのかも知れませんが、わたしそんな偉い女じゃありませんの。でも、あなたもお若いんですから、これからどんどん心が変りますわ。長い人生には、いろんなことが起りますから。」  だが、彼の心は変らなかった。ほかの女と結婚するきにはなれなかった。あの時、袋の綱の結び目を調べなかったのが今さらくやしかった。しかしそんなことをくやしがっても、それが女を思いきる助けとはならなかった。そして月うつり、星かわり、長い年月がたった。そのあいだ女は時々彼の事務所を訪問し、彼の仕事がすむといっしょにボンド街を散歩したり、芝居をみに行ったりした。ある六月の夕方、二人は自動車でポーツマス街道をドライブし、オッカムの小さい店で夕食をたべたことがあったが、そのかえりに女が、 「いよいよ今年なの、」といった。 「そうでしたね。私もいっしょに行きましょうか?」  女はちょっと彼の手を握って、 「よかったらきてください。わたしなんだか一人じゃこわくて――」  二十四年ぶりに、二人はランダへきた。谷は昔とは見違えるばかりに変って、あちらこちらに新しいホテルができ、鉄道もリフェルアルプのホテルのすぐそばまで伸び、登山客も昔より十倍も増していた。しかしチャロナーはそんな時代の変化には盲目で、まずワイスホルンや、シャリヨッホからの氷河の落ちるところへ行ってみた。そして七月近くなると、そこにテントをはって、番人のように腰をすえた。  ある朝、テントを出て小高いところに立っていると、すぐしたの白い氷河の面に、なんだか小さい黒い物があるのが眼についた。 「小石だろう。」  そう思いながら、ピッケルをつかっておりてみると、やはり角が摩滅して円くなった石らしい。かえろうとしたら、谷間にさしこむ日光をうけて、それがぴかりと光った。不審に思ってひろいあげてみると、背を上にむけて氷につつまれていた金時計なのである。ガラスはなく、針はおれ、金側はどす黒くなっているが、蓋をあけると、歯車やスプリングは昨日店から買ってきたもののように光っている。今朝氷河の底から表面に浮かびだしたフロビッシャーの時計に違いなかった。  その時計を片手にもって、彼は森閑としずまりかえった岩や氷をみた。二十四年前のリフェルアルプ・ホテルの有様や、おそろしいワイスホルンの遭難事件のことを、まざまざと想い出した。その朝は氷河の捜索をつづけ、午後になるとホテルへかえって、女といっしょに庭にでて、そこで時計をわたした。女はひしとそれを胸に抱きしめた。 「あの人のでしょう?」チャロナーがきいた。 「そうです。行きましょう。」  かの女が現場へ行くとは思っていなかったので、チャロナーはちょっと驚いた。 「明日早く行きましょう。今夜でなくても大丈夫です。」  その夜、彼は人夫を雇い、夜があけるとホテルを出て氷河にむかった。まず人夫をテントにのこして、二人で氷河におりた。 「ここですよ。」  かの女の前には、山にかこまれた低地に、まっ白い氷河が、大きな扇のように開いているだけで何もみえなかった。 「どこ?」低声に女がきいた。  チャロナーは黙って女の顔をみた。  ふと、女がうつむいて足元をみると、そこに、ガラスにとじこめられたような、フロビッシャーの屍体があるのだった。すぐそこにひざまずいて、かの女は声をあげて泣きだした。  氷にとじこめられた青年は、二十四年の歳月がたっても、眼元口元に一すじのしわもよらず、すやすや静かに眠っているかのよう。冷たい氷は、金時計以上に彼を大切にいたわったらしい。元気に満ちた風貌は、登山にでかけた朝そのままだった、そして、その氷の上にひざまずくしわだらけのとしとった女は、わが子のような青年の姿をみながら、さめざめとすすり泣く――  みていたチャロナーは、今さらのように、自分の青春がとうの昔に過ぎさったことをしみじみと感じた。かの女の青春も過ぎ去った。「私もだんだん齢をとります」口でもしじゅういっていたが、それは本当の言葉の意味を知らずにいっていたのだ。が、いまや本当にその言葉の意味を痛切に知った。氷の中の子供のような若々しい青年にくらべれば、彼も女もともに老人で、その青春はもう掴もうとしても手のとどかぬ、遠いはるかな国へ飛びさってしまったのだ。  やさしく女を立ち上らせて、 「氷を掘らせますから、ちょっとのいてください。掘れたら呼んであげます。」  云われるままに、女は五、六歩そこをしりぞいた。チャロナーは人夫を呼んで氷をわらせ、屍体発掘がすむと女を呼んだ。  かの女と屍体とのあいだには、もうガラス板ほどのへだたりもない。青年とやつれた女は、こうして二十四年ぶりの対面をした。  だがこの時、ちゃりんと音を立てて、青年の体から妙なものがおちた。そばでみていたチャロナーが、急いで拾い上げてみると、それは糸のように細い金鎖のさきについたロケットなのであった。青年の頸にかけてあったのが切れたのであろう。チャロナーがそのロケットの蓋を開けてみると、なんと、美しい、がどこか俗悪な、見知らぬ女の写真が、大胆にこちらをむいてにっと笑っているのだ。とっさに彼はリフェルアルプ・ホテルの女支配人の言葉、「わたしだったら、自分の娘をあんな男のところへ嫁にやらぬ」といったのを思い出した。  ふと気がついてみると、白蝋のように蒼ざめた女が、いぶかしげに彼をあおいでいる。 「なんです、それは」とかの女がきいた。  いそいでチャロナーは蓋をしめて、 「あなたの写真です。」 「あら! あの人が、わたしの写真のはいったロケットをもっているはずはありませんわ!」  おりから、山のはに七月の太陽がのぼって、断崖や氷河を金色にそめるのだった。 底本:「山岳文学選集九 ザイルの三人」朋文堂    1959(昭和34)年6月30日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。