征韓論の旧夢談 佐田白茅 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)委細窺《いさいうかが》い |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)皇祖|聯綿《れんめん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「「澤のつくり」+攵」、6581、105-上-2] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]緒言[#「緒言」は大見出し]  白茅山人の門人伊東明きたり問う。明治の初年に征韓論の起ったのは先生の首唱なりと伝承せり。当年の事情、委細窺《いさいうかが》いおきたく、御包蔵なくお話し下さるれば幸はなはだし。  白茅山人答う。よいおたずねに預りました。この白茅は、すでに古稀の齢を超え、七十二の老翁で死期至って近く、残る年はいわゆる一年有半ぐらいかもしれぬ。鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀しと聞く、まして人間の形に影の添うがごとく、明くれば世道、募るれば人心、かつて死を決して思い立ったることであれば、三十有六年の今日まで一日も胸中に往来せぬことはない。いかにも御尋問の通り、征韓論の嚆矢《こうし》はこの白茅である。ところが当年の事情を誤り伝えたることすこぶるおおいから、その詳細の事情を話しておくは山人の最も欲しているところである。人のまさに死せんとき、その言うや善しと誉められもせまいけれども、まずその始末の梗概を話しますから、脱略等お気づきの点はご遠慮なく質問下さるよう願いたしと、この問答がすなわち一篇の旧夢談となったのである。 [#3字下げ]征韓論の発端[#「征韓論の発端」は大見出し]  白茅は、文久三年の頃長州の尊攘論に加担したる嫌疑をもって、旧藩久留米の獄屋に幽囚せらるることほとんど五年におよびたり。その時同囚せられたる同志の士も三十余人なりしが、すべて筆硯も読書も禁止せられて、いずれも徒然に堪えざるより雑談のみに、その日を送るのほかなく、折り節しは対外の事情をも談破することありたるが、そのうちに、わが属国視するところの朝鮮国には、気運一変せば、速やかに着手せねばならぬ、この朝鮮より次第に手を推し広むるは、けだし英雄の本意ならんなどと、慷慨《こうがい》して、声たからかに談話して一時の幽欝を洩したることしばしばであった。してその後明治元年、白茅は京都の軍務官判事試補となって、同僚なる河田作馬、海江田信義、井田五蔵、伊吹喜三太、西村亮吉、中邦香らと相共に東北の戦争に拮据《きっきょ》しおりしが、余暇あれば外国と交際する事をも談論したり。その時白茅はその素論たる朝鮮の事のみに熱心し、ついに諸氏に討論のすえ断然朝廷に建白書をたてまつりて、朝鮮は応仁天皇以来義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ速やかに手を容るるがよろしい、いわゆる先んずれば人を制し、おくるれば人に制せらるる格言のごとく、今日において因循《いんじゅん》すれば将来において手が伸びないという主意を切論し、その書面を太政官の弁事官へ差し出した。しかるところその翌明治二年、御東幸があって、軍務官を東京に新設せられたれば京都の軍務官は廃止せられ、知事以下の官吏はまったく罷《や》められて、白茅も久留米藩に引き取りたるが、その際藩主の長女姫が今の小松宮に入嫁せらるることとなり、その用務のため藩庁より急使を命ぜられて東京に登り、その用務を弁じたるのち帰藩せんとしたるも、前年の建白書が心に宿り、抑さゆれども揚ぐるがごとく、ついに再び建白するに至れり。その趣旨は前の建白と大同小異であれば別に陳述する要はない。ただしこのたびの建白捧呈については、肥後熊本の轟武兵衛が斡旋《あっせん》してくれた。しかるに何たる御沙汰もないゆえ、白茅は思い切って帰る支度をなしつつあるところへ、弁事官より帰藩は見合わせよという書付が達した。この書付は弁事官中島錫胤の認められたる文書であったが、それから二、三日過ぎて外務省へ出仕して、その十月に至ると、太政官より筆太く書いたる一片紙を拝受した。  朝鮮国へ出張仰せ付けられ候事、 [#3字下げ]朝鮮に出張を命ぜらる[#「朝鮮に出張を命ぜらる」は大見出し]  この時白茅が悦び知るべしである。この辞令に接するや、沢外務卿は白茅を呼ばれ、出張の理由をつぶさに話されたるが、その主意は去年太政官より対州藩主の取次をもって朝鮮国へ維新の報知書を贈ってある。その返詞を再三督促すれども、今もって何たる音信がない。方今朝鮮はどういう様子であるか、その取調べをして返詞の催促をするのが主眼の用務である。さりながら使節というのではなく外務省出仕というくらいの名義で朝鮮に入り込むか、ただしは対州人というてもよかろう。徳川が外交をやめて以来、ここに二百年、その間対州人の外は一人も渡韓したものはない。この度がはじめての渡韓であるから対州の藩主へ百事相談するがよい。また貿易の取調べもあるから一の商人を連れさせるつもりであったが、それは止めにして、その代りに商業を心得ている斎藤栄と、その外に森山茂(今貴族院議員)をやる。つごう三人で仕丁二人をつれてゆくがよいとのことであった。それから朝鮮に関係ある書類を閲《け》みしたいと思うて、人々へ問合わせたが、一冊もない。ただ宮本小一が朝鮮人の詩集三冊をみせたくらいのことで、書類とてはさっぱりないから、対州において調べることとして、十一月東京を出発し、横浜より米国の飛脚船コスタリカ号に乗りこみ、海上風波おだやかにして長崎に着した。この時白茅たまたま病あり、同地の病院に入りしが、当時日本国中わずかにこの一小病院あるのみであった。未開の時と知るべしだ。白茅は入院二旬におよんだるが、その間同郷の医者広津俊蔵という者病を訪いきたり、談話一転して白茅が従僕となって渡韓いたしたいということを申し出した。白茅は病後のことで医師の随行は望むところなれば、これを森山、斎藤に謀って行に加えることとなった。この広津という男は、帰朝の後外務省の判任となり、また一躍して奏任となり、森山、斎藤らとしばしば渡韓したれども、白茅は一度いったきりで、兵隊を引率せざれば再び韓地をふまぬという決心であった。  さて日本国より朝鮮国に与えたる維新の報知書なるものは左に掲ぐる通りであって、これに対州藩主宗候が添書して大差使、副差使の二人を選び、この二書翰をもたらして渡韓せしめたものである。 [#3字下げ]維新の報知書[#「維新の報知書」は大見出し]  皇祖|聯綿《れんめん》、一系相承く。大政を総攬《そうらん》することここに二千有余歳。然るに中世以降、兵馬の権は挙げて武将に任じ、外国交際ともにこれを管す。爾後《じご》昇平の久しき、流弊無き能わず。事は時とそむく。ここに皇上は綱紀を更張し、親しく万機を裁す。しかして貴国交誼の業すでに久し。宜しく益々|懇款《こんかん》を結びて万世|渝《かわ》らざるべし。これ、わが皇上の盛意なり。乃ち便を馳《は》せ以て旧好を修む。冀《こいねが》わくはこの旨を諒せよ。 [#3字下げ]先問書契 [#割り注]対馬藩知事[#改行]書翰[#割り注終わり][#「先問書契 対馬藩知事書翰」は大見出し]  本邦は頃《このごろ》時勢一変し、政権は一に皇室に帰す。貴国に在りては隣誼もとより厚し。あに欣然たらざらんや。差別使を遣し、かつ顛末《てんまつ》を陳ぶるもここに贅《ぜい》ならず。不侫《ふねい》、先に勅を奉じ京師に朝《ちょう》せり。朝廷特に旧勲を褒め、爵を加え、官を左近衛少将に進め、更に交隣の職を命じ、永く不朽に伝う。又証明印記を賜わる。これを要するに、両国の交際は益々厚く、誠信《せいしん》永遠に渝わることなし。叡慮在る所、感佩《かんぱい》いずくんぞ極まらん。今般差別使の書翰、新印を押し以て朝廷の誠意を表す。貴国も亦宜しく領可あるべし。旧来の図書を受くる事、その原由は全く厚誼の存する所に出づ。則ち容易に改むべからざる者有り。然りと雖も即ちこれ朝廷の特命に係る。あに私を以て公を害するの理有らんや。不侫の情、実にここに至る。貴朝幸に体諒を垂るるは深く望む所なり。 [#3字下げ]十一月[#「十一月」は大見出し]  朝鮮政府が何故に右の書翰に対して返答せぬかというと、その書中に皇の字、勅の字のあるのが気にさわったとみえる。そのわけは、けだし朝鮮人の意中に二百年来往復の書翰にいまだかつて書いたことのない皇勅の文字を書いたのは、日本の底意は朝鮮を属国にするつもりであろうという疑念を起して返詞せないのであった。この皇勅の文字のことは、のちに朝鮮官吏が復書した返詞を読めばわかる。  さて長崎より渡航するには汽船を用いたいと思うて、長崎在勤の平井希昌にその事をかけ合うたるところ、汽船は数すくないから和船にせよというから、白茅大いに不同意を唱え、和船ではいけない、ぜひ汽船をやってもらいたい、久しからずして返すと再三迫ったゆえ、ついに汽船温泉丸に乗組むこととなり、堂々として対州厳原藩の府中についた。 [#3字下げ]対州事情[#「対州事情」は大見出し] [#1字下げ]地形[#「地形」は中見出し]  島の形をいえば、南北に細長くにおよそ三十里にわたり、東西はわずかに二、三里で、一里に足らざるところもある。しこうして有明山が島の鎮《おさえ》となっている。白茅らはこの山に登って全島の形勢をながめたのである。登山に用いたる騎馬は、名高き対馬産の馬で、馬体は小なれどもその力はなはだ強く、世間の大馬よりも重き荷物を載せるのみならず、山間の路なきところを巧みに往来し、かつよく巌石の上を馳騁《ちてい》す。森山は牧より引出したばかりの荒馬に乗って山を上下したが、落馬もしなかった。 [#3字下げ]対州に乞食なし[#「対州に乞食なし」は大見出し]  対州には乞食がいない。佐渡の国に狐がいないのとはちがっている。佐渡は狐の種を播《ま》かないからおらないのであるが、対州には乞食の種をまいてもはえない。その訳は細長い島だから、山に登れば採掘すべき品が春夏秋冬たくさんある。海に入れば年分水産が採りつくされんほどある。したがって、いかなる貧乏人でも、旦那さん一文くださいというてもらわなくても、山なり海なり、いずれにいっても一日分の食糧を得るは容易である。故に対州には乞食が一人もいない。 [#3字下げ]対州の経済 藩主の資格[#「対州の経済 藩主の資格」は大見出し]  州をめぐって米麦の出来高はわずかに五、六万石ぐらいで、全島民を潤《うるお》すに足らない。そこで旧幕府より朝鮮交際を一切宗家に委任して、利益を占めさせたのであるから、登城の節は金紋先箱《きんもんさきばこ》で、立派な十万石以上の資格を備えておられた。その資格はいずこより出るかといえば、宗家より朝鮮行きの歳遣船より出づる。この歳遣船は一ヵ年十七回の利益をもって六万石の不足四万石を補助するわけで、立派な十万石の大名様である。旧幕府もなかなかうまい、朝鮮のうるさき交際を一切対州に委任して、わが国是《こくぜ》なる鎖国の実を定め、対州は大よろこびで、花落ち花開く三百春、呵々。 [#3字下げ]歳遣船[#「歳遣船」は大見出し]  歳遣船と申すのは、読んで字のごとく歳々朝鮮に遣《つかわ》す船で、対州からは、おもに日本の銅を積んで遣《おく》る。朝鮮は返礼の意で、米と木綿および牛皮もしくは虎豹の皮など沢山あたえて、品と品の引換えで、漠然たる貿易をなすこと百五、六十年、のちはその物品の相場を立てて、銅は韓銭何ほどという計算で金銭を受渡したという。その利益は古今相かわらず、対州に四万石ばかりの利益があるわけになっている。 [#3字下げ]対州藩主と会見 歳賜米[#「対州藩主と会見 歳賜米」は大見出し]  白茅は対州に着すると、一日藩主の宗侯に謁してゆるりと談話し、また一日はその饗応を受けた。宗侯は去年以来政府より朝鮮の返詞いかんとしきりに督促を受けておられたから、真意を吐露し打解けて話され、かつ古き書類を惜しまず隠さず沢山示された。そのうちには秘密にかかわることがあったけれども、今日となっては話しても差しつかえないと思う。大いなる書冊中に、朝鮮の歳遣船十七艘を贈る事件、ならびに両国文書受け渡しの事件、外に品々古風なる事件のある中に、一つ歳賜米百石と書いたる箇条があった。白茅は不審に思い、この歳賜米とはいかなるものでありますかと問うたれば、宗侯ははばめる顔色で、これが実に恥しい箇条で、わが古き先代の頃より今日まで伝えきたっていることで、その実は朝鮮から毎歳百石ずつわが家に賜うのである。これを受けきたったのはまことに気ぐるしきことなりと忍んで話された。白茅なるほど、この箇条は面白からざることであるけれども、ご先祖方に余儀なきご都合があって受けさせられたものでありましょうと挨拶した。  対州の取調べもすでに済みたれば、渡韓の途に上らんとする時、藩の家老らいう、朝鮮はご承知の通り至って固陋《ころう》の国でいまだ開けざることであれば、汽船をやめて和船にのりかえ下さるよういたしたく、もし汽船でおいでになると、朝鮮人が大いに恐怖して種々な疑念を惹起《じゃくき》して、相談の出来ることも、出来ぬようになって、報知の返詞がますます延引するに至るやもはかられぬ恐れがありますから、汽船はおやめ下さい、和船を差し上げましょうと。縷々懇懇《るるこんこん》の説話なれば、ついに和船の虎屋丸に乗って行くことに決して、温泉丸は長崎にかえした。 [#3字下げ]出帆即時の珍事[#「出帆即時の珍事」は大見出し]  すでに虎屋丸に乗り込み、今に出帆しようとして支度しているところに、西南の山上より白茅を見かけてボンと一発銃丸を放ったる兇漢があった。幸いにして白茅にはあたらなかったが、船頭の頂きをかすって、血は淋漓として流れた。傍らにいる医者広津に応急の手当させたが、生命には気づかいないということであったから、その負傷者を上陸せしめ、他の船頭を雇うて出帆した。そもそも対州の朝鮮における、魚の水ある譬《たとえ》で、忘却すべからざる恩沢利益がある。表面交際上の利益は歳遣船で人民直接の貿易、その他品々の利益はまったく対州一手で占めているから、対州の生命財産のかかわる国であれば、他藩よりは勿論政府よりも手を入れられては対州の不利益となることは児童でも承知していることである。それ故白茅らが朝鮮に出張して対州と公私の交際を取調べられては、対州のために不利益であるとの考えより、対州こぞって白茅の航韓を悪《にく》み立て、かかる兇暴の手段をもって、その行を阻止せんとしたのである。  同日は、対州の北湾和泉港に着して一泊していると、藩主宗侯より陸路昼夜兼行の御使者正副二人を、つかわされた。その使命は、貴殿がた御出帆の際、兇漢あって発砲したるおもむき、藩主聞きおよばれ、痛く心配いたされて、われらども両人へ申しつけられ、つつしんで謝罪をのべ、いかが心得えてよろしきか伺い申せとのことでありました。まことに不都合なことで、この度貴殿がたの上陸の前後は静謐《せいひつ》にしてさわがしきことなきよう藩中一統へ申しつけおきたるところ、意外の兇漢を出し大失敬の事が現出し、まことにお気の毒に存じますと、ねんごろにのべ立てられた。白茅の答に、ご両君遠方のところご苦労でありました。藩主公の御|辞《ことば》はご念の入りたることで、御謝意はつつしんで拝受つかまつりますが、私どもへ銃丸があたらじゃったのは幸いで、御用向きの妨げになったということはありませんで、藩主公決してご心配なさらぬように上申くだされたしと挨拶した。すでに使者との応接を済まし互に懇話するの折、使者の言にこの節は朝鮮から米を積んだる船がすでに帰るべき筈なるに、いまだかえらざるによって家中一統大困難で、日々朝鮮の方を望んでなに故におそきや、なにぞわけあるかというて、上下こぞって待ちわびおる次第にて、倉庫もすでにむなしくなりかかり、藩主も心痛の余り家中に対して頃日は一食を減ぜられ、一日二食で忍んでおられるありさまなり。弊藩の情況ご洞察くだされとの事であった。使者の話は事実で、対州は毎年きまっているところの歳遣船が漸次かえって米の輸入を待つ順序なれども、時あり遅延すればたちまち困難におちいるので、まことに憐れむべき孤島である。 [#3字下げ]朝鮮が毎年四万石を貢献《こうけん》したる理由[#「朝鮮が毎年四万石を貢献したる理由」は大見出し]  朝鮮の貧弱国で四万石ずつ毎年日本に貢献《こうけん》するといえば、はなはだ過大なれども、その実際に立ち入って研究すれば決してそうでない、かえってたいした儲かりがあるわけになっている。そもそも朝鮮の国是《こくぜ》というものは、西を仰ぎ東を貴《とう》とめば永世憂いなしという考えで、いわゆる事大主義であった。ただしその頃までは北の方に両頭の鷲(露国)がいることは知らなかったから、この鷲には食物を与えずして済んだのじゃ。さて日本と支那につかえるには、朝鮮八道のうちでおよそ一道半ばかりの租税を充《あ》てたものである。支那へ往いて歴書を受け取ること、支那より勅使がくる、その饗応は非常なもので、女楽を供することもあり、また勅使その他へ贈る賄賂《わいろ》もなかなか多いことで、これを計算すれば、およそ一道の税はまったく費やさねばならぬ。日本へは銅その他を積んだる十七回の歳遣船を引受けて、その代りに米その他を沢山積載して返すの例なるが、これにも半道の税を費さねばならぬ。かくすれば、風帆競い入る釜山の雲。立てんと欲す征韓第一の勲を、などと唱えて攻め入らるることがないから、つつしんで東西二国につかえまつる主義で、二国から永く愛せられ、子々孫々万歳を唱えて永く楽しむことが出来るという国是《こくぜ》で、近年まで無事平安、枕を高うして眠っていたのである。他よりこれをみれば、一道半の税は過大のように思わるるけれども、決して然らず。もしちょっとしたことの行き違いで、にわかに干戈《かんか》を動かされては滅亡のほかはない、これらのところを深く考うれば、一道半の税で二大国を防ぎ止めていたのは朝鮮の上策であって、たいした儲かりもしたというてよろしいのじゃ。  和泉港を出帆して鰐浦《わにうら》についた。同所より順風を得れば僅々四時間ぐらいで朝鮮の釜山に着する里程であるから、風待ちをしているうちに、森山がその近傍を遊歩したる折り、長州人粟屋多助というものがひそかに朝鮮からかえって、潜伏していることを聞き出したれば、森山は斎藤とともに粟屋に面会して朝鮮の事情を聞き、すこぶる益を得たることがある。全体これまでの渡韓は対州人のみで、他藩人の渡韓は厳禁であったけれども、粟屋の渡韓は長州が対州における勢力の強き点からのことであったか、ただしは粟屋一個人の資格で何か計画するところあったるか、その辺の点は、わからなかった。 [#3字下げ]韓吏と談判[#「韓吏と談判」は大見出し]  久しからずして追手風が吹いてきたから、鰐浦を出帆して四時間ばかりで釜山の和館についた。この館は対州藩の家老が出張するところで、二百年前よりの専管居留地であって、四万坪ばかりの地面を占め、そのうちに館を築きて和館と名づけ、館司(すなわち家老もしくはその代理者)一人、属吏若干人をおき、両国の事務を弁理せしめ、そのほかに商家も若干戸ある。当時の館司は大差使を兼ねたる樋口鉄四郎であって、この人の厚き斡旋により、韓吏と会見することができた。白茅らは外務省出仕という名義で、通弁吏数人附き添い、隣交を掌《つかさど》る朝鮮官吏、訓導俊卿安僉知、別差旻文李主簿にゆるりと応答し、主として維新報知書の返詞を速やかにいたされよと促《うなが》したけれども、官吏は依倚《いい》して明言せない、その後しばしば館司をして督促せしめ、つまるところ貴国より返詞をせないという理由を書いて贈れと強く迫ったるところ、東莱伯より一通と、訓導別差二人より二通を、館司大差使に贈り、復書せざるゆえんを陳述した。 [#3字下げ]東莱伯ならびに訓導らの覚書[#「東莱伯ならびに訓導らの覚書」は大見出し] [#1字下げ]大抵[#「大抵」は中見出し]  貴国の皇と称し、勅と称すること、天下に異辞なし。則ちこれその国に行きて、自らまさに犂然《りゅうぜん》として順たるべし。いやしくもそれ然らざれば則ちこれ重宝の啗《くら》うべからざる所、衆力の脅《おびや》かすべからざる所なり。  貴国も亦弊邦の必ず受くるを許せざるを知る。しかして軽試しこれを以てまた不諒の甚しきなきか。それ以て三百年金石の盟、今に至り彼是|※[#「「澤のつくり」+攵」、6581、105-上-2]《いと》うなし。しかしていたずらに無益の辞を費し、強《し》い難きの事を行なわんと欲す。永くして好《よしみ》を為す所以に非ざるなり。おそらくはここに及びて図を改め、務めて常旧に循《したが》い、和を失うに至らざるの貴しと為すにしかず。左近衛朝臣等の字、図書換用の説は、大人の改書は公を以てしたがうに至る。又|暁《さと》るべからざるなり。交隣の道、貴きは一に旧規にしたがうに在り。則ち弊邦の肯えて唯々せざるもまた宜しからざらんや。誠に旧好を申講し千百年をして一日の如くあらしめば、すなわち諸凡の書契の中、何ぞ宜を酌み、辞を遣わすの難きと為すを患えん。しかして苟然《こうぜん》として久しきを持せんか、遙かに想う、貴国の中もまた通練賛画の人多し。尚且つ計はここに出でず。まことに慨すべきなり。統希諒悉不備。 [#2字下げ]康午三月 日[#地から2字上げ]東莱伯 [#3字下げ]大差使公 [#3字下げ]館司公 [#3字下げ]覚[#「覚」は中見出し]  貴国の弊邦に於ける、誼は兄弟に同じく、礼は賓主を以てす。かの交隣より以来、諸凡、懇ろに除かれ大きに格例に違い、義理にそむく有るに非ざれば、則ち謂うべし、言に従わざるはなく、願に遂げざるはなしと。而るに今番書契中の一二の字句は、印章改易の説に与《あずか》るがごときに至る。これ誠に三百年以来無き所の挙なり。惟《おも》うにわが両邦の旧章に率由し、永く以て好を為す者は、その誠信の渝《かわ》るべからず、約条の違うべからずと為す。すなわち今日の事、これを誠信といわんか。想うにまた自らその必ず施されざるを揣《はか》る。しかるになおこの遅留、一向執拗に窃《ひそか》に貴邦のためにこれを慨《なげ》く。近日朝廷の処分は到りて厳かつ重。本府使道方、悚惶《しょうこう》待勘中に在れば、すなわち幹事の任官をよくせず。罪尤《ざいゆう》何ぞ居らん。籍して十年|淹留《えんりゅう》し万般をしてこの説をなさしめば、行なうべきの日なし。幸に希倖《きこう》することなかれ。幡然《はんぜん》として改め図り、務は妥当の地に帰す。これ深く企つる所、苟《いや》しくも一分図るべきの望みあらば、すなわち任官たるも曷んぞ大きに極力|斡旋《あっせん》し以て遠人の心に副《そ》わんや。言、ここに止まる。庶《こいねが》わくば諒すべし。 [#地から2字上げ]訓導 俊卿 安僉知 [#5字下げ]館司尊公 [#3字下げ]覚[#「覚」は中見出し]  一 左近衛少将  功に因って秩を増す。想うに或いはここに有らん。而してこれを本国に行うも可なり。交隣の文に到り自ら講定不易の規有り。すなわち何ぞにわかに幾字をここに加えんや。すなわちわが国礼曹参議原右侍郎東莱府使例兼礼参議にして  自ら前《すす》み刪して書せず。  貴邦何ぞ独り惟《ただ》意に増減し前例に遵わざるか。  一 平朝臣  往牒を歴考するに高大職の人と雖も未だ官職の姓名中間に贅する者有らず。これもまた格外なり。  一 書契押新印  貴国封疆の臣は、想うにまさに原《もと》印章有り。これを本国に行なうべし。而して貴州の必ずわが国印章を書契に用うる者は憑信《ひょうしん》の意たらんと欲す。すなわち是不易の規、今改めて他印を以てせんと欲せば、すなわち決して受くべからざるなり。  一 礼曹参判公  公は是《これ》君公の称にて五等侯伯の爵に首たり。すなわちこれを大人に較《くら》ぶれば、実に貶降《へんこう》に非ず。けだしこの書契の称は大人を以て三百年已行の例なり。今忽ち公を称するは、これ格外に係るなり。またまさに前に依るのみ。  一 皇  皇はこれ天下を統一し率土共尊の称なり。これを貴国に行なうと雖もしかも貴我の間往来の書中、すなわち交隣以来未だ有らざるの事。かくの如き字句、決して受くべからず。  一 奉勅  勅はこれ天子の詔令。これは貴国人尊奉の説なりと雖も、而して蓋し交隣より以来|剏見《そうけん》の字なり。更に論を須《もち》いず。  一 厚誼の存する所は容易に改めざる者あり。  貴州の世、わが印を受くるは私に非ず伊公なり。而してこれを厚誼の存する所に帰す。微者はこれを以て私誼底意と為す。しかして下段私を以て公を害すの句に至り、大きに駭異を覚ゆ。当初受印何ぞ甞て私に与受して私の一字を以てその中に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]むに及ばんや。貴国典州の官、もし私に印章を隣に受くればすなわち貴国の事あに異ならざらんや。  一 大抵両国の約条はすなわち金石|不刋《ふせん》の文なり。書契の往復は汗漫字に非ず。而していやしくもその一言は格に違い一字は眼を碍《さまた》ぐ。必ず容受擯接の理なし。百年相持すと雖もいたずらに隣好を傷《やぶ》るのみ。あに事を済《な》すの期有らんや。想うに貴国もまた深く事体道理を識るの人有らん。而も終に悟るを知らず、窃に之をなす。深慨深慨。 [#地から2字上げ]訓導 俊卿 安僉知 [#地から2字上げ]別差 旻文 李主簿 [#3字下げ]館司尊公[#「館司尊公」は大見出し]  東莱伯等はさだめて急使を朝鮮政府に差し立てて、政府の訓令を受け、右のごとくわが報知書に対する返詞を館司に贈りたるものと思わるる。この書は副差使菰田多記捧持して対州へかえり、宗侯の一覧をへてただちに東京に上り、政府に呈した次第である。この緊要事件は内輪の返詞で、正当の手続きをふんだるものでない。そもそも正当の手続きというものは、対州より朝鮮に書翰を渡す前においてその書翰の写《うつ》しを示し、朝鮮にて異義なければ、はじめて二重関門のうちにある公堂において、厳重なる儀式にて受授をなすが例であって、朝鮮より対州へ渡すもまたこれと同様である。維新報知書はいまだその正当の手続きに至らずして、内輪で写しを示したままであった。 [#3字下げ]朝鮮事情[#「朝鮮事情」は大見出し] [#1字下げ]宴間の奇談[#「宴間の奇談」は中見出し]  朝鮮官吏と会見したるとき、二、三の奇談がある。一日館司らと共に、官吏の招請に応じてその宴飲に会す。その席間白茅いう、貴国の礼楽制度は、唐代かもしくは明代か、または文公家礼などによって制定せられたるものかと問い試みたれば、安俊卿答えていう。わが国は周礼を用うと。白茅もこの答には閉口してひそかに心で笑うた。周礼は言わずとも。 [#1字下げ]殿の字拝[#「殿の字拝」は中見出し]  むかし豊太閤征韓の役を朝鮮人は今に至るまで深く恨みているということは、毎度聞きおよんでいるが、白茅らが渡韓した頃までは、厳重なる関門を二重に建築してまたその関門内に入る事は堅くこれを禁じ、和館より船に乗って海岸を迂回《うかい》することも厳禁であった。さてその二重関門の間にある公堂の前に殿の一字を書き、扁額に仕立てて、高く掲げてあった。この殿の字はどういうわけかと問えば、殿の字は暗に朝鮮の国王を指したるもので、ある時は、朝鮮人民に拝せしめ、また対州人へも拝せしむることありと答えり。土人はこれを殿の字拝と唱えておった。 [#1字下げ]水中を往来する書翰[#「水中を往来する書翰」は中見出し]  公用で大至急を要する事件ができたるときは、至って小なる一葉舟に舟子五、六人乗組みて漕ぎゆき、もし海上において大風起りて顛覆《てんぷく》すれば、ただちにその舟を引き起して漕ぎ進み、また覆がえればまた起して進むという、極めて盛んなる水中の使者である。その捧持する文書は竹製の筒に入れ、堅固に密封して、いくたび水に入っても決して損害せぬように工夫してある。故に書翰は容易に水を潜りて往来する事が出来るのである。 [#1字下げ]古関[#「古関」は中見出し]  朝鮮は箕子《きし》が封ぜられたる邦と称して、至って古き文字の国だけあって、関門の左右の柱に、虎豹関を守り、風霆《ふうてい》海を駕《しの》ぐ、と書いて掛けてあったが、文字は専門だけあって字画はなかなかよかった。 [#1字下げ]日韓の小貿易[#「日韓の小貿易」は中見出し]  二重関のうちにおいて、三八の日を期して日韓の商人らがおのおの国産を持ち出して市を開く条約であるが、白茅らがいったときも少しずつ貿易をやっていた。この貿易は双方の商人にかぎるので、宗家より出す歳遣船の貿易とは異なるもので、すなわち貿易が二つあるわけである。居留地には昔時官民共に二百人余も住居したるが、この頃はわずか百人ばかりということで、墳墓は累々として見える。さてその貿易品のうちには、同国の名産なる蜂蜜を鬻《ひさ》ぐものあり。かの地で甘味を帯びたるものはすべて蜂蜜をもって製造したのである。日本で朝鮮飴というものも、やはり蜜製である。砂糖は何故に作らぬかと問えば、驕奢《きょうしゃ》に長ずるからとの答えである。酒も日本の濁酒《どぶろく》のごときもので、清酒は作らない。すべて倹約主義より割り出したものと見える。ただし遠方人と交際するには、物品の贈遺はすこぶる手厚くする習慣がある。この事は朝鮮にかぎらず、徳川氏の群書治要[#「群書治要」に傍点]における支那よりの贈遺物、ならび維新の際伊達侯の支那行でもわかっている。白茅らより官吏へ縮緬《ちりめん》一疋と甲斐絹一疋を贈進したれば、帰るときかれより返礼として虎皮一皮、白木綿および団扇等たくさんおくった。 [#1字下げ]草梁項の墓参[#「草梁項の墓参」は中見出し]  前に述べたるとおり、二重関門を越えて、関内に入ることは厳禁であるけれども、春秋の彼岸節にはこれを過ぎて草梁項にゆくことが許してある。そのわけは豊太閤征伐の折り、小西摂津守の配下なる戦死者の墓が草梁項にあれば、春秋二度の墓参を許可してあるのである。白茅らは幸いにして春の彼岸に遭逢したから、草梁項の小高き所に往って戦死者の墓を弔した。墓は十五、六で、墓上には丸石をのせてあるのみであった。近傍の田野はよく開けていた。白茅らに附き添うたる通弁二人、ほかに朝鮮人五、六人は深き笠を冠り同一の衣服であったが、この五、六人はみな僧侶で、白茅らを墓所に案内するものであるということであった。途中は三人とも馬に乗って往来したが、漁人農夫の婦女らは白茅らをみて隠避するもようがあった。  草梁項地方は樹木みどりにして、米麦野蔬もよく繁殖するよし、白茅のゆきし時はちょうどあんずの花盛りで、日本の[#「日本の」に傍点]さくらはない。ただし対州より出張せる館司某が植えつけた桜は数株みえた。この陸海界は霧の深いところで、先年米国軍艦が数日海上に漂うたのも、さだめてこの霧のためであったろうということであった。 [#1字下げ]帰朝[#「帰朝」は中見出し]  白茅は、朝鮮政府より返詞の吉不吉にかかわらず、かれが維新報知書を受け取らぬ理由だけは書せたものであるから、使命はまず一段落を告げたものとして、残務を森山、斎藤の二人に委嘱し、白茅一人はまず対州まで帰り、同地にありて一篇の建白書を裁し、二人の帰港を待って共に長崎に引返した。しかるに白茅は宿痾《しゅくあ》静養のため再び長崎の病院に入りたれば、森山、斎藤の二人は先に、帰京の途に上りたり。故に対州にて裁したる建白書はかの両人に託して提出せしめた。これは白茅第三の建白書である。その建白は左記の通りであるが、その後一字も代えない。代ゆれば当時の事情をありのまま示すことあたわざるのみならず、虚飾にわたって歴史の真面目を毀損《きそん》するの恐れがある。かつ前にも話したとおり残務を森山、斎藤の二人に委託し、一足さきに対州にかえり、ひそかに一室に引き籠りて作った建白であって、親友にもみせず、文字の修飾もせず、ただ白茅が赤誠《せきせい》を表出したるまでである。今読んでみれば、行文もあしく、汗顔の至りなれども、真面目であるからその辺は諒せられよ。 [#3字下げ]白茅第三の建白[#「白茅第三の建白」は大見出し] [#ここから1字下げ] 佐田白茅|誠恐誠惶《せいきょうせいこう》、昧死《まいし》再拝、謹んで白す。白茅朝命を奉じ、朝鮮に入りてその状情を探討す。謹んで探索紙若干を奉貢し、今又白茅の妄論を条上し、敢て進止を取らん。 [#ここで字下げ終わり]  明治三年三月。  朝鮮は近年、大きに武官|興《おこ》り兵制を練り器械を製す。諸方に兵営を作り、諸道に全穀を蓄《たくわ》う。文官は則ちシ然《かいぜん》として問わざるなり。嚮《さき》に天朝、一新の書を下せり。文官皆曰く「宜しく交を結ぶを以てこれに答うべし」と。武官皆曰く「交を結ばば則ち日本は終に我を以て藩属と為さん。すべからくその書を排斥すべし」と。国王は武官の説を採り、不遜の文字有るを以てこれを擯卻《ひんきゃく》せり。嗚呼それこれを擯卻す。これ朝鮮の皇国を辱かしむるなり。皇国あに皇使を下し以てその罪を問わざらんや。  朝鮮は守るを知りて攻むるを知らず。我を知り彼を知らず。その人は深沈|狡獰《こうねい》、固陋傲頑《ころうごうがん》、これを覚《さと》りて覚らず。これに激して激せず。故に断然として兵力を以てこれに※[#「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1-91-13]《のぞ》まずんば則ちわが用と為らざるなり。いわんや朝鮮は皇国を蔑視し、文字に不遜有りと謂い、以て恥辱を皇国に与う。君辱かしめらるれば臣死す。実に不戴天の寇なり。必ずこれを伐たざるべからず。これを伐たずんば則ち皇威立たざるなり。臣子に非ざるなり。速やかに皇使を下し大義を挙げ、皇国を辱かしむる所以の者を問わん。彼は必ず|屯※[#「「二点しんにょう+亶」、9085、110-下-16]※[#「足へん+次」、110-下-16]※[#「足へん+且」、第4水準2-89-28]《ちゅんてんししょ》して、降伏謝罪し、惟命これ聴く能わざらん。これに於て皇使忽ち去り、大兵にわかに入る。その十大隊は江華府に向かい、直ちに王城を攻め、大将これを率う。その一少将は六大隊を率いて慶尚、全羅、忠清三道より進む。その一少将は四大隊を率いて江原、京畿より進む。その一少将は十大隊を率いて鴨緑江を溯り、咸鏡、平安、黄海三道よりして進み、遠近にして相待つ。緩急相応じこれを角しこれを掎《き》す。必ず五旬を出でずしてその国王を虜とせん。もし然らずんば而して徒に皇使を下し百たび往復すと雖も実に下策却法、征討の最速にしかず。決して浪挙に非ざるなり。  朝鮮は正朔を清国に仰ぎ、しかしてその実はこれに事《つか》うることを欲せず。それ清祖は夷狄《いてき》より興れるを以てなり。然れども苟も正朔を仰がば則ち患難相救い、義はまさに然るべし。故に天朝の兵を加うるの日に当り、則ち皇使を清国に遣わし之を伐つ所以の者を告げ、而して清もし援兵を出さば則ち清を并《あわ》せてこれを伐つべし。  朝鮮に太院君なる者有り。国王の実父なり。丙寅の年、朝鮮、仏蘭西と戦争の後、専ら政柄を握り威福を擅《ほしいまま》にす。ただ武を好みて深謀遠慮なく、税斂《ぜいれん》を厚くし金穀を蓄う。下民|怨※[#「對/心」、第4水準2-12-80]《えんたい》せざるはなし。一日、わが三十大隊を挙げて以て彼の巣窟を蹂躙《じゅうりん》せば則ち土崩瓦解せん。一夫太院|七縦七擒《しちしょうしちきん》は、実に易易たるのみ。  皇国をすべて一大城と為さば、則ち蝦夷、呂宋、台湾、満清、朝鮮のごときは、皆皇国の藩屏なり。蝦夷はすでに開拓を創め、満清は交わるべく、朝鮮は伐つべし。呂宋、台湾は手に唾《つば》して取るべし。それ朝鮮の伐たざるべからざる所以は大きにこれ有り。四年前、仏国は朝鮮を攻めて敗※[#「衄のへん+(梁−木−さんずい)」、U+4610、112-上-2]を取り、懊恨《おうこん》限りなし。必ず朝鮮をして長久たらしめざらん。又露国は窃にその動静を窺えり。米国も亦攻伐の志有り。皇国もしこの好機会を失いてこれを外国に与うれば、則ち実にわが唇を失いてわが歯は必ず寒し。故に白茅痛く皇国の為に撻伐を唱うるなり。  今、出師《すいし》の論を発せば、則ち人は必ず糜財蠧国《びざいとこく》を以てその論を破らん。白茅謹んで按ずるに、朝鮮を伐つは利有りて損なし。一日若干の金穀を投ずと雖も、五旬を出でずしてその償を得ん。今、大蔵省は毎歳金およそ二十万円を蝦夷に出し、いまだ幾年にして開拓を成すかを知らず。朝鮮は則ち金穴なり。米麦も亦|頗《すこ》ぶる多し。一挙にこれを抜き、その人民と金穀を徴し、以てこれを蝦夷に用うれば、則ち大蔵省はただその償を取らずして、幾年間か開拓の費を省かん。その利、あに浩《ゆたか》ならずや。故に朝鮮を伐つ者は、富国強兵の策にて、容易に糜財蠧国の論を以てこれを却《しりぞ》くべからざるなり。  今、皇国は実に兵の多きを患いて、兵の少なきを患えず。諸方の兵士は未だ東北の師に足らず。頗る戦闘を好み、足を翹《つまだて》て乱を思う。或いは私闘内乱を醸成するの憂を恐る。幸に朝鮮の挙有りて、これをここに用いてその兵士欝勃の気を洩さば、則ちただ一挙に朝鮮を屠るのみならず、大きにわが兵制を練り又大きに皇威を海外に輝かさん。あに神速にこれを伐たざるべけんや。 [#3字下げ]白茅の志[#「白茅の志」は大見出し]  朝鮮がいよいよ頑冥《がんめい》不霊でわが言に随わざれば、干戈をもってかれを圧服し、かれより和を請《こ》うに至らしめば、厳粛なる条約を立つるの権利はわれにありて、異日相共に大なる利益を占めることができるというのは白茅の宿論であった。そのほか亜洲の中央、もしくは南方諸国にむかって手を伸ばす策もあったけれども、すべて予想の言であるから話さない。当時わが政府は因循《いんじゅん》で、出師《すいし》の勇がなかったから、爾後《じご》は百事みな非で、日本も朝鮮も露国その他より損害をおよぼされたのではないか。先見のなき政府は実にしかたがない。そもそも天下の公論は一寒生より起るということのわからないのは、永嘉先生の八面鋒を読んだことがないからである。遺恨限りなしと大息するのほかはない。  岩倉公、大久保、木戸は大政治家で、国内を治めることは上手であったけれども、外国に対することは下手であった。もし明治の初年に白茅が論を採用すれば、建白書に予言しておいたとおり、ルソン、フィリッピン辺まで、わが所有となり、海上の大権を占め、英でも露でも独でも仏でも、わが大日本国の日章旗に対し、重拝して往来せねば商売ができぬ、儲からないということになるのは必然の勢いである。はたしてしからば、今頃は世界の大権はわが日本国で握っておったであろう。実に惜しむべき至りである。さわさりながら、ここに愉快なる夢物語りがある。明治三十三年の春の頃、世界の言語学者が独のベルリンに大会を開きたるとき、一人いう、日本の言語は到る所に到り、止まる所に止まり、よくととのうてまことに明らかで、かつ言語の前後に謙遜の詞が附属しているので申しぶんがない。よって日本言語を世界の言語と定めてはいかがであろうかと発議したれば、満場一致の賛成であったと申すが、右の言語学者を東京に延請して大会議を開き、日本言語を世界の言語と確定せしめ、かたわら言文一致の方法を神速成功して、万国官民をしてあまねく日本の言語を用うるように推し広めたならば、識《し》らず知らず世界を統一する暁に達し得るかもしれぬと、喜んでおる人のある夢をみた。 [#3字下げ]白茅征韓論に対する妨害[#「白茅征韓論に対する妨害」は大見出し] [#1字下げ]横山の諫死[#「横山の諫死」は中見出し]  横山正太郎は薩州藩士で王陽明学を尊信する人であったが、思うところあって集議院に建白して、その門前において屠腹《とふく》したのは、いわゆる諫死《かんし》で、まことに誠意の男である。かれはおもに政治上の秕政《ひせい》をあげて諫《いさ》めたのであるが、佐田が征韓論はよろしくない、今は内治が大切である、なんぞ朝鮮の罪を問うに遑《いと》まあらんやということを書いて、断然屠腹してしまった。そのいうところはおいて論ぜず。死をもって諫めたのは実に天下の耳目を聳動《しょうどう》せしめた。この一事は白茅が征韓論を遮《さえ》ぎられた一箇条である。早くいえば、白茅は生きながらの論者であるが、横山は身を殺して諫めたという反対の溝渠《こうきょ》が立っているのじゃ。 [#3字下げ]寺島外務大輔の小征韓論[#「寺島外務大輔の小征韓論」は大見出し]  一日外務大輔寺島陶蔵氏の宅を訪うたる時、寺島の話に、足下は策略に欠《か》くるところがあった。なぜなれば、足下が朝鮮にゆくときも征韓論、帰ってもまた征韓論で、まことに困った。全体帰ってから、実地に行ってみればぜひ征伐するにもおよばない、早く公使をやるがよいといえば、足下の宿志もあるいは遂げたこともあらんなれども、往《ゆ》くも帰るも征韓論で、佐田は師《いくさ》ずきと政府から思われている。しかし足下の誠心はまことに感服いたす。おれも公使に船半隻ばかりの兵隊をのせて遣《や》りたいと思うけれども、なにぶん政府は応ぜないといわれた。かかる論者も白茅の妨害者である。 [#3字下げ]大久保参議の答[#「大久保参議の答」は大見出し]  白茅一日森山と同伴して、皇居に上り、時の参議大久保利通に面会して書付を提供した。その次第はこの節仏国より朝鮮へ手をつける兆候があるから、征韓のことを速やかに決議せられたいという主意であった。ところが大久保は荘厳なる風貌を示して、いずれ御評議になるであろうと答えられたまま、あとは応答はせなかった。大久保も反対論であるからである。 [#3字下げ]木戸参議の因循征韓論[#「木戸参議の因循征韓論」は大見出し]  また一日森山と同伴して、木戸孝允氏をその宅に訪うたるに、ちょうど広沢参議がかえられるときで、木戸参議はわれらを一室に延《ひ》き、ゆるりと談話された。木戸はもとより知る人で如才《じょさい》なき人物なれば、征韓論ではあれども因循論であった。木戸曰く、このごろ朝鮮論をつくったとて、二枚半ばかりの片仮名まじりの文をみせられた。これを読んでみたが、その主意は征伐はせねばならぬけれども、わが兵備を充分整頓してから征伐するという論であった。その論につき質問したけれども、すべておだやかに答えられ、なにぶんその底意の了解に苦しんだ。(この論文は柳原家に伝う)木戸氏手をたたいて侍女を呼び、命ずるところあり、間もなく侍女は紫縮緬のふくさで包んである黒塗りの文箱を捧げきたれり。木戸氏そのうちより一通の文書を取り出し、これはかつて大村益次郎より、拙者へ贈った書翰である。この文中のこの所に(指をさして)書いてあるとおり、予も大村と同様征韓論でおるけれども、ただいまこれを急に伐《う》つというのではない、要するに諸君と同論ではあるけれども緩急の差があると、畢竟《ひっきょう》白茅よりしきりに迫まり立てて勇決せられたしというたから、やむを得ず証拠まで引き出して巧みに弁ぜられたるもので、到底因循論で、岩倉公、大久保氏と同論と察せられた。 [#3字下げ]白茅が征韓論に対する同情[#「白茅が征韓論に対する同情」は大見出し] [#1字下げ]丸山外務大丞の征韓論[#「丸山外務大丞の征韓論」は中見出し]  外務大丞丸山作楽氏が樺太に出張して、露国の武官某と時々談判中は、深く心力を尽くして経営していたが、政府の議がにわかに変じて、われに千島を取り、かれに樺太を与えるという交換のことに決したるゆえ、丸山は大いに落胆したるも、外務省には日々出席していた。一日白茅を省の密談所に招き、ひそかに白茅にいって曰く、ご承知のとおり樺太はかくのごとし。予は今日より断然君が宿論たる朝鮮に尽力しようと思う。白茅曰く、大いに尽力したまえ。丸山曰く、朝鮮征伐の事を政府に幾度申し立ててもだめだ、朝鮮は断然とやらねばいかん、他言は無用だが、語を低くし、断然暴発しようじゃないか、君英断して憤発すべしと。白茅も詞をしずかにしていう、暴発もよろしいけれども、事を仕とげても大義名分がいかがであろうか、とくと考慮しよう、このことは森山にも話してはよくない。丸山曰く、勿論ごくごく秘密だよ。白茅曰く承知承知。そののち丸山は長州脱隊の大楽源太郎らが久留米に逃げきたったことにつき関係あり、また京都の公卿らのことにも干渉しているという嫌疑があって、東京府内に設けらるる警察局に拘引せられ、しばしば糺問《きゅうもん》あったけれども、丸山はそのまえ本願寺の旅宿において外務少丞水野千波の秘密通知に接して、書類はことごとく焼きすててあったから、証拠不充分であった。(のち水野は内通の罪をもって免職せらる)しかるに警察では、丸山が白茅へ密談する以前、ひそかにドイツ人について多額の金円借用の約束を結びたることを探偵し、何のためにかかる莫大の金を借りる約束を結びたるかと厳しく詰問におよんだから、丸山は大いに窮して遁辞を用うることあたわず、朝鮮暴発の事をありのまま白状した。それゆえその罪になって、終身懲役となって、長崎に永く幽囚せられておった。丸山がドイツ人と約束したる金高は二十万円で、この金策が出来たから白茅へ暴発の相談を試みたものである。ところが白茅も予想外ただちに暴発しようと同意しなかった。もしつごうよく同意して、さて金はどうするかと問うたらば、かようかようと答うるつもりであったが、案に相違したから、金策の話におよばなかったとは丸山の直話である。 [#3字下げ]江藤新平の使者[#「江藤新平の使者」は大見出し]  白茅は明けても暮れても征韓のみに力を尽《つく》したけれども、とても政府は動かないものと見切りをつけ、明治四年の秋、久留米の田野に帰臥し、十畝の桑田を耕し世事を忘れたるおりから、隣国なる佐賀に江藤新平の乱あり、桑田より望めば煙焔天に漲《みな》ぎり、凄じき勢いありしも、白茅は耕してしこうしてやまざりし。あとで聞けば、江藤新平より専使を久留米の県庁に遣《つ》かわし、佐田白茅をたずね住所はいずこにある、いずくをどなたへとおるかとくわしく問うた様子なれども、県庁員はいかが思いけん、知っておるには相違なかりしも、佐田はいずこにいるかわからぬ、聞くところによれば、これより十二、三里隔てたる筑後の山中に入って養蚕《ようさん》しているということであると答えたれば、わずかに旧城下を距たる一里ばかりなる白茅の住所には訪いくるあたわざりし。江藤はもとより知人で征韓論者であったれば、白茅を招きて参謀にでもするつもりであったか、あるいは久留米同志の応援を請《こ》うつもりであったか、呵々。 [#3字下げ]西郷南洲翁の大征韓論[#「西郷南洲翁の大征韓論」は大見出し]  試みにわが中古の歴史を繙《ひもと》けば、朝鮮征討の事を紀すること、わが国の記事よりも多いほどである。いわゆる唇歯輔車《しんしほしゃ》の譬《たと》えで、その関係深きが故であるけれど、朝鮮は往昔のごとく貢献して附庸の実を挙《あ》げしめねばならぬ。もしかれにしてこれを肯《かえん》ぜずんば、われより大義名分を提げてその罪を問うは、これ志士仁人の国家に尽《つく》すべきの義務である。白茅はこの主義をもって征韓論を唱えたるが、そののち明治五年の冬、南洲西郷隆盛翁も征韓論を政府に提出したるところ、岩倉公をはじめ、木戸氏、大久保氏らこれに反対し、議論うたた激昂したるとき、翁は単身でゆくという決意を表したれば、岩倉公はこれを聞き、もし殺されたときはどうするかと尋問せらるると、翁はさあその時こそ征韓が始まるのであると答え、相い対抗して大議論となる。三条公は征韓説なれども言語いたって穏かで即決の勇気に乏しく、西郷翁と同論の人々はしきりに決議を迫りたれば、三条公もしからば征韓に決すべしと断言せられたり。しかるに岩倉公はこれを留め、いまだ上奏におよばずして速決するは不可なりと責めかけ、議論一層激烈となり、西郷、副島、後藤の三参議は口をそろえ、しからば陛下の聖断を仰がんと突き詰《つ》めたるときは、さすがの大久保氏も大いに困まられたる態度をあらわしたるも、やむをえず、一奇策をめぐらしたことがある。諸公の議論もっとも激烈なる際において、大久保氏はひそかに密書を作り、侍従長徳大寺公に贈り、もし閣員中より今夜御前会議を請《こ》うことあらば、今夕は陛下少々御不例につき拝謁は仰せつけられずと答えられよと申し通したるよし、この密書は、今なお確かに存在している。  かかる次第にて、征韓論はついに否決せられたれば、西郷翁は副島氏と連れだって禁中を退き、御玄関で、ああ公家《くげ》は用に立たぬと嘆息し、その翌日より断然帰藩の途に上り、横浜より拝表して参議を辞し、帰村ののちはもっぱら農業に英気を洩しおるところへ、桐野、篠原らの猛将勇士が政府の秕政《ひせい》を訴え、翁を擁《よう》して西南の戦いを起さしめたのである。してみれば、征韓論はえらいものではないか。 [#3字下げ]板垣翁の先見[#「板垣翁の先見」は大見出し]  板垣退助翁は実に先見のある人なり。一昨年史談会において、東北戦争のことを談話せられた。その談中に、自分は師《いくさ》に臨むと奇妙な感覚を惹起《じゃくき》することがある。今敵がどこにどうしている、またどの路を急いでくるという感覚を惹起して、その兵隊の多少まで歴々として見ゆるがごとくであるが、実際はたしてしかりで、まことに妙じゃと話されたが、その感覚はいつでも当たるというわけにはゆくまいけれども、翁は全体先見があって、白茅が征韓論をやっているということを聞かれ、白茅に面接してその論旨を聞かれ、しごく賛成であった。翁曰く、しからば外務省において速やかに公使を朝鮮に遣《おく》ることに尽力せられよ。われは土州より兵隊と兵糧を繰り出すことに周旋し、共に国家のために尽瘁《じんすい》せんと懇話せられ、そのほかにもいろいろ画策のことありて、なかなか盛んなる議論で、将来のことなども深く考えておられた。白茅はこの時、一敵国を獲《え》たる心持ちがして、ひとしおふかく蹈《ふ》み込んで、沢外務卿、寺島外務大輔その他の人々へ、公使派遣のことを充分游説したれども、これに応ずる人がすくなかった。ただし沢公は賛成の気あり、寺島も同一の様子見えたるも、深く立ち入らるることをあえてせられざりし。ある日、寺島曰く、朝鮮の事件を政府に提出すれば、あの三十大隊かといって相手にせないようになったと話された。この三十大隊とは白茅が建白中にある文字を指したるものにて、征韓論者を嗤笑《ししょう》する話柄となったのである。  白茅が久しぶり、板垣伯に面会したるは、明治三十二年二月十八日の史談会の席上であった。その時白茅は翁にむかい、久濶《きゅうかつ》を叙し、さて先年白茅が征韓論を唱えましたせつは、あなたは土州邸にご出張でしたから、白茅まかりいで宿論を吐露したるところ、あなたは朝鮮へ公使をやることを外務省において手続きを立てるように充分尽力せよ、土州よりは兵と糧とを出だすようにするとのご説論ありましたけれども、ついに行なわれなかったは残念なりと申すと、伯はかの時朝鮮からやった書翰をたずねているけれどもいまだたずね当らぬ、どこにあるか、あるいは外務省にでもありはせぬかとのたずねであったから、白茅はあれは日本人の作りたるもので、偽書でありましょうと答えた。すると伯は決して偽書でない、朝鮮政府より外務省に贈り、それから政府にさしだした書翰で、そのうちに失礼なる事件があって、政府に征韓論が起って、副島がその書翰につき、強く論じたるわけで、決して偽書ではないと弁ぜられた。白茅曰く、私が申します書翰と、あなたのご覧になった書翰はちがっておりましょう。白茅が申します書翰は、その時世上に流布《るふ》したるもので、今に所持しております。もとよりかの東莱府使らより維新報知の返詞せない理由を書いた書翰とは別物でござりますと。この時白茅はかたわらにいる岡谷繁美氏を顧み、君はかつて修史館において朝鮮事件を取調べられたるが、今伯のおたずねになる書翰ありしやと問いしに、岡谷氏はなしと答え、あのときは三条公が総裁で、秘密にかかわることは採集せぬようにとのことであったから、例の征韓論で、西郷、大久保の大議論のありし夜半、大久保より徳大寺公へひそかに贈りたる書翰も秘密というので見ることが出来なかったとの事も申し述べたれば、伯微笑して曰く、秘密でウウ。白茅曰くあなたのおたずねの書翰を自然見出すことあれば、早速ご覧に供すべしとの談話であった。伯は当時なかなか熱心の征韓論者であるから、星霜三十年後の今日に至りてもなおその事を念頭にかけおらるることが、この時の談話でもわかる。 [#3字下げ]附記[#「附記」は大見出し]  ここに一言しておくことがある。かの花房公使にむかって、朝鮮人が暴発し、これがため日本より朝鮮に兵隊を派遣するの時、わが参謀本部で征伐の順序を研究したるが、朝鮮を攻める口々は、佐田白茅が建白に書いてある攻め口よりほかには攻め口はないから、それに決しようということを宇田太郎より白茅に告げたことがある。ただその攻め口ばかり採用せられて、これを実際に見ることの出来ざりしは、いかにも残念残念。 底本:「現代日本記録全集3 士族の反乱」筑摩書房    1970(昭和45)年5月15日初版第1刷発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。