山頂の燈火 The Men Who Climbed. マジョリエ・ローリー・クリスティー・ピクソール Marjorie Lowry Christie Pickthall 妹尾韶夫訳  晴れた日の午後三時、フォレスターは展覧会の入口で切符を買った。 「ありがとうございました。」 「フォレスター峰の大きな絵があるのはどこですか?」 「三号室です。お入りになって右側へまわってください。」  ふとった老婦人のすぐあとについて、狭い展覧会場の入口をはいった。  一号室と二号室はろくに見もしないで素通りした。誰も彼をふりむかない。だから、「あれがフォレスターだよ。あんなびっこの弱々しい男が、よく山へ登れたね、」などという者は一人もなかった。その点彼はすこぶる気楽で、思うぞんぶん絵がみられる。  いまの彼の気持、彼の脳裡を去来する考えはただひとつ。それは、「マクドナルド氏は偉い。よく秋の展覧会の画題としてあの山をえらんだ。やはり自分がみて感嘆する山の姿は、万人の心をとらえるものとみえる。」  やがて三号室。あるある。部屋へはいるとすぐ分った。身がひきしまるような生々とした巨大な山の絵は、突きあたりの壁面を一つで全部占領している。題して、「東南より仰いだフォレスター峰」という。  おお、なんという雄大なながめ!  白雲の間から、地図の河のようにちらりと光ってみえる皚々たる雪渓。見渡すかぎり茫々海のように数限りない峯巒の重畳したなかに、たった一つ一段高く屹立するフォレスター峰。心行くばかり日光を吸収した紺碧の空の美しさ!  目がくらむような気がした。全身に寒けをおぼえて思わず彼は息をのんだ。  むりもない。天地開闢以来、あの雪渓を横断し、あの峻嶮を登攀して頂上に足を印した人間は彼一人なのだ。処女峰征服のレコードをつくった彼は登山協会から表彰され、同時に協会はその高峰にフォレスターの名を冠し、全米はおろか、全世界に放送した。名誉ある騎士! 話題の冒険家!  彼は広い部屋の中央にある革ばりのソファにどっかと疲れた身体を沈めて、さて念入りに改めて絵の細部を眺めはじめた。思い出の楽しさ。生命をまとの苦しい登山も、いまになって回想すれば懐しい幻想である。  彼はまだ痛む右脚の膝をさすってみた。画面の左手に描かれた雪渓の上の切って落したような断崖。右脚をくじいたのは、頂上を極めておりる途中、あの断崖で足を滑らしたためであった。あの時にはみんなが、もう生涯びっこになるかも知れないといったが、親切な医者、金にあかした治療のお蔭で、今では杖なしに歩けるようになった。やがて元通りの体になるであろう。 「失礼ですが、あなたは山がお好きなんですか?」  びっくりした。  ふりかえると、同じソファの隅っこに、みすぼらしい白髪の男が一人腰かけている。どこかの職工か。職工にしては年齢をとりすぎている。百姓か。小使か。こんな男がどうして展覧会へまよいこんだのだろう。それとも会場にやとわれた労働者だろうか。とにかく教育のある男とは思われない。 「ええ、好きです。あなたは?」  そうフォレスターはいった。  老いたる労働者は静かに笑いながら、ポケットから七個の銅貨をだして、きたならしいてのひらにのせてみせた。その笑顔には妙に純朴な、好人物らしい面影がある。 「女房のマギーからもらった煙草銭で入場券を買ったら、たったこれっぽちになってしまいましたよ。あははは。」  銅貨をポケットにしまうと、また山の絵をみる。  なんという老人だ。フォレスターはその男の意図を測りかねて疑惑の念をおこした。だが老人はそれきりフォレスターには頓着せず、うっとり絵を見いっている。  フォレスターの心にあたたかい同情がわいた。そしてやさしい声できいた。 「あなた、山に登ったことがありますか?」 「私? ええ、サンダー渓谷の北なら大抵の山へ登りました。あのへんの山は、遊びかたがた登る山じゃありませんね。あなたはどんな山に登りました?」 「サンダー渓谷の北です。大抵の山へ登りました。私はスティーヴン・フォレスターという者です。」得意げにいった。  労働者は居住いをただして、 「あなたがフォレスターさん! 新聞でみましたよ。この山の名はあなたの名をとって、フォレスターとつけたんだそうですな?」 「そうです。」ちょっと顔をあかくした。  両手をもんでつくづく相手の顔をみながら、 「あなたに会ったことを帰って話すと、マギーのやつが喜びますよ。」  フォレスターは老人の口からこんなおべっかを聞かされようとは思わなかった。労働者は腰かけたまましだいにすりより、だしぬけに大きな手で彼の腕をにぎった。 「旦那、この山にお登りになった時のことを話してください。帰ってマギーに聞かしてやります。」  これはフォレスターにとって迷惑な要求でない。登山当時の話は、なんども晩餐会の席上でしたことがある。それを簡単にくりかえしさえすればいい。が、マギーというのは何者だ。 「マギーといったら誰です?」 「私の家内ですよ、旦那。いま女中奉公をしていますが、私の仕事がみつかったら、女中を止めさせようと思っています。――あなたはソマルトの氷河をおわたりになったんですか?」 「わたりました。」フォレスターは地図にもない氷河の名を老人が知っているのに驚いた。「この絵にはありませんが、あの右の馬の背のようなところを縦走して狭い平地へでると、そこで最後のキャンプをしたのです。頂上で日がくれると困りますからね。」 「なるほど」と、労働者は真顔になって、感心したようにうなずく。「ザイルをおつかいになりましたか?」 「大きな断層のところまではつかいましたが、小雨でザイルが濡れて、そいつが凍って石のように固くなり、曲るごとにポキポキ音がして、重たくもあったので、途中で捨ててしまいました――」 「新聞で読んだのですが、頂上までお登りになったのは、旦那がお一人だったそうですな?」 「いや、私が頂上へ登れたのは、まったく二人のお蔭だったのです。ピーターズとメースン、どちらも金でやとった案内人ではあったが、よく私を助けてくれました。ところがキャンプの翌朝メースンが弱ってしまった。ピーターズだけでもつれて登りたかったのですが、あおくなったメースン一人を天幕にのこすことはできない。そこで私が一人で登ったのですが、あとできくとピーターズは長いあいだメースンの体を摩擦してやっと正気にかえしたそうですよ。まあ、そんなことはどうでもいいですが、二人に別れた私は、天幕のある方向から登ろうと思っても、そこは手をすべらしたら数百メートル下の森へつきおとされる断崖で、どうにも手がだせないので、雪渓を横切って、ぐるりと反対の側にまわったのです。そこは急は急だが、垂直ではなくて、多少の傾斜があるので、ピッケルで足場をつくりながら、はすに登りはじめましたが、そのうち、手套のために自由がきかないのと、指が凍ったのとで、革がはずれて、数百メートルの下へピッケルを落してしまったのです。ちょっと困ったが、仕方がない。ナイフをだして、それで手掛りをつくりながらほとんど一時間ばかりはすに進みました。頂上までは七〇〇メートルほどだから、こうして少しずつでも進行できたらいつかは頂上につけるはずなんですが、しばらくしてふと上をあおぐと、頂上へつけるという私の希望が、蝋燭の火のように消えてしまった。よくみると頂上の周囲は、まるで帯のように垂直な岩でとりまかれ、それが氷と霜でかちかちに凍っている。岩の高さは六メートル、その上はなだらかな斜面で頂上になっています。だからその岩を突破しさえすれば、あとは楽々と頂上にたっせられるわけなんですが、残念ながら、ピッケルを落してしまったので、足場を作ることができない。私は途方にくれて泣きだしたいほど落胆しました。  そこで私はしばらくその岩の下にしがみついたまま考えたのです。このまま断念してキャンプへ帰るにはどのくらいの時間がかかるだろう。どこかに登る道はないだろうか。あっちをむいたり、こっちをむいたりしました。ところが不思議なものがみつかったのです。ほかでもない。その垂直の岩場には氷の上に、ピッケルできざんだらしい足場が、点々と残っているじゃありませんか。その足場は自然にできたものじゃない。確かに人間がきざんだものらしいのです。」  そこまでいって、フォレスターはちょっと口をつぐんだあと、 「協会の連中にこの話をしますとね、人間が足場をつくったなんて、そんなはずはない、あまり心配したので錯覚を起したのだろうといいます。」  微笑しながら、また絵のほうへ目をうつす。老いたる労働者は、同情のこもった親切らしい目付で、熱心に彼の顔をみまもっていた。 「とにかく私は誰かがそこまで登ったことをしりました。にっちもさっちもいかぬ岩頭で、私はその先駆者にあい、案内されているようなきがして、たちまち元気が百倍してきました。その男は、いらなくなった外套をぬいで私にくれるように、自分の名誉を惜気もなく私にゆずってくれたのです。私はこんな危険な場所に足場をつくった先駆者に感心してしまった。どんな人間か知らないが、その男は星の世界へでものこのこ登って行く男にちがいない。私の口からいうのはおかしいが、世間では登山のレコードのことをやかましくいうけれど、これほど馬鹿げたことはないと思う。なぜというに、山というものが天地開闢以来存在するものである以上、何百年前、何千年前にそこへ登った人間がないとは限らないからです。  足場を発見してからあとは楽でした。足場には千年の氷がつまっているが、私はナイフでその氷をほじくりだして、ゆるゆると登っていった。そして頂上にたっすると、用意の旗を出してそこへ立てたのです。目に見えぬ先駆者が、私の成功を喜んでいるような気がした。私はその男に感謝しながら、一人ブランデーの祝杯をあげ、それからまた山からおりたのです。」  元気な声でそう話して、フォレスターは口をつぐんだ。二人とも黙ってしばらく山の絵を仰ぐ。各種の会合で幾度もくりかえした登山の話を機械的に喋っただけだが、無智な老人相手にそんな話をしたのが、いささか口惜しくもあった。 「こんどはあなたの番だ。あなたも山が好きだといいましたね。どこへ登りました。聞かしてくれませんか。」  そういって彼は老人をみた。老人は感慨ぶかげに絵を見ていたが、 「旦那は旗をお立てになると、すぐ頂上をおりられたそうですな。もっとよく頂上をさがしてごらんになったら、あすこに錆ついた古いランタンが落ちているはずなんです。」  フォレスターは身動きもせず、老人のつぎの言葉をまった。老人は彼のほうへむいて、 「若い時にはずいぶん無茶なことをやるもんですな。私は久しぶりに昔のことを思いだしました。私の他にあの山へ登った者があると聞かしてやったら、マギーも面白がるでしょうよ。」  またフォレスターは黙ってつぎの言葉をまった。 「旦那、若い時に、私がこの山へ登ったので、マギーはこの山を私たち二人の山のように思っているんです。そして、『あなたがクリスマスの晩にあんな馬鹿なまねをしたから、それで私はあなたのおかみさんになったのよ』とよくいうのです。」  何十年も昔のことを思い出して、恰好のいい青い眼が、若々しく輝いていた。 「その頃はまだマギーのやつと夫婦じゃありません。二人が夫婦でなかった時代があろうなぞとは、今から思うと嘘のように思われるんですが、やはりそんな時代があったのです。その頃のマギーの美しさといったら、そりゃ、旦那、カスカペディア中をさがしたって、あんな可愛い女はありませんでしたよ。ですから沢山の男が後をおいまわしたんですが、一番親切なのはやはり私でした。あの時、『おれのような貧乏な男より他の男といっしょになったらどうだ』、と、心にもないことをいってみたのですが、マギーは私の肩に手をかけて、『私は誰とも結婚しないつもり、あなたとも結婚しないわ。』といいました。これはどの女でもいうきまり文句です。旦那もそれはご存知でしょう?」 「さあ、どうですか――で、それからどうしました?」 「それでもとうとう結婚に同意してくれて、クリスマスにいっしょになる約束ができたのですが、当時マギーはカスカペディアの店の売子、私は山をへだてたウクワガンの木挽、どちらも金がないので、そう思い通りに家をもつことはできません。それで残念ながら手紙をだして、このクリスマスに結婚できそうもないから、来春まで待ってくれといってやったのです。  ところがまもなくマギーの返事がきましたが、それには、そんなら仕方がないから春までまつ、けれどクリスマスになったら、私のことを想い出してくれと書いてありました。マギーの町と私の町とは、そんなに離れていないのですが、ただそのあいだに大きな山脈があって、両方の町から同時に見えるのが、なかでも一番高いこの絵の山だったのです。」  労働者はそう云いながら、顔をおこしてまた山をあおいだ。 「こんな老いぼれた男が、あんな高い山へ登ったなんていっても、旦那は信用してくださらないかもしれません。だが昔はこれで元気一杯の若者だったのです。それにマギーのために半分狂人のようになっていました。」  きまり悪げにフォレスターを見、それからちょっと微笑して、 「二晩も、旦那、二晩もかかって、ブリキのランタンに油を用意したり、暴風にあっても風がはいらぬようにガラスの隙間をふさいだりしました。それからマギーに手紙を書いて、クリスマスの晩になったら、隣りのおじさんから双眼鏡をかりて、一番高い山のてっぺんを見てくれ、もしそこに灯がともっていたら、おれがお前のことを思っている証拠だといってやったのです。 「ランタンの用意ができるとそれを背に負んぶして、ピッケルとアイゼンを借りててっぺんに登り、灯のついたランタンを頂上において帰ったのです。」  フォレスターは相手の顔をみた。その顔にはなんの表情も浮かんでいない。この男は自分がした話の意味を知っているのだろうか。一人の女のために超人的な力を得てなしとげたことの意味を、知っているのだろうか。いや、ただ若い時にしたことを馬鹿らしく思っているだけらしい。  フォレスターは思わず声をはずませて、 「こりゃ面白い! 愉快な話だ!」 「え、旦那、なにかおっしゃいましたか?」 「いえ――なんでもありません。それからどうしたんです?」  だが老いたる労働者は、もう話す熱を失ってしまい、いささかきまり悪げな顔になっていた。  彼は弁解するような句調で、 「やあ、どうもつまらん話をしました。私はいつもならあまり喋らんたちなんですが、この絵を見たら、つい昔のことを思い出しまして――」 「いや、つまらん話じゃない。生れてから初めて聞いた、ロマンティックな、美しい、素晴しい話でした。」  フォレスターは興奮してそういったが、相手の顔をみると急に話題をかえて、 「どうして登りました? どこから登りました?」と、落着いた声できいた。  だが青年時代の美しい記憶は、現実のために朦朧と曇っていた。 「さあ、それが、その、はっきり思い出せないのですが、とにかく、私はマギーのことで胸が一杯だったのです、そして、馬鹿げた話ですが、前後も考えず、氷河――ほら、あなたがお越しになった氷河――あれを越すと、ただしゃにむに登ったのです。」 「なるほど、しゃにむに。そして無事にあなたが頂上に灯をつけてお帰りになると、それをカスカペディアのがわから、美しいマギーさんが眺めたのですね?」 「そうですよ、旦那、好いランタンだったので、夜っぴて光りつづけ、油がなくなるまでともっていましたよ。」  フォレスターはまた山の絵をあおいだ。  そして白雪をいただき、爛々たる星にかこまれた峨々たる高峰に、一点霊火のように、恋人を思っていることを知らせる灯がともっているさまを想像した。  しばらくして、彼がわれにかえると、老いた労働者は暇をつげるべく、立ちあがっているのであった。 「さあ、ではこれで失礼いたします。これから家へ帰って、あなたに会ったことを話すと、マギーのやつがとても面白がって聞きますぜ。しかし、旦那、この話は誰にもなさらないでくださいよ。人が聞いたら馬鹿臭いといって笑います。私を酔っ払いだと思ってください。酔っ払いのたわごと――」  フォレスターも立ちあがって握手した。 「いや面白い話でした。あなたはとても好いことをなさいました。私がどのくらい感心しているか、あなたにはとても分りませんよ。これが私の名刺です。もしあなたやマギーさんのためになることがあったらなんでもいたしますから、どうかお暇の時にでも遊びにきてください。」  みすぼらしい老人は立ちさった。  青い制服に銀ボタンの番人が、胡散臭そうな目付でフォレスターをみる。  彼は番人を見ると顰面をしてソファから立ち上り、大きな山の絵の前に立った。彼があまり熱心に山を見つめるので、しまいには番人がこんまけして部屋をでた。  もう部屋には誰もいない。フォレスターはあたりを見まわした。それから万年筆をとりだした。  また彼は山をあおいだ。  そして、低い敬虔な声で、 「お前はおれのものじゃない――おれのものじゃない。お前は、おれよりもっともっと大きい男に征服されたんだ――」  額縁に、「東南よりあおいだフォレスター峰」と書いた札が貼りつけてあったが、彼はそのフォレスターという字を抹殺して、鮮やかな黒い字で「マギー」と書きこんだ。それから部屋を出た。  翌朝の各新聞は、無意味な小さい出来事を報道した。 底本:「山岳文学選集九 ザイルの三人」朋文堂    1959(昭和34)年6月30日発行 初出:「ストランド・マガジン」    1919(大正8)年1月号 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。