砂漠の花 吉江喬松 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)皆《みな》さん |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|層《そう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)砂塵《すなぼこり》を浴《あ》び[#「砂塵《すなぼこり》を浴《あ》び」は底本では「砂塵《すなぼこり》をを浴《あ》び」] -------------------------------------------------------  皆《みな》さんは秋《あき》東京《とうきょう》に咲《さ》く紅色《べにいろ》の夾竹桃《きょうちくとう》という花《はな》を御存《ごぞん》じですか。大《おお》きな木《き》になると、塀《へい》の上《うえ》から表通《おもてどお》りの砂塵《すなぼこり》を浴《あ》び[#「砂塵《すなぼこり》を浴《あ》び」は底本では「砂塵《すなぼこり》をを浴《あ》び」]てそれでも元気《げんき》よく咲《さ》いています。葉《は》は細長《ほそなが》く、幹《みき》はすべらかで、よく絵《え》に描《か》いてある笹《ささ》りんどう[#「りんどう」に傍点]のような形《かたち》をしています。もし御存《ごぞん》じなかったらば、どこの植木屋《うえきや》へでも行《い》ってきいて御覧《ごらん》[#「きいて御覧《ごらん》」は底本では「きい御覧《ごらん》」]なさい。きっと見《み》せてくれますから。  この花《はな》は、けれど、日本《にほん》に昔《むかし》からあった花《はな》ではありません。いつ、何人《なにびと》が持《も》って来《き》たのか知《し》らないけれど、遠《とお》い遠《とお》いアフリカの国《くに》から、何人《なにびと》かの手《て》で運《はこ》ばれて来《き》たものです。アフリカでもこれはことに砂漠《さばく》といって、砂《すな》ばかりの広《ひろ》い広《ひろ》い果《はて》しのない原《はら》の中《なか》の、ところどころに水《みず》たまりが出来《でき》て、藪《やぶ》の茂《しげ》っている場所《ばしょ》をオアシスというのですが、そのオアシスにこの花《はな》が咲《さ》いているのです。  そこでは、この花《はな》の色《いろ》は、一|層《そう》紅《あか》く、葉《は》の色《いろ》も一|層《そう》濃《こ》いのです。これが砂漠《さばく》の花《はな》です。アフリカの中央《ちゅうおう》に世界《せかい》で一|番《ばん》大《おお》きなサハラの砂漠《さばく》というのがあります。むかしは、そこが大海《たいかい》であったのが、土地《とち》が次第次第《しだいしだい》にたかくなって、いつという事《こと》もなく水《みず》が渇《かわ》いて、海《うみ》の底《そこ》が陸地《りくち》になった所《ところ》です。それで、今日《こんにち》でも、所々《ところどころ》に海《うみ》の潮《うしお》がかたまって、打《うち》つづいて居《い》る所《ところ》があります。それが鏡《かがみ》のように輝《かがや》いています。その塩《しお》を切《き》り出《だ》しては遠《とお》くまで運《はこ》び出《だ》します。  何《なに》をいうにも千|里《り》もある広《ひろ》い広《ひろ》い見果《みは》てのつかない砂《すな》の原《はら》です。そこには木《き》が一|本《ぽん》あるでなく、川《かわ》が一|筋《すじ》あるではなく、山《やま》もなく、草《くさ》もない。ただ砂《すな》ばかりです。その上《うえ》に日光《にっこう》が照《て》り付《つ》けて、砂《すな》はぎらぎらとその日光《にっこう》を反射《はんしゃ》し、焼《や》くような暑《あつ》さが、空《そら》から原《はら》の上《うえ》一|面《めん》にみなぎり、呼吸《こき》も出来《でき》ないくらいです。  それでもその砂原《すなはら》の上《うえ》を隊《たい》を組《く》んで、ラクダに乗《の》って、五十|人《にん》、百|人《にん》と通《とお》って行《ゆ》く人々《ひとびと》があるのです。これは隊商《たいしょう》といって、アフリカの北《きた》、地中海《ちちゅうかい》の岸《きし》の方《ほう》から、砂漠《さばく》の奥深《おくぶか》く、はいり込《こ》んで、更《さら》にそれを横切《よこぎ》って、奥《おく》の方《ほう》の人《ひと》の住《す》んでいる地方《ちほう》へ商売《しょうばい》に行く勇敢《ゆうかん》な人々《ひとびと》です。大《たい》ていアラビヤ人《じん》です。ラクダという動物《どうぶつ》は、一|度《ど》沢山《たくさん》な水《みず》を飲《の》んで置《お》くと一|週間《しゅうかん》も水《みず》を飲《の》まずにいられます。それで、この動物《どうぶつ》の背中《せなか》へ沢山《たくさん》水《みず》を入《い》れた革袋《かわぶくろ》や食糧品《しょくりょうひん》や、商品《しょうひん》を積《つ》んでその上《うえ》へ人《ひと》が乗《の》って隊《たい》を組《く》んで出《で》かけるのです。  もちろん、道《みち》のない砂原《すなはら》を行《ゆ》くのですから、ただ太陽《たいよう》や空《そら》の星《ほし》で方向《ほうこう》を定《さだ》めておおよその見当《けんとう》をつけて進《すす》むだけです。時《とき》には思《おも》いよらない方角《ほうがく》へ進《すす》んで、いくら行《い》っても、いくら行《い》っても、オアシスにぶつからない事《こと》があります。そんな時《とき》には、人々《ひとびと》ののどが渇《かわ》いて、それこそ死《し》にそうになります。そうなると、もう最後《さいご》ですから、人々《ひとびと》は連《つ》れて来《き》たラクダを殺《ころ》して、その胃袋《いぶくろ》のなかにある水《みず》を飲《の》むのです、けれど、こんな事《こと》は[#「こんな事《こと》は」は底本では「こん事《こと》は」]容易《ようい》にはいたしません。そうしたからとて、長《なが》くつづくはずはありませんから。けれど、そのくらいラクダは砂漠《さばく》を旅《たび》する人々《ひとびと》には大切《たいせつ》な動物《どうぶつ》です。それ故《ゆえ》ラクダのことを『砂漠《さばく》の船《ふね》』と呼《よ》んでいるのです。  だから、その隊商《たいしょう》たちが、砂漠《さばく》の中《なか》のオアシスにたどりついて、僅《わず》かばかりでもある青《あお》い樹木《じゅもく》と、その中《なか》に流《なが》るる泉《いずみ》を見出《みいだ》したときはどんなに有難《ありがた》く思《おも》うことでしょう。まして、そのオアシスの木《き》の中《なか》に紅色《べにいろ》に咲《さ》いているこの夾竹桃《きょうちくとう》の花《はな》を見《み》たときは、どんなに悦《よろこ》ばしさに打《う》たれることでしょう。これこそ地上《ちじょう》に咲《さ》く最《もっと》も有難《ありがた》い花《はな》であると思《おも》われるに違《ちが》いありません。こんな怖《おそろ》しい砂《すな》と日光《にっこう》の原《はら》の中《なか》がこの愛《あい》らしい、やさしい花《はな》の故郷《こきょう》なのです。  私《わたし》の乗《の》って行《い》った船《ふね》は、アフリカの西海岸《にしかいがん》の、サハラ砂漠《さばく》が尽《つ》きて、草原《くさはら》と松林《まつばやし》の丘《おか》となっているフランスの植民地《しょくみんち》ダカールという港《みなと》へ着《つ》きました。世界地図《せかいちず》を開《ひら》いて御覧《ごらん》なさい。日本《にほん》からは一|万《まん》八千マイルもある所《ところ》です。その海岸《かいがん》へ上陸《じょうりく》すると、ここも同《おな》じく暑《あつ》くて、何《なに》となく砂《すな》ほこりが立《た》っているような、大地《だいち》が熱《ねつ》のなかに眠《ねむ》っているような、怖《おそ》ろしい気持《きもち》のするところですが、ここへ来《く》ると、夾竹桃《きょうちくとう》が、砂漠《さばく》の花《はな》が、東京《とうきょう》などで見《み》るとはちがって、一|層《そう》元気《げんき》よく、一|層《そう》活《い》き活《い》きとして地上《ちじょう》に一|面《めん》に咲《さ》いています。その中《なか》を真黒《まっくろ》なアフリカ土人《どじん》の子供《こども》が飛《と》び廻《まわ》っています。  このダカールからサハラの砂漠《さばく》の方《ほう》へはいって行《ゆ》く道《みち》があります。北《きた》の方《ほう》へ向《むか》う隊商《たいしょう》はここから出発《しゅっぱつ》します。そしてサハラのその大《おお》きな砂漠《さばく》はフランス領《りょう》ですから、アラビヤ人《じん》を連《つ》れて、フランス人《じん》が隊長《たいちょう》となって砂漠《さばく》の旅《たび》に出《で》かけるものです。  ところが、どこにでも悪者《わるもの》はあるもので、この怖《おそ》ろしい砂漠《さばく》の中《なか》にも時々《ときどき》、この隊商《たいしょう》を襲《おそ》って来《く》る盗賊《とうぞく》がいます。それらの盗賊《とうぞく》は人《ひと》の知《し》らないオアシスの中《なか》にテント生活《せいかつ》をしていて、沢山《たくさん》の馬《うま》やラクダを持《も》っていて、砂漠《さばく》の中《なか》を旅《たび》する隊商《たいしょう》をめがけて、とくに夜《よる》など襲《おそ》って来《く》るのです。隊商《たいしょう》の方《ほう》ではその用意《ようい》をしておいて、鉄砲《てっぽう》などを皆《みな》持《も》っていますから、そんな場合《ばあい》にはその盗賊《とうぞく》を打払《うちはら》うので、時々《ときどき》小《ちい》さい戦争《せんそう》が砂原《すなはら》の中《なか》でなされるのです。  けれど、隊商《たいしょう》たちにとって一|層《そう》怖《おそ》ろしいことは、そんな盗賊《とうぞく》よりは、砂漠《さばく》の中《なか》の大風《たいふう》です。とくにつむじ[#「つむじ」に傍点]風《かぜ》です。暑《あつ》い日光《にっこう》で熱《ねっ》せられた空気《くうき》は、時々《ときどき》おそろしい動乱《どうらん》を引《ひ》き起《おこ》して不意《ふい》につむじ[#「つむじ」に傍点]風《かぜ》をおこすことがあるのです。そんな場合《ばあい》には、地平線《ちへいせん》の上《うえ》が真黒《まっくろ》になって、砂《すな》がまき上《あが》り、みるみる太陽《たいよう》の光《ひかり》を包《つつ》んで、夜《よる》のようになって、風《かぜ》が怖《おそ》ろしい勢《いきお》いで進《すす》んで来《く》るのです。それを見《み》ると、隊商《たいしょう》たちは急《いそ》いでラクダの背《せ》からおりて、地上《ちじょう》に平《ひら》たく臥《ね》てしまいます。ラクダもそれを知《し》っているので、同《おな》じく地上《ちじょう》につくばって頭《あたま》を垂《た》れてしまいます。風《かぜ》は非常《ひじょう》な勢《いきお》いでその人々《ひとびと》と動物《どうぶつ》の上《うえ》を踏《ふ》みつぶすようにして通《とお》って行《ゆ》きます。小砂《こすな》が空中《くうちゅう》をうずめているので、呼吸《いき》も出来《でき》ません。一|時《じ》は天《てん》も地《ち》も砂《すな》で真暗《まっくら》になります。しばらくたって、それが過《す》ぎ去《さ》った後《あと》で見《み》ると、ラクダの背中《せなか》にも人《ひと》の頭《あたま》の上《うえ》にも砂《すな》が幾寸《いくすん》も厚《あつ》くつもっています。  けれど、もしこのつむじ[#「つむじ」に傍点]風《かぜ》の起《おこ》る真中《まんなか》にいるようなものなら、それこそ大変《たいへん》です[#「大変《たいへん》です」は底本では「大変《たいへん》だす」]。ラクダでも人《ひと》でも、恐《おそ》ろしい勢《いきお》いで空中《くうちゅう》へ捲《ま》き上《あ》げられてどこへおとされるか知《し》れません。そればかりではなく、熱《あつ》い砂《すな》が、不意《ふい》に山《やま》のように捲《ま》き上《あが》り、その熱《あつ》い山《やま》が空中《くうちゅう》を狂《くる》いまわって、人《ひと》でも動物《どうぶつ》でもその中《なか》へ包《つつ》んでしまいます。五十|人《にん》や百|人《にん》の隊商《たいしょう》ならまたたく間《ま》にこの熱砂《ねっさ》の中《なか》に葬《ほうむ》られてしまいます。そして、後《あと》から行《い》った隊商《たいしょう》らが、行方《ゆくえ》のなくなった前《まえ》の隊商《たいしょう》をたずねて歩《ある》くと、砂《すな》の中《なか》から、ただ人《ひと》や動物《どうぶつ》の骨《ほね》ばかりが出《で》て来《く》るようなことに出会《であ》うのです。この砂漠《さばく》の龍巻《たつまき》は海《うみ》の中《なか》に起《おこ》るものよりは遙《はる》かに怖《おそ》ろしいものです。  この恐《おそ》ろしい砂漠《さばく》にも動物《どうぶつ》が住《す》んでいます。また時《とき》には道《みち》をまよってこの砂原《すなはら》の中《なか》をうろついている動物《どうぶつ》があります。それは獅子《しし》や象《ぞう》や虎《とら》などの猛獣《もうじゅう》です。  象《ぞう》は皆《みな》さんも御承知《ごしょうち》の如《ごと》く大《たい》てい群《むれ》もなして住《す》んでいます。決《けっ》して一つではいません。この群《むれ》が多《おお》いときは四五十も集《あつ》まって一|隊《たい》をなしています。この一|隊《たい》の象《ぞう》が砂漠《さばく》の中《なか》でどこかへ移住《いじゅう》しようと思《おも》い立《た》つと、先頭《せんとう》に老練《ろうれん》な隊長《たいちょう》を置《お》いて、その一|隊《たい》の指揮官《しきかん》になります。また最後《さいご》には同《おな》じく後衛《こうえい》がつきます。前後《ぜんご》をこのようにして衛《まも》って一|隊《たい》は歩《ある》き出《だ》すのです。ところが、この大《おお》きな体《からだ》をした象《ぞう》が一|度《ど》歩《ある》き出《だ》し、駆《か》け出《だ》すと、その早《はや》いこと、一|昼夜《ちゅうや》に八十マイルも走《はし》る勢《いきお》いで駆《か》け出《だ》すのですから素晴《すば》らしいものです。  日《ひ》に照《て》らされた砂《すな》の上《うえ》を、この一|隊《たい》が駆《か》けて行《ゆ》く勢《いきおい》は、小山《こやま》が動《うご》き出《だ》し、大波《おおなみ》が湧《わ》き上《あ》がるようで、その四脚《よつあし》で大地《だいち》を叩《たた》く響《ひびき》は、遠《とお》くまでもつたわり、その一|隊《たい》の周囲《しゅうい》を包《つつ》んで砂《すな》ほこりが舞上《まいあ》がり、軽《かる》い風《かぜ》が生《しょう》じ、その前《まえ》には何《なに》ものでも踏《ふ》みにじられてしまいます。彼等《かれら》は砂丘《さきゅう》を蹴散《けち》らし、飛《と》び越《こ》え、一|心不乱《しんふらん》に行《ゆ》くべき方《ほう》へ突進《とっしん》します。そして見《み》る見《み》るうちに地平線上《ちへいせんじょう》へ線《せん》となり、点《てん》となって消《き》えて行《ゆ》きます。これが動物《どうぶつ》の隊商《たいしょう》です。  ところが、これは大《おお》きな動物《どうぶつ》の砂漠《さばく》の中《なか》の移住《いじゅう》旅行《りょこう》ですが、小《ちい》さな動物《どうぶつ》の移住《いじゅう》もあります。それは蟻《あり》です。  砂漠《さばく》の中《なか》の蟻《あり》は我々《われわれ》が日本《にほん》で見《み》るものよりは、遙《はる》かに大《おお》きいのです。五六|寸《すん》以上《いじょう》のものもあります。この蟻《あり》が何万《なんまん》何万《なんまん》となく、群《むれ》をなして、ある蟻塚《ありづか》から他《た》の新《あたら》しい蟻塚《ありづか》へと移《うつ》って行《ゆ》くのです。その時《とき》は、何《なん》十|間《けん》にわたる幅《はば》の、何《なん》十|町《ちょう》また何里《なんり》にもわたる長《なが》さの黒《くろ》い蟻《あり》の河《かわ》が砂《すな》の上《うえ》へ流《なが》れ出《だ》すのです。この絶《た》えず動《うご》いて止《や》まない蟻《あり》の流《なが》れに打当《ぶっつか》ったら最後《さいご》、隊商《たいしょう》らはその前《まえ》で立《た》ち止《と》まらずにはいられません。もし誤《あやま》ってその中《なか》へ一|歩《ぽ》でも踏《ふ》み込《こ》もうものなら、五六|寸《すん》もある大《おお》きな怖《おそ》ろしい蟻《あり》が無数《むすう》に這《は》い上《あが》り、喰《く》いつき、人《ひと》でも、馬《うま》でも、ラクダでもまたたく間《ま》に命《いのち》をとられてしまいます。この勇敢《ゆうかん》な小動物《しょうどうぶつ》は、自然《しぜん》に天候《てんこう》を見定《みさだ》めることを知《し》っていて[#「知《し》っていて」は底本では「知《しっ》っていて」]、風《かぜ》の起《おこ》らない時《とき》を選《えら》んで、移住《いじゅう》の旅《たび》に出《で》かけて、熱砂《ねっさ》の上《うえ》を幾日《いくにち》でも幾日《いくにち》でも流《なが》れて行《ゆ》くのです。一|里《り》ぐらい遠《とお》くからでも、この蟻《あり》の流《なが》れは砂《すな》の上《うえ》にはっきり黒《くろ》い線《せん》となってみとめられます。  ここは到底《とうてい》人間《にんげん》の住《す》む場所《ばしょ》ではありません。折角《せっかく》、泉《いずみ》が湧《わ》き出《だ》して、流《なが》れても、すぐ太陽《たいよう》の熱《ねつ》に渇《かわ》かされて砂《すな》の中《なか》へ吸《す》い込《こ》まれてしまいます。  隊商《たいしょう》にとって更《さら》におそろしいことは、この砂漠《さばく》の中《なか》に時々《ときどき》起《おこ》る迷景《ミラージュ》です。一|種《しゅ》の蜃気楼《しんきろう》です。これは空中《くうちゅう》に遠《とお》く、どこともなく樹木《じゅもく》の姿《すがた》が浮《う》かんだり、他《ほか》の隊商《たいしょう》らの姿《すがた》が見《み》えたりするので、日本《にほん》でも越中《えっちゅう》の海《うみ》や伊勢《いせ》の海《うみ》には時々《ときどき》見《み》える一|種《しゅ》の空中《くうちゅう》の幻《まぼろし》です。これがために隊商《たいしょう》らは思《おも》わず行《ゆ》くべき途《みち》を間違《まちが》えたり、方向《ほうこう》をなくしたりして大変《たいへん》困《こま》ることがあります。これは空中《くうちゅう》のいたずらです。  皆《みな》さんが気《き》がつかずにただ美《うつく》しいと眺《なが》める夾竹桃《きょうちくとう》のふる郷《さと》は、こんな恐《おそ》ろしい[#「恐《おそ》ろしい」は底本では「恐《おそろ》ろしい」]熱《ねつ》と砂《すな》との無限《むげん》の砂漠《さばく》です。あの花《はな》を見《み》るときに皆《みな》さんはこの話《はなし》を思《おも》い出《だ》して下《くだ》さい。 底本:「信州・こども文学館 第5巻 語り残したおくり物 あしたへの橋」郷土出版社    2002(平成14)年7月15日初版発行 底本の親本:「角笛のひびき」実業之日本社    1926(大正15)年 ※底本は、表題に「砂漠《さばく》の花《はな》」とルビがふってあります。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。