ポンティング氏のアリバイ リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)おだやかな声で[#「おだやかな声で」は底本では「おだやなか声で」] -------------------------------------------------------  たくましげな牧師の、快活そうな顔を、ソーンダイクは不審そうにみつめた。牧師はブロドリブの紹介状をもっていた。 「どうしてブロドリブ君は、私のところへ紹介してきたのかな、法律のことなら、自分でやったらよかりそうなものだが。」 「いや、あの方が紹介してくださったのには、なにか考えがあるんでしょう。ですから、とにかく話をきいてみてください。」  牧師のチャールズ・ミードは愛想笑いをした。 「いや、ブロドリブ君の紹介なら、間違いはありません。」ソーンダイクも笑った。「あれは古くからの友人なんです。では、早速話をうけたまわりましょう。まず詳しいいきさつを知りたいのです。その、威されたという女の人は、どんな人なんです?」 「名前はミリセント・フォーセットです。」ミードはいう。「この人は資産があるので、もっぱら慈善事業に献身していて、もと病院の看護婦をしていましたが、いまでは教区に病人があった時なぞ世話をしています。それで、しぜんに私の仕事を手伝ってくれたりしまして、もう長いあいだ親しくしているのですが、私は二月後にこの女と結婚することになっているのです。そんなわけで、この女のことをお願いにあがったのです。」 「ああ、そうですか。そんならあなたも利害関係があるわけです。で、その威しというのは?」 「私もはっきりとは知らないんですよ。」ミードはいう。「ただ、あの女と話をしていたら、それらしいことが分ったというだけなので、たいして問題にしていないのか、あまり話したがらないんです。あの女はちっとも心配していないようです。でも、私があなたに相談することは話しておきました。ですから、あなたから直接本人にきいていただけたらと思うのです。本人は平気でも、私は心配でならないのです。」 「で、威すのはどんな人です、それは一人なのですか二人ですか? どうしてそんなことをするのです?」 「威すのはミス・フォーセットの義兄の、ウィリアム・ポンディングという男なんです。義兄というのもおかしいですが、じつは女の父はある未亡人と再婚しまして、その再婚した未亡人のつれ子がポンティングなのです。今はこの未亡人も死に、つづいて父も死にました。しかし父は死ぬ時、全部の財産を女にのこして、ポンティングにはすこしも残さなかった。それがポンティングの不平のもとなんです。ところがあとでまた不平のもとになることができた。数年前、女は遺言をかいたのですが、それは自分の死後、大部分の財産をいとこのフレデリック・バーネットとジェームズ・バーネットにゆずって、ポンティングにはごく少ししかゆずらないというのです。その話をきいたポンティングはまっ赤になって怒り、自分にも同じ額をゆずるのが至当だといって、しつこく女にせまり、最近ではそれが威しのようになってしまいました。つまり、女が遺言の書きかえをしないのが、威しのもとになっているのです。」 「でも、あなたと結婚すれば、その遺言が変るということを、その人は知らんのでしょうか?」私はいった。 「知らないでしょう。しかし結婚すれば、遺言を書きかえる必要がほんとにあるのですか。」ミードはきいた。 「ありますとも。」私はこたえた。「そして、新しい遺言状を作れば、その人にはますます不利になってくるわけです。」 「しかし、その人は、そんなに遺言状を問題にする必要があるんですかね、いくつです、その人とミス・フォーセットのとしは?」 「ポンティングは四十くらい、ミス・フォーセットは三十六なんです。」 「どんな人ですか?」ソーンダイクはきいた。 「いかんながら、あまり気持のいい男ではありません。気むずかしくて、粗野で、乱暴者で、浮浪者の傾向があって、金使いがあらいのです。ミス・フォーセットからたくさん金を借りているんですが、すこしも払おうとしない。ある週刊誌を出版しているところに勤めているんですが、いつもなまけて、借金ばかりしているそうです。」 「その人の住所をうけたまわっておきましょう。」ソーンダイクはいった。 「友人と二人で下宿にいたんですが、いまその友人と喧嘩をして、一人で下宿に住んでいます。デヴォンシャー街の十二番、ボルネオ・ハウスです。」 「二人のいとこというのは、いまはポンティングと競争者になったわけでしょうが、ポンティングとの仲はどうなんです?」 「むろん、仲はよくないです。」ミードはこたえた。「もとはとても好かったのです。仲がよかったから、いまの下宿にポンティングが引っ越してきたぐらいなのです。二人のいとこは十二番のスマトラ・ハウスに下宿しています。しかし遺言で仲が悪くなって、いまでは両方で口もきかないそうです。」 「二人のいとこはいっしょに住んでいるんですか?」 「フレデリックとその細君、それから弟のジェームズ、この三人はいっしょですが、みなちょっと変っているのです。フレデリックはヴァライティーの舞台で歌をうたい、弟のジェームズはいろんな楽器でその伴奏をするのですが、二人ともスポーツが好き、ことにジェームズのほうがスポーツ好きで、そのほかいろんなことをやります。二人が音楽をやるのは、ポンティングの惱みのたねで、ポンティングはやかましいといって、しょっちゅう苦情をいっているようです。」  牧師ミードは話すのをやめて、大事なことを書きとめているソーンダイクの顔を見た。 「話はだいたい分りました。しかし、まだその威しというのはどんな威しであるか、それを話してもらいたいですな。そして、私にどうしてくれとおっしゃるのです?」 「ミス・フォーセットに一度会ってやってください。私といっしょでもいいです。そしていろいろあの女にききただして、そのうえで、ポンティングが威さなくなるような方法を考えていただきたいんです。いかがです。今夜来てはいただけませんか? 寒いですがタクシーに乗ればすぐです。どうでしょう?」ソーンダイクが反対をとなえないので、彼はまたつづけた。「いま女中が自分の家へ帰っていますので、あの女が一人いるはずです。」  ソーンダイクは時計をだしてみて、 「いま八時半ですな。三十分もあれば行けましょう。威しというのはなんでもないことなんでしょうが、でも、その蔭になにがあるのかもしれない。法律は医者の薬とおなじで、あとになって騒ぐより、何事もないうちにのんだほうがいいです。ジャーヴィス君、行ってみるか?」  どう答えてよいか私は迷った。じつをいうと十一月の暗い夜に外にでるより火のそばで本でも読んでいたかった。でも、ソーンダイクが出たがっているふうなので、いさぎよくあきらめて行くことに同意した。  それから二分間たつと、タクシーを呼ぶために喜び勇んでとびだした牧師のあとをおって、私たちは気持よい部屋からインナー・テンプル・レーンの寒い夜風のふくところへでた。街角で牧師はタクシーをつかまえて、こまごま行く先を説明していた。なんの必要があるのか、こんな夜の外出にも、ソーンダイクは調査箱をさげていた。ソーンダイクがいちばんにタクシーに乗ると、牧師と私もあとからそれに乗った。  暗い街々をはしりながら、牧師のミードはまえの話の抜けたところを補足したり、楽しかるべき将来の生活の予想を話したりした。二人の結婚はロマンティックなものではなかったが、今まで両方で忠実であったように、これからも忠実でありたいと望んでいるらしかった。嬉しそうに、また心配そうに話す彼の身上話をきいているうちに、タクシーは郊外の、庭のある、地味な小さい家の前にとまった。  ミードは階下の明りのもれる窓を指さし、 「いまいるようです、」といった。  タクシーは、私たちが帰る時まで待たせることにし、庭をぬけて玄関に立って、ミードは特徴のあるドアの叩きかたをした。しばらく待っても返事がなかった。  こんどはドアを叩いて、ベルを押した。かすかに錠をはずすか、錠をかけるかするような音を聞いたように私は思ったが、ドアはいつまでたってもあかなかった。またミードはベルをはげしく押した。家のなかでそれが鳴るのがきこえた。  彼はベルを押しながら、 「こりゃおかしい。外出する時には、いつも灯を消してでるはずなんですが。どうしたもんでしょう?」心配そうにいった。 「構うことはない。はいりましょう。いまなんだか音がしましたよ。裏からはいれないのですか?」ソーンダイクはいった。  ミードは裏のほうへ走っていった。ソーンダイクと私は表に立って、明りのついた窓をみたが、その窓の高いところは、少しばかりあいていた。 「どうもおかしい。」  そういいながら、私は郵便物の差入口へ近づいて耳をすました。  ソーンダイクも不審がっている様子だった。  ミードが大息をしながら帰ってきて、 「家の横に出入口があるんですが、そこも中から戸じまりしてあるようです。どうしましょう?」  この言葉をきくと、私は玄関のドアに戸じまりするような音を、先ほど聞いたことを思いだした。  ソーンダイクは返事もしないで、調査箱を私にわたし、窓によじのぼって、上のガラス戸を下におろし、カーテンとガラス戸との間から部屋にとびおりた。それから彼はすぐ玄関へでて、玄関のドアを中からあけた。牧師のミードと私は玄関へはいった。明りのついた食堂のドアがあいているので、そこからテーブルの上に投げすててある針仕事の道具がよくみえた。牧師は玄関のスイッチをひねって灯をつけた。ソーンダイクは彼の前を通りぬけ、なかばあいている次の部屋へはいった。はいる前に彼は手を伸して、その部屋のスイッチをひねって明りをつけた。  その部屋にはいったソーンダイクは、後にドアをなかばしめて、 「ミードさん、あんたははいっちゃいけませんよ!」と大声でいった。  だが、ミードも私も、ドアがしまるまえに、その部屋のなかを見てしまった。ドアのすぐそばの敷物に、どす黒い液体がたまっていた。ミードはソーンダイクの制止を無視して、ドアを押しあけて部屋にはいった。あとからその部屋にはいった私は、一人の女が低い寝椅子によこたわっていて、ミードが両手をひろげ、喉がつまるようなうめき声を立てて、それに走りよって、ひざまずくのをみた。 「よお! 死んでいる! ソーンダイクさん、もうだめでしょうか? なんとかできませんか?」  ソーンダイクは頭をふって、 「もう手おくれです、」と低い声でいった。  ミードは寝椅子のそばにしゃがみ、死人の顔をみながら両手で頭の髪をかきむしり、恐怖と絶望のいりまじった声をしぼって、 「おい、ミリセント!――ミリセント!――」と呼んだが、急に勢よくソーンダイクをふりかえって、「これは――こんなはずはない。信じられない。ソーンダイクさん! これ!」死人が右手に握っている剃刀を指さした。  ミードは信じられないといったが、私も同様に信じられないと思った。この敬虔で、神をおそれる女が、自分で自分の生命をたつようなことをするはずはない。蝋のように白い顔の喉には、赤い傷が口をあけ、右手に刃をおこした剃刀をもっていた。だが、剃刀を握っていることがなんの証拠になろう。私は最初からそれを信じなかった。それでいて喉の傷は、左から右にかけて、自分でえぐったように、一文字に切れていた。 「これはどうも怪しい。しかし自殺でないとすれば、一つの場合しか想像できない。とにかく早く警察へ知らせなくちゃ。」 「ぼくが行きます。警察も知っていますし、タクシーも待たせてあります。」ミードは立ちあがって、愛情と憐れみのこもった目で死体をふりかえり、「可哀そうに! ぼくは、あなたの汚名をそそぎ、悪い人を正義の神にさばいてもらうためには、どんなことでもします。」  ミードが部屋をでて、玄関のドアのしまる音がすると、ソーンダイクの態度は急に変った。幸福で優しかった人間が、一瞬間に生命をたたれたこんな恐ろしい悲劇に顔をむけては、誰だって胸を打たれるだろうが、ソーンダイクもひどい衝撃をうけているらしかった。おごそかな顔で彼は私をふりかえった。 「ひどいことをやったね、ジャーヴィス君、」と、気味がわるいほど低い声でいった。 「そんなら君も他殺だと思う?」なぜだか私はほっとしたような気持だった。 「他殺にきまっているよ。ちょっと見ただけで分るじゃないか。服は看護婦の服だし、となりの部屋には針仕事がそのままになっているし、剃刀を握った指だってだらりとしている。四つの傷のうちの最初のが致命的だったのだ。この残忍な斬りかたをみたまえ。ドアのそばに血がたまり、その血は頸から服をつたって足のほうへ流れている。襟も帽子の紐も切れている。横になった時には出血が止っていたのだ。それらの事実はどれもこれも自殺でない証拠だ。だが、ぐずぐずしてはいられない。家の中をよく探してみよう。犯人は逃げただろう。しかしぼくらのついた時まだ犯人がいたのなら、生々しい跡が見られるわけだ。」  調査箱から懐中電燈をだして、彼はドアのほうへ歩きながら、 「この部屋はあとでゆっくり調べることにしよう。それより二階が先だ。これから二階を見てくるから、階段のそばに立って、表や裏の出口を見とってくれ。」  私が廊下に出ると、彼は階段を走りあがった。だが、二分間ほどたつと二階からおりてきて、 「二階には誰もいない。この家には地下室がないようだから、階下の各部屋や庭を探してみるんだね。」  私たちは台所そのたの階下の各室を見たあとで、裏のドアをあけて庭へ出てみた。広い庭のむこうに果樹園があった。庭にはなんの変ったところもないようだったが、果樹園のはしまでくると、手掛りになるようなものが見つかった。果樹園のそばには、高さ五フィートばかりの塀があって、その上に釘をうえつけてあるのだが、懐中電燈でその釘を調べていたソーンダイクは、服の繊維のかたまりらしいものを、二つほど見つけたのである。 「誰かがここを乗り越えたんだ。」ソーンダイクはいう。「果樹園だから人がくるのも当然だろうが、問題はいま実が成っていないし、この二つの服の繊維がまだ新しいというところにある。一つは紺、一つは黒と白のまざり。」 「一つは上着、一つはズボンだろう。」私はいった。 「そうかもしれない。」  いつも持ちあるく小さい紙の袋を二つ、彼はとりだし、そっと二種類の繊維を釘からはずして、別々の袋にいれ、それをポケットにしまうと、塀のそとの小道を電燈で照した。砂利を敷かぬ小道は、めったに人が通らないのか、草がいちめんに繁っているが、塀のすぐ下の草のない地面には、はっきりした足跡が一つと、曖昧なのがいくつか残っていた。 「二三人の人が、別々の時間に歩いたらしいね、」と、私はいった。 「はっきりしているのが、ここからとびおりた犯人の足跡だ。しかし、いまここからおりると、ぼくらの足跡で分らなくなるから、目印をつけといて、あとで調べることにしよう。」  彼は塀の上にハンケチをおいた。  それから私たちは家へひきかえした。 「石膏の型をとるつもりなんだろう?」と、私はいった。彼はうなずいた。私たちは客室においてある調査箱を取って、玄関から外にでた。  門を出て六十ヤードほど歩くと、家の背後にむかう小道がみつかった。私たちはその小道に折れると、注意して左右をみながら歩いた。だが、ハンケチで目印をしておいた塀のそばまでくるあいだ、ただ草を踏みにじった跡があるだけで、べつに変ったものはみつからなかった。 「この足跡がほかの足跡の上に重なって、ほかのを消してしまっているのは残念だね。」私がいった。 「いや、これだけで沢山だ。この足跡だけは特徴があって、はっきりしている。踵が円くて、ゴム裏の模様に特徴があって、一個所修繕したあとが見える。こんな足跡は見分けるのにはおあつらえむきだ。」  彼はそんなことをいいながら、調査箱から水のはいった壜や、石膏のはいった罐や、椀や匙や、型のなかにいれるカンヴァスなぞを取りだし、椀に石膏を溶かして、早く乾かすためにそれをやや固めにし、それにカンヴァスをひたして、いっしょくたに足跡にそそぎかけ、カンヴァスがいちばん上になるようにした。 「ジャーヴィス君、型が乾くまでここにいてくれ。ぼくは警察から人が来ないうち、もいちど死体をよく見てくる。ことに背を見たいんだ。」 「どうして背をみるの?」私はきいた。 「あの死体をみると、どうも背中をみるのがよさそうに思えるんだ。君はそう思わない?」  私の答えも待たないで、懐中電燈を残したまま、彼は急いで行ってしまった。  彼の残した言葉は、石膏が固まるのを待つあいだに意味を考えるのには、なかなか考えでのする言葉だった。生々しい死体の横たわる光景を、私は胸にえがいた。それは容易に忘れられぬ光景だった。そしてその光景のなかから、背中をみたいといった彼の言葉の意味をさぐろうとしたが、べつに理由がありそうには私には考えられなかった。傷はみな死体の前にあった。後に傷がありそうにはみえなかった。なんども石膏の固まりぐあいを試してみた。早く彼といっしょになりたくて気がいらだったが、まだ固まらぬうちに持ち上げて、薄い大切な型をこわしてしまっては大変だと思った。だが、しばらくするとカンヴァスを背にした石膏型が、適当に固ったらしいので、そっと一方に指を当てて起してみ、かちかちに固まっているのを確かめて全部をはがした。カンヴァスの使わないのがあったので、私はそれで石膏型を包み、こわれないように調査箱にいれて、懐中電燈をもって立ちあがった。  玄関からはいってドアをしめ、客室へはいってみると、ソーンダイクが入口の血の海のそばにしゃがんで、しきりになにかを探しているところだった。私は石膏型がとれたことを告げ、なにを探しているのかきいた。 「ボタンを探しているんだ。背のボタン、カラーをとめるボタン――」 「ボタンが重大なの?」 「いつ、どこでボタンが落ちたか知ることは重大だね。懐中電燈をかしてくれ。」  私はそれを彼にわたした。彼はそれを敷物に触れるほど低めて、敷物が真横からの光線をうけるようにした。二人でその光線を追いながら方々を探したが、ボタンはどこにも落ちていなかった。 「この部屋じゃないんだよ。」  そう私がいった瞬間、床とすれすれに戸棚の下を照した彼の懐中電燈が、壁にちかいところに小さい物を照しだした。すぐ私は敷物の上に腹ばいになり、片手を戸棚の下につっこんで、小さい貝ボタンをひろいあげた。  彼はそれを手にとってみながら、 「戸棚は寝椅子とは反対のがわの、窓のそばにあるのだ。しかしこれが背のボタンかどうか、比べてみないと分らない。」  彼はまだ床になにか落ちていはせぬかと、探すような恰好で歩きながら寝椅子のそばに近よった。死体は横向きになって、背が見えるようになっていた。ソーンダイクはそのカラーの後の穴にボタンをいれてみて、 「これこれ。たしかにここのボタンだ。前にもこれと同じボタンが一つついている。」ソーンダイクは死体の灰色のサージの服に電燈をくっつけ、「さっき動物の毛がついているのをひろったのだが、またここにもついている。犬か猫の毛だろう。君、ちょっとこの電燈をもっていてくれ。」  私は彼がピンセットで毛をつまんで、袋にいれるのを見ながら、 「この女が飼っていたんだよ。女というものは相当の年になると、犬や猫を可愛がるもんだから。」 「そうかもしれないね。しかし、そうなら前の方に毛がつきそうなものだが、前についていないのだ。それから敷物の上にもついていない。死体はもとの通りの姿勢にしとこう。そして警官がこないうちに顕微鏡で調べてみよう。もう来そうなもんだが。」  私たちは死体をもとの姿勢にかえし、調査箱や電燈をもって食堂へはいった。そして私が袋にはいっていた物をスライドにはさんで、順々に顕微鏡にさしこむと、彼は時間がないので、急いでそれらの物を見た。そしてレンズに目を当てたままこういった。 「服の繊維はどちらも上等の毛で、一つは紺サージ、一つは白と黒でほかの色は混っていない。タフェッタ織か格子縞のようなものだろう。」 「そうか。そんなら紺サージの上着に、格子縞のズボンだろう。つぎは動物の毛だ。」  私はスライドにのせた毛に、ラヴェンダー・オイルをにじませて顕微鏡にいれた。 「三種類の毛が混っているな」急いで見た後で彼はいった。「灰色のペルシャ猫の毛がすこしばかりと、長い犬の綿毛。狆かもしれないね。ぼくに見当のつかぬのが二本ある。ちょっと猿のようだが、それにしては色がおかしい。ちょっと緑色がかっているんだ。哺乳類にはこんなのはないだろう。タクシーがとまったようだね。こんなことは土地の警察の人に話したってしかたがない。これは警視庁の仕事だと思うんだ。」  玄関へ出て私がドアをあけると、ミードが二人の警官をつれて帰ってきたが、意外にもその一人はおなじみの警視庁のミラー警視と、一人は土地の警察署長だった。 「おそくなってすみません、」と、ミラーはいった。「じつはあなたがたがいらっしゃると聞いて安心していたんです。いろいろミードさんから事情をきいていたので、おそくなってしまいました。いかがです?」彼はソーンダイクと握手した。「あなたがたもミードさんから事情をお聞きになったそうですな?」 「いちおう聞きました。そしてここへ来てみたら死んでいたんです。」ソーンダイクはこたえた。 「自殺か他殺か分らないですか?」 「まあ、他殺と考えて、一時も早く手を伸したほうがよさそうですな。」 「そうですか。そんならその人間がいまどこにいるか――あなた、いつここへおいでになりました?」ミラーはきいた。 「タクシーがとまったのが九時に二分前です。まだ十時に二十五分前ですから、タクシーに乗ったらすぐ行けます。むこうの住所は分っているんです。」 「タクシーは待たせてあります。」ミードはいう。「金は二度とも払ってあります。私は署長さんの用事があるかもしれませんから、ここで待っています。」  あたたかく私たちの手をとって握手した彼の顔からは、希望にみちた生気はすっかり消えてしまって、落胆した人の深いしわが刻まれていた。もっと早く駈けつけることができたら、こんなに彼を不幸におとしいれなくてすんだろうにと、私は運命を呪わずにいられなかった。  私たちが部屋をでようとしていたら、ソーンダイクは立ちどまって牧師にきいた。 「ミス・フォーセットは、なにか飼っていたのですか、猫だとか、犬だとか――」  牧師は驚いたような顔をした。ミラーは耳を傾けていた。 「いえ、そんなものはあまり好きでなかったのです。関心をもっていたのは人間だけです。」  ソーンダイクは真顔でうなずき、調査箱をさげて部屋をでた。ミラーと私がそのあとについた。  行く先を運転手につげて、どっかり座席に腰をおろすと、さっそくミラーは質問の火ぶたをきった。 「ソーンダイクさん、今日も魔法の鞄をお持ちですな。なにかお分りになりましたか?」じろじろ調査箱をみた。 「はっきりした足跡の型を一つとりましたがね、しかし関係者のものかどうか、それはまだ分らんです。」ソーンダイクはこたえた。 「大抵大丈夫でしょう。はっきりした型をとって、そいつを陪審員に靴と比べさせたら、それがなによりですよ。」  ミラーはそういった。私が鞄のなかから石膏型を出して渡すと、彼は珍しげに取りあげて、表をみたり裏をかえしたりしていたが、 「これは立派なもんだ! よくできましたね! これとおなじ靴は、世界に二つとないはずだ。指紋とおなじですよ。大事にしてください。これに当てはまる靴をもった男があったら、そいつが犯人です。」  ソーンダイクがあまり口をきかないので、自然ミラーにたいして、私が代弁をしなければならなかった。ソーンダイクが考えている時には、あまり話しかけてはならないということは、ミラーも私もよく知っていた。いま彼は考えているのだ。片隅に坐って黙りこんでいる彼は、いままでに見た材料を頭のなかで分類して、一つの仮定をつくりつつあるのだ。 「ここです。」車がとまるとミラーはドアをあけた。「どういうんですかね、警察から来たというんですか?」 「それは、そういわないと、部屋のなかにはいらしてくれませんよ。」ソーンダイクはいった。 「そうですか。しかし話はソーンダイクさんにまかせますよ。あなたには考えがあるんでしょうから。」  容易に部屋にいれてくれないというソーンダイクの予言は当っていた。三度目にノックしながらベルを押すと、怒ったような足音がむこうに聞えた。足音も感情を表現するものだということを、私はこの時初めて知った。そしてその足音がドアの向うでとまると、勢よくドアが顔の見える程度に開いた。そこから毛深い男が顔をのぞけて、 「何用です?」 「あなたがポンティングさんですか?」ミラーがきいた。 「それがどうしたんです?」ぶっきらぼうな荒いこたえだった。 「用事があるんです。」ミラーの声にはなだめるような調子があった。 「こっちにも用事がある。急がしいんだ。」ポンティングらしい男がいった。 「大変な用事なんですよ。」 「こっちの用事も大変なんです。」ポンティングは乱暴にいった。  彼はドアをしめようとしたが、ミラーは足でそれをさえぎった。彼はミラーの足を蹴った。彼は軽いスリッパーをはいているだけだったが、ミラーは警官の重い靴をはいていた。 「暴れるんじゃない!」今までの丁寧な態度をすてて、ミラーは高びしゃにでた。「おれは警察からきたんだ。」大きな肩でドアを押しあけた。 「お巡りさんなの? どんな用事で?」 「それを話しにきたんだ。でも、こんなところじゃ話せないじゃないか。」 「そんならおはいりなさい。しかし今夜は次から次といろんなことがあって、急がしいんだから、話は簡単にしてください。」  彼は私たちを部屋に通した。飾りつけのすくない、がらんとした部屋だったが、出窓の下に上の斜めに傾いたデスクがあって、そこに書きさしの原稿のようなものが散乱していたので、彼の急がしいといった理由や、来客を嫌がる理由はのみこめた。  むっつり顔で彼は椅子を三つ並べ、ソーンダイクと私をじろじろ見ながら坐って、 「みんな警察の方ですか?」ときいた。 「この二人はお医者さんなんです。ソーンダイクさん、あなた話してあげてください。」ミラーはいった。 「今夜急にミス・フォーセットが死んだのです。」ソーンダイクはいった。 「ほう! そりゃだしぬけですな。いつ死んだのです?」 「九時ちょっと前です。十五分ほど前でしょう。」 「そりゃ思いがけないことですな。だって、ぼくは昨日会ったけど、その時はいつもと変っていませんでしたよ。なんで死んだのです?」 「ちょっと見たところでは、自殺のようなんですがね。」ソーンダイクはいった。  ポンティングは息をはずませて、 「自殺! そんなはずはない! そんなことはないでしょう。劇薬でものんだのですか?」 「ちがいます。劇薬じゃない。剃刀で喉を斬ったのです。」 「そりゃ、話がひどすぎる!」ちょっと言葉をきったあとで、「そんなことはないでしょう。ぼくは信じません。どうして自殺するんです? あの女は生白い顔をした牧師と結婚するといって、張りきっていた最中なんですよ。それに剃刀とはなんです! なんで女が剃刀をもちます。女は剃刀なんぞ使いませんよ。煙草をすったり、酒をのんだり、喧嘩をしたりするのはいても、顔をそることだけはしないはずだ。ぼくはそんな話は信じない。ほんとなんですか?」  恐ろしい顔で彼はミラーを見た。 「じつは私もその点に疑問をもっているのです。」ミラーはいう。「私もいまあなたがいったようなことを考えているのです。しかし、自分で喉を剃らなかったのなら、誰か他の者が斬ったにちがいない。だから今夜九時十五分前に、誰があすこへ行ったかということを調べようと思うんです。」  怒った猫のような顔でポンティングは笑った。 「だからぼくを怪しいとにらんだのですか?」 「いちおうは、誰も調べてみる必要があるのです。あの女を威したことのあるような人は、なおさらです。」  ポンティングは真顔になった。しばらく相手の顔を見ながら黙って坐っていた。  やがていままでよりおだやかな声で[#「おだやかな声で」は底本では「おだやなか声で」]、 「ぼくは六時からずっとここで仕事をしていたのです。調べてごらんになったら分ります。六時からこれを書いていたんだから。」  ミラーはうなずいたが、なにもいわなかった。ポンティングは思案顔で相手を見つめていたが、だしぬけに声をあげて笑いだした。 「なにがおかしいんです?」ミラーはきいた。 「アリバイがあることを思いだしたからなんです。完全なアリバイがあるんですよ。世の中のことには、悪いことの半分に必ず好いことがあるもんですな。さっき今夜は次から次といろんなことがあって急がしかったといったでしょう? それは隣りに住むいとこ二人が、何度も邪魔をしたということなんです。二人は音楽家なんです。ごめん! 音楽家は大袈裟かもしれないが、ヴァライティーの楽士でしてね、おかしな歌で観客を楽しませるのです。ところが毎日その稽古をするので、隣りのぼくはやかましくてたまらない。それで、ぼくの仕事がある木曜日と金曜日だけは、稽古を遠慮してもらうように約束して、まあどうにかその約束が実行されていたんですが、今夜はぼくが血眼になって仕事をしている最中に、約束を無視して、フレデリックがばかげた歌をはじめたんです。『豚が翼をすぼめ』なんていう、ばかげて聞いていられない歌ですよ。しかも、それに合せて、もひとりの奴がクラリネットをふくのです。はじめは辛抱していましたが、終にはたまらなくなったので、ぼくは隣りへいって、ベルを押して、出てきたフレデリックの細君に、静かにしてくれといってやったのです。細君は、そうか、今夜は木曜日でしたか、そんなら主人にそのことを話して、歌をやめさせましょうといいました。たぶん、そういってくれたんでしょう、ぼくが部屋に帰ったころは、静かになっていました。ことによったら殴ってやろうと思っていたんですが、でもそう話しただけでやめてくれたので無事にすみました。」 「あなたがそこへ行ったのは、いつごろのことですな?」ミラーはきいた。 「九時五分ごろです。歌がはじまった時に、寺の鐘が九時を打ったから。」  ミラーはソーンダイクの顔をちょっとみて、 「ふん、そうですか。私たちが知りたかったのは、そのことだけだったのです。どうもお邪魔をしました。」  そういって、勢よく立ちあがって部屋をでて、階段をおりた。私たちも彼のあとについた。  街へでると、彼はがっかりした顔で私たちをふりかえり、 「どうです。困ったことになった。証拠がなくならないうちにと思って、大急ぎでやってきたんだが、あんなことをいわれちゃどうにもならん。あなただって、あんなアリバイは打ちこわせないでしょう?」  この失敗をどう考えているだろうと、私はソーンダイクの顔をみたが、彼も当惑している様子で、この新しい展開に、どう対処すべきか、思案しているらしかった。私の見たところで、ポンティングが着ているのは、上下ともトウィードだったが、ソーンダイクもそれには気づいているらしかった。もっとも、これはそのご着替えたとすれば、その事実になんの重要性もないわけなのである。それよりも、私たちの出鼻をくじいたのは、彼が完全なアリバイをもっていることで、これが事実なら、ミラーもいったように、私たちは行きづまったにちがいないのである。  ふと、ソーンダイクは顔を起してミラーにいった。 「まずこのアリバイを確実なものとする必要がありますな。嘘かほんとかすぐ調べてみましょう。いまのところ、ただポンティングがそういったというだけなんですから。」 「まさか嘘はつかないでしょう。」ミラーは陰気な顔だった。 「しかし人殺しの嫌疑をかけられた者は、嘘ぐらいつくものと思わねばならん、ことに実際の犯人だったら、平気で嘘もつきますよ。だから、ポンティングがわたりをつけたりしないうち、バーネット夫人に会って確かめることですよ。」 「いや。」ミラーはいう。「わたりをつけるなら、もう私たちが来る前につけていますよ。しかし、いちおうはあなたもいわれるように確かめないといかん。あすこの窓に灯がついているようだ。これからあがってきいてみましょう。話はあなたにおまかせしますよ。」  私たちはビルディングにはいり、階段をあがった。ミラーがベルを押してドアをノックした。しばらくすると、いぶかしげな女の顔がのぞいた。 「あなた、フレデリック・バーネットさんの奥さんですか?」  そうソーンダイクがきくと、女は面食らったような顔でうなずいた。 「じつは隣りのポンティングさんや、それからお宅のことについて、知りたいことがありますので、お邪魔にあがったんですが、どうも、こんなにおそく、ご迷惑でしょうが、大切な話なので――」  この説明を、バーネット夫人は困ったような不審げな様子できいていたが、ちょっと考えたあとで、 「とにかくたくに話してみてください、いま呼んでまいりますから、ちょっとお待ちください。」  そういってドアを少しばかり押して、しめるようにしたがしめてしまいはしなかった。そしてリヴィングルームへとんで行ったようだった。かの女がまだドアのそばに立って話している時、私のところから玄関のおくの開いたドアのおくに、赤いクロスの掛ったテーブルが見えた。だから私はかの女がその部屋へ行ったのだろうと思ったのである。  かの女は「ちょっと[#「ちょっと」は底本では「ちよっと」]お待ちください」といったが、一分間たってもかえってこなかった。ミラーはじれったそうに、 「あの女に直接たずねたほうがよかったかな、」といったが、私もそれには同感だった。  やがて足音が聞えて、一人の男がドアをあけた。左手はドアにあて、右手にはハンケチをまいていた。彼は疑惑をたたえた目で私たちを一人ずつ見て、 「どんなご用事ですか? どこからおいでになったのです?」 「私はソーンダイクといいまして、チャールズ・ミードという牧師さんの法律顧問なのです。この二人はやはり私の仲間です。ポンティングさんの近頃の動静を聞きにきたのです。たとえば今日はあの人がどうしたというような。いつあなたはあの人を最後にごらんになりました?」  いまにも彼は面会を拒絶しそうな様子だったが、また思いなおしてしばらく考え、 「私の部屋の窓から、むこうの出窓にいるポンティングが見えましたよ、八時半ごろのことです。家内はそれよりも後で会ったはずです。おはいりになって家内にきいてみてください。」  彼は不思議そうな恰好で、私たちを案内して廊下にはいった。だが、不思議に思ったのは、彼よりもむしろミラーと私だったかもしれない。私にはソーンダイクが遠廻しの質問をした理由が分らなかった。廊下のドアをあけて部屋にはいったら、また不思議なことが目についた。玄関の外から見た時には、赤いクロスがテーブルにかかっていたのに、そのクロスがいつのまにかなくなっているのである。そのかわりそのクロスが、壁ぎわの小さいテーブルの上の、なんだか大きい四角な物の上にかぶせてあった。つまり、この家の人は、なんだか分らぬが、その大きい物を私たちに見せたくないのだ。クロスのないテーブルに向って坐った私は、それがなんだろうといぶかしがらずにいられなかった。  バーネットは、ソーンダイクの質問を妻に説明したあとで、 「ポンティングが来たのは、九時をちょっと過ぎてからだったろう、どうだった?」 「ええ、そうだったでしょう。あなたが稽古をおはじめになったのが、九時を打ってからすぐ、それからちょっとして、あのかたが来られたんですから。」 「歌をうたうのが、ぼくの商売なんですよ。」バーネットはいう。「そして、ここにいるのが弟で、いろんな楽器で伴奏してくれるので、二人はしょっちゅう稽古をするんです。けれども、木曜日と金曜日は、隣りのポンティングが仕事をするのに邪魔になるというので、歌をうたわないことにしていたんですが、今夜はそれを忘れていて、ちょっとうたったのです。じつは今度新しい歌をぼくがうたって、それを弟がクラリネットで伴奏することに決まりましたので、みんなその歌に夢中になってしまって、ついうっかり何曜日か忘れてしまったのです。ところが、最初の一節の稽古がまだすまぬうち、ポンティングがやってきて、気違いみたいに烈しくドアを叩きだしたので、すぐ家内が出ていってあやまり、それからは稽古をやめてしまいました。」  バーネットがそんな話をしているあいだ、私は物珍しげに部屋のなかを見まわしていたが、なぜともなく、私はその部屋に奇妙な空気がみちているような感じをいだいた。どことなく緊張の気があふれているように思われた。バーネットの細君は蒼白い顔になって、おどおどしていた。バーネットはよく喋りはするが、妙に不安げで、弟は安楽椅子に腰かけて、灰色のペルシャ猫を膝の上にのせ、じっと煖炉の火を見つめたままで、ものをいいもせねば、身動きもしなかった。またしても、私は赤いテーブルクロスで隠した物が気になった。  しばらくすると、バーネットがいった。 「どうしてそんなことをききにおいでになったのです? ポンティングが今夜どうしたというのです?」  そういったあとで、彼はパイプと煙草入れをだし、パイプを繃帯した右手にもち、左手でそれに煙草をつめた。その左手の器用さで、私はすぐ彼を左利きと見てとった。左利きであることは、左手で上手にマッチをすったことや、右手に腕時計をつけていることでもわかった。 「そんなことをおたずねになるのはもっともです。」ソーンダイクはいった。「それにたいする答えは、恐ろしい出来事があったということです。今夜あなたのご親戚のミス・ミリセント・フォーセットが死んだのですが、その死因が疑わしいのです。九時にちょっとまえ死んだのですが、自殺ではなく、他殺らしい。ですから、いちおうその時刻の関係者の動静を、調べなくちゃならんのです。」 「ほう! そりゃ大変なことになりましたな!」バーネットは叫んだ。  部屋が沈黙にとざされた。  その沈黙のなかで、隣りの部屋の犬が鳴いたが、その甲高い鋭い声で、狆であることはすぐにわかった。また私は部屋にいる人々の緊張した空気を感じた。ソーンダイクの説明をきいた細君は、死人のように蒼くなって、片肘をついて頭をささえた。バーネットもひどい衝撃をうけたように蒼くなって、椅子に体を沈めた。弟は黙って火を見つめている。  この悲劇的な空気を破って、だしぬけにソーンダイクが立ちあがって、不作法ともいえれば、悪趣味ともいえるようなことをしたので、一同がはっと息をのんだ。赤いクロスでおおったテーブルの真上の壁に、エッチングの額が一つかかげてあったが、椅子をはなれた彼はその額を見つめながら歩いていって、 「これはカメロンのエチングでしょう、」と、その真下に立って、クロスでおおった物に片手をついて、背伸びするような恰好をしたのである。 「それに手を当てないでください!」  そう叫んで、バーネットは椅子からとびあがった。  ソーンダイクは初めて気づいたように、顔を下にむけて、手の当っているところを見、そっとクロスの端をはぐってみて、 「こわれていませんから大丈夫です、」といって、また静かにクロスでおおって、それからまたエチングの額を見たあとでもとの椅子へかえった。  また部屋が深い沈黙にとざされた。緊張した空気がいっそう深まったように思われた。バーネット夫人は幽霊のように白くなって、はげしい息づかいをしだした。かの女の良人は怒ったような顔で夫人を見つめ、やけになったように強くパイプを吸った。ミラーもこの異様な雰囲気に気づいたらしく、そっと夫人を見、それから主人のバーネットを見、さらにその視線をソーンダイクにうつした。  しずまりかえった部屋に、また烈しい狆の鳴声が聞えたが、私はそれを聞くと、なぜともなしに、煖炉のそばにうずくまる弟の膝に眠っているペルシャ猫を思いだした。私はその猫を見、猫をだく人を見たが、その瞬間、異様なものが目についたのでひやりとした。静かにバーネットの弟の肩の上に、緑がかった茶色の人間の顔を小さくしたようなものが、ぽっかり現れたのである。小さい手を彼の肩にかけて、恐る恐る見知らぬ三人の来客を見ようとするかのように、小さい猿はしだいに高く顔をもたげたが、すぐまたはにかみやの子供のように顔をすっこめてしまった。  私は雷に打たれたような気持だった。猫と犬のいることを知った時には、ただ偶然の符合と解釈したにすぎなかったが、奇妙な猿を見るにおよんでは、もはや偶然とは思えなくなった。弟を見つめる私は息がつまりそうだった。この男は数マイル離れた地点の寝椅子に横たわる、女の死体となにかのつながりを持っているにちがいない。ではどんなつながり? あの戦慄すべき犯罪がおこなわれた時刻には、この男はこの部屋にいたにちがいないのだ。それにもかかわらず、なにかのつながりを持っている。ふと私は、いまこの瞬間、ソーンダイクが真の犯人を指摘する直前にあるのではないかという疑いをもつにいたった。 「そうですか、それは大変なことになりましたな。」しわがれた声で、バーネットはだしぬけにそういったあとで、「なにか他殺と自殺と区別がつくような、はっきりした証拠でもあるのですか?」 「ここにいる警視庁のミラーさんは、他殺にちがいないといっています。」  そういってソーンダイクがミラーを見ると、当惑顔のミラーはかすかにうなずいた。 「関係者を調べるといわれましたが、犯人が誰だと分るような証拠があるのですか?」 「あります、」と、ソーンダイクはこたえた。「立派な証拠があるから、その証拠を根気よく調べさえすればいいのです。はっきりした足跡が現場にのこっていたので、その型をとったのです。どうです、それをごらんにいれましょうか?」  返事をまたずに、彼は調査箱から石膏型をだして私にわたし、 「これをみんなに見せてあげてくれ、」といった。  あまり意外なソーンダイクの出方に驚いたミラーは、しばらくは唖然となっていたが、私が一同に石膏型を見せるため、テーブルに近づきかけると、ミラーはそれをこわされることを警戒するもののように、立ってテーブルに近づいた。私は用心しながら石膏の雪のように白い靴裏を上にむけてテーブルの上においた。斜めからの光線をうけて、円い踵や、ちびたところや、修繕したところが、びっくりするほど鮮やかに浮んでみえた。  三人の家族は、ミラーの許す範囲で、できるだけテーブルに近よってみた。私はソーンダイクがこんな不可解なことをするのは、彼らのうちの一人、あるいは二人に、なにか秘密のたくらみを持っているためではないかと、そんなことを考えながら彼らの態度をみていた。バーネットはいっそう蒼くなったようだったが、それでも無表情な目でそれを見ていた。細君は目を見はり、口をあけて、混乱と恐怖のいりまじった顔だった。弟のジェームズ・バーネットは、私はこの時初めて彼の顔をま近に見たのだが、ものおじしたように顔色をかえて、女の肩越しにのぞいていた。そして、これも初めて気づいたのだが、たしかに彼の服の上下は紺サージで、チョッキや上着の前のほうに動物の毛がついていた。  そして、この罪ぶかい足の型をのぞきこむ三人は、しばらくは身動きもせず、ものもいわず、そばから見ていてもなんだか気味がわるいほどだったが、つぎの瞬間、もっと気味わるいことがおこった。不意に静かな部屋のなかに、鋭いクラリネットの音と、きんきんするような歌声が響きだしたのである―― [#ここから3字下げ] 「豚が翼をすぼめ、 牛が巣にかえれば――」 [#ここで字下げ終わり]  みなびっくりしてふりかえったが、歌の主はすぐ分った。赤いテーブル掛けを足もとに落して、ソーンダイクが立っていた。そのそばの小テーブルには、会社などで手紙を口述する時に使う大型の蓄音機、けれど耳に当てるゴム管のかわりに、螺旋状に巻いた金属製のらっぱのついたのが見えた。  気をのまれた沈黙があったのは一瞬間のことで、すぐつぎの瞬間に大混乱がはじまった。バーネット夫人は耳をつんざく悲鳴をあげて椅子に崩れかかり、かの女の良人はソーンダイクに飛びかかっていったが、すぐソーンダイクに手頸をつかまれ、はがいじめされてしまった。ミラーは一目ですべてをさとり、立ちあがろうとする弟のジェームズを、ぐっと椅子に抑えつけて動けないようにした。私は陽気な蓄音機の歌が、悲劇的なこの場の雰囲気にそぐわないので、急いで機械をとめて、ソーンダイクといっしょに、バーネットを蓄音機から遠のけた。  ソーンダイクはもがくバーネットをはがいじめにしたまま、 「ミラー君、あなたは社会秩序の擁護者でしょう?」ときいた。 「そうです。それが私の職務です。」 「そんなら、ミス・ミリセント・フォーセットを殺した犯人として、この三人を逮捕してください。ジェームズ・バーネットが後から女の両腕をつかんでいるところを、兄のフレデリック・バーネットが剃刀で斬りつけたのです。夫人は偽のアリバイを作るため、この部屋で蓄音機を鳴らした。」 「わたし、なにも知らなかったのよ。ただ蓄音機をかけてくれといわれたので、その通りにしただけなんです。」  バーネット夫人の声はヒステリーのようだった。 「それは後で調べたら分ります。」ミラーはいった。「適当な時と場所でそういったらよろしい。誰か巡査を呼びに行きますか、それとも笛を吹きましょうか?」 「ジャーヴィス[#「ジャーヴィス」は底本では「ジヤーヴィス」]君、呼びにいってくれ。」ソーンダイクがいった。「巡査がくるまで、ぼくがこの男をつかまえている。そこらにいる巡査を呼んで、そのあとで警察署へ行ってくれ。入口のドアは開けとくのだ。」  私はいわれた通りにした。そして警察へ行って、四人の巡査と一人の警部補を、二台のタクシーにのせてかえってきた。  彼らが三人の犯人をつれさると、私たちは家宅捜索をはじめた。三匹の動物は動物好きの巡査にまかせた。兄のバーネットはすっかり服を着替えていたが、ソーンダイクが鍵のかかっているひきだしをあけると――彼が鍵を使わずに錠をはずした手際にはミラーも驚嘆していた――なかから予想通り血のついた格子縞のズボンや、買ったばかりの剃刀の空箱がでてきた。ミラーはそんな品々や蓄音機の蝋管を、ていねいに包んで荷造りして持ってかえった。  歩いてかえりながら私はきいた。 「この犯罪の真相はたいてい見当がつくが、ぼくが不思議に思うのは、バーネットの家へ行く前に、すでに君が犯人の見当をつけているらしく思われたことだ。どうして君はバーネット兄弟を疑いだしたの?」 「それはミードの最初の説明をもとにして、その後の出来事を順をおって考えてみれば分ることなんだ。死体をみてすぐ分ったのは、自殺ではないということだった。あの女の平常の性格だとか、前後の事情だとか、不似合な兇器なぞの問題を詮索するまでもなく、カラーや帽子の紐が切れていることだけでも他殺ということはわかる。君も知っているだろうが、自殺する人間は自分の身につけているものを傷つけるものではない。それは法則のようになっていることなのだ。自分の喉を斬る人間は、けっしてカラーを斬るものではない。カラーのような邪魔になるものは、取り去ったあとで自殺するのが普通だ。誰でも自分のすることは完全にやりたいと思うだろうし、またそんな準備をするだけの時間はあるはずなのだ。けれども他殺の場合にはそんな時間もないし、そんなことを考える余裕もない。 「まだある。傷はドアのそばでうけたのに、死体は部屋のおくの寝椅子の上に横たわっていた。寝椅子のそばに血がないから、そこへ運ばれた時には、死にかかっていたか、あるいはすでに死んでいたものと考えなければならぬ。だから、あの死体は喉を斬ったあとで寝椅子にはこんだのだ。 「つぎは血の問題だが、傷口からでた血は、みなまっすぐに足に流れていたから、傷を受けた時には立っていたのだ。頸には四つ傷があって、そのうちの一つが致命傷で、頸動脈と静脈を斬っている。それだけの傷をうければ、すぐ倒れるのが普通だ。であるのに、血の流れた方向から判断して、すぐには倒れなかった。ではどうして倒れなかったか? それは後から誰かが抱きかかえていたのだ。この推理があたっていることは、女の手に傷がないのをみてもわかる。誰かが支えていなかったら、女の手に必ず傷ができるはずのものだ。それはカラーの後がしわだらけによじれて、ドアのそばにボタンが落ちていたのをみてもわかる。 「つぎは動物の毛の問題だが、普通動物の毛は前につくものだが、あの女の死体には、前には毛が一本もないのに後にだけついていた。それからまた、あの女が動物を飼っていなかったということもわかった。してみると、犯人は二人で、一人は後から女の両手を持ち、一人が前から斬りつけたと判断しなければならぬ。塀の上についていた服の繊維も、犯人二人説を支持している。あれは二人の男のズボンの繊維なんだよ。それから四つの傷の傷口をみれば、斬りつけた犯人が左ききであったこともわかる。 「ぼくは車のなかで、それらの事実をいろいろ考えてみた。それから犯人の犯罪動機はなんだろうと考えてみた。現場には盗まれた物はなかったし、また窃盗が目的の犯罪でないことはすぐにわかった。では、そのほかにどんな動機があるか? かりに、いまここに莫大な財産をもった独身の女があって、親戚の者にその財産を分けるという遺書をかきながら、その女が結婚するといいだしたら、どんな結果になるだろう? 結婚と同時にその遺言状は無効になるが、その女が今まで通り彼らに有利なように遺言状をかきかえるとは思われない。ここに犯罪の動機がある。そして彼らのうちのポンティングは、じっさいその女を威したことさえある。 「でも、威したということ以外では、ポンティングは重要容疑者とはいえない。遺言状で得る彼の利益はごくわずかであるからだ。もっとも利益をえるのはバーネット兄弟で、この二人は女が死ねば、すぐ遺産にありつけるのだ。しかも一人でなく二人なのだ。ポンティングよりこのほうに濃厚な動機がある。そしていよいよポンティングに会ってみたら、彼はアリバイをもっていた。原稿のアリバイは編集者にきいてみないと分らないが、もひとつのアリバイは決定的である。 「ただ困ったことに、ポンティングのアリバイは、同時にバーネット兄弟のアリバイにもなっている。二つのアリバイのちがうところは、一つが目で見たのに、一つは耳できいたことなんだ。ぼくはこれまでにも考えたことがあるのだが、自分で吹きこみができるなら、蓄音機を使えば都合のいいアリバイができる。前後の事情を考えてみたら、蓄音機がぴったり当てはまった。ポンティングが原稿かきに熱中している時、隣りから蓄音機をかければ、彼が怒ってくるにちがいない。だからアリバイを証明するのに、彼を証人とすれば好都合だ。これはぼくがバーネットの家へ行くまでの推理だが、試してみるだけの価値はあろうと思った。 「さて、いよいよ彼の家へのりこんでみたら、彼は右手に繃帯をしていたが、もしあれが左手だったら、ぼくは驚いたかもしれない。だが彼が左ききであることはすぐにわかった。この偶然にもぼくは驚かずにいられなかった。普通の人だったら答えないような質問に、彼はすらすらと返事をしたが、それは当然なことで、彼のほうでは自分のアリバイをいっしょけんめいに作ろうとしていたのだ。 「最後に赤いテーブル掛けだが、私たちが玄関にはいった時に、あれが大テーブルに掛けてあったことは、君も見たと思うんだが、あれで誰かが壁ぎわの小テーブルの上のものを隠した。赤いクロスのことは今さら話さなくても分るだろう。つぎに猫をみ、犬の声をきき、猿をみたぼくは、果して想像どおり赤いテーブル掛けの下に、蓄音機があるかどうか、調べてみずにいられなくなった。そして、そこにまだ円筒型のレコードがかかったままになっているのを見ると、一か八かの冒険をするよりほかに手がないと思った。というのは、そのレコードを試さないうちは、彼のアリバイがいつまでも本物として通用するからだ。もしぼくの冒険が失敗したら、ミラー君に石膏型をひっこめさせて、引きあげてかえるつもりだった。ところが、その冒険が的中して、ばかげた歌が沈黙を破ったので、一挙に事件が解決したわけだ。」  治安判事は、バーネット夫人の弁護を正当とみとめて、かの女をすぐに釈放した。男二人は公判にうつされ、しばらくして極刑にしょせられた。「これもおろかな犯罪者の一例なのだ。」ソーンダイクはいう。「放っとけばよいのに、いつわりの証拠をつくろうとする。バーネット兄弟がいつわりの証拠をつくらなかったら、あるいは疑惑をうけなかったかもしれないのだ。犯人があの二人であるということが分ったのは、あまりアリバイに苦心しすぎたからだった。」 底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社    1957(昭和32)年 1月10日初版 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。