パンドーラの箱 リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)レベッカ・ミングズ[#「レベッカ・ミングズ」は底本では「レベッカ・ミングス」]と ------------------------------------------------------- 「まだチャプマンは、箱を受けとりにこないらしいね。」新聞の個人広告欄をみながら私はいった。  ソーンダイクは顔をおこして、 「チャプマンって誰? みせたまえ。」 「箱の持主だよ。こないだ読んできかせた広告が、またここにでている。こう書いてある。『S・チャプマンの名義で、当ホテル荷物係におあずけになった箱を、一週間のうちに受けとりにおいでにならなければ、費用を支弁するため売却します――ケント州ストーク・ヴァーリ、赤いライオン旅館、バット。』一週間といっておどしながら、もう一月も前から、時々出ているんだ。最初の広告の期限が切れて、三週間にもなるのに、どうしてこのバットという人は、箱を売ってしまわないのかな?」 「それは、多少は人の物を売るんだから、気がとがめるのだろう。それだけじゃ、費用というのがなんのことやら、また箱の中になにがはいっているのやら、さっぱり見当がつかん。」ソーンダイクはいった。  だが、それから二、三日して、私たちはジョージ・チャプマンと名乗る人の来訪をうけ、この箱の説明をきくことができた。だしぬけの訪問をわびながら、彼はこういった―― 「じつは兄のサミュエル・チャプマンが、いま大変困ったことになっていまして、その弁護士がソーンダイクさんに相談してみたらといいますので、それでお邪魔にあがったしだいですが、兄はいま恐ろしい殺人の嫌疑で、警察に監禁されているのです。」 「それはお困りでしょう。どうしてそんなことになったのです? 初めからくわしく話してみてください。」ソーンダイクは冷淡にいった。 「なにもかもお耳にいれます。ただ困るのは、初めから話そうと思っても、どこが初めか分らんことなんです。仕事の話もあれば、家庭の話もあるんですが、まず仕事のほうから話しましょうか。兄はいつも旅行するある宝石工場の外交員なんですが、見本としての宝石はたくさん持っているんですが、小売りのときはすこししか持って出ません。旅に出る時はいつもグラドストン・バッグにそれをいれて出るのです。しかし大部分は自分のうちの金庫にしまっておいて、週末そのたに少しずつ取りにかえるのです。ところが二月ほど前に兄がうちを出る時は、いつもとちがって、金庫にある宝石を全部大きな木の箱にいれて持って出たのです。どうしてそんなことをしたのか、それは私には分らんのですが、とにかく全部持って出たことは事実なんです。そのごのことと思い合せると、これはじつに不思議なことなんですが、兄はフォークストンからほど遠からぬストーク・ヴァーリという村へいって、そこの『赤いライオン』という宿屋へ泊って、旅商人のための荷物係にその木箱を預け、それからその宿屋に二三日逗留すると、ロンドンへ出てきて、自分の家を人に売るか貸す準備をはじめたのです。兄がロンドンへ着いたのは夕方でしたが、その翌日になると、まず最初の恐ろしい災難にあいました。 「ある人気ない街を歩いていたら、舗道のうえに女持ちの財布が落ちていたのです。兄がそれを拾ってなかを見ると、名も住所も書いてないので、巡査に渡そうと思ってポケットにいれました。兄がバスに乗ると、いっしょに一人の立派な身なりの女が乗って、隣の座席に腰かけました。そして車掌が金を集めにくると、その女はポケットを探して急に慌てだして、私の兄にむかって大声で財布をかえしてくれといいだした。むろん兄はそんなものは知らんといいました、するとその女は、いや、たしかにいま財布をすった、だからバスをとめて、巡査を呼んでくれといいだした。ちょうどその時、巡査の姿がみえたので、車掌はバスをとめてその巡査を呼びとめたのです。そこで巡査が乗りこんで、一通りバスの床を探したあとで、兄とその女を警察へつれて行きました。巡査がどんな財布かときくと、女の答えるその財布というのは、兄が先刻街でひろって、いまポケットに持っている財布とおなじものなので、兄は困ってしまいました。それですぐ兄は正直にありのままを話して、その財布を出したのですが、巡査が兄の言葉をそのままに受けなかったことはいうまでもありません。 「そこで、兄は仕方なしに、無理もなかったんですけれど、つまらんことをやりました。どうにもいいひらきができないので、どうせ刑罰になるだろうと思って、でたらめの名をいい、住所はいわなかったのです。そして、その晩は警察に留置され、あくる日になると警察判事の前へつれだされましたが、判事はその女や巡査の証言をきくと、兄の弁解はききいれず、保釈はしないで、中央刑事裁判所に提訴しました。それから兄はブリクストンの刑務所に送られ、公判が開かれるまで一月ほどそこで暮したのです。 「やがて公判の日が近づくと、妙なことに、兄を告訴した女が、下宿を出て行方不明になってしまいました、それで警察も兄のいうことをいくぶん信用してくれるようになり、兄は起訴棄却で釈放されたのです。 「釈放された兄は駅で新聞をかって、ロンドンへ帰る途中でそれを開いて読みました。その個人広告欄に目を通すと、意外にも自分の名が書いてある――」 「箱をとりにこいという広告ですか?」私はきいた。 「そうなんです。では、あなたもあれをごらんになりましたか。大事な物がはいっているので、兄は気だけはあせりました。すぐ電報をうって、明日の正午までに受取りにいくから、それまで保管しといてくれ、保管料はお払いするといってやりました。そして、その翌日、というのは昨日のことなんですが、昨日の朝早く汽車でストーク・ヴァーリの、『赤いライオン』へ行くと、食堂へはいってくれという、食堂へはいると、そこに三人の巡査が待ちうけていて、殺人の嫌疑で兄を逮捕したのです。どうして兄に殺人の嫌疑をかけたか、それをお話しするのには、そのまえに、兄の家庭の事情を説明しとかなければなりません。 「お恥ずかしいことなんですが、兄は妻でない女と同棲していたんです。はじめ兄はこの女と結婚するつもりだったのですが、五六年いっしょにいるうちに、自分の妻にはできない女だということが分ってきました。恐ろしい女なんですよ。恐ろしい過去をもった女です。まったく手のつけられぬ我儘者で、よく酒をのんで、喧嘩をしたり、暴れまわったりするのです。もといかがわしい生活をしていたので――つまらんショーに出ていたらしいんですよ――怪しげな女を兄のうちに引っぱりこんだり、変な男と交際したりする。みんなでなにをやっているか見当がつかない。なかでもギャンブルという男なぞは、妻がありながら、もっとも足しげく通っていました。 「さて、兄はその女――名前はレベッカ・ミングズ[#「レベッカ・ミングズ」は底本では「レベッカ・ミングス」]というのですが、このレベッカと同棲しながら、何年ものあいだ、まるで社会に背をむけたみたいな、くすぶった生活をしていたのですが、そのうち、たちの好い女の知り合いができ、兄さえ将来有望の仕事にありつくなら、いつでも結婚するというので、ある日、兄はレベッカとひどい喧嘩をしたあとで、永久に縁をきるから、家を出ていってくれといったのです。 「でも、女はそれをこばみました。そしてドアの鍵をもっていて、なんども勝手に家へ帰ってきては、世間の笑いものになるような騒ぎをします。その最後の騒ぎの時は、兄が内がわからドアに鍵をかけているのに、外からその女が無理にはいろうと騒ぎたてるので、通行人がよりたかり、それで兄もやむなくドアを開けてやったほどです。家にはいったその女は、数時間おとなしくしていました。兄の家には通勤女中がいたのですが、いつも三時になると自分の家へ帰ってしまうのです。夜の十時になると、レベッカはどこへ行くのかふらりと家を出てしまった。レベッカが家にはいるところは、沢山の人が見ていたんですが、十時に家をとびだすところは、誰も見ていなかった。知っているのは兄一人です。これが悪かった。というのは、レベッカはそれきり行方不明になってしまって、誰もその後の姿を見た者がないからです。女はその夜自分の下宿へは帰らなかった。まるで空中で消えてしまったようになったのですが――それが――それが――ここでストーク・ヴァーリの『赤いライオン』へ話を戻しましょう。 「警官はレベッカを殺した嫌疑で兄を逮捕した時、だいたいその理由を兄に話してきかせたらしいですが、電報をうけとってかけつけた私にも、その理由をくわしく説明してくれました。よくきいてみるとこうなんです。私の兄が『赤いライオン』に箱をあずけて、ロンドンへ帰って二週間ほどたったある日、荷物係がその部屋へはいってみると、ぷんとその箱が嫌な匂いがする。荷物係はいつまでたっても兄が受け取りにこないので、兄を疑って警察にとどけた。警察はすぐロンドンの警察へ連絡したのですが、調べてみると兄の家は鍵をかけたままで、兄がどこにいるのやらわからない。そこではじめて土地の警察がその箱を開けてみたら、なかから女の左腕と、血のついたきれがでてきた。警察はさっそく例の広告をタイムズに出し、一方手を分って方々の捜索をはじめました。聞いてみると、兄はその旅館にいるあいだ、近くの小川に釣りにいったというので、巡査たちはそこを探してみたんですが、すると、その小川から箱にはいっていた片方の右腕、それから女の足が一本、三つに切ったのがでてきたのです。箱にはいっているのがレベッカの腕であることはすぐ分ったのです。というのは、その腕に、心臓を矢が貫いた入墨がしてあって、その上にレベッカ・ミングズの頭字R.M.という名をかき、下に誰の名かJ.B.と書いてあるからです。二三の人にきいてみたら、生前のレベッカの左腕に、そんな入墨のあったことはすぐ分り、また数人の者にひそかにその切断した腕を見せたら、かの女の腕にちがいないといいました。それから、いろいろ聞き合わせているうち、いまお話ししましたように、レベッカが兄の家にはいったことが明らかになったので、さっそく警官が兄の家へはいって捜索したのです。」 「捜索の結果は?」ソーンダイクはきいた。 「それは、私には分りません。でも、なにか分ったのでしょう。ストーク・ヴァーリの警官は、私にたいして丁寧で、親切ではありますが、捜索のことはなにも話してくれません。しかし、検屍審問のときになれば、そんなことは自然に分ると思っています。」 「で、話はそれだけなんですか?」ソーンダイクはきいた。 「そうです。知っているだけのことは話したつもりです。私は自分の意見はなにもいいたくないし、また、あなたにこの話を信じてもらえるとも思わんです。ただ私が知りたいのは、この弁護を引き受けてくださるかどうかということなんです。弁護人が兄の無罪を信じてくださらなくても、陪審員さえ信じてくれればいいと私は思うのです。」 「私は弁護士じゃないです。また、自分で有罪だと信じているものを弁護することもできませんね。私にできることは取調べだけです。取調べたうえで、あなたの兄さんが怪しいと思ったら、すぐこの事件から手を引きます。弁護してもらいたいなら、弁護士のところへ行ったらいいでしょう。しかし、取調べたうえで無罪と分れば、その時は私が弁護にあたります。どうです?」 「むろん、取調べていただきたいですよ。取調べていただいたうえで、兄に不利な証拠がたくさん出てきたら、そうなったら、いくら弁護しても仕方のないことです。」 「あるいは、そんなことになるかも分らんです。取調べにとりかかる前に、一つ二つきいておきたいことがあるのです。兄さんは箱の中から、女の腕が出てきた時、どう弁解しました?」 「宿屋の誰かが、箱の中から宝石を盗みだし、かわりに腕をいれたのだといいました。帳場で鍵をかりさえすれば、誰だって荷物部屋へはいれるわけなんです。」 「まあそうでしょうな。つぎにその箱を開けた人のことですが、誰かレベッカを亡きものにしたいと思うような人があったのですか?」 「いえ、」と、チャプマンはこたえた。「レベッカを憎んでいた人はたくさんあるんですけれど、亡きものにしたいとまで思っていたような人は、もしあったとしても、兄一人ぐらいなものでしょう。」 「あなたはさっき、レベッカが特別に親密にしていた男があったといいましたが、二人の間で、喧嘩や仲たがいをするようなことはなかったのですか?」 「ギャンブルですか? いいえ、ギャンブルはあの女と仲がよかったのです。それに二人の間にはなんの義務もなかったのですから、ギャンブルの方で嫌になったら、殺したりしなくたって、いつでも振り棄てることができたわけなんです。」 「その男について、あなた、なにか知っていますか?」ソーンダイクはきいた。 「よく知らんのですが、一種の浮浪人でいろんなことをやったらしいです。ニュージーランドにいた時なんか、人間の頭の燻べたのを、物好きな蒐集家や博物館などに売りつけていたこともあるくらいで、すでにいろんなことの経験をつんでいるのです。」チャプマンはにやりとした。 「でも、人間を切り刻んだ経験はないでしょう。」ソーンダイクはいう。「燻べた首というのは、昔人間の首を集めていたマオリ族が作ったのでしょう。そんなのが博物館にありますよ。しかし、あなたもいわれるように、ギャンブルには殺人の機会はあったが、殺人の動機はなかった。兄さんのほうには、機会も動機もあったわけです。兄さんは、殺すなぞといって、レベッカを嚇したことがあるのですか?」 「いかんながらそれがあるのです。しかも、人の見ている前で、なんども殺してやるといって怒ったことがあるのです。むろん、口ではそうはいっても、ほんとはおとなしい人間なんですから、腹からそう思ったんじゃないのですけれど、ばからしいことをいったもんです。ことにこんなことになってみると、ばからしいことです。」 「よろしい。」ソーンダイクはいった。「では調べてみて、あとでその結果をお知らせしましょう。いまのところ、少々厄介な問題らしいですな。」 「それは分っています。私としてはただ最善を希望するだけです。」  そういって、チャプマンは立ちあがり、名刺入れから名刺を一枚だしてテーブルの上におき、憂鬱な顔で握手して、すごすご部屋をでていった。  二人になると私はいった。 「外観だけで判断することはできないが、これは今までのなかで、いちばん絶望的な事件だ。この事件に結末をつけるのには、ただチャプマンの家の中から、女の死体の残りの部分を探しだしさえすればいいわけだ。」 「いや、もうその結末はついているのかもしれないよ。死体の残りは探すまでもないことで、今までに分っていることだけで、陪審員は有罪の評決をくだすにきまっている。ただ問題は、外観がはたして真実であるかどうかということだ。真実であるなら、いくら弁護してみてもつまらない。」 「まず君はストーク・ヴァーリから調べていくつもりなんだろう?」私はきいた。 「そう。あすこへ行って、いまの話が真実かどうか調べてみよう。もし真実ならほどこすべき手がない。ぐずぐずしていると、死体がロンドンの検屍官の手にはいってしまう。なるべく元の形で調べたいから、今日の仕事はほっといて、すぐストーク・ヴァーリへ行くことにしよう。行くまえに警視庁へよって、死体や現場を見る許可をうけるんだね。」  それから数分たつと、私たちは出発の用意をしていた。そして、ソーンダイクがれいの「調査箱」に必要な品々をつめこんでいるあいだに、私は実験室の助手ポールトンに、留守中のいろんな注意をあたえた。それがすむと、汽車の時間表をしらべて河岸へでた。  警視庁で私たちの友ミラー警視をたずねると、はや一足さきにストーク・ヴァーリへ行ったという返事だったので、いささか不安は感じたが、それでも許可だけはえられたので、大急ぎでチャーリングクロス駅へかけつけると、あやうく汽車にまにあった。  ストーク・ヴァーリへ着いて、切符を渡して気持よい駅を出ると、急にソーンダイクがくすくす笑いだした。不思議におもって彼の顔をみると、「ミラー君はぼくらがくるという電報を受けとったらしい。どうやら監視つきということになりそうだ。」彼が見ている方向に目をやると、なるほどミラー警視がこちらへ歩いてくる。妙な顔で笑って、わざと意外だというようなふりをして、 「やあ、こんなところでお目にかかれようとは思わなかったです。でも、こんどの事件でおいでになったのじゃないのでしょう?」 「どうしてです?」ソーンダイクはいった。 「調べたって駄目だからですよ。こんな事件を調べたって、あなたは時間をつぶすだけ、そして名誉を落すだけです。これは内証だけれど知らしてあげますがね、もうロンドンのチャプマンの家も捜索ずみなんです。もう有罪と決っているようなもんだから、家宅捜索なぞに手数をかける必要はなかったのですが、それでも確実のうえに確実をきしたいと思いましたのでね。」 「家からなにが出てきたのです?」ソーンダイクはきいた。 「寝室の戸棚から、三分の一ほどつかって、三分の二ほど残った、大きなヒヨシンの錠剤のはいった壜がでてきたのです。しかし、なにに使ったのか分らないから、それは必ずしも大した証拠とはいえない。ところが、地下室へおりてみると、なんだかへんな――ちょっと墓場みたいな匂いがするんですよ。そこであたりをよく見ると、床にでこぼこと石を敷いてある。でこぼこしていても敷石を動かした形跡はない。その敷石を一つ一つはがしてみるわけにもいかないので、バケツにいっぱい水をくんで、ざっとその上に流してみたんです。すると、ほかの敷石には水がたまったのに、まんなかの一つはすぐ水を吸い取ってしまった。私はその石を怪しいとにらんで、『この石の下の土は柔らかい、』といったのです。そしてすぐ部下の巡査といっしょに、鉄挺でその石を起してみた。すると、はたして、大きな敷布の包みがそこに埋めてあった。まあきたない話はやめましょうか。あなたが気の弱い人とは思わんが――手短かにいって、人間の死体の一部がでてきたんです。」 「骨もありましたか?」ソーンダイクはきいた。 「いや、はらわたと前のほうの皮膚だけ。すぐそれを警視庁の専門家に送って、鑑定してもらったら、年齢は、三十五ぐらい――レベッカと同じ年ですよ。内臓を解剖してみたら、たくさんのヒヨシンの反応が現れました。致死量以上のヒヨシンです。お分りですか? だから、被告を弁護しようというお考えだったら、いまのうちに中止なさったほうがいい。」 「秘密の情報を提供してくださったことは有難いです。まだ弁護するかどうか分りませんが、いまの情報は大変参考になります。私はただ、弁護の余地があるかどうか、それを調べにきただけなんです。せっかくきたんですから、調べるだけは調べてみたいです。死体はどこです?」 「死体仮置場なんですがね、私が鍵を持っていますから、これからご案内しましょう。」  村はずれを私たちは通りぬけたのだったが、それでもぞろぞろ見物人があとからついてきて、ミラーが仮置場に私たちを案内して、あとにドアをしめるまで彼らは私たちのそばを離れなかった。  ミラーはスレートの台の上に、防腐剤の匂いのするきれをかぶせたものを指さし、 「あれです。私はもうたくさん。」  そういって部屋のすみにしりぞき、パイプに火をつけた。  きれをはらいのけて現れた、切断された死体は、野蛮きわまる犯罪を想像させるだけで、捜査の手掛りになるようなものは見つからなかった。切断のしかたは乱暴で不手際だった。中背の若い女であることはすぐに分った。もっとも人々の興味をひいたのは蝋のように白い左腕で、それには均斉のとれた心臓を矢で貫いた刺青をほどこし、その上にR.M.の頭字、その下にJ.B.の頭字を書いてある。文字は恰好のよい半インチぐらいのローマ字の頭字で、縦棒の上下の細い線までいれてあって、心臓や矢もよくかけている。私は象牙のような皮膚に浮びだした青黒い刺青をみながら、J.B.というのはどんな男だろう、この男の前や後に何人の男がいるのだろう、とそんなことを考えたが、そのうち興味も薄らいだので、ミラーのそばにしりぞいて腰かけた。気味のわるい出来事ではあるし、いくら考えても駄目のように思われたので、それいじょう考える気になれなかったのである。  ソーンダイクは、けれども、私とは違ったことを考えているらしかった。だが、それはいつもの彼の癖で、彼はいつでもなにか調べはじめると、今まで人から聞いたことは全部忘れてしまって、最初からやり直しのように徹底的に見ていくのである。この日のソーンダイクがちょうどそれで、まだ誰の死体とも分らぬ死体を調べているような調べかただった。いちいち彼は寸法をはかって、皮膚や断面を一つ一つ見ていった。指は一本々々調べたうえで、インキのパッドにローラーを出して、一本ずつ指紋をとった。精巧な彎脚規をだして刺青の各部の寸法をはかり、つぎに普通のレンズでそれを調べ、そのあとで強度のコディントン・レンズで覗きこんだ。彼は病院で講義をする時、「どんなことでも自分で試さないで受けいれてはならぬ、一つ一つよく自分で吟味したうえで、虚心で受けいれなければならぬ、」とよくいうが、この言葉を彼ほど実行する人間はないのだ。  レンズで刺青をのぞくソーンダイクを見ながら、ミラーは小声で私にささやいた。 「あの人はなんでもかでもレンズですな。ロンドンの議事堂を誰かが爆破しても、ソーンダイクさんはレンズでお調べになるでしょうね。二十フィート離れたところからでも分る入墨を、あんなにレンズでのぞく必要があるでしょうか――」  そんな批評に頓着せず、ソーンダイクは余念なく調査をつづけた。テーブルの上の気味わるい手足を調べおわると、こんどは窓ぎわのベンチの上においてある木の箱に注意をむけ、その箱を手にとって、裏や表を見たり、黒っぽい灰色のペンキを指でなでてみたり、蓋に白ペンキでかいたS.C.という頭字の寸法をはかってみたりした。蓋の裏にはりつけた小さい真鍮板に押した製造者の名や、錠の製造者の名まで手帳にうつしとり、それから蓋をあける時に、無理に木から抜きとった螺旋釘も精細にしらべた。  しばらくすると、彼は手帳をしまい調査箱をとじ、部屋のすみに坐る私たちをふりむいて、調査のすんだことを告げ、 「『赤いライオン』はここから遠いのですか?」といった。 「三、四分で行けます。私がご案内しますけれどね。しかし、ソーンダイクさん、行ってみたところが無駄ですよ。」  ミラーはそんなことをいいながら、死体仮置場をでて、ドアにぴんと鍵をかけ、 「チャプマンのいうことなんか、てんで問題にならんですよ。誰かが鞄に人間の手足をいれて持ってきて、宿屋の荷物部屋でそれをあけて、また木の箱をあけて、その内容物を入れかえるというような芸当が、いつ誰が入ってくるか分らぬ部屋で出来ますかね。そこへ誰かが入ってきたらどういうつもりなんです?『やあ、こんちは、あなたは誰かの手を持っておいでになりましたね、』と一人がいうと、チャプマンが、『これはかかあの手らしいのです。そそっかしい女だから、鞄をしめる時、手だけなかへ入れてしまったんでしょう。』ちぇっ! そんなばかなことがありますもんか! 第一、チャプマンの箱をあけようたって、そう易々とあくもんじゃない。私たちでもあけるのに骨を折ったぐらいなんです。とても上等な錠がついているんです。だから蓋をこわしてあけたんですけれど、それ以前にこわした形跡はなかったんです。だからいまの見込みがくずれる心配はないんです。でも、あなたはどうとでもお考えになるがよろしい。これが『赤いライオン』です。戸口に立ってにこにこしているのが亭主のバットです。」  ミラーの最後の言葉をきいた亭主は機嫌よく微笑した。ソーンダイクの来意をきくと、彼は別室に案内して、飲物を命じた。  ソーンダイクは飲物を辞退して、 「私はチャプマンがいったように、荷物部屋で箱の中の物を、入れかえられるかどうか、それを確かめさえすればいいのです。」 「いや、そんなことはできません。」亭主はいった。「あの部屋はみんなが使う部屋なんですから、昼のうちは誰がはいってくるかもわからない。だから昼はいつも鍵をかけずにおくんですよ。お客さんはたいていなじみの人ばかりですし、それに、荷物も商品見本のようなものばかりで、大切な品物はありません。ですから、昼間は心配ないのでドアをあけといて、夜だけ鍵をあけるんです。」 「そんなら、チャプマンが宿をでてから、箱の中のものが発見されるまでのあいだに、誰か泊りにきた人がありますか?」 「あります。ドーラーさんがお泊りになったので、大型トランク二つとスートケイス一つを、あすこにいれたです。それからマーチスン夫人も泊りましたが、このかたは小さい平たいトランクを一つと帽子箱、それから服のはいる大きなバスケット――婦人がたがよく持つあのバスケットですよ。それから、男のかたがもひとり――これはいま名を忘れたんですが、宿帳を見ればすぐ分ります――この人は大きい鞄を二つあすこへ持っていきました。どうです宿帳をごらんになります?」 「みせてください。」ソーンダイクはいった。  亭主が宿帳をもってくると、彼は名前や荷物のことを手帳にかきとめた。 「さて、あなたのことですから、こんどは荷物部屋をごらんにならんと承知できないんでしょう?」ミラーはいった。 「ご洞察にはおそれいりました。おおせのとおり、こんどは荷物部屋を見せていただきましょう。」  けれども、荷物部屋にはいってみたら、べつに見るべきものはなかった。鍵はドアにさしこんであったが、そのドアは大きく口をあけていて、そこをはいると、小さい部屋は、ポートマント、トランク、グラドストン・バッグなどが乱雑に取り散らされているきりで、ほかにはなにもなかった。ただ注意すべきことは、その部屋はリノリウムを敷いた廊下のいちばん端にあるので、物置にいる人は、外から人が近づくと、すぐ足音が分ることだった。だが、ほかのいろんな状態から判断して、この発見にたいした価値があろうとは、思われなかった。というのは、犯人は死体の一部を箱に入れる前に、まず箱の中の宝石を出さねばならぬが、もしそんな瞬間に誰かが部屋にはいると、たとい死体を発見されないにしても、宝石泥棒ということになる。だから、そんな手数のかかる冒険をするはずはない。  私たちが階段をおりかけると、ソーンダイクはきいた。 「この事件の中心人物、チャプマンはいまどこにいるんです? この村にいるんですか?」 「いますよ、」と、ミラーはこたえた。「どこで検屍審問がおこなわれるか、それがきまるまで、村の警察に拘置しておくことにしました。会ってごらんになりますか? では、これから警察へ行って、みんなに紹介しましょう、それがすんでから、またここへかえって食事をして、それからお帰りになったらいいでしょう。」  きいていた私は、すぐミラーの提言に賛成し、ソーンダイクもそれに同意したので、一同はすぐ警察署に足をむけた。ミラーの説明によると、村の警察署は、地方刑務所といっしょになっているとのことだった。警察へつくと私たちは別室にとおされた。まもなく一人の警部補が、しばらく顔に剃刀をあてぬ、蒼白い、やつれた男をつれてきたが、私たちはその顔をちょっと見ただけで、先日きた弟によくにているので、すぐチャプマンであることを知ることができた。  警部補はチャプマンを紹介すると、ミラーといっしょに部屋をでて、外からドアに鍵をかけた。彼らがいなくなると、さっそくソーンダイクは、彼の弟から調査をたのまれたことを早口にのべた。 「ところで、チャプマンさん、私の弁護を希望なさるんでしたら、あなたはあったことはなにもかも話さないといけませんよ。もしあなたが知っていることで、弟さんが話さなかったことがあるなら、隠さずにそれを話してもらわんとこまる。」  チャプマンは力なく頭をふった。 「あなたが知っていらっしゃることよりほか、私はなにも知らないんです。なにがなにやら、自分でも見当がつかんのです。こんなことをいっても、あなたは信用してはくださるまい。こんな悪い証拠ばかりそろっているのに、誰が信用してくれるもんですか。しかしほんとのことをいいますが、私にはすこしも分らないのです。私があの箱を宿屋へ持ってきた時には、じっさい宝石だけがはいっていたのです。そして宿に預けてからは、一度もあけたことがなかったのです。」 「誰かレベッカを殺したいと思っているような人があったですか? そんな人を知らんですか?」 「知りませんね、」と、チャプマンはこたえた。「あの女は私といっしょだった時、ずいぶんひどい生活をやりましたが、それでいて友人間の評判はよかったのです。それに愛嬌もあり、体格のいい美しい女で、背の高さは五フィート七インチもあり、顔色もよく、きれいな金髪をしていました。ですから、怪しげな仲間とは交際していても、みんなから可愛がられて、敵なんか一人もなかったと思うんです。」 「あなたの家からヒヨシンの壜がでてきたんですが、あんな物を使っていたんですか?」 「あれは神経痛だった時に買ってきたのです。でも使わずじまいでした。医者に相談したら、歯が痛むためだろうから、歯医者にみてもらえといったからです。それでとうとう壜はあけないままでした。百粒はいっているはずです。」 「それからあの箱なんですが、あれはいつごろから使っているのです?」 「いつごろといって、六カ月ほどまえ、ホルボーンのフレッチャーの店で買ったばかりです。」 「ほかに、私に話したいと思うことはないですか?」 「ありません。あるといいのですが、なにもないのです。」  チャプマンはしばらく考えていたが、熱心にソーンダイクに目をそそいで、 「あなた、私の弁護をしてくださるんですか? だめなような気がするんですが、でもできるだけの弁護は、いちおうしてみたいと思うんです。」  私はソーンダイクに目をむけた。条件つきの用心ぶかい返事をするだろうと思っていたのに、意外にも彼はこうこたえた。 「なにもそんなに悲観する必要はない、チャプマンさん。弁護は私が引きうけます。必ず無罪になりますから安心していらっしゃい。」  この驚くべき返事をきいた私は、警察から宿屋へかえるみちみち、それからそこで食事するあいだ、いささか自分の軽率を反省しないではいられなかった。私はなにか大変なものを見のがしたにちがいない。用心ぶかいソーンダイクは、軽々しく約束なぞはしないはず。そのソーンダイクがチャプマンに約束したのをみると、なにか確実な証拠を見つけたのであろう、私にはそれがなんであるか少しも分らなかった。ミラー警視も想像にくるしんでいた。食事中、ソーンダイクは今後の方針なぞにかんして、なにもいわなかった。ミラーがどうかして、それをソーンダイクの口からきこうとしたが無駄であった。彼が停車場まで私たちを見送ってきて、私たちの汽車が動きだした時、プラットフォームのミラーは、煙にまかれたような顔で、後頭を片手でかいていた。  汽車が駅をはなれると私はきいた。 「どうして君はチャプマンに釈放されると断言したの? ぼくにはとても駄目のように思われるんだが。」  ソーンダイクは笑いもしないで私をみた。 「ジャーヴィス君、ぼくのみたところでは、君は心をひらいて虚心に観察することを忘れているようだよ。外観にまどわされちゃいかん。外観のかげに隠れた可能性を洞察することがかんじんだ。そのうえ君はいつもの鋭い注意をむけることを忘れている。もし君がチャプマンの弟の話を、もっと気をつけてきいていたら、そのなかに大変珍らしい、意味ふかいことが含まれていたことに気がつくはずなんだ。また、あの切断した腕を、もっと気をつけて見たら、チャプマンの弟の話と考えあわせて、面白いことに気がついたはずなんだ。」 「チャプマンの弟は、ギャンブルという男が、ニュージーランドでマオリ族の燻製にした首を取り引きしていたとかいっていたね。しかしあれに大した意味はないだろう。あの時君もいったように、そんな物を取引する人間が、自分で土人の首を切るわけじゃないんだから。」  じれったそうに、ソーンダイクは頭をふった。 「なにをいっているんだい。そんなことは問題じゃないよ。死んだ人間の首を切るぐらい、どんな馬鹿だってできるじゃないか。ぼくのいうのは、あのチャプマンの弟の話をよく考えてみるなら、チャプマンの兄がレベッカを殺し、その死体をこま切れにしたという説の、反対の説が成り立つということなんだ。そしてその説は、あの女の腕を見るにおよんで、いっそう確実なものとなった。君だってチャプマンの話を思いだして、その意味を充分考えてみたら、そのくらいのことは気がつくと思うんだ。」  だが、ソーンダイクの考えかたは、あまりに楽観的であった。私はその日もその次の日も、チャプマンの言葉を思いだし、その意味をいろいろ何度も考えてみたが、考えれば考えるほど、周囲の状況が被告に不利で、絶望的のように思われだした。  なんの行動も、ソーンダイクは開始しなかったので、検屍審問の日を待っているのだろうと私は思った。もっとも、二人で市の中心地区へ行った時、彼は私一人をクリン・ヴィクトーリア街に残して、バーデンという錠前屋へ行ったことがあるが、それはストーク・ヴァーリで[#「ストーク・ヴァーリで」は底本では「ストーク・ヴアーリで」]見た錠前について、なにか研究しているのだろうと解釈した。それからまた、私たちの実験室の助手ポールトンが、頭に山高帽、手に雨傘と鞄といういでたちで外出するのも見かけたが、これもたぶん事件についてのなにかを調べに行くのだろうと思った。それでいてソーンダイク自身の口からは、なにも聞くことができなかった。  鎌をかけるように、彼の意見を引き出そうとすると、彼は例によっておきまりの返事をした。ジャーヴィス君、すでに君は知るべきことは知っているのだ。チャプマンの話もきいたし、死体のこま切れも自分の目で見たのだ。だから、なにか意見があるなら、それを聞かしてくれ、そしたらそれについて議論しよう。ただそう彼はいうだけだった。そして、私には警察と同じ意見よりほかに意見もなかったので、したがって彼と議論することもなかったわけである。  まだどこからか、肉片が出てくるかもしれぬという観測があったので、検屍審問の日どりはのびのびになった。だが、いよいよ二日後に検屍審問が開かれるというある晩、私はソーンダイクが来客のために部屋の準備をしているのをみた。小さいテーブルをかこんで、いつもより多くの腕椅子をおき、テーブルの上には、サイフォンやウィスキーの壜、それから葉巻の箱なぞをならべてあった。そんなことは珍らしいことなので、不思議そうに私はソーンダイクの顔をみた。すると、彼はこういうのである。 「こん夜はミラー君が来るはずなんだ。もう来るだろう。チャプマンにかんする調べがやっとすんだので、ミラー君のまえで、持札をならべてみようと思うんだ。」 「そんなことをして大丈夫なのかね? 有罪を確信しているミラーが、君のいうことを反駁したらどうする?」 「その心配はない。反駁しようたってできないんだよ。また見当ちがいな意見を抱いている人たちの公判を、黙って見ているわけにもいかんだろう。ミラー君が来たようだ。興奮しているだろう。」  じじつ彼は興奮していた。いつもだったら、すぐ葉巻をだすのだが、椅子に腰かけるとすぐポケットからソーンダイクの手紙をだし、冷然と坐るソーンダイクの顔を見ながら、 「お手紙を読みましたが、私には意味が分らんのです。あなたはチャプマン事件の真相を話すといわれますが、真相はすでに私たちも知っているのですからね。あの男が有罪であることは間違いない。今までにどんな事実が分っているかといえば、まず死体がレベッカであるということ。そして、その死体の一部は、チャプマンが『赤いライオン』へ持ちこんだ木箱の中からでてきた。一部は彼の家で発見された。死体がのんでいたと同じ劇薬が彼の家からでてきた。そして、この死体は、チャプマンがいつもから、多くの証人の前で、殺すといって嚇していた女の死体であった。こんなたくさんの事実を動かすことはできないでしょう?」  いきまく探偵を、ソーンダイクはおだやかな微笑でながめた。 「私の考えを一口でいいますとね、ミラーさん、あなたは違った人を逮捕し、違った箱を開き、違った死体を発見したんですよ。」  雷にうたれたように、ミラー警視は驚いたが、それは無理もないことで、じつは私もおなじように驚いたのであった。あまり前へのりだしたので、ミラーは椅子の端に腰をのっけた形となり、しばらくはものもいわずに、茫然とソーンダイクの顔を見つめていたら、 「だって、そんなことはないですよ! そんなばかな話があるもんですか! まず死体のことですが、あなたはあれがレベッカで[#「レベッカで」は底本では「レベツカで」]ないとおっしゃるの?」 「そうです。レベッカだったらもっと大きいですよ。五フィート七インチもあるんですもの。この女は四フィート四インチしかない。」 「へえ! ばらばらの死体を見て、何インチというようなこまかいことが分るんですか。それに、あなたは入墨のことを忘れていらっしゃるようです。入墨を見ただけでも、レベッカであることは分るじゃありませんか。」 「そう。入墨で分るのです。ここが大事なところなんですよ。レベッカ・ミングスは左の前腕に入墨をしていたけれど、この女にはそれがない。」 「入墨がない?」  そう叫んで、ミラーはまた体を前にのりだしたが、それはいまにも椅子から落ちるかと思われるほどの姿勢だった。 「だって、あなたはあの入墨をごらんになったじゃありませんか。」 「私は女のことをいっているんです。死体のことをいってるんじゃないのです。」ソーンダイクはいう。「あなたが見たのは、死後にほどこした入墨なんですよ。そして、死後に入墨をほどこしたということは、生前に入墨がなかったということなんです。」 「へえ!」またミラーは叫んだ。「こりゃ一本まいった! しかし、死後の入墨というのは、間違いないですか?」 「間違いないです。強度のレンズで見れば、それがよく分るのです。あなたも知って[#「あなたも知って」は底本では「あなも知って」]いられるでしょうが、入墨というものは、皮膚に墨を塗りつけておいて、鋭い針でそれを皮下に浸みこませるわけなんですが、生きている皮膚なら、針の穴がすぐ癒着して、跡がなくなるが、死んだ皮膚はいつまでたっても穴が残って、それがレンズで見るとよく分るのです。あの腕の入墨は、よくインキを洗い落して、あとでなにか滑らかな物でこすった形跡はあるが、穴はそのままで、そのなかにまだインキが残っているのです。」 「こりゃ意外だ! 私は死体に入墨をしたという話は、まだ聞いたことがない!」 「それはないでしょう。しかし、そんなことをしょっちゅうやる人間があるのです。それはマオリ族の首を売買する商人なのです。」 「どうしてその商人はそんなことをするんです?」ミラーはきいた。 「マオリの首には、念入りに入墨してあるのが普通なんです。そして首の値段は、その入墨の精巧さによってきまるのです。だから商人は、不完全な入墨の首には、自分で入墨をほどこして売りつける。時によると入墨のない首を仕入れて、それに入墨をほどこします。」 「そうですかねえ、」ミラー警視は笑った。「世の中にはひどい奴もあるもんですな。ねえ、ジャーヴィスさん?」  私は口では曖昧な返事をして、同感の意をもらしたが、心ではソーンダイクと同じようにチャプマンの話をききながら、そのなかの手掛りをつかみえなかった自分を、口惜しがらずにいられなかった。 「つぎは箱の問題です。どうしてあの箱が違っているとおっしゃるのですか?」ミラーはきいた。 「箱の違っていることを証明するのは、入墨よりもっと易しいのです。チャプマンの箱はホルボーンのフレッチャーが作ったのです。チャプマンがそれを買って、自分の頭字を書いたのは四月九日です。私は店の帳簿を調べたんですから、間違いはないです。そして、その箱の錠は、クイン・ヴィクトーリア街のバーデンという店で作ったのですが、高い錠なので、錠の一つ一つに番号が刻んである。ところが、あなたのお開きになった箱の錠の番号は、五〇〇七で、バーデンの店の帳簿を調べてみると、七月十三日にフレッチャーの店へ売ったことになっている。ですから、これはチャプマンの箱ではない。」 「そうですな。」ミラーも同意した。「しかし、チャプマンの箱でないとなると、誰の箱ですかね? そして、チャプマンの箱はどこへ行ったのです?」 「それはたぶん、マーチスン夫人が自分の服をいれるバスケットの中にいれて、持って逃げたんでしょう。」ソーンダイクはいった。 「マーチスン夫人といったら、どんな女です?」警視はきいた。 「もとレベッカと名乗っていた女です。」 「生きているんですか!」ミラーは倒れるように椅子の後にもたれて息をのんだ。「こりゃ驚いた! ひどいやつだ! しかし、自分の死体のこま切れをもってきて[#「もってきて」は底本では「もつてきて」]、宝石を代りに持って帰るとは、これは恐れいった肝っ玉ですな! で、そのこま切れは誰の死体なんです?」 「それはいま話しますがね、しかし、あなたはいま監禁しているチャプマンを、一時も早く釈放しなければなりませんよ。」 「そうですとも、あの箱がチャプマンの物でなく、死体がレベッカでないとすりゃ、すぐ手続きをとらねばならんです。しかし、チャプマンの家の地下室からこま切れが出たのは、どうしたんでしょう?」 「それにはこの事件全体の様相を考えてみると、自然に分るのじゃないかと思うんです。まあ考えてごらんなさい。あの箱がチャプマンの物でなければ、誰かその持主があるんです。チャプマンがストーク・ヴァーリの事件に無関係だとすれば、誰かがそこに登場せねばならん。それと同じように、あれがレベッカの死体でないなら、誰か行方不明になった女がいるんですよ。だから、ここで事件全体のことを考えてみましょう。 「まず最初に、財布をすったという騒ぎがありましたが、あれが計画的に行われた陰謀であることはすぐ分るでしょう。では、なにが目的であんなことをしたのだろう? それはストーク・ヴァーリの宿屋で箱の中の宝石と、女の死体を寸断したものをすりかえなければならなかった、小川にもその寸断したのをばらまかねばならなかった、それにはチャプマンが邪魔になるので、そのあいだだけチャプマンを警察に拘留してもらうのが目的だったのです。では、財布の持主だった女、あの女以外の誰が、この陰謀の立案者でしょう? 「考えてみると、彼ら――犯人を一人以上と仮定して――はレベッカの入墨の正確な模写に成功しているんですから、レベッカをよく知っている人間にちがいない。それからまた死体に入墨する術も知っているのです。またチャプマンの家にもはいることができた。それからまた、女の死体を所有しているのだから、ある一人の行方不明になった女とも関係がなければならぬ。 「では、それらの条件を満足させる人間は誰でしょう? そう考えてみると、レベッカという女は、まさか自分で自分の入墨を写したのじゃないでしょうが、とにかくこの条件にはかなうし、またチャプマンの家のドアの鍵を持っているので、いつでも勝手な時に家に侵入することができる。それからまた、この女にはギャンブルという、ごく親切な仲間があるが、このギャンブルは、もとマオリ族の首に入墨したことがあるので、死体に入墨をほどこすのはお手のものです。そして、私が調べあげたところでは、ギャンブルが同棲していた女は、ごく最近に行方不明になっているのです。ですから、この陰謀を考え、この陰謀を行なったと考えられる人物が二人あるわけなんです。つぎに、この事件を時間的に順をおって考えてみますかな。 「チャプマンがストーク・ヴァーリから帰ってきたのが七月二十九日、すりの嫌疑で逮捕されたのが、その翌日の三十日、そのつぎの三十一日には起訴されることになった。ギャンブルの細君が田舎へ行ったのは八月二日、もっとも田舎へ行ったとはいうものの、誰もその姿をみた者はない。そしてレベッカがマーチスン夫人と名乗ってストーク・ヴァーリの宿屋へきたのが八月五日で、この女は七月十三日から八月四日までのあいだに買い求めた箱に、女の腕をいれて持ってきた。その箱を警官が開けたのは八月十四日、そしてチャプマンの家から切断した肉片がでてきたのは十八日です。チャプマンがブリグストンから釈放されたのは二十七日、ストーク・ヴァーリの殺人容疑者として再び逮捕されたのは二十八日。どうです、こうして日にちばかり並べて考えてみると面白いじゃありませんか。」 「なるほど。まるでなにかの勘定書きのようですな。ところで、ギャンブルを逮捕せねばならんのですが、その男がいまどこにいるか知っていますか?」 「下宿へ行ってみたところがいやあしませんよ。あの男も田舎へ出かけたそうです。下宿の主人があの男からもらった小切手を銀行へ持っていってみたら、すでに全部の金を引き出したあとだったそうです。」 「それなら私も田舎へ行かなくちゃならんのかな。」ミラーはいった。  それから四カ月ほどたったある朝、タリーザ・ギャンブルを惨殺したギャンブルと、レベッカの公判記事ののった新聞紙をしたにおきながら、私はソーンダイクにこういった。 「おい、ソーンダイク君、大いに君はよろこばなくちゃならんぜ。ギャンブルに死刑、レベッカに十五年の刑をいいわたした裁判官は、この犯罪を調査した警官の明敏と、にせの入墨を観破した鑑識技の伎倆をほめている。君はこの事実をどう思う?」 「裁判官に相当した鑑識をしめしたと思う。」ソーンダイクはそういった。 底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社    1957(昭和32)年 1月10日初版 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。