親は眺めて考えている 金森徳次郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)ペンギンの連想《れんそう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)今日|南極《なんきょく》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]ペンギンの連想《れんそう》[#「ペンギンの連想」は中見出し]  見はるかす積雪《せきせつ》の原である。何か氷山の一部らしい。その広野の中を自然に細長い行列を組んでモーニング姿の者が前進《ぜんしん》して先方の低い丘陵《きゅうりょう》のかなたに消えて行く、何千という数だろう。黒いモーニングはからだにぴったりあっているがズボンの方は白色だ。澄《す》んだ音楽の行進曲に歩調が揃《そろ》って行く。これはその実「ペンギン鳥の住みかを訪《たず》ねて」と題する南極での実写《じっしゃ》だ。  今日|南極《なんきょく》の氷山や雪原の中に沢山の大きなペンギン鳥の集団《しゅうだん》がある。その生態《せいたい》は大抵の動物学者もよくは知らないが、それをカメラが追求《ついきゅう》して実写したのである。  およそ生物の中で身のたけ四尺以上あって二本足で立って歩いているものは、人間の外にはペンギン鳥ぐらいだろう。鶴や鷺《さぎ》だってそうかも知れぬが立って歩くという感じにならない。とにかく黒のモーニングの礼装《れいそう》したような風態《ふうてい》で、それがチャップリンもどきの足つきである所が面白い。音楽に歩調《ほちょう》をあわせて整然《せいぜん》と進んで行くのを見ていると「えらいものだ! 音楽がわかる」と口をすべらしそうだ。  ところでこのペンギンは年に一回卵を生み、親がこれを抱いて暖《あたた》める。しかし親たちは抱きつつ行動《こうどう》しなければならぬ。しかもまた抱くにふさわしい腕も胸も整《ととの》っていないのだ。羽毛の服の内側のような所に卵を保持《ほじ》して暖めていると適期に裾《すそ》の所から小さな鳥が出て来て、親に保護《ほご》されよたよたと歩く。色々な保護方法が集団的にまたは個別的に発達している。本能的とでもいうべきだろう。風雪《ふうせつ》がおそい来る、外敵がやって来る、傷つくものも仆《たお》れるものも出来る。その屍体《したい》は怪鳥めいた他動物の餌食《えじき》になる。つまり親の保護がなければ小動物は生存することが出来ぬのだ。  これが一年も経《た》つと、成鳥になり、親子の関係ははなれて行き、自立する。また異性愛《いせいあい》をも発する。かくて永遠《えいえん》の時のひとこまを形成して行くのである。  四尺以上の身長で、常に二本足で立って歩き、一夫一婦であり、子は一ぴきしか生まないという群棲《ぐんせい》動物を見ていると、非常に我々人間にあてつけるようであり、自分達の家庭生活をいやでも思い出さざるを得ない。「親子|相愛《そうあい》生活の姿は可愛いな」と賞めるかたわら、その本能的《ほんのうてき》かつ盲目的なることにおいて、我々はあまり鳥後に落ちないと自嘲《じちょう》したくなる。同時に父子の間にある色々な心理現象《しんりげんしょう》を自省して見ると、自分には自分の世界があって、愚なようでもあり尊くもある。  つまり他人の立場から見ると前者であり、自分の立場《たちば》から静観《せいかん》すると後者であるらしい。自分で自覚しない愚さであるようで、しかもこれが人間の本能に通ずるものだろう。  立ちかえって考えると、私は初めて子供が出来たとき何やら心が転換期《てんかんき》に入ったようであった。色色の曲折《きょくせつ》を経たり経験を経《へ》た今においても、心理的にまたは道徳的に割り切れないものがある。要するに万有《ばんゆう》を支配する力のまにまに受動的《じゅどうてき》に動きながら、それが主動的であるように夢を見ているらしい。ここに一種のバカが発生《はっせい》するわけであろう。 [#7字下げ]分離《ぶんり》した生活体[#「分離した生活体」は中見出し]  結婚をして、尋常の経過《けいか》ではじめて赤ん坊の肉体を見たときの驚きは変な感じである。  冬の日の弱い日影《ひかげ》を、くもり硝子《ガラス》と窓かけで更に弱めに病室の中で、これが今朝生れたといううす赤い柔《やわら》かい骨も何もないような肉体を手に受けとらせられると、本当に変《へん》な気もちになる。これは人間の生きものである。自分が責任《せきにん》をもって、人類の実際の単位《たんい》にしあげて行かねばならぬとの覚悟が、その柔かい日影の中から湧《わ》き出して迫《せま》りくるようだ。まだ知らぬ胸の苦しみというものだ。人類の永遠性に対する関心《かんしん》が自認されてくるのだ。  しかし子供の数が増加してくるにしたがって、青年の純情《じゅんじょう》のような気持ちは鈍磨《どんま》してくる。そして生物学的に、今度の子供は私自身のどの特性を分担《ぶんたん》して来るだろうかと欲《よく》を出してくる。だから、その名を付けるにも、これに願望《がんぼう》を祈りこむ。しかしまだ漠然《ばくぜん》たる希望であり、まずは普通人になれとの希望をあらわすに止まる。  例えていえば、鼡《ねずみ》のように弱そうなのには、獅子《しし》のように強そうな名、瓦や土くれのような女の子にはルリやハリのような名をつけるというたぐいである。  だんだん成長《せいちょう》するにつれて、教育上何等の作意《さくい》を加えないようにつとめる。丁度科学実験のために、観察《かんさつ》しているような冷静さである。しかし妙なものでそのうちに個性を発揮《はっき》してくる。瓜《うり》の蔓《つる》には、瓜が実る筈だから、親に似るものかと思うとそうは行かない。遺伝学《いでんがく》のことは知らないが、犬や馬のように親に似たものは生れない。鬼子《おにご》ばかりである。しかし他面から見ると親に似《に》ているとも見える。知らない人が子供を見て、お父さんによく似ていると言う。自分で実際にふり返って見ても、似られては困ると思うことも沢山あるので、考えものだが、幸なことに一部分だけは親に似て、その他の部分は古代《こだい》の先祖に似ているかも知れぬ。その一部分というのも、たとえば私が甲乙丙丁の素質《そしつ》があったとして、その甲乙丙丁を別々に子供達が承継し、時には増幅して承継《しょうけい》している。  私の欠点を、かなり誇張《こちょう》して承継しているのを見ると、いやな気がするが、また私の中にかくれていた良点を誇張して示してくれると、「おれも捨てたものではない」とひそかに安心する。だから完全に近い放任《ほうにん》をして置いて、さてそれを見ると、私が理学者《りがくしゃ》になりたいと思った気持ちを専門《せんもん》に代表するものもあり、私が芸術家になりたいと思った気持ちをいくらか発展《はってん》させようとしているもあり、またコンニャクのようにのらりくらりとした気持ちを多量に分担しているもある。或は権力《けんりょく》と不正に極端な抵抗《ていこう》意識をもって俗習《ぞくしゅう》を断乎《だんこ》拒否せんとする態度もどこかに残っているようだ。  万人は親の子でなくて、親の親の親の親等広い範囲《はんい》と関係があって、いわば天の子であり、その意味で、親そのものを批判《ひはん》し、教育し、是正《ぜせい》し、攻撃《こうげき》しているものであることを感じる。そこで、いくらか安心も出来るわけだ。親のものが、そのまま大部分子に伝わるとしたら、親は子に対して申わけがないばかりか、良心の苛責《かしゃく》になやまされるわけだが、何十分の一ぐらいの責任しかないのだから、あまり恨《うら》むな怒るなと了解《りょうかい》を求めている。  こんな風だから、子供たちに向って、断乎として右向け、左向け、医者《いしゃ》になれ、音楽者になれ、役者になれと命令したり、指導《しどう》したりする勇気がない。せいぜい微温的《びおんてき》な助言をするくらいである。万事|汝等《なんじら》の責任と良識《りょうしき》によって前途を開き進め、人生は「親知らず」の難所《なんじょ》であると言いたい気分でいる。  それゆえ、「子供をしつける」ということには大体消極的である。ごく僅《わず》かのしつけは経験上必要だが、今の学校の先生や父兄がたが強くしつける態度《たいど》を執ったり、開明的と自信する人々が、「外国では子供をしっかりしつけますよ」と真理《しんり》の如く宣言されると、ついしつけ規範《きはん》の一言一句に厳密批評を加《くわ》え、アマノジャクの言動《げんどう》をなさざるを得ない。蛇《へび》にうなぎの教育が出来ますか、鰻《うなぎ》の心は鰻が知りますという風に思うのである。  それでも、内心にはビクビクしている。果してこれで、彼等の幸福が保障《ほしょう》されるであろうか、と心配するが、中庸《ちゅうよう》のかねあいというものがあるから、勇気をふるい、乃至は蠻気《ばんき》をふるって、彼等にはその行き途をなるべく自分できめさせ、少くも手を取り足をとるおせっかいは極度《きょくど》に避《さ》けようと思っている。一片の好石があるとして、芸術家の思うがままに仏像《ぶつぞう》になり、神像となり、武人像にきざまれ、英雄像《えいゆうぞう》に作られることは、石のために同情するが、生きた人間を父親の暴政《ぼうせい》に服させることは忍びないのである。運命よ願わくば私の方針に微笑《びしょう》をやって好意を示せと言うの外はない。 [#7字下げ]末実《うらな》り[#「末実り」は中見出し]  子供はその生れる境遇《きょうぐう》によって、非常な損得《そんとく》をする。しかし父親だって、運命のもとにあえぎあえぎ生きているのだから致し方もない。  私は現在、男、男、女、女、男と五人の子を持っている。持っているという語は、厳格《げんかく》にいうと人間を物に見立てたようで面白くないから、天から恵《めぐ》まれたという方が正しい。  第一は父の世俗面《せぞくめん》を表現している。第二は父の科学面を代表する。第三は父の芸術面を代表する女だ。第四の女は、父の読書癖を代表するし、放漫癖《ほうまんへき》と鼻っぱしを偲《しの》ばせるが、海のものとも山のものともわからない。  そこで第五の男の子になるが、これはいうまでもなく末実《うらな》りである。西瓜だって胡瓜《きゅうり》だって末実りは普通より安価《あんか》であり、ことに時代と身辺《しんぺん》の変化のせいで、風波《ふうは》の中にさすらえて来たのであるため父親の立場からいうと、これに対して責任観《せきにんかん》が深くなるわけである。  この風波にさらされて発育《はついく》して来た末実りが、将来幸福に生きて行けるであろうか、今日までは無事《ぶじ》らしく過ぎて来たが、親の方もかなり疲れて七つさがりになって来ているので、と多少の心配があり、しかも不精者《ぶしょうもの》の父親だからそう思いながら見守っているだけである。ゾラの書いた大部の連続小説の中に、数代に亘《わた》るルゴン・マカール家の遺伝が述《の》べられている。これは当時の学説に誘導《ゆうどう》された誇張もあるのだろうから、そんなに気にかけることはないと思うが、それにしても子供の顔の目つき鼻《はな》つきが大分親に似てくるにつれて、父親は自分を顧《かえり》み、いささか心配なしとせぬ。どうか或る意味においては親に似ぬ鬼子《おにご》になってくれと思うて手出しの途もないのでただ自然に祈《いの》りをかけている。 [#7字下げ]二・二六事件[#「二・二六事件」は中見出し]  昭和十年頃は、私は内閣《ないかく》の法制局長官であった。その頃の制度《せいど》は今と違っていて、法制局長官は相当|要職《ようしょく》と考えられ、内閣|更迭《こうてつ》の場合には法制局長官の人選が相当問題になっていた。つまり大官とされていた。  その実これは歴史から来る迷信《めいしん》であり、過去の法制局長官に非常に威勢《いせい》のよい政治家が多かったことと、昔の官僚《かんりょう》政治の中で、法制局が内閣の智恵袋《ちえぶくろ》の役割をつとめた事から来ている。しかし事情は変化して外から見るほどの作用はなかったかも知れぬ。それでも敗戦後戦時中の法制局長官は、当然《とうぜん》にパージにされたことを考えると、一種の迷信的|尊敬《そんけい》があったかも知れぬ。  その長官たる私が、昭和十年の始め頃からある種の新聞で乱臣賊子《らんしんぞくし》と大がかりに罵倒《ばとう》された。在郷軍人会も大挙してこれに共鳴《きょうめい》した。そして四方八方から、目を光らせて私を眺《なが》めるようになった。  それは、その当時天皇|機関説《きかんせつ》問題なるものが起り、私がその機関説論者の一人なりとして排撃《はいげき》されたのである。美濃部《みのべ》博士の機関説について政治問題が起り、私は議会《ぎかい》の一委員会で、学問の問題を議会で論ずるは適当《てきとう》でないと言ったところ、翌朝からは私自身が大なる機関説論者として、四方の新聞からひどく叩《たた》かれたのである。  この問題は、自分の知らぬ世界で随分《ずいぶん》発展した。私は十数年の後になって知ったことだが、ある大臣は、金森を首にしなければ、内閣から出るとまで言って、総理《そうり》に迫ったということである。一番困るのは法制局長官というものは、法律的な問題について、重要|発言《はつげん》をする責任があるのに、その人間の学説《がくせつ》が疑われ、したがってそれが乱臣賊子扱いされていることである。  幸に部内の人は私を知っており、物の道理《どうり》をわきまえ、私を支持してくれたが、門を出ずれば四面楚歌《しめんそか》の声だ。内務省の警保局関係者は、私の発行した書物についてとかくの審議《しんぎ》をしており、それは自然的|絶版《ぜっぱん》の姿にしてくれという。文部省では、学説分類の調査書を作り、その中に私の書物も出ている。閣議に出る人々の顔を見ても、積極的に支持《しじ》してくれる人はない。困った奴《やつ》だという顔をしている。身辺は、住宅を含めて、五人の警察官によって保護《ほご》されている。  辞表を書いて懐中《かいちゅう》に持ちながら諸般の事情によりその提出も出来ず待機《たいき》しているという不思議な運命《うんめい》の下に暮《くら》すこと一年で、昭和十一年の新春に、やっと辞表を平穏《へいおん》に出すことが出来た。以上のことを述べたのは、私の気持ちが、一種の闘争と防衛《ぼうえい》とにとらわれていたことを言いたかったのだ。そして当時|平静《へいせい》に仕事をしていたけれども、その裏面には憤《いきどおり》りを含《ふく》んでいたことが言いたかったのだ。  官を辞《じ》して護衛警察官が退却《たいきゃく》し、のびのびと手足をのばして好い気になっていたとたん、二月二十六日の朝、雪降る中にトラックに乗った警察官の一群が寝込《ねこ》みをついてやって来た。 「事変《じへん》が起りました」と言う。つまり例の二・二六事件が起ったのだ。十時頃になって、様子がわかった。事件の性質上、御家族に危害《きがい》を加えることは万あるまいから、あなた自身だけ退散《たいさん》したがよいと言う。すなわち飄然《ひょうぜん》と東京駅へ出て、黒雲|物凄《ものすご》き都を去り、人に行方を知らせず、約一月半程行方不明になったのである。実は郷里の名古屋へ行って、兄の家に泊めて貰っていた。  ところで主人が居なくなった東京の故宅《こたく》には、一小事変が起ったのである。それは別事ではなく、妻の身体に生理的|異変《いへん》が起ったのである。その時、私は五十一歳、妻は四十二歳であったが、妻は主人が逃亡中《とうぼうちゅう》に子供が出来たことに一種の不安を生じたらしい。前途がどう展開《てんかい》するかも知れず、分娩《ぶんべん》の時期が後れるかも知れず、私が果して生きぬくかにも不安があるので、「オボエアリ」との保証《ほしょう》を得るにも心もとないのであった。  幸にして、一月半の後、私は東京にかえり、晴耕雨読《せいこううどく》というか、植木をいじったり、本を読んだり、時には碁《ご》を打ったりして外観上平静に生きた。  機縁《きえん》は熟して、その年十月十七日|神甞祭《かんなめさい》の日に、玉の如く美《うる》わしくはないが、玉の如く丸い男の子が出生した。日どりの関係《かんけい》は、神さまがよくさばいていたのである。  ところが、ここにも、浪人《ろうにん》生活らしいものがからみついている。その前日友人が訪問《ほうもん》して来て、碁を打ち出したのである。夜もおそくなり、暁になった。碁というものは厄介《やっかい》なものである。女中さんは寝てしまう、妻が茶や菓子をもって来る。その面相《めんそう》たるや頗る険悪《けんあく》である。  碁の方が急なので、ただ不可思議なることとしていたが、朝になってひそかに聞くと、時期《じき》迫《せま》れるもののようである。そこで、かねて約束してあった順天堂病院へ同行《どうこう》する。診断の結果、今日の午後に分裂がありそうだという。  ところが不運《ふうん》にも、その日の午後は、ある先輩《せんぱい》の家で、マージャンを決行する約束があった。困ったなと思うが、四人の中の一人として欠けるわけに行かない。やむなく大義|親《しん》を亡ぼすの伝で、何くわぬ顔で行く。普通ならば電話に及ばずと約束して置く。  先輩の家で、鬚《ひげ》の立派な人や、頭のはげた人と勝負を決していても、心ここにあらずであり、ともすれば誤ロンをやりそうである。電話のベルを聞いても、すわ一大事と腹《はら》の底がブルブルする。  夕方になって、自宅に帰り、様子を聞いて安心したが、世の中から迫害《はくがい》されて、不満な親が種々の勝負《しょうぶ》でウップンを晴らしている中で生れた子のことだから、こいつ反抗心《はんこうしん》の強いものになるかも知れぬ、よほど後天的な取扱《とりあつか》いに苦心しなければならぬと思った。  さて数日の後に、名をつけねばならぬ。願望を含めて、博雄《ひろお》と名付ける。偏狭者《へんきょうしゃ》によって悩まされたことの記念と、伊藤博文を景慕《けいぼ》する気もちを象徴《しょうちょう》したものであった。  九百匁の肉塊《にくかい》が、次第に増量して行くことは世のつねであるが、ただ違ったのは、私がいつも在宅であることである。従前《じゅうぜん》の子供は、日中は私が外出しているので、大体人まかせ、子供をしみじみ抱いたことも稀《まれ》であった。今度ははじめて抱いた。抱いて散歩した。これをあやすなどという、世の常の親のように器用《きよう》なまねは出来ぬが、とにかく腕の上にのせて散歩した。  私は、極端な閑人《ひまじん》であった。法律の本なんか見る興味は、全然ない。植木いじりか、子供いじりか、碁いじりである。そこでだらしのない和服で、閑父《かんぷ》、閑児《かんじ》を携えて近所をうろつくのである。乱臣賊子の新聞事件によって、近所の人は観念的《かんねんてき》には私を知っている。それが、閑児を携《たずさ》えて動くのである。しみじみと私を眺《なが》めて、ノンキな父さんだなと思ったに相違ない。  家の前は坂である。坂を下り切ったところに、お煎餅屋《せんべいや》がある。その店に二台ばかり、お菓子の自働《じどう》販売器があった。  それは一銭銅貨を穴《あな》へ入れて、金具をパチンとはじくと、キャラメルが一つ出てくるような道具である。時には、いくらかよいものが出てくる。近時盛んなパチンコの、五世も前の先祖のようなものである。閑父が、その台の前にしゃがんで、閑児に一銭を投ぜしむる図は、平和《へいわ》な姿である。  その背景《はいけい》として、社会全体が険悪《けんあく》の相をおびていることは、誰も知らない。そして閑父は、赤ん坊が、博文の真似《まね》をするであろうかどうか、別に考えもせずにいた。しかしこの光景《こうけい》は、家人によって、あまり見っともないとて禁止《きんし》された。そしてこの子は幸だとかお父さんのよい玩具だとか批判《ひはん》された。私は、「上善《じょうぜん》水《みず》の如《ごと》し」などと口ずさんでノンビリしていたが、それには、時の要素《ようそ》を考えねばならぬという考慮《こうりょ》や、色々のものが籠《こも》っていた。 [#7字下げ]教育家の面相《めんそう》[#「教育家の面相」は中見出し]  閑児が大きくなった。依然《いぜん》として、閑父のよき友であり、時としてはよき師《し》である。師であるとは、勿論子の方が父の師であるという意味だ。世の中の活動を抑制《よくせい》されてしまった閑父にとって、植物を育成《いくせい》し、その発育に必然の理を感じることは、自分を小造物者のように思わせるのであったが、同じように、人間の子が自然《しぜん》の理にしたがって、スクスクとのびて行くことにも無限の喜びを感じていた。そして、もしも人間が性善《せいぜん》なるものならば、博雄を叱《しか》ったり、責めたりすることなく、伸びるがままに伸びしめたいものだと思った。人類は、後を行く者が、前を行くものよりもすぐれているべきだと思った。理窟《りくつ》はない、まさに親馬鹿の発露《はつろ》である。  幼稚園へ行く時期になった。反抗児ではないかとの心配があったが、保母《ほぼ》さんがよかったせいか、大した動きはなかった。反面|盲従派《もうじゅうは》とでもいうか、喜びもせず悲しみもせず、流れに従って流れるままである。おれに似ているなと、私の子供時代を偲《しの》んだ。  しかし私の子供時代を思いかえすと、外観上の従順《じゅうじゅん》は、必ずしも心からの従順ではなかった。内心では是《ぜ》を是とし、非を非として、かなり批判的であったと思った。  幼稚園では、遊戯《ゆうぎ》を教えてくれる。音楽にあわせて、簡単な舞踊《ぶよう》のようなものを教えてくれる。たとえば、「黄金虫《こがねむし》は金持ちだ」というの類である。それは、或る意味では、優美《ゆうび》であり、可愛らしい。情操《じょうそう》教育の価値があるであろう。家庭でも、子供をおだてあげて、一つやって御覧というと、子供等は得意《とくい》になって、足を動かしたり、手を叩《たた》いたり、腕を廻したりするのが普通だ。しかし博雄はどういうものか、そんな優美なことに、少しも愛着《あいちゃく》をもたなかった。  紙製玩具の、電車の車掌《しゃしょう》さんの鞄《かばん》を買ってくれとせがむのである。それを肩にかけると非常に御機嫌で、切符パンチを嬉《うれ》しそうに使用する。「チンチン動きます」「曲りまちゅから御注意下さい」位はよいが、「どこまでですか」と行くさきを聞いて、乗換《のりか》え券を切って呉れる段になると、この車掌さん恐ろしくうるさい。「上野ですか、ハイおツリでちゅ」ぐらいならよいが、家の中を飛び廻って裁縫《さいほう》する妻、洗濯《せんたく》している女中にも、一々聞いてまわる。  私もその被害者《ひがいしゃ》である。机の辺へ来て、何遍でも行き先を聞きただす。うるさいから「地獄《じごく》」というと、かまわず「ハイ地獄!」といって切符《きっぷ》をくれる。ロンドンまで下さいというと、お気の毒ですが、海の上は走りませんという。どの子供でも、車掌さんのまねはすきだったが、博雄の場合は随分長続きした。そして我々の気のつかぬ微細《びさい》の点まで、車掌さんの態度を実写《じっしゃ》し、それを復元《ふくげん》させてくれる。一種の天才だ。  いよいよ、小学校へ行くときになる。私の家は、幸に竹早町の高等|師範《しはん》に近いところにあったことの縁もあって、上の子供は、例外なく小学校時代はその附属《ふぞく》に入れて貰った。中学校時代も入れて貰ったのが多い。どんな学校がよいかは議論《ぎろん》があり得るけれども、正直に実状《じつじょう》を考えると、どうも子供のために格段の幸福《こうふく》があるらしい。何とかして、ここに入れて貰いたいものだと願書《がんしょ》を出したが、情ないことに入学不許可になった。  その前から親の職業が無職《むしょく》であり、またその人は、新聞によれば乱臣賊子なんだから、入学はむつかしいぞ、と家の中で愚父《ぐふ》愚母が話しあっていたが、この結果になって二人ともこっくりした。無論内面の事情《じじょう》を批判したのでもなく、それを不当と思うのでもなく、一種の偶然を容認《ようにん》しただけである。ところが妻は中々あきらめ切れない。他の二三の師範学校の附属へ願書を出して努力したが、どこも拒否《きょひ》された。止むを得んとあきらめて、親の因果《いんが》が子に報《むく》うの結果になったことを心の中で陳謝《ちんしゃ》するのみであった。  しかし有り難いことに、普通の義務教育の小学校は、決して乱臣賊子の家族《かぞく》をも拒否しないのである。日本に生れて幸だと思った。それで順当《じゅんとう》に進むかと思っていると、その中戦争は苛烈《かれつ》になった。学童疎開《がくどうそかい》がやかましくなり、博雄の学校も長野県の田沢へ疎開することになった。時は昭和二十年四月頃である。三月|爆撃《ばくげき》のあと人心|頗《すこぶ》る不安であったからである。博雄は当時八歳であって、親の手もとを全く離れたことはない。浪人《ろうにん》の子であるから、殆んど旅行したこともない。それが果して疎開に堪《た》えるであろうか。空襲を受けても、ここの家の方が安全ではあるまいか。色々と妻は心配したが、学校の空気では疎開させねば非国民である。学童疎開は強制的《きょうせいてき》ですらあった。そして先生もついて行くし、食糧事情も確実《かくじつ》だから、何一つ心配はないとのことであった。  ついに覚悟《かくご》をして、あとは母親の熱意《ねつい》で、小さな竹行李《たけごうり》と、風呂敷一つに衣類や毛布を包み込んだ。戦争末期の物量《ぶつりょう》不足で、ほんの僅かなものを、しかも一定|容量《ようりょう》の制限で、夜おそくまで準備している母親の様子を見ると、さすがに私のような呑気者《のんきもの》もしんみりしてくる。空襲の危険は刻々増加してきている筈だが、呑気者の私は何一つ準備をしない。書物などを疎開したって、国が滅亡《めつぼう》したら何になると大きくかまえていた。  ところが不幸な未必的《みひつてき》予感が当って、四月十四日の大空襲が来た。あっという間に四方は火になる。家には、八十五歳で身体不自由の老母《ろうぼ》があり、女の子などがいる。博雄も八歳である。火につつまれたら逃《に》げ途はない。だから早く逃げられる中に、とっさに難を避《さ》けさせた。家は、私一人だけが残って守った。  火を免れる見込がないとなると、私は庭先に穴を掘《ほ》り出した。金銀や、珍本《ちんぽん》を埋めるためではない。博雄の旅行荷物を保全《ほぜん》する為である。鍬《くわ》を振りあげて、自分の老齢《ろうれい》と非力を嘆じたわけだが、ともかく掘った。腕はしびれるように労《つか》れ、地に伏《ふ》して休息した。隣家の庭の桧《ひのき》に火がついて、マッチをすったあとの軸木《じくぎ》のように燃え果てる。  我家の雨戸《あまど》も熱くなったと見え、火の子がいつまでもくいついている。もう駄目だ。町会長の責任《せきにん》もすんだ。博雄の行李を埋めた土の上に、更に土をかぶせ、水をかけ、万事《ばんじ》終了《しゅうりょう》の意識で心も軽く立ちあがった。ほんとうの学童疎開の日は、二三日さきのことだ。翌朝は遥々《はるばる》と、下北沢の親戚《しんせき》の家に厄介になりにいった。老母をリヤカーに乗せ、これを押しながら妻や子供は焼土《しょうど》の町を行く。これは先発隊である。  私は町会長の義務《ぎむ》を果して、博雄と二人だけでさんたんたる町を行くと、天地の間、私とこの孤児《こじ》と二人のみがいるような錯覚《さっかく》をおぼえた。事実一瞬にして、世は孤立人のみの世界に変じたのである。幸にしてこの父子あり、運がよければ、世界の再建《さいけん》に加工し得るかも知れないと、ひそかに思った。先発隊の運命の程もわからぬので、こんな弱気《よわき》兼|強気《つよき》になったのである。この考えはたしかに病的《びょうてき》だが、一つの慰《なぐさ》めでもあった。足弱の子供をあやなすため、焼け残りの古本屋で、角力《すもう》の古雑誌を買ってあてがう。顧みて支那の戦国《せんごく》時の流亡人《りゅうぼうじん》を連想した。  数日経って、博雄|疎開《そかい》の日になる。世田谷の奥から、巣鴨《すがも》の焼けあとへ立ちもどり、既に土中から掘り出した例の荷物を妻と共に携えて、茫々《ぼうぼう》たる焼けあとの学校あとに集まる。運命を自覚した影の薄い童子たちは、辛《かろ》うじて通じている電車で旅程《りょてい》に出るのだ。いろいろの不可知《ふかち》要素の伴《ともな》っているこの生別《せいべつ》は、万感深きものがあった。足の細い、そして首の細い自分の子を見送ることは、決して愉快《ゆかい》なものではない。  去って一月、また二月、保護者に促《うなが》されて書いた手紙だろうが、時々無事と疎開地生活の満足《まんぞく》を知らせてくる。父兄代表者が、原地《げんち》見舞をしての報告にも、童児《どうじ》たちは元気よく生活していると聞いて安心していた。が、あるとき、見舞に行ったよその人に、一封書を秘密《ひみつ》にことずけて来た。開いて見ると、生活に堪《た》えぬから呼びもどして呉れとの、たどたどしい鉛筆《えんぴつ》書《が》きの数行であった。  私は大体秩序を尊重《そんちょう》するたちだから、この手紙には強い反感《はんかん》をもった。我慢力が無いと内心|憤《いきどお》った。それでも十五歳の姉娘《あねむすめ》が心配し出した。行って見てくるという。上野を出るあの混雑《こんざつ》の汽車に、小さな女の子が一人で出掛けるのは、心許《こころもと》ないと思ったが、これを差しむけた。ところが翌日、思いもかけず姉娘が、博雄を伴って悄然《しょうぜん》と帰って来た。見ると驚いたことに、博雄は顔から色素《しきそ》が抜けてしまったように青白くなって、寄生《きせい》植物にゆうれい草と名付けるのがあるが、それとそっくりであった。腕が細く、頭が大きくて目立つ。  娘の言うところによると、あまりのことに見かねて即刻《そっこく》帰宅の手続をして来た。だが、当局《とうきょく》は、非常に反対の様子を示したとのことである。私は直感的にその処置《しょち》を賞めるの外はなかった。小娘のくせに、よくやったものだと感心した。学校の処置は親切であったに相違《そうい》ないが、博雄の消極的な気質《きしつ》が、ここへ追いこんだものと思った。  翌日小金井の藷《いも》ばたけへ連れて行くと、蔓《つる》が三尺ぐらいに延びていた。そんな時期であったのである。手伝わせると、教育されたように秩序《ちつじょ》正しく雑草《ざっそう》をとる。親より上手だ。言葉遣いも教科書の通りである。本当に三ヵ月の間に、見違《みちが》えるように好い子になったというところだが、つまりは人工的|変質《へんしつ》をさせたのであって、人間性を失ったのである。機械人形のように、柔順《じゅうじゅん》になったのだ。奴隷《どれい》化したのだ。だから、本質との衝突が発生したものであろう。  二三日のうちに、野性《やせい》をとりもどし、言葉が悪くなったら顔色もよくなった。私も安心した。ところが困《こま》ったことに、そんな風に疎開地から帰った子供は、どこの学校へも入れて呉《く》れないことだ。懲罰的《ちょうばつてき》な意味もあるかも知れぬ。そこで寺小屋みたいな臨時|施設《しせつ》に入れて貰ったが、かえって本人はのびのびしていた。  世田谷で空襲に接《せっ》したが、防空ズキンをかぶって案外呑気でいた。これらで見ると、自然力的な圧迫《あっぱく》には堪え得るが、人間的圧迫には堪え得ない弱気《よわき》の性であろうと思った。この父親にも、その性質は多分にあるからよく解《わか》る。  とかくするうちに終戦となり、世情は一変した。私も世田谷|代田《だいた》までさすらえた。博雄は、そこの公立小学校に入れて貰《もら》った。先生達が赤旗をもって、威勢よく皇居前広場へ行く。子供たちは校門で、これを声援《せいえん》する。内心は、学校が休みになることを喜ぶのだろう。困ったことだが、孤木《こぼく》の支え得ることではない。  近所の子供たちは、皆愉快な庶民的《しょみんてき》風貌をそなえている。裸足《はだし》で泥んこになって、毎日遊びあっている。知らぬ間に、博雄のポケットには、メンコやビー玉が一|杯《ぱい》になっている。案外《あんがい》勝負に強いのかも知れぬ。  これらの子供たちの交際《こうさい》を見ていると、実に愉快そうだが、心配な面もないことはない。しかしそのうち、父親の身辺も非常に急がしくなって、老躯《ろうく》をひっさげながら壮人と伍《ご》するわけで、勢い子供から手を抜くの外はない。昭和二十一年には博雄が小学校四年生であった筈《はず》だが、六年生を終るまで彼は楽しく学校生活をし、本人としては幸福《こうふく》を感じていたと思う。  八畳足らずの一室に、親子六人が居住《きょじゅう》し、雨は洩《も》り、月影は屋根を通して眺め得るこの生活にも、彼は十分満足していたものと思う。親も、本心はこの生活の気楽《きらく》を愛していたが、孟母三遷《もうぼさんせん》の教えを気にする面もあった。  それは、野の子として育つことには賛成《さんせい》だが、泥沼の子になることには警戒心をもったからである。私は理論上、義務教育小学校を愛惜《あいせき》するのであるが、具体的の場合に、何か困《こま》る事情ありげに感じたからである。博雄の学校の成績が、どんなであったかは実は知らない。運の悪いいろいろの事情に災《わざわい》されていたことも考えあわせ、また大器晩成流の家風をも念頭《ねんとう》に置いたために、深く考えても見なかったのである。ただ環境《かんきょう》のおかげで、神経質でなくなったことは拾いものだ。  中学校に転《てん》ずるのを機として、教育大学附属の中学校に入れて貰うことが出来た。私の家も、もとの焼けあとに小屋を作ることが出来た。昭和二十四年の夏頃になって、貧弱《ひんじゃく》ながらも自分の家に住むことが出来た。いち早く、昔住んでいたひき蛙が数匹現われて、愛嬌《あいきょう》を振りまいてくれることに喜びを感じた。植木類は、全部抜き去られてしまったが、芝草《しばくさ》が少し残っているのに手を入れたら、いくらか増加した。ふと見ると、その昔山野からむしり取って来たノビルやヒメウズなどが、無価値《むかち》の故に生き残っている。  その後六年の歳月が、比較的無事に経過《けいか》した。博雄も、中学三年高等学校三年を無事に経過して、今年三月の二十日に附属の高等学校を卒業した。かえり見ると、兄妹《きょうだい》四人はともかくも学校|課程《かてい》を終って、少しばかりの月給を貰う身となった。親の責任が特に軽くなったわけではないけれど、いずれも生れたてのあの柔かい肉塊《にくかい》に対して感じた責任感は、少し気軽《きがる》になった。  だが博雄は、これから大学課程に入るのであり、入学試験も受けたには相違《そうい》ないが、目下海山ともに不明である。外観《がいかん》平静を装っているけれども、内心には只ならぬものが含《ふく》まれているらしい。  少し私も気が落付いて来たので、世間の親は、こんな場合にはどんな考えをもって、子供に対するであろうかと考えて見る。二三の事例《じれい》を見ると、随分親は子供のことを考えるものらしい。将来の方針《ほうしん》のことから、嫁さんや住宅や財産《ざいさん》のことまでも考えるもののようだ。私は、そのあり方を尊いものと思わぬわけではないが、本来根気乏しいのか、薄情《はくじょう》なのか、そこまで気を用うることが出来ぬ。ただどうか健康《けんこう》に生き、人間らしい生活を果して呉れ、親はどうもこの上大したことは出来そうもないから、なるべく兄弟相救けやって進んで行ってくれと念願《ねんがん》する外はない。私のあわれなる力量《りきりょう》も、その全部を子供たちの為に捧げることは出来ない。一部は世間、すなわち衆生《しゅうせい》の幸福のために捧《ささ》げればならぬ。またその一部は、自分自身のために捧げねばならぬ。その他、いろいろである。  私は、一面このように薄情《はくじょう》らしいけれども、幸に母親はこれと違っている。道徳だか本能だか知らないが、子供のためには献身的《けんしんてき》の愛情をさしむけている。例えば、あの食糧《しょくりょう》事情の困難なときの母の生活ぶりを見ると思い当るものがある。国宝の玉蟲の厨子《ずし》の画に、修業者が修道《しゅうどう》のために、進んで自分の肉身を餓虎《がこ》に捧げんとする様が画いてあるが、母性愛というものは、子の幸福のために肉身を捧げることを、意に介《かい》しない面を具えている。理窟《りくつ》ぬきに私は子等のために安心している。  私自身としては、子等の中に伸び出してくるいろいろな性質を眺めて、我等が造物主《ぞうぶつしゅ》から受けて来たものを、原形のまま子孫に伝えるばかりではなく、少しずつは成長発展させて、後の世代《せだい》に伝えることが出来るかも知れんというあてどもない夢を見ている。造物主から受けた功徳《くどく》に、利息をつけて後代に伝える責任を、子供に期待《きたい》することは愚なことかも知れないが、事実そんな期待をいだいている。その度が強くなると、世間に珍《めずら》しくない嘲笑《ちょうしょう》の客体となるのだが、少しは期待してよいだろう。そしてそのねらいを含めて、子供に対する自分の態度の舵《かじ》をとって行くことは、ひそかな喜びでもある。 [#7字下げ]博雄を観察《かんさつ》する[#「博雄を観察する」は中見出し]  子供と丈《たけ》くらべをすると、親はたしかに勝つ。しかし段々成長すると、親の身長が却《かえ》って劣《おと》ることもあり得る。精神の面でも、無論その面が多い。後進《こうしん》が先進を超えて進むのが人世の常であり、これが無くては、世の進歩がある筈はない。綜合的《そうごうてき》な意味においては、父は子よりもまさるかも知れぬ。また社会的に発達している伝統的|権威《けんい》によって、父は子をある程度まで圧迫《あっぱく》することは出来得る。しかし本筋《ほんすじ》から言って、ある年齢たとえば成年近くなれば、子に対して、知能|識見《しっけん》等について相当敬意を払う場合があり得る。親のもつ経済力を転用して、子の有する知識《ちしき》能力《のうりょく》を軽視せんとする事は不条理《ふじょうり》である。  博雄を見ていると、職工的|素質《そしつ》において遥《はる》かに父を越えている。職工的素質とは言葉通り個々の雑技術《ざつぎじゅつ》である。釘《くぎ》を打ったり、箱を作ったり、ラジオを組んだり、電蓄《でんちく》を動かしたりする技術である。これと伴って、小さな小手さきの手品を演ずる腕のさえの萌芽《ほうが》もある。この性質は、将来何に適するであろうか。竜《たつ》の落し子は、竜にはならないのであって、この種の職工的性能が、器用貧乏を生み出すだけのものではないか。少し気にならぬことはない。  元来私自身が大物《おおもの》になり得ない性質をもち、同時に小物にもなり得ない性質をそなえ、余程恵まれた環境《かんきょう》でなければ、利用価値のない人間なのだが、博雄はこの小物性を特にもつことは、父より優《まさ》れりとすべきか否《いな》か、将来の問題だ。  博雄は、一種の独断的反抗性をもっている。これは特に顕著《けんちょ》ではないが、いわゆる「あまのじゃく」性を相当もっている。例えば雑誌社などから、家族の集団写真《しゅうだんしゃしん》を撮《と》りにくると、頑として仲間に入らない。営利《えいり》の手段の中に参加することを、いさぎよしとせぬのであろう。この気持ちは私によくわかる。しかし事自身が悪いことでもないのだから、社会的|調和性《ちょうわせい》があるなら、譲歩《じょうほ》出来ぬほどのことでもない。青年が、正義を愛することは正しい傾向だが、小正義を偏愛することは大乗的《だいじょうてき》でない。社会を尊重する気分が発達すれば、いくらか変化するのだろう。小骨の多過ぎる魚は、最上の食味ではない。  博雄は、友人の間に寛容《かんよう》であるらしい。そして子供らしい親切さと、忠実《ちゅうじつ》さをもって交際するとの噂《うわさ》であり、友人たちからこれを容認されている。これは前述の反抗性と矛盾《むじゅん》するようだが、それだけに複雑なのだろう。将来の改善の見込があるといえる。なにしろその出生前に、父親の頭の中に潜在《せんざい》していた反抗意識が、影印《えいいん》しているとすると父親の責任だ。  博雄は、数学や物理などに、理解力が発達《はったつ》しているようだ。これは近代人に好ましい能力であるが、果してどの位のものか、さきの職人性《しょくにんせい》と組みあわせ考えて、限界面の低いものではないかと心配する。それでも致し方はない。父親が万能《ばんのう》早解りでありながら、一能に精通《せいつう》する能力に欠けていたからである。  博雄は、芸術に対して、特別な感興《かんきょう》を持たぬらしい。音楽を熱愛《ねつあい》するとか、詩を作るとか、画を描くとかいう面に格別の関心《かんしん》をもっていない。つまりそれは散文的《さんぶんてき》であるといえる。愛好心はなくても理解心があるのか、それが問題であるが、食物の好悪《こうお》などから類推すると、考えが平易すぎる心配がある。  雑然考えて行くと、凡そその適材《てきざい》たる方向が少くとも科学面であることが現われてくる。君子《くんし》器《うつわ》ならずの格言のように、今後|突然変異《とつぜんへんい》でも起さない限り、一路進行するのが幸福だろう。そして親の錯覚《さっかく》かも知れぬが、興味の動きかたには幅がありそうだから、見ていて前途が面白そうだ。料理が上手で、芸術に理解の深いお嫁《よめ》さんと組むと一層幸福らしい。そして私が老らくの余生を生きるとき、ラジオや電蓄やテレビは一手で修繕《しゅうぜん》して貰いたい。  博雄の大学入学が愈々確定した。ここに安心して筆を止めるが、これなどは顯著な親バカ症状だ。 底本:「親馬鹿読本」株式会社 鱒書房    1955(昭和30)年4月25日初版発行 ※底本は表題に「親は眺《なが》めて考えている」とルビがふってあります。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。