映画の感動に就いて ――オリンピア第一部を見て―― 高見順 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)折角《せっかく》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)いき[#「いき」に傍点] -------------------------------------------------------  映画「オリンピア」を見て、感動しない人はないだろう。この映画に就いて語るとなると、その感動に就いて語ることになる。  オリンピックという感動的な対象、素材だから感動するのだろうか。一応はそれにちがいないが、そのことについて、ちょっと考えてみる。  即ちこれほど感動的な素材は、下手に投げ出しても、感動的な映画に成り得る。ということも考えられるが、これほど感動的な強烈な素材は、それを映画的に征服するには、素材的現実に立ち向う映画技術もよほど高く強いものでなくてはならない。そうも考えられる。脆弱な映画技術だったら、現実の強烈さに負けてしまう。そしてそのチグハグなギャップが、たとえば下手な危丁がいき[#「いき」に傍点]のいい魚をなま[#「なま」に傍点]らせ腐らせて了うように、折角《せっかく》の素材を台なしにして了うであろう。素材の感動性よりも、そうした醜体さが先きに目立って了うだろう。素材が強烈であればあるだけ、失敗率が多く、失敗の醜さも強烈になるだろう、そうも考えられる。  すると、この映画に感動したのは、この映画の技術に感動したということになる。素材の強さに匹敵する、或はそれを凌駕する技術の強さに。 次に、この映画の私たちに与える感動というのは、どういうのだろう。一番はっきりしているのは、――この映画を見て、私たちは民族精神の昂揚を感ずる。それが最も明瞭な形をとった感動だが、そうした感動の前提としての映画的感動ということが考えられる。これは、最初に映画的感動、それに基く民族精神の昂揚といった工合に二つにはっきり分けることは出来ないものであろうが、しかし抽象的には分けられる。  この映画的感動は、何から生れたものだろうか。この映画の宣伝文を見ると「単なる記録映画以上の芸術作品」云々《うんぬん》という言葉がある。その言葉を借りれば、この映画の感動は「単なる記録映画以上の芸術作品」たるその芸術性によるのだろう。  ところで、その「芸術性」は、なんの上に立っているかというと、――単なる記録映画云々と、何か蔑視されている他ならぬその「記録性」の上に立っているのである。「単なる記録映画以上の芸術作品」といっても、記録映画ということから離れた単なる[#「単なる」に傍点]芸術作品であっては、この映画の与えるような感動はありえない。この映画の感動は、あくまで「記録性」の上に生ずるものである。  即ち、この映画の与える感動は、他の芸術部門、つまり文学でも絵画でも伝えることのできない、純粋に映画的なものである。そして、その映画的芸術性は同じ映画と言っても、劇映画の芸術性とはちょっと違う芸術性であると思う。映画の記録的能力(他の芸術の持ちえない能力)による芸術性、――劇映画もこの能力の上に立っているけれど、それはうそ[#「うそ」に傍点]をまこと[#「まこと」に傍点]のように記録する能力、言いかえると、記録すると同時に隠し、そして隠すことによって表現する能力である。この映画の立っている記録的能力は、まこと[#「まこと」に傍点]を飽くまでまこと[#「まこと」に傍点]として追及する、――現実のまこと[#「まこと」に傍点]としては隠れている部分までも隠さず記録して行く、――表現的能力というより追及的な記録的能力、そうした能力である。  これは漠然と芸術的能力というより、やはり特に映画的能力というものだと思う。この文章は、映画の素人かいっはし玄人を気取って何か言っている感じを免れないが、こうしたことをムキになって考えさせるというのも、この映画の高さのためである。  映画の高さ。この映画の高さを言いあらわすためには、目下のところ「記録映画以上の芸術作品[#「芸術作品」に傍点]」といった言い方より、言いようがないようであるが、その高さを芸術的というのは、他にピッタリした言葉がないため、便宜的にそうした言葉を借りている感じがしてならない。言いかえると、その高さを単に芸術的と言っては、何か誤解が生じる恐れがあるとも思われる。「オリンピア」の立派さは単に芸術的というだけでは、はみ出て了うもののある立派さであった。  それを、芸術的という言葉で便宜的に現わすのは、芸術的とさえ言えば、高いということの代名詞になる、批評界の一種の習慣によるのではなかろうか。映画としてほんとうに立派なものは、しかもこの映画のように、映画の追及的記録能力による以外には現わし得ないものを現わしている映画の立派さは、――真に映画的[#「映画的」に傍点]という言葉で言っていいのではないか。それを現在の習慣では、芸術的という言葉で、映画的立派さを褒めることにしている。そんな気がする。 [#地付き](一九四〇年) 底本:「文豪文士が愛した映画たち」ちくま文庫、筑摩書房    2018(平成30)年1月10日第一刷 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。