女人焚死 佐藤春夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)薪《たきぎ》を |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)寒国|信濃《しなの》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)[#ここから3字下げ] ------------------------------------------------------- [#ここから3字下げ] こり積みし胸の薪《たきぎ》を一たきに   たく火のかげに笑《え》みて死なばや                  鴎外《おうがい》 [#ここで字下げ終わり]  六月七日。この頃ともなれば、さすがの寒国|信濃《しなの》の小県《ちいさがた》、筑摩《ちくま》あたりの山地にも春風が吹きはじめ、久しく雪に埋れていた野山にも草木の芽が萌《も》える。そのなかの食用になるものを採り集めるのが山村の民の楽しみでまた必要な生活でもある。彼等は冬眠にも似た半年の後で、新鮮な野菜と日光とに飢え渇いている。  その日、東筑摩郡|入山辺《いりやまべ》村のN・Yという五十二歳の農夫が早い昼飯の後、家の子供三人をつれて村の裏山にわらび採りに出かけた。  うけらやとと木の芽には早くとも、道ばたの蕗《ふき》の薹《とう》はも早|長《た》け、沢の芹《せり》や日当りのいい場所のわらびはところどころにもうころ合いにさわやかなみどり色を見せているのを、幸先《さいさき》のよい事には、まだ何人《だれ》も何処《どこ》にも踏み込んだ模様も無い。どこでも採り放題である。温い日の光に浮かれ出た老幼は山に先鞭《せんべん》をつける喜ばしさに一しお勇み立ち、前年のわらび採りで、一番成績のあがった例の場所へ人々の荒さないうちに行こう。前年は人の荒したあとでもあれだけ採れたのだからと、道の遠さなどは問題ともしないで、談合しつつ既に一歩一歩その方へ山深く進んでいた。  里に近い外山《とやま》とは云え、ここは武石《たけし》峠に近い山村で外山ながらに深山につづいて二〇〇〇メートル程度の山々が群れ塊《かたま》っていた。その尾根に松本から上田に通う山越があったのを近年はバスも通いはじめた。N・Y老人は知るまいが、近年は生若い登山者などが時に一かどしゃれたつもりで筑摩アルプスなどとも呼んで喜んでいる地域である。  峯は前後左右に乱れ重なっているが、この尾根づたいは坦々《たんたん》としてゆるやかな勾配《こうばい》のうちに大きく迂回《うかい》し小さく曲折しつつ、いつの間にか一七〇〇メートルの高さに及んでいるのを地図を持たない彼等は知るまい。山村の老幼はそんな山道の一里二里を食後の散歩ぐらいの気軽さで今は目的の場にわき目もふらないで急いでいた。王が鼻の下を武石、袴腰《はかまごし》などの峯を左右に迎えて、武石山の主峯の下を同じ名の鞍部《あんぶ》に出る途中から袴腰の裏に向う林道を雪解《ゆきどけ》にたぎる渓流に沿うてしばらく遡《さかのぼ》った後、相|警《いまし》めて水を越え、向岸の防水|坡《づつみ》に飛び登ると、山かげながらにうち展《ひら》けた野原の視野は日ざしゆたかに、ゆったりとゆるやな斜面のなかほどが少し盛り上って向うの視野を遮《さえぎ》るあたりに唐松が三本ほど疎《まば》らに、その向うに白樺の梢《こずえ》に徴風が見えた。目ざしたのはこの草場である。勢込《きおいこ》んで進み入った子供たちが唐松の下に出たとたん、異口同音に悪ふざけにも似た鋭い叫びをあげて立ちどまったところへ、最後に一歩遅れて来た老人もここに進み出て、前方に思いかけない異様なものを発見して子供たちと同じく立ちどまった。  子供たちは話にも知らぬ山の妖怪《ようかい》の退治られているのを見たと思ったが、老人はそれ以上の現実の恐怖を発見して、足が自然と立ちすくんだのである。まず自分の目を疑い、もう一度前方を確めると、老人は我知らず大声を出して、 「ここは駄目だ。あっちへ行け!」  とふきげんに子供たちを追っ払って、もとの林道を指し示し、子供たちが後を見返り、見返り立去った後で、老人はひとりその場に居残り改めて目を見据えて、これは大変だと認識すると、周囲の状況を眺め確かめ、異体をもう一度つくづくと、と見こう見していたが、終《つい》に目をそむけて心中に駄目だとひとり言《ごと》して、馬鹿者が……と何やら腹立たしさがこみ上げて来るだけで、途方にくれて直ぐ子供らのあとを追い、林道に飛び出して大声に子供たちの名を立てつづけに呼びたてた。近くにいた子供たちは遠い山彦と一緒に直ぐ帰ったのを引きつれて、老人はものに追われるように山を下った。  一切は悪夢に似ていた。老人は驚愕《きょうがく》につづいて不祥《ふしょう》なものを見てしまったといういやな気持とともに、心ならずも発見してしまったが、この誰人《だれ》とも知れない馬鹿者の秘密を一たいどう処理したらいいのかという戸迷《とまどい》と、何かかかり合いにならなければいいがという不安が湧くのを強く打消し打消し、何はともあれ、一刻も早くへんなものから遠ざかろうと足を急がせた。  老人はわらび採りの興も何も索然としてしまって、子供たちが、 「あれは何か」 「どうしたのか」  などと小うるさく問うのを、 「何でも無い」 「おら知らねえ」 「判るものか」  などと叱り、質問を封じるために突っぱね、また子供たちに無用な多弁をいましめたしなめて、山上で見たものに就いては一切、里で語るななどと云い渡した。  きさくな子供たちにも父の理由のない怒りの原因も沈黙の云い渡しも、何と無く理解されないではなかった。山上で見たものは、たしかに子供たちにとってもそういうへんな昂奮と秘密とを人に訴えるものと感じられた。とは云え、せっかく来たわらび採りをそんなものに煩わされてわらびも採らないで帰るのは、子供たちには無意味に思えた。第一の候補地で採りそこなったものの埋め合せを人の荒さない他の場所でしようと子供たちが道草を食うのを、老人も最後には承認して、気を紛らすために自分でも採りはじめていた。  老人が心中の重荷を思い出して、足弱の末子を励ましその手を引き引き山を下り急いだ時には、山ではまだ明るかった日ざしが里ではもうすっかり暗くなってしまっていた。  家に帰って一切が空腹のせいであるかのように、先ず腹ごしらえをしながらも、老人はへんにふさぎこんで考え入っていた。  子供たちが五つの籠のわらびを寄せ集め、積み上げて思いの外の量があるのを喜び見せても、老人はそれにほんの一べつをくれてうなずいただけであった。  身にかかわりの無いあかの他人の事に何でこう悩まされなければならないのか。これも何かの因縁《いんねん》つうずら[#「つうずら」に傍点]と思いつつ老人は気が重く落ちつかない。  この老人は今日までに警察というものにはどんな用事も無い人間であったし、新聞ぐらいは読むが、敗戦後の警察機構には更に通じていないから、折悪《おりあ》しく村の受持が留守の、この場合、一たいどこにとどけ出たらよいのかも知らない。いい年をしてそんな事ぐらい人に問いたくもない。老人はあかの他人の運命には別に感傷もしないが身にふりかかるこの困難に専《もっぱ》ら当惑した。  ともかくも村役場へとやっと重い尻を持ちあげながら、今までそこに気がつかなかった自分の間抜けを笑うような気持であったが、ぐずぐずしているうちに役場も退《ひ》けてしまっている事に思い当ったが、役場の衆はみな顔見知りだから、とまりに誰か顔見知りが居残っているだろう。誰でもいいと行ってみると居合せたのが、何故《なぜ》か老人の顔をしげしげと見つめながら、 「一刻も早く届けて置いた方がいい」  とは云いながらも届け出る先に就いてはこれもあまり自信なげに、それでも 「役場の電話を使って松本市の東筑摩警察署に届け出たらいいでしょう。電話を呼んで上げましょう」  と呼び出してくれたが、 「序《ついで》に代って届出て置いてくれぬか」  というと、 「それはお前さま自分で云うがよかろう」  と取次いでもらえないと見て、N・Y老人は自身で電話口に立った。  届け終った老人は依然不安ながらも幾分肩の荷が下りた気分であった。正直な老人は自分が犯しもせぬ罪を自首したような気持であった。  松本の地区警察署の時計は七時十五分であった。  入山辺村の者が村役場の電話を借りているというが、子供づれでわらび狩りの途中、山の中に白樺の伐り木に両足を縛りつけて焼き殺されている裸形《らぎょう》の若い女、二十《はたち》位と思う者を見つけた。という思いがけない風変りに重大な届出であった。 「殺人の現場に行き合せたのですか」 「そうではごわしねえ」 「では犯人の逃げるところを見かけたのでしょうか」 「ちがいやす」 「それではそんな屍体《したい》のあるのを見つけたというのですね」 「そうでごわす」 「見つけた時間は」 「十一時半ごろ家を出やしたから、一時か一時半ごろでありやした。今、山から帰って来たばかりでごわす」 「山の中の場所はどこのどの辺でしょうか。地名の外に何か目じるしになるものがありますまいか」 「袴腰スキイ小屋附近の草場です」と云ってなおも詳しく説明しようとして云いなやんでいるらしいのを察して、 「場所の事はそれだけでまずわかりますから、結構です。それからあなたの住所姓名をもう一度ゆっくりおっしゃって書き取らせて下さい」 「は、東筑摩郡、入山辺村東桐原三六四六――そうです三六四六です。N・Y五十二歳でごわす」 「ありがとう。また必要が出来たら迷惑でも署の方からご協力を願うような事があるかも知りませんが、その時はよろしくお頼みします。お世話でした」  署員は甚《はなは》だ民主的でお世辞よく取扱ったので、それに応じてN・Y老人も気軽に、 「はいはい」  と答えはしたが、心中に、やはりかかり合いに引き出されるのだなと感じて、この野良《のら》のいそがしくなる季節にと半禿の額の汗を平手で拭い上げたが吻《ほっ》として、何だこれだけの事ならもっと早くすませてしまえばよかったと思った。  電話口を離れた署員は署長室に入って届出の報告をして指図を仰ぐと、署長は先ず地図を出させて見てから、 「そのままを本郷村警察署に伝達し、序に必要ならば応援を出すと云って置け」  と命じた。  袴腰山は小県郡と東筑摩郡との境界線のある山だから、地籍は錯綜《さくそう》しているが、スキイ小屋附近なら多分本郷村に属していると、署長のおぼえていたとおりであった。  本郷村は浅間温泉の所在地で松本市とは隣接して電車やバスの連絡も至便なため松本市外の観はあるが、独立した一村で、世に知られた温泉のために人家も稠密《ちゅうみつ》に、旅客の出入も頻多だから、自然種々な事件の発生も予想されて、ここには自治警察署も設置されていた。  松本の東筑地区警察署から本郷村警察署への電話は、白樺の伐り木に両脚を縛りつけて投げ出された若い女の黒焦げの遺棄屍体を袴腰スキイ小屋附近、草場の傾斜地で発見したという届出に接したと訂正要約され、発見者の住所姓名がつけ加えられた。発見の時間は一時か一時半ごろ、届出は今のさっきである。子供づれのわらび取りに山を下るのに手間どった模様で山を下りると直ぐに届出たという、とも説明された。  報告を受けた本郷村署長S警部の腕時計は七時二十五分ごろ。室内がうす暗くて正確なところはよく見えない。遅々たるも春日も早暮れて、僅に、入日のなごりを高い雲に留めているだけである。袴腰スキイ小屋と云えば十二三キロの山道を、今からではどうすることもなるまい。午後一時の発見の届出が今まで無かったのを憾《うら》む念があって、その説明を聞いてみたが、是非も無いと思った。それに発見の当時まだ命脈があったとしても、その後時間も経過したし、況《いわ》んや当時既に屍体であって見れば、夜陰《やいん》に困難を冒して現場に駆けつける事は無駄骨であろう。まさか屍体が夜の間に消失する事もあるまい。急いで駆けつけるよりは、他殺の疑いは濃厚と思われるから、いっそ犯人捜査の手配をして置く方が急務であろうという判断から、S警部は部下に命じて近隣一帯の警察署は勿論《もちろん》、犯人が峠を越えてずらかる場合をも考慮して小県郡の通路に当る要所要所にも連絡させて、その夜はそのまま明けた。  翌朝。検視の一行八人――本郷村の自治警察の五人に松本の地区警察の三人をも加え――早朝から少しく迂路《うろ》ではあるが、車を駆って途中、先ず入山辺村の東桐原に発見届出のN・Y老人を訪《おとな》い、地図を示して現場の地点の明示を求めたが、老人は虫眼鏡の下に地図を案じ入って要領を得にくかったから、いっそ案内を頼むと一応は当惑げであったが、直ぐ思い返して気軽に立ち、前日のとおりの道を元気よく先頭に立った。  登り一方の山道ではあるがよく開けて人どおりもあった。一行と相前後して先頭の村の老人に会釈《えしゃく》を交して先に急いで行く男女も四五人ならずいた。  一行――今はN・Y老人をも加えて九人は、通行人の邪魔をしないようにという心づかいから老人を先頭に立てた一列縦隊で道の片側によけて進んだ。山中には人家は稀であるが、麓の村々で山間《やまあい》に耕地を持った人が多いから、陽春の好天の下を野良へ働きに出かけるのであった。  麓で見上げた時は朝もまだ日のたけない頃であったためか、峯々は白雲に包まれていたが、今山中に来てみると山上では前日にも劣らぬうららかな日和《ひより》で、処々に鶯や駒鳥などが啼《な》いていた。  現場に着いたのは十時三十分であった。  現場は林道から僅かに五六|間《けん》程外れた距離に在って、それも中間には疎らな木立の外には何の遮るものもない地点だから、叫喚《きょうかん》はもとより、云い争いの声なども、もしあったとすれば林道の通行者に聞き取られなければならない場所であった。ただ草場の中ほどの盛り上りのかげになっているために、林道からは見渡せない地勢になっている。その代りには、高地帯の打ちひらけたスロオプだから、山麓一帯の平野からは視野こそ遠いが、どこからでもすぐ目につくあけっぴろげの土地である。  美《うつくし》が原《はら》の西北にあってその同じ質の飛地ともいいたい草場で、標高一七二五・九メートルの袴腰の西北の山裾で、山頂から約百メートルを去る一七七〇メートル程の高地である。林道に沿うて間口六〇間、実行七八間ばかりの長方形の一区劃をなして西方|稍《やや》北寄りに向って約三十度の傾斜面をなしている。冬季は雪の吹きだまりで適当な傾斜と広さとを持っているから、近年はスキイ場に使われているが、もとは放牧地とされた草場が白樺の自然林となっていたのを、最近、植林のために白樺を伐って唐松の苗木を植えた処で、現にその伐木《ばつぼく》の切り株や、伐り残された白樺の二三本と唐松も三本、松は広場の半《なかば》ほどに白樺はやや遠くに見られる。峯の北側とは云え東西は遮るものもなく日の光を受けて草は柔く、花がよく育ってつつじの木が多く蝶の訪れに虫が多いから小鳥も集る。小《しょう》美《うつくし》が原《はら》とも呼びたいばかりのこの草場は、足もとにまだ去年の冬の草疎らに枯れ薄《すすき》なども見られるが、目を放てば一七〇〇メートルの高さを証明するかのように東南に遠い平野の人煙を瞰下《かんか》し、西方には北アルプス連峯の一部、穂高、槍から、乗鞍あたりの残雪が、さわやかに視野に入る眺望も目を楽しませる。北からの山風は寒いが、春の日ざしうららかに、周囲は殺人の場とよりも寧《むし》ろ情人の蜜語にふさわしくさえ見えた。  しかしこの美しい矩形《くけい》の草場の斜面を西の隅に向って行くと、不意に周囲とも似もつかぬ無気味な顔が一つ枯草の上へのけざまにころがり落ちて、一見怪異を極めている。  焼けすすけて腫《は》れぼったくむくんだ皮膚は不自然にてらてらと光るなかで、鼻翼は炭火しくずれ、僅かに開かれた脣《くちびる》も中央の角あたりが炭火したなかに、左右の第二門歯の金冠が怪奇の趣を深める上下の歯の間には、黒い舌端が少しく吐き出されているのが、正午に近い日の光を真上からうけて、焼けただれた鼻孔の歪《ひず》み壊《つい》えたのをあからさまにさらけ出していた。N・Y老人は昨日の驚きを新たにした。子供たちが山の妖怪が退治られていると見たのも無理はない。その父が妖怪以上の現実の恐怖に狼狽《ろうばい》したのは更に当然である。  ものに動ぜぬ警察の一行も二目とは見たくない凄惨《せいさん》の気に打たれながらも、職業意識と職務以外の好奇心の動くのを感じつつ、事件の異常が事務的困難を思わせて、互いに顔を見合せた。  地面は自然の地勢の浅い凹みを利用して更にそれを掘りひろげくぼめ、前年あたりぼや炭と呼ばれる雑木の枝を炭にした跡であろうと思われる黒さの土に染《し》みついた凹みの上に、新しい焚火《たきび》の跡を示すいぶり残りの白樺の丸太の端や、十分に燃え尽したつつじや唐松の小枝の灰や燃えかすのそっくり残っているただ中に、胸から腹、腿のあたりまで露出した女体が、下肢《かし》を少し開き気味に伐り倒された白樺の木に右足首を荒縄で結びつけ、左足も太荒縄で縛られていた形跡を留めて余燼《よじん》のなかに投げ出され仰臥《ぎょうが》しているのであった。  両手は半開きに指を軽く握った形で顔の両脇上方にかつぎ上げた形に硬直した。これを苦悶の形と云えばまずそうも見られよう。斜面の低い方にのけざまに顎を突き上げた顔をもう一度見直すと、腫れぼったくむくみくすぶって張り切った皮膚の光沢は木彫の黒光りにも似て年齢も無く、生前の相貎は想像し難く、その無表情がかえって陰惨に似ている。眼球の異状は死因のためばかりではなくて既に腐敗の兆《きざし》を呈している。山上の冷気にこの現象があるのは、屍体が長時間遺棄されていたためであろう。尠《すくな》くも事件は二三日前に遂行されたらしい。  屍《しかばね》は裸形というよりも半裸体で、それも最初からのものでは無く、着衣のままで焚《や》けたのが着衣の焼失によってその肉体が露出したものである事は、着衣の一部が燃え残って屍の臑《すね》や胸、腹に或は纒《まつ》わり、或はこびりついているのを見て明かであった。  屍体の周囲には余燼のものとは別に、白樺の伐り木が四五本、長短細大おのおの意味ありげに錯雑し、散乱していた。  概況を観終《みおわ》るとまず現地の地図や屍体の位置、姿勢、屍体と伐り木との様子などの見取図を作った後、更に現場の地形や屍体の状況などを必要と思われるさまざまな角度から十五六枚つづけざまに撮影した。  撮影中に山下の市街地から十一時半のサイレンが鳴りひびいて来た。  撮影のおわったところで草場の南隅にあるスキイ小屋に入って弁当をつかうことにした。この小屋はシイズン以外には無人である。二間に四間のこの小屋は一行九人を容《い》れるにはやや窮屈であった。人々は入口の左手にあった土間の焚火場の穴のぐるりに燃えのこっている白樺の薪の太さを見て、屍体の附近にあった伐り木はもとこの草場に林をなしていたものが伐られて、小屋の燃料に保存していたのを持ち出して使ったのではあるまいか、あの縄の類《たぐい》もここにあったのではなかろうかなどと話し合った。  それで食後の一服をすますと、早速にまず屍体の周囲の伐り木を取りのけて、その長さや太さを計って、見取図のなかに記入した。  散乱していた木は屍の胸に落ちかかっていたものだけは唐松の材であったが、他はみな白樺で、右足を縛っていた木の直径二寸五分ばかり長さ十二尺を最大のものとして、別にもう一本荒縄の結びつけられているものがあって、これも長さ十二尺に直径が二寸五分より少し細目であったが右足を縛ったものと一対になるものらしく、荒縄の結んだのは或はこれに左足が縛られていたのではないかと思われた。この大きな木の一対はそれぞれ葉をしごいた小枝のついたままであった。それから別に円廻り各四寸で、木も違い長さも長短不揃いではあるが、各その一端を地下に三寸ばかり植え埋められていた痕跡のある一対がある――胸の上に倒れかかっていた唐松の材がその一本である。それからもう一つ太さは直径一寸ばかり、脚の長さは各不揃いであるが、上に短く下は長いX形に組み合して荒縄で結えたものがあって、その上の方の浅い叉《また》の開きは約一尺である。この組み木は屍の頭の上に、組み合せを固めた結び目を遠くして倒れていた。この組み合せた木はその叉と屍体の位置との関係は屍体が枕としていたものが向うに倒れたかのように見えた。なお想像を逞《たくま》しくするならば、これらの散乱した木々はその寸法や縄などの示唆によって焚火の上の臨時の仮寝床が、その使命を果して後に崩れ散らばったものではないかとも見られた。即ち地下に埋め植えた二本の高さにしてそこに結びつけた長い木の二本に各左右の脚を縛りつけX形の木に枕させて犠牲《いけにえ》を乗せた物が崩壊して四散したと考える事の出来るだけの材料がそろっているのである。この台の必要な部分(たとえば腰部に当てるべき横木など)は仮りにこれを補って考え、燃え落ちて余燼のなかへ混り入ったろうとも思えないでもないが、その痕跡も証拠も無いから、これ以上は木を集めないでも一応の必要だけ、これだけはこれで十分に弁じる――これ等はほんの仮定である。しかしこれらの伐り木が、もとこの草場の雑木林のなかの立樹であったろうという推定は、これらの伐り木の切り口とその寸法と、程なくあたりで見出された切株との一致で証明されて、一々の木がもと生えていた場所をそれぞれに明示する事が出来た。切株も既に風雨にさらされているとおり伐り木の切口も亦枯れて久しく、材は明かに新規に切り倒された物ではなかった。  屍体に就《つい》て第一に着目された点は足の縛られている点であるが、右足首は打藁《うちわら》ではない急造の細縄で、二重巻にして結び目は左一輪|引解結《ひきときむす》びで足と木との間は約十|糎《センチ》の空間があり極めて緩い結び方である。右足は現場附近にあったと思われる機械縄の太縄で膝の下の方を縛っていたと見えるが焼け切れている。縛っているのもその痕跡のあるのも両足の部分だけで両手その他どこをも縛っていない。  次に着衣であるが、上衣《うわぎ》は所謂《いわゆる》標準服という襦袢様《じゅばんよう》のもので、その上の紐《ひも》が内懐《うちぶところ》の乳のあたりで結ばれたのがそのまま僅に燃え残っている。この紐の結び目がまた足首の結び目と同じく左一輪引解結びである。下にはもんぺを穿《は》いていたらしいのが焔の当らなかったところと見えて足首や臑、下腹の上あたりにその一部が残っていて、その腰の紐が腹の上に結ばれて残っている。これがまた左一輪引解結びである。もんぺの足首の結び目は焼けて明かでない。腰のあたりには襟巻の古いものらしいのを巻きつけその下のもんぺの紐のなかに標準服の下の部分が押し返されていたのが残っているが、この部分には唐草風の花模様に絞《しぼり》模様をまじえた標準服の生地にその襟の末端が手織縞《じま》の布で補い繕ってあった。――このつぎ切れが偶々《たまたま》後に彼女の身の上を語り証明するに有力な材料となったものである。  容貌の美醜は勿論、破壊された身体の大小|肥痩《ひそう》など一切は到底明確であり得ないが、まず総体に普通らしい印象で、門歯の金冠から見て他の部分にも歯の手入れがあろうから、これが辛うじて手がかりの頼みになる。年齢の程も推定出来ない。焼け残った冷い皮膚をさぐり検《ため》して見ると、たるみはあるがまだそう老年とも見えない。しかし届け出た老人が二十歳ぐらいの若い女と推定したのは単に観念的な早合点らしく、どこにもその推定の根拠は見出されない。脂肪質の乏しい栄養の状態や、大きな手足の形、垢切れ、爪の間で見られた土、着衣の有様などから判断して近くの農村の婦女であろうというぐらいの推定がせいぜいである。  屍体は一見して臀部、腰部、背部、右脇の下、左大腿の上部などの火傷《やけど》が最も高度に見える。勿論体の前面も火傷しているが、それは背部から焚かれた火焔に抱きつつまれて、両脇首すじ肩上|股間《こかん》などを火焔が舐《な》め伝わったものである事が着衣の焼け残りの状態などに明僚である。左大腿の鼠蹊部《そけいぶ》から内部中央部位に亙つて表皮の|※[#「口+多」、第3水準1-15-2]開《しかい》を見るのは、火焔の舌がこのあたりへ最も猛烈に吹きつけたのを思わせる。背後の一帯は多く炭化しているが特に後頭部は毛髪と頭皮とを焼き尽して骨部を露呈している。また両手|上膊部《じょうはくぶ》も火傷高度に両側の上膊骨は約三分の一露出していた。これ等の状態を綜合して考えると稍《やや》右に傾いた形で仰臥した姿勢は両脇で支えられて、その背後から火が焚かれたものと推定できる。両臂《りょうひ》を二本の樹にかけて仰臥した姿勢で全身を浮かした下から火を焚いたかを疑わせて、自然と、屍体の周囲に散乱していた数本の木を、火焔上の仮|臥台《がだい》と仮定した想像も当らずと云えども遠くはあるまいと思われて来るのであった。  第一に疑われた暴行の有無も屍体のこの状態では到底推測も至難であるが、身につけたもんぺの断片があり、その腰紐が結ばれたまま(それも多分自身の手で)の点などから判断して、まずその事も無かったものと考えてよかろう。  それにしても生体焚殺《せいたいふんさつ》か、屍体焼棄か。  今は人々の疲労に伴って好奇心も嫌悪の情も次第に薄れ果てて、唯、職務の冷静と熱心とで努めて見入っているばかりであった。  誰も彼も当然に他殺とばかり思われた最初の推定は現地の地勢を一見した時から動揺しはじめていたが、いよいよ屍体を仔細《しさい》に検視するに従って一方に自殺の疑いもきざしてその方が追々《おいおい》と濃厚になってゆくのであった。  先ず問題となるのは縛られた足であるが、あの緩い縛り方が果して焚殺者の縛り方であろうか。彼は何故《なにゆえ》に足だけでは無く両手その他を緊縛《きんばく》しなかったろうか。あの緩さで特に引解結びを被害者がすぐに脱出しなかったのも不可解である。もし屍体焼棄ならば何も足を縛って置く必要も無かったろう。ただ猛火の中にそのまま投げ出して火を焚きつけさえすれば足りる。しかしそんな面倒な火葬をしなければならない理由はあるまい。いっそ、林中の土葬の方が方法としてもっと簡単で秘密を守るにももっと効果的な筈である。何を好んでこういう人目につきやすい地点で無謀な焼棄を企てたろうか。それからこの種の焼棄を企てる場合を想像して、常識として背後から焼くのとうつぶせにして下から焼くのとどちらが自然であろうか。うつぶせにして顔面を焼く事が多分殺意を満足させるものでもあり、被害者の身元を不明にするのにも有効な方法のように思われる。もし仰臥させたとしても生体であるにしろ屍体であるにしろ、背面の一方からばかり焼いて上部からは一切焼かないという理由があろうか。まして着衣にも焚火の余燼にも何等油性のものを使用した形跡が一切認められないのも、生体|若《もし》くは屍体焼棄の方法としてはあまりに奇異である。不可解なことばかりである。一切が不可解というのは何か根本の唯一の誤解に原因していないだろうか。他殺として見れば、腑《ふ》に落ちない多くの点も、自殺として考え直すと大部分は判断が出来るのではあるまいか。  と考えて見ると右足首の緩い縛り方の結び目そのものに一つの疑問は持てる。あの足首の結び目も標準服の懐の紐ももんぺの紐もみな一様に左一輪引解結びの一式なのも偶然とは見逃がせない現象であろう。標準服やもんぺの紐を結んだのと同一人が足首の縄を結んだのでは無いかという考えが浮ぶ。この考えはやがて屍体自身が生前に自己の足首を縛って置いたというわけで、つまりは屍体を自殺者と見る者である。彼女は生前左一輪引解結びの習慣があったのではないか。仮定によって想像を進めよう、一個の女の自殺者が火焔の上に身体を置いて焚死を謀《はか》り、その下に焚火をし、その上に安臥する適当な台を作ったとする。その台の上に先ず一身を安定させて見る、更に予想される苦悶のために身体の移動が目的を阻止するのを虞《おそ》れて両足を台の両側の木の上に結びつける事は可能であろうか。両手を縛る事は不可能であろうとも両足は勿論可能である。彼女はまだ生きているのだから。まず半身を起し、身を屈して片足ずつ縛る事は実に容易に出来るわけである。さて仰臥して両側の木に両肘をかけていたのが最後に両手を上に持ち挙げて絶え入った。方法としては決して不可能でも無理な仕事でもない。と云って誰が何の宗教裁判によって自己を火炙《ひあぶ》りの極刑に処するであろうか。火焔の上に身を置いて死を謀る人間が居るとは常識には信じ難い。しかしあらゆる不可能事と見える事も可能な限りするのが人間である。入水《にゅうすい》して自殺する方法を案出した者がある以上、また火焔によって自殺しても不思議はない。尤《もっと》も考えても苦痛が大きいだけに類は尠《すく》なく摸倣者も多くは出まい。けれども井戸に入水する自殺者もいる。その心事は了解しにくいには相違ないが、方法としては至極簡単で、どこ一つとて不可能に不合理なところも無い。彼女は火を燃して置いてから火上の台に上り仰臥したろうか。それとも燃え上るように仕掛けて置いた燃料の上の台に仰臥してから身を伏せ手を延べて火を放ったろうか。も早、何人の想像にも遠く及ばない。  しかしこうして一応の自殺説は成り立つ。茲《ここ》に一つ困った事には焚火のために当然使われたろうと思うマッチの箱が彼女の身のまわりのどこにも見当らず、期待したマッチの軸の燃えがらの一二本すら、焚火の灰のなかにもその周囲のどこからも見出されない。マッチの箱も軸も一切が焚火のなかで完全に焼失したとしてもその形跡ぐらいは見られそうなものである。  幸にこの数日来この地方はおだやかな晴天つづきで、現場の焚火のあとなども雨にも打たれず風にも吹き荒らされずに、そっくり完全に残っているのは検視の立場からは至極の好都合であったにもかかわらず、マッチの燃えがらは、終に見つからないでしまった。或はマッチではなくライタアなどが使用されなかったとも限らないから、それも念頭には置く。  マッチの問題につづいて屍体に下駄が無いと気づいた一人があって、これも周囲を隈《くま》なく捜したが、この日は終に見つからなかった。物の尊い時節だからもしや下駄一足でも拾って行かないとも限らないが、そうなれば当然届出人以前に屍体発見者があったかも知れぬという疑問も湧く。――N・Y老人は発見の時下駄の有無までは見て置かなかったということである。  現地検視の重要な結論は生体焚殺か屍体焼棄かを判断するどころではなく、自殺か他殺かを両面から慎重に考査しなければならないという困難の自覚だけであった。  屍体はいつまでも此処《ここ》にこのまま放置する事は出来ない。一刻も早く処理すべき状態だから、今日夕景にでもなり次第、一先ず署に運ばせねばなるまい。また機《おり》を見てこれは解剖による法医学の鑑定を待つ必要もある。万一盗まれるような事があってはならない。  何はともあれ基礎捜査を急がなければ、それにしても、こういう面倒な事件では僅に十名の署員では手がまわらぬから、国家警察へ応援要請からはじめねばなるまい。現場はひと先ずこれ位でと、帰り際にはもう一度、山上の眺望を見渡してこの場で焚火をするのは狼煙《のろし》をあげたようなものである。必ず誰かその煙を見た者もあろうなどと思いながら、本郷村署長S警部は心せわしく山を下りた。  本郷村役場職員が人夫たちを督励《とくれい》して、屍体はその夜の七時ごろ本郷村署の二階に移し安置されて即座に活動は起された。全員十名の外、要請に応じて来援の国家警察の二十五名、合せて三十五名が八方に派遣されて、先ず該当《がいとう》家出人の捜査に手を尽してその夜は遠くは大町までも出向いた。しかし東筑地区にも小県にも該当者の心当りはなく、捜査は第一歩から既に行詰った形であった。  新聞は九日の朝、第一報を仰々《ぎょうぎょう》しく煽情的に書いた。その日の正午すぎ本郷署へ現われたのは隣接の寿村のS・K三十四歳であった。  彼は妻E子二十九歳が五日の朝、食事前からの口論の後、家出したのを毎日今日あたりふらりと帰るものと待ち設ける一方心当りをあちらこちらと尋ね歩いても判らず、今までも時たま家出して実家にいた前例もあり、また実家だろうとは思ったが直接では気まずい事もあり、かたがたE子の姉の片づいている本郷村の義兄M・Mの家にいるかも知れないと思って八日はM・Mを訪《おとの》うて見たがE子はそこにも居ない事が判り、今度は実家にも帰っていないらしいと知れたので義兄も心配して家出捜索願を出してやろうかなどと相談していた折から、今朝遅く新聞を見てまさかと思うがもしやと案じて駆けつけて見たという。  何故義兄を煩わして捜索願を出そうとしたかと聞くと、多分実家かどこかに居て今に帰ると思って、その場合捜索願などでお騒がせしていては皆気まずいと思ったという。その話で気がついて見ると、八日の夜村のM・Mから義妹失踪の捜索願が出たのは受付けていた。折からの現地検視の事に紛れ無人のため、そんな問題を後廻しにしていたのが燈台下暗しになっていたものであった。  ともかくもと、S・Kを二階に導いて屍体を見せると、確に妻のE子であるという。別にもうひとり証人をほしいと呼び出したE子の実家の代表に来た実弟は一見して甚だ昂奮していたが、 「姉Eかもしれないがこの著しい変貌では到底それを認めにくい。直ぐにそう認められるのが不思議な程である」  とその認定を否定するばかりか、認定に対して抗議するかに見えた。S・Kの暗然たる間にも冷静で沈着なのに較べてE子の実弟というのは激情的で、それが単に二人の性格的な相違又はその置かれた位置の相違か。或はもともとE子の婚家と実家との間に伏在する何物かがこの機会にもその一端を現わしたのでは無かろうか。或はただ実弟としては姉のこういう異常な死態とその死に方とを血縁として承認したくないのは当然かも知れない。と思いながらS警部はこの一場を稍《やや》印象的に受取ったから実弟の立場と申し分とを諒《りょう》としてすぐ引取らせた後、第二の証人としてはS・Kが、その母、即ちE子の姑《しゅうとめ》ならばその家出の時の着衣などから判断するに適当であろうというのに同意してS・Kの母を呼んで見させると、先ず目を覆うた老女は屍に対して、何事とも知れず呟き語った後、仔細に着衣などに目をくれてから、E女に相違ないと断言した上、特に上衣の標準服の襟下のつぎ切れを示されると、 「その切れなら同じ布の切れがまだ家に残っているずら」  と云って後刻その提出を約束し実行した。そのうえ、E子は家出当時、姑の与えた赤鼻緒に焼絵模様のある下駄を穿いている筈だとも証言した。  これらの証言とつづいてその提出した縞の布切れとによって変死体は寿村のS・Kの妻女E子、二十九歳のものと判明し、念のためとあって再びその下駄が問題となった。家出後の足どりなどを追究しているうちには自然と下駄も見出されそうに思われる。  屍体の身元さえ判明すれば、自然と捜索の範囲も限定され、解剖も即刻にも出来る手順だから、自殺、他殺の区別も容易に、従って犯人の捜査なども促進される。  無論まだ幾多の困難は残されているとは云え、捜査本部が最初に覚悟したものの大半はこれで解消したような気分であった。      *   *   *  当時、筆者は軽井沢に近い山村に居住していたが、この地方は、この年、この地には珍しく雨が多く、当年は簑《みの》の入《い》る田植だと云われていた折から、熊の平トンネルの土砂崩壊のために工事中の人夫三十余名が生埋めの事や、前年秋のキティ颱風で流失したのを改造した村の小橋梁が再び流れかかっているなどさまざまな話題に混って、上松《あげまつ》バス沿道に近い山中で若い女の裸の黒焦げ屍体が発見されたと伝えられたのが、事態も不明瞭に、まだ距離も最も遠く、日常生活にも毫《ごう》も影響のない出来事でありながら――或はその同じ理由のためであったか、自分にとっては不思議と最も印象深い出来事であった。  田舎新聞は「若い女の黒焦死体」と二号活字を並べた副題には「武石峠で白樺に両足縛られ」と記して、本文中には「他殺の疑いが濃厚でまれにみる猟奇《りょうき》事件として」とか「左ももの内側に一尺ほどの大きな切り傷があるところから暴行の疑いもあるとみている」など煽情的にでかでかと興味本位に舞文していた。猟奇的という文字は自分が curiosity hunting の訳語として造語したのが、いつの間にかこういう風に使われはじめたもので、最初そういう用法を予期しなかっただけに、それを見ると必ず腹立しくなるのを禁じ得ない。  エロ、グロ、ナンセンスという大正末期の流行語は、近代日本の浅薄な摸倣文明が、それながらに頽廃《たいはい》期に入った兆であったと思い当るが、今この新聞のこの記事はエロ、グロの具体的なものを把握して得意満面の観があって苦々しかった。  これは正しく多少エロ、グロに類する事件らしいが、ナンセンスどころか自分には故もなく意味深長に時代の虚脱感や不安を象徴したように感ぜられて、さながらに自分の胸裡《きょうり》の必ずしも平和ではないが無事な山中に若い裸女の焼死体が投げ込まれたようなやり切れない気がした。自分には何の関係も責任も無いこの出来事を、その頃の梅雨模様のいやな空とともに、何とか早く解決してほしい気分になった。というのもつまりその事件にひととおりの、エロ、グロのそうしてナンセンスならぬ相応の興味を抱いたからであろう。確にこれは、本来の語義での猟奇的な事件に相違なかった。真相を知りたがるだけの値打はあろう。――自分はいつぞやウィンの一公園で固形アルコオルに因《よ》る女の焼死体が見出されてその情人のユダヤ人紳士が殺人容疑者として騒がれた事件を思い出していた。  それで新聞の記事などは少しも信用しないながらにも、毎日その報道に注意を怠らなかったのも、決して山中の無聊《ぶりょう》のせいばかりではなかった。自分は悪魔と神との混血児たる人間の本性の追究者を以《もっ》て自任する一人、即ち近代文学者と称するものの端くれなのである。  新聞は民度の標準であり、時代の常識の代表者である。そうして不敵な自信を以て一切を、民度の標準、時代の常識で割り切るのを使命としている。だから山中に屍体を発見すると十分に見極めない前から二十女と思い込む老人と似た心理で、山中の黒焦げ女体の報道に当って田舎新聞は単純に暴行を受けて惨殺《ざんさつ》されたものと片づけようとする。在来ありふれた犯罪の型に従って通俗に解釈するのである。生憎《あいにく》とそれが読者の同感によって第一印象的先入偏見になるのを反省する余裕もない。新聞は敏速第一だからである。しかし屍体の身元が判明して、それが農家の妻女だと知れると今度は家庭の不和から農婦が夫に殺害されたと書く。この方が痴漢《ちかん》の惨殺よりは世間並みに常識で割り切れるからであろう。  痴漢の暴行後の殺害や、情婦殺し、女房殺しは今更珍らしい主題ではない。それが異常な形態で出現したのを新聞が書き立てるのは、通俗小説が同一主題を反覆しながら単に筋の異常を喜び楽しむのと似ている。  新聞記事はいつも紙面の都合などもあって簡略に簡略にと記される上に、徹頭徹尾常識に終始して科学的の真をまで伝えないのは、その使命の上から当然としても、どうかすると世俗的な真相をも伝えないで、一切をわかりのいい筋にかえて大衆小説的な文句で読者を楽しませようとするかの如き余計な行過ぎのサアヴィスのあるのを自分はいつも喜ばない。  この時の痴漢の暴行虐殺、亭主の農婦焚殺もしくは屍体焼棄という報道に接しても、実のところ、自分はこれが腑に落ちなかった。なるほど痴漢も情夫も良人《おっと》も皆それぞれに殺意を持つ。 [#ここから2字下げ] 人|各自《おのがじし》その愛するを殺す 衆人|暫《しばら》くわが言《こと》に耳を借せ 或は若き顔つきもて事を行い 或は甘き言葉をもて為《な》し 怯《おく》れたるは口づけをもてし 猛《たけ》きは剣を以てす [#ここで字下げ終わり]  と、オスカア・ワイルドが歌っているのは自分も知っている。三十五年前、自分はこれらの句を解し得なかったが、今ではそれがトルストイのクロイツェル・ソナタからワイルドの転用したものである事も、その真意をもほぼ了解したつもりである。しかし痴漢は勿論、情夫も良人もこれ等の殺人者の大部分は、多分もっと衝動的に従って簡単明瞭な方法でその兇悪《きょうあく》な事務を処理するであろう。何もこう念入りに屍体を焼く程の複雑な憎悪《ぞうお》は抱かないであろうし、犯跡を晦《くら》まそうがための仕業《しわざ》ならば、彼は何故にこの労多く効果の少ない拙劣極まる方法を敢《あえ》て択《えら》み、それも中止したままで放棄して置いたろうか。  簡単な新聞記事からだけの推測ではあるが、或はその簡単のためにか、自分には到底納得の出来ない節が多かった。自分としては、寧ろ新聞が軽く取り上げてその根拠を与え示そうともしていない捜査本部が持っているという自殺説の方が、本当らしく考えられた。  自分はこの事件に対して最初から理由の知れない不可解な関心を持っていた。――多分は異常そのものに対しての好みであろうが、勿論公私ともに何の関係もない純然たる傍観者である。それ故、全く冷静にこの事件を考察出来る。勿論明細は知らないから、ごく大雑把《おおざっぱ》に抽象的に考えるだけである。自分は唯推論のために推理してみる――  この事件の第一の特長は何か。それは自分を魅蠱《みこ》したまでのこの異常な事態である。  抑《そもそ》も異常な性格は必ず異常な事件を醸《かも》し出す。その逆も亦真であろう。この異常な事件の背後には必ず異常な性格が主役として潜在するであろう。この事件は何者とも知れない異常性格者によって遂行されたのは必然である。この異常性格そのものだけがこういう事件の原因となる場合もあろう。そういう異常性格者に山中の屍体を復元してみてその環境から捜し出して見れば一切は解決するであろう。こういう異常性格者の日常生活は人目につきやすいから捜査は極めて容易である。  ではこの事件の特長たる異常の内容は何であろうか。執拗《しつよう》に意地の悪い残忍に無知な憎悪に満ちた方法、即ち激越な感情が天人《てんじん》を憚《はばか》るところも無く、また収拾もつかずに表明されている事である。ここで存分に放下《ほうげ》されている深刻な憎悪をそのままに正比例する甚大《じんだい》な愛情の変形と見て差支《さしつかえ》なかろう。  この屍体の主は、それほどの愛情を(憎悪をと云っても同じ事であるが)何の理由で、何者から受け得たであろうか。屍体の身元が判明したという今日、追々と明かになるではあろうが、彼女は肉体的にそれほど美しかったろうか、性格的にそれほど可憐であったろうか。多分は常人以上のものではあるまいと思う。それにしては加害者の被害者に対する異常に深刻な憎悪(甚大な愛情と見ても同じ事であるが)は、我々に加害者その人を訴えては居ないだろうか。一たいこんな大げさな関心を誰がこの一田婦に注ぎ捧げたと云うのであろうか。恐らくその情人か、良人か、血族のうちの何人かであろうか。否、彼等のものとしてもこれはあまりに過大ではあるまいか。彼等以上に彼女に関心を持った者がその外に居るに違いない。居る。たしかに一人だけはいる。何人も己に関心を抱かない者はない。この点は都会の貴婦人も田婦野嬢も区別はあるまい。彼女も亦自己に対して甚大な関心を持った生活者であったには相違あるまい。世に自己に対する愛情、自己崇拝よりも極端な愛情はない。彼女(彼でも大差はないが)の自我が強ければ強い程、自己崇拝は激しく、その反面たる自己嫌悪も極端であろう。世に自己嫌悪ほど深刻な憎悪はあるまい。自分はおおよそこういう順序で見も知らない一個のヒステリイ女を想定した。仮りにこの種のヒステリイ女の自殺としてこの事件を想像すれば、屍体や焚火をおっぽりかえし置いたあとは野となれ山となれ式の現場の有様も解釈がつく。或はこれが唯一の解釈ではあるまいか。  自分はこの事件に関聯ありげな一個の異常性格者たるヒステリイ女というものをわが脳裡《のうり》に見つけた。彼女にもし、何か自己嫌悪の原因となるものがあって、それは人に謀る事も、たとい謀ってみても如何《いかん》ともする事の出来ないものであった場合、他の人々がどんな事情で彼女を憎悪するよりも更に深刻な憎悪が起り、それが単に自己|憐憫《れんびん》や感傷ですまされない強烈な性格に現われた場合には必ず袴腰山中の惨劇に似たものになると思う。――自分の考え方ではこの事件は被害者が同時に加害者、すなわち自殺のように見えるのである。  自分は事実とは無関係に想像上のヒステリイ女を故もなくここで自殺させてしまった。自分はいつのまにか無意識に事実から遊離して空想小説を腹案しはじめていたものらしい。  その日、新聞は屍の解剖の事とその生前を語って、E女が花つくり女であったとか、その問屋に送る花の束も家に残されている女の集めた粗朶《そだ》の束も結び目はみな左一輪引解結びであったなどと伝えている一方、当局は山中の焦死体を他殺と見て、E女の夫S・Kはその犯行容疑の取調べで検束されたとある。多分S・Kは日ならず青天白日の身となって釈放されるだろう、というのが自分の考えである。新聞は幾分筆をひかえながらも依然として他殺説のようである。  自分はもう事実は一切取合わないで、創作家の意識と意欲とを以て空想の翼を傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に羽ばたかせる――  ……仮りに彼女が嫌悪すべき体臭に自ら悩まされていたとする、それを忘れるための花つくりかも知れない。その体臭によって良人の愛をも得なかったとしたら、彼女は良人を怨《うら》む代りに恐らく自己を嫌悪し自己の肉体を呪い怨むであろう。この忌《いま》わしい悪臭がもし股間からでも発散したかも知れないという想像は焼屍体の腰部から股間大腿部を火焔が最も強く烈しく焼いていたという事実から思い浮んだ空想であるが、架空のヒステリイ女の自殺の原因を創作ならばこういう風にも片づける事が出来ようか。しかし、自分は是非もない事実の記録ででもない限りは、こういう自然主義的な作風は好まない。況んやそれが空想である。それでもう一|翔《かけ》り空想の翼を詩天の方面に向けてみる――  彼女の幾代か前は八岳《やつがたけ》の山窩《さんか》(詩人の空想はとかくこういう伝説を好む)の出で、今は山村ながら普通の農村の勤勉に強健な女子として性格も容貌も一見普通に育ちながら、結婚して他家に入って見ると人情や風習の奥底に幾分か他と調和しないものがあって、自他の好意も努力もこの琴瑟《きんしつ》の不諧音を如何ともし難いのを覚えた。人々の好意のなかに他からは不自由も無く生きながらこの孤独感は、非常時の銃後意識と山野の労働の激しさとに辛うじて紛れ慰められていたのが、敗戦後国内に彌漫《びまん》しはじめた虚脱感と不安とか彼女の孤独感を複雑なものにして、彼女は疲労の極《きょく》睡眠を思う人のように、近来格別の原因もなく死に憧れ、死のための死を思う病的な状態であった。折からふとしたはずみに子供の日の遊び場で平素好んでいた山中に分け入って、人知れぬ落ち着きのいい場所を選び、さて不施不授の勝気な心(それが彼女を孤独にしていると彼女自身では知る由も無い)から死後人手を煩わさないために我とわが身を殺しその屍をも火葬しようと思い立つと、彼女は子供がおまんま事を遊ぶように楽しげに焚火の枝や小枝落葉などを掻《か》き集め盛り上げた。さて焚火の上にその身を横《よこた》える死の臥床《ふしど》を用意した。焚火のなかに火を放って徐々に燃え上るのをたしかめてから、しずかに台の上に身を横え幾度かその居心地を試みた後、終に落ちつきを見出した。高山の静寂と陽春の和気とに抱かれて彼女の心は静まり、耳には好鳥の声を、目には遠い連山の残雪を、背後には浄化作用のように小気味のよい痛烈な刺戟の迫るのを、特有な痩我慢で堪え忍んでいる間に、霊《たましい》はうららかな蒼天を彷徨《ほうこう》し、つよい眠りの訪れが来たような快さに、彼女は莞爾《かんじ》とした。陶然たる窒息死が突如と到ったのである。焚火は燃えるだけ燃え彼女を焼くだけ焼いて殆《ほと》んど燃え尽き、屍体はその主の希望に反して大部分を焼き残されて火焔は自然と鎮火した。  自分は拙《つたな》い小散文詩を草し終ったようである。 [#ここから2字下げ] 樵《こ》り積みし胸の薪《たきぎ》を一たきに焚く火のかげに笑《え》みて死なばや [#ここで字下げ終わり]  という一首が鴎外の常盤《ときわ》会詠草のなかに見出される。詩歌は世界の到る処に遍在し、決して詩人の専有物では無い。大きい悲哀を誠実で処理しようとする場合詩は万人に公平に訪れるものである。山村の農婦に文豪と同一の詩想(即ち生活感情)が現れたとしても何の不思議もない。唯、詩人が一首の歌として完全に発散させた感情を、素朴《そぼく》な農婦が詩的表現という簡易な妙法を知らないで直接に生活したのである。然らばこの異常性格者の軌道を逸脱した死に方も、云わば一個の崇高な詩的行為なのではあるまいか。既に善悪の彼岸にあって、その死後、夫や遺児や一族の人々などの当惑などの些々《ささ》たる世情は超越していたから、遺書の一行半句をも無用とした。  この高度の精神を、やれ暴行のそれ痴情の、家庭不和のなどと、あらゆるありふれた低俗な型に当て嵌《は》めて理解しようとするのが、そもそもの冒涜《ぼうとく》で、それでは終に不可解なわけである。詩神が己の聖域に常識の潜入するのを防ぎ守っているからである。E女の死は異常ではあるが単に詩人の詩想を行動に移しただけで、勿論狂気の沙汰ではない。狂気ではあの焚火も焚火の上の臥台の設計も出来なかったであろう。由来すべての詩的行為は世俗人の低俗な眼にはすべて狂気のように見えるらしい。  火焔の上に身を置いて、何の必要があってか、心ゆくまで火傷に堪能《たんのう》して死ぬなどは思いも及ばぬ。信じられない行為、と人々は云うであろう。そうしてフリイドリッヒ・ニイチェは云う―― 「為す者のみひとり解す」と。  自分は山中の焼死体という難件を解く何の任をも帯びず、またその目的をも持たない。唯自分の胸底の山中に投げ込まれたかに感じた一個の陰惨な物を処理するために、一篇の小散文詩が出来ただけでも十分満足であった。それがもしあの孤独な焚死者《ふんししゃ》をして、自己を得たと感じさせその幽魂を慰める事が出来るなら望外な位のものである。とそう思いながらも、あの事は結局のところ自分の詩的空想だけが僅かに真相を把握する、と心ひそかにそう自惚《うぬぼ》れるようになったのは、捜査本部の解決もこの難件を終にS・Kの妻E女の自殺と発表したからである。  ここに到って、自分の推理とも空想ともつかないものが、その結論で偶然にも一致した事実と果してどれだけ似ているのか、それを検すために自分は一度本郷村まで出向いて、自分が漠然と考えているこの自殺史上にも稀有《けう》な女性の性格の詳細だけでも知って置きたいと願いはじめた。  同じ年の秋十月、偶々《たまたま》一友人の案内があって本郷村に出かけて、思いがけなくも村の好意で浅間温泉にくつろいで、アルプスの新雪を賞した上、本郷村署のS警部にも面接して、当時の記録などを繰りひろげつつ思い出し思い出し話して貰ったのを、忘れないうちに手記して置いたものを整理して、空想を主にしたこの章の前と後に添え置いた。記憶の間違いや整理中に誤った部分が無いとも限らない。  もともと、事実には似ていても事実の記録ではない。事実の示唆で出来た小説である。嘘の事を本当のように書くのが普通の小説なら、これは本当の事を小説のように書いてみた創作なのである。前者を嘘から出たまこととすれば、これは事実から出た嘘というものでもあろうか。      *   *   *  寿村のS・Kの妻E子は近村|里山辺《さとやまべ》村の農家、谺《こだま》氏から来た。  E女は見かけは何もかも十人並の花嫁ながら、性格は気の強い男|勝《まさ》りのよく働く女であった。新婚の三日目には早くも夫婦喧嘩の噂が立ったが、その原因はE女が夫の字を拙《まず》いと笑ったのが起りであったとか。彼女自身は夫の字を笑う資格のある程達者に書いたものらしい。 「字を書かしても野良へ出ても、商売をさせても、とてもわたしなどかないっこない嫁だったから、何もかも嫁を立てる外はありませんでしたよ」とその死後、姑が話す程である。 「結婚生活などはしないで、ひとり立ちした方がかえって幸福であったかも知れない。いや男に生れて来るべき者であったでしょう」というのは夫S・Kの言葉である。  所謂女らしくない性格のために夫とはあまりしっくり行かなかったが、それでも間も無く長男も生れて、世間普通の夫婦仲は格別に悪いという程のものでも無かった。折からの支那事変に陸軍歩兵伍長たるS・Kが応召した後は、野良の仕事、家庭の雑務から経済の一式はE女の手一つで切ってまわされて三年間、老幼には何一つ不自由もさせなかった。その働きぶりは近所でも評判のかいがいしい「銃後の妻」であった。  敗戦後ほどなくS・Kは復員したが、その田畑は夫の出征中につづいて、そのままE女に一任された。何事も思いのままにはしないで措《お》かぬ妻との軋轢《あつれき》を避けたS・Kは、庭の一隅にフレエムを設けて苗を育て宅地に近い畑を利用してボオダア・カアネエションなどを植え、花卉《かき》園芸を自分の仕事にはじめた。(花作りはその夫で彼女ではなかった)切花の需要が多くその値上りを見て、敗戦後の物価暴騰、税金膨脹等の家計困難は切花の収入で補ったから、一家は裕福ではないまでも、中流農家の生計には事足りていた。  復員後いくらも経たないで次男が生れた。この地方の言葉で云う「待ち孕《はら》み」である。E女は子供を愛しないではなかったが、仕事の方が大切で、多忙にかまけては子供は構いつけず、姑まかせにしていたから、二人の男の子(事件当時六つと二つ)も、自ずと母を疎《うと》むではないが祖母や父の方に懐《なつ》き親しむ傾きがあった。  この一家では姑が子供係、妻は田畑で稼ぎ、夫が花づくりという風で、仕事にもそれぞれの持場がきまっていた。一家は日々円滑に運行して別に暗いかげもなかったが、個人主義的なこの地方としても世間一般家庭の和合とは少しく趣の違ったところがあった。これも主婦の性格の反映であろう。  それぞれの分担とは云え、臨機にお互いの助け合いをしたのは勿論で、現にE女が夫のために問屋に送る荷の花の束を例の癖の結び方で手伝っているのを見ても判る。  E女は夫の復員後、今度で三回目の家出である。第一回は二十一年六月頃野良仕事の事から夫と口喧嘩となって、夕方無断家出して翌朝ぶらりと帰って、数日後夫の質問に対してE女は死ぬつもりで、三里ばかりの距離に在る入山辺村第四発電所へ入水自殺の目的で行ったが、彷徨中に亡父の顔が浮び出て帰る気になったと答えた。第二回は二十三年六月頃、同じく夫婦喧嘩の挙句《あげく》に飛び出したのを夫が隣人と協力して三十メートル位の処から無理に家に連れもどした。そうして第三回目が今度である。  彼女は最近手飼いの緬羊《めんよう》の飼料に鬼つつじを与えて中毒させたのを家人に咎《とが》められた時隣人に緬羊がもし死ぬようなら自分も死ぬつもりだと語っていたという。以前にも、一度|轢死人《れきしにん》の噂が出た時、自分ならそんな醜骸《しゅうがい》はさらさないで死ぬと放言した事もあったとか。みなほんのちょっとした事ばかりではあるが、異常性格の片鱗《へんりん》を示してはいないだろうか。  E女の生家S村の谺氏は地方では珍しい姓で、村内にもこの一家だけであるが、村の老人の話ではE女等の祖父は以前、笈《おい》に仏体を負うた修道者で口寄せを能くしたのが、屡々《しばしば》村に来往している間に土着するようになった。そのためか一族の血には宗教的熱情を持った人が多く、現にE女等の姉某も熱心な法華《ほっけ》信者となって満洲から引揚げて以来、生家を講堂として信仰を説き広め、信者を集めてE女やその二弟らも姉に帰依《きえ》し信仰に熱中していた。夫S・KはE女の信仰の熱中をか、実家への接近をかは知らないが、そんな事が口喧嘩の種になって、田の畔《あぜ》で争いはじめてE女を泥田のなかにさらけ[#「さらけ」に傍点]込んだような事件もあったと隣人等は噂していた。尤もその事実は見たのであろうがその原因までは判るまい。村の人々というものは、事に当ってはさまざまと無責任な事を云いふらすから、一々そのままには受取れまい。例えば、新聞にも書いて居たが、E女が事件前あたりからおしゃれをはじめていたという、さも意味ありげな噂なども、根もない村の衆のおしゃべりにしか過ぎない。  E女の祖父の事は偶然にも自分の山窩の空想に稍《やや》似ているのが気になるが、これは事実と混同すべきではない。自分はただE女が山に憧れ山中で死ぬ事の伏線として考えただけのもので、E女の祖父が修行者であったとか、E女に宗教的熱情があったとかの事実も、実のところ本郷村署に来てはじめて聞き知ったところである。  それにしても、あの山中の異常な出来事のなかに、もしや、儀式とか作法とか、或は信仰の心理とか何か宗教的幻想が、含まれていないのだろうか。自分は知らない。  S・Kが警察で、家出の妻女を二日も三日も捨てて置いた理由を怪《あやし》み咎められた時、前の家出二回も六月であったし田植時になるとふらふらと起る病気らしいから、今度も今に帰って来るに違いないと思った、と答えたと聞くが、彼女の最後の家出も六月五日であった。  六月五日は地方の慣例で一月おくれの旧暦五月五日の端午節に当る。その日、彼女は朝飯前に姑とも夫とも各一場の口論をして家を出た。  祖母は端午節の孫たちのために強飯《こわめし》をこしらえてやろうと、蒸籠《せいろう》の底をさがしたが見つからないでいらいらしていた。二三日前にも蒸籠を使った時、嫁に簀《す》をかたづけさせたのを思い出してそれを出させたが、なかなか出て来ない。  E女はこの間こびりついてとれなかった飯粒をとるために前日泉水のなかに漬《ひた》して置いた簀が一夜のうちに流れ沈んで見つからないのを、やっとさがし出して流し元で洗っている。  姑はその間も待ち兼ねて性急に大形の蒸籠の底の周囲を切り縮めて使い、嫁を罵《ののし》り叱った。その騒ぎのまだ落ちつかないうちに、当日E女の頼んで置いている馬耕の事が夫婦の口論の種になった。 「のらの節句働きかい。何もわざわざ今日とは限るまい」  という夫に対してのら[#「のら」に傍点]と誣《し》いられたのに平かならぬE女は抗辯して、 「今日でなければ先方で手が空《あ》いていないのだから是非もない。あまり後になると時季におくれる。双方の都合をよく相談で取極めた約束である。父さんの気持や世間体を申し立てて取消しは出来ない」というのがE女のいい分で、最後に、 「断るなら父さん自分で行ったがいい。おいらにはとてもそんな事は出来ねえ」  というような口論を、またいつもの事だ、うるさいと思ってS・Kは煙草を買おうとふらりふらり家を出た。途中家から百メートルばかりの所で偶然に妻の頼んでいた男が馬を牽《ひ》いて来るのに出会って、約束を取消してから家へ帰ってみると、E女はもうあたりに見えなくなって、それっきりであった。朝六時か六時半ごろであったろう。  警察ではE女の婚家K村の竹渕から袴腰山への道を三才山《みさやま》、岡田山からの登山口と、入山辺村や里山辺村から登る藤井口に到る二つの道筋に捜査員を出して、途上でE女を見かけた人物を求めた結果、捜査本部はもっと多くを期待していたが、何ぶん早朝の上に節句の野良休みのためもあって、僅かに次の三人を捜し出しただけであった。 [#ここから1字下げ] (A)E女の家から北方五〇メートルの地点に住むK・M氏が六時頃自宅前を通過のE女を見かけた。 (B)E女の部落から二三町東北寄、竹渕下の原の田圃《たんぼ》を水見廻りの男に彼女は朝の挨拶を残して過ぎた――七時前後。 (C)E女の家から三キロ半の里山辺村金井の金華橋(奈良井川の支流|薄川《すすきがわ》を渡る)の手前で里山辺村のK・H女が彼女を見かけた。かねて顔見知りの間柄にもかかわらず、会釈もなく急ぎ過ぎるのを奇異に見送ったのは八時頃であったろう。 [#ここで字下げ終わり]  僅かに三人ではあったが、その三地点を結んで見て寿村、里山辺村、松本市、本郷村と入山辺村との境界を通過して生家のある桐原の上の道から山中に入った女の足どりも、これで明かになり、ひとりでうなだれて歩を急いでいたという彼女の様子に関しては三人異口同音であった。  彼女の通過した道筋では全程十三キロの距離、その四分の三までは山道でもあり、健脚とは云え女の脚で三時間か三時間半と推定して九時半か十時には現場に到着したと思える。それから焚火の用意なども三十分ぐらいはかかったろうか。十時半ごろあの方向に上る煙を見た者がいる筈である。  捜査本部の一部は屍体の身元判明と同時にK村に出張していたが、K村支部の捜査員は試みに山に入ってみた。  果然スキイ場の、一つ離れた沢で炭を焼いていた二人の男が、五日の昼ごろ、袴腰の裏に煙の上るのを見つけて、へんなところから煙があがるが誰かあんなところで炭でも焼きはじめたずら[#「ずら」に傍点]かと商売がらで注意してしばらく見ていた。見つけたのは十一時少し前であろうか。半時間あまり経って松本のサイレンを聞いておぼえているから、時間は確かなつもりであると云った。(松本市のサイレンは十一時半である。)一時頃にもう一度注意してみた時にはもう煙は上っていなかったと云う証言があった。足どりや屍体の経過時間などに照し合して当局の推定したものとも大体合致して、信頼するに足るものと思えた。  前記のような捜査の一方、屍体の身元判明と同時に直ぐに屍体の解剖は松本市の藤森博士に委《ゆだ》ねられた。屍体の腐敗を虞《おそ》れたのと、それによって捜査の方針を決定するためにもそれが急務であったからである。  長文の解剖所見は一般には煩わしく難解かとも思われるから、或は要約し、或は抄録するにとどめて置くが、当局の要求する鑑定事項は、身体の特長。年齢推定。職業推定。死因。生前焼毀、死後焼毀。骨折の有無。暴行の形跡。内部疾患の有無。既婚、未婚、妊娠経験の有無。死亡時間及死亡日の推定。胃の内容物の有無、有りとせばその種別。腸の内容物(糞便の不消化物の種別)。尿の有無、有りとせば其の量。という十三項目の大部分は不明であった。高度の火傷のため明確な所見も得られなかったとすれば推定出来ないわけである。唯身体各部の火傷の程度や位置は甚だ詳細にこの所見は両肘に身を支えて仰臥した姿勢で焚《や》けた事を更に雄弁に明確に語るだけである。両眼の角膜|溷濁《こんだく》、眼球|稍《やや》軟解の状態によって死後解剖時まで四日内外と推定され、解剖時は六月九日であったから推定のとおりである。年齢の推定は三十歳前後、職業は「足蹠《あしうら》の点より推定するに農業に従事したる者の如し」とある。胃の内容物は特に認められず、朝飯も摂《と》らずに失踪の証明になる。頭部その他に骨折も無く何等の鈍器もしくは鋭器に因る傷害の痕跡も扼殺《やくさつ》の形跡もない模様で、新聞が第一報で報じた左大腿部の大きな切傷というものは藤森博士の所見によれば、 「左下肢は第三第四度火傷の状態にして左|鼠蹊部《そけいぶ》より、左大腿内部中央部に亙り表皮|※[#「口+多」、第3水準1-15-2]開《しかい》の状態にあるも生活反応を認めず」  とあるものを指すならば、単に火傷のために表面の皮膜が裂けてぱっくり口をあけていただけの事を見誤ったか、大げさに書き立てたのであろう。  所見は死因に関しては「当屍体の如く背腰部炭化状態にて肋骨露出の状態に於ては一酸化炭素ヘモグロビンが血液に証明されたりとしても直ちに一酸化炭素による窒息死として断定し難し。血液と一酸化炭素とは化合し易きを以てなり。当屍体の如く高度の火傷のため自他殺の区別に対しても法医学的には確固たる所見認め難し」と云い、また「……若し自企的とせば法医学的に稀に見る一例報告事件なるべし」とも記して、生前焼毀、死後焼毀の項には「不明」の一語を記すのみである。  焼毀が生前とも死後とも判明せず、自企的な行為としてはいかさま稀に見るものには相違ないが、他殺と断定するにも何等損傷も扼殺の形跡もないでは何をそのキメ手にしようか。  法医学を素朴に尊崇して屍体解剖を事件解決の切札のように思っていた捜査本部長S警部の失望は見るも気の毒であった。この狼狽の最中に折も折、思いがけない当惑事がつづいて持ち上った。  解剖ずみの屍体引取方に絡んでE女の婚家と実家とが角突き合いのような形になった。E女の実家谺家では兼ねてE女の自殺説は絶対に認めなかった感情が、この場合に到って犯人が鼻の先にちらついているとばかり積極的に見えた。屍体は必ずしも自家の方へ引き取ろうと云うのではないが婚家の墓地には絶対に入れさせないと依怙地《えこじ》に頑張って、それ位ならば永久に本郷村警察署の仮処置をそのままに本郷村の真観寺に埋葬して置いてほしいと、実家側では故人に対する愛惜の純情以外に明かにこそは云わないが、婚家を敵視している様子に本郷警察署長兼捜査本部長S警部も困《こう》じ果てた末に、婚家では遺児も二人まである事ではあり、幼児等が母の墓に詣でるにも三里も距《へだた》った真観寺では遠すぎるから、婚家の人として没したのではあり婚家の墓地に納めるのが穏当であろうとS警部は懇々と二日がかりに説いた後、幸に両家に共通の親戚からの仲裁があって話は穏やかに落着した。  屍をいよいよ夫S・Kに渡そうという段になってS警部は古畑博士を思い出した。この法医学の大家が折から学会の招聘《しょうへい》に応じて松本市に来ているのを知っていたから、もう一度この大先生に縋《すが》ってみようと思い立ったのは、決して藤森博士の所見を無視するつもりではなく捜査上に何か一道の光明に接し得るかも知れないという無理もない焦躁《しょうそう》であった。  S警部は予《あらかじ》め電話で頼んでから、藤森博士の所見と現場写真とを携えて古畑博士の宿を訪うと早速に引見された。重厚な古畑博士は警部の話に一とおり耳を傾けて「出来る限りの協力はしたい。しかし藤森氏が手がけた事件とならば、藤森君とも知合いだし、一先ず藤森君に会って直接にその所見をたたいて研究しましょう」と直ぐ宿の女中に命じて藤森氏と連絡させる間も、古畑博士は熱心に現場写真をひっくり返しながら、所在なげに署長に向って、 「全く珍しい事件ですね。前例はありますまい。人間という奴が前例の無い事をしでかすのはいい傾向で、進歩を促すが、殺人や自殺の独創的なのなどは困りものですね。――尤もこれを仮りに自企的な焼死体とすれば新しいには新しいが、進歩した知性的な方法というよりは寧ろ最も原始的なものでしょう。この野蛮に近い方法を現代人が採用したところが新しく個性的なのでしょうか。空前で常識的ではなくとも、自企的に全然の不可能でもありますまい。何しろお困りでしょう」  と事件の評論を謹聴しているうちに急角度にいたわりの言葉が出たので、署長が恐縮しているところへ先刻の女中が出て来て、 「ではお待ち申し上げます、と藤森先生のお返事でした」 「では車を一つ」と博士が云うと 「ボロ車で先礼ですが、わたくしが待たして置くのがございます」という署長の言葉に古畑博士は気軽に立って藤森病院に向った。 「お仕事に介入するのは不本意ですが、署長殿に泣きつかれまして」と古畑博士、 「恐縮いたします」と署長の挨拶を交すと殆んど同時に、 「いや、こちらから参上して」と藤森博士が云う。「御教示にあずかりたいと思っているところでした。」  と両博士は簡単な挨拶を交すと、「ちょっと」と署長を待たせたまま藤森博士は古畑博士を自家の手術室に案内した。古畑博士は解剖台上の屍体《したい》の腰や下腹、胸のあたりなどをところどころ検査して見た。現場写真で注意しておいた第二度火傷の水泡状態を確めたのである。なおも上半身をのぞきまわしていた。一見して注意すべきところは胸のあたりだけである。背部は全然炭化で問題にならない。古畑博士は血液が凝結して黒い血管毛がどこかで樹枝状に現われている筈と老眼鏡下に眼を光らせているのであったが、しばらくすると臭気を発散しはじめている屍体のそばを離れた。  二人の博士は手術室をあとに長い廊下を再び応接間の方へしずかに歩を移しながら、 「煤煙《ばいえん》は肺には見られません、気管で分岐点の近く、食道では甲状軟骨の部位程度まで少しばかりながら煤煙の存在を認めますが、この現象をどう解釈すれば正しいでしょうか」 「やはり生体でしょうね。肺まで達しなかったのは火焔の状態にでも理由がありましょうか。屍体の場合に気管の分岐点までも流れ込むとは考えられませんから。――あなたのその所見と屍体の胸や腹、脇腹などに見かけた第二度火傷の水泡状だけでも生活反応は疑いません。その上に血管毛の樹枝状凝結を見つければ条件は完備しますが、それがなくとも安心して生体と云えます」  互いに所見を語り合っていたが、応接間に帰って悄然《しょうぜん》とひとり待ちかねていた署長を見ると古畑博士は話しかけた―― 「幸に藤森博士とも大たい意見の一致を見ましたが、あれはどうも生体を焼いたものですね」 「生体焼毀ですか。――では自殺……」と勢込《きおいこ》んで云いかけた署長の言葉を抑えて古畑博士は、 「生きていた人体が焚火の上で屍体になったという事は断言し証明しますが、それを直ぐ全面的に自殺と云ってしまっては飛躍しすぎます。例えば他殺に因る半死半生の生体が更に焚火の上に置かれた場合にも、この屍体には自企の場合と全く同じ生体反応は現れますからね」と古畑博士は念を入れて説明してから、博士は口調を改めて云う。 「それから、これは我々の学問以外の常識的な考えを、署長さんの御意見を伺うまでですが、屍体や半死半生の人間を十三キロもある山道を運び登るのは幾人ぐらいの力が入りましょうか。それにいくつかの村や町のある場所でそんな荷物を持ち運んで人目に立たないものでしょうか――それも推定されたような時間にそんな事をこっそり出来るものでしょうか。兎《と》も角《かく》もあの屍体はどんな方法でかは知らないが、火の上に置かれた時にはまだ生きていたものなのですよ。――これが我々の報告する全部です。あとは慎重にお考え下さい」  署長は古畑博士が親切にも遠慮がちに示唆を与えてくれているのを感じて、何となく解決に一縷《いちる》の希望を感じた。  因《ちなみ》に屍体は後にもう一度精神異常者でない法医学上の確証を得てから夫のS・Kの墓地に埋葬された。  一部だけK村に出張した捜査本部では専ら、S・K一家、特にE女生前の行状に就ての聞き込みを蒐集していたが、既に一端を記したような異常性格に関するものの外、口煩《くちうるさ》い田舎にては珍しく悪声の少ない家でS・Kの母が昔、久しく二人の男児をのこして夫と別居生活をしたというふるい話や、或はそんな死に方ぐらいしそうな気丈な気風のE女であったと位の外は、何の示唆もない評判ばかりでE女の夫の出征中の働きが更《あらた》めて讃美され、浮いた噂、捜査本部の求めている所謂痴情関係の類のものはまるで何もなく、かえって「近ごろこそ少しは変って来てもいたがまるで色気も何もないような」とか「世話好きの親切者で男のような気風」など求めるところとは違った方向のものさえ雑《まじ》っていた。  聞き込みでは彼女に死ななければならない理由もなければ、彼女が殺される理由も、その犯行者らしい者も更にない。理由や原因やその人は見つからなくとも事実が厳然と存在しているのを否定する事は出来ない。  外に取調べる相手は手がかりも無し、さればとて打捨てても置けないから、別だん疑わしい筋合も見つからなかったが、当局でも順序として、一応世人が疑っているらしい夫S・Kを先ず取調べて見る事にした。世人が疑っていると云ったところでほんの常識的な型どおりの解釈と、復員帰りというからには定めし軍隊で残忍な事もさんざ覚えて来ているだろうという位な、敗戦当時の流行的観察ともいうべき軍人に対する過度に警戒の眼を光らしている時代の悪意にしか過ぎない。  S警部もしかし一応は時代の人並の意識でS・Kに向って見る。伍長で応召して三年後に軍曹で帰った人物である。村でも実体《まめ》な男で通っている。軍隊で悪ずれして来たとよりも寧ろ好《よ》く教育されて来たような印象を受ける人物である。警部はなおS・Kに対しては一つの聞き込みが頭のなかにこびりついている。この男S・Kはまだ少年の頃両親が仲違《なかたが》いして母は幼なき二人の男の子を遺したまま家を出て久しく夫と別居中に、S・K等の父は歿して取残された少年二人だけの家庭の処理に困却した一族では、少年等の母を呼び迎えようと決議し、交渉に先立って、先ず少年等にこの事を謀《はか》ると有頂天になって喜んだのがS・Kであった。お母さんさえ来てくれるならおらも今までとは性根を入れ換えると云ったと云う。子の言葉に動かされて母も夫の無い家に十二年ぶりとかに帰って見ると、その頃のなまけ癖が出て幾分不良|染《じ》みて来る傾向のあったS・Kが母を迎えた日から果然勤勉に実直な男になって来たと村の老人などが語ったというのが、S・Kの過去の身の上である。思うに彼は母のないこの境涯《きょうがい》は十分に味《あじわ》い知って居る。今その児が同じく男ばかり二人で父の手一つに育つような身の上になったのは何の因果かは知らないが、S・Kにとってはむかしのわが身の上を再び生きるような気持であろう。こんな運命をS・Kが自分の手でつくり出す筈はないという考えが警部の心の底にある。それを一応捨てて取調べている。一時の憤怒《ふんぬ》から或は女房殺しをしないとも限らぬ、しかし半死半生の女を火あぶりにする類《たぐい》の男とは見えない。たとえ人は殺そうとも無責任な焚火が、場合によっては公私の広汎な山林に燃えひろがって敗戦に悩む国が富を失う原因となる事を、一身を守るために平然と企む心体《しんてい》ではあるまい。一挙手一投足みな旧い型の陸軍軍曹的の彼の受答えは事毎《ことごと》に簡単[#「簡単」に傍点]明瞭であった。八日の午前中手伝った本家の田植の残りをしているのだろうかと本家に行って見て序《ついで》に相談をしたのが十時から正午ごろまで、午後は宅地につづく花畑でカアネエションの手入れをして咲き揃ったのを五十本ばかり切って三時過ぎから花をとどけに松本の花問屋へ行ったという八日のアリバイの申立ても、K村の捜査支部が予め調べて来た報告と一致して信頼出来る。今この男をこのまま帰してしまえば捜査は先ず行き詰りである。被害者の実家をはじめ他殺の見込の世間一般は必ず不満足とは思うが、警部は自己の信念と権威者の屍体に対する見解及びその屍体運搬の困難に対する説などを心に思い浮べてS・Kをあっさりと釈放して心は軽くなった。さてどうしても他殺者が居ない場合は他の思わくの如何にかかわらず自殺とする外はないと決心して、この線で捜査を進めるに就いては第一にE女の下駄やマッチである。姑の証言ではマッチは新しい小箱二箇のうち一つを家から持出している。下駄はE女の死の登山を途上で見た三人がそれに就いて何も語っていないのは必ず穿《は》いていた証拠で、もし跣《はだし》ならば必ず注目して異な印象を受けて第一にその事を語った筈だからである。  捜査方針を一変して、人間を追いまわす代りに今度は下駄やマッチを捜す間に、或は局面も打開出来るかとS警部の気分も爽やいだ。  六月十四日。本部及び支部は全員を挙げて、もう一度袴腰スキイ場の焚火趾附近からE女通過の沿道でマッチ箱、マッチ軸木燃えがら、E女の穿いていたと姑の証言する「まだ余りちびない台に絵をかいてある、少しいたんだ赤い鼻緒の下駄」を捜し出す事になった。  出発点としたスキイ場一帯では午前中、もう固まっていた焚火の灰は砕きこわしてふるいにかけ、草の根を分けたが終に何も見つけなかったから、山から引揚げる時は全員を二隊に分けて左右別々に、競争的に道の両側を捜し求めて、もう駄目と覚悟しはじめた頃E女の生家の屋根を一人が指し示したあたりの、麦畑と桑畑との中間を抜ける石ころの多い小径から右に一飛びした程の距離にあった二本の桑の樹雑草の中にちらついている赤い鼻緒を見つけ出したのは三時過ぎであった。下駄はうす黒く染めた台に蔓草《つるくさ》を図案した焼絵があり、あまり禿《ち》びてはいないが鼻緒は左足の方が特に著しく擦り切れていた。正しくこれと見つけ出した連中はふざけて歓呼の声をあげた。この宝さがしに飽きくたびれていた一同がこれで解放される喜びである。附近の麦畑にいた里の女の尻ごみするのを立会人に現場写真を三枚撮影して現場とそのフイルムとを土産《みやげ》に意気揚々と帰ると、部長は報告を聞いて大満足で、写真の現像の仕上りをもどかしがる程であった。部長は全員に向って云う―― 「入水者などが下駄を揃えてのこすのが自殺の形式みたいになっている。そういう路傍の、殊に生家の附近に揃えた下駄が置かれていたのを、おれは自殺の意志表示と見てもいいと思うのだがね」  と同意を期待するかのように、一同の顔を見まわした。或《ある》者はお義理に、或者はお座なりに、少数は心から同感の色を見せているらしい。他の人々はどうでもいい。警部自身はそれを信じて、何人にも承認されていい証拠品と思った。 「E女は少女時代から跣で山地を飛び廻るのを楽しむ風習であったから山地に入る前に下駄を脱いだのだろう」というのがE女の幼友だちだった村の女の意見である。そうしてE女の生家の上あたりからが偶然にも追々と山の道らしくなりはじめている。  S警部は自分の訪問を喜び、自分の空想的推理というものを先ず語らせてから、 「大たいとしてあなたのカンに近いものでした」と前置きして聞かしてくれた話が、おおよそ以上のようであった。勿論速記ではない。粗忽者《そこつもの》の自分の事だから、聞きそこないもおぼえ違いも必ずあろう。 底本:「文芸ミステリー傑作選 ペン先の殺意」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年11月20日初版1刷 底本の親本:「怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集 夢を築く人々」ちくま文庫、筑摩書房    2002(平成14)年5月 初出:「改造」    1951(昭和26)年9月 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。