二枚の借用證書 楠田匡介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)十一《といち》だぜ -------------------------------------------------------       ×  アンコール雜誌に、大下先生の「惡女の深情」と云ふのが載つてゐたので、新作か舊作かを訊きに行つた。 「そんなのは知らんよ……どんなのだい。」 「夫が妻君を殺す奴です。」 「儂には妻君を殺す小説はうんとあるんだ。どうも嬶と云ふものは殺し度くなる。」と先生は一寸聲を大きくして、奧さんのゐられる隣室の方を向かれる。 「餘り、私を好いてゐらつしやらないからですわ。」  と奧さんは、やさしい抗議をされた。 「うむ、それもある。あつははは。」と先生は笑はれて、「さうさう。楠田君には貸があるぜ。」 「へい……」と私はびつくりする。私は妻君殺しの小説を書いた事はない。 「私は神さんが好きなので、殺さん事にしてゐます。」 「あつはは、君の奧さんの事ぢやない。楠田匡介つて名前は、儂が付けたんだぞ。」  私は忘れてゐた。二昔も前の新青年に、「楠田匡介の惡黨ぶり」と云ふ連作小説が載つてゐた。だが、申譯ない事に、私はその作者を忘れてしまつてゐた。 「滿洲から歸つて來た男で、惡い奴だ。」  私は自分が叱られてゐるみたいに頭を下げた。 「人肉のソーセーヂを造つた樣な惡い奴だぞ、匡介は。」 「はあ。」 「名付け料を當然拂ふべきだ。」 「えゝ、今度拂ふ事にします。」  私はここで、先生に借りが一つ出來た。     ×  五月海野先生の葬式に行つて、大下先生に借金した。一寸人に云へない借金である。 「おい十一《といち》だぜ、利子は高いよ。」  私は、すぐ返濟するつもりでゐた。所が返せなくなつた。病氣をしたりして貧乏したからである。  その次お會ひした時、 「先生、まだ利子も拂はずにゐます。」 「あれから何日になつた。十一《といち》だぜ。」  次に、 「先生まだです。」 「ほう、忘れてゐた。」  また次に會つて、 「まだ返せずにゐます。」 「うるさい男だね。人の顏を見る度に……儂は忘れてゐたよ。」  また次に會つて――めつたに會はない大下先生なのに、どうしたのか、それからと云ふものは、のべつに會ふ機會があつて、私はその度毎首を縮めた。  それが氣になつて、私は土曜會を二回程缺席した。借用證書が二枚になつた。     ×  先生の趣味に釣と將棋と麻雀がある。私は、釣の事は皆目判らない。將棋もただ駒道を知つてゐる程度である。が麻雀には年期が入つてゐる。先生は探偵文壇切つての名人であり豐島區(いや雜司谷邊位かな)切つての大家であるさうな。一番手合せして、この二枚の「借用證書」を棒引にしたいものだと念じてゐる。     ×  探偵小説の大下先生より「二十の扉」の先生の方がより有名である。その先生と一緒に一度寄席の「十八の扉」といふのに出た事がある。答を先生に追ひ込んで貰つても出來なかつた。舞臺を降りて、「君は探偵小説家のくせにカンが良くないね。」 底本:「宝石臨時増刊第二号」岩谷書店    1949(昭和24)年9月20日 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。