日本人の坐高 田中寛一 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き](文博、日本學術會議員) -------------------------------------------------------  私がかつてコロムビア大學にいたとき、同じ講義をきくクレイグという青年心理學者(後にシカゴ大學教授)がいた。同君はアメリカ人としても、たけのずぬけて高い方で、教室の前で、握手をするのが例であつたが、日本人としては、たけの高い私も、いつも見おろされていたのである。ところがならんで腰をかけると私の方が高いことを發見して、「おい、クレイグ君、肩は、どちらが高いか」と聞くと、「やあ、おどろいた」と答えていた。  こういうことは、電車の中で、アメリカ兵とならんで立ち、ならんで腰をかけるときに多くの人々の經驗していることであろう。これは、われらの身體の作り方の特徴、すなわち脚が短くて胴が長いことを示すのである。實際に測定したところによると、下肢長の全身長に對する比率は男女とも、歐米人のは五四%であるのに對して日本人のは五一%である。また坐高について、東京で私が測つた結果と、シカゴでスメドレー博士が測つた結果とを比較すると、年齡によつて多少の動搖はあるが、九歳から十七歳までのものの差の平均では、男女とも二センチあまり日本人のが大である。  ハワイ大學のポーテァス博士は、日本人の脚が短くて、坐高の長い特徴に注意して、「このような身體の作り方は、現代および將來の社會生活に對して理想的である」といつた。それは現代もそうであるが、將來ますます著しくなる傾向は、腰をかけて仕事をするよりも立つて仕事をするばあいが多くなることである。立つて仕事をするばあいに脚が長いと全身の動搖が著しいから、早く疲れるというのである。さらに考えるに、脚の短い方が活動するときに有利である。すなわち、歩くにも、走るにも、泳ぐにも、脚の短い方が、速くて、長つづきがするのである。  マラソンの金栗君や百メートルの吉岡君などは全身長は日本人の平均身長くらいしかないが、坐高は優れて長いのである。また、かつてベルリンのオリンピック大會で百メートル競泳に第一位になつた前畑さんが、第二位になつたドイツ婦人とならんで立つている寫眞では、まるで子供と大人のようであるが、腰をかけたときには前畑さんの方が高かつたのである。こういう事實を見ると前のポーテァス博士のことばの意味がはつきりわかるようにおもわれる。  私は前のクレイグ君との身體の比較から、坐高の生物學的意味を考えて、坐高こそ眞の身長であつて、いままで身長といつているのは、身長と高さの和であることに氣がついた。そして、身體の中で生理學的に重要な部分は坐高であるから、身體の良さを見るには、この坐高を測る必要があると考えた。  身體については、健康と働きの二つの方面を見るべきで、全身長の長短などは、あまり重要ではない。昔から偉人といわれる人々が、どんな身體をもつていたかは興味のあることである。西洋では、一方には、カール大帝、ダ・ヴィンチ、ビスマーク、ゲーテ、シルレル、ヘルムホルツのような長身偉人もあつたが、他方には、アレキサンダー大帝、ナポーレオン、フリードリッヒ大帝、ラファエル、バッハ、モッツァルト、ベトーヴェン、ヴォルテヤ、ユーゴー、スピノザ、ニュートン、ライプニッツ、カント、フィヒテ、ショーペンハウエル、シュライエルマッヘル、フォン・フンボルト、ランケ、モムゼンのような短身偉人もあつた。短身で偉大な働きをする偉人のあるのは、ポッペル氏のいうところによると、それらの人々は、脚が短かかつただけで胴は長かつたのであるとする。興味のある解釋である。  坐高が長いと、健康と直接に關係をもち、活力の一つの源泉であると考えられる肺臟の働きがすぐれている。肺臟の働きを知る方法として、肺活量の測定がある。吉田章信博士が東京で測つた結果では、肺活量(單位立方センチ)は、十七歳で、男子三、七四六、女子二、五七五であつた。私の得た結果も大體これと一致している。これに對して、シカゴでスメドレー博士の測定した結果は、男子三、四八三、女子二、三一九である。わずかながら、日本人の肺活量の方が大である。ところが、肺活量は體重と密接な關係があるから、體重に對する肺活量の比率(肺活量指數)について比較しなければならない。私が調査したところによると、九歳から十七歳までの肺活量指數の平均は、東京の男子六七・〇、女子五五・七、シカゴの男子六一・九、女子五二・一である。短身偉人の肺活量指數は大きかつたであろうと推定される。  乘馬の經驗のある人は、馬上から道行く人々をながめて、優越感をいだくことを思い出すであろう。それと同じように、たけの高いものは、自分より低いものを見さげがちであり、また低いものは高いものに對してひけめを感じがちのものである。これは歐米人が日本人に對する氣持ち、日本人がかれらに對する感じ方ではないであろうか。相手が何かで優れていると考えると、それらの人々の全體が優れていると考え、かれらの行動をまねたがるものである。しかも、それは、外面的なものから内面的な思想の方面にもおよぶのである。日本の若い人々が、日本人のほこりをすてて、歐米風をまねようとしている有樣は、まことに眉をひそめさせるものがある。これはけつきよく日本人の良い點を知らないためにほかならぬ。 [#地付き](文博、日本學術會議員) 底本:「文藝春秋」文藝春秋新社    1954(昭和29)年8月1日発行 ※新字と旧字の混在、拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。