逃げた大砲 吉田甲子太郎訳著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)革命《かくめい》が |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)共和|政府《せいふ》を [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ]1[#「1」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]1[#「1」は中見出し]  一七九三年といいますと、いまから六十年まえのことになります。ちょうど、有名なフランス革命《かくめい》がおこってから、五年めの年で、フランスの国内は、共和党《きょうわとう》と王党《おうとう》とのあらそいで、ごたごたしているさいちゅうでした。イギリスは、ほかのヨーロッパ諸国《しょこく》を連合《れんごう》して、フランスの王党をたすけて、共和|政府《せいふ》をたおそうとしていました。これはそのころのお話です。  クレイモア号《ごう》というイギリスの砲艦《ほうかん》が、ある夜、ひそかにイギリスの岸をはなれました。小さな木造帆船《もくぞうはんせん》で、ちょっと見たところでは商船としか見えないのですが、じつは軍艦《ぐんかん》だったのです。この船は、平和な商船のような顔をして、のんびり航海《こうかい》します。しかし、うっかりそれを信《しん》じこんだら、ひどいめにあいます。クイレモア号《ごう》は二つの目的《もくてき》をもっているのです。つまり、敵《てき》をだまかすことと、たたかうことです。うまくいけば敵を味方《みかた》のそばへおびきよせる。だが、必要《ひつよう》とあれば、いつでも砲門《ほうもん》をひらいてたたかいます。わけても今夜はある特別《とくべつ》な任務《にんむ》をもって活動《かつどう》してきたので、中甲板《ちゅうかんぱん》には、青銅《せいどう》の砲車《ほうしゃ》に乗った三十門の口径《こうけい》の大きい短砲《たんほう》をつみこんでいました。海のあれるばあいにそなえて、それらの大砲《たいほう》は、たがいによせ集めて、ひとつひとつしっかりとくさりでしばりつけてありました。もっとも、こうしておかないと、すっきりした商船らしいかっこうに見えないというしんぱいもあったのです。もとから、砲艦《ほうかん》というものは、全部の大砲を上甲板につんでいるものですが、クレイモア号だけは、外から見えるところへ武器《ぶき》はおかないことにしたのです。  クレイモア号はイギリスの軍艦《ぐんかん》にはちがいありませんが、こんどの乗組員《のりくみいん》はのこらずフランス人でした。フランスの王党《おうとう》の人たちをたすけるために、イギリスが、この軍艦をかしてやったのです。だから、乗っているのは、みんなフランスの王党員《おうとういん》で、りっぱな軍人《ぐんじん》、りっぱな水兵《すいへい》ばかりでした。艦長《かんちょう》はボアスベルツロ伯爵《はくしゃく》、副艦長《ふくかんちょう》は、フランス親衛隊《しんえいたい》のラ=ビューヴィル中尉《ちゅうい》です。 [#7字下げ]2[#「2」は中見出し]  クレイモア号《ごう》がなにか特別《とくべつ》の任務《にんむ》をもっているらしいということは、これまで見かけたことのないふしぎな人物が乗りこんできていることからも察《さっ》しがつきました。それは、きびしい目つきをした、背《せ》の高い、どうどうたるからだつきの老人《ろうじん》でした。船に乗りうつるとき、風でがいとうがひるがえって、ちらりと見えたのですが、その老人はまぎれもないフランスの百姓《ひゃくしょう》の服装《ふくそう》をしていました。そのくせ、船へ案内してきたジャージ州《しゅう》の知事《ちじ》は、この人を「将軍《しょうぐん》」とよんでいたし、見送りにきたツール=ド=ヴェルニュム公爵《こうしゃく》は、「いとこ」とよんでいたのです。知事や公爵を友だちにもっているこの百姓は、乗船《じょうせん》以来《いらい》、ほとんど口をききませんでした。ただときどき、艦長《かんちょう》にひくい声でほんの短いことばを話しかけるだけです。そんなときには、艦長は、いかにもうやうやしくうけたまわっているというようすでした。どうも艦長は、自分よりもこの老人のほうがえらい人なのだとかんがえているように見えました。  その「百姓」を、かれの船室、といってもじつはそれが艦長室だったのですが、とにかく、そこへ案内してきてから、ボアスベルツロ伯爵《はくしゃく》とラ=ビューヴィル中尉《ちゅうい》とは、暗い甲板《かんぱん》へひきかえしてきました。そして、そこをいったりきたりしながら、しばらく話をしていました。話は祖国《そこく》フランスのかなしむべき状態《じょうたい》だの、自分たちの王党《おうとう》によい指導者《しどうしゃ》がなくてこまることだのについてでありました。ふたりは声をおとして、きょう乗りこんできたあの老人《ろうじん》はいったいだれだろう、ひょっとしたら、あれが、自分たちの党《とう》の新しい指導者になる人ではなかろうかということなどを話しあいました。その話しかたから察《さっ》すると、艦長《かんちょう》にさえ、老人の身分はちゃんとわかっていないものと見えます。  そのときとつぜん、たまげるようなさけび声がとんできて、ふたりの会話をさえぎりました。と同時に、これまで聞いたことのないふしぎなとどろきが耳をうちました。艦長と中尉《ちゅうい》とは中甲板《ちゅうかんぱん》へかけおりようとしました。だが、おり口は、下からにげのぼってくる砲手《ほうしゅ》たちで、ふさがっていました。おりることはできません。 [#7字下げ]3[#「3」は中見出し]  おそろしいことがもちあがったのでした。つみこんであった大砲《たいほう》のうちの一|門《もん》のくさりがきれたのです。二十五ポンド(約十二キログラム)砲弾用《ほうだんよう》の短砲《たんほう》です。それが甲板をころがりだしたのです。  つなぎとめられているくさりをたちきった大砲は、いきなり生きている怪物《かいぶつ》になります。ずうたいの大きな青銅《せいどう》のかたまりは、砲車《ほうしゃ》の車輪《しゃりん》のころがるままに、ころがって歩きます。玉つき台の上の玉のようなはやさで、ころげまわります。船が横ゆれすれば横にころげ、たてゆれすればたてに走りだします。進むかと思うと、もどってきます。なにかかんがえこんでいるようにたちどまっているかと思うと、にわかに動きだして、まるで矢のような速力《そくりょく》で、船のはじまでガラガラッと、すっとんでいきます。輪《わ》をえがいて、ころげまわるかと思うと、まえぶれなしにあともどりします。ものをこわす。人をころす。手のつけようがありません。気のちがった、その青銅のかたまりにはヒョウの身がるさがあります。ゾウの重さがあります。ネズミのすばしっこさがあります。ロバのかしこさがあります。うちよせる大波の思いがけなさがあります。いなびかりのはやさがあります。墓石《はかいし》の無情《むじょう》さがあります。一万ポンドも目方《めかた》があるくせに、子どものボールのようにはねて歩くのです。どうしたらいいのでしょう。いったいどうしたら、これをとりおさえることができるというのでしょうか。  鉄の怪物《かいぶつ》が、木でつくった船のなかであれくるっているのです。すてておけば、船がこわれて、水がはいるようになり、やがて沈没《ちんぼつ》するのが目に見えています。しかし、いつ自分におどりかかってくるかしれない怪物のそばへは、だれだってちかよることはできません。たけりたった大砲《たいほう》は、右をうち左をうち、ますますいきおいづいて、甲板《かんぱん》じゅうを、あばれほうだいあばれまわっています。 [#7字下げ]4[#「4」は中見出し]  こんなえらいさわぎになったのは、いまあばれている大砲《たいほう》の砲手長《ほうしゅちょう》がわるかったのです。大砲のしばりかたに手落ちがあったのです。はげしい波が左げんをうったとき、きっちりとめてなかった大砲が、ずずっとうしろへずりさがりました。そして、そのひょうしに、ぷつっとくさりがきれてしまって、大砲は甲板《かんぱん》のまんなかにおどりだしたのでした。  そのときは、大砲の係《かかり》の兵士《へいし》たちは、みんな中甲板にいました。何人かかたまりあっているものもあれば、ばらばらになっているものもありましたが、それぞれに、いつ戦闘《せんとう》開始《かいし》の号令《ごうれい》がかかってもいいように、いろいろしたくをしているところだったのです。  にげた大砲は、船のたてゆれのいきおいにのって、ひとかたまりの兵士たちのなかへわってはいりました。そして、ただ一《いち》げきのもとに四人の兵をころしてしまいました。それから、うしろむきのまま、かけもどってくるとちゅう、船がぐうっと横にかたむくといっしょに左へそれて、そこにいた兵士をひとり、まっぷたつに、ひきころしました。あまるいきおいで、左げんにあったほかの大砲に衝突《しょうとつ》して、その砲身《ほうしん》を砲車《ほうしゃ》の上からたたきおとしてしまいました。  ボアスベルツロ艦長《かんちょう》とラ=ビューヴィル中尉《ちゅうい》とが上甲板《じょうかんぱん》で、たまげるようなさけびを聞いたのはこのときだったのです。生きのこったものははしごのところへかけ集まりました。あっというまに、中甲板には人かげひとつなくなっていました。  おそろしい大砲《たいほう》は、自由の身となったばかりでなく、船全体を支配《しはい》する身となったのです。船をどうしまつしようと、いまではその大砲の思うままです。全乗組員、いつでもわらってたたかいにおもむくことのできるその勇士《ゆうし》たちが、ふるえあがってしまったのです。  艦長も中尉も、ずいぶん勇敢《ゆうかん》な人たちではありましたが、はしごのてっぺんで動けなくなってしまいました。ふたりがだまりこんで、青い顔をして中甲板を見おろしていたとき、だれかが、ふたりをおしのけるようにして、はしごをおりていきました。それはれいのふしぎな百姓《ひゃくしょう》の老人《ろうじん》でした。老人ははしごのすぐ下にたちどまりました。 [#7字下げ]5[#「5」は中見出し]  大砲は、やっぱり、中甲板をあっちへころがり、こっちへころがりしていました。天井《てんじょう》からさがっている航海燈《こうかいとう》のなげかけるうす暗い光が、たえずゆれ動いて、ぶきみなかげをちらちらさせます。走りまわる大砲の形をはっきり目でとらえることはできません。それほど動きかたがはやいのです。船じゅうが、ころがりまわる大砲《たいほう》のとどろきでわきかえっています。  やがて、艦長《かんちょう》はわれにかえりました。水夫たちに命《めい》じて、しきものだのハンモックだの帆布《ほぬの》だのを、中甲板《ちゅうかんぱん》へむかってなげおろさせました。だが、それはいっこう役だちませんでした。だれかがおりていって、うまいぐあいにつみあげでもしないかぎり、またたくまに、ずたずたに、ひきちぎられてしまうばかりでした。  海のあれかたが、また、大砲のあばれるのにもってこいのところでした。いっそ大あれになってくれれば、そのほうがよかったかもしれないのです。そうなれば、大砲は、あおむけにひっくりかえされるかもしれません。四つの車輪《しゃりん》が空中へつきあげられた形になりさえすればしめたものです。だが、その四つの車輪は、まだゴウゴウたる音をたてて、甲板の上をまわっているのです。  被害《ひがい》は大きくなるばかりです。船尾《せんび》の帆柱《ほばしら》がくだけました。メイン・マストさえいためられました。砲列《ほうれつ》は、つぎつぎにこわされていきます。三十|門《もん》のうち、十門がもうだめになっていました。船べりのさけめもだんだん数が多くなって、船には水がはいりはじめました。  中甲板へおりていった老人《ろうじん》は石像《せきぞう》のようにじっと立っています。ただ、ゆだんなく、あたりへ目をくばっているばかりです。まったく、あぶなくって、一歩だってふみだせるものではありません。  このまま、難船《なんせん》するのを待つほかないのでしょうか。  大砲《たいほう》が船べりにぶつかる音に答えて、波がドドッと船腹《せんぷく》をたたきます。二つの大きなハンマーが、かわるがわる船をたたいているようなものです。 [#7字下げ]6[#「6」は中見出し]  とつぜんひとりの兵士《へいし》が、だれもちかづくことのできない舞台《ぶたい》へ、ひょいととびおりてきました。片手《かたて》に鉄の棒《ぼう》を一本もっています。それは、この騒動《そうどう》をひきおこした当の責任者《せきにんしゃ》、つまり、あばれているその大砲の砲手長《ほうしゅちょう》でした。かれは、自分の手落ちから生じたこの災難《さいなん》を、なんとかして自分の手ですくおうと決心したのです。そこで、片手に鉄棒、片手にわなをつくった綱《つな》をもって、けなげにも中甲板《ちゅうかんぱん》へおどりでたのでした。  きみょうな決闘《けっとう》がはじまりました。大砲と砲手、力とちえの決闘です。砲手は、悲壮《ひそう》な土気色《つちけいろ》の顔をして、まるで甲板に根をはやしたように、静《しず》かに立っていました。かれは大砲が自分の立っているそばを通りぬける機会《きかい》を待っているのでした。  砲手と大砲の関係は、いわばイヌとその飼《か》い主《ぬし》の関係のようなものです。砲手は自分の大砲にたいしてふかいしたしみと愛情《あいじょう》とをもっています。このきもちが自然にあらわれたのでしょう。かれは大砲《たいほう》に声をかけました。 「おい、ここへやってこい」  だが、もし大砲が主人のいいつけにしたがってじゃれかかったら、砲手《ほうしゅ》のからだは、ひとたまりもなく、くだけてしまうにちがいありません。  全員は、おそろしさに沈黙《ちんもく》して、まばたきもしないで目を見はっています。だれもかれもが息《いき》をつめているなかで、ゆったりと呼吸《こきゅう》しているように見えるのは、はしごの下のもとの場所に立ちつづけているれいの老人《ろうじん》だけでした。かれだって、いつ大砲におどりかかられるかしれない危険《きけん》にさらされているわけです。けれども、老人はへいぜんとしてその場を動こうとしません。  砲手が大砲に声をかけた瞬間《しゅんかん》、どうしたかげんか海がしずまって、大砲はひと息いれてなにかかんがえているように見えました。 「さあこい! どうした。」  砲手はまた声をかけました。大砲は、じっとそれを聞いています。と思うと大砲はいきなり、ガラガラッともうれつな音をたてて、砲手をめがけて突進《とっしん》しました。砲手は、あやうく身をかわしました。肉と鉄との前代未聞《ぜんだいみもん》のたたかいがはじまりました。ときによると、大砲《たいほう》はおどりあがって、そのかたいからだをひくい天井《てんじょう》にぶつけます。おちるひょうしに、トラが四本の足をつっぱるように、四つの車輪《しゃりん》で、がっちり甲板《かんぱん》の上につったちます。それから、新しいいきおいで、敵《てき》の胸《むな》もとへさっとうします。砲手は、しなやかなからだで、すばやく、ヘビのように身をくねらせてのがれます。砲手《ほうしゅ》は、いくたびか打撃《だげき》をのがれました。しかし、そのたびに船の破損《はそん》は、ますますひどくなっていくばかりです。 [#7字下げ]7[#「7」は中見出し]  人間と鉄のかたまりとの決闘《けっとう》は、はてしもなくつづきます。さすがの砲手も大砲もつかれてきたように見えました。大砲はとつぜん甲板のまんなかにたちどまりました。 「いつまで、こんなことをしているわけにはいかない。さあ、かたをつけようじゃないか。」と、砲手に話しかけているように見えて、人々はいよいよ最後《さいご》の時がちかづいたことを感じました。  大砲はゆだんを見すまして、いきなり砲手にとびつきました。だが砲手は、みごとに身をかわして、大きな声でわらいました。 「さあ、もういちど、きてみろ!」  大砲《たいほう》はいかりにまかせて、左《さ》げんにあった大砲を一つたたきつぶしました。そして右げんにのがれていた砲手《ほうしゅ》をめがけて、ガラガラッと突進《とっしん》しました。が、砲手はこんどもうまく身をかわしました。余勢《よせい》で、右げんにある三|門《もん》の大砲が、おしつぶされました。そうしておいて、にげた大砲は、なんと思ったか敵《てき》をすてて船尾《せんび》からへさきまで、甲板《かんぱん》を走りぬけました。このために、へさきのほうのはめ板が、メリメリと音をたててやぶれました。  砲手ははしごの下ちかくに身をさけていました。そこは、さいぜんから、いっさいのありさまをじっとながめている老人《ろうじん》から、ほんの数歩はなれた場所でした。砲手は鉄の棒《ぼう》をつえにして、ひと息《いき》いれていました。大砲はそのようすに気がついたにちがいありません。うしろむきのままふりおろすおののようなはやさで、砲手めがけてばく進《しん》してきました。砲手は身をすくめました。よけるひまがないのです。いまにもうしろのはめ板にたたきつけられて、ぐしゃりとつぶされるにそういない。見ている乗組員たちは、思わずさけび声をあげました。  ところが、そのときまで身動きひとつしないで見ていたあの老人が、風よりはやく、さっと動いたのです。かれは、そばにあった大きなふくろを――それは兵士《へいし》に配給《はいきゅう》するくだものをつめたものだったのですが――そのふくろをつかむと、ひきころされる危険《きけん》をおかして、それを、うまく砲車《ほうしゃ》の車輪《しゃりん》のあいだへなげこんだのです。ふくろは歯《は》どめの役にたちました。小石一つが大きな丸太《まるた》のころがるのをとめることもあります。木の枝《えだ》一つのために氷河《ひょうが》が方向をかえることもあります。大砲はガツンとつまずいて、ガタガタとゆれました。  砲手《ほうしゅ》は、この機会《きかい》をはずさず、うしろの車輪《しゃりん》の一つのや[#「や」に傍点]のあいだに鉄棒《てつぼう》をさしこみました。大砲《たいほう》はとらえられたのです。砲手は鉄棒をてこにして、砲車《ほうしゃ》をあおむけに、ひっくりかえしました。それから、ひたいからおちる汗《あせ》もぬぐわずに、大砲のまえへすっとんでいって、用意《ようい》の綱《つな》で、なげたおされた怪物《かいぶつ》を、きつくしばりあげました。 [#7字下げ]8[#「8」は中見出し]  すべてはおわりました。人間はついに鉄の怪物にうちかったのです。  砲手は老人《ろうじん》のまえに立って、うやうやしく敬礼《けいれい》をしました。 「ありがとうございました。あなたはわたくしのいのちの恩人《おんじん》です。」  しかし老人は、それにたいしてはなんのへんじもしませんでした。だまって上甲板《じょうかんぱん》へあがって、メイン・マストに背《せ》をもたせ、なにかふかいかんがえにしずんでいるようすでした。  乗組員たちは、あとのしまつでたいへんでした。ポンプで海水をくみだして、やぶれた船べりを修繕《しゅうぜん》しなければなりません。大砲を調《しら》べて、使えるのがいくつのこったか、艦長《かんちょう》に報告《ほうこく》しなければなりません。調査《ちょうさ》の結果《けっか》は、三十|門《もん》のうち役にたつのは、わずか九門にすぎませんでした。  やがて、応急《おうきゅう》の処置《しょち》がひとかたづきしたとき、ラ=ビューヴィル中尉《ちゅうい》は全員を上甲板《じょうかんぱん》に集めて、メイン・マストの左右に整列《せいれつ》させました。  艦長《かんちょう》ボアスベルツロ伯爵《はくしゃく》は、今夜の事件《じけん》の英雄《えいゆう》であるあの砲手長《ほうしゅちょう》をしたがえて、メイン・マストの下に立っている老人のまえへ進みました。 「これがさきほどの砲手長です。閣下《かっか》は、この兵士《へいし》の行動には勲章《くんしょう》をさずけられるだけのねうちがあると、おかんがえになられるでしょうか。」  砲手長は、つかれきって、服装《ふくそう》もみだれていましたが、きちんとした不動《ふどう》のしせいで立っていました。  老人は静《しず》かに答えます。 「あなたのいわれるとおりです。」 「それでは、あなたから勲章をさずけてやっていただきたいとぞんじます。」 「いや、それは、きみの仕事だ。きみは艦長なんだから。」 「しかし、閣下は将軍《しょうぐん》でおありになります。」  そのとき、はじめて、老人《ろうじん》の目は砲手長《ほうしゅちょう》を見ました。 「ここへきなさい。」  老人は艦長《かんちょう》の胸《むね》からサン・ルイ十字章《じゅうじしょう》をはずして、砲手長の上着《うわぎ》の胸にそれをつけました。水兵《すいへい》たちはかっさいし、海兵隊員《かいへいたいいん》たちは、銃《じゅう》をさしあげました。  それから、老人は、よろこびにふるえている砲手長を指さして、まえよりいっそう静《しず》かにいいました。 「さあ、この兵《へい》をつれていって、銃殺《じゅうさつ》するのだ。」  全員が自分の耳をうたがいました。しかし、その水をうったような静けさをやぶって、老人の声がひびきわたりました。 「わずかな不注意《ふちゅうい》のために、船は危険《きけん》にさらされたのである。しかも、その危険はまだ完全《かんぜん》にさったとはいえないのだ。海上にあるということは敵前《てきぜん》にあるということと、まったく同じである。航海《こうかい》ちゅうの船は、戦闘《せんとう》に従事《じゅうじ》している軍隊《ぐんたい》とちがわないのだ。敵前であやまちをおかすものは死刑《しけい》にしょすべきものだ。いかなる失敗《しっぱい》もとりかえしのつかない結果《けっか》をまねくからである。勇気《ゆうき》は表彰《ひょうしょう》されなければならない。そして怠慢《たいまん》は罰《ばっ》せられなければならないのである。」  ことばは荘重《そうちょう》をきわめました。一語一語が重いおの[#「おの」に傍点]のようにうちおろされました。  老人《ろうじん》は、整列した兵士《へいし》たちを見わたして、いいくわえました。 「さあ、いって、自分自分の任務《にんむ》につくがいい。」  十五分ののちに栄誉《えいよ》のサン・ルイ十字章《じゅうじしょう》を胸《むね》にかざった兵士は、二|列《れつ》にならんだ十二人の銃士《じゅうし》のあいだにはさまれて、船首《せんしゅ》へむかって歩きました。十字架《じゅうじか》をささげた牧師が、そのうしろから、静《しず》かに歩いていきます。まもなく、一糸《いっし》みだれない一斉射撃《いっせいしゃげき》の音が、濃《こ》くたれこめた夜霧《よぎり》をつんざいたのでした。 [#ここから1段階小さな文字] [#地から2字上げ] ――ヴィクトル=ユゴー作 長編『九十三年』(フランス)の一部より [#ここで字上げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 底本:「空に浮かぶ騎士」学研小学生文庫、学習研究社    1984(昭和59)年11月20日第9刷 ※底本は表題に「逃《に》げた大砲《たいほう》」とルビがふってあります。 ※底本は1956(昭和31)年新潮社が刊行した「空に浮かぶ騎士」を新たに学習研究社が刊行したものです。 ※本作品は吉田甲子太郎氏が「原作をそのまま翻訳せず、かなり自由な気持ちで日本文に書きあらためた」ものとされており、作者名として「吉田甲子太郎訳著」と書かれています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。