猫騒動異聞 菊池寛著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)恟々《きよう/\》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)自分|丈《だけ》で、 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 [#10字下げ]一[#「一」は中見出し] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)恟々《きよう/\》 /″\濁点付きのくの字点(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)つく/″\見てゐた ------------------------------------------------------- [#10字下げ]一[#「一」は中見出し]  国主の家に崇つてゐる怪猫が、国主が江戸から帰つて来る伴の行列に添つて、やつぱり国へ帰つて来たと云ふ噂で、佐賀一藩の人々は、恟々《きよう/\》としてゐた。  殿に従つて帰つた人々の口から、江戸藩邸でのいろ/\の怪異が語られ、それが江戸土産の一つになつた。  江戸家老から、お伴の人達に、お国へ行つてから、猫の噂は一切しないやうにと、注意があつたのであるが、差し止められると、却つて聞きたがり、話したがるのが、人心の常で、目黒の下屋敷で、殿がお花見の最中に、異形の怪物が、御尊体に飛びかヽらうとしたのを、藤四郎のお佩刀《はかせ》で、お斬り付けになつたとか、小堀半左衛門の老母を、いつの間にか猫が喰ひ殺して、その跡代りに、老母に化けてゐたとか、お国に帰つて以来、御愛妾のお豊の方に憑いてそのため、殿様が御病気になつてゐるとか、奇々怪々の噂が、一藩に知れ渡つてゐた。  かうなると、藩中の人々は、自宅の飼猫にまで、疑惑の眼を注ぐやうにしたり、永年飼はれて来た何の罪もない老猫が、田舎の百姓家に追ひやられたりした。  しかし、皆が猫に不信の眼を向けながら、祟りを怖れて殺さうとするものがなかつた。自然、敬遠主義を取り、それとなく猫を遠ざけ始めてゐた。仔猫が生れると、大抵遠くへ持つて行つて、捨てた。  その結果、野良猫が殖えて来て、佐賀の町々を彷徨する猫の数が、月々に殖えて行つた。  お徒歩頭《かちがしら》小野浅之丞の次男半之丞は、その頃十七であつた。色白の美少年で、学問好きで温和《おとな》しい性《たち》であつた。  彼は生来、猫が嫌ひであつた。  だから、怪猫の噂を苦々しく思ひ、母方の叔父に当る伊東惣太が、怪猫退治に肝胆を砕いてゐるのを、世にも頼もしく思つてゐた。が、そのくせ、それに協力するほど勇気もなければ、力も持つてゐなかつた。  半之丞が、最近殊に猫嫌ひになつたのは、お家に仇なす怪猫の噂も一つの原因だが、もう一つは、この頃二度も続けて飼つてゐる小鳥が、野良猫に盗まれたからでもある。  四十雀、駒鳥、まひわ、みそさヾい、目白などの小鳥を、二三年来飼つてゐたのであるが、先月の末よく鳴いてゐた小るり[#「るり」に傍点]を猫にやられた。  半之丞は、それが心魂に徹して、口惜しかつた。庭の若い楓の木の枝にかけてあつた籠を、猫が襲つて、籠が地に落ちて、上の籠と下の台とが離れ、鳥が驚いて飛ばうとするところを、飛びついて、横ぐはへにしたまヽ、隣屋敷へ逃げたのを、仲間《ちゅうげん》の五平が目撃したと云ふのである。  今年の三月にも、よく鳴いてゐた鶯をやられてゐる。それは、春の日を浴びせるために、庭の築山の上に置いたのをやられたのである。  その時は、籠がひつくり返つてゐるのが、後で見つかつた丈で、鳥自身は逃げ去つたのか、それとも喰はれてしまつたのか、ハッキリとは分らないが、しかし野良猫の仕業である事には、間違ひない。  小るり[#「るり」に傍点]を喰つた猫は、大きい三毛猫だと、五平が半之丞に教へてくれた。  半之丞は、今度、猫が小鳥にかヽつたら、半弓で射てやらうと決心した。もちろん、弓など彼は上手ではないのだが、仕止められないまでも、とにかく一矢放つてやらうと思つてゐた。  だから、弦をかけた半弓に矢を添へて、居間の壁に立てかけて置いた。  七月の蒸暑い一日であつた。半之丞は、五平に手伝はせて十に近い小鳥に、一つ/\水を浴びさせて、鳥籠も水で洗つて綺麗に掃除すると、それを乾かすために築山の小松の間に並べた。  小鳥達は、しきりに羽ばたきして、翼に附いてゐる水滴を振ひ落しながら、嬉々として飛び廻つてゐた。  初《はじめ》は、五平に猫の番をさせてゐたが、五平が父の用で使ひに出かけたので、半之丞自身縁先に出て、書見をしながら番をしてゐた。  読んでゐる本は、平家物語であつた。  最初は、時々鳥籠の方を見てゐたが、平家都落ちの所へ来ると、物語のあはれさが身に浸みて来て、鳥籠の方は、ついお留守になつてゐた。  と、急に鳥籠の中の小鳥達の烈しい羽音がきこえて来た。驚いて顔を上げると一匹の小猫が、築山の石燈籠の陰から、そつと一番手近な、駒鳥の籠を狙つてゐるではないか。しかも、それは三毛猫である。此の間、小るり[#「るり」に傍点]を喰つた三毛猫らしいのだ。  半之丞は、仇敵の姿を見たやうに、クワツとなつた。猫を驚かさないやうに、足音を忍んで、部屋の中に取つて返すと、壁に立てかけてある半弓を手に取ると、跣足のまヽで庭に降り、手水鉢の上に赤い花の咲いた枝を延ばしてゐる夾竹桃の樹陰に身をひそめながら、矢をつがへて、ぢつと引きしぼつた。勿論、どちらかと云へば文弱な半之丞には、猫を射て取るやうな自信はない。が、とにかく憎らしいのである。中《あた》らないまでも、一矢報いてやりたいのである。  猫は、鳥籠を急に襲ふ容子でもなく、自分の姿に驚き騒ぐ小動物の姿に好奇の眼を刮《みは》つてゐるやうな恰好を続けてゐる。それ丈《だけ》に、半之丞には狙ひ易い的だつた。  こんな時のために、もつと弓の稽古をするのであつた。半之丞は、そんな後悔を感じながら、充分に狙ひ定めて切つて放つた。  半之丞は、弓を習ひ始めて以来、こんなにも気持よく、矢を切つて放つたことがないやうな気がした。矢が弓を放れた瞬間に、ハツキリと手答らしいものを感じた。  それは、半之丞に取つても奇蹟であつた。矢は、小松の枝と枝との間を見事に縫つて、小鳥を見つめてゐた猫の胴腹をグサと突き通した。 「あつ!」  半之丞自身の方で、あまりの見事さに驚いて声を立てた。 「ギヤアツ!」  猫は押しつぶされたやうな悲鳴を揚げつヽのけざまに倒れたが、身にあまる大きな矢に、身もだえも充分出来ぬらしく芝生の上を一二尺這ふやうにしながら、 「ギヤオー、ギヤオー。」  と、断末魔の苦しげな呻きをもたらすと、バタリと動かなくなつてしまつた。  半之丞には、凡てが思ひがけない出来事であるやうな気がした。猫を狙うこと丈は、彼の意志であつたが、殺してしまふことはまるで、彼の意志とは関係のない偶然の出来事であるやうな気がした。  彼は、何か気抜けがしたやうに思つて、猫の死体を見に行くのさへ少し嫌だつた。  折よく、五平が帰つて来た。  五平には、半之丞の顔が少し蒼ざめて見えた。 「五平、到頭やつたぞ。」  半之丞の微笑は、元気がなかつた。 「何をです。」 「猫をたヾ一矢で。」 「ほヽう。それは、お手柄、何時です。」 「今やつたばかり。」 「何処で。」 「燈籠の所で。」 「どれ/\。」  五平は、小走りに築山の所へ走つてゐた。半之丞も、五平の後から続いた。  五平は、猫の死体に片足をかけて、呼吸があるかどうか試して見ながら、 「お見事ですな。失礼ですが、こんな手並とは知らなかつた。」 「はヽヽ。わしは、こんなに見事に当るとは意外だつた……。」  半之丞も、一寸得意になつたが、ドロ/\した血が、まだ湯気を立てながら、猫の横腹から芝生の上に、流れ出してゐるのを見ると、ゾツと悪寒を感じた。 「あまり、悪戯が過ぎるからだ。」  半之丞は、死んだ猫に宣告をするやうに呟いた。すると、猫をつく/″\見てゐた五平は、 「でも、これは此間小るり[#「るり」に傍点]を喰つた奴とは違ひますよ。」 「えつ!」  半之丞は、何か胸を衝かれたやうな気がした。 「何うして!」 「あれも、三毛ですが、あれは之《これ》よりも、ずーつと大きい、見るから、憎々しさうな奴ですよ。」 「うむ。」 「此の三毛も、時々お邸に現はれますが、これは何処かの飼猫と見えて、鳥籠になどはかヽりません。それとも、今日は鳥籠にかヽりましたか。」  さう云はれて見ると、今日だつて、物珍らしさうに、鳥籠を見つめてゐる丈だつた。  半之丞は、憂鬱になつてだまつてゐた。 「手前には罪が無くたつて、やつぱり野良猫の同類だから、捲き添《ぞへ》を喰ふのは当り前だ。さう思つて成仏しろ!」  五平は、引導を渡すやうにさう云ふと、血に汚れてゐない首筋の所を掴んで、吊しあげながら、 「何処へ埋めませうか。」  と、云つた。 「邸内へ埋めないで、外へ持つて行つて捨てヽくれ。」  半之丞は、出来る丈、遠くへ持つて行つて貰ひたかつた。 「畏りました。矢は、よく洗つて置きませう。」  さう云ひながら、矢を引き抜かうとしたが、なか/\抜けなかつたので、また死体を地上へ置くと、右足で猫の胴を踏んまへながら、矢を抜いた。矢を抜かれた傷痕から、もう黒ずんだ血が、芝生の上に筋を引いた。  半之丞は、それを見ると、吐きたくなるほど気持が悪くなつた。 [#10字下げ]二[#「二」は中見出し]  その夜、子《ね》の刻を過ぎる頃迄、半之丞は眠れなかつた。  先刻《さつき》から、昼間猫を射殺した築山のあたりに、猫の鳴き声がするやうで、それが気になつて寝られないのである。 宵の裡からもしてゐたやうだが、家の中が寝静まると、更にハツキリと聞えて来るやうなのである。  野良猫が多くなつたので、今迄もよく猫の声を聞いた。しかし、今夜のやうに、続けざまには聞えた事がない。だのに、今夜は絶え間なく鳴いてゐるやうなのである。しかも、ハツキリとは聞えないのである。宵から、風が出てゐるのだが、風が烈しく吹き過ぎる時などは、決して聞えないのだが、風が止むと、 「ニヤオー、ニヤオー。」  と、かすかに聞えて来るのである。半之丞は、いく度も寝返りを打つた。ハツキリ聞き定めようとすると聞えないが、一寸ボンヤリすると、すぐ聞えて来るのである。  猫を殺したことが、気にかヽつてゐるので、心の迷ひで、こんな声が聞えるのだらうか。半之丞は、一寸さう考へたが、何を馬鹿な! 武士の子が、たかヾ小猫一疋殺した位で、心に弱味が出来て何うすると、心を緊張させるのであるが、さう思つた瞬間は、聞えないのであるが、一寸心が緩むと、すぐ聞えて来るのである。  丑《うし》の刻近くなつても、半之丞は眠れなかつた。猫の声は、夜が更けるに従つて、いよ/\、しげ/\と聞えて来るのであつた。かうなれば、一層《いつそ》築山の所に猫が居るのか何うか、確めた方がいヽと思つて、雨戸を開けて見た。  宵は雲が多かつたのだが、先刻からの風に、みな吹き払はれたと見えて、皎々《かう/\》たる夏の月が、大空にかヽつてゐた。築山のあたりは、月の光で昼間同様にあざやかに、見えた。芝生の上に、動いてゐるものなどは、何にも居ない。やつぱり、心の迷《まよい》だつたのだ。猫などは何処にも居ないのだと思つて、再び寝床に入つたが、やヽ暫くの間は、何も聞えなかつた。が、少し睡気が萌したやうに思ひ、まどろみかけると、 「ニヤオー、ニヤオー。」  と、二声ばかり、ハツキリ聞えて来るではないか。やつぱり、聞える、さう思つて耳を澄ますと、やヽ低くではあるが、 「ニヤオー、ニヤオー。」  と、鳴きつヾけるのであつた。  半之丞は、自分自身が、情《なさけ》ない気がして来た。床の中に起き上り、きちんと坐つて心を落ち付けて見たが、暫くは何にも聞えないが、一寸気が緩むと又、かすかに猫の声が聞えて来るのである。  寅《とら》の刻が過ぎても、睡れなかつた。雨戸の入つてゐない丸窓の障子が、ほのかに白みかヽつた時に、とろ/\と半刻ばかり寝入つたと思ふが、半睡半醒の間にも、猫はしきりに鳴きつヾけた。  朝起きて食事の時、兄の壮之丞が訊いた。 「半之丞、顔色が悪いではないか。如何致した?」 「はつ! 昨夜寝られませんで……」 「書見が過ぎるからであらう。少し、道場へでもやつて来い。」 「はつ!」  兄の壮之丞は、半之丞とは八つも年が違つてゐて、武芸一方の若武士で、指南番矢田源次郎の道場の代稽古をしてゐる腕前である。  が、弟を愛してゐて、半之丞の文学好きな性格を、咎めたりしたことは、一度もなかつた。 「少し、稽古を始めて見い。毎晩、グツスリと寝られるぞ。」  さう云つたが、しかし強ひて、誘ひもしないで、朝食を済ませると自分|丈《だけ》で、サツサと家を出て行つた。  半之丞は、昨夜あんなに、猫が鳴きつヾけたのは、昨日殺した猫の死骸を、五平が邸内へ埋めた為ではないかと思つた。だから、朝食が済むと、庭を掃除してゐる五平の所へ行つて訊いた。 「五平、昨日の猫の死体は、何処へ捨てた?」 「佐嘉川へ捨てました。浮いて流れて行きました。」 「間違ひないか。」  五平は笑つて、 「何うして、そんな事をお訊きになるのですか。」  と、訊き返した。半之丞は、グツと詰まつたが、 「何故と云ふことはないが、……」  と口ごもりながら、 「矢は?」  と、訊いた。 「矢は、よく洗ひまして、お蔵にしまひました。」 「………………」  蔵は、築山とは、一番遠い邸の巽《たつみ》の方角にある。して見ると、猫の鳴き声は、昨日の猫の死骸とも、その血にまみれた矢とも関係がないのである。  やつぱり心の迷かなア、よつぽど俺は気を確かに持たなければ、……さう思つて居間に入り、本を読みかけたが、白昼にも、拘はらず何処かで猫の鳴き声が、時折するのである。  朝の裡よりも、午後になると、段々烈しくなつて、その鳴き声が、耳に附いて、本が読み続けられないのである。半之丞は、庭に降りて邸中を廻つて見た。しかし、何処にも、猫の姿はない。  築山の所へ行つて見ると、昨日猫の血が流れたところは、五平が水をかけて、洗つたと見え、少し芝草の下の土が湿つてゐるかと思はれる位である。  夕食を喰べる時、半之丞は、夜になるのが苦になつた。  猫の声が、薄暗くなる頃から、しきりに聞えて来た。亥《ゐ》の刻近くに、床に入つたが、床に入ると、いよ/\烈しくなつて来た。  しかも、昨夜よりは、もつと近い所で鳴くのだ。初は昨日、弓を射る足場にした夾竹桃の下あたりに聞えたが、夜の更くるに連れて、だん/\近くなり、手水鉢の傍《そば》あたりから、縁の下に入つたらしく、子《ね》の刻過ぎたころには、半之丞の寝てゐる、すぐ下の床下で鳴くのであつた。  半之丞は、到頭一睡も出来なかつた。  兄に顔を見られるのが、嫌だつたので、兄が家を出たのを、見計つて朝の食事をした。  その日、朝から猫が鳴いた。 「五平、この床下に猫がゐるらしいぞ。一度検べてくれ!」 「へい、猫が!」  五平が、若い主人の、変に険しくなつた眼を見上げながら、首を傾げた。 「きつと居る。直ぐ、入つて見てくれないか。」 「はい。」  五平は、箒で蜘蛛の巣を払ひながら、縁の下へ入つて、暫くの間モゴ/\やつてゐたが、顔を煤だらけにして、出てくると、 「何にも居りません。」  と、云つた。 「でも、先刻《さつき》から鳴き声がしてゐるのだが……」 「先刻はゐたかも知れません。しかし、今は居ません。」 「さうか。きつとか。」 「若様は、この頃、変に疑《うたぐり》ぶかくお成りになりましたな。そんな事を、嘘をついても、何にもならないぢやありませんか。」 「………………」  半之丞も、文句はなかつた。が、五平が箒を持つて歩き去ると、もう縁の下から、猫の鳴き声が、ハツキリと聞えて来た。 [#10字下げ]三[#「三」は中見出し]  その夜は、いよ/\烈しかつた。  最初は、床下で聞えてゐたのだが、だん/\上へ、せり上つて来て、床板の直ぐ下で鳴いてゐたのが、更に半之丞へ近づいて来て、到頭畳の下で鳴き続けた。おしまひには、畳も通りぬけて、半之丞の敷いてゐる蒲団の下で鳴いた。半之丞は、自分で起き上つて、布団を一間ばかり、横へ移して見た。が、場所が変つても、布団の下ですぐ鳴き始めた。日一日、声が高くなつて来て、今ではその鳴き声のために、外の事は何にも考へられなかつた。  夜が明けたが、半之丞は連日の不眠から来る疲労で、床を離れる事が出来なかつた。母が心配して、粥を炊いて運んでくれた。半之丞の憔悴した顔を見て、いろ/\母は訊いたが、半之丞は恥しいので、猫の声が聞えるとは話せなかつた。  その晩は、猫の声が布団を突き貫けて来て、半之丞の皮肉に喰ひ入つたかと思ふと、半之丞のお腹の中で鳴き出した。  半之丞は、夜中お腹の中から、猫の声を出さうとして、もがき苦しんだ。  夜が明けても、猫の声はお腹の中に止まつたまヽである。 「半之丞、何うしたのだ。かくさず、お前の悩みを話して見い!」  その朝、兄の壮之丞が、枕元に坐つて、額ごしに、半之丞の顔を、のぞき込んだ。 「見る影もなく、瘠せ衰へたではないか。如何なる悩みがあるのか、ハツキリ申して見い! 母上も、父上もいたく心配して居らるヽぞ。何事の悩みぢや、申して見い!」  力強い中にも、愛情の籠つた声が、凜々と半之丞の顔を打つた。  が、半之丞は、答へられなかつた。 「武士の子たるものが、訳の分らぬ悩みに、苛なまれると云ふことがあるか、云へ、云つて見い!」 「………………」  半之丞の、精せ細つた顔を涙が流れた。 「何事であらうとも、この兄は、悪しくは取り計はぬぞ、云つて見い!」  自分を劬《いたは》つてくれる慈悲が、半之丞に勇気を与へた。 「兄上、猫の声がきこえます。」 「え。猫の声!」  兄は、腑に落ちぬらしい顔をして、 「何時、何処で――」  と、訊いた。 「初《はじめ》は、遠くで時々聞えました。今では、絶えず、腹中でいたします。」  半之丞は、かすかに呟くやうに云つた。 「馬鹿! たはけた事を申せ!」  兄は、柔弱な弟を叱咤した。 「でも、聞えます。今でも鳴いて居ります。」  さう云ふと、床の中にうつむけになつた半之丞は、今年の春|角《つの》を入れたばかりの前髪を、揺るがして、さめ/″\泣いた。 「うむ……」  と、壮之丞は、弟の偽りならぬ告白に呻いたが直ぐ、 「その方、気が狂つたなア。」  と、云つた。 「いヽえ。気は、狂つて居りません。」 「では、腹中に猫などが、居る筈はないではないか。」 「私も、さう思ひます。でも、ハツキリと聞えるのです。」  半之丞は、床の上にやつと起き上つて、兄と対坐した。  兄は、いた/\しい弟の顔を、ぢつと見詰めてゐたが、 「その方、先頃猫を射殺したと云ふではないか。」 「はい。」 「それを心で咎めてゐるのか。」 「………………」 「小鳥を狙ふ野良猫など、何疋殺してもいヽではないか。」 「でも、その猫には罪がなかつたと思ひます。」 「何を申す。猫を殺すのに、罪の有無を論ずる必要などあるか、小心者め、そんな小猫に憑かれてゐるのか……」  さう云つたが、半之丞の痛々しい顔を見ると、それ以上咎める気はしなかつた。 「心気を一転する訳には行かないのか。」 「さう致したいと思ひましたが、駄目でした。」 「猫などが、人に憑く筈はないのだが、みな心の迷ひからだ。お城に怪猫が横行するなどと云ふ風評もいけないのだな、文弱のお前は、あんな噂に、心が怯《おびえ》てゐるから、小猫一疋を殺しただけで、猫の声などが聞えるのだ。馬鹿々々しい!」 「でも、お兄様本当に聞えるのです。今でも鳴いて居ります。」  壮之丞は、呆れたやうに半之丞を見つめてゐたが、 「半之丞、気を確かに持つて呉れ、之《これ》から伊東の叔父上に会つて、相談して、その猫の声を追払つてやらう。」  と、兄は立ち上つたが、部屋を出ようとして、すぐ引き返して来ると、 「猫の声が聞えるなどと、召使などにも話すな。そんな事が、外聞になると武士としての恥だぞ。」 「はい。」 「猫に憑かれたなどと云ふことになると、腹を切つても、雪《そヽ》げない恥だぞ。」 「でも、兄上、私は苦しくつて、自分で腹を切つて死にたい位です。」 「馬鹿を申せ、そんな事をすれば、犬死にも劣る……ふヽむ、猫死だぞ。」  壮之丞は、自分でも予期しなかつた、駄洒落を云ひ捨てると、弟の部屋をサツサと引き上げてしまつた。  夜の四つ頃に、兄に連れられて、叔父の伊東惣太が急にやつて来た。惣太は、親類中でも、その武芸と勇気とで、皆から畏敬されてゐた。半之丞も、この叔父を、心から尊敬し、かつ怖れてゐた。  兄と並んで枕元に坐られると、半之丞は、何か頼もしいやうな、怖いやうな気がした。半之丞は、兄に助けられてやつと起《おき》ると、叔父と向ひ合つて坐つた。 「貴様は、見下げ果てた奴だなア。」  惣太は、厳然と云つた。 「………………」  半之丞は、だまつて首垂《うなだ》れた。 「今、貴様の父とも母とも話した。武士の子として、猫に憑かれるやうな奴は、みんな思ひ切ると云つてゐる。わしも、茲《こヽ》に居る兄も、同意見ぢや。貴様は、父母や兄からも見放されたのぢや、腹を切る外はあるまい。」 「はつ!」  半之丞は、思はず頭を下げた。 「腹は尋常に切れるか。」 「切れると思ひます。」 「さうか、まだ腹を切ること丈は知つてゐるか、それ丈は感心ぢや。叔父が賞めてやる。では、支度をするがよい。」 「はつ!」 「介錯は、叔父がしてやる。」 「はつ!」  兄と叔父とは、既に示し合はせてあつたと見え、兄が一度部屋から出て行くと、白い麻上下《あさがみしも》と、三方に乗せた小刀を持つて、入つて来た。  兄は、口をつぐんだまヽ、一言も云はなかつた。 「末期の思出に、父母にも会ひたいだらうが、父も母も、貴様に愛想をつかして、そんな奴の死にざまなど、見たくないと云つてゐる。仕方がないと諦めて、死ね。たヾ、潔く腹を切ることを、せめてもの孝養と思へ!」 「………………」  半之丞は、母に丈《だけ》一眼会ひたい気がしたが、それでは却つて、死に損ふやうな気がした。一刻も早く、腹を切つて連夜の苦しみから逃れたかつた。 「床の上で切れ!」  半之丞が、麻上下に着替るのを待つと、伊東惣太は、秘蔵の三池典太の寸延びした大刀を、抜き放つた。  半之丞は、ふるへる手で、短刀を取り上げると、腹にあてがつた。 「待て!」  叔父が声をかけた。 「貴様は、腹中で猫の声がすると云ふんだな。」 「はい。」 「その為に、腹を切る始末となつたのだな。」 「はい。」 「それならば、腹を切るときは、その猫の声を聞き定め、その猫の声のする所へ匕首を通せ、貴様の仇をなすその猫を刺すつもりで……」 「はい。」  半之丞は、死生一瞬の際《きは》に立つて、ぢつと短刀を握りしめながら、腹中の猫の声を聞かうとした。  所が、連日連夜、自分をあんなにも悩ましつヾけた猫の声が、ピタリと絶えてしまつて、澄み切つた心耳には、何にも聞えないのだ。  頭上に、白刃が懸り、自分の手にも、小刀を持ち、死を覚悟して聞くと、何にも聞えないのだ。 「半之丞、何うした。何故、突き立てぬのだ!」 「はつ、只今。」  ニヤオーとでも、一声聞えたらと、半之丞は、油断なく腹中の声に、耳を傾けたが、聞えなかつた。 「何うした半之丞! 猫の声はしないのか。」 「はあ、先刻《さき》ほどまでは、あんなに鳴いて居りましたのに…」  半之丞も不思議でならなかつた。  又、暫らく時が流れた。  叔父が又叫んだ。 「かう、刀を振り上げてゐると、手が疲れる。半之丞、まだか。」 「まだでございます。」  また暫く経つた。 「まだ聞えぬか。」  叔父が訊いた。 「一向!」  叔父は、から/\と笑ひ出した。 「猫の声が聞えないのならば、死ぬには及ばないではないか。」 「………………」  半之丞は、迷夢から醒めたやうだつた。 「それでも死にたいか。」 「いヽえ。」 「それなら、切腹をよせ、いヽか、武士は死を覚悟して居れ。一死を覚悟してゐれば、あらゆる迷《まよひ》はないのぢや。いいか、これからも猫の声がしたら、すぐ腹へ匕首を、突き立てるつもりで居れ。俺《わし》が、何時でも来て介錯してやるから、はヽヽヽ。」  惣太は、快活に笑ふと、半之丞の部屋から出て行つた。  それ以来、腹の中の猫の声は、ピタリと聞えなくなつた。畳の下でも、床の下でも、築山のあたりでも。  三日目に、猫の声がしたので、(おやつ!)と、庭へ出て見ると、それは板塀の上を伝つてゐる本物の猫が、鳴いたのであつた。  半之丞の健康は、日にまし恢復した。 [#10字下げ]四[#「四」は中見出し]  伊東惣太が、小堀半左衛門と協力して、殿の御愛妾お豊の方に化けた、怪猫を退治たのは、その年の暮だつた。  が、惣太は、その手柄話などは、誰にもしなかつた。何か、その話をすることを好まなかつたらしい。惣太には子がなかつたので、半之丞が養はれて、嗣子になつてゐた。  鍋島の猫騒動が終つてから、十年位経つてゐた。  惣太はもう隠居して、半之丞が代りに城中へ出仕してゐた。  ある日、半之丞は、養父の機嫌のいヽ時を見計らつて訊いた。 「城中などで、人からよくお父様の手柄話を話してくれと云つて、訊かれるのですが、あの猫騒動の真相は何うなんですか。」  惣太は、笑ひながら、 「怪猫などゐるものか、つまり、お前のいつかの腹中の猫の声と同じだよ。御先代が、主筋に当る龍造寺家の血筋を手打にされたので、それをお気に病まれたのだよ。」と、さりげなく云つた。 「でもお父様は、お豊と云ふ御愛妾に化けた怪猫を退治たではありませんか。」 「いや、ありや人間だよ。だが、さうした弱気のお殿様につけ入つて怪猫以上の悪事をやつたのだ。だから、我々で片づけてしまつたのだ。いくら悪人でも、御愛妾だからなア、むやみには斬れないではないか。だから、怪猫と云ふことにして、斬つてしまつたのだ。この事は、国老|諫早《いさはや》備前様からの御内命もあるのだ。だが、こんな事は、人には云ふな。やはり、怪猫にして置かなくちや! はヽヽヽヽヽ。」  やヽその当時から肉の落ちた右の腕をさすりながら、植木に水をやるべく、庭へ降り立つた。 底本:「猫の文学館U この世界の境界を越える猫」ちくま文庫、筑摩書房    2017(平成29年)年6月10日 第1刷発行 底本の親本:「菊池寛全集 第四巻」高松市菊池寛記念館    1994(平成6)年 初出:「富士」    1936(昭和11)年10月 ※底本は新字旧仮名づかいです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。