猫 尾崎士郎著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)宿酔《ふつかよ》い [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#4字下げ]1.[#「1.」は縦中横][#「1.」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#4字下げ]1.[#「1.」は縦中横][#「1.」は中見出し]  三月も末に近い、――春とはいってもまだ何処かに薄ら冷さの残っている晩だった。若いジャーナリストの新城庄吉は、その晩も同僚に誘われて銀座で一杯やり、好い気になって郊外の我が家へ帰ってくると、時刻はもう十一時すぎていたが若い細君の由利子が、お帰りなさいと言って顔をあげた。まだそれほど遅いという時間でもないし、酒の上では数々の失敗を重ねている新城庄吉であったが、今夜だけは亭主の威厳を保ってのっそり入ってきたのである。 「どうも酒がすっかりひどくなっちゃって閉口だよ、――飲めば飲むほど酔いがさめてくるんだからな、一升飲んだって二升飲んだって水を飲んだと同じことだよ、どうも大変な時世になってしまったもんだな、少しいい酒だときまって水っぽいし、こいつは利いたなと思うと二、三杯飲んだだけで直ぐ宿酔《ふつかよ》いをしてしまう酒さ、この調子でいったらどうなるかと思うよ」  半ば言訳のつもりで酒に現われた世相を口から出まかせに弁じたてていると、若い女房は長火鉢の前にしょんぼりと坐ったまま、 「だから、家でお飲みになればいいのに」 「そりゃ、結局それに限るがね」  と妥協的な合槌をうったとき彼の目にふと妙なものが映った。若い女房は彼の話に合槌をうちながらしきりに膝の上で針をうごかしているのである、その膝の上には白い木綿の布で一種奇妙な恰好のものが出来上りかけているのであるが、しかし一見しただけでは何だかまるで見当がつかなかった。きょとんとして女房の手の動きを見つめていると、彼女は悲しそうに目をしばだたきながら、 「あなた――今夜もいないのよ」  息詰るような声だった。 「何がさ?」 「何がって、――ハル子よ」。 「ハル子がどうかしたのかい?」 「やっぱり年頃になるとあんな気持になるものかしら、――今夜はよっぽどあいつを警戒していたつもりなんだけれど」 「あいつって、誰だい?」 「ほら、いつか話したことがあるじゃないの、薄汚い見るからに厭な気持のするやつよ、わたしがこんなに心配しているのをハル子が少しでも察してくれたらと思うんだけど」 「何だ、そりゃあお前があまり可愛がりすぎるからいけないんだよ」  思わすこみ上げてくる笑いをぐっとこらえながら新城君が神妙らしく合槌をうった。 「ハル子はハル子でいいんだけれど、だって、わたしがここにいることを知っているくせに夜になるときまって屋根づたいにやってくるのよ、それがハル子にも判るらしいのね、今夜なんか、――」  言いかけて、そっと溜息をついた。その晩ハル子は彼女の膝の上でぐっすり眠っていたのであるが、微かに物干台の上の方から雄猫の鳴声が聞えてきた。すると、今まで正体もなく眠っていたハル子が不意に目を醒ましたと思うと両脚を前に伸し、まるで物にでも憑かれたように若い女房の膝を跳び下りて閉めきってある障子紙をつきやぶり、弾みのついた独楽《こま》のように屋根の上へ飛び出していってしまったのである。あの薄汚い黒猫にどうしてこんな魅力があるのかと考えるだけでも不思議であった。 「あいつはきっと不良にちがいないわ、――放ったらかしておいたら、今にハル子はどんなになるか。わたし考えただけでじっとしていられないわ」 「しかし、そう言ったものでもないよ、ハル子の身になればまた別の考えがあるのかも知れないからな、猫のことは猫同志にまかせておく方がいいよ」 「あなた平気でそんなことを仰有るの、無責任な方ねえ、――そりゃわたしだって相手が立派で見どころのある男だったら二人一緒にして家へ置いてやってもいいと思うんだけれど、何しろあれじゃね」  断っておくがハル子というのは猫の名前である。ああそれにしても憎むべきは一匹の黒猫であった。若い女房はその黒猫の姿を見ると鳥打帽《とりうちぼう》をかぶりロイド眼鏡をかけて、あっちこっちの盛り場をうろついている不良少年を想像せずにはいられなかった。この黒猫が良家の子女を誘惑することにかけてはいかに天才的な手腕をもっていたかということについては、くどくどしく説明する必要もあるまい。あの大人しく柔順なハル子が、細君の叫び声なぞには見向きもしないで飛びだして行くというのも並大抵のことではないであろう。彼女はハル子を黒猫の誘惑から守るためにハル子の大好物である鰯の目ざし、鰹節を用意していたのであるが、一度黒猫の鳴声が聞えるとどんな大好物もハル子の眼から消え去ってしまうものらしい。 「あいつが来るともう駄目よ」  若い女房の目にはもう涙さえうかんでいるのである。新城庄吉は所在なさそうに煙草をふかしながら、 「しかしハル子もハル子だが、お前もお前だよ、何しろ相手は猫なんだからね」 「それが厭なのよ、猫だって人間だって結局同じことじゃないの」  女房の顔色が急に変ってきたので、新城君は話を横へそらすために彼女が膝の上でしきりに針をうごかしている白い木綿の布を覗きこんだ。 「それはそれとしてお前の縫っているのは一体何だい?」 「これ?」  と言いながら若い細君が膝の上の妙な恰好のものをつまみ上げた。「何だか判らない?」  新城君はそっと片手でつまみ上げてみた。 「さて判らないな、――靴下でもない袋でもないし、赤ん坊の股引のような気もするが、家に赤ん坊はいないんだから、この横についている紐は何だい」 「だからよ」 「だから何だい?」 「ハル子よ」 「ハル子?」 「ええ、ハル子の」 「ハル子の何だい?」 「じれったいわね」  若い女房は急に泣き笑いのような表情をうかべたと思うと、 「貞操帯なのよ」  と、きっぱり言ってのけた。 「へえ?」  新城君はどぎまぎしながら呆然としてしまった。貞操帯という言葉からくる一種奇妙な情感が新城君の頭に別の幻想を湧き立たせたのである。 「そいつは君、駄目だよ」 「駄目と仰有るのは?」 「だからさ」  と新城君はてれくさい気持をぐっと押えて、ぼうっと上気している女房の顔を眺めた。 「君の気持はわかるがね、しかし問題はハル子にこの変てこなものが果して貞操帯であるかどうかということを認識する能力があるかという問題なんだよ」 「それはハル子には判らないかも知れないわ、だけどこうやっておきさえすれば無意識のうちにあの子が身を守ることになるじゃないの」 「なるほどね」  と、新城君が皮肉そうな微笑をうかべた。 「ハル子の話は別としてもだね、――一体この世の中で貞操帯というものが役に立ったためしがあるかね」 「何を仰有るの?」  針をうごかしている細君の指先が微かに顫えてきたのである。 「十字軍の勇士の妻は貞操帯に依って夫の愛情を認識したと思うわ」 「大変なことになったな、ハル子にそんなことを言ったって判る筈はないじゃないか、十字軍は十字軍で、猫は猫だからな」 「だけど、あなたはこの世の中で貞操帯という物が役にたったためしはないと仰言ったじゃないの」  問題はいつの間にか猫から人間に変ってきたのである。若い女房の目は見る見るうちに嶮《けわ》しくつり上った。「あなたの御意見によると十字軍の妻の貞操帯も無意味だったということになるのね?」 「よせよ、おれは十字軍の話をしているんじゃないよ、猫なんだぜ――そりゃ君、十字軍の勇士だって本当に女房を信じきっている男にとっては貞操帯の必要なんかなかったにちがいないよ、もし女房を信じきれないやつがあったとしたら貞操帯を百つくったって千つくったって結局無駄なことになるじゃないか」  こうなるともうハル子の話よりも夫婦の愛情の問題の方が重大になってきた。若い細君は何処かの酒場で女の肩にしなだれかかっている夫の姿をありありと目にうかべたのである。―― [#4字下げ]2.[#「2.」は縦中横][#「2.」は中見出し]  それはそれとしてハル子はその晩いつまで待っても帰って来なかった。たとえ黒猫に誘惑されて出ていった時でも夜が更けるといつもしおれかえったようにすごすごと帰ってくるハル子が今夜にかぎって影も形も見せないのである。若い女房はもう気が気ではなかった。両側に並んでいる文化住宅の、いつもはろくろく挨拶もしたことのない隣近所の家の台所口から、 「ちょっとお伺いいたしますが」  と丁寧に頭を下げて入っていった。「あの、家のハル子を御存じないでしょうか?」 「さあ?」  問いかけられた他所の家の奥さんの方が狼狽してしまった。 「あの、どなたさまで御座いましょうか、こちらにはお見えになっていないようで御座いますが」  ハル子というからには、いずれ娘か妹にちがいないが、近所付合いをしていないので見当のつけようもないのである。 「虎毛の、――こう背中のところに白い斑点があるんで御座いますの」 「何ですって、――虎毛の?」 「ええ、とても可愛い猫なんですの」  猫だと聞くとみんながっかりしたように眉をひそめた。しかし若い細君の猫によせる愛情はそんなことで挫けるわけもなかった。彼女は手懸り、――というよりも足懸りのある場所を残らず捜してみたが、ハル子のいそうな場所は何処にも見出すことが出来なかった。ただ多少の暗示を得たのは停車場から一直線につづいている街の出はずれにある荒物屋のお婆さんの言葉だけだったが、その老婆の意見によると、確に成る朝、虎毛の猫と黒猫とが睦じそうにじゃれ合いながら葱畑《ねぎ》の中の細い道を、そこから余り遠くない高原地帯の方へ歩いていったというのである。 「たしかでしょうね。それは?」  と、若い細君は何度となく念を押して聴きかえした。しかし聴きかえすにつれて老婆の言葉はだんだん不安定になってくる。大体このあたり一帯は急速に開けた新開地で、若い男女のランデヴウの場所とされている。霧のふかい日曜の朝などは何処から集ってくるのか、五組や十組の若い男女があちらの森かげ、こちらの谷間から、と言ったように思いがけない所からバッタのように飛び出すことも稀ではないのである。それに荒物屋のお婆さんとくると年はもう七十に近く、視力はまだたしかであると言っても、彼女の見たのは果して猫であるか、それとも人間であるか、にわかに決めつけることの出来ないものがある。しかし若い女房は荒物屋の老婆に幾干かの金をやり、もしハル子らしい猫の姿を見たら早速報告してくれるように頼んで帰ってきた。すると二、三日経って、もう夕方であったがその老婆が新しい報告をもってやって来た。その日は朝から降りつづけていた雨が午後になって晴れたので、郊外の新緑は一きわ鮮やかな色彩を見せていたのである。 「たしかにそうだと思うんですがね、――泥だらけになって街の方へ歩いてゆきましたよ」 「まあ、――泥だらけになって?」 「やっぱり背中に白い斑点があったんですよ、はっと思って出てみたときにはもう何処へいったか判らなくなっているんですの、でも虎毛の猫だけで黒猫の方は見かけないようでしたが」 「ああやっぱり」  と、若い細君はおろおろ声になって思わず胸を押えた。 「こんなことになるんじゃないかと思ったのよ、じゃ黒猫に捨てられてしまったのね」 「さあ、どうですか、――何だかところどころ毛が抜けたようになって」  その日、雨のせいもあったとは言いながら、見るかげもない猫の姿は老婆の目にも哀れに映ったらしい。 「だけど御心配なさいますなよ、猫というものはきっと飼主の家へ帰ってくるそうですから」  悲嘆にくれている新城夫人の顔を見ると、老婆はいかにも呆れかえったという風に、「可愛い猫で」とか何とか出まかせのお世辞をならべて帰っていった。そのまま長火鉢の前へぐったりと崩れるように坐った彼女の目に、もうすっかり出来上っている貞操帯が、在りし日のハル子の姿を想い出させたことは言うまでもない。その晩、例によって一杯機嫌で帰って来た新城君の顔を見ると、彼女はげっそりしたような顔で話しかけた。 「あなた、ハル子はやっぱり黒猫の食い物にされてしまったのよ、今頃はきっと何処かでひどい苦労をしているにちがいないわね」 「まだ猫のことを言っているのかい、――そのうちにひょっこり何処かから帰ってくるよ」 「いいえ、あの子は」  と言いながら若い細君は目に涙を一杯ためながら夫の顔を見上げた。 「帰っては来ませんよ、あの子に限って、――あんな身体になってどうして帰るものですか」 「あんな身体って、まさか黒猫が女を売りとばすという法もないし」 「いや判りませんよ、あいつは質が悪いですからね」  それから数日経って、細君は床の中で不意に眼を醒した。夢とも現ともつかず猫の鳴声が聞えてきたからである。黒猫との恋愛の結末がどうあろうにもせよ、若い細君はもうじっとしていられなかった。 「ああハル子よ」  と言いながら彼女は勢よく立上った。もうそろそろ夜明け方にちかい。新城庄吉はぐっすり眠っているところを激しく揺り起された。 「ねえ、あなた、起きてくださいな、たしかにハル子の声が聞えたのよ」  その声は玄関の方から聞えてきたような気もするし物干台の方から聞えてきたような気もする。彼女はそっと玄関の戸を開けてみたが、春の外気の生暖い中にみずみずしい若葉の風にそよぐのが目に映っただけだった。 「ねえ、あなた、どうかしてくださいな」 「どうかしろって、――お前が何か夢でもみたんだよ、ハル子だったら黙って帰ってくるじゃないか」 「わたし、きっと家の前まで来たと思うのよ、それがやっぱりあんな姿じゃ入れないもんだから、そのまますっと隠れてしまったのね、わたしまたきっとあの子には黒猫がついているにちがいないと思うわ、黒猫の目をぬすんで折角来てくれたものを」 「おい、もうよせよ」  新城君は生欠伸《なまあくび》を噛みころした。 「だって、あの子の身になって御覧なさいな、きっと敷居《しきい》が高くって入れなかったのよ」 「まだ言ってやがる」  と新城君はいまいましそうに唇をなめまわした。敷居の高いのはおれの方だ、と言いたい気持をぐっと抑えて、 「相手は猫だせ、屋根が高くて入れないというなら判るが、猫が玄関から格子戸《こうしど》を開けて、只今、――と言って入って来るかい」  しかし何と言ったところで細君の頭の中はハル子のことで一杯なのである。 「本当にこんなことになるんだったら、あの黒猫と一緒にしてやればよかった」 「時既に遅しさ、黒猫の方で御免を蒙るよ」 「ああじれったい」  若い細君は枕に顔を伏せてしくしくと泣きだしたのである。今となっては既に返らぬこととはいいながら、希うところは彼女が無事に生きていてくれるということだけである。涙にうるむ彼女の目に茶箪笥の上に置いてある貞操帯がいかに悲しく哀れに映ったであろうか。  新城庄吉はいずれの日にか彼女がもっと大きい貞操帯を自分のためにつくらねばならないような日のくることをぼんやり考えていた。男というものはまことに仕方のないものである。  果してそれから数年の後、我が新城庄吉は思いがけない女と恋愛をして、夜ごとに家をあけねばならない仕末になった。ああ明日のことを誰が知ろう。これは今日の物語である。もし一日早く彼女がハル子のために貞操帯をつくっていたら未然に黒猫の誘惑を防ぐことが出来たと考えられるように、彼女が夫の貞操帯をつくることによって家庭の平和を完うすることが出来るという考え方は確に一応の理屈を備えているにしても、しかし果して新城庄吉がその貞操帯によって身を完うすることが出来るかどうか、甚だ疑問である。  猫の問題から転化して人間の問題にうつると、新城夫人が、「無事に生きていてくれればいいがと思うんだけれど、もしも悪い了簡でも起したら」という詠嘆によって事を処理することが出来るかどうか、後日の問題に譲るべきが至当であると考えるが、茲に多少の老婆心《ろうばしん》を加えるならば、黒猫ではない、今度は虎毛の雌猫に現つを抜かした新城君のために、希わくば我が家の敷居の高からざらんことを! 底本:「猫の文学館T 世界は今、猫のものになる」ちくま文庫、筑摩書房    2017(平成29年)年6月10日 第1刷発行 底本の親本:「尾崎士郎全集 第五巻」講談社    1966(昭和41年) 初出:「オール讀物」    1942(昭和17)年2月 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。