猫 窪田空穂著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)毘沙門《びしやもん》 -------------------------------------------------------  夏、毘沙門《びしやもん》の縁日の宵、郷里から出て来た甥を連れて、散歩ながら見物にと出懸けた。  暗碧の夜空の下《もと》、美しく見える燈火《ともしび》の、限りなく点しつらねられた通り、其所に集つて来て、押合はんばかりにする都風の若い男女、そして其中には、色濃く、香高い草花を売る露店が、列を作つて並んでゐる。――都会の美しさは、夏の夜に於て初めて発揮されると思つた。  自分達は坂の下口、路幅の狭く、第一に雑沓してゐる所へと行くともなく行つた。袖と袖とは縺れ合つて、足も踏まうとする。側へ避けようとして、其れも出来ずに佇んで居た……。  と脚下《あしもと》に、一かたまりの白い物が、地から湧出たやうに現れた。其物は、暗く、灯影の達《とど》かない地の上を、さながら影の動くがやう、脚と脚との間を縫つて動く。眼を凝すと子猫! 生れて、程も無いと思はれる、雪のやうな毛をした、愛らしい猫であつた。  自分達は思はず声を立てた。かういふ所にかういふ物を見るのが案外であつた。同時に、誰か踏みはしないかと不安の思が起つた、そして唯はらはらとするばかり、不思議に手が出せない……。 「あら!」と驚いたやうな、優しい声立てて、横合ひの雑沓の中から、一人の娘が駆け出した。白地の浴衣《ゆかた》に紅ゐの帯、しなやかな姿と、くつきりと白い顔色だけが、ほの暗い中に浮び出たやうに見える。  娘は倒れるやうにして、其子猫を逐つた。身を起した時には、失した物を拾つたやう、さも大事さうに両手でつと胸の所へ抱きかかへ、顔と顔と触れるやうにしてゐる。  ぼんやりと其所に佇んでゐたが、心付いたやう、慌てて以前《もと》の方へ引返した。姿は又雑沓の中に紛れた。  自分と甥とは、思はず微笑した。――或思が微かに胸に湧いて来て、そして何と言ふべきものか、言葉にするのを知らなかつたのである。 底本:「猫の文学館T 世界は今、猫のものになる」ちくま文庫、筑摩書房    2017(平成29年)年6月10日 第1刷発行 底本の親本:「窪田空穂全集 第五巻」角川書店    1966(昭和41年) 初出:「東洋婦人画報」    1908(明治41)年6月 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。