謎の犯人 リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)上ベッドフォード街《まち》に |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)多分|紅玉石《ルビー》を [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#2字下げ]「―el 3OZ., 5 dwts    ―eep 9 1/2 OZ.,」 -------------------------------------------------------  上ベッドフォード街《まち》にさしかかった時、ソーンダイクが言った。 「ジャーヴィス君、ここは妙な所じゃないか。何だか世界中の渡り鳥、ことに東洋の渡り鳥が巣喰っている仮の宿とでも言いたい所だね」 「そうとも。このプルームスベリーには、アフリカ人や日本人や印度人が沢山住んでいる。中でも印度人が一番多いのだ」  すると、私のこの言葉を事実に裏書するように、歩道に沿うた向うの家から突然皮膚の浅黒い男が飛び出して来て、不安げにきょときょとと、家の扉《と》ごとに眼を配りながら急いでこちらへやって来る。狼狽した彼の様子を見て取ったソーンダイクは、「あの人は何か困っているらしいな」と呟いた。  彼は私たちを認めると直ぐ駆け寄って来て、心配らしく、 「ちょいとお伺い致しますが、この辺に医者の家はないでしょうか?」と訊ねた。 「じつは私も私のつれも医者なんですが」とソーンダイクが答えた。  するとその男はソーンダイクの袖を握って、 「じゃ大急ぎですぐ来て下さい。大変な事があるのですから」と急《せ》きたてた。  二人は彼の後に従った。彼は歩きながらも昂奮した口吻《くちぶり》で、 「思いもかけない怖ろしい事が起ったのです、怖ろしいことが――」 「どうしたんです? 一体」とソーンダイクが訊ねる。 「私の従兄のディナナス・ビラムジが、苗字は私と同じですが――今部屋へ入ってみると床の上に倒れて」――ここで彼はちょっと口を切って頬を脹らませながら、低い声で息を吹き出して見せ――「こんなに息を吹いて天井を睨んでいるのです。私は吃驚《びっくり》して手を握ってみましたが、もう駄目です。死にかけているのです。さあここが私の下宿してる家です」  彼は石段を駆け登った。入口の扉は開いていた。入口におどおどした給仕の少年が張番をしている。私たちは広間を横切って、階段を登った。薄暗い二階の階段の傍の半分程開いた扉《ドア》の入口には女中がこわごわ内を覗き込んで、内から響いて来る鼾声《いびき》のような唸り声に耳を澄ましている。  部屋に入るとビラムジ氏が言ったとおり、喪心した男がきっと見開いた眼で天井を睨みながら息をするごとに頬を脹らませている。息は次第に短く、かすかに、切れ切れになり、ソーンダイクが蝋燐寸《ろうマッチ》をすって瞳孔を検査しているうちに全く止まってしまった。手頸を握って脈を調べていた私は、脈が次第にゆるく弱くなり、ついにばったり止まるのを感じた。 「もう死んだんだ。多分大動脈が破裂したんだろう」と私が言った。 「この年齢《とし》で動脈破裂とはちと変だが、しかし見た所そうとしか思われないね。だがちょっと待ちたまえ! これはなんだろう?」  彼が指さす所を見ると、死人の左耳の窪みに二三滴の血が附着している。彼は死人の頭に手を当てて静かに左右に動かした。 「頭蓋骨が砕けていた」ソーンダイクは傍に立って手を揉んでいるビラムジ氏に向いて、「あなたには原因が解りませんか?」と訊ねた。  印度人は茫然とした眼で彼を見ながら、 「解りませんね。どうしたんでしょうか?」 「多分何かで激しく頭を殴られたんでしょう」とソーンダイクが言った。  ビラムジ氏は暫く茫然とソーンダイクを見詰めていたが、やがて相手の言葉の意味を理解したように、急に扉の傍へ行って廊下をうろついている二人の給仕に向って、 「従兄と一緒に外から帰って来た人はどこへ行った?」と訊ねた。 「アルバート、お前あの人が出る所を見たんだろう、ビラムジさんに話しておあげ」と女中が言った。  すると給仕の少年はそっと部屋の中へ入って来てこわごわ死体を眺めながら吃りがちに話した。 「帰りかける所を後方《うしろ》から見たのですから、その人が左へ廻ったという事だけで、どこへ行ったやら解りません。何でも背の低い黒っぽい服の山高帽を冠った人でした。その他の事は少しも知りません」 「御苦労」と言ってソーンダイクは少年を室外《そと》に連れ出して、扉を締め、ビラムジ氏の方へ向き直って、 「その人が誰だか心当りはありませんか?」と訊ねた。 「ありません。私がさっき隣の室で手紙を書いていますと、従兄が誰やらとつれだって、話しながら帰って来て、この室へ入ったのです。時々話し声が聞こえました。それから十五分ばかりたつと、扉を開ける音がして、つれの男がいそいそと静かに出て行きました。手紙を書き終り、封筒の宛名も書いてしまうと、さっき来た人が誰だか訊ねようと思ってここに来てみたのです。私は最初は多分|紅玉石《ルビー》を買い取るために相談に来た人だと思っていました」 「紅玉石! どんな紅玉石です?」ソーンダイクが叫んだ。 「大きい紅玉石です。しかし大きいと言っただけじゃ解りますまい――」と口籠《くちごも》って、ひとしきり眼を大きく見開いてソーンダイクの顔を見詰めていたが、急に向き直って死人の傍に跪《ひざまず》き、不器用な、丁寧な、おどおどした手付でその上着の釦《ボタン》を外しだした。上着とシャツをはぐると三つのポケットのある印度製の革の腹巻が現われた。ビラムジは素早くその釦を外してポケットの中を探ったが、紅玉石らしい物はどこからも出て来なかった。すると彼は低い悲痛な声を絞って、 「無い! 盗られてしまった! しかし紅玉石なんかどうでもいい! おい、ディナナス、お前は死んでしまったのか!」――暫く黙っていた彼はまた絶望の色を顔に表しながら、「お前を殺した奴は逃げてしまった。誰も見た者がない! ああどうしたらいいんだろう!」と男泣きに泣き出した。  ソーンダイクは、「とにかく、この部屋の内に、証拠品が残っているかどうか調べてみましょう。例えばこんな物ですね、一体これは何です?」と言って部屋の隅の扉のそばから小さい革袋を拾い上げて、ビラムジ氏に渡した。  印度人はそれをつくづく眺めていたが、 「ああ! これはいつも紅玉石を入れて持ち歩いていた袋ですよ。腹巻から出したんです、きっと」 「何かの拍子で紅玉石はそこらに落ちてはいませんか?」と私が口を出した。  ビラムジ氏はすぐ膝を突いて、床の上を透かして見たり、手探ったりした。ソーンダイクと私も一緒になって探したが、紅玉石はどこにも無い。落ちていたものは帽子ばかり。私はその帽子を卓子《テーブル》の下から拾い上げた。  ビラムジ氏はがっかりして、「無い。盗まれてしまった。盗んだ奴は無論ディナナスを殺した悪漢です――」  こう言いかけてふと彼は私が拾い上げた帽子を覗き込み、 「これはどなたの帽子です?」といって、卓子の上のソーンダイクと私の帽子を見た。 「ディナナスさんのじゃないんですか?」とソーンダイクが訊ねた。 「いいえ、ディナナスの帽子は私のと同じです――一緒に買ったのです。白い絹地の裏に D.B という名前の首字《かしらじ》が金で記してある上に、この帽子よりもっと新しかったです。これには裏がありませんね。殺した奴の帽子でしょう」 「そうだとすれば、大切な証拠品です。御面倒ですがちょっとあなたの帽子を拝見させて下さい」 「ええすぐ持って参ります」  ビラムジ氏は足早に部屋を去った。彼が静かに扉を締めると、ソーンダイクは素早く遺留品の帽子を取って、死人の頭に合わせてみた。よく合う。ソーンダイクは帽子を卓子の上に置いて、 「よく合うね。これも何かの証拠になるだろう」と言った。  この時ビラムジ氏が自分の帽子を持って来て、遺留品の帽子と並べて卓子の上に置いた。表を見ればどちらも流行の山高帽の上等品で、どちらも黒い堅いフェルトで寸分の違いもないが、裏を返してみると、遺留品の方は革の鉢巻だけだが、ビラムジ氏の方には白い絹の裏が付いて、所有者の首字が金色に光っている。ソーンダイクは二つの帽子を精細に検査して、 「これで事情がよく解りました。二人は外から帰って来ると、どっちも卓子の上へ帽子を伏せて置いたのですが、争っている最中に来訪者の帽子の方が、何かの拍子で卓子の下に転げ落ち、来訪者が帰る時に目の前にあるよく似た帽子を間違えて冠って出たのです」 「しかし冠った時の心持で、自分の帽子と他人の帽子の区別ぐらいは解りそうなものだがね」と私が言った。  するとソーンダイクは、「ところが何しろ極度に昂奮して慌てていたからそんな事には気が付かなかったんだろう」そしてビラムジ氏の方へ向いて、「時にディナナスさんが持っていられた大きい紅玉石について、詳しい話をお伺いしたいと思うのですがどうでしょう?」 「お話ししましょう。どうぞお二人とも私の室へいらっして下さい」  彼は溜息を漏らしつつ、部屋を出た。ソーンダイクと私は証拠品の帽子を持ってその後について行った。寝台のある広い室に入って三人が腰を掛けると、ビラムジ氏が口を切った。 「従兄と私は二人とも宝石が好きでして、私は東洋産の宝石一切の売買をやっていましたが、ディナナスの方は紅玉石ばかりを専門に売買していました。紅玉石の鑑識に鋭い目を持った彼は、まだ磨かぬ大きい石を見付けるために、時々ビルマに旅行していましたが、四カ月ばかり前に、重量《おもさ》の二十八カラット以上もある、無瑕《むきず》の、素晴しい色合の石を手に入れました」 「随分金目なものでしょうね?」と私が訊いた。 「それは一口には言えませんが本当に立派な大きい紅玉石だったら、緑石《エメラルド》以外の如何なる宝石よりも珍重がられるでしょう。五カラット位の立派な紅玉石は大抵三千ポンド位ですが、大きくなるに従って率の割合よりも高くなるのは言うまでもないことで、ディナナスが持っていた紅玉石はまあ五万ポンド位が普通の相場でしょう」  ソーンダイクは熱心に耳を傾けつつ、遺留品の帽子の裏表を微《こま》かく調べていた。ビラムジの話がすむと、彼が言った。 「この事件は無論警察へお報せになる必要があります。しかしどうせ我々二人も証人として召喚されるのですから、警官に渡す前にこの帽子をもっと精細に調べてみたいと思います。御面倒ですが毛の荒い小さい刷毛《ブラッシ》を貸して下さいませんか。乾いた爪磨用の刷毛で結構です」  ビラムジ氏は早速刷毛を出した。  ソーンダイクのいつもの流儀を呑込んでいる私は別に何とも思わなかったが、ビラムジ氏は彼のする事を不思議そうに、息の根をとめて見入っていた。ソーンダイクは卓子の上に一枚の紙を敷いて、その上へ刷毛で静かに帽子の埃《ごみ》を払い落した。手入の悪い帽子だから、縁の曲った所なぞからは、夥しい埃が出て、間もなく紙の上には小さい堆積が出来た。彼はそれを細かく畳んで、表に「外側」と記して紙入の中に仕舞った。 「何故そんな事をなさるんです? 埃を調べて何か手掛りがありますか?」ビラムジ氏が訊ねた。 「あるいは何も解らないかもしれません」とソーンダイクが答えた。「しかしあなたの従兄と一緒にいた人の物としてはこの帽子より他に何も無いのですから、その人の手掛りを得るためにはこれを出来るだけ詳しく調べる必要があります。埃は周囲《まわり》の物質《もの》から散り掛ったものです。周囲の物質が変わった物だったら、埃を見てもそれが解る筈です。麦粉屋《こなや》の帽子と、セメント職工の帽子は埃を見ただけで区別が付きますからね」  こう言いながら彼は帽子を逆にして、革の鉢巻を裏返すと、畳んだ紙片《かみきれ》が二つ三つ、ばらりと卓子の上に落ちた。 「おや! いい物が出て来た。今度は何か解るでしょう」ビラムジ氏が叫んだ。  ソーンダイクは紙片を拾って急いで開いてみた。何も解らない。新聞紙や、一二の廻状や、瓦斯|煖炉《ストーブ》の定価表や、大きい封筒なぞだ。その封筒は破れていて宛名の(―n―don, W.C.,」という字が解るきり。それから半分に千切れて右側ばかり残った何かの表らしい紙片には、 [#2字下げ]「―el 3OZ., 5 dwts    ―eep 9 1/2 OZ.,」 こんな字が書いてあった。 「何だか解るかい?」と言って私がその紙片をソーンダイクに見せると暫くじっとその面を見詰めていた彼は、やがてそれを手帳に書き止めて、「何かの意味はあるだろう。他の材料と合わせてみると、何らかの暗示《ヒント》を得られるかもしれない。紙に書いてある事はあるいは参考にならぬかもしれないが、その紙の量と、その紙がはさんであった所とは、確かに参考になる。警察に見せなくちゃならぬから、元のように紙をはさんで置こう」  何故紙の量と、はさんであった所が参考になるのか、私には少しも合点がいかなかった。しかしビラムジ氏の前で議論するのも面白くないから私は黙っていた。帽子を元の通りにすると、階段の方に当って、どやどやと人の上って来る気配がし、それに続いて無遠慮に死体のある部屋の扉を敲《たた》く音が聞えた。  ビラムジ氏はすぐ立上って、扉を開けた。外には一人の巡査を取巻いて召使や給仕なぞが五六人立っている。 「何か大変な事があったそうですね?」巡査が訊ねる。 「実に大変な事になりました。まあ私よりこのお医者さんの話を聞いて下さい」とビラムジ氏は懇願するようにソーンダイクを振返った。 「ディナナス・ビラムジという紳士が怪しむべき変死をしたのです」とソーンダイクは物珍しそうに群がる人々を眺めつつ言った。「現場に来て下さるなら、私が知っているだけ詳しくお話ししましょう」  ソーンダイクは死人のいる室に近づいて扉を開けた。彼、ビラムジ氏、巡査、私の四人はその部屋に入った。部屋の外から覗き込んでいた人達の中から、一人の中年の女が怖ろしそうに叫びながら入って来て、魂消《たまげ》たように死体を見詰めて、 「まあ! さっき召使《おんな》が大変な事があると言いましたから、アルバートに巡査を呼びにやったのですが、これは一体どうしたんです、ディナナスさんは殺されたんですか?」と言った。 「事実を話して下さい」と巡査は女の方には構わず、ポケットから大型の黒い手帳《ノート》を出し、帽子を脱いで卓子の上に置いた。彼は絶望し切って椅子に凭《もた》れながら死人を見詰めているビラムジ氏に向いて「その時の様子を詳しく話して下さい」と繰返して言った。  ビラムジ氏は私たちに話した通りを繰返した。巡査がそれを書き止めると、ついでソーンダイクと私は医学上の見地から二三の意見を述べて名刺を渡した。それから死体を寝台の上に載せ、敷布をかぶせたのち、私たちは一同に別れて部屋を出た。 「どうもいろいろ御厄介になりました」とビラムジ氏は温かく私たちと握手して、「お礼の申し上げようもございません。いずれお伺は致しますが、もし何か手掛りでもありましたら、どうかお知らせ下さい」と丁寧に言った。  私たちが部屋を出て階段を降りると、まだその辺をうろうろしている下宿人や召使たちが、物珍しそうに私達を見た。 「巡査の調査が、僕達の調書以上に出ないとしたら、ちょっとこの事件は厄介だね」と往来へ出てから私が言った。 「いやいや」ソーンダイクは頭を横に振った。「君にも解ったろうと思うが、この犯罪は独立した犯罪じゃない。この六カ月間に、これと同じ犯罪がこれで四回行われている。まだ逮捕されない所を見れば、大した手掛りも得られなかっただろうが、それにしても、もう何かの証拠は警察でも握っているだろう。それに今度は新しい証拠を握ったのだ。あの帽子はきっと役に立つよ。犯人はディナナスの帽子を冠って出たのだから、よしそれを今冠っていないにしても発見されたら手掛りになる、あの帽子が犯人の頭に合うとすれば、犯人の頭の大きさも解る訳だ。その上我々は犯人の帽子も手に入れているのだ」 「しかしあの帽子から巡査が新しい手掛りを得る事は、ちょっと困難だと思う」と私が言った。 「あるいは困難かもしれない。しかし一、二の興味ある手掛りは既に得られたのだ」  私は製本を頼んで置いた本屋に寄らなければならなかったので、チチェスターレンツの角でソーンダイクに別れた。  本の背に金文字を入れる間、待たされたので、思ったより時間が遅くなって、キングスベンチ・ウォークの私たちの部屋に帰ってみると、ちょうどソーンダイクがさっきの事件に関する実験を終りかけた所であった。卓子の上の顕微鏡には小さい挟み硝子《ガラス》が入れてあり、その傍には他の挟み硝子が置いてある。ソーンダイクは顕微鏡の試験は今しがた終った所とみえて、私が入って行った時には、燻《くすぶ》った色の液体を入れた試験管を手にしていた。 「帽子の埃の検査だね。何か面白い事実が発見されたかい?」 「なあに、普通《なみ》の塵があるだけだよ――有機体や鉱物体の繊維があるだけだ。しかし帽子の内側にあった二つの髪の切端は薄い鳶色で禿のそばにはえるような細い弱々しい毛だ。それから外側の塵には酸化した鉛が混っていた。君はこの事実をどう思うね?」 「じゃ犯人は鉛管工かペンキ屋だろう」 「そうかもしれないね」と言ったものの、ソーンダイクは心の中では別な事を考えているらしかった。  この時階段に足音が聞こえた。普通の訪問客にしては遅過ぎる時刻だが、私たちの部屋には夜更けの来客も珍しくない。それに聞き馴れた叩《ノック》の仕方だったのですぐそれと解った。 「あの音は警部のミラー君に違いない」とソーンダイクが立上って扉を開けると、果して外に立っているのは警部のミラー君であった。が、訪問者は彼一人ではなかった。  扉が開くと警部の後ろから二人の印度人が入って来た。その一人は顔馴染のビラムジ氏だ。 「もっと遅く来ればよかったね」とミラーが言った。 「しかし私には御遠慮ありませんよ」とビラムジが言った。「私は大した用事で来た訳でもありませんし、――御紹介しますがこれは私の友人で法律を研究しているカンバタ君です」とつれの印度人を紹介した。  カンバタは慇懃に頭を下げて、「ただ今ビラムジ君が私方に来てこの事件の話をして、あなたの名刺を見せたのですが、ビラムジ君はあなたのお名前を知らないのでただ普通の医者だとばかり思って、偶然天使に出会ったのを知らなかったのです。幸い私は有名なあなたのお名前を知っていましたから、それで何もかもあなたの手にお任せするように勧めたのです――いや、無論警察のお力に依らなければなりませんが」と急いで言い足して警部の方にお辞儀をした。 「それで私はこの人の言葉に従いまして」とビラムジ氏が話を受けて、「従兄を殺した男を捜索するためにはあらゆる手段を講じて貰いたいと思って、実は改めてお願いに上った次第で……。私も多少金は持っていますし、それに死んだ従兄の財産も私のものになるのですから、費用は惜しまずに使って下さい。紅玉石は取戻せたら取戻して貰ってもよろしいが、無かったらそれでも構いません。私が希望するのは復讐と正義だけです。もしあなたが犯人を私の手なり、警察の手なりへお渡し下さるなら、紅玉石でも紅玉石の価格に相当する金でも、喜んで差上げます」 「そんな法外な御報酬には及びません」ソーンダイクが言った。「あなたの御希望でしたら私もできるだけの材料を蒐《あつ》めて調査してみましょう。しかし前もって言って置きますが、成功するかどうかは請合えませんよ」 「その点はよく承知しています」とカンバタ氏が言った。「しかしあなたにお任せすれば、遺憾ない点まで調査して戴けます。長くお邪魔をしても済みませんから、じゃこれで失礼いたします」  二人の印度人が出て行くと、片手を胸のポケットに突込んだミラーが腰を起した。 「僕の用事は、君にも大抵想像できると思うが、実はこのビラムジの事件について命令を受けて来たのだ。ビラムジ氏から聞くと君も現場に行って犯人の帽子を調べたそうだが、僕も調べてみた。しかし僕が調べた所によれば、何の手掛りも得られなかったよ」 「僕も大した手掛りは得られなかった」ソーンダイクが言った。 「しかし大した物でないにせよ、何かは君も手に入れたらしい。それに我々の方でもちょっとした見当がついた。この犯人とこの頃新聞で『謎の犯人』と呼んでいる犯人とはどうも同一人らしい。なかなか捕え難い泥棒だ。大胆で、獰猛で、自由自在に出没する奴だ。いつでも共犯者なしに現れ、現れるごとに人を殺す奴だ。アメリカの巡査がたった一度、彼奴《やつ》のそばへ近づいて証拠を握った事があるだけだ」 「証拠って指紋かね?」ソーンダイクが訊ねた。 「ああ。ところがその指紋もすこぶる曖昧なもので、筋が明瞭に解らない。その上果して犯人の指紋かどうかも判明していないのだ。しかしとにかく、指紋は犯人を逮捕するまでは何の効用もない。ところで一つ相談したいのだが、君も犯人を捜索しているのだから、両方で信頼し合って一緒に行動しようではないか。僕の方でも材料を提供するから、君の方からも提供してくれ給え」 「だって僕の方には何の材料も無いのだからね。確実な実証はまだ一つも掴んでいないんだよ」  するとミラー氏は、がっかりした様子を見せたが、やがてポケットから一枚の写真を取出して卓子の上に置き、ソーンダイクの方に押しやった。ソーンダイクは細心に眼鏡《レンズ》で覗いて見たのち、それを私に示しながら、 「どうもこの指紋は曖昧でよく解らない」 「曖昧だよ」とミラーが言葉を受けて、「多分ざらざらした物に写った指紋なんだろう。もっとも石炭屋や、鑢《やすり》や金物を取扱う男の指紋だとこんなこともあるけれどね。さあ、今度は君が材料を提供する番だ」  ソーンダイクはちょっと小首を傾げて、「実際、材料は何もないんだよ。僕はいい加減な推量は言いたくない。しかしクリッフォード・インの五十一番に住んでいる人達は一応調べてみたいと思っている。こんな仕事は君の方が容易に出来るわけだ」 「そりゃ面白い!」ミラーが嬉しそうに叫んだ。「しかし一緒に行ったっていいだろう? 今夜は遅いし、明日の朝は用事があるし、じゃ明日の午後行ってみようじゃないか。一人より二人の方がいい、ことに君のような男ならなおさらだ」それから私の方に顔を向けて、「三人行けばさらに都合がいいね」と言って明日の午後三時に会う約束をして喜び勇んで帰った。  警部が帰った後で、私は瞑想に耽った。ソーンダイクは遺留品の帽子から出た材料を元として、クリッフォード・イン五十一番地という宛名をどうして考えだしたか、全体あの材料とこの宛名に何の関係があるのか? ソーンダイクは無論封筒の片端《きれはし》に残っていた文字からこの宛名を想像したものに違いない。しかしどうして彼は「――」という字からクリッフォード・イン(Cliford Inn)五十一番」[#「」」はママ]という字を引き出したのだろう! 私にはそれがさっぱり腑に落ちなかった。  こんな事を考えているうちに、ソーンダイクは卓子の前に坐って、二つの手紙を書いた。一つは普通の書翰箋《ノートペーパー》に書いたが、一つは頭に使用者の宛名を印刷した用紙に書いた。書き終ると彼は立上って切手を貼りながら、 「僕はこれからこの手紙を入れて来る。どうだ、一緒にフリート街の並木の下でも散歩してみようじゃないか。まだそんなに遅くはないよ」 「フリート街はいつ行っても閑静でいいね」と言って私は隣の室《ま》から帽子を取って来て、一緒に家を出た。二人はキングスベンチの通りから、マイダ・コートを抜けてフリート街に出て、手紙を郵便箱《ポスト》に入れると路を横切ってクリッフォード・インへ行ってみた。まだ半分開いている門をくぐって、庭を横切り、狭い路を抜けて中庭に入ると突然ソーンダイクが立止まって、とある古い家を指差し、 「これが五十一番だ」と言った。 「じゃ例の犯人はこの家にいるんだね」と私が訊ねると、 「何を言ってるんだ、君までがミラー君のように独断的な想像を下すには驚いてしまう。僕はただ残っていた帽子と、この家は何かの関係がありはしないかと推量しているだけで、確かな事は少しも知らないんだ。あるいは何の関係もないのかもしれない。いわば僕は推量の薄氷の上を危っかしい足付で辿っているに過ぎないのだ。これはみんな僕の仮想なんだ。だから、ミラー君があんなに熱心に聞きたがらなかったり、指紋を見せたりしなかったら、僕だってこの家の事をむやみに饒舌《しゃべ》りはしなかったんだ」  その家を見上げると、どの窓も真っ暗だが、最上層の窓口はあかあかと灯が点《とも》って、誰かしら急がしそうにしきりと動いている。私たちは入口に近づいて、門柱の名札を見た。一階は写真製版屋、二階はキャリントン氏、この人の名は白ペンキを塗った新しい長方形の名札に書いてあるのでよく解る。一番上の三階にはバートとハイレーという[#「ハイレーという」は底本では「ハイレーにいう」]二人の冶金師が住んでいる。文字の色が褪せている所を見ると、古い借家人なんだろう。 「バートの方は引っ越したのだね」と言いながらソーンダイクは名札に引いてある二本の赤い線を指した。暗かったので私は言われるまで気が付かなかったのだ。彼は言葉を続けて、「だから三階は[#「三階は」は底本では「二階は」]今、ハイレーという人一人の住家と仕事場になってるのだ。僕はキャリントンという人がどんな人だか知らないのだが、まあそれは明日の事にしよう」  翌日になると、午後さしつかえがないように、午前中に急いで仕事を片付け、それが済むとソーンダイクと私は聖《セント》ヘレンの、製煉試金師の真鍮の看板のある家へ行った。二人が家に入ると間もなく相当の年輩の男が帳場に現れて、 「グレイソンから見本が来ましたよ。一トンで三十グレイン位になるのですがね、大したものでもありませんからお返しになるには及びません」彼は大きな金庫から粗布《カンバス》製の袋を取り出し、その中から十二三の石英の破片を出して帳場に並べた。ソーンダイクはぴかぴか光る黄色い一つを取ってポケットに入れた。 「これでいいですか?」 「結構です」ソーンダイクは見本を粗布《カンバス》の袋に入れ、それを鞄にしまって厚く礼を述べてから店を出た。 「捜索の手を鉱物界にまで伸ばしたわけだね?」と外に出た時私が言うと、ソーンダイクは意味ありげな微笑を浮かべながら、 「もう一つ吸収ポンプがないと仕事ができない。この石英でうまく化け込むのだが、その時の都合で場合によったら、あるいはこの石英が飛道具となるかもしれないのだ」  三時になるとミラーと三人でクリッフォード・インに出かけた。途中でソーンダイクに代って、その鞄を持ってやると、ばかに重たかった。ははあ、石英が入っているのだなと私は一人頷いた。  門番の部屋の前に来るとソーンダイクが立止まって、「貸間、貸事務室あり」と声を出して読んだ。「こりゃ入るのに都合がいい、それに門番はジャーヴィス君と僕を知っているのだから、打解けて話して呉れるだろう」  呼鈴《ベル》を押すとやがて絹帽《シルクハット》にフロックコートという事務官然たる男が現れて、眼鏡越にソーンダイクや私たちを見て、愛嬌のいい微笑を浮べた。 「やあ、ラーキンさん、今日は」ソーンダイクが呼びかけた。「空間探しをたのまれて来たのですが、どんな空間がありますね?」  ラーキンはちょっと考えて、「ええと、待って下さいよ、五番の一階がありますが、これは少し暗いですよ。それから――と、そうそう五十一番の立派な二階がまるで空いていますよ。ミケル祭まで空かない筈だったのですが、キャリントンさんが急に外国に行かれる事になって空くことになったのです。今朝その方から部屋の鍵を封じ込んだ手紙を受取りましたがね、面白い手紙ですよ」  彼はポケットを手探って一束の手紙を取り出し、その中から一枚を抜いて、にやにや笑いながらソーンダイクに渡した。  ソーンダイクはまず表の「ロンドン、東部」という消印を見たのち、鍵と手紙を抜き出して、ミラーや私に見えるように開いた。書翰紙には頭に「ボルチック汽船会社」という字が印刷してあり、その下にはペンで「汽船ゴテンブルグ」と記してある。文句はすこぶる簡単明瞭なもの、 [#ここから2字下げ] 私は急に外国から呼ばれましたので、五十一番の部屋を棄てなければなりません、部屋の鍵はこの手紙に同封してお返し致します。しかし間代の心配はなさらぬよう。私の部屋にある高価な家具を売れば間代を払った上に幾らか余りますから、余った金で庭の垣を塗って下さい。[#地から1字上げ]キャリントン。 [#ここで字下げ終わり]  読み終るとソーンダイクは微笑して手紙と鍵を封筒に収め、 「どんな家具なんです?」と訊ねた。 「お望みなら御覧に入れましょうか。立派な物ですよ」と門番がくすくす笑った。 「静かな部屋ですか?」 「ええ、ごく静かです。上には元バートとハイレーという二人の冶金師がいたのですが、バートさんは賑やかな街に引越したので、今はハイレーさん一人です。余り仕事をしていらっしゃらないふうです」 「ハイレーという人は何でも見たような気がしますね。背の高い、色の黒い人じゃないですか?」 「そりゃバートさんの方ですよ、ハイレーさんは背の低い、少しばかり頭の禿げた、血色の好い、粋な方です」――ここでラーキンは意味ありげにちょっと鼻を撫で、小指を上げて――「つまりそれが商売の潰れる因《もと》となったのですね」 「とにかく早く部屋を見せて貰おうじゃないか?」と焦《じ》れ気味のミラーが口を出した。 「見せて貰ってもいいですか?」ソーンダイクがラーキンに訊いた。 「どうぞ御遠慮なく。鍵を持っていらっして下さい。お帰りの時お返し下さればいいんですから」  私たちは中庭の方へ出た。ミラーは「キャリントンは夜逃げをしたのだ。こりゃ有望だ」と言いながら入口の門柱の新しい名札を見上げ、「名札の新しい所を見ると、先生まだここに来て幾らもたたなかったのだね。こいつはますます有望だ」  一同は二階に上った。ソーンダイクが鍵で扉を開けるとミラーがだしぬけに笑い出した。「高価な家具」というのは台所用の小卓子と、ウィンゾル式の椅子一つと、ぐらぐらの甲板椅子が一つだけ。台所を覗いて見ると、瓦斯竈と、小鍋と、フライ鍋、寝台には蒲団のない摺寝《たたみ》台、それから荷造箱の上に洗面器と水鑵が淋しく載っている。 「おや、ここに帽子を置き忘れているぞ。なかなかいい帽子だ」ミラーが叫んだ。  彼は帽子を見、それから外側を見、それから裏を見ていたが、急に吃驚したように眼を見張って、 「しめた! 見たまえ、これがビラムジの帽子だよ!」  なる程よく見ると裏の白い絹地にビラムジの首字が金文字で記してある。ミラーは床の上に落ちていた青物屋の紙袋を拾って帽子を包んだ。 「なる程」とソーンダイクが言った。「探していたものが出て来たね。これからどうしたものだろう?」 「どうしたも糞もない! 彼奴を捕まえるだけさ。――彼奴は気が付かずに乗ったのかも知れないが、ボルチック汽船会社の船は、ハルとニューキャッスルに寄港する上に、船足が遅いと来ているんだ。僕は早速ニューキャッスルに打電して、船を拘留して貰おう。それから刑事のバジャー君をやッて逮捕させるのだ。門番には君から万事よろしく言っといてくれたまえ。こうなったのも君のお蔭だ、本当に感謝するよ」  言い棄てて彼は大切な帽子を小脇に抱えたまま、とんとんと階段を駆け降りた。私たちは次の瞬間に、中庭を飛んで裏門からフェッター街に出る彼を、二階の窓から見た。 「ミラー君は早まったね」と後でソーンダイクが言った。「犯人の記録も要るし、まだ証拠品も探さなければならんのに、万一犯人が紅玉石を身に着けていなかったら、幾ら乗客一同の荷物を探したって、出て来る心配はない。第一犯人が果して船に乗ったかどうかさえ確実でないのだ」 「全くだ」と私が同意した。「あんなに慌てんでもこの家の捜索が済んでから行けばよかったのだ。しかし、とにかく、探してみようじゃないか」 「じゃこれから三階に住んでいる人の所へ行って、何か手掛りを拾って来よう。実は昨日僕の名をボルトンと偽名して、冶金上の用事で明日お伺いすると手紙を出して置いたのだ。もし君の名を訊ねたら、君はスティーヴンソンだと言ってくれたまえ」  私たちは三階に登った。いつも如才ないソーンダイクがこの時は妙にぐずぐずしていた。石英の用途だけは先刻の説明で解ったが、何故考え込んでいるのだろう? 何故三階の扉を敲く前に、念を入れて入口の瓦斯計量器を調べたりするのだろう?  私たちが扉を敲くと、直ぐ背の低い、綺麗に顔を剃った、油断のなさそうな男が、白い外被を着て現れた。そして鋭い、忌々しそうな表情を浮べて私たちを見た。 「やあ、これはハイレーさんですか?」ソーンダイクは丁寧に手を差し伸べたが、ハイレーはその手を不愛想に握った。 「私の手紙は御覧下すったでしょうね?」とソーンダイクが訊ねた。 「拝見しました。しかし私はハイレーじゃありませんよ。あの人はいませんから、私が代理を勤め、仕事はみんな私がやっているのです。私はシャーウッドという者です。見本は持っておいでになりましたか?」  ソーンダイクは鞄から粗布製の袋を取り出して前に置いた。シャーウッドは袋の中からごろごろと石を転び出させ、一つずつ取上げて丁寧に見入った、その間にソーンダイクは抜け目なく部屋の様子をじろじろ眺めていた。壁際に三つの鎔鉱炉がある。そのうちの一つは陶器を焼く竈のように大きい。細長い棚には小さい白い植木鉢のような冶金用の灰皿が、ずらりと幾つにも並べてあり、その傍には灰皿圧搾器――灰を灰皿の形に圧搾するもの――があり、その傍には灰桶が見える。灰は普通の灰より余程粒が粗大だった。ソーンダイクもこの粗大な点に気が付いたと見えて、灰桶に手を突込んで物珍しげに灰を手探っていた。 「この石には余り金が含まれていないらしいですよ。しかしまアとにかく試してはみますがね」シャーウッドが言った。 「この石はどうでしょう?」と今度は今朝試金師の家でポケットに入れた小さい金色に光る石を出して見せた。シャーウッドはそれを手に取ってじっと眺めて、 「この方はどうやら物になりそうですね」と言った。  ソーンダイクは顔の筋一つ動かさないでこの言葉を聞いたが、私は驚きの眼を見張ってシャーウッドの顔を見ずにはいられなかった。というのはこのぴかぴか光る石こそ、実は何にもならぬ黄鉄鉱に過ぎなかったからだ。小学校の生徒でもその位の区別は出来る。いわんや冶金師に於ておやだ!  シャーウッドは見本の石英を片手に持ったまま、棚から時計屋の眼鏡を取って明るい窓際に行った。それと同時にソーンダイクはつかつかと静かに灰皿の並んだ棚の傍によって、じろじろとそれを見廻していたが、その中の一つを取り下ろして、爪でほじくってみた。  シャーウッドがソーンダイクを振向いた。とたちまち彼の顔に憤怒と驚愕の色が浮んだと思うと、 「止してくれたまえ!」と彼は荒々しい声で叫んだ。しかしソーンダイクは相変らず指の爪で灰皿をほじくっている。 「聞こえないのか? 棄てたまえ!」  ソーンダイクは相手の言葉を文字通りに取って灰皿を床の上に棄てた。灰皿は木端微塵に砕けた。ソーンダイクはその中の一番大きい破片をつまみ上げた。その瞬間に私はそれが焼けた人間の歯であることを認めた。  そこに底気味悪い、劇的な沈黙の瞬間が続いた。ソーンダイクは拇指と人差指に人間の歯をつまんだまま、じっと眸を据えて冶金師を見入った。死人のように蒼白になった冶金師はソーンダイクを睨みつつ自分の外被の釦を外しだした。  と、この時たちまち深い沈黙が破れて、そこに汽車が衝突したような騒動が持上った。シャーウッドの右手が外被の中から出かけるや否や、咄嗟にソーンダイクは棚から灰皿を取って、狙い過《あやま》たず冶金師の額にハッシと投げ付け、すかさず彼に飛びかかった。それから消魂《けたたま》しい雷鳴のような物音、煙のように立昇る白い埃、床の上を転ぶ自動|拳銃《ピストル》の音!  私はソーンダイクを助けようと思って、拳銃を握って進み寄った。しかしそれには及ばなかった。物凄い熟練の力を持ったソーンダイクは、物の見事に彼を叩き伏せ、床の上に身動きもならぬように抑えつけた。 「おい、どこかそこらに繩は無いか見てくれたまえ」とソーンダイクがこんな場合の言葉としては少々滑稽なほど落着いた静かな声で言う。  繩は雑作《わけ》も無く発見《みつ》かった。繩で締めくくった箱が部屋の隅に沢山積み重ねてあった。私はその繩を二本引き千切って一本でシャーウッドの両腕を縛り、一本で両足を縛り上げた。 「さあ」とソーンダイクが言う。「君こいつの手の所を持っていてくれたまえ。まず腹巻をしているかどうか調べてみるから」  ソーンダイクが冶金師の胴着《チョッキ》の釦を外して、襯衣《シャツ》をまくり上げると、大きい布製の腹巻が現われた。腹巻には革のポケットが五つ六つ付いている。縛られたシャーウッドが唇を曲げて罵倒と叱咤を雨のようにうるさく浴びせかけるのには頓着しないで、ソーンダイクは注意深くポケットの釦を外し、前から順々に後ろのポケットまで手を入れて探った。 「逃がさないようにして体を廻してくれたまえ」と彼が言った。  私たちは冶金師の背を上に向けさせた。ソーンダイクが兎の皮を剥ぐように襯衣をのけると中央のポケットが現れた。ソーンダイクは釦を外して指を突込み、 「あったあった、きっとこれに違いない」と言って日本製の紙に小さく包んだものをつまみ出した。彼がその包を一枚一枚解くのを私はふるえる程に昂奮を感じつつ見守った。彼が最後の一枚を解くと驚くべき紅の光が燦然と輝いた。大きい紅玉石は遂に発見された! 「おい、ジャーヴィス君」と素晴しい宝石を掌に載せたソーンダイクが私を見た。「まあこの限りない罪悪の因になる美しい怖ろしい宝石を見たまえ。そしてこれが君の物でない事を神に感謝したまえ」  彼はそれを元のように丁寧に包んで、内側のポケットに入れ、 「さあ、その拳銃を僕に渡して、これから郵便局へ走って行って電話でミラー君を呼び戻してくれたまえ。あの先生に立会って貰った方がいいから」  私は拳銃を彼に渡し、フェッター街からフリーム街に出て郵便局に行って、直ぐ警視庁《スコットランドヤード》へ電話を掛けると、ミラー君はまだいるから早速クリッフォード・インに行くという返事であった。十五分たつと彼が自動車を飛ばしてやって来た。私は彼を三階に案内した。ソーンダイクに犯人を紹介して公式に逮捕させた。     *      *      * 「あの男をどうして僕が探し当てたか君には解らんかもしれないが」と二人が鍵を門番に返して帰途についた時ソーンダイクが言った。「なあに、実はちっとも不思議でも何でもありゃしないんだよ。初めにはさっぱり見当が付かなかったのが、だんだん明白になってきたのだ。まあ初めから詳しく話してみよう。 「無論探索の第一歩はあの遺留品の帽子から始まったのだ。あれを見て第一に気が付く事は、あの帽子が決して一人にのみ冠られたものでないという事だ。何故といって、見たまえ、誰だって帽子を初めて買う時にあんなに紙を詰めなきゃ頭に合わぬような帽子を買う者は無いじゃないか。それからまたあの紙の詰め方で、元は短くて太い頭の人が冠っていたのを、後に細長い頭の人がきた事が解る。次にはあの紙片だ。――don. W.C., はいう迄もなくロンドン西中部《ウエストセントラル》のことは直ぐ解るが、その前に n という字がある。ロンドン西中部の n で終った所はどこかというのが問題だ。西中部には n で終った街も辻も広場もありはしない。だからクリッフォード・インの n に違いないという事になる。(訳者注――Inn はロンドンで昔法学生が寄宿していた建物だが今は名のみ残って実は状師等の事務所になっている。ロンドンに今は八つの Inn が残っていて、クリッフォード・インはその一つだ。)けれどもこれが果して帽子の所有者の宛名であるかどうかは無論解らない。 「も一つの紙片には el[#「el」は底本では「eI」]と eep に終った言葉と共に、オンス(oz)とペニウェート(dwts)の量が数字に表してある。ところがペニウェート(我が四分一厘五毛)の金衡《かねばかり》を使う者は貴金属商より他にないのだ。だから el は lemel で eep[#「eep」は底本では「cep」]は floor-sweep となり、従ってこの紙片に書いてある事は、レメルが三オンス、五ペニウェート。フロアスイープが九オンス半だという事となる。 「レメルって何だい」と私が訊ねた。 「レメルというのは商売上の言葉で、宝石屋の細工台から掻き集めた金や銀の事を言うのだ。それからフロアスイープは無論宝石屋や金細工屋の床から掻き集めた粉の事を言うのだ。レメルは立派ではないにしても、とにかく、真の金属だが、スイープは金属と埃が混合したものだ。しかし両方共大切に掻き集めて、その道の人の所に送って、金や銀を択《え》って貰うんだ。だからこの紙片は金細工屋か煉金師、すなわち冶金師か試金師に関係がある事が解る。この関係はやはりあの帽子から発見され、瓦斯煖炉の定価表によって一層意味が強くなっているのだ。何故というに冶金師は何時でも瓦斯煖炉や鎔鉱炉の準備が充分でないと仕事が出来ないのだ。それからまた帽子の埃に混っていた鉛もこの断定を助けている。乾燥式で試金した金は鉛を混ぜて鎔鉱炉に入れるのだが、酸化した鉛は飛散し易いものだから、仕事場の埃の中によく混っているのだ。 「で僕は人名簿を調べてみた。ところが金細工屋はどこのインにも住んでいないで、ただクリッフォード・インにハイレーという冶金師が一人いる事を確かめたんだ。だから確実とは言えないまでも、とにかく、あの帽子とハイレーという人は何らかの関係があるという事だけは解ったのだ。つまり今日の午後、家を出る時にはこれだけの事が解っていたのだ。 「ところがクリッフォード・インに着くと、雪団《ゆきだま》が転がるように証拠がずんずんとふえてきた。まず第一にラーキン君がいろいろな事を話してくれた。第二に紛失した帽子が現れて来た。僕はあの帽子を見るや否や、三階に住む男に嫌疑をかけたよ。僕はあの帽子はわざとあそこに置いたもので、ラーキンへの手紙は行方を晦《くら》ますものだと思ったが、とにかく僕はあの帽子で今までの推量が確かだった事を知ったのだ」 「だが君はどうして三階に住む人々に嫌疑をかけたんだ」と私が訊ねた。 「ジャーヴィス君! まあ考えてもみたまえ。あれは発見されたら大変な事になる帽子なんだよ。それだのにあの犯人のような抜目のない狡猾な悪漢が、手掛りになる大切な物を置忘れるような間の抜けた事をするものだろうか? 君は盗まれた帽子は二階から出て来たが、犯人がビラムジ氏方に残した帽子は三階の冶金師と関係がある事を忘れているんだ。ただし先にも言ったように証拠はあの帽子がハイレーの帽子であることを説明はしているがね。――それから次の話に移る前に、指紋の事を話して置かねばならん。ミラー君はあの指紋が曖昧なのはざらざらした物の上に写った指紋だからだと言った。ところがそうじゃない。あれは鱗癬かまたは皮膚が乾く病に罹《かか》っている人の指紋なんだ。 「もう一つの事実がある。我々が捜索している男は殺人犯だ。だからその男は発見されたらどうせ自分の生命は無いものという事をよく知っている。従ってその上一人や二人の人間を殺す位は何とも思っちゃいない。だからもしハイレーが行方を晦まして、この男がハイレーの部屋に腰を据えたとすれば、ハイレーを殺したのだということ位は大抵想像できる。その上冶金師の家には死体を片付けるには何より便利な設備があるんだ。締切った鎔鉱炉は小さくした火葬炉であるのみならず、焼いた死体の残余物、即ち灰が彼の商売の材料になっているんだ。 「二階に登ると直ぐ瓦斯計量器を覗いてみたんだが、その時僕は最近に沢山の瓦斯が消費されている事を確かめた。それから次に部屋に入ってシャーウッドと握手したら彼が極度の鱗癬に冒されている事が解った。次に彼が黄鉄鋼と金を含む石英の区別さえ出来ない事を知った。彼は冶金師でも何でもないんだ。偽物なんだ。灰桶の中にも灰皿の中にも人間の骨の焼屑が一杯あった。灰皿の中からは、運よく歯冠が出てくれた位だ。もっとももはやその時には、僕は彼を逮捕すべき充分の確証は握っていた。しかし彼がその時の僕の無言の叱責に対して答えてくれたので、その上確証を模索する面倒がはぶけたわけだ」     *      *      *  毎年、八月二日になると定りきって、ビラムジ氏の懇ろな手紙と一緒に、上等のチェルート煙草を詰めた大きな彫刻のある檀香《びゃくだん》の箱が、キングスベンチ街の五番のAに贈られる。これは八月二日が「謎の犯人」として知られていたコルネリウス・ハーネットの死刑に処せられた(ニューゲート監獄に於て)記念日に当るからである。[#地付き]★★ 底本:「幻影城」幻影城    1976(昭和51)年9月1日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。