三つの証拠 小酒井不木著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)伏木《ふせき》敏也と [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ]一[#「一」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し]  私はこれから如何に周到に計画された殺人でも、思わぬ証拠のために、遂には発覚するものであるということを世の人に知って頂きたいと思って、いわばこの世の思い出に、書き残して置こうと思います。  私は彼女を殺すために、凡そ一ヶ月間というもの、一生懸命になって考え且つ殺人の稽古を致しました。即ち、如何したならば、発覚することなしに殺し得るかということを、苦心して考えたのであります。そうして遂に、これならば最も安全な方法であると思って、而も予定通りに殺人を遂行したのに拘わらず、忽ちみごとに露顕してしまいました。  彼女は牛込のS町に、某株式仲買人に囲われて、雇いの婆さんと二人きりで妾ぐらしをして居りました。彼女の世にも稀な美貌は、今もなお私の眼の前にちらつきますが、私が彼女を殺すようになったのも要するに、彼女の美貌のためといって差支えありません。  三ヶ月前までは、彼女と私とは全く一面識もなかったのですが、ある夜、神楽坂の××館で偶然一等席に隣り合せて活動写真を見て居ますと、真夏のいやに蒸し暑い空気にあてられたためか、彼女は突然脳貧血を起して卒倒しましたので、私は彼女を手厚く介抱し意識が恢復するなり、背負うようにして彼女の家まで連れて行ってやったのが、そもそも二人の相識るに至った始めなのです。その夜は私は彼女の家の前で別れましたが、是非近いうちに御遊びにいらっしゃいといわれたので、私はその翌々日の午後はじめて、彼女の家を訪ねました。  その時婆さんは留守でしたが、彼女は非常に馴々しく私を迎えてくれたばかりか、その身の上話まで打ちあけて聞かせてくれました。彼女は二十五歳の今日まで極めて不幸な境遇に置かれ遊女に身を堕して居たのを、現在の旦那に救われ、幸福な日送りをして居るのだとわかりました。私はある雑誌の記者をして居りましたがまだ独身で素人下宿に住い、それまで、あまり女というものに親しく接した経験がありませんでしたから、彼女の魅するような眼元に引きつけられて、何となく一種の情熱をそそられると同時に、彼女の旦那という人に対して、軽い嫉妬をさえ感ずるに至りました。  その日はそれで帰りましたが、それからというものは、彼女の姿が眼の前にちらついて仕事も手に附かぬようになって来ました。恐らくそれは初恋と称するものだったのでしょう。それまでに感じたことのない憧憬と焦燥とが起りました。私は雑誌社の方はそっちのけにして、二日置き又は三日置き位に彼女の許をたずねました。彼女も決して厭な顔を見せず、どちらかというと歓迎してくれるように思えたので私はまったく有頂天になりました。いつも婆さんは午後用達に出るのが習慣であり、又旦那は夜分にしか来ないということでしたので、私は一度も婆さんと旦那には逢ったことがありませんでした。  彼女はいつも快く逢って呉れましたけれど、決して私を深入りさせるようなことはしませんでした。即ち、ある程度以上にはその心を許さなかったのです。それが後には私に頗る物足らなさを感じさせました。そうして不満を覚えれば覚えるほど、反対に彼女に対する私の恋情は増して行くのでありました。遂には私は恋の重荷に堪えかねて、今日こそは思い切って打明けようと思ったことが四五度も続きましたが、いざとなるとやっぱり躊躇するのでありました。  でもとうとうある日、私は、彼女に向って切ない胸のうちを残らず打ち明けました。彼女はその間いわば悲しそうな表情をして聞いて居りましたが、やがて、 「御心はうれしく思います。然し、今の私は旦那以外に身を任せることは出来ません」ときっぱり言いました。  然し、私はどうしてもあきらめることが出来ませんでした。が、私はその後も執拗に彼女に迫りました。然しいっかな彼女はきき入れませんでした。彼女は決して怒りませんでしたが、その頑固さ加減は呆れるばかりでした。私は恥かしいような悔しいような思いになりました。しまいには、彼女が私の悶えるのを見て喜んで居るのではないかと思うようになりました。  可愛さあまって憎さが百倍とはよく言ったものです。遂に私は彼女に対してはげしい憎悪の念を抱くに至りました。私の心は殺気立ちました。そうして私は、いつの間にか、彼女を永遠に私のものとしようと思いました。即ち彼女の生命を奪おうと決心したのであります。今から思えば、私が彼女を思うごとくに彼女は私を思って居てくれたのです。然し、彼女は大恩ある旦那に義理を立てて、切ない思いをしながら、私の恋をはねつけて居たのです。然し、其の時の私にどうして、彼女の真心がわかりましょう。所謂私の心は血気にはやり、一旦彼女を殺そうと決心すると、昼夜それが強迫観念となって、どうしても、彼女を殺さないでは居られぬようになりました。私は今心から後悔して居ます。絞首台上の露と消えるくらいならば、あの時彼女を殺して、私は共に死ねばよかったのです。然し、私には一面に極めて卑怯な心がありました。即ち私は彼女を殺して、自分だけ生命を全うしようと思ったのです。此の点はかえすがえすも彼女の霊に御詫びしたいと思います。でも、私の卑怯な心が、いわば罪の発覚を招いたのですから、彼女の霊も定めし満足して居るだろうと思います。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  さて、愈々彼女を殺害しようと決心するなり、私は、どうしたならば、自分に嫌疑がかからぬようにすることが出来るかを考えて見ました。私は雑誌記者をして居た関係上、探偵小説を読む機会が甚だ多かったのですが、それ等の探偵小説の中には、どんなに周到な計画のもとに行われた殺人でも僅かの手ぬかりから発覚するという筋のものが可なりに沢山ありました。然し、私の場合には、非常に好都合な事情がありました。彼女は伏木《ふせき》敏也という私の名を知って居ましたけれど、私の下宿が何処であるかを知りませんでした。又、婆さんも旦那も、私が彼女の許をたずねるということを少しも知らないのでした。こういう事情ですから、若し私が彼女を殺しても、私のところへ嫌疑のかかって来ることは万々あるまいと思いました。その上彼女を殺して、自殺した様に見せかけたならば、私の生命は絶対に安全だろうと思いました。  私は第一に短刀を買わねばなりませんでした。私は浅草とか日本橋とかなるべく遠く離れたところの夜店で買い入れようと決心しました。遂に私は浅草の夜店で、一本の朱鞘の短刀を手に入れました。女持ちとして相応《ふさ》わしいものでありましたし、中身はよく研いでありましたから、至極好都合でした。無論私は故意に色眼鏡をかけて、夜店の老爺《おやじ》に顔を覚えられぬように注意したのであります。  次にはその短刀を如何に使用すべきかということについて考えをめぐらせました。それには彼女を後ろから抱いて頸部を刺し手に短刀を握らせれば、自殺に見えるのであるが、彼女が若し寝て居る場合であったならば、枕元に位置を占めて、頸部を刺さねばならぬと考え、私は蒲団をまるめて紐でしぼり、彼女の身体に擬して、短刀で刺す稽古を致しました。  次は短刀に若し指紋がつけばそれこそ、万事駄目になってしまうから、短刀を握るとき指紋を残さぬようにしなければならぬと考えました。それにはゴムの手袋をはめるのが一番便利であると思い、ゴムの手袋を買い求め、それをはめて、稽古を致しました。はじめは少し変な気持がしましたが、後にはゴムの手袋をはめて居ても、はめて居ないと同じようになり、ついうっかり手袋をはめて居ることを忘れるような時もありました。  次に短刀で彼女の頸部を刺したとき、出来得る限り、自分の衣服に血を浴びないようにしなければなりませんが、こればかりは、稽古することが出来ませんから、なるべく夜分を選んで兇行を遂げなければならぬと思いました。ところが夜分は、旦那が居ることもあるし、又婆さんも居るから、甚だ都合が悪く、それかといって、深夜にしのび込むことは、尚更危険ですから当分のうち、夜分に彼女の家を監視して、適当な機会を見つけようと決心しました。彼女の家の前には都合のよいことに、門柱が二本立って居るだけで、門の扉はなく、門をはいると植込になって居て、奥の庭に通じて居ますから、座敷の前へまわって、家の内の様子を立ち聞くことが出来るのです。ですから私はこの方法によって、彼女一人きりになった時を捉え、兇行を演じようと覚悟したのであります。  殺害の練習が終ると、いよいよ私はある夜ゴムの手袋とマスクと短刀とを洋服のポケットにしのばせて、彼女の家に監視に出かけました。ところが、機会は以外に早く到来し、その夜彼女を殺すことになりました。それは十月の星の多い夜で、比較的冷たい風が街の表面を撫でて居りました。丁度、彼女を最後にたずねてから一ヶ月を経て居りましたが、色々とりとめのない思いに耽り乍ら、S町の方に歩いて行きました。あたりは森閑として居て、まだ八時頃であるのに人通りも稀でした。彼女の家の傍まで近づくと、意外にも門の前に、空の人力車《くるま》が置かれてあって、車夫が蹴込《けこ》みに腰かけて待って居ました。はてな、彼女の旦那はいつも人力車でやって来て、車夫を待たせて置くのだろうかと思いましたが、やがて家の中から一人の洋服を着た紳士が出て来ました。手提鞄を携えて居るところから見れば、正しくそれは御医者様だとわかりました。彼女が病気であろうか。それとも、旦那が病気であろうか。医者の人力車が去るなり、私は門をはいって座敷の前の庭の方にまわり、内部の様子を立ち聞きしました。  すると、驚いたことに、中から、男の呶鳴る声と、女の嘆願するような泣き声がきこえました。女の声はたしかに聞き覚えのある彼女の声でした。男は何を怒って居るのか、早口なのでよくわかりませんでしたが、一つ二つ洩れ聞えた言葉から察すると、彼女の旦那であると知れました。暫くすると旦那は婆さんを呼んで何事をか言いつけ、家を出て行きましたので、私は彼女が病気に罹って居ることを知りました。私はその時、彼女が旦那に叱られたのであるから、彼女を殺して自殺したと見せるには最もよい機会であると思いました。然し婆さんの居る間は踏みこむことが出来ません。そこで、なおも暫く耳を澄して居ますと、間もなく彼女は婆さんを呼んで、何やら買物をして来るよう命令するのでありました。私の心は躍りました。この機会をはずしては彼女を殺すことは永久に不可能だろうと思いました。  私は手早くマスクをかけ、ゴムの手袋をはめ、婆さんが、家を出て行くなり、家の中にしのび込みました。勝手を知った家ですから、つかつかと座敷の方に進み襖をあけると、果して彼女は蒲団の中に横たわって苦しそうに呼吸をして居りました。彼女はむこうを向いて居りましたが、襖のあく音をきいて、苦しそうにしてこちらへ向きなおりました。彼女の眼は泣きはれて居りましたが、マスクをかけた私の姿を見るなり、ぎょっとしたらしく見えました。そうして、その途端に、 「あ、伏木さん……」  と、私の名を呼びました。それから私がどういう行動を取ったかは今、はっきり思い出すことが出来ません、はっと思って気がついて見ると、私は彼女の枕元に座って、彼女の頸動脈を切って居りました。団の上には血が池の様にたまりました。彼女は最早永遠に口をきくことが出来なくなって居ました。私は今にも婆さんが帰って来はしないかと思いましたので、とりあえず、彼女の右手に短刀を握らせ、座敷の箪笥の抽斗を引き出し、衣服の上へ朱鞘をのせました。こうすれば、彼女が寝床からはい出して、抽斗から短刀を取り出し、寝床の上に帰って自殺したと見えるにちがいありません。なお私は、彼女の着て居た蒲団を半分ばかりめくりかえして置くことを忘れませんでした。  手ばやくマスクを外して、逃げるように街の上に出ました。幸いに附近には誰も居ず、又、街は非常に暗かったので、私にとっては非常に好都合でした。やがて街角まで出ると、非常に好都合でした。やがて街角まで出ると、一人の男に出逢いましたが、彼はただ私をじろりと見ただけで行き過ぎてしまいました。ふと気がつくと、私はゴムの手袋をはめて居りましたので、取りあえず、それを脱いでポケットに入れました。そうして、凡そ十五町ほど隔たった私の下宿をさして、なるべく暗い町を通って歩いて帰りました。 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し]  靴の音がいやに強く秋の夜の空気に響いて私の心を寒くしました。先刻から私は誰かにつけられて居るような気がして、再三振りかえって見ましたが、別にそれらしい人の姿も見えませんでした。然し誰かにつけられて居るという感じが頻りにしましたので、私は歩調を早めて歩きましたが、今から考えて見るとどの町を通ったのかさっぱり覚えがありません。まるで私は夢路を辿って居るような気がしました。ただ身体が綿のように疲れて居ましたので、私が誰かにつけられて居ると感じたのも、恐らく錯覚であろうとその時は思いました。  とうとう私は下宿に戻って、私の室へ逃げこむようにはいりました。見ると幸いに衣服の何処にも血はついて居りませんでしたが、ゴムの手袋には可なりに血痕が附着して居りましたので、鋏を出して細かく切り砕き明日の朝街にばらまき捨てることに致しました。これさえ捨ててしまえば私は完全に証拠を消したことになるのです。  私は机の上に肱をついて、じっと考えました。彼女が私の姿を見て、「伏木さん」と叫んだ声が、妙に私の頭にこびりついて居りました。彼女はどうして私だということを知ったのであろう。果して彼女は私の殺しに行くことを予期して居たであろうか、私は何となく気の毒なことをしたというような心に襲われました。彼女の生命を奪ったという喜びよりも、悔恨の念の方がまさって行くように思われました。然し私は、自分自身の生命を惜しみました。自首しようなどという心は毛頭も起りませんでした。で、私は、果して自分の生命が安全であるかを回顧しました。換言すれば、どこかに手ぬかりをしなかったかを考えて見ました。今頃は恐らく婆さんによって彼女の死が発見されて居るであろう、或いはすでに警察へ告げられて、警官が臨検して居るかも知れない。然し、どう考えて見ても、自分には手ぬかりがない筈であるから、私の生命は絶対に安全であると思いました。そう思うと、私は警察が如何にこの事件を解決するかということに少なからぬ興味を持つようになりました。  その夜私は疲労のあまり熟睡しました。翌日眼がさめて、新聞を見ますと、果して彼女の変死が報ぜられて居ましたが、他殺の疑いがあるので、旦那が警察へ引張られて取り調べを受けつつあるという記事を読んだとき、私はぎくりとしました。どうして他殺だと鑑定されたのであろう? それを思うと私は妙な気持になり、じっとしては居られなくなりましたから、直ちに昨夜細かく刻んだゴムの手袋を持ち出し、街の上を歩きながら、細片をばらまきました。そうして、その辺を当もなくさまよいながら、後、浅草へ行って活動写真館にはいり、夕方の五時頃戻って来ました。  下宿の玄関の格子戸をあけると、上り口に一人の男が腰かけて居ましたが、私の顔を見るなり、 「あなたは伏木敏也さんでしょうね?」とたずねました。 「そうです」と私はどぎまぎして答えました。 「僕はこういうものです」  こういって男の差出した名刺を手に取って見ると、其処には「××警察署刑事○○○○」と書かれてありました。  その瞬間私の眼の前は暗くなって、私は思わず格子戸につかまりました。 [#6字下げ]四[#「四」は中見出し]  然し、私はすぐ気を取りなおして考えました。刑事は何か外の用事で来たのかも知れない。何を怖れることがあろう。何も証拠はないではないか。怖れる姿を見せるのが却って疑いの種となるではないか。こう思うと私の心は軽くなり、私は刑事に向って何の用で来たのかをたずねました。すると刑事は一寸御たずねしたいことがあるから警察署まで同行して貰いたいと申しました。  道々私たちは一口も物を言いませんでした。若しや、やっぱりこの事件に就いてではないかと考えましたが、こんなに早く自分に嫌疑がかかって来ようとはどうしても考えられませんでした。  警察へ行くと、署長は私を訊問室に呼び入れ、先ず私の名をきいてから、 「君は福井みちという女を知らないかね?」とたずねました。福井みちとは彼女の名です。  私はぎくりとしました。 「知りません」と、私は思わず答えました。 「そうか、ゆうべ君は九時頃下宿には居なかったそうだね?」 「外出しました」 「何処へ行ったかね?」 「神楽坂を散歩しました」 「そうか、然しS町の方へも行っただろう?」 「いいえ、行きません」 「でも、君をあの附近で見た人があるよ」 「何かの間違いでしょう」  署長は私の顔をじっと見つめました。 「実はねえ、ゆうべ九時頃にS町の福井みちという、ある人の妾が殺されたんだ。君はその女を知って居る筈だから、一寸来て貰ったんだ」 「そんな女の名はきいたこともありません」  署長は黙って、机の抽斗から柄に血のついた朱鞘の短刀を取り出しました。私はびくっとしました。 「この短刀に見覚えはないかね?」 「ありません」 「ふむ、中々君は強情だね?」 「だって何の話だか私には少しもわかりません」 「わからぬ筈はないよ。では、こちらから聞かせてあげよう。君はゆうべ、福井みちのところへ行って、彼女を寝床の上で殺し、右手に短刀を持たせ、朱鞘を箪笥の抽斗に入れて彼女が自殺したように見せかけたのだ。君はこの短刀を握るとき、指紋を残さぬようにと、ゴムの手袋をはめて居ただろう。どうだね、間違いはないだろう」 「嘘です、嘘です、そんなこと少しも知りません」と、私は夢中で叫びました。 「まあ、ききたまえ。彼女が自殺したように見せる君の計画はたしかに巧妙だったよ。然し君は、その際とんでもない間違いをしたよ、君は彼女がどういう病気で寝て居たかということを少しも知らなかったらしいねえ。君、彼女は急性脊髄炎にかかって居たのだよ。それがために、両脚が麻痺して、蒲団の外へ一歩も這い出せぬ状態にあったのだ。だから、彼女が短刀を取りに出て自殺したとは絶対に考えられないじゃないか」  私は心臓が突然消えてなくなるような気がしました。全身から冷汗がにじみ出ました。 「始め警官が臨検したときは自殺だろうと判断したのだが、彼女を診察した医師から脊髄炎だったと聞いて、他殺だとわかったよ。そこで、彼女の旦那が嫌疑者として取調べを受けたのだ。婆さんの証言によると、何でも旦那は昨晩大いに怒って彼女を責めたということだからねえ。ところが直ちにそうでないという証拠があがったんだ。そこで今度は婆さんに嫌疑をかけたが、これもすぐそうでないという証拠があがって、犯人は外部のものだとわかったのだ。そうしてその犯人は君より外にないと思うのだが、君はまだ白状しないつもりか?」  私は足の下の大地が崩れるかと思うような感じがしました。物を言おうと思っても急に言うことが出来なくなりました。 「君はまた、ゆうべ、第二の手ぬかりを演じたよ。それは君が彼女を殺して街へ出てからゴムの手袋をはめて居た事だ。君は覚えて居ないかも知れぬが、彼女の家から程遠からぬ街角で、君は一人の男に逢った筈だ。あれは私服の刑事だったんだ。刑事は君のゴムの手袋に眼を着け、妙な人間もあるものだと不審に思って、兎に角君の後をつけて見たのだ。そうして君の下宿を見届けて帰ったのだ。無論その時は殺人事件もまだ知れて居なかったのだが、今日、福井みちを殺した犯人が外部にあるときまったので、刑事はゆうべの事を思い出し早速君の留守中に下宿へ行って名前をたずねると、伏木敏也ということがわかったので、愈々君が犯人ときまり、別の刑事が、君の帰るのを待ち受けてこうして連れて来て貰ったのだよ。これでもまだ君は恐れ入らぬかね?」  私はやっとのことで声を搾って言いました。 「然し、私がゴム手袋をはめて、S町附近に居たとて、私がその女を殺した証拠にならぬじゃありませんか。私とその女との関係を知るに足る証拠がないじゃありませんか?」 「ふむ、中々理窟をいうね。それじゃ君と彼女との関係を知るに足る証拠があったら、君は自分が犯人であることを認めるか?」 「……」 「君は、どうやら、第三の最も有力な証拠を知らぬようだね? それでは教えてあげよう。彼女が脊髄炎にかかった原因が、実はゆうべ彼女の旦那を憤慨せしめる原因となったのだよ。それは、彼女が右の二の腕を故意に傷つけたために、そこから黴菌がはいって急性脊髄炎にかかったと医師が診察したからだ。君、これでもまだよくわからぬかね?」  血液が頭に逆上して、眼がくらむ思いがしました。 「君、よくききたまえ。彼女が二の腕を傷つけたというのは、実は入墨をしたんだよ。もと遊女をして居て朋輩のやることを見て居たからだろうが、君、その入墨がどんなものだったと思うね? それは仮名で、『フセキトシヤ』と君の名が書かれてあったんだよ……」  私はこれをきいてたしかにその場で卒倒したと思います。そうして、それから直ちに一切を白状してしまいました。彼女は私を恋い、私が久しく訪ねないので、腕に入墨をしてまで、私の名を記念にしようとしたのです。それ程の彼女の心を私は少しも知らなかったのみか、彼女を怖ろしい病気に罹らせ、その上私の手で殺してしまったのです。今、私には後悔の念が潮のように湧いて来ます。私は潔く死を迎えて、心から彼女に詫びたいと思うのであります。 底本:「別冊・幻影城」株式会社幻影城    1978(昭和53年)3月1日発行 底本の親本:「講談倶楽部5月号」1926(大正15)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。