緑のペンキ罐 坪田宏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)林《はやし》署長は |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)又|玄人上《くろうとあが》りで [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)林さん※[#感嘆符二つ、1-8-75] ------------------------------------------------------- [#8字下げ]一[#「一」は中見出し]  そろそろ花見季節も近い或る日、林《はやし》署長は、同郷の中学の先輩、高田彦之進《たかだひこのしん》を訪れた。  高田彦之進は、今ではその古風な名前がおかしくない年齢で、六十の坂を越したばかりの、A銀行の重役である。予《かね》て家庭の事で、個人的に折り入って相談したい事があるので、是非一度来宅願い度《た》いとの電話を受けて、かれこれ小半月《こはんつき》程になる。そこで日曜日のその日訪問したのである。Kの郊外に、戦災にも遭わず、小ぢんまりとしたその建物は、久々で訪れてみると、大分古めいてはいたが、彦之進の人柄を見るように、ゆかしくさびたものが感じられる。  しかし、あの頃と違って、近頃はこの郊外にも御多分《ごたぶん》にもれず、戦災の住人がつくだ煮のように集って、町並も薄よごれ、そのかみの清境《せいきょう》のおもかげはない。  背広姿の平服《へいふく》で、玄関に立ち、案内を乞うと、役者のように色白でものやさしい彦之進が、自《みずか》ら出た。一寸《ちょっと》誰れだかまよったらしいが、林署長と判ると、心から歓《よろこ》んで、早速応接室へ招じた。  四角張った型通りの挨拶を終り、近頃の金融界の話に移り話の花が咲いた頃、若い夫人が紅茶とケーキを持って来た。  夫人には以前、一寸逢ったきりで、もう四、五年にもなるが、その時の夫人の面影と、今見るそれには、昨日の今日のように変りなく若々しい。目立つ美しさではないが、一口に云えば男好きのする魅力の持ち主である。口端《くちは》も動作もはきはきして、人をそらさぬ愛嬌はあるが、又|玄人上《くろうとあが》りである事も隠せない。夫人は機《しお》を見て、彦之進の耳許に口を寄せると、 「あなた……私一寸失礼して、お風呂へ入らせて頂きます。いいでしょう」と小声に囁《ささや》く。 「ああ。だが林さんも久しぶりの事だから早くね」 「では林さん。一寸失礼させて頂きますが、今日はどうぞごゆっくりと……」と会釈して出て行った。  思えば、ドアーの彼方へ、名古屋帯の派手な色調のおたいこ結びを翻《ひるがえ》して出て行った夫人は、それきり過去帳に載る身となったのだから、人《ひと》の運命《さだめ》ほどあてにならないものはないと、林署長はその後の幾日かを、あの印象的だった帯の色調と共に思い泛《う》かべたものである。 「ところで林さん。態々《わざわざ》来て頂いて申訳のない事ですが、実は、どこか然るべきところで一席もうけた上でお願いしようと思っていましたが、あなたの職掌柄|却《かえ》って御迷惑と思いまして、自宅へ御足労願った訳で大変失礼ですが……あれの居ない間に用件を先へ申しましょう。あの家内の事ですが……御承知のように私も先妻に死なれて、年|甲斐《がい》もなくあれを×町の水商売からひかせて家内にしたんですがね……今日になってみますととんだ恥かき話ですが、別れたいと思っているんですよ。何しろ私も当今は女と云えば、お茶飲み友達でも結構な身でしてね」 「はあ」 「ところが、家内の方では私のお茶相手になれる年齢《とし》ではありません。すると、出来る事なれば早い内に去らした方があれの為にも将来を無駄にしなくていい……と、思うんです。無論喰うだけの保証は最大限でしてやり度いと思っているのです。ところが、あれの兄と云うのは御存知のTマーケットで飲食店をしている男で、一寸もの判りが悪く、私の手に合わんのです。今迄に二度話してみましたが、結局悪たれ口を叩かれるだけで……私もこの年齢になって、べら棒扱いにされる始末です」 「なる程」 「それに伜《せがれ》の彦次郎《ひこじろう》は、あれとそりが合わず、それでも出征前迄はどうにか家にいまして、留守中嫁は家に置きましたが、随分可哀そうだと思うしうちを家内はしましてね。私も幾度注意しようかとも思いましたが、それをすれば余計火の手が大きくなるので、それもなり兼ねていました。幸い伜も復員しまして、私も大いに安心はしましたが、どちらかと云えば伜は私と違って、直情径行《ちょくじょうけいこう》と云いますか……無口ではありますが日常の動作があれに対して反抗的なんです。そんな訳で間もなく嫁を連れて別居してしまいました」 「なる程」 「ところが、この度嫁に子供が出来ましてね……私もそろそろ隠居して孫の相手でもしてと世間並に慾も出ますんで、尚更この問題を早く片付けたいと考えるんです」 「ごもっともですね」 「それで、まことにあんたには迷惑な事かも知れませんが、一つ嫌な役目を承知でひと骨折って頂けないかと思いましてね……」 「ふーむ。なる程」  林署長は彦之進の話を無理からぬと頷《うなず》き、 「で、その兄と云うのは結局どうしろと云うんですかね」 「それなんですが、充分納得の出来る色気をつけろと云うんです」 「色気も色々ですが……どんな色気を付けろと云うんです」 「年増盛りをおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]にして、この年齢で妹を放り出すなれば、五十万円出せと云うのです」 「ははあ……それは又とんでもない色気ですね、はっはっはっ」 「全く……家事調停とか云う手もありますが、そんなごてごてした事は、私も未だ銀行に関係している立場上とり度くはありませんしね」 「で、あなたの意向は」 「私は現金として十万円やればと思っています。勿論あれの身に着けるものは一切渡す予定です。それだけでも時価にすれば相当なものです」 「なる程……全く無理のないお考えですね。奥さんにはその話をされましたか」 「はあ……話してあります」 「で、奥さんの気持は」 「どうせ年齢の順でゆけば、この家に居着きは出来ないからそれでも好いと云っていました」 「なる程。すると問題は兄そのものに大変な慾がある訳ですね」 「そうとしか思えません」 「ふーむ。では、この話は先ず兄を納得させる事ですね……Tマーケットの何と云う店ですか、兄と云うのは」 「沖為造《おきためぞう》と云って、俗に成駒屋《なりこまや》と云っています」 「はあ……あれか。あれは色んな闇屋の足溜りになっている飲食店ですね。なる程なる程。あの男なればその方で締《し》める手もありますが……しかし警察の手を介入して話すのは考えもんですが……兎に角その方はひとつ任せて下さい。何とかお力になれると思います。何と云ってもそれじゃ少し、成駒屋がとぼけ過ぎている。あなたの話は誰れが聞いても通る筋です」 「何分《なにぶん》のお力添えをお願い致し度いと思います」 「いや、よく判りました」  林署長は、こくこくと頷き、この気の弱い先輩の憂を払い除《の》けて、老後の安息を得さしてやるのも、矢張り自分の職務の延長だと考えた。 「どうも家内の風呂が長いようだな……色々仕度もさせねばならんのに……」 「いや。私の事でしたらお構い無く……」 「折角久々のお出でだからと思っているのに……何分あれは人間に深みと云うものがなくて、女中さえも居着かんので閉口します。この節人手は余っていますが、昔の女中を扱うような心構えでは長く勤めて呉れませんからね」 「全く」 「時代と云うものを少しも考えんので困りますよ……矢張り男はなんですね……若い時から連れ添った家内に別れると云う事は全く最大な不幸ですね……伜に嫁取りをさせてみると尚更それを痛感します」  彦之進は死に別れた先妻の事を、言外に含めて歎息をもらす。 「そうですね……僕は、前の奥さんの事はもう御顔さえ思い出せぬ程ですが、私が郷里から出て来た頃は、大変御世話になって……好《い》い方だった記憶があります」  林署長も慰め顔に相槌《あいづち》をうつ。 「一寸失礼」  彦之進は妻の永い風呂にしびれをきらして席をたった。  林署長は、ポケットから燐寸《マッチ》を出すと、成駒屋をどんな方法で説きつけてやろうかと、策をめぐらせながら、軸の一本を抜き出し、耳垢の掃除をはじめた。細めた瞳を窓外にやると、窓越しの空は花曇りして、植込みのつつじの花が、一つ蕊《しん》から抜けて風に散った。そして竹垣の外の道を、カーキ色のジャンパーに、赤い長靴を履いた男が、この邸《やしき》に用あり気にうろうろと通り過ぎた。  ものの三分もすると、彦之進が戻って来て、 「林さん※[#感嘆符二つ、1-8-75] どうもおかしい」  と、息をのんで、立ったまま云う。 「え※[#感嘆符二つ、1-8-75] 何です?」 「確かに、家内は風呂の内にいるのに、いくら呼んでも返事がないのです。もの音一つしないし……」 「風呂場でしょ……お宅の」 「そうです」 「扉を開けてみられましたか」 「私のとこの扉は、中からかけられるようになっています」  林署長も変に思って、一緒に風呂場へ行ってみた。廊下伝いに玄関を通り抜け、小部屋の前を越すと左へ曲る。そこが炊事場で、その廊下の突き当りに湯殿《ゆどの》がある。硝子《ガラス》の引き戸は開けられている。入った直ぐの板の間に、籐《とう》製の籠があって、なる程、夫人の着物がなまめかしく、仄《ほの》かに体臭さえも発散して入れられている。見覚えの帯の色も、籠目からこぼれている。その先は右側に一尺程の目隠《めかくし》があり、洗面所になっていて、二人が入ると、壁面に同じように人影が動き、そこに鏡がある事が判る。 「おい……たか子」  と、彦之進が呼ぶ。耳を澄ましたが音一つしない。ちゃぽ――と点滴の音がした。 「おかしいですね」  林署長も訝《いぶか》り、 「もう一度戸を引っ張ってみては……」  署長は自分で開けてみようとは思ったが、万一開いて、夫人の入浴姿を見ては悪いと思って遠慮する。彦之進が手をかけて、力任せに引き戸を開けようとしたが、結晶硝子の嵌《はま》った腰高のその戸はびくともしない。瞳をすり付けるようにして中を見ようとしたが、無論それは無駄だった。署長が替ってみたが同じである。 「外に窓かなんかありませんか」 「外に面して、窓が一カ所あります」 「そちらへ廻ってみましょう」  二人は炊事場へ出て、勝手口から有り合せた下駄を突っかけ、窓下へ出て、磨《すり》硝子の嵌った三尺の引き違い戸を引っ張ってみたが開かない。彦之進はそこでも夫人を呼び、割れるように硝子戸を叩いてみたが依然として答えはない。 「止むを得ません。この硝子を一枚割りましょう」  と、林署長は拳骨にハンカチを巻いて一枚割った。覗くと、浴槽の中に夫人が倒れて居る。 「高田さん※[#感嘆符二つ、1-8-75] あんたここから入って出入口の戸を開けて下さい。一切指紋のつかぬようにこのハンカチを使って下さい」  彦之進は事態をのみ込んで、そこの捻子込錠《ねじこみじょう》を開け、林署長の助けをかりて中へ入る。署長は直ぐ廊下へ廻り、風呂場へ入った。が先ず注意深く、浴槽内に俯向《うつむ》きに倒れている夫人の左手首へ手を延べて、脈搏《みゃくはく》を調べたが全然感じない。 「駄目です……絶命です」 「えっ」  唯《ただ》さえ色の白い彦之進は、たちまち蒼白くなる。貧血でも起すのではないかと、署長は心配した。が、それ程でもないようだった。 「僕がいてよかった」署長は呟《つぶや》いて、先ず浴場全体の状況を目で追う。  広さは一坪くらいであろう、床は色とりどりな張《は》り交《ま》ぜの細いタイル張りで、浴槽の位置は、向かって右奥隅の壁に二方を付けて、同じタイル張りである。周囲は板張りで、淡緑色のペンキが塗られ、色も艶《つや》も新らしく、腰張りは三寸角の白タイルである。見上げた天上には、櫓型《やぐらがた》の一尺角程の換気窓があり、位置は浴槽のほぼ中央真上にあたる。さっきの窓は浴槽の前方にあたり、風呂場へ入った正面に、奥行きの浅い棚があり、その上に、クリーム、ポマード、石鹸箱、安全かみそり等が置かれている。その下にカランが取付けられ、アルマイトの洗面器が浴室用の腰掛の上に乗せられてあった。そして洗面器にはられた水面へカランから雫《しずく》が落ちて時々音を刻む。  浴槽の正面にも、稍径《ややけい》の大きいカランが取付けてある。林署長はもう一度夫人に瞳を移す。白タイルに見まがう背中が大きく曲線を描いて、湯のない浴槽一杯に倒れ、蛇口へ向けた足も、肉付き豊にくの字型に曲っている。底に落ち込んだ頭部は、さっき見た、毛筋一本乱れてなかったセットした髪が、川藻を岡へ引き上げたように濡れていた。そしてその左脇に浴槽の栓があり、右脇に、短剣《クリス》があった。  その両刃《りょうば》の短剣《クリス》から想像出来る浅い切り疵《きず》が、夫人の背面の、右方骨の下部にあり、その周囲に、湯に散ったのか淡く赤い血痕が認められた。署長は夫人の腋《わき》の下に一寸手を入れてみる。肌に温みが残り、絶命して間のない事を知る。  そこで、硝子の割れた窓を閉め、湯殿から出ようと、も一度戸口で立ち止って見る。右隅に小さい棚があり、そこに赤いものが置いてある。近寄ってみる迄もなくそれは夫人の湯巻である。そして、戸につけられた錠を点検した。真鍮《しんちゅう》製の落し錠で、唯簡単に戸枠の曲り金具に落せば引っかかるようになっているものである。(自宅用の風呂に、内から錠をかけたり、湯巻を湯殿の中で外したり、何か肉体的にこの人は秘密を持っているのではないだろうか?)と署長は考えた。 [#8字下げ]二[#「二」は中見出し]  彦之進とそこを出ると、署長はもう一度炊事場から外へ出た。そして今度は湯殿を、外部から仔細《しさい》に点検する。併《しか》し注意を引く程の異常は認められない。そこで署長は、建物とコンクリート塀とに挟まれた三尺程の通路を、溝にそって歩き廻り、主として地上の異状発見に努力する。だがそこにも得るところは無い。  次は塀一杯に退って、湯殿の屋根を見渡す。左に抜き出た煙突は炊事場のもので、少し離れて風呂場の煙突がある。最も署長の目をひいたものは、湯殿の息抜きの櫓窓である。  一尺角程に、約一尺余りの高さに出て、トタン張りの屋根があり、廂《ひさし》が稍長く葺《ふ》き下《おろ》してある。両面は矢張りトタン張りで、左右の両面はきりかけに隙間《すきま》を持った板が鎧戸《よろいど》のように嵌っている。併しその隙間は手も入らない程の狭い間隔で屋根|勾配《こうばい》と同じような角度を持っているので、恐らくあそこからは、浴場の内部は見えないだろうと考える。署長は、屋根に登って確かめようとも考えたが、肥満した巨躯《きょく》では、それを諦《あきら》め、何《いず》れ係官が来てから調べさせる事にした。  その櫓からずっと右に離れて、便所のベンチレーターがあり、換気筒がくるくると旋回している。署長の位置から見える屋根の状態はそれだけで、矢張りそこにも期待出来る事実はありそうも無い。  林署長は勝手口へ入り、炊事場の廊下に、棒立ちにたちつくす彦之進へ、 「とんだ事になりましたね……僕は他殺と断定します。あなたを疑うようでまことに悪いですが……まさかあなたに間違いはないでしょうね?」 「と……とんでもない。折も折、あなたにあんなお話をしたので……疑われても止むを得ませんが……」 「無論、僕も信じています。それから、あなたのお人柄を考えますと、大変お気の毒ですが、こればかりは僕の一存でこの場限りに済ます訳にはゆきません。それであなたにも甚《はなは》だ迷惑をおかけする事になりますが、職務柄直ちに手配します」  林署長はこの先輩が、この事件の渦中に巻き込まれる事は、まことに忍び難い気がする。と云って、どうにもならない仕儀である。 「それは、もう……異存のある筈《はず》もありませんし、林さんのお気持も私はよく判ります」 「では御手数ですが、この地区のB署へ電話して、僕からと云って、直ぐに殺人現場に臨む準備をして来るように云って下さい。それと、僕の署に電話して、古田三吉《ふるたさんきち》と云う男にここへ来るように連絡を頼むと依頼して下さい。僕は念の為、ここで頑張って現場保存の任に当りますから」 「承知しました。私にしてみれば、あなたにいて頂いてよかった……」  彦之進は多少元気になって、電話室へ去った。林署長は勝手口に立ち、外部と内部を等分に見て、忠実な見張りをする。そしてふと、さっき窓越しに見たジャンパー姿の男の、用あり気な様子を頭に泛かべた。 「連絡しました。直ぐ来られるそうです」 「あなたを使って、済まん事です。まあこの際に免じて勘弁して下さい。ところで……係官の来る迄に、参考にお訊ねしたいと思いますが……応接室を出られてからの、あなたの行動を話してみて下さい」  彦之進は頷いて、真直ぐ湯殿へ行き、夫人を呼んだり、戸を開けようとした事など話し、不審に思って応接室へ戻ったものだと答えた。 「では……これは不躾《ぶしつけ》なお訊ねで恐縮ですが、普通どこの家庭でも、先ず風呂場の戸に内から施錠をしないものですがお宅はどう云う訳ですか?」 「別に訳はありませんが……今の家内が来てから、家内が附けさせたものです」 「奥さんが附けられた理由は?」 「私には判りませんが」 「失礼ですが……あなたは奥さんと風呂へ一緒に入られた経験はありませんか」 「一度もありません」 「僕はね……これはかん[#「かん」に傍点]なんですが、あなたの奥さんには、躯《からだ》にどこか、人に見られ度くないものがあるような気がします。それも下半身《しもはんしん》ですがね……それについて何かお心当りはありませんか?」 「なる程……林さんにそう云われてみると、今迄私が迂闊《うかつ》でしたが、思い当る事があります。あれは洋服を嫌っていまして、身軽にならねばならぬ時は、モンペで間に合せていました。それから私と寝間《ねま》へ入っても決して電灯をつけさせませんでした。私は未だ家内と明りの許で夫婦の交りをした事もありません。私自身が変に思った事に……あれをここへ連れて来た当時、温泉へ行こうと随分|奨《すす》めた事もありましたが、どう云うものか拒み続けた事もあります」 「なる程……で、あなた自身奥さんが常人《じょうじん》と変っていると、思われた事はありませんか?」 「そんな事は少しもありません」 「そうですか……いや、これはとんだ失礼な事を訊ねまして……」  林署長は、ふーん――と唸《うな》って考えた。それは、もっと調べが進んでみなければ判らないが、若《も》しあの風呂場が「密室」と云うような結果になるとその素因として、夫人が内から施錠した事に関心がもたれるからである。浴槽に俯伏《うつぶ》さっていた夫人には、外観上何の変ったところのない事は自分も認めるが――と署長の思索はその辺のところで、行きつ戻りつする。 「それから、浴槽の中に短剣《クリス》がありましたが、あなたは御存じですか?」 「いいえ」 「南方の住民が持っている、両刃で、柄《つか》に彫刻のあるものですがね」 「え……若しや」 「心当りがありますか?」 「伜が復員した時、持って来たのが確かあった筈です」 「どこに蔵《しま》っていられました」 「書斎の机の抽出《ひきだ》しです」 「見て下さい」  彦之進は、あたふたと駈けていったが、間も無く戻ると、 「ありません」と声をのむ。 「すると……未《ま》だ判然《はっきり》とはしないが、兇器がお宅のものと云う事になりますね……最近あなたが見られたのは……」 「十日程にもなりますか……何かの用事で抽出しを開けた時、確かにそこに在った記憶があります」 「そうですか……勿論それじゃ、誰れかが持ち出したと云うような事は判りませんね」  彦之進は力無く、頷いて、益々|困憊《こんぱい》その極に達すると云う有様だった。署長は気の毒に思って、 「余り心配される事はありません。事実は、何れ究明されます。無用な迷惑はおかけしませんから……まあ気を楽に持って成り行きに任せて下さい」  と励ます。間も無く玄関先が騒がしくなって、B署の係官が到着した。  林署長は早速出迎えて、 「やあ、御苦労さんです」 「こりゃ……林さん。今日は大変でしたね」  B署の田中署長が、痩躯《そうく》に満々と元気を漲《みなぎ》らせ、当る可からざる闘志さえも感じられる。  それからの風呂場は、写真撮影やら記録取りでごった返した。ひと通りそれが済むと夫人の死体は浴槽から取り出され先ず疵口の鑑定が行われた。深さ約二|糎《センチ》、長さ三糎であるが二糎余りは刃物が辷《すべ》って出来た程浅いものである。兇器と思われる短剣《クリス》の刃と、疵口のそれは一致する。併し検死医の鑑定は、短剣《クリス》を犯人が握って切り付けたもので無く、投げつけたものだと断定し、且《か》つ疵の程度からして、致命傷では無いと断言した。  死体の背部はそれで終り、仰向けにされて、点検が進められていた。それが脚部に移ると、妙なところに刺青《いれずみ》が発見された。左内股の上部だから、足を揃えていると判らないが、(勇三命)とほってある。 「ほう」  医師と立会係官が、歎声をもらす。 「余り、類のない刺青ですね……場所柄が」  医師が呟くのを、係員が検案書に記入する。  職業柄とは云え、神聖視する屍裸形《しらけい》に、その事実は一種の軽侮感を起させる。それは、刺青の位置から受けるものかも知れない。そこで死体は協議の結果、解剖に附して死因探求がなされる事になった。  それと併行して、別室では、B署の司法主任により、高田彦之進の聴取が進められていた。林署長も、一個の参考人として、出来る丈《だ》けそれが完全に遂行されるようにと、彦之進の答弁を強化する。  彦之進の聴取が済んだ。司法主任は田中署長に、直ちに彦之進の長男、彦次郎と成駒屋を参考人に呼び度いと云う。 「好《い》いでしょう。誰れかを迎えにやって下さい」  それから田中署長は、林署長に夫人の刺青の事や、今迄の鑑定の結果を話した。 「ははあ……なる程」と、林署長はそれで、気にかかっていた夫人の持つ秘密を了解する事が出来た。  そこへ古田三吉が訪れて来た。林署長は早速迎え入れて田中署長に紹介する。 「はじめまして。私古田です」 「あんたが古田さんですか。僕田中です。御名前の程は予々《かねがね》きいています。御苦労です」  簡単に挨拶が済むと、林署長は出来る丈け委しく説明する。 「すると、天上に櫓窓はあるが、密室の殺人かも知れない訳ですね」 「そうだよ。それで君にも所轄違いだが来て貰った訳さ。それに高田氏は僕の先輩でもあるからね。何しろあの人にあのような犯行の出来る筈は無いと確信するので、その方の応援の意味も兼ねて君を呼んだのだよ」 「そうですか。こりゃ面白そうな事件ですね」 「面白そうはよかったね……もっとも君の期待しそうな事件ではあるが……併し悪くすると難事件だね。とに角一応現場を見て呉れ給え」  それから二人は、ひとわたり浴室の現場を見てから、そこを出た。 「あの浴室は、流し水の落ちる個所と、浴槽の水を落す個所とが違いますね」 「そうだよ。高田さんの話によると、流し水は炊事場の下水へ、浴槽の水は直接外部の溝へ排水するようになっているそうだ」 「では、それを見ましょう」  二人は玄関から迂廻《うかい》して、勝手口へ廻った。塀際の木戸を開けて、建物との路地を通り、風呂場の窓下へ立つ。成る程浴槽のまん中どころから、一本のパイプが壁を貫通して出ている。その先端は曲って、一尺くらい下のコンクリート溝へ水が落ちるようになっていた。  溝は、深さも幅も五寸程もあろうか、そこから塀際の溝へ繋《つな》がっている。ところが、その放水口にあたる下に、ペンキの空罐《あきかん》が置いてあった。ばけつのように、下げるようになった針金のて[#「て」に傍点]がついている。そして乳白色の水が一杯に溢れている。 「これは、林さんが見られた時からあったものですね」 「そう……そのままだよ」 「白い水が溜っているが、これは湯の花を溶かした風呂水ですね」 「そうだね」 「水をあけても好いですかね」 「かまわんだろう……そんなものに何か意味があるかね」 「さあ……いや、一寸目についたから……」  三吉はその水を、全部溝にあけて、それをコンクリート畳の上に置く。覗き込むと、中にS字状に曲げた針金が入っていた。三吉はそれに目をとめて凝《じ》っと考えこむ。  暫くして、今度は、その罐の中や緑にこびり付いた淡緑色のペンキを指先で突いてみる。表面は固い膜を張っているが中は柔い。 「古田君。風呂の板張りは未だペンキを塗って日がいくらも経ってないようだが、色も一緒だしその時使った空罐だね」 「そうでしょう。僕もそう思って見ているのです」  三吉はそれを元通りに置いて、立ち上ると塀際によって、屋根をもう一度見上げる。  コンクリート塀の向う側は隣りの邸内になって、塀の上に木立の枝がはり出ている。それだけの状態を見て、三吉は木戸を出た。  すると前庭に出た塀際に、盆栽を置く台があって、まばらに鉢植が並んでいて、手前の一番上の段の隅に、淡緑色のペンキがこぼれていた。三吉はそこでも足をとめて、それを眺めた。こぼれたペンキは乾いて、空罐が置いてあったのだろう、そこに円い細い溝が出来ている。  三吉はもう一度引き返し、ペンキの空罐を持って来て、その溝に空罐の底縁を合せて置いてみる。ぴったり合うし、罐の外側につたって流れたペンキの流動の跡も、台上にこぼれたそれと合致する。 「林さん、ペンキの空罐は使ってからここに置いてあったものですね。それを、極く最近誰れかがあそこへ持って行った事になる」 「そうらしいね。何の為に、持って行ったんかな。ペンキを洗いとる為かな……」  三吉は一寸考えて、それを又元の場所へ置いて来た。 [#8字下げ]三[#「三」は中見出し]  二人が部屋へ戻ると間もなく、成駒屋こと、沖為造が出頭した。ずんぐりとした背恰好の、どんぐり眼《まなこ》の男で、殺された夫人とは似てない。それが臨時の聴取室になっている応接室へ入ると、いきなり大きな声で喚《わめ》きたてた。 「妹が殺されたんですってね。誰れが殺したんだ、誰れが殺しやがったんだ※[#感嘆符二つ、1-8-75] どうせ、旦那か、息子かに殺されたに違いない。二人で邪魔扱いにしやがって、捨猫のようにいびり殺されたに違いない※[#感嘆符二つ、1-8-75] それに違いないんだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」  その人もなげな言動に、司法主任は肚《はら》にすえかねて、 「成駒屋ッ。恥さらしはよせッ」  と大喝する。司法主任は、そうした扱いには馴《な》れたもので先ず一本きめつける。 「へえ」とその一喝で、案の定毒気を抜かれておとなしくなる。 「ねえ、成駒屋。お前の気持はよく判るが、話し合うところは話し合おう」 「へ」 「まあそこへかけ給え。訊《き》き度い事もある」  為造は云われるままに腰をかけた。 「ところで早速だが、今迄に高田さんと、君の妹の別れ話の事について話した事があるね」 「しました。でも、今迄八年余りも添って、何のおちどもないのに出ろの去れのじゃ、わっちは腑《ふ》に落ちねえんで……」  まき舌で、又そろそろ昂奮にかかる。 「まあまあ話だ。静かに話そうよ。それを君は不承知だそうだね」 「そうなんですよ。いくらなんでも……」 「いや判る、判ってる。どうして不承知なんだね」 「そりゃ旦那、考えてみなせえな、何のおちども……」 「そりゃ判ってるよ。せんじつめれば、君は五十万円貰わなきゃ否《いな》だと云ったんだろ」 「へえ」 「それじゃ君のは、妹の為を考えるのじゃなくて、金をひきとろうと云う、芝居にでもありそうな野暮だね」 「そう云う事になりますかね」 「ものには基準と云うものがあるよ。一体、五十万円と云う金額はどこから割り出したんだね」 「別に割り出した訳じゃねえんで……」 「でも、まん更あてずっぽうな金額じゃないだろうね。それが訊き度いんだ」 「………」 「これは事件に大切なところなんだから、正直に話して欲しいんだがね。何も君に迷惑のかかる話じゃないんだよ」 「そりゃ……妹をひきとるとすりゃ、それくらいは貰っても好いだろうと教えて呉れたんで……」 「誰れが」 「そのう……或る男なんですがね」  そこで司法主任は、刺青の名をふと念頭に泛かべて、やまをかける気になった。勇三《ゆうぞう》と云う男については、彦之進も全然知らぬと云っていたが、あの刺青には相当重要視出来る根拠がある。 「勇三……だろ。その男は?」 「そ、そうなんですよ。旦那は御存知なんで……」 「知っている。併しなぜ勇三の云う事なんぞきいたんだね。少し筋が良くないね」 「でも勇三がきかねえんで、仕方がありませんや」 「どうしてきかないんだ」 「わっちはね、妹もそれで好いと云うから十万円で承知するつもりだったんだが、勇三が云うのには、お前の妹のたか子と俺はどんな仲だったか知っているだろう。本来なら俺の女である事を承知の上で兄のお前が高田の旦那に片付かせたんだから、俺には文句を言う筋がある。だからこの別れ話は俺が直接高田へかけ合っても間違った道じゃねえ。それに俺にはたか子と契った証拠もあると云うんです」 「なる程。それで」 「だが、お前の顔をたててそんな事はしない。その代り五十万円が一銭欠けても嫌だとかけ合え。話が難かしけれや三十万円に負けても好いが、その時は又俺が相談に乗ってやる。そうなりゃ、悪く行っても妹に十万円やって、残りは二人で分けても十万円|宛《ずつ》あると云うんですよ」 「それで君が承知したと云うんだね」 「そうなんですよ。だがわっちも初めは好い返事をしなかったんですが、二三回酒を飲んで来て、お前がどうしても嫌だと云やあ俺も何とかの勇三と異名《いみょう》をとった男だ、やると云ったらきっとやる。その代り後で文句を云わせねえぞと脅かすもんですから、女房子供が怖がるんでついその気になったんですよ」 「じゃ、脅かされてその気になったと云うんだね」  司法主任はそこで、尚勇三と殺された夫人の関係について色々な事を知った。即ち、勇三と夫人は×町時代に関係があったが、勇三は戦争の初期、応召を受けていなくなった。その直後くらいに高田彦之進のところへ夫人が来ている。だからその間は勇三との関聯《かんれん》はないのだが、終戦で復員した勇三は、どうして知ったのか、近頃妹と無関係ではないようだった。その事につき、妹に注意はしたが、別に判然《はっきり》した事は聞かなかったと供述した。  司法主任は、どうしても勇三と云う男から、直接訊ねる必要があると思った。 「ところで、勇三は今どこに住んでいるかね……僕が知っていた時代は×町にいたが」 「今はN町にいますよ。花戸組《はなどぐみ》を訊ねりゃすぐ判る」 「苗字は何とか云うんだったね……ええと」 「前田《まえだ》勇三ってんで」 「そうそう前田勇三だった」  それと入れ代って、高田彦次郎が若い夫人と同伴でやって来た。若い義母の変死に驚いたのか、顔色が蒼い。きりっと引き締った顔だちは、多少神経質のところがあり、理智的な瞳の色には、気の勝った閃《ひらめ》きもある。  訊ねられた事は判然《はっきり》と答え、特に義母に対する感想は、 「私は義母《はは》が大嫌いでした。口論など今日迄に唯の一度もした事はありませんが、心の内では、事々に義母のすることに反対していました。復員してからは、その感情が前にも増して増大し、同居に堪えかねて、一カ月程で別居しました。併し、父も近頃になって別れる意志でいたので大変好い事だと歓んでいましたが、家内の話では兄と云うのが没義漢《わからずや》で、話が不調に終っていると聞きました。その事に関して、直接父と話した事はありません。父は全くあの女の為に数年間を無駄にしました。恐らく家庭的な温かさなど、あの女から得られなかったでしょうし、近頃の父は、全くそれを期待もしていなかったと思います。その点、大変不幸な父であったと思います。万一、別れ話が不調に終れば、父にとって、この上の不幸だと、内々《ないない》心配していました。それが、こんな事になって、父は身も心も動転しているようです」 「この短剣《クリス》に覚えがあるでしょうね」  司法主任は紙にのせた短剣《クリス》を見せた。 「あります。それは僕が南方にいた頃、部隊本部にいましたが、そこで使っていた住民から貰って、記念に持って帰ったもので、書斎の机の抽出しに確か入れてあったと思います」  ひと通り聴取が終ると、古田三吉が、田中署長の許可を得て質問した。 「お父さんの話によりますと、あなたは一週間くらい前ですか……風呂場のペンキ塗りを手伝われたそうですね」 「そうです。この前の日曜日です」 「昨日夕方来られたようですね」 「来ました。会社の戻り道に寄りました」 「どれくらいの時間居られましたか」 「三十分程居り、父に、ワイシャツを貰って帰りました」 「義母《おかあ》さんは……」 「買物に出ていたようです」 「ところで、あの短剣《クリス》にペンキが附いているんですがね……その時使ったペンキの空罐はありませんかね……一寸参考にしたいんですが」 「あると思います」 「一寸見せて頂けませんかね。場所さえ判れば、誰れかに取りにやってもいいですが」 「僕が持って来ましょう」  彦次郎が席を立ってゆくと、三吉も廊下へ出た。司法主任は、短剣《クリス》を手にとって、古田が云ったペンキの痕跡を調べたが、勿論その事実は鑑識が作った書類にも載ってないし、短剣《クリス》に附着もしていない。  司法主任は田中署長と目で見合せて、不審な面持をする。  間もなく、彦次郎がペンキの空罐を持って来た。三吉は受け取って、 「や、有難度う御座いました」  と軽く頭を下げて、序《ついで》に罐の中を覗いたが、S字状に曲げた針金は入ってない。それを仔細らしく眺め廻して、 「御面倒かけました。別にこれで、お訊ねする事はありません」  死体は解剖の結果、毒死である事が判った。短剣《クリス》に猛毒××を塗って切り付けたものであるが、故意か偶然か、その兇器を浴槽内に投げ込んだと思われるので、塗布した毒物は風呂水で洗いとられたものと鑑定されていた。唯その先端に、動物性の脂肪が微量検出されはしたが、指紋などは全然出なかった。その外新事実は何も発見出来なかった。  間もなく、前田勇三が引致《いんち》せられた。聴取《ききとり》を進めてみると成駒屋の証言した通り、手切金《てぎれきん》の事で脅迫がましい事を云っていると認めた。そして又、復員後偶然O町でたか子に逢いそれから時々外で逢曳《あいびき》をしている事も自供したが、それは自分から求めたものでなく、女から水を向けられたと云った。女は、旦那が年齢の割合にその方が駄目だから、淋しいのだと告白していたと云う。併し、逢った事もその関係も、総《すべ》て女の方からと、偶然の機会からとで、決して自分が女を追い廻したものでなく、むしろ自分は応召以来女の事等は忘れていたと延べた。併しそれ以来、女から時々小使銭は貰っていたのだそうだ。それが、たまたま女が旦那と別れるとの話に急に慾を出して成駒屋にけしかけたものであるが、女と自分の仲は、昔相当なところ迄行った事に嘘はない。証拠はこれですと行って、右内股の(たか子命)と云う刺青を見せた。  それで被害者の刺青の問題は解決した事になるが、未だ重要な事が残っている。 「君はここへ来る迄、N町の麻雀屋にいたそうだが、麻雀屋へは行ってから未だ三十分くらいしか経ってないようだが、それ迄どこにいたかね」 「Gの方にいました」 「用件は」 「用件はありません。友達のところを、ぶらぶらしていました」 「間違いないかね。この附近へ立ち廻ってはいないかね」 「いません」 「正直に云って呉れんと、君の云う事が全部嘘になるよ」 「決して……」  林署長が、その時古田三吉と二人で、外部の再調査から部屋へ戻って来て、その答弁をききとがめると、にやにや笑って、 「君は来なかったと云うが、九時半頃かな……いや十時少し前だろう。君がこの家の前を通ったのは何かね……そのカーキ色のジャンパーに、赤の長靴を履いて……」 「どうだ。嘘を云ってるじゃないか」  司法主任がすかさず決めつける。 「済みません……女が殺されたと聞いたもんで、つい嘘を云いました」  居合せた係官は、俄然《がぜん》色めく。前田勇三が兇行時刻頃、兇行現場附近にいた事は有力な状況証拠である。 「何しに来たんかね」  司法主任の音声は昂奮を隠してすこぶる静かだ。 「実は、金の無心《むしん》に来たのです」 「度々来るんだね。それで」 「いいえ。はじめてです。こんな事は……少し勝負に負けて借りが出来たものですから、思い切って出掛けて来たのですが、家の前迄来ると、お客さんがあったようだし、それに気が付いてみると、今日は日曜日だから旦那が家に居るに違いないと思って、直ぐ帰りました」 「それに間違いないか……本当だね?」 「嘘は申しません。ここへ来る道々、成駒屋の妹が殺された事を聞きまして、何だか変な気がしました。因縁と云いますか、身内が寒くなる思いがしまして、すこし考えさせられました」  その声は、頑丈づくりの体に似合ずしんみりとして、まん更嘘のようにも思えない。こんなのを小悪党と云うのかも知れない。係官はその様子を見てとると、意気込んだ腰を折られて、少しがっかりした。林署長の証言も、唯この男が前の道路を通り過ぎたのを見たのに過ぎんし、それ以上、この事件に引き寄せる事は出来ない。出来るとすれば、後は現場に残された事実から綜合立証するより方法はない。 [#8字下げ]四[#「四」は中見出し]  それで表面の捜査線に交叉する参考人の調べは全部済んだ事になる。  そこで捜査会議が開かれた。先ず、被害者が絶命する迄の状況が、こう、判断された。 [#ここから2字下げ] 応接室を出た夫人は風呂へ入った。そして風呂水を落して入浴を終ろうとして、浴槽の栓を抜いた。そこを短剣《クリス》によって切り付けられた。疵口から判断して、夫人が栓を抜こうと蹲《かが》んだ時であろうと推定される。夫人は未だ湯のある浴槽中に倒れ、もがき苦しんだ。頭髪が濡れているし、解剖の結果は、胃中と肺臓に風呂水を飲んでいる。そして絶命した。短剣《クリス》は、浴槽中に落ち、風呂水に洗われている。それから、十分――二十分位の間に死体発見となったものである。 [#ここで字下げ終わり]  以上については誰れも異説を称《とな》える者はいなかった。  次は、内部から施錠のあった浴室で、以下に犯行が行われたかの推定である。  第一の説は、 [#ここから2字下げ] 夫人が倒れ、兇器が落ちていた位置から判断して、短剣《クリス》を櫓窓から落下せしめた説である。そうとすれば、可成り持ち重みのする短剣《クリス》は、その下に位置した被害者に、鑑定通りな疵を残すもので、二|糎《センチ》余りの刃物が辷って出来た痕跡の説明は適中する。併しその方法は、調査の結果櫓窓はきりかけを通して外部からは絶対に浴場内の何一つ見る事が出来ぬし、息抜きの桟板《さんいた》は間隙《かんげき》が狭く、手はおろかあの短剣《クリス》さえもやっと押し込める程度であるから外部からではない。だから、予《あらかじ》め兇器を、内部から櫓窓に細紐《ほそひも》で吊って置いて、屋根の上から夫人が浴槽の栓を抜いた時、切って落すのである。それなれば、内部は見えなく共、外の溝に排水がなされた水音で同時にその時機を掴む事が出来るというものである。 [#ここで字下げ終わり]  その方法による犯人は誰か? 動機は何か? [#ここから2字下げ] 前田勇三と、高田彦之進である。 ところが、前田勇三は成る程夫人と特種関係はあったが、殺す理由はない。むしろ勇三にとっては夫人が生きていて呉れた方が物質的にも精神的にも望ましいと推定される。併し、その反面痴情の結果、譬《たと》えば別れ話等から衝動的に兇行を敢行する事も考えられる。 だが、仮にそうとしても、あの特定な兇器の入手はどうなるか。予め、窃《ひそ》かに盗み取らねばならぬし、櫓窓に吊って置かねばならぬ。そんな細工が出来たとは思えない。併し夫人を尋ねて度々来宅しているかも知れないと云う事実も考えられるので或はその機会が無かったとは云われない。だが、夫人の入浴の時間を予知して、態々省線でやって来るのはおかしい。 高田彦之進はどうか。 先ず動機は充分で、勇三に不可能と思われる事実も、彦之進にとっては何一つ「否《ノウ》」と云えるものは無い。 [#ここで字下げ終わり]  他の説は、 [#ここから2字下げ] 櫓窓の利用は全然不可能に近い。即ち風呂場の内部からの施錠は、犯行方法を欺瞞する為に、密室を構成したもので、実際は犯人が夫人の入浴中|闖入《ちんにゅう》し、短剣《クリス》で切り付けるか投げつけるかして(投げつけた方が適当)目的を達し、出入口から遁走《とんそう》する説である。 風呂場の内錠は簡単なもので、平たい真鍮製の掛け金は、どちらへでもぐるぐる廻るものである。だからこれを出る時立てて置いて、戸を静かに閉め、最後の一二寸のところでぴしゃりと閉めれば、その反動で戸枠の受け金に落ちて施錠出来る。もっとも、掛け金が緩《ゆる》いから不成功に終る率も多い。だからその金具と戸の隙間に、予め紙玉のようなものを挟み、右の方法でやれば失敗は尠《すくな》い。現に、田中署長の発案で五回その試験が行われたが、四回は成功してこれを立証している。 [#ここで字下げ終わり]  その方法による犯人は誰か? 動機は何か? [#ここから2字下げ] 前田勇三と、高田彦之進である。併し勇三には前説の如き動機も、機会も余り決定的ではないし、又、風呂場の錠の構造に精通していたとは考えられない。 然るに、高田彦之進には、これ又「否《ノウ》」とする説明材料が甚だ薄弱である。 [#ここで字下げ終わり]  こうして二つの方法を基礎として推定犯人を篩《ふるい》にかけると、どうしても高田彦之進だけがその目から置き去られる。  それから念の為、今日召喚した人達に就いて検討してみると、成駒屋の、沖為造は妹を殺す動機は無い。強いて物欲の面からありとするも、アリバイが有る。  高田彦次郎。  これは自ら云うが如く、憎悪していたから、怨恨《えんこん》と云う立派な動機が有る。併しこれもアリバイは完全である。  彦次郎の若夫人。  これも、夫同様である。  さらに、其の他に犯人無きやが一応再検討されたが、意外な事実が無い限り、兇器の特殊性、並《ならび》に犯行方法の特異性から綜合して、先ず無いものと断定された。  こうした過程を経て、高田彦之進こそ真犯人に非ずやとの疑いが濃厚になってきた。  林署長はあの先輩に、そんな犯行はおろか、犯意すら持てる筈はないと思った。併し事態は彦之進引致に迄進みそうである。その時田中署長が、 「林さん。大体お聴きの通りですが……何か御意見はありませんか」  林署長は機を得て、すかさず、 「僕には少し不可解なところがあります。それは犯人……つまり、高田氏が風呂場に闖入して兇行云々とありましたが、あんたにも話した通り、被害者の夫人は肉体的に秘密があった。判って見れば僅《わず》かな刺青に過ぎませんが、併し夫人はその秘密の暴露を非常に怖れていた。それは約八年に亘《わた》る夫婦生活に色々な事実となって表れています。風呂場に内から施錠をする事などもその一つです。その夫人が易々《やすやす》と錠を開けて人を入れる事は一寸考えられません。そこに矛盾を僕は認めます。それから錠を外部から閉める方法ですが、紙玉のようなものを使用したとすれば、それが内部に落ちていた筈です。僕は直後に入ったが、充分職務柄注意はしたがそのようなものを発見しませんでしたね」 「なる程。林さんの仰有る事も一理ありますね。ですが、高田氏は仮にも夫でありますね。その時或は内から錠がしてあったとも考えられますし、又、偶然施錠がなかった事も有り得ます。たとえば錠がしてあったにしろ、そこは夫である高田氏が、外部から何とか口実を構えて開けさせる方法もあるし、あれだけの犯行を決行しようとすれば、それくらいの事は出来たと推定します。紙玉の事ですが、これも実際は紙玉であったかどうだかは言明の限りではありませんが、先ず兇行現場である浴室には高田氏が窓から入っている。あなたは廊下から廻っておられる。だから、その間に高田氏はそれを拾って置く事が出来ますね」  田中署長は、相当自説に執着してそれを反駁《はんばく》する。 「併し、夫である高田氏にさえ我儘《わがまま》を云って秘密を通して来た夫人が、そう簡単に入室を許す筈が無いと思うがね……まして戸締りを忘れるなどは想像出来ませんがね。それに、夫人との別れ話の相談に来て居る僕の眼前で、あの兇行を敢行する程高田氏は大胆な人じゃないと、僕は一応信ずるが……」 「高田氏を、最有力な容疑者とする事は、林さんに悪いですが、色々な状況事実が高田氏の為に揃い過ぎます。応接室を出てから、あの兇行を行う時間は先ず充分でしょうし、悪くとれば林さんの居られる事を幸いの計画的犯行かも知れませんしね」  田中署長の自説固持は、益々強硬になる。そうなると、管轄が違うだけに、それ以上林署長が我意を張る根拠もないし、反証もないが、田中署長の言葉を皮肉と考えれば、それは自分迄がこの事件の犯人に密接な関係者の如く考えられぬ事もない。  林署長はたまらない気持になって、古田三吉の無言に迄腹がたって、そっとその方を見る。三吉は、林署長の視線を瞳で受けて、にやりと笑った。そして始めて口を開いた。 「大分林さんの異論も出たようですが、僕は矢張り櫓窓から兇器を落した方法に賛成しますね」  それは、田中署長にとって異説である。 「だがそれは先刻説明した通り、外部からは不可能だよ」 「内側から糸で吊っておけば出来ます」 「なる程。桟板に結んでおいて、外部から切り落す説だね」 「そうです」 「併し、それにしても、それが出来るのは高田彦之進が有望容疑者だね。又、その方法は見えぬ場所から行うので失敗の率も大きい。だからあの犯行には不似合な方法と思うね」  田中署長はすこぶる挑戦的な口吻《こうふん》である。 「何も高田彦之進に限った事ではありませんよ」 「では、他に有力な被疑者があるとでも云うのかね」 「そうです。では一つ、そのものずばりといきますかね」  三吉は、二十の扉でもあてるような口調で、 「それは、高田彦次郎です」 「彦次郎君、あの男にはアリバイがあるよ」 「有ります。併し、初めから一種の密室の殺人を予定して行ったこの犯行には、有って無きが如しです」 「併し君は、糸を切って落すと云ったね……現場に居ないでどうしてそれを切るかね?」 「代ってやって呉れるものがあったからです」 「それは何だね?」 「錘《おもり》です。適当な時機に、糸を切って呉れる錘が代役を務めています」 「錘※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 君そりゃもの[#「もの」に傍点]……もの[#「もの」に傍点]は死物だね。それがどうして利用者の意志を反映して思い通りに行くかね。そのもの[#「もの」に傍点]とは何だね」 「ペンキの空罐です」 「ペンキの空罐※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」 「そうです」 「それが目的通りに作用する時機は?」 「夫人が浴槽の栓を抜いた時」 「なる程※[#感嘆符二つ、1-8-75] 少し判りかけて来た」  そう答えたのは林署長である。三吉は卓の下から、彦次郎が持って来た空罐を卓上に出して、 「この罐の容積は一リットルくらいのものです。だからあの排水口から出る水の量を考えると、この空罐に満水するのは三秒とはかかりません。実際には満水しなく共作用するはずですから二秒か、或はそれ以下かも知れません。それ程の短い時間で足りますから、夫人が浴槽の栓を抜けば、殆ど同時に短剣《クリス》の鍔元《つばもと》を抱いて、桟板に止めていた糸が切れて落下します。それは錘が引く力により、刃《やいば》に強く糸が接触するから実に鮮《あざやか》に、垂直に落ちるはずです。だから、あの栓を抜くのに可能な、どの方向の位置からそれをしても、どうしても短剣《クリス》の落下圏内に躯の一部をさらす事になります。それを予知していれば別ですが、さもない限りは、よくて頭部、普通で背中にこれを受ける事になるでしょう」  さすがの田中署長も、三吉の推理の妙味には声もない。居並ぶ係官も神妙に傾聴する。 「その方法は?」 「短剣《クリス》の鍔元を糸で抱き、その先は凧糸《たこいと》の様な丈夫なものを繋ぎます。それを櫓窓から、真下にあたる排水口へ向けて張ります。軒先から垂らした糸は丁度パイプの中心線と合致しますから、そこで、S字錠に曲げた針金でペンキ罐の手にひっかけ、糸に吊します。ペンキ罐が排水口の水を受けるようにして、その糸の先は又元の軒先に持って行き、そこの樋受《というけ》の金具にすらせて角度を変え、その先端を右方のベンチレーターの換気筒に結び付けます。もっとも、この説明は糸の張り方を判り易くするためのものですが、実際にこれを仕掛けた時はその手順ではない筈です。それで短剣《クリス》は空罐の重量に止められ、櫓窓の内側に張り付けたように安定します。後は先刻の説明通りで、これで完全に密室の殺人は遂行されます」 「併し、それだったら糸が残りますね。林さんはその直後に風呂場の外部を点検されている筈ですね。林さん、それを見ませんでしたか?」 「そんなものは、見当りませんでしたね」 「すると、それはどうなんですか……お聞きの通りですが?」 「勿論有りません。そんなものを残して置けば、発見した人がそれを手掛りにその方法を推定する事は容易です」 「すると、それは誰れかによって取り除かれた事になりますか……例えば共犯と云った者を使って……」 「否《いや》、それも完全に始末して呉れるものがあったのです」 「それは何です?」 「いいですか、短剣《クリス》が落ちると同時に、錘の空罐、いや、水の入ったペンキ罐も溝の中に落ちます。すると糸はどうなりますかね。それはどこからも何の力の加わらない一本の糸に過ぎません。さっきその端がベンチレーターに結んであると云いましたね。実にその端はそのベンチレーターの旋回筒に結んであったのです。だから、短剣《クリス》や空罐が吊ってあった時はその力の制約を受けて、ベンチレーターは旋回作用を止めていますが、それがなくなれば、今日くらいの風ですとたちまち勢いよく回転します」 「あ……成る程」 「ベンチレーターの回転は微風でもよく廻ります。だから帯でも巻くように糸はくるくるとその胴に巻き取られます」 「成る程……実に巧妙だ」  田中署長も一同も、嘆声をもらす。 「では、彦次郎が準備をした……と云う推定は?」 「高田氏に訊ねてみると、風呂は二日入って一日休むとの事です。即ち、その日の晩に入るが、二人だけしか入らないので、それを翌朝もう一度たてる。いつも終りは夫人が入って流す。夫人の好みで、湯の花を入れるから一々流すのは不経済と云う考えからと、燃料節約の意味からその習慣は昨年の初冬から続けているとの事です。すると、犯人はそれを知った者と考えられ、結局家族以外の者で無い事になります。これが第一の理由です。それから僕はペンキの空罐をあの位置に発見しましたが、それは二三日の間に盆栽棚からあそこに移した事が考えられるのですが、何の為だか、その当座は判りませんでしたが、排水口の下で、風呂水に溢れて置かれてある事は、必ず何かあると考えました。その後、再度あの附近を調査すると、回転するベンチレーターに、何かひらひらするものを認め、竹竿で下からそれを停止すると、凧紐が巻き附き、そのひらひらする先端に、二叉になって糸が附いている事を発見し、それで万事了解出来たのであります。そこで彦次郎に、ペンキの空罐を取りにやると、真直ぐあの位置から持って来ました。しかも、あの罐の中からS字状に曲げた針金を取り出して、自分の上着のポケットに入れるところ迄見るに及んで、彼こそ真犯人と確信しました。これは申す迄もなく、犯行が犯人に残した心理的痕跡の露呈であります。これが第二の理由です」 「成る程。完全な推理ですね……ところで、短剣《クリス》を吊った時機は?」 「その時機は、風呂場のペンキ塗りをした時でしょう。序にあの準備をした方法を推定するならば、先ず短剣《クリス》を内部から紐で、桟板に縛り付けて、今度は屋根に登り、櫓窓を外部から塗る時に、別な糸で更にそれを抱き止め、その先に凧紐を結び、それを計画通りに張って予定の寸法を決め、その端はベンチレーターの旋回筒に結びます。そこでペンキ罐を吊る代りに、余った紐は風呂場の軒先に判らぬ様に結んでおいたと考えられます。だからベンチレーターはその時から回転を阻止されていた訳ですが、まさかそれが恐ろしい殺人への不気味な休息とは、たとえ人が見ても考えますまい。そして昨夜立寄った時、軒先の紐を解き、ペンキ罐を吊って、櫓窓の仮止めの紐を切り、何時でも活動出来る用意が為されたと推定出来ます。ベンチレーターの紐は証拠としてそのままにしてありますから、後で検証して下さい。そこで、万一それが失敗した時の事を考えてみても、これだったら、誰れがその恐ろしい陰謀を企図したか、否その方法さえ常人では推定出来る筈もなかったでしょう」 「全くですね……毒を塗り付けた短剣《クリス》が、容易に目的の人物を傷付ける為、裸体でいなければならない風呂場を選んだ事等、実に非凡な計画ですね。……それともう一つ……あの櫓窓に一週間も短剣《クリス》を吊っておけば、その間に二回位風呂をたてている事になります。するとその湯気で、短剣《クリス》の毒が流れ落ちる懸念がありますが……」 「それは当然考えられます。しかし犯人はそれも予定に入れていたと思われます。兇器の鑑定書に、刃先に微量ではあるが油脂のようなものが検出されたとありますね。それは毒物の流動を防ぐ為に、譬えば、バターだとか、ラードのようなものでそれを止めてあったと考えられます。又、鑑定書にあったように、発錆《はっしょう》現象がその部分だけを残して、湿気に因《よ》り点々と見られた事はそれを物語ると思います」  実に古田三吉の、優れた推理の行きわたるところ、一つの疑問も存在しない。 「ところで、我儘なお願いですが、林さんの為に、特に折り入って田中署長にお願いがあります。犯人は未だこの事実の前に検挙されていません。僕が、これから高田彦次郎君をここへ連れて来ます。どうか、それを自首として認めて頂き度いのです」  三吉の取計らいで、彦次郎は真犯人たる事を自認し、所轄署へ連行された。高田彦之進はあまりの事に貧血卒倒し、若い夫人は身も世もなく泣き崩れた。その痛ましい結末の一こまは、林署長にとって満足なものではなかったが、それもやむを得ない。三吉は慰めるように、 「父の暗い家庭生活に同情の極《きょく》、遂に恐ろしい兇行を敢《あえ》てした彦次郎君の心境には充分同情されます。歪んだものであるにしろ、父を想う至情は判ります。惜しむらくは、犯行に計画性が余りにも歴然である為、相当厳しい批判を受ける事でしょう」  田中署長はそれをひきとって、 「そうだね……我々がこんな事を云うのは逆説だが、むしろ衝動的な犯行であった方が……との、同情を惜しみません」 「いや……そう云われると、僕こそ愧《は》ずべきだ。あの私事の相談があると電話を受けた時、直ちに来ていれば、あの、もの優しい先輩に憂きめを見せずに済んでいる。僕は、彼の足下に身を投げ出して、足蹴《あしげ》にされても許されぬ過失を犯したような気がする……それくらいの努力を欠いた自分を情けなく思い苟《いやしく》もその職にありながら、罪の発生に一素因を与えた事は拭《ぬぐ》いきれぬ汚点と思う」  林署長は、帰りの自動車《くるま》の中で深く慚愧《ざんき》した。 [#地付き](一九五四年八月号) 底本:「甦る推理雑誌10「宝石」傑作選」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年1月20日初版1刷 初出:「宝石」岩谷書店    1954(昭和29)年8月号 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。