明治維新の際における朝鮮論 船越衛 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)髀肉《ひにく》の歎に |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)多少|紛紜《ふんうん》の事あるを -------------------------------------------------------  そもそも朝鮮論の起こりし原因については私はよく承知しませぬが、当時聞く所によりますと、政府は王政復古の事を朝鮮へ通告せられましたところ、その通牒の文信が前例と異って不遜であるとか、無礼であるとかいうことで、彼より抗議して来たということでありました。それは何故かというに従来幕府より朝鮮へ発する通牒文はほとんど対等の礼を用いたように思われます。それは以前対馬に以醒庵と称する禅宗の庵がありまして、当時京都五ヵ本山の僧侶中には学者が多くあったそうでありますが、これらの僧侶が交代にこの庵に詰めておって従来幕府より朝鮮への通告文書などは多く右の以醒庵にて稿を草せしめ、また朝鮮より幕府へ差し越す書類もこの庵詰合せの僧侶に訳させたもので、すなわち往復文書ともこの以醒庵において、双方によきように事情をつくして円滑に書き足したりしたとのことでありました。それ故当時対馬辺にて双方によきようにいうものを以醒庵と申したとか、いわば他にては筒井順慶というようなところを以醒庵と申したように聞いております。しかるに維新後、政府は右等の事情を承知しませぬので、直接朝廷より朝鮮へ通牒せらるることになりましたところ、その文言が幕府の時とはよほど異っていて、いわば属国へでも与えるかのごとく思われたものと見えまして、それがため前述のような抗議を惹起したものと思われます。爾来右件について文書をもって彼我の交渉を重ねつつありし間に、ついにわが国において彼の頑迷を憤り、とうてい度し難いものである、征伐せねばなるまいというような議論が生じたように聞いております。ついてはご疑問のありました木戸候の朝鮮論をご紹介致しますに先だち、故大村兵部大輔の事をお話致しませぬと、当時の事情やお話の順序等が明瞭になりませぬから、ちょっと大村大輔についてお話致します。同大輔は最も兵事上に長じた人でありまして、兵部省における大概の事務は同大輔によって処理されたのでありました。当時私は同省に勤務しておりましたから大輔は長官なりはた師匠なりで、その指導の下に立って常に先生先生といっておりました。以下先生といえば大村大輔のこととご承知を願います。諸君もご承知の通りかの戊辰の役は函館の平定をもって終りを告げたのでありますが、これは確か明治二年の五月十八日と存じております。この戦争が済むや否や先生はわが国の兵制を改革せねばならぬということをその筋へ建議されたのでありますが、その改革の事はすべて大阪において行うというのでありました。それらの趣旨は後からお話いたしますが、先生が右改革実行のためにいよいよ大阪へ出張せんとせらるるに臨み、密かに私に告げらるには、今日予がこの地を出発するならば必ず朝鮮を討たんとの論が起るに相違ない。しかしそれは今実行させてはいかぬ故ぜひとも止めなくてはならぬ。この事を木戸のもとへ往ってよく言ってくれよとのことでありました。そこで私はこれまで一向聞きませぬが、その朝鮮論云々の事は如何の趣旨でありますかと先生に問いましたところ、先生の言わるるには、奥羽戦争も止み函館も平定したるも、今日軍人中には戦争の足らぬのでなお髀肉《ひにく》の歎に堪えぬ者が多い、しかして朝鮮とわが国との間に多少|紛紜《ふんうん》の事あるを幸いに直ちに朝鮮を征伐せんとの論者が起って、又朝廷の中にもその論者がある。それは如何というに今日戦争は止みたるも、勝ち誇れる軍人らをこのままにしておいては駕馭することなかなか難かしい。むしろその鋭鋒を外へ向けて、勝たばすなわち可、敗るるもそれまでの事ではないかなどいって、いわば太閤が朝鮮を討伐したような趣旨に傚わんとするのである。太閤なればそれでも宜しかったかも知れぬが、天子御親政の今日、臣下の駕馭が難かしいからといって、成敗に関らず事を外国に構えてその鋒先を他へ転じようなどの政略は甚だ当を得ぬ。かりに駕馭が難かしいとするなれば、もし勝ったならば、なおさら駕馭が難かしくなるではないか、かく王政復古したる以上これより維新の大業を成就せねばならぬ時に当り、臣下の駕馭難きようにては、何といたそう、いずれにしても今日朝鮮に事を起すははなはだ不同意である。この事はほぼ木戸にいっておいたが、なお足下往って今世上唱うる朝鮮討伐論などはどこまでも止めらるるようよく言ってくれよ。もっとも木戸にも朝鮮論はあるが、木戸の論ならば予も同意する云々、とのことでありました。そこで又私はしからば木戸の論とは如何でありますか、と問いましたところ、それは木戸より直接に聞いてくれよと先生は申されました。よって私は木戸候の許へ参り、右先生よりの伝言を告げ、しかして公の朝鮮論とは如何と問いましたところ、候の言わるるには今日の朝鮮論は予も採らぬことは大村と同意である。しかし予の朝鮮論はわが国は久しく昇平に慣れたるも、今日海外の事を聞くと決して安心しておらるる秋《とき》ではない、外国にては兵事なり、学問なり、すべての事物が進歩発展すること実に驚くべきである、故にわが国においてもこの戊辰の戦争が止んだからとて、もう太平と安心してはならぬ、それには今日何とか朝鮮へ事を構えていわば足かけをしていわゆる敵国外患を設けて国人の惰眠を警醒し、その機を利用して国内諸般の事かれもこれも改革を断行しようというのであっていずれ朝鮮と戦端を開かねばならぬかも知れぬが、決して今にわかに討つなどいう論ではない。これは大村も同論である云々とのことでありました。すなわちいわゆる木戸候の朝鮮論なるものは深遠なる政略を含まれたものでありまして決して単に朝鮮を征伐するという論ではなかったようであります。しかるに後明治六年、征韓論の沸騰した頃にも、木戸候も同論者の一人なりしようにしきりに世上に喧伝されましたが、けだし前述明治二、三年頃候の朝鮮論を引いて誤り伝えたものと思われます。もっともこの外別に木戸候に朝鮮論がありましたかは知りませぬが、私の記憶にてはお話し致した通りであります。  次に前にもちょっとお話しておきましたが、大村先生がかの戊辰の戦争が済むや否やわが国の兵制を改革せねばならぬと主張された趣旨の概略をついでにお話致します。先生の主張は第一に陸軍を改革して朝廷の兵を設けねばならぬというのでありました。もっともその頃、陸軍は諸藩の兵があって今日ではそれがすなわち朝廷の兵であるゆえ別に朝廷の兵を設くるには及ぶまい。それよりは日本は海国なれば主として海軍に力を用うべしとの論もありましたが、先生の言わるるにはなるほど陸軍は諸藩の兵があってすでに戊辰の戦争にも功を挙げた藩々は少なくない。しかしその諸藩の兵がある故、陸軍は別に改革するに及ばぬとの論は採るに足らぬ。何となれば、国内にて事の起ったときはそれにて宜しからんも、もし外国と戦を交えたる時はすなわち現在兵制を異にし、器械銃砲を異にし、号令を異にする諸藩の兵を統率して、果して十分なる戦争をなし得るや決してあたわぬことである。故に陸軍の改革統一を先きにしようというのである。すなわち陸軍の改革を先きにしておけば、万一海外と事を生ずるも、譬えば閾の内だけは守備するを得るではないか、海軍を盛んにするとの論も一応もっともであるがしかしそれには今日金もなし、人もなし、故に海軍の方はまず士官だけ養成しておいて、陸軍の基礎ほぼ成るの後着手すべきである。しかして陸軍養成の根拠地を大阪に定め、士官学校、器械製造所等を大阪城址におき、旧城廓をそのまま使用すれば取締りもよく出来、したがって兵の訓練場にも便宜で、かつそれほど費用も要せず、又宇治は水利に富み水車を応用して器械を運転するの便あるをもって火薬製造所をおくに都合がよい。もし今日のままにて陸軍の改革をおかば、一朝国家事あるに際し、朝廷より諸藩へ出兵を命ぜらるるには勢い必ず薩長を主とせらるることであろう。今日薩長の人は皆あれほどの戦争をした忠臣であるけれども、物にはとかく弊の伴い易きものなれば戦争のたびごとにもし薩長兵を主とせらるるにおいては後世あるいは源平二氏を生ぜずとも限らぬ。故にこの際新たに朝廷の兵を養成し、これを模範として諸藩の兵を改革しもって、陸軍の統一を図り、第一宮様方が将帥の任にあたらせられて、いわゆる兵馬の大権はこれを臣下にお委ね遊ばされず、すべての兵権は朝廷において掌握せられねばならぬ云々、とのことでありました。そこで当時大総督の任にあらせられし有栖川宮ならびに陸軍卿の任に在らせられし仁和寺宮(後に小松宮、両宮御在職の年月日忘る)この両宮へはお附を兵部省より兼勤せしめねばならぬというので、有栖川宮へは桜井小丞、仁和寺宮へは私がお附きを命ぜられました。いわば今日の別当の如きものを兼勤したのであります。しかして先生が陸軍養成の根拠地として特に大阪の地を撰定されたことについてはなお種々の理由のあることなれども、それらの事をお話するとあまり長くなりますから、又他日お話することといたしましょうが、主なる趣旨は新規の大事業を起す時にはとかく衆人の耳目を引き易くしたがって議論百端を免れぬものである。ことに江戸は古より識者の集まる処なるゆえに新規の事業を創める時は種々の議論を生ずる。しかしてそれには各相当の理由のあることなれば、卿の言もまたよしにて朝廷においてもその取捨に迷わせらるることとなりてついには実行の障碍となる。しかるに大阪なればまずかかる憂いも少なく、しかのみならず交通の便も宜しきゆえに、先生は実行家にて議論嫌いの方なりしによってこの地において陸軍の基礎を立てようとの趣旨であったようでありました。しかるに先生の考案は多く当時の人に了解せられざりしをもっていたずらに西洋に心酔するとか、又は耶蘇教を奉ずるとか、とってもつかぬ議があって、あるいは暗殺など不穏なる浮言さえもありました。それゆえ先生は随分警戒されて大阪に往かるるに際し密かに私に告げらるるには、予は東海道へ先触れを出しておいたが、実は木曽路を行くから、万一用事が出来たら木曽路へ来るようにとのことでありました。しかるところ、先生出立の翌日、朝廷より私を呼びに参りました。よって私はまかり出でましたところ、岩倉公の言わるるには、大村に用事があるが、もう彼は出発したか、実は、大村が行うという軍事の改革についてはとかく世論|喧《かまびす》しく、薩州の内にも不同意を言う者が間々ある。しかるところ今朝村田新八、黒田了介両人が来て言うには、今回大村の意見を実行するということを聞いてだんだん考えて見ますと、大村の行わることは至当のように思われますから、今後私共は大村を輔けて共に兵部省の事をしたいと思います云々、とのことで誠に好都合で喜ばしいことである。しかし大村が承知せぬといかぬから、よくこの事を話して大村が右両人の言を容るるよう、誰か兵部省から大村の許へやりたいが、その人選をするようにとのことでありましたから兵部省に帰ってその事を披露しますると、兵部省においてはその役を私に命ぜられました。よって私は直ちに出立して木曽路に向い、甲府において先生に追いついて使命の趣きを伝え、かつ又私よりも村田、黒田両氏の言を容れらるるよう勧めましたところ、先生には暫時黙考せられましたが、宜しい承知いたした、しかしすでに山田市之丞を兵部省へ推薦しておいたが、あれは止めて品川弥二郎を登用あるように申してくれよと言われましたので私は山田より品川の方が勝れているのでありますかと問いましたところ、先生の言わるるには、軍事の智識は山田の方が勝れている、しかし山田では村田や黒田と議論が合わぬ。創業の際に議論ばかりしているようでは実行が出来るものでない。品川ならば黒田や村田と親密であるから、そういう憂いはないと申されました。そこで私は使命を全く了したので、心ひそかに喜んで岩倉公に復命いたしましたところ岩倉公は大いに喜ばれました。しかるに惜しいかな、間もなく先生は大阪において暗殺せられましたので、右黒田、村田二氏登用のことはそのままとなり、やはり元推薦された通り山田氏が登用されました。  これを要するに木戸候の朝鮮論は前申しました通り、単に戦争を主とするがごとき考えではなく、敵国外患を設けて、いわばその敵愾心を利用して国内諸般の改革を促進せんとの政略を含むもののようでありました。又大村先生が朝鮮討伐の論に反対されたのは、主として諸外国の形勢に鑑みて、当時わが国の兵制兵力にてはとうてい外国と戦争は出来ぬ故、まず兵制を改革統一した上にとの意見によるもののごとく、その陸軍を先きとし海軍を後とすべしとの論は当時財政の情況等よりみてもまことにやむをえぬことであったと思われます。されば両雄の見るところ自ら一致しておったもので木戸候は深く大村先生の手腕に信頼し、先生また常に「木戸は先見の明がある」といって称揚されつつありました。 底本:「現代日本記録全集3 士族の反乱」筑摩書房    1970(昭和45)年5月15日初版第1刷発行 入力: 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。