明治初年の社会風俗 奠都三十年 岸上質軒 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)元|御用達《ごようたし》町人の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)元|御用達《ごようたし》町人の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)百事|※[#「梁−木」の「さんずい」に代えて「井」、U+5231]設《そうせつ》、 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]士族の商法[#「士族の商法」は中見出し] [#1字下げ]士族の帰農帰商[#「士族の帰農帰商」は小見出し]  徳川十五代の将軍たりし慶喜公には、去年(慶応三年)の暮を以て。将軍職を辞されしより、今年秋の初めよりして、旗本御家人なんどいう人々、ようやく家禄を奉還しけるが、また元|御用達《ごようたし》町人の輩《やから》、従来ほとんど無職なりしものども、今時世の変に動かされて、いずれも帰農帰商せしがうちに、骨董舗《こっとうほ》となりし者もっとも多かりしは、祖先以来の器什《きじゅう》をそのまま商資としたりなるべし。  これにつきては諸種の飲食店を開けるも少なからず。おおむね旧邸宅をそのままながらに新店舗となしたるなれば、談話家《はなしか》どもの言草なる、昼食《ちゅうじき》したためんとて立寄りたる小賈人《こあきんど》の、汁粉屋《しるこや》の主人に、「そのほう町人の分際として」なんど罵倒《ばとう》されたる滑稽談の起こりけるも、実は社会大変に際する過渡時代の悲劇なるべし。成島柳北翁《なるしまりゅうほくおう》が向島にて帰農しけるもこのおりなり。 [#1字下げ]版籍奉還[#「版籍奉還」は小見出し]  さて明治二年の春に、薩長土肥の四藩連署して、版籍奉還の議をたてまつり、ついで嘉納《かのう》あらせたまいしかば、いわゆる士農工商といえる四民の制度ここに廃《すた》れて、士族多くはその奉還録を資とし、久しく蔑視《べっし》しきたりたる、他の三民の列にいりしが、素養なきの職業、もとより成功すべくもあらず、いわゆる槍一筋《やりひとすじ》の武士もたちまちにして資産を失いては路頭に彷徨《ほうこう》し、はては賤民の群に入り、社会の秩序はここに壊れぬ。  かくて大半は失敗に終りしがうちに、工となりしは多少技芸を有せるもの、農となりしはいくぶんか他の先輩の温篤《おんとく》なるため、もしくは旧領地に帰耕せし等の情誼ありしがため、やや失敗の度の軽かりしに比し、商となりしものは、あたかも文盲漢《ぶんもうかん》にして才士学者《さいしがくしゃ》の間に投じ、しかもたがいに輸贏《ゆえい》を争いたるがごとき状況なりしを以って、失敗・大失敗に終らざりしものはほとんどまれ。 [#1字下げ]士族の商法[#「士族の商法」は小見出し]  これにおいてか士族の商法といえる世諺《ことわざ》は起こりぬ。あとより見れば、もとより自然の形勢なりしなり。遊泳《およぎ》の術《すべ》の何たるを知らずして、急湍《きゅうたん》激流の中に入る、その溺没《できぼつ》をとるの道たること、智者を待ちて知るといわんや。  しかしていわゆる士族の商法の先鋒たりしものは、番町・本郷・牛込・四谷・青山へんの山の手、または下町としては下谷・本所・深川・神田へんなる旗本御家人の土着帰商家に多かりけるが、帰商せざるは駿河に退き、帰商しけるも失敗ののちは、同じく同僚のあとを追いて、沼津、静岡に行きたりける。 [#1字下げ]邸宅売買[#「邸宅売買」は小見出し]  ここにおいてか、邸宅売買のことさかんに起これり。しかも江戸はいつ武蔵野のむかしに帰らんも計《はか》られざる天下人心|恟々《きょうきょう》のおりからなり。特には日にまして人々稀少におもむき、諸種の営業すべて共倒《ともだお》れの時節なれば、誰ありてか無用の土地家屋を購入せんとするものあるべき。ここにおいて旗本某氏が邸宅を売りて駿河《するが》に赴かんとするに際し、百万|購買者《かいて》を捜したるのち、わずかに近傍の銭湯屋が、その家宅と庭樹《にわき》とを焚料《たきぎ》のために買入れたるも、塗庫庭石《ぬりごめにわいし》と邸宅《やしき》とは、贈らんと言えどわれ請受《こいう》けんというものなかりしも事実なり。  三十年後の今日にありては、五千余円に値《あたい》すべき邸宅を引請けし人にして、当時はその管理に無用の金銭を費すに困《こう》じ、ついに酒一升を付して知れる富農に贈りたるも事実なり。その他|推《お》して知るべきのみ。 [#1字下げ]邸宅売買[#「邸宅売買」は小見出し]  かくて二年七月には、旧幕臣・用達町人ら家禄奉還後の町屋敷・上地《あげち》・受領地《ずりょうち》・上納地払下げの事ありしも、また買受けんとするものまれなり。さるにいっぽうには大小名以下の、領地知行に向うて去るもの多かりしかば、空墟廃地いやまし殖ゆるのみなりしが、旗本御家人の多かりし九段あたりより神保小路《じんぼうこうじ》(今町)、小川町へん、すなわち今日|熱閙《ねっとう》の巷《ちまた》は、今やむかしの夢となりぬ。  さてこの年の八月には、「府下市在すべて桑茶《そうさ》培養を専一《せんいち》と心得べき」旨|令達《れいたつ》あり、これより市内いたる所に、桑茶植附所の標杭《ひょうぐい》たちて、市街の盛観はここに壊れぬ。 [#1字下げ]新町屋の誕生と町名変更[#「新町屋の誕生と町名変更」は小見出し]  おりしも明治三年の末より、神田橋|外《そと》なる薩摩藩邸の旧址に町屋できて、三河町にならべれば、初めは新三河町とこそとなえたりしが、五年よりはさらに美土代《みとしろ》町と改められぬ。  この地神田区域の咽喉《いんこう》にして、神田の二字の古訓をミトシロと読みしにより、美土代の字を用いしとぞ。これらは一面に王政復古の名声に眩《げん》して、ただちに当時の日本を、二千年前の古態《こたい》に復《かえ》さんとする国学者流も多かりしかば、さる学者たちの考案《かんがえ》なるべく、その地の近隣に、幕府時代一色姓の旗本二家相対して邸宅を構えしより俚俗二色小路《りぞくにしきこうじ》と称《とな》えけるを、錦町としも名づけたるは、事宜《じぎ》に適《てき》せる命名ならんか。さるに小石川なる箪笥《たんす》町を、のちに竹早町と改めたる、箪字の草体を竹|冠《かんむり》の早字と誤解しける無識のほどこそおかしけれ。  高台《こうたい》変じて桑田となり、いままた繁栄の大都となれるにつきて、新たに町名のできたるもあり、あるいは在来の町名を改められしもあるが多きはもちろんながら、その命名の種類に至りては、まず右の三種ぞ標本なるべき。 [#3字下げ]破壊の時代[#「破壊の時代」は中見出し] [#1字下げ]築地居留地[#「築地居留地」は小見出し]  元年の冬に、築地鉄砲洲《つきじてっぽうず》へん一円の諸侯の第址《だいし》を毀《こぼ》たれしは、これぞ築地居留地ならびに新島原の遊郭開くるためなりしが、四年にして遊郭は吉原ならびに根津に移され、居留地のみは今に残れり。  さて遊郭の跡は普通の市街地たりしが、そのうち新富町に劇場守田座は起こりたり、守田勘弥の所有にして、すなわちのちの新富座なるが、建築その他万事旧様によらずして、これより櫓《やぐら》および釣看版《つりかんばん》は廃されぬ。釣看版はその有無を見て、劇場の開否いかんを知られしなりき。  そもそも明治初年には、初般《しょはん》の事物すべて変りにかわりもてゆき、失意者は愕《おどろ》き哀しみ、得意者は誇り喜ぶに日もこれ足らぬ様《さま》なりしが、四年の四月には庶人の騎馬を許されたり。これ旧時の圧制を解かれしまでにて、商工諸人に馬を蓄《か》えるはなかりければ、白馬銀鞍貴公子に擬するものもあらざりしかど、いと面白き反動は士族の上に現《あら》われたり。  そは庶民乗馬の自由令に関係したる事にはあらで、万事の制度壊れ(当時いまだ変化とまでに至らず)たる際、武士と言えば必ず結髪着袴《けっぱつちゃっこ》両刀を佩《お》びざるべからざる旧時の制度も、今は犯したりとて制裁をも受けず。はた士族の商法にむかし気質《かたぎ》の傲慢《ごうまん》顔も、さりとは面目なくやありけむ。断髪無刀、衣裾《すそ》はしょりて花田絹のパッチを穿《うが》ち、さもいわゆる町人らしき風情にいでたつもの、好奇の青年者流《せいねんしゃりゅう》に多くなりて、柔懦《じゅうだ》のふうここに起こる。 [#1字下げ]断髪脱刀[#「断髪脱刀」は小見出し]  かくて諸藩の士卒の肩に錦片を付したるも見えずなりて軽薄者流《けいはくしゃりゅう》の薩摩言葉まねけるも減じ、小児の遊戯の戦争ゴッコその跡を断ちて、奉還士族の貧しからぬは、すこぶる遊惰無検束《ゆうだむけんそく》のふうに流れ、もちろん六年の廃刀令出でける頃には、府下はおおむね断髪脱刀の人のみとなりて、しからざるものは田舎士族、もしくは頑固旧弊の称を受くめり。  これぞ一般風儀破壊の一因にして、この頃よりは佩刀乗馬《はいとうじょうば》のためにしたる割羽織《わりばおり》の制も廃しぬ。葬儀に上下着くるものも東京にてはまれに見受くるのみに至りぬ。 [#1字下げ]社会秩序の破壊[#「社会秩序の破壊」は小見出し]  これら形而下の破壊にはもちろん悦《よろこ》ぶべき事もあり、はた早晩|然《しか》せざるべからざる事もありたり。ひとりうれうべきは社会秩序の破壊すなわち四民の階級亡びたる影響として、および数年前の浪人壮士の、一旦風雲に際会して朝廷の権要《けんよう》にのぼりたる結果として、形而上徳儀風儀の破壊これなり。  当時の巨商富豪、端正なりしがために産を破りしもの多く、姦猾《かんかつ》なりしがために産を興ししものすくなからず。ここにおいて江戸商人の風儀破れ、賤工卑夫《せんこうひふ》また時世の激変に駆《か》られて、あるいは地方の無頼と伍《ご》し、あるいは滄桑《そうそう》の光景におどろきて恒徳恒心の美性を失い、ここにおいてか江戸児|颯爽《さっそう》の気概壊る。  ひとりこれのみならず、昨日の賤隷《せんれい》は今日の朝臣となりて気|驕《おご》り意満ち、くわうるに経戦殺伐の勇気いまだまったく平かずして、厚俸優禄は懐袖《かいしゅう》に重し。多くはこれ年少気鋭の徒、しかも匹夫礼節《ひっぷれいせつ》に嫻《なら》わず、銭あれば飲むべし、酔興酣然《すいきょうかんぜん》、苑柳野花《えんりゅうやか》誰かおのれの攀折《はんせつ》を禁ぜんというもの、これ当年得意の客。  しかして禄を失し産を亡ぼし、家を喪し、父母兄弟は貧困に病み戦闘に殉ず。かなしこの煢《けい》たるひとり、潔《いさぎ》よくせんか。身死して病者もまた仆《たお》れん。辱《はじ》を包み垢《あか》を被らんか。衣食あまりありて死者また祀《まつり》を存ずるを得んというもの、これ当年可憐の少婦。いわんや紅顔いにしえより薄命にして、駿馬《しゅんめ》おうおう痴漢の厩《うまや》に養われ、加え人心|阿堵物《あとぶつ》の前に弱くして、氷雪の操常に冶郎《やろう》のために奪われやすし。  ここにおいてか風紀の頽壊《たいかい》はつねに乱後に伴うて生ず。わが破壊時代の現象また実にこれにほかならず。しかして他事は一起一仆、汚隆おうおう常ならざるに、ひとりこの一事のみ。今に至るまで三十年間依然たるものは、その責帰するところなくんばあらず。けだし一半ば正に当路者《とうろしゃ》にあり、しかして他の一半は社会制裁力の微弱によれり。 [#1字下げ]秩序破壊の結果[#「秩序破壊の結果」は小見出し]  しかも社会制裁のかく微弱なる所以《ゆえん》のもの、また秩序破壊の結果いまだ真正なる名誉心、いな徳義|廉恥心《れんちしん》の恢復せられざるに職由《しょくゆう》すべし。さるにても、何を以ていまだ真正なる徳義廉恥心の恢復せられざるやを窮尋《きゅうじん》せば、これを日なお浅きに帰せんか。そもそもまた皮相的文明、形而下的開化の普及に帰せんかな。  そもそも維新の革命なるものは、確かにわが邦人の迷夢《めいむ》を覚まし、宇内《うだい》列強とともに駢《なら》び馳せて光を争わんとするに至るの端緒にして、大和民族二百年来の惰眠《だみん》を覚醒《かくせい》したる警鐘に相違あるなし。しかも利のあるところは弊また必ずこれに伴う。その闇黒なる裏面を熟察すれば、おうおうにして慨嘆長息すべきものあり。  当初百事百物ことごとく破壊神の冥管《めいかん》中にあるにあたり、さなぎだに新奇に耽《ふけ》らんずる日本人種は皆先を争うて一意旧を棄て、新を迎うるに忙しく、誰か敢えて取捨選択するの余閑《よかん》を有するものあらんや。 [#3字下げ]開化の気運[#「開化の気運」は中見出し] [#1字下げ]江戸を号して東京[#「江戸を号して東京」は小見出し]  時これ慶応戊辰(四年)八月、江戸を号して東京と改められ、その翌九月十六日、元を明治と改めて、一世一元の制を定めたまい、この月二十日、今上陛下には西京|御発輦《ごはつれん》、十月十三日というに東京|着御《ちゃくご》、未《み》の刻にぞ西丸《にしのまる》に入らせたまう。  貴賤老若、奉迎して拝しまいらするもの、御道筋に填咽《てんいん》して、さらに錐《きり》を立つべき所もあらず。 [#1字下げ]御東幸御祝儀[#「御東幸御祝儀」は小見出し]  かくて十一月には御東幸御祝儀として、市中一般に御酒《みき》を賜わる。一町ごとに鯣《するめ》一連・土器一片木台を添えられ、名主へは一人ごとに瓶子《へいし》一対に酒を入れてぞ賜わりける。  この時物持の人夫|宰領《さいりょう》、皆|黄紅《きあか》なんどの手拭もて鉢巻し、あるいは新たに旗幟《のぼり》を造りて、その竿頭《かんとう》に種々の造り物をとりつけたるを先頭《さき》に押し立て、帰路《かえり》には酒吹sたる》を車に積み乗せ、鉦《かね》太鼓にて囃《はやし》ものして、おのおのその町内に曳《ひ》かしむるに、途中よりは男女うちまじりつつ、陸続《りくぞく》とし随《したが》いゆく。  かくてその翌日よりは、恩賜の御酒の衰Jきとて、市中おおかた家業を休み、山車屋台手躍《だしやたいておどり》をはじめ、町々思い思いの練物《ねりもの》なんど工夫して、昼夜を言わず家ごとに宴飲舞踏《えんいんぶとう》に耽《ふけ》りけるさま、二大祭礼と聞えたる、神田山王の神事にもまさりて、人々他事なく喜び狂しにけるも道理《ことわり》なるべし。かかること三、四日間にわたりて、世にこれを天盃祭《てんぱいさい》とぞいいける。 [#1字下げ]府下の自治制変更[#「府下の自治制変更」は小見出し]  ついで明治二年となれば、東京町々の名主二百三十八人を東京府に召し出されて、「今般市中御取締筋ご改正につき、一同役儀ご免」の趣申しわたされ(三月十日)、翌日また一同召し出されて、世話係六人、中年寄《なかどしより》四十七人|添年寄《そえとしより》三十九人任命せられ、府内を五十区に分たれて、毎区中年・添年寄おのおの一人ずつをおかれ、その余のものには御手当を賜りけるが、六月よりは一小区に町年寄五、六人、町用掛ないし二十人を人選によりて任命あり。  従来の町々|自身番《じしんばん》といえるを廃して、新たに町用取扱所を設けられる。これ府下自治制変更の第一着歩とは見えたりけり。かくて所々町名不相当の分を改め、あるいは隣町へ合併などせらる。 [#1字下げ]戸籍編製と洋行の自由[#「戸籍編製と洋行の自由」は小見出し]  この自治制変更に先だち、戸籍編製という事はすでに元年に達せられしが、二年三月さらに令あり、これよりようやく厳正とはなりぬ。  ついで洋行の自由を許可あり。条約締結をおわりたる国国へ赴《おもむ》かんと欲するものは、その旨願い出ずべしとぞ。これまた二百年来禁じられたる、個人の外国行きを許さるべきの懿旨《いし》なるべし。ここにおいてか有志の男女、海外留学に赴くもの少なからず、ために国運の進歩を助成しけること大なり。 [#1字下げ]馬車営業と牛肉店[#「馬車営業と牛肉店」は小見出し]  時に東京芝口一丁目に久右衛門といえる人あり、ほか八人の同志とともに馬車営業を出願して許可あり、国人初めて馬車に乗る。時に二階付馬車というものありしが、危険のおそれなきにあらずとて、数月にして禁止せらる。その後府内に多かりし、荷物運送の牛車というものようやく減ず。牛馬代謝の運なるにや。  そもそも牛肉店というもの、この頃初めて神田に開け、従来肉食のもっとも普通なる標本たりし雁鍋《がんなべ》というもの、ようやく棄《すた》れゆきにける。  雁牛栄枯を異にすというべきにや。当時百典競い起これるが中にも、百事|※[#「梁−木」の「さんずい」に代えて「井」、U+5231]設《そうせつ》、もとより不備のことも多し。江戸四里四方禁制と定まりいたる銃猟も、今は黙許の状《さま》となりて、誰咎むるものも無きより、近郊の鴻雁《こうがん》ようやく非命に仆《たお》るるもの少なからず。  したがって府内諸所の雁鍋店はその資料を欠くに至り、ついに牛を以てこれに代えよというにぞ至れるならんかし。  徳川氏が惜《おし》みて以て他人の猟獲を許さざりし鶴も、この際同じく族滅の不運に会して、数年の後には、青空美日、江戸児の聞くに慣れて太平の象ありとしたる|※[#「口+僚のつくり」、U+5639]唳聞天《りょうれいぶんてん》の声をまったく聞かずなるに至りたるも、同じ原因にてぞあるべき。 [#1字下げ]救育所と養育院[#「救育所と養育院」は小見出し]  さてこの時よりして、三田一丁目に救育院設立せられ、|※[#「魚+鐶のつくり」、U+9C5E]寡孤独《かんかこどく》その他貧民を救養せられ、つづいて麹町へんにも設立あり、かくて乞丐《こつじき》非人の徘徊《はいかい》して物乞うことを厳禁せられ、万一|施与《せよ》するものあらんには、永くその丐《かたい》を扶育《ふいく》せざるべからずとさえ、民間にては言いふらしぬ。明治四年の冬に至りて、教育書は廃されけるが、乞丐の類はついに今日に至りて、浜の真砂のいやましに増しけるも、やむことを得ざる世の習《なら》いなるべし。  のちに明治九年に至りて、今の養育院の出来たるは、畢竟《ひっきょう》救育所設立と同じ精神に基きしなるべく、その資本は江戸時代の名相と聞こえたる松平楽翁公が、制度を設けて積立てさせたる、江戸市民共有金の、積《つも》り積りて巨額となりたるが遺れりけるを、その幾分を充てたると、有志の義捐寄附《ぎえんきふ》とになれり。 [#1字下げ]新聞と機関雑誌[#「新聞と機関雑誌」は小見出し]  そもそも社会の耳目、世運発達の機関とぞ目せらるる新聞紙および雑誌というものは、早く文久年間より、バタビア新聞・中外新聞・六合|叢談《そうだん》など発刊されしが、明治元年いらい二、三年間に新聞と名のるもの、 [#ここから1字下げ] 中外新聞  内外新聞  遠近新聞  明治新聞 新聞雑誌  日要新聞  日日新聞  都鄙新聞 江湖新聞  西洋新聞  外国新聞 [#ここで字下げ終わり] など発刊せられ、これより同名異名の新聞、あるいは仆《たお》れあるいは起こりて、ついに今日の、 [#ここから1字下げ] 東京日日新聞  日本    読売新聞  国民新聞 中外商業新聞  時事新報  報知新聞  中央新聞 東京朝日新聞  毎日新聞  万朝報   東京新聞 やまと新聞   都新聞(以上東京) [#ここで字下げ終わり] 等となり、大阪には [#ここから1字下げ] 大阪毎日新聞 大阪朝日新聞 [#ここで字下げ終わり] 等あり、京都には [#ここから1字下げ] 日出新聞 [#ここで字下げ終わり] 等ありて、その他各県下より北は北海道、南は台湾に至るまで、諸州の都会には、おおむね一種ないし二、三種の新聞を発行せざるはなきに至りぬ。  これは政党というもの出来て、おのおのその機関に供せると、府県の公報を登録するの必要よりして、かくは全国に勃興しけり。しかも官報の発行は明治十八年の頃よりなれど、京都における太政官日誌、東京における鎮将府日誌は早く元年よりはじまりて、おのずから官報の先駆をなし、ついで普通の新聞紙として、外国人の発行せるには、 [#ここから1字下げ] 日進新事誌  ブラック新聞 [#ここで字下げ終わり] の類ありたれど、新聞紙に関する条令出でて、外国人は内地において新聞を発行すること能《あた》わずなりて、これらはいずれも覆滅《ふくめつ》したり。  さても新聞紙の勢力を現わしけるは、幕府の遺老として江湖《こうこ》に名声|嘖々《せきせき》たりし、栗本鋤雲翁は郵便報知新聞により、成島柳北翁は朝野新聞を統轄し、筆陣縦横の福地源一郎氏は日日新聞の主筆として、三社たがいに鼎立《ていりつ》し、輿論《よろん》を動かし朝政を論議したるの時代にして、明治六、七年よりおよそ十年があいだなりき。当時の一顕官は栗本・成島・福地などはともに前日の幕府党なれば、連衡《れんこう》して薩長の新政官に当るならんとさえ評したりしも理《ことわり》や。かの十四年の開拓使払下事件を中止せしめたるごときは、東京日日の力なりき。  さるも今は昔の夢となりて、新聞紙の勢力はいたく衰えたるがごとし。あるいはいう新聞紙が上流すなわち政府に対する威信は失墜しおわりて、下層すなわち劣等社会に対する権勢《けんせい》は張大せりと。それしかり、げにそれしからん。  機関雑誌というべきものは、明治六年に明六雑誌出でたり。こは当時の碩学《せきがく》名流が団結して、議論を上下したるものにして、男女同権の可否なんど、たがいに鎬《しのぎ》を削りて論戦、世間を聳動《しょうどう》し、同じく碩学《せきがく》名流の団結にして、学理学説を研鑽《けんさん》せんため、洋々社談を発行す。両種は一は政治風教、一は学術の雑誌として、ともに世間に重んぜられんしも、前者は官吏の政論を禁ぜられしために亡びき。いわゆる碩学名流中には大小の朝官多かりければなりけり。  さて明治十四、五年以後よりは、諸種の雑誌全国にわたりてふえにふえぬ。営利的なるもの、いわゆる抱負の機関に供せんとするもの、諸種団体の交通報告に便せんとするもの、数えゆきなば限りもあらじ。 [#1字下げ]博覧会と博物館[#「博覧会と博物館」は小見出し]  招魂社(靖国神社)造営の工はじまりし頃(明治五年)、湯島聖堂を改めて大学校と称せられしが、明治五年の三月には、その湯島大学校に博覧会をぞ開かれたる。古書古画古器珍物を陳列ありて、人々さかんに群集しけるが、同七年には古書画展覧会を開かる。これかかる事のはじめなり。  書籍館は明治五年、同じく湯島博物館中におかれ、勧業博覧会の第一回は、明治十八年八月を以て上野に開かれ、第二回は十四年に同じ所に開かれしが、そのおりの美術館のいと宏荘《こうそう》に建てられしより、これを博物館とぞせらる。そのおり木造の大館四棟建ちしを、その二棟は今も残りて、諸種の共進会、展覧会は多くここに開かるめり。今の動物園もまた当初の博覧会における一部の規模を拡張したるものなるべし。しかして勧業博覧会を他地方に開設したるは、さる二十八年に第四回を京都に開きたる、これその事のはじめなり。 [#1字下げ]銀座の煉瓦と眼鏡橋[#「銀座の煉瓦と眼鏡橋」は小見出し]  さても明治二年の暮、十二月二十七日の夜半《よわ》ばかり、元数寄屋橋の米屋にて、春の餅つく竈《かまど》より失火し、南鍋町・南佐柄木町・山下町・加賀町・八官町・山城町・九屋町・槍屋町をも焼払いて、尾張町・銀座町より木挽町におよび、南は新橋を焼落して汐留・芝口・愛宕下のへんまで至り、その焼跡長さ九町幅平均して四町半とは聞えたり。  こえて同五年また和田倉門外より失火して、ふたたび銀座近傍を焼夷《しょうい》せることおびただし。ここにおいて家屋建築の制を令せられ、すなわち、いわゆる銀座の煉瓦建造の端を開きぬ。  資金は例の楽翁候の余恵なる共有金を用いたり。建築なりて市内ならびに近郷近在より、見物に出ずるもの多し。なお西洋ふう家屋の珍らしければなりけり。在郷の翁媼《おうおう》などこれを横浜造りと称しけるもおかし。  筋違見附《すじかいみつけ》などを毀《こぼ》ちたる石材を用いて、筋違橋を欧風の石橋に改造し、万世橋と命《なづ》けたるを眼鏡橋と呼びたるより、今なおメガ子《ネ》と通称すると等しきにや。たださすがに横浜造りの名は都人の称呼にのぼらでやみぬ。 [#1字下げ]人力車、自転車[#「人力車、自転車」は小見出し]  当時の錦絵には、万世橋の賑い・銀座の煉瓦・高輪の鉄道・駿河町の三井銀行、やや古くして会津落城・上野戦争・鳳輦東幸《ほうれんとうこう》の行列ならびに新らしきものにては馬車・人力車・自転車を描きたるが多かりき。  人力車は明治三年、本銀町の高山幸助といえる人、官許を得て製造し、初めは日本橋の南に二、三輛を置き、車夫をその側におらしめ、幟《のぼり》を立てて乗客を待ちけるが、次第に広く行なわれて、はては全国におよべるのみか、遠く外国にまでおよびて、支那にては東洋車と呼ばれ、欧米人には日本のジンリキサンとぞ称せらる。  当初さかんに行なわれし車は、黒・赤・青・黄・梨子地《なしじ》そのほか思い思いの色に塗りて、景色・人物その他思い思いの形象を極彩色もて画きけるが、紳士縉商自用の車を造るにおよび、黒塗金紋《くろぬりきんもん》というものはじまりて、今はおおかたこれに限れり。江戸市中に多かりし駕籠《かご》は人力のために亡び、駕籠屋は変じて人力車宿となれるが多し。  自転車も同三年の秋頃よりはじまりけるが、当時ははなはだ行なわれず、十四、五年よりようやくさかんに、二十四、五年より大いに実用的に流行しける。 [#1字下げ]理髪店と太陽暦・三大節[#「理髪店と太陽暦・三大節」は小見出し]  明治四、五年以後の錦絵に、市中の光景を画けるには、おうおう店頭にアルヘイ糖然たる招牌《かんばん》を掲ぐ。これいうまでもなく理髪店の標章《しるし》にして、すなわち髪結床《かみゆいどこ》の変化せしなり。  その初めは明治四年の春の頃、府下|常盤橋外《ときわばしそと》なる某理髪店より起こりけるが、この年の末の頃より髪を斬(切)るものようやく多く、当時は女子にも斬|髪《ぱつ》せしものおうおうあり。かくて斬髪は男子一般のふうとなりて、例の招牌は水村三郭にまでおよべり。  時に明治五年十一月二十日、従来用いられたる暦法を改正し、太陰暦の制を廃して、さらに太陽暦を頒《わか》たる。この年十二月三日を以て、明治六年一月一日とすべしとなり。これより正月元日および朔日《ついたち》、晦日《みそか》などの称もなくなり、その一月の一日には人日《じんじつ》(正月七日)、上巳《じょうし》(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽《ちょうよう》(九月九日)の五節を廃して、神武天皇祭(四月三日)、天長節(十一月三日)の両日を以て、祝日と定められしが、のちに紀元節(二月十一日)を加えて、三大節とは称しけり。  これより雛祭《ひなまつり》、五月|幟《のぼり》および七夕祭というもの一時まったく廃《す》たれけるが、ようやくにして、雛と五月の鯉のみは復旧したれど、乞巧奠《きっこうでん》と外幟はまったく影をひそめけり。 [#1字下げ]演劇の変遷と改良論[#「演劇の変遷と改良論」は小見出し]  ここに明治初年以来の演劇変遷の概略を一括《いっかつ》すれば、浅草猿若町なる三芝居は江戸より東京に引継ぎたるまま依然たりしが、明治二年の頃にや神田加賀原に薩摩座の人形芝居はじまり、二、三回にして女芝居となりぬ。座頭《ざがしら》は今の粂八《きゅうはち》なりき、  四年正月には山内容堂公のお好みにて、守田座において翁渡し大名題読立[#「翁渡し大名題読立」に傍点]あり。これぞ貴人が劇場に関与するの初めともいうべし。翌五年十月島原に新築したる守田座において初興行あり。いわゆる三芝居の他に転じたる嚆矢《こうし》にして、八年よりこの座新富座と称し、東京第一の劇場とはなりぬ。  十年一月、三井銀行にて三条、岩倉両候および東京府知事を招待し、団十郎の勧進帳、菊五郎の操三番叟《あやつりさんばそう》などを演ぜしめて覧に供しける。やがてかかる事の初めなり。  それより十二年三月、英国公使をはじめ、お雇いの仏・独・魯・墺・米など各外国人三十三名より、新富座に引幕を送り、さらに蘭人よりは天幕を送る。これ同座より招待を受けたるに酬《むく》いたるものにして、この時同座にては脚本を英文に飜訳して、来観の外客に便したり。この年五月久松町なる喜昇座は久松座と改称し、八月初興行をなす。これを第二の大劇場といえり。この座初めて開場式という事を施行し、俳優一同洋服にて参列、団十郎祝文を朗読す。新富座にて来遊中のグラント将軍を招待し、将軍より緋羅紗《ひらしゃ》の引幕を送りたるはこの年の七月なり。その翌月より同座初めて夜間の興行をなし、英国俳優の一座を加えて、西洋芝居一幕を|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《はさ》みたれど、観客はなはだ少なくして、期日を待たず閉場したりき。  十三年六月、時の外務卿たりし寺島宗則氏は、その白銀《しろがね》の邸に夜会を催し、十四年一月、東京府知事松田道之氏は、浜の延遼館に新年宴会を開きて、同じく団(団十郎)・菊(菊五郎)・左(左団次)三優などの演劇を張行す。  おりしも同年の三月にはハワイ国王カラカウワ殿下の来朝あり、また新富座に劇をみらる。従来賤民視せられたる俳優の大々的出世をなしけるも、この頃よりの事にして、市川団十郎の堀越秀、尾上菊五郎の寺島清、市川左団次の高橋栄蔵なんど出来たる。その口実には従来本姓名を遺忘したるといえるもおかしかりしが、とにかく戸籍訂正の請願はいれられたりき。時の松田府知事は世に聞えたる好劇家なりしなり。  さて二十二年十月に今の歌舞伎座は落成して、帝都第一大劇場の位をば奪いたりしが、電気燈を用い、および建築にも西洋風を加味したるはこの時よりぞはじまりける。ただし十五年に久松座再築のおりよりして、やや洋風を模したるも、そは称道すべきほどにあらず。  明治十七年、八年の頃、京都四条の芝居において、世にいう壮士《そうし》の角藤定憲というもの、同じ一派の人々とともに壮士芝居を興行し、二十二、三年の頃、京阪《けいはん》のあいだにて落語家およびニワカ師たりし川上音次郎、東京にのぼりてまた壮士芝居の名を以て興行しけるより、壮士芝居またの名、書生芝居というもの、今にようやくさかんなり。  そもそも維新以前の江戸にありては、俳優は力士の臣隷のごとき状態あり。また吉原の遊郭に入ることを禁じられしが、明治以来ようやくこの禁もなくなりて、また力士と同等以上の芸人となり、貴人学者ともおうおう交際するに至れると、はた世の考証理窟を尚《とうと》ぶ風潮よりして、演劇改良論は起こり、坪内氏の夢幻劇《むげんげき》論出ずれば、一方に二十一、二年の頃よりして、団十郎のごときはすこぶる活歴《かつれき》論に熱中し、いちいち故実を正し、なるべく事実に拠らんとするより、多数の観客はその趣味の乏しきに辟易《へきえき》して、ついに相率いて守旧的俳優の演場に赴く。  議論はともあれ、営業としての活歴芝居は常に失敗を重ねければ、その反動として、千代萩《せんだいはぎ》・揚巻助六《あげまきすけろく》のごときものふたたび各所に喝采を博するに至り、あるいはさかのぼりて公平法問諍《きんぴらほうもんあらそい》・暫《しばらく》などさえ演ぜられぬ。これ以て世態の一斑を見るにたるべし。 [#3字下げ]演説と舞踏[#「演説と舞踏」は中見出し] [#1字下げ]男女同権と自由結婚[#「男女同権と自由結婚」は小見出し]  欧風家屋、西洋料理、馬車、洋学、洋服、汽車、電信、欧米の風物日に月に輸入せられて新奇にはしる人心《ひとごころ》は、一に欧化に傾きぬ。堂々たる漢学の大家も多く衣食の計に窮して、生《なま》英学者はかえって乏しからぬ月俸を受くるもあれば、青年子弟は競うて髪を断ち洋服をつけて、ただ理《わけ》もなく洋書を学び、西洋人を理想の聖賢とも豪傑とも仰ぎて、自国のふうは万事万物|毀《こぼ》ち棄つべきものと思えり。  ひとり青年子弟といわず、先進先覚者にありても男女同権、自由結婚を唱道するもの多くなりて、森|有礼《ありのり》氏が福沢諭吉翁を媒妁として、西洋式の婚礼を行い、妙齢の佳人が翠《みどり》の黒髪おし斬りて、和服に靴を穿《うが》ちて大道《だいどう》を濶歩《かっぽ》し、僧侶は肉食妻帯の禁を政府より解かれて、円顱《えんろ》(僧の頭)ふりたて梵妻《ぼんさい》とともに牛肉店頭に酔吟《すいぎん》せるなど、要するに破壊時代の余勢にして、欧化時代の先鞭たるなり。 [#1字下げ]酸漿提燈《ほうずきちょうちん》[#「酸漿提燈」は小見出し]  時にあたかも明治十二年、理想的英雄の好標本たる米国のグラント将軍来朝あり、上下の歓迎|狂《きょう》せんばかりなりけるも道理《ことわり》ぞかし。グラント、新富座を見て引幕を送れば、そのために劇場たちまち大入りを占め、夫妻上野に苗木を植うれば、グラント檜・グラント玉蘭・某《それ》の君のお手植よりも尊し。  グラント一夕《いっせき》の茶話に、不忍池畔の競馬場に適するをいえば、たちまち競馬場は築かれて瀟洒《しょうしゃ》たる小西湖畔の風光|頓《にわか》に俗了《ぞくりょう》せられおわんぬ。その逢迎尊親《ほうげいそんしん》のさかんなる、ほとんど底止《ていし》するところを知らず。ついに市民より上野公園に招待となり、畏《かしこ》くも陛下の臨御《りんぎょ》をさえ仰ぎぬ。余興としては打毬《だきゅう》、犬追物、花火、何、くれ、さて夜に入りては満山の樹木に綱かけわたして、万千の提燈《ちょうちん》は天上の星の光を奪う。公私の集会祝典に酸漿提燈《ほうずきちょうちん》をつるせること、この頃よりぞさかんにはなれる。 [#1字下げ]演説会と結社組織[#「演説会と結社組織」は小見出し]  時に元老院書記官に沼間守一という人あり。グラントを上野に招きたるはその事にかかれる有志のみなり。百万の都民ことごとくその議に与《あず》かりたるにあらずとて、浅草井生村楼に公会演説を開きて、大いに府民の名称濫用論を述べ、官民のグラント饗応に周旋《しゅうせん》したる人々を攻撃すれば、福地源一郎氏は太政官御用と銘打たる東京日日新聞に主筆として、発起者は真に東京府民を代表せるもの、決して名称濫用にあらずと駁す。沼間の雄弁、福地の健筆は両々|対峙《たいじ》してあえて下らず。これより一は井生村に叫び、一は日報社に筆を呵《いから》して、論難駁撃《ろんなんばくげき》数回におよぶ。  この頃よりして演説会はすこぶる流行の一となりて、嚶鳴社・共存同衆なんど起こる。これにおいて官吏たるもの政談演説に臨むの禁あり、沼間氏はその職を免ぜられ、島田三郎、江木高遠、菊池大麓、三好退蔵、河津祐之、田尻稲二郎など在官の面々は共存同衆を一団体とし、聴衆を網羅組織して社員の名を付し、公会演説にあらざるの体面を装う。これ演説の一変遷にして、一種の結社組織を形成するの濫觴《らんしょう》なるべし。 [#1字下げ]舞踏会と仮装舞踏[#「舞踏会と仮装舞踏」は小見出し]  かくて十六、七年に至りては、井上伯邸の演劇天覧、浜の離宮相撲天覧のことありしが、相撲天覧は事古《ことふ》りたり。俳優は江戸時代には河原者《かわらもの》として、良民に伍《ご》することさえ得ざりつるに、破天荒にも団十・菊五は御前にその技を演ずるに至りぬ。しかりし所以《ゆえん》は、単に西洋にては俳優の帝王に謁見するはつねならばとの論に過ぎず。伊仏の俳優は元来、宮中の能役者のごときものより起これるを知らず。また欧化時代の風潮を見るべし。  こえて十八年に至りて、伊藤内閣なるもの起こる。世人あるいは舞踏内閣とも称しぬ。謹《つつし》みてその所以《ゆえん》を按ずるに、舞踏会・仮装舞踏なんどという事、しきりに貴紳《きしん》の邸宅、もしくは鹿鳴館に催されて、葡萄の美酒、夜光の杯、主人は多く時の大臣にして来賓はおおむね各国公使館員たり。以て和気洋々《わきようよう》の間に国際の交誼《こうぎ》を厚くすと号す。才子佳人|一酔醺然《いっすいくんぜん》のあまり、玉殿珠楼《ぎょくでんしゅろう》に相擁して唱歌踏舞す。まことに太平の象|掬《きく》すべく、仙島の楽夢《らくむ》誰か長く覚《さ》むるを要せん。しかして醜声|実《まこと》に外に聞かす。楽事佚聞《らくじいつもん》いまこれを記するに忍びざるなり。 [#1字下げ]束髪の風とローマ字会[#「束髪の風とローマ字会」は小見出し]  女子洋服の大流行につれて、束髪のふう全都を靡《なび》かし、あるいはさかんに束髪の利益を唱えてついに束髪会の設立となり、花柳の婦女また束髪洋装を学ぶもの多かりき。かかる男女を出入りせしむ、年頭の門飾《かどかざり》は比例上|緑門《アーチ》ならざるべからず。ここにおいて松竹の注縄飾《しめかざり》はすなわち寥々《りょうりょう》たり。  この時代を中心として、森文部大臣の英語を以て国語とせんの議あり、はた民間にはローマ字会というもの起こる。書生議論の断案《だんあん》には「西洋では」と称してもって、昔日漢儒者流の「子曰ク」に擬し、青年の理想は万事おおむね英米を以て|+符《プリュカ》とし、我邦を以て|−符《モアン》となす。また数の自然なるべし。 [#3字下げ]欧化への反省[#「欧化への反省」は中見出し] [#1字下げ]国粋保存と記念祝典の流行[#「国粋保存と記念祝典の流行」は小見出し]  しかれども国運は進境《しんきょう》に向えり。元年以来ちゃくちゃく一方に進みつつありたり。かくて二十年の春秋を重ぬれば、戊辰《ぼしん》の嬰児は今や青年に達したるなり。その間種々の事態を経たるは、なお幼児の障紙を破り、青年の少艾《しょうがい》を思うがごとし。船体はすなわちしかく動揺しつつありしも、航行にはかつて止まりたることなくして、日夕|彼岸《ひがん》に近づきつつあるなり。  しかして物|究《きわ》まればすなわち変ず。西洋心酔の時代極盛に達したる結果、国粋保存の声は天の一方よりして起これり。人々多く洋饌に飽きたり。たちまち日本料理の配膳に接して、何人《なんびと》か躊躇《ちゅうちょ》してあるべき。新年の門頭松竹ふたたび栄えぬれば、緑門《アーチ》は理髪店・洋食店の招牌《カンバン》のみに面影をとどめ、賀客は多く黒紋付の羽織袴となりて、新年宴の席上にまた洋装の歌妓《かぎ》を見ず。国学漢学ふたたび起こりて、古書の翻刻物《ほんこくもの》、古典の講義録なんど、いくた雑誌屋の店頭にならび、書生得意に欧米を罵倒《ばとう》すれば、外人はじめて日本の独立国なるに心付くこそおかしけれ。  かくて破壊時代にとり残されたる神社仏閣は古物保存の名のもとに、ありがたくも雀羅《じゃくら》をはらう資金を得て、その古器朽物も、また海外に流出したるほかは、宝物取調委員の手に撫摩せらるるの光栄を得たり。  ここにおいては二十八年には、平安|奠都《てんと》千百年祭に際会して大極殿の建設あり、その余興としては時代行列をさえ出しぬ。これより何百年、何十年の記念祝典というもの流行し初《そ》めて、今度東京の奠都祭あり。同じく大名・奥女中の行列あれば、京都には豊公三百年祭あり。その余諸所の府県にも、ひそみに倣《なろ》うて誰某《だれぼう》の何年忌、某社某寺の何年祭、何年法要なんど起こる。  もとより世波の流潮は流れ流れて駐《とど》まらざれど、既往三十年間を回顧すれば、確かに一条の軌道をたどりて、走馬燈《そうまとう》の廻り廻りつ進みゆくことおもしろけれ。最初は改造せんがために破壊し、破壊したるがゆえに変じ、変じ遷《かわ》りつ後方《あとべ》いかんと顧りみればさすがに惜《お》しや打棄《うちす》てがたきものもあり。すなわち保存時代に入りぬ。よく取りよく捨て、旧を存し新を迎う、すなわち建設時代の関門にあらずや。あるいは下宿楼上に数年流行の月琴その音《ね》を絶ちて、市井《しせい》の道場にお面、お小手《こて》の声響くがごとき、月琴は清楽《しんがく》なるより征清戦役《せいしんせんえき》の時より棄てられ、撃剣は国技なるがために保存時代に入りて栄う。また社会変遷の因果を観るべき小模型たり。  なお寄席――落語・講釈・音曲《おんぎょく》などの変遷、相撲道の盛衰、豆蔵捨《まめぞうす》たれて西洋手品のさかんに起これる。あるいは女子の合羽《かっぱ》すたれて肩掛《ショール》となり、肩掛すたれて吾妻外套《あづまコート》となれる。あるいは風呂屋の柘榴口《ざくろぐち》というものなくなりて、いわゆる温泉ふうの建築となれる。行燈《あんどん》すたれて洋燈《ランプ》となり、ガス燈となり、電燈となり、|※[#判読不可、73-25]車潜《いとくるまひそ》みて紡績機械の輸入せられ、その他諸種の事業の勃興せるなど、皆この三十年間における進歩発達にほかならずして、形而下の文化においてはすこぶる観《み》るに足るもの多し。しかれども形而上真正の建設時代はすなわちいまだし。 底本:「現代日本記録全集4 文明開化」筑摩書房    1968(昭和43)年10月25日初版第1刷 底本の親本:「奠都三十年」博文館「太陽」第四巻第九号臨時増刊    1898(明治31)年4月25日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。