明治時代の春芝居 岡本綺堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ぐう[#「ぐう」に傍点]とも /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)思ひ/\に /″\濁点付きのくの字点(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)さう/″\しい -------------------------------------------------------  今日でも正月の劇場の前には松飾りが立つてゐる。觀客にも屠蘇の匂ひがする。而も大體に於ては例月と大差なく、特に春芝居らしいといふことを感じないやうな場合が多い。現代ではそれが當然であるかも知れないが、私達のやうに明治時代に生長して、明治時代の芝居を見馴れて來たものには、なんだか寂しいやうな氣がする。自作が新年の劇場に上演された場合など、特にその感が深い。  明治時代と云つても、その末期即ち日露戰爭以後は、世に連れて劇場の興行法も次第に變つて來たが、明治時代を通じて一流の大劇場は元日から開場しないことになつてゐた。江戸時代には正月十五日初日が定例であつた。その定例は明治以來廢止されて、各劇場思ひ/\に開場することになつたが、それでも十日前後、或は十四五日頃から開場するのが習で、少くも七草以後でなければ初日を出さなかつた。  年賀郵便の盛に行はれるやうになつたのは明治末期からのことで、その以前は正直に年始廻りをするのであるから、新年早々はどこの家でも主人は年始まはりに忙がしく、家族は年始客の接待に忙がしく、とても芝居見物などに出あるいてゐる暇はない。但し職人その他の勞働階級は仕事が休みであるから、却つて芝居見物などに出る者が多い。したがつて、それ等の客を迎へる二流の大劇場や小芝居は、松の内でも開場し、殊に小芝居などは大晦日初日といふのもあつたが、前にもいふ通り、一流の大劇場は決して松の内に開場しない。開場しても觀客が來ないからである。  勿論、興行物であるから、その當りと不當りは一定してゐないが概して春興行[#「春興行」は底本では「春與行」]は景氣が好かつたやうである。鐵道その他の交通が今日ほどに發達してゐないので、新年の旅行者も比較的に少く、一年一度のお正月には先づ芝居見物といふことになつてゐた爲であらう。殊に各劇場が毎月開場することなく、一年に四五回か三四回の興行であるからいよ/\好劇家の人氣を春芝居に吸ひ寄せる事にもなつたのであらう。  もう一つは彼の藪入である。江戸以來の習慣で商家の雇人の公休は正月七月の二回に過ぎない。どこの店でも雇人等は十五日と十六日とに分れて出るのであるから、この兩日間は各劇場が繁昌する。藪入小僧と一口に云ふが、その當時の小僧は決して裏長屋の子弟ばかりではない、相當の家の子弟でも商業見習ひの爲に他家へ出すのもあり、他人に使はれて見なければ他人を使ふことは出來ないといふので、他家へ奉公に出すのもある。さう云ふ小僧や中僧が藪入に戻つた場合、母や姉が前から待受けてゐて芝居見物に連れてゆく。相當の年頃になつた者は自分ひとりでも出かける。この藪入連中のために、二流以下の劇場は勿論、一流の劇場も賑はつた。  今日と違つて、觀客が場内で自由に飮食する時代であるから、春芝居の客には自然に醉つ拂ひが多い。醉へば景氣が附いて呶鳴りたくなる。贔負の俳優などが登場すれば、聲をからして呶鳴る。今日でも大向うの客が騷ぐといふが、その當時は土間の客も棧敷の客も滿場一齊に騷ぐのであるから、馬鹿に景氣が好い。さう/″\しいと云へば確にさう/″\しいに相違ないが、そのさう/″\しい觀客を急所で押さへ付けて、ぐう[#「ぐう」に傍点]とも云はせない所に俳優の技倆があると認められてゐたのである。佳境に入れば觀客はおのづと鎭まる。今まで騷いでゐた觀客が水を打つたやうにしん[#「しん」に傍点]となる。喧騷中の靜寂、それが云ひ知れない快感を我々にあたへて呉れた。  開演中でさへも其通りであるから、幕間は更に賑かである。運動場等の設備も不十分であるから、大抵の觀客は男も女もその坐席を離れないで語り合つてゐる。いはゆる衣香扇影のうちに、男の話し聲、女の笑ひ聲、それはいつもの事ながら、春は取分けて春らしく華やかに聞えるのも嬉しかつた。但しそれは私が若いときの感想で、今の私は或はその喧騷に堪へないかも知れない。  電車廣告も無し、むやみにポスターなどを貼り付けない時代には俗に辻番附と稱して、芝居番附を湯屋や理髮店に掛けるぐらゐに過ぎないのであるが、それも全部に行き渡ると云ふわけではない。劇界の消息はすべて新聞記事に因るのほかは無かつたが、各劇場附の芝居茶屋や出方はめい/\の馴染客の處へ一々番附を配つてあるく芝居茶屋からは若い衆が來る、出方は自分自身で來る。さうして、臺所や店先に腰をかけて、今度の興行の宣傳をする、併せて色々の芝居話をする。勿論その番附を貰つた家では幾らかの使ひ賃を遣らなければならないのであるが、それでも喜んで番附の來るのを待つてゐる。  取分けて歳の暮には春芝居の番附が待たれる。師走の忙がしい時節に、悠々と芝居話でもあるまいと思はれるが、その忙がしい中で喜んで春芝居の噂を聽いたりしてゐるところに、その時代のまだのんびり[#「のんびり」に傍点]してゐたことが思ひ出される。歳の暮に下町を通ると、歳末大賣出しの札をかけて、見るから混雜してゐる商家の店さきに、芝居茶屋の若い衆らしいのが腰をかけて、店火鉢の前に番附を置いて何か話してゐる姿など、今日では全く見られないことであるが、その時代には春を待つ姿のやうにも感じられたのであつた。  どこの家でも忙がしいなかで其の番附を見て春を待つ。やがて春が來る。松飾りが取れたらば芝居見物に行かうと待ち構へてゐる。さうして見に行くのであるから、大抵の芝居は面白く見られたに相違ない。その時代の觀客と現代の觀客とは、芝居を見るといふ心持にも相當の變化がある。世の中のありさまも變つてゐる。春であるから芝居見物に行かうといふ人々もだん/″\に少くなつた。春芝居の氣分が年ごとに薄れてゆくのも當然かも知れない。 底本:「文藝春秋 新年特別號」文藝春秋社    1935(昭和10)年1月1日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。