舊特高警察の第一線 ――共産党検挙の苦心―― 毛利基 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)[#ここから罫囲み] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)汗を拭き/\ ------------------------------------------------------- [#ここから罫囲み] [#ここから1段階小さな文字] [#4字下げ]筆者紹介[#「筆者紹介」は中見出し]  筆者、毛利氏は戰前長く警視廳特高係長の職にあり、非合法共産黨取締りの第一線に立ち、四・一六事件、武裝共産黨事件、銀行ギャング事件等を手がけた人。本稿は當時の凄慘な鬪爭の裏面史である。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで罫囲み終わり] [#3字下げ]まへがき[#「まへがき」は中見出し]  終戰と同時に官を辭し、先祖傳來の純百姓に還元し、天地自然を友として、重勞働に携はる現在の吾身は、空蝉の蛻同樣、昔の記憶を辿る氣力も怪しげで、殊に今は農繁期の眞最中でもある爲、折角ではあるが御斷り仕樣と思つた。が又反面人生五十年の大部分、職を警察に過した私、假令現在空蝉の殼同樣になつて居るとは云へ、其の昔白井喬二氏の作「富士に立つ影」の登場人物、花火師龍吉の樣に、最後迄無言で終ることも本意ではない。この機會に過去の想ひ出の一端を殘すのも無意味ではないとつい請はるゝまゝに老骨に鞭打ち書くことにしました。  年月日や其の他の點で正確を失することもあると思ひます。又多數の關係者の方々が現はれてきますが、それ等の方々に多少なりとも御迷惑や御不快の念を持たれることは愼まねばならぬと考へ、名前は出しません。只どうしても出さねばならぬ方にだけは書かしてもらひました。何卒これらの點御赦し下さる樣特に御願ひ致します。 [#3字下げ]想ひ起す二十年前[#「想ひ起す二十年前」は中見出し]  昭和四年の四月に行はれた日本共産黨事件、所謂四・一六事件の取調べに當つてゐた時のことである。當時警視廳は馬場先門内のバラック建で、そこに田舍風の老人が小生を訪ねて來た。「わしの伜が捕つてゐることを聞いて、やつて來ました――。一體わしの伜は何をやつて捕つたんですか。」  普通ならまだうら寒い氣候であるのに、汗を拭き/\心配さうな顏をして、小生の顏を凝視しながら返答を待つてゐる。「あんたの息子さんは、共産黨に關係して居るので、今取調べて居るのです。」「共産黨つて何です。」  その頃は未だ共産黨に付いては、國民一般に知られてゐない時だつたから、このやうな質問がこの老人の口から出るのは、當然であつた。  話は横道に這入るが、或る日内務大臣官邸から電話があり小生に對し直ぐ官邸に來いといふ大臣秘書の話である。警視廳一警部の小生に、大臣が會ひたいと云ふのは何事だらうと、早速官邸に駈けつけ大臣室に通された處、大臣から、「某と云ふ學生を調べて居るさうだが、何の關係だ――。」「はい、あれは共産黨關係で御座います。」「ウン? 共産黨とは何か?」  これには小生も返答は出來なかつた。吾々の最高の上官たる内務大臣の口から、この言葉を聞かされるとは餘りにも意外であつたからだ。大臣は平氣な顏をして恰度子供に物を質す樣に、「共産黨と云ふのは何ぢやー、ウン?」やむなく小生は共産黨のスローガンを列べて、簡單に説明し終らうとした時、「あゝ赤かー、ワカッター、早く返してやれんか。」「調べが濟まない中は歸すわけには參りません。」と答へて引き下つた。  あとで内務省に行き、この話をした處、皆口を揃へて、「あの大臣はさうなんだよ。それ位のことは當然だ。」と聞かされた。この大臣は議會などでは、局長以下は全部事務官呼ばはりし、議員に對しても子供扱ひする程の徳望を持つてゐたと云ふ話であつた。  も一つこれと似寄つた話で、昭和七年頃のことだが、或る華族の息子を檢擧した處、その華族の家令か、執事をやつて居る人が訪ねて來て、 「私の處の主人が調べられて居るさうですが是非歸して貰ひたい。御當人の母は、非常に心配されて、早くお前行つて引き取つて來い。と云はれて來ました。母と云ふ方は、今宮中に、女官として務めて居られるので、一層心を痛めて居ります。」  この華族は公卿華族で、父は暫く前に病死せられ、母子二人の生活であつた。 「さうした御家庭なら定めし御心配でせう。それ程心配されてゐながらなぜ御自分で御出にならないのでせう。是非御出になつて本人の今の姿を見らるゝことは、私の百萬言よりもよく判りますから御出になる樣申されたい。」執事の方は、私の意を諒として、辭去し、翌朝來られて云ふのには、 「あなたの話を申し上げました處、自分は不淨役人の處には行かれないと申され、どうしても御出でになられません。」  不淨役人と云へば、徳川時代の十手取繩を持つ岡つ引を指して云ふ上流社會の用語であつた筈だ。小説や講談本では御目にかゝつた言葉だが面と向つて不淨役人呼ばゝりされたのはこれが最初で且つ最後であらう。私も昂奮を感ぜざるを得なかつた。 「不淨役人とは恐れ入ります――。側近に仕へされる身が、不淨役人に會ふ事が惡いと考へられるなら、その不淨役人の手に懸つて捕へられる子を持つ親はどうでせうか。母親の方は子が可愛いのか、自分が可愛いのか、恐らく自分の立場のみを考へて居るからさうした態度をとられるに違ひない。世の多くの母親は身を殺しても子を救はんとする切ない氣持になるのに、何と云ふ冷淡な母親の方でせう。よく判りました。この事件は私共は勝手に取扱ひは出來ませんから、と私の今申した言葉をそのまゝ傳へて貰ひたい。いづれ新聞にも出るかも知れませんから惡しからず。」と申して別れた。  その翌日、母親がやつて來て色々と詫び言を聞かされた。後日、檢事局の係檢事に話した處、同檢事も同樣のことを云はれたと云ふて、笑つたことがある。  世の中は、開けた樣に思つてゐても隅々まで開けて行くことは、仲々容易なことではない。  扨て話を本筋に戻して、老父に對し一應の説明をして本人に面會させることにし、老父を日本橋區堀留警察署に案内して本人に面會せしめた。老父は、伜が自分の前に机を隔てて椅子に腰を下すや否や、わつと大きな聲を出して泣き出して仕舞つた。本人も泣いた。私も泣いた。  暫くして老父は陽燒けした頬を流れる涙を手拭で拭きながら、「お前がかうなつたことを知つて母親は四十度の熱を出して寢て仕舞つた。母親の云ふには、おれも行きたいがとても行かれない。おとつちやんー、早く行つて樣子を聞いて來て呉れと云はれて來たんだ。何と云ふことをして呉れただ。」再び號泣を續けた。この飾り氣のない赤裸々な父の叫び、父の嘆きに觸れた青年鬪士、暫く返す言葉も出ないと見えて、兩の拳を兩股の上に突張り、默考の態であつた。稍あつて、「お父さん、何共申譯ありません。どうぞ赦して下さい。然し僕は決して惡いことをしたのではありません。僕は正しいと信じてやつたことです。今の法律に觸れるから惡いと云はれるだけで、僕の考へて來たこと、やつて來たことは決して惡い事ではありません。今かう云ふたとて、お父さんには判らないでせう。廿年後には、必ず正しかつたと云はれる時が來ます。それまでの間は御赦し下さい。」これを聞いた老父は、「馬鹿野郎。」と一喝して、「どうも御世話になりました。」と小生に挨拶して出て行つた。  星霜移り茲に廿一年。青年鬪士は今何處に於て、この世相を眺めてゐるであらう。當時この青年は東大を卒業し、共産黨中央委員會直屬の政治部指導連絡係で、非轉向として、北海道に送られた筈であつたが、其の後の消息は判らない。廿年後の日本を見ろと、よく語つて居つたものだが、よもや敗戰日本の今日の姿を計算しての豫言ではなかつたらう。  これは獨りこの青年のみではない。苟くもマルクスの理論を理解し、共産黨はこの實踐部隊であると確信して入黨した人々の共通の信念であつたらう。 [#3字下げ]惱まされた武裝共産黨[#「惱まされた武裝共産黨」は中見出し]  昭和三年四年と二ヶ年に亘り檢擧を續けた共産黨事件も先づ一段落と休む暇もなく新手の組織活動が始つて來た。  昭和五年二月衆議院の總選擧が行はれた。これを機會に、共産黨は猛烈な宣傳活動に這入り、從來共産黨は、勞働者、農民を主體とし、學生層に對しては固く門戸を閉じて入黨せしめなかつたが、相次ぐ檢擧によつて後續部隊を失ひ、遂に閉された門戸を開放した爲、學生は陸續として參加し、この餘勢は共産黨の武裝となつて現れて來た。ビラ撒き行動隊が編成され到る處に出沒し、是れを取締りに當る警察官に對し短刀ピストルを以て對抗し、工場の守衞が是れ等行動隊の工場侵入を防止せんとすればその守衞を倒し、恰度この頃東京市電のストライキがあり、爭議團内部が妥協解決を主張する右派と、スト繼續を主張する左派との對立があつた時で、共産黨はその左派を支持し、右翼幹部七名を虐殺することを宣言すると云ふ宣傳ビラを撒布し更に車庫の燒き打ちを計畫し、澁谷自動車車庫に放火する等の容易ならぬ事態となり、同年二月より七月の檢擧迄の間に警視廳だけでも二十七名の警察官が傷害を受けるに至つた。總選擧終了後の議會に於ては、思想國難に關する決議案が上程可決され、一刻もこの黨の存在を許されず、急速に檢擧する樣嚴命があつたが、如何せん搜査の手懸りなく核心に觸れた搜査を展開することが出來ない。當時筆者は警視廳特高係長の職にあり、課長は上田誠一さんであつた。課長は實情を知つて居らるるから、決して無理なことは云はれず、寧ろ小生を慰めて呉れるので、課長の苦しい立場を想ひ一層責任を痛感し、眞に居ても立つてもゐられないと云ふ焦躁の氣分に追い込まれ萬策全くつきてしまつた。  この上は信仰以外に道はなしとの心境に立つに至つた。生れて以來神佛に拜禮したことのない男が、苦しい時の神頼みの心境に變つて仕舞つた。  當時板橋町に居を構へてゐた私は早速板橋町に分祠してある成田不動尊の御堂の前に夜十一時過ぎ、合掌瞑目を始めた。私は固より神佛の力によつて吾々の希望が達せられるとは考へない。只私は魂を錬成する對象を不動明王に置いたのだ。御堂の前に毎夜十二時を期して廿一日間合掌瞑目することを約束した。私の合掌瞑目は實に眞劍であつた。この苦痛を知るものは誰もゐない。妻子にも知らせない。只管、合掌瞑目の一時をこの苦痛の中から遁れて見る、忘れて見るといふ念力を出すことに、汗の流るゝまで丹田に力を注いだ。  斯くて二十一日間の約束を完全に果し、翌朝出勤して自分の椅子に腰を下して間もなく、傍の青木警部の卓上電話がケタタマしく鳴つて來た。青木警部は受話機を耳に何事か受けて居る。そのうちに青木君の口から、社會民衆黨――瀧野川支部長――一家五人鏖殺――ピストル自殺――と反問の言葉が出て來た。  これを聞いてゐた私は、思はず立ち上り「青木君、電話一寸待つた――。それは淺草の銀行ギャングの犯人だ――。よく場所を確め給へ。」  と斷定した。  この頃恰度、川崎銀行の淺草支店に白晝共産黨員を名乘る男が支店長に面會し、ピストルを突きつけ乍ら、「俺は共産黨員だ。軍資金として五萬圓出せ。」と強請中、支店長室に這入つて來た小使に騷がれ逃走した。といふ事件が起きてゐた。この事件は當時凶暴を極めてゐた共産黨を利用したものとして、特高警察はこれに干與してゐなかつた。私は新聞を通じ、事件の概要を知つてゐたに過ぎなかつた。  警視廳刑事部は、總動員で徹夜の活動を續けてゐた眞最中の出來事である。「青木君、直ぐ自動車を飛ばし、瀧野川の現場に行き、本人の洋服が新聞に出て居る樣なものがあるか。ピストルも小型のものであるか。苦し新聞に出てゐるものと酷似してゐるものであれば、その品と本人の寫眞を搜し、三品を持つて日本提署に行き、署長に話して、支店長と、小使を警察に呼んで貰つて、その三品を見せて呉れ給へ。」青木君は直ちに現場に飛んだ。青木君からの報告。 「洋服も、ピストルも、新聞に出てゐるのに似たものがある。ピストルも小型――。それに洋服のポケットに事件のあつた日の淺草の乘換切符が這入つてゐる。寫眞もあります。本人はまだ生きてゐる。これから日本堤署に行きます。」  日本堤署よりの青木君の報告。 「支店長と小使に見て貰つた處、この服。このピストル――。この寫眞の人に違ひありません。と申します。」 「それでは支店長と小使を自動車で現場に往つて貰ひ本人を確めて貰ひ給へ。」  現場よりの報告。 「本人に間違ひないと申します。」「搜査本部に行き事情を話し引き續いで歸つて來給へ。」  この瀧野川の事件は前夜に起つたもので、淺草事件の搜査に當つて居る本部には、即刻報告があり、特高には翌朝になり、社會民衆黨支部の出來事として、參考報告としてきたものに過ぎなかつたものである。電話の反問と言葉を聞いて犯人なり。と斷定した私の勘の働き。  これは凡人毛利基の魂ではなく、深夜廿一日間不動の前に立つて、恰も日光華嚴の瀧の岩頭に立つた思ひで熱血込めた魂の錬成の賜物に外ならないと確信した。その日工場方面を擔當する庵谷警部、宮下警部補に工場内左翼分子の名簿を出して貰ひ、一應全部に眼を通し、その中から四つか五つの工場を指摘し、取調方を指示した。兩君の敏速果敢な、調査活動の結果、「黨の中央委員は、三・一五以來の苦い經驗から、所謂街頭分子を警戒し、直接工場に連絡をつけて來てゐる。」と云ふ吾々にとつて新しい事實を掴み得た。  この事實を基準として、搜査隊を編成し、晝夜兼行活動を續けて居る中に、五月一日のメーデー二・三日前であつたか、搜査隊の一隊がメーデーに際しての共産黨武裝蜂起の計畫を探知し、竹槍三百本、赤旗百本、放火用ガソリン入れ水筒數個を發見した。關係者の取調べによると、メーデー當日、共産黨行動隊員三百名、京橋區三原橋を中心として、メーデーの行列に突入暴動を起す計畫であつたと云ふことである。  東都の治安は、時々刻々と惡化への一路を辿るが搜査の進行は遲々たるものであつたが、この武裝蜂起計畫を事前に阻止し得た事に、隊員勇躍して活動を續けた。  七月に入つて漸く世田ヶ谷豪徳寺裏畑中の新築貸家に、若い女性一人に數人の青年が、引越して來たとの情報が入つて來た。搜査の主力を、この豪徳寺裏に注いだ。茲でどうしても名前を出さなければならないのは、吾々が搜査の唯一の目標とする共産黨の責任者田中清玄君である。同氏は永く刑務所生活を續けたが、出所後靜岡の或る禪寺に入り一年半も禪の修行を積み、生れ變つた解脱の身となり、活動してゐるとのことだから禪者は叱るまいと獨斷して名前を出します。  同人は、勇猛果敢な性格の持主で學生時代に唐手術を修業し、拳骨一つで瓦を破る位は何でもない。彼の一撃を喰つたらたまらない。それにピストルは常に持つてゐる。彼を逮捕する時は、どうしても犧牲者を出すのも止むを得ない。と云ふ情報が前からあつたのでそれの對策を先づ考へなければならなかつた。そこで警視廳管下警察官中腕も度胸も確かで、行動の敏捷なものと云ふ條件で搜した結果、身の丈六尺一寸、相撲上りの柔道三段(實力四段)と云ふ適材があり、早速本人に逢つて、内情をうち明け、百パーセント危險な仕事であるがどうかと、尋ねて見ると、本人は平氣で、やりませうとなり、直ぐ特高に轉勤して貰つた。鐵兜、防彈チョッキを手に入れ、これを決死隊員たる六尺男に着せ、他に假裝、田中清玄となる人物を、係員中の骨格優れた者を選び、これには拳銃を、ズボンの右ポケットに入れさせ、兩者反對方向から進ませ、六尺男は、假裝田中と摺れ違ふ一間前位の地點で、突然飛びつき相手の右手を押へ、ポケットに右手を入れしめない樣にする、假裝田中は、これを正反對に、速かにピストルを取り出し、六尺男と撃つ姿勢をとる。この練習を、あの馬場先門内警視廳バラック裏の土堤下で約一ヶ月間やらせ、遂に、六尺男に自信を持たせ、時機の到來を待つてゐた。  豪徳寺裏の怪しの家の出入りを確める爲には、どうしても其の附近にこちらの見張り場所が必要だ。幸ひ少し離れた處に二戸建の二階家が空家となつてゐた。家主には、神經衰弱になつた學生を一時靜養せしむる爲貸して貰ひたいと申込み、係員の一名を病人とし、若い警部補夫婦に炊事一通りの道具を持つただけで引越して貰ひ、六尺男は附添として一戸を構へ、この四人で見張りを擔當し、朝から晩まで、鵜の目、鷹の目を連續した。私は見舞客として水菓子龍を提げて訪問し、課長は醫師として交互に訪問し、毎日の状況報告を聞くことにしてゐた。  七月十日前後であつたか私は例の通り、訪問した時、田中に人相酷似の男、夕闇迫る頃あの家に這入つたとの報告を受けた。早速明拂曉を期して檢擧斷行の手配をなし、尚怪しの家に何人位現在してゐるかを確める爲茲に挺身斥候の必要が生じて來た。これには病人の學生が當ることになり、相手方に感知されてはならぬ、さうかと云ふて屋内の樣子を見屆けずに歸つてはならぬ。細心の注意と大膽とを以て、この大任を果せ、と注意し午後十時に出發せしめた。  この怪しの家は道路に面し、門あり、玄關、應接間、東は荒れ畑に面し、生垣ありて八疊の間、北は豪徳寺裏山林に面し、生垣を隔てて四疊半、西は隣家生垣を隔てゝ井戸臺所と云ふ構へ。この家を偵察するには、東方の荒れ畑の二、三尺ものびてゐる雜草を利用し、北側の生垣に沿ふて前進、井戸の處より樣子を窺ふより外なしとの想定で、出發したのであつた。  所要時間三十分乃至一時間と予定したのが、十一時過ぎても歸らず、十二時過ぎても歸らない。少し不安になつて來た。殊によると、先方から發見され、捕えられたのではあるまいか、さうだとすれば一刻も猶豫はならぬ。第二の偵察を出した。間もなく二人は歸つて來た。結果は? よく判りませんが、女は北側の座敷の窓を、明け放し、電燈で表を照し、机に向つて何か書いてゐた樣だ。應接間には四、五人の男が會議をやつて居る樣に、時々聲が聞えた。  どうしてこんなに時間が掛つたか? 隨分心配して、今第二の偵察の結果、吾々だけで、君の救出に突撃する覺悟をきめてゐた處だ。  東の方の荒れ畑の一端に中腰になつて目的の家を見ると東に面した廊下の戸は全部開け、八疊の間の電燈は荒れ畑全部を照し、恰も電燈が見張りをしてゐる樣で、雜草一本動いても、明瞭に判る。ましてや人間一人が、此の中を歩くなどとはとんでもないことだ。――こゝまでは五分で來たが、これから先どうして進むか――。途方に暮れた。然し躊躇はならぬ、明日の突撃に控へて、臨機應變の獨斷專行には、安心して任せらるゝ優秀な病人。  草の動きを知られぬ樣に左右の手を交互に使つて、極めて靜かに押し倒し、全身腹這ひの姿勢を取り、草を倒しては兩肘で全身を引き進める。これを繰返す一時間半。眞夏のことであるから流るゝ汗は瀧の如く雜草内に居る藪蚊の群の總攻撃。その勞苦――その苦痛――言語に絶するものがある。漸く東北の生垣を結ぶ一角に辿り着いた――、北側の四疊半には、窓際に電燈を下げ、若い女性が机に向つて居る。その前二、三間の生垣の根下を四つ這ひになつて巧みにそこも通り過し、愈々井戸端の處に行つて前方を見ると、隣家の大きな犬箱があり、中には爛々たる目を以て四つ這ひの病人を睨んで居る、瞬間無意識に犬に向つて單座合掌した。犬は遂に吠えなかつた。かくて或る程度の目的を達し翌朝の檢擧となつたのであつた。  茲に不可解の問題は、番犬が四つ違ひの異樣な男を睨んだまゝ吠えなかつた事實である。動物か人間か判らなかつたのか? 合掌の樣を見て犬自身に安心感を持たした爲か? それとも無我の心境に立つたこの男の態度靈感にうたれ催眠状態に陷つたのか? かうした類似の場面に幾度か遭遇した經驗がある。自らは勞せずして搜査途上に横はる障碍が取り除かれ、或は重大な事件の鍵や糸口を掴むことがある。  偶然か運命か――、私は佛教信者なるが故か私は運命と信じて居る。  斯くて翌朝怪しの家を襲ふた、拂曉の無言の亂鬪、短刀を以て反抗する者、出刀を翳す者等あつたが六尺男を始め隊員の敏速果敢な行動で在宅者四、五名(?)を檢束した。  然し目指す唐手術はゐなかつた。  全員一同の落膽は悲痛なもので言葉一つ發する者はなかつた。  然し今茲で落膽して居る時ではない。勇を鼓して搜査の進展を期せねばならぬ。一同氣を取り直しこの氣をゆるめずの意氣で活動を開始した。  斯くて七月十四日午後三時、唐手の隱れ家を祖師ヶ谷に發見しピストルを撃たせるの餘裕を與えず美事な相撲のノド締めによつて逮捕した。昭和五年二月本格的な搜査を開始してから約半ヶ年を費し荒れ狂ふ武裝共産黨の本據を突き、議會に於ける思想國難に關する決議に答ふるを得た。  思へば苦勞の限りを盡させられた共産黨であつた。何故の武裝であつたか? 當時の警視廳特高警察官は一人として身に寸鐵を帶びた者はなかつた。然もその頃は防彈チョッキも商品としては無く、この事件で六尺男に使用せしめた物は銃砲店に米國から見本として一着來て居たものであつた。國内事情がかうした物を必要としなかつたからだ。  警察官は如何なる場合に於ても相手方より優勢な條件で當らないことをモットーとしてゐたものだ。さればこそ事ある場合、負傷者は必ず警察官側に生じたわけだ。  當時警察官は民衆處遇の懇切叮嚀に關する訓示を耳にタコのよる程聞かされたものだ。  特高警察活動は私服勤務のため一層みじめな境遇に追はれ、どこへ行つても「犬だ※[#感嘆符二つ、1-8-75] スパイだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と罵られても笑つてうけ流すより外なかつた。  特に極端なのは無政府主義者の連中で、團體事務所に訪ねて行けば窓から熱湯を浴びせられ、個人の家を訪ねれば唾をはきつけられると云ふ常軌を逸した元氣のよい連中もあつた。  かうした元氣のよい連中には、常時尾行と云つて絶えず警察官が尾行勤務に就かなければならなかつた。特高係としてこれが一番の苦手で被尾行者からは婢僕の樣に罵られ「オイ! 犬、俺の荷物を持て」と命ぜられ持たなければ尾行を撒く。撤かれゝば懲罰! 餘儀なく、犬呼ばはりされながら持つてやると云ふ始末。これについて面白い話がある。私の舊友に井上と云ふ愉快な特高係があつた。或る時無政府主義者大杉榮(震災の時甘粕憲兵大尉に殺された男)に尾行を命ぜられ、東京から電車で鶴見まで行く途中、例によつて、「オイ、犬!」で小さな包を持てと命ぜられた。井上君は應じなかつた。再三云はれたがぢつとがまんをしてソッポを向いて應じなかつた。鶴見の同志の家に大杉は這入つた。井上君は表で待つてゐる。何時迄待つても出て來ない。不安になつて玄關を覗いて見ると大杉の履物が無い。サテは撒かれたかと臺所の方に行つて見るとそこに揃へてあるので野郎撒かれてたまるもんかと緊張して待つてゐると大杉は臺所から出て來た。頗る不機嫌な顏をして急ぎ足で京濱電車に乘つた。乘客は相當あつた。再び「オイ犬!」が繰り返された。井上君は非常に氣の強い男で五尺八寸の體躯に物を云はせる男だ。癇癪玉が破裂した。運轉手に話して電車を止めて貰つて大杉を引き下した。大杉も井上君と同じ位の體格、鐵路の中で大格鬪となつた。その頃は京濱間は人家は稠密でなかつたから電車は專用軌道だ。彌次馬はない。井上君は遂に大杉を鐵路の上に組み伏せた。「大杉、俺は滿座の中で恥かしめられ生きてる甲斐がない。お前も俺と一緒に死ぬんだ。」とレールの上に大杉を押へ込みの姿勢で動かさない……次の電車が走つて來た。其時「オイ許して呉れオレが惡かつた。」「本氣か。」「本氣だ」(大杉はひどいどもりであつた。この事があつてから大杉は何處で暴れてゐても井上君が顏出せば無條件に納まると云ふ風であつた。)  井上君なればこそこんなことを平氣でやつてのけたが、若しこれを他の者が眞似たら、烏が鵜の眞似をする樣なもので忽ち大問題にされて仕舞ふ。  兎もあれ、武裝共産黨は私にとつて一生涯忘れることの出來ない深い印象を持たせられてゐる。御蔭樣で無信仰の私が強い信仰に生きる人間に變り、如何なる悲運に際會するとも冷然として苦難に處し、判斷を誤らず、三十有餘年の永きに亘り、職責を果し得たことを感謝してゐる。  如何なる難解の問題も、時を以てすれば解決は可能なものであるが、武裝共産黨に對しては、時を與へられる餘地がなかつたところに言ひ知れぬ苦勞があつたわけだ。  要するにこの難問を解いたものは組織の力だ。人間一個の力は微々たるものである。その組織も特高のみのそれではない。警察全體國家機構全體の力である。吾々は稍※[#二の字点、1-2-22]もするとこの偉大なる組織の力に氣付かず何か功名手柄を現はすと、忽ち己惚れ心を起し、自分一個の力によつて成し得たものゝ如き錯覺に陷り易いものである。吾々が或る一つの地位を與へられ肩書を持つことによつて、それに相應した仕事が出來るものだ。然しそこには限度がある。その限度を越す爲に努力する處に、勤めする者の勘どころがある。  與へられた地位と權限の力は、實に偉大なものだ。吾々個人の力を以てしてはなし得られない多くの味はいがあることを深く反省させられたものだ。 [#3字下げ]遷りゆく情勢の變化[#「遷りゆく情勢の變化」は中見出し]  はからずも茲に過去の想ひ出の記を書くことになり忘れかけてゐた若かりし頃の記憶を呼び起すに當り、眞先に腦裏に閃くものは、大正七年八月の米騷動事件と、大正十二年九月一日關東地方の大震災である。  米騷動事件は思想的背景は無かつたが、この自然發生的な、而も廣汎な地域に亘つて起きた暴動事件に刺戟されたものか社會主義運動は、革命的性格を帶び、これに對應して、陸海軍青年將校の間に深刻な政治批判の氣運が擡頭し、後年暗殺、反亂等の大事件を生んだ素因は、實にこゝに發してゐたのであつた。  大震災直後に起きた流言「横濱刑務所の囚人百名脱獄し、略奪をやつてゐる。」「拔刀の暴徒が東京に向つた。――朝鮮人が到る處で、井戸に毒藥を投げ歩いてゐる。――」等々の不穩な蜚語が、次から次ぎと亂れ飛び民心は極度の不安に包まれた。而もこの流言が、一種の情報の形で傳へられてくる爲警察自身これを否定する確信のない限り、この流言によつて動かざるを得ない状態であつた。(その頃は舊市内以外は、全部水道はなく井戸であつた。)  或る時井戸に投毒藥の噂として、「町の角々、住宅の板塀、門等に、白墨で、色々の符號を書いてあるのは、あれは皆目標の目印としてつけてゐるんだ。――」といふ聞き込み情報を持つて來た老練の巡査部長があつた。「そんな馬鹿なことはあるか――あれは新聞配達が配達の目印に書いてあるのだ。」とたしなめた處、そんなことを云ふと、殺されますよと嚇かされて仕舞つた。町々には自警團が組織され、日本刀、竹槍を持つて、辻々に警戒網を張り、警察官も自警團の訊問を受けると云ふ無警察状態が現出し、殺傷事件が隨所に起り、遂に戒嚴令が布かれた。  地震突發寸前まで警察を、仇敵の如く罵つてゐた、社會主義者の連中は警察の保護を受けなければ生命の安全を保ち得なくなつた。警察は、自警團から目標にされる樣な、主義者の連中を保護檢束した。そこには所在不明も見うけられず、警察の懷に抱かれ、身の安全を保ち得た。自警團の連中は大擧警察に押し寄せ、社會主義者を渡せ、鮮人を渡せ、と強要して來たが、警察は頑として是れに應じなかつた。  警察は殘念ながら流言を否定する力は、足りなかつたが、混亂に處して冷靜を失はず、民心の動搖に卷き込まれず、自警團の勢に迎合せず、嚴然として、本來の任務に就いてゐた事實は、後世の警察史上に輝しい一つであらう。  只龜戸警察署に於て、軍隊の行動として起つた事件はあつたが、これは止むなき實情であつた。  人心平穩に歸り戒嚴令が解かれた後の思想も、勞働運動も再出發の形で穩かになつたが、無政府主義者の一部の者のみが極めて險惡な動きを見せて來た。虎の門事件、青山墓地の爆彈事件、福田大將狙撃事件(戒嚴司令官)本富士警察署内の爆彈事件、相次で起り所謂帝都爆彈事件が勃發した。この事件に使用された爆彈は手製のもので無政府主義者一味のものゝ計畫であることは明瞭であるにも拘らず所在不明となつて東京市内に潜伏し隨所に試驗爆破を敢行する一味を發見することが出來なかつた。元來、確信犯に問はるゝ者の所在搜査は破廉恥罪を犯した者のそれと同一の筆法を以てしては容易に成し遂げられるものではない。  斯くして我が國無政府主義運動はこの帝都爆彈事件を最後として終を告げ、爾來共産黨の活動と陸海軍部内の特殊な思想を背景とした右翼の運動と相互作用の樣な形をなして、幾度か大事件を繰り返しつゝ歳月を重ねる内に太平洋戰爭の勃發によつて、これ等一切が雲散霧消となつてしまつた。  昭和二十年終戰によつて特高警察も終りを告げた。思へば明治四十二年、幸徳傳次郎の所謂大逆事件に依つて、特高警察が重きを爲すに至り、其後世の變遷と共に時代の要求に答ふる如く、機構の擴充が行はれて來た特高警察の、四十年の存在は明らかに國の歩みが如何に多難なものであつたかを物語るものであらう。  私は今過去數十年に亘る社會運動興亡の跡、世相の變遷を顧みて、情勢の變化は、寸前闇であるとの感を深くすると共に、民心の動きは、客觀情勢と人爲的力とによつて、比較的容易に左右せらるゝものなることを痛感せざるを得ない。  大震災直後の流言は、遂に無警察状態となつた。二・二六事件の勃發は、一時的にせよ無政府状態となつた。  二・二六事件當時、あの反亂部隊が政府要路者を悉く抑留し、宮城を包圍したらどうなつたであろうか。思ひ半ばに過ぐるものがある。  思ひ茲に到れば中央政治の所在する都市の治安確保こそ重の重たるものなることを切實に感ぜざるを得ない。 底本:「文藝春秋 昭和二十五年九月號」文藝春秋新社    1950(昭和25)年9月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。