共産主義蜜蜂王國 河田嗣郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)纒《まとま》つた [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)自由[#「自由」に白丸傍点] -------------------------------------------------------  一昨年の六月の天氣のよい或日のことであつた。私の庭の櫻の木の小高い枝へ、何所からか蜜蜂が分封して來て、袋のやうにぶら下がつた。曾て蜜蜂を飼つてみてもいゝと思つて居た私は、近隣に住むI君といふ其道の經驗家の助を藉りて、其の分封群を捕獲してしまつた。爾來二夏かけて飼つて居たが、時々螫されるのと分封期前後の世話が中々容易でないのとに閉口してしまつて、今年の春まだ寒い頃に郷里の宅へ送りつけて、其方で飼ふことにした。京都の私の宅では蜜はとうとう一適も採れないで、砂糖を毎年十斤ばかりも與へたような有樣だつたから、經濟的には一向ものにならず、養蜂副業も學究がやつた分では駄目なことだとわかつた。  併し此夏は郷里で蜜を數貫稼いで呉れたさうで、やはり農村の副業としては面白いものだということもわかつた。  それは餘談だが、私は斯くして二夏かけて蜜蜂を飼つたことに依つて、彼等の社會の實状を十分に觀察する機會を得て、大變面白い學問をしたのである。それが洵に意外の儲ケ物であつた。  蜜蜂や蟻の生活が中々整つた社會的組織になつて居ることは、小學校の兒童でも知つて居る。その社會組織と統制とが殆んど完全に近い程度にまで行屆いて居て、彼等の生活は秩序立つた分業と協力とに依つて行はれて居る。蟻は住居を造ることに於ては蜜蜂に及ばず、其家は不完全なものであるが、蜜蜂の家は立派なものである。各室各房整然と出來上つて居るのみならず、産房と糧食庫とも區別せられ、同じ産房の中に在つても、女王を育てる所と雄蜂房と普通の働蜂房とは各々構造を異にして居る。  食物は固より共同に集めて共同に貯藏し、共同に食するのであつて、經濟上所謂生産と消費とは完全な共同經濟として行はれる。そして其の食糧の集蒐や、房内の掃除や外敵の防禦やも皆共同的な勞働として行はれる。字義通りの共産主義である。  春の彼岸頃になると盛に巣から飛出して、花粉や蜜を集めて來る。夏中働き通して秋の彼岸過までも働き續ける。冬の眞中でも天氣のよい温かい小春日和には三々五々働きに出かけることすらある。勞働の強制はどうして行はれるのかよくわからないが、苟も働蜂たる者は少しも怠けやうとはしないでせつせと働くのである。殆んど器械的に働くやうにも觀へ、習性として働くものとも見へる。そして又勞働の案配もどうして行はれるのかよくわからないが、兎に角ちやんと配當されて居つて、一糸亂れない。女王を護衞する者、巣門に在つて熊蜂其他の侵略者に對し方陣を造つて守備する者、房内の汚物を運び出す者、夏の暑さの折には巣門に四ツん這ひになつて尻を外方に向け盛に羽を振動さして煽風の働を爲し清新の空氣を巣内に送る者、皆それぞれの役目がある。  勞働は分業があるばかりでなく生理的にも分業がある。女王といはれるのは受精して完全に營養を與へられて特別入念に育てられた群内唯一の雌蜂であつて、其役目は唯産卵することに在る。然かもその産卵は隨意的であつて、受精卵を産むも不受精卵を産むも思のまゝである。受精は一生一回空中交尾に於てするのだが、其際受けた精は其儘嚢の中に貯へて居て、産卵する際ポンプ仕掛で射出して卵子に受精さすのである。そのポンプの開閉が隨意自在である。そして受精した卵子からは雌性が生れ、不受精卵子からは雄性が生れる。雌性の中で特別の房内で特別の食餌によつて育てられたのが王蜂となり、營養不良の連中が働蜂となる。雄蜂はたゞ生殖の爲に存在し、何の勞働もしない。然かも身體が大きくて多量の食物を攝るから群中最も不經濟漢である。その數もかなり多い。だから女王一回の空中交尾の際遇々恩寵に預かる奴だけが生存の意義を果し、他は無用の鈍物である。だから交尾が濟んでしまへば雄蜂等は働蜂の爲めに食殺されるか巣外に驅逐されるかして、仕末されてしまう。  かやうに生れる時からが已に分業的に運命づけられ、育てられる時にも役目に應じただけの待遇を受け、働く者等は皆分業に依て勞働を課せられる蜜蜂の生活は、まことに宿命的なものであり、又組織立つたものでもある。生存は全然共産主義的であつて、群本位である。團體主義である。個性の自由は認められることなく、群の安全と存續との爲には個體は犧牲に供しられて顧みらない。即ち幼蟲の折から虚弱で物の役に立ちさうもないのは、生かし育てゝも群の存在の負擔にこそなれ利益にならぬから幼蟲の中にくはへ出されてしまう。又外敵を攻撃したり防禦したりする際螫す蜂は、一度螫せば自らは弊れてしまうのだから、彼は自己の存在の爲めに外敵と戰ふのではない。自ら亡びて群の存在の爲に戰ふのである。即ち身を殺して仁を爲すものだ。  されば蜜蜂の社會には個性の尊重といふことはない。個性の自由は認められない。唯個體の間には平等がある。その平等は勞働の平等を以て大原則とする。然かもその平等は同一樣なる生理的機能を有する働蜂相互間だけのことであつて、雌蜂は王と呼ばれるほど特別待遇を受け、雄蜂亦働かないで養はれる權利を有する。つまり平等は働蜂間の社會的平等である。  私は斯くの如き社會が眞の共産主義といふものであらうと思ふ。そして二夏の間その状態を殆んど毎日のやうに觀察することに依て、私は、若し人間社會に共産主義が實現し得るものならば、やはり斯くの如くある外はないと感じた。そしてそれは洵によく整つた全體として纒《まとま》つた社會であるが、その代り其所には個性の自由はない。榮ゆるも衰ふるも一群共同である。群の團體利益の爲には個體は個性の獨立と自由を捨てゝ奉仕しなければならぬ。萬一の場合には群の爲に身を殺す覺悟がなくてはならぬ。然かも死を見る歸するが如くでなくてはならぬ。  個體々々に於ける自由[#「自由」に白丸傍点]と平等[#「平等」に白丸傍点]とは社會的には到底兩立し難い。個體の自由を尊ぶならば、どうしても個別主義で行く外はない。人間社會に在つては個人主義である。社會的に觀たる個人主義は各人夫々自己の生存に對して自ら責任を負ふのである。その代り所有と働きとに自由が與へられる。自由に選び自由に所有し自由に働いて自ら生きて行くのである。  之に反して團體主義に在つては團體が全體として共同に生存の責任を負ひ、共同に所有し共同に働き、各人は團體の強制に服することになる。但し個人間には平等待遇が與へられ、食料其他の享受も平等にせられるが、勞働も亦平等的に課せられる。  されば、人は社會生存の上に於ては、自由を選ぶか、平等を選ぶか、その何れかを選び何れかを捨てねばならぬ。兩者を併せ取ることは許されない。  蜜蜂の社會は團體主義である。共産主義である。然かも王國的共産主義である。尤もその王國的といふのは、上に專制君主があつて其の統御の下に多數者が治められて居るといふわけではない。不平等なる卓越者を戴いて(よしその卓越者は生理的には不具に近い生殖專門の分業者であるとも)其下に多數の平等者が共同主義を行つて居る意味のものであるが。  私は蜜蜂の共産社會を見て格別羨ましいとは思はなかつた。斯くの如き社會生活は、平等者たる働蜂が生理的にもお互に大同小異のものばかりであつて、技能の上にも個性等に著しい差等なく、彼等は元來生理的に平等なるが故に社會的にも平等であり得る者等の間に於てのみ能く成立ち得るものと觀た。  各個體が智能其他に於て先天的に不平等なる者の間に於ては、斯くの如き完全なる共同主義は中々成立ち難いであらう。と同時に斯かる共産主義は、一群があまり多數であつては維持し難いこともわかつた。蜜蜂は群内の員數があまり多くなれば、必ず分封して別群を造る。  蜂の社會を直ちに人間の社會に移して考へることは穩當でないが、共産主義を學ばん者は、先づ少くとも蜜蜂の社會の實状を視察するだけの必要はある。私は其道に志ある人々に是非見學を勵めたいのである。 底本:「文藝春秋 十月號」文藝春秋社    1926(大正15)年10月1日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。