「恐怖の報酬」 高見順 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)搏《う》たれる [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き](一九五四年) -------------------------------------------------------  私は映画はそうとう観るほうだが、心ひかれるのは、映画の描写力を生かした作品である。文学でそれ以上の描写ができるものには大して関心をもたない。今度のフランス映画祭で観た映画のなかでは、「恐怖の報酬」と「夜ごとの美女」がおもしろかったし感心した。「陽気なドン・カミロ」(一九五一年)なら文学でもそれ以上のことをやれる材料である。たとえば、「恐怖の報酬」の最初の中米の暑くるしい描写。あれは映画でなければ出せないものだった。文学だと描きすぎてしまうのである。この映画には原作があるという。が、ああいう迫力は、映画的迫力であろう。 「恐怖の報酬」のよいところは、文学的でないということであろう。ニトログリセリンを積んだトラックが油で滑ったり、前の車が爆発したあとで立往生してこまってしまう。ああいうものだけでは小説は書けない。映画的描写の迫力によって支えられている。しかし、けして人間的なものから離れてはいない。人間から離れてしまった映画になってしまってはこまるのだ。ある閉された世界からの脱出ということ、そういう主題では「望郷」に似ているけれど、恋愛が主になっていないということには感心した。  アントワヌ・サンテクジュペリの「夜間飛行」の序文で、アンドレ・ジイドが、「この小説を読み終えたときにはほかの人間になっている」といっていたことと同じものを、この映画を観たあとで感じた。そうして、観おわったあとで、自分をとりもどすのに非常に時間がかかるほど、搏《う》たれるものがあった。追いつめられた環境を追及する、というやりかたは、たとえばグレアム・グリインの小説にも見られる。彼にはおなじ中米を背景にした「力と栄光」(ジョン・フォードが「逃亡者」(一九四七年)という題で映画化したそうである)などにくらべると、グリインの扱ったシチュエイションや追及のしかたにはもっと残忍な感じがある。「恐怖の報酬」はそうではない。追及の仕方のちがいであろう。  トラックが出発するまでの部分が長すぎるとか不必要だとか、そういう批評がフランスであったという。しかし、あれだけのことがなければ後半は生きてこなかったであろう。シャルル・ヴァネルが飛行機から降り立って現れるところなど非常におもしろい。そういう見るべきものもすくなくない。  最後にのこったイーヴ・モンタンも殺してしまうという主題。これはやはりそうすべきであろう。三人の男を殺してしまっているのだから、あのまま生きのこらせるのではおもしろくない。残った男も殺さなければ幕はしまらないといわなければならない。フォルコ・ルリの演っているルイジは非常によく描けていて印象にのこった。  私には技術的なことはわからないが、映画の描写力の限界を衝《つ》こうとしたものだというように見られる。また、私たちが問題にしている小説の濃密性というものが映画を見るときよく気になるものである。特定の場面の描写の密度を濃くすると、その場面だけが異質のものになりがちである。この映画ではそういう描写の狙いがなめらかに出ているのに注意された。 「恐怖の報酬」には一種異様の乱暴な調和の美しさというものがある。音楽の不協和音のような美しさである。ただ、これは私の東洋人的な考え方かもしれないが、そのなかに人間的な淋しさも描きだされていたなら、さらにその感銘はふかいものになったのではないだろうか。 [#地付き](一九五四年) 底本:「文豪文士が愛した映画たち」ちくま文庫、筑摩書房    2018(平成30)年1月10日第一刷 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。