甲子と猫 壺井栄著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)叔父《おじ》さん -------------------------------------------------------  真黒いからだに赤い首わをして、その首わには金色のすずがついていました。そしてかつおぶし二本と一しょに、エチは甲子の家へもらわれてきたのでした。ふつうよりも丸い大きな目をして、てのひらの上にのるくらいの小さなエチは、まだ物おじをすることさえ知らないらしく、来るなり甲子のひざへちょこんとすわりこみました。始めもらうことにきまった時、黒ねこなんかいやだといっていた甲子も、こうして来てみると、もうかわいくてかわいくて、大気に入りでした。見たところ白い毛は一本も見あたらないようでしたが、よくよくしらべてみると、後足のつけねのところに三四本だけ白い毛がありました。 「この二三本でエチのねうちが大分下るのだよ」  大学生であった甲子の叔父《おじ》さんは、そんなことをいってざんねんがりましたが、甲子にすれば、それはどうでもよいことでした。エチという名もその叔父さんがつけたのでした。その頃は、ちょうどエチオピアのことが新聞に出ていましたので、黒いからエチオピアとつけたのです。そして、それがいつのまにかエチとなったのでした。一人っ子の甲子は、エチをまるで小さな弟かなんぞのようにかわいがりました。動物でも人間の気持がわかるらしく、エチも甲子を誰よりもすきでした。猫というものは、寒くない時でも、人のひざをなつかしがるくせがあるようです。エチはいつでも誰かのひざにいるのをこのんでいましたが、甲子さえその場に居れば、かならず甲子のひざへ来ました。それが又じまんで、甲子はお魚《さかな》のおかずの時など、かならずエチのために半分をのこしてやりました。甲子が、 「エチ」  とよぶと、エチは、ニャアとへんじをしながらどんなところにいても飛ぶようにしてかけて来てじゃれつきました。も一度、エチ、と呼ぶと又ニャアと答えるのです。 「へんじをするねこなんて、きっとりこうなのよ」  甲子はもう大じまんでした。ところがある日、このりこうなエチがゆくえ知れすになってしまいました。それは、甲子の家が引こしをする日のことでした。はじめは甲子がだいてつれてゆくといっていましたが、生き物は電車にのれないということなので、しかたなく叔父さんがつれて、荷物と一しょに行くことになり、甲子は先に行って待っていました。トラックの音を聞きつけると、甲子はおもてへとび出してゆきました。 「甲子、エチ、逃がしたよ」  叔父さんは甲子の顔を見るなり、そういいました。 「うそ!」  甲子ははじめ叔父さんがだましているのだと思ったのですが、よく見るとエチはどこにもいそうもありませんし、叔父さんの話を聞くと、まったくそれはほんとうのことなのが分りました。叔父さんがエチをだいてトラックに乗りこむ時から、エチはもう落ちつきをなくして叔父さんの胸からぬけ出そうともがいていたのが、トラックが動き出すとますますおどろいて、あっと思う間に兎のように飛び出して、すうっと風を切って逃げ出したのだというのです。 「いや、いや、いやあ」  甲子はじだんだふんで叔父さんをぶちました。けれどしかたがありません。 「畜生《ちくしょう》の悲しさで、いくらエチがりこうでも引こしなど、分ろうはずがないからね」  叔父さんたちはそんなことをいって笑いました。しかし、甲子はどうしてもあきらめ切れず、二三日してから、もとの家へエチをたずねて行きました。けれど、エチはどこへ行ったのか、そのへんには姿が見えませんでした。  きんじょの人たちも見かけないということで甲子は始めてエチのことをあきらめました。  そんなことがあってから、一と月ほどたったある日曜日でした。だい所へ水をのみに行った甲子は、おかっ手口のしきいのそばに、仔犬ほどもある大きな猫がのうのうと昼ねをしているのを見て、びっくりしました。それはとら猫で、あんまり大きいのできみが悪くなるほどでした。 「しっ!」  足ぶみをして追ってみましたが、猫は細く目を開けて甲子を見たきり、また眼をつむってじっとうずくまっているのでした。 「猫でしょう。ずうずうしいったら、どんなに私が追っぱらっても逃げないんですよ」  女中のマサが、ふろ場の方からやって来て猫のそばにしゃがみ、その頭を突つきました。  それでも猫はちょっと目を見開いただけで、もう十年も前から、ここにいたかのように落ちついているのです。そしてマサが首のところをなでてやると、ごろごろとのどを鳴らしながら、あんしんしきっています。マサの話によると、二三日前から来て動かないので、余りものなどたべさせているということでした。 「エチのかわりにうちの猫にしましょうか」  甲子がそういうと、お母さんは笑いながら、 「まさかお前、そんなわけには行かないでしょう。これはきっとどこかのかい猫ですよ。でなきゃこんなに人になれているはずがない。きっとかわいがられてかわれていた猫ですよ」  そういえば、この猫は少しも物おじをしません。したを鳴らして呼べば、人なつっこい顔をして呼んだ人のそばへ、ゆっくりとよって来るのですが、いつの間にか日向をよってそこへうずくまるのでした。そのどうさはエチのようにかっぱつではなく落ちつきはらっています。ただ天井に物音がしたりすると、きっと首を上げて、その方をながめ、これだけは自分の受持だとでもいう風に耳を立てて、にらみつけていますが、しばらくして音がやむと、又もとの通りうずくまってしまいます。そしていつまでたっても自分の家へ帰って行こうとはしませんでした。もしも帰る家があるのだったらいけないからといって、夜は外へしめ出しましたが、しめ出されれば出されたで鳴きもせず、ゴミ箱の上などで夜を明かしていました。 「どうもすて猫らしいな。そうならかわいそうだからおいてやろうじゃないか」  叔父さんがそういい出したことから、猫はついに一人前の茶碗《ちゃわん》をあてがわれ、ろうかのすみにねどこをつくってもらいました。けれどもそれをうれしいとも、又気に入らないとも思わないらしく、猫は日がな一日こくりこくりと居ねむりばかりしているのです。それはまるで人間でいえば百歳に近いおじいさんのようでした。そこで「おじい」という名をつけました。甲子がおもしろがって「おじいさん」と呼ぶと、それが新しい自分の名だと知ってか知らずにか、あいかわらず呼ばれる度にちょっと目を細く見開いて、それに答えるだけでした。 「よほど年よりらしいわ。もう何もかもめんどくさいのよ」  甲子は、ひもをなげて、からかってもエチのようにじゃれてはこない「おじいさん」を物たりなくも、かわいそうにも思って、そっとその頭をなでてやりなどしました。その時だけはゴロゴロとのどを鳴らしました。首をかしげて何かを見守る時のエチの目、ひもをなげるとむきになってねらいをさだめて飛びかかってくるエチの可憐《かれん》な姿、そのエチは、今どこのやねの下で誰に相手にされているだろうかと思ったり、又、この「おじい」のように、勝手にすわりこんでゆく家がなくて、のら猫になってしまったかも知れないと考えたりするのでした。けれども「おじい」をかわいがってやりさえすれば、エチもきっとどこかで誰かにかわいがられるようなまわり合わせがあるにちがいないと思いました。ほんとういえば、甲子は「おじい」よりは、やっはりエチの方がすきでした。第一だいてやるにも「おじい」は甲子の手にあまるほと骨組の大きな猫なのです。けれども、一日二日とたつ中に、甲子はだんだん「おじい」をすきになって来ました。  ところが、こまったことが持ち上りました。  というのは、この「おじい」は家の中でねおきするようになってから、おしっこをとこのまや机の下でよりしないのです。もうろくするということは猫の世界にもあるらしく、これには、みんなこまってしまいました。 「これだから前のかいぬしにすてられたのでしょう」 「これではかわいがりようがない」  相談のすえ「おじい」は又すてられることになりました。かわいそうに思っても、誰もそれにはんたいするものはありませんでしたが、甲子が一人、それはあまりひどいといっておこりました。しかし、いくら甲子がはんたいしても「おじい」のわるいくせはよくなりません。そこで、甲子が学校へ行ったるすの間に、ないしょですてに行こうということになり、その日は十分にお魚のにつけなどたべさせました。あまり遠くない「ばっけの原」にすててくることになり、マサがふろしきをひろげて「おじい」を包みました。そして一ふくろの「にぼし」をも一しょに入れました。そうされても「おじい」はそれとも知らないらしく、ただされるままに鳴きもしないで、マサにだかれて家を出ました。  学校から帰った甲子は、「おじい」の姿が見えないことですぐそれとさとり、わあわあ声を上げて泣きました。あまりに甲子の悲しみ方がひどいので、お母さんは甲子をつれて、マサも一しょに、すてた原っぱへ行くことにしました。すててから六時間もたった今、そこに「おじい」が居るとは考えられませんでしたが、とにかくそこへつれて行って甲子をあきらめさせようと思ったのです。三人は夕ぐれの道を「ばっけの原」へいそぎました。かれ草をふみながら、マサのあんないで原っぱのまん中どころまで来ました。 「あら、いますよ、まああきれた。私がおいて行ったまま、ちっとも動いていませんわ」  マサがとんきょうな声をあげた通り、「おじい」はまるで、今こうして甲子たちがここへむかいに来てくれることをしんじきってでもいたかのように、あんしんした姿でかれ草の上にうずくまっているのでした。そして、「おじい」といいながら甲子が両手でだきあげると、はじめてそれに答えるように、小さい声で、ニャアと、鳴きました。 底本:「猫の文学館T 世界は今、猫のものになる」ちくま文庫、筑摩書房    2017(平成29年)年6月10日 第1刷発行 底本の親本:「壺井栄全集 第九巻」文泉堂出版    1997(平成9)年 初出:「少国民の友」    1942(昭和17)年2月 ※底本は表題に「甲子《こうこ》と猫《ねこ》」とルビがふってあります。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。