小酒井氏の思い出 森下雨村著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)紐育《ニューヨーク》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ]一[#「一」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し]  四月二日、小酒井氏の訃に接して、名古屋へ急ぐ汽車の中を、私は「学者気質」と「病間随筆」を読みつづけていった。「学者気質」は故人と私とを結びつけた思い出の書であり、「病間随筆」はその頃の小酒井氏の内的な心持が最もよく現れている随筆で、私としては何よりも故人を偲ぶよき思い出であったからである。 「学者気質」が東京日日新聞へ連載されたのは大正十年九月であった。どんな機縁から人と人とは結びつけられるものか分らない。小酒井という珍しい名が目について読みはじめた私は、先ずその博識に興味を覚え、翌日を待ち兼ねる気持になっている矢先、第三回「探偵小説」の表題に一層の興味を感じて一読すると、どうしてその方面にも中々の通人であることに驚かされ、今度は小酒井という人がどうした人であるか、新聞社について聞き合せてみたいとさえ思い出した。その折柄、知友井上重喜君(医博)に会ったので、訊いてみると専攻は違うが法医学教室に暫く一緒にいたから知見の間柄である、専門は病理学であるが博識稀に見る篤学の士で永井博士の秘蔵弟子であるということであった。  私は早速書を送って、『新青年』への寄稿を依頼した。当時の『新青年』は創刊僅かに二年で、大して世間に認められてもいない青年雑誌であった。従って東北大学の教授である小酒井博士が私の依頼を快く諾いてくれるか如何かという疑念は十分にあった。まだ見ぬ人を心に描く経験は誰しも持つであろうが、文章に現れたその博識、大学の教授、博士というような先入の概念に捉われて、未見の人小酒井氏を頭に描く時、私がそうした疑念を抱いたことは当然であった。  が、結果は寧ろ意外であった。懇切を極めた手紙が来たのである。自分は青年が好き、青年雑誌が好き、特に探偵小説は大いに好きである。喜んで執筆をしよう。ただ、目下身体の具合が思わしくないから暫く待って欲しいと云う丁重な手紙であった。編輯者がこういう手紙を受取った時の喜びは、経験のない人にはわかるまいと思う。ましてその手紙がいかにも謙譲で、親しみに充ち、互いに相識るようになったことを喜んでいる先方の気持が目に見るようであったのが、私にとってはどんなに嬉しかったか。  ここに二人の文通は始まり、私は健康回復の早からんことを祈りつつ原稿の督促を繰返した。後になって思うと、事情が分らなかったとは云え心なきことをしたもので、当時、十月二十六日に小酒井氏は帰朝以来初めての大喀血をして病床に絶対の安静を求めていたのである。  病が大分良くなったと云って、最初に筆を執った原稿は大正十一年新春の増刊に出た「科学的研究と探偵小説」である。これは小酒井氏が専門外の文学、特に探偵文学の方面に顔出しをするに当り、先ず自己の立場を明らかにしたもので、今になって考えてみると、まことに意義深いものである。  その中には、元来探偵小説が好きであったことから、海外留学中、紐育《ニューヨーク》ではハドソン河畔を逍遙してポーの作品を偲び、倫敦へいってはベーカー街を訪うてドイルが描いた舞台を想い、巴里ではルコックの辿った道を辿ってガボリオーを懐しんだというようなことや、探偵作家のもつ推理、観察の力は科学の研究にも必要であることを述べ、科学的研究と探偵小説との間には緊切な関係があることを力説している。  話が前後するが、小酒井氏が闘病の一助として文筆に親しむようになってからは、その友人や知己の間には、氏が医学の畑から足を洗ったように考えた人も少なくはなかったらしい。現に同窓の親友である谷口博士なども一時は裏切られたような気がしたと語っていられたほどである。しかし、それは全然間違いであって、小酒井氏は健康の回復を待って数年前から専門の研究に着手し学界のために大きな仕事をしていたのであった。研究の内容は無論我々に分ろう筈はないが、谷口、古畑博士などの話によると、現在の医学の知識からすると殆ど空想に近いほども困難、且つ大きな研究で、そうしたことを思い立ったのも全く超人間的なあの推理と想像力のしからしむるところで、到底普通の科学者の企て及ぶところではないとのことであった。この事実は、小酒井氏が自己の所説を実現したもので、そういう意味からしても一人二役の仕事をした故人の業蹟を辿る上に、「科学的研究と探偵小説」の一文は極めて深い意味を持つものである。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  それからの約二年間は犯罪事実の研究や、「殺人論」、「毒及び毒殺の研究」、或いはドウゼの翻訳等、専ら犯罪と犯罪文学の研究に費やされた。古典物は大概持っているが、新しいものを読みたいとの事で、フレッチャーのものなどを送って上げたり、有朋堂文庫を買って送ったりしたのはその間のことで、三日にあげず手紙のやりとりをしたのもその時分である。その当時は文壇にも余り知己はなかったであろうし、発表も『新青年』のみであったから、自然文通も繁く、まるで兄弟のような隔てない交際であった。  大正十二年の二月、小酒井氏は義妹を喪い、同じ年の五月、私は母を喪った。肉親の少ない小酒井氏は義妹さんの病を気遣って随分と看病につとめたらしい。栄太樓の甘納豆を食わしてやりたいからとの手紙で、送って上げると、当の病人が書きでもしたような感謝の手紙をもらったこともあった。間もなく、母の病で帰国した私が、病名不明の症状を書いて送ると、尿毒症であろうと云って手当まで細かに認めた手紙をもらった時、恰度高知から招いた名医が同じ診断をして、その名察と親情に感謝もし驚きもしたことであった。  情の濃やかな親切な人であったということは、誰しも一致するところであるが、こうした思い出をもっている私には、特にその点が深く深く泌み込んでいる。友情に厚い人であったことは、江戸川君が一時創作に悩んだ頃、影になり日向になりして同君を激励し鞭撻した一事によっても窺われる。このことは江戸川君自身も書いているが、私への手紙にも幾十度江戸川君のことを書いて来たかわからない。大衆文芸の向上が最大の眼目ではあったろうが、故人が中心となってこしらえた耽綺社も、その成立の動機の一部は江戸川君を激励するにあったのではないかと私自身は考えたくらいである。  そうした話は別として、犯罪並びに犯罪文学の研究が一段落を告げ、ドウゼの翻訳も二篇を終りかけた頃から、私は創作を慫慂した。それはいつか会った時、日本の探偵文学のためにお互いに一歩を進めて創作を発表しようではないかというような話が何方からともなく出たからであった。  それに対して、小酒井氏からの返事は、きっと[#「きっと」に傍点]書く、しかし長いものはまだ書けないから、自分の好きなルヴェルのような短いものを書いてみたい。その中に送るから批評をしてくれという相変らず謙遜な態度であった。それも今から考えると、『苦楽』へ「呪われの家」を発表したので、私としてはかなりやきもきした気持で催促をしたものらしい。しかし、それは私が無理であった。と云うのは、研究と翻訳の方面であれだけの仕事をした後である、どんなに自信があるとしても創作となるとそう容易に筆を執れるものではあるまい。その点から考えると、「呪われの家」は一つの瀬踏みであり、その後の約半歳を作家として真実に自分のとって進むべき途を準備していたように思われる。そして大正十四年八月の『新青年』へ初めて発表されたのが真の処女作と云うべき「按摩」と「虚実の証拠」であった。ついで「遺伝」、「手術」を発表し、好評と自信に勇気づいて、それからは幾多の各篇が続々と出来たのであった。それらの作品中、最も傑れたのは世評の一致するところ矢張り「恋愛曲線」で、これは作者自身も会心の作と認めていたであろう、後に短篇を集めて単行本とする場合、私にその題名を相談して来た時、「恋愛曲線」ではと云ってやると、即座にそう決めたものである。  当時の作品は、自分でも云ったとおり明らかにルヴェルの影響を受けたもので、形式から云っても、内容から見ても、ルヴェルの「青蠅」や「夜の荷馬車」を彷彿させる珠玉的短篇が多かった。元来ルヴェルには非常に共鳴していたもので、最後まで仕事をし読書に親しんでいた研究室の書斎の書架、それも安楽椅子の傍に田中早苗君の訳になるルヴェルの短篇集が置いてあったほどで、ルヴェルは恐らく小酒井氏の愛読書の一つであったことと思う。  愛読書と云えば、故人の最も愛読した小説は「罪と罰」で、これは「私のバイブルである」とまで云っている。探偵小説の方面では古いものは別として、近代のものではフレッチャーが一等好きであった。しかし、同じく好きと云ってもルヴェルとフレッチャーに対する興味は全然別であったらしい。つまりルヴェルには共鳴もし惹きつけられもした方で、フレッチャーは探偵作家としての立場から、その作風に同感したという様なわけであったと思う。  自分で翻訳までしていながら、ドウゼのことは余り口にしなかったが、フレッチャーの作については私と会う度に話をしたものである。探偵小説はやはり本格物でなければならぬ、それもフレッチャーの行き方である、自分もいずれああいうものを書いてみたい。と同時に「探偵小説本質論」を執筆して『新青年』誌上に発表したいが、それには古いものから今一度全部読み直さなければならないので、来年頃まで待ってほしいと――これは昨年の夏、会った時の話であった。  約束は必ず果す人であったのに、今少し生きていてくれたらと、このことだけでも惜しまれてならぬ。死を前にして「三日生きていたい、出来れば三年」と云ったそうだが、それは決して単なる生への執着ではなく、やりかけていた専門の大研究に多少なりとも目鼻をつけたいか、或いはそれについて誰かに後事を托したかったかであろう。探偵文学の方は余技であったとしても、死がああも突然に来なかったら、私や江戸川君には何かと話したいことが、やはりあったであろうと思うと堪まらなく残念な気がせられる。  まだいくらも書きたいことはあるが、近頃の事は他の人も書くであろう。また他の機会にゆっくりと思い出を語る機会もあろうからこの辺で筆を止めておく。 底本:「別冊・幻影城」株式会社幻影城    1978(昭和53年)3月1日発行 底本の親本:「新青年」1929(昭和4)年6月号 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。