小猫 近松秋江著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)私《わたし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一度|可愛《かあい》い [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)身体を|※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》ぢつて /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ぞろ/\ /″\濁点付きのくの字点(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)バタ/″\と -------------------------------------------------------  私《わたし》は、まだ子供を持つたことがありませんから、子供を亡くした時の心持も経験しませんけれど、もし子供があつて、死なれでもしたら、あヽもあらうかと思ふやうな悲しい心持になつたことが一度ございます。  私は随分我儘勝手ですけれど、それでゐて非常に情深い性質だと言ふことは何うしても争そはれません。それは自分を賞めていふのでも貶なしていふのでもない。ありのまヽがさうなのです。  私は一度|可愛《かあい》い小猫がフトゐなくなつたので、それから急に気病みがしたやうになつて七日ばかりといふもの、猫のことを思ひ続けて泣いてばかりゐたことがございました。さうしてその時私は、自分には子供がないけれど、成程子供に死なれた親の心持は斯ういふものであらうかと思つたのでした。  私の友人が猫を飼つてゐまして、それが四匹か五匹子を生んだのでした。友人も猫煩悩の男でしたから、親と一所に其れを可愛がつて育てヽゐました。障子を破らうが、畳を引掻かうがそんなことは一向構はないで、何時も家《うち》の中を五六匹の猫がぞろ/\歩いてゐました。  私は、その中で一番毛並の好《い》い、尾《しつぽ》の余り長くない、まだ眼の見えぬ時分からムク/\と肥つた雄児《をす》を貰ふことに約束して、なるたけ乳は長く呑したがよからうと言つて、大きくなるまで矢張り親の傍《そば》に置いときました。  けれども四匹も五匹もの小猫が段々大きくなるにつけ、余りに悪戯《いたづら》が劇《はげ》しくなるものですから、流石の友人も、 『早く連れて行つてくれ、遣りきれない。』 と言つて、其の家の書生が猫を扱かひつけてゐるものですから、元気で引掻いて仕方のない其の雄児を懐中《ふところ》に入れて、私と一所に其家《そこ》からは可成の道程《みちのり》のある私の家まで連れて来てくれました。  そりや活溌な好い猫でした。あばれる[#「あばれる」に傍点]こと/\黒い処の多い、丁度頸輪を入れたやうに、頸部《くび》の辺《あたり》に円く真白い斑《ぶち》があつて、それから尾と後足が白くつて、丸く肥つてゐるから丁度熊のやうでした。――私は熊が好きです。私は三十|幾歳《いくつ》にもなって、時々独りで怠屈な機《おり》などに屡く動物園を見に行くことがありますが、そんな時には何時も熊の前に一番長く立つて見てゐます。何だか熊とは私遊んで見たいやうな気がします。――私は猫とも遊ぶのです。全く、猫を飼つてゐると、私は猫が何人《だれ》よりも一等好きな友人《ともだち》なのです。  で、その小猫を、妻《さい》が、『小僧々々』と呼んだのが元で、私も『小僧々々』と呼びますし、さういふと、間もなく小僧自身にも分るやうになつて来ました。  よくハシヤグのハシヤガないのつて、それはよく暴れました。私達が立つて歩いてゐると、裾に縺《もつ》れて飛び付いて来る。それを『叱《し》つ!』というと、サツと飛び退いて、急遽《いきなり》向の方の柱に行つて掻き上《のぼ》る。私がそれを面白がつて追掛《おつか》けると、直ぐまた逃げ出して、今度は床に私の親父《ちヽ》の肖像画を置いてある、それに行つてその額縁に飛び付く。それから其の壁に凭せ掛けた隙間にソツと隠れる。隠れた奴を片方《かたつぱう》から追ひ出す。遁ける、遁げるを追ふと、今度は庭の松の樹に行つて掻き上る。それを下から追ふと、上へ/\逃げて行《ゆ》く。その時此方で忘れたやうに知らん顔をしてゐると、また高い処から段々下りて来て、私の立つてゐる鼻の先の技を伝うて傍へ挑みに遣つて来ます。あまり枝の先の方へ来ると、落《おつこ》ちさうになるので小猫は自身の体を持扱ひかねてゐます。その困つてゐるのを見るのが好でした。  最初《はじめ》の内は、妻が気を付けて糞をする処を拵らへて教へてやりましたが、それでも夜蒲団の上に小便《おしつこ》をするには困りました。さうすると妻は、『よく言つて聞かせねばならぬ。』と言つて、その小便《せうべん》で濡れてゐる処へ連れて来て、 『こら! お前|此様《こん》な行儀の悪いことをしてはいけないぢやないか。此処へ小便をするんぢやないよ。』  と言ひながら小便に鼻を押付けて置いて、拳固で猫の頭をコツ/\と叩きました。余り非道く叩くやうですから、 『そんなに非道くするな。』と私は言ひました。  さういふやうな調子で、一寸でも猫の姿が見えなくなると、私は何を置いても大騒ぎして探し廻るのでした。  そんな時には、妻も『直ぐ先刻《さつき》其処にゐたやうであつたが、何うしたらう?』と言つて、起つて私と一所に探します。散々尋ねあぐんだ結果《あげく》、知らずに閉めて置いた押入れの行李の中の檻縷《ぼろ》を入れた上に温々《ぬく/\》と丸くなつてさも好い気持に寝入り込んでゐる処を発見することがある。さうすると妻が、 『あつ! 貴下此処にゐましたよ。』と他を探してゐる私に呼んで置いて、『これ! 何うした? お前がゐないので心配したぢやないか。温々《ぬく/\》と寝入つて、良く寝られたか。』と言ひながら抱へて連れて来ます。さうして畳の上に置くと、小《ちさ》い身体《からだ》を長く無格好に伸して大きな欠伸《あくび》をします。でも其様《そん》な時はその不様なのが厭でした。  そんなに可愛がつてゐる猫の為に、一遍、私も妻も寿命を縮めるやうな思ひをしたことがございました。猫が井《ゐど》に陥《はま》つたのです。その時くらゐ心配したことはありません。  私達その頃は小石川のある高台に住んでゐましたが、恐ろしいやうな深い井で、お勝手をするにも、それが第一の難渋でした。  処が、その小猫が、――親猫ならば幾許《いくら》動物でも訳が分つてゐますから、そんなことはしますまいが、――時々其の井の井筒の上に這ひ上つて歩いてゐるのです。それを見ると、妻はハラ/\して、先方《むかう》を吃驚《びつくり》させぬやうに、静《そつ》と、『小僧々々』と呼びます。さうすると、何でもなく降りてまゐります。  さうしてゐると、何日か、私達|昼飯《おひる》を食べてゐると、突如《だしぬけ》に何とも言へない汚い声を出して猫の泣くのが耳に入りました。妻は早くもそれを聞付けて御飯を口にしながら、 「あツ! 猫が井《いど》に陥たんだ。』と言ひなり、ガタリと茶碗と箸とを食卓の上に置いて、『私、一度は此様なことがあるに違ひないと思つてゐた…………』と言ひ/\板の間から飛び出して井の方に駆けました。私も続いて出ました。  底の方を透して見ると、案の定、猫が陥つてゐる。併し不思議に水の中には落ちてゐません。御承知の通り大抵の井は、上の方に桶側を一つ入れて、その下は赤土で固めて、それからまたずつと底の方の水のある辺《へん》に行つて桶側を入れてある。それ故水と殆ど一所になつた桶側の縁の処と、その外側の赤土の処とに狭い段が一と周り出来てゐます、でも丁度其処の処へ甘く落ちてゐるのです。可愛さうに、其処へ這ひつくば[#「つくば」に傍点]つて、呼吸《いき》が切れさうな声で泣いてゐるのです。水際まで二丈はたつぷり[#「たつぷり」に傍点]あるのですから、何うすることも出来ません。  私達は井筒に取付いて、遠く底を窺き込んだなり思案に暮れました。  猫は火の付いたやうな声を揚げて泣き頻《しき》つてゐる。 『貴下、何うしたら好いでせう?…………』 『…………』私は何とも返事が出ません。 『井屋を呼んで来なければなりますまいか。』 『井屋を呼んで来たつて仕方があるまい。何うしたらよからう。本当に困つたなあ。』『貴下、此のまヽにしてゐたら、死んで了ひますよ…………。』 『ウム! 早く何うかしなけりやならん。困つたなあ、何うしよう。』  二人は、泣くやうな声を出して気を揉みました。 『あれ御覧なさい、貴下あんなにして泣いてゐる。…………確乎《しつかり》してお出で、今直ぐ上げてあげるから…………お前が此様な処を歩くから悪いんぢやないか!』妻は悲しい声を出して猫に理解《わか》るやうに叫びました。 『井屋に行つたら好い分別があるだらうけれど、そんなにしなくつても何うかならないかなあ。』  と言ひながら、試に釣瓶を動して猫の方に寄せて見たが、泣いてゐるばかりで、一向その方は気を付けやうともしません。それから、ぢや待て待て斯うして見やう。と言つて、今度は長い物乾し竿を二本継いで、その尖に、容易に猫が取着くことが出来るやうにと思つて、座蒲団を巻付けて、猫の傍に遣つて見ました。けれどもそれにも何うもしないで矢張り知らん顔で泣き続けて居ます。 『困つたなあ! 何うしよう?』 『何うしたら可いでせう?』  唯、空しく凝乎《じつ》と見てゐると、猫の生命《いのち》は刻一刻に迫つて来るやうで、私達も静《ぢつ》としてゐられません。貴下方は、其様な時に何うしたら無難に猫を救ひ上げることが出来ると思はれます? 『あツ! 好い分別がある!』と、私は覚えず膝を叩きました。  急遽私は座敷に駆け戻つて、押入れを開け、古雑誌を入れてある行李を取出して、そのまヽ倒さまに座敷に引きあけ、其処にある細引を取つて、行李を十文字に吊りました。 『おい! 斯うしたら何うだらう?』と言ひ/\私はそれを提げて井|辺《ばた》に来ました。  それから、其れをスル/\と、細引を手繰つて井の底に下して、静《そつ》と猫の方に寄せました。――井は円い、行李は長方形ですから、私は、行李の幅の短かい方を井側に当てました。さうしないと、猫と行李との間に間隔が多く出来ますから。――  よく猫は犬に比べて馬鹿な物だ。と言ひますけれど、猫――寧ろ動物の本能性と申すものも、さう馬鹿なものぢやありませんねえ。さうして行李を側に近寄せますと、今まで何様なことをして見せても素知らん顔で泣き叫けんでゐました小猫が、行李を井側にピタリと着けるや否やパタと泣き静まつて、直ちに行李の中に這入つて、さも恐れ慴《おび》えたものヽやうに小い四つの足を心持ち踏張つて、真中に恰度平蜘蛛のやうにペツタリ匍伏《はいふ》しました。  それを上から窺いて見てゐる私達は、急に気が軽くなつたやうで、 『あツ! 這入る/\!』 『巧く這入つた。いくら畜生でも、之れならば這入つても大丈夫だといふ見分けが付くから感心だ。』  さう言ひながら引き上げました。 『おヽ上つた/\。よく上つた。』  行李を井端に置くと、妻は直ぐさま抱き上げて、 『これツ、もう之れに懲りて此様な処を歩くんぢやないよ。恐《こは》かつたらう。お前の為に生命が縮まつたぢやないか。……おう何だか少し喪失《がつかり》してゐるやうだ。』  それから牛乳でも買つて来て飲ましたらよからうと言つて、妻が買つて来て遣りましたら、よく飲みました。暫らくケロリとして温順《おとなし》くなつてゐましたが、晩からまた能くはしやぎ[#「はしやぎ」に傍点]ました。  そんなに、此方のすることがよく分つて、行李の中に這入つたりしたものですから、その後も一層可愛がつて、私の好い玩弄物《おもちや》にしてゐました。妻は屡々《しばしば》『貴下は何もしないで、一日猫と遊んでゐる。』と言ひましたが、私の方からばかりぢやない、猫の方からも私を対手《あひて》に戯《から》かいに掛るのです。 『そらツ!』と追ふやうな声を掛けると、球《まり》を投げるやうに飛んで逃げるが、直ぐ静《そつ》と此方の様子を伺ひ/\近寄つて来る。それが丁度回り縁の処で、障子の小蔭に身を隠してゐて、直ぐ鼻の尖まで遣つて来た時分に、トツと出て、また、 『それツ!』と声を掛けると、猫は正に二尺ばかり、身体を|※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》ぢつて空に躍り上つて驚ろきながら、バタ/″\と便所の傍の戸袋の方に退軍する。三分間ばかりもしてゐると、また脅やかして貰ひに静《そつ》と遣つて来る。散々其様なことをして戯ざけた後、遂々捕まへて、此度は掌《て》で戯かふと、まだ足の裏の柔かい四つの足でパツ/\と蹴るやうにしながら小い口で指に噛み付きます。その手足に弾力があつて蹴られてゐると何とも言へない好い気持です。私は其奴を懐中に入れたり、冷い鼻の尖を自身の鼻に押付けたりして遣るのです。  其様なにして可愛がるものですから、よく知つてゐて、私が外へ出る時なと、もう玄関の処からニヤア/\泣いて、門の外まで後を追つて来ます。それを種々《いろ/\》にして追ひ返へしたり、また妻が出て来て、抱へて入ることなどもありました。白い処は雪のやうに純白に、黒い処は漆のやうに光つて、段々毛の艶もよくなりました。  夜は毎晩私が抱いて寝て遣ります。夜着の袖の処に入れて、床に入つた暫くの間は、添乳《そへぢ》に猫を対手に、訳もない下らぬことを言つて、手を握つたり、口に指を入れたり、戯弄《からか》つてゐますが、その内猫も人間も段々眠くなつて来ると、私は、静《そつ》と背を撫でながらつい[#「つい」に傍点]寝入つて了ひます。それから一と寝入りぐつすり[#「ぐつすり」に傍点]熟睡して此度目を覚ますと、猫は屹度《きつと》袖から出て来て、私の褥《しとね》の上に寝てゐます。それが何だか寝返りをする時に圧潰しさうで気になるものですから、私も半寝入りながらに、静《そ》うと足で裾の方へ押し遣るやうにすると、軟かい毛が暖々《ぬく/\》としてゐて、丸く団子のやうになつて前後も知らず寝入つてゐるのか、生きた物ではないやうに、順直に足に押されながら裾の方へ、事もなくずつて[#「ずつて」に傍点]行くのです。  それから私がも一と寝入りして、今度心地好く目を覚ますと、最早夜《もうよ》が夙《とつく》に明けてゐて、小猫は定つて私の夜着の天鵞《びらうど》の襟の上に来て、直ぐ鼻の真上の処にまた丸くなつている。此方が眼を覚したのに気が着くと、ニヤアと言ひながら、上から軟かな手で私の顔を撫でるのです。猫の嫌ひな人は此様なことをされては、到底《とても》耐忍してゐられませんが、私は嫌ひでないから、好い心地がするのです。私より早く起きてゐる妻の言ふのでは、猫は毎時も私を起さうと思つて襟の上で暫く泣いてゐるが、それでも私が目を覚さないと、自分も其処にその儘また丸くなつて寝入るのださうです。  私が出て行く時分にも後を追ひましたが、外から帰つて来た時にも、私の足音を聞き付けて、何様な奥の方や物蔭で遊んでゐても屹度駆出して玄関に来てニヤアと言ひます。それが丁度『貴下が居ないので、私遊ぶのに困つてゐた。』と言ひたさうなのです。妻は言つてゐました。『大抵貴下の足音は知つてゐるやうですが、それでも何うかして、知らぬ人が来たのだと、玄関でフ、ウ! と言つて背を高くしてゐますよ。』  そんなにしてゐる猫が、――その歳の十二月の確かに十日でした。ヒユウ/\木枯の吹きすさむ雨気《あまけ》を帯びた厭な日でしたが、その時も私は外に用事があつて、午後《ひるすぎ》に家を出ました。猫は例《いつも》の通り後を追うて門の外に駆けて来ました。処が、その時分の私の住居《すまゐ》の直ぐ崖下が、大きな池のあつた後の窪地の原つぱ[#「つぱ」に傍点]になつてゐて、水草などが蓬々《ぼう/\》と繁茂つてゐました。其処を渉つて往来に出るのですが、私が向の道に上つて、後を振り向きますと、小猫は崖の草原の中にゐて、遠く私の方を見ながら、頻りに恋しがつて泣いてゐました。けれども門の外からその辺《へん》までは毎時も駆け出るのですから、独りで家に帰るであらうと思つて私は気にもせず行きましたが、その時妻も家で何かしてゐたのでせう。  それから夕暮方に私は戻つて来ましたが、つい猫のことは忘れてゐました。すると、全く暮れ果てても、何時もその時分には見える猫の姿が見えません。 『おい、猫は何うしたらう?』 『さうですねえ。何うしたでせう。』  それから、また押入れにでも這入つて寝込んでゐるのであらうと思つて種々探して見ましたが、見付りません。加之《しかのみならず》時刻が何うしても家に居さへすれば、出て来なければならぬ時刻なのです。  私は急に何とも言へない可哀さうな、淋しい気持がして来て、それでも今にニヤア! と言つて何処からか出て来はしないかと思はれて、何度も空耳を立てました。さうして何卒《どうぞ》出て来て呉れるやうに祈りました。で、其の夜寝るまで、 『何うしたらうなあ? あの時、外に出た切り家に帰らなかつたのかも知れぬ。さうして他を歩き廻つてゐる内に、道に迷うて、遂々迷ひ猫になつたのかも知れぬ。此の辺《へん》には屡く猫捕りが来るといふから、猫捕りに捕られたのかも知れぬ。それとも知らぬ処をウロ/\してゐる内に、可愛い猫だと言つて猫の好きな者が連れて行つたのかも分らない。それならばまあ好い。』  妻と二人で此様なことを言つて、私が昼過ぎ出て行つた時分の事から、その時妻は家にゐて何うしてゐた、あの時はあヽであつた、斯うであつた。と、繰返して猫の見えなくなつた時分のことを空しく想ひ出して見ました。  さうして、よもや[#「よもや」に傍点]に引かされて帰るのを待ち心地に十二時過ぎるまで起きてゐましたが、遂に戻つて来ませんでした。寝てからも例の通り夜着の袖に入れるものがございませんから私は寂しくつて遣る瀬がありません。 『可哀さうに、皮剥ぎに捕つて剥れたかも知れぬ。あんなにピン/\跳ね廻つてゐたものが、剥れて仕舞へば、最早幾許経つたつて、帰りつこはない。』  かう思ふと、昼間吾々が気を許して、一寸油断をしたのが悪かつたのだ。可哀さうなことをした。  こんなことが止め度もなく思はれて、私は、 『猫がゐない! 猫がゐない!』と、夜着の中に頭を隠して泣きました。  妻は、『居なくなつたものは仕方がない。それが畜生の本性だから。』と言つて、サラ/\と諦らめてゐましたが、余りに私が本気になつて、猫を悲みますので、寝ながら『それでも夜が明けたらヒヨツコリ戻つて来るかも知れない。』と気安めを言ひました。私は晩に暮れてからゐなくなつたのならは兎に角、昼間から見えなくなつたものが、夜が明けたからつて、何うして帰つて来るといはれやう? と思ひましたが、それでも、また慾目で、朝になつたら出てくるかも知れぬ。と空頼みをしました。  けれとも翌朝《あくるあさ》になつても遂に帰りませんでした。永久に、あの時私の後を追つて泣いてゐたきり姿は見えませんでした。  私はその後十日ばかり、寂しくつて、可哀さうで、何も面白くなくつて、夜寝ては夜着を被つて泣きました。妻は何とも思つてゐないばかりか、私が泣くのを冷かしましたから、私は掌で以つてなぐつて[#「なぐつて」に傍点]やりました。  それから後、神楽坂を通ることがあつて、寒い時分のことですから、毘沙門の前に、夜店で、猫の皮を晒した襟巻を沢山売つてゐるのを見まして、私は、『あヽ、家の猫も此様なにされたのだらう。』と立ち止つて、よく見ると、その中に何だか其の猫に酷く似た毛色のがあるやうな気がしました。 底本:「猫の文学館U この世界の境界を越える猫」ちくま文庫、筑摩書房    2017(平成29年)年6月10日 第1刷発行 底本の親本:「近松秋江全集 第一巻」八木書店    1992(平成4)年 初出:「文章世界」    1912(大正元)年8月 ※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名、片仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。 ※「小便《おしつこ》」と「小便《せうべん》」、「井《ゐど》」と「井《いど》」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。