奇體な破片 ジヤック・ロンドン 新居格訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)兄弟達《みんな》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)奴隷|小舍《ごや》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)(例)※[#「てへん+宛」、第3水準 1-84-80] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ピン/\して *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  さあ兄弟達《みんな》、お聞きよ、おれが腕の話をしてやらう。トム・ディクソンの腕の話なんだ。そのトム・ディクソンと云や、あの地獄の犬みたいな因業《いんごふ》親爺ロージヤ・ヴァンダァウォーターの工場ぢや押しも押されもしない一流の機織工だつたのさ。その工場のことを働いてる連中は「地獄のどん底」と云つてたんだが、無理もねえと俺《おり》や思ふのだ。工場はヴァンダアウォーターのでつかい夏の別莊とは反對の場末キングスベリーにあつたのさ。  キングスベリーが何處なんだかお前《めえ》たちや知るめえ。お前《めえ》たちの知らないことはうんとあるんだが、全く情けねえことだ。それと云ふのも自分が奴隷だつてえことが分らねえからなんだよ。俺はこの物語をしてしまふと、書いたり活字にした言葉を稽古する組を一つお前たちの間にこさへて遣りてえものだか……。こちとらの主人たちは讀み書きはするし、どつさり本も持つてゐらあな、そいつらが俺たちの主人でさ、御殿のやうな邸宅《やしき》に住つて、働かねえでゐるのもそのためだあね。勞働者がよ、ひとり殘らず皆《みん》ながよ、讀み書きを覺えてみねえな、勞働者は強くならあ。すると、その力で束縛が絶ち切れるのさ。さうなりやもう主人もなけりや奴隷もねえ。  ねえ兄弟達、キングスベリてえのは昔のアラバマにあるんだよ。三百年の間、ヴァンダァウォーター家にキングスベリと、そこにある幾つかの奴隷|小舍《ごや》や工場、それからまた他の多くの土地や州の奴隷小舍や工場を持つてたんだ、お前たちもヴァンダァウォーター家のことは話には聞いてゐたらう。誰でも知つてることだからね、だが俺はお前たちの知らねえことを話してやらうよ。  ヴァンダァウォーター家の先祖てえのはこちとらと同じやうに、奴隷だつたのさ、分つたかね。先祖は奴隷だつたんだ。三百年も前のことではあるが、そいつの親父がアレキサンダア・バアレルの奴隷|小舍《ごや》の機織工で、お袋と云ふのが同じ小舍の洗濯女だつたのだ。そりや確かな事なんだ俺はほんたうのことを言つてるんだぜ。それが歴史さ、俺たちの主人どもの歴史の本には事|細《こま》かく印刷されてゐるのだが、あいつらが、字を覺えるやうにお前たちをさせたがらねえから、お前たちがさうした本が讀めないんだよ、あいつらがお前たちに字を覺えさせたがらない譯が分つたらう。歴史の本のなかにはさうしたことが書いてあるからさ。あいつらは心得たものだよ、とても悧巧なんだから。お前たちがさうした事柄を讀んだとしたら、主人を尊敬しなくなる。奴等にそれが怖《こは》いのさ。主人共にはね。  俺は字が讀めるから知つてるのだ。だから、俺は主人どもの歴史の本をこの二つの眼玉で讀んだことをお前たちに話してゐるんだよ。  ヴァンダァウォーターの先祖の名前は、ヴァンダァウォーターと云ふんぢやなかつた、ヴァンヂ――ビル・ヴァンヂと云つて、機織工イルギス・ヴァンヂと洗濯女ローラ・カァンリとの間に生れた伜だ。若いビル・ヴァンヂは強かつた。奴隷たちの間にゐて、奴隷たちに自由を得させようとすれば出來たかも知れないのだ。だのにさうはしないで主人に忠勤を勵んだので、えらく御褒美にあづかつたものだ。まだほんの餓鬼の時分、自身の親の小舍《こや》でスパイを仕事の手初めにやつたものだ。  そして、自分の親父が不穩なことを言つたとかで、告げ口をしたとのことだ。ほんたうなんだぜ、俺はこの眼で記録を讀んで知つてるのさ。やつは、奴隷|小舍《ごや》には過ぎた代物だ。  アレキサンダア・バアレルはビル・ヴァンヂーがまだ子供のときにつれて行つて、讀み書きを教へた。いろんなことを習つて、お上の祕密探偵部に入《はひ》つたのだ。言ふまでもない、彼奴《あいつ》はもう奴隷共の祕密や陰謀を看破《みやぶ》らうとする時、わざと着る以外には奴隷服を着なかつた。  そのころは十八歳の青二歳だつた彼奴なんだぜ、途方もない豪物《えらぶつ》で、しかも仲間であるロルフ・ヂャコブを裁判にかけて、電氣椅子で死刑に逢はせたのは。無論お前たちみんなは尊敬すべきロルフ・ヂャコブの名前は聞いてもゐようが、ヴァンダァウォーターの先祖(そいつの名がヴァンヂなんだが)のために殺《や》られたと云ふなあ初耳だらう。が、俺は知つてるのさ。俺あ、そのことを本のなかで讀んだんだ。その本の中にはお前《めえ》、さうした面白いことがどつさりあるのだぜ。  ロルフ・ヂャコブスが言語同斷な死方をしてからと云ふものはビル・ヴァンヂの名は何度となく變り始めた。だが「喰へないヴァンヂ」で誰知らぬものもなかつた。祕密探偵としてえらく出世し、文句のないお褒美にあづかつたのだが、それでもまだ主人階級の一人ではなかつたのだ。主人階級の男たちはヴァンヂが自分たちの階級の人間になるのを喜んでたが、主人階級の女たちが、「喰へないヴァンヂ」を仲間に入れさせることを拒《こば》んだのだ。「喰へないヴァンヂ」は主人達にはまめに仕《つか》へたものだ。自分がさうだつたから、奴隷のすることは百も承知だ。で、彼に一杯喰はすことは出來なかつた。その時分には、奴隷も今時よりやずつと威勢がいゝやね。だからしよつちゆう[#「しよつちゆう」に傍点]、自由を得ようとしてゐたのだ。だが、「喰へないヴァンヂ」は奴隷たちの計畫のあるところには何處にでもゐて、その計畫をぶち壞してしまひ、主謀者を例の電氣椅子につかせたものだ。次に名前の變つたのは二二五五年[#「二二五五年」はママ]だが、その年に例の大暴動が起つたのだ。ロッキー山脈の西部地方では、千七百萬の奴隷が、甲斐甲斐しくも彼等の主人どもをぶつ倒さうと意氣込んでゐた。「喰へないヴァンヂ」の奴がゐなかつたらうまくいつてたかも知れねえのだが、ヴァンチの奴あピン/\してゐやがつた。主人どもは彼奴《あいつ》に急場の指揮の一切を任《まか》したものだ。戰鬪八箇月、百三十五萬の奴隷が殺されたのだ。ヴァンヂ、ビル・ヴァンヂ、「喰へないヴァンヂ」が奴隷を殺したのだ。奴が大暴動を鎭《しづ》めたのだ。奴は大に報いられた、そして後になつて「血まみれヴァンヂ」と綽名《あだな》をされたほど彼の兩手は奴隷の血潮で眞赤になつたのだ。  なあ兄弟、本が讀めると、そんな面白いことが分るんだぜ。俺の云ふことを信用してくれ、ほかにも、もつと面白いことがどつさり本には書いてあるんだ。だからよ、お前《めえ》たちが俺と一緒に勉強する氣なら、一年もするとひとりでさうした本が讀めるんだ、さうよ、半年|經《た》つと幾人かはひとりでに讀めるだらうよ。 「血まみれヴァンヂ」はかなりの老齡《とし》まで長生きした。そして終身いつも主人連の會議には招かれてたが、主人にはどうしてもなれなかつた。奴隷|小舍《ごや》で初めて眼をあけたのだからなあ、だがそれにしちやたんまり報いられたのさ。住むに御殿のやうな大きな邸《やしき》を十二も持つてゐたし、主人でもないのに、五六千人の奴隷を所有してゐたし、海の上では浮んだ御殿のやうなでつかい娯樂用の快遊船《ヨツト》があつて、珈琲《コーヒー》畠には一萬の奴隷がせつせと働いてる島全體をもつてゐた。でも年寄《としより》になつてからは孤獨だつた。と云ふのは、兄弟の奴隷たちからは憎まれ、そして仕へて來て、しかも仲間入りをさせてくれなかつた主人連中からは見下され、かけ離れて暮らしてたからなんだ。  主人連中は奴隷に生れたために彼を見下したのだ。途轍もない身代《しんだい》を遺して死んだが、して來たことのすべてと名前に印された赤い汚點《しみ》とを後悔しながら、良心の恐しい呵責《かしやく》になやまされて死んで行つたのだ。  けれど子供達の代になると事情《わけ》が違つた。奴隷|小舍《ごや》では生れなかつたし、當時の寡頭政治の執政長官ジョン・モリソンの特別の手續で、引き上げられて彼等は主人階級になつた。ヴァンヂの名前が歴史のペーヂから消え失《う》せたのはその時だつたのだ。  ヴァンヂの名前がヴァンダアウォーターとなり、「血まみれヴァンヂー」の息子ジェーソン・ヴァンヂがヴァンダァウォーターの家柄の先祖であるジエーソン・ヴァンダァウォーターになつた。  だが、それは三百年も以前《まへ》のことだ。そして今日のヴァンダァウォーター家の奴等は、ことの起りを忘れてゐて、兎にも角にも奴等の肉體《からだ》の造作《ざうさく》はお前《めえ》や、俺や、すべて世間の奴隷たちの肉體《からだ》とは物が違ふと思つてるんだ。そこで、俺はお前たちに訊《き》くがね、奴隷の一人が他《ほか》の奴隷の主人にどんな譯でなるべきだつたのか。そしてなぜ奴隷の息子が多くの奴隷の主人になつたのか。俺はお前達が自分で自分に答へるためにこの問題を殘して置かう。だがね、ヴァンダァウォーター家の始まりは、奴隷であつたことを忘れちやいけないぜ。  さて、兄弟、俺は話の初めに戻つてトム・ディクソンの腕のことをお前たちに話さう。キングスバアリーにあるローヂャー・ヴァンダァウォーター家の工場が「地獄のどん底」と呼ばれるのは尤もなことだ。その工場で働いてる男どもは、お前達も知つての通りの男たちだ。女たちも、子供、小さい子供も働いてる。そこで働いてゐるものはみんな法律で規定の奴隷の權利をもつてゐるが、法律は名ばかりだ。と云ふのは、奴隷たちは「地獄のどん底」の二人の監督ジヨゼフ・クランシーとアドルフ・マンスタアによつて奴隷の權利は多く剥奪《はくだつ》されてゐるからだ。  それは長い物語だけれど、俺はそれをすつかりお前たちに話せねえ。たゞトム・ディクソンの腕のことだけを話さう。法律によると、食ふや食はずの奴隷たちの賃銀の一部分は毎月|差引《さつぴ》いて基本金に積立てることになつてゐたのだ。この基本金はたま/\事故によつて傷害をうけたり、病氣にかゝつたりしたやうな不仕合せな仲間の勞働者を救助するためのものだつた。お前たちにも分つてゐるやうに、さうした基本金は監督が管理してゐる。法律がさうなつてゐる。だから「地獄のどん底」の基本金は死んでからでもよく云はれない二人の監督の管理になつてゐたのだ。  ところでクランシーとマンスタアがその基本金を費消した。事故が勞働者に起ると、慣例により仲間は基本金のうちから補助金を出すのだが、監督はそれを支拂はないのだ。奴隷にはどうしやうにも仕方がない。法律による權利を持つちやゐるが、それに近づくことは出來ないのだ。監督に苦情を云ふものは罰せられる。どんな罰を受けるかお前たちにも分つてゐよう――落度もねえのに落度《おちど》をしたと云つては罰金、會社の店舖では勘定の附掛け、女子供の虐待、それからそれではどんなに働いても餓ゑるやうな、惡い機械のあてがひだ。  以前に「地獄のどん底」の奴隷たちが、ヴァンダァウォーターに異議の申立をした。それはヴァンダァウォーターがキングスバァリーに來て、數箇月ゐた年のことだつた。  奴隷の一人に文字の書けるのが居た。それのお袋がたまたま文字が書けたので、丁度そのお袋の母親がお袋にこつそり教へたやうに、こつそりその男に教へて置いたのだ。だからその奴隷は唐傘訴状《からかさそじやう》([#割り注]圓形に署名した上申状[#割り注終わり])を書いて、苦情のかず/\を並べ、それにのこらずの奴隷が署名代りに記號《しるし》を書いた。封筒には所要の切手を貼《は》つてその訴状をローヂャア・ヴァンダァウォーター宛に郵送したのだ。だがローヂャア・ヴァンダァウォーター[#「ヴァンダァウォーター」は底本では「ウォーター」]は訴状を二人の監督に渡したゞけでどうもしなかつた。クランシーとマンスタアは腹を立てた。夜になつて見張りを奴隷|小舍《ごや》に放つた。見張りは鶴嘴の柄を武器にしてゐた。次ぎの日には僅か半數の奴隷しか「地獄のどん底」で働くことが出來なんだと云ふことだ。彼等はぶん毆られたのだ。字の書けた奴隷はひどく毆られたので、その後三箇月しか生きちやゐなかつた。  だが、その男が死ぬ前にもう一度書いた。何のためにだつて、それを俺が話して遺らう。四五週間の後に、トム・ディクソンと云ふ奴隷が「地獄のどん底」で腕を調帶《ベルト》で|※[#「てへん+宛」、第3水準 1-84-80]《も》ぎ取られた。仲間の勞働者たちは例の通り基本金から彼に救助金を出さうとしたが、クランシーとマンスタアは相も變らず例の手でそれを拒《こば》んだ。字のかける奴隷は、そのとき死にかけてゐたが、奴隷たちの苦情を改めて書いた。  そしてその記録をトム・ディクソンの|※[#「てへん+宛」、第3水準 1-84-80]《も》ぎ取られた腕のその手に無理やりに握らせたんだ。  偶々ローヂャア・ヴァンダァウォーターはキングスバアリーの反對の町端れの邸《やしき》で病臥してゐた。――尤も病氣と云つたつてお前たちや俺なんかをぶつ倒す恐ろしい病氣ちやねえ。一寸した膽汁過多か、でなきあ、鱈腹《たらふく》食《く》つたか、飮み過ぎで頭痛がする位のものさ。でもね、注意深い養生で柔弱になつてゐる體《からだ》だから、それでも大變なんだ。生涯お蠶《かひこ》ぐるみで暮らしてゐるやうな手合は、お話にならぬほど虚弱《ひよわ》なものなんだぜ。ローヂャア・ヴァンダァウォーターは、トム・ディクソンが附根から腕を|※[#「てへん+宛」、第3水準 1-84-80]《も》ぎとられてほんたうの痛みを感ずるやうに、頭痛をひどく感ずるのだ。でないまでもその位に感じられるやうに思ふのさ。  ローヂャア・ヴァンダァウォーターは、科學的な農場經營が好きだつた。で、キングスベリーの郊外、三哩離れた畑で苺の新種を栽培してゐた。彼は自分の栽培するその新種の苺がひどくお自慢で、病氣をしてゐなかつたら最初に熟《う》れた苺を見に出かけて行つて摘《つま》んだかも知れないのだ。病氣のために、年老つた作男の奴隷に吩咐《いひつ》けて苺の初荷を持つてこさせることにした。  かうしたことは毎晩奴隷|小舍《ごや》で寢てゐたその邸《やしき》の下男の噂話から分つたのだ。――畑の監督が苺を持つて行く筈なんだが、仔馬を馴らすので足を挫《くじ》いて寢込んでるでなあ。その下男が報告に來たので、翌日苺が邸《やしき》へ持ち込まれるのが分つたのだ「地獄のどん底」の奴隷|小舍《ごや》にゐる連中は勇敢で、臆病者ではないから會議を開いた。  字の書ける奴隷で、鶴嘴《つるはし》の柄で毆られて病氣になつて死にかけてゐる男が「俺がトム・ディクソンの腕を持つて行かう」と言つた。 「どうせくたばらなきやならねえ俺だ、ちよつくら早くくたばりあいゝのだからなあ」とその男は言つた。その晩見張りが最後の見※[#「廴+囘」、第4水準 2-12-11]りをしてから五人の奴隷が奴隷|小舍《ごや》から脱《ぬ》け出した。その五人のうちの一人が字の書ける男だ。彼等は朝まで道傍の叢《くさむら》に身を潜《ひそ》めてゐたが、朝になつて年寄りの作男の奴隷が主人のところへ大事な水菓子を携へて町に馬車を驅つて來た。作男の奴隷は年寄りで、僂麻質《りうまち》、字の書ける奴隷は打ちのめされて傷をして自由に手足が動かないので、二人とも歩るくときに體《からだ》を同じやうに搖り動してゐた。字の書ける奴隷は作男の着物を着て、鍔廣《つばひろ》の帽子を目《ま》深に冠り馭車臺にのぼつて町へと車を驅《か》つた。年寄りの作男は夕方まで藪の中に一日《いちんち》縛られたまゝだつたが、タ方にほかのものが解《ほど》いてやつて、さて奴隷|小舍《ごや》に歸つて來ると過激に亙つた廉で罰せられた。  話變つて一方では、ローヂャア・ヴァンダァウォーターは彼の驚くべき立派な寢室――その立派さ氣持よさはこれまでそんなところをつひぞ見たことのねえお前たちや俺なぞの眼を眩《くら》ませる位だ――で苺を心待ちに寢て待つてゐたのだ。字のかける奴隷は後になつて言つたつけその寢室はまるでパラダイスをちらつと見かけたやうなものだつて。だつてその譯ぢやねえかよ、一萬人の奴隷の勞働と生命《いのち》とがその寢室を拵へるために費されてるんだもの、だのに奴隷たち自身は野獸のやうな淺ましい寢床で寢てるんだ。  字の書ける奴隷は銀盆――分るかね、淺い大皿さ――に苺を入れてもつて行つたさ。ローヂャア・ヴァンダァウォーターはその男と苺のことで親しく話したがつたのだ。字の書けた奴隷は立派な部屋を死にさうな體《からだ》をよろめかして進み、ヴァンダァウオーターの前に銀盆を捧げなから寢床の傍《そば》で跪いた。大きな緑葉がその銀盆の上を蔽うてゐた。そして傍にゐる附添がヴァンダァウォーターが見ることが出來るやうに緑葉を取除けた。ローチャ・ヴァンダァウオーターは肱をついて見た。彼は寶玉のやうにそこにあるみづ/\しい素敵な果實を見たと同時にその中に體《からだ》から|※[#「てへん+宛」、第3水準 1-84-80]《も》ぎとられたまんのトム・ディクソンの腕が――勿論よく洗はれてはあつたがなあ兄弟――あつて血紅色の苺に對して一際白く見られたのだ。そしてその上に硬《こは》ばつた死んだ指に「地獄のどん底」に働いてゐる奴隷たちの訴状が掴まされてあつた。 「それを手に取つて讀め」と字の書けた奴隷が言つた。主人がその訴状を取上げたとき、丁度、それまで吃驚してゐた附添が拳固で跪いてる奴隷の口を毆《なぐ》つた。その奴隷はどうせ死にかけてる體《からだ》だつたし、非常に弱つてゐたのだから氣にしなかつた。聲も立てず、横に倒れたまゝ靜かに横はつてゐたが、口の上をぶん毆られたので血は流れてゐた。邸《やしき》の守衞を呼びにやつた醫者は守衞たちと一緒にやつて來た。そして奴隷は眞直に立たされて曳きずられた。が、彼は曳きずられながらも床に落ちたトム・ディクソンの腕をその手に掴んでゐた。 「あの野郎生きたまんまで犬に投げてやるといゝんだ。」  と附添の下男が激怒して叫んだ。 「あの野郎生きたまんまで犬に投げてやればいゝんだ。」  だが、ローヂャア・ヴォンダァウォーターは頭痛のするのも忘れ、なほも肱をつきながら、靜かにしろと命じ、その訴状を讀んで行つた。  讀んでゐる間、激怒してゐる附添の下男や、醫者、邸《やしき》の守衞なぞ、一同は直立してゐた。そしてその眞中に奴隷は口から出血してゐたが、尚もトム・ディクソンの腕を掴んでゐた。  ローヂャア・ヴァンダァウォーターが訴状に目を通すと、奴隷の方へ向いて言つた。 「この訴状に一つでも嘘があるなら、お前は生れたことを殘念がらねばならないぞ。」  すると奴隷は答へた。 「俺は生れてからこの方の全生涯を殘念がつてゐるんだ。」  ローヂャア・ヴァンダァウォーターは奴隷をまじ/\と見た。と、奴隷は言つた。 「お前たち俺を酷《ひど》い目に逢はせやがつた。俺は今死にかけてゐるんだ。一週間のうちくたばるだらうよ、さうすりや、お前が今俺を殺したつて構やしねえのだ。」  ヴァンダァウォーターは腕を指さしながら訊いた。 「その腕で、どうしようと云ふのだね。」  すると奴隷は答へた。 「俺は埋めるので、小舍へ持つて歸えるんだ。トム・ディクソンは俺の友達だ。それに俺たちはお互に織機《はた》で働いてたんだ。」  兄弟、俺の話はもうこれだけだあね。その奴隷とトム・ディクソンの腕は荷馬車で小舍《こや》に送り返された。だが奴隷は誰も彼等がしたことでは罰せられはしなかつたのだ。ローヂャア・ヴァンダァウォーターは取調べた上で、二人の監督ジヨセフ・クランシーとアドルフ・マンスタアとを罰した。二人の不動産は取上げられた。それ/″\の額には燒印を捺《お》され、右の腕は切斷された上、放浪して死ぬまで乞食をするやうに往還《わうくわん》に逐ひ出されてしまつた。  それから後暫くの間基本金は正當に處理されてゐたが、ほんの暫くの間だよ、兄弟、と云ふのはね、ローヂャア・ヴァンダァウォーターの息子のアルバアトの代になり、そいつが亂暴な主人で半氣狂だつたからだ。  ところで兄弟、主人の前に腕をもつて行つた奴隷と云ふのが俺の親父《おやぢ》さ。俺の親父は勇敢な男だつたぜ。親父《おやぢ》のお袋が親父にこつそり讀むことを教へたやうに、俺の親父は俺に字を教へてくれたのだ。鶴嘴《つるはし》の柄で毆られたのが原因《もと》でその後間もなく死んぢやつたので、ローヂャ・ヴァンダァウォーターは俺を奴隷|小舍《ごや》から引出して、俺にいろ/\いゝことをさせようてんだ。俺にその氣があるなら「地獄のどん底」の監督になれたかも知れなかつたのだが、俺は方々をぶらつき※[#「廴+囘」、第4水準 2-12-11]つて到るところの兄弟の奴隷と近づきになつて物語をする男になることにしたんだ。お前たちが裏切らないことを知つてこつそりこんな話もするんだぜ。お前たちが裏切るなら、俺の舌は引裂かれてもうお前たちに話が出來ねえことは、お前たちも俺と同じやうに知つてゐるのだからなあ。俺が前以つて言ひてえことは、なあ、兄弟、世の中の何事もよくなつてさ、主人も奴隷もゐなくなる時が來りや、結構な時節が來るつてことよ。それにつけてもよ、お前たちは先づ讀むことを稽古してその結構な時節のために用意してなきあなんねえぞ。印刷した言葉には力があるのだ、だから俺はお前たちに讀むことを教へてやりてえためにこゝにゐるんだ。俺が出かけるときにはお前たちは書物を――歴史の本だね、お前たちがそれでお前たちの主人のことが分り、やつら同樣に強くもなれる――手にする樣子を見てえ者が他《ほか》にも大勢ゐるんだからなあ。 底本:「世界文學全集(36)近代短篇小説集」新潮社    1929(昭和4)年7月25日発行 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※「ヴァンダァウォーター」と「ヴァンダアウォーター」と「ヴァンダアウオーター」、「キングスベリー」と「キングスペリ」と「キングスバアリー」と「キングスバァリー」、「ヴァンヂ」と「ヴァンヂー」、「ヂャコブ」と「ヂャコブス」、「ジェーソン」と「ジエーソン」、「ローヂャー」と「ローヂャア」と「ローヂャ」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: 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