汽車の切符 小酒井不木著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)佩剣《はいけん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大|標題《みだ》し [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ]一[#「一」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一[#「一」は中見出し]  小泉五郎は、逃げるようにして、階段を走りあがり、F旅館のわが室に戻った。  彼は今まで秋の夜の冷たい空気の中を歩いて来たのであるが、彼の脳味噌は、ぶつぶつ泡を吹き上げはしないかと思うほど、煮えかえって居た。その感じは、想像力の強い彼にも、何と形容してよいかわからぬものであった。時々神経の末端へ脳の方から、電波でもあろうかと思われるようなものがぴくりぴくりと響いて来て、その都度、筋肉がぶるぶるっと顫えるのであった。  彼は室へはいって、どさりと座蒲団の上に身体を落したまま、暫くの間強直したように動かなかった。彼はそのまま石にでも化して行くのではないかと思った。卵の白味が熱にあってかたまって行くように、全身の筋肉が硬ばって行くのではないかと思った。そうして、筋肉が凝固して行くときその中の汁が押し出されて汗になるのではないかと思うほど、彼の背筋には汗が流れはじめたのである。  彼は何気なく障子にはめてあるガラスに眼を注いだ。そうして、それと同時に、彼は飛び上らんばかりに驚いた。真上から電燈に照された自分の顔は、頬骨の下がげっそりとこけて、誰かの絵で見たメフィストフェレスの顔にそっくりであったからである。まるで頭蓋骨を見るような凄惨な表情は、一時彼の心臓の鼓動を停止せしめるほどであった。  場末の旅館であるから、電車の音は聞えて来なかったが、附近は可なりに騒々しく、その騒々しさを形づくる一々の物音が彼の神経にはげしくこたえたのであった。彼は、廊下をとおる宿泊の客や女中の跫音にもびっくりした。今にも佩剣《はいけん》の音が聞えて、どさどさと、人々が踏みこんで来やしないかと気が気でなかった。然し、彼は立上る勇気がなくなった。恰も腰の抜けた人のように一寸も動くことが出来なかった。  彼は、今から、一時間ほど前に人を殺して来たのである。  彼を捨てた女を殺して来たのである。  彼は彼女を殺すために、計画に計画を重ねた。過去凡そ二年間というものが、彼女殺害の計画のために費やされたといってよい程であった。だから、その殺害には、毛頭の手ぬかりもなかった筈である。彼が犯人であるということは、どんな名探偵でもさぐり出すことは出来ないであろうと思うほど犯罪は巧妙に行われたものである。それにもかかわらず、彼は、今にも逮捕されやしないかとびくびくせざるを得なかった。彼の理性は、どこまでも彼の安全を保障したにかかわらず、彼の良心は、彼に、はげしい恐怖を与えたのである。  彼は勿論、良心の存在について屡々考えをめぐらせた。然し彼は、その良心が、これ程までに、人間の心を変化しようとは思わなかった。彼は彼女を殺して後、今に至るまで悔恨の念には少しも駆られなかった。のみならず、彼女を殺した事は、何となく彼に満足の念を与えた。だから、彼のこの恐怖が、良心の苛責のために起るものとは彼は考えなかった。それはまったく理由のない恐怖であった。今にも地震が起きはしないかと恐れるときのような、いわば、払いのけることの出来ない恐怖であった。  理由のない恐怖であるだけ、それは彼の全く予定しないところであった。彼は一たい何のためにこの恐怖が起るかを考えて見ようとした。が、彼の、麻のように乱れた心は冷静に思考をめぐらす余裕を与えなかった。  彼の家からF旅館まで、それは凡そ一里あまりの距離であった。彼はその間、何処をどう通って来たかを知らなかった。女を絞殺して女の家を抜け出したことまでは記憶しては居るが、その間のことはまるで白紙を見るように、何の印象も記憶も残って居なかった。ただ気がついて見ると、いつの間にか、F旅館の前に立って居たのである。  夜はだんだんとふけて行った。附近の物音が少しずつ減って行って、按摩の笛の声がいやにはげしく彼の心に響いた。彼は見るともなしにあたりを見まわした。と、薄暗い室の隅に、女の顔が幻覚となってあらわれた。  その顔! その美しい顔に執着を起したのがもとで、彼は遂に殺人の大罪を犯すに至ったのである。 [#6字下げ]二[#「二」は中見出し]  彼女はもと、浅草、××劇場の女優で、一人の老婆と共に、殺される迄、郊外のOという丘の家に住んで居た。  村田照子!  その名は、如何にファンの間にもて囃《はや》されしことか、その村田照子の愛を独占した三年以前の彼、小泉五郎は如何に幸福でありしことか。が、彼女は毒婦であった。彼女は芝居で、毒婦に扮装することが巧みであったと同時に、彼女自身が心からの毒婦であった。いわば、彼女は生地のままに舞台で活躍したのであるから、彼女の芸が真に迫ったのも無理はなかろう。そうして、彼女の美貌が、見るものを悩殺しないでは置かなかったから、彼女の芸は凄いほど引き立ったのである。  その美しい彼女をわがものにした小泉五郎は、その頃得意の絶頂にあった。彼は静岡県の素封家の一人息子に生れ、中学を卒業すると上京してW大学にはいったが、在学中に村田照子と関係し、恰度その時分、両親が相次いで没したので、彼は巨万の財産を相続し、ありあまる金をもって照子と同棲し、愛欲の乱舞に日を送ったのである。  彼はもとより大学を半途で退いた。そうして凡そ一年余り過ぎて、漸く眼がさめてみると、彼は親譲りの財産の悉くを女にしぼりとられて女に捨てられて居た。ある日、女は、他に愛人を作って、彼を置き去りにして姿を晦《くら》ましてしまったのである。  彼は血眼になって女の行方を捜したけれども、何処へ行ったか彼女の消息はさっぱり知れなかった。彼女は上海へ渡ったという説をなすものもあれば、ロースアンゼルスで彼女を見たというものもあった。  幸福の絶頂から、不幸の谷底へつき落された五郎は、彼女に対する復讐を思い立った。即ち彼は照子を殺そうと決心したのである。彼女が何処に居ようとも、彼は、彼女を捜し出して殺そうと覚悟したのである。  その時の彼は、外国へ出かけるだけの金さえ所有していなかった。然し、彼は照子が、外国へなどは行くまいと思った。東京に異常なあこがれを持って居る彼女は東京のどこかに隠れて住まって居るだろうと直覚した。で、彼は根気よく、東京市中を捜したのであるが、どうしても知れなかった。勿論照子の出て居た××劇場へも幾度となくたずねに行ったが、その都度人々の冷笑を買うばかりであった。  すべて人間の感情というものは、時間と共に薄らぐのが原則である。復讐の如きも、時日の経過と共にだんだんやわらいで行く。処が小泉五郎の復讐は決して尋常なものでなかった。彼の復讐は却って一日一日に増して行ったのである。愛欲のヴェールに蔽われて無我夢中になって居た頃が、日と共に後悔されて来たとき、それと同じ調子で復讐の念はふとって行ったのである。  ところが復讐の対象たる照子は何処へ姿をかくしたか知れなかった。そこで彼はとうとう一策を思いついたのである。想像力の豊富な彼は、村田照子を誘《おび》き出す方法を考え出したのである。  照子が久しく姿を見せないのは、彼の復讐を恐れたからである。と、想像した彼は、いつわりの自殺をすることによって照子を誘き出すことが出来ると考えたのである。而もいつわりの自殺をするということは、一方に於て、照子を殺した時に逮捕を免れる手段でもあった。自殺をしたものが殺人を行うことは考うべからざることであるからである。  彼は自殺の場所として浅間山の噴火口を選んだ。  ある日、浅間山の噴火口の附近で、彼の遺書と遺留品とが発見された。遺書の中に彼は村田照子に捨てられて、悲観のあまり自殺することを、こまごまと書き綴ったのであった。  すると果して、彼の予期したことが起った。新聞は、一寸大きな標題で、小泉五郎の自殺を報じ、小泉五郎を自殺せしめた村田照子は、その後行方不明であると書いたのである。  五郎は自殺の狂言を行うと同時に、名を島木由三と変えて、東京へ舞い戻った。彼はなまじ髭をのばしたり、眼鏡をかけたりして身許をくらますよりも、そういう小細工をしないで、心をまったく島木由三という別人にして居ればよいと思った。世の中の多くの変装者は、顔のみを変えて、心を別人にしないから、すぐ化の皮があらわれるのだ。世の中に瓜二つといってよい程似た顔は沢山ある。だから、心さえ別人にして居れば決して化の皮はあらわれるものではない。というのが、彼の想像力から割り出された議論であった。  彼はそれ故、これという変装をしないで、東京市中を歩き、村田照子の行方を捜索した。然し照子は却々《なかなか》姿をあらわさなかった。彼は新聞の演芸欄に照子の名が出て居はしないかと熱心にさがしたが、それも駄目であった。  ところが、彼は遂に照子のありかをつきとめることが出来たのである。それは彼が照子に捨てられてから二年の後のことで、今日から約一月前のことである。即ち彼女は、郊外のOという丘の家に、ある人の妾として、雇いの老婆と共に住んで居ることを彼は発見したのである。  彼女が、それまで何処に姿をかくして居たかは、もとより彼にはわからなかった。或いは彼の直覚したとおり、東京のどこかに潜んで居て、彼が自殺したということを知って、もう安全だと思って姿をあらわしたのかも知れない。或いは人の噂の如く、上海か、ロースアンゼルスの方へ、暫く行って居て、もう帰ってもよい時期であると思って、出現したのかも知れない。  いずれにしても、照子の在所を突止めたとき、而も、彼女を他人の妾として発見したとき、彼の復讐の血は、俄かに沸騰し始めた。彼は一日も早く彼女を殺してしまいたいという衝動に駆られた。小泉五郎は自殺して居ないのであるから、たとい警察が彼女と彼の以前の関係を調べて、小泉五郎に嫌疑をいだいても、自殺して居ない人間を犯人と見做すことは出来ないことである。だから、殺害の現場で取り押えられない限り、自分は絶対に安全である。こう考えると、彼は、ある種の殺人者が屡々経験する様な犯行前の一種の陶酔状態に陥るのであった。  彼は先ず照子の日常生活について、よく研究した。そうして凡そ一ヶ月かかって、彼女の動静をさぐり、いつ殺害するのが一ばんよいかということを知ってしまったのである。  彼は用心のために、田舎から、東京見物に来た風を装って場末の旅館の一室に滞在し、三日過ぎた今晩、彼は照子の家に行き、老婆の不在な機《おり》を見て、家の中にしのび入り、電光石火の早技で、家の中にあった手拭をもって照子を絞殺し、そうして、誰にも見られることなく、まんまと目的を達して、首尾よく、旅館に戻ったのである。 [#6字下げ]三[#「三」は中見出し] 「十三番さん、御客様で御座いますよ」  室の真中に化石して居た彼の身体は、こういって障子をあけた女中の声に、ちょうど、ゴム鞠のはずむように、座蒲団を蹴って飛び上った。 「え? お客様って誰?」 「警察の人ですよ」  彼はぎょっとした。 「何?」 「まあ、そんなに顔色までかえなくたってよいのですよ。この辺の宿には、よく淫売がはいるといって、時々臨検があるのですよ」 「そうか」と、彼ははじめて胸を撫で下した。  やがて一人の警官が彼の室の前に立ちどまり、 「島木さんですか」と訊ねた。 「そうです」 「どうも、夜分遅くにさわがせて済みませんでした」  こう言って警官は女中と共にむこうへ去ってしまった。  暫くすると、女中が蒲団を敷きにやって来た。 「まあ、あなたまだお休みにならなかったんですのね。随分お顔色が悪いですこと」 「警察の人なんかが来ておどすからさ」 「だって、あれは仕方がありませんよ。それにこの辺は随分物騒ですから」 「物騒って、どんなことかい?」 「この間も、お隣の宿に人殺しがありました」 「人殺し?」と彼は思わずも大声で叫んだ。  女中はびっくりして彼を見つめた。 「まあ、あなたは、男の癖に気が小さいですねえ」 「田舎ものだからさ」  こういって彼は笑おうとしたけれども、どうした訳か、その笑いが咽喉にひっかかって出て来なかった。 「お休みなさい」  女中は蒲団を敷き終ると、立ったままの彼に挨拶してさっさと出て行った。  彼は女中の無邪気な心が羨ましかった。今朝までは、今日の夕方までは、彼もまた無邪気であった。たとい彼の心が照子殺害のため緊張して居たとはいえ、恐怖感というものはさらになかった。  ところが今はどうであろう。 「警官」とか、「人殺し」とかいう言葉に対して、以前には何の恐怖も起さなかったのに、今は心臓の左右位置を転ずるかと思われるほど強い反応を喚び起すとは。彼は、自分の心の変化が一たい何に基くであろうかを知りたかった。然し、それは無駄な努力であった。彼の混乱した頭は、思考の力を失い、畳の上に投げられた彼の影にさえ、彼は、一種の恐怖を覚えたのである。  それのみならず彼の幻覚は一層はげしくなって行った。彼は自分の影に、絞首台にぶら下がった姿を認めた。壁一面に血痕が飛び散って居るような幻覚をも起した。彼はもうじっと立って居ることが出来なくなって、畳の上をあちらこちらと歩きまわった。すると、自分の跫音が、いうにいえぬ不気味な響きを発したので、彼はとうとう、蒲団の上にごろりと横になって、頭を抱え、眼をつぶった。  ふと、身体に寒さを感じて、眼をさますと、彼はむくりと起き上った。いつの間にか彼は眠って居たのである。起き上って彼は、じっと耳を澄ましてあたりを見まわした。世間はしんとして、これという音も聞えなかった。時計を見ると二時半である。電燈の光がいやに黄色く見えて、彼は黄疸を病んだ時のような、重くるしい気分を感じた。  今頃はもう犯罪が発見されて、警察は東京中に非常線を張ってしまったにちがいない。こう思うと、彼は息づまるような感じを起した。果して彼等は犯人の見込みをつけたであろうか。何かの手がかを得たであろうか。  すると、彼は、何だか自分が大きな手ぬかりをして来たような気がし出した。どんな手ぬかりをしたであろうか。と、色々、思いめぐらして見たが、もとより思い浮ぶ筈がなかった。手ぬかり! そんな事を万々するような筈はない。自分が若し誰かに見つけられて居たならば、今頃はとっくに逮捕されて居る筈だ。  然し、彼は少しも落ちつくことが出来なかった。で、彼は、衣服を着たまま、寝衣に着換えることもしないで、寝床の中にもぐり込んだ。そうして、あちらこちら寝返りを打った。自分はもう永久に眠ることが出来ないのかも知れない。というようなことさえ考えたのであるが、彼の疲労した神経は、いつの間にか、彼を苦しい眠りに引き入れてしまった。  彼が眼ざめたときは、午前八時半であった。彼は手をたたいて寝床の中から女中を呼び、新聞を持って来させた。彼は、やがて運ばれた新聞を顫える手にもって披《ひら》いて見たけれど、殺害の記事は何処にも見当らなかった。  彼は安心したような又、極めて不安のような気持がした。ことによるとまだ犯罪が発見されて居ないかも知れない。こう思うと彼は蒲団の中にくるまったまま、穴へでもはいり度いような思いになった。  彼は女中に向って、今日は気分が悪いから、朝飯も昼飯もいらない、この儘晩まで寝床に居るつもりだが、夕刊が来たら、すぐ持って来てもらいたいと言った。そうして彼は蒲団の中に深くもぐって熱病にでも苦しんで居るかのように、太息《ためいき》を洩した。  眠るともなしにうとうとして居ると、彼は女中の声にはっとして眼をさました。女中は約束通り夕刊を持って来たのである。  彼は蒲団の上に置かれた夕刊を、暫くの間手に取り上げなかった。やがて腫物にでも触るように、そっと取り上げて、仰向きになったまま開いて見ると、そこには四段抜きの大きな標題《みだ》して殺人事件が報ぜられてあった。  彼はそれを貪るように読み始めた。死体発見の顛末、臨検、死体検案のことなどが委しく報ぜられてあったが、犯人についての記載はなかった。雇い婆さんと、照子の旦那が、召喚されて取り調べを受けて居るということの外これという注目に値することは書かれて居らなかった。無論、嫌疑が被害者と以前に関係のあった小泉五郎にかかって居るなどという文句は何処にも見えなかった。  彼は新聞の記事に幾度も繰返して目をとおした。しまいには眼がぼーっとし始めた。で、彼は新聞紙を畳の上に置いて、眼をつむって仰向いた。色々の光景が頭の中を往来した。照子の絞殺死体、それを発見した老婆の狼狽した姿、警官の顔、警察医の検査振りなど、かわるがわる眼の前に浮んだ。  探偵は、犯人の手がかりを得るために、照子の持ち物のすべてを捜したことであろう。その中には小泉五郎に関係をもったものもあったにちがいない。で、警察では彼の行方をたずね、そうして彼が自殺して居ないことを知ったであろう。  そうだ! 小泉五郎はもうこの世には居ない筈だ。自分は小泉五郎ではなく島木由三という全く新しい存在ではないか。こう考えると彼は、無暗に恐怖することの愚かさが、我ながらおかしかった。  彼はいくらか安らかな気持になって、蒲団を抜け出した。秋の日は暮れかけて、室には電燈がついた。彼は女中に夕飯を運ばせて、飢を癒したが、さて、外出する勇気は毫《すこし》もなかった。  当分宿に居て形勢を観望しよう。新聞を見ていよいよほとぼりのさめた頃、しずかに宿を出て将来の方針を建てよう。こう決心をして、彼はその夜から「籠城」を始めたのである。  あくる日の朝刊を待ちかねて、彼は事件がその後如何に発展したかを見ようとした。ところが、新聞には意外にも、殺人事件の記事が、何処にも発見されなかったのである。彼は幾度も繰り返してすべての頁を探したが、それは無駄な努力であった。  恐らく、記事差止の命令を受けたのであろう。  それはいう迄もなく警察の一段の活動を意味して居るのであるから、恐怖は再び頭を擡げた。警察は果して有力な手がかりを得たのであろうか。万が一にも自分を逮捕しに来るようなことはあるまいか。  その日の夕刊にも翌日の朝刊にも、照子殺しの記事はなかった。それと同時に、彼のところへたずねて来る警官もなかった。彼は不安と安心との間を行き来した。  このまま、この事件は迷宮に入ってしまうであろうか。それとも警察では犯人を逮捕する成算があるであろうか。  この新聞紙の沈黙は彼の心をだんだん暗くして行った。この不気味な記事差止はいつまで続くであろうか。こう思うと、彼の心は少なからずいらいらした。といって、彼はどうすることも出来なかった。ある時には彼は警察へ行って、事件が如何に発展したかをきいて見たいような気になった。又ある時には、照子の家の附近をさまよって、それとなく様子をさぐって見たいような気になった。然し彼はもとよりそれを敢えてする勇気がなかったのである。  こうした不安のうちに日は容赦なく経ったが、新聞の沈黙は依然として続いた。又、誰一人彼をたずねて来る者はなかった。彼はもう大丈夫だと思った。いっそ、このF旅館を出て大道を闊歩しようかとも考えたけれど、新聞に何か記事のあらわれるまでは何となく危険であるような気がしたので、この殺人事件に関する新聞記事があらわれるまで、彼は旅館に滞在しようと決心したのである。  すると、彼の想像したとおり、二週間ほど過ぎたある日の朝刊に、照子殺害事件の記事が突如として、四段抜きの大|標題《みだ》しであらわれたのである。 [#6字下げ]四[#「四」は中見出し] 「真犯人逮捕さる」  この言葉を読んだとき、彼は彼の眼を疑うほどびっくりした。而も彼が、なお一層驚いたことは、犯人の写真として掲げられてある肖像に、まがいもなく彼自身の顔を発見したことである。換言すれば、その写真は、彼自身の写真に外ならなかったのである。  然し、その肖像には、彼のまったく知らぬ名が記されてあった。 「小室淳一!」  而もこの小室淳一は某会社員であって、郊外のR町十番地に細君と共に一戸を構えて居る男なのである。  新聞の記事によると、小室淳一は予て照子の旦那の眼を盗んで、照子と情を通じて居たが、最近女が変心したので、それを恨んで照子を絞殺したというのであった。  彼は何が何だかわからなくなった。新聞に掲げてある写真はたしかに自分の顔である。少なくとも三年ほど前、即ち照子と同棲して居た頃の顔に生き写しなのである。して見るとこの小室淳一なる男は自分に生き写しであるにちがいない。自分には双生児の兄弟はないから、恐らく他人のそら似であろう。それにしても、自分と同じ顔をした男を照子が情夫として居たということは、照子の性質として、たしかに有り得ることであるから、小室が真犯人と認められたのも決して無理ではないかも知れない。  かくて彼の想像力は、この新聞記事を以上のごとく解釈することによって、彼に幾分かの安心を与えたが、それと同時に、真犯人が自分であるにも拘らず、小室が冤罪によって逮捕されたことは気の毒な思いがした。恐らく小室は無罪の証拠をあげることが出来、二三日のうちには放免されるのであろう。或いは、ことによると、起訴されて公判を受けるかも知れない。こう思うと、彼は自分の身の危険を忘れて、一種の好奇心に駆られるのであった。  彼はその日の夕刊を待った。  ところが、夕刊には、この事件に関する一行の記事も発見されなかったのである。それのみならず、翌日の新聞にも、また翌々日の新聞にも、まるで忘れたかのように掲載されて居なかった。即ち、新聞は再び「沈黙」を始めたのである。  彼は、来る日も来る日も、新聞を捜して、疲れると、いつも、先日の「真犯人逮捕記事」の載った新聞を披げて読むのであった。すると、その都度、自分に瓜二つと言ってよい小室や小室の細君がどんな人間であるかを知りたく思った。  小室は逮捕されてから果して放免されたであろうか。小室の細君はどうして居るであろうか。  日を経るに従って、彼は小室の様子を知りたいという好奇心にだんだん征服されて行った。小室が有罪と定まらない以上、自分の危険は去らないけれども、もはや、その危険を顧みて居られないほどその好奇心ははげしくなった。  で、遂に彼は、「真犯人逮捕」の記事を見てから五日目の夜、久し振りにF旅館を立ち出でて、郊外のR町十番地の附近へやって来たのである。  小室の家はすぐ知れた。新しい木の門標に、「小室淳一」の名が小さく電燈の光に照されて居た。門柱と玄関との間には植込みがあって、家の中の様子はもとよりわからなかった。町とは言いながら木森に取り囲まれた家が、彼処《かなた》此処《こなた》にあるだけで、あたりは人通りもなく、ひっそり静まりかえって居た。  彼は門の前に立ったまま、暫く動かなかったが、もとより中へはいる気はなかった。で、彼は行き過ぎて、附近の暗い樹陰に身を寄せて、様子を窺って居ると、突然、彼の後ろから、 「もし、貴方!」  と低声で呼ぶものがあった。見れば一人の女が、何処から来たのか、つかつかと彼のそばに近よった。  彼はあまりのことに、びっくりして暫し言葉を発することが出来なかった。  すると女は、彼に近寄るなり、彼の手をぎゅっと握って言った。 「ああ、よかった! とうとう帰って来たのねえ。留置場を破って逃げて来たのでしょう? 先刻から警官がうちへ張りこんで居るのよ。だから、わたしはここにあなたを待って居たの」  彼は、たしかに人ちがいをして居るらしいこの女の言葉に何と答えてよいか判らなかった。然し女は、それと知らず、なおも語りつづけた。 「この二三日、きっとあなたが逃げ出して来ると思って待って居たのよ。来ればすぐ高飛びの出来るように、もう汽車の切符まで買ってあるの。人殺しは無実の罪だけど、取調べられた日には、二人の素性が知れて、事が面倒ですからねえ」  この言葉をきいて、始めて彼は、この女が小室淳一の細君で、彼を良人と間違えて居るのだろうとわかった。そうして、小室淳一の写真が彼と瓜二つであることもよく了解することが、出来るように思った。 「さあ」と女は彼の手を引張るようにして言った。「愚図愚図して居ると、張込みに来た警官につかまるといけません。あそこの森の中で、二人は姿をかえましょう。変装の道具はここへ持って来ました。あなたは盲人になるのです。そうして私が手を引いて歩くことにしましょう。市中へはいればタクシーを雇って停車場へ行きましょう」  彼は、あまりのことにどぎまぎしながら、ただ女のなすに任せた。彼はうっかり口をきいて女に発見されるといけないと思って、ただ、「うん、うん」とうなずくだけで、何も言わなかった。然し、女は逃走ということに心を奪われて居るのか、少しも疑うことなしに彼の手を引いてずんずん進んで行った。  彼は歩きながら、いろいろのことを考えた。想像力が強くて冒険の好きな彼は、むしろこの女の良人となりすまして、共に駈落ちするのも面白いと思った。彼女の先刻の言葉によると、小室淳一は、表向きは会社員でありながら、その素性は彼女のそれと共にどうやらよくないものであるらしい。留置場を破って逃げるということによっても、小室の前科者であるらしいことが察せられる。いずれにしても、小室が今日、留置場を破って逃げた事は事実であって、恰度その日に、偶然自分が小室の家の様子を伺いに来たのも、何かの因縁である。と思うと、彼は何となく一種の愉悦を感ずるのであった。  然し、真実の小室に出逢ったら自分はどうなるであろうか。又、彼女が、人違いを発見したらどうなるであろうか。彼はそれを思うと、内心頗るはらはらした。が、まあいい、成るがままにしよう。  いつの間にか二人は或る森の中にはいって居た。光とてはただ星の光だけであったがそれでも別に歩行には差支えなかった。 「さあ、早速ここで変装しましょうよ」  こういって女は風呂敷包みから、何かを取り出した。「こちらへ顔をお出しなさい。眼鏡をかけてあげます。この眼鏡は黒い紙をレンズに張った塵除けですから、これをかければ、盲目同然になります。汽車の中へはいるまでは不自由でもあなたは盲目になっていらっしゃい」  眼鏡をかけると彼女は更に、 「それからこれが、折り畳みの出来る杖です」といって、彼の手に金属製の杖を握らせた。 「これから私も一寸変装します」  こう言って彼女は、暫くの間、何事をか行った。 「もうこれで大丈夫。少し歩きにくいかも知れぬが、しっかり私の手につかまっていらっしゃい」  始めのうち、何だかとぼとぼして歩きにくかったけれども、間もなく彼は馴れてしまった。  凡そ五六丁歩いたと思う頃、多少繁華な町へ出たのか、可なり人通りが多かった。人中を歩くことは、多少気が引けるように思われたが、塵除け眼鏡をはめて居るということは、彼女に正体を発見される虞れがないから、至極好都合であった。事実、彼女は、あかるい街に来たにも拘わらず、人違いを発見しなかったのである。  やがて、彼女は一台のタクシーを見つけて呼んだ。タクシーが来ると、彼女は彼をたすけ乗せ、何やら運転手に告げて、彼と並び腰かけた。 「人のあまり居らぬS停車場から乗ることにしました」  やがて自動車は、快速力を出して走った。彼は身体を上下に揺られながら、愉快な気持につかった。後ろ暗い過去を持つ女と冒険することは、今の彼にとっては寧ろ望ましいところであった。たとい人違いがわかったとて笑って済むだけである。そう思うと、彼は、照子を殺したことなど、すっかり忘れて、将来に出逢うであろうことの数々をそれからそれへと夢想するのであった。  やがて自動車はとまった。  彼女に手を引かれて降りて見ると四辺《あたり》は比較的森として居た。 「さあ、こちらへいらっしゃい。待合室へ行きましょう」  彼は彼女に手を引かれたまま、建物の中へはいって、ベンチに腰を下した。 「このとおり切符はもう買ってあるのですよ。一寸これを持って居て頂戴! はばかりへ行って来ますから」  こう言って彼女は、彼の手に二枚の切符を握らせながら、彼のそばを去った。  ところが彼女はいつ迄立っても帰って来なかった。そうして停車場らしい物音が少しも聞えなかったので、彼は始めて不審を起したのである。  急いで彼が塵除け眼鏡をとって見ると、待合室と思いの外、二坪ほどの狭い室で、そこには誰一人居ないで電燈がかすかに照って居るばかりであった。  はっと思って、彼は手に持たされた汽車の切符をながめた。するとそれは二枚とも小形の名刺であって、その一枚には、 [#2字下げ]警視庁女探偵 広井百合子  と書かれてあり、今一枚には、小さな文字で、裏と表に次の言葉が書かれてあった。 「小泉五郎さん。ここは××署の一室です。あなたは旧名村田照子の殺害犯人として逮捕されました。小室淳一は架空の人物で、新聞紙上の写真も、R町十番地の家も、みなあなたを引きよせるための計略に過ぎませんでした。被害者の家で私たちはあなたの写真を発見して、あなたに嫌疑をかけたところ、自殺なさったとわかりましたが、女の直覚によって私はあなたが、生きて居ると断定しました。それと同時に犯人はあなたより外にないと思って、あなたを誘い出す手段を講じました。この文句は、あなたの逮捕されることを信じて、予め書いて置きます」 底本:「別冊・幻影城」株式会社幻影城    1978(昭和53年)3月1日発行 底本の親本:「大衆文芸4月号」1926(大正15)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。