空騒ぎ リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)したというのです。」[#「したというのです。」」は底本では「したというのです」。] ------------------------------------------------------- 「どうも疑わしいのですが、保険金は支払わなければなりますまい。」  グリフィン生命保険会社のストーカー氏は、あるうさんくさい保険金要求のことを相談したあとでそういった。 「それは支払うのが当然です。」ソーンダイクはいった。「死亡は証明してあるんだし、埋葬はすんでいるんだし、あなたの手元に、調査を要求する根拠となるような材料が一つもないんですから。ありますか?」 「それがないんですよ。でも、どうも腑に落ちない。医者は本当の死因を知らないんですよ。火葬のやりかたがもっと普通だと文句はないのですが。」 「毒殺者というものは、多くの場合医者に分らないと思っているものなんですよ。」ソーンダイクは冷淡だった。  ストーカーは笑ったが折れなかった。 「あなたが賛成してくださらないのは分っていますが、私のほうじゃ、もっと慎重にことを運んでもらいたかったのですよ。火葬は死亡証明書だけにたよるべきものじゃありません。権威のある人に、死因を確かめてもらわなくちゃだめです。そうしないと、あとでどんな厄介なことが起るかもわからない。」  ソーンダイクは頭をふった。 「そりゃ無理ですよ。前々から厄介なことを予想することはできないでしょう。そんな手続きをとっていると、しまいにはそれが形式的なものになってしまう。死亡の情況が常態だったら、そう権威ある人は証明をかくでしょうし、もし常態でなかったら書かないでしょう。そして火葬にふしたあとで疑惑を抱くものがあっても、それを証明することもできなければ、反駁することもできないのです。」 「私がいいたいのは、火葬の前に調べてみたら、犯罪を発見できるということなんですよ。」ストーカーはいった。 「それはそうですがね、しかし、徹底的な死体解剖でもやるならとにかく、そうでなかったら、火葬後疑いの残らぬような取り調べは困難ですよ。」  ストーカーは笑いながら帽子をとりあげ、「靴屋は革のことばかり考え、毒物学者は死体発掘のことばかり考えるか。」すてぜりふのようにいって出ていった。  だが、それが彼の見おさめにはならなかった。同じ週のうちに、彼はまたべつの新しい用件で、私たちをおとずれた。 「妙なことができたんです。私たちがこの事件に関係があるかどうか、まだはっきり分らないんですが、いちおうあなたに考えていただこうと思ってまいりました。順序をおって話すとこうなんです。十八カ月前に、イングルという人が、千五百ポンドの契約をしたのですが、その時この人の健康状態はもうしぶんがなかったのです。ところがこの人が最近死にました。死因は心臓麻痺――肥大症と書いてありました。そして、唯一人の遺産相続者でもあれば、遺言執行人でもある、妻のシビルという人が、保険金の支払いを要求したのです。それで、私の社では支払いの手続をとっていましたところ、マーガレット・イングルという女から故障申立てがあって、自分が故人のほんとうの妻だから、自分が支払いを受けるのが当然だといってきたのです。この女の説によると、シビルという女は、じつはハガードという人の未亡人で、わたしという本妻が生きていることを知りながら、故人と二重結婚をしたというのです。」[#「したというのです。」」は底本では「したというのです」。] 「それは厄介なことになりましたな。しかし、そんな問題は検認裁判所の取扱うべきことで、あなたの社にはなんの関係もありませんよ。」ソーンダイクはいった。 「そうです。」ストーカーはいう。「しかし話はそれだけじゃないのです。マーガレット・イングルは、相手の女を二重結婚で非難するばかりでなく、イングルが死んだのは病気のためでなくてその女に殺されたというのです。」 「理由があるんですか?」 「その理由が少々薄弱なんですがね、シビルの前の良人ジェームズ・ハガードが死んだ時の様子がおかしい――毒殺のように思われる――また今度のイングルだって健康だったのだから、病気で死ぬはずはないというのです。」 「一応の理屈はあるわけですな。」ソーンダイクはいう。「十八カ月前に第一級の健康状態だったのなら、そうも考えられないことはない。前の良人ハガードについては、検屍審問があったのかどうか、記録に残っている死因はないか、毒殺とみる根拠はどこにあるのか、そんなことを詳しく調べないと、なんともいえないわけです。もしイングルの死に、すこしでも疑惑があるなら、すぐ内務省に出願して、死因を確かめるべきです。」  ストーカーはてれくさそうに笑った。 「ところが、それがだめなんですよ。不幸にして、イングルは火葬にしたのです。」 「ああ、」とソーンダイクはうめいた。「それはあなたのいわれる通り、不幸だったですな。火葬は毒殺の嫌疑をいっそう濃厚にする一方、嫌疑をたしかめる手段をなくしてしまいますからね。」 「しかも、その火葬は遺言によって行われたのです。」 「でも、それはなんの証拠にもならんですよ。」ソーンダイクはいう。「それどころか、かえって嫌疑を強くするぐらいのものです。なぜというに、死体が火葬になることが、生前からきまっていたら、毒殺者は安心してことが行えるわけだからです。死亡の証明は二つそろっていたのですか?」 「そうなんです。確認証明をかいたのは、ウインポール街のハルベリーという医者、主治医はハウランド街のバーバーです。イングルが住んでいたのは、ホロウェイのストック・オーチャード広場なのです。」 「そんなら主治医の街からはずいぶんの距離です。確認証明をかいたハルベリーは、死体を見なかったのじゃないのですか?」 「見なかったのです。」ストーカーはこたえた。 「そんなら、その医者の証明書には一文の価値もない。死体を見ないで、心臓麻痺で死んだということが、分るはずはないですよ。だから主治医のいうままに証明を書いたんです。で、あなたは、私に死因の真相をさぐってくれとおっしゃるのですか?」 「そうして頂ければと思っています。むろん、私の社は殺人者の財産を要求できるというだけで、毒殺だろうとなかろうと、そんなことには関係はないんですけれど。どういうふうにお調べになるか、私には見当がつきませんが、とにかく調べてみてください。」 「私だって見当がつかんですが、まず証明をかいた二人の医者に会ってみましょう。会ってみたらなんとか見当がつくかもしれない。」 「それから、」と、そばから私が口をだした。「ハガードのこともいっしょに調べるんですな。火葬でないのなら、発掘してみる必要がある。」 「そう。」ソーンダイクもいった。「毒殺の反応があらわれたら、刑事訴訟ができるわけです。しかし、イングルだけの保険を扱っているグリフィン保険会社にとっては、そんなことが証明されてもなんの利益にもならない。ストーカーさん、このことに関した心覚えとなるような、大要を書いたものがいただけますか?」 「持っています。これに名や住所や日づけそのたが書いてあるんです。」一覧表のような一枚の紙をだした。  ストーカーが出て行くと、ソーンダイクはすばやくその紙に目を通し、時計をだしてみて、 「いますぐウインポール街へ行けば、ハルベリーという医者に会えるかもしれない。まず第一にあの医者に会ってみることにしよう。C証明書にサインしたのはハルベリーなんだから、この人にきいてみれば、不正を働く余裕があったかどうか分る。行ってみよう。」  私が同意すると、彼はその紙をポケットにしまって立ちあがった。ミドルテンプル街でタクシーをひろい、ハルベリーを訪問するとすぐ私たちは診察室に通された。いくつかの手紙を紙屑籠にすてているところだった。 「いらっしゃい、」と、彼は手をだした。「いまかたづけているところなんです、しばらく休んでいましたのでね。どんなご用ですか?」 「イングルという人のことについておたずねしたいと思いまして――」ソーンダイクはいった。 「イングル――イングル――はて――」 「ストック・オーチャード広場の人です。」 「ああ、分りました。あれがどうしました?」 「死にました。」 「ほんとですか? してみると診断というものは、よほど慎重にやらんといかんですな。私はこの人は仮病じゃないかと思ったほどでした。心臓が肥大しているというんですが、私のみたところでは肥大しているとは思われない。ただ脈搏の不整をみとめただけです。ただそれだけですよ。だからトリニトリンでも服用しているんじゃないかと思ったのです。南アフリカである患者がコルダイト火薬をなめたのがありましたが、あれと同じ症状です。へえ、死にましたか。そりゃ不思議だ。直接の死因はなんですか?」 「心臓麻痺です。証明書にはそう書いてありました。そして火葬にしたのです。C証明書にはあなたのサインがありましたよ。」 「私のサイン?」医者は叫んだ。「冗談でしょう! そりゃなにかの間違いです。イングル夫人の持ってきたほかの証明書にはサインしたことがあるけれど、死亡証明書のことは知らんです。死んだということさえ知らなかった。それに、私はあの人を診察してから二三日たつと旅行にでて、昨日帰ってきたばかりなんです。どうして私がサインしたなんておっしゃるんですか?」  ソーンダイクはストーカーからもらった紙片を出してわたした。それに自分の名を見た医者は眉をひそめて、 「こりゃ不思議だ! よく調べてもらわんと困る!」 「じっさい調べる必要があります。毒殺だという人間も出てきたんですから。」ソーンダイクはいった。 「へえ! そんならやっぱりトリニトリンだな。私の見込みはちがった。私は自分でのんでいるのかと思っていたが、人からのまされたんだな。あのずるげな顔の奥さんじゃないかしら。誰か容疑者があるんですか?」 「その奥さんが怪しいという人があるのです。」 「ふん。そんなら本当かも知れませんぞ。とにかく私は奥さんに一杯食わされた。ひどい奴だ。しかし灰になってしまっちゃ、証拠をあげるのにちょっと厄介でしょう。でも誰かが私のにせのサインをしたことは事実なんです。ははあ、私のサインを取りにきたのは筆跡をまねるためだったんだな。B証明書のサインは、たしかミーキングとあったようですが、あれはどんな人です? 私の意見をききにきたのはバーバー君でしたが。」 「どんな人かこれから調べようと思っているんです。バーバーさんにきいたら分るかもしれませんね。これからすぐ行ってみます。」  私たちが立ちあがると、医者ハルベリーは握手しながら、 「では、バーバー君に会ってごらんなさい。すくなくも、あの人は死ぬ前の容体ぐらいは知っていますよ。」  私たちがウインポール街からハウランド街へ行くと、おりよく医者バーバーが、自宅の前に車をとめたところであった。ソーンダイクはただちに自分と私を彼に紹介し、来意をつげたが、医者ハルベリーを訪問したことはいわなかった。 「イングルですか。ああ、あの人なら知っていますよ。あの人が死んだのですか? それはお気の毒です。そんな大病とは思わなかったんだが。」 「心臓は肥大していたのですか?」ソーンダイクはきいた。 「そんなでもなかったですよ。徴候はなかった。弁膜にも異状がなかったように思うんですがね。それより私は煙草ののみすぎじゃないかと思っていたです。それにしても、ミーキングが私に話さなかったのはどうしてかな。あれは私の代診なんですよ。旅行中、患者の診察はあの男にまかしてあったのです。あの男が死亡診断書にサインしたのですか?」 「そうなんです。火葬のB証明書もあの人のサインです。」 「そりゃおかしい。まあおはいりください。よく調べてみます。」  医者のあとについて診察室にはいった。デスクの上の棚から診察簿を取って、彼はページをめくりはじめた。その棚にはいろんな帳簿や診察簿や証明書、死亡証明書の用紙もみえた。 「ありますわい。ストック・オーチャード広場のイングル氏――最後に診察をうけにきたのが九月四日、あ! ミーキングがなにかの証明をかいたらしいぞ。この紙を使ったのかしら。」  切りとった帳の控えのページをしらべ、 「ここにあります。ジョナサン・イングル、九月四日、恢復とみとむ、業務にさしつかえなし――こりゃ死ぬどころじゃない。ね、そうでしょう? でも、もっとよく調べてみなくっちゃ――」  死亡診断書の帳をだして、ごく最近のところをめくってみた。 「ない――あ! これはどうしたんだろう? なにも書かぬ控えが二枚ある。しかも九月二日と十三日とのあいだだ。こりゃおかしい! ミーキングは几帳面な男なんだが――」  彼はまた診察簿をだし、最近二週間ぐらいの書きこみをしらべたあとで、顔をおこして額にしわをよせ、 「どうしてでしょう、患者が死んだとはどこにも書いてないんですが。」 「いまミーキングさんはどこにおいでなんです?」私がきいた。 「南大西洋のどこかを航海しているはずです。三週間前にここをやめて、船医となって乗りこんだのです。だからそれ以後証明書にサインするようなことはないはずです。」  医者バーバーの口から聞きこんだことはそれだけだった。私たちはそれから数分後に彼のうちをでた。 「いよいよこの事件は臭くなったね。」トテナム・コート・ロードにはいると私はいった。 「そう、」ソーンダイクはいう。「根本的にまちがっているものがあるのだ。なにより驚くのは手口の巧妙さだ。犯人は事情もよく知っているし、判断も相当なもんだし、目先もきくらしい。」 「しかし、ずいぶん冒険もやっているらしいよ。」私がいった。 「やむをえない冒険だけはおかしているだろうが、ちゃんと先を見とおして、やるだけのことはやっているし、形式だけにせよ踏むべき手続きだけは踏んでいる。またじっさい、それで目的を果し成功して、火葬も行われたのだ。だから、真のイングル夫人が現れて、曖昧模糊とした疑惑をのべたから、局面が一変しただけであって、そうでなかったら、この計画は成功していたところなんだ。イングル夫人が現れなかったら、誰もこの事件を調べたりなんぞしないよ。」 「そう。計画が破れたのは、運がわるかったのだ。だが、真相はどうなんだろう?」  ソーンダイクは頭をふった。 「方法は想像できないでもないが、動機や目的はまだはっきりしない。病気は仮病で、ニトログリセリンかなんかを使って、あんな症状を作りあげたのだろう。医者にかかったのは、一つにはサインの見本を手にいれるためだったのだ。医者が二人とも休暇で旅行していたり、ミーキングが船に乗っていたりする時をえらんだのは、たとえば葬儀屋なぞから、面倒なことをきかれるのを恐れたためで、これをみても、前々から計画を立てた犯罪であることは、想像できるのだ。死亡証明書の用紙は、女がバーバーの診察室に一人いるときに盗んだのだ。火葬証明書は火葬場へ行けばいつでも手にはいる。そこまではよく分る。分らないのはどうしてそんな大事をとったかということ。バーバーやミーキングはたとい死を予期していなかったにしろ、死んだとなるとすぐ証明を書いただろうし、ハルベリーにしたところが、確認をこばみはしない。ただあの連中は自分の誤診に気がつくぐらいのものだったのだ。」 「そんなら自殺なんだろうか、それとも、トリニトリンの量をすごしたんだろうか?」 「そんなことはあるまい。自殺とすれば、他に深い理由がないかぎり、保険金を妻にあたえるため、計画的に行ったということになるが、火葬の前に自殺だったら分るはずだ。また前々から用心ぶかく準備しているのだから、過ちに量をすごしたのでもなかろう。だから仮病で用意したのは、やはり殺人が目的だったのだろう。」 「しかし、自殺でないとすると、本人が火葬にしてくれと遺言した意味が分らなくなるね。」 「その遺言が信用できないんだよ。すでに犯人は証明書を偽造しているんだ。遺言状だって偽造と考えられないことはない。」 「そうだろうか。ぼくはそこまでは考えなかったが。」 「この犯罪では火葬が必要条件になっているんだ。火葬がなかったら、あんな飛びはなれた冒険はやれるもんじゃない。女はただ一人の遺族だから、火葬を拒もうと思えば拒めたわけだ。では火葬が必要条件だとすれば、それはなにが目的だろう? 死体のどこかに異状があったのだ。発掘されて医者がみたら分るような、なにかの異状があったのだ。」 「外傷とか、毒殺の反応だとかの?」 「埋葬したあとでも分るような、なにかがあったのだよ。」 「葬儀屋はどうしたんだろう? 葬儀屋はその異状に気づかなかったのかしら?」 「いいところに気がついた、ジャーヴィス君。これからその葬儀屋を訪ねてみよう。ここに住所が書いてある。ケンティシュ・タウン街――死んだ男の家とはかなり離れている。バスにのって行こう。」  黄色いバスが来たので、それを呼びとめて乗った。それに乗って北へむかいながらも、私たちは議論をつづけた。  葬儀屋のバレルという男は、むっつり考えこんだような、しごく物腰のていねいな男だったが、葬儀のほうは手狭にやっているものとみえて、かたわら家具や箱のようなものを作っていた。こちらのたずねることには、すらすら答えてくれたが、得るところはなかった。  ソーンダイクの問いにたいして、彼はこう答えた―― 「お亡くなりになった方を、よくは見なかったのです。寸法をとった時には、死体にきれをかぶせてありましたし、そばに奥さんが立って待っていらっしゃったので、大急ぎで寸法をとりました。」 「じゃ、君が死体を棺にいれたのじゃないの?」 「奥さんと親戚の方がいれるとおっしゃったので、私は棺をおいて帰っただけです。」 「でも、棺の蓋をして、釘をねじこむ時に、死体が見えたでしょう?」 「釘をねじこんだのは私じゃございません。私が行った時には早や釘をしてあったのです。奥さんは、暖いので早めに蓋をしたといわれました。私もそれがいいですといったのです。フォルマリンの匂いがぷんぷんしていました。」  ケンティシュ・タウン街を歩いてかえりながら、 「なにも分らなかったね、」と私はいった。 「ぼくはそうは思わん。この企てがどんなに巧妙に行われたかという証拠がまた一つふえたわけだ。死体の外見に誰にでも気のつく異状があったのではないかという疑惑は、いっそう深まってきた。女は葬儀屋にさえ死体を見てもらいたくなかったのだ。用意周到な準備や判断、思いきった大胆さ、それを遂行するにあたって細心の注意、ただ驚くのほかはない。そして、その女の冒険は、結果からみて酬いられたわけで、普通だったら誰も気づかずに終るところだったのだ。」  私たちの直面している謎は、いくらさぐりの手をのべてみても、無駄のように思われた。むろん、女は証明書を偽造したのだから、起訴はまぬがれまい。そのうえ二重結婚の問題もある。だが、そんなことはストーカーや私たちには関係はない。私たちが行きなやんでいるのは、イングルという人間が死んだが、その死因はなんであるかという問題なのだ。  うちへ帰ってみたら、ストーカーから今夜行くという電報がきていた。なにか新しい情報をもたらすらしく思われたので、私たちはその時刻がくるのを心待ちにした。晩方の六時にやってきた彼は、早速その問題にふれた。 「イングルのことなんですが、この事件は新しい方面に発展してきました。まず第一が細君の逃げだしたことで、私がききたいことがあったので、あの家へ行ってみたら、二重結婚で逮捕するんだといって、警官が張りこんでいるんです。細君はそれより前、その風説をきいて逃げだしたらしいのです。家を探してみたら、べつに変った物はなかったが、ただ鉄砲の弾丸がいくつか出てきたそうです。でも、まさか鉄砲で主人を射ち殺したのじゃありますまい。」 「どんな弾丸です?」と、ソーンダイクはきいた。  ストーカーはポケットに手をつっこみ、 「あなたにお見せしようと思って、お巡りさんにたのんで一つもらってきました。」  それは二十年ほど前に、陸軍で使っていた小銃の弾丸だった。ソーンダイクはそれをテーブルの上からつまみあげると、ひきだしからペンチをだし、薬莢から弾丸をぬいて、その薬莢にピンセットを突っこんだ。ピンセットの先は紙屑のようなものをつかんでいた。 「コルダイトだ!」私はいった。「医者のいったことは本当だった。女はこれをのませていたんだ。」  ストーカーが不審げな顔をするので、私は簡単に調査の結果を話してきかせた。 「そうですか。そんならだんだん複雑になってきました。さきの証明書のごまかしは、私がこれから話すもひとつのごまかしと繋がりがあるんですよ。ご承知の通り、イングルは土地会社の会計係なんですが、あなたがたと別れたあとで、その会社へ行ってきいてみますと、イングルは会社の金銭の出し入れを一人で責任をもってやっていたんだそうです。そして最近ある重役が、どうも近ごろ会計に不審な点があるといって、計理士に全部の帳簿を調べてもらうことにしたのです。そのむねをイングルに通知すると、それから二三日してイングルの細君から手紙がきて、いま主人は心臓をわずらって寝ているから、出勤できるようになるまで、会計検査を待ってくれといってきたというのです。」 「会社では待つことにしたのですか?」私はきいた。 「いえ、待たないで計理士にすぐ検査してもらったのです。すると帳簿の方々に間違いがあって、合計三千ポンドも金がなくなっていたのです。どういうふうにしてごまかしたか、それはまだ不明なんですが、たぶん小切手をかいざんしたのだろうというのです。」 「会社はそのことを、イングルに通知したのですか?」ソーンダイクはきいた。 「いや、またイングル夫人――いやハガードから手紙がきて、主人が重態だというのです。それで会社がわは、イングルの病気がなおるのを待っていました。ところがまもなく死亡の通知がきました。それでやむなく遺言の検認がすむまで、待たなければならなくなったのです。たぶん遺産差押えということになりましょうが、それにしても女が逃げてしまったのですから、後始末が厄介なのです。」 「あなたはいま、死亡証明書の詐欺と、会社の金の詐欺とのあいだに、関係があるようにいわれましたが、どんな関係があるのですか?」ソーンダイクはきいた。 「これはただちょっと考えてみただけなのですが、私は自殺じゃないかと思うんです。自分が金をごまかしたことが発見されるかもしれない、いや、もう発見されているのかもしれない。長い間、刑務所に入れられるより、いっそひと思いに死んだほうがましだ、とそう考えたのでしょう。だから、警察が殺人の嫌疑をひっこめると、あるいはハガード夫人が帰ってきて、自殺の証言をするのじゃないかと思うのです。」  ソーンダイクは頭をふった。 「いや、殺人の嫌疑をひっこめるわけにはいかんですよ。もし自殺だったら、ハガードは自殺幇助ですが、自殺幇助は法律上、殺人幇助とおなじですからね。だが、じつのところは、まだ表むきには殺人ということになっていない。なにも証拠がないからですよ。火葬の記録をみれば、誰の灰であるかは分るでしょうが、死因はそれだけじゃ分らない。イングルは病気だったといわれ、また三人の医者にみてもらっています。彼がその病気以外の原因で死んだという証拠は、まだどこにもないのです。」 「でも、その病気はコルダイト火薬で起きたんだろう?」私がいった。 「それは想像だけで、まだはっきりとは分らない。コルダイトの中毒と断言するわけにはいかん。」 「すると、」ストーカーはいう。「病死であるか、自殺であるか、他殺であるか、それを確める方法はないのですか?」 「たった一つあります。墓に埋めた灰を調べれば、あるいは死因が分りはしないかと思うのです。」 「でも、大した期待はもてそうもないな。コルダイトの中毒は跡をのこさんから。」私がいった。 「コルダイトで死んだと考えるのは即断だよ。」ソーンダイクはいう。「ぼくはコルダイトではないと思う。コルダイトは迷彩のようなもので、もっと分りにくい毒なんだろう。あるいはなにかもっと新しい毒かもしれない。」 「しかし、灰をしらべて分るような毒があるのかね? 普通の毒はもとより、水銀、アンチモニー、砒素のような金属性の毒だって、灰に痕跡は残さないと思うんだけれど。」 「それはそうだがね、灰からわけなしに還元できる金属性の毒も、ないことはないんだ。鉛、錫、金、銀なぞがそれだ。しかしこんなところで空論を戦わしていてもつまらん。新しい事実をつかむのには、灰を調べるのがいちばんよい。灰を調べたってうるところはなさそうに思われるが、万に一つの可能性はあるわけだから、すてとくわけにもいくまい。」  ストーカーも私も一語も発しなかったが、ストーカーの考えていることが、私とおなじであることは想像できた。ソーンダイクはめったに当惑の色を浮べない男だったが、さすがに狡智にたけたハガード夫人の投げつけた謎の前には、手のほどこしように迷っているらしかった。いやしくも犯罪捜査を天分とするものが、死因を知るために、その火葬にふした灰を調べるというのは、よくよく行き詰ったためであって、余り希望がもてそうもなかった。  でも、ソーンダイク自身は、案外灰を調べるということに希望をつないでいるらしく、ただひとつの懸念は、当局が発掘を許可しないのではあるまいかということらしかった。だが、それから一日か二日たって、発掘を許可するという当局の通知がとどいたので、この懸念は解消された。なおその通知には、病理学者として私たちもかねてから知っているヘミング氏も発掘に立ち合うから、化学分析の際なぞに必要を感じたら、適当に同氏と相談してくれとあった。  約束の日に、ヘミング氏は私たちのうちへきてくれ、三人連れだって車でリヴァプール街駅へむかったが、同氏も内心私とおなじように、今日の使命にあまり期待はもっていないらしかった。というのは、いろんな世間話や、自分の専門の方面の話はよくしながら、けっして灰を調べる問題にふれようとしないのである。灰の問題を最初に口にだしたのはソーンダイクで、それは汽車が火葬場のあるコーフィールドへ着く直前のことだった。 「むこうへの連絡はあなたのほうでやってくださったんでしょう、ヘミングさん?」 「火葬場の者が地下室へ案内してくれるはずですから、そこに納めてある骨を箱のまま事務室へ持っていって、みんなで調べてみましょう。箱には封印してあって、名前も書いてありますから、間違いはないと思うんですが、やはりみんな立合ったほうがいい。」 「そうですとも。」ソーンダイクはいった。「灰はどれもこれも同じだから、あとで苦情をいわれると困る。大事をとるにこしたことはない。」 「私もそう思いましてな。」汽車がとまるとヘミングはいった。「さあ、おりましょう。プラットフォームに立っているのが火葬場の管理人だと思いますが。」  その男は管理人にちがいなかった。しかしプラットフォームで会えたのは、この人だけではなく、私たちが彼と挨拶していたら、汽車のうしろのほうから、おなじみの警視庁捜査課のミラー警視の大きな図体もあらわれた。 「私は邪魔をしにきたんじゃありませんよ。」ミラーはいった。「内務省から火葬場へいって検査の結果をきいてこいといわれたのです。しかし検査の邪魔はしません。外で待っていますよ。」 「いやいや、箱をあける時は、あなたも証人として、立合ってくださったほうが都合がいいのです。」ソーンダイクはいった。私たちは駅をでると墓地へむかった。  墓地へ行く途中、気持よい森のそばを通った。墓地の手前に小さい礼拝堂のような火葬場があって、尖塔の蔭から煙突がみえた。墓地はキャタコムになっていた。すなわち、地下のトンネルが、天井の低いアーケイドのようになっていて、その両がわの壁の無数の穴のような窪みの一つ一つに、素焼の壺や箱にいれた骨を納めてあるのである。管理人はトンネルの端までくると、たずさえていた帳簿の番号と名簿をしらべ、帳簿通りの番号と「ジョナサン・イングル」と書いた窪みに案内した。四角な箱にも、名前や死んだ年月日が書いてあった。火葬場の二人の下働きが、その箱を出して、事務所の裏の明るい部屋へ持っていってくれた。窓際の大テーブルに白い紙を敷いてあった。そこへ箱をおくと二人の男は部屋をでた。管理人は封を切って蓋をとった。  しばらくはものもいわずに、私たちは箱のなかを見つめた。予想していたものと、あまりに違っているので、奇異の感にうたれたほどだった。頽廃が頽廃の形をとっていなかった。もろくて、繊細で、レースのようにこまかい骨片は、あるものは雪のように純白、あるものは珊瑚のようにきれいで、気味がわるいどころか、美しいと思うぐらいであった。かつては生きていた人間の、まぶしいまでに白い残物の一つ一つに、私は、解剖者の好奇心で目をはしらせながら、これはどこの骨、あれはどこの骨と、無意識のうちにそんなことを考えかけたが、ほとんど形が崩れているので、そんなことを識別するのは困難だった。  だしぬけにヘミングは、顔をおこしてソーンダイクにきいた。 「この灰に異状がありますか? 私には分らん。」 「残らず調べてみたい。これをテーブルの上にうつしましょう。」  静かに私たちは紙の上に灰をうつした。よく焼けてこわれ易くなっているので、細心の注意をはらいながら、紙の上に拡げた。 「どうです?」ヘミングはそれをみながらまたくりかえした。「異状がありますか? 他の物はなにも混っていないように思うのですが。どうです?」 「他の物はないでしょうが、なくてはならん物がないのです。」ソーンダイクはいった。「たとえば、この人は立派な歯並を持っていたはずなんですが、それがどこにあるんです? 歯なんか一本も見えない。歯は骨より火にたいする抵抗が強く、ことに琺瑯質は焼けないものなんですがね。」  こまかい骨の破片を目で探していたヘミングは、当惑したように額にしわをよせた。 「ほんとうに歯が見えませんね。こりゃおかしい。どうしてだとあなたはお考えです?」  ソーンダイクは答えるかわりに、平たい骨をそっとつまみあげて私たちの前にだした。私はそれを見たけれどなにもいわなかった。それは奇妙な疑惑が胸にきざしはじめていたからだった。 「これはあばら骨ですね。」ヘミングはいった。「しかしどうしてこんなに綺麗に、直角に折れたんでしょう。まるで鋸で切ったようだ。」  ソーンダイクはそれを下におくと、先ほどから私の気がついている破片をとりあげ、 「ここにも面白いのがありますよ、」といってヘミングにわたした。 「なるほど。これも妙な形になっている。鋸で切ったようだ。」 「そうでしょう? どこの骨だと思います?」ソーンダイクはきいた。 「いまそれを考えているんですよ。」困ったような顔でヘミングは破片を見ながら笑った。「解剖学をやった人間が、こんな大きな骨を持っていながら、それがどこの骨か分らんようじゃ困るのですが、しかし、やはりこれは分らん。形は脛骨ににているんだが、脛骨にしちゃ小さいですな。尺骨の上のはしですか?」 「ちがうようです。」  ソーンダイクはそう答えて、こんどはもっと大きい破片をヘミングにわたして名をきいた。  すでに彼は匙を投げているもののようだった。 「どうも自分ながら不思議なんですが、私はこれがどこの骨だか分りません。ただ長い骨の一片ということが分るだけです。中足骨にしては大きすぎるし、手足の大きい骨の一片にしては小さすぎますな。形はももの骨を小さくしたようなんだが。」 「そう。よく似ています。」  ソーンダイクはまた四つの大きい破片をひろいあげ、それを先の脛骨ににたのといっしょにして、ずらりと一列に並べた。並べてみると五つの破片がよく似ていた。 「この五つの骨は手足の一部なんですが、どれもこれもよく似ています。ただ違うのは三つが左、二つが右という点だけです。しかし、ヘミングさんもご存知のように、人間の手足は四つだけで、そのうち似ているのは二つだけです。またこのうちの二つには鋸で切ったあとがある。」  ヘミングは二つの破片を見ながら、眉をひそめて考えた。 「こりゃ不思議だ。こう一列に並べてみると、みな脛骨にみえるが、形だけは脛骨でも、すこし小さいようだ。」 「大きさは羊の脛骨です。」ソーンダイクはいった。 「羊!」ヘミングは白い灰になった骨をみ、それから驚いたようにソーンダイクをみた。 「そうです。脛骨のまんなかを鋸で切ったのです。」  ヘミングは雷に打たれたように驚いた。 「すると、なんですか、あなたは――」 「このなかには、人間の骨は一つもないというのです。すくなくも羊の足が五本あることは事実ですが。」  しばらく深い沈黙がつづいて、管理人が驚いたようになにやら低い声でつぶやき、二人の話を聞いていたミラーがくすくすと笑った。 「そんなら、棺のなかには人間の死体は入っていなかったんでしょうか?」ヘミングがいった。 「そうなんです。問屋から買ってきたもので棺の重みをつくり、灰をつくったまでです。この灰をもっとよく調べるとよく分るのですが、その必要はないでしょう。羊の足が五本あること、人間の骨が一つもないこと、それから証明書を偽造していたこと、これだけ証拠がそろったら、あとは大抵分りましょう。これからの仕事はミラー君にやってもらうんですな。」 「君はここへ来る前から、人間の骨がないことを知っていたのだろう?」  私がソーンダイクにそういったのは、汽車が動きだしてからのことだった。 「そう。今までに分っている事実をつなぎ合せて考えてみたら、そうとしか思えなかった。」 「それに最初に気がついたのはいつのこと?」 「火葬場へ持って行った証明書が贋物であると分ったら、たいてい想像がついたね。葬儀屋の話を聞いたら、その想像がいっそう確実になった。」 「だって葬儀屋は死体の寸法をはかったといったじゃないか。」 「そうはいったが、あれでは死体だか何だか分りゃしない。分ることは、葬儀屋に見せてならぬ物だったということだけなのだ。そして、そのうえストーカーの話によって、彼が会社の金を使いこんだと分ったら、結論は一つしかない。その死体がなんであるかぐらい、誰にだって分るだろう。ある一人の男が死んだとして、その男が死ぬ前に仮病をつかい、贋の証明書を作ったとしたら、その真相は、どうなんだろう? それは病死か、自殺か、他殺か、贋の死か、この四つのうちの一つである。では、この四つのうちの、どれがぴったり合うだろう? 証明書偽造の事実があるんだから、病死ではない。自殺は他の事実とぴったり当てはまらない。自殺だったら、用心ぶかい準備をするはずもないし、証明書を偽造する必要もない。イングルがほんとうに死んだのなら、ミーキングが証明を書くはずだし、火葬でごたごたする必要もないし、いろんな冒険をする必要もない。また他殺は全然問題じゃない。証明書はみな偽造の上手なイングル自身が偽造したものである。また殺される人間が火葬にしてくれなんて遺言するはずもない。 「残るのはいつわりの死であるが、これは前後の情況とぴったり合う。まず動機を考えてみると、イングルは会社の金を使いこんだから、逃げなければならん。逃げるには死んで火葬になったというのが、いちばん効果的だろう。死んだら検事だって警察だって、起訴を棄却して、彼のことを忘れるにきまっている。つぎに二重結婚の問題があるが、これも刑法にふれる犯罪だ。だが、死んだことになれば、その刑罰をのがれるのみか、名前をかえてハガードという女と安心して結婚することができ、本妻を永久に振り棄てることができる。そのうえ保険会社から千五百ポンドの金を受けとれるのだ。つぎにいつわりの死であるという仮定が、他の事実と当てはまるかどうか考えてみよう。死にもしないのに死んだとするには、どうしてもその前に仮病が必要である。また死体がないのだから、証明書を偽造せねばならん。またあとで疑われて死体発掘という段取りになることもあるから、火葬ということにしたほうが都合がいい。火葬にすれば永久に不利な証拠を消すことができる。この仮定は、死体を見なかっただの、フォルマリンの匂いがしただのという、葬儀屋の言葉ともぴったりあうのだ。」 「どうして?」私はきいた。 「考えてみたまえ、ジャーヴィス君。棺に入れる物は骨の灰を作る必要があるから、どうしても肉屋から買って来た物でなければならぬ。そしてまた重量は百五十ポンドから二百ポンドでなければならぬ。だが、いくらイングルだって、葬式の前に一匹分の羊を買いに行くわけにはいかんから、少しずつ買ってそれを貯蔵するよりほかに手がない。温い気候では臭くなるから、防腐剤をほどこさなければならぬ。それには火葬にしても痕跡の残らぬフォルマリンがいちばんいい。 「だから、死を装ったという仮定が、いちばんそのほかの事実とぴったり合致して、そのほかの仮定は、みなほかの事実と食いちがうのだ。それでこの仮定を唯一の可能性のある仮定とかんがえたわけなんだが、じっさいに灰を調べてみて、はたしてそれが当っていたことがわかった。」  ソーンダイクの説明がおわると、ヘミングは口からパイプをとって笑い、 「私が今日きます時には、あなたがたの内務省への報告に一通り目をとおしていたので、どうせ骨を調べたってなににもならん、空騒ぎに終るだろうと高をくくっていたんですよ。ところが、いまソーンダイクさんの説明をきいてみたら、どうして今までそれに気がつかなかったんだろうと、ソーンダイクさんのいわれることが、なんのへんもない、当然なことのように思われだした。」 「ソーンダイクの説明はいつもそうなんですよ。聞いたあとになると、ばかばかしいほど当然なことに思われるんです。」私がいった。  警察の手でイングルが捕えられたのは、それから一週間たってからのことであった。火葬の成功に気をよくして安心しきっていた彼は、足跡をくらますことに多くのてぬかりがあったので、難なくミラー警視の手に捕えられてしまった。それで警視庁も安心し、グリフィン生命保険会社も満足した。 底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社    1957(昭和32)年 1月10日初版 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。