神の所業 An Act of God ポースト メルヴィル・デイヴィスン Post, Melville Davisson 村崎敏郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)使者《つかい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〔名探偵登場※[#ローマ数字 2、1-13-22]〕 -------------------------------------------------------  郡の共進会の最後の日だつた。わたしはアブナー伯父のそばに立つて、群集のはじつこで見世物師の芸当に見とれていた。  車のついている小さな小屋の前の一段高くなつた壇の上に、ジプシーのなりをした娘が両腕をひろげて立つている……すると群集の中に出ていた一人の老人が、椅子の上に立つたまま、大きなナイフを投げつけて、娘のまわりを刀の垣根で囲むのであつた。娘はまだ子供といつてもいいくらいの若さだつた。男は年をとつていたが、丈夫で強かつた。この男は木靴をはき、旅でくたびれた紫色のビロードのズボンに、真赤な腰帯をしめ、咽喉のところが開いている真白なワイシャツを仕事着にしていた。  わたしは男のすばらしい腕前に見とれて、夢中になつていた。彼は自分と車のあいだを通り過ぎる群集の顔をしよつちゆう見ているようだつたが、それでいて大きなナイフは娘の体をかすめて、毛筋ほどの狂いもなくまとに当つた。  しかしナイフの束を持つた老人がわたしの注意を引いているあいだに、アブナーが見ていたのは娘のほうであつた。アブナーは妙にウットリして注意しながら娘の顔をジロジロ見ていた。ときどき頭を上げて、何か思い出せない記憶をさがそうとでもするらしくまぶたを細めてボンヤリ群集を見渡した……それからまたユリの木の板に突き立つて揺れているナイフの額ぶちに囲まれた、黒い巻毛の房の垂れかかる顔に視線を戻した。  わたしの父がやつて来てわたし共を見つけたのは、こうした時だつた。 「この辺でブラックフォードを見かけたかね?」と父が言つた――「あの男に会いたいんだ」 「いいや」とアブナーが返事した。「だがここにいるはずだと思うね。あれはにぎやかな処ならどこへでも出てくる」 「わたしはあの男の牛の代金をゆうべ届けてやつた」と父はつづけた。「だから受け取つてくれたかどうか知りたいんだ」  アブナーはそれを聞くと父のほうにふり向いた。 「ルーファス、あんな悪党を相手にしてたらいつでもあぶない橋を渡ることになるぞ」と伯父は言つた。「いつかは只取りされるよ。あいつの地所はすつかり信託物件の証文に入つている」 「そうだなあ」と父は元気に笑つて答えた……「こんどは只取りされないよ。わたしはブラックフォードが署名した代金の請求書を持つていて、それにはこの手紙を支払いの証拠にすると書いてあるんだ」  そこで父はポケットから封筒を取り出してアブナーに渡した。  伯父は手紙をおしまいまで読んだ。すると紙をつかんでいた大きな指がギュッとひきしまつてきて、もう一度注意深く読んだ……それからもう一度、目を細めあごを突き出しながら、読みかえした。最後に伯父は父の顔をまともに見た。 「この手紙はブラックフォードが書いたんじやない」と伯父は言つた。 「書いたんじやない!」と父は大声で言つた。「だつて、オイ、わたしはあのろうあ者の手をようく知りぬいているんだぜ。あいつの字は一つ一つの線や傾斜まで知つてるし、署名の一字一字の曲げ方やゆがみぐあいまで知つているんだ」  だが伯父は首を振つた。  父はいらいらした。 「バカバカしい!」と父は言つた。「わしはこの共進会場から百人でも証人を呼び出してみせるよ……たとえあいつが否定したつて、それからモーゼや予言者たちを助太刀に連れてきたつて、この手紙は一筆残らずブラックフォードが書いたるのだと証言してくれるよ」  アブナーはジッと父の顔を見た。 「まつたくだ、ルーファス」とアブナーは言つた。「こいつは完全無欠だ。ブラックフォードの手と違う字は一字もないし、一本の線もゆがみも筆使いも違つていない……この丘陵地の放牧者ならだれでも、一人残らず、あの男が書いたのだとバイブルにかけて誓うだろう。本人のブラックフォードだつてこの筆跡と自分の手と見分けがつくまいし、この世の人間のだれにも見分けられやしない……でもやつぱりこれはあのろうあ者が書いたんじやない」 「そうかい」と父は言つた……「あすこへ今ブラックフォードが来た。あいつに聞いてみよう」  だが二人は聞くわけにはいかなかつた。  わたしは背の高いろうあ者が肩で風を切りながらやつて来て見世物師の車の前の人ごみに入るのを見た。するとその時、或る事が起こつた。老人の乗つていた椅子が重みでこわれた。彼が落ちるはずみに、手にしていた大きなナイフがまとをそれて飛んで、ろうあ者の体をまるでチーズのように突き通した。わたし共がだき起こしたときはもう死んでいた……ナイフの刄が両肩の間に突き立つていて、血にまみれた上着にツカ元までおしこまれていた。  わたし共はブラックフォードを農業会館の中にかつぎこんで、入賞のりんごやかぼちやの真中に置くと、家畜置場からランドルフ旦那を呼び、見世物師を彼の前に連れてきた。  ランドルフはいつもの大まかなそうぞうしい態度で入つてきて、まるで自分が全世界の裁き手だぞといわんばかりの顔で腰をおろした。彼は証言を聞いたが、どの目撃者の言葉を聞いてもこの悲劇はまつたくはつきりした偶然の事故であつた。だがゾッとするような事故だつた。それは列王紀略([#割り注]旧約聖書[#割り注終わり])の中の神様の天罰のように、つかの間の、思いもかけない、命にかかわるものであつた。なんの不安も感じないで仲間のあいだを通り過ぎていた一人の男が打ち殺されてしまつたのだ。この人ごみの中からこんなふうにブラックフォードの死を要求したふしぎな選択の仕方にはどぎもを抜かれてゾッとした。この世の人の命のおぽつかなさと、目に見える世界のはかなさを考えると、わたし共の声はいつか小声のささやきになつた。  そのくせこの事は、たくんだような形で、わたし共のきびしい聖書の信仰と一致するふるまいだつた。説教壇ではこのろうあ者は一つの例であり戒めの種であつた。彼の生活は不品行でだらしがなかつた。彼は牛の荷主で、詩編の作者ダビデが指示した醜行を知り抜いていた。彼はその苦難以上にもつといろんな点でイシマエル人([#割り注]旧約聖書創世記第十六章参照。世の憎まれ者の意[#割り注終わり])であつた。妻も子もなく、親類に近い者もなかつた。丘陵の中の善良な主婦たちは、あの人はろくな死に目には会わないと、みんなで予言していた。あの男はつかの間に力ずくで地獄に落されるだろう……と伝道者たちは言つた。そして世界がエデンのように楽しいこの秋の朝、つかの間に力ずくで彼は行つてしまつた。  彼はそこのトウモロコシの束や地上の果物や穀類の中にころがつて、まつたく予言されたとおりの最期をとげたので、その予言を一番大声で叫んでいた連中が一番きもをつぶした。みんなはあれほど大言壮語しながらも、神様がこれほど急速であろうとは信じられなかつた。そこで小声で話し合いながら、まるで主の使者《つかい》が、エブス人《びと》オルナンの打場《うちば》の床の前に立つたとき([#割り注]旧約歴代史略上第二十一章参照[#割り注終わり])のように、この小さな祭りの会場の入口に立つておいでになるかのように、抜き足さし足で群がつていた。  ランドルフは事が事故だと認めないわけにはいかなかつたので、老人を帰してやつた。でも彼はテーブルの背後の自席から、そういう商売の危険さについて、大喝した。そしてそのあいだ中、見世物師は目がくらんだようにランドルフの前にポーッとして立つていたし、小娘は泣きながら大男の農夫の手にすがりついた。ランドルフは娘を指さして老人に、いつかおまえはこの娘を殺すようなことになるぞと、言いきかせてから、全能の権威を持つている者らしい身振りで老人の商売を禁止した。老芸人は、ナイフを河へ投げこんで何か他の事をはじめますと、約束した。ランドルフは、偶然の事故の法律について三十分ばかりものものしく言いきかせ、ブラックストーン卿([#割り注]十八世紀の英國の判事、法律学者。英法上の最大權威[#割り注終わり])やチッティ氏([#割り注]英国の法律家、法律起草者[#割り注終わり])を引用して、この事件は、法律の或る定義内にある、神の所業([#割り注]法律用語としては「不可抗力」の意[#割り注終わり])だといつて、立ち上つた。  アブナー伯父はドアの近くに立つて、厳粛な、なんとも見当のつかない表情で眺めつづけていた。伯父は、老人が落ちたとき人ごみを抜けてあの椅子の処へ行つて、ブラックフォードの体からナイフを抜き出したのだが、死体をはこびこむ手伝いはしないで、ドアのそばに残つて大きな両肩を傍聴人の頭上にそびえさせていた。ランドルフは出て行くときアブナーのそばで立ち止まつて、一つまみのかぎたばこを吸うと、ゴタゴタした色の大きなハンカチの中でラッパのような音を立てた。 「ああ、アブナー」とランドルフは言つた……「きみはおれの判決に賛成するかね?」 「おまえさんはこの事件は神の所業だといつた」とアブナーは答えた。「で、わしはそれに賛成する」 「そりやそうだよ」とランドルフは裁判官らしい威厳をみせて言つた。「法律起草者たちは、不法行為に関する論究の中で、この術語の中に人間の知恵では予測できない不可思議な危害――たとえば洪水、地震、および大旋風――を包含している」 「サア、それが法律起草者たちの大へん間が抜けたところさ」とアブナーは答えた。「わしならそういう危害は悪魔の所業だと名付けるよ。神様が罪のない者に危害を加えるために自然力の働きを利用なさるなどということはとてもわしには信じる気になれないね」 「いや」とランドルフは言つた……「法律の起草者たちは神学者じやなかつたからね……もつともグリンリーフ氏([#割り注]十八九世紀ののアメリカの法学者[#割り注終わり])は信心深かつたし、チッティはなかなか敬神家だつたし、コーク閣下([#割り注]十六七世紀の英國の法律家[#割り注終わり])やブラックストーン閣下や、マシュー・ヘール卿([#割り注]十七世紀の英國法律家[#割り注終わり])はりつぱに英国教会に帰依していた。あの人たちは権利侵害の諸例を集めて分類し、法律上起訴できるかどうかについてあざやかなこまかい区別をした。そして或る種の権利侵害は神の所業だと認めた。だが、どんな権利侵害でも悪魔の所業だと認めたようなのは読んだことがない。法律は悪魔の主権や支配を認めていない」 「いやな」とアブナーは答えた……「まことにやむを得んことだが、そりや法律の表現が盲めつぼうなのさ。わしの知つてるかぎり裁判の管轄の中に悪魔の令状が入りこまなかつたことは一度もないね」  戸口にいる彼の顔に微笑がうかんだが、中の死人さえいなかつたら爆笑になりそうな微笑だつた。  ランドルフはカッとして、かぎたばこの箱に顔を突つ込んでから、話題を手近かの問題に向けた。「きみはどう思うね、アブナー」と彼は言つた。「あの見物世師のおやじは約束どおり危険な商売をやめるだろうか?」 「ウン」とアブナーは答えた。「そりややめるだろうよ。でもおまえさんに約束したからじやないね」  そう言うとアブナーはそこを離れて父の処へ来て、父の腕を取つて、わきへ連れ出した。 「ルーファス」と伯父は言つた。「わしには或る事がわかつた。おまえの受取りは有効だよ」 「むろん有効さ」と父は答えた。「あれはブラックフォードの手だ」 「なるほど」とアブナーは言つた。「あの男はそれを否定しに戻つて来られやしないし、わしにはあの男のために証人になるつもりはないからね」 「どういう意味だね、アブナー?」と父は言つた。「あんたはこの手紙はブラックフォードが書いたものじやないと言つたくせに、今じや有効だと言うんだね」 「つまりね」とアブナーは答えた。「債務を取り立てる権利の有る者がそれを受け取つたのなら、それで十分だという意味さ」  それから彼は、頭を上げ大きな背中のうしろに指を組んだまま、人ごみの中へ歩いて行つた。  郡の共進会はその晩幕を閉じたが、ブラックフォードの最期についてのいろんなゴシップやたくさんの取り止めもない批評に包まれていた。炉辺の法律家たちは、家路に帰る群集と一緒に乗つて行きながら、ジェファスン氏の相続法や、ブラックフォードには親類らしい者がないから財産は州に没収されるだろうということなどについて勝手なホラを吹いているうちに、彼の土地や家畜は借金をキチンと払つてしまえば棺代としてワシ金貨(ワシの画がついているアメリカの十ドル金貨)が一枚か二枚残るだけだという知らせにぶつかつた。それでも、やつぱり法律家の態度をまねて、黙つていなかつた……かえつて、もし事実さえ自分たちの推測の根拠に一致するものだつたら、法律が何になるものかと断言した。それから予言者たちは、それぞれの車の中にすわりこんで、自分の証人たちを集めて、自分が予言をした日付けを立証した。  夕闇がせまつてきて、共進会のあたりにはほとんど人けがなくなつた。たいして遠くない処に住んでいる連中は群集と一緒に自分たちの家畜をせき立てて、檻《おり》や畜舎を捨てていつた。だがわたしの父は、いつもこういう共進会には一群の入賞家畜を連れてきていたので、朝までここにいようとさしずした。家までの距離が遠過ぎたし、道が混み合つていた。父の牛はエジプトの牡牛にもおとらず神聖なものだつたので、車の輪に押しつけられたり、わめいている酔つぱらいの馬に割りこまれたりさせてはならないのであつた。  日が暮れた。月はなかつたが、地上は暗黒ではなかつた。澄みきつた空に、種をまいた畠のように、星がちらばつていた。わたしは牛車の中のクローバーの干草を敷いて手編みの毛布をかけたベッドに寝ることになつていたが、寝に行かなかつた。或る年頃の子供はジャッカル([#割り注]狼と狐の合いの子のような動物で、ライオンのえさをさがす役を勤めるといわれる[#割り注終わり])みたいなもので、人が大ぜい野営している場所をうろつきまわるほどうれしいことはこの世の中にないのである。おまけにわたしはあの見世物師のじいさんがどうなつたか知りたかつた……そしてそれはすぐに発見したことであつた。  見世物師の車がこの場所のはずれの河に近い木立ちの中に立つていて、戸が閉めてあつた。馬が、車の輪につながれて、一かかえの干草に鼻を突つ込んでいた。木々のテッペンからもれてくる星明りに車の輪の影が浮かび、車の片側は深い穴の中のように真黒に見えていた。わたしは木立ちの外辺まで行つた……そこで地面にうずくまつていると、とうとう足音が聞こえて、アブナー伯父が車のほうへやつてくる姿が見えた。さつき人ごみの中で歩いているとき見たように、両手をうしろに組み、顔を上げて、まるで何か困りきつた問題を思案しているようなカッコウで歩いていた。踏段の処まで来ると、片手を握りしめてドアをノックした……人声が答えると、中に入つた。  わたしは好奇心に負けてしまつた。車の暗いほうの側へチョコチョコと走つて行つた。そこにはちょつとした好運がわたしを待つていてくれた……金メッキした羽目板の一枚が往来でガタンと揺れたとき割れ目ができていたので、車の輪の上に体をチョコンとおちつけると、内部が見えた。老人は、壁にちようつがいで取りつけた板で作つてあるテーブルのうしろに腰かけていた。例のナイフが、より糸で束ねて、そばの床の上にころがつていた。テーブルの上には幾包みかの古い手紙と一本のローソクがのつていた。小娘は車の奥の寝棚のような処で眠つていた。老人は伯父が入つて行くと立ち上つたが、その顔は、治安判事の前ではにぶいポーッとしたようすだつたのに、今はするどくいきいきしていた。 「旦那のおいでは光栄です」と老人は言つた。その言葉は、夢にも歓迎しているとは思えない、疑うような口調であつた。 「光栄じやないさ」と伯父は、帽子をかぶつて立つたまま、答えた……「だが、マア何かの助けにはなろう」 「そいつは変ですねえ」と見世物師は冷淡に言つた。「だつて、わしはこの土地ではだれにも助けてもらつたことはありません」 「おまえはおぼえが悪いな」とアブナーは答えた。「治安判事が今日おまえを大いに助けてくれたばかりだ。おまえは自分の命を尊ばないのか?」 「わしの命は危険じやありませんでしたよ、旦那」と老人は言つた。 「わしは危険だつたと思うね」とアブナーは答えた。 「では旦那はあの判決に疑問を持つてるんですね?」 「いいや」とアブナーは言つた。「あれはランドルフが今までやつた判決の中では一番賢明なものだと思うね」 「ではどうして旦那はわしの命が危険だつたとおつしやるんですか?」 「そうだな」と伯父は答えた……「すべての人の命が危険にさらされているんじやないかね? 命が保証されているときが一日でも一時間でもあるかね……それともこの地上に危険のない場所が一カケラでもあるかね? そして人は夜が明けて寝床の中で眼をさましたとき、今日こそおれは危険な目に会うだろうとか会わないだろうとかいうようなことを言いきれるかね? 危険は明るみにもあるし、暗闇にもある……人が危険を予想する処にも、また予想もしていない処にも、ある。ブラックフォードは今日おまえの目の前を通り過ぎたとき、自分の身の危険を信じていたろうか?」 「ああ、旦那」と老人は答えた。「ありや恐ろしい偶然の事故でした!」  伯父は腰かけを取り上げると、それをテーブルのそばに置いて、腰をおろした。帽子をぬいで膝の上におくと、やがて床を眺めながら口を切つた。 「おまえは神様を信じているかね?」  わたしは老人が片手でひたいをこするようにするのを見たが、その人指し指の根元のふくらみが十字を切つていた。 「ええ、旦那」と老人は言つた。「信じてまさあ」 「ではな」とアブナーは答えた……「おまえは物事が偶然に起こるとは信じられないだろう」 「わしらが偶然だなんて言うのはね、旦那」と男は言つた……「よくわからない時のことですよ」 「時にはもつとましな言葉を使うこともあるさ」とアブナーは答えた。「さて、今日ランドルフはあのブラックフォードの死の原因がよくわからなかつたのだが、そのくせあれを神の所業と名付けた」 「だれがわかるもんですか」と男は言つた、「神様のやり方は人間に見つかるもんじやないでしょう?」 「そうともかぎらんさ」と伯父は答えた。  伯父はあごを片手で握りしめて、しばらくのあいだ身動きもしなかつた………それから言葉をつづけた―― 「わしはこの事件で或る事を見つけ出した」  見世物師のじいさんはテーブルの向うの腰かけに移つて行つてすわりこんだ。 「で、そいつは何ですか、旦那?」 「おまえの命が危険だということ――それが一つだ」 「どんな危険だね?」 「おまえはヨーロッパの生れだ」とアブナーは答えた。「それでいて一人の男が殺されたら、殺した男の命をおびやかす者ができるということを忘れているのか?」 「だけどあのブラックフォードには血族の怨みをはらす親類は一人もありませんよ」と見世物師は言つた。 「それだから」とアブナーは大声を出した……「おまえはあいつを殺す前にそれを知つていたんだ。ところが、それほど用心したのに、治安判事の前の群集の中にお前の命を片手に握つた男が立つていたのだ。その男は口をひらきさえすればよかつたのだ」 「ではどうして奴は口をひらかなかつたんですか――その男は?」と見世物師は、テーブルの向うからアブナーの顔を見ながら、言つた[#「見ながら、言つた」は底本では「見ながら。言つた」]。 「それをおまえに話そう」とアブナーは答えた。「その男は法律の裁きが神様の裁きをくつがえすかもしれないのを恐れたのだ、それは――この神様の裁きは――数多い糸で織つてある織物だ。わしは今日その中の三本の糸が大きな織機にかかつているのを見たので、織り手の仕事をじやましてはいけないと思つて、それに手を出したくなかつた。わしは人々が殺人を見ながらそれを知らずにいるのを見た。子供が父親を見ながらそれを知らずにいるのを見た。それから書きもしなかつた男の手で書いた一通の手紙を見た」  見世物師のじいさんの顔は青ざめたりしなかつた……むしろそのかわりに決然としたきびしい顔色になつて、日に焼けた皮膚の下に紐みたいに見えるほどムクムクと筋が浮かび上つた。 「証拠は」と老人は言つた。 「みんなここにある」とアブナーは答えた。  伯父は身をかがめて、ナイフの束を取り上げると、糸を切つてテーブルの上にひろげた。ブラックフォードの血をふき取つたあのナイフをえらび出した。 「ランドルフはこのナイフをしらべた」とアブナーは続けた。「だが他のはしらべなかつた……みんな同じだと思つたのだ。ところで、同じじやないんだ。他のはみんな刄をにぶくしてあるが、これだけはかみそりのような刄がついている」  そこでアブナーはテーブルから一枚の紙をひつつかんでそれを二つに切つた。それからナイフを板の上に置いて、車内の遠い奥のほうを見た。 「それからあの子の顔だ」と伯父は言つた――「わしはこれについては、ブラックフォードが死に神の手でノビてしまつたのを見るまで、確信がなかつた……やつとあの時わかつた。それからあの手紙――」  だが老人は立ち上つてテーブルの上に乗り出していた……顔はピンと張つたロープのようにピクピクしていた。 「シーッ! シーッ!」と老人は言つた。  一陣の風がサッと吹いてきて乾いた草の中でかすかな音を立てると、車やわたしの顔のあたりに枯葉を吹きつけた。それは何かの霊のようにハタハタと音を立てた――この枯葉がだ――そしてかぼそい手の爪みたいに金メッキの羽目板をコツコツつついたり、つかみかかつたりした。わたしは、闇の中にひとりぽつちで腰かけてこの悲劇をのぞきこんでいるうちに、恐怖におそわれはじめた。  アブナー伯父は腰をおろしたが、老人はテーブルに両手の手のひらをおしつけたままの姿勢でいた。とうとう話し出した。 「旦那」と老人は言つた。「人間は他の男を地獄へ行かせといて、自分は奈落をのがれられるでしようか? そうです、この子は奴の娘だし、この子の母親はわしの娘でした……そしてわしは奴を殺しました。奴は口はきけなかつたが、この手紙でわしの娘をくどいたんです」  男は一息ついて、色あせたリボンでくくつた黄色い封筒の包みをひつくりかえした。 「そして娘は、女ならたいてい本気にするような話をきかされて、本気にしました。あんたならどうしたでしようかねえ、旦那? 法律にうつたえる――あんた方の英国の法律は女にあてがい扶持をくれて法廷の戸口から突き出して、下等な連中の笑い草にするでしようよ! 悪魔め! 旦那、それじや法律じやありませんよ。わしはうちのオヤジやオヤジのオヤジや、それからまた旦那のお父さんやお父さんのお父さんが知つていたのと同じように、法律というものを知つています。わしは娘が死んだとき、この子さえいなかつたら、あいつを殺したかつたんです。毎日毎日この丘の中であいつの跡を影法師みたいにつけて歩いて、ナイフを体に叩きこんで屠殺した豚みたいに切りこまざいてやりたかつたんです。だがわしはこの子を残して絞首人の手にかかるわけにはいきませんでした……だから待ちました」  老人は腰をおろした。 「わしらは待つことができるんです、旦那。そいつはわしの国でみんなが知つてること――辛抱です。そして用意ができてから奴を殺したんです」  老人は一息ついて、テーブルの上に手のひらを上に向けて片手をさし出した。生き物のようにすばらしい手だつた。 「あんたには目がありますね、旦那。だけど他の連中は盲目同然だ。この手がわしをしくじらすことがあるなんて思つたんですかねえ? 頭のいい人間が人をびつくりさせるほど正確な機械というものを作りましたね……だけどわしらがきたえるようなきたえかたをすれば、人間の手ほど正確な機械はありませんや。わしは旦那のうしろのドアに針でこすつたくらいの線を引いておいて、その線のゆがみや曲りの一つ一つへ目をつぶつたままでナイフの先きをぶちこめまさあ。だつてねえ旦那、ブラックフォードの上着にわらが一本こびりついていました――馬小屋を通つたとき落ちたのがくつついたんでしよう。わしは奴が人ごみの中を抜けて近づいてきたとき、そいつをねらつてナイフで切り裂きました。 「それで、サア、旦那?」  だが伯父は老人をさえぎつた。「いや、まだだ」と伯父は言つた。「わしは生きてる者の心配をしてるので、死んだ者はかまわん。もしも死んだ者のことだけを考えるのなら、今日だつて口をひらいただろうさ……だがわしは生きてる者のことも考える。おまえはこの子のために何をしてやつたのだ?」  老人の顔に深いやさしさが浮かんできた。 「わしはこの子をかわいがつて育ててきました」と彼は言つた。「それもりつぱにです。そこでこの子のために遺産を手に入れてやりました」  彼は言葉を切つて、手紙の包みを指さした。 「あんたが入つてきたとき、わしはこれを燃そうとしてたんです、旦那。だつてもう目的をはたしましたからね。わしはブラックフォードの手を知つとく必要があるかもしれないと思つて、そいつを習いはじめました。あたりまえの偽造師みたいに一日や一週間のことじやありませんよ、旦那……やつてみたことのない手でね――だが一年たち、何年かたつうちに――手が自分の思うとおりになつてきて、わしはどの手紙のどの言葉もくり返しくり返し習つているうちに、とうとうあの男の手が書けるようになりました。まねじやありませんよ、旦那、そんなものじやなくて、ほんとの筆跡そのもの――ブラックフォードが自分の指で書く筆跡そのものでさあ。そしてそいつが役に立ちました……というのはブラックフォードが書いたのではないということがだれにもわかりつこない一通の手紙で、ブラックフォードの持ち物から借金を払つた残りをみんなこの子の物にしてやれましたからね」 「わしにはあの男が書いたのではないということがわかつていた」とアブナーは言つた。  老人は微笑した。 「ご冗談でしよう、旦那」と老人は言つた。「当のブラックフォードにだつてあの字と自分の字の区別はできなかつたでしようよ。わしにもできないだろうし、生きてる人間にはだれにもできやしませんよ」 「まつたくだ」とアブナーは答えた。「手紙はブラックフォードの手だつた……まるであの男が自分の指で書いたようだつた。おまえの言うとおり、あれはまねじやない。あの男の書体そのものだが、それでもやはり奴が書いたんじやない。わしはあれを見たとき、あの男が書いたんじやないとわかつた」  老人の顔は疑わしげであつた。 「どうしてそれがわかつたんですか、旦那?」と彼は言つた。  伯父はわたしの父が受け取つたあの手紙をポケットから出して、テーブルの上にひろげた。 「この手紙はまつたくブラックフォードの手で書いてあるのに、どうしてあの男が書いたのでないとわかつたのか、それを話そう。わしの弟のルーファスがこの手紙を見せたので、読んでいるうちに、中の言葉の綴りが違つているのに気がついた。いや、そのこと自体はなんでもないさ……どうせあのろうあ者がいつも正確に綴りを書くわけじやなかつたろうからな。問題は、言葉の綴りが違つているその違い方だつた。昔のやりかたでは、ろうあ者に字を書くのを教えるとき、目で教えた……その結果、目で見ておぼえたとおりに言葉を書く習慣がついて、音でおぼえているような書き方をしなくなる。そこで、まちがいは、目のまちがいであつて、耳のまちがいではないことになる。そしてこの点で耳の聞こえる人とは違う。というのは耳の聞こえる者は、言葉の綴りがアヤフヤなとき、発音どおりに綴りを書く。目で見て正しい綴りに見えるような文字でなく、耳にそれらしく響く字を使う――『C』のかわりに『S』を使つたり、『U』のかわりに『O』を使つたりする――これは一般にろうあ者が決してやりそうもないことだ。だつてろうあ者は文字がどんな音に聞こえるかを知らないからだ。したがつて、この手紙の中の文字が音の違う綴りになつているのを知つたとき――この手紙を書いた者は言葉を音でおぼえていて、その音をあらわすために文字の配置に骨を折つてることがわかつたとき――わしにはこの男は耳が聞こえるのだということがわかつた」  老人は返事をしなかつたが、立ち上つて伯父の前に立つた。長い真白な髪をうしろにたれ、日焼けした青銅色の咽喉をむき出しにし、顔を上げて、恐れげもなく直立した……その目は、神聖なオークの樹間にいる、古代のドルイド([#割り注]古代の英國で行われたケルト族の信仰[#割り注終わり])僧のように、おだやかにまつすぐ正面を見ていた。  そしてわたしは羽目板の割れ目に顔を押しつけて、老人が言おうとしていることを聞こうとして耳をすませた。 「旦那」と老人は言つた。「わしは裁きの所業をやつたんです……人間がやるようなやり方じやなくて、神様の思し召しどおりにね。用心しながら辛抱強く一つ一つの所業をやつてのけたので、人間の目には神様の思し召しに結びついてるように見えたでしよう。そして見ていた者は、あんたのほかは、みんなまんぞくしました。あんたは隠れている事がらをせんさくしてさぐり出したんですから、知つたことに対して責任を負わなきやなりませんよ」  老人は眠つている娘のほうに両手をひろげた。 「この子は何にも知らずにりつぱな大人になれるのか、それともすつかり知つて地獄へ落ちなければならないのでしようか? 母親がどんな女か、父親がどんな男か、そしてわしが何者であるかをこの娘に知らせて、そのために面目を失わさせなければならないのでしようか……そして遺産を取り上げられて、社会から葬られるばかりか、貧民にされてしまわなければならないのでしようか? そしてわしは絞首人の処へ行き、娘は町へ出て行かなければならないのでしようか? これは、あんたが隠れていたことをさぐり出し、おおわれていたことをあばこうとしたのだから、あんたが決めることだ。わしはそいつをあんたの手にまかせます」 「それでわしは」とアブナーは、立ち上りながら、答えた……「そいつを神様のお手にまかせるよ」 [#地付き](村崎敏郎訳) 底本:「〔名探偵登場※[#ローマ数字 2、1-13-22]〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房    1956(昭和31)年3月15日初版発行    1993(平成5)年9月15日3版発行 ※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。